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【資料】神秘主義の系譜【探索】
78
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 22:58:38
笠置寺
かさぎでら
京都府相楽郡笠置町の笠置山頂にある寺。笠置山は木津川の南岸にあり,奈良県の柳生街道に面した登山口から登ると,本坊,弥勒石・薬師石・文殊石・虚空蔵石の石仏群があり,弥勒石の後山に後醍醐天皇の行在所(あんざいしよ)跡がある。笠置寺ははじめ法相宗に属したが,現在は真言宗智山派。山号は鹿鷺山。磨崖の弥勒菩醍石像を本尊とする。開創について《今昔物語集》《東大寺要録》などは天智天皇の皇子によると伝えるが,確かなことはわからない。高さ15.7m,幅12.7m の弥勒像をはじめとする石仏群は,奈良時代末の製作とされ,そのころ寺院ができたものと考えられる。東大寺の良弁(ろうべん)がここで秘法を修し,空海もここにこもったと伝えられるが,優婆塞(うばそく)や聖(ひじり)が多く集まっていたらしい。平安時代には,弥勒信仰の中心として知られ,吉野の金峰山と並ぶ修験の霊場となり,花山院や藤原道長をはじめ貴賤の参詣がさかんになった。さらに鎌倉時代初頭,興福寺の貞慶がここに隠退してから,諸堂が建立され,住僧も増加した。ついで東大寺の宗性が貞慶の跡を慕って入山し,ここで弥勒信仰に関する多くの書を著した。1331年(元弘1),元弘の乱の際には後醍醐天皇は,東大寺別当聖尋の計らいでここを行在所(あんざいしよ)とし,笠置山が戦場となったため,伽藍のほとんどが焼失した。室町時代に入って修験道の中心として復興されたが,再び火災にあい,現在の正月堂(本堂,懸崖造),毘沙門堂,大師堂は15世紀末の造営とされる。江戸時代には藩主藤堂家の保護で維持され,現在はかつての子院の一つである福寿院を笠置寺と改称し,重源の寄進になる建久7年(1196)の銘文のある銅鐘,貞慶筆と伝える《地蔵講式》《弥勒講式》各1巻をはじめ,南北朝時代の古文書など,数多くの文化財を伝えている。 大隅 和雄
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