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【資料】神秘主義の系譜【探索】
86
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:08:48
経塚
きょうづか
経典を主体として埋納したところ。写経供養の一形態で,古来,慈覚大師円仁(794‐864)を創始者に擬しているが,確証はない。今日知られている最も早い確実な事例は,藤原道長が1007年(寛弘4)に金峰山(きんぷせん)(奈良)に埋納した例で,発見された経巻,経筒は《御堂関白記》の記事と一致している。埋めたのは紺紙金字の法華経(開結とも),阿弥陀経,弥勒経,般若心経であるが,これらの経巻が竜華の晨,すなわち56億7千万年の後,弥勒が世に出る時まで伝えられることを念じている。また,願意として仏恩報謝,出離解脱,極楽往生などがうかがえる。なお,これより早く,覚超の《修善講式》(989)には,経巻を卒概婆の基に仏画や名帳とともに埋めることが記されているが,経巻を主体としていない。一方,中国には経塚と考えられる遺跡は未発見であるが,朝鮮半島では近時になってわずかながら高麗時代と思われる例が注意されはじめている。しかし,正確な年代,製作意図などは不明であり,現時点では,〈経塚は日本で10世紀の終りごろ,末法思想を背景に,浄土教の発達に伴う仏教的作善業の一種として始められた〉とするのが妥当な考え方であろう。その後1031年(長元4)に慈覚大師の如法経保存の手段として埋納のことが相談されたが,これを契機に経塚の営造は如法経書写供養と密接な関係を持つようになり,急速に全国に広まった。やがて願意にも現世利益,追善供養,災害防止などが加わったが,16世紀以降には廻国納経の流行に伴い,その一手段としても用いられた。江戸時代には礫石経(一字一石経)経塚が全盛を示したが,経塚は今日も営まれつづけている。
経典は法華経が圧倒的に多く,無量義経,観普賢経,阿弥陀経,弥勒経,般若心経などがこれに次ぐ。その他,大日経,金剛頂経,蘇悉地経,金光明経,仁王経,理趣経などもあり,大般若経,一切経といった大部の埋納例もある。材質面では紙本経が一般的であるが,埋めるという経塚の特色に即して,瓦経(粘土板に錐などで書いて焼いたもの),銅板経(銅板に刻したもの),滑石経,青石経(青石に刻したもの),貝殻経,礫石経などがある。これらのうち,紙本経は銅製の筒形容器(経筒)に納めて埋めることが多いが,木製,竹製,鉄製,石製,瓦製,陶製,磁製などもあり,また箱形もある。なお,ていねいな場合は,さらに外容器(外筒)に収めている。経典に副えて埋めたものには鏡,利器,合子,銭貨,仏像,図像,仏具,さらに檜扇,侯,提子,小皿,硯,鋏,水滴,火打鎌,兜,鈴などがあるが,これらの組合せや数量は各経塚によって異なる。
[遺跡,遺構] 各時代を通じて,社寺となんらかのつながりをもつ所,すなわち社寺境内やその近傍,あるいは霊地と目されている所を選んでつくられているが,一方,墳墓の近くや,江戸時代には路傍などにも営まれた。構造は一概には言い難いものの,小石室を構築したものと,単に土壙を穿ったのみのものとに分けられ,盛土,盛石をしているのが普通である。ほかに岩陰や岩窟など自然地形を利用した例もある。また,単独経塚と,同一地域内に複数の経塚が営まれた経塚群とがあり,後者には同時,または比較的短い期間をおいてつくられたものと,長期にわたって営まれたものとがある。おもな経塚は,次のとおりである。福島県米山寺経塚,履城県東城寺経塚,東京都白山神社経塚,山梨県柏尾山経塚,石川県蓉岳(おいずるがたけ)経塚,静岡県伊豆山神社経塚,三重県朝熊山(あさまやま)経塚,滋賀県横川経塚,京都府鞍馬寺経塚,花背経塚,稲荷山経塚,奈良県金峰山経塚,和歌山県熊野三山経塚(本宮・新宮・那智),高野山経塚,粉河経塚,比井経塚,大阪府槙尾山経塚,鳥取県倭文(しどり)神社経塚,岡山県安養寺経塚,愛媛県奈良原山経塚,福岡県四王寺経塚,武蔵寺経塚(図),永満寺経塚,求菩提(くぼて)経塚,佐賀県背振山経塚など。 三宅 敏之
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