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【資料】神秘主義の系譜【探索】

90名無しさん:2013/07/20(土) 23:13:27
広隆寺
こうりゅうじ

京都市右京区にある寺。山号は蜂岡山。別に太秦寺(うずまさでら),蜂岡寺,川勝寺,秦公寺(はたのきみでら)ともいい,俗に太秦の太子堂と呼ばれる。真言宗別格本山。秦河勝(はたのかわかつ)が,603年(推古11)に聖徳太子から仏像をさずかり,その像を安置するため622年に創建したのが当寺で,京都では最古の寺院の一つである。創建当初の寺地は,いまの場所から北東数kmの地点とされ,現地には平安遷都時あるいはそれ以前に移った。秦河勝は当寺付近の損野(かどの)一帯の地域に勢力をもった渡来系氏族の秦氏の首領であって,秦公寺の別称が示すように,当寺は聖徳太子ゆかりの秦氏の氏寺として,歴史の幕をあけた。だが,818年(弘仁9)に全焼,840年ごろ(承和年間)に道昌僧都が再建したが,1150年(久安6)再び全焼,65年(永万1)藤原信頼が中心となって再興したが,往古の伽藍の制はいまはない。近世まで三論・真言兼学の寺で,朱印高は600石,塔頭(たつちゆう)10余ヵ寺を数えたが,明治維新によって諸院の多くは廃絶した。秦氏が衰退した以後の当寺は,秘蔵する仏像の霊験を宣伝して,信仰の寺として寺運を保った。信仰の中心は古代・中世・近世を通じて薬師信仰と聖徳太子信仰だった。病気平癒の現世利益を願う薬師信仰は,平安初期から当寺安置の薬師如来の霊験が世にきこえ,貴賤が群参し参籠する風が広くおこった。また,太子を神格化する聖徳太子信仰は,とくに鎌倉時代から高まり,当寺はその中心寺院の一つとなって寺運を一時もりかえした。太子像を安置した上宮王院(しようくうおういん)(太子堂)や桂宮院(けいくういん)の八角円堂が太子信仰の中心となり,当寺にちなむ種々の太子の伝承が生まれ,また足利将軍家歴代の保護も続いた。なお,有名な〈太秦の牛祭〉は,当寺の伽藍神である大酒(おおさけ)神社の祭礼で,毎年10月12日の夜に境内で行われる。当寺の僧侶5人が異形の面をつけ,そのうち1人は摩押羅神(まだらじん)となって牛に乗って境内を一巡し,仮金堂の前の祭壇に登って奇妙な祭文を読みあげ,終わると堂の中に駆け込んでこの祭りは終わる。摩押羅神の異形な面をかたどった紙の面が,悪疫除災のお守りになるといわれ,参詣者に売られる。京都の三奇祭の一つである。摩押羅神は慈覚大師が入唐のとき,勧請し持ち帰った神だといわれ,はじめ叡山にまつられたが,のち当寺に移され,この祭りが生まれたという。
                         藤井 学

[美術]  境内には八角円堂である桂宮院本堂(国宝・鎌倉時代)や講堂(重要文化財・1165)のほか,楼門,上宮王院本堂,宝物殿などがある。宝物殿では2体の木造弥勒菩醍半跏像(国宝・飛鳥時代),十二神将像(国宝・平安時代後期)をはじめ多くの古仏や絵画・書籍が公開されている。軽くほおに指をあてうつむきかげんに思いをこらす弥勒の姿は,隋様式になるもので,韓国国立中央博物館所蔵の銅造半跏像との類似が指摘されている。講堂内には,本尊阿弥陀如来座像,不空羂索観音立像,千手観音立像(いずれも国宝・平安時代初期)をはじめ地蔵菩醍像,虚空蔵菩醍像などが安置されている。            益田 兼房

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