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聖典引用 板
1322
:
a hope
:2012/09/24(月) 06:20:04 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第1章 此の世界の成立ちは?
♦ふくれ面をしたら面白くない事がでてくる
ふくれっ面をしたら、ますますふくれっ面をしなければならないような面白くないことがでてくるのは、
自分が「心」の世界に面白くないことを、心に思いうかべて「面白くない、面白くない、つまらない、
つまらない」という心の種をまいているからであります。
朝目がさめた時から「今日はうれしいぞ。すばらしい日だぞ。よいことがでてくるぞ。たのしいぞ」とかんがえなさい。
そうすると、よいことが、たのしいことが、ぞくぞくと皆さんの身のまわりにでてくるのであります。
「愉快を思えば、愉快がでてくる」「つまらないと思えば、つまらないものがでてくる」のであります。
心でえがいたものがはえてきて実をむすぶのであります。
この法則を利用しますと、自分の成績でもなんでもよくすることができます。
勉強する時にでも、「自分は算術がへただからよく勉強しましょう」などと考えてはなりません。
「へただから」などと思うと、その「へた」ということが心の種になって、じっさいへたになってしまうのであります。
そこで、勉強する時には、「自分はへただから」などとはかんがえずに、
「自分は、神さまのえらい力が、形にあらわれたのが私だ。自分にはえらいえらい力がやどっている。
自分は天才だ。自分はよくできる。よくできるから、喜んで勉強するのだ」と、
こう心にとなえながら勉強にとりかかるのです。
すると心にえがいたとおりが、形にあらわれてくるのであります。
(第1章 終り 次回から「第2章 人間の「考え」は血の流れを変えます」 へ)
1323
:
「訊け」管理人
:2012/09/24(月) 16:47:42 ID:???
『神の意義とその理解』59頁より謹写――
◇超越内在の神を〝生命の体験〟として自覚せよ
生長の家は「神」をそのように説く。その学説を諸君が読む、そして生長の家は、「神」のことをそのように説いているのだな――と諸君がわかっただけでは何の効果もないのであります。諸君自身が、「超越無限力の神が自己に内在していて、その神こそが自分の本体であり実相である」と自覚しなければならないのです。その自覚が〝生命の体験〟として完成してこそ、「天の父われに在(いま)して、御業をなさしめ給う」とイエスが言ったような偉大なる功業を樹(た)てることができるのであります。
時々、一見信仰深き人は「神にすべてをお委せ致します」と言います。しかしその「神」とは自己に「内在する神」だということを知らなければなりません。遠く天上にある神にお委せして自分は何の努力も工夫もしないでも好いのだというような考えで、「すべてを神にお委せします」というのでは、神を自分と離れた「外にあるもの」(外在神)とみとめる信心で、迷信だというほかはありません。
「わが魂の底にこそ宇宙にみち満ちている超越普遍の神が宿ってい給うのだ。その〝魂の底の底なる神〟こそ〝本当の自分〟であり、その神を今自分は喚(よ)び出して働かせるのだ。否、現にその神が働き給うているのだ」という自覚を喚び起すのでなければ、実際に神の無限の力を自己の出口を通して発揮させることはできないのであります。「わが魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」と私たちは一日数回、一寸した時間でも利用して、この内在超越の神を意識面に喚び出して活動せしむべきであります。
1324
:
SAKURA
:2012/09/24(月) 21:33:17 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1320
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??【コロンビ
ア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
◆【ベスト・フレンド】 ( 成長と発展の条件 )
――――― ►► 成長と発展の条件 ◄◄ ―――――
|♣おっしゃることはきわめて賢明であり、すばらしいことだと思います。
|わたしはそれをそのまま大事に家へ持って帰りたいくらいです。しかし
|「言うは易く、行うは難し」ではないかと思うのです。それは人々に
|とってあまりに過大な要求ではないでしょうか。現実を、そんなにも堅
|実な目で眺めることのできる人がいるでしょうか。わたしだって人生に
|ついて多少のことは知っているつもりです。しかし、人生の指針をしば
|しば失ってしまうことがあります。そんなときわたしは勇気を失い、い
|らいらし、不安でたまらなくなり、将来がどうなるか、とても心配にな
|ります。いったい、わたしたちはあなたがおっしゃるほどに成長できる
|ものなのでしょうか。
人はあらゆる面で完全に成長する必要はないのです。これはみんなが誤解している
ことのひとつです。成人期というものは片開きのドアではないのです。誰もがいった
んそれをくぐり抜けたら、二度と後戻りできないものと考えがちです。成長する、と
いうことは片道切符の旅行ではありません。子どもがおとなのような行動を示すこと
があるように、おとなもまた子どもっぽい行為を示すことがあります。
このふたつの状態は幸いなことに相互に相容れないものではありません。もしそう
でなければいわゆるジェネレーション・ギャップというものはもっといっそう大きな
ものになり、両者は橘のかけられないほどに大きな溝に直面することになったはずで
す。これは子をもつ親が現在直面している問題でもあるのですが、ふつうおとなには、
人を理解するための努力や、想像力を働かせる努力をしようとする真摯な態度、さら
に他人は自分とは異なるのだという事実を認めようとする真摯な努力が不足している
といえます。
ときには未熟な面があっても、それはかまわないでしょう。たとえば完全に成長し
たおとなはまわりから見ると多少の脅威を感じさせるものです。
結婚というすばらしい事実もその一例でありましょう。望ましい結婚は二人が
まったくおとなとしての関係をもつことです。しかし、夫と妻は互いにどんな役割を
も演じるのです。二人は愛する者と愛される者の関係にあることは当然ですが、互い
に親にもなり、遊び友だちにもなるのです。また必要とあれば赤ん坊にもなるわけです。
わたしたちはみんなそうしているのです。ただひとつ困ることは二人が同時に赤ん坊の
ようになりたいと望み、しかもどちらもどうしてそれを譲らない場合です。
PS:トキ様
今回の【お家騒動…】は、これにたとえますと〜〜〜
まるで〜まるで〜どちらも【精神の成長は? 心の成長は?】と考えてしまいますが?
「雅宣先生は、現在!「生長の家…総裁」でいらっしゃいます。…が?
今までの!“投稿…”を閲覧していますと
【分派…「学ぶ会」「靖国見真会」「ときみつる会」……etc】 皆様の…
【人 格 の 成 長】は???と考えてしまうような“言動”が多いのですが?
ご存じのように……私自身…【現総裁雅宣先生…擁護派一人】です。・・・が?
◆何度も!何度も!【分派の方々からの…“イジメ”…】がありましたが……
例えばですが?【文章が…云々…とか??記号が…云々…とか??】
これが…【人 格 向 上…】と言えますのでしょうか??
この事をとりましても…【人 へ の 救 済】果たして、出来るものでしょうか?
ここでの“投稿発言”も、やはり???私は【人 格】が、必要にも思えますが???
それに関して、トキ様はどの様に思われますでしょうかしら〜〜〜ン 再合掌
1325
:
ハマナス
:2012/09/24(月) 23:39:16 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。
事業の成否は「人」に
(『新版生活の智慧365章』)
その事業が成功するか成功しないかはそれに従事する「人」如何によるのである。されど「人」とは如何なるものであるか。それは「これ位の能力」と限定されるべき者ではないのである。何故なら「人」は神の子であり、その内には「無限」が宿っているからである。されば、その事業の成否は、「無限」の宿っているところの人間から、どれだけの量と質とをその「無限」から引き出し得るか否かによって定まるのである。より多く引き出し得た者は、その事業により多く成功するであろうし、より少なく引き出した者は少しか成功しないであろう。
多くの事業会社の従業員は自己の持っている能力や天分の十分の一すらも完全に発揮し得ないような仕組みになっているからである。それはただ上司の命令を機械的に「事務する」だけであって、創意を出すべき機会を与えられていないからである。機会と責任とを与えられるときのみ能力は発揮される。
」感謝合掌
1326
:
a hope
:2012/09/25(火) 06:11:04 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦「考え」の目方をはかる法①
エール大学のW・G・アンダーソン教授は人間の「考え」(心の力)目方をはかるのに成功したと云うことが、
マーデンの本の中に書いてあります。
先ず大きな天秤のハカリに人間を仰向けにのせます。
その天秤は一枚の板のようなもので、その中程(人間の腰のあたりが乗る辺)に中心があって少しでも重い方に、
丁度シーソーゲームのように一方に傾くようになっているのです。
その板の上に先ず人間が乗りまして、その板がとちらへも傾かないように水平になるように調節(ちょうしをととのえる)します。
さてその板の上に乗っている人間に算術の難しい問題を考えさせるのです。
すると、その人間の乗っている板は、頭の載っている方が重くなって下へ傾くのです。
これは頭が物を考えるから「考え」の重みによって頭が普通より重くなったのです。
皆さんはこれを「考え」の目方だと思いますか。
いつも、いらぬ取越苦労を考えて、頭が重い重いと云っている人がありますが、
それはつまらぬことを考えすぎるが為に「考え]の目方で頭がおさえつけられているのです。
吾々はつまらぬ「考え」を思わぬようにすることが頭を軽くするのに大切です。
ところで、もっと頭のよい人は、それは「考え」の目方ではない。
その「考え」が頭へ血をのぼらせ其の血の目方だと思うでしょう。
こう考えることの出来る人は、普通以上にとびぬけた頭の好い方です。
本当は「考え」に目方はありません。
その証拠に諸君が体格検査のときに自分の目方をはかる台秤(だいばかり)の上に乗って、
笑おうが、心配しようが、むつかしい算術の問題を考えようが、同じ目方でありましょう。
ところで、此処に問題となるのは難しい問題を考えると、頭の方へ血がのぼせてくることです。
心配や取越苦労をすると頭に血がのぼせ過ぎて、そこで頭が重くなるのです。
だからものを考えるのに下っ腹に力を入れて物を考えますと、肝玉が落着いてあまり頭の方へ血がのぼせずに、
いつまでも物を考えてもつかれずに落着いて物を考えることができます。
(②につづく)
1327
:
うのはな
:2012/09/25(火) 14:35:19 ID:WMqYQDyc
>1323
『神の真義とその理解』だとばかり思い込んでいました。
ありがとうございます。
1328
:
神の子さん
:2012/09/25(火) 17:11:52 ID:4JneCjg.
>>1327
http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/B000J8I9ZG/ref=dp_image_text_0/378-9750956-1701548?ie=UTF8&n=465392&s=books
1329
:
神の子さん
:2012/09/25(火) 17:18:52 ID:4JneCjg.
信仰心なく神を語る亡者の群れ
訊け、初心者、さくら、・・・・
1330
:
天の童子
:2012/09/25(火) 17:33:21 ID:4JneCjg.
>>1329
トキさんへ
上記書き込みと
>>1329
は、書きかけであるし、スレッド違いなので削除願います。
1331
:
SAKURA
:2012/09/25(火) 20:20:58 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??【コロンビ
ア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
◆【ベスト・フレンド】 ( 成長と発展の条件 )
――――― ►► 成長と発展の条件 ◄◄ ―――――
|♣とても結構なお話ですね。うかがって安心しました。わたしが超人で
|ある必要はないことがわかり、ほっとしました。わたしはふだんなんと
|か完全な人間になりたいと努めていたのですが、じつはそれが人から見ると、
|他人を軽べつするような態度にみえたのではないかと思います。
|みんなまったくそんな態度を好んでいなかったのです。
あなたは自分が子どものようであることをけっしてよいことだと思わなか
ったでしょう。しかし、わたしたちそれぞれのなかに子どもの部分があるの
です。そしてその子どもにやさしくしなければなりません。
もうひとつ認識しておかなければならないことはつぎの点です。たとえば
二五歳になってあることをあきらめたときに、それは、それを必要としてい
た四歳のときの自分から取り上げたということはならないのです。誰しも自
分が四歳のときに起こったことをぬぐい去ることはできません。せいぜいで
きることは」、いまなお自分のこころのなかに存在する四歳の子どもにたいし
て共感を示すことぐらいです。おとなは、四歳の子どもにたいしては、たい
ていの場合やさしく振舞います。ところが、自分が四歳の子どものような気
持ちになったり、行動したりすると自分にたいしてものすごくいやになるの
です。そして自分にあいそをつかし、自分のこころのなかに存在する子ども
を拒否してしまうのです。
(つづく)
1332
:
SAKURA
:2012/09/25(火) 20:22:51 ID:jH5uEFzM
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1331
投稿の続きです。…
おそらくそういう人たちは、ごく小さいときからそうしていたと思います。
どういうわけか、成長の過程――これは基本的には新しいものの見方に到達
することでなければならないのですが――において、むしろいままでの古い
ものの見方に嫌気をさすようになってしまいます。これがじつは自己嫌悪の
はじまりなのです。真の成長とは新しいことを試みる勇気と自信とを身につ
けることであり、その過程において過去の殻を打ち破ることなのです。
とにかく前へ進みなさい。新しい挑戦を開拓することは楽しいもので、わたし
たちの興奮を呼びさますものなのですから。あなたは行動を起こすことに脅威
を感じることもあるでしょう。これはけっしてあなたの昔からある自己を否定
することにはならないのです。あなたはもっとよいものを手に入れるために、
もはや必要としないものは思いきって捨ててしまいなさい。
(次回につづく)
Ps 「トキ様」 へ
■【成長する…】には、『新しい挑戦!!』が、大事です〜〜〜ョネ!!
【 日本開国…明治維新 】は、やはり、当時に於きましても…
【斬新なアイデア・新しい挑戦…】と、思います。
そして、今!尚【生長の家も、新しい開国論…】が始まりまして“スタ−ト地点”
いつまでも〜いつまでも〜“古い体制・考え・・・”を誇示している様では、
【将 来 の 展 望】もと?思います。…が?
今日の“言葉”より……
私も「デザイン…」は、いつまでも、同じデザインをしていますと〜〜〜
これは決して“時代性…”を、反映するものでは有りません。【経験済み】
そこに…泊まるのではなく、前向きに?進むには??
私の仕事を例にとりますと……【新しい息吹〜♫〜】を取り入れる事が
進歩向上!!になる分けなのです。そして、人々に受け入れられる〜
このように思いますと、前以上に【真 剣 な 光 明 化】をしていきます。…が?
「建物も古い場合」??それを維持し後世に残す場合は??
【修理・補修…】が、必要だったり、或いは、どうかしますと、立て直しもあるカモ?
この様に、今!【 生長の家 】も、新しい挑戦に挑む事が〜〜〜
今・今・今しか“チャンス”がない様にも〜〜〜思えます。…が?
【今日のベストフレンドで】のお考えは、トキ様はどの様に思いになりますか???
1333
:
a hope
:2012/09/26(水) 07:40:40 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦「考え」の目方をはかる法②
アンダーソン教授は、その次に板の上に仰向けに乗っている人に、
算術を考えさせることを止めて、自分の脚で一生懸命足の体操をしていることを思わせたのです。
すると、足の方の目方がふえて、人間の載っている板は足の方が重くなって下(さが)りました。
そこで、こういう事がわかります。
「考える」ことは必ずしも、頭へ血がのぼせない。
「頭で考える」―――頭・頭・頭と思うから、頭の方へ血がのぼせるのです。
腹でものを考えると思って、いつもへその下の丹田と云うところに力を入れて、
其処で考えるのだと思って、勉強すれば、頭が常に軽くてよく勉強が出来るのです。
昔から偉くなった人は、丹田の修行と云って、下っ腹に力を入れる修行をしたものです。
白隠禅師は、寝るときに足の踵で呼吸をする稽古をしたと云われています。
呼吸は鼻からするのは、白隠さんだって同じことですが、真直(まっすぐ)に足をのばして、
足のかかとに軽く力を入れ、かかとに息の出入口があって、かかとでゆっくり呼吸をする気になると、
血が足の方へ沢山いって、心が落着き、頭が軽くなって、いつの間にか好い気持で眠れるのであります。
(つづく)
1334
:
SAKURA
:2012/09/26(水) 21:29:30 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1238
>>1304
>>1307
>>1319
>>1320
>>1324
>>1331
>>1332
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??【コロンビ
ア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
◆【ベスト・フレンド】 ( 成長と発展の条件 )
――――― ►► 成長と発展の条件 ◄◄ ―――――
|♣お話だけうかがうとそれは大変やさしく、簡単で、すぐできるように
|思えます。しかし、成長することは容易なことではありません。それは
|わたしたちにとって大きな苦しみですし、至難の業のように思えます。
|わたしたちはどこを目ざして進めばよいのでしょうか。はたしてそこへ
|到達できるのでしょうか。この点について、どうもあなたのお話では確
|信がもてないのです。もうひとつこれだというものが欲しいし、まだま
|だすっきり入ってないのですが。
そのとおりです。子どもが重要な新しい一歩を踏み出そうと努力するとき
には、いままでの古い習慣をむしろ荒っぽいやり方で追い払う必要がありま
す。もはやそうした古いものは必要としないのですが、部分的にはまだそれ
に固執する面が残ります。だから子どもたちの行動はまわりの人たちとはま
ったく対立し、安定を欠くことがあるのです。子をもつ親ならわたしのいう
ことがよくわかるでしょう。
しかし、そうした幼いころの自我をあまりにも強く否定してしまうと、そ
の結果として成長するどころか自己嫌悪が生じてしまいます。そうした人は、
自分が成長して脱出しなければならないと思っているさまざまな欲求を充足
させないままに、なんとかやっていく手だてを身につけることができるかも
しれませんが、そのためにエネルギーをつかいはたしてしまうでしょう。
わたしたちは、幼いころの自我に反抗しながら成長していくのではなく、
その自我がもっている力に依存しながら成長していかなければなりません。
それがお互いにとって有益なことであることを認識する必要があります。し
かし、いまは別のことに専念するときなのです。
PS:トキ様
「生長の家」が発展するには〜〜〜♫〜
やはり…【新 し い モ ノ へ の 挑 戦 !】でしょうか…??
【時代が変化…】しています。観覧者の皆様も、感じます事があられますのでは??
何度も〜何度も〜申し上げますが…
【今 を 活 か す…】のは〜〜〜><
❤〜今の【教義・教本以上に、すばらしい現代人の心を揺さぶるモノ】が必要では?
良いものをこの世に再び出す事が〜〜と、思わずにいられません。…が?
【世の中は、病んでいるのです。私の廻りにも?皆様の廻りにも…?】
時代は変わるのです。いえ!時代は変わりつつあるのです…。
例えば「服職業…」を携わっていますと…【流行のサイクル??】は、一応あります。
したがいまして…今!皆様が見られています【アジアン・ルック…】これも?
【私 が 高 校 の 頃 で し ょ う か??】
アジアンは、当時は、詳しく申しますと【フオ−ク調】の感じでしたが…
今!また繰り返しでも〜〜〜よく見ますと……
またそれなりの【デ ザ イ ン の 変 化】なのです〰〜〜ョネ!
【信仰も求める者の価値観】が、変化していますが〜〜〜
【成 長 と は?】
今の時代の【現 状 を 認 識 す 事】ではないでしょうか?
もう一度…【分派の皆様方は・・・“時代の流れ”〜〜対応性は???】
再合掌
1335
:
うのはな
:2012/09/26(水) 21:48:55 ID:YT9aDVnY
天地一切のものと和解すること
私が神戸におりました時に河野とみ子さんという婦人が子供の教育の話で指導を
求めて来られたことがあります。この人は当時山下汽船株式会社の重役の奥さんでしたが、
彼女に中学二年生ぐらいの子供があったんです。
その子供が不良少年の仲間にはいりまして、体は大きいんだけれども、ちょっと足がちんばである。
どういうもんですか、心がちんばになっていると足がちんばになる。大阪の北浜に松岡道治先生という
医学博士で整形外科の先生があったんだが、そこへ行ってみてもらったけれども治らない。
手術はしなかったけれども。わたしが兵庫県の住吉村にまだおった時代にその子共をつれてきて、そして
「先生この子供どうしたらよくなりますか」と言われた。
その時分は、まだ映画を活動写真といった時代で、「悪漢ジゴマ」と題する活動写真が映画館で上映されて
評判だったんです。そのお母さんは私に、「先生、この子供の目を見てごらんなさい。あのジゴマみたいな目をしてるでしょう」と
いって人相の悪いことを特に強調して、「こんな子供になったんですが、どうしたらよくなりますか」と言われたことがあるんです。
その時にわたしは注意した。
「子供の前で、あんたそんな悪い言葉を使うもんじゃないですよ。親の言う通りに子供はなるのですよ。悪いことをコトバで聞かしてはならない。
すべての子共は“神の子”であり、神の完全な生命が宿っているんだから、それをほめて引き出すようにすればいいのですよ」という話をしたのでありました。
その子供はちっとも勉強しないと母親は訴える。そしてその不良少年のグループの中へはいって、そしておどかされて金をもち出したりいろんなことばっかりやっておったんです。
その時、私は直感で、その子供が不良になった原因がわかった。それで、「あんた子供がこんなに悪くなったのは誰かに怨まれてはいないですか」と言った。
そしたら彼女は、恨んでいる人があることを告白したんです。
それは、山下汽船の重役の椅子に今、この子供のお父さんが坐ってるんですけれども、この子供の父は、神戸の商科大学をでた人なんですが、実はこの商科大学をでるについて学資なんかを
援助してもらっておった山下汽船の前任の重役があったんです。それが何かスキャンダルがあって、会社の公金三十万円とかを自分の名前にしたとか消費したとか その時分の三十万円といったら
たいしたものです。今の金じゃ、おそらく三億円以上かもしれない そんな噂がたってその前任の重役は詰め腹を切らせられて、ともかく刑法の上では内緒で済ましたんだけれども退職を命ぜられた。
その後任として重役の椅子に坐ったのが、前任の重役のお世話になって商科大学を卒業して引き立てて貰った今の河野とみ子さんの夫が重役になったんです。
そしたら、その前任の重役は、「自分のスキャンダルを知っているのはあの河野君の他はないんだ。それをあいつ、あばきやがって、自分を落してそのあとがまに重役としてすわりやがった。怪しからん」と、
非常に憤慨して河野家を恨んでいるというのであります。
そんな経緯がありましてから、河野一家では、今までは、お世話になっていたから毎月一回はこの重役のところへ挨拶にでかけて行って親しく仲好くつき合っておったんですけれども、そういう事件があってからは、
一ぺんも訪問したことがないというのでした。
つづく
1336
:
うのはな
:2012/09/26(水) 21:50:16 ID:YT9aDVnY
>1335 つづき
それでわたしは言いました。
「あんた聖経『甘露の法雨』の冒頭に、“汝が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪霊に
冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ”
ということが『七つの燈台の点燈者の神示』にあるでしょう。それで子供がそういう不良になるのは
誰かに怨まれておって、逆念が遠隔操縦みたいに放送されてきて、子供が不良になったり次から次に運が
悪くなるということがあらわれてくるのは、誰かに怨まれたり憎まれたりしているのが、その念波の影響で
出てくることがある。その前任の重役の人と仲直りしなければならない。それだから、その重役の家を、重役の好きな
ようなものを手土産にもって訪問し、長い間の御無沙汰したそのおわびをして、その間の事情を詳しく話して、けっして
時分がそういうあなたのスキャンダルなどをあばいたりしたことはないということを相手が納得するまで、諄々と話して
仲直りしなさい」とわたしは勧告したのでした。
そしたら、河野夫婦は、わたしが勧告したように、早速、その日の夕方でありましたが、夕食が終ってからその前任重役の
宅を訪問していってその重役に会い、諄々と事情を話しして仲直りしたんです。そしたら、相手の恨みが解けたと思われるその
時間に不思議な感応が起こったのです。
今までどんなに勉強せよと言っても勉強しなかった中学二年の河野さんの息子が突然自分の書斎で勉強を始めたということが後で
わかったんです。それ以来その子供は勉強家になりまして、成績もよくなってきた。けれども同じ学校にいると不良の友達からまだまだ
離れられないので、誘惑される恐れがあるので、神戸第一中学校を これはいい学校なんでしたが、それを退学させて、それから立派な
息子さんになったという話です。
こういうことはみなさんが家庭訪問せられて、成績の不良の子共でもある時に、何か他の人と仲違いしてるとか、恨まれているとか、
天地一切のものと和解していないことがないかと省みて、もしそんなことがあると、不良の子共がでてくることがあるんですから、何らかの
方法で仲直りをしておくとよいのであります。
子供は感応しやすいアンテナみたいな心をもっているものですから一番感じやすいわけなんです。
だから天地間、何事でも、何物とでも和解していないならばまず「天地一切のものと和解する」ことが
必要です。皆さんに、不良の子共の指導を求めて来られた人があるなら、恨んだり憎んだりしている相手は
ないかと反省して、それと仲良くなるというように指導してあげるということが必要なのであります。
『生命の根元を培う新しき教育』 谷口雅春 先生著 新教育者連盟編
1337
:
ハマナス
:2012/09/27(木) 00:20:25 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。
位置と責任を与える
(『新版生活の智慧365章』p.252)
何人も充分責任ある地位に置かれるならば、内在無限の力を揮り絞り出す機会も与えられるのである。世間に随分沢山ある実例であるが、良人が生きている間は、全然良人の経済力と能力にたよって、ただ深窓にこもって家庭の仕事だけをつとめるのが精一杯だと思われたお嬢さん育ちの婦人が、突然夫が死んだために、自分で経済を何かとやって行かなければならなくなったときに、何と、彼女は旺盛な企業意欲を伸展し得て、良人が生きていたときよりも尚一層事業を発展させてその経済能力を発揮し得たような実例が随分あるのである。
それは彼女自身に重大な「責任」がふりかかったのと、自分で女主人公として能力を搾り出して一切を切り盛りして行くより仕方がない責任ある位置に立たせられた結果なのである。それと同じく従業員それぞれ責任ある位置に信頼して置くならば今より尚一層の能力を出させることができるのである。
感謝合掌
1338
:
a hope
:2012/09/27(木) 08:13:34 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦眠るときの気持ちを楽しくせよ
眠る時の気持ちと云うものほど大切なものはありません。
いい気持ちで眠ったら、明日の朝目がさめたときには、スガスガしい好い気持で、
その日いちにち愉快にたのしく勉強が出来、仕事が出来ます。
眠りしなに私は、
「神様の生命(いのち)、わたしに流れ入って、眠っているうちに健康に幸福に、無限の智慧を与えて下さるのである」
と心のうちで唱えながら眠ることをおすすめ致します。これは私もやっています。
これは子供でも学生でも、大人でも唱えて効果がある方法です。
また、
「神様、私の中に流れ入り満ちたまえ」と念じながら眠ってもよいのです。
毎晩そうとなえて眠りに入るように致しますと、その人の智慧があきらかになり、
勉強の力が加わり、記憶力(ものおぼえ)がよくなり、肉体が健康となります。
足のことを心に強く思ったら、足に血が行きますように、「勉強がよく出来る」
と念じたら勉強がよく出来るところに、身体の血がめぐって、其処を丈夫にして下さるのであります。
(つづく)
1339
:
SAKURA
:2012/09/27(木) 22:49:37 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1052
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>>1334
>>
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??【コロンビ
ア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
◆【ベスト・フレンド】 ( 成長と発展の条件 )
――――― ►► 成長と発展の条件 ◄◄ ―――――
|♣ほんとうにおとなになるためにはかならず正真正銘の幼年期を経なけ
|ればならない、と誰かがいっていますが、それはどういう意味でしょうか。
望ましい幼年期とは自由で開放的なものです。賢い親は自分の子どもが進
歩するのを援助します。幼年期の非劇はおとなが鍵をかけてふたをしてしま
うことからはじまります。そうしたおとなたちは自分がかって手にしていた
もの。あるいは望んでいたものを自分の肩越しに見ながら人生を送っている
といえましょう。彼らはおとなとしての喜びを手にもできず、自分が幼年期
に十分に得られなかった幸せを取り返そうとして、いたずらに年月を費やし
ているだけです。
――――――― * ――――――――
|♣それは麻薬患者が求めているものと同じですね。
そうです。そういう人々は以前の幸せを取り戻したい、と願っているだけ
です。しかし、それはうまくいくものではありません。わたしたちは前進し
なけばならないのです。それはもっとむずかしいことです。立ち戻ったとこ
ろで、そこでなにが得られるというのでしょうか。現実にはそこへ立ち戻る
ことはできないのですから、そうした試みはまったく無益なのです。前進す
るということはチャンスをつかみ、一度もしたことのないことをやってみる
ことなのです。あなたが先ほどいわれたことのなかで――どこに到達するの
か確かでない――、もっとも辛いことは、あなたがなんらかのものを放棄し
なければならないことであり、またもしそうしたとしてもその代りになにを
手に入れることができるのかわかっていない点です。
人生、悩むことをやめないという理由はほんとうはこの点にあるのです。
人はひとたびなにかを手に入れてしまうと、それ以外にもまだなにかがある
とは信じようとしないのです。フォークナーの小説に出てくる人物の一人が、
つぎのようにいっています。「悲しみと無のどちらかを選べというならば、
わたしは悲しみをとるでしょう」と。わたしたちの場合は悲しみと生きがい
に満ちた人生のどちらを選ぶか、ということになります。生きがいのある人
生に向かって第一歩を踏み出すためには孤独感と喪失感の鋭い痛みに耐えな
ければならないでしょう。しかし、いずれにしても人間は一人ぼっちの存在
なのですし、あなたがいま抱いている喪失感もずっと以前に起きたことなの
です。あなたがいま失いつつあると思っているものは、ただの夢にすぎない
のです。
――――― * ――――――
|♣不思議な目ざめにちがいないですね。生まれてはじめて目を開いたよ
|うな………。
ただ、このときは、生まれたままの裸のままではありませんが、おとなと
して目ざめる準備ができたときには、わたしたちはおとなの社会に対応する
ために必要なものを備えているべきです。
PS:トキ様
此処【2チャンネル】に参加しながら、思いにふけることが増えました。…が?
最初は、唯!唯!と〜〜どまる事ばかりでしたし、本当に「生長の家…の人」なの?
と、思えてなりませんのですが??【真理…の勉強】の捉え方…一つでも、
各自の【個性…】が見えて…本当に【生まれてから〜死ぬ時は“一人”なのですョネ!
それでも、本当に見る?見える世界?……それは、やはり【心 の 眼】でしょうか?
少し【私 の 心 は 自 由 に 進 歩】になって行くようです。トキ様は〜??
1340
:
ハマナス
:2012/09/27(木) 23:58:56 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。
人物は到る処に
(『新版生活の智慧365章』p.253)
多くの経営者は「人が無い」「人物が無い」などと叫んでいるけれども、それは現象を見て実相を見ないからである。現象は「自己」及び「他の人」が認めた程度にしかかあらわれて来ないものであるら、今、現象界にあらわれている彼の状態は、「過去に認めた程度」だけがあらわれているのである。今後のことは、これから「認める」程度にしたがってあらわれて来るのである。
経営者又は上役は従業員に劣等感を与えるような言葉をもって、叱りつけたり侮辱したりしてはならない。そのような劣等感を与える言葉は将来有能なる其の事業の支配人となり重役となり、その事業を更に大きくならしめる筈の“事業の支柱”を取り除きつつあるようなものである。従業員を信頼し、その価値をみとめ、それに責任ある地位を与え、賞賛と激励とを与えるならば、どんなに沢山仕事が山積していても、それを充分消化(こな)して行くにちがいないのである。
感謝合掌
1341
:
菊池風磨
:2012/09/28(金) 08:41:27 ID:SYyxbZaw
[※ これを全部読んだら願いが叶います。祈ってください。
菊池風磨の境界性人格障害は心の余裕が無くキレやすい。激しい怒りの感情をコントロール出来ない。物事を勝ち・負け でしか考えられない両極端思考。見捨てられる事に不安を感じている・自己否定されると自己防衛の為に相手の評価を下げる。フられるとストーカーになる。常に精神状態が不安定・情緒不安定。変な人・性格が悪い人と思われる。気が付くと周りから人が居なくなる。周りの人を振りまわす。嫌われたと思うともっと嫌われる様な事をする。会話が成立しない。コミュニケーションが下手。落ち着きが無い。気分によって態度がコロコロ変わる。フられるとリストカットをして気を引こうとする。アダルトチルドレン。トラブルになりやすい。自己中心的。自殺率が高い。繊細で傷付きやすい。幼少期に虐待されていた。人の意見を真に受けやすい。人との意見の違いに怒りを感じる。感情のコントロールが出来ない。などの症状が有ります。
この文章をコピーして2ちゃんねるの掲示板に10回貼り付けないと願いと逆の事が起こります。 ]
1342
:
a hope
:2012/09/28(金) 08:42:24 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦朝目が覚めたときには
そして朝、目がさめた時には、すぐ寝床の上に坐って、手をあわして、目をつぶり
「神のいのち、私に流れ入って、われを健康にして下さいます。」
これをニ十遍(ぺん)ほど心で唱え、さらに、
「神の智慧、私に流れ入って、今日一日私を導いてくださるから何事も都合よく行く」
と念ずるのであります「念ずる」というのは、
「心でとなえて、そのことをシッカリ思う」のであります。
そうすると思うとおりに、血がめぐって、健康になる。
またすべて考えることがハッキリした智慧に導かれて、よく出来るのであります。
何事も、よいことだと教えられたら必ずやって御覧なさい。
それも、たった一日ではなく、少なくとも三カ月は実行して御覧なさい、
屹度(きっと)いいことが出て来るのであります。
廊下でも、たった一日拭いたのでは艶はでません。
毎日拭けばつやが出るのであります。
心もその通りですから、毎日実行なさいませ。
(つづく)
1343
:
「訊け」管理人
:2012/09/28(金) 16:15:15 ID:???
『生命の實相』第24巻113頁より謹写――
生命の實相読者――
五官と頭で神が分ると思ったら大間違いだということになるが、完全な人間なら、そんなにまでせずとも、素直にすらすらと神が分り、したがって迷いもせず、本来悟入していなければならないはずに思えるが、事実はこれと反対だとすれば、人間は至極不完全なものということになり、したがって神の完全性と相容れないように思われます。そしてこんなに考えても(人間の神性、完全さが)分らないということは人間の不完全を表していると言えるのではないでしょうか。結局、人間小智の小円内で議論しているかぎり、この問題は分らぬとも言えるが、しからば完全なるべき人間はなぜこの小智から脱却できないのかということになり、ここでまた不完全ということになります。
谷口雅春――
ご質問は「実相人間」と「肉体人間」とを混同して、「肉体人間の知恵はなぜ不完全で真理がわからぬのであるか?」と言っていられるので、いつまで経っても正当な回答ができぬのであります。釈迦は『法句経』において「怨み心ではいつまでも怨みは解けぬ」と申されましたそのように、「肉体人間の迷い心ではいつまでも迷いは解けぬ」のであります。
「肉体人間」は本来存在しないのであります。(本来存在しないから、やがて崩壊するのであります。)存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。
存在しないものが「存在するもの」を理解しえないのは当然であります。あなたは「なにゆえに完全なるべき神の子『人間』がその実相を直観できないのであるか」と言っておられますが、完全なるべき神の子たる「実相人間」には、その実相を直観するもしないもない、すでに完全なのだから問題はないのであります。
この辺の消息は議論をもって押し進めていっても「肉体人間の知恵」にわかるはずはないのであります。ただ「肉体人間の知恵」(迷い)を薄くすることによって、霧が破れて日光の輝き出ずるがごとく、肉体人間にも実相智の光線が射しはじめるのです。この「虚」の闇を破って実相智の光線を射しはじめることを、「直観によって、実相人間の完全さを知る」というのであります。
肉体人間の知恵は「暗」のようなもので、実相人間は「光」のようなものであります。「暗」はそれを薄くすることによって光の存在を知るのであります。「暗の無知無明はなぜあるのか」とあなたは論議されますが、暗とは「光の虚」であります。「光の虚」が光を知らないのは当然であります。光を知ればもう「光の虚」(暗)ではないのであります。がから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。
あなたは「肉体人間が聖典を読んで、実相人間を知る」と言われますが、「肉体人間」が聖典を読むのは、本来無いところの我見(肉体人間の知恵ー迷い)を捨てるためで、「肉体人間の知恵」がなくなれば、ひとりでに内在の光が発現してきて、「本来の実相」が輝く。これは「肉体人間が聖典を読んだので実相人間を知った」のではなく、肉体人間(光の虚)がそれだけ減ったので実相が輝き出したのであります。
肉体人間の知恵、はからいいっさいを捨てるほど実相人間があらわれるので、「肉体人間が実相人間を自覚する」などということは「迷いが悟りを自覚する」などという言葉と同様で、ありえないことなのであります。
1344
:
「訊け」管理人
:2012/09/28(金) 16:20:50 ID:???
この投稿と1343を削除願います(改行でミスを致しました)
1345
:
「訊け」管理人
:2012/09/28(金) 16:21:29 ID:???
『生命の實相』第24巻113頁より謹写――
生命の實相読者――
五官と頭で神が分ると思ったら大間違いだということになるが、完全な人間なら、そんなにまでせずとも、素直にすらすらと神が分り、したがって迷いもせず、本来悟入していなければならないはずに思えるが、事実はこれと反対だとすれば、人間は至極不完全なものということになり、したがって神の完全性と相容れないように思われます。そしてこんなに考えても(人間の神性、完全さが)分らないということは人間の不完全を表していると言えるのではないでしょうか。結局、人間小智の小円内で議論しているかぎり、この問題は分らぬとも言えるが、しからば完全なるべき人間はなぜこの小智から脱却できないのかということになり、ここでまた不完全ということになります。
谷口雅春――
ご質問は「実相人間」と「肉体人間」とを混同して、「肉体人間の知恵はなぜ不完全で真理がわからぬのであるか?」と言っていられるので、いつまで経っても正当な回答ができぬのであります。釈迦は『法句経』において「怨み心ではいつまでも怨みは解けぬ」と申されましたそのように、「肉体人間の迷い心ではいつまでも迷いは解けぬ」のであります。
「肉体人間」は本来存在しないのであります。(本来存在しないから、やがて崩壊するのであります。)存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。
存在しないものが「存在するもの」を理解しえないのは当然であります。あなたは「なにゆえに完全なるべき神の子『人間』がその実相を直観できないのであるか」と言っておられますが、完全なるべき神の子たる「実相人間」には、その実相を直観するもしないもない、すでに完全なのだから問題はないのであります。
この辺の消息は議論をもって押し進めていっても「肉体人間の知恵」にわかるはずはないのであります。ただ「肉体人間の知恵」(迷い)を薄くすることによって、霧が破れて日光の輝き出ずるがごとく、肉体人間にも実相智の光線が射しはじめるのです。この「虚」の闇を破って実相智の光線を射しはじめることを、「直観によって、実相人間の完全さを知る」というのであります。
肉体人間の知恵は「暗」のようなもので、実相人間は「光」のようなものであります。「暗」はそれを薄くすることによって光の存在を知るのであります。「暗の無知無明はなぜあるのか」とあなたは論議されますが、暗とは「光の虚」であります。「光の虚」が光を知らないのは当然であります。光を知ればもう「光の虚」(暗)ではないのであります。がから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。
あなたは「肉体人間が聖典を読んで、実相人間を知る」と言われますが、「肉体人間」が聖典を読むのは、本来無いところの我見(肉体人間の知恵ー迷い)を捨てるためで、「肉体人間の知恵」がなくなれば、ひとりでに内在の光が発現してきて、「本来の実相」が輝く。これは「肉体人間が聖典を読んだので実相人間を知った」のではなく、肉体人間(光の虚)がそれだけ減ったので実相が輝き出したのであります。
肉体人間の知恵、はからいいっさいを捨てるほど実相人間があらわれるので、「肉体人間が実相人間を自覚する」などということは「迷いが悟りを自覚する」などという言葉と同様で、ありえないことなのであります。
1346
:
ハマナス
:2012/09/28(金) 23:52:33 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。
埋れた無限の才能
(『新版生活の智慧365章p.254)
ある会社に勤めていた社員が、その会社にいた頃には碌々として何ら為すところを知らなかった平凡な人間であったのに、其社を止めて他に転じた後、急にその才能を発揮して課長となり、部長となり新任の会社でなくてならぬ一流社員や重役となってしまった実例なども随分あるが、これは前の会社で認められなかった“埋蔵されたる才能”が後の会社に於て認められたために機会と智恵を得て、十二分に発揮されることになったからである。後の会社の経営者又は上役は彼を信頼し、地位を与え誉め勇気づけた結果、彼の内に潜んでいた“無限の力”の一部が発揮されることになったのである。
人にやどる「無限の力」は、それを発揮し得る地位と責任と機会と賞嘆とを与えることによってどれだけでも発揮させることができるのである。人物を雇いながら、これらを発揮せしめずに埋れたままで放置するのは大いなる資源を失いつつあるものである。
感謝合掌
1347
:
SAKURA
:2012/09/29(土) 00:29:20 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
・・◆【ベスト・フレンド】 ( 幸福への第一歩 )
――――― ►► 幸福への第一歩 ◄◄ ―――――
|♣あなたはわたしたちが第一歩を踏み出すべきだといいました。その第
|一歩とはなんでしょうか。どのようにして出発するのですか。
その第一歩は昔の夢を捨て去ることです。というよりもむしろ、夢のひも
をゆるめ、少しずつそれを捨てていくことです。誰でもいっぺんにそのすべ
てを放棄することはできませんから。これは基本的な第一歩です。つまり、
どうやって踏みだしたらよいか誰かが教えようと思っても教えることのでき
ない最初の一歩なのです。夜が明けてくるように、なにかが少しずつ目に見
えてくるはずです。昔の夢に固執する努力がいかに無益で、なんと報いの少
ないものか、ということが少しずつわかってくるでしょう。またもしそうし
た無益な努力をやめるならば、わたしたちの行く手にはもっとすばらしいこ
とがあらわれてくるかもしれないということに徐々に気がついていくでしょ
う。
―――――――― * ――――――――
|♣お話をうかがっていて「Hold Back the Dawn」という古い映画を思
い出しました。しかし、そうした夜明けをもたらすためにわたしたちは
なにをすればよいのでしょうか。
まずはじめに、注意深くなることです。もし物事があなたの思うように進
まないときには、自分からわざわざ進ませないようにしていないかどうかを
自問してみることです。あなたの行為と気持ちとの間に食いちがいがないか
どうかもう一度考えてみなさい。じっくり落ち着いて考え、その後で答えを
引き出しなさい。なぜあなたは自分自身にたいして不親切に冷たく振舞うの
か。なぜ自分の足をすくうようなことをみずからやるのか。それによってな
にを得ようとしているのか。どのような生き方に固執しているのか。もし自
分がひとりでやっていけなくなったら、誰かがとんできてくれるとでも内心
思っているのではないか。本心は、失敗しても人が愛すべき者として見てく
れると考えているのじゃないか。
―――――――― * ―――――――――
(つづく)
PS:トキ様
実は、この書物…若い時に読みました。…が?この年で読み返しますと…
本当に、若い時は【財産…❤】ですネ!〜〜〜当時の私は、“書物”について、
悟りました?(微笑) 身についてい感じで“天才バカ”でしたでしょうか〜〜?
この様に、現在!多々なる書物を、読む機会を得ました現在、
やはり【海外の哲学…】は、すごいです〜〜〜ョネ! 【ネット・ニュ−ス】にて、
【ハリ−ポッタ−・シリ−ズ】の女性作家が“本”を出版するそうで……
この方も「イギリス人」で、経歴が〜〜〜><子どもを寝かし…場所が狭いので…
当時「カフェが本人の仕事場…」そこにて、執筆活動…
【働きながらも〜〜“執筆”〜〜〜】やはりそのベ−スに【哲学…篇】でしょうか〜?
分野が違っても【哲学…は、奥深いモノ】〜〜ですネ!
■【今!立て……!】と「雅春先生」の“声”が、耳元で聞こえてきそうですが〜〜☆
再合掌
1348
:
a hope
:2012/09/29(土) 07:30:54 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦右腕を運動させると左腕も発達する
アンダーソン教授はまた別の実験をして見ました。
大学の学生に腕の力の試験をしたのであります。
すると、皆の力を平均しますと、右手で引上げ得る力は百十一ポンドでした。
(一ポンドは百二十匁(もんめ)<453グラム>ですから、
百十一ポンドは十三貫(かん)三百二十匁<50・283キログラム>です)
左の腕の力は九十七ポンドでした。
ところで、一週間のあいだ特別に引上げる力を増す運動を右手ばかりにさせたのです。
すると右手の力は六ポンド増えました。
左手はその間、すこしも力持の運動をしませんでしたがその力は六ポンドふえていました。
こんなことになったのは何故でしょうか。
運動して鍛錬(きたえる)した腕力がふえるのは当りまえですが、
運動しない方までも其の力がふえているのは、筋肉が発達するかのは、
必ずしも運動するからではなく、運動を心に思うからなのであります。
「物を引上げよう」と思うと、実際は右手だけしか使わなくとも、
左手の物を引上げる力も一しょに増えるのであります。
世界で一番美しい筋肉の発達したサンドウと云う運動選手は、
(この人は鉄啞鈴体操を創始(はじめ)た人でありますが)鏡を見ながら、
運動ごとに筋肉が美しく張り切るさまを鏡にうつして、それを見つめて、
「私の筋肉はこんなに美しく張り切っている」と心に念じながら体操すると、
普通に体操するよりも、一層はやく筋肉が発達すると云っています。
(つづく)
1349
:
「訊け」(
:2012/09/29(土) 08:01:29 ID:???
『神 真理を告げ給う』44頁より謹写――
完全な神の分身であるあなたが何故迷うかと、あなたは問うであろう。〝迷いは何処から来たのか〟 というのは仏教でも重大な設問になっている。「〝迷い〟本来無し」と一刀両断に截ち切る解答は従来からある。それでも、「では、その本来無き迷いが、どうして恰(あたか)もあるかの如くあらわれて来るのか」という最後の問が残るのである。その最後の問に〝わたし〟は答えることにする。
○
あなたは仏教の「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という語をたびたび聴いたこともあるし、読んだこともあるであろう。〝迷い〟がそのまま〝菩提〟の道程であるということである。〝迷い〟という「菩提とは別なもの」があるのではないのである。〝迷い〟と見えているものが、實は〝悟り〟が動き出し、現象化しつつある道程であるから、〝迷い〟本来無しといい得るのである。
あなた達が〝迷い〟だと思っているものは、実は〝わたし〟が〝神の国〟を地上に顕現するための土台又は地盤になるための精神的基礎工事を行うために授けたところのものなのである。
○
時間及び空間というものは本来ない。実相世界は超時空的存在の世界であるからである。時間の観念、空間の観念は物質的存在を心に描くための謂(い)わば〝画布(カンバス)〟として必要なので〝わたし〟が人間に与えたところの架空的観念である。それは光の波を固定して映画の光景として見せるスクリーンの役目をなさしめるために〝人間の心〟に対して〝わたし〟が与えたところの概念である。このスクリーン上に生命の波動(心の波)が放射されると、生命の波動(心の波)が固定化されて物質化して感じられるのである。この物質化として感じられる基盤がなければ、地上に天國を建設するという〝わたし〟の芸術を成就することが出来ないので、〝わたし〟は人間に時間空間の観念を与えたのである。
時間及び空間は〝わたし〟の創造である。
○
空間の観念を与えられた人間は、恰もスクリーンを与えられた人間が映写機から放射される光の波を、単に〝光の波〟として感受せずに物質界に起った具体的事象として感ずると同じ原理で、生命の波動(心の波)を単に波動として感受せずに、それを地上世界の物質的事象として感じ、その物質を具体的確固な存在として感ずるのである。地上が具体的存在だと感ずる精神的地盤が成立しなかったら、地上に天国を実現することは不可能なのだから、生命の霊的波動を物質化して感じ、地上を具象的存在だと感ずることは地上天国建設の第一歩の成就なのである。
○
しかしながら、また別の観点からするならば、生命的波動を、空間面上の〝物質〟と飜訳して誤認することは〝迷い〟の発生ということにもなるのである。そして、それが、その〝迷い〟の発生は何処から生じたかという常に投げかけられる原因になるのである。〝光〟がなければ影を投ずることもないように、〝迷い〟は地上に天国を描き出すための画布として、〝わたし〟が投げかけた影である。
1350
:
「訊け」(初心者さま向け)
:2012/09/29(土) 08:03:26 ID:???
『實相研鑽一』174頁より謹写――
自己の意識と現象生命と実相
◇現象生命は不滅か
柴山実:私は昨年地方講師補に御任命いただきました。入信しまして二年あまり、一番わからないでいつも質問しています〝実相〟の問題についてお訊ねしようと思いましたが、結局〝現象〟ということになってしまいまして、こんな問題ではどうもならないと思いましたけど、これもまた研鑽会の意義であると思いまして、勇をこしておたずねいたします。(以下質問書を読む)
――人間の過程は永遠であり、物質界、霊界と輪廻転生の各周期をくり返しつつ、最後の終局に達するまで、いな達しようとして〝永遠の生命の道〟を進むものであります。その無限の道をわれわれは〝自己〟という明らかな意識を持って進み、その過程において限りない神の愛と智慧とを学ぶのであります。このすばらしい自己は永遠であるとしますと、その不滅の自己意識とは、すなわち〝現象〟の意識ではないでしょうか。
この〝意識〟のない限り〝自己〟はなく、〝自己意識〟ある限り〝現象〟であるとしますと、われわれは永久に〝自己〟であるところの〝現象意識〟と、自らが〝実相であるという意識〟との〝二つの意識〟の中にあることになります。そして一方においては〝現象〟を否定し、一方においては自覚しながら、〝永遠〟に進むのではないかと思います。この〝二つの意識〟の比較対照によって、その矛盾性によってわれわれは初めて、〝実相〟のなにものかを、〝表現〟の何ものかを学びとることが出来るし、〝二つの意識〟なくして実在すら知ろうとすることもできない。としますと、〝現象意識〟すなわち〝仮の存在〟なる〝現象の自己〟は、真の実在のようには永遠そのものではないが、永遠と区別できないほど永久のものであり、実在的のもののように考えられますが、いかがでございましょうか。〝現象意識〟を〝実在〟と対立せしめるのではありませんが、〝自己〟という〝現象意識〟の永遠性を思うとき、現象もある観点から不滅のように考えられますが、これは完全なる二元論か、間違っているのか、諸先生の御高説を頂きたいとお願いします。
(このとき谷口雅春先生より御発言あり、「あまり深遠な難しい問題を、文書を一ぺんスラスラと早口で読むだけでは、質問の内容はよく分からんですよ」と注意さる。次いで参集の各講師より意見が発表された)
谷口雅春:柴山さん、今、いろんな意見を述べられた人に対して、「私の質問はそういう意味じゃないんだ」とか、「それならこういう問題があるじゃないか」と反論を言ってごらんなさい。そうでないと、あんたの質問の要旨がよくわからない。
◇輪廻転生における意識は?
柴山実:はい、〝実相〟ということをよく把握できないで、こういう質問をするのはちょっとおかしいのでございますが、結局、われわれが肉体の世界を離れて霊界に行き、また肉体にもどり、また霊界に行き、輪廻転生をくり返しますが、霊界の各段階の高所に、無限に上がるとしましても、自己の意識はあくまでも自分の意識として残っており、これは永久に消えることがない。たとえば古今の多くの聖者も、現象から見るならば絶対に神とは一体になれない。実相そのものに入ることはできない、と聞いているのであります。そうしますと結局、いろいろの生命の過程を通じて無限に進展しましても、いつまでたっても〝自己〟という意識はなくならないとしますと、それは実相とはあくまでも別個なものと感じるのです。実相のなかにありながら、しかも自己をもって無限に進んでいくと考えますときに、それはいつまでたっても平行線で一体にはなれないということになります。自分が実相であるということは先生の御本で理論としては分るのでありますが、実相に入ることができない。しかも自己の〝意識〟は無限につづいていくというような矛盾が、常に難問として出て来るのであります。
谷口雅春:実相の中には、個生命がないという意味ですか。
柴山実:ええ、今まで私が知ったところによりますと、実相は――
谷口雅春:実相の中には、個性あるところの個々の生命はないという前提で言っているのですか。
柴山実:実相の中には〝個生命〟はある。あるけれども実相そのものは〝個〟はない、いわゆる一つの・・・・
(つづく)
1351
:
「訊け」(初心者さま向け)
:2012/09/29(土) 08:04:00 ID:???
(つづき)
◇実相は具体的なもの
谷口雅春:そんなことない、そんなことないですよ。実相の中に〝個生命〟があるんだ、だからあんたの考えは前提が違うんだ。実相といったらズンベラ棒で、目も鼻も何もなしに、空気みたいなエーテルみたいなものだというんじゃないんですよ。実相の中には〝実の相(すがた)〟があるから実相と言うんで〝空〟じゃないんだ。あんたは〝空〟みたいな実相を考えているが、そんなズンベラ棒な意味じゃない、現象よりもっと具体的なものがあるんです。それが実相です。その具体的なもの――実相が、縦、横、厚みの現象世界へ映って出ているので、それはちょうど、テレビ・スタジオの(実物の)テレビのスターがテレビ・セットへ映って出ているように、生まれ変わっているのであって、テレビ・スターがいつもテレビ・スタジオの中におるのと同じように、いつも個生命が実相の世界の中におるのです。
柴山実:個生命は結局、実相の世界にある〝理念〟でございますね。
谷口雅春:理念といっても、そういう抽象的なものじゃない。具体的に生き生きとあるのであって、「理念ですね」なんていうような哲学的な表現をすることも、説明のためにあるけれどもだね、理念というような哲学的な漠然とした概念じゃないんですよ。生きている生命として、個々の生き生きとした〝いのち〟として実相の世界にちゃんと個生命がおる。テレビのスターが、テレビ・スタジオにおるようにおる。それがテレビ・セットにいろいろ映って出て来ておるように出て来るんだよ。波長が違うと日本教育テレビに出て来たり、日本テレビ、NHKテレビに出て来たりするように、各所に転現しながら同一スタジオにおる。各所に生まれ変わりながら実相は生まれ変わっていないという状態――だから「維摩経」における文殊菩薩と維摩居士との問答のように〝来らずして来る〟というように、現象(ここ)へ実際は出て来ないで、しかも出て来たように現れている。
柴山実:どうもわかるようでわからんような・・・・・・・・・・。
1352
:
志恩
:2012/09/29(土) 20:34:45 ID:.QY5jUA6
『真理5巻』女性編
宗教というものは、無我になってただ、ひたすら神の心を実現する事であります・・
わが意を実現することではないのであって神の心を実現するというのが、これが本当の信仰生活であります。
そして、神の御こころを本当に実現できたならば、神の御こころのなかには悪いものはないのだから、現実世界はまた、
必ず良くなるのである・・・
本当の信仰は無我になることから始まるのであります。
無我ということは握っているものをまず捨てることなのです。
信仰というものは、仏の御心をいきること、神の御心を生きることであって
自分の都合の良いように工夫することではない・
自分がいっぺんほんとうにカラッポになって、そこから出直すことなんです。
1353
:
ハマナス
:2012/09/30(日) 00:06:01 ID:???
神の子のみなさま
こんばんは。
信用こそ事業者発展の一大資産
(『新版生活の智慧365章』p.255)
事業発展の最大の要素は、顧客から受ける信用である。あの会社又はあの商店の品物はすべて良心的でウソがなく廉価で良品であると云う信頼を受けたならばその会社又は商店は必ず繁栄するのである。仕事商品にケレンや掛け引きがあってはならない。ケレンや掛け引きがあってはならない。ケレンや掛け引きがあっては、一時は儲かるかもしれないけれども永遠に繁栄することは難しい。いつかはそのケレンや掛け引きがバレて信用を失い、商売がガタ落ちになってしまうものである。
それをふせぐためには、一にも誠実、二にも誠実をもってし、顧客の幸福と便利とに奉仕し得る末長き使用に耐える商品のみを供給するようにするならば、必ずやその商社は信頼されるようになるのである。レッテルと中味とが相反したり、上に並べたもののみが上等で、下には屑や未熟の品をつめ合わせて売る式の誤魔化しの商法では、やがて店の破滅の時が来るのである。それは人から欺いて奪う心であるから又人から奪われるのである。
感謝合掌
1354
:
るんるん
:2012/09/30(日) 01:02:20 ID:NS71OwS.
志恩様
>>1352
そうなれば、いいですねぇ。私は自我の塊だから。
1355
:
るんるん
:2012/09/30(日) 01:04:19 ID:NS71OwS.
訊けさま
>>1350
>>1351
の続きをどうかお願いしまっす!!
1356
:
志恩
:2012/09/30(日) 02:46:03 ID:.QY5jUA6
るんるん様
私もそうです。人間て、うっかりしてると、自我で考えてる。
で、気がついて、その都度、神に振り向くのですよね。
1357
:
a hope
:2012/09/30(日) 08:49:04 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦胃袋を丈夫にする法
そこまで解ってまいりますと、御飯を食べるときにも、胃袋の筋肉を丈夫にし、
胃腸を達者にするには、どうしたら好いかよくわかるのです。
筋肉がはたらくためには「思い」の力が必要なのです。
「思い」の力で鼓舞(はげます)しますと筋肉は発達します。
腕の筋肉は物を持上げたり押したりするための筋肉ですから、
「物を持上げる」と強くはげしく繰返し思ったり、
「物を押す」と一生懸命思ったりしたら発達するのでありますが、
胃袋は「美味しい物」を消化するための筋肉ですから、
「これは美味しい、有りがたい」と思いながらたべたらよく消化するのであります。
「不味(まず)い、こんなものは食べられない」と思ったら、消化液を出さず、
却って食べものを吐き出すように、胃袋の筋肉は働きます。
それでは健康になりようがないのであります。
胃を丈夫にして、どんなものを食べても、よく消化して達者になるためには、
何を食べるときにも、「これは神様から頂いたたべものであるから美味しい、身体の滋養になる」と、
「美味しい」と云う思い、「有りがたい」と云う思いをしっかり起こしながら食べると、
胃袋の筋肉は丈夫になり、なにを食べてもよく消化して身体が元気に愉快になるのであります。
(つづく)
1358
:
SAKURA
:2012/09/30(日) 16:10:37 ID:7joi1ZJA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043
>>1044
>>1052
>>1057
>>1058
>>1063
>>1068
>>1073
>>1087
>>1092
>>1093
>>1097
>>1098
>>1167
>>1170
>>1171
>>1174
>>1175
>>1190
>>1194
>>1210
>>1227
>>1238
>>1304
>>1307
>>1319
>>1320
>>1324
>>1331
>>1332
>>1334
>>1339
>>1347
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
・・◆【ベスト・フレンド】 ( 幸福への第一歩 )
――――― ►► 幸福への第一歩 ◄◄ ―――――
|♣あなたは前にわたしたちは全人生をとおしてこころの小説を書いてい
|るとおっしゃいましたが、それは演技の一種で、わたしたちは私小説ド
|ラマのなかで自分の役を演じながら、できれば他の人がいまの役割を演
|じて欲しいと願っているように思うのです。もし、それがすべて幻想に
|すぎないとしたらなぜ自分で自分にそんな割に合わない役割を与えるの
|でしょうか。
そこが重要なところです。それはあなたが考えるほど損な役割ではありま
せん。わたしたちが自分自身にたいして犯す大きなまちがいには、つねにな
んらかの報酬を期待する気持ちが含まれているのです。結局、罰でさえも現
実には報酬となることがあるのです。
罰を受けているときのみ、自分が愛されているという気持ちをもつ子ども
がいます。そういう子どもが罰以外に両親から与えられるものといえば、無
関心さだけです。これは最悪の状況です。そうして、おとなになったときに、
かっては自分にとって大切な存在であった人をうまくあやつって、思うつぼ
にあてはめてやろうと絶えず考えるようになるのです。そして、そういう人
たちが、まだまわりにいるのではないかと思っては、みずからを地獄の苦し
みに追い込むのです。しかし、もはやそんな人はわたしたちの近くにはいな
いのです。そうした苦しみを味わったところでなんの意味もないのです。た
とえそれらの人たちが、まだ現実に生きている人間の亡霊であったとしても、
しょせんは亡霊とつきあっているにすぎないのです。
――――――― * ――――――――
次の質問につづきます……
PS:トキ様
「吸血鬼…ゾンビ達」に…【四面楚歌…】されています現在…まるで“亡霊”みたいでしょうか?
「生きた亡霊に?」でも!〜〜〜【こころの法則】が、潜在意識に入り込み、更に!それを、
自由自在に活用出来ますと…「亡霊」に付きまとわれる必要も、なくなるのです〜〜〜ョネ!
❤〜全ては【 心 = 意 識 = 意 志 に 繋 ぐ 事!!】の様に〜〜現在の私は、
「亡霊…」に?「悪魔の囁き」に?心が、揺れ動いているのです〜〜〜ョネ!
これを払いのけるには【魔法の呪文…】 ウフフ そうなのです〜〜〜ョネ!
「悪魔天使?」更に「亡霊・ゾンビに?」にも決して犯されない【心…】を保つには、
私の・・・【活きた〜〜意 志 = 意 志 力】に繋いでいきま〜〜〜す。
再合掌
1359
:
志恩
:2012/09/30(日) 18:10:34 ID:.QY5jUA6
生命の実相 14巻
「和解の倫理の要点」 今昔物語より
三代目・谷口雅宣氏の「今の教え」が「日時計主義」の“傘”に隠れた「間違いの教え(虚説)」であることを言えば、
“それは「批判」である。批判せず実相を直視すれば、実相が自然に自分で出てくる。
「大調和」の教えであるから“批判”するのは間違いである、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
という信徒の人々も沢山いることも事実であります。
そのような考え方は間違いであることが『生命の實相』にはハッキリと書いてあるのであります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
*「生命の實相」第14巻・倫理篇下巻 ・第4章< 和解の倫理>には、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<<われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。虚説に和解したら実相をくらますことになります。実相をくらませば、みずから迷うことになるのであります。(P.60)
異端・盲説・妄念・妄想は、<本来無い説>―虚説―でありますから、その実相をみれば「本来ない」ことが判るわけでありますから、本来ないもの「虚説」に和解することは絶対に出来ないのであります。光は闇と和解することは出来ない。光が近ずけば闇は消えるほかはない。それと同じく、真説は虚説に近ずけば虚説を消す働きをする。(P.63)
虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳が無いように思うのは間違いであります。
また、虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。(P.63−64)
虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許すことにしたのであります。・・・
要は「天地一切のものと和解せよ」との「生長の家」の第一最大の誡命(いましめ)は「天地一切のものの実相と和解せよ」ということであって、
仮相や虚説に対しては「サタンよ去れ」と排撃すべきなのであります。
釈迦もキリストも同じような態度で虚説を駁撃(ばくげき)せられたのであります。(P.64−65)
1360
:
志恩
:2012/09/30(日) 18:22:29 ID:.QY5jUA6
【「時代即応」について】
本当の「生長の家」を伝え遺す信徒連合 作成
「生命の実相」第14巻・倫理篇下巻には「虚説に和解してはならぬ」とあり!然らば「真説(正説)」とは?
「虚説」とは?その見分け方は如何?!これが大切であります。
・第三代目・谷口雅宣先生は、この見分け方の基準を「理性」に求められていると推察できます。
しかし改めて「理性とは?」となると明確な説明は無いのであります。
この見分け方の正解は、<真説(正説)は真如すなわち「久遠を流るる生命」の世界から出てきたもの>で、
真説(正説)は実相世界にその源が存在するものであります。これは肉体頭脳知のみの思索では到達出来るものではありません。
・真説(正説)に到達するには現象の存在を一切「無し」と全否定して「無の関門」を超えて百尺竿頭進一歩して実相世界に超入し、
自らの実相生命の実相覚で以って絶対実在の絶対認識を為さねばならない訳でありますが、
これは凡人の到底なし得ざるところのものであり、深き神縁による人のみが可能なのです。
大宇宙神界の摂理に基づき使命づけられた深き霊的機縁の熟した人のみであり、生長の家においては開祖・谷口雅春先生お一人のみであります。
この事は「生命の実相」第20巻<神示を受けるまで>・「無門関解釈」<第6則世尊拈花の公案解釈>・
「驀進日本の心と力」<日本学的大乗仏教の樹立>等の御著書において明白であります。
・以上の意味において生長の家の御教えの「真説(正説)」は、開祖・谷口雅春先生の実相把握(お悟り)の全相であって、その法灯継承者・谷口清超先生以下谷口雅宣先生をも含めて、すべてが雅春先生のお弟子さんであって、この「真説(正説)」を奉じてゆかねばならないのであります。
「時代即応」とは、この「真説(正説)」を人・時・処三相応に応じた説き方を工夫してゆくこと、霊的感動を与え失わしめないような説き方の変化・変革であって、
開祖・谷口雅春先生のお悟りの全相から逸脱した真説ならざる<新説>を肉体頭脳知で作り上げて行くことではないのであります。
<新説>ではもはや大宇宙に今、鳴り響いている「真・生長の家」ではないのであります。
雅宣先生の説かれる「今の教え」は何ら霊的感動のない学者的・評論家的「虚説」の部分が多く、
その「虚説」の権威付けのために開祖・谷口雅春先生の真説(正説)の中から利用できる部分の引用(いわゆる真理のつまみ食い)を上手になさっているに過ぎないのであります。
しかし時々その引用が的外れになっているのです。この観が否めないというのが古参の信徒たちの偽らざる本音の感想であります。
<私心>を無にして常に虚心坦懐・謙虚かつ真剣な求道心が必要かつ大切なる所以であります。
1361
:
志恩
:2012/09/30(日) 18:27:47 ID:.QY5jUA6
生長の家本流宣言掲示板より 転載
【中心帰一理念】
日時:2012年05月30日 (水)
名前:伝統
*『生命の實相 第37巻(幸福篇上)<五月三十日>』(P145〜146)より
「三界は唯心の所現である」釈迦のこの所説は正しい。
しかし、「唯心」とはただの「思考作用(おもうはたらき)」だけではない。
深いところの感情である。
ハッキリ思考に現れない以前に心の中に動いている原因不明の魂的な動きがそれである。
思考の上では完全に論理的には組み立てられないが、大和魂なるものは理論を超越している。
戦死の瞬間に天皇陛下万歳を唱える心は、これは理論でも学問でも思想でもない。
われわれの魂の奥底に横たわる深い感情である。
この深い感情は、明瞭に脳髄的意識としては理論的には組み立てられていないが、
脳髄的思考の理論発生以前にその奥に存在する実在の理念なのであって、
この中心帰一理念(弥的魂<ヤマトだましい>)こそが真統(ほんとう)の
日本人の深い感情の根本となっているのである。
物質分子さえも「中心帰一理念」の中にあるから
原子核を中心として陰電子が回転しているのである。
理念といえば、その文字面から「道理と想念」とを一緒にしたような言葉に思われるが、
人間の深いところの感情はすべて、実在者の「理念」から発生してくるものなのである。
「理念」の力は内より押し出す最も力強い感情であり、その「理念」はそれが現象的に
現れるのに幾回失敗しても、
やがてそれが形に現れずにはいないのは、朝顔の花は何回
萎れてもまたやがてそれが形に現れずにいないのと同じである。
楠本正成の忠誠心は「中心帰一理念」の発現であるから、
湊川で挫折しても、「理念」は結局は敗北するものではない。
「七生報国」の正成の語(ことば)は、
「中心帰一理念」は全世界を支配することになるのだということを顕わしている。
全世界は「中心帰一理念」に支配されているのである。
一勝一敗を契機として中心帰一理念を失ってはならないのである。
物質でさえ原子核が破壊されたら正体もなく飛び散るではないか。
”みずからの民族の中心を見失い、帰一すべき何物もなくなったとき、
民族は崩壊するほかはない。”
”理念は永遠である。”
理念さえ失わねば形には幾変遷あろうとも、またもとの姿があらわれて来るのである。
1362
:
ハマナス
:2012/09/30(日) 23:36:29 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。
人と仕事は一体
(『新版生活の智慧365章p.256)
其処に“働きたい人”があるならば、その人の働くべき“位置”は既にあるのである。また其処に働く人を求める位置があるならば、其処に“働きたい人”は既にあるのである。“働きたい人”と“位置”とは、本来別々の存在ではなく「一つ」のものの別の面に過ぎないのである。“人”と“位置”とは互いに求め合っているのであるが、それが迷いによって見いだされないだけのことである。謂わば、彼は“迷い児”になっているのである。“迷い児”は家に帰る道を見出せばよいのである。その道を見出す方法が「祈り」であり、「神想観」である。
適当な働き人を求める人は「求むる仕事と、求むる人とは一体である。此処に仕事がある以上、それに適する人が存在しない筈がないのである。既にその適当な人は此処に来て働いているのである」と繰り返し念ぜよ。また求職する人は、この祈りの言葉の「仕事」と「人」とを取り換えて祈ればよい。
感謝合掌
1363
:
うのはな
:2012/10/01(月) 01:06:18 ID:f2bwKGw2
生長の家神示講義 光明掲示板より
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=416
1364
:
志恩
:2012/10/01(月) 05:19:59 ID:.QY5jUA6
「地上生活は人間にとってその、魂が訓練され、陶冶され、研磨されて、無限に美しき神霊たる実相の
霊光を放つに至るまで入学せあられている魂の生活学校なのである。
完全にその過程を終了して、つに卒業するに至るまで幾度でも、魂は地上生活に生まれ変わって来るのである。」
(続・真理の吟唱 p259・260)
1365
:
志恩
:2012/10/01(月) 05:30:17 ID:.QY5jUA6
唯物論ではなく、唯心論でもなく「唯神実相論」である。
この哲学こそ、人類を根本的にこのままお救い下さる真理である。宇宙にある一切のものは、唯神によって創造された・・・
これが実相であり、実相の他はニセモノ、唯一神のみが実在。
神はコトバである。聖書に「始めに言(コトバ)あり、言は神と供にあり、言は神なり、萬のものこれによりてならざるものなし」
すべてのものは神様のコトバ即ち、神様の心の思いが形に顕われたのである。
そして神は無限の善であり、無限の完全である。
そして、その善にして完全なる神様の造られた世界が即ち「実相の世界」でありますから、実相世界には無限に完全なものであり
其処に住んでいる人間はみんな「神の子」であって、無限に完全である。皆さんも神の子なんです。
そして、実相世界のすべてのものは、何によってつくられているかと言うと、物質によってはつくられてはいないのである。
吾々がそれを物質と見るのは、この五感の目を通して見るからそれを物質と解釈して見るだけの事である。
本当の人間は何によって造られているかと言うと、「神の言葉」によって創られているのであります。
悟りというものは相対認識の立場を超えて、実相を直視する立場に立ってはじめて得られる。
それは絶対意識の絶対認識であってこれが本当の立場なんです。
すでに今此処に実相の世界があり完全な実相の人間と言うものがある。
(実相と現象 p59〜)
1366
:
志恩
:2012/10/01(月) 05:48:23 ID:.QY5jUA6
< 「本来の教え」・・・比較〉 【生長の家は「空・無」の思想を超えたもの】
・「今の教え」の内容を読めば、「常恒不変なる肉体は無い」・「水の流れの無くなったものは川ではない」。
ここから連想されるものは<空仏教>の教歌である「引き寄せて結べば柴の庵なり。解くれば元の薪なりけり。」であります。
・「今の教え」の「肉体は無い」の説明は、この空仏教の教えと同じであります。なぜならば、「肉体はナイ」だけの説明、
つまり学者的緻密な分析知による説明だけで終わっており、「金剛不壊なる理念としての人間」・「人間・神の子の真理」・「実在としての実相宇宙の形相」が
説かれていないのであります。
・「今の教え」では、「理念は現象に先立つ」・「理念が現象として現れてくる」の所まで説明が行き届いていない。
「理念としての人間」・「理念としての川」・「現象世界の無限倍層の至美至妙なる実相世界の実態」の説明がなされていない。
・空仏教の範囲だけの説明では厭世的無常感に陥り、人間の病・悩・苦の現実的救いは現われないのであります。
宗教の講演・講習会は、学者の研究発表の場所ではない。話を聴くものに霊的感動を与え、病・悩・苦から現実に救われる場でなければならないのであります。
・さらに言えば、神様の自己実現としての私たち個生命は、仮存在としての本来ナイ肉体を顕して、それを乗馬としてこの仮存在としての三次元地上世界に於いて真理を学び、
無限の価値の創造の過程を通して、自己の霊魂進化の階梯を登って行くのであると言うところまで生長の家の講習会であれば説かれなければならないのであります。
ここにおいて、本当の霊的感動と霊的歓喜の人生が開けて来るのであります。
お話を聴きに来た人達もそれを心の底から望んでいるのであります。
本当の「生長の家」を伝え遺す信徒連合・作成
1367
:
志恩
:2012/10/01(月) 06:22:01 ID:.QY5jUA6
「信仰とは自分が宇宙とひとつである自覚を取り戻すことであり、神の中に新たに生まれることである」
そこから片寄りのない、平衡のとれた動きが生まれて来る事だと申されております。
(常楽への道 p120 )
1368
:
SAKURA
:2012/10/01(月) 06:25:16 ID:ZcyE/ry6
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
おはようございます…。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
【祈り…】
やはり神様との“メッセ−ジ”交信…この事は、魂の向上にもなりますもの〜
【自 己 改 善】でしょう〜〜〜か?
■■ 私 は こ う し て 祈 る 「谷口雅春 著」
―――― ■ 愛と寛容の精神を養うには…… ――――
貧乏は、「欠乏」の想念、「努力」の欠乏、「誠実」の欠乏、「サ−ビス」の欠乏、「愛念」の欠乏、
「持続の力」の欠乏、「寛容精神」の欠乏、「与える心」の欠乏等の具象化 であるということが
できる。特に寛容精神の欠乏は、甚だしく他に対して批評的になるために、他から愛されること
なく、いかに自己が賢明でも、実力も、努力も、誠実もありながら世に容れられないで失敗して
しまう原因になるのである。だから、次のように念じて愛と寛容の精神を養うように私はつとめ
ている。
「吾と神と一体である。神が吾を赦し愛し給うが如く、吾もすべての人を赦し愛するのである。
神の無限の愛と赦しが、わがうちに満ちていてすべての人を赦し愛したまうのである」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
PS;トキ様
そうです〜〜ネ!精神の欠乏??「いつも!いつも!心をポジティブ状態に、持って行く事の
出来る…いかなる状況でも??その様に思います。…が?
今回は、投稿しています内容を…【即…奥に押し込む】しかも? “ 1 行 ”たらず??
それにての【回転率…】でしょうか?これって【嫌がらせ…】なのでしょうか??
この事も【心 の 豊 か さ の 欠 乏??】でしょうか……
そして
この頃は、如何なる状況下でも【心の豊かさ…】保つために…そのためにも、
強い〜〜〜【意 志 力 = 認 識 = 意 識】という事を、常に、心がけています…。
「トキ様」「観覧者の皆様」…… 今日も〜❤〜 素敵な一日 を… 神と共に
再合掌
1369
:
志恩
:2012/10/01(月) 06:40:43 ID:.QY5jUA6
SAKURA様
貴女の投稿文を押し込むつもりで、謹写したのでは、ないのです。
「本来の生長の家」と「今の生長の家」の違いについて、只今、いろいろと話題になってますので、
聖典関係のことは、聖典引用板に、書いたのですが、多く謹写したので、結果的に、
SAKURA様の投稿文が、奥へ行ってしまいました。すみませんでした。
今後は、少なめに謹写します。
下記へ、SAKURAの、奥へ行ってしまった投稿文を、貼付させて頂きます。
聖典引用 板
1358 :SAKURA:2012/09/30(日) 16:10:37 ID:7joi1ZJA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
・・◆【ベスト・フレンド】 ( 幸福への第一歩 )
――――― ►► 幸福への第一歩 ◄◄ ―――――
|♣あなたは前にわたしたちは全人生をとおしてこころの小説を書いてい
|るとおっしゃいましたが、それは演技の一種で、わたしたちは私小説ド
|ラマのなかで自分の役を演じながら、できれば他の人がいまの役割を演
|じて欲しいと願っているように思うのです。もし、それがすべて幻想に
|すぎないとしたらなぜ自分で自分にそんな割に合わない役割を与えるの
|でしょうか。
そこが重要なところです。それはあなたが考えるほど損な役割ではありま
せん。わたしたちが自分自身にたいして犯す大きなまちがいには、つねにな
んらかの報酬を期待する気持ちが含まれているのです。結局、罰でさえも現
実には報酬となることがあるのです。
罰を受けているときのみ、自分が愛されているという気持ちをもつ子ども
がいます。そういう子どもが罰以外に両親から与えられるものといえば、無
関心さだけです。これは最悪の状況です。そうして、おとなになったときに、
かっては自分にとって大切な存在であった人をうまくあやつって、思うつぼ
にあてはめてやろうと絶えず考えるようになるのです。そして、そういう人
たちが、まだまわりにいるのではないかと思っては、みずからを地獄の苦し
みに追い込むのです。しかし、もはやそんな人はわたしたちの近くにはいな
いのです。そうした苦しみを味わったところでなんの意味もないのです。た
とえそれらの人たちが、まだ現実に生きている人間の亡霊であったとしても、
しょせんは亡霊とつきあっているにすぎないのです。
――――――― * ――――――――
次の質問につづきます……
PS:トキ様
「吸血鬼…ゾンビ達」に…【四面楚歌…】されています現在…まるで“亡霊”みたいでしょうか?
「生きた亡霊に?」でも!〜〜〜【こころの法則】が、潜在意識に入り込み、更に!それを、
自由自在に活用出来ますと…「亡霊」に付きまとわれる必要も、なくなるのです〜〜〜ョネ!
❤〜全ては【 心 = 意 識 = 意 志 に 繋 ぐ 事!!】の様に〜〜現在の私は、
「亡霊…」に?「悪魔の囁き」に?心が、揺れ動いているのです〜〜〜ョネ!
これを払いのけるには【魔法の呪文…】 ウフフ そうなのです〜〜〜ョネ!
「悪魔天使?」更に「亡霊・ゾンビに?」にも決して犯されない【心…】を保つには、
私の・・・【活きた〜〜意 志 = 意 志 力】に繋いでいきま〜〜〜す。
再合掌
1370
:
a hope
:2012/10/01(月) 08:06:50 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦条件反射ということ①
ロシアの大生理学者イワン・パブロフ教授は大脳の条件反射と云うことを発見したので世界的に有名でありますが、
その条件反射と云うのは、一例をあげますと、人間でも動物でも、一定の条件を与えると、
反射的に(かがみにものがうつるように)胃液がよく出て消化がよくなると云うようなことであります。
パブロフは先ず犬の胃袋に孔(あな)をあけました。
そしてその孔にゴム管を通して、その胃袋の中に出てくる胃液の性質や分量を色々と研究したのであります。
鈴(りん)を鳴らしながら美味しい食べ物を与えますとさかんに良い胃液が出て食べ物をよく消化いたします。
それを何べんもくり返したのちに、今度は、食べ物をやらないで、鈴だけ鳴らしましても、
同じように良い胃液が出ることがこの実験によってわかりました。
今度は別の犬に不味い食物(犬はにがいものが嫌いです)
をたべるように口元へもって往ってやりながら、コンコンと別の音をさせます。
すると、今度は、にがい食物をやらないでも、コンコンと音をさせるだけで吐き出すようになり、
食べ物を消化する胃液の出がわるくなって来ます。
このように条件に対して一定の反射的なハタラキを起こすのが条件反射であります。
ところで、これが判りますと、美味しい食物を食べるときに、
「これは美味しい、有りがたい」と思って良い胃液が沢山出て消化が好いとしますと、
これを繰返しているうちに、(諸君は、生まれてから何遍もそれを繰り返したことがあるに違いありません。)
今度は、不味い食物でも、「有りがたい、これは美味しい」と思いながら食べたらよく消化するようになるのは、
条件反射と云う現象(できごと)で当前(あたりまえ)のことであります。
(♦条件反射ということ② につづく)
1371
:
ハマナス
:2012/10/01(月) 13:39:15 ID:mR2szZkc
みなさま
こんにちは。皆様の所では、大丈夫でしたか?
こちらでは台風も去り、秋晴れになりました。
「実相流」の剣道の極意
(『新版生活の智慧365章』p.257)
どんな事件が起っても、それを敵対的な心で迎えてはならないのである。株式が暴落したときにはそこが絶好の買場であり、株式が暴騰したときにはそこが絶好の売場であるのと同じように、運命が上昇したときには其処が益々反省して謙遜になる好機会であり、運命が暴落したときには其処が、また新しい上昇のチャンスを作っているのである。上がるも下がるも好機会ならざるはないのである。だから、どんな運命がやって来ようとも、その運命を誼(のろ)ってはならないのである。
人生は剣道の試合のようなものである。相手が打ち込んで来るときが、こちらが勝利を得る機会なのである。何事が起こって来ようとも、常に絶好の機会を其処に見出すのが
「実相流」剣道の極意である。変化があるので人生は新しい機会を提供してくれるのである。運命の変転に恐怖心を起こしてはならない。
今日で、「第九篇 豊かさを得る道」を終わります。
感謝合掌
1372
:
a hope
:2012/10/02(火) 07:53:31 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦条件反射ということ②
また諸君は、不味い食物を出されて、「有りがたくない」と思いながら吐き出しそうになったり、
不消化だったり、下痢したことがあるでしょう。
それを何遍も繰返しているうちには、「有難くない」と思うだけで、
どんな結構な食物でも吐き出したくなったり、不消化になったりするのは、条件反射の結果であります。
女の人がお腹に子供がやどって、二か月、三か月すると、悪阻(つわり)と云って、
神経が感じやすい状態になることがあります。
そんなときに、「有りがたくない」と思うことがあると、ただそれだけで、
どんなに美味しい滋養になる食べ物でも吐き出す様になることがあります。
妊娠(こどもがおなかにできる)して、この吐き出すことが一カ月も二カ月も続きますと、
母親もお腹の子供もやせて、弱って死んでしまうことになります。
あるとき生長の家の花嫁学校の生徒のお姉さんが、そんな吐き出す状態になり、
それが1か月もつづいたので、お医者が、これでは母親が死ぬから、
お腹の子供だけを殺して出さねばならぬと云っていましたので、
どうしようかと私にたずねてくれと云って来られました。
私は「誰かと仲が悪くて、有り難くないと云う気持ちがあるからだから、
誰にでも感謝して、有りがとうございますと、周囲のすべての人に、
すべての物に、すべての事に、感謝しなさい」と申してやりなさいと教えました。
その通り書いて送りましたら、その人は、誰か周囲の人と仲がわるくて
「有りがたくない」と思っていたことが、自分でわかり、その人と仲良くして、
「有りがとございます」とお礼を云うような気持ちになったときに、
すぐ、その吐き出す「悪阻」と云う状態はなくなったのであります。
(つづく)
1373
:
SAKURA
:2012/10/02(火) 12:07:36 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
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>>1358
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
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|❤亡霊であっても、何もないよりはまだましだとおもうのですが。
それが亡霊にまつわる悲劇なのです。わたしたちはこうした日に見えない存在から得てい
る安心感を捨て去ってしまうと、もう自分には頼りになる人は誰もいないのだと考えてしま
いがちです。たしかにそんなものでも手放してしまうとわたしたちは別離の苦しみを体験
することになります。それはまた一人前の人間ならば、誰でも一度は知らなければならな
い孤独感でもあるのです。
しかし、もしその別離の苦しみに耐えるだけの勇気をもちえたとき、あなたには、すで
に放棄した子どもっぽい依頼心より、はるかにすぐれたものへの道が開けたことになるの
です。対等のつきあい、おとな同士のつきあいにのみ存在する真実の親密さがあなたを待
っているのです。そのときこそあなたのこころのなかに人生の楽しみというものが実際に
芽生えてくる瞬間なのです。
自分に十分な確信を抱くようになってとき、自分がなんであるかをほんとうに知ったと
き、本来の自分でありえたとき、はじめて他人にたいしてみずからのこころを開いてみせ
ることができるのです。人が自分に与えてくれないものを無理やりその人から得ようとす
る態度をやめたとき、あなたははじめてその人が自分に与えてくれたものを喜んで受け入
れることができるのです。人はお互いにいろいろな世界を共有することができるものですが、
最初はやはり自分自身の世界に接近していくことが必要なのです。
(つづく)
PS:トキ様へ
ある程度の【孤独感】を、味わった時に、そこからの展望が見えてきます。これは必要
なモノです〜〜〜ョネ!!私自身、ここFUKに帰り、新しい友人が、自然に出来ました。
…が? その後!変!変!〜〜〜な“現象”なのですが、必ず!「吸血鬼・ゾンビ達」が、
新しい友人を、つかまえて……「悪口…ある事ない事〜〜」を、云いますのでしょう。
それが、一回ならまだしも?例えば…最初の頃の事です。知り合いは、私達とあった直後に、
帰りの途中で、見も知らない人から声をかけられ、実に!嫌な思いに〜〜〜><
ある時、知り合い??から聞きまして、はじめて事の成り行きが分かったのですが ><
ここで、新しい人間関係を作りますと、必ず“嫌がらせ”が、入るのです〜〜〜ョネ!
■この様に、此処【2チャンネル…ある別板ボ−ド】でも…私の【悪口…】を投稿されています。
…が? この方達は、必ず!気にいる?気に入らない?なのでしょうか…??
この方々の“投稿”後に於きましての事は??ある面では私にとりましては
【孤独…戦い】でしょうか?
益々と【私 の 心 を 益 々 強 く す る モ ノ】なのです〜〜〜ョネ!
「トキ様」に於きましても【中傷…メ−ル】が毎日大変かと?それでも、共有で出来るものは、
やはり【信仰…真理】の共通の考え方の仲間…は同じ【類の友…】なのでしょうか???
再合掌
1374
:
ハマナス
:2012/10/02(火) 14:33:13 ID:mR2szZkc
みなさま、ありがとうございます。
今日から1週間ほど留守しますので、すみませんがお休みさせて頂きます。
感謝合掌
1375
:
a hope
:2012/10/03(水) 09:25:50 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦食物と胃腸とに感謝しなさい
何でも有りがとうと思いなさい。
すると、良いことがあって有りがとうと思ったときと同じように、身体の血のめぐりがよくなり、
頭がよくなり、胃腸が丈夫になり、達者になり、元気になり、勉強の成績もよくなります。
胃腸病の人は特にお食事の度毎に、食物に掌(て)を合わしてお礼を云いなさい。
そして胃腸にもお礼をいいなさい。そして本当の自分の胃腸は丈夫なのだと思いなさい。
それを信じなさい。
人間を使っても信じなければよく働きません。胃腸だって同じことです。
(つづく)
1376
:
SAKURA
:2012/10/03(水) 21:20:48 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
・・◆【ベスト・フレンド】 ( 幸福への第一歩 )
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|❤ということは、おとなの親密さは子どもの知っている親密さ、子ども
|が欲している親密さとはまったく異なるものだという意味ですか。
おとなの親密さはもっともっと楽しみの多いものですよ。あなたが想像し
てるいる唯一の親密さが、子どもから両親にたいするようなものだとすれば、
もしそれを必死で求めるかもしれないけれど、しかし、同時におそれも感じ
なければなりません。なぜなら、その親密さはあなたを文字どおり、わけの
わからない愚か者に後戻りさせてしまうからです。その方向の行き着く先は
母親の子宮のなかです。自分はまだ幼いのだから、誰か大きい人に保護を求
めるのだといって、親密さを求めるとしたら、あなたはそれを失うまいとし
てつねに恐怖にさらされることになるでしょう。
おとなの愛は対等なものであり、お互いの精神を高揚し、わたしたちの人
間をさらに大きくするものです。
――――――――――――― * ――――――――――――
(つづく)
PS:トキ様
此処までの話ですが〜〜なんともいえませんが……「愛」は、やはり…
大きく見守るもの…と思います。そうです〜〜〜ョネ!それは、母親が子どもを、
見守るような〜〜〜包むような〜〜〜モノでしょうか??「愛」の捉え方は、
若い頃は、分かりませんでした。…が??
「現総裁雅宣先生」も、おっしゃつていましたが…「愛の形…」……
大人の「愛」の見方!…子どもの「愛」の見方は、もちろん!違います〜〜〜ョネ!
子どもの「愛」は、両親から守られ育てられた〜〜あたたかき「愛」なのでしょうか?
『信頼性…求める』この様な感じでしょうか?此処!昨今ですが〜〜〜 ><
【社会問題…】としての「子どもへの虐待」…多発性… ><
これは両親自身が?『子供的…精神』なのでしょうか?この頃『幼児虐待…事件』
に関しましては、残念でなりません。
この事は「トキ様」は、どの様に?捉えられますでしょうか…?
更に!反対に大人になりますと、ある意味で『履き違えた部分』も
ありますでしょうか?
次回は、どの様に展開していくか楽しみ〜♫〜です。
トキ様…この「愛」の捉え方は、“視点…”として、どのようにお考えでしょうか?
再合掌
1377
:
a hope
:2012/10/04(木) 07:36:53 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第ニ章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦病気を呟いては治らぬ
胃病の人はいつも「胃病、胃病」と思っていますから胃病は治りません。
「胃病」を思わなくなったとき治るのです。
いつも病気を人に吹聴(いいふらす)してきかせることが楽しいようでは病気はなおりません。
病気だと云うと、人から「ああ可哀そうだ」と思われる―――そのことがうれしいようでは病気は治らぬのです。
病気を‘は‘じ だと思って決して人に自慢のように話してはなりません。
北海道の池田花子さんは風邪を引いたりお腹をこわしたりして寝ていると、
お父さんが「そんな病気ぐらい、じきに治る」といわれまして、「可哀そうに」とは云って下さいませんでした。
それで、「今に見ておれ、可哀そうにと云わずにはおれんほどの病気になりたい。
そしてお父さんから、可哀そうにと云われたい」と思いつめていましたら、
脊椎カリエスという病気になって足が立たなくなりました。
この人は生長の家の星野先生に、「心で病気が起こる」と云う話をきいて、
心を治したら、病気も治りましたが、病気と云うものは、
人から可哀そうがられたいと思っていては治るものではありません。
(つづく)
1378
:
SAKURA
:2012/10/04(木) 22:41:31 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238
>>1304
>>1307
>>1319
>>1320
>>1324
>>1331
>>1332
>>1334
>>1339
>>1347
>>1358
>>1373
>>1376
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
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――――― ►► 幸福への第一歩 ◄◄ ―――――
|❤愛をもつ危険性はわたしたちが考えているほど大きいものではないかと
|思いですか。
愛から危険を取り去ることは誰にも不可能なことです。あなたが自分を投
げ出して相手にささげても受け入れられない危険性はるねにあります。全身
をさらけ出しても、傷付けられる可能性はかならずあります。世間には他人
に愛を抱こうとしない人もいますが、それはこうした愛の危険性のためです。
こういう人たちは裸の自分をさらけ出すことによって――愛とは本来そん
なものですが――、あえて苦しみの危険をおかすよりも、むしろ自分の殻の
なかに閉じこもっていた方がましだと考えるのです。
しかし、おとなの場合は、かりに愛するようになっても、全生命を愛にか
けることはありません。おとなはすでに自分のなかに愛をもっており、相手
がどう反応しようとも、愛を失うことはないからです。しかし、あなたがな
んとか自分を確立しようとして、他人に依存するとしたら、その人がもしい
なくなったとき、あなたは大変な挫折感におそわれることもあるのです。
――――――――― * ――――――――――
|❤ということは、どんなに深く人を愛したときでも、距離感を保つとい
|うことですか。
深いこころのふれあいの瞬間においては、互いに、離れている自分という
意識はないと思います。しかし、どんなに親密な共通の立場にいるとしても、
相手をまるごと飲み込んでしまうこととはまったくちがうのです。
(つづく)
PS:トキ様
やはり!昨日と同じ事をおっしゃっていますです〜〜〜ョネ!
「愛…」は、やはり包む事が〜〜〜「愛」何です〜〜〜ネ!当時の私は包む事??
距離感がたりなかったようなのですが……??
いま頃、要約?それが理解できるようになりましたが〜〜〜><
「トキ様」も昨日の続きなのですが?やはり!どのような“視覚”を「愛…」に、
ついて思いになられますでしょうか〜〜〜“アドバイス”頂きますと幸いです。
再合掌
1379
:
a hope
:2012/10/05(金) 08:44:07 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第三章 恐怖の心を捨てましょう
♦何が一番恐ろしいか(p40)
「あらゆる恐ろしいもののうちで一番おそろしいものは何か」
とある集りで、その会議の議長さんがきいたことがあります。
或る人は「病気だ」と云いました。
「何故なら病気になれば死ぬからだ」と云いました。
もう一人は「一番恐ろしいのは貧乏だ」と云いました。
「貧乏になったら御飯が食べられない、勉強も出来ない」と云いました。
三番目の人は「僕の最もおそろしいものは敗戦(まけいくさ)だ」と云いました。
敗戦のために日本は貧乏になり、病気になっても薬もかえない」と云いました。
議長は、「みんなの云うことは一々尤(もっと)もだ」と云いました。
「しかし病気に何故なるか」と云いました。
「それは食べ物がわるいからだ」と云う人がありました。
「それは寒い空気に当たるからだ」と云う人がありました。
議長は「同じ家で、同じような粗末な食べ物を食べていても、或る人は病気にならないのは何故か」と云いました。
誰も答えませんでした。
そこで議長は「それでは、同じように寒い風にあたっても、風邪を引く人と引かぬ人があるのはどういう訳だ」とききました。
暫く誰も答えませんでした。
やっと考えついたと見えて一人の男が答えました。
「同じ食べ物を食べても当たらぬ人は、その人の身体が達者だからです。」
するともう一人が云いました。
「同じように寒い風に当たっても風邪をひかぬ人は身体が達者だからです。」
そこで、皆の物は口をそろえて「そうだ、そうだ」と云いました。
(つづく)
1380
:
a hope
:2012/10/05(金) 08:45:12 ID:r8H4x9xE
(つづき)
皆の者がそう云うから、それは必ずしも正しいとは定まっていません。
一人の人が云うからとて間違っているとは定まっていません。
人間は付和雷同(ふわらいどう)〈ひとつの雷がなり出すと、あちらからもこちらからも同じようにゴロゴロ云うのと同じに、
何でも一人が云うと考えもせず一しょになってそれについて行くこと〉してはなりません。
自分でよく考えて真理(ほんとうのこと)をしっかり見定めて、正しい道をしっかりと知って、その考えを云うことが民主主義です。
その時、議長がこう申しました。
「きっとそれにはきまっていません。同じ物を食べながら、かえって身体のほそい者が病気にならなかったり、
よく肥えた人が病気になっているのに、弱そうな人がかえって病気にならなかったりすることがあるのは何故ですか。」
誰も考えていて返事をする人がありませんでした。
「それはこうなんですよ」と議長が申しました。
「身体の達者な人でも、病気をおそれたり、何か心配事があったときには病気にかかるのです。
身体の弱い人でも病気を恐れず、心配せず、腹を立てず、愉快でたのしければ病気にかからないのですよ。」
ほんとに、此の議長さんの被仰(おっしゃ)るとおりなのです。
皆さん、心を明るく、楽しく何事もおそれないようにしようではありませんか。
(つづく)
1381
:
るんるん
:2012/10/05(金) 20:27:48 ID:NS71OwS.
a hope様
お久しぶりでございます。
>>1379
>>1380
ほんとにそうですね。私は会社を入社して2か月位たった頃、五月病?みたいなものになってしまいました。
(今は治りましたが)(・´ω`・人).:*゚..ナオリマッター
特に日曜の夜がつらかったです。が、心が苦しい感情でいっぱいのときは、食べたものをもどしたり、体がかゆかったり、体調がめちゃめちゃ悪かったです。
しかしこの頃は、なんだか心の状態がてきめんに現われるように思います。良い感情の場合も早く現れたらいいですのに。 ●´з`) ナカナカ・・・
1382
:
a hope
:2012/10/05(金) 21:37:39 ID:r8H4x9xE
るんるんさま
ほんとうに、お久しぶりです(笑顔)
いつの時代でも、仕事でのストレスから病気になる人は多いのではないでしょうか・・・。
でも、るんるんさまは乗り越えられたのですね。さすがです!!
わたしは、毎朝、聖典をここに謹写させていただきながら、
「この掲示板をご覧の方々が、健康で、幸せに一日を過ごせますように・・・」と、
お祈りさせていただいています。
周りの人の幸せを心からお祈りできるようになったとき、
自分にも本当の幸せが訪れるような気がしています。
向上心旺盛なるんるんさまですから、これから、どんどん良くなりますよ!
お互いに〝仕事″楽しみながらがんばりましょうね。!!
1383
:
るんるん
:2012/10/05(金) 22:30:48 ID:NS71OwS.
a hope様
レス、有難うございます。
「この掲示板をご覧の方々が、健康で、幸せに一日を過ごせますように・・・」と、
お祈りさせていただいています。
>>周りの人の幸せを心からお祈りできるようになったとき、<<
>>自分にも本当の幸せが訪れるような気がしています。 <<
a hope様は、なんて心のきれいな方なんでしょう。 前からわかってましたが、改めて思いました。 ヽ(*’-^*)。
少しでもa hope 様に近づけるように頑張ります。頑張るっていっても、なかなか性格は変わるもんじゃありませんが・・・・
神想観をがむばって、その威力でa hope様に近づけるようにがンバリます。
a hope 様のお陰で心が洗われたような感じです。ありがとうございます。
えっと・・・(@゜▽゜)_ q□ 紅茶 どうぞ、お礼です。ahope様のお好きなカモミールティーです。お仕事の疲れ、癒して下さいね。では。
1384
:
a hope
:2012/10/06(土) 06:11:31 ID:r8H4x9xE
るんるんさま
昨晩は、カモミールティーごしそうさまでした。おかげでぐっすり眠れました。
今朝の神想観も素晴らしかったです!!
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第三章 恐怖の心を捨てましょう
♦恐れると血の中に毒が出来る
恐れていると身体に毒素を生ずるのです。
鼠を金網の箱の中に入れて、棒切れで五六時間も追いまわしますと、鼠はおそれて死んでしまうそうです。
その鼠の血を人間に注射すると、少しの分量でも人間は死ぬそうです。
恐れた鼠の血の中に毒素が出来たのです。
人間でも他の動物でも恐れると血の中に毒が出来て、身体が弱って来ますから、
平素たっしゃな人でも、肥えている人でもそんなときには色々の病気にかかりやすくなるのです。
金魚でも硝子瓶の中でそだてると大きく生長しません。
外にいる人間や猫やいろいろの物が見えて恐ろしがるので身体の中に毒素が出来て身体がよわくなって大きくなれないのです。
鉢に金魚の子ばかり入れてそだてますと、大きくなりますが、その中に一ニ匹大きな金魚を入れますと、
大きな金魚が小さな金魚を追いかけまわすために、小さな金魚は中々おおきくなりません。
これは恐怖心(おそれるこころ)がどんなに身体に悪いかを示しているのです。
米国の物理学者ホーレンス・フレッチャー氏(Horace Fletcher)は
「恐れる心は空気の中のポンプで炭酸瓦斯をつぎこむようなものだ。
それは心の、精神の、霊の窒息状態(いきがつまる)を引きおこすのだ、時としては死を引きおこす。
人間のエネルギー(生きる力)の死、身体の組織の死、すべての発達の中止を引きおこすのだ」と云っています。
(つづく)
1385
:
a hope
:2012/10/06(土) 07:02:59 ID:r8H4x9xE
訂正
>>1384
上から3行目
カモミールティーごしそうさまでした。→カモミールティーごちそうさまでした。
るんるんさまごめんなさい。なまってしまいました(笑)
1386
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:07:36 ID:vWpLkCzM
合掌 皆さま、ありがとうございます。
第7回WEB誌友会が、あと1週間以内となりました。
ご一緒に、『生命の實相』の真理を、より一層深く学ばせていただきましょう。
<第7回WEB誌友会予告>
≪日時≫10月12日(第2金曜日)21:30より
10月14日(第2日曜日)23:30まで
≪テキスト≫『生命の實相』第1巻「實相篇 光明の真理<上>」の残り全部、頭注版p.167〜p.219
≪内容≫ 第6章「愛と真理によって更生せよ」・第7章「『生長の家』の超生理学」
以下に、そのテキスト(『生命の實相』第1巻「實相篇」(光明の真理 第6章・第7章)を、22回に分けて謹写掲載させていただきます。
WEB誌友会にご参加の皆様、どうぞ以下のテキストご文章より、感銘を受けたところや疑問を感じたところを部分的にコピペして意見を投稿する・・・などにご使用ください。 よろしくお願いいたします。
1387
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:08:21 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(1)
(頭注版 p.167〜169)
-----------------------
第六章 愛と真理によって更正せよ
神癒によって兄弟の病気を治すには、われわれは自分の念(こころ)が浄まらなければならないのであります。自分の念が、ありとあらゆる「罪」や「迷い」というものから除き去られて、神の無限の生命力が自分の念をパイプとして流れこんで来るようにならなければならぬのであります。こうして神の無限の生命力が流れこんで来るとき、いっさいの気涸れ(けがれ=Spirjtual barrenness――大生命の霊気が自分に涸れること)がなくなって病気その他のいっさいの不幸が即座にあるいは徐々に消えてしまうのであります。
これに反して自分の念が「迷い」に閉ざされ罪に堰(せ)かれて、自分自身が神の「生命の水」を流しこむパイプになることができなければ、神の「生命の水」(治してくださるお力)が患者に達せず、したがって病気が治りにくいのであります。
愛による更生
聖書を読みますと、「眼に見える兄弟を愛することができないで、どうして眼に見えない神を本当に愛することができようぞ」という言葉があります。神は愛でありますから、愛が深くならなければわれわれは本当に神を解ることができません。いわんや「神の生命のリズム」を自分の身に受けて、その完全な「生命のリズム」によって患者の生命のリズムの調律をするというようなことは、真に心に愛が深くならなければできることではないのであります。
本物の人間は本来神の子すなわち仏性であって「病気はない」のですから、病人というものは必ず自分の心で造った「観念(まよい)の牢獄」の中に閉じこもっているのであります。なぜ人間が自分の心でつくった「観念(まよい)の牢獄」の中に閉じこもるようになったかと申しますと、病人はきっと人間というものを冷たいものだと観ている。人間だけでなく「生命」というもの、「神」というものを、冷たいものであると観ている。「生命」と「生命」、人間と人間とが互いに孤立しているかのように観ている。あるいは「神」なんてないものだと観ている。あるいは「神」というものはあると思っていても、神と人間とのあいだに親と子との関係ほど親しいつながり、すなわち「愛」というものを感じることができないで、「神罰」とか「神の怒り」とかいう冷たい方面ばかりを見ている、こんなわけで、病人は心の底が温かい愛にうえている、人間と人間とを冷たく、なんの関係もないもののように見ている、とても、世界のあらゆるものが北極星を中心としてあらゆる星座が一糸みだれず動いていると同じように、自分を中心として自分の幸福を持ちきたすために運行しているというような完全なつながり(愛)を感ずることができない。こういう心――すなわち人間の本性を互いに孤立した連絡のないものだと思い違っている心が、形にあらわれて「病気の肉体」になっているのであります。
ですから、病気を治すには、まず病人の心から「人間は孤立して淋しいものだ」という誤った先入観念を取り去ってしまわなければならないのであります。そのためには人間と神との関係を知的に理解するということも必要ではありますが、何よりもまず、具体的な愛――愛の生きた言葉、病人への力づけ、深切な態度、勇気をつけ、心を明るくするような言葉によって、なるほど人間は自分一人という小さな力で孤立して生きているのではないという事実を目の前に見せる。アリアリと手で触れるように兄弟の愛で見せると、その結果、病人が心に兄弟の愛、神の愛をアリアリと感ずる。ここに本当の「神からいただく癒す力」が流れ入る門が病人の心にひらかれるのであります。
1388
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:09:11 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(2)
(頭注版 p.169〜172)
-----------------------
存在の実相(ほんとのすがた)においては万物は一体でありますから、互いに調和ある関係(すなわち愛)によって繋がっているべきであって、憎みも怒りも嫉妬も本来あるべきではないのであります。ところが、現象としてこれらの悪感情が存在するのは、「万物は調和ある一体である」という存在の実相に触れないからであります。すなわちこれらの悪感情は実相を知らないこと、すなわち迷いに出発しているのであります。これらの悪感情がいずれも肉体という心の鏡に映る場合は、血液の科学的成分に影響するということは、『生命の實相』第四巻生活篇「生長の家の生き方」の第十項「わが心の王国を支配せよ」という条項で述べたとおりでありまして、これをいいかえれば、心の迷いが、肉体に映って血液の成分に変化を起こしたということになるのであります。
万物調和――万物一体――この真理から生ずる感じが愛でありますから、その反対たる万物孤立――万物争闘――という「迷い」から生ずる悪感情(したがって生ずる生理的反映たる病気)を征服するには、やさしい言葉や行いでかたわらにいる人が「愛」をありありと実際に示してくれるにかぎるのであります。あるいは患者自身が何かに対して本当の愛を注ぐ、仕事に対してでもよい、本当に仕事を愛して、それに熱中する。そうすると、今まで血液の中に毒素をこしらえていた悪感情が消えてしまい、したがって血液の中の毒素が消滅して、けっきょく、その病気が治ってしまうことがしばしばあるのであります。
人をゆるせば病気が癒る
自動車王ヘンリー・フォードが常に数十冊を手もとにたくわえていて、悩んでいる友人に会うごとにその一冊を与えることにしていたという書に『無限と調和する生活』と題するニュー・ソートの本(原題“In Tune with the Infinite”、邦訳『幸福はあなたの心で』<新選谷口雅春選集9>)があります。その第四十四頁に次のような実話がのっています。
「医者をしているわたしの友人が、激烈なリューマチスにかかって苦しんでいる婦人を見舞ってやったときの話です。友は、この婦人とその妹との間にはけわしい精神的葛藤があることを知っていましたので、この婦人の病苦の訴えを親切に聞いてやった後、まともにこの婦人の顔を注視して、だんぜんとしかし深い思いやりのある語調で『妹さんをゆるしておやりなさい』といいました。婦人はびっくりした顔つきで彼の顔をしばらくまじまじ注視していましたが、『わたくし、どうしても妹をゆるすことはできません』と答えたものです。そこでこの友は『そうですか、それでは止むをえませんね。この関節の硬直と、あなたのお心の硬くてゆるし難いこととは親類筋なんですからね』というほかはなかった。
それから数日たった。友は再びその婦人を見舞にいったのです。と、軽いかの女の足どりが応接室へ近づいて来ました。かの女の顔は健康そうに明るく輝いていました。『どうして治りました?』とたずねると、『わたくしあなたのび助言に従いましたの。わたくし妹をゆるしましたわ。二人はもうとても仲善しになりました。するとどうしたわけでございましょう。二人が仲直りをしたその日から、あの重症のリューマチスが快(よ)くなって、今では、もうあとかたもありません』と答えたのでありました。」
皆さんはこの実話を聞いて非常に興味深く感じられるでありましょう。また常に病気に悩む人たちにとっては必ず心当たりがあると思います。心がゆるしがたくなって愛に背くとき、その人はわれとわが心で堰(せき)をして、大生命からの生かす力を受けることができなくなるのであります。だから、わたしはこのページを読まれたのを機会に、読者諸君にむかって、あなたのすべての隣人をゆるすことを提議したいのであります。
1389
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:11:44 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(3)
(頭注版 p.172〜174)
-----------------------
皆さんは自分自身が現在病気でないからとて他をゆるさなくてもよいということはないのであります。ある誌友の実話を聞くに、その人は非常に感じやすい子供をもっていられて、家庭に何か争いごとがあると、必ずその子供が、医者には原因不明の病気に襲われて打ち倒れるのでした。わたしはその誌友に会って、いろいろと日常の精神波動のふしぎな影響を話して修養してもらったところが、今では医者と薬が長年もてあましたそのし不思議な病気が、薬を廃して、ただ親の心の持ち方ひとつでおこらないということであります。
これほど鋭敏な感じの子供も少ないではありましょうが、日常のわれわれの心の持ち方は、ひとり自分のみならず、自分の家族の健康と運命とにも非常に関係があるのであります。その上、精神波動が、ラジオのエーテル波動のように無辺の空間に放送されるものであるということを知るとき、もし、われわれが人を怒れば、自分の精神波動で(その人の精神力の相違で程度の差こそあれ)相手の人を暗殺しつつあることになるということを知らねばなりません。
「女を見て色情を起こすものはすでに姦淫せるなり」とか「七たびを七十倍たび赦せ」といったイエスは、精神波動が現実的力であることを知っていたに相違ないのであります。
物質に生命はない
われわれの生命、われわれの生きる力が物質にあるという考えが根本的な迷いであります。物質は本来無い。あると思うその信念が、フィルムになってスクリーンの上に「物質」という映画をあらわしているにすぎないということはたびたび申し上げたとおりであります。
じつさいここが大切なところでありまして、われわれが物質というものを真に存在していると観るからには、物質は間断なくうつり変わるものでありますから、物質の科学的変化、病的変化というようなことも認めねばならなくなるのであります。したがって病気の存在ということも認めねばならなくなるのであります。病気が真実存在するということになってきますと、われわれは病気をあたかも強盗のように恐れるということはやむをえない。それは生命を脅(おびや)かす強賊であるから、誰でも恐れるのは当然のことであります。
ところが物質は本来無い。それは自分の念(こころ)を鏡に映してみたようなものであって、念(こころ)さえととのえて鏡に向かって見れば、自分の顔が優しい顔にうつるのと同じように、自分の心さえととのえて自分の肉体に対すれば、自分の肉体は姿をかえて健康になれるのだということになると、われわれの着眼点がちがってくるのであります。
猿が鏡を見て、鏡にうつる醜い顔がじっさいあるのかと思って、鏡の裏へ廻ったり横へ廻ったりして、いろいろ鏡に白粉(おしろい)をつけたり、紅をつけたりしてみても、いっこう鏡にうつる影が美人にならない。
これではならないと思って渋面をつくればつくるほどかえって鏡の中の姿が醜くなる。どうもこれは変だなと思ってよくよく考えてみると、鏡の中には本来そんな姿がいるのではなかった。そこにあるように見えている姿はかえって自分――こちらにいる自分の影だとわかったので、自分ながら滑稽になって笑ったら、今まで醜く渋面をつくっていた鏡の中の姿までも笑い出して非常に鏡の中までが美しい愛らしい顔に見えたという話があります。
これと道理は同じでありまして、念(こころ)をかえて肉体という鏡に向かえば肉体はどれほどでも健康になってくるのであります。だから念でひとの病気を治してあげようという人は、自己が相手に対する深い愛を持つと同時に、病気をば鏡の中に映っている影であると思って、その実在性を根本から否定しえなければならないのであります。これができないで、病気を真に実在すると思ってこちらからむかってかかりますと、こちらの念が向こうに映ってますます相手の病気がこちらの思うとおりに強い実在性をおびてくるのであります。
1390
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:12:27 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(4)
(頭注版 p.174〜177)
-----------------------
むかしから「ありま親しい肉親の者を看護させると病気に悪い」と申しますのは、肉親の者はそれだけ病人に対して直接的な物質的つながりがあるので、病気に対しても本当の真理を観ずることができず、真に病気を実在するものと思って心がうろたえ動揺しますので、その心の動揺が相手に映って病気を重くすることが多いからであります。こうして病気を真に実在すると思って心が動揺する人はメタ・フィジツシャン(神癒能力者)としてひとの病気を治す資格がないのであります。
人間の本性――本物の人間――は物質ではない、物質は念のフィルムの映した影だという真理がハッキリ解ってきます程度につれて、その人が肉体の健康を支配する力が強くなってくるのであります。
イエス・キリストやその弟子が病気を治したのをみましても、黒住宗忠(くろずみむねただ)が病気を治したのをみましても、決して彼らは病気を実在として研究して、その解剖学的知識がこうであるからこういうふうな治療法をしなければならぬというようなことは考えてはいなかったのです。イエス・キリストにとっては病気は無いのであるから慢性も急性も無い、いわんや不治症などはテンで存在しないのであります。ここに「生命」に対する驚くべき強き確信がある。だからキリストの治す力もまたすばらしいのでありまして、たいていは、そくざに治ってしまっているのであります。キリストは「人の生命」は神から受けたものであること、神そのものこそ人間自身の生命であること、人間の生命は神から受けた生命のほかにはないこと、その生命は不増不減絶対の完全さをもっているもので、病気などに冒されるおそれなどは絶対にないことを信じていたからこそ、あれだけすばらしい治療力を発揮しえたのに相違ないのであります。
自己の生命の、不増不減の絶対完全な本性をば、肉体の上にも実現しようとするには、五官すなわち眼耳鼻舌身等の感覚にて感じられる不完全なすがたを本当に存在するものだと思い違えてはならないのであります。
五官というものは、念のフィルムでうつし出した映画を見るための道具であって、フィルムの奥底でめまぐるしいほどに輝いている本当の生命を見るための道具ではないのであります。
本当の自分の生命のすがたを知るにはわれわれは五官というものを超越してしまわねばならないのであります。すなわち仏教でいえば禅定(ぜんじょう)、古神道でいえば鎮魂(ちんこん)、キリスト教でいえば、霊の洗礼――いいかえれば「霊のバプテスマ」を受けねばならないのであります。
「生長の家」ではいずれの宗派をも生かしつつ神との一体感を深める「神想観」という修行をするのであります。
いずれにせよ、われわれの心の奥底の思想――思想だけではない信念までも――が、自分の生命の完全な実相(ほんとのすがた)を自覚するにしたがって境遇も健康も改善してくる。これが改善してこないのは奥底の心がまだ自分の生命の完全な本性(ほんとのすがた)が「神だ」ということを自覚しえていないからであって心の底に恐怖心があるからであります。
われわれが何かを恐怖するとき、その何かがきっとあらわれてくる。これは切り離すことのできない原因結果の法則であって「類は類を招ぶ」の心の法則というのであります。
一時、ドイツおよびアメリカを風靡した療法にホメオパチーといって人間にある分量飲ませると一種の病的症状を呈するような毒薬を、それと同じような症状を呈している患者にむかって「これはそれを治す薬だ」といつてごく少量飲ませると、じっさいその症状が消えてしまう治療法があるのだそうであります。ホメオパチーすなわち「同種療法」という意味で、同じような病気になる薬を使って、かえって病気を治すからそう呼ぶのだそうでありますが、これなども患者の心しだいで、同じ薬が毒にもなれば薬にもなるという実例であります。
1391
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:13:08 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(5)
(頭注版 p.177〜180)
-----------------------
じっさい、人間の心ほど不思議な畑はないのであります。心の畑へ植えこまれた種子が「真理」(生命の実相)であればその人は健康になりますし、心の畑へ植えこまれた種子が「迷い」(病的観念)であればただちに病気が芽を出し生長するのであります。この点において医者というものは患者から信用せられているだけに、患者に対していう言葉には、なかなか注意を払わなければならないのであります。
新薬というものが出現しますと、しばらくの間は非常によく効くのでありますけれども、それが広告(言葉の力)を利用しなくなると、たいていはいつのまにか効かなくなって世人から忘れられてしまうのであります。はじめには効いたけれどもだんだん効かなくなるというのは、なぜでしょうか。
昭和二十七年五月三十日号の『日本経済新聞』に結核予防会第一健康相談所副所長の渡辺博博士が「科学療法と気胸療法」と題して、新薬の効果がだんだん減ることについて次のように書いておられます。
「病気は薬で治すという考え方は一応もっともであるが、薬だけで治る病気はそう多くはない。薬にはたくさんの種類がある。しかし病原体に直接はたらいて、病気の原因を除くほど力のあるものは少ない。たいていの薬は病気の原因に効くのではなく、病気の症侯をやわらげるのに役だつくらいのもので、痛みを止め、熱を下げて、苦しみを軽くしているうちに、身体に備わった治癒力で自然に治るのを待つのが常道である。
「土壌菌からえられたペニシリンが抗菌作用を持つことはたしかである。このはたらきが、菌を殺すのか、あるいは菌の発育を阻止するだけなのか、まだ問題は残っている。抗菌作用の本態はまだ全容がつかめない。
「結核菌は肺炎菌と違って、化学薬品に対する抵抗力がはるかに強い。ペニシリンができて、肺炎はむかしほど恐ろしい病気ではなくなったが、ストレプトマイシンではそうはいかない。
「むかしから結核の特効薬なるものはずいぶんたくさん現われ、すべて、いつとはなしに忘れ去られた。極端な場合は副作用さえさければ、実効があろうとなかろうと薬として用いられた。しかし今はむかしと違う。われわれはある薬剤が結核にはたして効くかどうかをたしかめる有力な試験方法を持っている。
「最近のイソニコチン酸ヒドラジッドはこの試験に一応パスした。しかしマイシンが発見され、これで結核は治ると思ったのもつかの間、むしろこの薬で肺外科の領域が拡がったように、こんどの新薬も宣伝されるほどの威力はないとみてよい。結核を化学療法だけで治すことのできる日はまだ遠いものと考えられる。……」
これが結核に対する化学療法、薬剤療法の最新知識というところであります。
梅毒に対するサルバルサンが発見されたときには、これさえあれば梅毒は完全治癒すると思われましたが、それがだんだん効かなくなっています。新聞や医学雑誌に大きく喧伝(けんでん)された当初だけ新薬がきくというのは、その化学的成分に絶対威力があるからではなく、流行神(はやりがみ)さんと同じことで、新薬だというからよく効くにちがいないと医者も患者も信じている。そこへ新聞雑誌がその効果を言葉の力で宣伝する。ますますその信念が喚起されます。そしてその累加した信念がかさなって効いてくるのであります。ところが発見した当時は、世間が言葉でハヤシたてるが、やがて、それにつにて何も書かず、宣伝されぬようになると、言葉の力がうすれ、きくという信念がうすれて効かなくなるのであります。
薬にも流行があるように健康法にも流行があります。健康法でも、はじめて発表されて新聞や雑誌の記事や広告に鳴り物いりで大々的に宣伝せられますと、その宣伝の力――つまり言葉の力でその健康法がきいてくるのでありまして、一時はやった何々式健康法というようなものも間もなく世間から忘れられます。
1392
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:13:52 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(6)
(頭注版 p.180〜182)
-----------------------
患者に信頼せられない藪(やぶ)医者の場合は患者の方でばかにしてかかっているから、有名な医師が使ってよくきく同じ薬でもきかない。そこで、この医者はだめだと見かぎる。そして別の有名な医学博士にかかるのであります。ところがやはりその医学博士も診断(みたて)は同じで、同じ薬をくれるのでありますが、ただちがうのは診察料と薬価とが高いことであります。値段が高くて有名な医学博士の薬であるから、きっとよく効くに相違ないと患者が信用してかかるから、その信用が病気に効くのです。信用とは心の問題です。
どの病気にはどの薬を使うかぐらいは、医者なら誰でも知っているのですが、名医と庸医(やぶい)との相違は患者に信用せられる手段の上手下手によるのであります。外科医には手術の上手下手がありますが、施術したあとの傷痕を治すのは自然良能でありますから、そして自然良能は、その人の心の持ち方で変わりますから、「物質」が病気に効くのではなく、「心」が病気に効くのだということがわかるのであります。
肉体には結果があるだけで原因はない
ふつうの医者は脈搏だの、呼吸だの、血圧だの、舌だのというものをしらべて見て、肉体の状態はどんなふうになっているかを発見しようとするのであります。しかし肉体は「心の影」でありますから、いくらしらべても肉体には結果があるだけで原因はない、そして患者の肉体状態は患者の心に何があるかを示しているにすぎないのであります。
病気に関する論文、医術の参考書、治療法の解説書、家庭医学の本などを素人が読むことは、暗闇の中で子供が幽霊の話をしてきかせられたのと同様の効果を与えられるのであります。何も見えない暗闇の中で子供に怪談をしてやると、子供はおびえて、想像の幽霊が今にもじっさい出て来るかと思って、キャッキャッと泣き叫ぶのでありますが、それと同じく「真理の光」の射しこんでいない人の心に病気の話をすれば、その話が種子になって想像で病気を栽培してだんだんその想像病を生長さし、ついには物質的にも明らかに認められる病気になってしまうのであります。人間の心は光が欠乏してくれば恐怖心を起こすのであります。
反対に「真理の光」が心の中に射しこめば、白日のもとに想像の幽霊が消えてしまうように、想像の恐怖心も消えてしまいます。
ところで、あらゆる病気は「念(こころ)の影」すなわち「想像病」であって、迷いから起こった恐怖心で自分がかってにつくっているのでありますから、この点、病気になる大人は幽霊を恐怖する子供と、なんらその無知な点において異ならないのであります。太陽が出れば子供の恐怖心も消え、したがって幽霊も消えてしまうと同じように、「真理」という太陽が心のうちに輝き出せば、病気はおのずから消える。「真理」という太陽をかかげて皆さんの心を照らす――これがこの書の役目であります。
われわれは赤ン坊をいっぺんに大人にしてしまうわけにはゆかないのであります。それと同じように皆さんの心のうちを、いっぺんに太陽のような「真理」の光でくまなく照りかがやかしてしまうということはできないのであります。そこで本書または月刊の『生長の家』を毎号繰り返し繰り返し暇さえあれば読んでくださるようにしていただけば、しだいに皆さんの心の中に「真理」という偉大な太陽の光線が強く照り輝くようになる。すると、病気はむろん、どんな人生苦でも自然に消滅するようになるのであります。
それから神想観の修行も一日一回はぜひ怠らぬようにしてくださると、いっそうすみやかに心の奥底に真理をかがやかすことになるので、効果も早いのであります。この坐法や観念法は『生命の實相』全集第四巻観行篇(頭注版では第8巻)に詳記してありますからご覧のうえ実修してくださるようにお願いいたします。
1393
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:14:39 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(7)
(頭注版 p.182〜185)
-----------------------
皆さん、脳髄という物質に心があると思ってはなりません。胃袋という物質に消化力があると思ってはなりません。心が複雑になるから、それが映って脳髄の組織が複雑になるので、脳髄が複雑になってから心が複雑になったのではないのであります。おいしいと思ったら胃袋に消化液が分泌してきてよく消化するのでありまして、まずいと思ったり、感情が興奮していて食欲が本当に起こらない時には何を食べてもなかなか消化液を分泌しないのであります。
無知無明
われわれが「生長の家」でとく「生命の真理」――「存在の実相」が根本的にわかってきますと病気にならないばかりでなく、性格も善くなり、境遇も運命も善くなるのであります。善くなるのではない。われわれが本来神が造った「神の子」であるからはじめから善いのしでありますが、その「善さ」が隠れていたのがしだいにあらわれて来るのであります。
「罪」と「迷い」とはひっきょう同じものでありまして、その本来の善さを無知無明(まよい)のためにツツミ隠している、これが「罪」であり「迷い」であり、真理の無自覚、すなわち「本当の知恵」の欠乏から来るのであります。
世の中で知恵が欠乏しているほどの大きな罪(つみ=包みかくす意)はないのでありまして、あらゆる罪悪は、この「本当の知恵」の欠乏からくるのであります。
修行中の弟子が、ある日釈迦にむかって「知らずに犯した罪と、知って犯した罪とはどちらが重いでしょうか」とおたずねしたということがお経に書いてあります。すると釈迦は「知って焼火箸(やけひばし)を握るのと、知らずに焼火箸を握るのと、どちらが大きな怪我をするか?」とたずね返された。そこで弟子は「それはお師匠さま、知らずに握った人の方が大きな火傷(やけど)をするに相違ありません」とお答えした。釈迦はニコニコ笑って、「そうじゃろう、だから知らずに犯した罪は、知って犯した罪よりも深いのだ」とおっしゃったということであります。
つまり「真理を知らぬ」ということは、あらゆる罪の源になる大きな罪(包み)であって、この大きな「包み」に包まれて、真理の光線が心の中にはいりこまないから、その暗闇の中でいろいろとありもせぬ怪物が心の迷いではびこる――この怪物の中に、病気とか、不幸とか、不和とか、家庭苦とか、生活難などといういろいろの一つ目小僧や、三つ目小僧や、大入道がいるのであります。
「本当の知恵」のないところから、あらゆる不如意不完全は出発するのでありますから、仏教でも「阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)」すなわち「サトリ」ということを第一においている。キリストも「真理はなんじを自由ならしめん」といって、「真理を知る」ということすなわち、サトルということをその教えの第一においている。それからまたキリスト教の信者となるには「洗礼」ということをする。「洗礼」というのは水をそそぐことで、日本古神道でいう身禊(みそぎ)に当たり、「罪」すなわち本当の自己の生命を包んでいる「迷い」を洗い浄めるという精神を形にあらわして水をかけたり水の中に浸ったりするのであります。
こうして、身禊すなわち洗礼をせられたときに、キリストの身体に「聖霊(みたま)鳩のごとく降れり」と聖書にはあるのであります。つまり自分の生命と御祖神(みおやがみ)の大生命とを絶縁させていた「迷い」が洗礼によって洗い浄められ、心のうちに知恵が輝き出し「迷い」という絶縁体がなくなれば、神と人間との間に完全な感応道交(かんのうどうこう)の道がひらけ、「聖霊(みたま)が鳩のごとく」キリストの身体(からだ)に降臨して、ここにキリストは完全に「神の子」としての自覚に入ることができ、驚くべき奇跡や神通力を発揮するにいたられたのであります。」
1394
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:15:22 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(8)
(頭注版 p.185〜187)
-----------------------
旧我の否定と新しき更生
このようにどの宗教におきましても、「迷い」を洗いきよめて本当の知恵をうることをもってその主要眼目としているのでありますが、では「本当の知恵」をうるとはどういうことであるかと申しますと、それは「人間は神の子である」という一大事実に目覚めることであります。キリスト教でいえば「なんじにやどるキリスト」を知ることでありります。仏教でいえば「仏性」を自覚することであります。
わたしが光明生活法を説いて、「人間は神の子である、自分自身をも悪く非難してはならない」と申しますと、なかには早呑みこみして「このままの自分で完全な神の子だ」と思って、驕慢(たかぶ)った心になっている方もあるかもしれませぬが、「本当の知恵」とか、「神の子の自覚」とかいうのは、そんなに安っぽい自覚ではないのであります。
仮に、ここに、身体じゅう腫物(できもの)だらけの人間があるとしまして、「人間は神の子だ」と教えられたとします。そこでその人間が、その腫物だらけの身体(からだ)を「神の子としての完全な身体」であると思いこみ、その腫物だらけの身体を「これこそ完全な神の子の姿だ」といって自慢しだしたとしたならば、実にはたから見て見苦しい鼻つまみの所業(しわざ)でありますし、それではまた、その病気もなおらないのであります。
人の徳性にしましても芸道上の技倆にしましても、このままで「神の子」としての自分の貴さや深さがでていると思ったらそれは慢心でありまして、それ以上、その人は徳性においても、芸道においても進歩するということはないのであります。
本当の「神の子」としての自覚というものはそんな安っぽいものではない。今の状態をありありと反省し、こんな見苦しい不完全な状態は「神の子」らしくないということを知り、自分は神の子であるから、こんな不完全な状態は自分の本性ではない、本性でないものはウソである、いつまでもウソを自分の天性だと思って天狗になっていてはならないと、豁然(かつぜん)大悟、「神の子」としての自分が別に厳然として存在することを悟る――これが「神の子」としての本当の自覚であります。
こうして今まで「これこそ自分だ」と思っていた「仮妄(うそ)の自分」を捨ててしまうことが、新しく「神の子としての自覚」に入る第一歩であって、毎日反省して、蛇が皮をぬぐように毎日「ウソの自分」を捨てる――こうすることによってわれらは毎日新たに神にいっそう近づくことができる、すなわちわれわれの無限生長の道があるのであります。
われわれが毎日『生長の家』を読んだり「神想観」を実修したりするのは、要するに「旧我(ふるいわれ)」を捨てて「新我(あたらしいわれ)を掴むことにあるので、本当の「神の子」としての自覚を得るにはぜひともいったん「旧我」を捨ててしまわねばならないのであります。
それでメタフィジカル・ヒーリングによって他人の病気を治すにも、ぜひとも「否定」と「肯定」との思念法を用いるのであります。「否定」とは現在の不完全な病気の状態は偽物であって本物の存在でないと取り消す思念で、「肯定」とは「本物の自分」は神の子であって現に今も神の造りたまえる世界――すなわち真実存在の世界に、完全な病気無き相(すがた)で存在すると肯定する思念であります。
1395
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:16:01 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(9)
(頭注版 p.187〜189)
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この思念が徹底し、魂の底の奥の心までこの真理が自覚されれば、それで病気が治るのであります。性格でも同じことでありまして、たとえばここに小さなことにでも腹が立ってしかたがない性格の人がある。こんな人に「おまえは神の子だ、完全な性格である」と教えるとしますと、「なるほどわたしは神の子であって、この小さなことにも腹を立てやすいということが、そのまま完全に偉いんだな」と思ってしまったとしますと、この小さなことにも腹を立てるという性格は決して治らないのであります。なぜならばそれでは反省がなく、懺悔がなく、自分の悪いところを捨てるということがないからであります。
腹を立てる性格を治すには、第一に自分を反省して「偽我(にせのわれ)」と「真我(ほんとのわれ)」とを見わけ、この腹を立てるというような小さな狭い性格は偽我であって、本当の自分ではないとしていったんそれを捨て去り、その捨てたあとにハッキリと「自分の本性は神の子であるから小事には決して腹を立てない完全な自分である」という自覚を植えつけることが必要なのであります。
万事こうして偽我を捨て、真我を自覚することによって性格も善くなり病気もなおるのであります。「生長の家は自分を悪く言わない」というのは「真我を悪く言わない」ということでありまして、偽我はどこまでも排斥して消滅さしてしまうのであります。つまらない現在の性格や病気の状態を「神の子」であるところの「真我」の状態であると思い違いしていては、「真我」を悪く言わないどころか、「真我」に汚名を着せているのであって、「生長の家」の主張とはぜんぜん反対になるのであります。
実生活を癒す宗教
真我――これは「神の子」であり、「仏性」であり、真理でありただこれのみが唯一の「実在」なのであります。「偽我」、「病気の我」、「悪性格の我」などはいかに実在するようにみえても、それは「迷い」であり、念(こころ)がかってに胸に描いて、その描いた念(おもい)を蜃気楼(しんきろう)のように空中に映し出しているのであって、その実、決して存在しないのであります。
われわれが本当の「神の子」としての完全な生活、仏子としての完全な生活、病気も欠点もない「理想の我」としての生活を実現するにはぜひ、この偽ものの旧我(ふるいわれ)を毎日毎日捨て去らねばならないのであります。これを仏教では「懺悔」といい、キリスト教では「悔改め」といい、日本神道では「みそぎ」または「祓(はら)い」といって、いずれの宗教でも同じことであります。
玉ねぎの皮をむくように毎日または毎時間一枚一枚と偽ものの皮をむいて祓いのけてゆくのであります。すると、あとには何も残らなくなって、空無自在な我の「真性」だけが残る。この境地には誰でもなかなか一度には達せられないけれども、半分でもこの真性に近いところまで「迷いの皮」がむけ、サトリが開けて来ますと、その心境が肉体にも境遇にも反映して非常にわれわれの実生活がラクになって来るのであります。
宗教とは魂だけを救う教えであって、実生活を救うものではないと思っている方があるかもしれませんが、実生活は心で支配されているのですから実生活を治しえないようなことでは生きた宗教とはいわれないのであります。「形」は心の影でありますから、心を本当に治しうる宗教ならば病気でも境遇でも治しえなければならないのであります。
1396
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:16:41 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(10)
(頭注版 p.189〜191)
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われわれの経験によると病気はかなりな大病でも治りやすいのでありますが、性格は病気よりもいく分治りにくいのであります。この理由を考えますに、人間は病気というものに対してはこれは自分の本性ではない、本来自分は健康であったのだという「自覚」がたいていはある。その上、この病気をぜひ治したいという「熱望」がある。この「自覚」と「熱望」とが病気の治る上に非常な助けとなるのであります。
ところが性格の欠点にいたっては、よほどの反省のある人でない限りは欠点があるか無いかもわからない。低い程度の性格のままで神の子だと思い上がって「神の子」たる自分の真我(ほんとのわれ)に対して安い値段をつけて甘んじている。だから、自分の性格の欠点を治したいとも思わず、よいかげんのところで自分をごまかして、自分はこれで向上の余地がないというような思い違いに陥りやすいのであります。これを高慢とか慢心とかいいまして、性格の向上の上に非常な障(さわ)りになるのであります。
むかしから聖人君子といわれるような徳の高い人ほど自分の罪深さをひとしお感ずるというのは、「真我(ほんとのわれ)」に一文も負けない正札(しょうふだ)値段をつけているから、今の程度の自分ではまだまだ偽我(にせのわれ)であって正札値段に達しないということを感ずるからであります。
ところが、自己批判のたりない人は、よいかげんの現在の自分のままの低い人格であって、すでに高い「真我」の正札値段に達していると慢心しているのであります。
こんな人には「自分は神の子だ」という本当の自分がわからない。こんな人たちに「自分を尊べ」といいますと、不徳のままで大天狗になって不完全な「偽我」を尊ぶだけで「真我」に低い値段をつけていばっているのでありますから、かえって「真我」を安く見くびっていることになり決して本当の自覚に達しないのであります。
「真我」に高い値段をつける――すなわち「自己の本性」を本当に尊ぶ人とは、常に自己を反省して今の状態ではまだ本物の自分に達していない、これからどれだけでも向上の余地があるということを自覚して毎日精進を続ける人でなければならないのであります。
慢心を去れば治る病気
本当の自尊ははなはだけっこうでありますが、この「偽我慢心」と、病気やいろいろの物質的不幸を恐れる恐怖心と――この慢心と恐怖心とは人間が本当の自由を得る――すなわち真性開発上の二つの重大な妨害となるのであります。
慢心があれば性格上の欠陥を生ずるばかりでなく、肉体上の病気を生ずることもあります。そしてこれは、単に病気に対する恐怖心から起こる病気よりも複雑であって、恐怖心を取り除くだけでも薬物療法だけでも治らないので、慢心を取り除いたら初めて治るのであります。この慢心を取り去るには自己を反省し、自己を凝視し凝視して、自己批判を厳重にしなければなりません。
近ごろの新しい精神科学、精神分析療法では、患者の精神を分析して隠れている慢心――そのままの不完全の自分でいながら家人にうち勝ちたい心、医者にうち勝ちたい心、社会にうち勝ちたい心等の不満足を――ありありと分析して患者の目の前にさらし出せば、ただそれだけで治る種類の病気がたくさん発見されているのであります。
1397
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:17:19 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(11)
(頭注版 p.191〜193)
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昭和五年十一月十九日にありました生長の家例会で、平野町新聞社の松浦長寿(ながとし)君が話された実話によりますと、当時、大阪天王寺区南日東町(みなみにっとうちょう)方面委員をしている松本外次というもう六十数歳になる老人があった。何教の信者というわけではないが、非常に隠れたるところに徳を積むということが好きな老人で、常に無宿の人を助けたり無縁の死者を葬ったり、貧しき人に施したりすることを楽しみにしていながら、右の手にした善行を左の手にも知らせないというような人であった。松浦長寿氏が一度平野町新聞にその徳行をのせたいと思ってその老人を訪われると、自分は知られるために徳行をしているのではない、人に知れたら自分の善行はそれで消えてしまうのだといってしいて辞退されたそうであります。
その老人は近所に病人があるということを聞くと見舞っては「道」の話をしてあげることにしていられた。そして病人に対してあなたのこの心得が悪いとかこういう行いをしなければならぬとかいうことを指摘して、本人の心を道にかなうように導かれる。すると、おのずからその病人の病気が治ったのであります。
この方法で治された人は、実に挙げて数うべからずだそうでありまして、葉書の礼状ばかりでも四、五寸の高さがあるほど集まっているとは、それを見て来た松浦氏の話であります。ところが治った病人が礼をもって来る、礼をもらっては、天の倉へ貯えた徳が消えるというわけで、またわざわざその人の家へ返しに行かれたものでありますが、それではあまり繁雑に耐えられないというので、やがて病気を治すことをやめて、晩年は礼を決して持って来るおそれのない無縁の浮浪者に施したり、無縁仏のために碑を建てたりして余生を送られたそうであります。
それはとにかく、病人に道話(どうわ)をしてあげて、病人が自分の心の持ち方の非を悟ったとき、自然に、その人の病気が治るということは非常に面白い事実ではありませんか。この老人の「道話治療法」や最近の精神分析学(サイコアナリシス)は、いかに病気が「罪」や「心の障(さわ)り」から起こり、「罪」を除き、「心の障り」を除けば自然に治るかを明かにしていて、まことにわれわれの参考になるのであります。
1398
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:18:11 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(1)
(頭注版 p.194〜196)
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第七章 「生長の家」の超生理学
肉体の疲労や病苦は仮想的存在
皆さんは「あまり歩いたのでわたしは疲れた」こうおっしゃることがありましょう。この「わたし」とは一体なんでありましょうか。この疲れた「わたし」とは筋肉でありましょうか、心でありましょうか、これが問題であります。物質なるところの筋肉は心でないから疲れたと感ずることができません。牛肉の一片が疲れたと感じますか。切り出された脳味噌の一片が痛いと感じますか。そんな事はありますまい。あなたは「疲れた」とおっしゃいますが、そのあなたなるものは一体なんでありますか。それは一片の筋肉の代りに代弁をつとめるものでありますか。じっさい、知性のない物質なるところの筋肉は疲労を感じていない。感じていないものを感じているように思わせる、無いものをあるように思わせる――これは「迷いの心」がそう思わせるのであります。
皆さんは机が疲労を感じているのをご覧になったことはありますまい。荷車はすれちびても疲れたとも、苦しいとも、痛いとも感じますまい。われわれの肉体は机や荷車と同じように知性のない物質たることにおいてなんの変わりもないのであります。もしわれわれの迷いの「心」が「肉体が疲れる」とか「肉体が痛む」などという不合理なことを空想して、われとわが心の自己暗示で疲れを感じたり、痛みを感じたりしなかったらば、われわれの肉体はいくら働いても疲れるということも、いくら無理しても痛むなどということもないのであります。
じっさい肉体は物質であるから疲れない――疲れようがない、痛みようがない、苦しみようがない。だから疲れたと思わせ、痛いと思わせ、苦しいと思わせる迷いの心を捨てさせ、「本物の自分」――神に造られたままの自分をほんのしばらく振り返って自覚するようにすると、数時間もポカンとして休息するよりも身体がやすまって来るのであります。
先日もある誌友の方から「仕事の合い間、あいまに『生長の家』の数行を読むと疲労が回復してきて、また生き生きした精力で仕事が続けられる」と感謝してこられたのであります。これはわれわれが大生命からいただいた生命そのものは決して疲労することができないものであって、疲労なるものは「迷いの心」が造った空想でありますから、『生長の家』のような真理の書物によって「迷いの心」を追い出せば、その「迷いの心」の産物なる疲労も、おのずから消えてしまう証拠であります。
痛みでも同じことであって、肉体という物質そのものは、たとい如何に壊れていようが痛みを感じないものでありますから、われわれが「肉体が痛い」と感ずるのは「迷いの心」がそんな空想を描いて自己暗示でかってに、無い痛みをあると思って苦しんでいるのでありますから、「迷いの心」を他に転じてしまえばその痛みは消えるのであります。
たとえば、胃が痛いといって苦しんでいる患者があれば、この全集の読了者が軽く患部に手をあてて真理を黙念して「痛みは本来無い、生命は神であるから完全である」と念じていると、痛みは消えて病人はスヤスヤ眠ってしまうのであります。
この原理を体得しますと、無痛安産でも無痛施術でもできる。身体に百本も、かなり長いヘヤーピンを突き刺して決して痛くないというような実験をした人もあるくらいであります。
元来、自然な生理的現象であるお産などに痛みを感ずるはずはないのであります。エディ夫人の本を読んで無通分娩をした実例は本書の第三章にあり、第三巻には早期破水逆産の無痛分娩の実例をあげておきましたが、本書を読んで健康の真理が解ればおのずから無通分娩ができるのであります。もしそれができないならば読んでも書いてあることの意味が体得できなかったからでそんな人は、本部道場または各地の教化部および誌友相愛会での直接指導で好結果をあげています。
1399
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:18:50 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(2)
(頭注版 p.196〜199)
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女学校の生徒などでお腹がしくしく痛いと思っている時に、先生から指名されてある質問をあびせられると、その瞬間、心がその質問に集中して、お腹のことに心がゆかない。すると、その先生の質問に答えている間中お腹の痛みを忘れているなどということはたびたびあるのであります。
無痛分娩の原理もこれと同じで、「迷いの心」を痛みのところへやらないようにすれば、なんでもないのであります。
焮衝性(きんしょうせい)のリューマチにかかって、杖の力をかりてもホテルから劇場まで辻二つと歩けなかったある有名な俳優は、自分の出演の時間が来るまでは、ほとんど動けないほど激痛に悩んでいたにもかかわらず、出演のときが来るとぜんぜん健康な別人のような活発な演技ができて、出演中、肉体には少しの痛みも感じなかった実例をマーデンはあげています。
日本でも名優十五代目市村羽左衛門は七十二歳で病没(昭和二十年)しましたが、楽屋へたずねて行きますと、もう老衰して腰が曲ったヨボヨボしたかっこうでしたが、舞台に出て白井権八などの若衆姿に扮しますと、完全に老衰の状態が消えてしまって溌剌(はつらつ)たる青年のキビキビした演技を見せたものであります。
「どうも身体が悪い!」と病人はいいますが、それは身体がくるしいのでも痛いのでもありません。「迷いの心」が苦しく、「迷いの心」が痛いのであって、それはだんぜん主観的なものであります。「迷いの心」を肉体から転ずれば、もう苦しみも痛みもなくなるのであります。
つまり、病気というものは、罪(すなわち包みて生命の円満完全さを自覚せぬこと)から起こるのであって、「心」がわれわれの本来の生命の実相(ほんとのすがた)を自覚せず、「心」の苦しみ、心の痛みは「心」自身で治すことができるものであることを自覚せず、肉体が「心」というものから独立して病苦を感じうるという誤れる信念から起こるのであります。
病気の苦しさを超越する一つの方法は、まずじっとその苦しみの真相を見つめることであります。肉体の一部が痛めばじっとその痛みを見つめるがよろしい。そしてその痛み、苦しみをば、よく観察して「それははたしてこの肉体が痛がっているのだろうか。肉体は物質だから知性をもたないから『痛い』と感ずるはずがない。そうしたらこの『痛い』と感じているのは『心』だ。『心』は無形のものだから実質的に故障が起こるはずがない。実質的に故障がないのに『痛い』と思うのは『痛い』という夢を見ているのだ」
こういうふうに肉体の痛みをことごとく観察して、その痛みが肉体に実在しないし、『心』にも実在しないで、ただそれは無いものをあると見ている夢だと宣告を与えて、なおじっとその痛みを見つめていますと、最初その痛みが自分の痛みだと思っていたのに、だんだんそれが離れて観られるようになり、痛みは感じているがその痛みはもう自分の痛みではない、完全円満な自分というものがよそにあってその痛みを第三者として観ている、ちょうど自分が「痛み」というラジオを第三者として聴いているような塩梅(あんばい)になって、自分自身が痛まなくなり、自分自身が痛まなくなると、結局その病気は治ってしまうのであります。
肉体は物質であるから痛みを感じないといえば、肉体には知覚神経とか神経細胞というものがあるから痛みを感ずるのは当然だといわれる人があるかもしれません。しかし知覚細胞も神経細胞も、一個の物質的装置である点においては変わりはないのでありまして、物質そのものには意識がない。それはラジオの受信機のようなものであります。いくらラジオの受信機があっても、心がこれに痛みを吹き込まず、心が痛みの吹奏を聞かなければ痛みというものを感じようはないのであります。
だから心がそこにないところの一片の切り落とされた片腕は、知覚神経も神経細胞もそっくりそのまま残っていても痛まないのであります。こんなわけで肉体が痛むの、知覚神経が痛むの、神経細胞が痛むのといっても、皆「心」が痛いと迷うから痛いと感ずるのであって、この「迷い」の心を免職させて実相覚と交替させたら、痛みはなくなり、病気はおのずから消滅するのであります。
1400
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:19:28 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(3)
(頭注版 p.199〜201)
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病気を超越する法
病気とは心が病み、心が痛むのであって、心の病、心の痛みを「肉体が痛みを感ずる」という不合理な迷信によって、肉体の上に投影し、最後にその心の力によって、肉体の化学的成分、肉体の生理的作用にまでも病的変化を起こすことになるのであります。
ここの道理がわかって来ますと、われわれはけっして自分の欲しない肉体の状態を、自分の心に想像しないようにしなければならないのであります。肉体を強くしたいと思うものは、かりそめにも、自分の肉体を弱いと思ってはなりません。また「弱い」といつてもなりません。
世間にはおうおう「わたしの生まれつきは体質が弱いもので」などと口癖のように弱音を吐く人がありますが、言葉は必ずその言葉の意味相応な想念感情をよび起こし、その心の働きに従って肉体もまた弱くなって来るのであります。
一つの病気が肉体に発生する――それは水仙の球根から芽が出て蕾(つぼみ)ができ、花が咲くようなものであります。水仙に水仙の花が咲いてほかの花が咲かないのは、水仙の心の中に水仙の花の形が貯えられているからであります。
中耳炎になるとか鼻茸(はなたけ)ができるとかしますと、外科医やふつうの人たちは、ただそれは肉体にだけ病気の部分ができたのであるから、その病気のところを切ってほかしてしまったら、もう病気は無くなるように思っています。けれどもいくたび施術して病気のところを切ってほかしてしまいましても、その施術と同時に心の病気を消滅さすことができなかったものは、いくたびでもその病気が再発するのであります。
施術しまして病気のところを切ってほかすということはなるほど、一時的には手っ取り早い治療法には相違ない――それは水仙の花の嫌いな人がその「花」だけをことごとくキレイに切ってほかすようなものであります。しかし、その水仙が生きているかぎりは、そのうちに「花」や「蕾」の元になる「念(こころ)」があるから、また「蕾」をこしらえ同じ形の花を咲かせるようになるのであります。
病気もまたそのとおりで、施術は手っ取り早いが一時的の効果しかない、心から「病気」の素(もと)を取り去るのは、たとえば水仙を根から引っこ抜いてほかしてしまうようなもので、根から引っこ抜いても、水仙の花はしばらくはいきいきとしているかもしれないが、今度こそは根本的にその花が出なくなり枯れてしまうのであります。
水仙には水仙の花が咲き、梅には梅の花が咲くように、人間にも、おのおのの人に時々咲き出でる病気には一定の型があるのであります。
耳の悪い人は一時治っていたかと思っても、またしても耳鼻咽喉系統の病気にかかる。
ずいぶん消化器などは達者なのに、風邪ばかり引いているという性質(たち)の人もある。
しじゅう胃腸が悪いのに決して耳鼻の病気にならないという人もある。
このように人間の病気にも一種の「傾向」とか「個性」とでもいいうるような一定の型があるのは、水仙の心から水仙の花ばかりが咲いて他の花が咲かず、梅の心から梅の花が造られて他の花が造られないと同じであって、これは、病気の本源が心にあって心に設計されたプランのとおりに、肉体にその病気が具体化して来てその他にはなりえないという証拠になるのであります。
で、あらゆる病気にかからぬようになるには、心のうちにあらゆる病気の設計図を描かぬようにしなければならないのであります。つまり決して病気というものを心に思わず、病気の説明の本を読まず、治療法や売薬の広告を読まないようにしなければならないのであります。
1401
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:20:08 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(4)
(頭注版 p.201〜204)
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こう申しますと、なかには「自分は病気のことなど一度も思ったことがないのに、病気にかかっているではないか」と抗弁せられる方もありましょうが、そんな方はまだ「心」というものの研究がたりないのであります。
海の水を見ていると紺碧に澄みきってその中にはいっけんなんにもないように見えるかもしれない。けれども潜水眼鏡をつけて海の中にはいって眺めて見ますと、いつの間にはいったのか、いろいろのものが沈んでいる、いろいろの生物が泳いでいる、その中には人間にとって有害なものもあれば有益なものもあると同じように、われわれの意識(こころ)の海の中にはいつの間にはいったのか、ふとした新聞広告や電車内広告の記事からでも病的観念が染み込むので、いろいろの観念が泳いでいるのであります。
このいろいろの観念の中から、われわれの害になる「病気の観念(たね)」だけは病気になりたくない人はぜひとも取り除かなければなりません。それには一種の心的施術が要るのでありまして、今後なるべく病気を思わないようにするというだけの消極的手段だけでは、もうすでに「心」の底にはいり込んでいる「病気の観念」を破壊するにはたりないのであります。
こちらから進んで積極的に、すでにはいり込んでいる「病気の観念」を攻撃し、破壊するようにしなければならない。
それには、「病気の観念」を積極敵に攻撃して、「おまえはわたしの心の底にいる権利があるように主張しているけれども、おまえは本当はわたしの心のうちにもどこにも存在する権利はないのだ。神の造らないところのなんじはいかに実在するかのような仮面をかぶっていても、本当は実在しないではないか」という道理を諄々(じゅんじゅん)と自身の病気に説き聞かせてこれを論破する必要がある。
靜坐と精神統一と信仰とをむすび合わして、「病気の観念」を論破して本来の無に帰せしめる方法が、生長の家道場で毎日実修せしめている「神想観」であります。読書によって自身の「心」に諄々と説いてきかせて「病気の観念」を論破して、本来の無に帰せしめる方法が、『生命の實相』の毎日読誦法であります。『生命の實相』を毎日繰り返し読んでいるうちに病気が治ったとの報告があるのは、ちょっと聞くと不思議な奇跡のようでもありますが、われわれの「意識(こころ)」と肉体との関係を十分研究してみるとそれは当然の科学的結果であります。
本能的の健康法
われわれがよく聞くことでありますが、「わたしは皮膚を鍛練するために毎日冷水浴をし、呼吸器を強健にするために戸外で深呼吸をしているのにやっぱり風邪をひいて困る」というような人があります。
そうかと思うと「わたしは少しも固いものを食べないようにし、お粥やパンやオートミールばかりを食べているのにしじゅう胃が悪くて困る」という人もあります。
こんな人が健康になれないのは、「健康」すなわち「生命力の充実」は何か物質的方法で来ると思っている根本観念に誤りがあるので、この根本観念に根本的革命を加えればなおるのであります。
「健康」すなわち「生命力の充実」は「生命」そのものを、順に、自然に、正しい道にのびのびとさせることによってのみえられるのであります。そのためにはまず「心」が「迷い」から解放されて、その自然に帰らねばならないのであります。
1402
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:21:08 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(5)
(頭注版 p.204〜206)
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「生長の家」では、いわゆる「健康法」だの「衛生」だのというものを無視してはしまいますが、わざと不養生をしたり、不衛生をしたりするようにすすめるのではありません。「心」が「迷い」から解放されて自然にかえり、「生命」が順に正しい自然の道にのるようになると、直覚と本能とに導かれて、おのずから生活が本当の自然になります。
生活が本当の自然になれば、生活全体が健康法にも衛生にも自然にかなうようになって、今まで人為的に生活が健康法に適うようにと心がけていたものが、今度は本能的に健康法に適う生活ができるようになるのであります。
正しい本能は誤れる人知の小細工よりもわれわれを健康に導いてくれるのであります。鳥獣は、彼らが自然の山野に生活しているかぎり、完全に健康であって決して病気にならないのであります。雪を踏んで歩む熊も、露にぬれて餌をあさる小鳥も、寒さに負けて風邪を引くということはない。それは生活が正しい本能に導かれ、自然に健康法にかなう生活をしているからであります。
ところが山野の鳥獣を捕獲してきて人間の雰囲気内につれて来ると、いろいろと暖房装置に気をつけてやっているにもかかわらず、ともすれば病気にかかったり風邪をひいたりするのであります。これから考えてみましても風邪をひくというのは必ずしも寒さのためではなく、生活が不自然になったからだということがわかるのであります。
別所彰善(べっしょしょうぜん)氏の著書のなかにもお腹をこわしてもうほとんど動けないようになった猫をかわいそうに思って、どうせ死ぬなら暖かい柔らかな蒲団の上で死なせてやりたいといたわって柔らかな蒲団の上に寝かせてやると、いつの間にかそこを逃げ出して冷たい土の上へ腹ばいになって、腹を冷やしてジッと死んだようになっている。これではよけい病気に悪いだろうと思って、またまた柔らかな蒲団の上へ連れて来てやると、人の見ている間はそこにジッとしているが、いつの間にかまた冷たい土の上へ腹ばいになってジッとしている。
ところが、ちょっと人間知では衛生に悪いと考えられるようなお腹を土で冷やすということが、かえって自然な健康法であるということをこの猫は知っていたのであって、この自然的健康法が効果をあらわして、しだいにその猫が元気を回復してきたという実例が書いてあるのであります。
とにかく、人間は「自然に還る」ということが必要であります。自然的健康法ということが唱えられますが、生活の形式を自然に還すまでに「心」を自然に還す、すなわち「心」から迷いをとり去るということの方がいっそう必要であります。心が自然にかえれば、生活の形式もひとりでに自然に還るようになってきます。
食物の嗜好(このみ)などもおのずから変わってきて、自然に健康的食物が好きになってくるのであります。『生長の家』を読み出してから、いつの間にか食物の嗜好が、以前には濃厚な肉食が好きであったのが、近ごろはかえって淡白な野菜が好きになったといわれる方もあれば、酒やたばこが前には無くてはたまらなかったが、このごろは喫(の)むまいと思ったら無くてもすむようになったといわれる方もある。以前には甘味品が好きであったが、近ごろは砂糖気のあるものは好まなくなったという人もあります。
つまり、これは『生長の家』を読んで「心」が実相を悟った結果、実相の反映として、その人の生活が自然に還るようになったのだと思われるのであります。
どんな修養でも、外から、形の方から「これは悪いことだからやめましょう」というふうに矯(た)め直すばかりで、内から「想念(こころ)」という映源(フィルム)に正しい相(すがた)を描かなかったら、一、二回は無理に抑えて正しい生活をしてみても、その抑えることが苦しくてたまらない。内から「想念」が反発して来て不健全な生活へ誘惑する、そしてついにその誘惑に負けて外の生活の形もやはりまた元の不健全になってしまう、そこがいわゆる世間の修養というものの欠陥であります。
修養は外から直してゆこうとする。ところが「生長の家」はうちから、心の根本の自覚から変えてゆこうとするのであります。
1403
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:21:46 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(6)
(頭注版 p.206〜208)
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食物療法は仮想
世の中には断食療法をとく人ももあれば、栄養療法をとく人もあり、なかには大食療法、過食療法までもとく人があります。しかしキリストはいとも明瞭に「なんじら何を食らい何を飲まんと思い煩う勿れ」と、食物を人間ごころで選択する必要のないことを説いていられるのであります。
何を食べてもよい! しかし、それは時と人とによって必ずしも一定しているものではなく、人間知恵で考えて解るものでもない。心が自然になるとき、腹を土につけて冷やした猫のように本能的に、最も今の自身にとって必用な事がしたくなる。こうして本能がひとりでにつごうがよいよう調節されて来るのであってこそ理想的健康生活であります。
この境地には「何を食べては悪い」とか「何か食べねばいかぬ」とかいうふうな、外から律する人間知恵に頼っていては達せられない。「心」の根本の持ち方をかえて「生命の実相(ほんとのすがた)」を自覚し、生命は外から養われるものではなく、内から養われるものだということをハッキリ体得してこそ、本能の指示に従い、何を食べても健康によいというふうになるのであります。
わたしの体験
わたしの体験で申しますと、わたしはずいぶん以前からたいへん胃腸が弱かったのであります。胃は弛緩(しかん)症で、胃の筋肉の収縮力が弱いのだそうで、何を食べてもなかなか腸の方へは行かないで長時間胃の方に溜っていました。胃の中に食物が停滞している時間が長いので、食べた物が異常発酵を起こして、腸へ行くと腸の粘膜を刺激するのだそうで、毎日下痢ばかりしているのであります。
医者は、「あなたのように胃の筋肉の弱い者は、胃筋の負担を軽くするためにできるだけ飲料を少なくとらねばならない。食事の時には絶対に飲料をとらぬがよい。それは消化液を薄めるとともに、胃筋肉の負担を重くする。飲料を飲むならば食間に、それも小量ずつ飲んで一時に胃腸に重荷をかけてはならぬ」というのです。
一時私はずいぶん厳重にそれを励行したものであります。そのころわたしの宅で世話をしていた親類の一青年などは、わたしが食事の時に一滴も飲料をとらないので、自分がお茶を飲みたくても非常に遠慮していて窮屈だったそうで、この事実は私の親類じゅう誰でも知らない人はないくらいであります。
ところが今ではわたしは食事の時にかなり大きな湯沸しに、一杯の茶をほとんど一人で飲んでしまうこともあります。そうかと思うと一滴も飲まないこともある。飲みたくば飲むし、飲みたくなければ飲まぬし、飲んでも飲まんでもその時の自然の本能にまかせているので、健康法のためにと思ってやってはいませんが、それでいて前には弛緩症だった胃が一升も茶を飲んでも別になんともないのであります。
1404
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:22:22 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(7)
(頭注版 p.208〜211)
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わたしが、こういうふうになぜなれたかと申しますと、以前には胃袋というものは一種の物質の袋であって、ある目方以上のものを入れると、ゴムのように伸びてしまって収縮力を失ってしまうと教えられて、それを信じていましたから、信じたとおりにわたしの胃袋は収縮力を失っていたのであります。
ところが、わたしは「念(こころ)」と「肉体」との関係を研究しているうちに肉体の状態は念(こころ)の状態を形にあらわしたものであるということがわかってきたのであります。
「念(こころ)」を抜きにした胃袋そのものは収縮する力も消化液を出す力もない。胃袋を収縮したり消化液を出したりする力は念(こころ)にあるのだ。医者はわたしの胃袋を弛緩症だというが、本当は、食物や飲料を恐怖する念が、自分自身の恐怖心のために胃袋を収縮することを怠っているのである。病気は念にあって胃袋にない。今までわたしは胃病だと思っていたが胃病ではなかった――こういう真理がだんだん明瞭にわたしの念に刻まれてくると共に、わたしはわたしの胃の弛緩症を実在しないものだと信ずるようになり信じたとおりに私の胃病は実在しなくなったのであります。
このわたしの経験と同じようなことがエディ夫人の著書のなかにもあります。それは消化不良症の一児童にグラハム式摂食法を応用した実例であります。
この児童は消化不良症を癒すために、パンと野菜のみを食し、飲料はただ少量の水のみに限られていたのであります。しかるにその消化不良症は少しも良くならないでますます悪くなって来ました。で、彼はいっそう厳重に食養生を守ろうと決心して一日一回ただ薄い一片のパンだけを水も何もなしに食べることにしました。医者はまた食後三時間たたなければ、その渇いた咽喉(のど)をうるおしてはならないというのでした。
こうしてこの児童は数年間ほとんど飢餓のなかで生活しましたけれども少しも彼の胃は丈夫になりません。
医者はあらゆる手段をつくしたがその胃病を治す術(すべ)を見いだすことができないので、「この病気は死ななければ治りますまい」といったりしました。病人の方でもこんなに苦しい希望のない生活を続けるくらいだったら死んだ方がましだと思いました。
この時、彼はエディ夫人と相識(し)るようになったのです。
彼は病苦の数年を経過してもう青年になっていました。エディ夫人は彼に真理をといて聞かせました――病気と苦しみとは人間がわれとわが信念でかってに作った幻である。愛の神、全能の神は決して病気を作りはしないのである。だから病気は「実在の世界」にはないのである。神は決して断食や減食をしなければ健康が維持できないようには人間を不完全には造り給わなかったのである。だから、断食健康法などというものは神の造り給いし「実相の世界」の健康法ではない。そんな健康法は夢の中でお化けに追いかけられてやはり夢の中で走って逃げているのと同じである。夢の中のお化けが恐ろしければ夢の中で走って逃げてもなんにもならない。ただ覚めればよいのである。
真理に目覚めればすべてのお化けが消滅する。つまり「生命の実相(ほんとのすがた)」がどんなに完全なものであるかを自覚したら、本物でないニセ物の病気はおのずから消滅して人間は健康になるのである。――こう彼はエディ夫人から教えられました。
この真理が彼の病気を消滅させました。もう彼の胃袋は何を食べても痛みませんでした。また欲するものは何を食べても栄養になったのであります。
そこで皆さんにはこういうことがわかるでありましょう。食物が肉体に害になったり栄養になったりすることができるのは「迷いの心」――一種の信念――がかくのごとき力を食物に与えるのであって、食物本来の力ではないのであります。
1405
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:23:00 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(8)
(頭注版 p.211〜213)
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食物は本来、人間に害を与える力も栄養になる力もない。ある人には栄養になる食品も、恐怖心をもって食すれば害になります。ある人に害になるような食品も、神から与えられた食物に人間を害するものは決してありえないということを信じて食すれば害になるようなことはないのであります。
神から与えられた食物
ここに大切なことはわれわれのとるべきは、何よりもまず「神から与えられた食物」であらねばならぬことであります。私心(わたくしごころ)で、「何を食らい何を飲まんと思い煩うて」えた食物であってはならないのであります。
神は「全体の渾一的生命」であり調和の統体でありますから、神の力で循環して自分の食膳にのぼる物ばかりを食べていれば自分の健康も調和してくるのであります。
「形の世界」は「念(こころ)の世界」の映像(かげ)でありますから、念(こころ)が整うて神に一致するようにならねば本当にその人に適する成分を含んだ食品がその人の食膳に運ばれることにならないのであります。
分析表や栄養料理の解説書を片手に、できるだけ自分にとって適当な食品を選ぼうと思っても、それは学問上では栄養料理ということになっているかもしれませんが、また相当その栄養料理にその人が信仰をもっていましても、栄養料理ぜめで胃腸がますます弱り、体力がますます衰弱していったような実例はたくさんあります。
元来、その人にとっていかなる食物が適当であるかは、その人の血液検査をして見てもわかるものではありません。むろん、容貌や外観では容易にわからない。同じひとりの人でも、その日、その時間によってその人にとって必要な栄養分は変わってゆくのであります。
われわれの心の働き、感情の動かし方の相異でわれわれの血液の中にできる毒素、疲労素、興奮素その他いろいろのホルモンのでき方がちがい、その分量も質も変わって来るのでありますから、この分量と質とがことごとくわからねば何をその人に食べさせてよいかは学問ではわからない。
だからもし今後医術というものが極度に発達して、これら人体中の生成物を完全に知る方法が発見され、またそれに従って相互に調和すべき食物の供給方法が見いだされないかぎりは医者としては患者に「あなたにはどんな食物が適当しています」などという資格はほとんど無いのであります。
では、われわれは何を標準として食物を選択したら良いでしょうかと皆さまはおたずねになるでしょうが、――だいたい、こんな事を気にしている事からして、われわれが、宇宙の渾一的生命、大調和の統体たる神から離れた感じをもっている証拠であります。
生長の家の立場から、何よりもまずわれわれが克服しなければならぬのは、この「神から離れたという感じ」であります。われわれは常に神のうちに生きているが故に、神から離れることは絶対にできない、離れたと思っても離れていない、離れたと思うのは「迷いの心」であります。しかし「形の世界」は「観念(こころ)の映像(かげ)の世界」でありますから、「神に離れた」という感じをもっている以上は、「形の世界」のあらゆる事柄も全体的調和を得たように循環してこないのは当然のことであります。
われわれが栄養分の調和をうる方法には二通りあります。第一は、外から食膳にのぼる料理が自分にとって必要な成分を含んでいるものであるということであります。
しかし、これは今申しましたように食物成分の分析や栄養学ではわからないのであります。
それはわれわれが神すなわち「大調和の統体」と一致したとき、必ず必要なものが食膳にのぼるようになり、またその食膳にのぼったもののうちでも必要な食物に対してだけ大いに食欲が動いてくるのであります。
われわれが、神すなわち「大調和の統体」に一致しますとわれわれは「本能」に従って行動して食物が自分に調和したものをとることができるのであります。正しい「本能」に従うときわれわれは「欲するところに従ってその矩(のり)を超えず」というようになるのであります。
1406
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:23:38 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(9)
(頭注版 p.213〜215)
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この点では人間は「知恵の樹の果」を食べて人知というもので、病理学だの、衛生学だの、栄養学だのという「迷いの学問」を作りあげ、あくまでもその学問の力で食物を選択しようとしていますから、学問を超越した生命自身の選択力――正しい「本能」――を非常に鈍らしているのであります。この点では動物の方が偉い、ひよこでさえ卵の殻を破(わ)って出るとすぐ、何が自分にとって適当な食品であるかを本能的に知っているのであります。
蚕(かいこ)でも、毛虫でも、どの植物の葉が自分の食品として適当であるかを知っていて誤らない。また食物を子供に当てがってやる毛虫の親にしても必ず自分の子供に適当な食物を与えるのであって、人間のように、親の与えた食物の選択が誤っていたために子供が腸をこわしたなどということはないのであります。
毛虫の親は蝶でありますが、蝶は必ず自分の子供が孵化して幼虫となった時に食物となるべき植物に自分の卵を生んでおくのであります。こうなると人間最高の知恵の結晶たる大学教授の栄養学よりも、毛虫の「本能」の方がすぐれているといわねばなりません。
われわれはまた、野生の毛虫が食い過ぎて胃腸を悪くしたという実例を見たことはありません。またわれわれは犬や馬が過淫で神経衰弱になった例に接したこともありません。「正しい本能」に導かれるものは、決して過食することも、過淫することもなくなる。これは正しい「本能」というものが生命自身の選択力、調節力の発現であるからであります。
本能を正しくする道
では、「本能」を正しくするにはどうしたらよいか、われわれはエデンの園で人類が一度蛇にだまされて食べたという「知恵の樹の果」をことごとく吐き出してしまって、神の英知(ちえ)を心の中に吸い込んでその導きにおまかせしなければならないのであります。
では「知恵の樹の果」を吐き出すにはどうしたらよいでしょうか。「生命」を「生命」とせず人間を物質的機械と観ずる在来の「迷の学問」をば、「生命」を「生命」として取り扱う真学問の光りで照破するのが何よりもよいのであります。
仏典にも、聖書にも、日本の古典にも、「生命を生命として取り扱う真学問」が書いてあるのであります。これらの聖典が尊いのはそれが釈迦の言葉だから尊いの、イエスの言葉だから尊いのというわけではなく、この「真学問」が書いてあるから尊いのであります。
しかし、仏典、皇典の難解はいうまでもなく、聖書にしましても、表面はかなりやさしいけれども、それは霊感によって書かれたのでありますから、表面の字句だけを読んで、霊感でこれを読むことができなければ、本当の真理がわからず、真理がわからねばせっかく読んでもなんにもならないのであります。だから仏典でも、聖書でも、古典でも、それを読んで病気が治ったという人はめったにない。それは読んでも本当に解らなかった証拠であります。
1407
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:24:14 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(10)
(頭注版 p.215〜217)
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宗教家のうちには、「病気などを自分で治すことは考えていない。そんな現世利益(げんぜりやく)はどうだってよい、自分は霊魂(たましい)の救済を考えているのだ」という方があるかもしれませんが、それはやせ我慢か、でなければ無知かであります。
「真理の世界」に病気は無いのでありますから、真理を知る以上は病気の夢がことごとく破壊されて、無病なる本来の完全な生命状態が顕れることが当然なのであります。それができなければ真理を知ったということはできません。
ところが『生長の家』誌を繰り返し本当にわかるまで読んでいる方には、ぞくぞく病気が治ったり、大食癖が治ったり、喫煙癖が治ったりして「生命」本来の完全さを肉体の上に実現せられつつあるのであります。これはなぜかと申しますと、『生長の家』誌には「生命の実相(ほんとのすがた)」(真理、神、道)がいかにも解りやすく書いてありますから、むつかしい仏典、聖書を読むよりも、真理を知りやすく、真理を知るにしたがって、自己の生命の完全な実相がアリアリと肉体の上にも映し出されるからであります。
島薗内科における西田天香氏の実験
それはさておき、われわれが栄養物の調和をうる二つの方法のうち、外からわれわれの食膳に上るものは、摂理と本能とによってかくのごとくして調節されるということについては説明を終わりましたから、今度は内からわれわれの生命力がいかに自分の栄養を調節してくれるかということを述べておきたいとぞんじます。
数年前に京都帝国大学医学部内科の島薗(しまぞの)博士が、脚気の病原を研究するため一燈園の西田天香氏はじめ数名の一燈園同人を、モルモット代わりにして数十日間厳重にビタミンBをぜんぜん含まない食物をとらせて実験せられましたところ、その実験台になった西田氏はじめ数氏とも決して脚気にかからなかったという事実があるのであります。
この場合はことさらに実験でありますから自然に循環して来る外からの摂理を遮断して、食膳にのぼる食品の種類をわざと不健全なものに限り、本能的嗜好を利用して栄養の不足分が自然的に補われるということもでき難くしてあったのであります。このように外からは摂理も本能も利用することができないけれどもさすがは西田天香氏であり、一燈園の同人であります。心の平和が常人と違う。心に一点の恐怖もない。
わたしは雑誌『生長の家』第二集第二号に「心の平和の生かす力」という題で、心の平和がいかに絶大な治病力を発揮するものであるかを書きましたが、その真理がこの場合にも実証されたのであります。わざと病気になるように献立された食物、ぜんぜんある種の栄養素を除き去った物ばかりを数十日間食べさせられても病気一つ起こさない――この否定し難き事実は何を語るでありましょうか。それは心さえ平和であるならば、決していかなる食物もわれわれの健康を害することができないという一大証拠があげられたことになるのではありますまいか。
1408
:
復興G
:2012/10/06(土) 22:25:29 ID:vWpLkCzM
<第7回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(11)
(頭注版 p.217〜219)
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食物の小言は禁物
よく滋養物だの栄養料理だのといって、「知恵の樹の果」の一種なる栄養学にとらわれている方がありますが、そういう方に限って、その日その日の食膳にのぼる食物をなんらの権威のない栄養学の立場から批評して、コレは悪いとか、アレは悪いとかしじゅう小言ばかり云う傾向があるのであります。小言は心の平和が乱れた証拠であります。
よほど修養のできた人でも、栄養学にとらわれている限りは小言を口でいわないだけで、心の中には「こんな物は滋養にならぬ」とか、「こんな物は胃腸に悪い」とか不平や恐怖をとなえながら食べているものであります。すると食物そのものは決してわれわれの健康を害することがないにもかかわらず、心が平和を欠くために、心でその食物が身体に悪いだろうと予想し恐怖するために、その心の乱れを整理作用に映し出して、その人の健康はしだいに調子を乱してくるのでありまして、食物そのものにわれわれの生命を害する積極的力はないのであります。
このようにわれわれの肉体の栄養分の調節は、外からは摂理と本能がやってくれ、内からは自然の生命力が調子をとってくれるのでありますから、われわれは何も自分で何を食らい何を飲まんと思い煩う必要はないのであります。
もし外からの調節ができなくなり、外界からある栄養素をぜんぜん引き抜かれましても、心さえ平和であればわれわれは一燈園の西田天香氏のように病気にならずにいられるのであります。
だいいち、神の子たるわれわれ人間、創造(つく)られた物のうちでも神のもっとも完全な万徳を賦(あた)えられてすべての多のものを支配する権力を与えられたわれわれ人間が、消化不良といって、食べた物質にアベコベに支配されるというわけはないはずであります。
だからもし諸君が消化不良であるならば、もし糖尿病であるならば、もし腎臓病であるならば、そのほかおよそ食物に原因するという病気にもしかかっているならば、今後決して、食膳にのぼる食物の成分を考えたり、固さを考えたり、これを食べてはよいか悪いかなどと考えたりしないで、自然の摂理によって食膳に運ばれて来るものを、神から与ええられたる自分にとっての最善の食物として感謝して素直に食べるがよいのであります。
これが唯一のこの種の病気の心的治療法であります。
生命や活力やその他なんらかの積極的力が物質そのものにあるという信念――こんな迷いの信念を捨てて、「われこの食物を神より与えられたれば、最善の食物なり」との信念で、いかなる食物をも平和な、素直な恐怖のない心でとるとき、この正しい信念が自分で自分を養うて、その人はいかなる食物からでも人一倍豊富な栄養を吸収することができるのであります。
<完>
1409
:
a hope
:2012/10/07(日) 07:21:58 ID:r8H4x9xE
新版 人生読本 谷口雅春先生著
第三章 恐怖の心を捨てましょう
♦恐れないためには
それではどうしたら人間は恐れなくなるかと云いますと、人間は神の子であり、神様がまもっていて下さるのであり、
人間の内部には丁度私の童話の『ファウスト物語』の中にある「黄金(きん)の筥(はこ)」のように、
それをさすって念ずれば、何でも思うものが出て来、何でも思うことが出来る「生命(いのち)の力」が宿っているからなのです。
吾々の内に宿っている「生命の力」は神様が何でもほしいものを引き出すために与えて下さった魔法の「黄金の筥」なのです。
自分の生命の中には目に見えない秘密の「黄金の筥」があって心で念ずれば何でも出て来ると、先ず信じなさい。
(つづく)
1410
:
a hope
:2012/10/08(月) 08:04:50 ID:r8H4x9xE
>>1409
訂正 一行目
新版 人生読本 → 新版 生活読本
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第三章 恐怖の心を捨てましょう
♦問題をやさしく解くには
その次には、吾々が恐れているものは、恐れているから、恐ろしい姿でやってくるけれども、
恐れずにいれば、その恐ろしいものは決して出て来ないものだと云うことを知らねばなりません。
犬などでも恐れて逃げると追いかけて来て後から吠えつきます。
だまって静かに平気で側(そば)をあるくと、知らぬ顔をしています。
美味しいお魚の骨でもやって「コイコイ」と云うと、やさしい友達になってなついて来るのです。
何でもこの犬のとおりで、自分がこわがるからこわい形に出てくるのです。
犬と仲よしになるように、すべてのものと仲よしになることです。
学校の学科でも問題を恐れていると、いよいよ恐ろしい、むつかしい問題に見えるのでよう。
これは、やさしい問題だ、問題と仲よしになろうと思って、楽しみながら問題にぶつかると、ふしぎに楽にその問題が解けるのです。
病気にかかったときでも、こんな病気位すぐ治るのだと恐れずにいますと、本当にすぐ治るのです。
「これは大変だ。死ぬかも知れぬ」などと思うと、その恐れる心で身体に毒が出来て中々治らぬことになるのです。
ランニングをしていても競争相手おそれると負けてしまいます。
「私は神の子なんだもの、神様と一しょに走るんだ、神さまが走らせて下さるんだ」と思って一所けんめい走りますと、
不思議によく走れて、一等になれるのです。何をしてもこのコツです。
負けることを恐れる者は負けますし、必ず勝つと信じている者は必ず勝つのです。
(第三章 終り 次回から 第四章 明るい心を持ちましょう へ)
※「第七回 web誌友会」が終了するまで、聖典「新版 生活読本」の謹写をお休みさせていただきます。
1411
:
うのはな
:2012/10/09(火) 19:24:17 ID:bZiCwTy.
『運命の原理』 谷口雅春 先生著 (投稿者 現代字に変更)
法と我とを分離するもの
法悦と云うものは天地萬物同根だと云う哲学などで殊更にそう感ずるのではなしに、
本当に吾吾の生命は悦びであると云う實感が湧いてくるのでなければなりません。
若しそれが湧いて来なかったら、何か霞のようなものを隔てて『法』を見ているのであって、
アリアリと『法』に直接接しているのではない。
一枚の紙があって『法』と『自分』との間に挟まれているようなものであるから、『法』そのもの
は悦びであっても法の本当の悦びと云うものが分らないのであります。ですからこの一枚の紙を剥ぎ取って
了う必要があります。その一枚の紙とは、我見と云いますか理屈と云いますか、兎も角も宇宙全体と一つにならない
ものがあって『法』とぴったりしないことを云うのです。
『法』とぴったりしなければ『法』そのものが悦びであっても、その間に挟んである紙を透してぼんやりと見たり、
或は三角ガラスを透光するような屈折作用を起して見るものですから、それが歪んで見えることになるのであります。
ですから、どんなに偉い哲学者であろうとも、またどんなに偉い宗教家であろうとも、生活に法悦のない人はまだ本物で
ないのであります。この儘この世界が寂光土と申された方もありますが、寂光と云う言葉ではその悦び満つる世界、法悦の
世界である。
ですから、『法』そのもの、實體そのものと一つになっていると、生きていることが悦びそのものであると實感的に感じられて来る
筈なのであります。『法』が悦びでありまして、『法』以外のものは何もないのであります。
ここに云う『法』とは所謂實在でありまして、實在そのもの、實在そのものの他に何もないのであります。
そして、實在そのものが悦びなんですから、實在以外の相がどんなに見えようとも、そんなものは無いのです。
それは要するに活動写真を見ているようなものなのであります。
そこで『法』と云うものと一體になっていると何時でも喜べる、何時でも喜べない人はまだ本物ではないのであります。
釈迦も王宮を飛出した時分はまだ本物ではなかった。三十五歳の十二月の八日暁の明星の光を見て、『みんな救われている、
有情非情悉く皆佛のいのちで悦びそのものである』と悟った。
この時に本物になったのであります。吾々もその境地に達したならば、不平も不満足も癇癪も何も起らなくなる、そして常に
有難く法悦に満たされて生きておられるのであります。
P160〜 昭和二十一年七月一日 初版発行
1412
:
SAKURA
:2012/10/09(火) 20:06:52 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238
>>1304
>>1307
>>1319
>>1320
>>1324
>>1331
>>1332
>>1334
>>1339
>>1347
>>1358
>>1373
>>1376
>>1378
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
・・◆【ベスト・フレンド】 ( 幸福への第一歩 )
――――― ►► 幸福への第一歩 ◄◄ ―――――
|❤しかし、わたしには愛のない人生なんて、とても望めません。
誰だってそうですよ。愛があるからこそあなたの行動は豊かに、完全なも
のになっているのです。しかし、愛はかならずしもつねに存在するとは限り
ません。そして、あなたの愛を受けとめ、あなたに愛を返してくれるような
人がまわりにいないとき、あなたがどんな気持ちになるか――それは現実に
愛する人を得たときに、愛の体験がいかにすばらしいものであるかというこ
ととかかわってくるのです。
わたしは大叔母のことを思い出すのです。いま彼女は八〇歳もなかば過ぎ
ており、カリフォルニアの砂漠のはずれに住んでおります。かってわたしは
彼女に「最近はどうですか」と聞いたことがあります。大叔母はこう答えた
ものです。「昼間は十分な時間がなくてね」と、最近、彼女を訪問したとき、
その言葉の意味がようやくわかったのです。
わたしたち夫婦が彼女の家にいたとき、彼女は読書グル−プの会員をもて
なしていました。毎週、読む本があり、ケ−キを焼いていました。彼女はま
た創作もかいており、そうした文化活動の合間に草花を育てたり、人を訪問
したり、友人や親戚、あるいはラジオのショ−に登場する人などと幅広く交
際しています。
(つづく)
1413
:
SAKURA
:2012/10/09(火) 20:08:44 ID:jH5uEFzM
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1412
投稿の続きです…【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。
それでいて、少しも忙しい様子は見受けられません。つまり、
自分のすることをこころから楽しんでいるのです。二、三年前、一人で外国
旅行に出かけました。そして大変楽しんできました。帰りにしばらくわたし
たちのところに滞在していました。それがまた、彼女には楽しみでもあった
のです。わたしたちと一緒に過ごすことをとても喜んでいました。ところが、
わたしたちがちょっと出かけて留守にしているときでも、まったく幸せその
ものだったのです。わたしたちが帰ってきて、相手をしてくれるのを待って
いるといった気配一度も感じさせたことがありませんでした。
「わたしを慰めて欲しい」なんていう表情は一度もしたことはなかったので
す。大叔母はみずから満足させる方法をすでに身につけていたのです。
【幸福への第一歩】は終わりました。次回は【自分のメッセージを聞く】に入ります
PS:トキ様 へ
「亡き母」が、健在でいました頃は、家に帰りますと、直ぐ!口癖のように〜〜><
「仕事…をするように!」と、そればかりでしたかしら〜〜〜ン!80歳の頃は、まだ
顔見知りの近所のおばさんが、健在で多少は、母なりのコミュニケ−ションが〜〜〜?
でした。…が?その後のことですが?叔母さんの息子さんが、栃木に当時居住していま
したので、その息子さんが、ある事情から?当然引き取る様になりまして、その後?
人間関係が一つのきっかけにて【ボケ症状…】が、その叔母さんに出てきましてからは、
娘さんが小倉に住んでいますので、今度は、娘さんが、引き取ると治るだろう
という感じで、その後!ピタッと〜〜〜><簡単に他界されたのです…。
この様に…私自身の亡き母も、ある一定年齢からは“本を読む事!!”もなくなり…?
この頃「亡き母の書物」を、開きますと?母が読んだのでしょう〜〜〜その本のペ−ジ
のある部分に、赤鉛筆でボ−ダ−ラインが〜〜〜><フト!痛々しい感じでしょうか?
字が読みにくかったのでしょうか?いろいろ「亡き母」の健康状態を顧みまして、
いずれにしましても、私もいつかは?“加齢…”です〜〜〜ョネ!今、現在の“信仰”
を携わりながら【心 の 哲 学 の 完 成】更に【心 を 磨 く】には、やはり
“本を読む事”なのでしょうか〜〜〜???
■現在!社会問題としての【認 知 症】この事は、一人一人がもう一度、考える
必要性があるのでは〜〜〜と思います。…が?
作者の【大叔母さん…】は、すごいです〜〜〜ョネ!今!私の身近には、正直申します
と?そのような方は、現在はおらず…という感じが致します。…が?少し前は、
「栄える会…」にて、亡くなられます直前までは「本を読む事」を、なされました方
が、いらっしゃいましたのです〜〜〜ョネ!確か?84歳でしたか…!(永眠)
一人暮らしでいらっしゃいましたが……!本当に、精神面が強い方と……!!更に、
凄い方なのです〜〜〜ョネ!80歳から“誌友会”を発足されましたのです〜〜ョネ!
最後に、息子さんの一人が??“本部講師?職員?”でしたでしょうか??
余談ですが…亡くなる前に一度!意識を取り戻されまして…おっしゃいました“言葉”
❤〜【いつまでも…親がいると思うな〜〜♫〜〜】との“言葉”を……
さて「トキ様」も、このような“人格者の方”が、身近におられますか〜〜〜?
ご高齢で、この様な「人の押しつけもしない感じの方」は???本当に……?
再合掌
1414
:
うのはな
:2012/10/11(木) 13:10:36 ID:CVNuh5cE
悪とは創造途中の善 『百時如意』 谷口雅春 先生著
フォード 体験上教えられる点から云えば、消極思想は積極思想よりも教えられる点が多いですね。
と云うのは人間と云うものは間違いによって教えられ、困難によって反省せしめられるからです。
吾々が悪と称するものは、要するに私には、暗黒の中で頭を打ち衝けているようなものなのです。
時には、ひどい頭の打ちようで、これは堪らないと思うこともありましょうが、人間はもっと別の方法で体験
を得る準備が出来ていなければ斯うして頭をぶつ衝けながら体験を積むほかはないのですよ。
無論、心の持方の準備さえ出来ていれば、頭を打たないで経験を得る方法もあります。
トライン それで思い出しました。エマースンが、悪とは今だ『創造されつつある善』であると云いましたっけね。
フォード 其処です。『間違い』は経験の源であり、智慧の泉である経験の精髄なんです。
トライン 恐らく人間が此の地球に生を享けたのは、殆ど全く経験のためなんです。
フォード 私はそれを確信しています。吾々は此の地球上の生活から得られる筈の全ての
経験を得終るまでは地上に生を享けるのです。
トライン もう一つ吾々が地上に生を享けている目的があると思います。それはある友人が
私に話してくれました。貴方もその説は御存知で余程其の方面には興味をお有ちのことだと
思いますが、ほら地上は、若き霊魂たちが霊魂の休養のために新しい空気を吸いに来る処だと云う
ことです。これは、彼ら霊魂の特定の時期に極めて重要なことだそうですねえ。
フォード 若き霊魂たちはその仕事から大いに魂の休養を得るんですよ。
トライン 若き霊魂たちが或る種の『魂の休養』と云うか、『気晴し』と云うかを得なければ
ならんのは当然ですが、その『気晴し』が正しいものであれば結構ですが、悪い種類のものであれば
その結果苦しみを受ける..........
フォード 人間は自己の一切の行為から経験を積むのです。
トライン 人間に必要なことよりも間違いを多くやりすぎて犠牲を拂っていやしないでしょうか、
そして、その度毎に多大の損失をやっている?
フォード 或は損失をやっているかも知れないが、私の知っている殆ど全ての人は、その人特有の
そうしたやり方で経験を積み教えられなければならなかった人のようです。
ジャズを例に引いて見れば、ジャズには随分非難もあるが、私はジャズのことは深く知らないが、ジャズ
が与える経験を必要とする人だけがジャズの方へ引付けられて行くのではないでしょうか。
トライン ダンスに就ては一般からその価値が再吟味せられようとしている。
古典的なものを貴方のお好みになっていることは今更云う迄もないですが、そして本当の味と云うものは
古典的なものの方にあることは勿論ですが、この方面で貴方は何か霊魂の進歩が得られると云うような希望が
ありますか、何かそれの利益と云う風なものが?どうお考えですか?
(投稿者 現代字に変更書き)P99−101
1415
:
ハマナス
:2012/10/11(木) 23:53:22 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
ご無沙汰しております。帰って参りました。
今日から『新版生活の智慧365章』の第四部健康の泉に入ります。
「第十篇 肉体の苦痛はどこからくるか」
苦痛は心にある
若しあなたの肉体に苦痛が起ってて来た場合、その苦痛を実在だと思ってはなりません苦痛と云うものは。苦痛と云うものは心の状態なのです。肉体は単なる物質として存在する限り苦痛は感じられない筈です。所謂る「物質」には知覚がないからです。心が苦痛を感じ、心が苦痛を「実在」として感ずる限りに於て苦痛は益々増大するのです。
あなたの腋の下を人にさわらせて御覧なさい。心がそれを気にもとめねば何ともないのです。心がそれを擽(くすぐ)ったいと気にし始めるならば、いくらでも擽ったくてたまらなくなるでしょう。物質的事実はそれを心につかまなければ何ともないのです。心にそれをつかみ始めるとき苦痛や擽ったさがでて来るのです。「病気だ」と思うとき、心がその病気をつかみます。其処から苦痛がはじまるのです。
感謝合掌
1416
:
さくら
:2012/10/12(金) 23:37:37 ID:e8ieIrPA
ハマナスさま
お帰りなさい〜お待ちしてました。
…ますます清らかになられましたね、笑。
いつも聖典謹写真の行に励まれ、ありがとうございます。
短くて読みやすいので助かります。
涼しい季節になりましたので、ご自愛ください…。
感謝合掌。
1417
:
ハマナス
:2012/10/14(日) 01:53:39 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
さくら様
ありがとうございます。
ただいま! 念願のYale大学とHarvard大学に行ってきました。
まだ、時差ボケしていまして、昨日も投稿できませんでした。すみません・・・
「間違ったレントゲン写真」 (『新版 生活の智慧365章』P.262)
集団検診で自分の胸部のレントゲン写真をとって貰って、其処に大きな黒い影や空洞が
写っていることを指摘せられます。そして明らかに肉眼で見て、自分は結核に侵されて
いるのだと信じます。すると、今まで元気であった活力が肉体から抜け去り、無限の疲労
感が全身に覆いかぶさって来てほとんど動けなくなります。ところがそのレントゲン写真は、
番号の隣の人のレントゲン写真であって、写真の順序がくるっていたので間違ったのだと
わかった時には、一ぺんに其の人の疲労感や、胸の重圧感はなくなって、活力が全身にみな
ぎって元気になって来ます。
胸を結核菌にやられていると云う考えを捨てなさい。胸を結核菌におかされていると思って
常に胸に心を集中していると、其処に血液は停滞し充血を来して新陳代謝が不完全となり、
若し病菌がいるならば却って病菌が繁殖し易くなるのである。心が病気を作り、心が病気を
治すのです。
感謝合掌
1418
:
さくら
:2012/10/14(日) 06:31:22 ID:d3HE6i2s
みなさま。おはようございます。
ハマナスさま
海外だったのですか!ステキですね〜。
大学巡りとはアカデミックな旅ですね、笑、
時差ぼけには、昼間太陽の光をたくさん浴びることがよいですね、
…ここへ来ましたので、島に書いたご文章ですが、
最近繰り返し読ませて頂いている箇所を、短く謹写させて頂きます。
「高く廣く大いなる神の御言葉ー汝等天地一切のものと和解せよ、との七つの燈台の點燈者の神示。
此處に神がましまし、萬教の真髄がこもる。
天地一切和解とは絶対感謝である。
有無を云はずに無条件感謝である。其の儘感謝である。
これが甦りの生命である。
神の子となるとは絶對感謝の誕生である。
有難いと云ふ心の無い處には神は居ない。
絶対感謝の無い悟りは悟りの幽霊であるにすぎない。
天地一切和解とは絶對が誕生することであり、絶對にまみえることである。」
『常楽への道』吉田 國太郎先生著
拝
1419
:
ハマナス
:2012/10/14(日) 12:52:14 ID:mR2szZkc
みなさま
おはようございます。
さくら様
アドバイスと素晴らしいご文章をありがとうございます。
「絶対感謝」の言葉、心に響きました。
感謝合掌
1420
:
ハマナス
:2012/10/14(日) 23:13:38 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
無いものはナイ (『新版 生活の智慧365章』P.263)
心を一転しなさい。現象はどうあろうとも、現象は結局うつり変る姿ですから
気にとめないで、あなたの実相の完全さに心を転じなさい。実相のみ実在であって、
現象は実在でないから現象がどうあろうとも心にかけることは要りません。あなたの
実相は神の子であって、今現に健康なのです。健康のみが実在なのです。
病気なんてものは、神が作らないから、どんなにアルかの如く見えてもナイのです。
無いものは無いのです。それは夢の中で、病気にかかっている夢を見ているようなもので、
その病気には実体がないのです。実体のない病気を実体があるなどと考えるのは妄想です。
『般若心経』にはナイものをアルと思う「サカサマの想い」を「顛倒夢想」と書いてあり
ます。そんな「サカサマの想い」を捨てなさい。夢の中で物を見る心は、その心もニセモノ
です。ニセモノの心を「妄心」と言います。「妄心」を捨てなさい。
感謝合掌
1421
:
a hope
:2012/10/15(月) 08:27:27 ID:8tjYhMb6
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第四章 明るい心を持ちましょう
♦健康を考えて健康を得よ
悪いことや詰まらぬことなど、考えないように致しましょう。
これを食べたらお腹をこわすとか、寒い風にあたったら風を引くとか、つまらぬことを思わないようにしましょう。
思うとおりにあらわれるのが、心の法則なのです。
「わたしは神の子だから常に健康で楽しくて、愉快だ」と考えるように致しましょう。
そう考えると、いつも愉快で達者でいられるのです。
乞食はゴモクの半分腐ったような食べ物をひろって食べても一向に病気にならないのです。
浮浪児は、貰ったオニギリをゴミだらけのきたない手で、鷲づかみにして食べていても一向おなかをこわしません。
布団もなしに、夜露のおりる上野公園でねていながら元気で病気にかかりません。
それは病気なんて思わないからなのです。
ところが、よい家に育った坊ちゃんや、嬢ちゃんは、病気にならせてはいかぬ、
風邪を引かせたらいかぬ、お腹をこわしたら大変だと、始終小さいことに気をつかって、
注意に注意をかさねていても始終病気になっているのが多いのです。
それは何故ですか。
それは「病気」のことを始終思っているからなのです。
「病気になったら大変だ」と始終思っているからなのです。
こう云う人はアメリカではトラブル・シーカー(trouble seeker)と云って軽蔑(みさげる)されています。
病気のない間から、病気が何処かにないかしらと、さがしまわっているようなものなのです。
それだから、病気をさがし当て、小さい病気でも、心で恐れて大きな病気にしてしまうのです。
キリストは「求めよ、さらば与えられん」と申しましたが、こう云う人は、病気を求めて病気を与えられるのです。
それよりも諸君は健康を求めて健康を得たらよいでしょう。
(つづく)
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