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創作メモ

1管理人:2012/03/08(木) 21:43:03
管理人の備忘用。

55管理人:2012/03/20(火) 15:27:42
<允恭の浮気話(書記)>
・ワクゴノスクネ:允恭である。
・オトヒメ:忍坂姫の妹。超絶美人。あまりにも美しいので、その美しさが衣を透けて
 見えるほどだという。だから衣通姫とも呼ばれている。允恭が一目惚れ。
・中臣イカツ:允恭の舎人(雑用係)。渋るオトヒメを允恭の元へ連れて行こうと頑張る。
・皇后:忍坂姫。激しく嫉妬。
・大伴ムロヤ:允恭にオトヒメとのノロケ話を聞かされることになる。

オトヒメ登場・允恭一目惚れ→オトヒメを呼び寄せるためイカツ派遣→姉の心中を察して渋るオトヒメ
→飯も食わず(かれいひのみ)粘る一週間イカツ→折れるオトヒメ・厚遇されるイカツ・闇のオーラを放つ皇后
→オトヒメを藤原に住ませる→皇后がオホハツセ出産中に允恭が藤原訪問→怒って産屋に火をつけ、死のうとする皇后
→慌てて皇后のご機嫌取りに走る允恭→事なきを得たものの、その後もしょっちゅう藤原へ行く允恭
→気が引けて遠くへ引越したいオトヒメ→オトヒメが泉州引越→しょっちゅう泉州へ行く允恭→ムロヤにときめきを熱弁する允恭

以上なのだが、やっぱりどうってことはない話である。
ちなみにこの皇后には、「ガキの頃に馬鹿にされた男に対し、皇后になった後、怒ってその男を格下げする」という
エピソードもある。随分と気性の激しい女性であるように書かれている。そういや允恭は病弱で即位を渋っていたのに、
「お前が王様になれよ(>>53)」などと言っている話もあった。なんとなく、ある意味で典型的なキャラではある。

56管理人:2012/03/20(火) 16:49:50
病弱だとか言ってたのに、医者に診てもらった後は随分と盛んですこと。
それはともかく、このどうってことはない話の何が「なんかヘン」なのかというと、
①皇后の出産と神話のコノハナノサクヤ姫が被る。垂仁妃のサホヒメとも被る。
②中臣は下っ端。
③皇后と磐之媛も被る。允恭と仁徳も被る。オトヒメと磐之媛も状況的に被る。

ってな点だろうか。だいたい記紀には同じネタの使い回しが多い。
まず①なんだが、これは神話によくあるパターンらしく、この時生まれた王は大抵すげえ感じになるのだ。
サクヤ姫は天孫ニニギの嫁。一夜だけで身ごもったサクヤをニニギが訝しんだところ、
怒ったサクヤは火をつけて出産するのである。その時に生まれたホオリは別名山幸彦であり、神武の祖父である。
サホヒメは垂仁の嫁である。サホヒメの兄であるサホヒコは垂仁に反逆し、サホヒメは兄につく。
サホヒコが討ち取られる際、運命を共にしたサホヒメが火の中で垂仁の子供を産むのである。
その子はホムツワケというらしいが、その後の神話っぽいエピソードに絡んでくるのみで、詳細はよく分からない。

まあ、そんな感じなわけだが、サクヤ姫・サホヒメ・忍坂姫の話を3つ並べて、その相関を調査すると、
いろいろ見えてくるのではないか、と思う。結局管理人は何も分からんかったが。
オホハツセ=雄略に凄さを与えるエピソードだろうか? 気合い入れて検証した割に、何も分からんかったのが悲しい。

57管理人:2012/03/20(火) 17:23:02
>>56の②について。これは結構重要だと思うのだ。
中臣は允恭代以前、下っ端だったわけだ。もしくはこの時期の新参か? 中臣の出自がよく分からんのだが、
おそらくこの頃から台頭しはじめたと思われる。が、しかし、問題がある。>>19である。
仲哀の重臣が中臣、大三輪、大伴、物部なのだ。しかも中臣の名前が同じイカツである。
仲哀代に重臣だった中臣が允恭代に落ちぶれているのもおかしいんじゃないか?
これは推測ではあるが、記紀の製作に不比等一族が絡んでいるわけであり、さも古くからの重臣であったように
見せかけるため、仲哀代に勝手なことを書いたと思うんだが、どうだろうか。
だとしたら名前くらい変えとけよ、ってなことになるが、うっかりミスってことでええやん。

中臣氏ってのは忌部氏とともに神事・祭祀を司ってた氏族、などとwikiに書かれており、アメノコヤネを祖とする、
などと書かれている。中臣氏に押し出された忌部氏が腹癒せに『竹取物語』を作った、などとよく言われている。
この允恭浮気のエピソードに藤原という地名が出てくるのも、中臣イカツと関係があるのだろうか?
管理人が頻りにこの記事について「なんかヘン」と言っているのは、いわくありそうでなさそうで、実態が掴みづらい点である。
何かを隠蔽しているような、逆に示唆しているような、実は何も意味していないような、そういう造りになっている点が不気味なのだ。

アメノコヤネ。藤原氏のルーツってことで、春日大社や枚岡神社に祀られている。ニニギと一緒にやってきた神らしい。
ところで春日大社は藤原の氏神である鹿島・香取・枚岡をまとめ併せて祀ったような由来があるのだが、
もともとは春日氏の基盤であったらしい。東からやって来た中臣がワニ系の春日と結託したんだろうか?

58管理人:2012/03/20(火) 17:53:38
なんでこんなに細かいことにこだわっているのかというと、履中代・反正代は身内の反乱こそあるものの、
何となく王家を中心とした一体感があるように感じるのだが、今後、雄略朝に向けて破綻していくぽいからである。
当然、有力氏族が争ったわけで、雄略の武断専制はそれへの巻き込まれ型、またはアンチテーゼとしての親政にも見えるのだ。

今まで見てきたところでは、履中代・反正代までは古参(大伴、物部など)、神功代からの参画①(武内を祖とする葛城、平群、蘇我など)、
神功代からの参画②(タケフルクマ系のワニ)、新参の渡来(アチノオミを祖とする東漢はここに入るか)、あたりが割と付かず離れずで
活動しているようなのだが、一気に雲行きが怪しくなってきたような気がする。
この後、木梨軽・オホクサカ・安康・マヨワ・クロヒコ・シロヒコ・市辺のオシハなどと主要人物がガンガン死んでいき、
国内も大いに乱れたと推測される。しかも雄略代以降、継体代を挟んで欽明代頃まで、いまひとつどうなっているのかよく分からない。
葛城→平群→大伴→物部→蘇我の順で今後二百年くらいかけて没落していくので、その先生きのこる中臣の祖が気になった、という次第である。

>>56の③である。仁徳代・磐之媛の嫉妬のエピソードにも同じような話があるのである。
ただし、嫉妬する側とされる側が仁徳と允恭では逆になっている。
磐之媛のキャラに忍坂姫のキャラが投影されていると思うのだが、どうだろうか? 前にも書いたが、国史記録を始めたのが履中以後であり、
仁徳の嫁を描く際、直近の出来事を参考にしてキャラ付けをした、なんていかにもありそうではないか。
また、その使い回しシステムは近過去である応神代・仁徳代をますますややこしくしていくことにも繋がっただろう。
そのせいで管理には困っているのだ。

59管理人:2012/03/20(火) 21:00:39
さて、木梨軽はスキャンダルのため人気がなく、やがて流罪or死亡となる。そこで弟のアナホ(安康)が即位。
この先はもう、ひどいものである。AがBに殺され、BがCに殺され、Cが……、の繰り返しである。
それまでは、ヤマモリやスミノエノナカツのようなお家騒動くらいはあったようだが、
臣下のメンツを見る限り、大した動きはなかったようだ。ところが今後はそうはいかない。滅茶苦茶である。

・オホクサカ:履中・反正・允恭の弟である。ネノオミの讒言により、アナホに討たれる。オホクサカの嫁もアナホの皇后になる。
・アナホ(安康):嫁(上記・オホクサカの元嫁)との会話を連れ子のマヨワ(オホクサカの子)に聞かれ、寝ている間に首を切られる。
・マヨワ:当時7歳。大王暗殺後、葛城ツブラの家に逃げる。アナホの弟であるオホハツセ軍に囲まれ、抵抗するも諦めて自害。葛城氏滅亡?
・クロヒコ&シロヒコ:マヨワ討伐前のオホハツセに、ついでに殺される。雄略キャラ付けのための創作だと思われる(名前が適当すぎ)。
・市辺のオシハ:履中の息子。狩の最中にオホハツセに暗殺される。オシハの息子二人が播磨へ逃亡。

全部が全部信用できるとも思わないが、ひどいもんだ。ただ、継体に正統性を与えるため、雄略系をひどく書いている部分もあるのかも。
ちなみに安康没年は古事記に書いていない(?)ようだ。まあ、いずれにせよ、治世は数年で終わったと思われる。

60管理人:2012/03/20(火) 21:50:36
いよいよオホハツセ=雄略である。この人は割と有名である。本名:オホハツセ=ワカタケル。
初瀬朝倉宮で即位。即位前に政敵を潰しまくっている。良くも悪くも強烈な個性の持ち主であっただろう。
記紀には「人々から大悪天皇と呼ばれた」などと書かれている。異常なほど逞しかった、とも書かれている。

政権がゴタゴタしてきたときに個性的な王が立つと、親政をやりたがるものである。
そしてその結果はあまり芳しくないのが常である。称徳もそうだし、後鳥羽もそうだし、後醍醐もそうである。
雄略の場合、生前は何とか保っていたようだが、死後に出てくる、顕宗・仁賢にしろ、継体にしろ、
取って付けたような印象を受ける。おそらく一つの時代が終わったのであろう。

父は允恭、母は忍坂姫である。嫁はクサカノハタヒヒメ(オホクサカの妹)である。
他に側室が三人おり、一人目がカラヒメ。葛城ツブラの娘で、子にシラカ(後の清寧)がいる。
二人目は吉備系のワカヒメ。子にイハキとホシカワ。三人目は春日・ワニ系で、カスガ皇女。
重臣は、平群マトリを大臣に、大伴ムロヤと物部メを大連にした、とある。

重臣から葛城が消えたわけだが、その娘を娶っているのはなかなか凄い。即位前に潰した家である。
責任を感じたんだろうか? もっとも、オホハツセが討ちに出たのはマヨワであり、葛城自体を攻めたわけではない。
吉備とか、懐かしい響きすらする。ワニは相変わらず。物部目っていう名前も凄い。

雄略代は出来事が沢山あるので、のんびり見ていきたいところである。

61管理人:2012/03/22(木) 00:48:47
〜前回までのあらすじ〜
>>51-60履中から安康まで

今回から雄略を取り上げようと思ってたけど、ちょっと脱線しますわ。
>>40-41のまとめでは崇神代から書いてるわけだけど、今回は趣向を変えて、それ以前について考えてみようと思う。
ちなみにこの先で書くことは、今まで以上にひどい、管理人の勝手な妄想である。
日本史の授業は大抵、縄文・弥生から始まるわけだ。旧石器時代とかもあるけど、それはまあいい。
・縄文人:列島が陸続きであった頃に入ってきた先着の民。古モンゴロイド。
・弥生人:海を渡って来た民。新モンゴロイド。
だいたいこれが通説であると思われるし、管理人も概ね同意である。
さて、昔の渡海は危険だと思われるが、そうまでして海を渡る理由とは何か。考えられるのは以下の3点。
①もともと住んでいた所が寒くなってきたから南下。
②もともと住んでいた所が水浸しになってきたから北上。
③もともと住んでいた所で戦乱が起きたり征服されたりしたから亡命。

だいたいこんなもんでしょう。
①は北方から。昔の寒さは厳しいだろうし、農作物も今より弱かったはず。切実な問題である。
②は南方から。こうなってしまったら海を渡るしかない。ただ、絶対数は①に比してかなり少ないと思うが、どうか。
おそらく弥生初期はこんな感じだったろう。これらの波が断続的に来たわけだ。
先住の縄文人は、おそらく疫病であらかたやられてしまったと思うが、
生き残りは追われて逃げるなり、緩やかに弥生系と融合するなりしていったのかと思われる。

62管理人:2012/03/22(木) 01:13:38
>>61の③については、当然このタイプも初期からちょいちょいいたんだろうけど、
より大陸の人口も増え、支配体制も複雑化した後代に、大量にやって来たと思われる。
この連中は数も装備も従来の縄文系や先着弥生系を上回っていたはずだから、クニ的なものを形成し始めたのは
このあたりからだろう。(いつ頃からなのかは分からんが。)こいつらも断続的にやってきたと思われ、それは7Cくらいまで続くと思われる。
(ちなみに管理人は生物学的成果については全くの無知なので、適当なこと言ってる可能性が高いよ。)

さて、>>40以前の時代についての史料となると、大陸の史書と記紀神話があるくらいだ。まず大陸の史料。
有名なのは漢書地理誌。「楽浪海中に倭人あり」ってやつだ。百余りの国に分かれていたと。BC1C頃だろうか?
実はそれ以前にも記事はあるのだが、やや信憑性に欠ける上、書いてあることも
海の向こうに倭人がいるってことが書かれてあるくらいで大差はない。

本格的に動き出すのはAD1Cからである。後漢書東夷伝。57年。漢委奴國王の金印のアレである。
その後、2Cに倭国王師升が出てくる(107年)。この107年の件については他の歴史書にも出てくる。
そして次に来るのが、魏志になるわけである。

63管理人:2012/03/22(木) 01:35:29
記紀におけるいわゆる天孫は、単純に後着の強烈な渡来だと思うのだが、あくまでも推測でしかないが、
なんとなく紀元前後あたりなんじゃなかろうかと思うのである。金印の記事あたりから、より広範な支配を狙う層が
出てきたような気がする。東洋史に詳しい人なら、強烈な渡来が列島に亡命するくらいのでかい戦乱を
当時の歴史から見つけることができるのではなかろうか。もちろんそれは単一のセクトではなく、
時期的にも前後しながら複数やってきて、ナ国だのイト国だの出雲だの吉備だのを作って行ったのではなかろうか。

さて、神話にはいろんな人間(神も含む)が出てくるが、天つ神(天孫)のほか、国つ神とかクズとか土蜘蛛とかが出てくるが、
これらは、天つ神=強烈な後着の渡来、国つ神=先着の渡来や強烈じゃない後着の渡来、
クズ&土蜘蛛=縄文系(初期弥生との混合含む)であると思われる。
記紀の描写を見ていると、まあそれらは想定できるところであろう。

さて、この状況が2Cにどうなるか、ってことなのだが、それは魏志や考古学を見れば分かりやすい話である。

64管理人:2012/03/22(木) 20:35:28
〜前回までのあらすじ〜
>>61-63

ちょいと>>63を訂正、というか追記。天孫降臨は紀元前後、というようなことを書いたが、遅くて紀元前後、ってな感じです。
まあ、記紀神話を完全な創作ではなく、多分に伝承が反映されているとみなした場合(管理人もそう見てます)、
さすがにどんだけ古くてもBC2Cまでは遡らないとは思うが。風化的な意味で。

しつこくも繰り返すが、管理人は生物学的成果について全く知らんので、適当な物言いになるが、
>>61-63の流れを見る限り、いわゆる日本人というのは、地理的な条件も相まって、血筋的には相当カオスな連中だと思われる。
基本は半島経由の北方系が主軸だと思われるが(それでも満系蒙系シベリア系その他もろもろが雑多に混入していると思う)、
それに加えて少量の南方系(海洋系やら呉越系)とか先着弥生系とか土着縄文系とかがいっしょくたに煮込まれているので、
同じ極東圏の民族の中でもかなり特異な感じがする。ちっとも均一的ではないが、それは文化的に選択肢が多いというメリットもあるように思われる。
神様が沢山いるのも頷けるし、今日の日本人の志向や嗜好に思いを馳せてみても、納得できる部分は多々あるではないか。

さて、>>63から続く2Cの話であるが、単純なことである。従来よりあった環濠集落に加えて、高地性集落、挙句の果ては倭国大乱記事である。
雑多なクニが犇めいていた列島内に、天孫なる起爆剤が投与され、近隣の統合が進み、支配体制が整いつつあったのだろう。
これは2C末の北部九州における卑弥呼共立や、畿内における崇神の立国に繋がってくる。そして>>40へ続く。

65管理人:2012/03/22(木) 21:00:34
いわゆる天孫は北方系だと考えられるが、当然列島は地理的にどん詰まりなので、先住民はあまり逃げ場がない。
となると、一部は東国や南洋に逃げたにしても、戦闘だの和睦だのを経て、多くは取り込まれていったのではなかろうか。
もちろん天孫も一度にひとところへ結集したわけでは決してなく、断続的に、北九州やら、山陰やら、北近畿やらに、
ちょいちょいお出まししたものと思われる。天孫同士のいがみ合いも当然あるわけで(そもそも便利だから天孫という語を用いているが、
別にセクトが違えば同士ではない)、大乱にもなっただろう。>>23に書いたイワレビコとニギハヤヒにしたところで、天孫同士の抗争→結託である。

1Cに北九州へ来た連中はナ国の王となり、他勢力へ対抗するため皇帝の権威を借りようとしたわけだ。
さらに天孫は続々とやって来るわけだが、ナ国がやばそうだから日本海や瀬戸内つたいに出雲や吉備へ行った連中もいるだろうし、
無理やり九州に割り込んでイト国やらフミ国やらを作った連中もいただろう。出雲や吉備の動きに呼応して畿内へ進出した連中もいただろう。
ニギハヤヒなんてまさにそれだ。やがて国がまとまっていくと、大乱の時代は終わる。
その契機となったのは、卑弥呼共立や崇神立国であったわけだ。高地性集落も消え、新たな展開を迎えるわけだ。

なぜ脱線して2C以前をやろうとしだしたかというと、>>40の出だしが唐突なので、もう少し流れを分かりやすくしたかったわけです。
歴史の勉強とは流れを掴むことだよ、なんて風によく言われなかったかい?

66管理人:2012/03/22(木) 21:20:21
<〜紀元前後>
天孫降臨。先着者による小国の統廃合が始まる。今後7〜8C頃まで断続的に新着が渡来する。
<1C〜2C>
ナ国王や倭国王師升の記事。小国の統廃合がさらに進む。
2C半ば、倭国大乱の記事。覇権争いへ突入か。
<2C末>
【1】崇神(10)の立国。北九州ではこの頃に卑弥呼共立。勢力図が固まり、大乱収束。
<3C前半>
【2】垂仁(11)の治世。畿内では王家への権力集中が進む(纏向)。
【3】景行(12)の治世。吉備・尾張と手を結び、瀬戸内から東海までを勢力下に入れたか。
<3C半ば>
景行の九州遠征。数年後に九州を平定する。その間、卑弥呼死亡。
【?】仲哀(14)の暗殺。北九州における畿内勢力と九州勢力の結託。神功擁立。
(この時期、北九州新勢力へと対抗するため、景行・仲哀の遺子を担いだ留守番勢力が挙兵。)
神功東征。激戦の末、留守番勢力を平定して畿内入り。神功政権誕生。
この一連の流れが「卑弥呼の死後、国が乱れたが、台与を女王に立てて国内が治まった」ことである。
旧勢力の中でも勝ち組である大伴・物部の他、新勢力の勝ち組である武内系やタケフルクマ系(ワニ系?)の台頭。

67管理人:2012/03/22(木) 21:31:14
<3C後半>
【4】神功、崩御。
【5】応神(15)政権誕生。
新政権トップは武内系。婚姻政策によって旧勢力の懐柔も図る。
(※しかし結果的にタケフルクマ系へ肩入れすることとなり、禍根を残す。[応神=応神説])
(※【6】宇治が応神崩御後に山城で即位。政権トップはタケフルクマ系。[応神=応神説])
(※仁徳は既に難波入りしていたと考えられ、武内系と共に収拾へと動いていたか?[仁徳=仁徳説])
(※不遇の旧勢力が大山守を担いで反乱を企てるも失敗。[応神・仁徳=応神・仁徳説])
<4C前半〜中頃>
(※【7】仁徳(16)即位。宇治は暗殺? パワーバランスの回復。[仁徳=仁徳説])
内部抗争の収拾達成。しかし武内系の地位も相対的に低下?
この頃、政権は富国強兵に努める。(造船・大規模公共事業・何らかの民心懐柔策など)
<4C中頃〜5C初頭>
【8】仁徳二世。【9】仁徳三世。【10】仁徳四世。
仁徳の遺志を継いだ王が数代に渡って前政権の政策を継承。半島南部制圧。
*なお、上記(※……[〜説])記事については、【9】と【10】の間に入る可能性あり。[応神・仁徳=三世・四世説]
*その場合、宇治大王の時代がかなり変わってくる。現在保留中の問題。

68管理人:2012/03/22(木) 22:03:05
<5C前半>
【11】履中(17)即位。対外政策に伴う新着渡来の流入により、文字記録の開始。
【12】反正(18)即位。百年以上続いた安定期もこの頃までか。
<5C中頃〜5C後半>
【13】允恭(19)即位。この頃から中臣氏登場?
【14】安康(20)即位。血みどろの時代へ突入。安康も含め、
王位後継者の有力どころが次々に死亡(半分くらいは雄略のせい)。葛城氏没落。
【15】雄略(21)即位。
なお、倭の五王に関しては、
讃=【10】仁徳四世、珍=【12】反正、済=【13】允恭、興=【14】安康、武=【15】雄略、に比定。

紀元前後の天孫降臨を契機として、なんやかんやあった末、3C半ばに基盤(王統)が成立。
その後は王統の取り巻き連中が入れ代わり立ち代わり、調和と反発を繰り返して自己の維持に努めていく。
3C半ばの取り巻き勢力図と(古参の大伴・物部、新参の葛城・平群・蘇我、同じく新参のワニ)、
5C前半の勢力図とは、あまり変化が見られないようなので、小競り合いはあっただろうが、概ね安定していたと思われる。
ところが安康暗殺に伴って葛城が消え、以降、とりあえず雄略専制があり、その後の清寧から宣化くらいまでは
何が何だかワケ分からん意味不明時代へと突入していくのであった。

69管理人:2012/03/23(金) 00:07:25
>>66-68でまとめたわけだが、補足したいことが2点ある。
①倭王讃と②景行〜履中の間についてである。

①倭王讃について
「珍は讃の弟だろうが!」という声が聞こえてきそうなので、補足する。
(正直、履中が讃でも別に構わんのだが、一応。)
これは履中の治世が短いので、ないことにされてしまったと解釈する。「讃死して、弟珍立つ」の記事であるが、
「先代が死んだらしいよ」→「珍は先代の弟らしいよ」→「先代って誰だっけ?」
→「ええっと、たしか、(文献を漁る、)せやせや、讃やで讃」 となったものと推測する。
無茶苦茶な理屈であるような気もするが、讃=仁徳説を推す学者も、きっと同じように考えているのではなかろうか。

②景行〜履中の間について
1.景行・(倭武)・成務・仲哀・(神功)・応神・(宇治)仁徳・履中 ……これが記載順である。
2.景行(&仲哀)・神功・応神・宇治・仁徳・二世・三世・四世・履中 ……これが管理人の想定順である。
崇神〜景行の宮と考古学の一致(2C前半〜中頃)と、五王代記事と履中〜雄略の一致(5C)は誰もが認めるところ。
ではなぜ管理人は1でなく2を推すのかという点である。その理由だけを簡単に再掲しておこう。
魏志・台与と記紀・神功の状況的な近似。武内宿禰の年齢。ヤマトタケル遠征と神功三韓討伐における適当さ加減。
さんざん書いてきたことではあるが、そのへんが理由である。そのへんの理由の方が、
「応神・仁徳が誰か分からん」という問題よりも解決すべき点であると考えているからである。

70管理人:2012/03/24(土) 00:31:32
〜前回までのあらすじ〜
>>66-68

ようやく>>60及び>>68の続きへと突入していくわけであるが、ちょっと足りない部分があったので、付け加えておきたい。
雄略即位前の「眉輪王の変」について。これは記紀の中でもかなり衝撃的な事件であろう。七歳児が時の大王を暗殺するのである。
何が足りなかったかというと、「即位前に潰した家から嫁を娶っている」と>>60で書いたが、よく読んでみると、
これはマヨワを匿う葛城ツブラがオホハツセ軍に囲まれた際、「娘と領地をやるから皇子は助けてやってくれ」的なことを言っている。
なるほど、そういうことなのね。ちなみにクロヒコの扱いも古事記と書記では違っており、古事記ではついでに殺されるだけだが、
書記では身の危険を感じたクロヒコがマヨワと一緒にツブラの家へ逃げ込み、そこで死んでいる。ちなみに葛城ツブラの描写は何かとカッチョいいぞ。
あと、オシハの同母弟でミマ皇子というのがおり、この人は外出時の休憩中、井戸のそばで不意に謎の軍勢に襲われ、
殺される寸前、近くの井戸を指して「この井戸水は人民だけが飲める、君主は飲めない」という呪詛を放っている。
まあ、つまり、誰の軍勢に襲われたのか明かしているようなもんである。ま、雄略即位前にはこんなにいろいろとあったわけだ。

<雄略代・古事記>
即位→恋愛話が数件→葛城山に関する話→飲み会の際に無礼のあった巫女を殺そうとするけど許す事件→己巳年に崩御
実は古事記はこれだけである。己巳年没なので、489年か。となると、>>28の502年は雄略ではないのかも。

71管理人:2012/03/24(土) 01:32:23
<雄略代・書記>
即位→側室・カスガ皇女に関する話、物部メの説教→虐殺1→虐殺2、料理人の話、独断・殺人に対する人々の不評
→恐怖政治の影響→葛城山に関する話→百済のコニキの来朝→呉(南宋)からの使者→スガルの話→吉備の反逆(かなり謎な話)
→呉への遣使→高句麗VS新羅→新羅出兵→鳥の話→その他もろもろの話→呉からの使節
→ネノオミ処刑→行政の話→朝日郎の討伐→百済の滅亡・復興→浦嶋子の話→崩御(雄略二十三年)→蝦夷反乱

もりだくさんである。端折っている部分もあるが、こんなことになってしまった。
古事記と被っているのは葛城山の話くらいか。とにかく人を殺すが、後年は殺しかけるけど止めるというパターンが多くなる。
年とって多少は丸くなったからだろうか? 上記では、吉備反乱と新羅出兵が重要っぽい感じである。
かなりのボリュームがあり、登場人物も多い。

それにしても古事記と書記での量の違いは何なんだろう。よく言われるのが、雄略系は後に乗っ取られるので、
後代の王統に都合のいいよう、悪い創作を挿入しまくった、という話。ま、雄略系が潰えるのは管理人も概ね同意であるし、
そういう創作が多少はあるとも思うが、かといって書記には面白いエピソードもあるし、いかにも事実らしい話が多いので、
これら全部を悪評のための創作だとも思わないのである。まあ、一つ一つ見ていけばいいだろう。

72管理人:2012/03/24(土) 13:57:05
まず年次について。これからして、すでに厄介である。安康の没年がよく分からない。
書記の安康在位は逆算から454-456年。古事記の安康在位は允恭没年から考えて454年からの数年間。(記&紀が合致!)
宋書では倭王興の462年頃。あらっ、今までは書記が仲間外れだったのに、安康は宋書が仲間外れだ。ますます分からん。興は安康じゃないのか?
一方、雄略没は書記が479年、古事記が489年、海外記事では502年にはまだ生きてる? 478・479年あたりの在位は確実か?
結局わからんので、とりあえず5C後半ということで話を進めますか。

書記の中でも吉備反逆、新羅出征、及び外交記事に関してはかなり面倒臭そうなので後回しにするとして、先に他を見たいところである。
記紀両方に記載のある葛城山の話から。
・射た猪が死なずに唸りながら寄って来たのにビビッて、木の上へ逃げ、歌を詠んだ。
(書記では逃げるのが舎人であり、猪は雄略に倒される。命に背いて逃げた臆病な舎人は雄略に斬られかけるが、嫁が雄略を諌める。)
・大王一行とそっくりの集団が現れ一触即発の事態に。名を名乗ると、相手は葛城一言主の神だという。恐縮した雄略は非礼を詫びて物品を献上。
(書記では一触即発の記載はなく、雄略の紳士的なふるまいを指して人々が「有徳天皇」と称した、とある。)

葛城は当然、葛城氏の本拠である。ありきたりな解釈では、雄略が葛城氏の怨念や祟りを怖れている、と見えなくもないし、そういう要素もあるだろう。
ただ、一言主は賀茂氏系である。この賀茂というのは謎めいた連中であり(神武代から出てくる)、三輪山の祭祀を担当する三輪氏もこの賀茂の系列である。
つまり賀茂は相当古参である。賀茂系の神社はいっぱいある。もともとは葛城地方を本拠地としてたらしいから、
古参の賀茂を新参の葛城が駆逐した、或いは、両者が結託したのだろうか? いずれにせよ、意味深な話である。

73管理人:2012/03/24(土) 14:38:13
書記は雄略をどのように扱いたいのかよく分からん。だからして、創作を並べているとは全然思わんのだ。
次に嫁の話。
皇后のハタヒヒメは安康代に罪なく死んだオホクサカの妹。そもそもオホクサカの死はこの婚礼に絡んでいる。
安康が弟オホハツセにハタヒヒメを娶らせようとする→ネノオミを介してオホクサカにうかがいを立てる
→オホクサカは快諾し、安康に冠を献上→ネノオミが冠を奪い、讒言(安康に「誰が大事な妹をお前らにやるかボケ!」)
→怒った安康がオホクサカを討伐→ついでにオホクサカの嫁を安康が奪う→連れ子のマヨワが安康暗殺、となるわけである。

側室1のカラヒメは葛城ツブラの娘。これは>>70のとおり。
側室2の吉備の女性については、ややこしい部分と絡んでいるので後回し。
側室3のワニ・春日系の女性について。物部メの説教の話に登場する。
春日系の采女と一晩だけ関係を持つ→カスガ妊娠・出産→一晩だけなので疑って認知しない雄略
→成長して歩けるようになったカスガの娘を見て、メがその立ち居振る舞いを大王そっくりだと思う
→メだけではなく、誰もが同じことを思っている→雄略「一晩で子供ができるわけないやろ」→メ「一晩で何回した?」
→雄略「七回」→メ「そんなにしときながら疑うとは。その采女は純な心を捧げたんやで。妊娠しやすさは個人差らしいで」
→雄略「正直すまんかった」→后に迎え入れる、となるわけである。なかなか面白い話だ。

スガルの話。これも面白い。
1.養蚕を推進しようとした雄略はスガル(出自分からん)に「蚕(こ)を集めろ」と言う→勘違いしたスガルは
  孤児を集めてくる→雄略「お前が責任もって育てろwww」→スガルに少子部という姓が与えられる
2.雄略「三諸岳の神が見たい。捕まえて来い」→スガル「頑張るぜ」→この神はオオモノヌシと言われているので三諸岳=三輪山か?
  →大蛇を捕まえて戻るスガル→雄略が身を清めていなかったので大蛇が爆音とともに目を光らせた
  →雄略びびって、名を雷とした(山の神の名? スガルの名?)

74管理人:2012/03/24(土) 15:53:52
>>73の1の話は、孤児院のようなものの由来について記載しているのだろうか?
2も不思議な話である。霊異記にこれを元ネタとした説話があり、スガルを「雷神を捕まえた男」として紹介されている。
それにしてもこの話は>>8を思い出す。幼少の管理人が巻向のみかん園で見たのはオオモノヌシだったのかもしれない。

三輪山について。
大神神社は日本最古の神社とされており、三輪山そのものがご神体である。三輪山は古代における最高神だったと思われる。
その由来は3C前半の纏向時代に遡るだろう。垂仁・景行は三輪山をバックに宮を立てている。
当時の王権と三輪山の神が結びついたのは容易に想像できる。また、記紀ではオオモノヌシ≒オオクニヌシとする記載もある(詳細は省略)。
崇神代の記事には三輪山に関する極めて重要な記述もある。疫病や民の流出が続く理由を
アマテラスとオオモノヌシを一緒に祀っているからだとしており、国の神であるオオモノヌシの祟りが猛威を振るうのである。
結局アマテラスを笠縫へ移すのだが、それでも治まらず、最終的には引越を繰り返した上、伊勢まで飛ばされるのである。
荒ぶるオオモノヌシは三輪の祖であるオオタタネコに祀らせることによって、ようやく休まるのである。

つまり、アマテラスは元来余所者なのである。じゃあいつやって来たのか、って話になるのだが、おそらく神功が畿内へ持ってきたのだと思う。
なぜなら神功は日の巫女のゆかりの者だからだ。ところが反発が大きく、引越させたというわけだ。
管理人はこの反発(崇神代記事の疫病や民の流出)を、応神代のゴタゴタだと考えている。
アマテラス分祀は>>67で書いた「旧勢力の懐柔」策の一つだろう。じゃあ、いつアマテラスは皇祖神になったのか? ってことになるが、
正式には天武代であろう。『火の鳥』にそう描いてあった。(急に参考文献がおかしくなったが。)日の本という国号がまさにそれだ。
よく言われることだが、天孫降臨神話が形になったのは持統代とされ、それについては管理人も同意である。
持統にとって都合のいい神話をより確固たるものにするため、この時にアマテラス≒持統が皇祖神となったはずである。

75管理人:2012/03/24(土) 16:31:49
またしても脱線したが、要は雄略代における三輪山の神様は当然最高神なのである。
別に雄略代に限らず、仁徳系大王(仁徳〜武烈)の時代はずっとそうであるし、その後の時代についても、
7C後半の壬申乱まではずっとそうなのである。もちろん、その間にアマテラスがいなかったわけではなく、
応神系や武内系においてある程度は重要視されていただろう。ただ、表立って持ち上げることはできなかったのである。

>>70の飲み会事件についても、無礼のあった采女が斬られそうになる寸前、纏向の日代の宮を讃える歌を采女が詠い、許されている。
日代の宮とは景行の宮であり、三輪の権威そのものである。それは雄略を含む王統権威を裏付けるものであり、
だからこそそれを讃えた采女は許されたわけだ。(神功・応神が余所者だとしても、仁徳は三輪王権の色も濃いのである。>>32>>37
※ただ、実は別の仮説も想定している。反正と允恭の間に断絶を見て、四世河内系と允恭畿内系の対立が背景にあるという仮説である。
  当然この場合、畿内系は三輪王権系との繋がりを保っていると考える。この仮説はややこしいので割愛というか無視。

とにかく雄略は三輪王権の末裔なのだよ。それがスガルや飲み会の采女に関する逸話から窺えるので面白いなあ、と思う次第。
マヨワやクロヒコを担いだ葛城が滅ぼされたり、葛城の祟りを怖れたりするのも、これに関係しているのかもしれん。葛城は当然武内の子孫だ。
でも大臣は武内子孫の平群なのよね。平群も雄略没後に滅ぼされるけど。
まあ、昔の禍根が後々にも尾を引いているんだとすると、3C中頃の事件がいかに重要だったかってことになる。管理人は相当重要だと思っている。

76管理人:2012/03/24(土) 18:43:29
次に吉備反逆と新羅出征の話である。雄略の側室2は吉備系なのだが、これはある時、吉備のタサが嫁自慢をしていたのを
雄略がこっそり聞いて、自分のものにしたいと思い、タサを任那へ赴任させ、その隙に奪ってしまうのである。ひでえ。
(なお、このエピソードの前にも吉備系と大王系の不仲が書かれており、雄略を敵視した吉備系の一部を物部に討たせている。)
また、タサの嫁を襲津彦の孫と書いている説もあり、だとするとここにも対葛城的なアレがあると思われる。

さて、ここからの展開が意味不明なのである。
当時、新羅と敵対しており、雄略は新羅征討メンバーにオトキミ(タサの嫁の連れ子)を選ぶ→それを聞いた西文氏(5Cの渡来系)が
「百済を使った方がええで」と助言→結局、オトキミと西文氏のカンインチリが一緒に百済へ向かう→その頃、嫁を奪われたことを知った
任那のタサが新羅と内通し、雄略に対抗しようと考える→オトキミは面倒臭くなり、百済にとどまる→タサは新羅が攻められず喜んだが、
ひそかに百済のオトキミ(自分の息子ですな)へ忠告し、一緒に雄略へ抵抗しようと提案→オトキミの嫁が反対し、オトキミ殺害(!)
→他の新羅征討軍勢が百済の技術者を伴ってそのまま帰国→大伴ムロヤの提案で東漢ツカに百済の技術者を管理させる

結末は!? よく分からない謎な話である。三国史記には5C半ば(462年?)に倭国が新羅へ攻め込んで捕虜を連れ帰ったという記事があるらしい。
百済の技術者=新羅の捕虜だろうか? ちなみに雄略代にはこの後にも新羅出征の記事がある(①481?年、②482?年)。
これも①では高句麗にやられそうな新羅を倭国が伽耶経由で助けている。しかし②では普通に新羅を攻めており、倭国が敗北している。
ちなみにそれは三国史記の記述とも一致しているらしい。記紀が三国史記を参考にしてこの記事を挿入したとも考えられるが、
だとしても戦ったり助けたり、忙しいことこの上ない。このへんの混乱具合は475年の百済滅亡その1に絡んでいるのかも。

77管理人:2012/03/24(土) 19:21:56
雄略即位以降、新羅の朝貢がなかったらしく、これが吉備のタサによる反乱(?)にも反映されている。
この後もずっと新羅は相変わらずだったので、>>76の①の後に、これからはちゃんと朝貢するよう新羅に忠告している。
ちなみにこの際の新羅救援メンバーは膳イカルガ、吉備オナシ、難波アカメコらしい。膳氏(かしわでし)は
宮廷料理人みたいな存在、吉備はそのまんま、難波は「難波吉師」などと書かれている連中が他にも出てきており、
河内王朝時代以降に参画した中堅氏族だろうか? 新羅に上述の忠告したのは膳イカルガである。

ところが新羅はウンともスンとも言わない。それが翌年?の出征に繋がったのだろうか?
あるいは百済復興と連動したものかもしれない。ところが>>76の②では味方の不和が生じ、敗れている。
メンバーは、紀オユミ、蘇我カラコ、大伴カタリ、オカヒ(姓不明?)である。まず、大伴カタリが戦死。続いて紀オユミが病死。
その後、父の死を知った紀オオイワが新羅入り。このオオイワが勝手にオカヒの家来を指揮したため、オカヒがカラコに不平を漏らす。
百済勢はヤマト勢を仲直りさせようとしたが、時すでに遅く、カラコとオオイワが喧嘩して、カラコ死亡。で、結局新羅から退くこととなった。

百済との関係は? 当時の百済の王はガイロ王。
・百済から提出された采女が雄略を嫌がって他の男と関係を持ったため、その男ともども処刑された。(>>71の虐殺1)
・女子を提出するのは嫌になったガイロ王が弟のコニキを派遣することにした。コニキは雄略に仕えた。
・475年、高句麗に攻められ、百済一度目の滅亡。漢城は陥落し、ガイロ王も死亡。
・雄略が百済の復興に協力。コニキの子のマタを百済国王となるよう告げ、本国へ行かせ、王となった。(三国史記とも共通するらしい)

基本的に百済とは仲が良いようである。477年・478年あたりの倭王武による遣宋使は緊迫する半島情勢にどう対処するか、
ってなことをなんやかんやする目的があったのかもしれない。

78管理人:2012/03/24(土) 20:06:17
とりとめもなくダラダラ書いてきたが、だいたい雄略代はこんなもんである。
他にも物部メによる伊勢の朝日郎討伐とか、なぜか浦島太郎の話とかがある。
記紀を見ただけでは、この後に雄略系が潰える予兆はあまり感じられない。
いちおうまとめると、
1.重用されているのは大伴ムロヤと物部メである。大臣であるはずの平群マトリはあんまり出てこない。何故だ?
  他には渡来系を重用している感じがする。(前述しなかったが、アオとかハカトコとか。)
2.一方、武内系の扱いはよろしくない。即位前に滅ぼされた葛城氏や、新羅出征で仲間割れしている紀・蘇我あたり。
3.神様は三輪山。(これは上述の1と2に関係しているのかもしれない。王政復古的なアレ。)
4.百済復興など、半島への影響力も保持し続けている。どちらかというと反新羅だが、新羅とはよく分からん関係。

全くの思いつきなのだが、
①崇神系・仁徳系・大伴系・物部系・百済系は比較的近い存在であり(仁徳系の雄略はこのグループ)、
②神功系・武内系・新羅系も比較的近くて①とはやや距離があり、
③東漢系・西文系などの新しい渡来勢力は①と仲が良く、
④吉備系などのもっと昔から独自性を持っている勢力が①に反して②に寄っている、
って風に考えられるかもしれない。
デタラメかもしれないが、1〜4を見てるとそんな気がしないでもない。
つまり、崇神立国は主に馬韓経由の渡来を起源に持つ側の最終形態であり、卑弥呼共立は主に辰韓経由の渡来を
起源に持つ側の最終形態なのではなかろうか? 当然、それぞれお互い同士やら土着やら後着渡来やらとの結託等も経ているので、
一概には言えないかもしれないが、だいたいそんな感じ?と思うのである。まあ、ただの思い付きですわ。流れ的に。

雄略崩御後は全くどうなっているのか分からなくなる。清寧・顕宗・仁賢・武烈を一気に見ていきたいところである。

79管理人:2012/03/24(土) 21:52:44
>>78の①はオオモノヌシ系、②はアマテラス系と総称することもできるわな。

<清寧・顕宗・仁賢・武烈代、古事記>
清寧即位(磐余)→妻子なく崩御→履中娘の飯豊が執政(忍海)→播磨で市辺のオシハの息子二人(後の顕宗・仁賢)を発見
→ヲケ(弟・後の顕宗)が平群シビと歌垣(カラオケ合コン)現場にて好みが被ってしまい喧嘩→翌朝、兄弟がシビを殺す
→譲り合いの末、弟の顕宗即位(近つ飛鳥)→近江のオキメという婆さんのおかげでオシハの遺骨発見
→父の仇(雄略)の墓を申し訳程度に壊す事件→顕宗崩御→仁賢即位(石上)→仁賢崩御→武烈即位(初瀬)→武烈崩御

<清寧・顕宗・仁賢・武烈代、書記>
シラカ(後の清寧)を世継ぎに指名し、雄略崩御→ホシカワ(シラカとは別腹の弟)反逆→清寧即位(磐余)、大臣:平群マトリ、大連:大伴ムロヤ
→オシハの息子発見、後継とする→飯豊の初体験談→清寧崩御→オケとヲケの譲り合い、その間、飯豊執政(忍海)→飯豊崩御
→顕宗即位(近つ飛鳥)→オキメの話→雄略の墓の話→顕宗崩御→百済vs任那→仁賢即位(石上)→高句麗に使者派遣
→仁賢崩御→平群マトリの専横・傲慢→歌垣事件(古事記と配役が異なる)→平群氏討伐→武烈即位(初瀬)、大連:大伴カナムラ
→武烈による猟奇事件の数々→武烈崩御→百済の話

このへんは年次の特定が難しく、500年前後、としか言いようがなくなる。そもそもどこまで史実どおりなのかさっぱり分からない。
記紀における在位年数は、清寧五年、顕宗三年、仁賢十一年、武烈八年である。どれも短い。
仮に雄略が489年没とすると、清寧493〜494年頃没、顕宗496〜497年頃没、仁賢507年頃没、武烈514年頃没、といったところか。

80管理人:2012/03/25(日) 00:39:18
>>79で重要なのは、飯豊執政と歌垣事件に伴う平群氏討伐か。顕宗・仁賢の発見話は
いかにも創作臭いが、どうなんだろう? ちなみに播磨国風土記にも記紀と同じように描かれてある。
とりあえず現段階では、史実は概ね記紀通りと仮定して、いろいろ見ていくか。考えが変わるかもしれん。

シラカ、清寧である。父は雄略、母はカラヒメ(葛城ツブラの娘)。生まれつき白髪だったらしく、
雄略は霊威を感じて世継ぎに指名したという。アルビノかもしれん。妻も子もいない。

ヲケ、顕宗である。父は履中息子の市辺のオシハ、母は葛城系の女。おかんが葛城系ってパターン、多くないか?
履中・反正・允恭の母も葛城系の磐之媛であるし、清寧・顕宗・仁賢もかよ。
ヲケの嫁は難波小野王。たいそうな名前である。イハキの娘らしい。
イハキとは雄略と吉備系ワカヒメ(タサの元嫁)の子である。子供はいないらしい。

オケ、仁賢である。顕宗の同母兄。父母は顕宗に同じ。嫁は春日大娘皇女、これは雄略と春日系との間の子である(>>73)。
子供にタシラカ(継体の嫁)、ワカササギ(後の武烈)、タチバナ(宣化の嫁)などがいる。
他に一人側室がおり、ワニ系である。この子供にカスガヤマダ(安閑の嫁)がいる。
雄略要素を除くと、ヲケは吉備系、オケはワニ系で周囲を固めている感じがする。

ワカササギ、武烈である。父は仁賢、母は春日系(ワニ系)である。妻子はいないようだ。
書記における扱いは、完全に暴君そのものである。古事記には何にも書いていない。書記の記述はさすがに創作だと思われる。

81管理人:2012/03/25(日) 01:13:59
書記における武烈の書かれようは、まあ、継体の正統性を主張するためだと思われるが、
だとすると顕宗・仁賢がやたら好意的に描かれているのもヘンである。

たった今、調べて知ったのであるが、播磨王朝説というのがあるらしい。顕宗・仁賢が播磨から出てきて、
雄略没後の王権を乗っ取ったとする説だそうだ。播磨サイドにそんな兵力があるのか? この場合、地理的要因を考慮すると、
播磨の後ろ盾に吉備がいたと考えられそうだ。雄略代から続く畿内と吉備の不仲や清寧即位前のホシカワ反乱も傍証になりはするだろう。
それでもやはり、大伴・物部を抱える畿内軍に勝てると思えない。或いは雄略没後に乗じて、古参が吉備と結託し、
調子こいている平群を討つために顕宗・仁賢を担いだとか? どのみち清寧に子はいないわけであるし。清寧自体がいないかもしれないが。
その場合、顕宗・仁賢がオシハの子というのはどういうことだろう?
ちなみに清寧崩御後に執政を行っていた飯豊もオシハの子なのだが、播磨王朝説だと顕宗または仁賢が飯豊と関係を持って、
結果的に顕宗or仁賢もオシハの子になったということの暗示だろうか? 書記には飯豊初体験に関する謎な記述もあるわけだし(相手不明)。
また、仁賢が春日系で固めていることから、二皇子擁立に春日系が強く加担していることも考えられる。

顕宗・仁賢の発見話を創作とする説の中に、地方出身の王に違和感をなくすためだよ派、ってのがある。
つまり越or近江から担がれた継体を登場させやすくするための創作と考えるわけである。この場合は、オシハ死後のくだりは創作で、
清寧死後、普通に飯豊・顕宗・仁賢の履中系が天下を治めただけだというパターンと、そもそも顕宗・仁賢なんていないというパターンが考えられる。

①記紀や風土記の記述通り。
②播磨王朝説的な乗っ取りがあった。
③貴種流離譚は創作だが、系譜自体は疑わない。
④顕宗・仁賢はいない。ってことは、武烈もいない。

82管理人:2012/03/25(日) 02:12:52
では>>81の①〜④のうち、管理人はどれを支持するのかというと、実は①≧③>>②>>>>>④の順なのである。
もちろん、現段階では、である。変わるかもしれない。確かに①はドラマティックに過ぎるきらいはあるけれども、
多少なりとも似たような展開があったとしても、別に驚くほどではない。顕宗即位後の二人の描写を見ていても、
①の展開であってもおかしくないな、と思わせる何かがあるのだ。創作の可能性も当然あるが、だとしたら製作者に拍手である。
ただ、②も捨て難いのは事実。特に飯豊初体験の記述が引っ掛かる。思わせぶりなのは、止めてくれ。

飯豊皇女。青海・忍海とも。父母ともに顕宗・仁賢と同じ。清寧死後に執政。ただし、古事記では二皇子発見が清寧死後なのだが、
書記では清寧存命中であり、顕宗と仁賢がお互い譲位したため飯豊が執政した、とある。書記には二皇子発見後に飯豊初体験の記述があり、
「試しにしてみたが大したことない。もう一度してみたいと思わない」と言っている。
相手は分からないが、分かったとしたらそれはそれで相手がかわいそうである。②説だと顕宗の可能性が高い。

まあいいや。ともあれ、この顕宗・仁賢兄弟はやたら譲り合ったり、やたら弱者に優しかったり、やたら温厚だと評されたり、
やたら父の仇である雄略の墓を壊そうと考えるけれども清寧には恩があるから馬鹿馬鹿しくなってやめたり、
と、とにかくやたら好意的に描かれているのが印象深い。何でだ?
ホンマのことやから!ってのが最も説得力があるが、だとしたらそれがホンマなこともかなり謎ではある。
前述の飯豊の件もそうだが、こういう点に②説的な裏があるのではないかと勘繰ってしまいそうになる。思わせぶりなのは、止めてくれ。

83管理人:2012/03/25(日) 03:08:39
歌垣事件とそれに伴う平群氏討伐について。まず、これは古事記と書記で全然違う。
・古事記
ヲケ(即位前の顕宗)と平群シビがオウオという娘を巡って争う。翌朝、オケとヲケの二人で相談し、
「朝の間は臣下はみんな宮に行くけど、昼はみんな平群の家に来るから(!)、今のうちにやっちまおうぜ」
ってな具合になり、その勢いでシビを殺してしまうのであった。それで終わりである。
・書記
ワカササギ(即位前の武烈)と平群シビがカゲヒメ(物部アラカヒの娘)を巡って争う。カゲヒメは既にシビとできている。
歌垣での対決時にワカササギはそのことを知り、以前からマトリ・シビ親子が無礼だったことをも思い出して腹が立ち、
大伴カナムラの軍勢を差し向けてシビを殺害。この時、カゲヒメは嘆き悲しんだという。
ついでにカナムラはマトリ討伐を提案し、平群氏は滅亡するのであった。

この違いはかなり謎である。武烈は存在しないのかもしれない。顕宗・仁賢の作戦会議の内容からして、
この時期、平群氏が強かったことは確実と思われ、それが王家にとっても、他の有力氏族にとっても、好ましくなかったようだ。
しかし因果なものである。平群真鳥は大伴金村にやられ、大伴金村は物部尾輿に糾弾され失脚し、
尾輿の子・守屋は蘇我馬子に討たれ、馬子の子と孫・蝦夷と入鹿は中臣鎌子の策に掛かるわけである。

雄略以後、王家の状況が分かりにくいのは、こういう連中が続々と出てきたから、というのもあるんだろうなあ、と思う。
別にそれは清寧から始まったわけではないんだろうけど、雄略の反動は相当大きかったことは確かなようである。

84管理人:2012/03/25(日) 15:44:54
〜前回までのあらすじ〜
>>78-80

謎が多い500年前後について見ているわけだが、最後にその他の部分を少しだけ。

まず顕宗崩御後の記事に百済と任那の争いが見える。任那とはいわば倭国みたいなもんなので、そう考えると、
これは百済と倭国にいがみ合いがあったってことになる。変な感じである。
任那と高句麗が接触し、それと関係してかどうかは知らないが、百済と任那が戦い、ここでは任那が負けている。
また、仁賢代?にもヒタカノキシを高句麗に派遣して技術者を求め、連れ帰っている、とある。
武烈代?には百済の朝貢復活の記事がある。ある程度復興したのだろうか? 三国史記の引用もあるが、書記編纂者も混乱している感じである。
高句麗へ近づこうとしているのは百済第一の滅亡と関係あるのだろうか? どうにも分からん。

顕宗代?には佐伯部についての記載があり、これは捕まえた東国への逃亡民を管理する集団であるらしい。それを再編したか?
東国からの有力者が中央政権に食い込んでくるのもこの頃からだろうか?(北陸系の阿倍とか関東系の中臣とか)
阿倍の祖はオオビコという人とされており、これは崇神代の四道将軍の一人である。(さすがに崇神代は古すぎると思うが。
おそらく古墳が全国的に出現する3C後半以降の話であると思われる。)オオビコは北陸を主に制圧した人らしい。阿倍はその後裔か。
中臣については起源がよく分からんが、鹿島・香取を基盤としていたのは確からしい。もっとも允恭代から出てくるので、
昔からある程度は中央にいたと思われる。これがワニ系の春日あたりと結びついたと思われるが、ひょっとするとこの時期かもしれない。
まあ、このへんについてはあくまで推測であるが、後々有力氏族として出てくるので、この時期に布石があってもおかしくはない。

85管理人:2012/03/25(日) 16:35:09
古代史の謎ランキングがあるとしたら、オホド擁立はベスト5に食い込むと思われる。
応神五世の孫ってことになっている。何者なんだろうか?

オホド、継体である。父は彦主人、近江高島の人らしい。母は越前の三国やら坂井やらあたりの人で、
父が早くに死んだため、越前で育ったらしい。大伴カナムラや物部アラカヒの推薦で擁立されたらしい。
父・彦主人の祖父がオホホドであり、これは允恭嫁の忍坂姫・衣通姫姉妹と同母の兄妹である。
オホホドの父がワカヌケフタマタ、その父が応神である。怪しいと言えば怪しいし、大したことないと言えば大したことない。
また、オホホドは息長、坂田、酒人、三国、米多などの祖であるらしい。継体については息長氏出身説もあるそうだ。
息長氏はオホホドを祖とする近江坂田あたりの豪族らしい。神功本名のオキナガタラシは関係あるんだろうか?
いずれにせよ、継体は上記の近江・越前集団に関係があることは疑いえない。
さて、ここで言う応神とは、管理人の言う仁徳三世該当者のことなのではないだろうか? だとすれば「五世の孫」であることについても
そんなに怪しくないような気がする。真・応神の五世の孫だと、間に入っている連中が長生きすぎることになるし、系譜も極めて怪しくなる。

また、継体の母は三尾氏系であるらしい。この三尾氏について調べると、その祖は垂仁の子・イワツクワケであるらしい。
イワツクワケの子孫は近江〜北陸エリアに根付いたらしく、つまり息長系+三尾系が継体というわけだ。
まあ、カナムラもアラカヒも馬鹿じゃないんだから、それなりに裏付けはあったとは思うが、正統性が薄いのは確かである。
継体の即位前の嫁も三尾氏系であるようだ。古事記を見ると嫁は他にもいっぱいいて、尾張系の女(子に後の安閑・宣化)、
仁賢の娘であるタシラカ(子に後の欽明)、息長系の女、坂田系の女、三尾系の別の女、阿倍系の女がいる。
息長・坂田・三尾あたりの嫁は、おそらく即位前からのものであろう。この時期に近江・北陸系が勢力を伸ばしており、
大伴や物部が結託または牽制を図るため、入り婿をとったと考えることもできるかもしれない。

この継体大王であるが、なぜか樟葉で即位した。これまた意味不明である。

86管理人:2012/03/25(日) 19:23:19
書記における継体代は507-531年、崩御は534年。古事記では527年崩御となっている。
まず樟葉で即位し(書記507年)、以降、筒木(書記511年)、乙訓(書記518年)、磐余(書記526年)ってな感じでうごめいている。
大和に入るまで二十年もかかっているのである。執政についても、実際には大伴カナムラ、物部アラカヒ、
許勢オヒトらが携わっていたと思われ、継体は何にもしていなさそうである。本人も仁賢孫(後の欽明)が育つまでの
つなぎだと分かっていて、好きなところに住んでいただけなのかもしれない。ただ、安穏としていられなくなるような事件が起きる。

書記527年、半島へ進軍しようとした近江毛野の軍勢を筑紫の磐井が妨害し、翌年に物部アラカヒによって磐井が鎮圧される。磐井の乱である。
継体の大和入りもこの事件に関連してのことかもしれない。今まで見てきたとおり、百済第一の滅亡後、
半島情勢がよく分からないことになっている。近江毛野は新羅に奪われた任那の一部を取り戻す軍勢であり、磐井は新羅と結んで
それを妨害したとされる。磐井の出自であるが、全くの謎である。火の国・豊の国を制圧・懐柔し、半島航路を封鎖したというのだから、
かなりの大勢力である。乱以前から新羅の力を得ていたのだろうか? 新羅が磐井へ賄賂を贈っていたなどの記述もある。

・任那:最近旗色が悪く、よく負けている?
・百済:475年の第一滅亡以来、ぐちゃぐちゃになっている?
・新羅:相変わらず倭国とは仲が悪い? 磐井と結託?
・高句麗:別格の国。最近、倭国が関係を持とうとしている?

この辺は当時の半島情勢も考えないと見えてこないと思われる。上記はあくまで推測。とりあえずは置いておくか。

87管理人:2012/03/25(日) 19:51:40
近江毛野について。近江というからには、継体と繋がりを持っているのかもしれない。
wikiによると、この人は武内系波多氏(羽田氏?)の出自であるらしい。さらに波多氏について調べてみると、
それが武内系だったり、息長系だったり、いろんなのが出てくる。いずれにせよ、継体と関係はありそうだ。
ということは、息長の祖であるオホホドは武内系なのか? そもそもオホホド・忍坂姫・衣通姫の兄妹は
応神息子のワカヌケフタマタの子なのだが、一つ考えられるのは、ワカヌケフタマタの母(仁徳三世の嫁)が
羽田系だということである。仁徳以降、武内系を嫁にもらう例が多いので、多分そうだろう。
4Cは全く分からんので推測だが、そう考えると収まりがいいような気がする。もちろん、ワカヌケの親父が仁徳三世でなく
真・応神だとしても結局は同じことが言えるので、まあ、どっちでもいいのである。

近江毛野が継体と同陣営の勢力であり、それにさしあたって継体が磐余入りしているので、半島情勢が悪化しており、
何らかの手をうたなければならなかったことは容易に想像できる。それを磐井が邪魔をしたという話なのだ。
書記には磐井が近江毛野に対して「かつて同じ釜の飯を食った仲ではないか」と言ったとされている。これはどういうことだろう?
①昔、一緒に中央で研修を受けていた。
②同族、または、近い氏族である。
③書記の記述が嘘っぱちである。
どれもありそう。③だとどうしようもないわけだが、発言が事実なら①か②であろう。個人的には②を推したい。
磐井は新羅と繋がったので、>>78の妄想から考えると、アマテラス系(仮)である。近江毛野は武内系なのでアマテラス系(仮)である。
>>78自体が妄想なので無茶苦茶書いているかもしれないが、書記にわざわざ発言を載せているくらいだから、なんかあるんだよ、きっと。

88管理人:2012/03/25(日) 22:24:36
脱線します。>>87>>78の考察を取り上げたが、それについてもうちょっと考えてみたい。
>①崇神系・仁徳系・大伴系・物部系・百済系は比較的近い存在であり(仁徳系の雄略はこのグループ)、
>②神功系・武内系・新羅系も比較的近くて①とはやや距離があり、……
と、こう書いたのち、①をオオモノヌシ系、②をアマテラス系、などと勝手に称したのであるが、
①の仁徳系については言葉足らずなので、もう少し考えてみたいのである。

仁徳系は単純に①というわけではない。父方が①、母方が②である。もっと言えば、①と②の調和を完成させたものと考える。
ちなみに仁徳系とは何を指すかというと、以下の系譜である。
(仁徳-二世-三世-)四世-履中-反正-允恭-安康-雄略(-清寧-飯豊)
( )内については、記紀にしか記述がないので、エポケー的な取り扱いになっていると思ってください。(そもそも前半部は記紀にすら記述はない。)
応神までは②が主力であったものを、第三勢力の宇治を経て(※後代の可能性あり)、主①従②のバランスを確固たるものにしたのが仁徳だと思うである。
・応神:父①?、母②(実際は父母ともに②だと思う。だから応神は完全に②)
・宇治:父②、母⑤(⑤は第三勢力。治世時の実験は⑤にあったと推測)
・仁徳:父②、母①(母は景行系。対⑤のために、①+②を実現、主①従②の関係を構築。今後の父系は①となる。)
以後、分からなくなるが、富国強兵を実現したとみて、仁徳システムを継承したと考える。宇治が後代のものとしても、結果は同様のものとなったと仮定。
・履中/反正/允恭:父①、母②(母は葛城氏である。)
・安康/雄略:父①、母②(母は忍坂姫。>>85-87より、応神系・武内系の色が濃い。つまり正統としての①、外戚としての②、という構図は変わらず。)
ただし、ここで雄略によってバランスが崩壊する。皇后は允恭娘①、側室は葛城②(しかし滅ぼした)、吉備④(しかし喧嘩した)、春日⑤、である。
嫁に②はいるが、嫁の実家を滅ぼしているので意味がない。また、景行代の宮を讃える巫女を許すエピソード(>>75)等を考慮してみても、
かなり①に偏った専制であったと推測される。うまく機能していた仁徳システムは終わりを迎えるわけである。
・清寧:父①、母②(清寧しか王の条件を満たす者がいなかった、と考えることもできる。)
・飯豊/顕宗/仁賢:父①、母②(無理にでも条件を満たす者を立てている、と考えることもできる。)
武烈は①+⑤である。ちなみに管理人は、武烈の実在は高確率で怪しいと考えている。もし実在なら、夭折したと思っている。

89管理人:2012/03/25(日) 23:29:28
>>88の続き。>>78参照。
景行以前はおそらく①+④でやりくりしていたと思われる。当時の④はいわば①'みたいなものであり、
大伴や物部も①'のグループであろう。ところがそこへ強烈な余所者がやって来た。②神功陣営である。
神功と武内宿禰は①'の大伴・物部を取り込んでいる。留守番をしていた①'の吉備や尾張は①の景行・仲哀遺子を担いで抗うが、
奮戦虚しく敗れてしまう。神功陣営は①+②の応神を連れているが、本当に①+②なのか怪しいものだ。
大伴や物部も半笑いでシラを切っている。これは何かあるに違いない。

案の定、政権運営は上手くいかない。相次ぐ天災、疫病、民の逃亡。こんなに日照りが続くのは、連中の祀っている太陽神とやらのせいに違いない。
とりあえず、太陽の神様を三輪山から遠ざける。それでもまだ足りない。応神に対し、これでもか!ってなくらいに、
①系の嫁を与え続ける。これで一安心、って思っていたのも束の間、別系統(⑤)の小娘にウツツを抜かし始めた。
②の女ではないようだが、このままじゃオオモノヌシ様も再びお怒りになられるだろう。
やがて応神崩御、宇治政権樹立、となったが、当然上手くいくわけはない。今度は①と②が結託する。
こういうのはどうだろう? ②武内長老が提案する。まず現政権を早々に幕引きさせる。次代の王はササギでいいだろう。
彼は有能であり、確実に②+①だ。これを①の正統として前面に押し出そう。今後は彼の子孫を世継ぎとさせる。我々はサポートに徹しよう。……。

かくして、政権運営は安定することとなった。ところが二百年後、みたび危機が訪れるのである。

90管理人:2012/03/26(月) 00:17:36
>>88-89の続き。
カナムラとアラカヒは困ったはずだ。もう駒がないのである。こうなると、入り婿しかないわけだが……。
「石上陛下のご具合は?」「よろしくないな」「困ったな。世継ぎおらんで」
「二十年前の危機の際は、親父がうまいことやってくれたんだが、もうこれは駄目かもわからんね」
「誰か他に初瀬朝倉の大王にやられた世継ぎ候補っていたっけ? その人の遺子がいれば、また同じ作戦が使えるんだが」
「いるかもしれんが、さすがにもう昔すぎて分からんわ。もう入り婿しか無理やろ」「幸い陛下にはちょうどいい娘さんがいるが……」
「そそ。でも相手が難しい。一時は平群にその座を渡すことになりそうだったが……」
「やっこさん、黒かったからなあ。バカ息子が俺の娘に手を出しやがるし。潰して正解やったわ」
「お前が入り婿になるのはどう?」「勘弁してくれ、矢面に立ちたくないわ」「まあな。それは俺もや。ってか俺らは無理やし」
「蘇我は?」「駄目駄目。平群と同じ臭いがするわ。俺の叔父が死んだときの話知ってるか?」「なんか聞いたことあるわ。新羅やっけ?」
「そそ。叔父が戦死して、ただでさえやばかったのに、紀と蘇我が功を競るあまり殺し合いになったらしいから」
「確かにあいつらはあざとすぎるよな」「中央にいる奴は駄目だよ。地方にいいのがいたかなあ?」
「知らんわ」「……、あ、ええのおるわ。しかも高確率で王家の枝分かれやで」「お、ええやん。誰?」

以上が継体擁立の経緯である(大嘘)。つまり脱線してこの話をしたのは、継体擁立は緊急手段であるものの、
あながち変ではないような気がしたので、ちょっと妄想してみたのだ。

91管理人:2012/03/27(火) 00:35:46
〜前回までのあらすじ〜
>>88-90

それにしても男子王族が全然おらん。オホド以外に誰かいないかと探してみたが、全然おらん。
男はもともと病死しやすい上、安康・雄略代の世継ぎ抗争でほとんどいなくなってしまっておる。ひどいもんだ。
もっとも系譜に書かれていない男王がいるのかもしれないが、現状で調べうる限り、
王族と②の両方を兼ね備えているのはオホドぐらいのもんだ。案外あっさりオホドで決まったのかもしれない。
当然、血が薄いのは自明なので、書記における武烈の記述とかが出てくるんだろうけど。
前にも書いたが、あくまでも仁賢孫(=欽明)までのつなぎなのだ。

安閑・宣化の母方は尾張系である。管理人ははじめ、>>78で言えば旧①'=④の尾張なのだから、
尾張系は即位後の嫁だろうかと考えていた。しかし④では意味がないのだ。安閑・宣化は継体即位前からの子だろう。
したがって、安閑・宣化が即位していたのだとしたら、欽明が成長する前に継体が崩御した場合のみと考える。
実際、宣化にも別の仁賢娘があてがわれており、やはりつなぎとしての役割を期待しているように思うのだ。
考えが甘いだろうか? 学者がよく言うように、安閑・宣化と欽明との間に世継ぎ抗争があったと見る方が自然だろうか?

管理人はどっちでもいいと思っている。実際、重臣たちは①+②の欽明につくだろうし、どっちであっても結果は同じだ。
安閑・宣化の即位があったかどうかについても、どっちでもいいと思っている。

92管理人:2012/03/27(火) 01:10:15
>>91に付け加えてだが、安閑・宣化が即位していなかったと仮定した場合、系譜に組み込む意味は何だろう?
ここで一つ妄想を提示したいのだが、例外という名の前例づくりをしたかったのではないだろうか、と思うのである。
欽明によって復活した>>88の仁徳システムは、いずれ途絶えるのである。その際、安閑・宣化をいたことにしておけば、前例として使えるのだ。

……。ここにきて管理人の主張がやたらシステマチックになってきたのが、なんか萎えるなあ。
んなこたーない、って言われそうだし、自分でもそう思う。5C(おそらく4Cも)の葛城、及び6Cの蘇我が、当然のように
外戚として居座っているので、そう見えてしまうのである。古参であり、なおかつ6C半ばまで最有力氏族である大伴や物部が
全然王統に絡んでこないのもヘンだ。軍事氏族だからか? なんとなく暗黙の了解があるような気がしてしまうのである。許してくれ。

まあいいや。それにしても磐井である。
他者との繋がりを見る限り、北九州・新羅の磐井系も②であるし、息長・近江の継体系も②なのだ。それに加えて磐井の謎めいた台詞。
これは単なる仲間割れじゃないのか? 継体の甘受っぷりにブチきれた磐井が……、とか、
同系の不満分子に唆された安閑・宣化が欽明に……、とか、何とでも考えられそうだが、どう転んでも結果は一つしか見えそうにない。

さて、欽明の嫁は悉く蘇我である。つまり葛城の代わりに蘇我が立てられたわけだ。別に違和感はない。
宮は磯城。全く違和感なし。当然すぎて困るくらいだ。重臣は大連が大伴カナムラ・物部オコシ、大臣が蘇我イナメ。もはやテンプレである。
だいたいにおいて管理人が、播磨王朝的な顕宗・仁賢の乗っ取りやら、近江・越前王朝的な継体の乗っ取りやら、
継体系の安閑・宣化における欽明乗っ取り(或いはその逆)やら、それらにあまり食指が動かないのは、
どの新政権にも普通に大伴と物部がいて、加えて②の有力者(今回は蘇我)が当たり前のようにいるからである。
ふつう、内乱やクーデターっていったら、有力皇子を担いだ氏族間抗争になるんじゃなかろうか? 何も変わってないぞ。

93管理人:2012/03/27(火) 23:19:10
〜前回までのあらすじ〜
何も変わってないぞ。

ところがどっこい、今後、変わるのである。ついに大伴さんが失脚してしまうのである。
欽明代は三十年くらい続くのであるが、他にも仏教公伝や任那滅亡などという重大事件もこの頃である。
欽明の父は継体、母はタシラカ(仁賢娘)である。タシラカの母は雄略+春日系である。
では、例によって嫁リストの作成を。主だったところを挙げる。
・嫁1:石姫(宣化娘)……これは妥当なところである。宣化は②継体系であり、欽明は①王家正統系なので、
 出自としては完璧であろう。石姫の母は仁賢娘(欽明母と同母の姉妹)である。ここの子には後の敏達がいる。
・嫁2:ワカヤ姫(宣化娘)……嫁1と同母の姉妹。
・嫁3:キタシ姫(蘇我稲目娘)……母不明。嫁4や蘇我馬子と兄妹である。欽明とキタシ姫の間には子が十三人もいる。
 主な子には、後の用明、後の推古がいる。
・嫁4:オアネ(蘇我稲目娘?)……嫁3の叔母と書かれるのもあるが、たぶん嫁3とは姉妹。
 主な子には、後の崇峻、穴穂部間人皇女、穴穂部皇子など。

他にもいるかもしれんが、だいたいこんなもん。蘇我の食い込みっぷりが半端ない。
このあたりからは教科書的な有名人も増えてくるので、ざっくり見ていくことにする。

94管理人:2012/03/28(水) 22:06:17
再度脱線タイム。
大伴氏について考えてみたい。この人たちはいったいどこからやって来たのか?
管理人は当初から大伴は古参だ古参だと言い続けているか、それが本当かどうかは分からなかったりする。
ただ、何となく、扱われ方が物部と似ているので、古参のような気がするだけである。その点について、ちょっと考えたい。

物部が古参なのは、まあ、分かる話である。彼らは王家が奈良盆地にやって来る前から、そこに居たわけであり(>>23)、
言い換えれば王家よりも古参なのである。記紀がそれを書いちゃってるんだから、おそらく間違いないのである。
じゃ、大伴は? 確かに古参っぽいが、物部ほど明確なものがあるわけでもない。謎である。

天孫降臨時にニニギと一緒にやって来た?アマノオシヒってやつが大伴の祖と書かれてある。しかしそれだけじゃ分からん。
もう少し分かりやすい登場は神武代であり、神武東征時に功のあったミチノオミ(大伴道臣)である。やはり分からん。
また、ヤマトタケル東国遠征時にタケヒ(大伴武日)ってのが書記に出てくる。これも怪しい。
その次はようやくまともな感じなのだが、仲哀代の九州遠征同行者タケモツ(大伴武以)である。
そしてその後が5Cの大伴室屋である。これはいくらなんでも離れすぎだ。
しかしあれだ。実態は分からんが、ニニギ、神武、ヤマトタケルあたりと一緒に出てくるくらいだから、
よほど古参だと思うんだが、どうだろうか。これが1個だけなら怪しいが、3回はかなりだと思われる。知らんけど。

大伴タケモツは仲哀代の偉いさんとして、仲哀崩御時に名前が出てくるので、おそらく景行の九州遠征時の武将なんだと思う。
そして、>>19のようになったと。もし大伴がこの時、九州サイドの勢力であれば、武内宿禰の子孫と書かれるはずだから、
きっと畿内の旧勢力であろう。天孫降臨、神武東征、ヤマトタケル東征に絡んでいるのだから、
三輪の旧王権を軍事的に支えた存在だと思われる。ちなみに「祭神 アメノオシヒ」「祭神 道臣」で検索してみたが、
大した情報は得られなかった。残念だが、「脱線タイム」などとほざいておきながら、結局何も分かりませんでした。諦める。

95管理人:2012/03/28(水) 22:42:31
諦めると言いつつ、1点だけ補足。
軍事氏族といえば物部・大伴なわけだが、立ち位置的に前者は国軍、後者は親衛隊なわけですよ。
物部は王家が奈良盆地入りした時点では先着者であったわけだが、その際に王家へと降っている。
で、国軍となっている。ってことは、大伴はこの時点ですでに王家に近い存在だったと思うわけですよ。
王家と一緒に奈良入りしたのではないかと思われる。ミチノオミの話から考えて、王家奈良入りの際に
大伴の助力があったと思うのである。決定的な記述はないが、大伴が古参である状況証拠は揃っているように思う。

まあいいや。そんな大伴は5-6Cの室屋・金村が絶頂期。室屋は允恭・雄略代の重臣であり、
おそらく顕宗・仁賢擁立にも絡んでいるはず。また、その子(孫?)の金村は平群氏討伐や継体擁立に絡んでいる。
ところが欽明政権が誕生してすぐ、大伴金村は失脚してしまうのであった。外交上の失敗を物部尾輿に糾弾されてしまうのだ。
512年頃に百済から任那四県割譲要求があり、それに金村が応じて五経博士を渡来させている。
ところが527年頃に新羅と結んだ磐井の乱があり、その後、540年頃に新羅が任那を併合する事件が起きるのである。
おそらく半島情勢は相変わらずグダグダで、百済VS新羅が任那の取り合いという形になっていたんだろうと思われる。
倭国としては百済に肩入れしてたんだろうが、内乱等で結果失敗となった。しかも金村は百済に賄賂を貰っていた(尾輿談)。
だから金村は駄目なんだ、というのが尾輿の言い分である。言いがかりのようにも聞こえるが、結局金村は失脚、隠居した。

ここからは妄想だが、蘇我の台頭により、物部に危機感があったんじゃないかと思われる。
同クラスの大伴を蹴落としたかったんじゃなかろうか? また、尾輿は金村と共に動いていたアラカヒとは同じ物部でも
やや別系統であり、あまり抵抗もなかったのかもしれない。蘇我にとっても願ったりかなったりで、物部に同調したんだろう。
結果論だが、これでパワーバランスが大きく崩れたと思われる。そして欽明代のさらなる事件、仏教公伝は552年頃。

96管理人:2012/03/29(木) 21:28:32
有名な書記の翻訳サイトがあるんだけど、武烈代までしか載ってないから
残念ながら継体以降はwiki情報多めであるとお伝えしておきます。

よく言われることだけど、仏教公伝ってのは、まさに公伝であって、私的な伝来は以前からあったわけだし、
また、それはいわゆる廃仏派と言われる集団に属する個人においても、私的な信仰はあったのである。
そりゃホトケも数多いる神様の一つとしか思われていなわけである。
崇仏派と廃仏派の対立というのは、国家を挙げて祭祀するか否かの争いである。

そうなってくると、やはり廃仏派に分があるわけだ。当時、国家レベルの信仰対象の中でも最高位にあるのは三輪山である。
これはもう崇神代から、つまり三百年以上続いているのだ。かつて神功陣営がアマテラス祭祀を持ち込んだこともあったが、
オオモノヌシ様がお怒りになられて、マイナー落ちしてしまった。別にアマテラス信仰が潰えたわけでもなく、
伊勢へ引越して生き続けてはいるものの、やはり最高の神様はオオモノヌシ様なのだ。
神功陣営ですら妥協のオオモノヌシ祭祀によって民心を掌握したわけである。三輪山信仰は王家と切り離せないのである。

欽明は当初、仏像の見事さに関心を持ち、臣下に問うたそうである。以下、臣下の感想を管理人が代弁。
・蘇我イナメ:近来の渡来人と関係を持つのがええやろ。それにホトケをアレにアレしたらアレやで。
・物部オコシ:こっちは古くから王家=三輪の権威に仕えとるんじゃい。ホトケはマイナーでええやろ。
・中臣カマコ:ウチらは伝統的祭祀でメシを食ってますんで。ホトケとかないわー。

ちなみにこのカマコはカマタリとは違う方のカマコである。根拠はないが、管理人はこのカマコの存在を若干怪しんでいる。

97管理人:2012/03/29(木) 22:03:34
古代において神権と王権は切っても切れない関係にある。信仰を集めることは大事だ。
つまりホトケをアレにアレしたらアレになるわけである。仏教を国教として国家的祭祀をし、成功すれば王権と結びつくわけだ。
蘇我稲目がそう考えたかどうかは知らないが、王家の次に王権の近くにいるのは、間違いなく蘇我稲目である。(>>93

欽明「じゃ、試しにやってみっか!」 → 大失敗。

疫病が流行してしまうのである。仏像の廃棄、仏寺の焼却が黙認されることとなってしまうのであった。
そんなこんなで蘇我はしょんぼりである。といっても、別に蘇我が悪いわけではないので(本心は知らんけど)、
失脚したわけではない。蘇我イナメは財政手腕に長けていたらしく、この争いは後々に再燃するわけである。

一方、ぐちゃぐちゃの半島であるが、百済が大ピンチ。百済弱体化に乗じ、新羅が勢力を伸ばす。
560〜62年頃に、残った任那も新羅に全て滅ぼされてしまう。大和の新羅討伐軍も失敗。任那復興策も遅きに失した感がある。
大陸もこの時期は隋建国前のぐちゃぐちゃ期なんだろうなあ、きっと。ちなみに任那滅亡の際、半島から戻ってきた勢力もいたと思われるが、
そいつらの出自はどういう陣営が多いんだろうね? 少なからず国政に影響力を持ったとは思うんだが。
やがて、イナメも死に、オコシも死に、欽明も崩御となる。次の敏達は①王家正統+②継体系であり、やはり廃仏派だったそうだ。
敏達代の大連は物部モリヤ(オコシの子)、大臣はウマコ(イナメの子)である。二頭体制だな。相変わらず争ってます。

98管理人:2012/03/29(木) 22:32:18
4C以前は>>66-67
<5C前半>
【11】履中(17)即位。対外政策に伴う新着渡来の流入により、文字記録の開始。
【12】反正(18)即位。百年以上続いた安定期もこの頃までか。
<5C中頃〜5C後半>
【13】允恭(19)即位。この頃から中臣氏登場?
【14】安康(20)即位。血みどろの時代へ突入。安康も含め、
王位後継者の有力どころが次々に死亡(半分くらいは雄略のせい)。葛城氏没落。
【15】雄略(21)即位。王政復古的?な専制(やりすぎ)。吉備と不和。
大伴室屋・物部目や渡来系を重用。百済第一の滅亡とその復興に尽力。
【16】清寧(22)即位? 雄略的国家経営の終焉。
【17】飯豊、執政。謎のつなぎ役。
【18-1】顕宗(23)即位。履中系。
【18-2】仁賢(24)即位。顕宗の兄。6C初頭の王統存続にかかわるキーマン。春日系と結びついている感あり。
【?】武烈(25)即位? 汚れ役? つなぎ役? この頃、平群氏滅亡。武内系の次代は蘇我へ。

99管理人:2012/03/29(木) 22:58:24
<6C前半>
【19】継体(26)即位。男手不足による傍系王族の採用。出自は武内→羽田→息長系。
仁賢娘への入り婿により、仁徳型の王統継承を実現。大伴金村を重用。つなぎ役?
半島情勢悪化も、磐井の乱(壮大な仲間割れ?)により手つかず。継体系弱体化にも作用か?
【20-1】安閑(27)即位?
【20-2】宣化(28)即位? 系譜を見る限り仁徳型の王統継承。継体と同じにつき、つなぎ役か。
<6C中頃>
【21】欽明(29)即位。正統型王位継承の復活。大伴金村失脚。蘇我稲目・物部尾輿重用。
外戚として蘇我氏台頭も、仏教公伝から廃仏気味の流れへ。任那滅亡。
<6C後半>
【22】敏達(30)即位。王家正統(欽明)と継体系(宣化娘)による継承(正統型)。

この先になって来ると、系譜がまるで蜘蛛の巣のようになっていて、力関係が逆に分かりづらい。
まあ、元をたどれば、殆どが欽明と蘇我に行きつくんですけどね。

〜次回予告〜
己が存続を賭けた氏族間抗争! そして血で血を洗う継承闘争!
陰謀渦巻く王宮に降り立った傑物は所詮踊らされているだけに過ぎないのか!?
次回「ウマウマの王宮」、乞うご期待!

100管理人:2012/03/30(金) 00:42:55
次回、乞うご期待! などと言っておきながら、一つだけ脱線話を。
>>92で以下のように書いた。
>安閑・宣化が即位していなかったと仮定した場合、系譜に組み込む意味は何だろう? ここで一つ妄想を提示したいのだが、
>例外という名の前例づくりをしたかったのではないだろうか、と思うのである。欽明によって復活した>>88の仁徳システムは、
>いずれ途絶えるのである。その際、安閑・宣化をいたことにしておけば、前例として使えるのだ。

仮にそうだったとしてみようよ。仮にね。そんな前例を作りたいのは一体誰なんだ?
そりゃ、もう、あの人しかいないわけですよ。もう一度>>78の妄想分類を整理する。
①正規の王統。馬韓経由の渡来グループ? 具体的には、纏向王家、物部、大伴、国家としての百済。他、三輪や賀茂もこのグループか?
②北九州勢。辰韓経由の渡来グループ? 具体的には、神功・応神系、武内系(葛城・平群・蘇我・紀など)、国家としての新羅。
③近来の渡来グループ。時代によって主力は違うと思う。具体的には、5Cの東漢や西文など。その後もいろいろと出てくる。
④もともと①のグループだが、①+②に負けた? 具体的には、吉備系、尾張系など。かつては大伴・物部らとともに①'であった。賀茂はこっちかも?
⑤いちおう①+②に協力した別陣営と想定。宇治王権時代の主力? 具体的には、ワニ系。後に春日や小野となる。春日は中臣との関係も怪しい。

つまり前例を作りたいあの人は、①でもなけりゃ②でもないのよ。④もかなり薄いでしょう。
となると、③か⑤なのよ。全くの別陣営、という考えもあるかもしれないが、だとすると③なのよ。
少なくとも縄文系や隼人でもない限りは、別陣営なら③だろう。つまりあの人の一族の起源は、③か⑤か③+⑤だと思われる。
いや、春日が⑤なので、⑤か③+⑤でしょうな。「+⑤」以前は東国にいたっぽいので、やはり③+⑤か。大穴で④+⑤や③+④+⑤もあるが。

きっと8C前半くらいには、まだ、①+②が正統というかつての暗黙の了解が、まだ人々の記憶に残っていたんだと思う。
だからこんな小細工を仕込んでいるのだ。仮にそうだったとすればの話だが。他にも、あの人が自身の一族の起源を
あたかも①'であるかのように見せかけている箇所が、記紀には結構見受けられたりするのだ。

101管理人:2012/03/31(土) 01:12:23
〜前回までのあらすじ〜
>>98-99

敏達は>>100の分類でいくと①+②である。これは前にも述べた。では恒例の嫁リスト。子については主だったものを。
・嫁1(皇后):ヒロヒメ。息長マテ王の娘とある。詳しくは分からんが、息長って名前からして②の出自であろう。
 子に押坂彦人大兄などがいる。敏達の出自からも、②の正統はやはり継体系・息長系で進める予定だったんだろうか?
・嫁2(嫁1没後に皇后):額田部皇女。欽明とキタシヒメの娘である。後の推古。別腹の妹である。
 継体系・息長系で進めるかと思いきや、こっちは蘇我系である。子にはいろいろいて、菟道貝蛸皇女(すげえ名前、厩戸嫁)、
 竹田皇子、小墾田皇女(上記押坂彦人大兄の嫁)、タメ皇女(舒明嫁)、桜井弓張皇女(来目嫁)、などがいる。
・嫁3:オミナゴ。出自は春日系。
・嫁4:ウナコ。伊勢大鹿首小熊の娘とあるが、誰だ?
 子に糠手姫皇女(上記押坂彦人大兄の嫁、舒明母、長生きしたらしい)など。

いろいろバランスとろうとしている感じがしますなあ。在位は572-585年とされている。
欽明は任那復興を夢見て没したらしいが、その遺言を引き継ぐ形で百済と協議したり(進展なし)、
新羅との通交から任那分の税?を受け取っていたなどとある。また、廃仏派であり、物部モリヤの働きで禁止令を出したりしてたらしい。
まあ、そんなところである。特にこれといって他に取り上げることはないですわ。

次は用明。在位585-587年。父は欽明、母はキタシヒメ。①王家正統+②蘇我系である。いよいよ蘇我が動き出すか。
・嫁1(皇后):穴穂部間人皇女。父は欽明、母はオアネ。蘇我系ですな。
 子に厩戸皇子、来目皇子(第二次新羅征討計画時に筑紫で病没)、茨田皇子など。
・嫁2:イシキナ。蘇我イナメの娘。子に田目皇子(用明没後に穴穂部間人皇女と結婚したらしいが、古代はすげえわ)など。
・嫁3:ヒロコ。出自は葛城直または当麻倉首とあるが、よく分かりません。
 子に当麻皇子(第三次新羅征討計画時に出陣するが、嫁没のため途中で帰還とある)、スカテ姫(伊勢斎宮)など。

102管理人:2012/03/31(土) 02:08:57
敏達崩御後・用明即位前に、よく分からん事件が起きている。

葬儀の際、穴穂部皇子(欽明とオアネの子)が天下を欲する→ウマコは用明推しなので、モリヤと結託
→穴穂部皇子が額田部皇女(敏達嫁、欽明とキタシ姫の子)を犯そうとして乱入→敏達寵臣の三輪サカウがこれを阻止
→皇子はウマコ&モリヤに「サカウは不遜!」と相談し、二人が同意(!?)→逃げるサカウ
→皇子にサカウを殺すよう命じられ、追うモリヤ→皇子はモリヤについて行こうとするが、ウマコに諌められ、待つことに
→モリヤがサカウを斬ったと報告→世の乱れを嘆くウマコ→「お前に何がわかるんじゃい?」と言うモリヤ

恐ろしく意味不明である。この事件の意味や真偽を考えようとしてはみたが、どうにも分からん。
三輪サカウは敏達にかなりの信を置かれていたらしく、それはウマコにとって邪魔な存在であるともいえる。
ただ、穴穂部皇子はモリヤに信を置いており、それはそれでウマコにとってかなり邪魔な存在である。だからこんな態度なんだろう。
結局二年後に穴穂部皇子も物部モリヤもウマコに討たれるわけであるから、さすがに一枚上を行っているわけだ。まあその話はまた後で。

さて、>>101を見る限り、用明はかなり蘇我色が強い。実際、病に伏せたとき、ホトケ信仰を欲したらしい。当然、物部・中臣は反対だ。
でもウマコは穴穂部皇子に(!?)法師を連れて来させた。モリヤは激怒したが、臣下の多くがウマコ支持になっていることに気づき
(そりゃ上記のような事件が本当にあったのなら致し方なかろう)、河内へ退いたらしい。ほどなく用明崩御となる。

103管理人:2012/03/31(土) 14:50:48
どこまで本当の話なのかは分からないが、表面を見る限りでは、ウマコは権謀術数に長けたおっさんであり、
モリヤは空気の読めない馬鹿であり、穴穂部は頭のネジが緩んでいる強欲な男、という風に感じる。
負け組にはもうちょっと他にやりようがあったように思われるのだが、モリヤは懲りずに穴穂部擁立を図るのである。
一方、ウマコは穴穂部と同母兄弟のハツセベを立てんとする。王不在のまま、戦争になるわけだ。
よく見るとウマコの嫁はモリヤの妹なんだよね。ドロドロしとんなあ。

先手を取ったのはウマコ。穴穂部抹殺に成功し、モリヤ追討を決定する。こっから先は有名ですな。
ウマコは厩戸・竹田・ハツセベらの皇族軍やその他諸豪族の軍を率い、河内へ進軍。
味方のいないモリヤは健闘し、何度かウマコ軍を退けるものの、厩戸の仏法祈願作戦が奏功したのかどうかは知らないが、
大将モリヤの射殺に成功。残ったモリヤ軍は殺されるなり、逃げるなり、とにもかくにもいなくなった。

モリヤの領地や奴隷は半分がウマコのもの、残り半分は厩戸が建立した四天王寺のものになったらしい。
これは上述のとおり、ウマコの嫁がモリヤの妹なので、相続権があるとのことである。
この後、ハツセベが即位して崇峻となる。父は欽明、母はオアネ(蘇我)である。敏達・用明・推古の異母弟でもある。
また、今後はホトケ信仰が当たり前のことになっていく。

104管理人:2012/03/31(土) 15:30:38
崇峻が王として立つのであるが、実権は完全にウマコにあったようである。とりあえず恒例の嫁リスト。
・嫁1:コテコ。大伴ヌカテの娘とある。久々に大伴が登場するのは別に構わんが、
 もはやヌカテがどういう出自なのか全く分からない。子にハチノコなどがいる。
 ハチノコは厩戸の計らいで都を逃れ(?)、出羽三山の開祖となったらしい。どういうことだ?
・嫁2:カワカミ。ウマコの娘とされる。

何だかよく分からない。ハチノコは厩戸に追い出されたのだろうか? しかし厩戸はハチノコより
だいぶ若いようであり、ハチノコが出て行ったのは用明代の頃である。厩戸はまだガキだ。よく分からん。

さて、この崇峻であるが、何と暗殺されてしまうのである。王殺しが明記されているのは安康以来か。
592年、崇峻が献上された猪を斬った際、「いつかこのように憎たらしい奴をやっちまいたいZE☆」と言ったらしいが、
それを聞いたウマコが警戒し、東漢コマに暗殺させたのだそうだ。しかしコマは上記カワカミとの密通が発覚し、
ウマコに処刑されたのだそうだ。口封じだろうか? ただ、政権に大した動揺も起きていないことから、
事件の真相は誰もが了承済のことであり、ウマコの専横を印象付けるためだとの説もあるとかないとか。

ちなみに崇峻は臣下に殺された唯一の王であり、書記に生年の記載もない。うっかり王になったのかもしれない。

105管理人:2012/03/31(土) 16:00:19
額田部皇女、推古である。父は欽明、母はキタシ姫。敏達嫁でもある。
頭脳明晰・容姿端麗であったらしい。皇統系譜上では初の女帝である。
本人は竹田皇子(実子)擁立を願ったそうだが、押坂彦人大兄(敏達+息長系)擁立を推す声も多く(反・蘇我勢力であろう)、
結局中継ぎとしてウマコに請われ即位した、との説がある。いずれにせよ竹田はこの後すぐ没してしまい、推古代が続くこととなる。

まずは恒例の嫁リスト。と思ったが、作れないだと? では旦那リスト、といっても当然一人しかいませんが。>>101を引用。
>・嫁2(嫁1没後に皇后):額田部皇女。欽明とキタシヒメの娘である。後の推古。別腹の妹である。
> 継体系・息長系で進めるかと思いきや、こっちは蘇我系である。子にはいろいろいて、菟道貝蛸皇女(すげえ名前、厩戸嫁)、
> 竹田皇子、小墾田皇女(上記押坂彦人大兄の嫁)、タメ皇女(舒明嫁)、桜井弓張皇女(来目嫁)、などがいる。
推古自体は王家正統+蘇我系なのだが、バランスをとろうとしているフシが感じられなくもない。

推古と言えば、忘れちゃいけないのが厩戸である。父は用明、母は穴穂部間人皇女(欽明+オアネ)である。
それにしても欽明と稲目の子孫ばっかりである。次に厩戸の嫁リストを。
・嫁1:トジコ。父はウマコ、母はモリヤの妹。蘇我エミシや崇峻嫁のカワカミと兄妹。子に山背大兄王などがいる。
・嫁2:タチバナ。父は尾張皇子(敏達+推古の息子)、母は分からんかった。
・嫁3:膳氏の女。子に山背大兄王の嫁などがいる。厩戸に信頼されたらしく、合葬されている。

106管理人:2012/03/31(土) 16:28:42
一人書き忘れてたわ。
・嫁4:菟道貝蛸皇女。父は敏達、母は推古。結婚後、すぐに亡くなられたと思われる。

推古代は593-628年とかなりの長期である。とりあえず安定したのであろう。即位時39歳である。
政権運営はウマコ-厩戸のウマウマラインによるものである。政策内容については教科書でも読んでくれ。
ちなみに厩戸没は622年、ウマコ没は626年、推古崩御は628年である。ウマコと厩戸は協調したが、
一方でウマコは厩戸の進める王権強化を警戒していたとも言われている。本当だろうか?
そこまでウマコがアレだとも思わんのだが。いずれにせよ、ウマウマラインが長期安定したのは間違いなさそうなのである。
この時期来訪した隋の裴世清も「蛮族と言われるのが理解できない。筑紫より東は全て倭国領」と言っている。
だから別に「陰謀渦巻く王宮に降り立った傑物は所詮踊らされているだけに過ぎない」とは思っていないのである。
>>99で「乞うご期待!」などと言っておきながら、普通の感想で申し訳ない。

もっともウマコもじじい化してしまっただけかもしれん。また、推古はバランス感覚に優れていたようで、
他豪族の反感を買ったり国益を損ねたりしてまでウマコに譲歩しなかったとも言われている。
ちなみに古事記の記載は推古で終わる。

107管理人:2012/04/02(月) 00:26:48
〜前回までのあらすじ〜
ウマウマで安定。(少なくともその以前・以後よりは。)

半島情勢について。まあ、細かいことは省略するが、7C初頭頃には下記の通りになった。
・百済:弱体化(主に新羅にやられる)→大和と協力(6Cの仏教公伝など)→高句麗とも協力へ
・新羅:6Cに勢力拡大(任那滅亡)→孤立化を危惧し、大陸に協力を求める(南北朝・隋・唐に朝貢)
・高句麗:かつては百済・新羅の脅威、また、もともと大陸とは仲が悪い→百済とは協力路線へ
こんな感じである。つまり唐-新羅ラインと、高句麗-百済-大和ラインが徐々にできつつあったわけだ。
ちなみに7C後半、百済も高句麗も唐・新羅連合軍に敗れて相次いで滅亡することになる。

さて、任那復興を目指し、推古代には新羅征討が三回計画されている。>>101の来目皇子・当麻皇子がそれである。
ちなみに一回目(600年)は実際に派兵して新羅を降伏させているが、大和軍帰還→新羅が任那侵攻、という
誰でも予測できそうな展開になっている。2回目・3回目は>>101のとおり、計画だけで終わってしまったようだ。
6C後半もさんざん百済から救援要請があったようだが、国内がごちゃごちゃしていたので無理だったようだ。
推古代は派兵が可能だったということは、やはりそれなりに安定していたのだろう。

外交上のもう一つ大きなトピックといえば遣隋使・遣唐使であるが、有名なの省略。

108管理人:2012/04/02(月) 01:00:28
すっかり「創作メモ」ではなくなってしまっているが、いつまで古代史ネタをやるのか、その区切りだけは示しておくこととする。
7Cが終わるまで。つまり、文武代でやめます。なぜ文武代かというと、今ここでやっているのは記紀を酒の肴にして
あれこれ好き勝手喋る、ということなのであるが、文武即位というのは記紀的にも一つの完成形だからである。
そもそも記紀、特に書記とは何か、という話になると、つまりそれは天武王権の正統性を証する目的を持って作られたものであり、
それが製作中であった持統代に様々な趣向が加えられ、8C前半になってようやく完成したものである。
要は、せっかく記紀を肴にしているんだから、その完成形である文武でやったらええやろ、という心持なのである。

推古は後継を指名しないまま崩御されたらしい。そこで、候補に挙がったのは田村皇子と山背大兄である。
前者の父は押坂彦人大兄(敏達+息長マテ王の娘)であり、母はヌカデ姫(敏達+伊勢なんとかの娘)である。つまり、完全なる非・蘇我である。
後者の父は厩戸(用明+穴穂部間人皇女)であり、母はトジコ(ウマコ+モリヤ妹)である。もろ蘇我系である。
厩戸・ウマコ・推古が没した後、政権の中枢にいたのはウマコ息子の蘇我エミシである。
ここでエミシは山背大兄に自重を求め、田村を擁立したと言われる。これが舒明である。
まあ、いろいろと説はあるが、管理人は単に山背大兄を推した境部マリセ(ウマコの弟)とエミシが喧嘩してただけだと思っている。
(他によくあるのが、①山背大兄まだ若い説、②山背大兄の人望が腹立つ説、③反蘇我勢力との対立が起こるのを嫌った説。
 ①はそんなに若いとも思えないし、②はいかにもありそうで胡散臭い。③については、まあ、それもあると思う。)
結局、舒明擁立の展開にブチぎれた境部マリセはウマコの墓を造る業務を放棄し、
エミシに反旗を翻したものの(もともと仲が悪かったような気もするが)、逆に討たれてしまった。まあ単なる最有力氏族のお家騒動である。

109管理人:2012/04/03(火) 01:19:28
舒明在位は629-641年。この頃は嵐の前の静けさと言ったところだろうか。>>108のような
経緯があったものの、政治の実権は蘇我エミシにあったと思われる。では恒例の嫁リスト。
・嫁1(皇后):タカラ(後の皇極・斉明)。父はチヌ王(押坂彦人大兄の子)、母は吉備姫王、とあり、欽明孫らしい。
 子にはカズラキ(中大兄、後の天智)、間人皇女(後の孝徳嫁)、オオアマ(後の天武)がいる。これ重要。
・嫁2:ホテイノイラツメ。父はウマコ、母は多分モリヤ妹。子には古人大兄。
・嫁3:カヤノウネメ。このへんの出自はよく分からん。子にカヤノミコ。
・嫁4:タメ皇女。父は敏達、母は推古。子はいないか。

舒明代は特に大きな事件はなさそうである。遣唐使の派遣とか、
蝦夷の小反乱制定とか、遣隋使の僧旻・南淵請安・高向玄理帰国とかくらいか。

舒明崩御の後、嫁のタカラ女王が即位、皇極となる。即位時49歳。
在位中は引き続き蘇我エミシが重用され、後に子のイルカへと代わった。
当然嫁リストはない、と言いたいところであるが、なんと驚くべきことに旦那リストが存在する。
・旦那1:高向王。用明の孫と言われているが不詳。子に漢皇子。これも不詳。
・旦那2:田村皇子。舒明である。上記参照。

おかしなことになっておる。重婚である。つまり、良い言い方ではないが、舒明にはお古を充てられたということになる。

110管理人:2012/04/03(火) 23:10:10
このスレにだらだら書き込んでいることをいちいち読んでいるやつなんているとは思えないが、
もしいたとしたら、管理人が記紀の記述をわりかし信用している派であるということが分かるのではないだろうか。
実際その通りである。もっとも、書かれてある通りのことが真実に近い、ということを証するために、
その背景を探って構築しているという態度には傾かないようにはしている。
何だかややこしいことを言っているが、まあ偉いやつにはいちいち噛み砕かなくても分かるだろうから別に構わない。

ただ、それは履中代以後の話であり、仁徳代以前となると、やはり、わりかし信用している、という具合にはいかない。
別に独特で珍妙な説を垂れているわけではなく、誰かが必ず口にしていそうなありがちな仮説を
立てているだけであるが、まあ、通説とは異なる部分も多かろう。

では履中代以降は全て信用しているのかというと、せいぜい概ね信用している、という程度であり、
そうじゃない部分も当然ある。どういう箇所がそうじゃない部分なのかというと、
それは書記の目的を考えれば簡単な話である。つまり、天武・持統・藤原氏、
および、それらと対立した人の記述については、ちょいちょい怪しんでいきたいところではある。
>>109においてようやく名前の出てきた中大兄と大海人であるが、時代が近いからといって鵜呑みにはできない。

111管理人:2012/04/03(火) 23:28:05
>>110に関連して、もう1点。古事記における欠史十代のことである。
欠史十代とは、仁賢〜推古の十代のことなのであるが、古事記には系譜のみの記載で事績が記されず、
このように呼ばれている。なぜ事績が記されないのか? 一番納得できるのは、
「わざわざ言わなくても知ってるでしょ」という答えである。

そう考えると、管理人は当初、これら十代の実在率(即位含む)を、
仁賢80%・武烈20%・継体90%・安閑15%・宣化25%・欽明99%・敏達95%・用明95%・崇峻90%・推古99%
というくらいに考えていたのだが、案外みんな普通に即位していたのかもしれない。
当然、彼らの書記における記述が全て正しいとは思わないが(特に武烈)、存在自体を怪しむほどではないと思えてきたのだ。
ちなみに全部書くと、神武10%・綏靖5%・安寧1%・懿徳1%・孝昭1%・孝安1%・孝霊1%・孝元1%・開化30%・崇神90%・垂仁95%・景行99%・
成務10%・仲哀30%・応神90%・仁徳95%・履中90%・反正95%・允恭99%・安康95%・雄略99%・清寧60%・顕宗65%、である。
他、過去に書いた王も含めると、倭武5%・神功99%・宇治80%・仁徳二〜四世50%・飯豊60%、といったところか。
つまり武烈・安閑・宣化に関しては、管理人の想像の産物である仁徳二世〜四世よりも低かったわけだ。
ところが、考えを改めた、という次第である。

またしても脱線しているが、まあいいや。
つまり、>>110の続きであるが、今後は怪しい方々が登場するので、穿った見方をするかもしれない、と、ただそれだけのことですよ。

112管理人:2012/06/02(土) 19:25:54
〜前回までのあらすじ〜
もう忘れてもたわ。

>>109でタカラ女王が重婚じゃねえか、というところまで話を進めたんだっけ?
後の舒明に再嫁しているということは、旦那その1である高向王とやらは死んだのか?
高向王は用明の孫というわけだから、それなりに記録が残っていてもいいはずなのだが、何者なのかさっぱり分からない。
クロマロの高向氏と関係があるのだろうか? 息子の漢皇子にしても、用明の曾孫であり、
後の皇極の子であるにもかかわらず、高向王と同様、何者なのかさっぱり分からない。

用明については>>101のとおり。ここにちょっとだけ登場しているタメ君が高向王の親父であるという説があるらしい。
タメ君つったら、のび太より駄目な奴とのイメージしか湧いてこないんだが。
いずれにせよ、それ以上のことは分かりません。

ちなみに名前が似ている高向玄理は生年不詳、608年にイモコらとともに隋へ渡り、640年に南淵請安らと帰国。
646-647年には新羅へ渡っており、さらに654年には再度唐へ。その年に長安で客死している。
高向氏は曹操の末裔を称する渡来の子孫なのだそうだ。

皇極代にはでかい事件が2つある。
①イルカの山背大兄攻め(山背大兄自害)②乙巳の変(イルカ暗殺&エミシ自害)

113管理人:2012/06/19(火) 00:27:11
〜前回までのあらすじ〜
やっぱり忘れてもたわ。
>>108で文武までやるとか言ってるけど、無理だね。いずれ機会があればやるけど。

当初の予定通り、>>2の方向で進めようかと思う次第。4C末〜5C初頭ですな。
ただ、>>2でいう15代の人を「ホムダ四世」に、16代の人はそのまま「オオササギ」とする。
あと、ウジノワキが「ホムダ五世」で、神功やタケシウチは当然出てこない、と。
この構想には下記の利点がある。
・百済や新羅が既にできているので、それらとの絡みも書ける。
・履中代から国史の文字記録を始めたと言われているので、そこへ至るまでの道のりが書ける。
・ヤマモリ/ササギ/ウジノワキと、イザホワケ/スミノエノナカツ/ミズハワケの構造が書ける。
・反正と允恭の間にある断絶を独自の解釈で書けるかもしれない。
・他にもいろいろある。

114管理人:2012/08/26(日) 23:31:29
二年くらい前から書いてる長篇が漸く書き終わりそうな気配を見せてきた。

115管理人:2012/09/02(日) 18:42:07
>>114が書き終わった。続いて推敲に入る。

116管理人:2013/01/21(月) 22:06:26
古代史的なアレのまとめ。(メモ用)

<纏向王朝:2C末〜3C中>
01崇神(10)→…→02垂仁(11)→03景行(12)
 このへんはまあいいとしよう。
<創作メモ①・国つ神の苦悩篇、3C中>
vs04神功→05応神(15)
 上記の天孫vs出雲の国つ神&仲哀(14)遺子との対決。
<空白王朝:3C末〜4C初>
06応神2世→07応神3世
 帰納法。
<創作メモ②・まほろば茶番篇、4C中〜4C後>
08応神4世
 西(出雲・三韓)、東(信州・毛野)の処理に絡んで。
<創作メモ③・新世紀ヤマト篇、4C末〜5C初>
09応神5世【宇治】→10応神6世【仁徳(16)】
 三兄弟の後ろ盾が九州系/三輪系/新規渡来系
<創作メモ④・転生なみはや篇、4C中>
11履中(17)→12反正(18)
 なんか続きみたいなやつ。
<創作メモ(仮)・?篇、4C後>
13允恭(19)→14安康(20)→15雄略(21)
 なんかドロドロしたやつ。

117管理人:2013/01/28(月) 00:53:34
古代史的なアレのまとめ2。(メモ用)

上記>>116創作メモの②を題材にして、『マホロバ茶番篇』を書き始めた。
舞台は4C中頃なので、登場人物は完全に架空のものばかりである。
卑弥呼・景行・神功・応神あたりは近過去の人物(故人)として名前だけでてくるが、
当然、全く別の名前で呼ばれているし、作中の人物たちも彼らが何者なのかよく分かっていない設定。
さわりの部分を書いてみただけなのだが、早くも舞台が
諏訪 → 飾磨 → 武州・忍 → 筑前・朝倉 → 上毛 と、飛びまくりで、
果たしてこんなすっちゃかめっちゃかなものが完成するのかどうか、非常に怪しいところである。

118管理人:2013/02/02(土) 08:05:55
古代史的なアレのまとめ3(メモ用)

上記>>116-117のとおり、4C中頃について書く。方針は以下の通り。
1.文字記録が残されてないので、ほぼ自由。
2.重大事件が起きたような痕跡は今のところ見受けられず、大きな体制の変化は少ないと想定。
3.3Cと5Cを接続する努力が多少なりとも働かなければならない。
4.他にも色々ある。

原因の3Cと結果の5Cについて。
<3C>
・纏向王朝は3C初頭〜中頃である。(考古学)
・纏向王朝は崇神、垂仁、景行の代の可能性が高い。(記紀)
・邪馬台国は北九州濃厚。(倭人伝)
・卑弥呼の死後、国(邪馬台国)が乱れるが、台与擁立後に収束する。(倭人伝)
<5C>
・4C末、倭と高句麗は南韓の覇権を争っている。(広開土王碑)
・新羅と百済は4C半ばに成立。(三国史記)
・5C前半〜中頃は五王代。(宋書他)
・五王代は履中、反正、允恭、安康、雄略の代が濃厚。(記紀)

119管理人:2013/02/02(土) 08:36:43
古代史的なアレのまとめ4(メモ用)

>>118の続き。創作において、過去の人物として名前が出てくる人々の設定集。
【マホロバの大王】
建国以前に畿内で幅を利かせた人物として登場。
=景行 纏向王朝の最後の王。数年間の九州遠征、のち勝利。
=仲哀 香椎で客死。神功の旦那。
【ヒメガミ様】
建国以前の北九州にて衆を束ねていたカリスマとして登場。
=卑弥呼 そのまんま。
=神夏磯媛 書記にて国のボスと明記。景行遠征時に投降、協力。三種の神器らしきものを持っている。
=天照大神 日の巫女。
【トヨヒメ様】
建国を成し遂げた張本人。
=台与 卑弥呼の縁族。国を平定。
=神功 筑紫から東征後、国を平定。仲哀の嫁。
【初代王】
創作内に登場する王家の人間はみんなこの人の子孫。
=応神 仲哀と神功の子。神功の腹の中にいた期間が長い。
【伝説的老臣タケシウチ】
創作内に登場する「王家に次ぐ第二勢力」の祖。建国に貢献。
=武内宿禰 仲哀変死時、神功とともに同席。葛城、紀、蘇我、平群、巨勢、羽田などの祖。長生き。

120管理人:2013/02/10(日) 16:05:10
古代史的なアレのまとめ5(メモ用)

さらに続き。創作において登場する神様の設定集。
【オオモノヌシ】
王家・王国における公式の神様。本拠地は大神神社。出雲とも関係があるらしい。
祭祀については、形式面を三輪氏、技術面を忌部氏が担当し、その力を利用している。
>>119における【マホロバの大王】を祭祀対象として取り込んでいる。
【アマテラス】
西国にて信仰されている太陽神。葛城系氏族が復権を狙う。本拠地は宇佐神宮→伊勢神宮。
王家・王国に仇なすものとして利用されようとしているが、過去にオオモノヌシと契約済みであり、
その契約の恩恵を受けている地域においては共存が可能になるという秘密がある。
>>119における【ヒメガミ様】を祭祀対象として取り込んでいる。
【ミシャグチ】
東国にて信仰されている土着神。ミジャグジとも。本拠地は諏訪大社。
既にオオモノヌシとは出雲系の勢力を介して契約済み。ただし、上記二神の妥協に伴い、
一部の勢力(エミシ)が契約から剥がされて駆逐される未来がある。エミシ≠続縄文人。

オオモノヌシは3Cの危機を乗り越え、7Cまで中心となる。天武・持統朝で没落。
8Cの国家仏教時代にはさらに影が薄くなり、平安遷都に伴い完全に権力との結びつきが消え、忘れられる。
アマテラスは3Cに複雑な盛り上がりを見せるも、乗り換えられてすぐに失脚。やがて流浪。
水面下で再度の乗り換えが進み、天武・持統朝にて復権。しかしこれも乗り換え。
ミシャグチは3〜4Cに危機を迎えるが、譲位により安泰を得る。6Cから再び苦難の時代が始まり、
長年抵抗を続けるも、徐々に忘れられ、12C平泉陥落に伴い完全に歴史の舞台からは消える。

121管理人:2013/11/10(日) 12:16:38
もう忘れてもたわ。

連載開始した中篇は、話が拡がりすぎて収拾つかんくなってきた。

連載中の長篇はとっくの昔に完結した。

122管理人:2013/11/10(日) 12:52:12
>>121の続き

長篇は完成しているんだが、不満があって手直ししたいところもある。
以下メモ。

1.当初は何の構想もなく適当に書き始めたので、
 序盤は伏線になっていない意味不明な場面が多い。
2.千紗都と浜野の行動について、動機の弱いものが多い気がする。
3.佳織はもっと高性能でもいいような気がする。
 やたらと焦っている場面が目について萎える。
4.聡子、六原、優子あたりのキャラは概ね不満なし。特に聡子はお気に入り。
 やはり千紗都の魅力不足を解消したいところ。
5.西大寺のプラットホームにて、目の前でドアが閉まり
 途方に暮れるシーン(Part60・61)で、BGMとしてスペイン村のテーマを流すべきである。
6.他にも色々ある。

123管理人:2013/11/16(土) 15:56:12
>>121-122の続き

7.細かい地名をHIK,TO,TnHなどと伏字にしてあるんだが、
 ややこしくて区別しにくくなっている。これらを普通に表記するか、
 あるいは東射駒、富尾、鷹の原などと架空の地名にするか、
 どっちかにした方がいいかもしれない。祭大寺、とか。

124管理人:2013/11/16(土) 23:51:48
>>123で例示した東射駒とか鷹の原って、なにげにカッチョええな。
富尾は元の方がええかな。他には岳苑前なども頻出。

125管理人:2013/11/23(土) 14:32:12
>>122
とりあえず未upのPart61にて5を採用。

126管理人:2013/11/29(金) 21:35:57
>>122-123の続き

8.Part1とPart2の内容が何となく唐突すぎる。おまけにどっちも読みにくい。
 しかしこの箇所には後々に関係してくる要素を凝縮してあるので、
 削るわけにも加えるわけにもいかん。難しいところである。
9.Part3はかなりマシな方だが、席を間違えて指摘されるくだりはやや分かりにくいかも。
 ちなみにこれは筆者の体験を反映させている。筆者も席が決められていることを
 はじめは知らずに、何故かセ氏の席に座っていたのである。途中で気づいたけど。

127管理人:2013/12/05(木) 22:22:18
>>126の続き

10.Part4は1や2以上に唐突。描写が甘いわ。MLS的なアレの話とか、
  喪失感の話とか、ノリで書いたのでいまいち後半との繋がりも薄い。
11.Part5はこんなもん。Part6は問題あり。
  後半全く使われない設定の話をもっと簡素化すべき。
12.基本的に優子パートと浜野パートはそこそこなのだが、
  佳織パートと少女パートの出来がひどい。
  夏の章から秋のはじめ頃までは全体的にひどいが。

128管理人:2013/12/22(日) 17:09:57
>>127の続き

13.Part7はもう少しエピソードを盛り込んでもいいかもしれない。
  あと、聡子のキャラが何か後半と違うのが気になる。
14.Part8は>>126-127で問題視している唐突感が発露しまくっているが、
  このパートは嫌いじゃないんですよ。かなり好きなんですよ。
  出来不出来と好き嫌いは全然違うってことの好例ですな。
  モスラと笑点を併用する機会なんて一生のうちにそうそうないからね。
15.Part9は平凡やな。悪くはないが、面白くもない。
  Part10も>>126の11で書いたように、簡素化が必要か。

こうやって要所要所をチェックしていけば、おのずと改善できそうな予感。

129管理人:2013/12/30(月) 20:40:13
>>128の続き

16.Part11もやっぱり聡子のキャラがよく分からんな。この時点ではまだ迷走中だったのか。
  それにしても優子主観のパートは小学生の感想文みたいな調子である。
17.基本的にこの話は、①優子主観(一人称わたし、小学生感想文風)→②少女客観(三人称)
  →③浜野主観(一人称僕、日記)→④佳織主観(一人称私、中二風)、の繰り返しなのだが、
  書いている本人は分かるが、果たして何も知らん人が読んで判別できるだろうか?
  各パートにサブタイを付して、誰主観か明記した方がいいかもしれない。
18.Part12は同時進行で当時制作していたMLSの影響がモロに出とる。
  この辺から少女パートと佳織パートの時制が前後しまくるのでややこしい。
  もう少し分かりやすくした方がいいのかもしれない。その点、Part13は
  そういう表現上の衒いがないが、何故か好感も持てないという。

130管理人:2014/01/04(土) 02:10:59
物語の類型の一つとして「セカイ系」と呼ばれるものがあるのだそうだ。
九十年代末からゼロ年代初頭にサブカルの創作物で流行ったものらしく、
登場人物周辺の日常における行為と世界の危機が繋がっている物語を指すそうだ。
主に下記の特色がみられるらしい。

①基本的に主人公(男)はヘタレで自意識過剰である。
②卑近な日常と世界が直接繋がっており、間に存在するはずの社会や制度がまるで存在していないかのようである。
③世界の命運は大抵ヒロインに託されている。
④主人公とヒロインが恋仲になったりもして、その経緯が世界の存亡にも関わったりしちゃう。
⑤他にも色々ある。

管理人はそのテの創作物を読んだことも観たこともないので断言はできないが、
今ここで推敲メモを垂れ流している長篇は、上記の定義からすると「セカイ系」にカテゴライズされるのではなかろうか。
そもそもタイトルが「〜ワールズエンド」であるし、コミックス的な軽さを追求して書いた話なので、
そういう考え方もありそうではある。でもなんか嫌だなあ。

ただ、上記の定義とは異なる部分もある。
①については、ヘタレで自意識過剰な主人公(男)に該当する人物は登場するものの、本人は世界の危機など全く意識していない。
②については、そもそも大部分の登場人物は、人外を除いて、そんなことは意識しておらす、日常や社会のことしか語っていない。
③については、人外によってそのことが語られるものの、事実関係については不明であり、当の人外もそのことで悩んでいる。
④については、③の前提を正しいとすると、まあ、そのとおりかもしれんね。逆に作用しているけど。

まあ、でも、あれだ。自己存在について考えたら、世界というものが対象化されることが多いわけで、
別に一時的な流行に固有のモチーフでもなかろうに。何かつまらないことを書いてしまったな。

131管理人:2014/01/08(水) 00:29:51
>>129の続き

19.Part14では時制が乱れまくっとる。Part8とPart12を別視点から観ている感じ。
  しかし、被る個所は少なく、補完的な意味合いが強いので、突っ突き合わせながら
  読まないと分からん仕掛けになってある。誰がそんな面倒臭いことをするというのか。
20.Part15は各章に一つずつ散らせてある六原パート。基本的に六原パートの直前直後は
  同一主観によるパートである。(春と冬は佳織、夏と秋は浜野。)
  で、Part16では14からの時制の乱れを引き継いでいて、時間の流れとしては、
  Part8全体&Part14前半→Part14後半&Part12中盤→Part16前半→Part12後半→Part16後半
  となっておる。分かるかいな。その点、Part17は平和でええわ。

132管理人:2014/01/11(土) 23:27:22
>>131の続き

21.Part18に至って漸く、支離滅裂だった少女パートにおいて話が動き出す。
  この物語においては結構重要というか転機というか、とにかくターニングポイントなわけだが、
  表題を冠した歌が出てきたり、世界について語られたり、何気に悪くないような。
  あとは分かりやささえあればいいんだが。
22.Part19に至って漸く、日常的だった浜野パートにおいて、非日常部分で話に絡みだす。
  なんか無理矢理っぽいな。Part20もまとめって感じだ。ルラフェンの男の台詞は名言だよね。
23.春の章における問題は、①分かりにくいからもっと肉付けすべき、②後半不要な設定は削るべき、
  ③キャラの迷走を修正すべき、④他にも色々ある、といったところだろうか。

133管理人:2014/06/08(日) 18:57:29
>>2-5で考えていた物語について、再度書く気になってみたのでもう一度整理する。
以下は前にも書いた管理人の採用する設定。

1.崇神(10)垂仁(11)景行(12)の三代は纏向王朝の王である。
  3世紀初頭から中頃まで。記紀と考古学から。
2.景行(12)の九州遠征、仲哀(14)の客死、神功・武内の東征は地理的に繋がっており、
  一連の流れにある。卑弥呼の死後に男王(=仲哀)が立つも国が治まらず、
  女王(=神功)が立って国が治まる。3世紀中頃。記紀と魏志から。
3.神武(1)は崇神(10)・神功・応神(15)の伝説をもとに
  作られているという推測。建国と東征の類似性から。
4.ヤマトタケルは景行(12)の遠征や神功の東征、或いは建国後の東国・西国への
  派兵をもとに作られているという推測。
5.成務(13)は弘文(39)が投影されているという推測。
  天智(38)=景行(12)・仲哀(14)、成務(13)=弘文(39)、天武(40)=神功・応神(15)。
6.応神(15)と仁徳(16)の間のオオヤマモリ謀殺やウジノワキ自殺は
  3世紀末か4世紀末かどちらかわからないけど、多分4世紀末という推測。

134管理人:2014/06/08(日) 19:13:25
>>133の続き

7.倭の五王については、讃=仁徳(16)、讃の最後の1回(讃?)=履中(17)、
  珍=反正(18)、済=允恭(19)、興=安康(20)、武=雄略(21)が妥当か。
  「讃死して弟珍立つ」に関しては、「珍って誰?」→「前の王の弟だよ」
  →「前の王は讃だっけ?」という流れによって生まれたものと推測。(履中の在位期間が短い)
8.3世紀中頃の事件は国の成り立ちに関わる重要なものだったので、人々の記憶に残り、
  神武紀も含めて詳細に語られている。4世紀の出来事は不明だが、順調に発展したと推測される。
  ヤマトタケル伝説や神功の三韓征伐、或いは古墳の広がりが4世紀の順調さを反映している。
9.おそらく5世紀前半から文字を活用して歴史を綴りはじめたとされており、
  まずは遠い過去の3世紀と4世紀がごっちゃに記され、続いて適当に外国の歴史書から
  外交記事などを引用し(応神代・仁徳代のこととされている)、近過去である仁徳即位までの
  経緯が描かれ、以降履中代から順に書かれていると思われる。

以上に基づいて4世紀末の仁徳即位までの経緯を面白おかしく書きたいと思った次第。

135管理人:2014/06/08(日) 19:24:56
>>133-134について、即位順に書くと下記の通り。

<3世紀前半>
【1】崇神(10)→【2】垂仁(11)→【3】景行(12)
<3世紀後半>
東【3】景行(12)=仲哀(14)→【東4】成務(13)→消滅
西【3】景行(12)=仲哀(14)→【西4】神功→【西5】応神(15)
東西合体【5】応神(15)→【6】応神2世
※応神は東の王である仲哀と西の王である神功の間に生まれたとされる子供である。
<4世紀>
【7】応神3世→【8】応神4世→【9】応神5世=応神(15)→【10】宇治→【11】仁徳(16)
<5世紀前半>
【11】仁徳(16)→【12】履中(17)→【13】反正(18)→【14】允恭(19)

【6】〜【9】の期間について何人の王が立ったのかは不明だが、
在位四半世紀くらいと仮定してこんな感じかと推測。

136管理人:2014/08/17(日) 16:38:01
>>135の続き

さらに王朝別に分けるとこんな感じ。
<①纏向王朝>
【1】崇神→【2】垂仁→【3】景行≒仲哀→【東4】成務
<②ホムダ王朝>
(【3】景行→)【西4】神功→【西5】応神
→【6】応神2世→【7】応神3世→【8】応神4世
→【9】応神5世≒応神→【10】宇治
<③ササギ王朝>
【11】仁徳→【12】履中→【13】反正
<④ササギ王朝・2期>
【14】允恭→【15】安康→【16】雄略→【17】清寧→【18】飯豊
<⑤ササギ王朝・3期>
【19】顕宗→【20】仁賢→【21】武烈
<⑥新・ホムダ王朝?>
【22】継体(→【23】安閑→【24】宣化)
<⑦欽明系王朝・1期>
【25】欽明→【26】敏達→【27】用明→【28】崇峻
→【29】推古→【30】舒明→【31】皇極
<⑧欽明系王朝・2期>
【32】孝徳→【33】斉明→【34】天智→【35】弘文
<⑨天武系王朝>
【36】天武→【37】持統→【38】文武→【39】元明→【40】元正
→【41】聖武→【42】孝謙→【43】淳仁→【44】称徳

137管理人:2014/08/17(日) 17:03:04
>>135における王朝の変わり目には、大なり小なり政変が起きているわけだ。

①→②:3世紀中頃。景行の九州遠征と神功東征。
②→③:4世紀末。ヤマモリ謀殺と宇治自殺?
③→④:5世紀前半〜中頃。何も起きていないかもしれないが、
 反正と允恭の間に妙な断絶を感じる。
④→⑤:5世紀後半。雄略朝の破綻など。
⑤→⑥:6世紀初頭。仁徳系の断絶など。
⑥→⑦:6世紀前半。磐井の乱など。
⑦→⑧:6世紀中頃。乙巳の変など。
⑧→⑨:6世紀後半。壬申の乱。

各王朝の有力者
①大伴や物部の他、瀬戸内・山陰・東海あたりの有力者。
②武内系諸族(葛城がトップ、他に蘇我、紀、平群、羽田、巨勢など)、大伴や物部もそれなり。
③葛城がトップであるが、前王朝末期から和邇が台頭。
④和邇が総合的にトップ。葛城滅亡。
⑤平群滅亡により、相対的に大伴・物部・蘇我が上がってくる感じ。
⑥変わらず物部と蘇我。大伴失脚。
⑦物部と蘇我の2頭体制も、守屋死亡により蘇我の独壇場。
⑧蘇我から中臣へ。
⑨天武・聖武・孝謙あたりは親政志向。それ以外は藤原が強い。

138管理人:2016/04/17(日) 19:22:27
>>137
⑦→⑧と⑧→⑨は6世紀じゃなくて7世紀だわな。
そんな間違いをしてしまうほど、欽明系・蘇我系の時代は長かったわけだ。
天武・持統朝ってのは一種の完成形なわけだけど、
⑨で書いた親政の時代はいずれも短い。
不比等にとっては短かろうが完成形なんだろうけどさ。

大抵親政ってのは上手くいかない。雄略や孝謙・称徳もそうだが、
後鳥羽や後醍醐も失敗しておる。

139管理人:2016/04/24(日) 15:33:37
SFCの名作TOで久しぶりに遊んでいて思ったんだが、
>>135の①→②の政変って、ハイムの戦役に似てるよね。
その場合、さしずめ卑弥呼がドルガルアで、台与がカチュアになるのか。

140管理人:2016/06/19(日) 21:14:36
纏向古墳群→大和・柳本古墳群の流れは、
やはり>>136におけるホムダ王朝のものなんだろうと思う。
その後、4世紀末頃から佐紀とか馬見とか百舌鳥とか古市とか
色々出てきて、このあたりに当時の混迷具合がうかがえるような気がする。

佐紀はやはり宇治を擁立する和邇一派のものだろうか。
馬見は葛城一派だろう。百舌鳥・古市は仁徳一派か。
仁徳を擁立しているのは葛城一派のような気がするが、
そのへん、仁徳はうまいことバランス取ってたっぽい(適当)。

>>135-136における応神5世=応神が宇治に肩入れしたのも
葛城一強を嫌うバランス感覚のような気もするが、
晩年に摂津大隅にも宮を構えていたあたり、老後の面倒は
一番優秀な子である仁徳に看てもらおうとしていたからなのか。

141管理人:2016/06/19(日) 21:37:03
ただ、>>140のバランス感覚は葛城vs和邇の火種を撒いただけであり、
それが応神の死後に噴出することになるわけだ。
大山守と宇治はその犠牲者だろう。磐之媛もそうかもしれない。
仁徳の好色には争いの芽を摘もうとする苦心が垣間見えるではないか。本当か?

3世紀後半から4世紀後半までは、やはり葛城一強だったのだろうか?
ホムダ王朝の祖ともいえる神功は、武内の助力あってこその躍進だったわけだから、
やっぱり一強と考えるのが自然な気がする。ただ、それは和邇の祖である
タケフルクマにも同様のことが言える訳だが、さすがに貢献度に差があったか。

宇治の親和邇・反葛城が強すぎたから、仁徳が再度バランスを取り直したのかもしれない。
仁徳死後の履中・反正・允恭の三代にしたって、みんな襲津彦の孫だから、
まだ葛城はそこそこ強い。ところが安康の代になって、いきなり事態が動き出すわけだ。
そう考えると、眉輪も雄略の兄弟達も葛城vs和邇の犠牲者か。

142管理人:2016/06/19(日) 21:57:42
・物部
崇神(神武≒崇神と考える)よりも古くから奈良盆地にいた人々。
石上が本拠地。軍事氏族。景行の筑紫遠征に従った流れで、
神功東征→ホムダ王朝の流れにも組み込まれたと思われる。
その後も長らく国軍として重用され続けたが、守屋代に滅亡。

・大伴
纏向王朝時代に王族の親衛隊的立ち位置で参画したと思われる。
その後の動向は物部とほぼ同じ。金村代で没落。パッとしないまま応天門の変で滅亡。

・忌部
何となくだが、北方系が多い弥生人の中では、珍しく南方系のような気がする。
温暖な地方に足跡が多く残されているし。倭人伝に描かれる
邪馬台の描写が南方系なので、卑弥呼陣営の主力なのではなかろうか。

143管理人:2016/06/19(日) 22:08:21
・葛城
神功東征あたりから登場。古参の賀茂を吸収し、葛城の地に根付いたと思われる。
武内系氏族で長らくセンターを務めたが、眉輪王の変で滅亡。

・平群
葛城の庶流。二代目センター。雄略死後にいろいろやりすぎて没落。

・蘇我
葛城の庶流。?代目センター。入鹿代で本流が滅亡した話は有名っすね。

・紀/羽田/巨勢
目立たない葛城の庶流たち。

144管理人:2016/06/19(日) 22:21:40
・和邇
ホムダ王朝成立期より曽布から南山背一帯に根付いたと思われる。
場所柄、渡来人を取り込んでいたのではないかと推測する。
宇治擁立に絡んだこともあって、王仁博士と大いに関係ありそう。
5世紀が全盛期であるが、6世紀には庶流を残して本流は消える?

・春日/小野/柿本
文化人要素が強そうな和邇の庶流たち。

・中臣
和邇とは逆に、5〜6世紀頃に突然現れる謎な連中。古い記録にも登場するが、
それは不比等による創作のような気がする。鹿島・香取→枚岡→春日の流れから、
東国の軍事氏族が和邇庶流の春日と結びついたと思われる。没落なんてしない。

145管理人:2017/12/31(日) 03:23:45
>>142-144
単純に、和邇→中臣、なんじゃないのか?
物部・賀茂・大伴は纏向陣営。忌部は邪馬台陣営。
葛城・蘇我・平群は神功応神陣営。
和邇・中臣はさらにその後。蝦夷征討の東国武士が中央に戻ったような感じか。
安倍とかはそもそも蝦夷なのか。蝦夷ってのは、反神功応神の旧纏向陣営なのか?

それにしても宇佐と伊勢はなんとなく似ている。
音もそうだが、地理的なアレが似ている。
都から東方の山を越えた先に、北に向かって広がる海沿いの平野があって、
さらにその東方には山がちな半島があって、その半島の付け根にあるあたりが似ている。

146管理人:2017/12/31(日) 03:29:35
伊勢は持統が宇佐を模して創ったものではなかろうか。

147管理人:2018/06/16(土) 13:34:54
一年くらい前から『祭祀氏族の百年祭』って題の中篇を構想していたわけですよ。
どんな話か、っつうと、
平安初期、没落貴族の忌部氏とバカ殿扱いされている平城帝がタッグを組み、
北家主導の平安ageと藤原史観に対抗するため、表向きは平城遷都百年祭準備を謳いつつも、
大和と山城の国境沿いの丘の上に白亜の学問所を設置し、反藤原的な歴史学講義を展開してゆく。
やがて朝廷内の対立が深まり、譲位や遷都を経て、百年祭期間中に戦乱が勃発。
しかし嵯峨帝サイドの冬嗣や田村麻呂の活躍により事態はあっという間に収束し、
アンチ藤原のシンボルでもあった学問所は冬嗣によって閉鎖される。

ってな話の予定だったんだが、最近の動向により、全く笑えなくなってきたんだが。

ちなみに物語の最後は、歴史学講義を主導した失意の忌部氏が「歴史」での反逆を諦め、
「物語」によって一矢報いる計画を慰めとして終わるつもりだったんだが、
筆者が物語中の忌部氏みたいになってないか?ってな気がして、萎えてきた。

148管理人:2018/06/17(日) 01:18:13
>>147
萎えてきた、とか言っておきながら、こうやって文字に起こしたものを
読んでみると、なぜか面白そうに思えてしまうから不思議だ。
ちなみに最後の「物語」云々は竹取物語のことを想定しているんだが、
別に忌部氏は作者候補には通常上がってこない。
でも確かかぐや姫の名付け親って忌部のどうのこうのって名前じゃなかったっけ?
だったら忌部氏でもいいと思うんだ。

149管理人:2018/06/17(日) 15:30:05
というわけでさわりの部分だけ載せてみた。

150管理人:2018/06/28(木) 20:15:56
どうってことないような気がしつつも、なぜか妙にセンチメンタリズムに捕らえられてしまうのは、
つまりこういうことなんだな。

『高校三年間を過ごしての感想を一言で表すと、こうなる。
 平和だった。
 中学生特有の不満や憤りを抱えたまま入学した時、正直拍子抜けした。小便臭い感情のトゲトゲが一気に抜け落ちた。
 以来三年間、何かに反抗しているわけでもなかった。かといって、飼い慣らされているわけでもなかった。
 ただ、平和だった。
 ぼくは噎せ返るような甘ったるい空気の中をほわほわと漂っていた。
 この先、きっと辛いぜ。
 人生に疲れて立ち止まってみたとき、ああ、あの甘ったるい空気が敵だったんだな、と思うだろう。
 優しい海でもあり、恐ろしい仇にもなる。そんなこの場所をぼくは愛しているし、永遠に愛し続けるのだ。』
(『兎追いし、かの海』「36.噎せ返るような甘ったるい空気の中をほわほわと漂っていた」より)

十五年以上前に書いたものだけど、そんな風に思っていたのか。分かる気がする。

151管理人:2018/06/28(木) 20:23:02
>>147-149
この構想中の話について、いろいろ調べてみるうちに、
式家のエース・藤原緒嗣ってやつが相当興味深いように思えた。
何だか味わい深いやつだ。

152管理人:2018/08/18(土) 22:31:15
>>147-149
書き進めている。順調である。随時うpしている。書いてておもろい。
登場人物の中では、やはり陛下が一番好きかな。
今のところ、苦心しているのは、藤原内麻呂と藤原仲成の二名。
序盤から中盤にかけては、前者は事なかれ主義の好人物、
後者は無能な変態、として認識されているんだけど、この先、
両者とも凄みのある策士としての一面を覗かせていきたいところ。

153管理人:2018/08/31(金) 20:01:40
いろいろ事情があって主人公の名前を変更した。

154管理人:2018/09/02(日) 02:08:22
>>153
なぜこういうことになるかというと、忌部氏の系図がよく分からんのが問題なわけですよ。
浜成-広成-(明成)-伴主-文山
ってな具合に想定されていることが多いけど、明成については後の創作と見る説もある。
管理人も同じように考えていたので、当初は伴主を主人公にしていたわけだ。
何より明成って名前が当時っぽくないしな。いかにも作り物臭い。
ただ、広成と伴主の歳の差も気になるわけで、807年時点で81歳広成の息子が、
850年代に伊勢へ行くのも、何かおかしいような気がするわけだ。
ただ、803年に遣新羅使を務めた浜成の息子が807年に81歳なのもおかしいんだが。
浜成と広成には同一人物説もあるけど。生年が分かっているのは文山(822〜)だけ。

で、結局管理人は下記のように設定した。
 浜成(727-808)※807年に81歳なのは広成じゃなくて浜成ってことにした。遣新羅使は冥途の土産
 広成(750-)
 明成(774-)※結局採用。なぜなら、主人公は774年生まれにしたかったから。
 伴主(798-)※当初はこいつを主人公と考えていたのだが、やはり無理があった。
どうせフィクションの登場人物なんだから、存在するのかしないのか分からない明成を主人公にした方が
自由度が高くてええやろという結論に落ち着いたのであった。


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