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聖典引用 板
411
:
うのはな
:2012/04/15(日) 19:54:37 ID:El6gIMAw
悪なし、罪なし、人類無罪
私の『美しき日本の再建』という本の中にちょっと書いておきましたがね、それにはある奥さんが夕方に目を
覚ましてみたら、娘の部屋でギャーと娘の叫び声が聞える。お父さんがまた叫び声をあげた。
何事かと思ってそのお母さん目を覚まして行ってみたら、強盗がはいっておった。
そのお嬢さんは二十歳くらいのお嬢さんですが、このお嬢さんの腕の両方からはがいじめにして、脇の下に腕をつっこんで、
そして喉にナイフをつきつけて“金を出せ”というのです。“金を出さなかったら、ナイフで頚動脈を切るぞ”という格好をしている。
その時、このお母さんは、熱心な生長の家白鳩会員でした、それで夫は叫び声をあげたまま出て行ってしまってどこへ行ったかわけが分らないが、
彼女は「この男も、“神の子”である神性が宿っているから悪いことはしない」と心に念じていると、彼女すなわちそのお母さんには
“神の智慧”が湧いてきた。これは、始終神想観をして、神様とつながっていなければそういう智慧は湧いてこないのです。
「あんた早く逃げなさい」と言った。強盗にですよ。
「今、夫がここへ来たけれども、どこかへいっちゃったでしょう。あれは警察へ行ったんだから、あんた、ながくここにいると警察がでてきてあんたをつかまえるから
早く逃げなさい」と言ったんです。ナイフで喉とつかれたらいかんというので、娘はナイフを手で掴んでいる。その掴んでいるところから血が流れている。
「そのナイフを捨てなさい」というとその少年はナイフを捨てた。
「血が流れているじゃないですか。包帯をしてあげます」
娘の手から血が流れていると思ったけれどもそうじゃなかった。強盗の少年から出ている血だった。
それで薬をつけてあげるからと言って、薬をつけて包帯をしてやった。そして、
「はやく逃げなさい。夫が警察へ行って警官を連れてくる時間だから早く逃げなさい」と言ったら、その男は、
「僕、逃げません。つかまります」といって、警察がくると自ら手をつき出して縛って下さいといった。
これは事実の話です。そんな強盗になっている少年でも、その実相を観れば善なるものなのですよ。
すべて善なるもので、そんなに自分をいたわってくれて、警察につかまらないで逃げて下さいというその愛情に打たれたのでしょう。
それで自ら縛られて行くというようになったと言うのであります。
観ればその完全な姿がそこにあらわれてくるということになるのであります。
『生命の根元を培う新しき教育』P59-60 谷口雅春先生著 新教育者連盟編
412
:
ハマナス
:2012/04/15(日) 20:00:42 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
昨日は仕事から帰ってバタンキュ―、パソコンをつけっ放しで寝てしまい聖典引用を
お休みしました。
今朝早く起きて、びっくり!! WEB誌友会の皆様の活発なご意見を拝見致しました。
素晴らしいですね。
トキ様を始め、司会、司会補佐役、ご参加の皆様お疲れ様でした。
色々と学ばせて頂きました。ありがとうございます。
今日は教区の用事で出掛けていました。
信念は継続せねばならない (『新版 生活の智慧365章』P.127)
祈りの成就に対して必要なことは、「必ず成就する」「既に受けたり」と云う深い信念が
必要であると同時に、その信念が“一時的”のものではなく、「成就」が現象化するまで、
すこしも変わらずにその信念を永続しなければならないのである。祈りの時間の十数分間だけ、
「既に成就しました、有難うございます」と念じても、その祈った事物が現象化しつつある
途中の時間に於て、「まだあの事は出て来ないがな。駄目かな」などと考えては、「既に
成就しました」と前(さき)に念じた事をみずから打ち消しているようなものである。
従って前(さき)に折角祈ったことが実現しないのも無理がないのである。
一旦、或る事柄の成就を祈ったならば、それが成就するまでは「すでに成就している
光景」を常に心に描きつづけて、その反対の「不安の念」を一切起こさぬようにするが
よいのである。無論、他の仕事をしている最中に、そんな「光景」を現在意識の念に
描きつづけることはできないが、「必ず成る」と云う深い「期待の念」を崩さずにさえ
いるならば、潜在意識は、前(さき)に祈った時の「必ず成る」と云う念を持続している
のだから差支えないのである。暇があるときに其の問題に就いて思い出したならば、
「ありがとうございます」と神に感謝の言葉を心に唱えて、「既にそれを受けたり」と云う
感銘を深めるようにするがよいのである。
感謝合掌
413
:
SAKURA
:2012/04/15(日) 20:13:29 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様へ
こんばんは…
ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。今日の休日は、如何でしたかしら〜〜ン?
毎日の聖典引用板で“投稿”していきますと、
此方も改めて“教えられる事”が多々ありますから?【不思議な国のアリス】です。
今日も、何が出るのか分らず…“勉強スタ−ト”です…。
では、“本…”を、開きます〜〜〜!目を閉じまして…心を静めて…!【オ−プン!!】
今日の“タイトル…”は〜〜〜〜〜?????(微笑み)
■【幸福を招く365章】
――――創造の選択は人間に委されている――――
宇宙は大自然の創造してやまない力が満ち満ちている。人間は生まれるまでは、
大自然は自己みずからの想念の形に、大自然の姿を造講して来たのであるが、
人間が神の創造力の自覚的意識的発想の中心として出現して来て以来は、聖書は
「審判は子に委ねられたり」とイエスは云っているのであるが、宇宙の創造力を
どんな形にあらわすかは、人間(神の子)が出現して以来は、人間にその「想念」
(創造の模型)の選択力が与えられていると云う意味である。
自己自身の想念の相に自分の身辺の事が作られ、自己自身の想念が選んだ通りの
形に宇宙の創造力は働いてくれるのである。爰に於て人間は宇宙の創造力の主人公
となったのである。
宇宙にエネルギ−が充ち満ちているのであって、人間がエネルギ−を創造するので
はないのである。人間はそのエネルギ−を物質化して自己の想念する位置に配置
するのである。人間は自己の欲する位置に必ずしもそのエネルギ−を配置することは
出来ない。それを欲する位置に配置するのは、心の方面では心の法則に従わねば
ならないし、物質の方面では物質の法則に従わねばならない。
尤も物質の法則を探求し、それを利用するのも心の力によるのであるから、
人間は物質両面に於ても心によって運命の支配者となるのである。
善き想念を意志強く持続し、そこから自然に動く叡智を意志強く実践して
行く者が人生の勝利者となるのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。
■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 >240 です!!
414
:
金木犀
:2012/04/15(日) 23:49:20 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第五章 泥中にあって既に咲く蓮華」より、一部抜粋
人間の肉体がどんなに健康であっても、やがて死ぬものであるというのは、“肉体”というものが“人間”そのものでないからなのである。人間は“神の子”であり、神の最高の自己実現であるから、神が不死不滅であるように人間も亦、不死不滅である。“人間”そ’の’も’の’は時に応じ、必要に応じ、修行のためや、訓練のために、さまざまの境涯に於いて、さまざまの姿をあらわすけれども、結局、その本体は不死であるのだ。
◯
肉体は人間ではないと言うのは、肉体というものは、“人間”なる“神の子”が地球という天体の上で空気の気圧に抵抗して、使命づけられた仕事を果たすために必要な内圧をもつようにつくられた一種の“宇宙服”又は“作業服”が肉体なのであるからである。肉体の実質は物質でできているように見えているけれども、それは五官には、そう感じられるだけで、肉体の実質は物質ではない。それは嘗て「“心の絃(いと)”を組み合せて肉体の繭を造り」と譬えをもって示しておいた通り念絃の弾奏する“生命の韻(ひびき)”が、五官の感覚に触れるとき翻訳されて“物質”として感じられるのである。物質と見えるものは、悉くあるアイディアを載せた“生命の韻(ひびき)”が、“五官の感覚”という“認識の形式”を通過するときに“物質”として変貌して見えるのであって、その実質は「念絃の弾奏」する“生命の韻(ひびき)”にほかならないのである。
つづく
415
:
金木犀
:2012/04/16(月) 00:20:37 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第五章 泥中にあって既に咲く蓮華」より、一部抜粋(2)
生命は相形(すがたかたち)なくして宇宙に充ち満ちており、それが“わたし”である。あなた達に生命が宿っているのは“わたし”があなた達に宿っているのである。生命は生きているのであるから常に動いているのである。しかし生命は真に生きているのであるから、単に物理的振動を繰返すだけではなく、また単に惰力だけで運動方向が決定せられるというようなものではなく、知性を持ち、その個性ある知性に従って自主的に、その知性の動きによって個性あるアイディアを心に描く。生命はそのアイディアを載せてアイディアの指向する方向に向かってアイディアの内包する様相を実現するために動く。それゆえに、生命の波動に載せられたアイディアそのものも恰も生きていて、自働的にアイディアの内包する形相を具体化する力があるように見えるのである。
◯
自然界は“わたし”の知性がその全知にして全能の力によって描き出したるアイディアが形相化してあらわれたものである。“わたし”は創造主であり、宇宙大生命であり、あなた達の生命の本源者であり、あなた達に生命を賦与した者である。それゆえに、あなた達は“神の子”であり、あなた達の生命は、実は“わたし”の生命である。それ故にあなた達の生命は、常に永遠に健康であって、病気にかかることも、老いることも、衰えることも、疲れるなどということも決してないのである。
(つづく)
416
:
金木犀
:2012/04/16(月) 00:47:10 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第五章 泥中にあって既に咲く蓮華」より、一部抜粋(3)
“わたし”は大自然のすべてのありとしあらゆるものと、生きとし生ける凡ゆるものとをつくって、それぞれに個性ある特色と美と働きとを備えるようにしたのである。“わたし”の内には“無限の個性”と“無限の形相”と“無限の美”とがあるのである。自然界のすべての存在を見よ。海の波の上に聳える奇巌怪石の美を見よ。海の中にも地上にも劣らぬ美しき樹草を“わたし”は造った。そこには森林のような珊瑚の幹や枝があり、色々の海藻が、潅木や篠草(ささぐさ)のように色とりどりに繁っている。その樹草の間を、鰭を色彩ゆたかにパラソルのようにひろげて散歩する魚たちの美しさを見よ。その美は単に色彩のさまざまな美しさだけではない。それぞれの魚の形にはみな個性を備えた美しさがあるのである。“わたし”は“無限の個性”であり、“無限の色彩”であり、“無限の形相”である。わたしは、それを具体化し実現するのに歓びを感ずるのである。この世界を“わたし”は“歓び”の表現として創造したのである。
◯
“わたし”の創造したものはすべて“善”である。“悪しきもの”はひとつも、また何処にも存在しないのである。すべてのありとしあらゆるもの、すべての生きとし生きるもの、皆ことごとく善である。あなた達はこのことを信じなければならない。
そしてすべての被造物の最後に、すべての被造物が単に個性をもってバラバラに存在するだけでなく、それらを互いに連絡させ、結び合せて、全体として調和ある連繋(つながり)と美しさとを実現するための主働者とするために“わたし”は人間を――そうだ“あなた”たちを――地上に生み出したのである。そしてそれまでに創造ったすべてのものを美しき妙なる一大体系に組織する主働者として“わたし”は人間を地上に生み出したのである。
417
:
金木犀
:2012/04/16(月) 01:11:01 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第五章 泥中にあって既に咲く蓮華」より、一部抜粋(4)
“わたし”は人間を地上に生み出したのであって創造ったものではない。創造られたものは単に“被造物”であっていつまでたっても“創造主(つくりぬし)”になることはできない。“被造物”は永遠に被造物であって創造主になることはできない。創造主(つくりぬし)はいよいよ高く、被造物は永遠に低いのである。その隔たりは無限であって、雲泥の懸隔ぐらいの差ではない。
けれども人間たちよ、“わたし”は創造主(つくりぬし)として“あなた”達を被造物としてつくったのではない。“わたし”は“あなた”達を生み出したのだ、“神の子”として産んだのである。それゆえ、あなた達は“わたし”の後嗣者なのである。神はあなた達人間の父であり、母であり、神の“いのちの延長”として、“わたし”が“あなた”達を産んだのである。そして“わたし”は“あなた”達を“わたし”の嫡出子として“わたし”のもつ一切の善徳を“あなた”達のすべてに譲って、あなた達のひとりひとりが“神の子”として、他の一切の被造物を支配し、塩梅(あんばい)し、過不及を調節し、すべてのものに適当な位置と役割を与え、すべての創造られたるものが、互いに相食むものなく、傷つけ合う者なく、天地一切が、神の国、即ち“霊的実相の世界”の通りに渾然一体に調和あらしめる権利と能力(ちから)とを与えたのであった。
◯
あなた達は“神の子”として、神の生命の延長として、神の生命の具体的な最高顕現として此世に出現したのであるから、決して被造物ではないのである。あなた達人間は“わたし”の天地創造の主体者の後継者として、大自然の生(な)まの儘のはたらきでは成就し得なかったところのものを編曲し、編成し、一層完全に、被造物の各々に秩序ある連繋(つながり)を与えて、大自然のままでは混沌として秩序なき状態であった万物を、一層秩序ある状態に再組織せしめ、大自然の一切のものが、バラバラの無秩序の繁茂ではなく、美的秩序を得ることによって、完全なる有機体即ち渾然一体の生命体ならしめる使命を与えたのである。
◯
あなた達は“神の子”であり、一切の“美”と“完全”と“調和”と“繁栄”と“豊富”と“歓び”と“智慧”と“愛”と“勇気”と“断行”と……ありとあらゆる美しきもの、善きもの、愛すべきもの等……称讃さるべきことごとくの神徳が、“実相”として内に宿っているのである。
あなた達は、自己の内に宿るところの“神の子”たる実相を潜在状態に置くことに満足せず現実に引き出し顕現してこそ、まこと神の世嗣、“わたし”の跡継ぎとしての使命を完うしたことになるのである。しかし残念ながら、“神の子”たる実相を現実に顕現することを成就し得た人間は非常に少ないのは勿論、神の世嗣たる実相に気がついていない人間が大部分なのである。
418
:
ハマナス
:2012/04/16(月) 09:40:39 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
皆さまにとって、一層幸福、一層健康、一層繁栄の日でありますように。
天国に入る心境 (『新版 生活の智慧365章』P.129)
「神は愛深き吾等の父であり、吾等が幸福であるために必要なもの、また、吾等が
使命遂行に必要なものは必ず与え給うに吝(やぶさ)かではないと云う事を深く信じて
常に心を平和に、常に神に感謝することが、あなたの幸福生活には是非必要なのである。
幼児(おさなご)が「母は必ず私の生活に必要な“充分な母乳”を与え給うにちがいない」
と信じて安心し切っているのと同じような心境になることが、イエスの教えた「凡(およ)そ
天国に入(い)る者は幼児の如きものである」と云う“天国に入る心境”なのである。
この場合の「天国に入る」とはエデンの楽園のような欲する事物が悉く自由になる
環境に入ることである。」
感謝合掌
419
:
a hope
:2012/04/16(月) 10:07:16 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
吾々の中には神様の生命(いのち)がある
前にも申しましたように、私達はこの世の中に勝手に生まれようと思って
飛び出して来たのではなく、跳び出させられて来たものです。
自分の力で生きているのではない、生かされているのです。
神様に生かされているのです。
言いかえると、私達には神様の生命が生きているのです。
今まで「自分が、自分が」と考えていた自分は、ちっとも生きているのではなくて、
神様の生命が生きているということになるのです。
こう思えば自分というものが自然とありがたくなってきます。
どうしなくともありがたくなってくるのです。
こうして、自分が本当にありがたいということが解って来ましたら、
他人も全部ありがたくなくなって来るのです。
今まで考えていたような、自分の力で生まれた「自分」が生きているのではない。
実は神様のお力が、此処に、この身体に生きているのだということが解れば、
人間というものはみな、神様の子で誰でもみんな同じ力で、
同じ立派さで生きていることがわかります。
みんな立派な「神の子」であるはずの人間同士が寄っていて、腹を立てたり、
憎み合ったりすることは、どう考えても間違っています。
ですから腹を立てたり、憎んだりすることは、どう考えても間違っています。
ですから腹を立てたり、憎んだりすることは、人間が神様に生かされている
「神の子」であるということを、知らなかったためだということが、はっきり解ってきたわけです。
仕事だってそうです。仕事をする力は、神様から生み出された力がやるのですから、
自分がやるのではなくみな神様がやるのだし、与えられた仕事も神様の仕事ですから、
自分がよけい仕事をしたから損だとか、なまけて得したという考えは、
いっさい間違っていたことがわかります。
こういうふうに、今まで考えていた自分というものが、どこにもなくなってしまいますと、
強情を張ってみたくも張れなくなってしまいます。
その上、今までは「俺が、俺が」という我の心で蓋していた神様のお光が急に輝き出しますから、
その人には善いことがどんどん出て来るようになります。
病気や貧乏で泣きごとを言っている人は、実はありがたい神様のお力で
自分を生かしていてくださるということを知らない人なのです。
(つづく)
420
:
SAKURA
:2012/04/16(月) 11:49:29 ID:GrjKQGvA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…ロ−マ字の【SAKURA】です。
今月【 4月…御釈迦様が誕生されました月!! 】です〜〜〜ネ!
二千五百余年の間、国を越え〜民族を越えて保ち続けられました【仏の真髄…】
幸せな事に【仏教典…】以前からの続きですが“投稿”させて頂きます事に…
深く感謝申し上げます…。
【はじめの第1章…】からで〜〜〜〜〜す! (■仏教典からの抜粋)
■第1章 史上の仏
−−−【 第1節 偉大な生涯 】−−−
6.これより太子は仏陀、無上覚者、如来、釈迦牟尼、釈尊、世尊の種々の名で
知られるようになった。
釈尊はまず、六年にわたる苦行間ともに修行してくれた恩義のある五人の出家者に道を
説こうとして、彼らの住むバ−ラ−ナシ−のムリガダ−バ(鹿野苑)に赴き、彼らを
教化した。彼らは最初釈尊を避けようとしたが、教えを聞いてから彼を信じ最初の弟子と
なった。また、ラ−ジャグリハ(王舎城)に入ってビンビザ−ラ王を教化し、ここを
教えを説く根拠地として、さかんに教えを広めた。
人びとは、ちょうど渇いた者が水を求めるように、飢えた者が食を求めるように、
釈尊のもとに寄り集まった。シャ−リプトラ、マウドガルヤ−ヤナ(目連)の二大弟子を
はじめとする、二千余人の弟子たちは、釈尊を仰ぎ、釈尊に帰依した。
釈尊の出家を憂えてこれを止めようとし、また釈尊の出家によって
深い苦しみを味わった父のシュッド−ダナ王
養母のマハ−プラジャ−パティ−、妃のヤショ−ダラ−をはじめとする釈尊族の人たちも、
みな釈尊に帰依して弟子となった。
その他非常に多くの人びとが彼の信奉者になった。
7.このようにして伝道の旅を続けること四十五年、釈尊は八十歳を迎えた。
ラ−ジャグリハ(王舎城)からシュラ−ヴァスティ−(舎衛城)に赴く途中、
ヴァイシャ−リ−に於いて病を得、「三月の後に涅槃に入るであろう」と予言された。
さらに進んでパ−バ−に至り、鍛冶屋のチュンダの供養した食物にあたって病が悪化し、
痛みを押してクシナガラに入った。
釈尊は城外のシャ−ラ(沙羅)樹の林に行き、シャ−ラの大木が二本並び立っている間に
横たわった。釈尊は、懇ろに弟子たちを教戒し最後のせつなまで教えを説いて世間の大導師たる仏としての仕事をなし終わり、静かに涅槃に入った。
8.クシナガラの人びとは、釈尊が涅槃に入られたのを悲しみ嘆き、ア−ナンダ(阿難)の
指示に従って、定められたとおり釈尊の遺骸を火葬した。
このとき、マガダ国の王アジャ−タシャトルをはじめとするハ大国の王は、みな釈尊の
遺骨の分配を乞うたが、クシナガラの人びとはこれを拒否し、争いが起った。
しかし、賢者ドロ−ナの計らいにより、遺骨はハ大国に分配された。
その他、遺骸の瓶と火葬の灰を受けた者があり、それぞれの国に奉安されて、
この世に仏の十の大塔が建立されるに至った。
<つづく>
421
:
SAKURA
:2012/04/16(月) 12:06:17 ID:GrjKQGvA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
光り輝く〜♫〜 “春…” サクラの花も…終わり
“葉ザクラ”とかし、“若葉の美しさ”ひときわ目にとまりますが…?
これも又!“いとおかし〜〜〜♫〜〜〜”でしょうかしら〜〜〜ン!
さて!昨日は…“奥殿”に直ぐ引きこもりましたでしょうか?
【再度投稿】させて頂きま〜〜〜す。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
413 :SAKURA:2012/04/15(日) 20:13:29 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様へ
こんばんは…
ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。今日の休日は、如何でしたかしら〜〜ン?
毎日の聖典引用板で“投稿”していきますと、
此方も改めて“教えられる事”が多々ありますから?【不思議な国のアリス】です。
今日も、何が出るのか分らず…“勉強スタ−ト”です…。
では、“本…”を、開きます〜〜〜!目を閉じまして…心を静めて…!【オ−プン!!】
今日の“タイトル…”は〜〜〜〜〜?????(微笑み)
■【幸福を招く365章】
――――創造の選択は人間に委されている――――
宇宙は大自然の創造してやまない力が満ち満ちている。人間は生まれるまでは、
大自然は自己みずからの想念の形に、大自然の姿を造講して来たのであるが、
人間が神の創造力の自覚的意識的発想の中心として出現して来て以来は、聖書は
「審判は子に委ねられたり」とイエスは云っているのであるが、宇宙の創造力を
どんな形にあらわすかは、人間(神の子)が出現して以来は、人間にその「想念」
(創造の模型)の選択力が与えられていると云う意味である。
自己自身の想念の相に自分の身辺の事が作られ、自己自身の想念が選んだ通りの
形に宇宙の創造力は働いてくれるのである。爰に於て人間は宇宙の創造力の主人公
となったのである。
宇宙にエネルギ−が充ち満ちているのであって、人間がエネルギ−を創造するので
はないのである。人間はそのエネルギ−を物質化して自己の想念する位置に配置
するのである。人間は自己の欲する位置に必ずしもそのエネルギ−を配置することは
出来ない。それを欲する位置に配置するのは、心の方面では心の法則に従わねば
ならないし、物質の方面では物質の法則に従わねばならない。
尤も物質の法則を探求し、それを利用するのも心の力によるのであるから、
人間は物質両面に於ても心によって運命の支配者となるのである。
善き想念を意志強く持続し、そこから自然に動く叡智を意志強く実践して
行く者が人生の勝利者となるのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。
■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 >240 です!!
422
:
志恩
:2012/04/16(月) 12:51:03 ID:.QY5jUA6
訊け君
國太郎先生、藤原先生、榎本先生のご文章の謹写をいつも、ありがとうございます。
榎本恵吾先生ブログの「文書館」のご文章は、もしも、ブログが消えたらいけないと思いまして、
私は、しばらく前に ぜ〜〜んぶ、プリントアウトしたのですよ。
ところが、プリントアウトは、用紙の片面にしか出来ないでしょ、だからその枚数たるや、700枚くらいになりました。
厚い本みたいです。綴じました。
よくこれだけ、榎本先生は、遺稿として後輩のために執筆されて遺してくださいましたよね。
このブログを作成してくださった0先生、遺稿を惜しみなく提供してくださった恵吾先生の奥様の一子先生に、あらためて
感謝の気持ちでいっぱいです。
全部プリントアウトしてはあるのですが、一度は通読しましたが、なにせ、量が多いので、たいせつにしまってあります。
読んでも、すぐに忘れてしまいます。
やはり、掲示板に載せてくださると、フレッシュな気持ちで勉強できますので、ありがたく思っております。
423
:
志恩
:2012/04/16(月) 12:58:00 ID:.QY5jUA6
うんはなさま、ハマナスさま、ahope
424
:
志恩
:2012/04/16(月) 13:09:27 ID:.QY5jUA6
書き込み途中で423が、勝手にそちらへ風で飛んで行ってしまいました。
今日は,こちら、風が強いもんで、、ごめんなさい。
うのはな様、ももんが様、金木犀様、ハマナス様、ahope様、さくら様、SAKURA様、
皆様の書き込み、いつも楽しみに1つ1つ拝見しております。
家にいながら、いろいろと真理を教えていただける幸運をありがたく、皆様に心から
感謝申し上げております。
憧れのママの創作の芸術作品にも、いつも爆笑して癒されております。鈴夜ちゃんは、
WEB誌友会最中に、コードは踏むし、相変わらず、ユニークな役柄を、、、(笑)
425
:
さくら(ひらがな)
:2012/04/16(月) 16:46:38 ID:tPVxKQcE
こんにちは〜!
関係ない話ですが、有能な物理学者は、
数式を見るだけで、ビックバンを「リアルに体験」できるそうです。
・・どういうことなのでしょう。?
数式では、宇宙の真理がずっと的確に解明されているようですが、
ことばであらわれる、しんりというのはどんなものなのか、奥が深いですね・・
『ヨハネ伝』講義 谷口雅春
日本の国は、言霊の幸う国とふるくから云われておりまして、言葉の力を讃える国であ
りました。それで日本では言葉と云うものを大切に取扱いまして、仮初にもわるい言葉を
吐かないようにしていました。そして若し悪い言葉で宇宙を掻き乱したら善き言葉を祝詞
によって宣べることにより、天地を清めると云うことにしていたのであります。祝詞と云
うのは「祝福の詞」と云うことであって、悪しきものはあらわれていても、そんなものは
ない「ありがたいものばかりだ」と善き言葉で祝福の詞をのべることによって、天地の穢
れを祓清めることをやっていたのであります。「言は神である」と云う其の言葉と云うの
は、生命のバイブーション(振動)であります。「太初に言あり」と云うのは、一切のも
のは波動が再始原のものであると云うことであります。「苟も、波動のあるところに神が
ある」と云うのが、「言は神と偕にあり」と云う事であります。「偕にある」と云うのは
「別のもの」は併列してあるのかと思うと、そうではない。「言は神なりき」であって言
と神とは同じものだと云うことであります。この「言」と云うのは英語ではゴド(God)
と濁っておりますが、神様のことであります。言葉が神様である、一切のものは言葉によ
って造られているのであります。「言は神様である」と云うのは、吾々は古代から神様の
ことを「命」と言います。美は美称であります。神様とはミコトバ様だと云うことなので
あります。漢字に当て嵌めても「ミコト」と云う字は命令の「命」が書いてある、命令は
口でする、即ち漢字でも言は神様である。その「命」と云う字は「命」とも読む。言は又
命であって、『ヨハネ伝』の最初に「太初に言あり」云々と書いて「之に生命あり、この
生命は人の光なりき」とこう云うように書いてあるのに一致するのであります。それで、
言は神であり、生命である。旧い訳の聖書には「道」と云う字を書いて「ことば」と振仮
名を付けてあります。「道」と云うのは吾々の肉体の足が歩いて行く道のことでないので
ありまして、天地遍満の道、即ち天地にミチミチているから「ミチ」である。「道」は「言
う」とも読む字であって、言葉である。そして「道」と云う字は「首(ハジメ)」に「ス
スム」と云う字画であります。詰り、天地にミチていて、事物のハジメを成しているもの
が言即ち、波動であり、それは一切の本源である神であって、それから万物が発生したと
云うのであります。
426
:
ももんが《宗教篇》
:2012/04/16(月) 18:51:54 ID:XXCuaQns
〜生命の実相・34巻〜
《道場篇・弁道聴き書き》
☆実相は実相を招び出す
より。
その日の午前中、道場には十人ばかりの人が集まっていた。この中に安東駕馬太(あんどうかまた)といって五十八歳の老人があった。その老人が言うのに、
『私は『生命の実相』を手にするまでは、病気で痩せ細って仕事はできずに、家内の世話にばかりなっていました。ところが聖典『生命の実相』を手にしますと、肉体がこんなに若若しくなって、二十七、八歳に立ち返りました。手などもこんなに丸々と肥え太ってまいりました。これは聖典『生命の実相』の功徳でしょうか。誰も聖典『生命の実相』を所持すれば、こんな奇跡が起こるのでしょうか?』
『安東さん』と谷口先生はおっしゃた。『それは聖典『生命の実相』の功徳ではありません。本という物質がそんな功徳を与えと思うのはまちがいです。本は紙であり、物質でするから、生命を若返らす効果がありません。あなたを若返らせてたのは紙で綴った『生命の実相』ではありません。この本の中には『生命の実相の真理』はあります。
その生命の実相があなたの生命の実相を招びだしたのです。あなたを若返らせたのは、その招び出されたあなた自身の生命の実相です。他のものが人間を若返らすと思うのまちががいです。人は自分が主人公なんですから何者にも支配せられるものではないのです。』
(安東氏)『『生命の実相』の真理がなぜ私自身の『生命の実相』を招び出すのでしょうか?』
(雅春先生)『それは類は類を招ぶ親和の法則によるのです。同じ振動数の音叉に同じ振動数の音響を地か近づける、その音叉は振動して鳴りはじめるでしょう。』
(安東氏)『鳴りはじめます。』
(雅春先生)『その鳴りはじめるのは、互いに同じ振動数を持っているからです。あなたの生命の実相が鳴りはじめたのは、あなたな生命の実相が聖典『生命の実相』の中にある思想と共鳴したからです。聖典の中にある思想も『心的存在』であり、あなた自身も生命の実相も『心的存在』です。同じ振動数の心的存在は互いに共鳴を起こすのです。聖典『生命の実相』の中にある真理が読まれると、同じ振動数をもっていながら、まだ制止していたあなた自身の生命の実相が振動して表面的活動に移るのです。』〜以下省略
7㌻3行目〜8㌻12行目まで。
427
:
さくら(ひらがな)
:2012/04/17(火) 07:57:05 ID:tPVxKQcE
おはようございます!
朝が来ると、どんなときにもどんな人にも、同じように朝が来るってすごいな〜、
と、時々しみじみ感激するさくらです、
日本の言葉の発生と、外国の言葉の発生はおなじように自然発生的とありますが、
西洋的ロゴスの世界観と、言霊の世界観はまったくちがいますね・・、
ことばを考えると、奥が深すぎる。
『ヨハネ伝』講義
谷口雅春著
それで、万物は一切この言葉によって展開したのであって、こ
の言葉が大切なのであります。それで吾々が病人に対して「お前
はもう病気でない、神の子である」ということを言葉で言えば、
それは本当に力ある言葉であれば病人が治るということにもなる
のであります。そうかと思うと。あべこべに、「お前は罪人であ
るぞ、いくら善くなろうと思うても善くなれない凡夫である」と
云うようなことを云ったら、やはりその言葉の力によって、いくら
善くなろうと思うても、善くなれないと云う風なことになるわけで
あります。このように言葉は命であり、神であり、命令であり、天
地に満つる道であると云うことになるのであります。
この天地に満つる言葉が、「神光あれと言いたまいければ光あり
き。」(『創世記』第一章)とあるのも、最初にこの「阿」の声が出
て来たことをあらわしております。「阿」の声、これは光輝く声で
あります。「光」の声と云うのは大日如来の本体であります。
(註)大日経疏第七に「阿字は是れ一切法教の本なり。凡そ最初に口を開く阿の声あり若し阿の声を離るれば即ち一切の言説なし。故に衆声の母とす」とあり、此の「阿」の声はまた菩提心即ち「ほとけの心」であります。大日如来経疏第十四「阿字は菩提心なり」とあり、同第十には「阿は是れ空の義の本不生を以っての故に虚に同じ」とあります。
「本不生」と云うのは本来不生不滅の本体の意味でありますから、
「阿字を大日如来の法体である」と云うのであります。真言密教では
「阿字観」と云う修行をする。要するに本来不生の宇宙の本体であ
る大日如来と自分と一体であると云う『神想観』のような修行をす
るのであります。(谷口清超との共著『苦難と恐怖の克服法』参照)
この「阿」と云う言は現れるという意味をもっていまして、現れ
る、明るい、赤い、暁・・・・等、光のアラワレル意味をもった語が
此の「ア」と云う発音で始っていることに注意して頂きたいのであり
ます。これは自然発生の言葉であります。そのほかの言葉にも、「ァ」
の付いた言葉には「頭」であるとか「足」であるとか色々あります。
_頭と云うのはどういう意味であるかと言うと、真丸く玉のように現
れている、あらわれてたまのようであるから「頭」なんです。そうす
ると「足」というのは、あらわれて「した」にある。それで「アシ」と
云うのであります。それから、暴れる、荒狂う、荒魂、これらは外に
現れるという意味から、自然とそう云う言葉が出て来たのであって、
これは仮名文字審議会を開いて決めた言葉ではないのであります。自
然と天地創造のコトバと、人間の中に宿るコトバ(命)とが一体であ
るから、人間が、事物を見ると、その事物の本質にあたるコトバを自
然に出す。それが通用語になったのであります。
そう云う工合になっているのが我々の使っている言葉であります。
「ア」はどう云う意味の語、「イ」はどう云う意味の語と云うように、
五十音にわたって説明したいのですが、今は時間が足りませんから、
これは詳しくは『真理』の青年篇に書いてあるからご覧ねがいます。
外国の言葉でも最初はそう云う工合に自然発生の言葉から次第に転化
して来たのでありますけれども、私は余り深く外国語に精通しており
ませんから申し上げぬことに致しまして、『ヨハネ伝』の次のパラグラム
の処に参ります。
428
:
a hope
:2012/04/17(火) 08:26:50 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
幸福になるには
よくあることです。「苦しい時の神だのみ」と申しまして、
自分が困りきると今までは見向きもしなかった神様に頼みたくなる心が、
どこからともなく湧いて来るものです。
しかし、自分は神様に生かされている神の子だということを知らないで、
いくら拝んでみても、あまり御利益がないものです。
それよりか、自分は神様に生かされている神の子だ、
神様が自分の中に生きていてくださるのだ、神様には病気も、
一切の悪いことも、苦しいことも、お与えになることはないはずだ、
私はそうした立派な神様に、今こうして生かされているのだと知って、
「神様ありがとうございます!」と喜ぶのです。
こうして、自分の中に生きてくださる神様を拝むのです。
拝んで、拝んで、拝みきるのです。「神様に生かされているのだ。
ありがたい!」と、自分の中に生きていてくださる神様に、
朝から晩まで御礼を言う気持ちになるのです。
こうした生き方を続けてゆきますと、自然に神様のような善い生活ができてくるのです。
言いかえればとてもうれしい、楽しい、その日その日が始まって来るのです。
自分の中の神様を拝む心になり、また人の中にも神様がいられるのだと拝む心になりますと、
自然に強情っぱりが除(と)れてゆきます。
そうなれば、神様はいつでも私達を助け通しで、いつも嬉しい、
善いことばかりができて来るのです。
(「第8章自分の生かし方」終わり、 次回より「第9章他人の生かし方」へ)
429
:
ハマナス
:2012/04/17(火) 09:42:13 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。皆さまにとって、今日も最良の日でありますように。
不正は永続しない (『新版 生活の智慧365章』P.129)
人は自分で掘った穴に墜落して苦しみながら、恰もその穴を他の人が仕掛けてその穴に
陥(おとしい)れたかの如く思って人を恨んだり、憎んだりし勝ちである。他を呪い、他を
陥れ、それによって自分が強勢を拡張したり、自分が利益を得ようと思うならば、それは
不自然に、自分の指先で天秤の一方を押さえて目盛りを不正に誤魔化しておいても、その指先を
放してしまえば、元の正しい目盛りに帰るようなもので、自然は永遠には不正を許さず、不正に
獲得したものは、やがて自壊作用を起こして恢復(かいふく)されることになるのである。
自分で自分を縛る縄をつくってはならない。自己限定をやめるがよい。そして自分が他の人を
陥れたり、悪評をたてたりして、他の人のものを奪わなければ、自分の領域が拡大しないなどと
考えないがよい。他を生かし、他を救うことによって、その平衡作用として自分も生きて来る
ような生活を営むべきである。
感謝合掌
430
:
金木犀
:2012/04/17(火) 10:51:31 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第一章 宇宙及び人間の創造について」の一部を謹写致します。
“わたし”は実相である。“わたし”はあなたの実相である。“わたし”は永遠に存在する実在である。“あなた”の実相は“わたし”であるから永遠に存在するものであって金剛不壊の存在なのである。本当のあなたは不滅の存在なのである。
◯
“わたし”は久遠永劫の存在である。“わたし”は時間空間を超えている。時間の流れの中にいないから、“わたし”は不滅である。“わたし”は“生まれた”という時はないのである。従って、“死ぬ”という時もないのである。“わたし”はあなたの“実相”としてあなたの内に宿っている。そしてあなたの肉体を生かしている。肉体は自分で生きているように思っているけれども、“わたし”があなたの肉体から去ったら、肉体は死んでしまう。あなたの肉体に生気を与えているのは“わたし”である。そしてあなたの“本当の自分”は“わたし”即ち“神”なのである。
◯
あなたが『生命の實相』を読むとき、あなたの内にあって眠っていた“わたし”の分身が、実相を語るコトバの力によって目覚めしめられる。その程度は人によって異なるのであるけれども、その目覚めの程度にしたがって、或いは病気が消えたり、その人の経営する事業が、実相円満の展開として、繁栄して来るなどの体験があらわれて来る。人々によって、そのお蔭の種類や程度が異なるのは、過去の善行の蓄積の相異や、精進努力の相違によるのであって止むを得ないことである。
431
:
金木犀
:2012/04/17(火) 10:52:43 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第一章 宇宙及び人間の創造について」の一部(2)
あなたの肉体を、生きている姿で動かしているのは、“わたし”である。“わたし”はあなたの心臓を鼓動させ、あなたの肺臓を呼吸させる。“わたし”があなたの肉体から去れば、どんなに肉体の機構が同じように健全な、故障のない相(すがた)であっても、あなたの心臓の鼓動はとまり、あなたの肺臓の呼吸は止まる。
あなただけではない、すべての生物を生かしているのは“わたし”である。どんな微生物でも、どんな巨大な動物でも、皆“わたし”の生命が生かしているのである。
◯
どんな微生物でも“わたし”が生かしているのである。あなたが病菌であるといっておそれている微生物も、本来“病菌”ではない。それは“わたし”が生かしているのである。その病菌とみえている者が、実は、あなた達の間違った“心の思い”や“生き方”を警告して、それを是正させるために“わたし”が姿を病菌の如くあらわしていることがあるのである。
“わたし”は、どんな消毒薬よりも強いのである。“わたし”はその人間の魂に警告を与えて、正しい生き方に還らせようとして病菌としてあらわれている場合には、その目的を達しない限り、どんな薬剤を与えても、その病菌は消えるものではない。しかしその目的を達して人間たちの心が正しくなったとき、わたしはその微生物を現象界から“生命の素材の世界”へ引き戻す。その時、あなた達の病気は癒えるのである。
432
:
金木犀
:2012/04/17(火) 10:53:42 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第一章 宇宙及び人間の創造について」の一部(3)
けれども、それを神が人間に罰を与えているのだと考えてはならないのである。“わたし”は愛であるから“罰”を与えたりはしない。“わたし”は人間の魂が墜落しようとするのを、ある方法で引き留めようとしているに過ぎない。病菌と見える者は、“わたし”が墜落しかけている魂に、墜落してはならないという電報を配達させるためのメッセンジャーに過ぎないのだ。
それは神の罰でも神の鞭でもない。それはかみの救けの綱であり、墜落を防いでやるためのガードレールのようなものである。
◯
“わたし”は“愛”であるが、同時に智慧であり、また生命である。それは物質の世界に於いては熱とあらわれ、、光とあらわれ、エネルギーとしてあらわれている。“愛”が先でもなければ、智慧が先でもなければ、生命が先でもない。光と熱とエネルギーとが相互に一体であり、どの相(すがた)にも交互にあらわれ得るように、“わたし”は愛ともあらわれ、智慧ともあらわれ、生命ともあらわれる。愛と智慧と生命との三つが同時に一体となって万物を生かしているのである。
◯
“わたし”は一切の現象の中に“わたし”の智慧と愛と生命とを顕現している。“わたし”を見たければ森羅万象をみればよいのである。しかし肉眼でそれを見るならば、必ずしも“わたし”の創造した万象の“真実の姿”を見ることはできない。何故なら、肉眼で見る人は、自分の先入観念や迷いの念で“雲”をつくって“真実の姿”を覆い隠しているからだ。だから神想観の時には肉眼を閉じて、心の眼をひらいて実相を直視せよというのである。
433
:
金木犀
:2012/04/17(火) 12:25:19 ID:zilIu2tA
>>395-396
復興G様
レスを頂いていることに気づかず、今読みました。御返事がおくれ、
申し訳ございません。
さすがに復興G様のお言葉の深さに、正にそのとおりだと思います。
私も復興G様のこの投稿を読み、今までは、何とか雅宣総裁の実相を見ようと、
ちょっと無理をして、つい怒りのほうが先に来て、いくら危険管理人様の榎本先生の
引用を読んでも、実相を観る気になるのは一瞬で、つい現象のほうが見えてしまうので、
実相を観るのが苦労でしたが、なんとなく、たしかに総裁は観世音菩薩だという気が、
心からそんな気がしてきました。
それにしても、将来分派ができるのを恐れて、とは正に心の法則をそのまま例証されてますね。
雅春先生が、とにかく神想観をあれほど言われていたのですから、すべて神想観に尽きますね。
どんなに知識として知っても、神想観で五官を去って、自己の内奥に穿ちいることなくば
結局頓得の悟りを脱することは出来ませんね。
有難うございます。頑張って、神想観に励むことに致します。
434
:
金木犀
:2012/04/17(火) 12:26:53 ID:zilIu2tA
訂正します。
危険管理人様 → 訊け管理人様
435
:
「訊け」管理人
:2012/04/17(火) 12:27:28 ID:???
>>434
爆笑
436
:
SAKURA
:2012/04/17(火) 14:48:52 ID:tB36Kte6
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは……ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。
今日も”春〜♫〜春〜♫〜” 満潔していま〜〜す。
このすがすがしい“朝…”
”洗濯”も昔と違いまして”情緒…”は幾分?違いいますが……
それでも”洗いたての衣服”は、香りが”プ〜〜〜ン?爽やか気分”いいです〜ネ!
”さわやかな春風〜♫〜”が、舞い誘い込んできま〜〜す!
そして、私の耳元に、囁きかけ、その瞬間”瞼”を閉じますと…
今はもう〜「亡き両親と暮らしました家」…裏に小高い山があり、
ここは”明治の記念碑…発祥地新日鉄の高炉の塔”がありましたが……?
今はもう…>< 全てが様変わり!「過去…」は、何処に去ってしまったの???
でも”裏山の公園”は、当時!毎日朝の日課の”散歩コ−ス”でしたが…
今の私は”公園”が近くにある事が今でも居住地の条件としての課題の一つです。
これは、子供の頃からの”感覚…?習慣…?”でしょうネ!皆様は如何かしら〜ン?
さて!今日のテキスト…”ひらけごま〜♫〜”では参ります!【1・2・3…スタ−ト】
■【幸福を招く365章】
−−−先ず第一のものを第一に−−−
第一のものを第一にし、第二のものを第二にすることが成功の秘訣である。
柳生流の極意にも相手が千人であろうとも、次々と受けてゆけば、
相手は一人同じであると云う意味のことがかかれているのである。
人生百般の仕事は随分沢山のものがあるのであるから、
その順序を間違えたら労して功なきことになるばかりか、
物事がアベコベになることがある。
最も重要なるものを先に行え。多くの人々は、問題にならないような
些事に引っかかって重要なことをなし得る時間を空費してしまっているのである。
第一のことを第一に、第二の事を第二に秩序整然と行うようにするならば
何事もすべて都合よくゆくのであって、譬えば囲碁の名人が石を打つように
一つも無駄なく成功するのである。
(谷口雅春著)
私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。
■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 >257 です!!
437
:
うのはな
:2012/04/17(火) 20:47:42 ID:El6gIMAw
聖経読誦の問題について
本当は聖経を幾回読んだら治り、幾回では治らぬというような回数の問題ではないのである。
「汝の信仰、汝を癒せり」であるのであって、それを読誦する人の信仰が、一回の読誦で充分高揚する人もあるが、
毎日数回読誦しなければ「病気無し」の心境に達し得ない人もある訳である。
大抵一回の心境が毎日つづいておれば、毎日現象的症状に心が捉われる程度が、悟りに到る心境よりも勝るというような事に
なるので功徳があらわれないことになるのである。
一日五回、十回読誦するような心境では、症状は如何にともあれ、「この聖経には必ず功徳がある」という信念が強烈で
あるからこそ、そのような継続的に長時間、長日数の読誦ができるのであり、その読誦を重ねているうちに、聖経に書かれている真理が、
自分の潜在意識に深く印象され、「病気本来無」の真理を読誦者自身が深く自覚して、その自覚の反映として病気が消えることになるのである。
まことに「汝の信仰、汝を癒せり」ということになるのである。
『女は愛の太陽だ』 谷口雅春先生 著
438
:
うのはな
:2012/04/17(火) 21:01:16 ID:El6gIMAw
“天地一切のものと和解する”ということ
人間はすべて、一つの神の生命の分霊であるから、バラバラになって、つながらないでいることは不自然なので
ある。みんな一つに結ばれるということが本当の正しい生き方なのである。
「天地一切のものと和解せよ」との神示はそのことである。長いこと人間神の子の真理に接しながら、組織のつながりの中に
はいらないで、自分だけ別々の行動をしているようなものは、天地一切のものと和解したとはいえないのである。
本当に互いに魂がつながり合って、互いに会うことがよろこびであり、一緒に人類を光明化する運動につながることができる心境に
なってこそ、天地一切のものと和解したといえるのである。
“和解する”とは“感謝する”ことであると同時に、和解するとは“愛する”ことであり、その“愛”の実現として、多くの人々と互いに
手をつないで全人類救済運動に挺身することなのである。全人類に手をつなぐことができないで、孤高ひとり清しと思うが如きは、自他分離であり、
和解ではないのである。全人類ひとしく神の子の兄弟姉妹である自覚が乏しいのである。
『女は愛の太陽だ』 谷口雅春 先生著
439
:
さくら,
:2012/04/18(水) 05:47:42 ID:tPVxKQcE
おはようございます〜!
朝カツで、雅春先生の『ヨハネ伝』講義をいたします、、。
『ヨハネ伝』講義
谷口雅春 著
神より遣わされる人いでたり、その名をヨハネと云う。この人は証のためにきたれり、
光に就きて証をなし、又凡ての人の彼によりて信ぜん為なり。彼は光にあらず、光に
就きて証せん為に来れるなり。
キリストの福音書は『マタイ伝』『マルコ伝』『ルカ伝』等があ
りますが、此の『ヨハネ伝福音書』は特にイエス・キリストの霊
的な実相について書かれた伝記でありますが、イエス・キリスト
の本当の説かれた真理が生長の家によって、はじめて本当に開顕
され、生活に実現し、成就するのでありますから、『ヨハネ伝福音
書』は結局生長の家で述べられている真理のことが書いてある。こ
う思うて読んで頂くと良い訳であります。
その頃、神より遣わされたる人があった、それはヨハネと云う。
此のヨハネと云うのは此の福音書に書いてありませんけれども、水
行をしたり或は蜂蜜ばかりを嘗めて居ったり色々減食とか断食とか
苦行をやって、そして段々神に近づこうと云う風なことをやって居
られた自力修行の代表者としてここにあるのであります。此の自力
修行は到底本当の神を云うものを掴むことができないのでありまし
て、それがここに書いてあるのであります。
440
:
a hope
:2012/04/18(水) 07:14:50 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
第九章 他人の生かし方
人に深切にする味わい
人と人とは肉体を見ておりますと、彼と我(われ)、
我と彼とは合い分かれているように見えますが、
本当はただ一つの神の生命(いのち)が、
そういう具合に分かれて出たように見えているだけであって、
決してこの別々の存在ではないのであります。
この真理を知るのを、自他一体とか事々無礙(じじむげ)とか申します。
まことに人に深切にしてあげ、人が幸福になるとこちらも嬉しい。
この私達が人に深切にした時の嬉しさ、というものを振返って味わってみますと、
長く別れておったところの親子が再び出会ったような、
兄弟または夫婦がひさしぶりに出会ったような何とも言えない喜ばしい感じなのであります。
これは人間は本来、ひとつの神様の生命の水が吾々に流れ入って人間となっているので、
同じ命の別れであり、兄弟であり、親子であり、本来他人というものは一人もない。
それが別れたように見えていたものが一つに合(がっ)する――その喜びを感ずるのであります。
分かれていた半分同士が一つになる――そこに深切をすれば嬉しいという根本原理があるのであります。
(つづく)
441
:
金木犀
:2012/04/18(水) 08:15:48 ID:zilIu2tA
大東亜戦争無縁戦没者英霊に捧ぐる辞 昭和35年8月15日
谷口雅春先生
大東亜戦争に忠勇無双の奮闘ををつづけ、ついにこの戦争に肉体の生命を献げつくして霊界に旅立ち給える諸霊に告げ奉る。ことに今なお遺族不明にして御霊を祀ることを成し得ざりし戦死の霊たちに斎主谷口雅春告げ奉る。本日大東亜戦争終了の記念日を選び卿等の忠誠と功績を偲び奉りみたまを慰め奉り、真理の悟りに導き奉らんとして、ここに生長の家の信徒たち集まりて聖経『甘露の法雨』を読誦し奉らんとす。庶幾(こいねがわ)くはこれを受け給え。
惟うに大東亜戦争は卿等の忠勇無比なる奮戦にも拘らず日本の敗戦となりたれども、決して卿等の奮戦は無駄に終りたるにも、犬死せられたるにも非ず。あの戦いの目的は当時すでに明瞭に「大東亜民族の解放戦」と名づけられたるに非ずや。
これは人類進化の一周期の完了期が近づきたるが故に、今まで白色人種に侵略され、その原住国土を白色人種の属国、保護領、植民地とされ、有色民族たる原住民は奴隷のごとく待遇されいたる大東亜およびアフリカの有色民族も、この人類進化の宇宙周期の完了に際して、白色人種と同等に「神の子なり」との自覚を得て独立すべき宇宙プログラムを現象界に実現する時機至りたれば、有色人種といえども、白色人種を圧倒する力を有するという実例を示して、有色民族たちの自立独立の精神を自覚せしめる契機を与うる必要ありてあの戦争には宇宙の人類進化の神界のプログラムを達成する役割を演ずる偉大なる犠牲者出現せざるべからざりしなり。
その偉大なる役割を演ずるために開かれたるがあの大東亜戦争なり。その偉大なる犠牲的役割を演じて自己の生命を献げて人類進化に道をひらきたるが、あの大東亜戦争において戦死されたる卿等日本軍の将兵たちなり。卿等の戦死はまことに無意義にも犬死にも非ざりしなり。
キリストが一身を献げて人類の身代りとなりしがごとく、卿等は一命を捧げて、大東亜諸民族およびアフリカ諸民族の魂の自覚の進歩のために貢献せるなり。卿等の功績決してキリストの人類救済の功績に優るとも劣るものにあらず。すでに大東亜の民族はすべてその原住国土において独立せり。すでにアフリカの民族もそのほとんどは原住国土において独立せり。かくて「大東亜民族の解放戦」と称したりしかの戦争目的はすでに達したり。戦争目的の達成は勝利というべきなり。日本は勝利せるなり。
卿等はみじめに敗戦して犬死せる者には非ず、人類進化の周期完了に近づきて偉大なる功績を果せるなり。今上天皇陛下が、平和愛好の御心にて、あの大東亜戦争開始に反対の意志をなされ「四方の海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という明治陛下の御製を御前会議の席上にて朗詠せられたるにも拘らず戦争を抑止することを得ず、軍の真珠湾攻撃後、陛下はついに宣戦布告の詔勅において「豈朕が志ならんや」の一句を挿入せしめられたるごときは、まことに以て、あの戦争が人類進化の過程として道を拓くべき宇宙的プログラムにして何れの国民かが犠牲となって大東亜およびアフリカ民族の自覚促進に貢献する宇宙的必要必須の使命を果たす必要ありたるが故なり。
かくて卿等は一身を献げ一命を捧げて、すでにこの偉大なる目的を達せられたるなり。讃うべきかな卿等の犠牲的精神よ。宇宙の大神、今卿等の功績を称讃し、霊界において一層高き位に進められんとす。そのための悟りの彼岸に渡すべき如来の願船としてここに聖経『甘露の法雨』を読誦す。これ観世音菩薩の願船なり、塩椎大神の目無堅間の小船なり、この如来の願船たる聖経に乗りたまいて悟りの彼岸に渡り給えと生長の家信徒一同卿等を敬って合掌礼拝して感謝の意を述べ奉る。
442
:
ハマナス
:2012/04/18(水) 09:02:46 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。今日4月18日は、「全てが成功に変わる日」(光明道中記)です。
皆さまが健康に過ごされますように。
あなたの不幸は出尽くした (『新版 生活の智慧365章』P.130)
悲しみを棄てよ。怒りを棄てよ。憎しみを棄てよ。そこから天国浄土が実現する
であろう。よくよく考えて見るならば、真に悲しむべき事は一度もこの世界に起こった
こともなければ、これからも起こらないであろう。あの戦争の犠牲者となって霊界に
悼(おもむ)いた人たちも、本当はその霊魂は生き通しであって、決して死んでは
いないものであるから、現象界は“想像の影”世界にすぎないのであって、実在――
即ち「本当に在るもの」は、未だ嘗て無くなりはしないし、無くなるものは、“本来
無いもの”ばかりであるからである。
もし悲しみや、怒りや、憎しみを起こすならば、その人は事物の暗い面のみを想像し、
必要以上に、不幸や悪を拡大して見、みずから好んで自分の想像がつくり出した暗い
煙の中に窒息してしまうことになるであろう。不幸は想像することによって増大し、
悲しみは“類は友を招(よ)ぶ”ことによって続々その数を加えて来るのであろう。
不幸が起こったときには、これで不幸は出尽くしたと思うのがよい。悲しみが起ったら、
これで悲しみは出尽くしたと思うがよい。
そしてみずからを祝福し、みずからを歓喜せよ。
感謝合掌
443
:
復興G
:2012/04/18(水) 10:05:14 ID:ojEbkDH2
合掌 ありがとうございます。
WEB誌友会、「部室」板で論議されました「新天新地の神示」およびそのご講義を、谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』より謹写させていただきます。ご講義はとても長いので(60ページにわたっています)、「七つの燈台の点燈者」および「イスラエルの十二の分派(わかれ)」に関するところを抽出して投稿させていただきます。原文は正漢字使用ですが、新漢字に換えさせていただきます。(仮名遣いは歴史的仮名遣いのまま)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
新天新地の神示
見よ、われ既に天地を新たならしめたのである。人々よ、眼の蔽ひをとれ、われは新しき智慧である。新しき生命である。新しき宇宙である。新しき光明である。われ臨(きた)つて此の世界は既に変貌したのである。既に信ずる者の暗黒は消え、醜悪(しゅうお)は滅し、病ひは癒え、悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。神秘を見て人々よ、目覚めよ、覚めてわが新しき光に照らして存在の真実を見よ。われは存在の実相を照らし出す完成(ななつ)の燈台に燈(ひ)を点ずるものである。悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。汝の悲しみは喜びに変るであらう。病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命を受けよ。われを拒むな。われを信ぜざる者は已むを得ぬ。われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。われ汝等に『神想観』と言ふ観行を教へたればそれを為せ。われに汲むものは常に新しき力に涸れないであらう。吾を呼ぶ者のもとに吾れは常にありて、汝らのために汝らの重きくびきを軽からしめる。なんぢ一人ならば吾れを念じて吾れとともに二人なりと思へ。なんぢら二人ならば、吾れを念じて吾れと倶に三人なりと思へ。悩める者よ、わが言葉を読めば苦しめる魂も軽くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。そはわれは限りなき大愛であるからである。汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであらう。信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫であるが助けやうがないのである。汝の心の疑ひがわが心の波長に合はないからである。遠くにゐて救はれてゐる者もあるが、近くにゐても救はれぬ人もある。仕方のないことであるが不憫である。もつと兄弟たちに、『生長の家』を伝へよ。神の愛は貰ひ切りではならぬ。頂いたお蔭を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。『生長の家の神』と仮に呼ばしてあるが、『七つの燈台の点燈者』と呼んでも好い。七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで新しき生命を得るのだ。わが教へはどんな教へをも排斥するやうな狭い宗教ではない。教への太宗(もと)であるから宗教と言ふのである。
(昭和六年五月六日神示)
<つづく>
444
:
復興G
:2012/04/18(水) 10:22:40 ID:ojEbkDH2
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<1>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
新たに生れること
誰でも新年といひますと、新たに生れ更つた気持がするのであります。新たに生れるといふ気持がするのでありますが、何時の間にかその新年が古年になつてしまひまして、この年頭の新たに生れるといふ感激を、忘れてしまふ傾きがあるのであります。
それで私達は、この年頭に当りまして深く人間神の子の自覚を、潜在意識の底の底まで植ゑつけて、そして一年中神の子の自覚を失はない様に深く真理を刻みつけて置きたいと思ふのでありまして、それで毎年年頭に、恒例として講習会をやつてゐるのであります。
さて、宗教とは一体何であるか、といふ話をしたいと思ふのであります。宗教といふものは病気を治すものだと思つてゐる人も中にはある。それですから、もう医者にかかつても薬の力でも治らないときに、“新興宗教へでも行かうか”と思つてやつて来る人もあるのですけれども、宗教といふものは、所謂る「病気」といふ「肉体の病ひ」を治すものではないのであります。
宗教の本質は何であるか
宗教といふものは一体何でありますかといふと、先づ、自分とは如何なるものか、それを明かにする所の教へが宗教であります。ソクラテスは、汝自らを知れと言つたのでありますが、汝自らを知るといふ事が宗教であります。或ひは、新たに生れるといふのも、それも汝自らを知る、といふ事にほかならないのであります。今迄は人間は肉体の子であると思つてゐた。そして物質の塊がここに生れてきてゐるのが人間であると、かう思つてゐたのでありますが、「人間といふものは、さういふ物質の塊ではないのだ」といふ事を自覚して、人聞自らは如何なるものであるかといふ人間の実相を知る事が宗教である訳です。
人間自らは如何なるものであるか。キリストはお父さんがなかつたのですね。大工ヨセフといふのは名目上父としてありましたけれども、聖母マリアは、そのヨセフとの許婚の間に、まだ結婚しないのに妊娠して生れたといふのですから、キリストは幼い時から「自分のお父さんは誰であるか」といふ事に思ひ悩んだに違ひないのであります。それで遂にイエスは自分の父は、天に在します神である、といふ事を自覚して、自分は「神の子である」といふ事を言ったのであります。これがキリスト教といふ宗教の基であります。かういふやうに宗教といふものは汝自らを知る、といふ事なのであります。
お釈迦さんも、生れると直ぐ七歩あるいて、といふのは七といふ数は完成の数ですから、自覚を完成してといふ意味でありますが、一方の手は天を指し、一方の手は地を指して、“天上天下唯我独尊”と言つたんです。これが佛教の肇(はじめ)である。
天上天下唯我独尊といふことは――宇宙で自分が一番勝(すぐ)れた所のものである。言ひ換へると自分は“神の子”であるといふ事です。「人間神の子であつて、素晴しい存在だ、肉体から生れたものではない」といふ自覚を得られたといふ訳なんです。尤もこれは象徴物語りであつて、いくらお釈迦さんでも、オギャーと生れるなり歩き出して、そして天を指し地を指して「天上天下唯我独尊」といふ訳にはゆかないと思ひますけれども、これは七歩あるくといふことは、七は完成の数でありまして、自覚を完成したら、人間は天上天下唯我独尊だ、ただ我れ一人尊し、我は神の子であり、最もすぐれたる存在であり、自分は宇宙の中心だといふ事がわかつたといふのであります。
<つづく>
445
:
復興G
:2012/04/18(水) 10:23:55 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<2>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
佛陀(ほとけ)とは何であるか
さて宗教の定義は、自分自らを知ることの自覚を得させる教へだといふ事であります。その自覚を得たものが佛といふ訳です。佛といふと、「あの人は死んぢやつた。ああ佛さんになつた」なんて言ひますけれど、そんな佛さんぢやないんです。尤もあれも或る意昧から言ふと佛であります。人間は肉体を現してゐる間は、肉体といふものに縛られてゐるのであります。從つてまた物質の法則に縛られてゐるのです。飯を食はなかつたら腹は減るし、余り働き過ぎたらくたびれるし、眠らなかつたら辛い、……いろく肉体的な縛りといふものがある訳です。霊魂が肉体を抜け出したら、さういふ肉体の制約から、解放される訳です。さういふ意味に於て肉体の死んだ人は佛でありますけれども、しかし霊魂が肉体を脱けても、肉体を抜けたといふ事を知らずに、解放されないのがゐるのであります。さういふのを亡者(もうじゃ)といふんです。つまり未だ解放されてゐないのです。自分自身を「天上天下唯我独尊」の自由自在の存在であるといふ事を知らないで、そしてやつぱり肉体の中にゐて苦しんでゐる、といふ様な妄覚のままで霊界に行つてしまふ。この状態は永久に続くかどうか判らぬが、ともかく霊魂が霊界に往つても「何々といふ病気で苦しんでゐる自分だ」といふその想ひが続いてゐる間は、亡者である。「亡びたる者」である。「亡びたる者」といふのは、肉体があると思つて亡びないと思つてゐるのですけど、魂の方は亡びてゐる。つまり、人間みづからの生命そのものが、自由自在である神の子であるといふ事を自覚し得ないのでありますから、その自由自在性の霊なる存在を悟らんから、「霊なる存在」が亡びたる状態であるから、いはゆる「亡者」である、といふ訳であります。我々は亡者ぢやいかんですよ。
今言ひました通り、肉体が生きてをつても肉体が自分であると思つてゐる者は、霊性の自覚がないから或る意味から言ふと亡者である。肉体といふものは、これは恒(つね)に亡びるものなのであるからです。肉体は亡びるものであつて、偉さうに言つて百五十歳長寿会に入会してをつたからとて、それでも、それ一杯ギリギリ生きてゐても百五十年だ。宇宙の長い生命と比べたら、実につまらんものであって、皆「亡びるもの」が肉体の人間なんだから、亡者即ち亡びるものと書いてある。だから、肉体が人間だと思つてゐるものは、みな亡者mortal(モータル)と言ひますね。それが不滅のものといふもの「亡びない者」immortal(インモータル)といふものになる事が必要なんです。それが即ち亡ぶる者から亡びないimmortalといふものに生れ更るのが、これが「新たに生れる」といふ事である訳です。宗教を定義して、「宗教といふものは個生命(個人個人の生命)が宇宙大生命と一体であるといふ事を悟らせる教へが宗教である」といふ風に定義する人もある。この定義は無論正しい訳であります。これは「汝自らを正しく知つたとき」自然に自分といふ「個」の生命が宇宙生命といふ「全」の生命との關係がわかつて来るのであります。自分の生命といふものが、単なる肉体に宿つてゐる五尺何寸、十何貫といふやうな――中には五十貫も目方のある、この前日本に来たプロレスのキング・コングみたいな人もゐますが――それでも、十何貫にせよ、五十貫にせよ、いづれも有限であつて、やはり「亡びる者」であります。如何にキング・コングでも、力道山にやられる。その力道山も終ひには誰かにやられる時が来るであらうし、またやられないでも死ぬ時も来るであらうし、人間を肉体だと見てゐる限りは、人間は所詮は亡びる者、亡者である。そこで此の「亡びる者」から「亡びない者」に移り変らせ、人間は肉体でない、久遠の生命であるといふ事を自覚せしめるのが、宗教である訳であります。だから、久遠無限の宇宙大生命と個生命たる自分とは一つであるといふ事を自覚する教へが宗教である、といふ訳であります。
<つづく>
446
:
復興G
:2012/04/18(水) 10:51:37 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<3>
前記 謹写<2>につづくご講義は、すでに
>>378
〜381に投稿しておりましたから、そちらをご覧ください。
中略させていただきまして、「イスラエルの十二の分派(わかれ)」に関するところを謹写投稿させていただきます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さて「新天新地の神示」のつづきであります。
「『生長の家の神』と仮りに呼ばしてあるが、『七つの燈台の点燈者』と呼んでも好い。七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで新しき生命を得るのだ。わが教へはどんな宗派をも排斥するやうな狭い宗教ではない。教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。」
七つの教へといふのは、すでに説明致しました通り、七つは「完成」の数で、すべてを表すのであります。「燈台」といふのは「世を照らす光」即ち宗教であります。「七つの燈台」で「すべての世を照らす光となる宗教」といふ意味であり、智慧の光によつて迷ひの暗を消してしまふところの教へであるといふことであります。
イスラエルの十二の分派(わかれ)とありますが、イスラエルつていふのは、五十鈴(いすず)の川の流れといふ意味であります。「いすす」といふのは五十(いす)の鈴の音即ちアイウエオ・アカサタナ・ハマヤラワ………の五十音によつて全ての言葉のヒビキが代表されますが、神はコトバであり、五十音の展開が万物であり、その万物が「統(す)」によつて統一せられる、それを五十鈴(いすず)といふのであります。
伊勢大神宮の境内に流れてゐる川があります。それを五十鈴川と申しますのは、宇宙の万物を統一する大神をお祀りしてあるのが伊勢大廟であるからです。
*「イスズ」の「ズ」は濁音ではなく、「スス」といふ重音です。
日本の神社神社にお祀りしてある神々は、伊勢の大神宮ほか二、三を除いては、ほとんどすべてが人間の霊魂でありますが、伊勢の大神宮には宇宙の万物を統一する天照大神をお祀りしてあります。天(あま)といふのは「天球(あま)」であつて宇宙全体であります。「天球」即ち「宇宙全体」を照らしてゐる大神といふ意味で天照大神(あまてらすおおみかみ)と申し上げます。宇宙本源の神様が仮りに応化して、伊邪那岐大神よりお生れになつた方が、天照大神であられるわけであります。
神仏混淆時代に伊勢大神宮の奥院に、阿弥陀仏が祀つてあつたといふ考証を誰かがしてゐられたのを読んだことがありますが、本当にそんな事があつたとしても別に不思議ではありません。阿弥陀とは十方世界光明遍照、尽十方に満つる無礙光といふ意味でありますから天照大神といふ意味と同じ意味であります。それを仏教では尽十方無礙光如来と申し上げ、別の名称を大日如来と呼び奉るのでありまして、十方世界に充ち満ちてをられるところの神様であり、仏様であり、「天球(あま)」に充ち満ちてそれを照らしたまふところの大神であります。
そこから五十鈴(いすず)の流れ、五十音の言葉の流れが展開して万物が成る(鳴る)のであります。これを象徴して伊勢大廟には五十の鈴が宝蔵されてゐるといふことを承つたことがありますが、私はまだ拝観したことはありません。そこには鈴の言霊が五十音ある。その五十を統(ス)べるスの音が鈴(スス)であります。
ここから五十鈴(イスス)の川の流れが出て十二に分れ、そしてこれがすべての諸国の民族の本源となつたといふのであります。だから、イスラエルの十二の支流(わかれ)といふのは、五十鈴の流れから発して世界各民族となつたすべての人類といふ意味です。
<つづく>
447
:
復興G
:2012/04/18(水) 10:53:10 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<4>
『万葉集の謎』といふ本が出てゐる。そしてベスト・セラーになつてゐるのでありますが、言語の類似から研究して、日本人は、今ヒマラヤの奥地に残つてゐるレプチャ民族といふ未開民族の子孫であると言つてゐるのでありますけれども、ああいふ言葉の類似といふものは、到る処にあるのでありまして、必らずしも万葉集の言葉とレプチャ民族の言葉だけではないのであります。
大体言葉といふものは宇宙に充ち満ちてゐて、それが事物の相に応じて自然発生するものであります。聖書にある「太初(はじめ)にコトバあり。コトバは神なりき」のあの言葉のヒビキが事物となつて現れてゐる。それを表現するのに人間は自然に発生する言語をもつてするのであります。
言(こと)は事(こと)であつてすべてのものは事であり言である。言事不二(ごんじふじ)であります。英語でも神様のことをゴドと言ふ。『万葉集の謎』にはもつと似てゐない言語を類似してゐると指摘して、レプチャ語は万葉集時代の日本語だと結論を下してゐるのでありますが、この程度の類似を持つて来て、同語源だといふ証明をしようと思へば、レプチャ語をもつて来なくても、イギリス語でも日本語と語源は同じだと言ふこともできるのであります。
英語の単語と日本語の単語の類似は『生長の家』誌二月號(昭和31年)の明窓浄机に書いて置きましたけれども、これはレプチャ語や英語だけの問題ではなく、「世界の言語は悉く一つであつた」といふことが旧約聖書に書かれてをります。言語は事物の内的意義や状態を表現するために自然に発したものでありますから、共通の発音に共通の意義をもつてゐたのであります。
ところがバベルの塔といふのを人類がこしらへて、それを高く築いて、つひには天までとどかせるのだといつて、高く高く塔を築いて行つたのであります。さうしたら神様は怒りたまうて、人間の我の能力(ちから)によつてはどうしても神に到達することは出来ないといふことの象徴として、そのバベルの塔を壊して、民族を諸方へ散らしたまうた。そして其の時までは言葉も一つであつたと旧約聖書には書かれてゐるのであります。
世界は最初一民族・一言語であつたのが、神によつて四散せしめられて、それが十二の民族となつて岐(わか)れたのであります。十二と言つても、十、十一、十二、十三といふ実数ではないのであります。七つと言ひ、十二と言ひ、すべて一周期の完成を指すのであります。七つは既に申しましたが、十二は十二ケ月とか一ダースとか十二インチが一フィートとかいふ風に一つの数が完成して上位にうつる節であります。だから「十二の支流(わかれ)」といふのはすべての分派した人種といふ意味であります。
大体事物の発展といふものは、三と五と七との倍数が節になつて発展することになつてゐます。それで七・五・三を人間生育の節としてお祝ひするのであります。何でも人間が厄年としてお祝ひをするといふときは一つの節になつてゐるときであります。周期の代り目を厄年として祝ふのであります。十二といふのは五と七の和でありまして、一年を十二ケ月といふやうにしたり、一フィートが十二インチであるとかいふ風にして一段落を示すのであります。
わたしたちの厄年も、七・五・三の倍数になつてゐるのであります。女の人は三十九歳が大厄年であると言ひ、男の人は四十二歳が大厄年だと言ひ、或ひは還暦の祝ひは満六十歳でやる。やつぱり三の倍数であります。つまりこれらの年は三・五・七の倍数によつて展開して行くところの節の年になつてゐるのであります。
それは兎も角、同じ言語や同じ地名がレプチャ族にもあるから、日本人の祖先はレプチャ人だといふ結論は成立たないのであります。
<つづく>
448
:
復興G
:2012/04/18(水) 10:54:13 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<5>
嘗て木村鷹太郎といふ人が、天孫降臨の記録にある日本地名とおんなじ地名がギリシャにあるといふのでズーッとその地名を列(なら)べまして、日本民族はギリシャ民族である、「タカアマハラはギリシャにある」といふ説を立てて、『大日本太古史』といふ部厚い上下二冊の書物をあらはされたこともあります。人類の本源はすべて一つの神から発生したのですから、レプチャ民族も日本民族も本源はおんなじだと言つてもかまはぬけれども、『万葉集の謎』といふ本がよくないのは、日本民族の祖先はレプチャ民族だといつて、未開のレプチャ民族の子孫だと幾分日本民族軽蔑の意味を含めていふところに、近頃流行の日本蔑視自己侮辱の弊害にひつかかつてゐるといふのであります。日本語とレプチャ語とが似てゐるなら日本民族はレプチャ民族の祖先だ、と言つた方がいいと思ふのであります。
小谷部といふ人の研究を読んだことがありますが、これはまた別の説を立ててゐます。この人はユダヤ人は日本民族であるといふ説なのであります。ユダヤ人の風俗、言語、習慣などの日本人に似てゐることを列記して、イスラエル民族は日本民族である。それが十二に分れて諸方へ散つたと言ふのであります。
これはバベルの塔が壊されて諸方へ民族が散つたといふ旧約聖書の記録にも当て嵌まるわけでありますが、その十二の民族のうちの一番すぐれた民族が東方へやつて来たガド族といふ民族であつたと言ふのです。そのガド族が日本の九州に上陸して、日本の国を建てた。それがミガド民族であると言ふのであります。ミは「御」で美称であつてガド族を尊称して、ミガド族になつたのだといふので、旧約聖書にあるイスラエルの再建といふことは日本民族の再建を意味するといふ風に、日本民族の優秀性を説くためにさういふ説を立てた人もあるのであります。
兎も角イスラエルといふのは、コトバが神であり、万物これによつて成り、人類もこれによつて成つたが、コトバは「五十鈴」即ち五十音に展開し、それがイスラエル即ち五十鈴の川の流れであり、それが十二の分派となり、すべての民族と分れたが、凡ての民族が此の教へによつて救はれるのである、とさういふ意味が此の神示に示されてゐるのであります。別に何の民族が祖先であり、優秀であるといふ必要もないのであつて、すべての民族がこの教へによつて救はれるのであります。
「新天新地の神示」ご講義 謹写<終わり>
449
:
トキ
:2012/04/18(水) 20:52:13 ID:/sKPaFps
復興G様、すばらしいご投稿、ありがとうございました。『神ひとに語り給う』は特に最近、
入手が困難と聞いていますから、ご投稿は広く信徒にも有益だと思います。深く感謝申し上げます。
合掌 ありがとうございます
450
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/18(水) 21:12:53 ID:nNFoldc2
トキ様、
誌友会板が独立したら、貼付してください。
451
:
復興G
:2012/04/18(水) 21:23:01 ID:ojEbkDH2
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<1>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
万教帰一の神示
われに姿かたちあるやうに言ふものもあれどわれは姿なきものである。われは道である。われは霊性である。智慧である、愛である、生命である、われは如来である、われは一つにして多である。信仰深き諸方の霊覚者にわが神姿を示したることあれども、そはわが真の姿に非ず、見えたる神姿は霊覚者の心識の所現にも非ず。そは、われ神通力によつて、疑ふ者の蒙を啓かんがために、異る場所と異る人とに同じき一定の神姿を示して、神の客観的存在を実証したに過ぎない。されど、本来われに一定の神姿はない。如何なる姿も欲(おも)ひのままに現ずることが自由である。されば、嘗(かつ)てわれ汝に告げたのである『われに神殿は不要である』と。われは神殿がないとて身の入れ場所に困るやうな神ではない。供へ物も要らぬ。わが姿を見んと欲ふものは『生長の家』を読め。われは言葉である。吾が言葉を盛る雑誌こそ吾が神殿である。この雑誌がひろがるのこそわが神殿の大きくなることである。われにすがた形はない。われは霊の海である。大海原である。すべての宗教(おしへ)流れ来りて吾れに入らん。
吾れは完成する者である。われは『七つの燈台』に燈を点ずる者である。古道も、仏教も、キリスト教も、天理教も、金光教も、黒住教も、大本教も、すべての教我に流れ入りて生命を得ん。われは大(おほい)なるものなるかな。すべての教を呑吐(どんと)して、これに生命を与へ、すべての相争ふ教をその真髄に於て握手せしめる。吾れはすべてを包容し、すべてに光を与へ、すべてに栄養を与へ、すべてを生かす地下水である。他の如何なる宗教をも誹(そし)らず批(う)たず、常に讃頌(さんしょう)と、善き言葉とを雨ふらして、それを浄めその真髄に燈を点ずる。あらゆる宗教がその真髄を礼拝して手をつなぐやうにならねば此の現実世界の改造は完成せぬ。精神界が先きで現実界はその影である。元乱れて影完(まった)からず、宗教家よ、宗派争ひをしてゐる時ではない。 (昭和六年四月五日神示)
<つづく>
452
:
復興G
:2012/04/18(水) 21:24:29 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<2>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〔講義〕
本源の称は如何なるものか
「われに姿かたちあるやうに言ふものあれどわれは姿なきものである」と、神示にありますが、これは神様とは如何なるものであるかといふことを示してゐるのであります。「われ」といふのは神様御自身を指されたのであります。時々神の姿を見たと言ふ方がありますが、本源の神様には姿がないのであります。それを無相と謂(い)ひます。無相だからどんな相(すがた)もないのかと思ふと、無相であるからどんな相でも現ずることが自由であるのであります。だから、神は無相にして無限相であるといふのであります。現象界の相のあるものはさういふやうに自由に姿を変ずるわけにはゆかんのであります。姿がないからこそ何にもさはりになるものはない、姿が限定されません。姿が限定されませんからどんな姿にも現れられるのであります。ところが現象界のものは時間空間に限定されて形が各々異つて独特の姿をしてゐる。ところが、神様は姿かたちがないから無限の姿を持つてをられるのである。また姿がないから一定の形の宮や神殿の中にをらねばならぬことはないのです。それで「吾れに神殿は不要である」と書かれてゐて、神様のお宮や神殿みたいなものは宇宙の本体神たる生長の家の神様には要らぬことを示されたのであります。
既に古くからの誌友の人は御存じの方が多いと思ひますが、生長の家の「生」といふのは縦に生(の)びるといふ意味の文字であります。「長」といふのは横に「長く」延びる、即ち延長するといふことで横広がりの世界――「空間」を象徴してゐるのであります。縦につづいてゐるのが「時間」である。時間は縦に心の世界で象徴されるのであります。吾々のいのちを、お父さん、お祖父(じい)さん、曾祖父(ひいじい)さんと縦に遡つて行く。この遡つて行くのは時間的にさかのぼつてゆくのですね。吾々の現象的にあらはれてゐる生命の本質は「時間」の持続で出来てゐます。その時間を象徴するのに、何の某(なにがし)家の系図とか何とかいふ場合には、上から下へと縦に線を引いて、「時間」又は「いのち」の持続または継続をあらはすのであります。子孫から先祖に遡るといふ場合には下から上へと縦の線を引いて示します。かういふやうに、「時間」といふ観念は、吾々の心の世界で縦の連想を有(も)つてゐるので、それで縦の線を以つて仮りに時間を象徴的に表すのであります。
さて十字を描きますと、此の縦に生(の)びる線が「時間」にあたるので、これが生長の家の「生」であります。「生」といふ字は、樹木が無限に生びるといふ意味が表されてゐるのであります。楠でも杉の木でも老衰することなく無限にのびます。それで時間の無限持続を象徴して十字の縦の線があります。これは時間の無限持続――即ちつづきであります。それから「長」の方は空間的ひろがりであります。かうして十字は持続と広袤(こうぼう)――「つづき」と「ひろがり」――「時間」の続きと「空間」的広がりをあらはします。この「時間」と「空間」とが十字にまとまつて、天球(あま)となり「家」を成します。その「家」即ち宇宙を形成してゐるのが生長の家であります。ですから、大宇宙全体のことを生長の家と言ふのであります。そして「生長の家の神」といふのは大宇宙の神といふ意味であります。別に「生長の家」といふ一宗一派の本尊の神といふやうな他宗と対立するやうな神ではないのであります。
<つづく>
453
:
復興G
:2012/04/18(水) 21:25:39 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<3>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
宇宙の中に神様が生れたのではなく、神様の生命そのものの広がりが宇宙であります。
「吾れは智慧である、生命である、宇宙である」と「新天新地の神示」 中に書かれてありますが、宇宙そのものが神様であるわけです。天理教では神様のことを「月日」と書いてをりますが、月は陰であり、日は陽であります。「時間」の方は「生命」をあらはし、生命の本質は発動的でありますから、陽であります。「空間」の方は生命が展開するための「場」となるものでありまして、受ける方でありますから受動的で「陰」であります。「生命」が天降つて来て「場」に展開する、そこに秩序が生じます。これを智慧と言ひます。「生命」と、それを受ける「場」と言ひましたが、「場」そのものも、生命の展開でありますから、本来陰陽一体であり、月日本来一つであります。それで「月日」と書いて神をあらはすといふ訳であります。
さて其の神は「遍在」する、到る処に神が充満してゐるわけであります。日本神道では、「高天原に神つまります」といふ語で、天津祝詞(あまつのりと)も大祓祝詞(おほはらひのりと)も、始まつてゐるのであります。神道に於て高天原といふのは、↑縦線をもつて高く昇ることを象徴する「高」は時間であり、「原」は横線をもつて広がりを示す空間であります。時間と空間、「高」と「原」とが互に交叉して○(まる)く現れて「天」即ち天球を成してゐるのが「高天原」であります。だから大宇宙のことを神道では「高天原」と言ふ。天津祝詞で「高天原に神詰ります」といふのは、即ち宇宙全体に神様が充満してゐたまふといふ意味でありまして、これが即ち、キリスト教で「神は遍在である」といふところの教へに一致するのであります。神は遍在で、あまねく在(ましま)す、オムニプレゼント(omnipresent)であらせられる。神は何処にでもをられるといふので、「高天原――宇宙全体――に神つまります」と神道でいふのです。
キリスト教の真理も、神道の真理も同じことであります。クリスチャンが日本神道を評して偶像崇拝だなどと言ふのは間違であります。佛教で尽十方に佛様が充満してゐると説かれてゐるのもやつぱりおんなじ神は遍在だといふ真理であります。それで神示に「本統の神は霊媒には憑(かか)らぬ」とあるのも、霊媒にかかるのは個別霊でありますから普遍的ではない、普遍的根本神は霊媒にはかからぬのであります。だから神示には「われは此処に見よ、彼処(かしこ)に見よといふが如くにはゐないのである」と示されてゐるのであります。何処にでも到るところに、我の内に、すべての人のうちに、宿つてましますのが宇宙の大神であります。
<つづく>
454
:
復興G
:2012/04/18(水) 21:27:08 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<4>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
カミの語源について
神といふのは「幽(かす)かなる身」或ひは「隠れてゐる身」、さういふ意味から来てゐる語であります。或ひは、輝く光明の身といふ意味に於て「輝く身」といふ意味も含まれてをります。また尽十方に神通自在に身をあらはすといふ意味で、「翔(かけ)り身」といふ意味も含まれてゐます。神は姿形が隠れてゐる「光」であり、神通自在にして何処にでも姿を現すことが出来るといふ、さういふ色々の意味が「カミ」の語意には含まれてゐるのであります。「カミ」の「カ」が「隠れて見えない」といふ意味だといふことは一見コジツケみたいにきこえますけれども、コジツケではありません。
「カ」といふ語を考へて御覧なさい。“幽かな”とか“隠れてゐる”とか“風”とか“香”とか“霞”とか、皆かすかにして肉眼でハッキリ見えないことに「カ」がつく。影などといふのも全然影つてしまつて光がないと見えない。「かがやく」といふのは、あまり輝くものは、其処にあつても眩しくて幽かであつて見えません。「翔り身」なんかも、空飛ぶ円盤のやうにあまり速力早く翔るものは見えない。結局、「隠り身」「輝く身」「翔り身」といふ風に三つに説明できるけれども神通自在で、姿が見えないといふ意味を含んでをります。
さういふやうに、神様は姿形が見えずして遍在であり、宇宙到る処に、何処にでも充満してをられて、吾々の生命となつてをられるのであります。さういふ普遍の本体である神様には社や神殿は要らないわけであります。しかしながら、それだけが神様かといふと、さうぢやない。今申しましたのは第一義の神様であります。第一義といふと本来の意味に於てといふことです。第二義の神、第三義の神といふと、本来の意味から多少はなれて、副次的に第二義的、第三義的な意味に於て又別の神があるといふ意味であります。
第二義の神様と申しますと、第一義の神様――実相の神様――即ち宇宙に充ち満ちてをられて、姿かたちが見えない、無相にして無限の姿の本源の神様が、無限の姿の一つを化身として現されたものであります。例へば、観世音菩薩であるとか、白髪の老翁の姿をして多くの誌友の霊眼に生長の家の神様として現れられた神様といふやうな方であります。
ところが第三義の神様といふのは、簡単にいへば、霊魂即ち霊魂(みたま)の神であります。(幽霊とは霊魂でも神格を得ないで、迷つてゐるものですが)霊魂の神といふのは、幽体といふ体があつて、(物質ではない一種の幽質で出来てゐる「肉体と同じやうな形」の体(たい)と思へばよろしい。)靖国神社等に神としてお祀りしてあつて、神格を得てゐられる人間の霊魂であります。或ひは乃木神社には乃木希典公の霊魂がお祀りしてあるとか、或ひは東郷神社には東郷平八郎公の霊魂がお祀りしてある。護王神社に和気清麻呂公の霊魂がお祀りしてある。湊川神社には楠正成公の霊魂がお祀りしてある。生田神社に若姫君命がお祀りしてある。槵触(くしふる)神社には瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がお祀りしてある。その他色々あるけれどもこれらはみんな霊魂の神様です。
かういふ風な神様たちはこれは「第三義の神」であつて、個別霊即ち個々別々の霊魂であります。個別霊であるからそれぞれ個性がある、それぞれ職責が異ふ、性格が異ふ、受持が異ふわけで全能でない、從つて何でも彼でも、祈ればきいて下さるといふ訳には行かないのであります。広い意味に於ては、「霊魂(みたま)の神」も神様の中には入つてをりますけれども、「宇宙の大神」ではないのでありますが、宇宙の大神の一つの表現の中心として個性的に現れてゐられるといふことに於ては皆さんと同じであります。皆さんに個性があると同じやうに、神社に祀つてある神々にも、色々の個性があるわけであります。そしてそれぞれ司る処が異ふといふことになつてをります。
<つづく>
455
:
復興G
:2012/04/18(水) 21:28:00 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<5>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
大体霊魂の世界といふものは、吾々の世界と密接な関係があるのであります。私たちは肉体によつて物質の世界に生きてゐると同じやうに、霊体によつて霊魂の世界に交渉をもつてをります。其の霊魂の世界も、低い波長の霊魂の世界、高度の波長の霊魂の世界と色々あります。丁度NHKの第一放送の世界、第二放送の世界、或ひは文化放送、日本放送、ラジオ東京等各局放送の波の世界が二重三重に皆一つ処、今此処にあるでせう、それと同じ様に、霊魂の世界といふものが、肉眼には触れないけれども、二重三重にあるのです。そして、その二重三重の、その奥の奥の奥に、実相世界といふのがあつて、吾々は「本体」によつて実相世界に交渉をもつてゐる。実相世界は何処にあるかといふと、やつぱり此処にあるんです。現に私たちの実相(本体)は実相世界にをるのです。現に実在世界にをるのですけれども、感覚面には出て来ないのです。五官面には出て来ないけれども其処に私の本体は居るのです。
実相の世界とは
霊界と一と口に申しますけれども、一番深奥にある実在の世界は実相の世界でありまして、これが第一義の世界であります。其処は天国浄土といはうか、極樂といはうか、龍宮といはうか、名前の附け方は色々ありますが、兎も角既に完全円満に成就せる世界であります。キリストが「御意(みこころ)の天に成る如く、地にも成らせ給へ」と言はれたやうに、「既に天に成る」さういふ世界が実在してゐる。
「天」といふのは、実相の世界――実の相(すがた)の世界であつて、永遠に滅びないところの世界である。それが此処にあるのであります。或ひは佛教では何といひますか、「空」ですね。「色即是空、空即是色」といふ「真空」ですね。「真空妙有」の世界ですね。或ひは禅に於ける「無」ですね。「無」といつても、「有」と相対する「無」ではなくて、一切のものが無相にして其処に無限を包藏する「無」ですから、「相対無」でなくて「絶対無」ですね。さういふ世界があつて、それが実相の世界で、これが「本体界」であつて、「吾々の本体」が生活してをります。
その次は霊魂界ですが、霊魂界を二つに別ければ「霊界」と「幽界」との二つになります。幽界はまだ悟りをひらかぬ霊の世界、霊界は稍々(やや)悟りをひらいた霊の世界であります。
(後略)
<万教帰一の神示 ご講義 謹写終わり>
456
:
志恩
:2012/04/18(水) 21:57:16 ID:.QY5jUA6
復興G様
「神ひとに語り給う」、これは、深いご講義が書かれてあるのですよね。
今、プリントアウトさせて頂きました。
アマゾンコムを見ましたら、中古本で、9、980円もしていました。
高くて買えません。
確か、昔、私も持っていましたが、また貸ししたりして、無いのか、今は手元にありませんでした。
457
:
ももんが《宗教・歴史篇》
:2012/04/18(水) 22:09:34 ID:XXCuaQns
〜ユダの福音書〜《再投稿》
『キリスト教グノーシス派』の福音書の『ユダの福音書』です。
ある意味、”光明思想“に良く似てとこもあります。
大変、面白い、『福音書』です。
神の解釈が、面白いので、是非御覧になって、下さい。
①
http://m.youtube.com/watch?guid=ON&gl=JP&hl=ja&client=mv-google&v=KTO3zHGIDCY
②
http://m.youtube.com/watch?guid=ON&gl=JP&hl=ja&client=mv-google&v=g0C0DSb4Gu4
では、一つの歴学として、御覧ください。
合掌、拝。
458
:
a hope
:2012/04/19(木) 09:04:14 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
悪いところへ自然に手が行く
神想感を一か月も或いはそれ以上も続いて稽古なさった人が病人を揉んであげたりすると、自然にその手が相手の病気のところ、凝りのところに触れて行って、その凝りを解してあげるように手が自然に動いて来て、柔らかく揉んだり強く捻ったりあるいは急所(つぼ)を押さえたりすることがあります。神想観をした後で、「お母様の肩を揉んであげたい、どうぞお母さま肩の凝りの治るように自然に手を動かして揉ましてください」と念じてやると、たいていの皆さまでもそれができるようでありましょう。
そういうふうな事がどうして起こるかというと、人間の生命(いのち)は自他一体―――即ち、どの人間も神の生命に生かされていて元は一つという根本原理からくるのであります。人と吾とが別ものでありましたならば、決してこちらの手が、見えもしない向こう様の悪いところへ自然にゆくなどということはあり得ようがないのです。
眼で見てここが悪いのであるとか、聴診器を当てて見てここが悪いのだと指さすことなら誰にもできるのでありますが、そんな道具も何も使わないで、ただ神想観をして自他一体の観念を深めてから、人に手を触れて、「この人の病気を治して上げたいナ」という気持ちを起こしますと、自然とその病患部(びょうきのところ)に掌が吸いつけられるようにゆくのでありますが、これは皆さんが神想観をよく稽古してからおやりになれば判りますが、電気療法とか、生気術とか、指圧療法とかをお習いになった人でもできる人があります。
その時に掌が病気のところへ吸寄せられるような感じのする人もありますが、何の感じもなしに自然と何となしにそこへ手をやりたいという気持で、掌がその病患部へゆく人もあります。いずれにせよ、これは要するに相手と自分とが本来一つのものであるから、眼で見ず機械で測らずして悪いところが判るのであります。
この現象をもっと人間の身体と身体との触合(ふれあい)以上に広く考えて行きますと、機械の取扱い方や、鉱山の採掘や、経済界の問題などにも、ここをこうやればよくなるということが判るようになるのであります。もう少し放って置けば大故障の起こるというときに、何となくそこへ行きたくなってその故障を未然に防いだり、何となく前の晩に読みたくなったものが明くる日の試験に出ているなどはそれであります。
「この人を治してあげたいナ」と思って、そこへ手がゆくということを経済界でいいますと、「私の所で金が要る」」という事になっていると、そこに自然に金のある人が「お金を出してやろう」という気持ちになって自分のところへ振向いてきてくれるのも同じであります。
自然に故障のあるところに救いの手がいって治そうとしているのが「神」の働き、「全体の生命」の働きであります。この「全体の生命」のお助けを受けることができないのは、それは自分が「全体の生命」から離れている―――言い換えると自他一体の観念が欠乏していて、自分と他(ひと)とは別ものだとはっきりと自分と全体を区別し過ぎて、我と我が心で仕切りを拵(こしら)えているからであります。
言い換えるとその人が利己主義なのです。世の中が都合よくゆかないという人は、たいていこういう自分と他とを区別し過ぎた利己主義の人であります。自分の心の中に、彼と我とは他人であって、眼で見える通り物質的肉体によって分かれておる。人間というものはこれだけの一メートル数十センチの丈と数十キログラムの重量の肉体であるに過ぎない―――こう考えて「彼」と「我」とはすっかり物質的に別々で何等の連絡もないものだという心で仕切りをつけると、こちらの心で仕切りをつけていますから、こちらの必要な時に向こうからも誰からも助けてくれないのであります。
そして私は「運が悪い」と、ぶつぶつ言うのであります。「全体の生命」の助けが、我々を助けるやめに誰かを寄越そうとしても、自分の心が邪魔をしていてそうさせないのです。ちょうど、太陽の光は煌々と照り輝いても、私達が目をつぶっていれば、光は眼には入らないとおなじように、自他一体―――全体の命は一体―――の事実があっても、それを目をつぶって人間は別々なものだという観念を持っていると、自分の欠乏しているものを他から自然と補っていただく作用(はたらき)が出てこないのであります。
ところが神想観を実修し、『生命の実相』を十分お読みになりまして、「自分と「他」とが一体であり、「全体の生命」によって繋がっているという事が分かってまいりますと、病気の患部(わるいところ)へ自然に手がゆくように、経済界においても足りないところへ自然と他の手が届いて助けていただけるようになるのであります。
(つづく)
459
:
ハマナス
:2012/04/19(木) 09:34:08 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。皆様にとって神様の法悦に満たされた一日でありますように。
必勝の力 (『新版 生活の智慧365章』P.131)
悲しみの来るとき、孤独感におそわれたとき、心を神に振り向けよ。神はつねにあなたの愛人であり、
最も愛ふかき慰め手であるのである。実際、変化常なき現象界の出来事に振り廻されて一喜一憂して
いるような状態に於ては、本当に魂の休まるときは来ないのである。魂の本当の平和は、移り変わら
ないもの、永遠に信頼できるものに倚り頼り、母の手にまかせ切った赤ん坊のような心持になった時
にのみ得られるのである。
野球の打者が“三度振り”をしたからとて、相手の投手が悪いのでも、野球の開催者が悪いのでも
ないのである。自分が人生で面白くない点数しかあげ得ないからとて、人生そのものを呪ったり、
対人関係を呪ったりする理由は決してないのである。自分をさえ研けば、点数を沢山あげることも出来るし、
人生の勝者となることが出来るのである。弱い相手とのみ試合して「勝てる」と自負していて、強い相手と
試合して零敗するようでは何の価値もないのである。強敵と常に試合し、困難と常に打ち闘うことによって
その人は、如何なる相手とも互角に立ち向かう力が養われるのである。そして困難に立ち向かうとき、自己
の内に宿る“常に敵二倍力”の神を呼ぶことを忘れてはならない。
感謝合掌
460
:
SAKURA
:2012/04/19(木) 22:14:30 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…
ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。
今日は遅くなりましたが…毎日、此の“書物”を開きます時〜〜
「神様!お願いします」と〜〜不思議なのですが?“ピッタリ”した【答…】?
【課題…】が出て来ます…。勿論!この書籍は続きものでしょうが…
これは「雅春先生の書物」の中で…この本を開いて「人生行路の羅針盤」にと、
記載してありました。それから、【オ−プン 】します様になりまして、
“ピッタリ”した【神事…】を頂く事になりました。すご〜〜イ!!!
それでは…始めます【スタ−ト】
■【幸福を招く365章】
―――神の子の自覚は現状満足ではない―――
自分だって、自分自身は気がつかぬけれども、他の人に対して不快な思いをさせたことが
度々あるのである。考えて見れば他を責める資格など自分にはないのである。
——— 斯う気がついたとき却って自分の心が平安になるのである。神は謙れる者に
来り給うて其人を平安に護りたまうのである。人間神の子の自覚は、現在の自分は、
まだまだ内在の神性が完全に発現していないと云う自己反省に裏づけられるのである。
だから「神に救われている」と云う自覚は、奇しくも「罪悪深重の凡夫」と裏表である。
(谷口雅春著)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。
■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2
>>278
です!!!
461
:
金木犀
:2012/04/19(木) 23:09:36 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第一章 宇宙及び人間の創造について」の一部(4)
“わたし”は創造者である。全てのものをアイディアによって創造したのである。アイディアは現象界の一切の形に先行する形である。それは“心でつくった形”である。それを人間たちは想念とか観念とか呼んでいる。ともかく“わたし”は“生命”であるからジッとしていることはない。必ず動く。必ず動くけれども物質のように無目的でうごくのではないのである。智慧によって動き、愛によって動く。わが動くところ必ず、智慧による計画があり、愛による結びがあり、生命による“生かす”はたらきがある。そこに生物が出現するのである。
何事によらず、“わたし”の生命の動きがなければ何物も創造されることはない。すべて真に存在するものは、“わたし”の創造である。“わたし”の生命が動けば必ず智慧がはたらき出す。生命と智慧とは一体であるからだ。智慧は生命から離れて独立するものではない。しかもその智慧は愛から離れて独立するものではない。本当の智慧は愛を完(まっと)うするようにはたらく。愛を完うするように働かない智慧は智慧ではなくて、知識の樹の果である。それは蛇に瞞されて、本当の智慧から脱線して物質に幸福ありと思う“ニセモノの知恵”である。そのような“ニセモノの知恵”は生命を尊重するよりも物質を獲得するようにはたらく。そのような“ニセモノの知恵”は魂の愛を獲得するより肉体の快楽を得ようとするようにはたらく。そして結局はエデンの楽園から追放せられるのである。
◯
“わたし”は“思う”ということによって一切のものを造った。“思う”ということは、生命が或るアイディアを発動さすことである。名人が銃弾を発射すれば必ず“的”に命中する。銃弾は、あるエネルギーを持っており、そのエネルギーは“心”の狙いによってその動きが統制せられているのである。生命から発動したエネルギーは、アイディアによって統制され、その動く方向を決定せられることになって、そのアイディアの姿を具体化することになるのである。それゆえにあなたの運命は、あなた自身の発するアイディアの形をとるのである。あなたの運命を、神から強制的に課せられた宿命的なものだと考えては間違いである。あなたの運命はあなた自身の発想したアイディアが決定するのである。
462
:
さくら
:2012/04/20(金) 08:00:47 ID:tPVxKQcE
おはようございます。
「聖道へ」
谷口雅春先生著
はしがき
本書はわたしの青年時代の人生論である。この十一月二十二日に
わたしが満八十歳の誕生日を迎へるに臨んで、初心に帰りたいつ
もりで、この『聖道へ』を読み返して見て、その解説を「生長の
家」誌の新年号に書いてたのであつた。この論文集には生長の家
の信仰と思想とが創かれて来た最初のわたしの心が書かれてゐる
ので、生長の家の信仰と思想の淵源に遡つて、その新鮮な蕾の将
にひらかうとするやうな若々しい純粋な、ひた向きな求道精神を
汲んでみたいと思はれる方には是非読んで頂かねばならぬ書である。
キリストが再臨して天変地変による最後の審判が将に下されん
とする瞬刻限が今だと、その危機を説いた大本教にゐて、その神
の審判に耐へるやうな純粋な清浄な人間になりたいと、ひたすら
心身の浄化につとめた青年時代から、その神罰を起す残酷な神に
つひに疑ひをいだいて大本教を脱退して、至高の愛の神を求めて、
一燈園を訪ねてその尊い、”懺悔の生活”に共感し、更にそれを
契機として維摩経に触れ、つひに現世を無明縁起の世界として、
物質の否定、肉体の否定を通して實相のみ独在するといふ現在の
生長の家の思想と信仰に到達した其の真理入門の道程が、本書に
は録されてゐるのである。詳しい解説は本書の巻末に収録した今
年の「生長の家」新年号ものした法語に述べてあるから、本文と
対照しながら読んで頂くことにしたいと思ふ。共版の序文及びそ
のころ西田香師が書いて下さつた本書推薦の序文も。そのまま残
しておくことにした。
昭和四十八年十一月
著者しるす
463
:
ハマナス
:2012/04/20(金) 08:24:58 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。皆様にとって、素晴らしい一日でありますように。
真珠は深海の底にある (『新版 生活の智慧365章』P.132)
悲しみの奥には聖地がある。悲しみに溺るること勿れ。悲しみの彼方に見ゆる聖地に
希望をもてよ。高価なるダイヤモンドは地殻の底に深く秘められ、高貴なる真珠は深海
の底に貝殻をもって秘められている。外の地殻や貝殻を見て、その奥に秘められてある
高貴な宝を見失ってはならないのである。今ある困難は最後の「光輝」を発見するための
坑内掘削工事だと見ればよいのである。
すべての悩みを神からの神罰又は仏陀からの仏だと考えてはならないものである。
通行すべからざる車道を人間が通行したためにトラックに撥ねられて死傷するのは神罰でも
仏罰でもない、法則に違反し、法則に触れたからである。これは交通条例と云う法則に違反し、
人間が歩くべからざる道を歩いたために肉体と云う柔らかい物質がトラックと云う鋼鉄車に
衝突すれば、柔らかい物質の方がくだけると云う物質の法則に触れたのである。
それと同じく“心の法則”と云うものがあり、その“心の法則”に違反して触れると法則に
よって傷つくのである。その傷つきによって今後、法則に触れないようにすれば、幸福と
健康との聖地を見出すのである。
感謝合掌
464
:
a hope
:2012/04/20(金) 09:29:53 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
ケチをつける心は卑怯な心
ところがこの自他一体の観念の少ない人は利己主義になるのでありますが、利己主義になってまいりますと、自分が偉くなるためには人を貶さなければ偉くなれないという気持ちがしてくるのであります。
自分が八十点ならば他を七十点にし、六十点にしなければ自分が偉く感じられない事になって人を嫉妬するようになります。金持ちを見れば癪に触るし、自分より点数の多い学生は憎らしいし、自分より収入の多い社員には腹が立つ。そういう嫉妬を起こす心になると、自分の心が苦しい上に自分が立身出世できないのです。他が八十点なら自分は九十点になろうと努力する人なら偉くなるけれども、そんな気持ちでなしに相手の点数にケチをつけてやろうと思って悪口を言うようになったら、人間はもう駄目であります。
生長の家が他の宗教から一時悪口を言われたのも、やはりこれは、生長の家があまり良いために他の宗教から嫉妬されたのであります。伊藤証信さんなども言っておられましたが、他の宗教が生長の家に反対したりするのは、生長の家が本当に邪教(わるいおしえ)であって、なんの力のないものなら反対しないのであります。本当に邪教なら放っておいても、値打ちのないことが誰にも自然に分かるから反対しないでも潰れてしまうのですから、反対する必要がない。
ところが生長の家の教えは釈迦の教えと同じものである。またキリストの教えと同じ真理を説いている。同じものであるがもう一つ生き生きとして説いているから、このように力のあるものが現れたら、もしかしたら自分の方が負けることになるかも知れぬ、そういう恐怖心から予防のために悪口をおっしゃるのであります。
或る誌友の集会にお坊様が出席して、「生長の家は邪教であるから止めなさい」といろいろ悪口をおっしゃいましたところ、誌友はじっとそれを聞いていましたが、そのうちの一人が立って「ただ今たいへん生長の家の悪口をおっしゃいましたが、生長の家では仏教に対してもキリスト教に対しても少しも悪口を言うのを聞いたことはありません。ただ生長の家はみんなを誉め讃えているばかりですから邪教とは思えません」といいましたので、そのお坊さんは赤面したということであります。
自分をえらく見せるためには人を貶さなければ偉く見えないということでは実にあさましいことであって、争いはそこから起こって来るのであります。生長の家の生き方では決して何物をも貶さない、どなたの悪口も言わないという事が生長の家の生き方になっているのであります。それどころか誰かに対してもその美点を見つけ出して賞めるのであります。
(つづく)
465
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:35:18 ID:ojEbkDH2
<第二回 W E B 誌 友 会>が
●日時:4月28日(土)21:30〜
●テキスト:『生命の實相』第一巻 「七つの光明宣言」
●場所:「部室2」板
にて開催されます。その参考資料として、谷口雅春著作集第4巻 『實相と現象』 より、
『「七つの光明宣言」解義』(p.85〜147)を謹写し、20回に分けて投稿させていただきます。
私はこの聖典ご文章謹写中に、二度、涙がこみ上げるのを押さえることが出来ませんでした。……
皆様、ぜひご拝読、心読、霊読、体読くださいませ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
谷口雅春著作集第4巻『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(1)
“七つの光明宣言”とは何か
“七つの光明宣言”というのは生長の家が発祥した最初に、生長の家は何のためにこの世に出現したものであるか、その目的及び理想並びに使命とするところを七ヵ条に分けて宣言したものであります。その“七つの光明宣言”の解説は、『生命の實相』の第一巻の三ページからずーっと載っているのでありますが、あらためて皆さんの前で直接解説する機会を得まして嬉しく思います。先ず冒頭に、
吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんこと期す
と書いてあるのが第一ヵ条であります。
生命の起源に就いて
生命と生命の実相の話につきまして、この人間の“本体”は単なる物質ではないのでありまして“生命”そのものなのであります。しかし唯物論者に言わせますと“生命”というものは、物質がなにか微妙に集まって生命現象というものが出てくるのである――とこういうふうに普通考えられているのであります。
たとえばソ連のオパーリンという生物学者が、『生命の起源』という本を書いておりますが、それには、最初に何か物質が偶然に集まって、太陽の光を受けて、光合成の化学作用がそこに起って、そして原始的な一種の蛋白質であるアミノ酸というものが出来た。そのアミノ酸というものは生物だけが造るものであって、そういう生物の成分であるものが自然の化合によって起ってくることがあるから、それが生命の起源である。という様な書き方をしているのであります。
しかしながら、いくらアミノ酸ができても、それは“生命”の起源ではないのであって、それは“生命”が“排泄”したところの一つの物質、あるいは生命が“生産”したところの物質であって、“生命”というものは物質を超えたものであります。
実験室で人工受精した人間の卵は?
ある生物学者が、人間の卵を人体の中でなしに実験室で人工受精した。人工受精すると一つの卵が二つになり、二つが四つになり、四つが八つになり、八つが十六になるという具合に分裂して数多く増えて行くのであります。するとその人間の“卵”が“人間”になるかというと“人間”にならなかったのであります。三十二代までは分裂増殖させたのですけれどもそれ以上はできなかったというのであります。
もっと分裂増殖を重ねて行きまして、その卵細胞が百兆になりましても、その分裂した卵が人間の姿に如何にして適当なる位置に排列せしめられて、この複雑きわまる人体組織となるか、という事が問題になるわけであります。アミノ酸がいくらできても、そのアミノ酸の分子がどのように排列せられて細胞となりその一個一個の細胞が人間の姿に列ぶのにはどうして列ぶかという事が問題なのです。
物質には“知性”がない。“知性”即ち“心の働”がない。だからどういう形に列(なら)んだら、これが血液を送るポンプ作用をするところの心臓の構造になり得るか。あるいは心臓から出てきている血液を濾過して、本当の良い血液と、尿になるところの老廃物とを分ける腎臓のような装置を、どの様にこしらえたらできるかという事、そのような事は、知性のない考える力のない物質そのものが勝手に集まって造る事によっては決してできないはずであります。
<つづく>
466
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:37:28 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(2)
人間が出来るには人間の“設計”即ち“理念”が要る
単に細胞がいくら増えても必ずしも人間にはならない。人間の形になるには「人間」にならせるところの“理念”又は“設計”がなければならない。ある細胞が増えて、その細胞が色々の形に排列されれば、色々の生物になる。猿になるものもあれば、犬になるのもあるし、また豚になるのもある。何がその細胞群を豚の形に列べるか。何がその細胞群を犬の形に列べるか。その“何が”という事、“主格”になるところの本体、それが問題であるわけです。
アミノ酸のような物質は、ただ生命がこしらえた生産物にすぎない。その生産物を材料として、どういう形又は構造に列べるかというのは、そこにその形にならせるところの設計又は精神的原型がなければならないのであります。その精神的原型を“理念”というのであります。
“理念”というのは、心の世界に出来た原型とでもいうべきところのものであります。原型というと、物質の型みたいに受取れるかも知れませんが、「生命」を“本質”としてそれに“叡智”のはたらきが加わって、生命それみずからが一定の人間の姿をあらわした霊的実在でありまして、それが「本当の人間」なのであります。
皆さんの中には、この「人間」というものは、物質がただ単に集まってできた肉体であると思う人があるかも知れませぬけれども、肉体は「精神的原型」に肖(に)せてつくられた「人間」の皮袋に過ぎないのであります。
物質の建物のできる迄に心の世界にその建物はできる
今申しましたように、物質が“ある形”に集まる為にはその形の設計になるべきところの心の世界にある“型”というものが無ければその物質の分子が一定の豚なら豚の形に、犬なら犬の形に、猿なら猿の形に列ぶわけにはいかんわけなのであります。
たとえばコンクリートが小さい分子として存在するのが、それが建物になる為には、建物の模型となるべきところの設計が心の世界に造られて、それが鉄筋なら鉄筋を柱として、コンクリートの分子がその上に設計通りに列べられて建物がつくられてゆくわけであります。即ち鉄筋の形の奥に、まだ「精神の鉄筋」とも謂うべき、精神の原型(設計)があって、その原型通りにセメントの分子が列べられて建物がつくられるのと同じように、吾々の肉体も、その成分たる分子が、精神的原型の形に列べられてはじめて人間となるわけであります。
人間の生命の本質を礼拝すること
人間の精神的型を「理念の人間」というのであります。「理念の人間」が「本当の人間」であって、それは「生命」を本質として叡智によってつくられたものでありますから、この本の四ページには、人間を「生命」として取り扱い次のように書かれているのであります。「そこでわれわれが『生命』を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝むことになるのであります。自分自身が尊い『生命』であるとの自覚がすべての道徳生活の根本になるのであります」
「生命」という言葉を使いますと、なにか抽象的なただ「生きるエネルギー」というような感じを与えるのでありますけれども、そういう漠然とした「生命力」というよりも、ちゃんと“一定の形”を持った、“精神的原型”という意味での「理念」という語を使う方が尚いっそう適当であると思うのであります。
<つづく>
467
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:38:27 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(3)
“霊”は形がないのではない“無相の相”がある
旧約聖書の創世記に、神様が、全てのものをお造りになりまして、最後に人間をお造りになりまして「生めよ殖えよ、地に満てよ、これを従わせよ」こうおおせられましたとあります。そして人間を造る時「神その像(かたち)の如くに人を創造(つく)り給えり。即ち神の像の如くに之を造り、これを男と女に創造りたまえり」と、こういうふうに書かれているのであります。
神様は“霊”であって、霊的な存在である。しかし“霊”というと、やはり“生命”という言葉と似て一種の抽象的な漠然としたような存在の如く考えるのでありますけれども、決して“霊”といっても“生命”といっても漠然としたものではないのであって確固とした理念的存在なのであります。
ただそれは、肉眼に見えないから、肉眼の方からいうと、それは無形のものである。だから、それを“無相”という。それは、肉眼に見える形ではないから、“無相”だけれども、その“無相”の中に“無限の相”を蔵している。これを「無相にして無限相」という。無限種類の原型が“無相”の中に蔵されていて、それが肉眼に見える形となって現れるのです。
その“精神的原型”が“理念”であって、人間に於いては、その“人間”の“理念”の形に、眼が二つあり、その眼は横に切れており、鼻が顔の中央に縦に通り、その下に口が横についているからこそ、その設計の通りに、肉体人間は横目縦鼻(おうもくじゆうび)にあらわれているのです。
ところが根本的設計は同じでありながら皆な人相が違う。人は全部顔の感じが違うのです。実にこれは驚くべきものであります。簡単に目が横に二つつき、鼻が縦につき横に口がついていて、皆形が同じくせに、各人は全然、顔の感じが異う、雰囲気が異う。それは何故であるか。
それは皆さんの生命の内容というものが、単なる漠然とした、「生きるエネルギー」という様なものではなくて、“心の世界”に或る“精神的原型”を持った、「個性ある生命」であるからであります。「個性ある理念をもった生命」それが「本当の人間」であるわけであります。
皆さんは、皆、横目縦鼻の人間でありながら皆異なる顔をしている。それは皆さんの精神的原型の内容が悉く違うからなのです。神様は無限でありますから、無限の理念を内に持っておられて、そして無限の精神的原型を人間として現しておられるから皆顔が異うわけです。私は人間の顔を見るたび毎に、すべて人相が異なるので、神の無限さに驚嘆し、神秘の感じに打たれるのであります。
何故、母から出た子の血液型が母と異なるか
世界的に有名な血液型の専門家の古畑医学博士の研究によりますと、血液型には、A型、B型、AB型、O型とかいう風に大きく分けられているけれども、細かく検討すると、全部人間の人相の異うだけ血液型も異うということであります。しかも母親の血液型とその母の生んだ子供の血液型とが異なったりするのであります。
赤ん坊は、母親のお腹の中では臍(へそ)の緒を通して、母親の血液が胎児に循環して、その血液によって搬ばれている養分によって養われ成長して行くのであります。だから母親の血液が循環して成長してゆくところの子供であるから、母親と同一の血液型であるかと思うと、そうではない。単に唯物論的に考えたら、母親の血液が送られ、その血液が循環して成長した子供なんだから同じ物質的成分の続きとして母と子は同じ血液型であるべきはずであります。
ところが、そのお母さんと全然ちがう血液型を持っている子供が随分沢山ある訳でありますから、母と子は単なる物質の続きでないことが分かるのです。すなわち血液型というのは血液の人相みたいなものであってその人独特のものであり、その人独得の精神内容型をあらわしているのであります。
<つづく>
468
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:39:07 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(4)
皆さんの生命は結局神様から天降って来たところの独特の個性を持ったところの「神の子」なるもの、独特の“精神的原型”(理念)を持って天降ってきたところの“生命”であるということができるのであります。そしてその本源はことごとく神様から天降って来ているのでありますから、それを「神の子」というわけであります。
ですから人間は、単に“親”と“子”とが、親の男性物質と女性物質とが集まって物質的にただ結合したものでなく、“神の子”なる個性ある霊的内容をもっていて、肉体はその内容なる個性の表現であります。だから同じ親から生れた兄弟姉妹は、唯物論的に考えたら皆同じ血液型でなければならないものが兄弟姉妹皆血液型が違い、又母親とも血液型が違うような姿が出て来るのであります。
このように皆さんは神様から天降って来た、独特の精神的原型(理念)を持っているところの生命でありますから、その生命を吾々はみな、「神の子」として礼拝するというのであります。
宗派を超越し万教帰一と称する理由
さて、この第一ヵ条には、生長の家は宗派を超越すると宣言されているのでありまして、決して一宗一派の宗教ではないのであります。この万教帰一ということは、凡そ数百年もつづいて尚ほろびない宗教には、その滅びない訳がある。
それは人間を救う真理が、それらの宗教には金線として一本ズーッと通っている、その一本ズーッと通っている真理のみを純粋に押し出したら、万教はすべて一つの真理に帰一するのであって、各々異なる教義の宗教だと見えるのは、その宗教出現の時代の常識や知識の程度に従った夾雑物がまじっているからである。その夾雑物を取り除いて純粋の真理化すれば、みな同一の真理となる――それは恰も世界の何処の金鉱で採取した鉱石も鉱石だけを見れば皆品質がちがうけれども、その夾雑物を取除いて純金にすれば皆同じ“金”になるのと同じだと言うのであります。
生長の家は創価学会の様に「あらゆる宗教は邪教である。大石寺にある『楠の板』を本尊として拝む日蓮正宗だけが正しいのである」というような「物」を拝む宗教ではないのであります。「物」を拝むと拝物宗教になります。「物」には全然同じ物は世の中に一つもありませんから、自然に他教排斥になるのであります。
生長の家は民族の文化的遺産を尊敬する
生長の家は全ての過去の文化的遺産というものを尊敬する。人類の文化的遺産というものは、全て今言いました生命が此の地上に生れて、生み出して来たところのものでありますから、それを尊敬しなければならない。これは生命を尊敬するという根本的な立場から自らそうなって来るのであります。
そして吾々の祖先――祖先として生れた生命達――が、努力をして築き上げて来たところの全ての文化的遺産に対して尊敬を払って、それを無闇に否定してしまわないのであります。ですから皆さんの祖先が或る宗教を築き上げて、それによって祖先の魂が或る“安心”を得、ある程度まで救われたということは、それは確かに立派なことであって、その築き上げたところの宗教の中には必ず立派な真理が宿っている訳なのであります。すなわちそれには「真理」が宿っている。人間の魂がそれに触れると、喜びを得、安心を得、そして生き甲斐を感ずる様な真理が色々の立派な宗教には必ず宿っているのでありまして、吾々の祖先はそれを信じて来たのであります。
<つづく>
469
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:39:56 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(5)
ところがそれらの宗教の教がその時代を過ぎて次から次へと伝わっている間に段々と歪んで来る。そしてその一番最初の教祖の発見したところの真理と言うものが埋没されて埃(ほこり)につつまれて、本当の姿を現さなくなっているのが現代の多くの宗教の現状である訳であります。そこでそれらの宗教の神髄を埋めて覆い隠している埃をきれいに払って、「あなたの祖先の宗教の奥にはこう言うような立派な真理があるのですよ」と、こういうように示してあげるのが生長の家の宗教である訳であります。
“七つの燈台の点燈者”という意味
それですから生長の家の教は「七つの燈台に燈を点ずる者」と呼ばれている。「燈台」というのは「世を照らす光」即ち宗教の象徴であります。宗教は世を照らす光として、その光を水先案内として人生の航路を歩んで行けば暗礁に乗り上げる事もないし、本当の正しい行くべき港に着くことが出来るのである。
そういう真理の光が、祖先の時代から宗教という燈台に点(つ)いておったんだけれども、月日がたつにつれて年代を経るにつれて、その燈台の窓硝子が煙霧で曇ってしまって、光を放たぬ様に成ってしまっている。その燈台の窓硝子を綺麗に拭いて輝くようにしてあげるというのが生長の家の宗教であります。それで、今までの“祖先の宗教”+“生長の家”ということにした時に初めて祖先の宗教が光を放って来る訳であります。
生長の家に触れなかったら埋没されたままで、光を放つことなく、単なる葬式だけを営む宗教になっていた宗教が多かったのでありまして、家族の誰かが死んだ時にお坊さんを呼んで来て拝んでもらうのが何宗という宗教だと云うような、そういう単なる“葬式宗教”になってしまっておった眠れる宗教が生長の家に触れると、光を放って、“祖先の宗教”のまま改宗しないで素晴しい功徳を得ると云う事になるわけであります。
無限の内容を内に蔵する人間の生命
さて、吾々の生命は、神の生命が天降って来たものでありますから、私たちの生命の内には無限の内容を持っているのであります。無限の内容、無限の可能性、無限の力、無限の美しさを内部に持っているのであります。けれどもそれが現象界に現れて来るのには、時間的に一定の順序を追って、「段々生長して来る」という形において現れて来るのであります。それが次の“七つの光明宣言”の第二ヵ条であります。
吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ、個人に宿る生命も不死なりと信ず。
すなわち、生命が現象界に現れることを「生命顕現」と、ここには表現されているのであります。生命が顕現してくるには一定の法則を通して“無限生長”という姿を持って出て来るわけであります。それはちょうどあの映画の物語の過去・現在・未来が、ひと握りの渦巻形フィルムの中にこういうふうに巻き収められている。(図を黒板に書いて)この中には過去・未来・現在が一握りの中にあるのであります。映画のフィルムは時間・空間を超えた実相の世界のたとえであります。つまり過去・現在・未来がそのまま「超次元」の中に握られている訳であります。
それが現象世界に現れてくるとき一駒一駒がこういう具合に段々巻きもどされて出てきて、レンズがあって、光がこう来てレンズで屈折して空間的にひろがりを生じて、銀幕にうつるという事になるのであります。フィルムが展開するに従って(図で説明しながら)段々現在が出てきて、それがやがて過去になり、そして未来のひとこまが新らしく出て来て現在となる、というように、時間的流れというものに従って、超次元の世界に本来ある“過去・現在・未来”が悉く順序を通して出て来るというようになるのであります。
それは丁度種をまいたら、種の中にその植物の「過去・現在・未来」がもうすでにあるわけなのが、それが植物の発芽、若葉、茎の生長、蕾(つぼみ)の出現という風に出て来るようなものであります。
<つづく>
470
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:41:10 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(6)
朝顔の花にたとえて理念が現象化することを説明する
よく私は、この真理を説明するのに、朝顔にたとえることがあるのですが、朝顔の種を播いたら、その種の中に、植物の「過去・現在・未来」が既にあるのですが、併しその種の中にある「理念」というものは、現象界の“時間・空間”を超えた世界でありますから、顕微鏡で見ても見えない。顕微鏡は時間空間の縦横厚みの世界のものだけを拡大して見るのだから、種の奥の奥にあるところの縦横厚み以前の、奥にあるところの“朝顔の花”の形というものは顕微鏡で見ても解らないのであります。
けれどもその種が発芽して段々と蔓(つる)が出てきて、蕾ができて葉が出て花が咲くと、その花は朝顔の花になり朝顔の種が出来る。それはその種の中に既に必ず朝顔の花となり、実を結ぶべき原型があるからであります。
さっき言いました人間の人相が皆異うのと同じように、朝顔なら朝顔、赤い花の朝顔になる種は、必ず赤い花の朝顔になるべき精神的原型が、その種の中の超次元世界にあって、それが現象界に一駒一駒あらわれて、それが段々生長する姿となり、そして蕾の形に生長し、さらに蕾が大きくなって花咲くという形に生長してくる。これがす.なわち「生命顕現の法則は無限生長なり」ということであります。
ところがそれが生長して実を結んだら、その朝顔は枯れてしまう。その朝顔が枯れてしまったら、朝顔の生命は終りかと思ったら、終りではないのであって、そこにちゃんと次の年に播かれたら、そこから又同じ朝顔の花の形の出てくる「原型」がそこに種を契機とした超次元界にあるわけです。すなわち朝顔の花の精神的原型――理念なるものがそこにあるわけです。
だから、現象の朝顔に宿っている朝顔の生命も種の中にある朝顔の生命(いのち)も、それは朝顔の花の形が死ぬとともに死ぬのではない、常に超次元の世界に保存されている訳です。個人内に宿っているところの生命もやはり永遠不滅の生命であって、肉体が死んでも死する訳ではない、また生れ変ってくるのであります。それですから、皆さんの生命は幾度でも生れ変って、それを繰返す毎に無限に生長しているのであります。
人間は“生れ変り”を続けて魂が無限に生長する
ヘンリー・フォードとトラインというアメリカの光明思想家の会話の本の中には、こういうことが書いてあります。
「キリストは三十三歳で死んだけれども、彼は老人である。」
これはどういう意味かというと、彼は何遍も“生れ変った”のである。そして彼はこの世の中においては三十三歳で死んだけれども、しかしその“生れ変り”の数の多さにおいて年齢を数えるとしたならば非常に老人である。だから、このような立派な真理を説くことができたのである――というような意味のことをいっているのであります。
佛教においても、この生れ変りということは、繰返し説かれているのであります。たとえば法華経の常不軽菩薩品の中にもでています。
<つづく>
471
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:41:48 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(7)
常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)のこと
常不軽菩薩という高徳の菩薩があって、彼は「吾常に人を軽(かろ)んぜず」といって、すべての人間を拝んだ。すべての人間のうちには“神の生命(いのち)”“佛の生命”がやどっているのであるから、どんなルンペンでも、どんなヤクザでも、わたくしはすべての人間を軽んじないのである。といって出逢うすべての人間を拝んだ。どんなヤクザでも、どんなルンペンでも皆、
「あなたのうちには佛様の実相が宿っていらっしゃいます。ありがとうございます。将来かならずその佛の実相が現れてくる方に違いございません」といって拝んだ。すると、ヤクザの男が、
「何が俺が佛だ、馬鹿なこというな。」といって石を投げ付けて、菩薩を傷つけようとしたら、常不軽菩薩は、石の届かぬ所へ行って、
「貴男(あなた)が何んとおっしゃいましても、貴男様は佛様に違いございません」と、一心に拝んだ。常不軽菩薩はこうしてすべての人間を礼拝した功徳によって、今、釈迦牟尼如来としてここに現れているのである――と釈尊は自分が常不軽菩薩の生れ変りだといっておられる。そういうように“生れ変り”の説を、お釈迦様も説いておられるのであります。
さて、お釈迦さんやキリストがこの世の中にでてこられて、人類救済のために真理をお説きになることができたのは、一遍ぐらいの“生れ変り”ではなく、幾百回も幾千回も“生れ変って”いろいろの苦労をなさって修行せられた結果、真理を悟られたのであります。
釈尊も人生の意義を探ねられた
お釈迦さんは自分の生れた王宮におれば、非常に贅沢な楽な生活ができたはずなのに、自ら人生問題に悩まれて、王宮から家出されたのです。そして、人間は何のために生きているのであるか、人生の意義はどこにあるかを知りたいとおもって、神経衰弱のようになって、悩んでおられた。そしてとうとう家出してからバラモンの先生について教をきいたけれども、よくわからない。
それで六年間ウルビルワーという林のなかに這入ってそこで食うや飲まずのきびしい断食に近い生活を送って、痩せさらぼうて「苦しんで、苦しんで、行をしたら真理がわかるであろう」とおもって肉体を苦しめて修行なさったけれども、どうしても真理がわからなかった。それでお釈迦さんはついに苦行をあきらめた。
そして最後に、「苦行は悟りの因(たね)にあらず。」と悟られまして、いくら肉体を苦しめても悟りの原因にならない。というので、あの「出山(しゅっせん)の釈迦像」にあるように、肋(あばら)の骨がいっぱい飛び出した骨と皮との痩せさらぼうた姿で苦行林からでてこられまして尼連禅河(にっれんぜんがわ)のほとりで坐禅を組んで、「人生何の意義ありや」と瞑想にふけっておられた。
その時に、ひとりのバラモンの娘が、供養のために、牛乳のおかゆを持って参りまして、「どうぞこれをおあがり下さいませ」といって、釈迦に差出したのです。釈迦はそれをお飲みになったわけです。その時、釈迦は忽然として悟りをひらかれて釈迦牟尼佛となられたのであります。
釈尊はこのように悟られた
その悟りというのはなにかというと、「山川草木国土悉皆成佛(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」ということであったのであります。わかり易くいうならば、山も川も、草も木も、国も土も、悉く皆成れる佛である。佛の生命そのものが、天地間の万物として表れているのであるとお悟りになったのであります。
<つづく>
472
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:42:27 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(8)
山や川をわれわれは普通あれを鉱物だとおもっているけれども、あれは鉱物ではないのだ、佛の生命なんだ。草や木は植物だと思っているけれども、あれもやっぱり佛の生命が表れているのだ。国土もこれは、鉱物だとおもっているけれども佛の生命が表れているのだという意味です。そして「有情非情同時成道」の“有情”というのは「情(こころ)のあるもの」“非情”というのは、「情(こころ)のないもの」無機物みたいなものです。情の有る生物も、情の無い無機物と思われているものも、悉く同時に、今ここに、天地いっぱいの「道」を現成しているのだという悟りをえられたのです。
太初(はじめ)に道(ことば)あり
「道」というのは「コトバ」とも読む字です。この字は「首(はじめ)」という字に「辶(しんにゅう)」がかけてありまして、「首(はじめ)に進むもの」が道なのであります。天地の万物がうまれる前の、その元始(はじめ)に、まずあったものが“道”であります。宇宙にミチ満ちておって、一切のもののはじめである。それですからこの「道」という字は「ことば」とも読める字なんです。
「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」というふうにキリスト教の日本訳のバイブルのヨハネ伝の第一章に書かれておりますが、明治時代に和訳された聖書に「太初に言あり」というところを「太初に道(ことば)あり」と書いて、その「道」という字に「ことば」と振り仮名がつけてあったものです。この「道」という字は、ギリシャ語のLogos(ロゴス)という字の訳で、はじめに進むところのもので、宇宙にみちみちているところのコトバであって、人間の口からでる言葉でないから「道」という字の方が当てはまるのであります。いいかえると神の生命(いのち)のことであります。
そこで「有情非情同時成道」というのは、心あるものも、心なきものも同時に――今ここに――神の生命が現成しているのである、というのです。
「現成」とは、現に今成り鳴り響いているという意味であります。「成」というのは、すべてのものは“神”即ちコトバの鳴りひびきによって成就しているのでありますから、それで「成る」も「鳴る」いずれも、語源が同じなのであります。キリスト教の聖書には、「太初に言あり、言は神と偕にあり」という風に神を言として表現しておりますが、神道では、神様を「命(みこと)」といっている。「みこと」というのは、「御言(みこと)」でありまして、コトバであります。宇宙にみちみちている御言(みこと)すなわち言(ことば)が神であります。
「言(ことば)」といっても、宇宙にみちみちている言は、われわれが咽喉からだすような貧弱な言葉ではないのでありまして、宇宙にみちみちている言は、ちょっと想像しにくいけれども、ラジオやテレビが発達しました今では割合に説明しやすいのであります。
宇宙に満つる言(ことば)としての神
皆さん、ここには、ちゃんとラジオの放送局からきている言葉があるのだけれども、皆さんはその言葉を目で見ることができず、耳できくことができないのであります。しかしラジオ・セットを持ってきて、波長を合わせたらちゃんと言葉がでてくるのであります。
もしこのところに放送されている言葉がなかったら、いくらラジオ・セットを持ってきても言葉がでてくる筈はない。いまこのところにはラジオ・セットを持ってきても、持ってこなくても言葉があるのです。だから、ラジオ・セットを持ってきて波長を合わすと、その言葉が現象化してでてくるのです。
そういうように、神様の言(ことば)というものは、耳に聞こえないでも、神様の心のうちに「これを、こうしよう」とコトバで想い浮かべられたら、それが想念でありまして、想念すなわち言葉であります。そのようなわけで、宇宙には、神様の言がみちみちておりまして、それは言でありますから、鳴り響くわけであります。で、言葉が「鳴る」と、全てのことが「成る」ということに成るわけであります。
<つづく>
473
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:43:01 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(9)
「言」と「事」とは語源が同じなんです、「言事不二(ごんじふに)」というわけで、「言」の発するところ、必ずそれが「事」として現れるということになるのでありまして、すなわち「言葉は鳴り」「事は成る」のであります。このことをすべての事は、「言(ことば)」すなわち、「想念」が形に現れているというのであります。
ここにこういう場合がありますが、この湯呑は陶器である。陶器は陶土という粘土みたいな物質を固めてこしらえたので、物質がもとであると考える人があるかも知れませんが、物質が、勝手にスーッと、ここへ出て来て、こんな湯呑の形になったのなら、物質がもとだけれども、この物質をこういう形にならべて、斯くあらしめたのは「陶器師」の心の中に作られた「思い」が、それが形に現れたのでありますから、すなわち、心の中の「思い」というのが言でありまして、その言が形に現れたのですから、これは言が鳴り響いて湯呑の形になっているのであります。
これは陶器だけではない。全てのものは、みなコトバが因(もと)になって出来ている。だから、湯呑のことを、「これは湯呑なり」という。「これはタオルなり」という。「これは書物なり」という。「なり」というのは「也」であり、「鳴り」であり、「成り」であり、コトバが実現しているという意味であります。
それを口語体でいいますと、「これは湯呑と言うものである」「これはタオルと言うものである」「これは書物というものである」というのであります。
「言うもの」とは「言葉によってなり立っている」という意味で、そのことを吾々は無意識のうちに知っておって、そういう言語を使っているのであります。
一切のものは物質のように見えているけれども、物質で出来ているのではないのでありまして、悉く「心の世界に想い浮かべられた言(ことば)」、言い換えると「想念」が形に現れているのであります。このように一切の物は想念が形に現れたものである。
世界の革命でも、想念によって行われる。マルクスが『資本論』を書いた。その本の中の想念がロシヤに共産革命を起こし、中国に共産革命を起こした。マルキシズムの想念が、全世界を風靡したならば、全世界に社会主義革命とか、共産主義革命とかいうものが成就する、想念は創造力であり、世界を動かす。
そういう共産主義革命に対して、もっと完全な理想主義社会建設の想念をもっている吾々の「生命の実相」の想念というものがそれであって、これが、社会主義革命の想念に打ち勝ったら、神の世界にあるところの、独特な理想的な有様が、この世界に実現する、すなわち理想世界が実現するというふうになるわけであります。
吾々の生命は無限の可能性をもっている
さて、「七つの光明宣言」の第三ヵ条には次の如く宣言されております。
吾等は人類が無限生長の真道(まことのみち)を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。
吾々の生命は神から天降って来た神の生命そのものですから、「無限の可能性」を持っておるのであります。既に「実相」に於いては無限がある。しかし、現象面から見ると、それはまだ完全にあらわれていないので可能性として存在する。そして、ある時間的流れを通して徐々に、その無限内容が生長という姿で展開してくるということになるのであります。
このことは既に申しましたが、その展開のしかたには、法則があるわけであって、正しい法則に則とらなかったならば、色々と苦労をして、遠廻りに麓をドウドウめぐりして、なかなか早く生長しないということになるのであります。それですから、早く、人類の生命が「無限の可能性」を出来るだけ多く展開して、早く人類が幸福になって貰うように、生命が創化作用を、完全にいとなむ法則を研究して発表するのが生長の家出現の使命だという宣言であります。
<つづく>
474
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:43:39 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(10)
愛を実現するのは祈りと愛語と讃め言葉である
宣言の第四ヵ条は次のように書かれております。
吾等は生命の糧は愛にして、祈りと愛語と讃嘆とは愛を実現する言葉の創化力なりと信ず。
さてその生命の無限生長を速めるためには、祈りと、愛語と、讃嘆との「言葉の創化力」が必要なのであります。生命の糧は愛であって、愛は生命の食糧みたいなものです。しかし食糧が与えられても、それを消化して同化吸収させなければならない。それにはどの様にしたらいいかというと、祈りと愛語と讃嘆との言葉によって、その愛をしみじみと感じさせ、相手の生命が愛によって培われて生長しやすいようにしてあげるのであります。創化作用というのは形なき状態から形あるものに化して創り出すはたらきであります。
祈りの意義について
「祈り」といいますと、普通の宗教では、たいてい神に懇願する意味につかわれています。神様にかきくどき、泣き付いて、「私は貧乏で困っているのであります。どうぞ神様、何とか今日の食事を与えたまえ。」という様な祈りをしたり、「私は病気で困っているのです。神様お慈悲がありましたら、この病苦からお救い下さいませ。」と縋(すが)り付き泣き付くのが、いわゆる「祈り」だと思われていたのであります。
けれども、生長の家の祈りは、神様のおこしらえになった世界には、神は全能であり、全智であり、無限の智慧であり、無限の愛である――その神様が設計せられてお創りになった世界は完全であって「悪いもの」など本来無いのですから、「悪いものを直して下さい」というようには祈らないのであります。
創世記の第一章には、「神その造りたる諸(すべて)の物を視たまいけるに甚だ善かりき」と、このように書かれているのでありまして、神様御自身が自分の造った一切のものを点検なさいまして、「すべて善し、悪いものは無い」と宣言なさった。それに対して「悪いものがあるから、神様どうぞお慈悲でこれをお直し下さいませ」と頼むというのは、ちょっと矛盾しているではありませんか。
ですから、生長の家の祈りというものは、そういう「悪いもの」があると認めて、それをなんとか「神様のお慈悲で、善い状態に改善して下さい。」というような祈りではないのであります。「神様のおこしらえになった一切のものは善である」ということを、生命(いのち)の底から宣言する。「命宣(いのり)」というのが「祈り」である。「イノリ」の「イ」は命という意味であります。「ノリ」というのは「宣(の)り」即ち「宣べる」ということでありまして、吾々は命の底深く「すでに完全な姿がある」ということを宣言する。そしてそれを確認するのです。それが本当の祈りであります。そしてその想念を心の想いの世界にそれを確認した時に、それが現れてくるということになるのであります。
<つづく>
475
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:44:22 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(11)
何故今までの宗教は人類の道徳心の進歩に貢献しなかったか
今までの宗教家が、あるいは教育家が、人間を善くしようと思い、子供を善くしようと思って一所懸命に道を説いたり、学校で教えたりしておっても子供がどうしてもよくならないのは何故であるかというと、心の底深く、「人間は罪人である。罪悪深重の凡夫である」と、その子供を本来悪いものと認めて、「ここに不良少年がいる。」「ここに不良少女がいる。」「ここに非行少年がいる。」という風に、「悪いものがある」と命で宣言(いのり)して、それを直そうとおもったから直らなかったのです。
創世記には「アダムの名付けた通りに生きものはなった。」と書いてあります。アダムというのは、モーゼが霊感によって天地創造及び人間創造を書いた神話に於いて、人間の一番の祖先で、人間を代表しているのであります。人間そのものが、自分が名付けたとおりのものに全ての“生きもの”はなるのだという真理が、象徴的に書かれているのであります。
人間が“言葉の力”で名づけた通りのものになるのですから「ここに非行少年が居る。」「お前は非行少年である。」「お前は不良少年である。」と名付けたら、その通りになるのです。
今まで色々の宗教家があらわれて、人類を善導しようとした。釈迦牟尼佛が現れて、二千六百幾十年、キリストが生れて約二千年、その間に釈迦の弟子である坊さんや、あるいはキリストの弟子であるところの牧師や宣教師達が、一所懸命に道を説いて来たけれども、少しも人類がよくならなかったのは何故であるかというと、彼らの祈りが間違っていたからです。
命の底深く、何を命宣したかというと、キリスト教では人間は「罪の子」だと宣言し、佛教では「罪悪深重の凡夫」であると宣言して、「悪」を言葉の力で祈り顕しておったのです。まるで、すべての人間が罪人なるように、命の底深く宣言しながら、どうして人類が善くなることができましょう。それは、もう実験ずみなのです。
そこで吾々は、祈りを変えなければならない。「神様のお造りになった人間には、非行少年だとか、不良少年だとかそんなものは無いのである。皆な“神の子”で素晴しいのである。」ということを命の底深く宣言して、その生命の実相を拝むのです。これが本当の正しい祈りなのです。この正しい祈りを行った時に、始めて相手が善くなるのであります。
それが実際善くなる実例は各地にある生長の家の練成道場で毎月実験されて成果を挙げているのであります。だからこの世界をよくする為には生長の家的な「人間の実相は神の子であって本来完全である」という真理を宣言して、それを心にハッキリ認めて、人類の善なる実相を礼拝する行事を行う人たちが殖えることによってのみはじめて人類がよくなるわけであります。
御存知の通り、生長の家では、不良少年や非行青年が優良な子供に一変するほかに病気が治る実例が随分沢山出ているのでありますが、皆さんの様に若くして元気で滅多に病気にかからぬというような人は、病気が治った実例をあげても、たいして興味が起らないのでありますけれども、病気が治る実例は何を示すかというと、これは物理学の実験室において科学者が小さな実験の設備機械の中でやることが、大いなる意義をもっており、それが世界を変貌さすことになるのと同じです。
例えば、どうすれば原子の崩壊が連鎖反応をおこして原子爆弾になるのだとかいうようなことは小さな実験室で実験される、それがもとで、今世界が全滅か、全面的に戦争禁止かの境に立っているようなものであります。それと同じように、一個の人体に於いて、そこに病人があっても、神は病気を造らないから病人はないのであるということを徹底的にそれを拝んでみることによって、病気が消えてしまうという事実によって、全ての人間は皆な神の子であって完全であるということを、それを実証する証拠となるわけであります。
<つづく>
476
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:44:59 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(12)
生命の糧は愛である
さて、この光明宣言の第四ヵ条に、「生命の糧は愛にして」と書かれているのでありますが、愛とは何であるかというと、『生命の實相』の第十三巻、倫理篇に、「愛の感じは自他一体の感じである」とこう書かれているのであります。「愛」というものはいったいなにかというと、肉体が別れておっても、彼と吾と別々の存在のように見えておっても、「互いに一体だ」という感じであります。それで、ある青年が、あるお嬢さんを愛するとする。肉体は自分と彼女とは全然別々であり、体格も違うし、性別も違うけれども、しかし本来一体であるという感じが、すなわち「愛」という感じに現れてくるわけなのであります。
吾々生長の家家族が、人間は神と一体である。神と同体であると申しますと、人間が“神の子”であってたまるものか、人間は“罪の子”だ。こういうクリスチャンもあるし、人間が神と一体であるというのは不遜なことだという。神は人間の「主」であって、人間は神の「僕(しもべ)」にすぎないのである。というように、このキリスト教信者の中では、人間を「神の子」といわないで「神の僕」であるという人などがあるのです。だけども、聖書の中にキリストははっきりとこう言っておられるのであります。
「汝らもし我が命ずる事をおこなわば“我が友”なり。今よりのち我なんじらを“僕(しもべ)”といわず、“僕”は主人のなす事を知らざるなり。我なんじらを“友”と呼べり。」
このようにヨハネ伝に書かれてあるのであります。これはキリストが磔(はりつ)けになる直前の言葉でありますが、それで僕というものは、主人の心がよくわからない。僕は僕だけのことを考えておって、主人の心は解らないのである。若し人間が神の僕ならば神様の御心はわからないのであります。「併し人間はそんな神様なる主人のことがわからないような、そんなつまらないものではないんだ、イエス・キリストと同じく同等の神の子であるから、これからお前達を友と呼ぶのである。」とこうイエス自身が言っているのであります。
神との自他一体感が「神を愛する」ということである
或る時、弟子が、イエスに対して、「誡めの内で一番尊い誡めは何でございますか」と訊いた。誡めというのは道徳律とでもいう意味であります。道徳律の中で一番尊い道徳律は、いったい何でございますか。といってたずねた時に、マタイ伝の二十二章で、イエスはこういうふうに答えておられます。
「『なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる汝の神を愛すべし』これは大にして第一の誡命(いましめ)なり」といっているのであります。それでここに「主なる神」とありますから、人間の方は僕で、主人であるところの神様を愛するのであるかというと、そういう意味ではないのです。「なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、主なる“汝の神”を愛すべし。」といわれた教に注目すべき言葉があるのです。
「汝、イエスの神を愛すべし。」とはいっておられないのです。「主なる“汝の神”を愛すべし。」即ちお前の主人公であるところの“汝の神”を愛すべし。とこう言っておられるのであって、すべての人間には、その自己の内に神が宿っているということをイエスは認めて、「汝の内に宿っている汝の主なる神を愛すべし。」と、このように言っておられるのです。
その時まで弟子たちは自分の内に神が宿っているなんて知らないで、罪が宿っているくらいに思っておったのですね。ところがそうではないのであって、汝の神が、汝の内にあるのだから、それを愛すべし。とこういわれたわけなのであります。
<つづく>
477
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:45:33 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(13)
「愛する」とは「自他一体」の自覚でありますから、神を愛するとは、神と一体であると認めることをもって第一とするのであります。妻を愛するとは妻と一体であると認めること、子を愛するとは、子と一体であると認めること。隣人を愛するとは、隣人と一体であると認めること。この一体であると認めることが「愛」であります。「主なる汝の神を愛すべし」とは、汝に宿っている神と一体であると認めることが第一であると仰せられたのであります。
色々の掟、すなわち“殺すなかれ”とか“盗むなかれ”とか、“姦淫するなかれ”とか“偽りの誓をたてるなかれ”とかいうようにモーゼの十誡には色々書いてありますけれども、何よりも一番尊い誡は、神と一体であることを認めることが第一である。「ここに自分の内に神が宿っておる。自分は神と一体である」という中心自覚が伴わなかったならば、本当に「神を愛する」ことは出来ないのであります。それですから、自分が、神様の本当の子であるということを知らなければ、神を愛するといっても、本当に愛することはできない。お前は神様の継子(ままこ)であるなんていうのだったら、やっぱりひねくれてしまって本当に神様を愛するわけにはゆかないでしょう。
あるいは神様が雲の上にいらっしゃって、吾々の一挙手一投足――何でもやっていること――を雲の上からにらんでおって、「あいつ間違いをした、一つ罰をあててやろうか」と思って裁判官のようににらんでいると思ったら神様を愛するわけにはゆかない。それでは神を畏れるかも知らんけれども、本当に神を愛するわけに行かないんです。それですから、神を愛するためには、神と吾とは、「一体である」という中心自覚がなければならないのであります。
これに反して、神と人間とを、主人と下僕との関係に見たて、神を愛しなければ罰せられると思って、愛しようと努力し、愛したと同じ行いを外に表しても、「罰があたる」と思って、恐怖心で一所懸命やっているのでは、それは愛しているのではなくて、忠実に努めてはいるが、本当に神様を愛しているということにはならないのです。
神を愛するとは、自分が神の子である。言換えれば、「神の生命とは一体である。」と自覚することです。さらに極言するならば、「自分は神そのものである。」という中心自覚があってこそはじめて吾々は神を愛することが出来るのであります。
(註・自分が「神そのもの」であるということについてはデーヴィス氏著『人間とは何か』によくあらわされている。読んで頂きたい)
この問題がすなわち「吾等は生命の糧は愛にして」というわけでありまして、神と一体であるという根本自覚を得た時に、生命が本当に成長する栄養を得て、生長するわけであります。
<つづく>
478
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:46:09 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(14)
内部に宿る“無限の可能性”を発揮するには
正しき祈りというものは「悪」の存在をみとめて、「神様どうぞ、この悪を取除きたまえ」と懇願するのではなく、「神のつくり給うたこの世界には、悪は存在しないのである。あなたは神の子である。善のほかないのである。」と心の中に唱えて、その人の“実相”をじーっと拝む祈りであります。それが「愛を実現する言葉の創化力」なのであります。
創化力とは、先に申しましたように“創”というのは“つくる”です。“化”というのは、“お化け”の“化”であって、姿なき世界にあるものが、姿を現すことであります。
最近では、“化成”などという言葉がありますね。液体で一定の形のなかったものが、繊維になったり固形的なプラスチックになって姿を現してくる。それが化成です。
そういうように、人間は“神の生命”そのものであるが、“神の生命”は肉眼には見えないけれども、それが形に現れて来る。人間の“無限の可能性”というものは肉眼に見えないけれども、それが見えない世界から、見えてくる世界に現れてくるための力が、すなわち祈りと愛語と讃嘆であります。
愛語というのは、愛の言葉、やさしい愛情に満ちた言葉です。讃嘆とはほめ言葉、吾々は、だれでも「認められたい」、「愛されたい」、「称(ほ)められたい」、「誰かのお役に立ちたい。自分は必要な人物だと思われたい」このような根本的な願いがある。その願いを愛情に満ちた言葉で満足させてあげるとき、その人は“生き甲斐”を感じて益々精進努力することになる。そうすると内部にある無限の可能性が出て来るのであります。
さて、吾々青年の機関誌「理想世界」誌も諸君が弘めようとして、大いに努力したら一度に数万も増えたけれども、近頃又多少減って来たというので、一ぺんに無理して努力しても、また減るから、つまらんから、あんまり大きな目標を立てないで徐々に、着実に少しずつ増やそうなんていうことになったそうだけれども、そんなに自己縮小することは私は賛成しないのであります。
大いに増やしておいたら、脱落する人も多いから、大いに増やさないことにしたら脱落する人も少なくなる。そんな消極的な論理を弄んでいたら、もう一人も誌友をつくらなかったら、一人も誌友が減らないことになる。それでは「理想世界」はどうして実現するのです? 一時ふえた誌友が脱落するのは、雑誌を大いに弘めたからではない。単に部数を増やすということばかり考えて、理想世界建設の人間をつくらなかったからです。部数のふえることばかり考えているが、「理想世界」の部数拡大は、理想世界を建設する同志が増えるから尊いのです。
吾々は人類を救うのです。人類を救うんだ。雑誌をふやすのはただ理想実現の手段にすぎないのである。それなのに新聞配達みたいに、増やす部数のことばかりやって、その人間を、理想実現の選士に導かなかったら喜びがないのですよ。喜びがないから脱落するのです。実際に雑誌を手渡した人たちに、人類を救う選士になったという喜びをもたせることが出来た時に、その時はじめて、「あの人も救われた」「この人も救われた」というので、どこどこまでも喜びが続くので脱落しない。また其の人から救われた人も、ただ雑誌をもらっただけではなしに、その感激が出てくるから、また次へ次へと伝えるということが出来てくるのであります。
だけども、「ともかく部数さえ増やせ。」というわけで、ただ雑誌を配ったらそれでお終いということなら、自分の知人に皆な渡した、もうあとに知人はないから渡す人はないのだ。という様なことになって行き詰まってしまう。そこから、後退する人がでて来るのです。吾々同志は理想世界実現、目本の実相顕現、人を救う喜びの躍動というものを出て来させなければならぬ。その時に、はじめて、自分は「人のお役にたっているのだ」という魂の喜びが起って来る。
他の人の“生命”と自分の“生命”とは神の子の命であるから互いに兄弟である。その愛を実現するということによって、そこに本当の喜びが感じられて来るので、いくら「理想世界」を普及しても、くたぶれない「無限の可能性」が出てくる事になる訳なんであります。
<つづく>
479
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:46:46 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(15)
だから、“七つの光明宣言”の第五ヵ条には、
吾等は神の子として無限の可能性を内に包有し言葉の創化力を駆使して、大自在の境に達し得ることを信ず。
と、書かれております。人間は“神の子”として自己の内に“無限の可能性”を有するのですが、それを現実にあらわすには言葉の創化力を使うのです。すなわち言葉によって賞めるのであります。賞められると内在のカがでて来るのです。
それは人を賞めてあげる。自分の兄弟を賞める。あるいは子供を賞める。赤ちゃんを賞める。これは生長の家の教育法で、既に無数の実績をあげているのでありますが、さらに、自分を賞めるということが大切でありまして、これを忘れている人が多いのです。この神想観の実修そのものが、実は自分自身を称め讃える行事でありまして、言葉の創化力を駆使して、大自在の境地に達し得るところの方法であるわけなんであります。すなわち“言葉の力”によって、
「神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給、無限の歓び、無限の調和が充ち満ちている」
ということを心の内に言葉で誦(とな)えて、その通りの想いを喚起し、神様の智慧が、無限の愛が、無限の生命が、無限の供給が、無限の歓び及び調和が、ズーと自分に流れ入って充ち満ちている有様を、心にハッキリ描いてジーッと心の眼で見詰めるのです。これは“言葉の力”と、“観”の力とを併用して、自覚が速やかに高まるようにした行法であります。
“観”とは“心で見ること”であります。凡て観なければそれがあっても現れないのであります。
どんなに宝物が一杯あっても、目を閉(ふさ)いでおったら、わからないのです。ところが、肉眼で見るものは現象であって、それには限りがある。この現象世界には吾々の色々の“迷いの心”がレンズのはたらきをして、“本当の姿”(実相)が屈折して、歪められて、そこに現れているわけであります。そのことを谷口清超先生の『人間の体験』という本には、次のように書かれてあるのであります。
誤った常識を超えること
「世の中には『常識論』と言われるものがありますが、『常識』の中にはよい考えも悪い考えも混在しております。たとえば昔は『人間は空を飛ぶことができない』というのが常識となっていたのであって、この常識をくつがえしてはいけないということになれば、今日の航空機の発達は望めなかったに違いありません。したがってこのような常識は打ち破ってゆかなければならないのでありますが……」
いろいろの常識がこの世界にはあるのです。そして「病気がある」なんていうような常識も随分あります。その常識が形に現れているのです。この世界は心の現す世界でありますから、間違った常識は間違ったものを現す。そして色々の間違いがこの世界に現れているわけなんであります。現象世界は、殆どそういう間違った常識の現れの世界であるといってもいいのであります。
そこで、そういう間違った常識の現れている世界に目を閉じて、そして神様のお造りになったところの「神、その創りたる諸(すべて)の物を視たまいけるに甚だ善かりき。」と創世記の第一章に神が宣言されているところの、「全てのものが美しく楽しく、豊かに調和している」そういう実相の完全な世界を目の裡(うち)に描くのです。即ち心の世界に描くのです。そしてそれをジーッと心の眼で観ずるのです。見れば現れる、観ずれば現れるのです。すべて心に思ったものが、形に現れてくるわけのものであります。これを釈尊は“三界唯心”と説かれ、キリストは「汝の信ずる如く汝にまで成れ」とか、「汝の信仰、汝を癒やせり」とか仰せられたのであります。
<つづく>
480
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:47:27 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(16)
ブラジリヤが伯国の首都となる預言
私がブラジルへ行きました時、ブラジリヤと称するブラジルの新らしい首都を視察に行きまして、そこでも講演会がありましたが、その時、日系のブラジル上院議員の田村幸重さんに聴いた話でありましたが、その町ができるということは1877年10月30目、イタリーのカトリックの坊さんのヨハネス・ボズゴーという聖者が、祈っている時に、此の奥地のブラジリヤというところにブラジル国首都ができるという事を、ジーッと霊眼で視て、それを預言した。
ところが当時ポルトガル領土であったブラジルが、今から七十何年か前に独立して、新らしい憲法が制定されることになった。その時に、ヨハネス・ボズゴーの預言に従って、ブラジル国の都をブラジリヤに創るということが書き入れられたが、今から約四年程前に現象界にそれが実現して、この大分奥地であるところのブラジリヤの大平原にブラジルの都を作ることになってきたのであります。
何故、預言はできるか
さて、それでは、その「事実に符合する預言」というものがどうしてできるかといいますと、“現象界”に現れてくるものは、悉く“心の世界”に先ず“想念”として、“言葉”として、“心の思い”(心の中で唱えられるコトバ)として存在したものが、それが形の世界に現れてくるのだからです。だからすべての事物は、“形の世界”にあるまでに、“心の世界”に必ずその精神的原型が――元の形が――あるわけであります。
しかしそれは“心の世界”の存在であるから、普通の肉眼では感じられない。肉の耳にも聴こえない。けれども、祈りによって心を澄ましているときには、そういう「現象以前の世界」に波長が合うことがありまして、それがいわゆる霊感として現れてきて、その原型が視えたり聴こえたりするのです。その霊感で視聴したものを発表すれば、それが預言者すなわち、やがて来るべき事をまず知った人ということになる訳なのであります。
すべて形あるものは、“心の世界”にあるのであるから、霊感によってそれを感じたとき、霊感者は、それを預言することが出来るわけであります。しかしながら、霊感者が預言しても、預言しなくても、すべてのものはまず“心の世界”にその“原型”があって、それが現象化して形に現れて来るのであります。
さっき言いましたように、朝顔の花の形でも、種の奥の奥に、肉眼に見えない縦横厚み以上の世界に、ちゃんと朝顔の“花の原型”があって、それがやがて現象界に形に現れて来るわけであります。人間がこの現象世界において、成功をしたり、発展をしたり、色々幸福生活が現れて来るというのも、先ず“心の世界”にそれが描かれていなかったならば、“形の世界”にそれは出てこないということになるわけなんです。
“心の世界”が“現象の世界”に先行するのです。吾々は現象世界にあらわれているものが「本当にある」かのように肉眼で見て感じているけれども、現象世界は“心の世界”にあるものの唯“影”にすぎないのであります。影だから移ろう――変化して、やがて消えてしまうのです。
<つづく>
481
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:48:06 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(17)
変化するものは本来ない
だいたい、ものが変化するということは、如何なることかというと、前の形が消えて、別の姿が出てくるということを変化するというのであります。前の形が消えるというのは、今は形が現れておるけれども、「本来ない」から消えるのです。本当にあるものは消えないのです。消えるものは唯の影にすぎないから、実在性がないから消えてしまうのであります。そういう点から考えますと、吾々が本当に確乎としてあると見ているところの“物質の世界”は「本当はない」のである。その“物質の世界”の奥にあるところの、“心の世界”にある理念的存在というものだけが、「本当にある」というわけであります。
先ず“心の世界”に描かれたものが形にあらわれる
徳久先生は、ブラジルへ三回もおいでになりましたが、どうしてブラジルへ行くことになったかというと、“心の世界”に、ブラジルへ行くことを強く描かれた。それが形に現れたのです。それは具体的にはどうせられたかといいますと、徳久先生は御自分の部屋に大きな紙に、「神様有難うございます。すでにブラジル国へやっていただきましてありがとうございます。」と墨で黒々と書いて貼っておいて、毎日それを見る毎に「既に自分はブラジル国に行っている」と心に描いて感謝されたのです。
無論、それは必ずしも書いて貼らなくてもよいのです。心に書いて貼っておくのが本義でありますけれども、肉眼に見えるところに貼って置かないと、吾々の心はそれを忘れてしまって、毎日それを心に念じないかも知れない。ところが自分の部屋に貼っておいたら、それを一日に必ず何回か見る。そして、「ああ神様ありがとうございます。すでにブラジル国へやっていただきましてありがとうございます。」と念じ感謝して、ブラジルにすでに居る有様を心に如実に描くのに便利なわけであります。徳久さんは、こうして“心の世界”にまずブラジルへ往って、それが影を映して現実世界にもブラジルへ行くことになられたのであります。
また或る時、徳久先生は自動車を通勤用に欲しいと思われた。そこで「神様すでに自動車一台与えて下さいましてありがとうございます。」と書いて貼っておいて、それを見る度毎に「すでに自動車を与えられて、ありがとうございます」と念ずることにせられた。そしたら自動車が天降って来たのです。天降るといっても、“心の世界”から現象界に物質化して来るのであって、それが出てくるのは現象的な自然の秩序で時間的流れを追って、順序を追って出てくるということになる訳です。
具体的にいいますと、高知県にいらっしゃるお父さんが、自分の地面をお売りになったが、このお父さんは、徳久先生一人だけしか息子がないので、他にお金やる人もないから、「地面を売ったお金はお前のものじゃ」というわけで、徳久先生のところへ何十万円か送ってこられたのです。徳久先生が何故自動車が欲しかったかといいますと、飛田給の自宅から原宿の生長の家本部へ毎日通うのには、自動車のない時には、電車を乗り更えたりすると電車は混んで押し合い、へし合いですから電車の中では勉強はできないし、片道に一時間半くらいかかるのです。往復に三時間もかかる。
人間、一日の内に三時間も往復のために無駄に時間を空費していたのではもったいないから、徳久先生は自動車が欲しいというので、「自動車をすでに与えていただきましてありがとうございます」と書いて貼って、そのように念じたのです。そうしたら郷里のお父さんから金を送って来たのです。しかしお父さんから送って来たお金だけではトヨペットの新らしい自動車を買うためには半分くらいの金額しかないわけなんでした。
そのとき、徳久先生は、紙に「自動車は既に与えられた。有りがとうございます。」と書いて貼っておいたら、有りがたいことに父から、その半分位の金額が来たという話を私にされたのです。そしたら、「その半分の金は生長の家の本部から出すことにしましょう」と僕が言ったのです。それでちゃんとトヨペットの新らしい自動車が徳久先生の手に入るということになったのです。
その購入費の半分の金は公けの金、半分の金は徳久個人の金であるから、その自動車は、私用にも公用にも両方に遠慮なしに使えるという、たいへん便利な自動車になったのであります。公用の自動車だけ買ってもらったら、私用に使おうと思ったって使えないのですが、自分のお金も半分出ているから、両方に自由につかえる、税金もガソリン代も公用の自動車として公けから出るというような便利な車が出来た訳です。
<つづく>
482
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:48:38 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(18)
世界一安価な高級車
ところが、最近聞いてみると、仙頭君が自動車を一台買った。それは又安い、たった一万円の自動車である。それが得られた由来をきいてみると、徳久先生は東京都の教化支部長になったとき、トヨペットでは狭い路地などに入るのに都合が悪い。スバルが小さくて東京の街々を走り廻るのに便利であるし、ガソリンがよけいいらないで本部の負担にならないといって、トヨペットをやめて、スバルを買って乗ることにしていらっしゃった。
ところが仙頭君が、飛田給の練成道場に同居していたのをやめて、自分の家を建てた。それは飛田給よりも一層本部に遠いのです。それで仙頭君は、小さなスバルよりも、もっとほかの自動車が欲しいと思ったのだけども、先輩の徳久先生がスバルに乗っているので、後輩の自分が「もっといい自動車を」と思うといかんと思って、遠慮したというのです。そして「まあ、ダットサン位の自動車なら、それ程先輩に対して遠慮せずともよい」と思って、これは、徳久先生のように紙に書いて貼っておいたのではなく、ダットサンの自動車の写真の印刷したのを切り抜いて眼につくところに貼っておいたというのです。
仙頭君は、毎日幾回かそれを見詰めて、「すでにその自動車は与えられているのである。ありがとうございます」と念じておったら、だれか熱心な誌友の人が、新車を買ったので、今まで使っていたダットサンが要らなくなったので、ゆずってやる。“ただであげるというと遠慮したらいかんから一万円でゆずってあげたい”といって、たった一万円でゆずってもらって、それを乗り廻して自宅から本部へ出勤していられる。
仙頭君は軍隊におったことがあり、自分で自動車をあつかったことがあって、自分で修繕もできる。ダットサンはガソリンもそんなにいらぬ。非常に便利で、たった一万円の自動車で自由に乗り廻わして、この前も、富士河口湖練成道場へあの車に乗ってとんで行ったということであります。
そういうように心の世界に描いておったら、自動車を買う金があるなしに拘らず、そんな世界一の安い自動車でも、天降ってくるということになるわけです。こんな話をするのは、自動車でも何でも「金がなければ得られない」と考えてはならないことを知って頂くためで、吾々は言葉の力を応用すれば、吾々が“神の子”としての無限の可能性を引き出して欲するものを金なしにでも実現することが出来るということを申し上げたかったのであります。
それから第六ヵ条は、
吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんが為に、善き言葉の雑誌『生長の家』及び聖典を結集して発行す。
と書かれております。
本日のテキストの『眞理』という本とか、あるいは『生命の實相』とかいうような善き言葉を載せた雑誌や書物を発行することによって、人類を光明化するのが生長の家の使命であるわけであります。人間の運命はその人の読む書物の言葉によって左右されるのでありますから、現行の憲法に言論の自由、表現の自由が許されているからとて、罷り通っているセックス文学や犯罪文学を読んでいると、無意識のうちにその言葉と自己同一して、自分の運命を堕落させることになるのであります。今度海外旅行で知ったことは、驚くべき奇蹟がブラジルに唯、単に『生命の實相』を読むだけで起っているということであります。
<つづく>
483
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:49:16 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(19)
繁栄のための心の法則
私がブラジルへ行って感じたことは、「与えよ、さらば与えられん。奪えよ、さらば奪われん」という生長の家の真理が如実に生活に実証されていることであります。
最初ブラジルへ移民した人達の中には、「四、五十年あそこで働いて、相当の金をこしらえて日本へ帰りたい。」こう思って行った人達が非常に多かったのであります。つまり或る意味ではブラジルの富を奪って日本へ持って帰るつもりだったのです。そういうブラジルの富を日本へ持って帰りたいという気持で行った人達は、たいてい成功しなかったのです。
ところが目本が戦争に敗けたということを聞きまして、日本の大都市が殆ど焼けて灰になってしまって、もう日本へ帰っても安住の土地ではないから、ブラジルへ腰をすえてブラジルの繁栄とともに自分も繁栄致しましょうという気持になって、ブラジル国の建設に自分の命を注ごうという訳で、即ち“与える心”になって働き出したのです。それから日本人はブラジルで、すばらしく発展するようになったのです。幾百エーカーの地面の持主になって白人系の労働者を幾百家族も雇って大事業をやっている日本人も随分あります。
(谷口輝子著『世界を旅して』後篇、参照)
これはすべて、「与えよ、さらば与えられん」というところの法則によってそういうことが起って来るのであります。皆さんがこの生長の家の真理を、人に勧められる場合でも、やっぱり与えることによって自分の運命が好転してくるわけであります。
商売の競争相手を祝福して却って繁昌
このあいだも浜松の講習会の時、熱海の八百半デパートの和田一夫さんが、“八百半ビル”を建てて、始めは食料品ばかり売っていたのでありますけれども、去年から大きなビルの一部分に衣料品をあつかう衣料部をこしらえて、反物を売りだしたのです。ところが最近、八百半から歩いて五分間くらいの処に長崎屋という衣料専門の大デパートが建築を始めた。それが近く愈々開店するという事になったら、さすがの和田一夫さんも、衣料を主にした大デパートが自分の店から歩いてわずか五分間くらいの距離にできることになったら、そこへ自分の衣料部の客を取られるのは決まっている。それでどうしたら好いか。というので、一時非常に悩んだというのです。
ところが、和田一夫さんはやっぱり生長の家の信者ですから偉いですね。“与えよ、さらば与えられん”“祝福するものが祝福される”という根本法則を利用するより仕方がないと悟られまして、神想観をなさいますときに、その長崎屋が繁栄しているありさまを、心に描いて一所懸命に「長崎屋の繁栄」を祈ったというのです。そうして、いよいよ長崎屋のデパートが開店する日に、「長崎屋さん、開店おめでとう。八百半。」と書いた広告を四つの新聞に堂々と出して、長崎屋の開店を祝福してあげたのです。
そうしますと、その開店の日は自分の店の衣料部はいつもの売上げ高の三十パーセント減ったけれども、そのかわり、長崎屋さんは「開店祝い」の広告まで出して祝福してもらったので、沢山のお客さんが長崎屋になだれ込んで満員の盛況になったそうですが、午前中に長崎屋へ買物に出かけて行ったお客さんが、そこから歩いて五分くらいの距離ですから、帰り途に八百半の食堂の方へなだれ込んできて、その時には食堂が満員になった。その日、衣料部の売上げは減ったけれども、食料品の売上げの増加で、いつもよりもなお収益が多かったという結果が出て、競争相手を祝福してあげることによって自分の店も一層繁昌することになったのであります。
それから後も、また奇蹟が起ったというのです。あたり前ならば衣料品の方は長崎屋さんの方へ沢山お客が流れて行って、自分の店のお客は減ると思っておったら、そうではなくて、自分の方の店の衣料部も、これまでの売上げより増え、総売上げは今迄の三倍も増えて来て、今では長崎屋ができる時より繁昌しているというような話をなさいましたが、そういう風に“敵”とみとめられるものも、本当は“敵”じゃないのであります。およそ“敵”なんてものは“実相”に於いてはないのです。神様のおこしらえになった世界は、みんな大調和の「共存共栄の世界」なのであります。
<つづく>
484
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:51:22 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(20)
そういうわけで吾々が実相を観る目を開いて敵の無い世界を見ると、そこにすべてのものが互いに調和しながら共存共栄の繁栄・平和の世界が実現するのであります。だから正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法が必要になって来るのであります。
だから七つの光明宣言の第七ヵ条には、
吾等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法とにより病苦その他一切の人生苦を克服し相愛協力の天国を地上に建設せんが為に実際運動を起こす。
と宣言されているのであります。生長の家は、この光明宣言の第七ヵ条に書かれてありますように、天国を地上に建設するための実際運動であり、それは発祥当初から宣言されているのであります。生長の家の信仰を生活に実践すれば、健康も得られ、繁栄も達成せられるけれども、ただ単に、個人の自分だけが悟って、それで自分だけが幸福を得たらそれでおしまいというような、そういう小さな目的の団体ではないのであります。
すべての人類に正しき人生観を知らせること。人間がこの世の中に生れた意義は何であるか、それをまず知らせること。それからこの人生を如何に生きるのが正しいか。その正しい生き方、生活法を知らせること。人間は自己の生命の生長をせしめるためにはどのような法則に従わねばならぬか。心の法則はこうであるから、このような心懸けで生活すれば、人間は幸福になることができるのである。これを教えて人類全艦の生活を至福の天国にするのが生長の家の使命であります。
次には正しい教育法を教える。さっきの八百半の実例でいえば、“敵”と見えるのも“敵”ではない。それを祝福したら、かえって自分がいっそう繁昌するのであるというような、そういうすばらしい凡ての人が幸福繁昌の生かし合いの生活法を教える。そして正しき教育法によって次代の人類及び国家の運命を背負って立つ立派な人間をつくる。
今までの教育法では子供の欠点を指摘して、「お前はここが悪い。数学が下手であるから、よく勉強しなさい」というように、欠点をみつけて、その欠点を改善させるつもりで教育して、かえって子供に劣等感を植え付けながら善くしようと思っておった。いや子供だけではない、人間全体を「罪悪深重」といい、「罪の子」として教えた。
このような間違った教育法を改めて、そしてすべての人間に“言葉の力”によって、本来ないところの“悪”を無いと宣言することによって消滅して、病気を治したり、人生苦をなくしたり、犯罪傾向を無くしたり、一切の悪を消尽して、皆なが「人間、神の子。互いに兄弟姉妹である」との自覚をもって互いに愛し愛されて、相愛協力の人類すべてが拝み合い、互いに力を合わして、みんなが栄えて行くところの地上天国を建設せんが為の、実際運動を起こすのが、生長の家であるというわけであります。皆さんは、そういう高い理想と、重大な目的との為に、ここへ集まって来ておられるのでありまして、自分だけが救われたらいいというような、けちな考えの人はいないわけなのであります。
さて、その為には、自分自身が神の子であるという事を悟らねばなりません。皆さん、十分、『生命の實相』を読み、真理を体得し、“国の柱”となり、“人類の救済者”となり、神が皆さんを人類光明化の選士として選びたもうた、その使命を忘れずに一路邁進、愛行に努力せられんことを希望いたします。
<終わり>
(昭和39年5月・青年会全国大会講話)
〈「理想世界」昭和39年9〜11月〉
485
:
a hope
:2012/04/21(土) 08:29:58 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
人の魂を傷つけるな
人の魂の傷口にナイフを刺込むような、そういうふうな皮肉を浴びせる悪い習慣のある人が往々ありますが、こういう心の人は出世できないのであります。こんな人は織田信長のように明智光秀のようにどちらも滅びてしまわなければならないのです。
何か人が良い噂をすると、「しかしあの人はこうですよ」と何かケチをつける人がありますが、まことにあさましいことであります。そういうふうな人は自分は自分の性質に気がつかないかも知れませんけれども、そういう人は往々にして切開手術を要するような病気にかかる事があります。それは「類は類を招(よ)ぶ」という心の法則によりまして、人の奥底を切り開いてそうして汚いものを掘出したいという気持ちがある。その心は類は類を招(よ)んで自分の身体(からだ)に具象化(かたちにあらわ)れるのです。これを生長の家では「肉体は心の影」と申しております。
よほど良い人格をもった人で、自分よりも弱い人に深切にする人でも、それでいて自分と同等の人や、自分より少し偉いかもしれぬと思われる人には、すぐにそれを貶(けな)したくなったり悪口言いたくなったりする人があります。こういう人は強いようで、その実まだ弱いところがあるのです。そんなに強い者に反抗する気持ちにならないで、弱い人に深切にすると同時に強い人にも、自分より上の人にも、深切にならなければ、吾々はまだ平等の高さまで偉くなっていないのであります。
弱い人にも深切、強い人にも深切の平等の高さに達するのが生長の家の生き方であります。強きを挫(くじ)き弱きを助ける侠客肌(きょうかくはだ)というような人は、ちょっと偉そうに見えますけれども、その人が強い者に反抗せずにいられないのは「負ける」という不安があるからで、まだ全く強くなってない証拠であります。
(つづく)
486
:
ハマナス
:2012/04/21(土) 08:54:59 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
自分で自分を限るなかれ (『新版 生活の智慧365章』P.134)
人間は神の子であり、神の全能の力を譲り受けたる後嗣者であるから、何でも、善きこと、
正しきことであったら成就し得ないと云うことはあり得ないのである。しかし、それでも成就し
得ないものがあるのは、それは自己が自分を限るからである。即ち自己限定がなければ、その
程度に随って驚くべき奇跡をさえ実現する力が人間には宿っているのである。しかし、人間が
“神の子”として賦(あた)えられている無限力は、“父なる神”又は“創造の親様”なる神
との関係に於て、“神の子”として与えられているのであるから、“神”とのつながりに於て
それは実現するのである。だから、神を無視して、自分を「肉体の子」であると誤認している
限りに於て、その無限力は現われて来ないのである。
吾々は「人間・神の子」の真理を教えられながら、依然として潜在意識の底には
「人間は物質的存在である、肉体が人間である」と云う考えが中々抜きがたいものである
からこれが自己限定となって、霊的実在たる無限力を発揮する力が限られ縮小するのである。
この潜在意識の自己限定を去る最良の方法が神想観なのである。毎日怠らず神想観を実習
することが必要である。
感謝合掌
487
:
志恩
:2012/04/21(土) 09:51:21 ID:.QY5jUA6
復興Gさまが謹写して下さった
『神ひとに語り給う』のご講義につづき、
實相と現象』の20に分けて謹写してくださった真理の数々、
まだ十分に咀嚼出来ていませんが、落ちついて何度も拝読して、WEB誌友会までに間に合うよう、勉強しておきたいと思って
おります。
実は,復興G様が参加されたという昭和39年5月3日〜5日の間の、
東京台東区台東体育館に於いて開催された「全国青年大会」・「全国白鳩大会」(他に、全国相愛会大会もありましたね)
に、私も、裏方のお世話係として参加しております。
アルバムに、その『全国青年大会』のときに、台東体育館前で、青年会の友人たちと一緒に、記念写真を撮った笑顔の写真が
貼ってあります(笑)
その年だったか、どうか、はっきりしませんが、我々の地元の青年会支部の委員長(私は副委員長だった)が、東京都の
予選を通過して、東京都代表に選出され、その「全国青年大会」で、されていた全国各地区代表による「全国青年弁論大会」
に出場しまして、うちの委員長が、見事、全国優勝した誇らしく晴れやかな記憶が、ございます。
私は、なぜ、こんなに、あほなのかなぁと、自らを省みますと、全国大会に参加させて頂いたにも関わらず、ご講話は、ほとんど
拝聴してなかったからかもしれないと、自分でおかしがっております。
ある時は、私は、裏の部屋の方で、総裁先生ご夫妻のお茶や昼ご飯の、お世話の仕事のことで、頭がいっぱいだったり、ある時は、
全国からお越しくださった幹部の皆様の雑用係に追われていたりしていましたので、肝腎のご講話の方は、
右からら左へ抜けてしまっており、はずかしながら、心に入っておりませんでした。
ですから、復興G様が謹写してくださった『實相と現象』のご講話の内容も、初めて聴かせて頂いているように
感じております。
復興Gさまのお陰で、生きているうちに、改めて、こんなすばらしい内容のご講話に触れる事ができましたこと、
ほんとに、ありがたくかたじけない気持ちでいっぱいです。感謝 礼拝
488
:
志恩
:2012/04/21(土) 10:07:56 ID:.QY5jUA6
昭和39年の,総裁先生とは、言うまでもなく、谷口雅春先生 のことです。
489
:
復興G
:2012/04/21(土) 14:59:46 ID:ojEbkDH2
>>487
:
志恩様。
丁寧なご感想、ありがとうございます。
>昭和39年5月3日〜5日の間の、東京台東区台東体育館に於いて開催された「全国青年大会」・「全国白鳩大会」(他に、全国相愛会大会もありましたね)<
――昭和39年5月3日〜5日の3日間は3日とも全部、青年会の特別教修会・全国大会でした。「四十年史」にも、そう書かれています。このころは白鳩会全国大会は3月、輝子先生のお誕生日に行われており、相愛会の全国大会というのはありませんでした。いかに谷口雅春先生は青年に期待されるところが大きかったかがわかります。
>その年だったか、どうか、はっきりしませんが、我々の地元の青年会支部の委員長(私は副委員長だった)が、東京都の予選を通過して、東京都代表に選出され、その「全国青年大会」で、されていた全国各地区代表による「全国青年弁論大会」に出場しまして、うちの委員長が、見事、全国優勝した誇らしく晴れやかな記憶が、ございます。<
そうでしたか。私はこの年に台東体育館での雄弁大会で優勝したという人に最近会ってきましたが、その方は地元青年会委員長はされていなかったと思いますので、多分、そのころ志恩様の地元青年会委員長が優勝されたのは、開催年が違うと思われます。
台東体育館は、隅田川ぞいにあって、今は台東リバーサイドスポーツセンターというのになっているようですね。
なつかしい場所です。ありがとうございます。
490
:
志恩
:2012/04/21(土) 16:54:41 ID:.QY5jUA6
復興G様
お返事、ありがとうございます。
そうでしたか。昭和39年(1964年)では、なかったんだ、うちの委員長が雄弁大会で優勝したのは。日記、つけてないころでしたので。
でも、場所は、台東体育館でしたし、「全国青年大会」の(全国弁論大会でなく)全国雄弁大会で、うちの委員長が、全国優勝したのは、
ほんとうの事ですから、それは、別の年だったのですね。
今年は,2012年ですから、あの時から数えましたら、早、48年も経ちました。
しかし、つい最近のことのように思えますから不思議ですね。
最近のあの辺りの事は知らなかったのですが、今は様変わりして、台東リバーサイドスポーツセンターというのになってるそうで、情報、
ありがとうございます。
昔は,あの辺りは、「靴・下駄」などの履物の問屋さん街が、近くにありましたよ。
491
:
志恩
:2012/04/21(土) 17:21:02 ID:.QY5jUA6
489:復興G様のご文章を,再度読ませていただきました。
もう、約50年も前のことなので、私の記憶が、あやふやになっている点が多くあるのですね。
私は、「四十年史」は、持っておりませんので、記録が記されているのを確認された復興Gさまのおっしゃることの方が、正解です。
5月3日〜5日は、全部、全国青年大会関係で、3日間とも、全国青年教修会、青年大会を開催していたのでしたか。
すごいことですよね。当時は、3日間連続やっても会場が埋まるほどの青年が、全国から集まっていたのですから。
全国白鳩大会は、あの当時は、3月に開催でしたか。古い記憶なので、私の頭の中で、記憶が、ごちゃまぜになっておりました。
正しい情報を、ありがとうございました。失礼いたしました。あの当時は、相愛会の全国大会は、なかったのですね。
復興G様が、おっしゃるように、雅春先生は、青年にすごく期待されてましたね。
ずっと,ずっと前の20年代だったかの全国青年大会の雄弁大会に,東京都代表で、中沖様というお方が,東京代表で
出場されて、全国第5位になられたと、どこかに書いてございましたが、
中沖様とは、企画の佐脇嘉久先生の旧名ですので、佐脇先生は,昔,雄弁大会に出たことがあると,本部時代、親しくして頂いておりましたので、
確か,直にお話を聞いたことがありますので、当時は、
そのような全国青年大会、教修会で勉強されて、その後、本部の幹部になれたお方も多かったのかもしれませんね。
いろいろと教えてくださいまして、深謝いたします。
492
:
a hope
:2012/04/22(日) 11:19:25 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
弱きを助け、強きにも深切
私達は弱きをも助けるが、強きをも挫(くじ)く事は要らないのであります。弱きにも深切にし強きにも深切にし、どちらも褒めてみんなを生かし、みんなを味方にしてゆくという事によってのみ私達は本当に生長することができるのであります。
人間をよく見ていますと判ります。たいてい発達しない人、立身出世しない人は、よほど頭も鋭い人で、こんな人がどうして出世しないのだろうと思ってよく見ると、強きを挫くという性質があるのであります。これが私達の成功を妨げる事が非常に多いのであります。自分より上役に丁寧にすることをお追従(ついしょう)をするように思い、自分より偉い人に深切にする事をおべっかを使う事だというように、自分考えで誤解している人が出世しない人に多いのであります。純な気持で、偉い人を偉い人として尊敬する事は、素直な動機であっって、それは尊敬すべき美点であります。
それなのに、それを何かおべっかを使う事だと考えて、そうしてその素直な人の悪口を言ってみたり、邪魔をしてみたりしておりますと、その人はどうしても自分自身の運命を自分の言葉で阻まれて発達しない、幸福に見舞われないという事になります。なぜかと言うと、それはやはり「類は類を招(よ)ぶ」という心の法則によるのであります。そういう人は弱き人ばかりに深切にしているから弱い者ばかりが自分の見かたである。本当に自分の助けになるような強い人は自分の味方になってくれないという事になるのであります。それでは出世のしようがありません。
本当に自分が発達しようと思うには弱い人に深切にすると同時に強い人にも深切にしなければならないのです。私達は上役にも、点数の多い人にも、月給の多い人にも、どんな強い人にも親切丁寧にしなければなりません。むろん卑劣な根性で、阿諛追従(おべっかついしょう)をするのではありません。けれども他(ひと)の偉いところを正直に認める事ができるのは、それだけでも非常に偉大な心なのです。
むろん大きな光の中にも或いは陰があるかもしれません。太陽にだって黒点があるのですが、太陽の黒点ばかりを睨んでおって、太陽だって黒いじゃないかと悪口(あっこう)を言っておってもしかたがないのです。光明思想というのはその太陽の明るい方ばかりを見て、「太陽は明るい、ありがとうございます」とお礼を言い、感謝する心であります。
こういう心の人はきっと成功いたします。如何にその人に黒点があっても、大きな光は大きな光として尊敬する、それが自分自身を大きくするゆえんであります。級長や、金持ちや、目上の者や、ともかく自分より多きなるものの悪口を言う心の中にはきっと、嫉妬(ねたみ)羨望(うらやみ)などという悪い心持、不徳な気持ちが隠れているのでありまして、それは卑怯なやり方であります。偉いものを偉い者として朗らかに褒め得る、それはまた非常に偉大な人間でなければできない。それができれば、それだけでも偉いのであります。なんでも素直に白い者は白いと言い得るように、偉い者は偉いと誉め得る者でないと出世しません。
(つづく)
493
:
うのはな
:2012/04/22(日) 20:30:18 ID:El6gIMAw
迷いの暗を切り光を現わす真理の神剣の働き
『生命の實相』第一巻の開巻冒頭に、“はしがき”よりも、目次よりも、尚、
その前の頁に、新約聖書の『黙示録』の第一章にある白髪の翁の姿をもってあらわれた
「久遠のキリスト」の姿が描写されているのである。「何故、生長の家はキリスト教ではないのに、
キリスト教聖書の一節を、『生命の實相』第一巻の“はしがき”よりも目次よりも尚前に引用して提出
してあるか」といいますと白髪は久遠の表象であり、キリスト教に於いては“生長の家の大神”は白髪の
久遠神(ユダヤ人のイエスではない)としてあらわれていられるからであります。その白髪のキリストの御姿の
描写の中に「その口より両刃の利き剣出で」と示されている。
これ真と偽とを別ち美と醜とを分別し、善悪を審く、最後の審判の神剣なのである。善悪・美醜を審判する“秩序の智慧”が
神であり、その神剣によって悪は切り棄てられ、偽は葬られ、本来無いのに姿をあらわしている病その他一切の醜きものは切り棄てられて
地獄の火の杭に投げ入れられ焼きほろぼされて、真なるもの、美なるもの、善なるもののみがそこに住吉の世界が地上天国として姿をあらわすのであります。
もし、この真と偽とを分ち、真なるもの、善なるもの、美なるもののみを顕わし、これに反するものを切り棄てるハタラキが発動しなければ天地は完成しないのであります。
この真偽を分ち、美醜を区別し、善悪を審判するはたらきによって、天地は一新するのである。
『黙示録』第二十一章にはこの事が明らかにされている
『我また新しき天と新しき地を見たり、これ前の天と地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。我また聖なる都、新しきエルサレムの夫のために飾りたる新婦のごとく準備して、神の許をいで、
天より降るを見たり・・・見よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して、かれらの目の涙をことごとく拭い去り給はん。今よりのち
死もなく、悲嘆も、号叫も、苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり・・・斯くて御座に坐し給ふもの言ひたまふ「視よ、われ一切のものを新たにするなり」....』
これが、“両刃の剣”のはたらきであります。“剣”は“片無”(刀)ではないのであって、敵を切るために、敵に向う一方にのみ刃がついていないで、自分に向う側にも刃がついていて、真ならざるもの、
美ならざるもの、善ならざるものがあれば自分を切るのが、剣のハタラキであります。
これが地上に平和をもち来らし、最後の審判によって、新しき天と地とをもち来たす住吉の世界を創造する神剣のはたらきである。
参考につぎに『秘められたる神示』の中に収録せられている『最後の審判の神示』を再録して、両刃の剣のハタラキを明らかにする。
生長の家 誌 昭和53年11月号 谷口雅春 先生
494
:
ハマナス
:2012/04/22(日) 21:40:00 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。すみません、今日は、出掛けていまして遅くなりました。
苦痛を迎える五つの態度 (『新版 生活の智慧365章』P.133)
苦痛がやって来たときに、それを迎える受け方に五種類ある。
(一)苦痛に対して恐怖し、悲鳴をあげて逃げ出そうとする受け方である。これでは
苦痛は軽減せず、恐怖すればするほど、その苦痛は吾々を追っかけて来て益々苦痛の
種が増えて来るのである。
(二)次には苦痛を意志の力によって忍耐する克己的(こっきてき)方法である。
苦痛と戦うことによってその人の意志の力は鍛錬し増加する。克己主義(ストイズム)
がこれである。
(三)苦痛を本来無きものとして、苦痛あるがままに、「自己」を「苦痛」そのものから
遊離して、第三者として「苦痛」を傍観し、「苦痛」に対して無関心となり、苦痛を超え
る方法である。
(四)すべては自己の心の所現であると観じ、苦痛があらわれて来たときに、自分の
「どの想い」が間違いであったかを反省して、その間違った想いを改めて良き想いに
更(か)えることによって苦痛を消除する方法である。
(五)ひたすら実相の完全さを観て、実相そのままの完全さに成り切り、自然に
不完全さが消えて、苦痛も消滅し、天国浄土的状態が現実化する方法である。
この最後の(五)が生長の家の“縦の真理”であり、(四)の解決方法が生長
の家の“横の真理”である、その方法を実践する途上に於て、(三)の「苦痛
本来なし」の否定によって、自己を苦痛から引き離す方法が用いられるのである。
感謝合掌
495
:
金木犀
:2012/04/22(日) 21:46:20 ID:XJ2w09Xw
うの花様
ああ、この文章です。
これを私は以前読んで、この文章が頭に残っていたのですが、
一体どこで読んだのかがわかりませんでした。
ああ、そうです。この御文章、『永久に国護り給わん』の一節ですね。
私はこの御文章に付箋までつけていたのに、ここにあったことを忘れていました。
尤も全体のページ数長いですから、印象だけ残って全部を覚えてはいないですものね。
私もこの御文章を皆様に紹介したかったのです。
うの花さま、有難うございます。
496
:
金木犀
:2012/04/22(日) 21:48:58 ID:XJ2w09Xw
うの花様ではなく、うのはな様でした。すみません。
497
:
訊け氏へ
:2012/04/22(日) 22:24:50 ID:El6gIMAw
金木犀様。
合掌、ありがとうございます。
金木犀様は大東亜戦争や靖国問題にお詳しい感じがするので、
また機会があれば、いろいろと教えていただければ幸いです。
おやすみなさい。
再拝。
498
:
うのはな
:2012/04/22(日) 22:25:41 ID:El6gIMAw
訊け氏へ というのは うのはなです。
499
:
金木犀
:2012/04/22(日) 22:54:03 ID:XJ2w09Xw
うのはな様
有難うございます。
そのようにおっしゃって頂き恐縮ですが、私の知っていることは、
実は雅春先生や、ネットのいろんなサイトからの受け売りです。それらの寄せ集めのような
知識であり、教えるには自信がありませんが、ここには役行者様もいらっしゃって
よくご存知のようですから、色々やり取りしているうちに、もし間違ったら訂正してくださるでしょう。
うのはな様も知識は豊富だと拝察します。お互いに勉強しあえたらいいですね。
そういえば春らんまん様もよくご存知のようでしたよね。
うのはな様のいろんな投稿、いつも感銘受けました。引用の文章もですが、乙女の祈り最高でした。
それに花々素敵でしたね。とくに野の花が素敵でした。
500
:
SAKURA
:2012/04/22(日) 23:26:30 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者様 へ
こんばんは…ロ−マ字の【SAKURA】です。御無沙汰していますが…
久しぶりに…【仏教典…】以前からの続きですが“投稿”させて頂きます。
【はじめの第1章…】からの“続編”で〜〜〜〜〜す!
■第2章 最後の教え
1.釈尊はクシナガラの郊外、シャ−ラ樹の木の中で最後の教えを説かれた。
弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ、
他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えを
よりどころとしてはならない。
わが身を見ては、その汚れを思って貪らず、苦しみも楽しみもともに苦しみの因であると思ってふけらず、わが心を観ては、その中に「我」はないと思い、それらに迷ってはならない。
そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。わたしがこの世を去った後も、
このように教えを守るならば、これこそわたしのまことの弟子である。
2.弟子たちよ、これでおまえたちのために説いたわたしの教えは、常に聞き、常に考え、
常に修めて捨ててはならない。もし教えのとおりに行うなら常に幸いに
満たされるであろう。
教えのかなめは心を修めることにある。だから、欲をおさえておのれに克つことに
努めなければならない。身を正し、心を正し、ことばをまことあるものに
しなければならない。
貧ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。
もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。
心に従わず、心の主となれ。心は人を仏にし、また、畜生にする。迷って鬼となり、
さとって仏と成るのもみな、この心のしわざである。だから、よく心を正しくし、
道に外れないよう努めるがよい。
3.弟子たちよ、おまえたちはこの教えのもとに、相和し、相敬い、争いを起こしてはならない。
水と乳とのように和合せよ。水と油のようにはじきあってはならない。
ともにわたしの教えを守り、ともに学び、ともに修め、励ましあって、道の楽しみを
ともにせよ。つまらないことに心をつかい、むだなことに時をついやせず、さとりの花を摘み、道の果をとるがよい。
弟子たちよ、わたしは自らこの教えをさとり、おまえたちのためにこの教えを説いた。
おまえたちはよくこれを守って、ことごとにこの教えに従って行わなければならない。
だから、この教えのとおりに行わない者は、わたしに会っていながらわたしに会わず、
わたしと一緒にいながらわたしから遠く離れている。また、この教えの通りに行う者は、
たとえわたしから遠く離れていてもわたしと一緒にいる。
4.弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。別離も遠いことではない。しかし、いたずらに
悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なない者はない。今わたしの身が朽ちた
車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。
いたずらに悲しむことをやめて、この無常の道理に気がつき、人の世の真実のすがたに眼を
覚まさなければならない。変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである。
煩悩の賊は常におまえたちのすきまをうかがって倒そうとしている。
もしおまたちの部屋に毒蛇が住んでいるのなら、その毒蛇を追いださない限り、
落ちついてその部屋で眠ることはできないであろう。
煩悩の賊は追わなければならない。煩悩の蛇は出さなければならない。おまえたちは
慎んでその心を守るがよい。
5・弟子たちよ、今わたしの最期の時である。しかし、この死は肉体の死であることを
忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、
傷つき、こわれることはやむを得ない。
仏の本質は肉体ではない。さとりである。肉体はここに滅びても、さとりは永遠に
法と道にいきている。だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのでなく、
わたしの教えを知る者こそわたしを見る。
わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師である。この法を保ち続けて
わたしに使えるようにするがよい。
弟子たちよ、わたしはこの人生の後半四十五年間において、説くべきものはすべて
説き終わり、なすべきことはすべてなし終わった。
わたしにはもはや秘密はない。内もなく、外もなく、すべてみな完全に説きあかし終わった。
弟子たちよ、今やわたしの最期である。わたしは今より涅槃に入るであろう。
これがわたしの最期の教戒である。
501
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/22(日) 23:38:06 ID:45UP8rIY
永久に国護り給わん」と言う本はどのような本なのだろう??
興味あります。。。色々と知る事が出来てネットはいいです。
502
:
金木犀
:2012/04/23(月) 05:41:56 ID:XJ2w09Xw
『永久に国護り給わん』というのは本ではなく、雅春先生が、すみ
503
:
金木犀
:2012/04/23(月) 05:49:09 ID:XJ2w09Xw
すみません、途中で、切れてしまいました。
雅春先生が、神誌住吉大神について書かれたものを『生長の家』誌の編集部が
集めて53年11月号で、集大成して載せたものです。
生長の家出現の意義がわかりやすく書かれています。
龍宮住吉本宮御造営奉祝特別企画(昭和53年)
永遠(とわ)に国護り給わん
谷口雅春 (生長の家誌編集部構成)
第一章住吉大神出現の意義と生長の家
生長の家発祥の因縁について
生長の家の教えは一宗一派ではない。万教の真髄は唯一の「真理」に帰一する、真理は普遍的なものであるから、どの正しい宗教にも宿っている。その真理を明らかにするとき、あらゆる正しき宗教は同一真理を宣布しつつあるのだということが明らかになり、宗教と宗教とが互いに仲よく手をつなぐことができるようになり、祖先伝承の宗教を棄てるのでもなく祖先の宗教が生きて来て功徳があらわれて来るのであります。
この真理の啓示を受けましたのは、私が兵庫県武庫郡住吉村に住んでおりました頃に、勇湯という銭湯がありまして、午前五時からもう新湯が沸いておりましたので、風呂好きの私はいち早くその銭湯へ出掛けて行き、快い湯加減に温まって爽かな気持ちになり、身も清浄、心も清浄に洗い浄めたそのままに、勇湯から三丁ばかりの距離にある産土神社なる本住吉神社に、毎朝日参して日本国の隆昌と皇室の御安泰とを祈願して帰ることにいたしておりました際に、霊感をいただいて始まったのが生長の家の人類光明化運動であります。
生長の家大神とは住吉大神(すみのえのおおかみ)である
生長の家大神とは住吉大神(すみのえのおおかみ)である
この生長の家大神とは誰方(どなた)であるかと言いますと、『古事記』に、天照大御神様がお生まれになるに先立って、この大宇宙浄めの神として、水と塩(霊)とを以て浄め給うところの龍宮海の神様として現れられたところの上筒之男神、中筒之男神、底筒之男神と言われる三柱の神様を一体に総称して、住吉大神(俗称すみよしの大神)と申しているのであります。
『古事記』にあらわれたる住吉大神は其の後同書に塩椎神又は塩椎翁(日本書紀・神武天皇の巻)として現れていらっしゃるのであります。塩椎神は塩筒之男神であらせられまして、海の潮(うしお)を上潮(うわうしお)、中潮(なかうしお)、底潮(そこうしお)と分けまして上筒之男神、中筒之男神、底筒之男神の三柱に顕れていられるのでありますが、総じて塩筒之男神と申し上げるのであります。此の神様は宇宙創造の神であると同時に宇宙浄化の神であり、東道(みちびき)の神でもいらせられます。
504
:
金木犀
:2012/04/23(月) 05:54:13 ID:XJ2w09Xw
住吉大神と阿弥陀仏、観世音菩薩との関係
この住吉大神は如何なる神様であるかと言いますと、人生を住みよき世界にする所の神様であります。仏教で言うと、この神様は阿弥陀仏にあたるのであります。阿弥陀仏の慈悲の働きが観世音菩薩、阿弥陀仏の智慧の働きが勢至菩薩であります。阿弥陀・観世・勢至の三尊一体であります。生長の家の神様は観世音菩薩であると言われておりますが、その本地は阿弥陀仏であります。
聖観世音菩薩の仏像を拝見致しますと、宝冠をかぶっておられる。その宝冠の真中に普通は、もう一つ仏像が刻んであるのであります。その宝冠の仏像は阿弥陀如来であります。これは観世音菩薩が阿弥陀仏の示現であることをあらわしております。
阿弥陀仏は尽十方に満満(みちみち)ておられる“宇宙の本体”的実在であらせられ、尽十方無碍光如来とよばれているのであります。尽十方というのは八方に天地の二方を加えて十方であります。十方をことごとく尽してあらゆる方角にも充ち満ちていられる無礙の光が阿弥陀仏なのです。無礙というのは、どんなものもさわりにならない障礙物(しょうがいぶつ)にならないで何処にでも満ちておられることであって、「光」というのは「智慧」のことであります。
宇宙遍満の智慧が阿弥陀如来である。如来は尽十方に満ちみちておられるから、「彼の仏如来は去って去る所なく、来って来る所なく」と、法顕訳の大無量寿経に書いてあります様に、去来して、どこからどこへ来迎あそばれてお救けになるというような、そういう空間的な距離的働きがなく、十方――あらゆる方角――に満ちみちておられるのが阿弥陀如来であります。
だから現実に人格的に姿を顕して人をお救いになるという時には、阿弥陀仏そのままでは出てこられないで“観世音菩薩”のお姿をして出て来られるという事になるのであります。この観世音菩薩が生長の家の神様なのであります。
普門成就の観世音菩薩
さて、この観世音菩薩という仏様は一宗一派の仏様ではないのでありまして、これは仏教のどんな宗派の方でも、真言宗であろうが、浄土宗であろうが、日蓮宗であろうが、観世音菩薩を拝まないところの仏教はないのであります。
この観世音菩薩の功徳がかかれてあるところのお経は、法華経の“普門品第二十五”という所に書かれているのであります。この“普門品第二十五”というところを、独立さして“観音経”とも謂われているのであります。観音様は、何故“普門品”に収録(おさ)めてあるかと言いますと、“普門”というのは、“あまねき門”ということで“あまねく”というのは“どこにでも”ということです。“門”というのは“宗門”です。観世音菩薩はあらゆる宗門を、あまねく成就するところの仏様であるから、普門成就の仏様として「普門品」に収録めてあるのです。
このように観世音菩薩という仏様は、普門成就のキリスト教にも、神道にも、この観世音菩薩は示現して救いを垂れていられるのです。神道に於いては既に申しました様に、住吉大神、塩椎大神、それからまた綿津見神という様に龍宮の大神として顕れてましますのであります。
505
:
金木犀
:2012/04/23(月) 05:56:11 ID:XJ2w09Xw
あ、本流青年掲示板に載っていますから、後はそこで読んで下さい。
506
:
金木犀
:2012/04/23(月) 06:03:59 ID:XJ2w09Xw
>>503
訂正します。
神誌住吉大神について → 神誌で住吉大神について
507
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/23(月) 06:18:32 ID:T2l6C5DY
わ=====い!!
金木犀さん!!!
ありがと==========!!!
青年板 行ってきま====す!!
508
:
ハマナス
:2012/04/23(月) 09:49:08 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
今週も皆さまによって、喜びいっぱいの光輝く一週間でありますように。
愛は他と共に自己をも癒す (『新版 生活の智慧365章』P.135)
『愛は凡て癒す』と云う谷口清超氏の著書の中には無数の奇跡的治癒が書かれているが、
ブラザー・マンデス師の著書の中にも次のような愛の奇蹟が書かれている。
或る婦人が慢性の頭痛と、中耳炎とで悩んでいたが色々の医療を受けても治らなかった。
この婦人がマンデス師の説教会にやって来て、その由を訴えたのである。そして「自分の
心が完全になるまでこの病気は治らないでしょうか」とたずねた。マンデス師は「自分の
心が完全になるまで、神の救いが来ないのであれば、すべての人間は永遠に神の救いを
待ちのぞむばかりで救われる事はないでしょう」と答えた。そして「今あなたが自分の事
を忘れて人を愛そう、人を癒してあげたいと云う愛の心を起こしたら、神のすべてを癒し
給う愛の力が流れ入ってあなたは癒されてしまうのである。さあ、私が神の癒す力の仲立ちに
なってあげましょう。あなたは自分の病気を治そうと云う考えを捨て、自分の病気を忘れて、
他の人を癒してあげようと思う心になって、他の病人に手を触れてあげなさい」と言った。
そしてマンデス師は、その頭と耳とが慢性的に悪い病人の手を握り、握られた彼は脊椎と
臀部の痛む病人に手を按して、「神の癒す力、われを媒介としてこの人に流れ入り癒し給う」
と念ぜしめたのである。すると、脊椎と臀部の神経痛の患者は忽ち治ると同時に、それを
癒そうと愛の思いを起こした人の慢性の耳及び頭の病気も治ってしまったのであった。
感謝合掌
509
:
a hope
:2012/04/23(月) 10:28:49 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
出世するには人を妬むな
出世しようと思う人は嫉妬心を起こしてはなりません。私達が偉い人に深切にした場合、
「あいつは目上に阿諛追従(おべっかついしょう)をしている、けしからん」と思う心持を起こす人には、
実はその人自身に阿諛追従する気持ちがあるので人のすることがそう見えるのです。
自分にある阿諛追従の心を無理に抑えているので、その経験が心にあるから人が偉い人に深切にしていると
「あいつは阿諛追従しているのだ」と想像できるのであります。
環境は心の影です。他(ひと)が悪いと見える場合には自分が悪いのです。
人があいつ泥棒をするかも知れぬと思うならば、その人は自分に泥棒する根性があって、
それを心のうちに経験したことがあるからであります。
ここにひとりの赤ん坊が人のものを盗って来て、そうして自分のものとして舐めているとしても、
これは子供同士で見ると、あの赤ん坊は泥棒したとは思わないのであります。
子供はむしろ自他一体の観念が強いために自分のものは他のもの、他のものは自分のものだと思っている。
ところが自分と他との区別のハッキリした大人になると「あいつ泥棒した」という事になります。
大人になるといろいろの経験から「盗み」という思いが心のどこかに教えられてあるので、
その思いに照らして「泥棒した」と判るのであります。
人間は自分の心にない事は判らない。他を阿諛(おべっか)使いだと思うのは、
自分に阿諛使いの心があるのであります。そういうふうな心持が自分にあるものですから、
素直に偉い人や目上の人を尊敬する人を阿諛使いだと邪推する事になるのであります。
(つづく)
510
:
ももんが《宗教・詩》
:2012/04/23(月) 12:14:35 ID:XXCuaQns
〜失望と神へ恨み〜
『願いが叶う、一時、一瞬、手前で、その願いが、跡形も消え去る時。心に大きいな、“失望”が、顕れる。この“失望”が強い時、あるいわ、蓄積され、増幅された時、その人は、“神へ強い恨み”を抱き、その心に、“悪魔の子”が現れ、“悪の権化”と化していく。』
〜魔王の王国〜
『光は、深海までは、届かない闇である。それでも、生命《せいめい》は活きている。それと、同じで”暗黒“もまた、存在する。
”暗黒生命“を無しにしてならない。神の使命にて暗黒を支配しているのである。光明だけが、実相にあらず。両者相まって、世界に初めて調和を成す。』
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