[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
聖典引用 板
311
:
うのはな
:2012/03/30(金) 17:56:58 ID:El6gIMAw
護國の神剣
共産主義は結核菌のようなものです。共産主義は迷いであり、本来在るものではありません。だから共産党を憎んだり呪ったりすることはいらない。それよりもまだ自分の愛行が足らんのだということを考えなければいかんのです。
共産党がなぜ伸びたかというと、日頃の地域住民に対する奉仕活動であり、その昼夜を問わぬ激しい努力なのです。
私たちがまだ徹底的に自我を死に切らずに、個人の生活の片手間に日本の國のことを考えてみたり、あるいは片手間に少しばかり生政連活動のお手伝いしているようでは、日本をよくするこが出来ないばかりではなく、そもそも自分を欺いているのではないかと惟うんです。
自ら省みて、自分が全生命をかけて日本の國を救いたいという、そういう熱情に自分の全身全霊が燃えているかということなんです。
自分がまだ本当に燃えていないで燻っているとすれば、その燻っているようなところが結核菌なんだ。自分の〃心〃の中に燻っているところのその結核菌が具体化して共産党となって現れてきているわけなんです。
生長の家では「心の影」といい、仏教では「三界は唯心の所現」というのもこのことなのであって、一切は自分にあるという自覚に100%起たないといかんのです。
だから我々は、どこどこまでも日本の実相を観じてその実相を顕現する運動に全身全霊、生命の100%をかけて生政連活動に熱中できたら自然に国家の実相が現われるし、天皇の実相が現われるし、自分の実相も現われるのです。実相が現われたら悪いものや迷いは無いんだから、共産党も自然に消え、日本はひとりでに立派な國になってゆくのです。
皆さん、今、起ち上がってください。このたび生政連の歌を作りました。この歌にある通り生政連は〃八岐大蛇〃を平げた須佐之男命の「護國の神剣」であるという大いなる使命をもって進んでください。 合掌
谷口雅春師 48年2月1日
晴れときどき競馬とホークス ブログ
312
:
「訊け」管理人
:2012/03/31(土) 08:01:25 ID:???
WEB榎本恵吾記念館「葩さんさん」より謹写――
生長の家の人が實相と現象のことで尋ねてこられる際、「實相は完全円満で、現象は無いのですから、現象にとらわれずに實相を観ればよいのに、どうしても現象にとらわれてしまうのです」という人が多いのですが、この悩みにすべての問題は帰着するのではないかとさえ思えます。
実はこのような人は、實相は完全円満であるというときの、この「完全」の意味をよく解っていないだけのことなのです。實相は完全なのですから、こちらの心で観ようが観まいが、いちいち努力して實相を引っぱり出そうとしなくても、絶対的に自分で出てくる力を完備しているのです。それを知らないから観る、観ないに引っかかってしまうのです。
そして、實相と現象の中間あたりに自分を置いて、「實相⇔現象」「實相⇔現象」と左を向いたり右を向いたり、その中間あたりでキョロキョロと首を振っている状態を「観ずる」とか「観じない」とか、「自覚する」とか「自覚しない」とかということだと思ってしまっているのです。なるほど「實相は観ずれば顕われ、観じざれば顕われることなし」と書かれていますし、また、『生命の實相』の第1巻の本論の第1行目には「生命の實相の自性円満を自覚すれば、大生命の癒力が働いてメタフィジカルヒーリング(神癒)となります」と書かれています。しかし、そこに書かれている「観ずる」「自覚する」ということと、自分の受け取っている「観ずる」「自覚する」ということの意味が違ってはいないでしょうか。
(つづく)
313
:
「訊け」管理人
:2012/03/31(土) 08:02:37 ID:???
(つづき)
谷口雅春先生が抱かれたお悩みというのは、すべては心の展開であり、いわゆる三界は唯心の所現であるということは解るけれども、その心が思うように支配できなくて困り果てられたのです。そして、「この心を改心して懺悔して改めてからでないと救われないのであれば、自分は決して救われることはない。改心しないまま、懺悔しないままで救ってくれる神が欲しい」と切実に願われたのでした。この悩みを拡げて解釈すれば、實相の円満完全を観ようとしてもなかなか思うように観ることができないから、實相を観られないままで、自覚もできないままで救ってくれる神(實相)が欲しいと言われたということになるでしょう。
やがて、現象無し、不完全無し、観る観ない、自覚するしないという心も無い、實相はそのまま円満であり、この實相は完全なるがゆえに自ら出てくる力をも備えているということを神からの啓示によって知られたのでした。そして、そのとき初めて「心」というものから解放されて、「生かされている」という喜び、つまり感謝が湧き起こられたのでした。「實相は完全であるからこちらの力は何も要らない」というふうに、喜ぶのを遠慮しないことが「實相を観ずる」とか「自覚する」とかいうことであったのです。
ですから、實相にはこちらの力というものが要らないのです。ただただ實相のみの世界なのです。實相を現象に顕すといっても、實相が自分で顕れて来るのであり、實相だけがすべてのすべてなのです。顕れる、顕れないは現象であって、顕れても顕れなくてもどちらも無いのであって、實相だけを喜んでいればよいというのが「今を生きよ」ということなのです。實相は「今」完全であり、實相だけでよい、というのが「今」ということなのです。顕すための心や時間というものは要らないということなのです。
「観ずる」ということについては、生長の家で行う行(ぎょう)の一つである「神想観」がまず思い浮かぶのですが、「神想観」は「神を想い観る」ということと同時に、「神が想い観給う」ということでもあるようです。神想観を始めるときに唱える「招神歌」にありますように、すべては神が為し給うのでありますから、自分はどこにも要らないのです。観ることも、自覚することも、感謝することも、すべては神が為し給うているのです。
「自覚する」ということも、「自覚」という言葉は自ら覚めると書くように、はじめの初めから、宗教をやるやらないとか祈る祈らないよりも以前から、そして今も生きとし生けるものとして生かされている實相なるものが「自ら目覚めて出てくる」ということなのです。内なる實相が自ら出てきて、生長の家の話を聴き、内なる實相が自ら出てきて、聖典を読んでいるのです。すべては外から来るのではないのです。内なる實相がそのままどんどん出てくるのに任せればよいのです。出てくることが、自覚が始まっているということなのですから、それを勝手に自分でああしてから、こうしてからと邪魔をしないことがすばらしいのです。ただただ喜んでいるだけでよいのです。言い替えれば、喜んでもよいということなのです。實相だけでよいと喜んでいることが感謝ということなのです。「感謝せよ」とは「喜べ」ということに他ならなかったのです。喜びとは自分は要らなかったということであり、すでに完成している實相を遠慮しないこと、そのままでよいことを遠慮しないことであったのです。遠慮しないのは神のためであって自分のためではないのです。そのまま今喜んでよいということでなければ、神は今完全な世界を生んでいないということになり、不完全なものしか生めなかったものは神とは言えませんから、神は無いということになってしまうのです。ですから、實相円満、そのままでよいということを認め喜ぶのは自分のためではないのです。神のために遠慮しないようにしなければならないのです。喜びましょう。喜びましょう。すべての不完全は不完全なるがゆえに無いのです。無いということは、今赦され切って、生かされているということなのです。
(つづく)
314
:
「訊け」管理人
:2012/03/31(土) 08:03:10 ID:???
(つづき)
ああしてから、こうしてからは止めて、今そのまま素っ裸のままで喜ばせてくださるのが生長の家の御教えなのです。
どんな善いことでも、ああしてから、こうしてからは要らないのです。善いことをたくさん身にまとっていくと、だんだんと裸でなくなっていくのです。実はこの善いことが曲者なのです。「感謝してから」「我を消してから」「懺悔してから」「潜在意識を浄めてから」「教えを実行してから」「実感してから」「愛行をして徳をたくさん積んでから」「先祖供養してから」「祈ってから」「信仰に徹してから」「實相を観じてから」「實相を自覚してから」……。まだまだ立派な善いことを掴んではいないでしょうか。それをすべて吐き出して、脱ぎ捨ててしまいましょう。死んだつもりになってすべてを捨てるのが生長の家です。そしてゼロでよいのが無我ということなのです。ゼロということは何も要らないということです。自分も要らないということです。
315
:
a hope
:2012/03/31(土) 09:02:43 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
燃え滓(かす)の人間になるな
「自分はまだまだこれからだ」と思う者には、行きづまりということがありません。
もうそうとう偉い人でも、慢心するということがありません。
今、どんなにできが悪くとも、まだまだこれから偉くなり、上手になると思えば勇気が出、励みが出てまいります。
「自分はまだまだこれからだ」と思う人には、今後どれだけでも引出し得る中味があるのです。
今後どれだけでも引出し得る値打が残っているのです。
「私はできるだけのことをしました。もうこれでわたしの力はおしまいです」
と言うようなことでは、もう進歩の行き止りです。
もう燃え滓になった石炭のようなものです。
人間は燃え滓になってはなりません。
どれだけ燃やしても火力の続く無限の石炭にならねばなりません。
それには、自分は「まだまだこれからだ」と思うようにすることが肝心です。
(つづく)
316
:
a hope
:2012/04/01(日) 06:43:58 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
自分の中に神の力が
「自分はまだまだこれからだ。」こう思う人には失望はありません。
どんなにいま失敗していても勇気がくじけることはありません。
どんなに今成功していても、どんなに今偉くても、自分はまだまだこれからなのです。
「自分はまだまだこれからだ」という言葉には、どれだけ偉くなっても、
まだまだ善くなる力を含んでいます。
それには無限の力を含んでいるのです。
無限の力は神の力ですから、「自分はまだまだこれからだ」と言う人は、
自分の中には神様の力があると、自分自身を誉めているのと同じことです。
(つづく)
317
:
「訊け」管理人 (1/3)
:2012/04/01(日) 14:37:40 ID:???
WEB榎本恵吾記念館「葩さんさん」より謹写――
實相は完全円満でありますから自分で顕れ出てくるのであります。そのことを喜んだら我が消えているのです。
先日も、練成会の後半になって、
「先生、感謝が大切だということが解りましたが、感謝ができないのです。それは我があるからだと解りました。先生この我はどうしたら消えるのでしょうか?」
と、ある方が訊いてこられました。私は、「それは實相のそのまま円満完全を喜べば、その後で我が消えるのです。生かされていてよいのだということを遠慮しないことですよ」
と話してさしあげました。今考えてみますと、感謝すなわち實相というものは實在として宇宙に充満し、同時に我が内にも充満しているのですから、
「あなたに感謝してもらわなくとも、私は厳然として在り続け、輝き続けているよ」
と常に言っているのであります。それこそ、「感謝は今日も元気いっぱい」なのです。感謝は神でありますから、感謝のあるところ神があり給い、神のあるところ感謝があるのは自然なことなのであります。
神は何に感謝し給うのでしょうか。神は絶対者であり、すべてのすべてでありますから、神以外には何もなく神には相手なるものは無いのですから、太陽が自ら光を発しているように、神は自ら感謝の輝きそのものであり給うのです。その神の延長、展開が神の子人間でありますから、神の子人間もまた感謝そのものであり、その感謝は永遠に久遠に不滅なのです。ですから「感謝は今日も元気です」ということになるのです。今日もまた、内なる感謝を讃えようではありませんか。
感謝は内に在す神でありまして、内より自己展開し給うのです。「光は東方より」という言葉がありますが、それは「光は当方より」ということであります。
(つづく)
318
:
「訊け」管理人 (2/3)
:2012/04/01(日) 14:39:15 ID:???
(つづき)
生長の家は「我をなくせ」という教えではないのです。我が要らなくなる道なのです。すでにはじめの初めより完成そのものである實相を説くということは、我が要らなくなることなのです。この實相の完全なる相を照らし出すことのできる教えであればこそ、感謝の神示と言われている「大調和の神示」が「完成の燈台の点燈者の神示」と言われている所以なのです。すでに、久遠に、平等に、今ここに生きとし生けるもののそのままの相の中に「完成」なるものを拝んでいるのが生長の家であり、このことが生長の家が感謝の教えである所以なのです。
神は感謝したもののところには顕れるが、感謝しないもののところには顕れてくれないというふうに、「大調和の神示」の中の神を受け取っているとすると、これは大変な間違いであります。それでは「大調和の神示」は完成を照らし出し、拝むところの温かさの極みの神示ではなくして、冷たい限りの神示になってしまわざるを得ません。平等完全の神を観ていないところには、我は消えないのですから、結局、永遠に我が消えることはなく、神は永遠に顕れ給うことはなくて、生長の家ほど神に遠い教えはない、ということになってしまいます。それどころか、「神はなぜ平等に感謝ができるようにすべての者を生んでくれなかったのか」という不足と神への裁きの気持ちしか出てこないのであります。このような神を相手にしていますと、感謝の喜びは永遠に味わうことは出来ず、永遠に神に来ていただくための準備ばかりしていることになってしまいます。こういう場合、今は神は出てきていないということになりますから、その準備というのは我がやっているということになってしまいます。そして一方では我の消えているのが感謝であると言われてしまって、まったく何が何だかさっぱり解らないモヤモヤとした霧の中にいるような状態になってしまうのです。
そうではないのです。たとえば聖経『甘露の法雨』を開きますと、「招神歌」が出てきます。ここでは、「生きとし生けるものを生かし給える御祖神」とうたわれています。この大神はあれこれと過去に努力してきたことの結果を観て、そしてその成績いかんによって生かす神ではないのです。神は完全にして平等に生かし給うている神なのです。そこに實相なる世界がうたわれているのです。その實相の相を知るとき、感謝そのものとなっているのです。ですから、感謝せよとは、生きとし生けるものとして、完全円満に生かされていることを喜びなさいということなのであります。ですから、無条件の神、現象のない神を知ることが感謝のすべてなのです。
谷口雅春先生が、神から啓示をお受けになったときの神のお言葉は「天地一切のものに感謝せよ」というお言葉ではありませんでした。むしろ「感謝できていないという不完全なお前は無いのであり、完全円満、そのまま神であるお前だけがあるのだ」という意味の啓示の言葉だったのです。それをお聴きになったときに、谷口雅春先生が感謝そのものに甦っておられたのです。ですから聖経『甘露の法雨』には「大調和の神示」よりも先に「招神歌」が書かれているのであります。また、四部経では愛行のための聖経ともいうべき「聖使命菩薩讃偈」よりも先にこの「招神歌」が書かれているのです。素直にハイと生かされていることを受け取るところから、上の空にならない聖経の読誦が始まるのです。
(つづく)
319
:
「訊け」管理人 (3/3)
:2012/04/01(日) 14:40:12 ID:???
(つづき)
生長の家の教えの根本が感謝であるということは、たとえ生長の家の聖典に、感謝という言葉が出てこない場合でも、そこに書かれていることを素直に受け取っていけば必ず感謝が湧き出てくるということです。
例えば、「大調和の神示」は昭和6年9月27日の神示となっています。一方、生長の家の教えの立教はご存知のように昭和5年3月1日です。生長の家が立教したときには「大調和の神示」は無くて、その1年半後に生まれたということになっているのです。立教のときにあったのは、おそらく自由詩として生まれた聖経『甘露の法雨』でありましょうが、この聖経『甘露の法雨』の「神」から「人間」に至るまでの文中には「感謝」という言葉は1度も出てこなくて、ただそこには神の天地創造の完全一元の世界、すなわち實相が説かれているのであります。そこには我の消える道、我の要らなくなる道が書かれていたのです。それで「感謝」という言葉の一語も出てこない文章を読んだ人の中に感謝が湧き起こり、大調和の姿が現れる体験が続出したのです。感謝のあるところに神があらわれ、健康となり、繁栄となり、調和となったのです。それは感謝は實相であり、神そのものであるからなのです。
ですから、生長の家の集まりのあるところには、どこに行っても「實相」という掛軸か額が正面に掲げられているのです。特に「感謝」と書かれていなくとも、實相は感謝そのものであるからなのです。
とにかくそのまま完全の實相を喜べという温かさの極みにおいて天降っているのが「大調和の神示」であります。「神に感謝しても父母に感謝し得ないものは神の心にかなわぬ」と書かれていますが、どこが、何が神の心にかなわないのでしょうか。それは、神様からすれば、「初めのはじめから無条件に、生きとし生けるものとして生かして1度も離れたことなく、神である私のいのちが現われてお前となっているのに、今さら感謝したり、拝んだりしなければ現われないと思っているのか、そんな離れた想いが私にはさびしいよ」というほどの意味なのであります。「私(神)のほうはいいから、父母をはじめあなたを取り巻くすべてのものに感謝してくれれば私はいちばん嬉しいのであり、すべてのものもまた私であるから私は嬉しいのだよ」ということなのです。
「神示」そのものがすでに神が顕れて「神示」となっているのであるし、父母への感謝が第一と書かれているのに、「皇恩に感謝せよ」から始まっていたり、神はすべてのすべてで到らないところはどこにも無いのに、感謝のあるところにのみ顕れるとなっていたり、あの「大調和の神示」は矛盾だらけであるということも言えますが、とにかく矛盾をも省みず、「喜べ、喜べ」と神が言ってくださっている温かさの極みの姿であるのがこの神示なのです。
また、「大調和の神示」には實相という言葉が出てこないから「感謝したら……」と書かれているのです。實相という場合は、人はそのまま神であり、感謝そのものであり、そのままを喜ぶだけでよいということになるのです。このことについては、また別の項で多少詳しく述べさせていただくことにいたしましょう。
<終了>
320
:
ハマナス
:2012/04/02(月) 00:14:17 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
すみません、子供達が帰って来ていまして、しばらく投稿をお休みしていました。
今日から、4月ですね。新学期、新入社員、心も一新し、何となく嬉しくなります。
四月 若葉寄り繁る 『生命の實相』第37巻P.92より
四 月 一 日
「なんという歓びであろう。自分の棲んでいる宇宙には、自分の意志に反対する
意志は一つとして存在しないのである。
なぜなら、自分は神の子であり、宇宙生命は神御自身であり、宇宙は神の支配下に
あるからである。われ祈れば天地応(こた)える。神は常に我が祈りに応えたまい、
我がために処を備え給い、宝を備え給い、時を得せしめたまい、すべての必需物(な
くてはならぬもの)を与えたまうからである。」
「実相を観ずる歌」 谷口雅春先生・作詞
二 神は生命(いのち)して、吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを生かし、すべては吾れを生かす。
神は愛にして、吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを愛し、すべては吾れを愛す。
神は智慧にして、吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを知り、全てのもの吾れを知れり。
神はすべてにして、吾れは神の子なれば、
吾れ祈れば天地応え、吾れ動けば宇宙動く。
吾れ座す妙々実相世界
吾身は金剛実相神の子
万ず円満大調和
光明遍照実相世界。
321
:
SAKURA
:2012/04/02(月) 02:42:21 ID:HrXENstc
皆様 へ
遅くなりました…今日で【仏国土の建設】シリ−ズは、終了です…。
>279>287>291>292>305>306続き…
■■ 仏教典 より
■ 第3章 【仏国土の建設…】
第 3 節 仏の国をささえるもの
4.かって殺人鬼として、多くの人々の命をあやめ、世尊に救われて仏弟子と
なったアングリマールヤ(指鬘しまん)は、その出家以前の罪のために、托鉢の途上で、
人々の迫害を受けた。
ある日、町に入って托鉢し、恨みのある人びとに傷つけられて、全身血にまみれながら、
やっと僧坊に帰って、世尊の足を託して喜びのことばをのべた。
「世尊、わたくしはもと、無害という名でありながら、愚かさのために、多くの人の
命を損ない、洗えども清まらない血の指を集めたために、指鬘の名を得ましたが、
いまでは三宝に帰依してさとりの智慧を得ました。馬や牛を御するには、むちや網を
用いますが、世尊は、むちも網もかぎも用いずに、わたくしの心をととのえて
下さいました。
今日わたくしは、わたくしの受けるべき報いを受けました。生も願わず死も待たずに、
静かに時の至るのをまちます。」
5.マウドガルヤ−ヤナ(目連)はシャ―リプトラ(舎利佛)と並び称せられた
世尊の二大弟子のひとりであった。世尊の教えが水のように人々の心に浸みこむのを見て、
異教の人々がねたみを起こし、いろいろな妨げをした。
しかしどんな妨げも、まことの教えの広まってゆくのをとめることはできないで、
異教の人々は、世尊の手足をもぎ取ろうととして、目連をねらった。
一度ならず二度までも、その人々の襲撃を避け得た目連も、ついに三度めに大勢
の異教者に取りまかれて、その迫害を受けることとなった。
目連は、骨も砕け肉もただれ、暴逆の限りを静かに受け忍んで、さとりの
心に何のたじろぎもなく、平和な心で死についた。
此の章は「終了…」
322
:
a hope
:2012/04/02(月) 11:24:27 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
自惚(うぬぼれ)と自尊は異(ちが)う
自分自身で、自分を誉めるような人になれとは、自惚で、
できもしないものをできたと思い、ちょっとぐらいできたので、
これで神の子のでき栄えだと思い上がっていばることではないのです。
自分を神の子だと思うことは、言い換えれば「自分はまだまだこれからだ」
と思うことなのです。
誉められていばる者は、自分がまだまだこれからいくらでも
たくさん能力の出る神の子だということがわからないのです。
「自分はまだまだこれからだ」ということと「自分はまだ駄目です」と
謙遜(へりくだ)ることとは表と裏です。
「自分はまだ駄目です」ということは、今のようではまだ駄目だから、
これからまだまだ力を出すという意味ではありましょうが、
「自分はまだ駄目です」といえば、「駄目」という悲観的な言葉の力で、
心が沈んでしまいやすいのです。
同じ意味でも「自分はまだまだこれからだ」と心の中で言うようにすれば、
力が湧然(ゆうぜん)と湧き出てまいります。
これを言葉の力と申します。
皆さん、常に「自分はまだまだこれからだ」と考えて、
今日は昨日よりも上手に、明日は今日よりも上手に、仕事でも、
勉強でも熱心に精出してやることにいたしましょう。
(つづく)
323
:
SAKURA
:2012/04/02(月) 19:51:50 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは
今日も春風に誘われて“心の探求”です・・・。
いつものように精神統一・・・my・heart・・・only!
■【幸福を招く365章】
―――すべての人の善を信ぜよ―――
神は常にあなたと偕にある。憂えること勿れ。何処におろうとも、
何をしていようとも神はあなたを護ってい給うのである。如何なる危急の場合にも、
真に神の無限力を信じて、呼べば必ず答え給うのである。
併し、真に神の無限力を信じなければならぬ。
信じない祈りには派長が合わぬのである。
常に神の御救いに応ずることが出来るように、
深き「神の子」の自覚を呼び起こすようにつとめよ。
常に、「われ神の子なり、常に護り給う」と心のうちに唱えよ。
而(しか)して同時に、その常の譲りに感謝報恩するために、神徳を人に
伝えなければならぬ。何か神様のお役にたつことをしなければならぬ。
(谷口雅春著)
■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2
15>投稿…
此処に私なりの【解釈…】をしてみましたが…?
宜しかったら…?そちらで拝読して頂きますと幸いです…。
再合掌
324
:
「訊け」管理人
:2012/04/02(月) 20:54:26 ID:???
WEB榎本恵吾記念館「葩さんさん」より謹写――
生長の家では、恨み心や憎み心、赦せない心があると完全な實相が出てくることを邪魔をしてしまって出て来れなくしている、と仮にそういう表現をするときもありますが、その恨みや憎みや赦せない心も神様が取り去ってくださるのであるというのが本当の教えなのです。なぜなら「神の国は汝らの内にあり」であり、神の国、即ちはじめのはじめからそのままで善いという實相はいつも私達の内に厳然とあり続けているのであり、私たちは常に神に愛され、生かされ、赦され続けているからです。神はいつもこちら側にいてくださるのが大前提であればこそ、懺悔さえも神様に任せることができるのです。憎みや恨みや赦せないという心が現実にあって、その向こうに神を追いやってしまってはいけないのです。全托するということも全托できるのでなければまことの全托とは言えないのです。こちらの力は何も要らないのであり、神と一度も離れたことのない、晴れ渡って、澄み切って、神と一つである姿が先であって、それは永遠の昔から、今も、久遠の先の先まで変わることのない實在の實相であるというところに全托という雰囲気が生まれるのであります。
生長の家には「浄心行」という行がありますが、これは「懺悔」の行であると言えるでしょう。この中身をよく見てみますと、はじめに「實相」と書かれた掛軸を礼拝して、まず神の子そのままの円満完全で未だかつて罪を犯したことのない自分を喜び、拝し、受け入れ、その次には「招神歌」を唱えて、無条件に今、神に生かされていることを感謝します。それが終わると、いよいよ焼却の行事に入りますが、そのときには聖経『甘露の法雨』を読み続けています。そして最後に「光明思念の歌」を唱えて、暗は無く、光のみの世界が本当であること、未だかつて、犯された罪もなく、報いられなければならない罪もない世界であったことを確認して終わるのです。どこにも罪を認めたすがたは無いのであります。あらゆる罪は、すでにそのままでよい姿である完全の實相を包み隠して喜ぶことを遠慮したところにあるのであって、過去である現象を責め足りなかったところにあるのでは断じてなかったのです。實相の完全を遠慮しないで喜ぶことが、生長の家のあらゆる行事の根本となっているのであります。
普通なら懺悔をして心が浄まってはじめて、神に顔向けができるのであって、それから神をよぶ歌が唱えられるのが順序でありましょう。生長の家の浄心行というのはこれとはまったく趣を異にしていると言わなければならないのです。「浄心行」とは「心を浄める行」と読むこともできますが、実際にやっている中身から言えば、浄い心が行う「浄い心の行」ということになっているのです。
325
:
ハマナス
:2012/04/03(火) 00:36:48 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
本 当 の 自 由 (『新版 生活の智慧365章』P.117)
「吾々は“無限”を求める存在であると同時に,”自由”を求める存在である。何故なら
人間は神の自己顕現であり、本来“無限の自由”を内に蔵するからである。「自由」を、
何か自分を縛るものを破壊することだ、と考える人があるが、本当の自由は、そのような
対立観念、相対的な物の考え方では得られるものではないのである。本当の自由は「絶対者」
となることによってのみ得られる。自分が神の自己顕現であり、「絶対者」の自己実現である
との悟りによってのみ得られるのである。
それ故に本当の自由は、神想観によってのみ得られる。何故なら吾々は神想観によって自己
が神と一体であり、絶対者と一致であり、環境とか外物とか見えるものも「他物」ではなく
自己の心の顕現であると悟ることができるからである。それだから神想観は真に
最高の尊き神人合一の行事であると共に、何人も“本当の自由”を求むる限り修しなければ
ならない修行であって、生ま易しいものではないのである。」
感謝合掌
おやすみなさい。
326
:
ももんが
:2012/04/03(火) 02:07:22 ID:XXCuaQns
白髪の翁・三蔵法師篇
〜大唐西域記〜
十日目にナーランダー寺の人々が、四人の大徳を使わして、三蔵法師を迎えに来たので、いっしょに行くことになった。七ヨージャナばかり進むと、ナーランダー寺の荘園に着いた。ここは目連尊者が生まれた村である。法師はここで食事をした。暫くすると、さらに二百余人の僧侶が千余人の信者と旗や日傘や花や香をもって出迎えに来、みなで三蔵法師を誉めたたえ、まわりを取り囲みながら、ナーランダー寺に入った。ナーランダー寺の衆僧はすでに集まつていて、ともに三蔵法師と会見した。上座の上の方に別に牀机をおき、三蔵法師はそこに座らせられ、衆僧もおのおの座についた。座り終わると維那が板木を打って衆僧に、
『いまより、法師はこの寺はに住むことになった。寺の中のすべて僧が用いる法物・道具は、ことごとく共用である。』と唱えさせた。
それから経律をよく解し、威儀正しい老人でもなくあまり若くもない僧二十人を選び、三蔵法師をつれて正法蔵に会見させた。
正法蔵とは即ち戒賢法師(シーラバドラ尊者)のことで、人々は彼を尊重して名を呼ばず、正法蔵と呼んでいるのである。
こうして法師は人々とともに正法蔵に拝謁し師事することになった。そこでつとめてうやうやしく敬礼し、インドの作法に従って膝と肘で進み、足を鳴らし額を床につけ礼拝し、丁重に挨拶と尊敬の言葉を述べた。すると正法蔵は広く牀机をおかせ、法師や諸僧を座らせ、
正法蔵:『そなたは何処から来られたか』と尋ねた。
三蔵法師:『私はチーナ国から参りました。師のみもとで「瑜伽論」を学びたい一心でやって参りました。』
と答えると、正法蔵は聞き終わって涙を流し、弟子のブッダバドラ尊者を呼んだ。彼は、正法蔵の甥で、年は七十余歳、広く経論に通じ談話に巧みな人であった。正法蔵が、
『そなたが人々とのために、私の三年前までの病気の因縁について話してあげてください。』
と言うと、ブッダバトラは泣いて涙をぬぐいながら、つぎように、説明した。
正法蔵はもとリューマチスを患われ、発作のたびに手足が痛んで火に焼かれたり刀で刺されるようでありました。
急に発病したかと思うと治り、そんな状態が二十余年も続いたのです。もっともひどかったのが三年前のことで、苦痛ははなはだしく、御自身の体を厭われて断食して自殺しようとされました。ところがある夜、夢に三人の天人が現れました。その一人は黄金色、二人目は瑠璃色、三人目は白銀色で、風采うるわしく、その服は軽やかで輝いていました。三人は正法蔵に近づいてくると、
『そなたはみずから身を捨てようとしているのか。経典には身に苦があることを説いているが、身を捨てることは説いていない。そなたは過去にかつて国王となり、多くの国民を悩ませたので、いまその報いを受けているのである、いまこそよろしく過去の罪業を反省して、至誠をつくし懺悔すべきときである。苦しいときは安んじて忍び、つとめて経論をひろめ、みずから罪業を消すべきである。いまだだ身を厭うて死んでも、苦は永劫に尽きないであろう』
といった。正法蔵は聞き終わって心を込めて礼拝すると、その金色の人は碧色の人をさして、
『そなたは知っているか、この人こそ観自在菩薩である』といい、また銀色の人をさして、
『この方は慈氏菩薩である』と言われた。
正法蔵は慈氏菩薩に礼拝して、『私はいつも御身もとに生まれ変わることを願っております。この願いは達せられましょうか』というと、
『そなたが正法を広く伝えたならば、後世にはその願い達せられよう』と答えらた。そのとき、金色の人は、 『私は文殊菩薩である。私たちはそなたが空しく身を捨てようとしており、それが利益とならないのをみて、いまここに来てそなたに翻心をすすめているのである。そなたはいまこそ私の言葉に従い、正法『瑜伽論』などをあまねくまだ知られていない地方に及ぼしなさい。そうすればそなたの身はしだいに安らかになるであろう。使者を遣わしえぬことを憂うる必要はない。チーナ国に一人の僧がおり、大法を流通せんことを願いそなについて学びたいと心から欲している。そなたは待っていて、その者に教えなさい。』といった。
正法蔵は聞き終わって礼拝し『謹んで御教えに従います』
と申しあげると、三人の姿はもう見えなかった。しかしそれ以来、正法蔵の病苦は忘れたように消えてしまったのです。
〜つづく
327
:
ももんが
:2012/04/03(火) 02:10:30 ID:XXCuaQns
>>326
〜大唐西域記②・つづき
これを聞いて衆僧は、みな希有のことであると称嘆せぬ者はなかった。三蔵法師は親しくこの話しを聞いて、あまりの喜びに心高ぶりを抑えることができなかった。さらに礼拝して、
『もしお話のとおりであれば、私は全力を尽くして勉強させていただきたいと思います。どうか尊師よ、御慈悲をもってお教えください。』とお願いした。
正法蔵はまた、
『三蔵法師よ、そなたは何年かかってここまで辿りついたか?』と尋ねられた。『三年でございます。』と答えると、まさに夢の時期と合致している。正法蔵は種々教え諭して三蔵法師を歓喜させ、もって師弟の情を述べ、三蔵法師は話しが終わってから退出した。
328
:
a hope
:2012/04/03(火) 08:03:15 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
思うとおりになる世界
私達は思う通りの人間になり、思う通りの運を招(よ)ぶことができるのであります。
運が悪いという人は、みな自分の思いが悪いのです。
だから私達は善い事ばかり思うようにしましょうね。
そして自分は立派な「神の子」だと常(いつ)も思うようにしましょうね。
私達みんなの心の中には、「みおや神様」のお力がいつも一杯に満ちていて、
自分の思うとおりのものを造ってくださるのです。
ですから、あなたがいつも「自分は神の子だ、神の子はなんでも都合よくできる」
「神の子は素直だ」「神の子には病気が無い」「神の子はいつもしあわせである」
などと善いことばかり思うようにしておれば、神様がそのとおりにしてくださるのです。
嬉しいことではありませんか。
「わたしは神の子だから、神の子らしくなるのだ」とただ思っているだけで、
本当に神の子らしくなって、あなたのお顔まで明るい立派なお顔に変わり、
成績もよくなり、身体(からだ)も達者になってくるのです。
それが、人間は「神の子」「仏の子」である証拠なのです。
善き思いをすれば、いくらでも善きことが出て来るのです。仲よくすれば、
神様、仏様の姿が私達の心の中(うち)に、健康の中に、運がよくなることの中に、顕れられるのです。
どうぞ皆さん、私達はこれから、みな善い事ばかり思うようにして、
皆仲よくして「神様」がお造りになったとおりの楽しい世界に私達のお家を造りましょうね。
あなたが、「私は神の子である」としっかり思い、また他の人も各自に「私は神の子である」としっかり思い、
互いに敬って相手の悪口を言わず、互いに仲よくするだけで、私達の住む家が、住む世界が美しく変わってくるのです。
あなたのお宅(うち)でも、お父様お母様がご機嫌よくしてあなたを可愛がってくださる時には極楽のようでしょう。
お父様がご機嫌が悪くて叱られた時には地獄のようでしょう。
私達は、みんな自分たちの心が変ってくるだけで、こんなふうにこの世は変わってくるのです。
自分が「神の子」であるということが、はっきりわかった人の言葉は、しっかりしてきます。
また、その人の考えは正しく間違はないのです。
そうしてその人の行いは美しくなり、その人の心はいつも勇(いさ)んでいるのです。
顔はいつもにこやかで、その言葉つきは晴れ晴れしてきます。
ですから、その人と話す人はみな喜ばされ、その人の言葉を聞く人はみな力強く思い、
その人は誰にでも頼られる人になるのです。
(第7章「生命の生かし方」終り、次回より第8章「自分の生かし方」へ)
329
:
ハマナス
:2012/04/03(火) 12:36:11 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんにちは。今日も皆さまにとって、素晴らしい一日でありますように。
人生誕生の輝かしい使命 (『新版 生活の智慧365章』P.118)
「生命の進化と云う事は、個生命の発現によってのみ可能なのである。宇宙大生命が
如何に荘厳に宇宙に充ち満ちていようとも、若し「個生命」が発現しなかったなら、
何処にも進化ということは得られないのである。この事はいみじくも、神には個生命
必要だということをあらわしているのである。まことに神には人間という自意識を
もった個生命が必要であり、それによってのみ「本当の自由」を体験し得給うのである。
若し人間が宇宙に誕生しなかったならば、どんなに日月星辰(じつげつせいしん)が
宇宙を荘厳に運行しようとも、草木鳥獣が美しき姿をあらわそうとも、それは単に
機械的に運行しているか、本能によって、自由なしに、美しさをあらわしているに
過ぎないのである。宇宙に人間が誕生した事によってのみ、神は神御自身が人間と
現れて、意識的な自由を体験し得給うのである。人間の使命の偉大なることは
これによっても明らかである。神は人間なくして生長も進歩も自由も体験することが
できないのである。」
感謝合掌
330
:
「訊け」管理人
:2012/04/03(火) 18:25:01 ID:???
弊ブログより
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65616219.html
#more
――――――――――――――――――――――――――――――――
「総裁を追い出す方策」あります。下記は聖典準拠の「追放策」とな
りましょうか。そして下記以外の聖典準拠の追放策ですが、少なくとも
愚生蔵書90冊内には、存在しないものと診ます。
さて、総裁追放に向けてやるべきこととは何なのか?「悪あり」「そ
れを除去すべし」の考え方は果たして、機能するのか?
(註:なおこの「追放策」なる言葉、やや方便的に表現されております。
愚生意見とやや趣きが異なります)
――――――――――――――――――――――――――――――――
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.. ::::::::::::::::::::::::::::::::::);;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ⌒ヽ;;;;;ノ.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.ノ:.... :.:.:::.:::.:::.::.::(;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;(:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.;,:.:-‐:::':::::::::::::.... :::.:::.::.::ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;r‐、;;;;;;;;;;;;;;):.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.( ::::::::::::::::::::::::::.... :::::::::`'''‐‐--''''つ;;;;;;;;;;;;;;;
;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ:. ̄´:.:.:.(;;;;;;;;;;;;ノ:.:.:.:.:.:..:.:.:.:.:.:.:.) :::::::::.:.:.:.:.:.:.:.:.:.... ::::.:::.:::.::(´;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
/⌒''''´: :.:.:.:. :.:.:.`'''''´ :.:.:.:.r'⌒ー-:.':.. :.:.:.:.:.::::::::::::::::::::.... :::::::ヽ、;;;;;;:::::-‐
. : : : :.:.:.:. :.:.:. :ノ.:.:.:.:.:. :.:.:.:.:.:.:.. ::::::::::::::::::::::::::::::::.... :::.:::.::.:::.:::.:::.
. . : : :,:,:. :,:,:. :..:.:.:.:.:.:.. :.:.:::::::::.. ::::::::::::::::::::::::::::::::::.... ::.::.::.:(
: . : : : : :.:. :.:.:. :.:.:.::::::::.. :::::::::::::.. ::::::::::::::::::::::::::::::::::::.... :.
: . . : : : : : :. :.:.:. ::::::::::::::.. :::::::::::::.. :.:.:.:.:::::::::::::::::::::::::::::....
: . : : : : : : : : .
. : . . .
<「迷い」はどうしたら消えるのか>
心の「迷い」を無くするには、「迷い」を捉えて破壊しようと力む事は要
らないのである。それは却って自分の心が「迷い」を掴むことになって益々
大いに「迷う」ばかりである。「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」
から一転せしめて、「人間」の本来完全なる相を見詰めるようにすれば好い
のである。自分の病気を癒すには、自分の病気を見詰めないで、自分の実相
の完全さを見詰めれば好いのであるし、他の病気を治すには、彼の病気を治
そうとか、病気をどうしようとか思わないで、ただ彼の完全さを見詰めれば
好いのである。全世界の人々が、ただ、他の善のみを見詰めるようにすれば
忽ち平和は来るのである。
〝自分が〟祈る力や、自分の思念力によって不幸や病気を退散せしめよう
などと思ってはならないのである。われわれが善き言葉で祈り、善き想いを
想念したならば、あとは神が成就したまうのであると知らなければならない
のである。それは種を蒔くのと同じことである。善き言葉又は善き想念を述
べることは、大宇宙の創化力の沃地に、善き種子を蒔くことになるのである。
その種子を育て生長せしめたまい実を結ばしめ給う力は神にあるのである。
吾々は自分の力で、蒔いた種子から茎や葉を引張り出そうなどと考えてはな
らないのである。「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうの
は神の力である」と念じて、静かに神に全托せよ。
『幸福を招く365章』186項より謹写
331
:
SAKURA
:2012/04/04(水) 00:35:47 ID:FEa/NNlc
皆様 へ
■「生命の実相…」より
−−−−−【自己内在の光】−−−−−
生長の家の光明書籍類は諸君自身の内に宿る力を指示するために
執筆されるのである。
他に依頼する心を持つ者は躓くであろうが、自己の内に埋積されたる宝庫の方へ
幸いに振り向く人は救われるであろう。
救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在り所を指示するだけである。われわれの光明思想に諸君の心が転向
した結果病気が治るというのも諸君自身がそういう思想になった結果であって
わたしはただ指さすのみである。
文章の力による指さし方が親切丁寧を極めているので、文章の力が
病気を治したともいいうるが、くわしく言えば文章の力は、よく諸君の心を
振り向けただけである。そこに自己内在の光を見、
そこに自己内在の無限の力を見出すのは諸君自身の力であって
わたしの力ではないのである。光栄は諸君自身の「内」にこそ
帰せられるべきものであって、わたしはただラッパであり、指南車である。
指を月とまちがえわたしの書いた符号を本物と取り違える者は
実相を見ることができないであろう。
わたしはただ諸君を振り向かすために、文章で叫ぶだけにすぎないのである。
わたしという人間を尊敬せずに真理こそ尊敬せられたいと思う。次に掲ぐるは、
光明思想の講習会に参加した講習生がその席で衆人環視の中で起ち上がって
話した体験談であって、速記者は超中根式速記の名手倉橋公宣君である。
(一部抜粋…)
再合掌
332
:
a hope
:2012/04/04(水) 10:19:24 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
第八章 自分の生かし方
自分に深切にせよ
皆さんは「他に深切にせよ」という言葉を、聞きあきるほどきいたことでありましょう。
しかし吾々の教えではまず「自分に深切にせよ」と教えるのです。
もし「自分に深切にせよ」と教えて下さった先生が多かったならば、
自分を殺す戦争など起こさなかったでしょう。
他に深切にすることなら、どうすればよいのか判るが、
「自分に深切にする」のはどうしたら好いか判らないとおっしゃる方があるかもしれません。
それではここに「自分に深切にする」そのやり方を考えてみましょう。
(つづく)
333
:
下流のしんと
:2012/04/04(水) 10:57:20 ID:NS7./ufw
>330
訊けさんの内容、いいとこまで来ているんだけど、、、後一歩。
もう少し内容をツメラレルよ。現象なしのものすごいバーージョン!がありまっせ。つーか、自分が今、感動中の感動の本紹介になるけど。
どこで書くかな==?? どこかいいとこある??
334
:
ハマナス
:2012/04/04(水) 21:30:43 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
昨日は全国的に強風でたいへんでしたが、今日は穏やかな一日となりました。
困難にいどむ (『新版 生活の智慧365章』P.119)
「人間の自由は、彼が環境や境遇の奴隷でなくなったときにのみ得られるのである。
環境がどうだから出来ないとか、こんな境遇では迚(とて)も思うようにならないとか
云うのでは、環境や境遇の奴隷であって、自由の主体である“神の子”の自覚を得た
ものということができないのである。もっと神想観をして絶対者との一体感を深めなさい。
全ての環境・境遇は、その人が或る能力を発現さすための運動用具のようなものである。
木馬や鉄棒(かなぼう)や平均台や吊環などはいずれも運動の選手がその網力を発現
さすために是非無くてはならない環境又は境遇であるのである。運動の選手はみずから
そのような環境・境遇の条件をもとめて、それを克服し、自由に肉体の運動美を発揮
するための用具とするのである。そのとき運動選手は主人公であり、自由の主体である。
ところが学校の体操の時間に学生みずからはそんな運動をやりたくないのに課せられて、
嫌々ながら、木馬の練習や鉄棒の練習をやらせられたとしたならば、学生は強制された
のであり、自由を奪われた訳である。同じ木馬や鉄棒で運動しながら前者は主人公であり、
後者は自由を奪われた奴隷である。その相違はどうして生ずるか。人生の勝者となるものは
受動を飜(ひるがえ)して、能動をすることにあるのである。常に受動である者は奴隷で
あり敗者であるが、能動的にみずから進んで困難にいどむ者は常に勝者であり、主人公で
あるのである。」
感謝合掌
335
:
a hope
:2012/04/05(木) 10:17:55 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
腹を立てるのは自分に不親切
「自分に深切にする」とは、もっと十分自分のことを考えてやることです。
たいていの人は、いい加減不深切に自分自身を扱っているのです。
たとえば、腹を立てれば自分自身が気持ちが悪くなります。
自分自身を気持ち悪くさせることは、自分に深切な扱いとは言えないでしょう。
誰に対してでも好い気持ちにしてあげるのが、その人に深切なのです。
そしたら、自分自身もよい気持にしてあげるのが、自分自身に深切なのです。
それだのに、腹を立てるのは自分自身を悪い気持ちにしているのだから、
自分自身を不深切に扱っているということになるのです。
(つづく)
336
:
ハマナス
:2012/04/05(木) 14:35:53 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんにちは。
良心の自己処罰 (『新版 生活の智慧365章』P.120より)
「吾々が進んで他の対して善を為し、愛を行じ、人を救い、人を悟りに導くとき
その人は主人公であり、その行動は“自由”の発露であり、“自由”の発露であるから
喜びを感ずることができるのである。そしてあなたが施した善は必ず自分に還ってくる
のである。
MRAの信条の第一に「絶対正直」ということがあるが、吾々は他を欺(あざむ)けば、
それは必ず自分に返って来るのである。欺きが自分に返って来るならば、他を欺く
ことその事が自己を欺きつつあるのである。吾々の潜在意識は一種のテープレコーダーで
あって、他を欺いて、顔を拭って涼しい顔を装っていても自分は常に自己の内で鳴り
響いているので、他からその類似のものを引き寄せて自己がまた欺かれることになる
のである。
嘘発見機がその人の嘘をグラフに捉え得るように人間は他を欺いても自己を欺き得ず
良心が常に自己を審(さば)いていて自己処罰して自己を不幸に陥れるのである。」
感謝合掌
337
:
ハマナス
:2012/04/06(金) 06:24:57 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
週末出かけますので、その間、聖典引用はお休みいたします。
今日も皆さまにとって、素晴らしい一日でありますように。
念(おも)った通りになる (『新版 生活の智慧365章』P.121より)
「彼を悪人と審いたとき、自分が悪人となっているのである。少なくとも其の審く人の
心は地獄の鬼と化しているのである。雇主は雇人をよく働く人にも、懶(なま)ける人
にも、嘘告(うそつき)にも、正直な人にも、自分の想う形にすることができるのである。
催眠術家が相手に対(むか)って「汝は眠くなる」と念ずれば、相手が眠ってしまうように、
雇主は雇人にたいして「お前は蔭日向なしに克(よ)く働く」と念ずれば、その雇人
は本当に蔭日向なく忠実に主人のために働くのである。「どうせ自分が見張りをして居ないと、
こいつは懶(なま)けて仕方がない」と主人公が念ずると、その通り雇人は懶けるようになる。
親が子供に対するのも同じことである。「うちの子は中々勉強しないから、勉強するように
見張っていなければならない」と母親が子供のことを思い詰めていると、見張っていても中々
その子供は勉強しないし、「うちの子供は神の子だからほっておいてもよく勉強する」と
母親が念じていると本当に子供は放っておいてもよく勉強するのである。
心は通ずるものである。「思う通りにならぬ」場合があるのは「表面の心」は兎も角、
潜在意識の中に「思う通りにならぬ」という念(こころ)が鳴り響いていてその通りに
なっているのである。」
感謝合掌
338
:
a hope
:2012/04/06(金) 10:33:09 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
腹を立てれば血に毒素ができる
アメリカに、ハーバード大学という有名な大学があります。
その大学からは心理学といって、心のことを研究する学問の先生で、
立派な学者がたくさん出ました。
その中でも、ウイリアム・ジェイムズ教授とか、
エルマー・ゲーツ博士とかいう人は、世界的に有名な学者です。
そのゲーツ博士の調べたところによりますと、人間は腹を立てたら、
血の中に毒ができることが判りました。
腹を立てると気持ちが悪くなるのは、自分の血の中に毒ができるからです。
日本でも鼠を棒切れで追い廻して、六時間続けて腹をたたさしておく実験で、
その鼠が死んでしまったという話があります。
腹を立てると自分の血の中に毒ができるとしましたら、
腹を立てるのは自分に毒をのませるのと同じことです。
自分に毒を飲ませるのは、まことに自分に不深切なことです。
たいていの人は、この自分に不親切なことを平気でやっているのです。
だから、私は、「もっと自分に深切になれ」と申すのです。
(つづく)
339
:
SAKURA
:2012/04/06(金) 17:43:20 ID:.xavN.NY
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
■【幸福を招く365章】
―――精神の進歩も他の進歩も同じこと―――
進歩と云うものは最初は極めて徐々に、やがて大きく伸びるようになるものです。
これは植物の苗の生長と同じことであります。
魂の進歩や、精神統一力の進歩も、最初は遅々として、中々伸びないように思われて、
兎もすれば倦怠の念を起してくるようですが、其処を乗り切らなければ物になりません。
其処を乗り切ったとき、其の後は実に大きく急速に伸びて来るようになるのであります。
すべての力はそれを正しく法則に随って使うことによって増大するのです。
法則を無視して無茶に使っては却って力は消耗します。の稽古にしても、
最初は中々上手に弾けませんが、その時期を超えると上達は早くなって来ます。
ピアノの稽古も、ピアノを出鱈目に掻きならしているだけでは何時まで経っても
上達しません。楽譜に随って規律正しく稽古することによって上達するのです。
楽譜に随って規律正しく稽古することによって上達するのです。
神想観の上達も同じことです。
人びとの中には、他にすぐれて鋭敏な感受性を具えた人たちがあります。
往々これらの人たちは神経質と云う名でよばれる人たちであります。
他から来る精神波動に非常に感じ易い性質を持っているのです。中には天候に
従って気分が変わるだけではなく、低気圧が近づくと気象台よりも
早く健康に影響を感ずる人もあります。こう云う神経質の人はその肉体的素質が
繊弱で非常に不利な生れ附きだと思っている人もあるが、神は決して一方的に
不利な性質を与えるものではありません。その鋭敏な感受性を正しき神の啓示の
方向にのみ向けることにするならば、その過敏な感受性は却って其の人の長所と
なるのです。常に次のように念じなさい。
「私は神の子である。私は神の子の権威をもって神の子ならざる低次の精神波動に
対して完全に自己を閉ざすのである。そしていと高き神の啓示に対してのみ鋭敏である。」
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
いつも拝読いただきまして、感謝申し上げます…。
私なりの「解釈論」を「他の掲示板ボード」にて投稿させて頂きたいのですが?
個人的に今!「時間がありませんので…」後程投稿(途中まで)させて頂きます…。
再合掌
340
:
ルンルン
:2012/04/07(土) 03:10:28 ID:vsZYH/3w
こんばんは、ルンルンともうします。
生活応用 健全の真理 p70 谷口雅春先生著
神想観は、(欲する事物を心に描いてそれを呼び出す方法」だと思われてるかもしれないが
それ以上のものである。
そんな現象的な効果を予期するようなケチなサモシイ行法ではないのである。
それは、「既にある完全な実相」をただ観ずるだけである。祇感唯感実相(唯ひたすら実相のみを観ずる)
である。既に完全な実相があるのに、それ以上の効果を期待することが、既にあるとの自覚を裏切ることにすらなるのである。
原文は旧仮名使いです。
341
:
下流のしんと
:2012/04/08(日) 23:54:14 ID:WmbFDQVc
>立ち上がれ 気高く舞え 天命(さだめ)を受けた戦士よ
千の覚悟 身にまとい 君よ 雄々しく 羽ばたけ
闇の時代を告げる 鐘が遠く鳴り響く
戦う友よ 今 君は 死も恐れず
瓦礫の街を染めて 沈む夕日は紅
愛する地球(ほし)の未来を守るため
おお 神の刃は 人類(ひと)の愛
祈りを 込めて つらめけ
立ち上がれ 気高く舞え 天命(さだめ)を受けた戦士よ
明日の平和への 礎となれ
熱くなれ 大きく咲れ 天に捧げし命よ
弱き者の盾となれ そして 世界を 導け
きらめく星の海に 浮かぶ おまえの面影
二度と逢えない愛ゆえに なお いとしい
背中合わせの世界 重ね合えない現実
涙とともに捨て去れ なにもかも
さぁ 振り返らずに 風になれ
痛みを越えて 駆け出せ!!
立ち上がれ 気高く舞え 天命(さだめ)を受けた戦士よ
たとえ傷ついて 力尽きても
赤く燃え 見事に散って 星になった命よ
時を越え その名前を 胸に刻もう Just Forever
立ち上がれ 気高く舞え 天命(さだめ)を受けた戦士よ
たとえ傷ついて 力尽きても
熱くなれ 大きく咲れ 天に捧げし命よ
明日の平和への 礎となれ
赤く燃え 見事に散って 星になった命よ
時を越え その名前を 胸に刻もう Just Forever
342
:
a hope
:2012/04/09(月) 08:34:58 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
他が悪い時、善い人が毒を飲むな
「そんなことを言っても、あいつが悪いから腹が立ってしかたがない」と言う人があります。
あいつが悪いのなら、その悪いやつが自分で腹立てて、
自分の身体の血の中に毒をこしらえていればよいのです。
それだのに、悪くない者が腹を立てて、毒を自分の血の中にこしらえるのは間違っています。
ですから、これから自分が善いと思ったら、自分の血の中に毒をこしらえないことです。
腹を立てないようにすることです。そして自分が悪いと思ったときこそ、
うんと自分自身に腹を立てて、自分の血の中に毒をつくってやることです。
それを逆さまに、普通の人は「他人が悪い、自分が善い」と思っているときに腹をたてて、
自分の血の中に毒を飲ましているのですから、間違っています。
これからはそんなばかなことはいたしますまい。これからは決して腹を立てたりいたしますまい。
(つづく)
344
:
a hope
:2012/04/10(火) 08:11:25 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
時間を大切にせよ
他(ひと)に深切にする心掛は、たいへん結構なことです。
しかし、自分に深切にすることは、また大変善いことだということを
多くの人は忘れています。
だから、腹を立てて自分の身体(からだ)に毒を飲ませたり、
なまけて、自分に与えられたせっかくの時間を、
何にも使わないで捨ててしまったり、自分に損をかけて平気でいたりするのです。
人間に何が一番大切だと言っても、自分に深切をつくすことほど大切なことはありません。
自分に深切をつくすというのは、自分の生命を無駄に捨てないことです。
お金を道ばたへ無駄に捨てる人はめったにありませんが、
自分の生命を無駄に捨てる人はたくさんあります。
自分の命を捨てる人はたくさんあると申し上げても、世の中には
そんなに自殺をしている人はないと思いになるかもしれません。
しかしあなたが百歳になるまで生きるとしましても、一時間無駄にすごしたら、
あなたの命はもう一時間だけ無駄に捨てたのです。
たいていの人は夜になったら何もせずに寝てしまいます。
一生の半分は人間は寝てしまうのです。
そうすると百歳になるまで生きましても、半分は何もしないのですから、
五十年しか生きないのと同じことです。
ところが、その五十年のうちで私達は朝昼夜の御飯時(どき)に、
早い人で三十分ずつ、遅い人で一時間ずつぐらいはかかります。
それで一日ニ時間や三時間は無駄になるのです。
用を達(た)したり、お風呂へ入ったりしていると、
一日のうちの五時間は、そのために無くなります。
そうしたら、私達は一日二十四時間のうち、七、八時間しか
勉強とか仕事とかはできないのです。
言いかえると、一日のうちの四分の一しか自分の生命を働かせ、
自分の値打ちを出すことができないのです。
すると一日のうちの四分の三の時間は、無駄に捨てたと同じなのです。
皆さん、無駄に捨てた時間は決して還って来ません。
一日のうちの四分の三の時間を無駄に捨てていたら、
百歳まで長生きしても七十五年間は無駄に捨てたので、
ただニ十五年間しか生きたことになりません。
それは百歳まで長生きしても、二十五歳で若死にしたのと同じことです。
私達の生命は「時間」でできているのですから、ぼんやりしている間に、
生命は減って行きつつあるのです。こんなつまらないことはありません。
一分間でもぼんやりしないで、何かこの世のためになることをいたしましょう。
会社のためになることをいたしましょう。
父さま母さまに喜ばれることをいたしましょう。
何か自分の力のつく勉強をしましょう。
(つづく)
345
:
ハマナス
:2012/04/10(火) 08:49:53 ID:u5mC.eb2
神の子もみなさま
おはようございます。お久しぶりです。
日本中が桜の色、一色に染まっています。
今日も皆様にとって人生の最良の日でありますように。
すべての人間は「王」である (『新版 生活の智慧365章』P.124)
自己に宿る絶対者、自己に宿る超越者、自己の宿る普遍者、自己に宿る無限者、
有限の内に宿る無限なる者、相対者の如くあらわれている絶対者、現象のあらわれて
いる奥にある超越者、今このままに久遠なる者、有限即無限、個性即普遍――それが
私であり、あなたであり、一切の人々である。それを自覚するとき相互礼拝が自然に
行われるようになるのである。
自己を単に物質的存在たる肉体だと観る限りに於て、人間は「制約」から超越する
ことはできない。即ち自由を完全に享受することができないのである。その制約から
超越して自由を得るためには、「真理は汝を自由ならしめん」とイエスが言ったように、
真理を知らなければならないのである。「真理とは何ぞや」とピラトがイエスに訊いたとき、
イエスは黙然として答えなかったが、ピラトが再び「汝は王なるか」と訊いたときに、
イエスは、「汝が言えるが如し」と答えているのである。王とは「神聖にして犯すべか
ざる絶対者だ」と云う意味である。すべての人間は法制上では王ではないけれども、宗教的
意味に於ては王であり、絶対の自由者であるのである。これが真理なのである。この真理を
知るとき何人も本当の自由を得るのである。
感謝合掌
346
:
ももんが
:2012/04/10(火) 08:57:30 ID:XXCuaQns
>>345
ハマナス様
ハマナス様、おはようございます。感謝、合掌、拝。
ハマナス様の、いつも、素晴らしい、御言葉、尊敬の一句です。
今日も、心に残りました。いつも、素晴らしい、行いを、尊敬してます。真に、ありがとうございます。
感謝、合掌、拝。
347
:
ハマナス
:2012/04/10(火) 09:14:46 ID:u5mC.eb2
ももんが様
おはようございます。早速、あたたかいレスをありがとうございます。
今日も、お仕事頑張って下さい。お祈りしています。
感謝合掌
348
:
ぼるぼ
:2012/04/10(火) 19:18:48 ID:iV0JULqA
「わたし」はあなたを支配している。あなたの行動を支配し、あなたの生理作用を支配している。
しかしそれは「無我の愛」によって支配しているのである。あなたが自分の心を素直に開いて、自由意思によって「わたし」の支配を受け容れるならば、あなたの行動は宇宙に調和し、環境に調和し、あなたの生活は誠に順潮に棹さすように行われる。
またその生理作用も健全円滑に行われるであろう。しかし、「わたし」の愛は「無我の愛」であるから、「わたし」はあなた達に自分の知恵を強制しようとは欲しないのである。それ故に、あなた達は時々自分の考えによって、「わたし」の知恵と異なる行動をとることがある。食欲や性欲も自分勝手に気儘な行動に身をゆだねることがある。
けれども、「わたし」は「無我の愛」であるから、あなた達を罰しようとは思わない、また罰したこともない。
しかし「わたし」の知恵は偏りのない普遍に調和した知恵であるから、「わたし」の知恵に従っておれば、すべてに調和した生活が出来るであろうが、あなた達の知恵は個別的で、分断された知恵であるから、その知恵は全相に達しない。
それ故に、どこかに衝突が起こり、摩擦が生じ、行き詰まりが生ずる。それは自分の知恵が勝手な傍道を歩かした為に、自分自身で、行き詰まる道を歩いた結果であって、決して「わたし」があなた達を罰した訳ではない。道なき道を勝手に進めば自分で行き詰るのは当然である。
谷口雅春著「神 真理を告げ給う」26P
349
:
ぼるぼ
:2012/04/10(火) 20:43:04 ID:iV0JULqA
>>348
「本当の教祖」と言うべき「真理の掲示者」は「実相世界」にある「神」のみなのである。
谷口雅春も、「自分は教祖ではない。実相世界に生長の家の本部はある」と言っているのである。
同著、13P
350
:
ぼるぼ
:2012/04/10(火) 20:50:07 ID:iV0JULqA
>>349
「真理の掲示者」 誤
「真理の啓示者」 正
351
:
金木犀
:2012/04/11(水) 04:52:55 ID:oWXOwFKk
むかしの神誌の記事から抜き出しました。
矛盾の解決
谷口清超先生、 『生長の家』誌、昭和58年
スリの集合
あるお花の稽古に行っていた家内が帰ってから、こんな話をしてくれた。ここに「稽古に行った」というのは、「教えに行った」のではなく、まさに「習いに行った」のである。すると仲間の生徒さん、といってもそんなに若くはないと思う、が言うのに、近所の奥さんが二人で三越のバーゲンセールに出かけたそうだ。その頃三越は、岡田前社長の背任問題や、竹久みちさんの“特別背任”事件などで新聞に大袈裟に書きたてられていた頃で、そのイメージアップのために「310周年記念大感謝祭」というのを行った。日本橋三越だけでも初日に三十万人がつめかけ、約十億円の売上があったというから、スキャンダルを逆手にとったこのやり方は、一応成功だったと言えるだろう。
ところで話はお花の生徒さんに戻って、二人で出かけた奥さん連中が、夢中になって買いあさっているうち、二人ともあり金をスリにすられてしまったというのである。聞いてみると「日本中の女スリがあの日集まった」という噂だったという。それを聞いて家内は、「それじゃ予め警察官が三越に張り込んでいたら、一遍につかまったのにね」と言って、皆で笑ったと話していた。しかしいくら日本の警察が優秀だといっても、そこまでは手が回りかねたらしいのである。
人は「商売」となると熱心なもので、スリでも泥棒でも、本職はかなりの努力をして辛抱強くチャンスをうかがうものらしい。もしその努力をまともな商売に振り向けたら、どんなにすばらしいことになるかと、いつも私は思うのである。偽金作りにしても、あれだけ技術を持ちながら、どうして本物の印刷業務に専念しないのか? 竹久さんでも「不法利益十六億円を越す」などと読売新聞に書かれたが、もし事実なら、どうしてそんなことまでしてお金をため込む必要があるのか不思議だ。何れにしても「悪銭身につかず」であることは、厳然たる事実である。
バッグの中味
ところでこの世の中には「心の法則」というのがある。心で強く思うことが実現するという原則だが、これは単に「こうありたい」と願うことや希望が実現するというのではない。だからいくら「金儲けがしたい」と思っても、中々そううまくは行かないし、「損をすまい」と思っても損することにはなる。がここに言う「思うこと」とは、「心に強く念ずること、思うこと、信ずること」などであって、要するに心に強く印象づけられた内容が実現するという通則である。
だからあることをひどく恐怖して、いつもそれを心に思い描いていても、却ってそれが実現するのである。悪事の露顕を恐れたり、病気や事故や怪我を恐れても、それだけでは不幸をを防止することにならぬのは、その恐怖が心の中の強い想念となり、却って実現力を持つからである。江国滋さんという随筆家の書いた『旅はプリズム』という本には外国のおもしろい話が色々出てくる。主にヨーロッパ旅行の話だが、あちらは中々泥棒さんが多いらしく、ことにイタリーは世界的に有名な所だ。
江国さんは先ず東独を旅行して、その記事を日本に送る約束をしたらしい。だから原稿を後生大事に持ってローマ入りをした。というのは東独では郵便が不確実で、日本に着くのに四週間はかかる。おまけに確実でないことが確実だというので、ローマに入って、バチカンの郵便局が一番確実で速いという話を聞いて、先ずそこに行った。がしかしまだ沢山残りの取材資料をかかえ、それらをカメラバッグにつめ込み、後生大事にかかえて車に乗り、
「盗られては一大事」
と、そればかり用心していた。というのはローマに来る前も又来てからも、散々イタリーの泥棒さんの凄まじさを聞かされていたからである。彼らは自動車どころか、アメリカの軍艦まで盗ったというのだ。車を盗られた人が仕方なく新車を買いかえると、その日又々その新車を盗られたなどと聞かされ、用心に用心を重ねたのであった。江国さんはローマでは知人のNさんにキャンピングカーで案内してもらい、その広い車内の運転席と助手席の間に大事なバッグを置いて、常に目に触れるようにしてローマの街を走ったのである。
352
:
金木犀
:2012/04/11(水) 05:01:52 ID:oWXOwFKk
矛盾の解決(2)
谷口清超先生、 『生長の家』誌、昭和58年
心の法則
こんなに用心していたら、どんな大泥棒でもこの鞄は盗れない筈だ。そう思ってしばらく行くと、急に車がガタガタし出した。Nさんが「おかしいな、パンクしたらしい」と言いつつ、道路の片隅に駐車し、車から降りてみるとやはりパンクであった。
「ちょっとタイヤをとり換えます、しばらく待っていて下さい」
と言って修理を始めた。江国さんも助手席でじっとしている訳にも行かず、
「手伝いましょうか」
と車を降り、のぞき込んだ。「いや、大丈夫、慣れていますから……」そんな訳で間もなくタイヤの交換が終わり、二人とも車内に入った。すぐ出発したが、鞄が見当たらないのだ。どこを探してもない。結局二人が車外に降りたわずかの隙に、泥棒さんに見事してやられたということが分かったのである。
「そういえばずっと変な車が後をつけて来ていたが……」
明らかに江国さんの鞄は狙われていたのだ。何故か?あまりにも大事にしすぎて、
「盗られはしまいか」と、肌身離さず持っていたから、泥ちゃんは余程金目なものが入っていると勘違いし、何としてもそれを盗るべく後をつけた。辛抱強くチャンスをうかがい、パンクの小細工までして、ついに目的を達したという訳である。あとで調べてみると、タイヤは仕掛けられた刃物で切られたようになっていたという。
どうしてこんなことになるのかというと、やはり「心のなかに強く描いたことが実現した」という他ないであろう。それは希望しないことであっても、恐怖することは実現する。だから人はいくら失敗を恐怖しても失敗するし、病気を恐れても、又事故を恐れても、そんなことは駄目なのだ。勿論戦争を恐怖するだけでは駄目だし、原爆水爆に反対して、広場に寝転がっていくら「死んだ真似」をしても駄目だ。いや、むしろあんなことをすればするほど、「水爆で死ぬ」ことを強く心に描き、且つ実演までするのであるから、水爆戦を誘発する一つの力になるだけである。
これはごく簡単な「心の法則」を理解するかしないかの問題だ。人はいくら善意出会っても、智慧が足らず、法則を理解せず、それを逆用していると、その結果大失敗する。だから釈尊も「悟りに到る第一は知ることである」と教えられたのである。法則を知り、真実を知ることが何よりも肝腎で、失敗を恐怖したり憎んだりするより、積極的な「成功」を心に描き、「健康」や「幸福」を強く思うようにしなければならないのである。
353
:
金木犀
:2012/04/11(水) 05:03:01 ID:oWXOwFKk
矛盾の解決(3)
谷口清超先生、 『生長の家』誌、昭和58年
悪はナイ
つまり不幸や悪や盗難を恐れるより、積極的な善いことや健康や幸福や繁栄を心に強く描かなければならないということである。この簡単な法則を正しく理解しないために、多くの人々は折角の人生を台無しにしている。闇を消すには光をもって来なければならない。光とは善であり、そして又健康である。人はとかく一旦不幸になると、光を描き見る事を忘れ、いたずらに悪や病気や失敗を恐怖する。がしかしそれでは何一つよいものは現れて来ないのである。
例えばもし今ひどい病気に罹った人がいるとしよう。すると彼は「健康」を心に描かなければならないのに、とかく「死」や「衰弱」を恐怖する。すると恐怖すればするほど、「死」や「衰弱」は近づいて来る。心に強く描くものがあらわれ来るという法則があるからだ。その逆をやらなければならないのに、それをする力が出て来ないのである。一体何故だろう?それは人々が「悪はナイ、善のみアル」ということを知らないからである。つまり「神」があることを知らず、「神」が善のみを創り給うたことを信じていないからである。
そもそも神を信ずるということは、この世の現象を見て、それに引っかかって祈ることではない。確かにこの世には病人もいるし、泥棒も詐欺師もいるだろう。戦争も起こるし、死人も出る。しかしこれらは全て“現象”であり、“影”であって、「実在」ではないのである。「実在」は完全なのだ。これが分かるか分からないかが、人生の別れ道だと言う事が出来る。真に繁栄し、幸福となり、生死を超越するか、それとも物欲や名誉欲に囚われ他一生を送るか否かの岐路が、ここにあることを知らなければならない。
長崎県の佐世保市南風崎町に宮田一郎さんという人が住んでおられ、永年生長の家の幹部として活躍しておられるが、昭和五十六年八月の出来事だった。その年は九月に私の講習会が佐世保で行われることになっていて、宮田さんは相愛会の連合会長として大変忙しく大会の準備などしておられた。さて宮田さんには息子さんが一人いて、三重県の電電公社鈴鹿学園に勤務して、その奥さんは雅子さんといい、お里が福岡で、当時二十八歳になっていた。
ところが雅子さんはどうも頭の調子が悪いというので、その年の八月福岡に帰って来て、九州大学の付属病院に行って検査を受けた。すると詳しい検査の結果頭の中に大人の拳大の脳腫瘍が出来ていて、このままでは今年一杯いのちがもたないと診断されたのである。宮田さんにとっては一大ショックだ。まだ若い息子の嫁が、難病にとりつかれた。おまけに一ヶ月後に講習会がある。平素「悪はない、善のみある」と教えられ、又人にもそう伝えているのに、現実には難問題が出てきて解決を迫っている。だがここで現象に引っかかって、その悪を「ある」と見たり、「絶体絶命」などと考えてはいけない。陰極は必ず陽転するのだ。自分自身にい言いきかせた。宮田さんは日夜講習会の準備に教区内を東奔西走する、その重大な時期に、多くの時間を嫁さんのためにさくわけにはいかない。がしかし病人の見舞いもしないといけない。本人も実家の人も、「死にはしないか」と思って非常に心配しているのは明らかだ。
「何とかしなければならない……」
と切実に思った。
354
:
なせば成る我ハ神の子
:2012/04/11(水) 07:11:35 ID:OfrX..6o
おはようございます。
金木犀さん、PCの調子は絶好調、技術も絶好調じゃぁないですか?
私だったらこの作業でしたら1時間はかかりますよ。ファイルから出すののでしたら、手間取りで10分かなぁ??
カッコイイ!! じゃぁないですか! WEB誌友会はモタモタ、ドタドタです。。えへへ・・・。
これからも、よろしくお願いします。
355
:
ハマナス
:2012/04/11(水) 09:34:18 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
神の宝はあなたに譲渡済みである。 (『新版 生活の智慧365章』P.125より)
「吾々の幸福は決して、自己以外の外界の存在によって規制せられたり、支配せられ
たりするものではないのである。自己の許さない不幸も悪も吾らに入り来ることは
できないのである。神は常にあなたと偕にあり、神の持ち給えるあらゆる善きもの、
美しきもの裕(ゆた)かなるもの、好ましきものは、悉くあなたに譲られているのである。
神の登記所に於ては、既に神の有ち給えるあらゆる“善きもの”の、あなたへの譲渡
手続きが完了しているのである。譲渡手続きが完了していても、それを譲り受ける者が、
譲り渡されたことを自覚しなかったら、それは現実にならないのである。
多くの人は、自分が神の子であり、神の有(も)ちたまえる凡(あら)ゆる
“善きもの”が譲り渡されて、既に“自己のもの”となっていることを知らないから、
それを利用することができないのである。その譲渡が既に完了していることを悟らせる
聖業をするのが生長の家の信徒の使命であり仕事である。併し譲渡が完了していることを
知らされても、実際に譲渡されたものを生活に応用しない限り、名儀だけのことであって、
何の役にも立たないのである。」
この大事な時に、私たち信徒一人一人が、「自分が神の子であり、神の有ちたまえる凡ゆる
“善きもの”が譲り渡され済み」であることを再認識し、実際に生かすことが問われていると
思います。
争い合うのではなく、お互いに神の子として、拝むことが生長の家の信徒の使命であり仕事
であると、雅春先生は仰っておられます。
“神の子”の教えを説くのが生長の家の意義ではないのでしょうか。
感謝合掌
」
356
:
a hope
:2012/04/11(水) 09:48:23 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
強情は、自分に不深切
素直に「はい」と言えない心を強情と言い、
その強情がひどく突っ張っている人を、強情っぱりと言います。
強情っぱりはやさしくないから、誰からでも憎まれたり、
嫌がられたりするものです。
自分が人から憎まれたり嫌がられたりするようなことをするのは、
自分に対して親切だとは言えません。
神様、仏様だって、強情っぱりはかまってくださいません。
本当にそれは寂しいことです。損なことです。
自分をそんなに寂しい者にし、
損な者にするのは自分に対して深切だとは言えません。
(つづく)
357
:
金木犀
:2012/04/11(水) 10:54:25 ID:y/Po8pPE
矛盾の解決(4)
谷口清超先生、 『生長の家』誌、昭和58年
連日連夜
そこで先ず宮田さんは頭の病気は先祖に関係があると思いついた。これは心の法則で、心に類似した肉体現象が現れて来るものであるから、先祖のお祀りがよく行われていないのであろうと想像した。よく調べてみると、実家では大事な人の先祖をお祀りしていなかったということも分かったのである。このことを伝えて、宮田さんの家でも雅子さんの実家でも真剣にやり始めた。一方病院側では「一刻も早く手術をしよう」とする。しかし宮田さんは講習会があるので、何とか手術がそのあとにならないものだろうかと思うのである。
雅子さんも救わなければならないし、講習会も疎かにできない。現象的には、正に切羽詰まった状態だが、実相世界では全てが可能であり、何一つ矛盾はない筈だ。そこで宮田さんは昼は終日推進運動に没頭し、夕方になるとその足で佐世保から特急列車に乗って福岡に行き、着くとすぐ病院に直行した。病院に入るとすぐに「招神歌」を唱え、雅子さんの本質が完全で健康そのもので、何一つ不完全はないということを心から祈ったのである。
さらに続いて枕元で『甘露の法雨』を読誦し、持参したテープレコーダーで真理の講話を聞かせ、1日一万遍「有難うございます」を唱えるように、数とり器を持って行って力づけてあげた。そうして彼女は、今までほとんど無関心だった「生長の家」を真剣に実行し、「人間神の子ですばらしいいのちだ」ということを信ずるようになって行った。日が経つにつれて舅の来訪を待ち受けていてくれる様子が在り在りと見える。実の父母にも、
「佐世保のお父さんが来て下さるのが一番うれしい」
と言ったりした。こうなると真理の言葉は吸い取り紙にインキが吸い込まれるように彼女の心に吸収され、偉大な言葉が実現して行くものである
358
:
金木犀
:2012/04/11(水) 11:00:00 ID:y/Po8pPE
なせば成る我ハ神の子様
一度で投稿したからといって、
そんな一時間そこらでやったなんてことはありません。
PCは調子の良い時も悪い時もありますが、キーボードがどうも変なのは確実で、
これは息子に試してもらっても、変だといってましたから。
まあそのキーボードの変な癖に、使っているうちに慣れたということもあるようです。
359
:
金木犀
:2012/04/11(水) 11:01:53 ID:y/Po8pPE
矛盾の解決(5)
谷口清超先生、 『生長の家』誌、昭和58年
矛盾の克服
しかし乍ら現実はなかなか厳しい。先ず手術日はずっと前から九月十七日と決まっていた。ところが講習会はこれ又九月二十日と決まっている。手術の日とその後には彼女の身辺についていてやりたいが、講習会と重なるからこれでは大変困るのだ。ことに時間が足りない。夜病院に行って、祈ったり『甘露の法雨』を読誦したり、励ましたり、慰めたりしてから帰るとなると、福岡発は夜中の一時頃の夜行列車だ。すると佐世保に着くのが四時半頃である。その列車中で仮眠するだけが、宮田さんの唯一の睡眠時間だった。朝になると又佐世保教区内を講習会の準備に駆け回る。その他の組織との幹部会もある。講習会直前の手術は、誠に具合が悪いのであった。
だから宮田さんの熱烈な祈りの中には、この問題が矛盾なく行われることが折り込まれていた。本来実相世界は何一つ矛盾はない。しかるにそれが三次元空間に現れて来ると、各種の矛盾点が出てくるのである。もう一つの大きな矛盾点は、雅子さんの脳腫瘍が、予想以上に大きく、医学的診断によると視神経を妨げる場所にあるので、腫瘍を切開すると、必ず視神経も切断され、たとえ腫瘍が治っても一生盲目になるという予告であった。もしこんなことになると折角手術して一命をとり止めても、若い身空で一生目が見えなくなる。これはとても可哀そうである。何とかしてこの矛盾も克服したい。それにはただ実相を心から視る、祈る以外に道はないのだ。どういう手立てでこの問題が解決するか、そんなことは全く分からない。ただ「神の創り給うた世界には不可能はない」とう堅い信仰だけが唯一の拠り所であった。
宮田さんは列車の中でも祈り続け、又わずかの暇を見ては祈り続けた。そして最後に全てを神に全託したのである。すると手術日の二日前になって、突然「手術が二十二日に延期された」と通知された。別に病院側にかけ合ったわけでも何でもないが、二十日に講習会が終わった次の次の日であるから、もう何の心配もなくなった。宮田さんには「やはり祈りは叶えられる」という確信が湧いてきた。
最も重要なことは
このように心の中に強く描く思いは実現する。それがたとえ願望することでもしないことでも、強い思いは実現するのであるから、恐怖心によって心を占領せず、神の御心にあるところの明るい想念や信念によって占領しなければならない。それが可能となる根柢は、言うまでもなく「神のみ実在する」という純粋な信仰であり、それについての行である。
とにかくこのようにして講習会と手術日との矛盾は解決したので、宮田さんは力一杯講習会に打ち込み、各組織とも昨年以上の成績を上げることが出来た。さて会が終わるやすぐさま福岡に飛んで行き、雅子さんの手術の準備にとりかかった。がしかし腫瘍と視神経、が重なり合っているという重大な問題がまだ残っている。盲目になっても手術するかどうかと重ねて聞かれても、やはり「お願いします」と言わざるを得なかった。
脳腫瘍の大手術は九時間もかかった。その間宮田さんは奥さんと交代々々で『甘露の法雨』をずっと読誦し続けた。やがて手術が終わり、説明に出て来られた主治医はこう言われた。
「開いてみると、病状が非常に好転していて、大きかった腫瘍が縮小し、うまい具合に視神経からも外れていました。しかも非常によい形をしていて、視神経には何ら異常なく完全に摘出することが出来ました」
以来雅子さんの病状は急速によくなり、その後一ヶ月を経て退院し、さらに一ヶ年経ってからもすっかり健康で、いつ病院に検査に行っても完全治癒ということで、今は明るく楽しい毎日を送るようになられたのである。
この事実を見ても、現象界に起る様々な矛盾や撞着を解消するには、「実相を観る」以外真の解決法はあり得ないと言わざるを得ないのである。これをやらず如何に不幸を恐怖しても、それは不幸を回避する手立てにはならず、如何に戦争を恐怖しても、戦争は消えさるものではない。従ってその反対に多くの人々の心を光明化し、真実の世界が大調和であり、完全円満であることを確信する人々をふやし、愛と感謝と祈りと讃嘆の思いを拡大する「人類光明化運動」を強力に前進させることが、最重要課題であると確信する次第である。
360
:
なせば成る我ハ神の子
:2012/04/11(水) 12:48:14 ID:pu1fAvFo
金木犀さま。。
すいません、、どーも。 早とちりで。 志恩さんとの会話を読みました。
私はなんでも、言葉どーーーり受け取るので。。。(笑) もしかして、私、謙遜なども通用しないのかもしれません(恥・・)ご注意ください。。
361
:
うのはな
:2012/04/11(水) 22:40:08 ID:El6gIMAw
“ 真の自由”とは何か 感謝一元の世界へ
北条信夫 ありがとうございます。今日は“真の自由について”という題をいただきまして、
本当に心の底から感謝しております。“真の自由を得たい”ということは、あらゆる人の希望すること
でありますが、僕も小さい頃から色々と不自由な立場にいたものですから、自由になりたいと思って、色んな宗教、
哲学の本も読んで努力してきました。その結果として、この生長の家に触れて,“生命の實相”ということを知らさせていただき、
本当に感激しまして、それから、生長の家のために、この現象の自分は死んで、この真理をあらゆる人に知っていただきたいと思って
一所懸命、自分なりに努力している次第であります。
ここで、僕の体験を通して話させていただきます。僕のおじいさんが、小学四年の時に亡くなりまして、その時から僕は家族と別れて、
おばあちゃんと一緒に生活するようになりました。僕はそれがきっかけとなって、宗教というものに目覚めていったわけです。
つづく
362
:
うのはな
:2012/04/11(水) 22:53:21 ID:El6gIMAw
361 つづき
家のおばあちゃんは、毎朝、毎晩、いかなる日も欠かすことなく、仏様に向って
“南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏”と言って唱えられるわけです。それを
私は小学四年生の時、見ていて、おかしいんですね。まあ、宗教というものはへんなものだという
先入観念がその頃からあったものですから、おばあちゃんに訊いたんです。
「おばあちゃんは何が一番欲しいの?いつも毎日、何を欲しがってお祈りしているの?」と聞きましたら、
「信ちゃんよ、何かが欲しいから、こうして毎日お祈りしているんじゃないんだよ。こうして毎日生かされていることが
ありがたいから、ただ、感謝をしているだけなんだよ。何かを求めてお祈りしてはいけないんだよ」と言われました。
僕はその時、心の底から「ああ、宗教って素晴らしいものだなあ!」と思ったんです。
それから僕の宗教の見方が変りまして、学校では宗教戦争だ、やれ宗教というものは....と聞いても、それは宗教を説く人がまちがっていたんだ。
宗教というものはそんな悪いものじゃない、宗教は本当にお一人、お一人が本当に幸せになるためにあるんだと、そういう自覚が強くありましたから、
よりいっそう宗教に目覚めて行ったんです。
つづく
363
:
役行者
:2012/04/11(水) 22:57:43 ID:K0LOZtMM
金木犀様
素晴らしい文章の筆写、ありがとうございます。
>>352
>これはごく簡単な「心の法則」を理解するかしないかの問題だ。
人はいくら善意であっても、智慧が足らず、法則を理解せず、それを逆用してい
ると、その結果大失敗する。だから釈尊も「悟りに到る第一は知ることである」
と教えられたのである。法則を知り、真実を知ることが何よりも肝腎で、失敗を
恐怖したり憎んだりするより、積極的な「成功」を心に描き、「健康」や「幸福」
を強く思うようにしなければならないのである。<
特に、この箇所に共感しました。
>真実を知ることが何よりも肝腎で、失敗を
恐怖したり憎んだりするより、積極的な「成功」を心に描き、「健康」や「幸福」
を強く思うようにしなければならないのである。<
「言葉」は確かにマイナス(暴走)の視点から観ると、人類を、地球を、また
日本を蝕む源かもしれませんが、プラスの方面から観ると、人類を光明化し、進化向上させる原石であると思い
ます。
>>359
矛盾の克服
> 最も重要なことは
> このように心の中に強く描く思いは実現する。それがたとえ願望すること
でもしないことでも、強い思いは実現するのであるから、恐怖心によって心を占
領せず、神の御心にあるところの明るい想念や信念によって占領しなければなら
ない。それが可能となる根柢は、言うまでもなく「神のみ実在する」という純粋
な信仰であり、それについての行である。<
この文章に口を挟む余地はなかったです。
> この事実を見ても、現象界に起る様々な矛盾や撞着を解消するには、
「実相を観る」以外真の解決法はあり得ないと言わざるを得ないのである。これ
をやらず如何に不幸を恐怖しても、それは不幸を回避する手立てにはならず、如
何に戦争を恐怖しても、戦争は消えさるものではない。従ってその反対に多くの
人々の心を光明化し、真実の世界が大調和であり、完全円満であることを確信す
る人々をふやし、愛と感謝と祈りと讃嘆の思いを拡大する「人類光明化運動」を
強力に前進させることが、最重要課題であると確信する次第である。<
言葉がいろいろな悲劇をもたらすのも事実ですが、言葉が歓びを運んでくるの
も事実です。いまの私の生活観で思いを述べれば、苦しみがあり、悲しみがあり、
だからこそ、歓びもヒトシオだと思えるのです。
また、地球規模の大きな見地から眺めると、新しい文明がやってくる足音が聞こえてくるのです。
つまり、現象的にも、歓びの言葉が闇の言葉を凌駕する日が近づいていると確信しております。きっと、輝かしい未来がやってくると信じてます。
感謝合掌
364
:
うのはな
:2012/04/12(木) 00:07:44 ID:El6gIMAw
362 つづき
そして中学二年頃でした。家の中ではお父さんお母さんが毎晩のように、火が飛ぶように
夫婦喧嘩をやっているんですね。もちろん、家族が病弱だし、貧乏で、あらゆる束縛を受けて生活して
いたわけです。そんな中で“自分は今何するべきか”と心に問うたんです。
世界一の金持ちになるか、名誉ある人になるべきか、と考えました時“人間の本当の幸せというのは、
心が、泥沼に咲く蓮みたいに、心が美しく咲ききることが、人生の本当の悦びではなかろうか”と結論したわけですね。
よし、僕はこれから学校に何しに行くか。今、学校はきたないから、掃除しに行く。
家では色んな面で貧乏しているから、お父さんお母さんを本当に幸せにするために、
学校の勉強も大事だけれどーー朝は五時から新聞配達、豆腐売りをやり、学校から帰ると、豆腐売りを続けて、色んなアルバイトを
したんです。そしてお父さん、お母さんに幸せになっていただきたい、そして自分も心の思う通りの自由自在な人間になりたい、そういう
考えで毎日生活していました。
そして本当に生長の家に触れましたのは、高校二年のときでした。ちょうど、アルバイト先が生長の家の誌友会場だったんです。
そこで仕事が終って、真理のお話を聞いたんです。
そしたら、僕は創価学会のお話も、キリスト教会の話も、浄土真宗のお寺のお話も、聞いて来たんです。
しかしすべてよかったけれども最後にみな、他の宗教の悪口を言うんですね。
それだけが僕には不思議で、しっくりしなくてたまらなかった。が、生長の家のお話を聞いたら“あらゆる宗教は兄弟姉妹であり、本当に
お一人、お一人の幸せのためにあるんだ”と、自分の気持ちと一致する教えを説いて下さったんです。
その時“これだ!!”と思って、本当に喜んで、それから毎日欠かさず誌友会を訪ねて勉強したわけです。
そして生長の家に真剣になりましたら、お父さんがお酒を飲みたくなくなるし、そして、お父さんお母さんが仲良く調和して、「お父さんが
観世音菩薩みたいになってしまった」とお母さんが言うし、本当に毎日が幸せで仕方ないようになりました。
しかし学校では、先生が、「北条君よ、お前みたいにアルバイトして親孝行しようという考えはまちがいだよ。お前は今一所懸命勉強することが本当だよ」
といつも注意されていました。しかし僕は生長の家の教えが腹にあったものですから、先生に向って、
「いや違います。先生、今お父さんお母さんがあったればこそ、こうして生きておれるんです。だから僕は、お父さん、お母さんに幸せになってもらうことが、僕の
今の最高の願いです」と言って、一所懸命になって、学校では生徒会の人を全員練成会に連れて行って、仲間が生長の家に沢山なってくれましたし、その時分は、校長先生、
教頭先生、生活指導の先生にも、『生命の實相』を持って行って、勧めました。
つづく
365
:
うのはな
:2012/04/12(木) 00:36:54 ID:El6gIMAw
364 つづき
そうして本当に幸せな毎日を生活して高校を卒業して上京しました。そして横浜で
青年会に入って伝道を一所懸命やっていたんです。そしたら今度、あまりに真理の言葉が解ってきまして、
自分の不完全さがハッキリと解って、自分がつらくてつらくてたまらなくなってきました。
僕は生長の家の信仰に入って、どうしてこんなに苦しまねばならないのかと思って、「よし、僕は来年の九月十八日の
誕生日までに、“神の子”であると言える人間になろう」ときめまして、一年間努力したんです。
そして九月十八日が来て、その夜に“僕は神の子である”と言おうとしたんですけれども、言えないんです。
この一年間、一所懸命に『生命の實相』を読み、神想観をし、愛行していたのに「神の子」と言えない。
言えなかったら死ぬ約束だったものですから仕方がないから、僕は死の決意をしたんです。
そしたらそのとたんに、「お前は死ぬために生れてきたんじゃない!!実相の心を表現するために生れて来たんだ!!」
という言葉が浮かんで来たんです。
その時はもう本当に嬉しくて嬉しくてたまらなかったですね。
「よし、これから僕は愛を行じてゆこう」と決意しまして、今まで以上に熱心にやり始めました。
僕は「般若心経」が好きなものですから、食事の時も、入浴の時も、手洗に入っている時も、常に「般若心経」を唱えて、
「もう一切は無いんだ!!在るのは神の光のみなんだ!!」と唱えていたんです。
そうしましたらある日突然、自分というものがパッと無くなったようになって、宇宙と一つになるというか、ずうっと空間が、
自分の生命の中にあるというか、一切が自分の中にあるように感じて、もうありがたくて、「自分は肉体じゃないんだ。大生命と一つだ!!」と
いうことが解って、見るものあらゆるものが光明燦然と輝いているんです。
これは本当にこの真理を一人でも多くの人に知らせよう。本当にこの真理を知っていただけば、お一人一人が本当に幸せになるんだという自覚が出来ますと
同時に、今までの自分の考え方がまちがっていたことが反省されまして、この世界は、不完全な不自由な束縛に満ちた世界じゃなくて、本当に自分が神の心になった時こそ、
真の自由の世界に生活できるんだと解ったんです。今、自分が不自由に見えるのは、まだ自分の心が神様の自由な心になっていないから、不自由なのであって、これも、神様の
本当の自由を与えて下さるための問題なんだなあということがわかりまして、今は不自由ながらも安心して毎日毎日、ありがたい生活をさせていただいております。
これも皆、谷口雅春先生がお説き下さる、この素晴らしい生長の家のみ教えの賜であり、本当に心の底から感謝を捧げます。
『實相研鑽』第三集 谷口雅春 先生監修
366
:
金木犀
:2012/04/12(木) 06:47:45 ID:y/Po8pPE
役行者様
有難うございます。
新しい時代の足音、本当にその通りですね。
367
:
ハマナス
:2012/04/12(木) 09:41:06 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
無限宝庫の扉を開く鍵 (『新版 生活の智慧365章』P,126)
「真理は生活に応用するとき、力を発揮するのである。応用しない真理は、名儀だけ
自分に書き換えられたが、実際に耕しているのは別の人であるところの「不在地主」
みたいなものである。「不在地主」は、やがて、その所有権を行使する権利すらも
剥奪される時が来るのである。だから、“神の子“たるものは、”神の父“から譲り
受けた資産を無駄に遊ばせないで、今直ぐにその資産なる「無限力」を実践に移す
べきである。
神から譲られた資産の「無限力」と称する宝庫の扉を開く鍵は「信」である。
イエスは「汝ら祈りて求むるとき、既にそれを受けたりと信ぜよ。即ち汝はそれを得ん」
と教えているのはそのためである。また弟子が病人を癒す事に失敗して帰って来たとき、
イエスは、「その病気が重かったのだから止むを得ない」とはいわずに、「汝等、信仰
うすき者よ」と歎(なげ)いているのである。要するに「信」の鍵によって「無限宝庫」
の扉をひらくか開かないかの相違である。」
感謝合掌
368
:
a hope
:2012/04/12(木) 09:43:38 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
強情張るのは自分の損
「君、そんなに強情張るとみんなに、憎まれたり、嫌われたりして損だよ。」
或る深切な友人が、強情っぱりの友人に向かってそう言いますと、
「損だって仕方がない。これが持って生まれた性分なんだから!」
と、強情に突っぱねて、なかなか御自分の癖を直そうとはせぬ人があります。
強情っぱりは損です。かわいそうです。自分自身にも損です。
つまらないとは知っていながら、こんなひとは強情張らずにはいられないのですから、
本当に気の毒なわけです。
私はなぜ強情っぱりが強情を直せないのか、
強情っぱりというものはどんな心の持方から生まれて来るものだか、
しらべてみたいと思います。
「ハハァ、強情っぱりとは、そんなところから出てくる心か、ばからしい。俺はもう強情っぱりなんかやめた!」と、
こうした人がどんどんでて来てくれたらなら、大変に幸いであります。
或る人は素直に「ハイ」という気持になり、或る人はあくまでも強情を突っ張るというからには、
そこにはっきりした理由がなければなりません。
(つづく)
369
:
さくら
:2012/04/12(木) 11:53:50 ID:tPVxKQcE
こんにちは。聖典版デビュー、さくらです。
何度読んでも、魂にひびく、『ヨハネ伝』講義、はしがき、より。
『ヨハネ伝講義』 谷口雅春
はしがき
『ヨハネ伝』はキリストの福音書のうちで最も霊感的な著書である。
だから真にキリスト教を理解し、キリスト・イエスの霊的人格に触れるためには、
『ヨハネ伝』を数十回、数百回読んでキリストの生命に直接触れなければならない。
教会キリスト教についてはむしろ門外漢である私が『ヨハネ伝』を講義するのは僭越のそ
しりを免れないかも知れぬが、既成の教会に属する人たちは、伝統的な解釈や教権にしばられていて、陳き無力な解釈になじんで、却って真にキリストの生命に触れ得ない憾みが
あるのである。レッテルやポスターは「キリスト教会」と称しながら中身は全然、反キリ
スト教を説いている教会すらあるのである。
私が敢て、キリスト福音書の中で最も霊感的解釈を必要とする『ヨハネ伝』の講義の速記
を爰に発表しようとするのは、読者諸賢に真にキリストの生命に触れて新生して頂き度いからである。
「では、汝はキリストの生命に触れたのであるか」と問う人があるならば、
私は躊躇なく「私はキリストの生命に触れ、キリストの魂を理解し得たと信ずる」と答えるであろう。
イエスは、「誠にまことに汝らに告ぐ、我を信ずるものは我がなす業をなさん、
かつ之よりも、大いなる業をなすべし」と『ヨハネ伝』第十四章に断言していられるのに、
何故、現在の概くのキリスト教会では、イエスが行ったほどの奇蹟を実演することができないのであろうか。
イエスの此の言葉をキリスト教会の人たちは、ただ空言として信じないのだろうか。
イエスの言葉を空言として彼らが信じないのならば、何故「キリスト教会」と称う
門票を掲げるのであろうか。またキリストを信じるならば、「我が信ずる者は我がなす業
をなさん、かつ之より大いなる業をなずべし」と云うキリスト自身の証言を何故生活に実
演することができないのであろうか。それは、「キリストを信ずる」と称しながらも、キ
リストの教えを歪めて信じているからにほかならないのではないだろうか。真にキリスト
の教えを歪めないで信ずるならばキリスト以上の奇蹟を実演し得なければならない。
わたしは、どんな既成のキリスト教会にも属しないが、わたしは独自の霊感によって聖
書に接し、キリストの生命に触れたのである。そして、誰よりも深くキリストを信ずる者
である。それゆえに、私たちのグループは、キリスト自身が証言したとおり「キリストが
なせし如き奇蹟を為し、かつ之より大いなる業を為し」つつあるのである。私はイエスと
共に、「わが言うことを信ぜよ。我が父におり、父は我に居給うなり。もし信ぜずば我が
業によりて信ぜよ」と言うことができるのである。
この講座は私たちの道場が東京赤坂にあった頃、生長の家の講師として地方に派遣され
る人たちに、『ヨハネ伝』を講義したときの速記を基本として。それを読みやすいように
文章に書き直して者である。生長の家の講師たちが、いろいろの奇蹟的み業を為すことが
できるのは、この講義によってキリストの生命に触れることになり、「我が信ずる者は我
がなす業をなさん」というイエスの言葉を実演しつつあるからだと言い得るのである。真
の「キリスト教会」とは名称や看板に「キリスト教会」と書かれていることでなく、キリ
ストの福音を間違いなく伝える教会のことでなければならない。私は、あらゆるキリスト
教会に属する人たちが、信者も宣教師をも、ひっくるめて、この『ヨハネ伝』講義により、
本当にキリストの生命に触れることができ、キリストよりも大いなる業をなすことができ
ることになり、まことの「キリスト教会」としてその人類救済の使命を完うせられんこと
を希望するものである。
私は、本書を校正しながら、磔けに釘けられて後復活したキリストが、ペテロと食事を
共にしたのち、「汝この者どもに勝りて我を愛するか」と三度繰り返して訪ねられる処に
至って滂沱として涙せずにはいられなかった。「わが汝を愛する事はなんじ知り給う」と
ペテロが答えると、イエスは「わが羊をやしなえ。・・・・われに従え」と仰せられてい
るのである。名称がキリスト教徒であるばかりでなく真にイエスの魂に触れ、イエスに従
う者のみが真にクリスチャンであるのである。
昭和三十五年八月二十五日
著者識す
370
:
金木犀
:2012/04/12(木) 15:41:44 ID:y/Po8pPE
『秘められたる神示』より「終戦後の神示」
われは7つの燈臺に火を点ずる者である。われは白髪の老翁である。白髪とは久遠永劫より続く無量寿の象徴である。われは彦火火出見尊が魚(な)釣らす鈎(つりばり)を失い給ひて憂ひ泣きたまふ海邊(うみべ)に来りて、尊を龍宮海に導きたる鹽椎神(しおつちのかみ)である。鹽椎神とは水火土之神の謂(いい)である。霊は水火土と顕れ、一切のものは水火土から生れたのである。われは霊の海、創造の神である。水即ち『おしめり』と火即ち『ぬくもり』と『土』の働きとがあって萬物は生ずるのである。黙示録には『われはアルファなり、オメガなり、生と死との鑰(かぎ)を持てり』と録(しる)されてゐるのがそれである。われを単に海の神だと思ふな。龍宮海の神の如くあらはれてゐるのはウミ(生み)の象徴であり、龍宮無限供給の神のシンボルである。われは一切の創造(うみ)の神であるから無にして無尽蔵である。
日本の国が貧しくなったとて歎くことはない。日本の国は不幸にして我れを容れなかったのである。キリストの教会を閉鎖せしめ、そのほか色々の圧迫を加へた。『生命の實相』も不当に用紙を配給せぬやうにして其の出版を閉鎖したのである。われは愛の神であるから神罰を当てたのではない。真理に目を閉ぢ、『我』を突き貫してつひに自壊するときが来たのである。
日本の国民よ、歎くな。迷ひの自壊の後には必ず住よしの世界が来るのである。われを戦ひの神と思ふな。われは平和進駐の神である。住吉とは平和の理想境と云ふことである。わが行くところに平和は来り、わが行くところに龍宮無限の供給は来るのである。キリストはわれの別名であるから、キリストを押し込めたのが可かぬのである。陸前の鹽釜神社でも香取鹿島の神を正面にして、鹽釜の神を傍(かたわら)に押し込めてある。軍国主義の神を正座に置いて、平和の神を別座に一段下におとしてあるのが今までの日本の姿であったのである。このような状態では日本が負けたのも仕方がない。折角今此処にある無限の供給を閉じ込めて置いて、増産を高唱してもそれは空念仏である。
まだ日本の真の姿はあらはれてゐない。今は伊邪那岐神の禊祓のときである。伊邪那岐神は日本の神、日本の象徴である。これから八十禍津日神、大禍津日神など色々の禍が出て来るが、それは、日本が『穢き』心になってゐたときの汚れが落ちる働きであるから憂ふることはない。この禊祓によって日本国の業が消え、真に浄まった日本国になるのである。心を明るく持ち、すべてを神直日、大直日に見直して、禍を転じて福となさねばならぬ。かくて斎女(いづのめ)の神はあらはれ、本当にこの世が斎き清められて、その後に住吉の神があらはれるのである。住吉の神はまだ本当にあらはれてゐぬ。併しもうあらはれるに間もないのである。住吉の神があらはれたら、伊邪那岐神の左の眼が真に清められて、日本の實相荘厳の姿があらはれるのである。古事記の預言を廃れりと思うふな。預言は成就しつつあるのである。ただその預言を間違って解釈する人が多いのである。
(昭和二十年十一月二十七日未明神示)
j
371
:
ももんが《宗教篇・質問》
:2012/04/12(木) 17:39:01 ID:XXCuaQns
>>370
金木犀様
金木犀様、始めまして。合掌、拝。
少し、わかない事が、あるので、御質問させてください。
実は、『終戦の神示』のこのこの箇所の事なのですが、おわかりになりますでしょか?
《陸前の鹽釜神社も香取鹿島の神を正面にして、鹽釜の神を傍(かたわら)に押し込めてある。》
確かに、陸前高田に『塩釜神社』は有ります。
そして、常陸一宮として、『鹿島神宮』、下総一宮とし『香取神宮』が、あり、確かに、“武道の神様“として、有名です。”神示 “に言われてる、戦いの神を前に出した”?チョト疑問に感じたのです。
まず、
①、関東三社と、呼ばれていて、
1、鹿島神宮=建御雷之男神《タケミナカズミチノオノカミ》
2、香取神宮=経津主神《フツヌシノカミ》
3、息栖神社=天鳥船命、別名、鳥之石楠船神
と、住吉三神《底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命》いわゆる、住吉大神様のこと。
私も、最近知っただけですが、三社は地図で見ると、トライアングル情態になり、昔から共有関係にあるようです。どうなんでしょう?住吉三神が、確り、祀られいますが?どうして、神示には、出てこないでしょか?
②、『延喜式神名帳』《延喜5年・927年》には、『伊勢神宮』と『鹿島神宮』と『香取神宮』のみ『神宮』格の称号が与えらていたようです。
平安時代から江戸時代まではこのようだったと、調べたら出ていました。
『神宮』は、皇祖皇宗や平和に貢献した“神”に与えらるようです。
確かに、鹿島、香取神宮は、現在は、していませんが、“式年遷宮”をしていたので、“遷宮式”がある、神宮のようで、皇室、日本を守護した証でありますが、この神示の云わんとすることは、現象的に、辻つまが、合わないようで、何とも、解釈が、難しいなと、思いした。
もし、お解りに、成るようでしたら、教えくださいますか。
解らないようなら、『解らない』とだけで、よろしゅうございます。
大変、不躾な質問になりましたが、文章の粗雑な箇所と、言葉使いの悪い箇所は、御容赦ください。
では、失礼、致します。合掌、拝
372
:
金木犀
:2012/04/12(木) 18:34:05 ID:y/Po8pPE
ももんが様
はじめまして、合掌、有難うございます。
この神示の解説に、その説明が載っているのですが、先ず、生長の家の大神は
住吉大神であり、創造の本源の神であり、無にして無尽蔵の神であり、
また同時に黙示録に現れる白髪老翁のキリストです。
とりあえず、疑問に思われている箇所の説明の部分を以下に転載致します。
鹽椎神は龍宮の大神として陸前の鹽釜にある鹽釜神社におまつりしてあるけれども、私は実際のことを調査していないから確言はできませぬが、この神示によると鹽釜神社の正座の社には香取鹿島の神がお祀りしてあって、鹽椎神を脇社に一段下にお祀りしてあるらしいのであります。
香取鹿島の神といふのは、天孫降臨の際、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の命を奉じて大国主命に国譲りをせしめた経津主神(ふつぬしのかみ)が香取神社の祭神で、武甕槌神(たけみかずちのかみ)は大国主命の帰順後も抵抗して譲らなかった大国主命の御子建御名方命(たけみなかたのみこと)を諏訪湖にまで押しつめてつひに降伏せしめた神で鹿島神社の祭神である。
いづれも軍神であるが陸前の鹽釜神社には、この両軍神を正社に祀って平和な住吉世界の神である鹽釜の神を脇社に押し込めてあり、龍宮無限の神を一段下におとしてあるから、生産増強が空念仏に終わってしまって、つひに生産力の豊富なアメリカに敗北を喫することになったといふのであります。
神を如何に祀るかといふやうなことはどうでもよいやうなことでありますが、それは時の日本国民全体の心境又はその指導階級の心境の表現でありますから、現象はその心境の具象化として、その心境同様のことがあらはれて来るのであります。
しかし、深く現象の奥にあるものを考経てみますならば、その当時の日本の指導者の心境がそのやうであったことも、また日本が敗戦したといふことも、あるべき事物があるべき順序であらはれて来たのであって、それは『古事記』に既に預言的に書かれてゐたのであります。
以上ですが、これによると、戦争当時の頃の鹽釜神社内における配置であり、香取、鹿島神宮と住吉三神の神社の位置関係を言われているのではないようです。
373
:
金木犀
:2012/04/12(木) 18:37:11 ID:y/Po8pPE
訂正します。
深く現象の奥にあるものを考経てみますならば
↓
深く現象の奥にあるものを考へてみますならば
374
:
ももんが《質問・日本篇》
:2012/04/12(木) 20:05:12 ID:XXCuaQns
>>372
金木犀様
金木犀様、丁寧な御回答、ありがとうございます。感謝、合掌、拝。
御回答していただき、ありがく感謝いたしますが、私は、その回答には、今一つ、納得いかないのです。
金木犀様は、以下の様に、雅春先生の御言葉のまま、のべておられます。
《私は実際のことを調査していないから確言はできませぬが、この神示によると鹽釜神社の正座の社には香取鹿島の神がお祀りしてあって、鹽椎神を脇社に一段下にお祀りしてあるらしいのであります。》
しかし、実際は塩釜神社に祀られてるのは、
①、塩椎神《主宮》《この神を住吉神と同じと観てますよね》
②、建御雷之男神《左宮》
③、経津主神《右宮》
を祀っているのです。
ただし、塩釜神社の説明では、次の如くありました。
『陸奥国が平安に成ったので、塩椎神だけを残して、鹿島神、香取神は、自分の宮に帰らた。塩椎神は、地元で塩の製法を伝承した。』ような、言葉は、私の言葉ですが、この様な、事が書いてありました。
押し込めたと?解釈は、何とも、おかしいな、思っています。
私は、こう捉えてます。
①、建御雷之神
②、経津主神
③、住吉神《塩椎神》
は、”三神で一体“として、国を護る役目を果たしていたのだと。
本来、鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の、関東三社に、元々、本籍を置いていた神様でしたが?
陸奥国平定のおりに、住吉神《塩椎神》だけ、陸奥国一宮として、残られた。
関東三社は、綺麗な、三角形を描きます。
ある、意味、パワーバランスが、崩れたと、この神示は、言われてるのと、私は、感じられたのたのです。
ですから。金木犀様の言われ。
《、戦争当時の頃の鹽釜神社内における配置であり、香取、鹿島神宮と住吉三神の神社の位置関係を言われているのではないようです。》
ように、関東三社の位置関係が、関係ないとは、言えないと、思います。何故なら、このような、例えは違いますが、将門公の怨霊を鎮めたりするのでも、古代の人は、良く使われます。これが、正しいか、間違いかは、わかりません。
息栖神社は、応仁天皇様くらいの頃からの、湧水があり。《現在まで続いてる》
私は、この、神示は、内容は、神様の位置や、神様の働きを、知ると、今まで、言われていたこと以上に、深い意味を持ってるきがしたので、御質問させて、いただいのです。
真に、丁寧に、御回答いただき、心より、感謝いましたす。失礼な御言葉になりましたところは、御許し下した。また、自分でも、勉強して見ます。ありがとうございました。
感謝敬白、合掌、拝。
375
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/12(木) 20:40:17 ID:ml49uOrg
金木犀さま、
第1巻の巻頭のヒントを有難うございました。ヒントというより、、、
疑問の回答をズバリ!と思います、有難うございます。
376
:
金木犀
:2012/04/12(木) 21:40:32 ID:y/Po8pPE
ももんが様
ももんが様の仰る意味もあるかも知れません。
鹽釜神社というのは本来住吉大神を祀る神社であり、その神社の祭神である住吉大神を脇に押しやって、
香取鹿島の神を首座に据えたのですから、あるいは仰るようなパワーバランスというものがあって、
それが崩れたのかも知れません。
雅春先生は、此処ではこの神示の解説を人間の心の影と言うことにポイントを
置いて説明されております。すなわち、
神は愛の神であるから、神罰を当てるということはないが、
この世界は、心の影であるから、国民あるいは指導者の心が軍神を前に出し、
平和の神である住吉の神をわきにやる祀り方をするのも、
その精神の反映であり、それはそのまま、軍の方針を表している。
即ち、軍閥が戦争中に、キリスト教を圧迫して諸方のキリスト教会を閉鎖せしめたこと、
生長の家の神様が、”言葉の力”を強調して、必勝の道を授けられたのに、
それを使わずに、「必死、決死、水漬く屍、草生す屍」など不詳な言葉を濫用して、
自然に自ら発する言葉の力に呪縛されて、戦死は増え、水漬く屍や草生す屍が殖えて、
敗戦に至った事を歎いてい給うのでありますと
云うように雅春先生はおっしゃっています。
軍指導者の精神が神の祀り方にも現れているという、
心の影から見た説明ですが、パワーバランスの観点でみると
ももんが様の説明になるのかも知れません。
有難うございます。
377
:
金木犀
:2012/04/12(木) 21:47:19 ID:y/Po8pPE
ユタカ様
ユタカ様の疑問の答えが、あるいはこのことかと思いましたが、
そのものズバリであったとは、嬉しいです。
お役に立ててよかったです。
378
:
復興G
:2012/04/12(木) 22:03:13 ID:ojEbkDH2
『生命の實相』第1巻の冒頭に、『黙示録』第1章12節―20節が掲載されているのはなぜか、というご質問が「部室板」の方にありました。それについて参考になる谷口雅春先生のご文章を、『神ひとに語り給う』(神示講義「教」の巻)より、2回に分けて謹写投稿させていただきます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「新天新地の神示」講義(1)
「七つの燈臺」の意味するもの
さて、聖経の巻頭に「七つの燈臺の點燈者の神示」といふ言葉が出てゐるのでありますが、爰(ここ)に生長の家は一宗一派ではないといふことが、ちやんとこの神示に書かれてゐるのであります。「我は七つの燈臺に燈を點ずる者である」と生長の家の教へを創(はじ)められた神様がみづから言つてをられるのであります。この「七つの燈臺」といふ言葉は、キリスト教の新約聖書の一番終に『黙示録』といふのがありますが、その第一章を披(ひら)いて御覧になりますと次のやうに書かれてゐるのであります。
「われ振反(ふりかえ)りて我に語る聲を見んとし、振反りて見れば七つの金の燈臺あり。また燈臺の間に人の子のごとき者ありて、足まで垂るる衣を着、胸に金の帯を束(つか)ね、その頭(かしら)と頭髪(かみのけ)とは白き毛のごとく雪のごとく白く、その目は焔の如く、その足は爐にて焼きたる輝ける真鍮(しんちゅう)のごとく、その聲は衆(おお)くの水の聲のごとし。その右の手に七つの星を持ち、その口より兩刀(もろは)の利(と)き剣(つるぎ)いで、その顔は烈しく照る日のごとし。……彼その右の手を我に按(お)きて言ひたまふ「懼(おそ)るな、我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ曾(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く。また死と陰府(よみ)との鍵を有(も)てり……」
此の「人の子」といふのは、じつは「神の子」であつて、イエス・キリスト自身が、常に自分を「人の子」と言つてをられた。そして「我れ曾て死にたりしが」とあるのは一度は十字架にかけられて死んだやうに見えたがといふことであります。それで「人の子のごとき者」といふのは、イエス・キリストのことであることがわかるのであります。肉体のイェス・キリストは三十三歳で磔けにかかりましたから、老人ではないのでありますが、それが復活して久遠の古(ふ)りたる無始の昔からの存在として白髪の老翁の姿を以つてこの七つの燈臺の間を歩んでをられるのであります。ヨハネから見たら、どうも人相が「人の子」即ちイエスに似てゐるけれども老人の姿でありますから、どうも、イエスでないかも知れない、それで「人の子そのもの」と書かないで「人の子のごとき者」と書かれてゐるのであります。ところが、その人の子のごとき者は、「我は最先なり、最後なり、世々限りなく生く。また生と死との鍵をもてり」と仰せられてゐるのであります。白髪といふのは老人の老いぼれといふ意味ではなくて、また今漸く三十歳になつたばかりのイエスであるといふ意味ではなしに、久遠の昔から永遠に続いてゐる生き通しの生命を象徴した「白髪の老翁」といふわけでありまして、決して老いぼれのお爺さんといふ意味ではないのであります。「久遠の生命」といふのは百五十歳位の数へられる長壽ではなくて、無限の長壽といふものを象徴した白髪の老翁の姿で示されたので、その「頭と頭髪とは白き毛の如く雪の如く」白衣(びゃくえ)を足先まで垂れた姿であらはれられたのであります。
<つづく>
379
:
復興G
:2012/04/12(木) 22:04:31 ID:ojEbkDH2
<つづき>
「新天新地の神示」講義(2)
これはヨハネといふキリストの弟子の中で、一番靈感の秀れた弟子が、キリストが磔(はりつ)けになりましてから、ローマ帝國の迫害を受けて、パトモス島といふ小アジアの小島へ流されて居つたときに神に祈つて居りましたら、靈感的に、眼は瞑(つぶ)つてをつても眼の前に七つの燈臺の有様が見えて、白髪の老翁の姿がその間に歩みたまふのが見えたといふのであります。その白髪の老翁は一我はα(アルファ)でありω(オメガ)であり――始めであり終りであり、生と死との鍵をもてり」と宣言したまうたことによつて「宇宙の根元の神」であるといふことが明かであります。その神様が出て來られたので、ヨハネはその威嚴にうたれて、そこに平伏(ひれふ)してしまった。そして「死したるものの如くなれり」と聖書には書かれてゐます。単に土下座したといふくらゐのものではないのであって、地面に平伏してしまつて、もう再び起き上る事は出來ないといふ様な状態になつた。そのとき“吾はアルファなりオメガなり、最先なり最後なり、生と死との鍵をもてり”とかう言はれた。この神様が、生長の家の神様であつて「七つの燈臺に燈を點ずる者」でありたまふのであります。キリスト教的に言へば「久遠のキリスト」であります。肉体のキリストは三十三歳で死んだけれども、「本當のキリスト」は、久遠不滅であらせられるのです。『生命の實相』の中には眞理と書いて、「キリスト」とフリ假名をつけてある箇處が所々にあるのであります。「キリスト」といふと、三十三歳でハリツケになつたユダヤ人の男の事だと、かう思つてゐる人もありますけれども、あれはキリストの應現身であつて、肉体的に或る時代に適するように應じて現れた姿であつて、「本當のキリスト」は「眞理」そのものであり、始めなく終りなく宇宙に充ちてゐる所の眞理そのものである訳なのです。その眞理そのものは久遠不滅であるから、初めであり終りであり、永遠に不滅である、といふので白髪の老翁の長壽の姿をもつて人格化して出て來られてゐる――かういふ事になつてゐる訳であります。
<つづく>
380
:
復興G
:2012/04/12(木) 22:07:37 ID:ojEbkDH2
<つづき>
「新天新地の神示」講義(3)
内にやどるキリスト
さて、新たに生れる問題でありますが、キリストの弟子のパウロといふ人が言つてをりますが、「も早われ生くるにあらず、キリスト我れにあつて生くるなり」この自覚が「新たに生れる」生れ更りであります。肉体の自覚からキリストの自覚に新たに生れるのです。自分といふ肉体的な存在が生きてゐるのではなくて、「キリストわれにあつて生くるなり」といふ所の自覚を得ることが、新たに生れることであります。「谷口先生はキリストの再來である」なんておつしやる人もありますけれども、キリストは眞理であり、普遍的な存在でありますから、私だけがキリストの再來ぢやない、皆さんすべてにキリスト――即ち眞理が宿つてゐるから、パウロと同じやうに「キリストわれにあつて生くるなり」といふ自覚を得るならば皆さんは「われキリスト」の自覚を得られたのであつて、キリストの再來であるわけなんです。諸君、「汝自らを知れ」といふソクラテスの言葉を、深い意味に於て如實に知つてですね、「自分といふものは神の生命なんだ。最早われ生くるに非ず、キリスト我にあつて生くるなり」と自覚するんですね。これを忘れるから不可(いか)んのですよ。これが根本問題であつて、戰爭が起るのも、人類の一人一人がキリストだといふ事を忘れてゐるからですよ。自分が「愛」そのものであるところのキリストだといふ事を忘れてゐるところに、色々の争ひが起り、奪ひ合ひが起り、色々面白からざる事が起つてくるのであります。自分がキリストであるといふ事を忘れて、自分は「煩悩の猿(ましら)」であると、ダーウィンの進化論などから、人間は獣類の子孫だなどと思つて、人間が神の子であり、キリストであるといふ事を忘れてゐる――其処に一切の混乱の源があるんですよ。佛教では「キリスト」と言はないで「佛性」と言ふんです。つまり自分に宿つてゐる處の佛性――佛なる本性がキリスト敏では「内在のキリスト」であります。日本的に言へば「ミコト」なるものであります。何宗教にも偏らない用語を使へば「眞理」と言ふべきであります。神道でもキリスト教でも佛教でも同じ事です。生長の家は萬教帰一であります。だから此の講習會に集つて居られる方々には、いろいろの宗教の方々がゐられる。佛教各宗の人も居られるし、キリスト教の各派の人も居られる。或ひは教派神道の方々も居られる。かうして色々の宗教の人が生長の家に來て教へに触れられる。すると、“自分の信じてをつた宗教の神髄は本當はかういふ意味であつたのであるか”といふ事が判つて其の宗教が本當に有りがたくなるのが生長の家であります。それで、自分が燈臺だと言はないで「七つの燈臺に火を點ずる者」といふのであります。
<つづく>
381
:
復興G
:2012/04/12(木) 22:08:49 ID:ojEbkDH2
<つづき>
七つは完成の数でありまして一切を包容する意味であります。燈臺といふのは世を照らす光であつて、世の光となる宗教の象徴であります。ところで、現在はまだあらゆる世を照らす光である筈の宗教が眠つてゐて其の法燈が消えてゐるのであります。もう大分眼が覚めたらしい宗教もあるのですけれども、生長の家が二十七年前に出現した時分は、大抵の宗教は眠つてをつて燈がついてゐなかつたのであります。だからどの宗教でもみな教祖の時代には、いろいろの奇蹟が現れたり、魂を本當に目覚めきせて如實に人間を救ふ事ができたのでありますけれども、それが段々弟子から弟子へ傳はり、それが「又弟子」に傳はりしてゆく中(うち)に、教へが段々水増しをするやうに迷ひで薄まつて、到頭、レッテルだけが「キリスト教」と書いてあつて中身は別物が入つてゐたり、或ひはレッテルは「佛教」と書いてあつて、中身は釈尊のお読きになった眞理がない水だけが入つてゐるといふやうな宗派ができて來ました。そして、さういふ様な中身の異るものを「キリスト教」とか「佛教」とか言つて売つてゐるといふ様な事でありますから教祖が出現せられた時代にあらはれてゐた奇蹟があらはれなくなつた。そしてその奇蹟があらはれないことを弁解する爲に、奇蹟のあらはれる宗教を治病宗教とか新興宗教とか言つて攻撃してをれば、自分の宗教が偉いやうに見えるだらうと思ふやうな間違を犯して、テンとして恥ぢないやうになつて來たのであります。イエスでも釈尊でもはじめて出現したときには、既成宗敏にあきたらないで出発した新興宗教であつて、奇蹟が続々あらはれてゐたのであります――ところがその法燈が途中で消えて居たのですから、人生といふ航路を行く舟が難破するといふのは無理がないといふ訳であります。其処で神様がそれに燈を點(つ)けなければいかん、といふ訳で、世を照らす光の燈臺である各宗の教へに、生きた火を點ずる役目として出現せしめられたのが、生長の家であります。燈をつけるのであつて、決して各宗の燈臺を壊すのではないんですから安心せられたいのであります。だから私たちは決して生長の家へ改宗してやつて來いとは言はないのであります。皆さんの信じてゐられる今迄の宗教のそのままでそれに本當に世を照す事のできる燈がついたらそれでいいんでありますから、生長の家にあらはれた神さまは『七つの燈臺の點燈者』と呼んでも好いといふ風に「新天新地の神示」に示されてゐるのであります。(後略)
<以上>
382
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/13(金) 00:14:20 ID:awZ2qvz6
金木犀さま、
秘められたる神示を教えてくれたり「神人に語り給う」の長文の入力、、本当に有難うございます。(肩をもみ、もみ。。)
打ち込みがメチャ早いですね。私は終戦後の神示を今入力中です。 (内緒話、我が家もこの生長の家関係専用のPCもうすぐこわれそうです、一番古いので、、
カーソルさえもチラチラ点滅状態です。。)準備もありあれもこれも打ち込みたいのですが、、なかなかです。。、明日、時間のあるときに読ませてください、よろしくお願いいします。。。。
余談になりますが・・・秘められたる神示をさがしていると、よく見ていないのですが住吉大神顕祭の祝詞のコピーみたいのがでてきました。ですが、多分50年史にはかいてあるのでしょうね・・・
383
:
ももんが《質問・宗教篇》
:2012/04/13(金) 01:00:00 ID:XXCuaQns
>>376
金木犀様
金木犀様、お返事下さり、ありがとうございます。合掌、拝。
せっかく、お返事くだされたのに恐縮なのですが?
私の言ったことを、勘違いされております。
パワースポットに為ったのは?
息栖神社に、住吉神《塩椎神》の魂が抜けてしまって、三角形に形成されていても、神の御霊がない情態で、力が発揮されない。
一方、塩釜神社の方も?
①、主宮→塩椎神《御霊有り》
②、左宮→建御雷之神《鹿島に帰る御霊無し》
③、右宮→経津主神《香取に帰る御霊無し》
塩釜神社に、鹿島神の宮も、香取の神の宮もあり、主宮には、塩椎神が、祀られてる。しかし、実際は、塩椎神しか、住んで無い。鹿島神、香取神は、関東へ帰り、留守。
だから、
>>鹽釜神社というのは本来住吉大神を祀る神社であり、その神社の祭神である住吉大神を脇に押しやって、
香取鹿島の神を首座に据えたのですから<<
このようには、解釈してましません、間違いて、おられます。
元々、塩椎神を主座に、置いて、“三神一体”でいた神々だったのが、いつの時代から、わかりませんが、主座神=塩椎神を最前線に、残し、香取、鹿島神は、後方に退いたのです。
言わば、退却した形です。
本来、三神一体で、祀ることに、意味があったのではないでしょか?
それが、方位学《パワーバランス》的ことや、昔のことは、無視して、現世利益てき、二神を讃えたからでしょ。
二神を讃えたことは、同じなのですが、塩椎神を押し込めたと云うのは、間違いだと、思と云うことです。
あとの、金木犀様の、御説明文は、私も、素晴らしいと、同感できます。
お返事すると、悪が強くなりそうで、止めようと思ったのですが、私の解釈と違う表現をされてしまったので、あえて、書きました。どうか、悪く思わないでいで下さい。おやすみなさい、合掌、拝。
384
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/13(金) 01:42:44 ID:awZ2qvz6
長文は金木犀さま出なく
復興Gさまでした。ありがとうございます。
Gさま、教団の方なのですか?
385
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/13(金) 01:46:15 ID:awZ2qvz6
長文は金木犀さま出なく
復興Gさまでした。ありがとうございます。
Gさま、終戦後の神示を読まれてGさまが咀嚼した返信とお見受けしました。有難うございます・。
386
:
志恩
:2012/04/13(金) 04:25:32 ID:.QY5jUA6
ユタカ様
ここは、身バレすることは、はっきり言ってはいけない規則になっておりますから、私は本当は言いたくて喉まで出ていますけれどね、
言いませんけれど、
復興G様は、80才を越えられて高齢になられたので、現在は地方講師としてご活躍されてますが、元はといえば、数々の
重職をされてたお方で、燈臺卒じゃなくて東大卒でいらして、元神誌(普及誌)の編集長やその他を、こなしていらしっしゃいました。
聖典に特にお詳しいお方でいらっしゃいますので、「生命の實相」については、分らない事は、このお方にお聞きすれば、なんでも
教えて下さいます。
387
:
金木犀
:2012/04/13(金) 05:17:56 ID:y/Po8pPE
ももんが様
そうでしたか、私はその辺のことは、全くよくわからず、そのために
ももんが様の真意もよく理解できなかったようです。重ね重ね、
質問の真意を誤解してお返事申し上げ、失礼致しました。
ももんが様のご質問の真意に関しては、分からないとしか言えません。
はじめから、そうお答えすべきところ、
こちらこそお手間をとらせまして、申し訳ありませんでした。
388
:
金木犀
:2012/04/13(金) 06:58:27 ID:y/Po8pPE
復興G様
此処に書き込んだあとで、部室板にて復興G様のご投稿を読み、
もう少し待っておけば、よかったと思いました。
実にはっきりと、詳細なる説明をご投稿下さり、私も、G様のご投稿を
読みながら、何か生長の家の使命の深さを改めて感じて、胸がジーンと
来るような、心が振動するような感銘を受けました。
ほんとに神示は、教えの基本であり、この神示を読み学ぶ機会を奪われていますことは
教団の運営、方針、運動に、少なからぬ影響をあたえ、雅春先生の目指されたものから、
外れてしまう原因を作ることになりかねないと思います。
というより、外れることを前提に、神示を読めなくしたと思ってしまいますね。
ユタカ様
復興G様は、私の投稿を読む前に、既に部室板にて、ご投稿下さっており、
その続きとして、この聖典板に投稿されたのであり、たまたま私の投稿の
続きの位置になっただけであると思います。
それにしても、志恩様のお話で、復興G様が80歳の方であると聞き、非常な
驚きです。私など、神示を書き写しただけで疲れて、解釈の部分も書きたかったのですが、
もう書く気力がなくなりました。こういう正漢字、正仮名遣いの文章は、疲れます。
と言っても正確には再現してませんが。
復興G様、正に生長の家の無限力を証しするようなお方ですね。
389
:
ハマナス
:2012/04/13(金) 09:05:48 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。今日も皆さまにとって、最良の日でありますように。
天の網は漏らさない (『新版 生活の智慧365章』P.127)
「あなたの魂の底ふかく欲するところのものをあなたは必ず得ることができるのである。
あなたはその深く欲する事物を「既に受けたり」と信じて感謝するがよいのである。
しかしその深く欲する事物が、それが成就することによって他の人を陥れたり、他の人
の損失に於てそれが成就するような事情(ことがら)を祈っては、それは決して聞かれないか、
或いは自分の念力の強さで一時きかれたように見えても、それは神が与えたまうたものではなく、
自分の念力の強さで、“強奪”したものであるから、“奪うものは奪われる”の心の法則に
したがって、それは結局自分にとって不幸な結果を齎(もたら)し、“奪ったもの”
に利子をつけて返却せしめられるような結果となるのである。天の網は疎(まばら)
なように見えても、決して原因結果の法則から漏らし給うことはないのである。」
感謝合掌
390
:
a hope
:2012/04/13(金) 09:35:16 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
強情張りとは我(が)の強い人
いったい、強情っぱりという言葉をもう一つの言葉でいえば、
「我(が)」が強い人ということになるのです。
この「我」、つまり「我(われ)」とか、「私」とか、「俺」とかいう、
この自分というものが、自分の思うままに、自分の力で生きていると思うと、
どうしても「俺が、俺が」という心が強く働いて、強情を張らなければならなくなるのです。
そうして、そのあげくのはてに夫婦喧嘩、親子喧嘩、その他、
いろいろないやらしいことが起こって来るのです。
(つづく)
391
:
役行者
:2012/04/13(金) 10:44:43 ID:srbdKJr6
復興Gさま
金木犀さま
ユタカさま
>G様のご投稿を 読みながら、何か生長の家の使命の深さを改めて感 じて、胸がジーンと 来るような、心が振動するような感銘を受けまし た 。ほんとに神示は、教えの基本であり、この神示を読 み学ぶ機会を奪われていますことは 教団の運営、方針、運動に、少なからぬ影響をあた え、雅春先生の目指されたものから 外れてしまう原因を作ることになりかねないと思います 。<
いよいよ復興Gさまの再来ですね。ちゃんと肝心なときに来てくださいますね(*^_^*)信じています。
そうですよね。生命の実相、一巻のチョイス、間違いなかったですね。ユタカさん!
雅春先生が生長の家を立教されたその誓願が、この生命の実相、一巻に秘められております。
生長の家は雅春先生が立教されたので、その原点に帰ることは大切なことと存じます。
このことは明らかに、原理主義とは違います。
初代、創始者が記された生命の実相、一巻!
ここを語り合いながら、是非、生長の家の立教の使命をもっともっと掘り下げて、明らかにしてゆきましょう。
そして尚、生長の家が未来に、はたすべき使命を明らかにしてゆきましょう。
その軸足をぶらさないで、治まるものは収まり、分派としてはもちもん、双方認め合い、敬しあいながら、独立した団体として人類を光明化してゆけばいいと思うのです。
まずは、生長の家が立教された、雅春先生の誓願をわかりやすく天下に公表すべきと存じます。
その意味でも、多くの方の参加を私も望みます。
元職員さま、お久しぶりです。
もし、ご都合が付けばご参加願えると、私もうれしいです。
感謝 合掌 再拝
392
:
さくら(ひらがな、)
:2012/04/13(金) 13:05:29 ID:tPVxKQcE
こんにちは!
『ヨハネ伝』講義 谷口雅春
第一講
これから『ヨハネ伝福音書』の講義を致します。生長の家で『古事記』を講義したり聖書
を講義したり、或は仏典を講義したりするのは、どう云う訳であるかと申しますと、生長
の家の集りは、一宗一派ではなく万教帰一の真理を説くのですから、神道の人もやって来
られれば、キリスト教の人もやって来られるし、仏教の人もやって来られる、それらの色
々の人達が指導を求めにやってこられるからであります。集まってくる人の中には何か病
気癒しの秘伝秘術と云う風なものを習いに来たつもりで来る人もあるが、道場に坐ってい
ても秘伝も秘術も何も教えて呉れない。当たり前のことを当たり前に言っている、何だつ
まらないと言うような人があるかも知れませんが此の当り前の処に人生を幸福にする秘訣
も病気を治す秘伝もあるんですけれども、それに気がついて居られない人が多いのです。
太陽は照っておっても、目を閉じて居ったら、実際明るいかどうか分からないのです。そ
れで太陽よりも人工的な光線の方が明るいように思う人がある。電灯がともると昼の光よ
りは明るい様な感じがするけれども、本当は人工光線の照明よりも自然の太陽光線の方が
明るいのです。我々を生かす力も本当は太陽光線の方が多くあって人工光線の中には少な
いのです。人工的なものは或る程度まで効くには効きますけれども本当の生かす力と云う
ものは自然の光の中にあるのだと思ってもらわなければならないのです。そんな訳で生長
の家は、別に手のひら療法でも、気合術でも、霊気療法でもないのでありますから、余所
の宗教のように、そう云う術は教えません。どう云うお札を胸にさげていたらその霊的療
法がよく効くとか、そう云うことも申しません。ただ一切の宗教の真髄を知って戴く、す
ると、宗教というものは「個」の生命を宇宙の大生命に合一せしめるのですから病気も自
然と消えてしまうのです。病気を宗教家が治すのでない。病気は「個」と大生命との合一
が失われているから、その結果起こるのだから、宇宙大生命との合一が回復されたら病気
はないと云う事を説いているのが生長の家であります。
太初に言り、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、万の
物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あ
り、この生命は人の光なりき。光は暗黒に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。
(第一章一〜五節)
これが『ヨハネ伝福音書』の最初にある言葉であります。この『ヨハネ伝福音書』は四
福音書の中で、最も霊的な最も実相をよく描いた福音書でありまして、外の福音書はイエ
スの肉体の親が誰で、どう云う系統で生まれたと云うような、肉体、物質的なことなんか
が最初に書かれてありますけれども、これは初めから、言とは何であるか、神とは何であ
るか、生命とは何であるか光とは何であるかと云うことから書初めておりまして、それに
書いてあることは生長の家に説くところ同じことが書いてあるのであります。無論、読み
方によっては生長の家とは違うようにも読めるのでありますが、宗教は「和を以て貴し」
とするのですから、何宗の経典も其の神髄を掴み出せば、どの宗教でも斯くの如く同じ真
理になるものであると、万教帰一的な真理を教えて宗派の対立をなくすのが生長の家であ
ります。そのつもりで聴いて頂きます。
それで「言は神である」と云うことをはっきりさせたいと云うので、言霊学の極概論を
やろうと思うのであります。
393
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/13(金) 14:31:22 ID:c7OTN61A
うわぁ!さくらさん、またえらいもん見つけてきたなぁ。。。
すごいわ、、ここ。。。。 不動の信仰心養成講座かも・・・
ありがとうございます。
394
:
役行者
:2012/04/13(金) 15:51:03 ID:qBxVkqJs
さくら様
合掌
私は個人的に、ヨハネ伝解釈は大切なことが記されていると思ってます。
この聖書の解釈法を世に、特にキリスト圏に知らしめることは、大業であり、それこそ、表層的解釈でなく、日本的な深層的解釈を世に、特に西洋に知らし召す、絶好のチャンスと思っております。
>太初に言り、言は神と偕にあり、言は神なりき この言は太初に神とともに在り、万の 物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之 によらで成りたるはなし。之に生命あ り、この生命は人の光なりき。光は暗黒に照る 。而して暗黒は之を悟らざりき(第一章一〜五節)<
このコトバは太初に神とともにあり!です。
弁証法的には闇は光のために存在し、やがて光が世を隅々まで照らし、光明燦然と輝いたら、そのとき、闇の使命は終わるのでしょう。
>光は暗黒に照る 。而して暗黒は之を悟らざりき<
ということでしょう。闇は悟ることのできないサダメなのでしょう。
現象世界で繰り広げられている闇の言葉は、あくまでも光の非在に過ぎず、光の言葉があまねく地球を覆ったら・・・
現象的に地球に始めがあった以上、終わりが来ます。
その現象的な ディ エンド は、きっと光あまねく世界の到来!千年王国の到来をしての、歓喜あふれる世界の到来をしての ディ エンドでありましょう、
また、そのときからが、本当の始まりなのかもしれません。
合 掌
395
:
復興G
:2012/04/13(金) 17:36:51 ID:ojEbkDH2
>>388
:
金木犀様。
たいへんな讃嘆のお言葉を頂戴していました。恐縮の極みであります。
私は、金木犀様の、
>>351
〜359までの「矛盾の解決」という谷口清超先生のご文章、感銘深く拝読し、思うところがありましたが、書き込みできないでいました。
何を思ったかと言いますと――
前記ご文章の最後のところに
>この事実を見ても、現象界に起る様々な矛盾や撞着を解消するには、「実相を観る」以外真の解決法はあり得ないと言わざるを得ないのである。これをやらず如何に不幸を恐怖しても、それは不幸を回避する手立てにはならず、如何に戦争を恐怖しても、戦争は消えさるものではない。従ってその反対に多くの人々の心を光明化し、真実の世界が大調和であり、完全円満であることを確信する人々をふやし、愛と感謝と祈りと讃嘆の思いを拡大する「人類光明化運動」を強力に前進させることが、最重要課題であると確信する次第である。<
とありますが、これを拝読して思ったことは――
谷口雅宣先生が、20年以上前だったでしょうか、副総裁時代に、生長の家にやがて別派、分派ができたときのことを予想し(恐怖し)その対策として「法務課」をつくり、規則で分裂混乱を回避する手立てを講じることを計られた、ということを思い出していました。そして、今日の生長の家教団の混乱は、総裁のそうした心の結果なのではないか――と思ったのです。
でも、今、思います。意味のないこと、無駄なことは何一つないのである。「総裁が悪い」と他者に責任を転嫁するのは、神の子のすがたではない。総裁のすがたは信徒われら自身を鏡に写したすがたである、と考えるのが本当ではないか。
部室板の<1797 >に書いたことですが、
<神は、信徒私たちに、もっと真剣さをもって真理を学び、神の子の自覚を持つように、雅宣先生を遣わされ、一見『生命の實相』と谷口雅春先生を否定しておられるかのようなことを言わしめられて、磨いてくださっているのかも知れませんね。私も、雅宣先生に感謝します。>
と、心を入れ替えましょう。そして、いっそう真剣に、命がけで真理研鑽に励みましょう。
ありがとうございます。
396
:
復興G
:2012/04/13(金) 17:54:48 ID:ojEbkDH2
>>325
でハマナス様が打ち込んでくださった「本当の自由」というご文章が、重いです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
本 当 の 自 由
(『新版 生活の智慧365章』P.117)
『吾々は“無限”を求める存在であると同時に,”自由”を求める存在である。何故なら人間は神の自己顕現であり、本来“無限の自由”を内に蔵するからである。「自由」を、何か自分を縛るものを破壊することだ、と考える人があるが、本当の自由は、そのような対立観念、相対的な物の考え方では得られるものではないのである。本当の自由は「絶対者」となることによってのみ得られる。自分が神の自己顕現であり、「絶対者」の自己実現であるとの悟りによってのみ得られるのである。
それ故に本当の自由は、神想観によってのみ得られる。何故なら吾々は神想観によって自己が神と一体であり、絶対者と一体であり、環境とか外物とか見えるものも「他物」ではなく自己の心の顕現であると悟ることができるからである。それだから神想観は真に最高の尊き神人合一の行事であると共に、何人も“本当の自由”を求むる限り修しなければならない修行であって、生ま易しいものではないのである。』
397
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/13(金) 18:08:44 ID:pSGtlyDo
割り込んですみません。
役行者様、
>雅春先生が生長の家を立教されたその誓願が、この生命の実相、一巻に秘められております
そうなんですか!いろいろと教えてください、ご存知のこと、、、あすのWEB誌友会で沢山紹介して下さい。よろしくお願いします。
398
:
SAKURA
:2012/04/13(金) 19:04:14 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
皆様今晩は…
お久しぶりで〜〜す。此処“一週間”ドタバタ!ドタバタ!でしたが…フ〜〜ゥ?
いろんな“精神面の勉強?”になりました。そして、わずかな時間を割いて
投稿者の皆様方の文章を拝読させて頂きながら、つくづく考えされた“一週間”です。
そして、今日!久しぶりに“投稿…”出来る時間的余裕の素晴らしさ!に、
“感謝”申し上げます。
本当に両親から「生長の家」を受け次いで、今!「感謝…」の念で、いっぱいです。
私も両親の“意志”を受け継いで、私なりの「時代に会った伝導」をして行きたいと
改めて思いました。
さぁ〜〜〜“スタ−ト”です。
今日から〜〜〜明日の〜〜〜♫“虹の架け橋”に〜〜〜勉強中です。
■【幸福を招く365章】
―――神の道を歩む人生は滑らかである―――
人間は神の子ですから、人の歩く道は神の歩く道であります。
だから神の道を真直ぐに歩かないでは、自動車に撥ねとばされたり、
崖から墜落したりいたします。人に対して悪意をもったり、
嫌悪の情を感じたり、素直でなく剛情であったり、
人を憎んで赦すことをしなかったりいたしますと、
それは神の道から離れて歩いていることになるのであります。
吾々の歩む人生の行路が滑らかでないのは、神の道を歩いていないからであります。
神の道は愛の道、サ−ビスの道、赦しの道、包容の道、円い道、角の立たない道、
人を助ける道、やさしい言葉の道、利己主義でない道、霊と法悦の道であります。
あなたの生活がこれらの道に乗っているか反省して見て下さい。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。
■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 >231 です!!
399
:
さくら、ひらがなですよ、笑。
:2012/04/13(金) 19:07:51 ID:lrOEyIZg
>ユタカさま
>役行者さま
はじめて、この『ヨハネ伝』講義と出会った体験を、
自分の中では「内なるバベルの塔崩壊…」?と、呼んでいます、笑。
既成のキリスト教解釈で積み上げていた罪観が、ガラガラ音をたてて崩れていくというような、
そんな衝撃の感覚でしたので…。
役行者さまが、仰られたように、
我の力で掴んでは、つかんでは、としてきたものが、
本来実態の無い、闇であり、光の中に溶けていった…
わたしには、それが実感でした。
ユタカさま。
熱心に、そして率直に学ばれる姿勢、貴いですね…
またよろしくお願いします、
ありがとうございます。
拝
400
:
「訊け」管理人(1/3)
:2012/04/13(金) 19:23:48 ID:???
(榎本恵吾記念館・文書館(2)より謹写)
1.天地一切のものは、すでに和解し調和している
神は天地宇宙を創造し給いながら、そのいずくにも記念碑のようなものはたてられていないのであります。神を否定しようとすればいくらでも否定出来るように、全く姿を消してい給うのであります。「神など無い」という人さえも生み給い、その声も神が出させているのでありながら神はご自分を現わしていたまわないのであります。「神は無い」と強く言えば言うほど「それほどまでに姿を消していられる神はまことにも偉大であるかな」と思わしめられるのであります。
尊師谷口雅春先生の著わされた『生命の實相』も、これと同じ姿をしているのであります。萬物を生かし輝かせながら、「自分が救ってやった」というものは少しも無いのであります。「自性(じしょう・そのままで)円満」なる神の子の姿をただただ祝福し、礼拝する、その拝みの姿としてあるのであります。『生命の實相』の中には「物質無し」と書かれているのであります。「物質無し」とは、本自身が「私は無いのです」と無我になって澄み切っているのであります。無我になっているとは、天地一切のものを神仏として拝んでいることであります。ここに「汝ら天地一切のものと和解せよ」ということ、そして和解するとは感謝するということであるということの、その感謝の内容が示されているのであります。本自身が天地一切のものを拝んでおり、感謝と祝福の輝きそのものなのであります。
(つづく)
401
:
「訊け」管理人(2/3)
:2012/04/13(金) 19:25:08 ID:???
尊師谷口雅春先生がお悟りになられたとき、目覚めてみれば天地一切のものが神そのものであったのであります。その心境を尊師は「汝ら天地一切のものと和解せよ」と喜びうたわれたのであります。『生命の實相』や『甘露の法雨』の冒頭に「大調和の神示」がおかれているのは、人間は「仲よくせよ」といってもなかなか仲よくしないから、先ず最初によくわかるように警告を発しておくために、あの神示がおかれているのではないのであります。そうではなくて、「私が悟ってみたら、どんなに殺し合い、憎しみあっているかのように見えていても、そのまますべてが神と神、仏と仏とが抱き合って喜んでいる姿に観えて来たのであります。ありがとうございます」と、尊くも尊師が天地一切のものを拝んでい給うことを示されたものであります。ですから、谷口雅春先生の住んでいられる世界は、すべてが神仏に観えていられるのであります。「神一元」つまり「唯神實相」論からゆけば、「今ここ極楽、天国浄土」なのでありますから、谷口雅春先生だけが悟っており、その他のものはすべて「これからみ教えによって教えて悟りに導いて彼岸に度すべき材料」ばかりが住んでいる、というような天国はないのであります。それ故、谷口雅春先生がお悟りになったということは、同時に全宇宙が悟ったのでなければならないのであります。「同時成道(どうじじょうどう)」なのであります。「同時成道」は釈迦の表現せられた言葉であります。お釈迦さんが悟りの眼をもってごらんになられたとき、山川草木国土悉皆成佛(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)と観えたのであります。そのように釈迦がすべてを拝まれたのであります。これはお釈迦様の「汝ら天地一切のものと和解せよ」の現成であったのであります。
「衆生劫尽きて、この世の焼くときも天人満つる、わが浄土安穏なり」というのが、法華経にありますが、これは衆生が苦しんでいるのに自分だけが一人安穏な状態で嬉しいというようなことではないのであります。それではお釈迦さんは何という冷たい人間かということになります。もしそうであるならば衆生が苦しんでいるのに自分だけが一人安穏としているというのは、『聖使命菩薩讃偈』と矛盾しているといわなければならないのであります。衆生を放ったらかしておいて、自分だけが浄土に住んで衆生の苦しみに対して高見の見物をきめているということになってしまうのであります。果してこんな状態で大慈大悲の釈迦牟尼世尊が安穏としておれるものだろうかという疑問が湧いて来るのであります。世界と自分というものを分けて考えると、お釈迦さんの心境もわからなくなるのであります。やはりお釈迦さんがお悟りになったとき、全宇宙が悟ったのであります。それはお釈迦さんだけがポツンと光となったのではなくして、すべてを解決されているのです。それですから衆生が劫つきて苦しんでいる姿そのままに苦しんでいない仏のすがたを、つまり、自分のいのちと同じいのちがそこにあるのを拝んでいられるのであります。自分が完全であるように、すべての人々の實相が完全に見える、ということを書かれたのが法華経の「自我偈(じがげ)」の真意なのであります。
それと同じようにして、尊師谷口雅春先生の、すべてのもの、つまり天地一切のものへの祝福と礼拝とが録されているのが『生命の實相』なのであります。でありますから、『生命の實相』は神の愛と大生命の大光明の祝福礼拝のすべてを尽して光明のかたまりとなっているとでも申し上げるのがふさわしいのであります。それですから、研修生のみなさんが『生命の實相』や聖典をかかえて歩いていられる姿は、まことにも光り輝く神の子が、光明そのものなる『生命の實相』をかかえていらっしゃるお姿でありまして、まことに尊いお姿をそこに拝ませていただくのであります。
このとき最早、聖典の中の一文字一文字が、神の吾れを讃え給う愛の光そのものなのであります。どのようなことが書かれているのかという前に、すでに聖典全体が光体そのものなのであります。それですから、たとえば研修生の諸君が聖典を手にしていられるとき、聖典の輝きがさんさんとして全身の毛穴から流れ入っているときなのであります。胸にかかえているときは眼を通さずとも直接聖典の光りが胸の中に直射して入って来ているのであります。手でさわれば指先から直接に光明がはいって来ているのであります。
(つづく)
402
:
「訊け」管理人(3/3)
:2012/04/13(金) 19:25:54 ID:???
かくの如くして、天地一切の山も川も緑も青も黄も花々も人々も、光明身である神の子なる自分を讃嘆する神の真理のコーラスであると拝ませていただくとき、すべての人々は、周囲のすべてのものという光りにつつまれていられる姿であるのであります。まさにこれは光りが光りの中で光りしているのであります。「讃嘆の中で讃嘆しているのが研修である」というのはこのことなのであります。何かしら力強きもの、円相なるもの、喜ばしきものの気配がふっくらと自分の眼にふれる限りのものを包んでいるのを感じるとき、そのものとこちらが調和の状態にあることを私たちの本性は知っているのであります。
景色を見て私たちは「いいなあー」という思いが湧いてくるときは、私たちはその景色と調和し、和解し、感謝が通い合っているときなのであります。不調和であるならば「いいなあー」という思いにも、いつまでもふれていたいという気持にも、なれないはずであります。
研修生の諸君が宇治別格本山の境内を景色を眺めながら歩いている姿を見るときがあります。そのとき、その人は景色全体と和解が成立しているのであります。本山を囲む山の木が何十万本あり、木の葉が何億枚あり、土の砂つぶがどれだけあるのか、はかり知れませんが、それらの一つ一つとすべて和解が成立しているのであります。和解が成立しているとき、もう既に神がそこに顕われてい給うのであります。そして自分をとりまくすべてのものが神であるのであります。本当は神がすでに現われ給いて自分を生かし感謝し和解せしめ給うていたのであります。
そもそも私たちは神のいのちによって誕生し、生かされていたのであります。和解のあるところ神があり給い、神のあるところ和解があるのでありました。天地すべてのものに感謝したときに神が顕われるのであります。そして天地一切のものがすでに神であることを礼拝するのが感謝であります。そしてまた天地一切が神であることを拝めるのは、自分のいのちが神であるからであります。すべてにおいて神が神の世界で神しているのが私たちの生きている姿なのであり、實相の世界で實相が實相しているのがこの世界であり、唯神實相、光明一元の教えが生長の家の教えであります。
尊師が啓示を受けられたとき、庭の木が黄金色の光りに輝き、その木の枝から枝に飛びうつる雀が金色に輝いていたのであります。このときすべての生きとし生けるものがこのように拝まれたのであります。尊師が「招神歌」において「生きとし生けるものを……」と言われるときは、このような光明生命として生きているすべてのものを拝み給うているのであります。
研修生が『生命の實相』をひらいてあちらのページ、こちらのページと読み移られる姿は、聖典という光明の木の中でページという光明の枝々をとびかう金色(こんじき)の雀の姿として、尊師は私たちを拝み給うているのであります。また、あちらの部屋からこちらの部屋へと移り、あるいは棟から棟へと移られる練成員のお姿もまた、そのように拝まれているのであります。
『生命の實相』は、ただただそのような生命のほんとの相(すがた)を、讃えに讃えて書かれたものなのであります。
<終了>
403
:
SAKURA
:2012/04/13(金) 20:49:47 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者様 へ
こんばんは…ロ−マ字の【SAKURA】です。御無沙汰していますが…
久しぶりに…【仏教典…】以前からの続きですが“投稿”させて頂きます。
【はじめの第1章…】からで〜〜〜〜〜す!
■第1章 史上の仏
−−−【 第1節 偉大な生涯 】−−−
1.ヒマラヤの南のふもとを流れるロ−ヒニ−河のほとりに、釈尊族の都カピラがあった。
その王シユッド−ダナ(浄飯)は、世々純正な血統を伝え、城を築き、善政をしき、
民衆は喜び従っていた。王の姓はゴ−タマであった。
妃、マ−ヤ−(麻耶)夫人は同じ釈尊族の一族でコ−リャ族と呼ばれる
デ−ヴァダハ城の姫で、王の従妹にあたっていた。
結婚の後、ながく子に恵まれず、二十幾年の歳月の後、ある夜、
白象が右わきから胎内に入る夢をみて懐妊した。王の一族をはじめ
国民ひとしく指折り数えて王子の出生を待ちわびたが、臨月近く、妃は国の習慣に従って生家に帰ろうとし、その途中ルンビニ―園に休息した。
折りから春の陽はうららかに、アショ−カの花はうるわしく咲きにおっていた。
妃は右手をあげてその枝を手折ろうとし、そのせつなに王子を生んだ。
天地は喜びの声をあげて母と子を寿いだ。ときに四月八日であった。
シュッド−ダナ王の喜びはたとえようがなく、一切の願いが成就したという意味の
シッダ―ルタ(悉達多)という名を王子に与えた。
2.しかし、喜びの裏に悲しみもあった。マ−ヤ−夫人は間もなくこの世を去り、太子は
以後、夫人の妹マハ−ブラジャーパティによって養育された。
そのころ、アシタという仙人が山で修行していたが、城のあたりに漂う吉相を見て、
城に来り、太子を見て「このお子が長じて家にいられたら世界を統一する偉大な王となり、もし出家して道を修めれば世を救う仏になられるであろう」
と予言した。
はじめ王はこの予言を聞いて喜んだが、次第に、もしや出家されてはという
憂いを持つようになった。
太子は七つの年から文武の道を学んだ。春、耕耘(こううん)の祭に、父王に従って
田園に出、農夫の耕すさまを見ているうち、すきの先に掘り出された小虫を
小鳥がついばみ去るのを見て、
「あわれ、生きものは互いに殺しあう」とつぶやき、ひとり木陰に座って静思した。
生れて間もなく母に別れ、今また生きもののかみあう有り様をみて、太子の心は早くも
人生の苦悩が刻まれた。それはちょうど、若木につけられた傷のように、
日とともに成長し、太子をますます暗い思いに沈ませた。
父王はこの有様を見て大いに憂い、かねての仙人の予言を思いあわせ、太子の心を
引きたてようといろいろ企てた。ついに太子十九歳のとき太子の兄デ−ヴァダハ城王
スプラブッダの娘ショ−ダラ−を迎えて妃と定めた。
<つづく>
404
:
役行者
:2012/04/14(土) 08:26:23 ID:CXZ0R/p6
>>397
ユタカ(なせば成る我ハ神の子) 様
>雅春先生が生長の家を立教されたその誓願が、こ の生命の実相、一巻に秘められております、 そうなんですか!いろいろと教えてください、ご存 知のこと、、、あすのWEB誌友会で沢山紹介して 下さい。よろしくお願いします<
輪読、Web談のなかから、ともに紡ぎ出してゆきましょう。
たとえば、生命の実相の一巻の見開きに、黙示録が、次に七つの灯台の点灯者の神示が続く、その理由を解明すること自体が、生命の実相の一巻に秘められた真理ですよ。
このような生命の実相、一巻に秘められた真理を、立教の誓願を、みなともに、湧き出ずる泉の如く引き出し、紡ぎ出してゆきましょう。
合 掌
405
:
役行者
:2012/04/14(土) 11:48:26 ID:CXZ0R/p6
>>399
さくら、ひらがなですよ、笑。さま
>はじめて、この『ヨハネ伝』講義と出会った体験を、
自分の中では「内なるバベルの塔崩壊…」?と、呼んでいます、笑。
既成のキリスト教解釈で積み上げていた罪観が、ガラガラ音をたてて崩れていくというような、
そんな衝撃の感覚でしたので…。
役行者さまが、仰られたように、
我の力で掴んでは、つかんでは、としてきたものが、
本来実態の無い、闇であり、光の中に溶けていった…
わたしには、それが実感でした。<
素晴らしい体験ですよね。
この『ヨハネ伝』講義は、聖書解釈のコペルニクス的転換であると思っており
ます。西欧に、キリスト教圏にドンドンと伝えるべきと思っております。
それも、生長の家の使命の一つかと存じます。
406
:
SAKURA
:2012/04/14(土) 22:11:50 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者様 へ
こんばんは…ロ−マ字の【SAKURA】です。大変御無沙汰しておりますが…
昨日に続きまして…【仏教典…】からの続きですが…
皆様も御存じの「釈尊…生涯」を、投稿させて頂きます…。
【はじめの第1章…】からで〜〜〜〜〜す!詳しくは???
■昨日投稿致しました >403 からの続きです…。
■第1章 史上の仏
−−−【 第1節 偉大な生涯 】−−−
3.この後十年の間、太子は春季・秋季・雨季それぞれの宮殿にあって
歌舞管絃の生活を楽しんだが、その間もしきりに沈思瞑想して人生を見きわめようと
苦心した。
「宮廷の栄華も、すこやかなこの肉体も、人から喜ばれることの若さも、
結局このわたしにとって何であるのか。人は病む。いつかは老いる。
死を免れることはできない。若さも健康も、生きていることも、
どんな意味があるというのか。
人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。しかし、
この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることとの
二つがある。誤ったものを求めることというのは、自分が老いと病と死とを
免れることを得ない者でありながら、同じようにそれらのものを
求めていることである。
正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死とを越えた、
人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。今のわたしは、
誤ったものの方を求めている者に過ぎない。」
4.このように心を悩ます日々が続いて、月日は流れ太子二十九歳の年、
一子ラ−フラが生まれたときに、太子はついに出家を決心した。
太子は御者のチャンダカを伴い、白馬カンタカにまたがって、住みなれた宮殿を
出て行った。そして、この俗世界とつながりを断ち切って出家の身となった。
このとき、悪魔は早くも太子につきまとった。
「宮殿に帰るがいい。時を待つがいい。この世界はすべておまえのものになるのだ。」
太子は叱咤した。
「悪魔よ、去れ。すべて地上のものは、わたしの求めるところではないのだ。」
太子は悪魔を追い払い、髪をそり、鉢を手にして食を乞いつつ南方に下った。
太子ははじめバガバ仙人を訪れてその苦行を実際見、次にア−ラ−ダ・カ−ラ−マと、
ウドラカ・ラ−マプトラを訪ねてその修禅を見、また自らそれを実行した。しかし、
それらは結局さとりの道ではないと知った太子は、マガダ国に行き、ガヤ−の町の
かたわらを流れるナイランジャ河のほとり、ウルビルバ−の林の中において、激しい
苦行をしたのである。
5.それはまことに激しい苦行であった。釈尊自ら「過去のどのような修行者も、現在の
どのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をした者はなく、
また、これからもないであろう」と言われたほど、世にもまれな苦行であった。
しかし、この苦行も太子の求めるものを与えなかった。
そこで太子は、六年の長きにわたってこの苦行を未練なく投げ捨てた。
ナイランジャナ河に沐浴して身の汚れを洗い流し、スジャ−タ−という娘の手から乳粥を
受けて健康を回復した
このとき、それまで太子と一緒に同じ林の中で苦行していた5人の出家者たちは、
太子が堕落したと考え、太子を見捨てて他の地へ去って行った。
いまや天地の間に太子はただひとりになった
太子は静かに木の下に端坐し、命をかけて最後の思惟に入った。
「血も涸れよ、肉も爛れよ、骨も腐れよ。さとりを得るまでは、わたしはこの座を
立たないであろう。」これがそのときの太子の決心であった。
その日太子の心はまことにたとえるものがないほど悪戦苦闘であった。
乱れ散る心、騒ぎ立つ思い、黒い心の影、醜い想いの姿、すべてそれは悪魔の襲来と
いうべきものであった。太子は心のすみずみまでそれらを追求して散々に
裂き破った。まことに、血は流れ、肉は飛び、骨は砕けるほどの苦闘であった。
しかし、その戦いも終わり、夜明けを迎えて明けの明星を仰いだとき、
太子の心は光り輝き、さとりは開け、仏となった。
それは太子三十五歳の年の十二月八日の朝のことであった。
<つづく>
407
:
「訊け」管理人
:2012/04/15(日) 09:58:36 ID:???
(昨日のWEB誌友会に関連し)榎本恵吾先生ご文章を謹写――
「いや、私は、釈迦やキリストとは同じではありませんから、これから徐々に修行を積んで、やがて神の子とならせていただくのでございます」という人があるかも知れませんが、これは一見、神に対して非常に謙遜のように見えるのですけれども、また、それだからこそその道を選ばれる人が多いのでありますが、これほど神に対して不遜なことはないのであります。それはつまり「神さま、あなたが完全でありますならば何故、私たちと釈迦やキリストや谷口雅春先生と差別をつけられたのですか。あなたは全能かも知れませんが、私のようにこんなつくりそこないもありますよ。」と言って、心の底では神を恨んでいるということになるのであります。即ち、神をもっとも尊び礼拝し、祝福申し上げて、神に対して素直なる神の子たり得るためには、どうしても「神さま、あなたのお創造(つく)りになられたものには不完全はありません。すべては完全で、つくりそこないは一つもありまん。したがって、私もこのまま完全であります。ありがとうございます。」と喜ぶ以外にはないのであります。そのほかに、“ある時間の後に完全となる”ということを認めたが最後、それが、どんなに、善意に満ち、努力精進のたまものであっても、神を軽蔑したことにしかならないのであります。
「七つの燈台の点燈者の神示」の冒頭に、「今、すべての病人は起つことができる」と録(しる)されていますが、これは、「今、すべての人々は聖使命菩薩として起つことが出来る」ということが示されているのです。今、すべてのものは輝く聖そのものとして、すべてを輝かせるものとして、起つことが出来る。神さまと同じようにいちじるしく輝く、すべてを輝かせ、すべてを生かす側に立っていることが唱われているのであります。「すべての病人」というのは「生長の家に入っている人も、いない人も」ということであります。「生長の家」という形に入らなければ神は光りとして立たせることが出来ないというのでは、神一元の教えである生長の家の外であることになります。天地一切のものを神として、光りとして、聖なる輝きとして感謝し、拝ませていただくのが生長の家であります。「今、すべて」ということが神の創造の完全性を表現しているのであります。「今」というのは、「このまま」ということであります。如何に不完全があるように見えていても、それはすべて神の創造ではなく、現象の仮相にすぎないのです。ここに、すべてのものはそのままで「聖なる姿」を顕わすのです。
全文:
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65631409.html
408
:
a hope
:2012/04/15(日) 10:51:07 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
人間は自分の勝手で生まれない
だが、この世の中に、自分が思いどおりに、自分の力で勝手に生きているのが、
この人間であると考えるのは大変な誤りであります。考えてみましょう。
いったい、この世の中に、勝手きままに生まれて出たくて
飛び出して来た方が、はして幾人おりましょうか?
男の方は、「俺は男になって生まれ出てやろう」と、
そんなことを思って生まれ出ましたでしょうか。
女の方はまた女の方で、「私は女になって生まれて出て、
白粉(おしろい)をつけて、赤い着物を着て、それから……」
なんて考えて生まれて出たでしょうか。
おそらくただの一人もそんな方はないはずであります。
それから、私達の親にしてもそうです。
男の子が欲しいと思っても女の子ができたり、
女の子が欲しいと思っても男の子ができたり、
もう子供なんかたくさんだと思ってもまたできたり、
なんとかして一人欲しいと思っても一人もできなかったり、
本当にままならないものです。
こうした事実を見ますと、人間が人間をつくるのではなく、
人間は人間以外の、何か目に見えない不思議な力で
造られるのだということは明らかです。
この目に見えない力、人間をつくる力を神様、あるいは仏様といいます。
(つづく)
409
:
金木犀
:2012/04/15(日) 15:30:26 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
第四章 地上に於ける人間生活の意義 を謹写致します。
あなた達にとって、何より大切なことは肉体の健康でもなければ、物質的な富の豊富ということでもないのである。あなた達、人間にとって最高必須のものは、あなた達自身の生命の本源にさかのぼって“本当の自分”を知り、その“本当の自分”が“神”そのものであり、“わたし”があなたに宿っているのであり、“わたし”はあなたの肉体という媒体を通して自己顕現しつつあるのだということを自覚することなのである。
天地一切のものは“わたし”のいろいろの段階に於ける自己顕現であるけれども、それらは無意識的の自己顕現であるから、彼らみずからは“わたし”の自己顕現であることを知らないのである。それは単なる顕現されたものであり、受け身的あらわれであるから、彼らは単なる被造物に過ぎないのである。けれども、あなた達は異(ちが)うのである。決して単なる被造物ではないのである。
◯
あなた達・人間は単なる被造物ではないというのは、あなた達・人間は“わたし”自身の意識的な自己顕現として、あなた達の内に宿るところの“神”を意識して此の世に出現しているのだからである。人間の生命が他の生物よりも、一層尊いというのは、その生命が“わたし”自身の“意識的顕現”であり、人体は、わたし自身の“意識的顕現”の“座”であるからである。
肉体の生命も尊重しなければならないというのは、ひとりの肉体の生命がなくなれば“わたし”自身の意識的顕現の“座”がひとつ無くなるからである。
◯
“わたし”の意識的顕現としての“生命”は、あなた達人間の肉体生命を、地上顕現の“座”として、そこの天降って来たのである。人間の肉体生命が尊ばれなければならないのは、それが単なる“人間の肉体”ではなく、神の生命の意識的自己顕現の“座”であるからである。
胎児の肉体生命といえども、それは出産後の人間の肉体生命と同じく“わたし”の意識的自己顕現の“座”として予定されたるものであるから、その尊さは同じことなのである。出産後の“人間生命”は殺してはならないが、胎児の“人間生命”は殺すことは“殺生”ではないなどと考えるのは間違いである。人間は物質的な損得の価値判断で考えたがるので、胎児を殺すのは経済的に安くつくから“殺してしまえ”。そして胎児を殺せば大人の生活が楽になるから、その方がよいなどと勝手気儘な評価をするけれども、神から見れば、“神の意識的自己顕現の座”が破壊されるのだから、その罪悪は大人の肉体を殺すのと同罪なのである。
410
:
金木犀
:2012/04/15(日) 16:12:22 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
第四章 地上に於ける人間生活の意義(2)
人間の肉体は“わたし”の生命が地球上という“場”に於いて自己顕現するための必須の媒体として“わたし”がそれに生命力を与え、“わたし”の設計に従ってその機構が定められて完全に生理作用をいとなむように構造せられたものであるから、不完全な出来そこないというものは本来無いのである。
けれども肉体の自我には完全な自治を与えてあるから、その自我の自由意志に従って、その完全な機構の運転を進めることも遅らすことも、乱調子にすることも、調和ある状態にすることも自由なのである。病気というものも過去の業の自働的あらわれとして出て来るものもあるが、大抵は、人体自身の「病気になりたい意志」の表現として、本来病気でないものが、病気な心をスクリーンに映し出してそれを映画のようにテレビのように見ているのである。そして肉体の感覚は苦しんでいるのに、彼の「病気になりたい意志」はその希望を満足し得たことを痛快に思い、「わしの創作した病気は、どんな医術でも治し得ない最大の傑作だ」とほ’く’そ’笑んでいるのもある。しかし、その「病気になりたい意志」が作り出したどんな傑作の病気があらわれていても、あなたたちの実相である“神の子”の真身は、病まず、老いず、疲れず、永遠に健かに、若々しい金剛不壊不老不憊(ふはい)の霊身である――このことをあなた達は決して忘れてはならないのである。
◯
金剛不壊不老不憊の霊的真身を“肉体の心”が知るためには、その霊的真身の波動を“肉体の心”の現在意識に感受し得るように徐々にその脳髄機構が発達しなければならないのである。機構の成熟発達も必要であるけれども機構の成熟発達だけでは尚足りないのである。その機構を実相の霊的真身の波動を感受し得るように操作の訓練が必要なのである。機構の成熟発達は電子計算機のハードウェアの整備のようなものであり、その操作の訓練は電子計算機のソフトウェアのようなものである。
◯
脳髄機構が成熟発達し来るにつれて、人間はだんだん物質的なものに直接触れてその波動を感受する触覚から、稍々物質から離れて感受し得る臭覚、更に離れた距離に於いて感受する力をもつところの聴覚等が発達して来、ついに数十億マイル彼方にまで離れている天体から発する光の波動まで感受し得る視覚が発達して来るのである。しかし此等はいずれも物質の波動を感受するのであって、霊的波動を感受する程度にまで発達していないのである。これでは彼の魂は、まだ物質界という囹圄(れいご)の中で右往左往しているだけなのである。彼らはまだ物質の世界のみに住んでいて霊的世界に住む段階にまでは発達していないのである。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板