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聖典引用 板
511
:
ハマナス
:2012/04/24(火) 08:46:29 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
今日は、谷口輝子先生の24年祭がございます。
祈り合いの神想観 (『新版 生活の智慧365章』P.136)
眼底の網膜剥離で、自分のために読書するのだったら、十分間と継続して読書できない人が
他の人の腎臓炎を治してあげたいと思って幾時間もその腎臓炎の患者の枕頭で『生命の實相』を
読んであげたら、その腎臓炎の患者も症状が非常によくなったが、自分の網膜剥離も軽快して
少しも痛まなくなったと云う体験談を発表された誌友があった。
生長の家本部の飛田給練成道場に於ける「祈りの神想観」と云うのは、互いに相向かい合って
自分の病気(その他の不幸)や自分のことは全然忘れて、互いに相手が神の愛によって既に完全
に癒されていることを観ずる神想観であって、それが驚くべき奇跡的効験をあげつつあるのも、
「自己」忘れて他を救おうと云う「愛」そのものになったとき、神の愛は完全に流通するものだと
云う実証である。天理教で、悪因縁を断ち切って完全に業から解放されるためには、「わが身
わすれて日の寄進」と教えているのも正しい事である。寄進と云うのは必ずしも労働奉仕ばかり
ではない。寄進と云うのは布施行と同じことである。報いもとめず唯与えることである。
「祈り」を与えるのも偉大なる布施である。
感謝合掌
512
:
a hope
:2012/04/24(火) 08:57:13 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
素直が一等大なる美徳
私達は素直になる事が一番必要であります。生長の家の生き方は素直な生き方であります。偉い者は偉いとして、偉くないものは偉くないとして、光は光として、影は影として正直に一切のものをそのまま受容(うけい)れる心持には、ちっとも無理がありません。無理があるのはどこかに本当でないところがあるのです。耳が聞こえないとか、目が見えないとか、或いは鼻がよく利かぬとか、蓄膿症とかいう人の中には、素直な気持ちが乏しい人が多いのであります。
素直な気持ちが乏しい場合、すなわち総てのものをそのまま受容れる心がない場合には、心の目を閉じ、心の鼻を抑え、心の耳を塞いでいるのでありますから、それが肉体にあらわれますと、目が疎くなったり、耳が聞こえなくなったり、鼻が利かなくなったりするのであります。蓄膿症や、乱視や、中耳炎などはこれから起こることがあります。それですから、健康のためにも成功のためにも何でも素直な心、ハイハイというような心持、一切のものをそのままありがたく受容れるという心持になることこそ非常に大切であります。
すべてを素直に受容れる心は神の心であります。神というものは善にもあれ、悪にもあれ、太陽の照るがごとく一様に光を与えてくださる、これが本当の神であります。この大包容の心持になった時、病気の治る事はもちろんですが、総ての事業にも成功するのであります。これが生長の家の生き方であります。小さい心は小さいおかげしか受けることができません。
太陽に黒点があっても黒点なんか目もくれないで、太陽の光の良いところばかり讃歎(さんたん)して吸収する、そうすると私達は生き生きと自分自身がその太陽に育てられて伸びてくるのであります。私達は科学者が太陽の黒点を研究している間に黒点なんかを忘れてしまい、「ああ私の暖かい太陽よ!光の太陽よ!」と喜ばねばなりません。そういう人は必ず発達し成功するのであります。
(つづく)
513
:
ハマナス
:2012/04/25(水) 00:05:29 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
女子会の板の方にも、引用させて頂きましたが、今日4月24日は谷口輝子先生のご命日ですので、
こちらにも謹写いたします。
谷口輝子先生著『めざめゆく魂』の『はしがき』
彼女というのは私の妻のことである。人間は、彼がどんな女性を自分の妻にするかということによって、
自分の運命が変わってくるのである。若し私の理想に向かって彼女がついてくることを拒んでいたならば、
また、拒まないにしても反対意見をもっていたならば、私はただの会社員で一生涯を終わっていたかも知れないと
思うのである。彼女は私が浴衣一枚の着のみ着のままで縄の帯を締めて、世界で一ばん貧しい生活をするのが理想
だと思っていた時、結婚してくれたのである。たしかには売れるという目算もない精神修養の雑誌を出して”人類
光明化“と云う大それた運動を起こすというような第三者から見たら狂喜の沙汰だと思えるような仕事を私が初め
ても、反対するどころか、それこそ人間としてうまれた生き甲斐であるといって激励し協力してくれたのが彼女である。
もし、彼女がそんな理想には、とて馬鹿らしく随いていけないというような妻であったならば、私は屹度、その運動を
つづけて行く勇気を失っていただろうと思われるのである。私はこの随筆を最初のページから読みながら、生長の家の
人類光明化運動の今日のあるのは、まったく、この妻のお陰であると自然に感謝の念で眼がしらが熱くなるのを感じた。
(中略)
こうした問題とたたかいながら彼女は始終かわることなく私の理想について来てくれたのである。私は妻の協力に支え
られつつ、突兀(とつこつ)たる人生の険路を越え、色々の迫害や侮辱やマスコミの見当ちがいの批評に耐えながら
生長の家の人類光明化運動が、実際に多くの人を救う今日の実績を築き挙げるに至ったのである。それは神が私に「真理」
の炬火(たいまつ)を授けられた結果であり、人々が救われるのは、その「真理」の力によるのであって、私の自力では
ないに相違ないけれども、この運動の初期時代の貧しさと、色々の困難とをものともせず、四十年間もの長い間、この
「真理」の炬火をもちつづけて人類の先頭に立って走りつづけてくれた妻があったればこそであるのである。まったく
この随筆の著者は私の魂の半身であると共に、生長の家・人類光明化運動の半身でもあるのである。
本書を読む人はその随想随筆に始終一貫して流れている清潔は魂の声に必ず何らかの共鳴を得られるに違いないと思う
のである。
昭和四十四年二月十一日 谷口雅春先生
514
:
95%ロムの信徒
:2012/04/25(水) 09:19:13 ID:tWP7OEjY
甘露の法雨
神
ある日天使生長の家に来りて歌い給う
創造の神は五感を超越している六感も超越している・・・・
五感六感を超越しているもをどうやって感じたのだろうか・・・
私には7感というものがあるのだろうか・・・ずっと疑問なんです。
515
:
95%ロムの信徒
:2012/04/25(水) 09:20:35 ID:tWP7OEjY
突然 すみませんでした。
516
:
a hope
:2012/04/25(水) 09:42:05 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
花びらの降るような褒め言葉(前半)
人の悪口(あっこう)を言う暇があれば、良き言葉を発すると、自分自身がその良き言葉の力によって育てられるのであります。善き言葉は空から花びらが降るような、音楽が聞えてくるような美しい感じがしますが、悪しき言葉は雷のように吾々の心を真黒にするのであります。空から花びらが降るように讃嘆(ほめたたえる)語(ことば)をもって雨降らすのが生長の家の生き方であります。
この世の中を住みよくするのも住み難(にく)くするのも、皆さん自身の言葉一つできまります。必ずしも金があるから、それで人間は幸福(しあわせ)だというものではない。金が幾らあっても、その家の中が針の筵(むしろ)のように苦しい世界であって、奥様がヒステリーになったり、子どもが疳虫(かんむし)になったりしていてはなんにもなりません。
それで皆さんは今日から、空から花びらが降るように、いつも善き言葉を雨降らそうではありませんか。皆さんの口から常に花びらのような良い言葉が出るようになったら、どんな狭い裏長屋におりましても、そこがこの世の極楽となり天国となるのであります。たいてい会社や、工場商店などの勤め先へ行ってもやはり能率がはっきり上がらないで、そのために勤め先で又ぶつぶつやっている。その結果、昇給もしないという事になります。事業の発達しないのも、元はと言うと、皆家庭が悪いのであります。
家庭の中で讃(ほ)め合わず、暗い心持で、責め合っている時には、事業は失敗し、工場や鉱山では故障が起こり、子供の健康も成績も悪くなります。何事も家が元になるのでありまして、生長の家へ来れば病気が名乗るという事も、要するに人間の身体の病気を治すのではなく、心の持ち方をかえさせて家の病気を治すのであります。家の病気を治すと言っても家に何かあるのではない、それは家の家族の互いの調和という事ができていないことです。家族と家族とが調和していなければ、喧嘩しながら互いに争って熱心に『生命の實相』を読んでも、病気もなおらないことがあり、成績がよくならない場合が多いのです。だから何よりもます家族同士仲よくして互いに褒め合う生活をして『生命の實相』を読む事であります。褒める言葉ぐらい結構な言葉はないのであります。
ところがなかなか家族同士が褒め合えないものであります。というのは、それは現象(あらわれ)に執(とら)われて、目前の姿に執われて、人間の実相(ほんとうのすがた)を見失ってしまって、人間が神の子である、ここが現実(このよ)の浄土であるということを忘れてしまって、ちょっと何か外に現れた失敗があると、それに執われてしまって、一分間あった失敗を一時間ぐらい怒鳴りつける。その上、そのことをいつまでも心に持続けるというような事をしているような人たちの集まっている家庭は、いつも面白くないのであります。そして「自家(うち)の親爺は一日中叱言(こごと)ばかり言ってる」と言う奥さんもありますけれど、必ずしもそうではないので、本当はその御主人が偶(たま)に十分間ぐらい怒鳴った事を、一日中叱言言うと誇張して奥さんが考えている場合が多いのです。
それは、心の中にその叱言を常に持続けているから、十分間位ちょっと叱言を言った事が一日中言った様に思えるのです。どんな悪い主人でも、どんな疳癪持ちのお父さんでも、一日中叱言をいう主人はいないのであります。ときたま叱言がある場合でも、それは一日のうちの何分の一に過ぎない叱言であります。
(つづく)
517
:
うのはな
:2012/04/25(水) 18:01:46 ID:El6gIMAw
奇跡のごとく見えるもの
昭和五十三年四月二十一日。
府中青年会の招請を受けて衛藤氏宅の二階で講話していました。そのとき、片岡委員長から申し出があり、
午後九時からはスライドを映写する時間にして欲しいということでした。それで、十分前に話をやめて、委員長の方に
バトンをわたそうとしたのです。
すると、片岡氏は非常に困った表情をしてこういうのです。
「実は、幻灯機を自動車内においたまま、鍵がかかってしまって出すことができません。
鍵も車内の腰掛けの上においたままです。もう二時間も前から府中や国分寺の町の鍵屋を探し、万能鍵を買って
きてあげようと努力してみましたがどうしてもあきません。万策つきました。
もう先生に祈っていただくより外しかたない状態です。よろしくお願いします」
参会者は皆生長の家の誌友で、祈りに理解のある人たちなので、相談することにしました。
「今、委員長が話した通りです。祈りによって自動車の中にあるスライドを出してこようということになったのです。
それで、これから皆さんと一緒に祈ることにしますが、そんなバカげたことはできるはずがないと思われる方は、申しわけありませんが
席を外して下さい。祈りについて疑いをもっている人の念が、祈りの実現を滅殺してしまうことになりますので、ぜひ御協力をして下さい。
祈りについて真正面に信じている人だけ残って下さい。
つづく
518
:
うのはな
:2012/04/25(水) 18:25:24 ID:El6gIMAw
517つづき
では、祈りにうつりますが、その前に、祈りについての心のリズムをととのえる言葉を唱えますから、
眼をつむったまま静かに聞いていて下さい。このように心をととのえることが第一の関門です。
● 祈りに入るための心の姿勢
次の聖句を繰返し念じます。
為し得ばというか、信ずる者には、凡ての事なし得らるるなり。(マルコ伝 九 ニ三)
なんじら心を騒がすな、神を信じ、また我を信ぜよ。 (ヨハネ伝 一四 一)
神は凡ての事をなし得るなり。 (マタイ伝 一九 ニ六)
怖るるなかれ、我なんじと偕にあり (イザヤ書 四三 五)
かつ祈りのとき何にても信じて求めば、ことごとく得べし。 (マタイ伝 ニ一 ニニ)
われ汝の行為を知る、汝は冷やかにもあらず熱きにもあらず、
我は寧ろ汝が冷やかならんか、熱からんかを願う。かく熱きにもあらず、冷やかにもあらず
ただ微温が故に、我なんじをわが口より吐き出さん。 (黙示録三 一五〜一六)
されば大いなる報いを受くべき汝らの確信を投げすつな。
なんじらの神の御意を行いて約束のものを受けん為に必要なるは忍耐なり。
いま暫くせば、来るべきものきたらん、遅からじ。 (ヘブル書 一〇 三五〜三七)
誠に汝らに告ぐ、人のもし此の山に「移りて海に入れ」と言うとも、其の言うところ必ず成るべしと
信じて、心に疑わずば、その如く成るべし。 (マルコ伝 一一 ニ三)
つづく
519
:
ももんが《宗教篇・聖典》
:2012/04/25(水) 18:48:28 ID:XXCuaQns
〜根源と礎《いしずえ》〜
人間は創造されつつある。それは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるため、また、それによって、自分の魂を救うためである。
さらに、地上の他のものが創られつつあるのも、人間のためであり、人間が創られた目的を達成する上で助けるためである。
従って、人間は、それらのものが自分の目的を達成する上で助けとなる度合いに応じて、それらを用いる必要があり、妨げとなる程度に応じて、それらを放棄しなければならない。
そのために、われわれは、自分の自由意志に委ねられ、禁じられていない限り、われわれの方からは、病気よりも健康を、貧しさよりは富を、不名誉より名誉を、短命よりも長生きなどを好むことなく、ただわれわれが創られた目的へよりよく導くものだけを好み、選ぶべきである。
〜イグナチオ・デ・ロヨラ著『霊 操』より〜
520
:
うのはな
:2012/04/25(水) 20:16:44 ID:El6gIMAw
518つづき
次に、祈りの実現のための瞑想の注意を申します。
1 願望成就には、あらゆる疑惑がなくなってしまうまで、信じて瞑想を続けます。
2 願望は必ず実現すると、ハッキリと心に確信します。
3 ズバリ、その欲するものを得たりと深く信ずるまで瞑想を続けます。
4 この信仰は幼児のように全く単純であればあるほどよろしいのです。
5 これまでに神がないたまうた事蹟をかぞえあげて、神への感謝の大饗宴をひらきます。
神への感謝こそ霊的生活への冒険の第一歩であり、最も重要なことです。
では、神想観にうつります。
招神歌をとなえます。
大いそぎで神様を招ぶときは、「すみのえのおおかみ」と感情こめてくり返しよびます。
谷口雅春先生がお示し下さった方法は、熱心に「神よびうた」を唱えることです。
そうすると具体的な導きをいただくことができます。
次に、神様に対する大いなる信頼と感謝の心を湧きたたすことです。
神の眼は雀の涙さえ見まもりたまう。一羽の雀も神のゆるしなくては屋根より落つることとはないのです。
ましてや神の子人間については、親さまなる神は、わが心のすみずみまで知りたもうて、わが求むるに先立って、
なくてはならぬものを知りたまい、それを与えたくて与えたくてたまらないのが神の愛です。
ですから、私たちは、神様にお願いするよりも、ただひたすら神様の救いを受ける最大の近道になっています。
その近道のパイプをひらくにはどうしたらよいかと言うと、今までの人生で、神様が具体的にどんなにか自分を愛し、
わがためにどんなにたくさんの導きをして下さったかを数えあげて、その一つ一つに丹念にお礼を申しあげて、随喜の涙を
流さんばかりの感動をこめて感謝もコトバをささげることにします。そうして、わが願いについては、神様はすでに御存知であって、
今、それを実現する道を講じておられるのだと、安心してすべてを神様のなさることにおまかせするのであります。
では、皆さん、それぞれに、これまでに神様から戴いた御愛念を探しだして感動こめてお礼をする行事をはじめて下さい。
各自、それぞれ黙然に入る 」
私は、『生命の實相』にふれて以来、数々の奇跡ともいうべき神様の恩寵について思い浮かべては感謝の大饗宴をひらいた。
先ず第一に、わが家の子どもたちは、神様にお願いしていただいた、神様から授けられた宝である。
この世の何ものをもっても代えることのできないすばらしい神の子を授けて下さった神様に、無限の感謝をささげます。
学芸大学(当時は師範学校)に付属中学が新設されたとき、校長にならせて下さいと神様にお願いしました。
一旦は任命されたのが御破算になり、民主的な選挙制度となって選挙になりました。波乱万丈のなかで、神様はいつもはげまして下さり、
僅少差で当選させて下さいました。あのときの神様の導きがなければ、私は、あぼごたごたをのりきることはできませんでした。神様ありがとうございます。
次に、大学教育になるための資格審査がありました。私にはもとるべき学歴も学問上の成果もあげてなかったのに、全く不思議という外はありません。
奇跡的に文部省の資格審査にパスしました。私は早く業績をあげ、学位を取得する必要にせまられ、あせりにあせって、学者としは全く致命傷の失敗をしてしまいました。
そのとき、神様は、私に本当の信仰というものを教えて下さいました。
何とお礼を申しあげてよいかわかりません。
つづく
521
:
SAKURA
:2012/04/25(水) 22:27:16 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
今日!「生命の実相」拝読しながら〜
■生命の実相抜粋・・・
『文章術によって生命力を振起する道を拓いたのが
『生命の実相』である。学と術とはちがう。現象学は正確に
告げる必要があるし、現象学は現象を正確に告げる必要があるし、人を生かす術は
現象を飛び越えさせてしまう。』 (谷口雅春著)
此の文章に、心打つものがありました。「現総裁先生…」の書物…
現代版としてマッチ致すものと、私なりに解釈致しました。此処で、改めまして、
『投稿』という形を、とらさせて頂きます…。
■■ 【 心でつくる世界 】
【序章 生長の家の世界観】
―――現実は仕方がないのか?―――
「それが現実だから、仕方がないよ」
―――こういう言葉を、我々は学生時代によく使った記憶があるだろう。その頃は、
子供から大人になりつつある時期だから、家庭や学校で学んだ「正しい生き方」
とか「理想」や「夢」を胸に抱きながらも、そのような望ましい生き方ができず、
あるいは自分の希望が実現しないことが多かった。そんな時、「壁にぶつかる」と
いう表現もよく使ったはずだ。もちろん、大人になっても同じ言葉を使いたい時は
あるだろう。が、大人は“ 現実 ”が何であるかを先に見越して「仕方がない」
ことに手を触れなくなりがちだし、あらかじめ “壁 ”との接触を避ける方法を
考え出していたりする。また、夢などとうに失っている場合には、 “壁 ”の
存在も感じなくなっているかもしれない。だから多くの大人は、学生の頃の覇気を
失い、“現実”や “壁” とは闘わなくなる。そういう “敵”が自分より強い
ことは、もう十分経験してわかっていることだからだ。
このようにして我々は、いつの間にか “現実”や “壁” というものが、自分
一人の手にはとても負えない、何か堅固で、頑丈で、恐るべき存在であるかのような
印象を心の中に作り上げてしまう。そして次第に、そのようなものが ”現実世界“
であり、客観世界であると思いこむようになる。自己は現実の外側に違和感をもって
対峠し、自分と客観は対立してくる。重要なのは、この迫り来る “現実” とどう
取り組み、“客観世界” にどのようなインパクトを与えるかだ、と思う。
だから、「現実的な生き方をしろ」と言えば、「理想や夢を追うのは価値がない」という
ニュアンスが含まれ、「主観的な問題だ」と言えば、「あまり重要でない」という意味が、
その背後にある。
そのように広大で、硬質で、無情な世界の中で、人間はたった一人で生きて
いかねばならないと思うと、我々は時に、たまらなく不安になり、寂しくなる。
そこで恋人や家族にその「不安」や「寂しさ」を癒してもらおうとする。
また、この孤独の不安の問題を解決するために、宗教の門を叩く人もあるだろう。
すると、そんな人に向かって「宗教に入るのは、現実からの逃壁だ」と非難する人も
出てくる。また、「孤独に耐えられない弱者の溜り場が、宗教だ」と言う者もいるだろう。
こういう宗教批判者の心の中には、独力で “壁”を破り、“現実”を
自力でネジ曲げることができるのが強者であり、人生の勝利者であるとの考えが
あるのだろう。そこには、やはり“現実世界”堅固で、容易に変えることのできない
世界が、本当に我々の周りにあるのだろうか?
<つづく> No.1
522
:
SAKURA
:2012/04/25(水) 22:28:30 ID:FEa/NNlc
<つづく> No.2
祇園精舍の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりを
あらはす。おごれる人は久しからず、只春の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。
これは有名な「平家物語」の出だしだ。平家の登場と降盛、そして滅亡の様子を、
年代を追って長編叙事詩として描き、天下を自分のものにした者もいずれ滅びるという
「盛者必衰」の仏教的無常観をよく表している。「諸行無常」とは、
すべての人間の行いは、常に移り変わり、常なるものはない―つまり、我々の周りの
世界は、堅固で、動かし難いものではなく、いつも流動して変化して
止まることがない、というわけだ。
日本人ならば恐らく誰もが、学校でこの文章を読んだことだろう。そして、「無常」
ということの意味を学んだはずだ。にもかかわらず、社会から出てから
「現実は堅固だ」という印象をもっているとしたら、それは一体どうしたことだ。
我々はもしかしたら、“現実世界”は変化するが、自分の周りの“壁”だけは堅固
だという、奇妙な認識をもっているのかもしれない。この考えが、なぜか奇妙か?
それは、自分のまえにある“壁”が現実ではないという意味になるからだ。
“壁”が現実でなければ、それは“夢”のようなものであり“夢”が堅固である
はずがないからだ。
再合掌
PS:
次回も…引き続き“続編…”投稿させて頂きます…。
■【「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板】に、私なりの解釈論を、
投稿させて頂いておりますので…。
523
:
ハマナス
:2012/04/26(木) 00:01:41 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
愛他心は自己の病を癒す (『新版 生活の智慧365章』P.127)
九州の鹿児島だか宮崎高の講習会で、こんな体験談を述べた人があった。
一生懸命、自分の結核を治したいと思って神想観と祈りとを続けていたが、中々治らなかった。或る日、彼は神誌を
読んでいるうちにふと気がついたのであった。「自分は自分の病気を治すことばかりを念じて神想観をしていたが、
それは一種の利己心の表現でしかなかった。利己心を去ったとき、其処に神の救いがあらわれるのである」
そう考えてこの人は、もう自分の肺結核を治そうという考えを棄ててしまった。そうして神想観をするときには主として,
”世界平和の祈り“を念じたのであった。
「神の無限の愛われに流れ入り給いて、われに於て愛の霊光燦然と輝き給う。その光愈々輝きを増して全地上を覆い、
全ての人類の心に愛と平和の想いを以って満たし給うのである。」この祈りを毎日続けていたが、或る日ふと気が
ついてみると肺結核が完全に癒されているらしいので、医師にレントゲン検査をして貰ったが、結核の痕跡は全然
消えてしまっていたのであった。
感謝合掌
524
:
ハマナス
:2012/04/26(木) 00:04:11 ID:u5mC.eb2
すみません、訂正いたします。
宮崎高ーー>宮崎県
525
:
a hope
:2012/04/26(木) 09:14:43 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
花びらが降るような誉め言葉(後半)
ところが「自家(うち)のおやじは一日中叱言(こごと)言う」とか「一年中叱言を言っている」とか考えているのは、そう考える奥様や子供の心の中に「叱言」がいつまでも忘れられずに貯えられているからです。そういう場合にはどうもその家庭は面白くないから、良人の方でもあんな家内に話しかけても面白くないと思って奥様の部屋に行かないで、夫婦一つ屋根の下で同棲していながら、黙って十日も二十日も物も言わずに暮らしているような状態になる事もあります。
そんな状態はなぜ起こりかと申しますと、それは「悪いこと」をいつまでも心に持っているからであります。「悪い事」をするのは悪いには相違ありませんが、「悪いこと」を心に持っているのは尚いけないのです。なぜなら悪いことを実行するだけなら、やってしまったあとはもう無いのですけれども、心の中に持っている時は、その悪いことを何時(いつ)までも何時までも持っているからであります。
悪い事はなんでも忘れる事が、生長の家の生き方でありまして、たまには腹が立ってもよろしい。しかし五分間もしたらその腹立ちが心の中ですっかり帳消しになって忘れてしまうようでないといけません。それを生長の家では自壊作用と申しまして、業が解消する作用の一つとして叱言が出たり夫婦喧嘩をしたり、時には攫(つか)み合いをするという事がありましても、それは決して悪い事ではないのでありまして、過去に溜まっておった自分の念(おもい)―――その念の鬱積(うっせき)というものが形になったのであって、形に現れた時、内部の心もつれは消える時なのであります。
たまたま主人ががんがん言っても、「これはありがたい、これで二人の間の蟠(わだかまり)が今夕立のようにあらわれて明日は晴れるのだ、これで二人の中が晴天になるのだ」と思うと本当に晴天になって、よけい中が良くなる事になります。会社、工場で上役や同僚(なかま)の者とイザコザが起こるのも同じこと、業が消えてなお一層よくなる。「これはありがたい!」と感謝の心で受ければ、その後は一層よくなるのです。そういうふうに致しますと、私達の生活が本当に生長の家となり、栄える家の生活になるのであります。
(つづく)
526
:
金木犀
:2012/04/26(木) 09:26:24 ID:gUphdZ4w
『生長の家』誌 昭和53年10月号から謹謝致します。
生長の家入門講義 谷口雅春先生
(ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)
夫の浮気が本妻の肉体に病気をあらわした実例
今日はひとつ三角関係の解消した実例を話したいと思います。
私が日本の高知県の安芸市という所で講習会を開いて、講習会の最後が終りまして、その後で幹部会が開かれたのであります。
そこにはその町の生長の家の幹部が三十人ばかり集まっておりました。そこひとりの男が遅れて参りました。その遅れてきた男を他の幹部の人が指差して、「この人は小林君と言うんです。新聞記者なんですよ」
と言って紹介しました。そこで私は「あー、あんたは新聞記者ですか、何という新聞の記者ですか」と尋ねました。その人は答えました。「そんな大新聞じゃないんですよ。実はこの町の商工業の職業紹介の連絡機関みたいな新聞なんですよ」と言いました。「実は私の本宅と神戸との間にある芦屋という町にあるんですが、商用をもって私はこの町へ時々来ていたんです」彼はこう言って体験を話し出しました。
「そしたら或る女に引っかかりましてね、そしてこの町から離れられなくなったんでございます。それでこの町に滞在する口実を設けなければならないので、それでここで商工業の機関新聞みたいなものを拵えて発行することにしたんです。そうしたら、女性の本能で、芦屋における本妻がそのことを知りまして、非常に嫉妬心を起こしたんです。嫉妬心を起こしましたらそれが忽ち肉体に現れまして、家内の肉体の生殖器に変なおできが出来まして、何だか生椎茸の腐ったような形をして、押えてみるとブヨブヨとして、そんなおできが出来たんです。これは医者と家内自身と私の他は誰も知らないんですが、医者が色々と薬を変えてみるけれども、どんな黴菌か判らないので、どうしても治らなかったんです」
ところが、その時分にその地方に住んでいた坂井正義という生長の家の地方講師をしている先生がおりまして、その先生に本妻の奥さんが導かれたというのであります。坂井先生は奥さんにこう言われた。
527
:
金木犀
:2012/04/26(木) 09:27:57 ID:gUphdZ4w
生長の家入門講義(2) 谷口雅春先生
(ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)
夫が浮気する原因は?
「夫が浮気して他に女を拵えるのは、夫に対する愛情が足りないからするんですよ」と、そして、「他に女の愛情を求めるような夫は、それは本妻から貰いたいところの愛情に飢えているからだ。やさしい温かい女らしい愛情を本妻が充分満足するように捧げてくれないから、夫は女性的なやさしい愛情に飢えて、何処かに愛情のお腹の減った自分の心を満足させるような相手はいないかと思って、フラフラしていると、丁度そういう女がおって、それに引っかかるということになるんですよ。日常生活中に夫が不満を感ずることと云えば、例せば、あなたは夫がこうしてくれとこう言ってもその通りハイと素直にしないことも色々あったり、夫がこうしたいと言ってもなかなか素直にしないで、尻が重く動かなかったこともあるでしょう。そういう小さな不満足が積ると、夫は妻が自分に対して冷たいと感ずるようになるのです。妻の外に女を拵えるような夫は、本当は妻を愛し過ぎて、もっともっと妻から豊かなる愛情を欲しいと思っているのに、それを与えてくれないから、この愛情の空腹をどこか別の女から得ようということになるんですよ。だからね。夫が浮気をしたのはあんたが悪いんですよ、夫にお詫びをしなければいけません」
と言いました。
その奥さんは言いました。
「夫にお詫びをしようにも、夫はなかなか家へ帰って来ないんですもの」
坂井先生は言いました。
「帰って来ないでも、お詫びの心は通ずるのです。人間はどんなに距離がはなれておっても、心と心とは無線電信以上に通ずるんですよ」
こう説明してから、次のよう念じなさいと教えました。
「それには神想観をしてから夫の顔を思い浮かべて、名前を唱えて呼び出し、そのような気になって、“今迄私は妻として愛情の献げようが足りないのでございまして、誠に申し訳ございませんでした。これからは豊かにあなたに愛情を献げまして、あなたの仰る通り何でも素直にさして頂きますから、どうぞ、私の所へ帰って来て下さいませ”と真実を籠めてお念じなさい」
妻は夫のお妾または愛人を憎んではならない
それから坂井先生は、
「あんたはその第二夫人を、お妾を憎んでいるから、憎んでおったら何時まで
経っても、そのお妾は消えないですよ。憎む者は嫌う者は益々現れるんですよ」
と言いました。
528
:
金木犀
:2012/04/26(木) 09:29:10 ID:gUphdZ4w
生長の家入門講義(3) 谷口雅春先生
(ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)
何故お妾に感謝しなければならないか
「あんたはそのお妾に感謝しなければなりません。何故なら、そのお妾はあなたが夫に対する仕えようが足りないもんだから、妻という者は男にはこのように親切にして仕えるんだ、という手本を示してあなたに教える為に、お妾として現れていらっしゃるんですよ。だからそのお妾に感謝しなければならんのです。その感謝を神想観のうちに念じなさい」
と言いました。そうして、
「神想観の姿勢をして眼の裏にそのお妾の姿を思い浮かべ、名前を唱えてその魂を呼び出して、次のように念じなさい」と教えました。
お妾を解消するために念ずる言葉
その念ずる言葉は次のようであります。
「今迄私の夫を貴女が愛して下さいまして有難うございます。私の献げる愛情の足りない所を、あなた様が補って下さったんで御座いまして、まことに有難うございます。若し貴女が私の足りない愛情を補って下さらなかったら、私の夫は愛情に飢えて、あるいは気が狂っておったかもしれないのを、それを助けて下さったのは貴女の愛情で御座います。有難うございます。然しこれからは私は豊かに夫に愛情を献げますから、もう貴女様には愛情を補って頂かなくても結構でございますから、どうぞお引き取り下さいませ。今迄のご親切を感謝いたします。有難うございます」
こういうふうに念ずるように教えたのでありました。
彼女は教えられた通りに三日間熱心に念じました。三日目には本当に精神が統一して、この祈りは必ず通じたという感じがしました。そしたらその彼女即ち自分の妻の生殖器に出来ておった生椎茸のような形をしたその変な腫物(おでき)は姿を消してしまいました。
「それと同時にそのお妾も姿を消しちゃったんです」
と小林くんは言うのでした。
私は小林くんに尋ねました。
「お妾が姿を消したと仰ったが、どうなったんですか」と。
小林くんは答えました。
「ああ、彼女は死んじゃったんですよ」と無造作に言うのでした。
こういうように、お妾を拝んだら死んだ実例を私は三つ程、講習会の体験談で聞かされておるのであります。それはお妾出現の使命が終ったからであります。
529
:
金木犀
:2012/04/26(木) 09:30:24 ID:gUphdZ4w
生長の家入門講義(4) 谷口雅春先生
(ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)
お妾出現の使命について
大体お妾という者は、その本妻の奥さんの心を教育するために現れているところの、愛情の先生でありますから、だから本妻の心が今迄夫に対して愛情が、愛情の捧げようが足りなかったということに気が付くまでは、それを追っているために姿が消えないのであります。そのお妾がもう已に寿命が来て死ぬ筈になっておっても、その本妻の心が本当に自分が悪かったと気が付くまでは、その妻の教育者としてこの世に滞在しなければならないから生きているんですが、その本妻が“ああ、私が悪かった、夫に対する愛情の献げようが足りなかった”と気が付いたら、もう教える役目は終ったというわけで、寿命の来ているお妾さんは、これで死んでしまうということになるわけであって、すべてのお妾は、彼女に感謝して拝んだら、皆死ぬというわけではないのであります。
今より一層家庭が幸せになる真理
さて、小林君は自分のお妾が解消した話の次に、こういう話をしたのであります。
「先生、ただ今私が遅刻して参りましたのは、実はこの会場から五軒あちらに、料理屋があるでしょう。あの料理屋のマダムの恵美さんというのが、この講習を受けに来ていたんです。その恵美さんの夫は六ヶ月も前から家出をして行方不明になっておったんです。ところがその恵美さんが講習を聴いていましたら、先生は妻が夫に愛情を献げるのは、このようでなければならないという話をなさいましたね。“夫というものは自分の宅(うち)が一番気兼ねなく、気安らかで、誰に遠慮もなしに足腰延ばして自由になれる一番居心地のいい、安らぎのある場所なのです。その最も安らぎのある筈の家庭に居ることが出来ないで、そしてよそへ飛び出して行ったり、女を拵えたりするのはそれは本妻がその一番安らぎのある場所に夫を置かないで、夫を追い出すようなそういう険しい雰囲気を持っているから、そういうことになったんだ”という話を先生はされました……
「それを聴いた時、恵美さんは、六ヶ月前から夫は自分の家を飛び出して行方不明になっていたので、こんな一番夫にとって安らぎのある家庭に、居ることができないようにしたのは誰がしたんだろう、私がしたんだ、私が悪かった。“夫よ赦せ、赦せ、赦せ”と心で繰り返しながら涙を流して、そして先生の続きのお話を聞いておったんです。それで恵美さんは講習会を終って自宅へ帰りました。突然今まで蒸発して行方不明だった夫から電話がかかって来とったんです……」
530
:
金木犀
:2012/04/26(木) 09:31:24 ID:gUphdZ4w
生長の家入門講義(5) 谷口雅春先生
(ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)
恵美さんの夫は、高知の町から六十哩も離れている宇和島という町に居ったんですけれども、妻の恵美さんが講習を聴きながら、“夫よ、赦せ、赦してください、あんたが出て行かなければならないようにしたのは、この私の愛情が足りなかったからです。赦して下さい。赦してください”と涙ながらに、一心に念じて居ったその時間に、夫は急に自分の妻君のことを思い出したんです。夫婦は幾十哩も距れていても心は通うのであります。……
小林君は続けてこう話されました。
「その夫の電話はこのように言いました。
『今日突然お前のことを思い出してね。そしてお前の顔を見たくて仕方なくなった。けれども距離が六十哩もあるからお前の顔を見るわけにいかんから、せめてお前の声だけでも聞きたいと思って、今電話をかけて居るんだよ。もう一週間程もしたら私がここでやりかけている事業が一段落終るから、そしたら帰るから待っていてくれよ』
こういう電話がかかって来て居ったんです。そこへ私は行っておって話をきいていたので遅れて来たんです」
この小林君の体験が語るように、六十哩も距(へだ)てておっても、妻の心が夫に対して冷淡である時には、その夫は妻の愛情に飢えて妻のいる家から飛び出しておったのに、妻の心がクラリと変って、夫にお詫びをする心になると、その夫は妻恋しくなり、せめて妻の声だけでも聞きたいと言って、電話をかけるほど妻に対して夫が、愛情を戻して来たということはですね、夫の心の状態は妻の愛情を反映するものであるということを現しているのであります。
この真理をお聞きになりましたら、きっと皆さんの家庭は今より一層幸福におなりになることを信じます。
531
:
うのはな
:2012/04/26(木) 10:40:58 ID:El6gIMAw
>520つづき 『奇跡の教育』 鹿沼景揚 先生著
近年になってからのことです。生命学園の練成会が富士河口湖道場であったとき、
四万円の盗難事件がありました。あのとき、神様にお祈りしましたら、「ものがなくなるということはない。
それはお金がある場所から別の場所へ移動しただけである。天地一切のものに感謝し、神のつくりたもうた世界では、
あるべきものが、あるべきところに、ちゃんと返っていると、強く念じなさい」と教えられて、その通りにしましたら、
とうとうお金が自然にでてきた、そして盗みをしたという犯人もいないということを教えていただきました。
神様はすばらしいことを教えて下さいます。ありがとうございます。
さて、いよいよ道場から帰京するとき、K君の車にのせてもらうことになりました。
そうしたら、鍵がドアーにさしこんだままで、おしてもひいてもとどうしてもビクともしません。
どうすることもできないで、K君が祈ってほしいと言ってきました。三十分くらい道場の祈りの間で祈っていると、
K君がきて、鍵がとれましたというのです。あのときも、神様がみわざをなさしめたのでした。
このようなことは、合理的な科学精神からは全く理解することはできません。
全く不合理なことを神様は解決してしまうのです。
私は次から次へと神のなしたまうみわざをたたえて、感謝の饗宴をひらいてたのしんでおりました。
すると耳元で声がするのです。「先生、幻灯機がでました。もうスライドが写せます」
片岡委員長の報告がありました。
私は、おわりの祈りの言葉を唱えて神想観を終りました。
『奇跡の教育』 鹿沼景揚 先生著 奇跡の教育ノートP36〜
532
:
ハマナス
:2012/04/26(木) 12:50:43 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんにちは。もうすく、ゴールデンウイークですね。私は、都会を離れて関西の方面へ
行きたいと思っています。
明日のWEB誌友会が大成功でありますように。
主権を神様に返せ (『新版 生活の智慧365章』P.138)
神に完全に無条件降伏せよ。神は全ての癒す力を持ち給うのである。神は戦争に於ける占領軍のように、
こちらに抵抗の心があるのに無理に暴力をもって進駐して来られる云うことはないのである。神は一切の
ものの生みの親として、また創造(つく)り主として、吾等の人事に潜在主権をもち給うのである。
しかし、吾々自身が「我」の仮主権を握って頑張っている限りは、その仮主権を排除してまで、神の潜在
主権を実行に移し給うことはないのである。
神の全能の完全なる機能を、わが身体及び人事、事業等に於て実現しようと思ったならば、完全に神に
主権を返還して、神の叡智によって、自分の一挙手一投足を支配せしめるようにしなければならないので
ある。神に主権を返還するなどと言えば、自分以外の「神」に自分の主権を奪われるかのように錯覚する
人があるかも知れぬが、「神」と云うのは、自己の霊なる“本当の自分”なのである。“肉体の自我”の
主権を“霊の自我”の主権に譲り渡すことなのである。
感謝合掌
533
:
ももんが《聖典》
:2012/04/26(木) 18:37:04 ID:XXCuaQns
〜修証義〜
第一章総序
生を明きらめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏心あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時初めて生死を離れる分あり、唯一大事因縁と究尽《ぐんじん》すべし。
人身得ること難し、仏法値うこと稀れなり、今我等宿善の助くるに依りて、已に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇い難き仏法に値い奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし、最勝の善身を徒《いたず》らにして露命を無常の風に任すこと勿れ。
無常憑《たの》み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停《とど》め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡《しょうせき》なし、熟観《つらつらかん》ずる所に往事の再び逢べからざる多し、無常忽ちに至るときは、国王大臣親ジツ《注①》従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉《こうせん》に赴くなり、己れに随い行くは、只是れ善悪業等のみなり。
〜つづく。
※《注①》の『ジツ』は、漢字では、『目匿』と書く、『なれる』とも読む。
端末になかったので、カタカナとしました。
『修証義』は、曹洞宗で『仏戒』を易しく、説いた、聖典です。
以上。
合掌、拝。
534
:
a hope
:2012/04/27(金) 10:14:14 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
善い言葉は人生の宝(前半)
善き言葉は人生の宝であります。何がなくとも「深切」は言葉でできるのです。貧乏では深切ができない、金がなければ深切ができないというようなものではないのであって、私達は深切の第一歩を言葉によって実行する事ができるのであります。人に深切な言葉をかけてあげる、人が意気消沈している時にそれを鼓舞(こぶ)して高め上げるような言葉を出す、これが深切であります。
人が誰も同情してくらない、淋しくなって人生を呪うような心の起こった時に、本当に深切な表情をして、深切な微笑を投げかける、これが深切の実行であります。誰だって微笑はできるのでありまして、その深切な微笑がどれだけ相手を生かすことになるか分からないのであります。私達は、なんにも持っていないから深切ができないと言うのはあまり物質的な考えに執(とら)われているのであります。
本当に深切にしようと思えば、どんな場合でもできないという事はないのであります。常に優しい心持をもち、愛に満ちた霑(うるお)いのある心を持ち、人に接する時、拝み合い感謝し合い、相手を尊敬して、その自信を失わしめない。これが深切の中の一番深切になるのであります。どんなに金をやっても或いは物をやっても、本当にその人を尊ばなければ深切にはならないという事になります。
「貴様みたいな仕方のない奴はこいつやるから持って帰れ」と乱暴な言葉を出して千円札を放り出したところが、それは深切にはならないで却って恨まれるかも知れません。物を与えても相手を怒らせるのは、それは深切にならないのです。物をやらなくとも相手を生かして喜ばすようにすれば、それが本当に深切をした事になるのであります。
(つづく)
535
:
ももんが
:2012/04/27(金) 10:43:08 ID:XXCuaQns
>>534
a hope様
a hope様、おはようございます。毎朝、素晴らしい、御投稿文、ありがとうございます。合掌、拝。
先日は、静観して、頂きありがとうございます。感謝、礼拝。
さて、お話は、変わります。
先日、a hope様は、静観して、いただいた事に関しましてて、感謝しております。
しかし、その後a hope様は?私へ、祝福や賛嘆を何故?
されなかったのでしょ?
最も、さいそく、するわけでは、ないですが、いつも、a hope様は、この様に言われてますね。
①、『わたしの愛する「生長の家」のみなさま、』
と?
これは、誰にされているのですか?《心の奥に差別の心が存在してる証》
先日、復興G様へ御言葉は、ありました。
しかし、私へはありませんでした。《その事は気にしてません》
その行い、行動を見るなら、上の言動と矛盾していますし。
先日の行動は、私へ当て付けの行動だったととれるわけです。
ahope様の行動は、『憎しみのみ』行動であり、感情に流された、行動であったと、理解します。
それが、a hope様の言う
②「真の生長の家の教え」
なら、間違えた、行いであり、行動だと、思うしだいです。
私は、先日、a hope様の『憎しみの感情』も、私は感受してしまったので、
神様の火で、“浄心行”させて頂きました。和解の祈りも、させて頂きました。
本日は、朝から、気分の良くない、お話をして、真に、申し訳ありません。
しかし、a hope様の心の影を観たものですから、御自分で、気づいて、頂きたく、この様に、言葉にいたしました。真に、差別なく、許し与えらる心を、取り戻して、頂きたく、心より、御祈りしております。
ありがとうございます。
合掌、拝。
536
:
ハマナス
:2012/04/27(金) 17:52:11 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。。
勇敢に困難と取り組め (『新版 生活の智慧365章』P.139)
「人生には一面、色々の苦痛や困難がある。それを苦痛とし困難として受け取るかどうかはその人自身の“受け方”(精神的受け方)によるのである。
それらの苦痛や困難があるということは、恰も学校で学ぶ過程に於て色々の学科があるのと同じことである。勉強家は、その困難な学科を学習し、
問題を解いて行くことに却って喜びを感じるが、或る学生はそれを困難として苦痛として感ずるのである。
私たちは人生の色々の学科を学ぶべく色々の問題にぶつかるのであるが、それを困難として苦痛として受け取らずに、喜びとし、楽しみとして受け
取らなければならないのである。若しあなたに何らかの困難な問題が起こって来たならば、それを回避し、それから逃げだそうなどと考えてはならない。
たとい一時その問題から逃げ出しても、それはあなたの魂の進歩について必要な学習であるから、再びそれに類似の問題を課せられることになるので
ある。だから人生の問題については進んで勇敢に取り組んで解決するようにするがよい。その人の魂がその学科を卒業し得た心境に到達したとき、
その問題はあなたの人生から消え去るのである。」
感謝合掌
537
:
SAKURA
:2012/04/27(金) 21:07:57 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者様 へ
こんばんは…ロ−マ字の【SAKURA】です。御無沙汰していますが…
久しぶりに…【仏教典…】以前からの続きですが“投稿”させて頂きます。
【はじめの第1章…】からで〜〜〜〜〜す! 続編です…。
■ 第2章 永遠の仏
−−−第1節 いつくしみと願い−−ー
1.仏の心とは大慈悲である。あらゆる手だてによって、すべての人びとを救う大慈の心、
人とともに病み、人ともに悩む大悲の心である。
ちょうど子を思う母のように、しばらくの間も捨て去ることなく、守り、育て、
救い取るのが仏の心である。「おまえの悩みはわたしの悩み、おまえの楽しみはわたしの楽しみ」と、かたときも捨てることがない。
仏の大悲は人によって起こり、この大悲に触れて信ずる心が生まれ、信ずる心に
よってさとりが得られる。それは、子を愛することによって母であることを自覚し、
母の心に触れて子の心が安らかとなるようなものである。ところが、
人びとはこの仏の心を知らず、その無知から愛着を起こして苦しみ、煩悩のままに
ふるまって悩む。罪業の重荷を負って、あえぎつつ、迷いの山から山を駆けめぐる。
2.仏の慈悲をただこの世の一生だけのことと思ってはならない。それは久しい間の
ことである。人びとが生まれ変わり
死に変わりして迷いを重ねてきたその初めから今日まで続いている。
仏は常に人びとの前、その人びとにもっとも親しみのある姿を示し、
救いの手段を尽くす。
釈尊族の太子と生まれ、出家し、苦行をし、道をさとり、教えを説き、死を示した。
人びとの迷いに限りがないから、仏のはたらきにも限りがなく、人びとの罪の深さに
底がないから仏の慈悲にも底がない。
だから、仏はその修行の初めに四つの大誓願を起こした。
一つには誓ってすべての人びとを救おう。二つには誓ってすべての煩悩を断とう。
三つには誓ってすべての教えを学ぼう。四つには誓ってこの上ないさとりを得よう。
この四つの誓願をもととして仏は修行した。仏の修行のもとがこの誓願であることは、
そのまま仏の心が人びとを救う大慈悲であることを示している。
<つづく> No.1
538
:
SAKURA
:2012/04/27(金) 21:10:04 ID:FEa/NNlc
<つづく> No.2
3.仏は、仏に成ろうとして殺生の罪を離れることを修め、そしてその功徳によって
人びとの長寿を願った。
仏は盗みの罪を離れることを修め、その功徳によって人びとが求めるものを
得られるようにと願った。
仏はみだらな行いを離れることを修め、その功徳によって人びとの心に
害心がなく、また身に飢えや渇きがないようにと願った。
仏は、仏に成ろうとして、偽りの言葉を離れる行を修め、その功徳によって
人びとが真実を語る心の静けさを知るようにと願った。
二枚舌を離れる行を修めては、人びとが常に和合して互いに道を語るようにと
願った。また悪口を離れる行を修めては、人びとの心が平らかでうろたえ騒ぐ
ことがないようにと願った。
むだ口を離れる行を修めては、人びとに思いやりの心をつちかうよにと願った。
また仏は、仏に成ろうとして、貪りを離れる行を修め、その功徳によつて人びとの
心に貪りがない様にと願った。
憎しみを離れる行を修めて、人びとの心に慈しみの思いやりがあるれる
ようにと願った。
愚かさを離れる行を修めて、人びとの心に因果の道理を無視する誤った考えが
ないようにと願った。
このように、仏の慈悲はすべての人々に向かうものであり、その本領はすべての
人びとの幸福のため以外の何ものでもない。仏はあたかも父母のように人びとを
あわれみ、人びとをして迷いの海を渡らせようと願ったのである。
<つづく>
539
:
a hope
:2012/04/28(土) 06:38:40 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
善い言葉は人生の宝(後半)
人というものは、物を貰う癖がつきますと、相手に依頼心(たよりごころ)が生じて来、却ってその人が堕落することもあります。すなわち深切が却って仇を成すとはこの事であります。あの勤勉家の蜜蜂も、インドの持ってゆけば、そこは花が常に咲いているからよく蜜が取れるだろうと思って蜜蜂を連れていったら、蜜蜂はインドはいつも花があるから蜜を貯えて置く必要はないと思って働かなくなり、いっこう蜜がとれなくなったという事を本で読んだ事があります。
ですからあまり物があり過ぎると、人は働かなくなり、立身出世する必要もなくなって依頼心ばかり増長する恐れがあります。だから物を与える事は賢い智慧をもって適当な与え方をしなければならないのであります。生長の家では「出せば出すほど殖える」という諺がありますが、それでも所わきまえず相手わきまえず、金を無暗にだすようなことではいけません。
出すという事は、物を出しただけではいけないのです。もっと智慧を出さなければならないのです。生命を出さなければならないのです。物ばかり出すのが殖えるのであれば、家の財産を全部浪費して懶(なま)けていれば財産は殖えるということになるはずですが、決して殖えないのであります。物ばかり出すのが、「出せば出すほど殖える」というのではありません。
本当に出して殖えるのは自分の中にあるところの智慧を出し、愛の力を出し、生命の働く力を出して、みんなを生かすことにして出せば、出すほど殖える。ところが智慧を出し惜しみして、生命を出し惜しみしていながら、「私は物を出したが殖えない」と言って小言を言ってもそれは殖えないはずであります。「物質」は本来ないものです。「無いもの」を出しても殖えないのが当たり前です。有るものを出したら殖えるのです。
では、「本当にあるもの」とは何であるか、それは物質ではない。私達の「生命(いのち)」「智慧」「愛」「誠」……これが本当にあるものです。その本当にあるところの「生命」「智慧」「愛」「誠」……を出したとき「出せば出すほど殖える」事になります。金を出すにしても、物を出すにしても、それに「生命」をつけて出し、「智慧」をつけて出すところに、初めてそれがぐんぐん殖えてくるのです。
日本を再建するには力の出し方、物の出し方、節約の仕方には是非とも智慧を出し、愛を出し、生命も出し、力も出す、そうすれば出せば出すほど無限に物が殖えて来る、せまい日本でも、資源(もの)が足りないなどの心配はないのであります。今自分の手許に合っても要らぬものを蔵って置くのは、その物の生命を生かさない事になりますから、そういう品物は、紙屑でも何でも出して循環させる……そうすると出せば出すほど殖えます。紙屑でも糸屑でも布切れでも何一つ捨てないで、それを有用の方面に出す―――こういうふうに、智慧と愛と生命とを出すようにすれば、到る所に宝が満ちている。この世界は無限供給の世界であります。
(第9章「他人の生かし方」終り、次回から、第10章「働き方の生かし方」へ)
540
:
ハマナス
:2012/04/28(土) 09:06:09 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。こちらの板にも、再投稿させて頂きます。
毎晩寝る前に、雅春先生のテープを拝聴していますが、最近、
『真理の吟唱』の中に印象に残るところがありましたので、謹写させて頂きます。
想念感情を浄める祈り (『真理の吟唱』P.57より)
神の“平和の霊”よ、吾に臨(きた)り給え。われを平和の雰囲気をもって包み給え。わがうちに“平和の想念”をもって満たし給え、
“調和の霊”をもって満たし給え、争いの心を起こさしめ給うことなかれ。憎しみの感情を起こさしめ給うことなかれ。憂え悲しみの念
(こころ)を起こさしめ給うことなかれ。すべての暗黒なる想念感情を、太陽の光を乗せた朝風が、夕べの霧を吹き払うがごとく雲散霧消
せしめ給え。ああ我れかく祈り奉る。
ああ神の霊(みたま)わがうちにあり、神の霊わがうちに輝きわたる。霊の光あまねくわが内にあり、また、わが外を包めり。
わがうちに神のコトバあり、神がそのコトバにて天地の一切のものを造り給いしが如く、われも亦わが身辺、わが運命の一切をわが
コトバにて造るのである。コトバは創造のエネルギーであり、創造の鋳型であるのである。鉄を溶かしてそれを鋳型の中に流し込めば、
その鉄が固まるとき鋳型の通りになるが如く、宇宙に満つる“無形の実質”が固定化して物質の形を帯びてくるとき、それはコトバで
述べた通りの姿形をあらわすのである。
それゆえに、私は今後決して、悪しき事をコトバにて言い表すことをしないのはもちろんのこと、コトバによって悪しき事を心に
想うことさえもしないのである。心に想うことは“無性のコトバ”を心の中で発しているのであるから、それは、ガラス工場の工員が、
“無形の息”を透明のガラスの中に吹き込むその吹き方の相違によって、色々のガラスの像(かたち)やガラスの器具を作るのと同じ
であって、色々の運命、環境、境遇、健不健の肉体等を造り出すことになるのである。
今より後、決して私は悪しきことを思わず悪しきことを言わず、人を呪うことなく、怒ることなく、現象の悪に心を捉えられることなく、
ただ善のみ、光のみ、美のみ、幸福のみ、豊かさのみ、調和のみ、平和のみの実相を心に見、コトバに発し、常に想念感情を浄めて、
この世界の実相たる天国浄土を地上に実現せんことを期するのである。仰ぎ願わくは、大神の御慈導を得て、われら行く道に迷うことなく、
険しきを平らかならしめ給い、あやまりて暗黒の想念を起こすことなく、我が心を常に護りて、もろもろの汚れより遠ざからしめ給え。
ああ、われは、天地を想像し給いし大いなる力ある“神のコトバ”と同じき言葉をわが内に有(も)つのである。コトバは双刃(もろは)
の剣である。それは公平に自己を斬り、相手を斬り、一切の悪しき言葉を出す者のすべてのものに公平なる宣告を与えるのである。
善き言葉をいだす者は永遠に祝福せられ、悪しき言葉をいだす者は常にその言葉相応の傷を受けるのである。われは今、この真理を
知らしめ給いしことを神に感謝いたします。ありがとうございます。
541
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/28(土) 16:01:34 ID:4u9fyInI
<誌友会案内詳細>
●日時:4月28日(土)21:30〜23:30(延長あり)
●テキスト:『生命の實相』第一巻 「七つの光明宣言」
●場所:「トーキングスティックボード」板(業務連絡は「部室2」板)
●前夜祭期間:28日迄
(前夜祭期間は該当箇所に関する話題を、どしどしお寄せください。多少の脱線もありです)
* WEB誌友会は「皆で同一箇所を拝読すること」これを最大の目的としております。
* 誌友会での発言に関してですが、「完璧を期す必要はございません。」65点主義でお願い致します。
* 同時に他者投稿文に対しての、細かなご指摘等はご遠慮願います。
* 輪読箇所関連資料が、聖典板(465以降)に掲載されております。事前拝読されるとより理解が深まります。
542
:
ハマナス
:2012/04/28(土) 18:40:43 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
自己を誤魔化すことなかれ (『新版 生活の智慧365章』P.140)
人間のみが地上に於ける自己反省の能力をもっている唯一の生物であって人を批判し、
反省し、分析し、改造遷善し得るすぐれたる精神をそなえているのである。それにも拘わらず、
人間ほど自分自身の欠点を知らないものも少ないと言ってよいほど、自分自身のことに気が
つかないのである。他人(ひと)のことだったら、自分のことよりもよく解って、色々批評
したり、悪口を叩いたりする。何故だろうか。まともに自分の欠点を見たくないので、自分を
誤魔化そうとするのである。
自分の顔に白粉(おしろい)を塗って素地を見えぬようにして、白粉を塗った表面から、
自分を鏡に映してみて、「自分は美しいな」と暫し、自分の美粧したかとに見惚れたいよう
なものなのである。そこで摂理が自分の心の姿を、自分の病気や、周囲の人々の風当たりや、
形にあらわれる姿に見せてくれて自己反省せしめ、改造遷善が行われやすいようにしていて
下さるのである。環境を見、周囲を見、自己の肉体の状態を観て心を改める者は幸いなるかな。
感謝合掌
543
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/28(土) 19:26:48 ID:qAbFUkAo
正しい信仰
正しい信仰は、聖書、経典、その他霊感の書にもとずいて、肉眼に見えざる完全な〃霊なる實相〃を、先ず心の世界に観ることによって、完全な實相を地上に現実化する力を得るのである。
『生命の實相』を読み、『甘露の法雨』を読誦し、先ずあなたの實相の完全さを観、観ることによって実践の勇気と力とを得、地上に天国をつくるために邁進するがよい。
正しい信仰は前途に光を見、疑いは前途に暗黒を見る。光を見る者は前進して〃生き甲斐〃を感じ、暗黒を見る者は前進することが出来ないで、暗澹たる泥沼に陥って、ただもがくばかりである。
正しい信仰とは、「真理」をみつめる信仰である。「真理」とは、神のみが実在であり、神は善であり、善のみが実在であり、人間は〃神の子〃であり、神の善徳を継承して地上に出現した霊的実在であるから、悪しき運命にとざされることは絶対にないとの信仰である。
谷口雅春先生 『理想世界』誌 47年4月号
(某ブログより)
544
:
SAKURA
:2012/04/28(土) 20:50:54 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
久しぶりに“本”を開きますと……やはり!当たっています〜〜〜ネ!
更に、今日は【二項目を渡航…】します。では!!“スタ−ト”……です。
■【幸福を招く365章】
―――神はどんな難問題をも解決し給う―――
神はすべての渾てであるから、神は外にも内にも到る処にいますのである。
何事が起こって来ようとも、問題が起こるのは解決があるから
起こるのであるから心配することは要らないのである。
解決が出来ないのは智慧が足りないからである。
神の智慧をもって来さえすればどんな問題でも解決ができるのである。
神の智慧をもって来るのはどうするか、神にその問題を
わたしてしまえば好いのである。
神に「自分」を明け渡すのである。「神よ、この問題を貴方に全部ゆだねます。
神よ、あなたは無限の愛であり、無限のちであられます。だから必ず此の問題を
すべての人の幸福になるよう解決して下さいます」
このように祈るが好い。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ここしばらく【祈りも不規則…】な時間帯でした。…そして?
「結果???」は、やはり!大きい〜〜ですネ!
【祈ること】により、私の“神性開発の向上”に……
不規則なる時間帯に?或いは…神想観が出来ない時には?
■【甘露の法雨】に黙読したり、瞼を閉じて、
静かに精神統一をしまして、最初の【神呼び歌】を、何度も〜何度も〜繰り返し
唱えたり、ある時は?魔除けの様に【宇宙浄化の歌】を…でも!やはり!
日々の【規則正しい時間の祈り】は、大切です〜〜〜ネ!
そして、どんな問題も、必ず!答を下さるのですから……
■【神様の叡智】を頂けますように〜〜〜“祈り・祈り・・・祈り”にと、思います。
もしかしますと?今の「生長の家」の問題も“祈りが足りない”のでは??とも??
思いながら…唯!!ひたすらに【祈る事】でしょうか???
PS:トキ様へ
久しぶりに“投稿”させて頂きました…。「祈り」ひたすら精神統一しまして…
神様に“全托“しますと…必ず!“神様からのメッセ−ジ”頂けますもの〜ネ!
トキ「管理人」様は、この事に関しまして、如何でしょうか?
545
:
SAKURA
:2012/04/28(土) 20:52:51 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
■【幸福を招く365章】
――――神の愛を「今」を完全に生きよ――――
あなたの生命(いのち)の内に神の愛が宿っているのである。神の愛は
唯勝利するほかないのである。過去に何があろうとも、それは今日の魂の前進の
準備となったのである。過去の失敗に捉われるな。形の一進一退のうちに魂は
必ず前進して行くのである。今生かせ、神を信じ、神に祈りつつ今を全力を出して
生きるのである。「今」は実相世界に既にあるところの勝利が現実世界に
あらわれて来るところの門であるのである。「今」を支配するものは過去の失敗を
勝利にかえ、魂の進歩にかえ、未来永劫にただ悦びの生活を送ることが
できるのである。次の如く念ぜよ。
「われは今日、善と愛と親切の言葉のみを語るのである。われはそれ故に愛と深切
のみを刈り取るのである。われは如何なる悪しき言葉も今より後に口にしない
のである。自分は人の行いと其の動機とをさばかない。
自分はあらゆる人々の行いに其の善意をみるのである。自分は人を軽蔑する
ような言葉を決して語らない。自分はすべての人々の美点のみを見、美点のみを
かたるのである。自分は言語が神であり、創造者であることをしったのである。
だから、今後自分は善き事のみ語り、善き事のみが実現するのである。」繁昌は
一日にして来らず、それが単なる偶然の好意であるかに見えても、必ず過去に
蓄積されている善き想念、善き言葉、善き感情が現実化して生ずるのである。
すべての想念、感情、言葉、行為の結果は実現しないではいないのである。
それは原因結果の法則である。原因結果の法則には、物理化学な法則と、
心の法則とがあるのである。大抵の人は物理化学的法則のみを知っていて、心の
法則を知らないのである。繁栄せんと欲する者は顧客に対してよき想念、善き感情、
深切な注意、行き届いたサービスの精神を揮い起さなければならないのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
“今日の言葉”から、“過去の失敗”は、ふとした事で、最近よく思いだします。
「何故!!」この様になったのかしら〜〜〜ン!自問自答!!
この様な“祈り”をしています時には、どうしても“そちらの想念”に心を奪われて
行く事が多々あります…。
そして“過去の失敗”と分かった瞬間から「悪しきの想念」にきりかえられるのです。
【悪の想念…感情】は、“失敗”と言う言葉が、どうしても出てくる訳ですが…
仕事をしております時にも、何かの拍子にそのような気持ちになってしまう…私が!!
「ネガティブ感情である不安」が、何故!何故!起きるのでしょうか?
此処3年半近くの間…振り返りますと、同じ繰り返しの様に感じた次第です。…が?
いつも、その“原点の繰り返し”にも見えます。「今日の言葉」で…
■【過去の失敗】を【勝利に帰る事】は、
まず!!私の【深い傷…】を呼びおこさないようにと…更に!
それに対して、仮に生じました場合は【立ち向かわなければいけない】と…
其の勇気の必要性を…思う様になりました…。
■【言葉は神】ですから…【言葉を駆使】しまして、
どんな状態でも【善と!愛と!深切!を語る…】ように、
なるべく【正しい想念感情の訓練】が足りないようですので
私自身「今日の言葉」を、唱えて行く様にと、心の深層部に深く刻みこみました…。
きっと!!更に!!
此処「2チャンネル」でも【SAKURA…いじめ】は、起きている様なものでしょうが?
■そう云えば…ある所に【昨日のダイエット献立にて…】キノコを使用致しましたが?
今まで“話題性にもならなかった??キノコ”…が…まるで【悪いキノコ?】
変な現象??■【悪いキノコ〜〜〜〜!!!!】
つい!私は【悪の想念連想…ゲ−ム】でしょうか??
ここが、わたしの“修行”なのでしょう〜〜〜〜〜〜〜ネ!
余りにも“タイミング…”がと、思いつつも【一応再投稿!!】致しましたが?
■■【心の善の言葉】は、周囲にも、明るい輝き〜☆〜が…
【報恩に感謝】が出て来ますよ〜〜〜ネ! 再合掌
PS:トキ様へ
続けて“投稿”させて頂きました…。先程の「雅春先生の言葉」関連して
いますものと思いまして…「感情のコントロ−ル」…難しい時もありますが…?
これが「人生劇場」にての訓練でしょうかと、つくづく“人の投稿言葉”を
拝読しながら思いました。トキ「管理人」様は、この事に関しまして、如何でしょうか?
546
:
トキ
:2012/04/28(土) 21:39:11 ID:AfiyqW7Q
>>545
SAKURA様
すばらしい御文章、ありがとうございました。
先の戦争で「撃墜王」として活躍した坂井三郎さんが、「失敗をした時に、”しまった”と100回言っても
何もならない。それよりも、早く立て直す事。これが生き残る秘訣だ。」と、どこかで書いていました。
最初は誰でも、失敗をしたり、他人とトラブルがあれば、気持ちが落ち込みます。でも、いつまでもそれに
留まっていたら、進歩はありません。
気持ちのきりかえができる人になることが、修行だと思います。頑張って下さい。
合掌 ありがとうございます
547
:
ハマナス
:2012/04/29(日) 14:18:40 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんにちは。今日は、爽やかな、素晴らしいお天気です。
機嫌の悪さは人に感染する (『新版 生活の智慧365章』P.141)
御機嫌が悪いということは自分だけの問題であり、その時の生理作用であり、頭の
具合によるのであり、他の人の関する事ではないし、それは何も重大な事柄ではないと
考えている人もあるけれども、これは非常に重大な問題なのである。人間は一個の精神
ラジオ・セット又は生きたテレビ・セットとして自分の気分に波長の合ったものを受信し
受像して、それを自己の運命として、具体化するものだからである。
機嫌の悪さは、単にその人一個を不幸に突き落すだけではなく、その人に触れる殆ど
すべての人に、その不機嫌を感染させ、他の人々をも不幸の運命に巻き込むことになる
のである。だから、“機嫌の悪さ”は単なる自己虐待であるばかりでなく、他の人々をも
不幸に陥れる罪悪であり、それを感染させて行くとき、大なる戦争さえも起こりかねない
のである。世界の人々がフルシチョフのご機嫌がよかったとか、悪かったとかで一喜一憂
しているのもそのためである。
感謝合掌
548
:
金木犀
:2012/04/29(日) 14:58:49 ID:fLEJ35eI
『生長の家』誌昭和五十七年六月号より
『古事記』連続講話(ラジオ放送より) 谷口雅春先生
「夫先ず唱え妻これに随う」という天地の法則
おみなを先だてた結果……
さて、女性がトップに立っておりますと、ろくなことが起こって来ない。これは天地の法則に背いているからであります。
それが、女性の正しい位置に戻って夫を優先させて、夫を立てて夫に感謝するような心になると、その家庭がよくなって、夫が競輪にこったり、パチンコ遊びに夢中になっておったのが直ってしまうという実例も出て来るのであります。
これは、昭和四十四年の六月二十六日に、長崎公会堂で生長の家の講習会があった時に長崎市の郊外に長与という所がありまして、そこの前田ミキエさんといわれる四十七歳の奥さんが、こういう話をなさったのです。その録音を朗読してみます。
『有難うございます。昭和四十三年の九月のことです。私は子供に導かれたのであります。それまでの私は、一日、十五日にお聖経を誦げる程度のことでした』
お聖経というのは『甘露の法雨』というお経のことです。この方は生長の家の誌友であるわけです。それで生長の家の人は毎日一回は聖経を誦げるのですけれども、この方は一日と十五日に誦げるぐらいで、まだ熱心でなかったことを言っておられるわけです。続いてこう言われる。
『主人は戦後流行しましたパチンコ、競輪、ボートレースと、気狂いのように目の色を変えて夢中だったんでございます。私は何度も止めてくれるように頼んだのですけれども、私の言うことなど、フンフンと鼻の先であしらうんです。少しも言うことを聞いてくれないのです。主人にいくら言うても聞きませんから、子供達の顔を見ると、私が働かなくちゃならないと思いまして生命保険の外交をして働いたんですが、私が働けば働くほど、主人に賭け事を止めてくれと言えば言うほど、主人は夢中で賭け事に熱中するのです。どうしようもありません。
もう貧乏という字の二字でございます。私は貧乏でどうしようもなかったんです。それで私は、こんな嫌な生活ならば、いっそ死んだ方がましだと思ったことが再三でございました。でも三人の子供の顔を見ると「死ぬということはやさしいものだ。よし競輪に夢中になっている主人に負けないように私も子供を育てよう」と思ったのです。それで働きましたが、主人はますます賭け事に夢中になって、いくら言っても聞きません。私はそれでサジを投げました。これはもう“ガン”だ。死ななくては治らないと思って途方に暮れていました。そんな或る日のこと、それは去年の九月(昭和四十三年)のことでございました』
549
:
SAKURA
:2012/04/29(日) 16:55:31 ID:FIUIhwU2
>>546
トキ様 へ
昨日のお返事ありがとうございます。
■坂井三郎さんの言葉を「失敗をした時に、”しまった”と100回言っても
何もならない。それよりも、早く立て直す事。これが生き残る秘訣だ。」
この“言葉…”教えて頂きまして、本当にそうです〜〜ネ!
失敗するたびに、“あっ!しまった…ヮ”と言っている間は?
正直な話、まだ!余裕があるのでしょうか…?つまり!何度も〜何度も〜><
繰り返す事になるのでしょうか?
それを“早く立て直す事”が大事…とあらためて思いました。
この“言葉”より“過去の失敗に悔む”前に、どの様にしていったらよいかの対策…
更に!講じて、いつまでも“悲劇の主人公”では“進歩向上”何も得る事ができなく
なりますでしょう〜〜ネ!当に“後退=負け組”でしょうか??
やはり、【前進!!】如何なる状況下にても、その様に思います…。
■最後に「トキ様の言葉」より、
>最初は誰でも、失敗をしたり、他人とトラブルがあれば、気持ちが落ち込みます。でも、いつまでもそれに留まっていたら、進歩はありません。
気持ちのきりかえができる人になることが、修行だと思います…。
私も気持ちを切り替える“訓練”をしていきます。ありがとうございます。
PS:
先程、“悲報”の電話がありましたので、今から出かけます…。
いつも【感情コントロ−ル】出来ます人間でありたいと思います…。
550
:
ももんが
:2012/04/29(日) 19:10:30 ID:XXCuaQns
>>547
ハマナス様
ハマナス様、いつも、素晴らしい、紹介文ありがとうございます。感謝、合掌、拝。
私は、いつも、ハマナス様の選ばれる紹介文に、感動と教えらる事ばかりです。
本日も、私の心に響きました。
真に、御教え感謝申し上げます。
ありがとうございます。
感謝敬白、合掌、拝。
551
:
ハマナス
:2012/04/29(日) 23:31:24 ID:u5mC.eb2
ももんが様
ありがとうございます。
ご丁寧なレスを恐れ入りました。
ももんが様のいつも思いやりのある、優しいお言葉に“力”を頂いております。
感謝申し上げます。
552
:
晴れときどき・・・
:2012/04/30(月) 00:43:40 ID:UCkc6HMs
合掌
拙ブログ掲載記事(谷口雅春先生のお言葉)を貴掲示板にて、転載されているようですが
せめて足跡を残してからにしてください
生長の家の教えを忘れた皆さまのお役に立てるのは嬉しいのですが。
553
:
ルミエール
:2012/04/30(月) 01:31:42 ID:vsZYH/3w
:金木犀様
526から530 読ませていただきました。
私、ちょっと質問があるのですが、
夫が浮気をした場合、このような考え方をするのが生長の家だとは知っていますが
では、妻が浮気をした場合はどうなんでしょうか?
その場合も「夫が悪い。妻の浮気相手に感謝せよ。」と指導されるのでしょうか?
554
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/30(月) 01:55:44 ID:PVyWFNfg
はれ時々ホークスさん。
あこがれのホークスさん、足跡を残せないので、今度は挨拶をします。
あこがれのホークスさん、誌友会、前夜祭に是非参加してください!!!
お待ちしています!!!
555
:
金木犀
:2012/04/30(月) 10:54:32 ID:fLEJ35eI
>>553
相談相手が妻である場合に、そのような指導がなされていると思いますが、
これは、妻が悪いとか夫が悪いとかいうことではなく、きっと、自分自身の運命は
全て自分が責任を持つという意味であると思います。もっとも陰陽の法則などもあり、
妻が夫を立てるということも法則としてありますが、その前に自分の運命は自分が作った
ものであるとすれば、夫の立場からすれば、夫自身の心の影であり、妻がやさしくないのも
あるいは妻が浮気した場合も、全て夫の心の影であり、妻が自分を立ててくれないから、
外に愛人を作っているのも、夫自身の方から見れば、夫がそのように自分が運命を
作っているということではないでしょうか。
自分の不幸を誰か他人のせいだと恨むことをやめて、全てを自分の責任と感じることで、
自分自身がまたその運命を変えることも自由にできるという、自分が運命を支配する
主人公であるという自覚を得るように、指導されているのではないかと思います。
だから夫自身を指導する時には、当然夫自身の心の影なのであり、
夫自身に責任があると指導されるのだと思います。
私も組織に属した経験はごく少なくしかも末端信徒ですから、
指導的立場に立ったことはないので、ご著書から得た知識ですので、
実際には現場のことはわかりません。
556
:
ハマナス
:2012/04/30(月) 11:08:17 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。今日も皆さまにとって、燦々と光輝く日でありますように。
機嫌の善さは万人を明るくする (『新版 生活の智慧365章』P.142)
「愛はよく耐え忍ぶ」と云うことは、愛深き人は、怒りや不機嫌を爆発さすとき、
その影響がどんなに多くの人々に破壊的結果をもたらすかを知っているからである。
御機嫌がよいと云うことはその人の心が明るいことであり、心が明るい時には、
その人のもって生まれた智能がいつもよりよく働くから、よき考えが浮かび、よき
仕事ができるということになるのである。心明るき時には肩が凝らない。筋肉が
無理な緊張をしない。人が自分を侮辱して来ても腹が立たない。常に平和で、何事
も善意に受けることができるのである。新しき智慧が湧き出で、新しき勇気を生じ
どんな逆境をも好転させる不思議なるインスピレーションを受けることができる。
次の如く念ぜよ。
「私は神の子である。神は光である。私は光の子である。それゆえ私は常に
心が明るくて、何事も光明面を見て暗黒を見ないのである。自分自身が光である
から闇が近づいてもそれを光に変えてしまうことができるのである。」
感謝合掌
557
:
金木犀
:2012/04/30(月) 11:21:33 ID:fLEJ35eI
ハマナス様
有難うございます。ほんとに自分の機嫌をコントロールすると言うことの
重要さを感じます。
念じる言葉、書き取って、暗記するまで覚えることにします。
そして、うっかり不機嫌な念波を受信したり、自分が発信しそうになった時、
これを常に唱えることに致します。
ありがとうございました。
558
:
うのはな
:2012/04/30(月) 14:18:57 ID:El6gIMAw
本日の朝の時間より、いいちこ氏ブログ 晴れときどき競馬とホークス
において、田中忠雄先生などの神誌の文章が掲載されています。
休日の間ゆっくり拝読させていただきます。
感謝 拝。
:
http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/22680399.html
559
:
ももんが《感想》
:2012/04/30(月) 14:48:01 ID:XXCuaQns
うのはな様
ハマナス様
うのはな様、ハマナス様、本日の御文章、拝読しました。ありがとうございます。
うのはな様の、お話は、先日より、道元様のお話ですね。大変、面白く読ませて、頂きました。ありがとうございます。
ハマナス様の、本日の御文章も、真に自分のいつも、心でイメージしてるものと同じであります。いつも、素晴らしい教えを受け止めて、自分の心に止めなが、学んでおります。ありがとうございます。
合掌、礼拝。
560
:
うのはな
:2012/04/30(月) 15:11:52 ID:El6gIMAw
生長の家「今昔物語」ブログにも、谷口雅春先生御高弟 諸先生方
真の生長の家の教えや、貴重な資料が掲載されています。
御覧下さい。
http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/
561
:
志恩
:2012/04/30(月) 16:52:30 ID:.QY5jUA6
うのはな様
いいちこ氏のブログと、生長の家「今昔物語」ブログのご紹介を、ありがとうございました。
「今昔物語」は、愛読させて頂いてますけれど、いいちこ氏のブログは、初めてでした。
田中忠雄先生と佐脇嘉久先生の対談が、掲載されていて、お二人とも存知上げておりますので、
お懐かしく、タイムスリップしたような幸せな気持ちで、読ませていただきました。
うのはな様、いつもありがとう。
562
:
金木犀
:2012/04/30(月) 19:13:49 ID:fLEJ35eI
『生長の家』誌昭和五十七年六月号より
『古事記』連続講話(ラジオ放送より) 谷口雅春先生
「夫先ず唱え妻これに随う」という天地の法則(2)
ご主人は“観音様”ですよ
『皆さんも御存知と思いますが、九月の『生長の家』誌の増刊号を、上の女の子が歯医者さんに行きまして、「知らないおばさんから貰ったのよ」と言って貰って来ました。そして「お母さんね、お父さんがパチンコや競輪に夢中になるのは何かあると思うのよ。それがここに書いてあるから見ておいてね」と言って娘は会社に行ったのです。
私は浮かぬ顔をして「ああ、こんなの見たってどうしようもないわね」と思い思い手に取って開いてみまして、はっと思ったのです。本当にどうしようもない時でしたので、
「これは子供が言う事じゃない、何かのお導きかも知れない」
と思って教化部の道場に行ったのです。そしたらその時の講師が、藤井先生でございまして、「どうしました?」と聞かれました。私はこれ幸いと思いまして今までの胸の支えを吐き出すようにペラペラと話したんです。そうしましたところ先生は、「御主人に感謝をしなさい」とおっしゃるんです。「まあ主人のどこを取って感謝すればいいのですか?」と私は言ったんです。そうしたら、「御主人は観音様ですよ。あなたの心の姿が形に現れてそういうことになっているんですよ。御主人にあなたが下から出て感謝をしたらいいんですよ。あなたは毎日道場へ来て、一人一人の講師のお話を聞いて、御主人は観音様だから、御主人を上に立てて、自分は下に降りて、御主人に感謝をしなさい」
とおっしゃって、三時間半もかかって、私と腰を突き合わせて、長いこと一所懸命になって夫婦の生活の原理をお話下さったのであります。そして、
「あなたはきっと幸せになりますよ」
とおっしゃいました。私には“幸せ”なんて縁遠いと思っていたのですけれども、幸せということを聞いたものですから、もう無我夢中でした。それで、先生のおっしゃいましたように、その場ですぐ、主人と私を聖使命会に入会させて頂きました。更に、子供達三人も入会させて頂き、それから霊宮聖使命会二十柱申し込み、そして毎月道場通いを始めました』
「れいぐう」というのは“霊のお宮”と書きます。これは京都府の宇治(お茶の名所)に生長の家別格本山というのがありまして、そこに宝蔵神社と言って、信徒や誌友の祖先を、特に生長の家の真理で祀って上げる神社があるのです。生長の家の誌友や信徒は、霊界へ行った魂でも、生きている人と同じように考えて、生長の家の聖使命会員に霊魂を登録して祀って上げる。これが“霊宮聖使命会員としてお祀りして上げる”ということです。それで、祖先の人達を十柱もお祀りして上げたというわけです。
563
:
ルミエール
:2012/04/30(月) 22:36:36 ID:vsZYH/3w
>>555
金木犀さま
お返事ありがとうございます。
そうですね。この世界は心の影ですものね。
ですが、生長の家は、どっちかいうと男尊女卑風のところがあるように思えて
ついそんな事を考えてしまいました。
564
:
金木犀
:2012/04/30(月) 23:42:08 ID:fLEJ35eI
ルミエール様
確かに一見そう言う感じもしますよね。
然し、これはものごとが生成化育しているための陰陽に分かれて
それが再び結び合って新しいものが生まれるという法則が、陽が先に進み、
陰が退いてという調和のなかから起るとする単なる法則であり、これは
法則であるから、そのようにならざるを得ないものと思います。
然し、男女それぞれの中にまた陰陽があり、陽ばかりの人も、陰ばかりの人もいないのであり、
現世で振り当てられた役を完ぺきにこなしていきながら、陰陽どちらも揃った完全円満の人間神の子を
顕現していけばいいのではないでしょうか。
現世でどちらの役になろうと、来世ではまた別の役となって、進化の過程を進んでいるのだから、
現世の役がどちらになろうと、私はこだわることはないと思うのですが。
それに重要さは意外と女性のほうがより役割は大きいかも知れません。
男性の成否を左右するのは女性だというのですから、
支えるものは余程大きな力が必要で、
縁の下の力持ちと言われるくらいに、
見えている部分より、それを支えている部分のほうが、
実は重要なのかもと思います。
565
:
晴れときどき・・・
:2012/05/01(火) 01:51:07 ID:UCkc6HMs
合掌
うのはな様
拙ブログを紹介していただき有難うございます
志恩様
ご訪問いただき有難うございます
左欄の『今日の言葉』をやってもらいますと、バックナンバーが読めます
最近忘れられた谷口雅春師の御教えが光輝いて導いてくださいます
566
:
志恩
:2012/05/01(火) 02:29:21 ID:.QY5jUA6
晴れときどき…ホークス様(いいちこ様)
早速、お訪ねして『今日の言葉』のバックナンバーを繰り、拝読してまいりました。
とてもいい真理類をチョイスされてありますね。
いいちこ様が、載せられた
谷口雅春先生、清超先生、佐脇嘉久先生、その他、、の真理の言葉は、「明窓浄机」から「生長の家」誌s24から等々、
かなり昔の神誌からの抜粋が多いですが、よくあのような古い時代の神誌を持っておられましたねぇ。
いいちこ様が、おっしゃる通り、最近忘れられた谷口雅春先生の教えが、光り輝いていていますね。
ありがとうございました。
567
:
金木犀
:2012/05/01(火) 11:37:03 ID:wfGwvgwo
『生長の家』誌昭和五十七年六月号より
『古事記』連続講話(ラジオ放送より) 谷口雅春先生
「夫先ず唱え妻これに随う」という天地の法則(3)
ピタッと消えた賭博癖
『そして、「夫を観世音菩薩として拝みなさい」と言われましたけれども、夫に面と向かっては拝めないものですから、朝出勤する時に「有難うございます、有難うございます」と夫の後姿を拝んでおりました。
ところが十二日になりました時に、どうしたことか、あの気狂いじみた競輪やパチンコが、とうとう止まってしまったのです』
奥さんが上に立って「あなた、こんなことをしてはいけませんよ」と、女性が、こと先だって「競輪をやめなさい」「パチンコを止めなさい」と言っておった間は、結果が悪いんです。どうしても賭け事が止まないのです。それで「もう一生涯、私の家庭には幸福は来ない」と思っていた。そして貧乏のドン底であった。
ところが「夫を立てなさい。夫を拝みなさい」と言われて、女性がトップであるという現代的な考えがクラリと変ってしまった。「還り降りて改め言え」と天津神(あまつかみ)が仰せられた――それを実践したわけです。
『そうしたら夫の競輪、パチンコの気狂いが止まってしまったんです。そして久しぶりに今まで見なかったお給料まで頂いたのです』
この夫はそれまで、会社でもらうお給料をみな使ってしまって、奥さんに渡さなかったらしいですね。それで奥さんの方は保険会社の外交員か何かしておられて、それでやっと生活しておられたのですね。今まで夫の給料なんか見たことなかったのが、夫が久しぶりにその給料を奥さんに渡した。
『私は有頂天になりました。飛びつきました。皆さん、御想像下さい。本当に嬉しくて主人に飛びついて「ああ、有難うございます」と言いますと、主人は「初めて喜ばれた!」と言ったんです。私は今まで“感謝”という言葉を忘れていたのだと思って、私はあらためて座って、そして夫を上から下へ、下から上へとじーっと眺めわたしました。その時の主人の神々しい顔は、今もって忘れることが出来ません』
今まで「パチンコの気狂いだ、競輪の気狂いだ」と思っておった夫を、今度は観世音菩薩として拝んだら、神々しい拝める顔に変っているのです。だから、奥さんの幸福は、夫を馬鹿にするところにあるのじゃないんです。夫を拝める心境になった時に、本当に奥さんの幸福が出て来るということですね。
『こんな素晴らしい主人、神々しい神様のような表情をしている主人を、私はどうして今まであんなに蔑んだものかと、私は恥ずかしくなりました。そして私が働こう働こうと一所懸命思っていればいる程、私の我の強さというものを主人が教えてくれました。私は我が強すぎて、夫に先立って、夫を剋していたのだ、済まなかったと気がついたのです。
私は両親もございますし、兄弟も沢山おりますのに、たった一人の主人であればこそ私の強い我を、体でもって私に教えて下さったのだと思いました。「お前の我が強いから、わしがこうして現れているんだよ」と言って肉体をもって私の我の強さを教えて下さっておったので、私の我が砕けた時に、夫の本当の優しい神々しい姿が現れたのだ――と感じたんです。本当に有難うございます。
そして現在では、夫は晩酌の二合のお酒に顔をほころばせて、とても喜んでおります。本当に素晴らしい主人になって頂きました』
568
:
ハマナス
:2012/05/01(火) 23:03:03 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。今日は、母の用事で一日、出掛けていました。
引用が遅く失礼いたしました。
殻がわれて雛が生れる (『新版 生活の智慧365章』P.143)
人が過ちを犯したときに、その人を“愚か者”または“悪人”と思ってはならない。
神の造り給うた世界には“愚か者”も“悪人”もいないのである。唯、彼等の実相が
あらわれていないだけである。彼の実相の完全さがあらわれるように、神想観又は
いのりによって、彼の「完全なる実相」を心に描き、すでに彼が完全であることを
心に念ずるがよいのである。
「彼も神の子である。彼の実相は完全なのである。現象はどのように見えていても、
それは卵の殻がわれて、中から鶏の雛が生れて来るように、完全なる実相があら
われて来つつあるのである」と念じて、その人を祝福するがよい。雛が現象界に
あらわれて来るためには、卵と殻がわれなければならないのであるあ。それと同じく
実相の完全な姿があらわられる過程としては、現象的には破壊的に見えることが
人間の行動にも、世界の運命にもあらわれて来るであろう。
併し喜び歓べ、それは幸福を生み出す卵の殻が破れつつあるのである。
感謝合掌
569
:
ルミエール
:2012/05/02(水) 00:04:35 ID:vsZYH/3w
金木犀様
再び、ご親切にご教示くださってありがとうございます。
そういう風に考えたらいいのですね。
570
:
うのはな
:2012/05/02(水) 13:54:51 ID:El6gIMAw
赤ちゃん誕生 『奇跡の教育』 鹿沼景揚 先生著 P146〜
私が戦地から復員してわが家に帰りますと、家族は泣いてよろこびました。
しかし、そのよろこびもニ〜三ヶ月で平静となりますと、これまで、母と娘の二人で
バランスのとれていたところへ、夫が入ってきますと、夫と妻のむすびつきとなり、母が一寸はみ
だすというむずかしい人間関係となりました。
この際、妻が働きにでて、母が留守役にまわるというのが、普通のケースですが、私の場合は、妻は
ながく一人で働いてきたので、この辺で家に留まり、母が働くというすがたとなりました。
しかし、大人三人の生活はなんとなくギシギシしていますので、こういう場合に、赤ちゃんでもできれば、
それに気がまぎれてきっとうまく行くだろうと思いました。そして待望の赤ちゃんが生れました。
これですばらしくなるだろうと期待していましたら、ここに厄介なことがおこりました。
姑と私とが教育意見が全くちがっていたのです。姑は、鉄は熱いうちにきたえよといい、私は、むしろ
ほめよ、たたえよと行きたいところです。
それは、表面上のちがいですが、もっと腹の底を割ってみると、この生れた赤ちゃんの奪いあいのようなものです。
なんとなく幸せでないときに、執着の愛でネバリツイテしまいます。おばあちゃんは淋しいからでしょう、赤ちゃんを抱いて放しません。
赤ちゃんが一人だから奪いあいになるのです。神さま、もっともっと赤ちゃんを下さいと祈っておりましたら、赤ちゃんが生れてくる通路が
大きく開いたのでしょうか。一年十一ヶ月で二番目の子、また一年十一ヶ月すると三番目、また、一年十一ヶ月で四番目が生れそうになりました。
つづく
571
:
うのはな
:2012/05/02(水) 14:16:13 ID:El6gIMAw
570つづき
そのとき一寸不安になりました。
「こんなに規則正しく一年十一ヶ月に生れると、家内の妊娠可能な年齢の間に、
相当に沢山の数となります。神様、この辺でストップして下さい」とひとり言を申しましたら、
何の前ぶれもなく、スーッと流産してしまいました。
私は非常に驚いて懺悔しました。あれほどまでに欲しいと一所懸命にお願いしていたのに、神様の方から、
それではというので三人四人と授けはじめて下さるようになったところを、もう多すぎます、もういりませというのは、
いかにも恩知らずであります。
神様、申しわけありません。これからは何人でも下さるだけいただきます。
赤ちゃんが生れるということは、無秩序にでたらめに生れてくるのではありません。
『生命の實相』霊界篇によれば、高級霊は地上で受くべき運命や、果たすべき使命をしって、それにふさわしい家を選んで
天降ってくるのです。わが家の教育環境はこの父とこの妻とそしてこの姑とがそれぞれの意見をもって教育はどのようにされるかを、ちゃんと
予見して生まれてくるのが、わが家の子供たちであります。
次に、地上のわれわれ夫婦はどのように考えたらよいかと言えば、特に、私について言えば、私は教育者としてできるだけ多くの体験をつむことが
よい指導者となれて、多くの人を救うことができるようになるのです。神様はそのことを承知の上で、私に与えて下さる子どもの性格やら、子供の人数やらを
きめられるのです。私の使命を果す上に大切な役割を果す子どもだけを下さるのです。
そして大事なことは、子供は生れてくるときに、自分の一生の食糧は携えてくるのであります。
ですから、子どもが増えることによって豊かになってくるのであります。
これらのことは、現代人の子どもの産みかたの上に、もっとも基本的な原理であって、
これを外れると本当の人生の意義を見失ってしまうことになります。
終
572
:
ハマナス
:2012/05/02(水) 14:46:13 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。
仕事に立ち向かうときの構え (『新版 生活の智慧365章』P.144)
仕事をする時には、(一)先ず心を明るくし、(二)希望をもち。(三)必ずよいインスピ
レーションが来ると信じ、(四)今までの神の導きに対して感謝してから、(五)神の導きが
あるように祈りをし、(六)祈って心が落ち着いた時に想を練り、計画すると、神の智慧の
導きがある。(七)その計画にしたがって撓(たゆ)みなく努力を続ける――この七つの
過剰を一つでも欠いたら事業成就の鎖の円環の一つが欠けることになって効果が薄いのである。
仕事と云うものを、結果としての成績や利潤を挙げるためのみの目的のものだと思っては
ならない。事業は、成績も利潤も大切であるが、もっと必要なのは、その仕事を遂行する
心構えと、その進行中に起る色々の具体的な問題に対応する時に於ける心の練磨による魂の
向上こそ重要なのである。仕事の進行中に起こる問題の処理の仕方で、魂が却って堕落する
人もあるし、それによって大いに心が練れて、魂が向上する人もある。
仕事というものを単に唯物論的に利潤目的のものと考えてはならない。
感謝合掌
573
:
SAKURA
:2012/05/02(水) 22:27:34 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは
■幸福を招く365章
―――今を活かす事は過去未来も活かす―――
今を活かすことが光明生活の一つの重要なるようそである。明日のことを
思い煩うこと勿れ。昨日以前のことも持越苦労することはいらないのである。
一日の苦労は一日で足れりである。今の生活そのものに全力をそそぐとき、
その思い煩いに消耗するところのエネルギ−が、逆に建設的に生かされ、
新しき創造の力となり、過去の業績もそれによって活を入れられ、
生きてくるのである。「今」を生かすとき、過去の蓄積が生きて来て、
大いなる未来が創造される。「今」を生かさないで悩み煩うことに時を費やすとき、
過去はただの醜しい残骸となり、未来も失敗して悲しき末路を
辿るより仕方がないのである。「今」を活かすことはただ努力するだけでは足りない。
神想観して、神の叡智を受けることが必要である。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「今日の言葉」当にその通りに思います。
東京在中の頃、「時間人間になれる事」を、目標にしていました。
〜〜〜が〜〜〜まだ!「時間」を上手に使えてないのです…。
■「今」を活かす事が、前に進む事なんでしょう!!
そう云えば「デイリ−の小川さん」は、勤務時間が何と短いのですが…?
「今日の言葉」で…納得!で〜〜〜す。
■仕事を集中します事は、「今」を活かす事です〜〜〜ョネ!
今を大事に行動します時、“叡智”が、働きだします〜〜ネ!
再合掌
【今を活かす事】とは・・・
【時を活かす事】・・・つまりは「マインド・コントロ−ル!」なのですョ〜〜ネ!
私も此の瞬時“今”を活かす「マインドコントロ−ル」に人間に“変身”です〜〜ネ!
Ps: トキ様へ
ともすれば…過去・現在・未来…この時の流れの内…
「現象世界=現実世界…」思い煩ったり?持越苦労?とり越苦労?…
このようなア〜〜ダ!コ〜〜ダ!其の事柄を捕まえていまいますと…
「時間管理の概念が?」私自身甘いもの〜〜〜?なり
この頃、反省しきりです…。今!この瞬間の時間を大切にと思う次第です…。
「先延ばし組??」にならない様に…「時間管理」をと、思っております。集中!!
トキ様は、“先生の言葉”から、どのような事柄を、関連し思いますかしら〜ン?
574
:
ハマナス
:2012/05/03(木) 08:01:23 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
今日から、出掛けますので、すみません、引用はお休み致します。
連休明けに“お目にかかります。”
どうぞ皆様も、ゆっくりと連休をお過し下さいませ。
相手が昂奮(こうふん)しているとき (『新版 生活の智慧365章』P.145)
こちらは何の悪気もなく言った言葉や、した行為に対して、相手が事情に昂奮して呶鳴りつけたり、
罵倒したりすることがあるならば、相手の「完全な実相」を観て、その激しく昂奮している“悪い姿”
にこちらの心を引っかからせてはならない。人には“虫の居どころ”と云うものがあり、何らかの
悩みがあって神経が過分になっているのであろうから、相手をもっと同情してあげる心になることが
必要である。
相手が昂奮して罵っていても、「神様、この人は屹度何か思いあまったなやみがあるに違いあり
ません。どうぞその悩みを取り除いて実相の完全な姿があらわれてまいりますように」と祈って
あげるがよい。これが相手の「完全な実相」を引き出す力になるのである。
相手の昂奮は、時には自分が、「相手を憎む念(こころ)」をもっている其の念の反映であることも
あるのであるから、こちらが相手を祝福し、相手の幸福を祈る心になる事によって、相手の昂奮が
静まり、敵と見えたものが見方ともなるのである。
感謝合掌
575
:
金木犀
:2012/05/03(木) 11:18:35 ID:wrF1mhWI
田中忠雄先生は『生長の家』誌で「雄峯一膳飯」と
いう連載をされていましたが、けっこう面白い味わい深い文章でした。
以下は昭和57年9月号の文章です。南朝の忠臣菊池氏一族の
精神的支柱であられた大智禅師について書かれています。
五更の残月 田中忠雄先生 (1)
世は挙げてグループぼけ、独りでは何を考え何をすることもできぬ。こんな時勢にこそ、大智禅師の偈頌は生きてくる
香を焚いて独坐す長松のもと
風寒露を吹いて禅衣を湿(うるお)す
有時(うじ)は定(じょう)より起って双澗に下り
瓶(びょう)に五更の残月を汲んで帰る
これは大智禅師作「山居の偈頌(げじゅ)」八首中の一つである。大智は永平道元下、第六代の大善知識である。また古今を通じて第一級の大詩人である。
「山居」というのは、生まれ故郷の肥後の国熊本の斑蛇口山(はんじゃくやま)に住むこと二十一年の時代をいう。そこは肥後熊本の菊池郡穴郷村である。
その頃、わが国は南朝と北朝に分れて長期の戦いがつづいていた。日本中の豪族が二つに分れて戦い、九州では日和見的に強きに与して向背常ならず、自己防衛に汲々たる彼らの姿であった。ところが、ここ肥後の国菊池の一族だけは、両陣営の間をうろうろすることなく、徹頭徹尾一貫して南朝を守護し、逆賊足利の軍と戦ったのである。
南朝の大忠臣、菊池武時は菊池氏第十二代の当主で、狂瀾怒涛のさなかにも大智禅師に帰依し、家の子郎党をひきいて弟子の礼をとり、熱心に参禅した。
大智が菊池郡班蛇口山の深山に住したのは、元徳二年(1330)である。そこに武時の外護で鳳儀山聖護寺(ほうぎざんしょうごじ)が建立され、禅師はその開山第一世となった。禅師四十一歳、武時三十九歳のときだった。
これより二十一年間、武時、武重、武士(たけひと)、武光の四代にわたって、殉忠菊池一族の精神的支柱となったのは、じつに大智禅師であった。大智を開山とする聖護寺(しょうごじ)及び広福寺は今もなお存続している。彼らは戦闘に明け暮れながらも時を盗んで、居城から三里もある幽邃(ゆうすい)な鳳儀山聖護寺に出かけて行って、大智のきびしい鉗鎚(けんつい)を受けた。
576
:
金木犀
:2012/05/03(木) 15:45:35 ID:wrF1mhWI
五更の残月 田中忠雄先生 (2)
二十一年にわたる鳳儀山聖護寺の時代は、文字通り「山居」であり、禅師はこのあいだに一歩も山を出なかったのである。
いまは大智禅師伝の「山居」の事情について、そのあらましだけを述べるにとどめ、以下は専ら、前掲の偈頌一篇を味わって、この比類稀な禅匠の面目を窺うことにする。
香を焚いて独坐す長松の下(もと)
「香を焚く」の「香」は梵語tagara、音訳して多伽羅(たから)、略して伽羅(から、きゃら)、仏前にこの香料を焚いて供養するのである。これを嗅ぐと、眼、耳、鼻、舌、身の五根とその対境が清浄になるとされる。今でも仏前に香や線香をくゆらせるのは、仏教徒の習わしである。
「独坐す長松の下」……松の巨木の緑の下で、ただ独り座禅をする。樹下石上に座して頭で天を衝き、大地に結跏趺坐して微動もしないのだ。ここでは「独坐」の「独」が最も大切である。そこには群衆は存在せぬ。グループを作ってする大衆行動は存在せぬ。たとえ何人並んで坐っていても、坐るのはわれただ一人である。
坐ること自体、すでに自己が自己に成りきることだ。外から雑多な夾雑物を詰め込んだ自己が五官の迷いを去り、先入の思想を捨て、背負い込んだ俗人の荷物を残らずおろし、天上天下ただわれ一人になる。但し、一人といえば一、二、三の数のようだから、やはり「独り」の方がよい。
学徒あり、百丈大和尚(唐代の大哲人)に問う。「如何なるか是れ奇特の事」……めったにない特別に素晴らしいことは、どんなものでしょうか、と。百丈答えて云く、「独坐す大雄峯」……わしがこの大雄峯(百丈山の別名)に、この通り独り坐っていること、これが宇宙で最大の奇特である、と。この「独坐す大雄峯」は、千古不朽の名高い金言であるから、久しくこれに参じた大智禅師が、「香を焚いて独坐す長松の下」という一句を吐いたのは、たくまずして最尊至高の仏行たる坐禅をする姿である。
577
:
トキ
:2012/05/03(木) 19:05:01 ID:Gl6TQvmc
会社の重役をしていた生長の家の先達が言われていたのですが、現役で仕事をしていた頃は
信仰をしている人もしていない人も同じ様に生き生きしているが、さて定年で退職すると、
信仰をしている人は同じく生き生きしているのに、信仰をしていない人はとたんに老けて
しまう、と言われていました。仕事で忙しい時には、信仰をしていなくても「今」を生きて
いるのですが、仕事がなくなると、信仰をしていない人は「今」を生きていないので、
老けるのでしょう。
いそがしい事は、素晴らしい事です。
578
:
SAKURA
:2012/05/04(金) 02:22:56 ID:nzaNcD6I
>>577
「トキ様」本当に、そうです〜〜ネ…!
「定年退職」されました方達は、急に?“老いる”確かに見受けられますかしら〜〜ン?
思いますに、定年になり、今から“再スタート”と言って張りきっていた方がいましたが…
その後、急にふけられまして“ビックリ”なのです?聞きますと、やはりと想う処が…
どうもこの方は、奥様に振り回されている様なのです…。
今までは、仕事の会話で“外に向けての行動でありましたのが…近所の付き合いから…
更に!低次元?の“井戸端会話”に入っていて、少しでも“反論”しますと…
もう〜〜〜それはすごい“反論の洪水が〜〜><”
結局!ふり廻される事になり、何が?どの様に?なって行くとか〜〜ではなく…
何も考えたくなくなる!!そうなので〜〜す。
“振り回されない”その様にするには「ハイ!ハイ!あなたは最高の奥様です…」と、
“毎日!呪文の様に、唱えているそうです…。そうでもしないと食事の準備が〜〜?」
聞いていて大変なのです〜〜〜ネ!
今回!急に“老いる”のも、このような「夫婦の関係」による場合もある様です〜〜〜ネ!
私も、「この年齢???」と成りますと…
「雅春先生の言葉」から、いつも女性も“書物”を読む事と、言っておられましたが…
■「読書の力」というものは非常に大きなものでありまして本を読む事によって、その人の
思想が変わり、人格が変わり、行動が変わるのであります。
或いは悪い本を読めば、悪い感化を受ける。…云々…
良き書物を読みますと、言葉の力が精神に感応して、心の波長が自然に変わって
来るのであります。
谷口雅春著
「女の生き甲斐」より一部抜粋…
再合掌
579
:
志恩
:2012/05/04(金) 02:26:08 ID:.QY5jUA6
トキさま
いいお話をありがとうございます。
ほんとうにトキ様が、おっしゃる通りですね。
私も,毎日、幸せいっぱい、生き生きと生きております。
我が家は夫が、大部前に定年になり年金生活に入っておりますが、
われわれは、いい宗教に入信出来,生長の家に触れる事が出来、幸運だったと、いつも言っております。
私の場合、特に恵まれているのは,家族も全員、親戚,兄弟姉妹も全員、他の宗教に入信している人がいなくて、
見回す限り、温度差はありますが、全員が生長の家であり、いい宗教だと思って下さっていることです。
ですから、善意に溢れた方ばかりに囲まれていますので、いつも心に安心感があるのです。
もちろん、日々晴天ばかりではありません。人間ですから、時には現象から見て、過酷だと思える課題も
与えられる事もございますが、
自然と時間が、解決して下さいます。この教えが、あればこそだと、感謝する日々です。
トキ様、
私は,純子先生著「四季の弁当」(ノーミート)を,アマゾンコムで注文して買って,読んでみました。
上質の紙を使用していて、ノーミート料理の数々が紹介されていて、1000円にしてあるので、これは買い易い値段ですので、
売れると思いました。この本自体は、いい本だと思います。
しかし、これを,テキストにして、本来の生長の家の著書をテキストにしないなんて、本末転倒だと思いました。
私自身、ずっと昔から、たまに肉も食べますが、あとは、もともと、このノーミートの本のような食生活を実践している人間ですから、
尚、そう思いました。
トキ様、
本来の生長の家を知らない人達は、今の教えである《 脱原発、環境、ノーミート、絵手紙》 が、生長の家であると思いますから、
教団本部の皆様も総裁について行くしか,暮らしが成り立ちませんし、教団の人達は、何も考えないようにして、無になって、
総裁ご夫妻をマツリアゲて、このまま、行くんでしょうね。
580
:
志恩
:2012/05/04(金) 02:42:43 ID:.QY5jUA6
定年後に老けないで済む、生き生きと生きていかれるコツは、
勿論、いい信仰を持つことですが、他は、
何か,なんでもいいですから、自分が打ち込むことのできる趣味を持つ事だと思います。
それと、一日一つ、大した事でなくてもいいですから、自分の為でなく,ごく身近な家族のため他人のため、
見返りを求めず、深切にしたり、やさしくしたり、小さいいいことをすれば、自分の心がよろこびますから、
だれでも、生き生きと生きて行かれると思います。
581
:
志恩
:2012/05/04(金) 03:09:46 ID:.QY5jUA6
金木犀様
田中忠雄先生の禅のお話を謹写して下さいまして、ありがとうございます。
これは、ももんが様の得意分野ですね。
私には,難しくて、分った様な分らない様な、というご文章です。
田中忠雄先生は、雅春先生のご信任の厚かった元・生長の家長老・本部講師でいらしたお方。
この田中忠雄先生の
「法燈継承」「法脈」…の考え方を引用されたご文章が、愛国「本流☆…復活」掲示板の(68)に載っていました。
投稿者…一求道者様の文より一部抜粋
田中忠雄先生曰く「何をもって【法燈】となすかー「法脈…」について
常識的な社会通念から考えると、宗教において、開祖の教えを受け継ぐという
「法燈継承」の定義は、
”一杯の盃の水を、一滴の水も零さず、残さず、そのまま次の盃へ移しかえる事です。”」
582
:
金木犀
:2012/05/04(金) 05:20:40 ID:wrF1mhWI
志恩様
「法燈継承」の定義は、
”一杯の盃の水を、一滴の水も零さず、残さず、そのまま次の盃へ移しかえる事です。”」
さすが田中忠雄先生ですね。まさにその通りですよね。
583
:
金木犀
:2012/05/04(金) 05:22:54 ID:wrF1mhWI
五更の残月 田中忠雄先生 (3)
ちなみに、今の質の悪い民主主義社会では、凡夫の凡情がたくさん集って大きい勢力を形成し、この多数者の凡情に従わないやつは、民主主義に反すると言って、むかしの言葉で言うと、まるで「非国民」のようにこれを村八分にする。みんながこうだ、といえば、2と2が5になっても反対できないみたいに横車が押せる世のさまである。
ということは、世は挙げてグループぼけして、独りでは何も考えることができず、何をすることもできないということだ。その変わり、グループで景気をつけて、一斉に同じことを叫び、一斉に腕を突きだして、やるぞ、やるぞと気勢を挙げるときは、一ばんくだらぬ劣等者が生き返ったように元気づく。反面、グループを離れて一人になると、途端にしょんぼりして、やがてうとうとと居眠りしながら、だらだらと涎(よだれ)をこぼす。
最近、小学校に行く子供の一人もあろうかと思われる女の人が、訪ねてきて、反核運動に賛成の署名をして欲しいと言った。今の反核運動には反対だから、私は署名しませんと言ったら、びっくりした様子で、唖然として私の顔を見詰めた、そこで、この運動はソ連を喜ばせるだけなんですよ、と言ったら、なおさら唖然としている。やがて気を取り直すような様子で、つぶやくように言った。「ご近所の皆さんは残らず署名されたのですけれど……」と。この一語を残して、彼女は出て行った。
今の多くの文学者、音楽家、芸能人、そして多くの仏教教団、多くの新宗教教団は、この婦人と本質は同じだ。むかしヒットラーが台頭した頃、これに対抗した反ファッショ人民戦線も国際共産党の戦略戦術だった。京大の勝田吉太郎教授の最近刊『平和病日本を撃つ』を貰ったら、そのへんのことが詳しく立証されていた。同教授は宗教新聞『中外日報』でもこれを痛論し、大多数の宗教教団人は、政治音痴、国際音痴だと断言しておられた。みんなグループを頼り、大新聞におだてられ、平和と反核を訴えるが、中味はそっくり共産党に持っていかれることを知らないお人よしである。
こんな時勢にこそ、香を焚いて長松のもとに独坐せよ。そうして、「独」の一字に参ずべしだ。咄(とつ)。
584
:
志恩
:2012/05/04(金) 05:34:56 ID:.QY5jUA6
金木犀様
583:
五更の残月 田中忠雄 (3)
を拝読して、やっと、(1) (2) (3)で、
田中忠雄先生が述べられた真意を理解することが、できました。
謹写、感謝申し上げます.合掌。
585
:
金木犀
:2012/05/04(金) 07:01:26 ID:wrF1mhWI
志恩様
たしかにそうですよね。途切れ途切れに読むことになるので、
一部では意味不明になることありますよね。
実はまだまだ続くんです。やっと半分に来たかどうかというところです。
田中忠雄先生の文章は、むかしの方だし、禅の研究家のような方なので、
いろいろと現代人が使わない言葉をふんだんに使われますから、
難解なところがあります。
でもそういう言葉を味わうのもまた一興かなと思います。
586
:
志恩
:2012/05/04(金) 07:11:24 ID:.QY5jUA6
金木犀様
あははははっ
未だ,続くのでしたか。すみませんでしたね。いくつも横スレしてしまいまして。
続きを楽しみにしています。謹写、ありがとうございます。
今後,そういうときは、
「長文ですから、私が、おわりですと書くまで 横スレ、ご遠慮ください」と、
一筆、最初に断りを書かれますと、横スレは、ありませんよ。
587
:
志恩
:2012/05/04(金) 07:27:14 ID:.QY5jUA6
聖典引用板でなくても,他の板に普通の会話は,書き込めますから。
よろしくおねがしします。
588
:
金木犀
:2012/05/04(金) 10:02:31 ID:wrF1mhWI
志恩様
そうですね。今度から、つづくときには、つづくと書いておきます。
589
:
金木犀
:2012/05/04(金) 10:04:27 ID:wrF1mhWI
五更の残月 田中忠雄先生 (4)
風寒露を吹いて禅衣を湿(うるお)す
長松下に独坐していると、そよ風が松を渡って、松にやどる露が滴って我が禅衣をうるおす。つまり、自己に雑物の混入がなくて澄みわたると、一夜に一滴の露が落ちても、そのかすかな音が聞こえる。だから、良寛の詩や歌を「音の芸術」と言った人がある。国上山(くがみやま)の草庵に独り坐し独り寝ていると、笹竹の雪をはねる音、松風の音、遠くで鳴く鹿の声などが、静寂の夜を更に一層静寂にして、しんしんと更けてゆくのである。
独りということは、自己が自己になり切ることであり、精神の高貴な人が必ず透過した関門である。それは決して寝そべって暢気にだらりとすることではない。大自然の中で、風寒露を吹いて禅衣を湿(うるお)すのである。寒いから火を持って来いというわけにはいかぬ。明日は晴れそうだなと希望的観測をしても、誰一人共感もせぬし反対もせぬ。自然の運行には恵みばかりでなく、きびしさがあって、われ独りでそれに応対しなければならぬ。のみならず、毒蛇や毒虫がおり、猛禽や猛獣もおる。
おのれだけの宇宙ではないことが、おのれ独りになってみて初めて体験的にわかるのだ。私のような下根劣機は、厚い壁の牢獄にぶち込まれて、一年間留置所で強盗や痴漢や詐欺師と一緒に暮らして後、一年間独房で暮らし、一年間無言の行をやり、寒さで千回も万回も寝返りを打ち、暑さで無風の二畳の中でゆでられ、首や股がひどく爛れても、誰も助けてくれる者がなく、苦痛に同情してくれる者もなくなって、はじめて親の恩、衆生の恩、師の恩がわかり、それがわかっても天地の恩や国王の恩などは、なおわからなかったのである。
小人閑居すれば不善を為す、という言葉があるが、小人の閑居は不善を為す相手がいるからのことで、独りではない。人目のとどかぬところへ逃げて、そっと隠れていても、思うことは意馬心猿で大騒ぎだ。人目がなく、どんな勝手もできるときに独りを慎む人を君子というのだろう。その風光が「風寒露を吹いて禅衣を湿す」というさりげない表現になっている。
つづく
590
:
ももんが
:2012/05/04(金) 10:44:40 ID:XXCuaQns
4日の日捲り
『常に物事を明るく考え、心に良き人生を思い描け』
谷口清超先生『言葉は生きている』
591
:
SAKURA
:2012/05/04(金) 13:39:19 ID:zhRcXJMw
トキ様 へ
こんにちは…
日本では…「ゴ−ルデン・ウイ−ク…」企業に働いていらっしゃいます皆様は、
この時期は?長期ヴァケ−ション期間?と言いましても諸外国と比較しますと…
まだまだ日数的には少ないかもしれません〜〜ネ!
この間の“上手な時間”の使い方…女性の立場で考えてしまいます〜ネ!
■【幸せな女性となるために…】
そのために??只今【読書…】いそしんでいます。(微笑み)
さて!夜中に“投稿”致しましたので…再投稿させて頂きます。
>>577
「トキ様」本当に、そうです〜〜ネ…!
「定年退職」されました方達は、急に?“老いる”確かに見受けられますかしら〜〜ン?
思いますに、定年になり、今から“再スタート”と言って張りきっていた方がいましたが…
その後、急にふけられまして“ビックリ”なのです?聞きますと、やはりと想う処が…
どうもこの方は、奥様に振り回されている様なのです…。
今までは、仕事の会話で“外に向けての行動でありましたのが…近所の付き合いから…
更に!低次元?の“井戸端会話”に入っていて、少しでも“反論”しますと…
もう〜〜〜それはすごい“反論の洪水が〜〜><”
結局!ふり廻される事になり、何が?どの様に?なって行くとか〜〜ではなく…
何も考えたくなくなる!!そうなので〜〜す。
“振り回されない”その様にするには「ハイ!ハイ!あなたは最高の奥様です…」と、
“毎日!呪文の様に、唱えているそうです…。そうでもしないと食事の準備が〜〜?」
聞いていて大変なのです〜〜〜ネ!
今回!急に“老いる”のも、このような「夫婦の関係」による場合もある様です〜〜〜ネ!
私も、「この年齢???」と成りますと…
「雅春先生の言葉」から、いつも女性も“書物”を読む事と、言っておられましたが…
■「読書の力」というものは非常に大きなものでありまして本を読む事によって、その人の
思想が変わり、人格が変わり、行動が変わるのであります。
或いは悪い本を読めば、悪い感化を受ける。…云々…
良き書物を読みますと、言葉の力が精神に感応して、心の波長が自然に変わって
来るのであります。
谷口雅春著
「女の生き甲斐」より一部抜粋…
再合掌
592
:
「訊け」管理人
:2012/05/04(金) 23:44:30 ID:???
『光明道中記』256頁より謹写――
世の中には悪人さえ極楽往生を遂げるのに、いわんや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、これは如何にも表面そのように思えるけれども、実際は反対である。何故かというと普通善人と云うのは自力作善の人ーすなわち自分の力で今日は斯う云う善行を励みましたと云うように、「“わたし”が善をしましたから救われる資格がある」と云うような人である。ところが、その「“わたし”」なるものは本来無いのであって、一切の善はただ大本体たる弥陀の御徳のあらわれである。
「“わたし”がした」などと云うものは世の中に一つもない。それだのに「“わたし”がした」と云うのは大の偽善者であるから、かえって救われないのである。「悪人成仏」の悪人は、「わたしはこんな悪をしたから救われる」と云うような「罪悪誇り」の人間ではないのである。だから「他力をたのみたてまつる悪人」と親鸞聖人は注釈し給うたのである。「他力をたのみ奉る」とは、「自分には何の力もないのだ。すべての『善』は神力、仏力によるのである」と自己を謙る人を言うのである。自分に何らかの善が行じられるならば、仏力が廻向(えこう)して自分にやらせて頂くのであると知るが故に「自力修善」を誇ることがないのである。
593
:
「訊け」管理人
:2012/05/04(金) 23:47:28 ID:???
『光明道中記』249頁より謹写――
宇宙の本体の中に在する救わずにおかない大慈悲そのものが「弥陀の誓願」であって、それは人間の思慮を超えたるものである。すなわち「誓願不思議」である。その「誓願」が吾々の“いのち”の内部に廻向(えこう)し来って「念仏申さん」という思い立ちが起るのである。
だから吾等が「念仏申そう」という心が起ったとき、その心の中に「救わずにおかない弥陀の誓願」が既に宿っているのであるから、既に「摂取不捨」(すくわずにおかぬ)なのである。
『あなたは自分で治せる』89頁より謹写――
実に祈りが成就する根本は「わが祈れることは、既に成れるがゆえに、我祈るなり」の信念を有たなければならないのであります。
これが聖書にある「神は求むに先立ちてなくてはならぬものを知りたまう」とか「汝ら祈りて何事にても求むるとき、既にそれを受けたりと信ぜよ。即ち汝はそれを輿えられん」と云う祈りの基本法則なのであります。
『光明道中記』267頁より謹写――
念仏を称えたら何故救われるのか、そんな思いは雑念妄想である。如来の誓願こそ救いの本体である。
594
:
金木犀
:2012/05/05(土) 02:59:04 ID:wrF1mhWI
五更の残月 田中忠雄先生 (5)
有時(うじ)定(じょう)より起って双澗(そうかん)に下り
有時は、「有る時は」と読んでもよい。「定」は「禅」のことだ。禅は梵語jhzanaの音訳「禅那(ぜんな)」の略であって、意訳して「定」といい、また「静慮(じょうりょ)」ともいう。世の俗縁に煩わされず心を専らにして動揺させないことである。
長い間坐って「定」の境地にいたが、ある時にはふと「定」から出て座を立ち、双澗に降りて行く。双澗の「澗」は峰と峰との間の渓流のことだから、双澗は渓流が両方から流れて一つになるところ。そこが水を汲むに適している。そこで、有る時は定より起って双澗に下り……
瓶(びょう)に五更の残月を汲んで帰る
瓶は水瓶のこと、元来は菩薩が仏行を行じつつ諸方を往来するとき、身にたずさえていなくてはならないものが十八あって、これを『菩薩戒経』というお経には「十八物(もつ)」と称して三衣(え)、鉢、坐具、錫杖などを十八種あげてあって、その中に「瓶」というのがある。水を汲んで入れる器だ。
だから瓶は、今の人のいう瓶、ビール壜の壜、とはちがって、神仏にお供えする浄水の容器である。だから、ここにいう瓶は、仏教でいう閼伽桶(あかおけ)のことだろう。仏教語はインド産で、シナを経由して日本に来たので、ややこしいが辛抱して一応はわかっておかないと具合がわるい。むかし中学四年のとき鴨長明の『方丈記』の一節を習ったことがある。今でもおぼえているが、その中に「よひよひごとの閼伽の水」という文句がたしかにあった。それを六十年近くも後になってから調べてみるのだから、恥ずかしいやら可笑しいやらである。
梵語でarghaというのを音訳して「閼伽」というそうだ。くわしいことは語学者に聞くよりほかはないが、これは「水」のことらしい。浄水だと、神仏にささげる供物の意味になる。それから、これを入れる器の意味にもなるが、今では専ら仏前やら神前やらに供える浄水のことである。そうすると、『方丈記』の「閼伽の水」は、浄水の水というので言葉がダブって奇怪な日本語である。サンスクリットとシナ語と日本語の「みづ」の三つがチャンポンになっているわけだ。まことに国際的で面白いといえば面白い。
つづく
595
:
金木犀
:2012/05/05(土) 03:00:50 ID:wrF1mhWI
五更の残月 田中忠雄先生 (6)
かくて、瓶とは閼伽(浄水)を入れる桶のことで、この桶を閼伽棚に供え置くのである。「おけ」だの「たな」だのという日本語が附着して、これも国際的で奇妙だけれども、意味はよくわかるのでありがたい。
さあ、そこで、原文に帰る。――定より起って双澗に下り、瓶に五更の残月を汲んで帰る。
この結句のなんと美しいことよ。瓶に五更の残月を汲んで帰る。もうそろそろ、ひんがしの野に陽炎(かぎろい)の立つみえて、今汲む閼伽の水は、かたむく月を宿して、神秘な光を放っている。残(のこ)んの月と谷川の水とを一緒に汲んで、わが草の庵(いおり)に帰る。
何か、こう、大智の運ぶ瓶の中に大宇宙の神秘がこもっているような感じである。
蛇足ながら、五更の残月の「五更」は一夜を五つに分けた総称であり、また初更、二更、三更、四更、五更というときは、五つの時刻の中の第五更をいう。これは寅の刻で、今の人のいう午前四時にあたる。
大智禅師は道場の弟子が開枕(就寝)した後、真夜中に長松の下の石上に、しばしば結跏趺坐されたことがこの偈頌でよくわかる。むかしの禅僧は、これを「夜坐(やざ)」と言っていた。夕刻に坐るのも夜坐といったが、真夜中の坐禅も夜坐といった。夜坐して暁に及び、水を残月と共に汲んで、これを仏前に供えたのである。
瓶の中の水は、月と共に仏前にある。また、余った水は月と共に炊いてお粥にして、これを敬っていただくのである。
おわり
596
:
うのはな
:2012/05/05(土) 11:33:02 ID:El6gIMAw
金木犀さま。 長文おつかれさまでした。貴重な資料を提供いただきありがとうございます。
私も田中先生の「信仰夜話」の書写を一時考えていましたが、長文なので
あきらめていました。貴女のきめこまかさには敬服いたします。
拝
597
:
うのはな
:2012/05/05(土) 11:43:24 ID:El6gIMAw
感謝と喜びをまず与えよ
常に感謝せよ、天に対して、地に対して、日光に対して、すべての生き物に対して、
家に対して、身のまわりの道具に対して、ありとあらゆるものに感謝せよ。
感謝は光の言葉である。感謝するところによきものが集り来たり、よろこびの所に
幸福は集り来たるのである。
今日、今、朝から、喜びの生活を始めようではないか。
すべてのものに感謝して今日の生活を始めよう。
喜びにみたされて今日の生活をはじめよう。
喜びを表現すれば、喜びを与えたことになるのである。
「与えれば与えるほど与えられる」の心の法則に従って吾々の喜びの表現を
万物になげかける時、吾々も世界のすべてのものから喜びを与えられることになるのである。
『 生活応用 健全の真理 』 谷口雅春 先生著 P174
598
:
金木犀
:2012/05/05(土) 11:47:14 ID:wrF1mhWI
うのはな様
そうおっしゃっていただくと、ものすごく嬉しいです。
実は、田中先生の文章は少し難解な部分もあるので、皆様が取っつきにくく
思われて、読んでもらえないかもと、ちょっと心配しながら、書き始めましたので、
志恩様が読んで下さり、励まされた気持ちで書き続け、さらにうのはな様にそう言って
頂き、やった甲斐があります。
私の手元にある、『生長の家』誌の中の田中先生の雄峰一膳飯は
けっこう面白いものは、他で転写利用させてもらい、実は残ったものは私にとって
取っ付きにくかったのですが、今回きちんと読んだら、実に味わい深かったので、
ここに転写させて頂きました。
田中先生の少しやんちゃなご性格と、昔風の一徹な部分など、
近年読むたびに非常に惹かれて来ています。
若いころはそう思わなかったんですが。
599
:
うのはな
:2012/05/05(土) 12:24:22 ID:El6gIMAw
>若いころはそう思わなかったんですが。
いえいえ、今でも金木犀さまも田中忠雄先生も永遠にお若いですよ
日常生活の真理 女性信徒 版 より
600
:
金木犀
:2012/05/05(土) 12:48:28 ID:wrF1mhWI
うのはな様
おお、有難うございます。
全くその通りですね。
601
:
うのはな
:2012/05/06(日) 17:14:58 ID:El6gIMAw
....それは生長の家の最初の原稿を書いた所謂る“発祥の家”で、私と家内とが
互いに向かい合って神想観を実修している時、私の背後に空中に立っていられる
白髪の老翁の神様の姿を拝したというのである。この神姿はその後、他の信徒の
集まりにもあらわれたし、その頃熱心に私の宅へ日参のように来ていられた長尾初枝さんも
見たと言われた。
《 唯今神宮前一丁目ニ三ノ三〇(旧地名“原宿”)にある本部の旧館の正面玄関の上部に安置
せられてある神像は、服部仁郎氏が、家内の霊視せる神姿を詳細に聴き、それによって模型を造り、
家内が「此処はこんなでなかった。此処は斯うであった」といちいち訂正して、家内の霊視した神像に
出来るだけ近づけて創作せられたものである.......》
「神秘面より観たる生長の家四十年史」
602
:
うのはな
:2012/05/06(日) 19:37:09 ID:El6gIMAw
『黙示録』第一章 十二 二十節
われ振り反りて我に語る声を見んとし、振り反り見れば七つの金の燈台あり。
また燈台の間に人の子のごとき者ありて足まで垂るる衣を着、胸に金の帯を束ね、
その頭と頭髪とは白き毛のごとく雪にごとく白く、その目は炎の如く、その足は
炉にて焼きたる輝ける真鍮のごとく、その声は衆くの水の声のごとし。
その右の手に七つの星を持ちその口より両刃の利き剣いで、その顔は烈しく照る日
のごとし。我これを見しとき其の足元に倒れて死にたる者の如くなれり。
彼その右の手を我に按きて言ひ給ふ。
「懼るな、我は最先なり、最後なり、活ける者なり。われかつて死にたりしが、視よ
世々限りなく生く。また死と陰府との鍵をもてり。されば汝が見しことと今あることと、
後に成らんとする事とを録せ。すなわち汝が見しところの我が右の手にある七つの星と
七つの金の燈台との奥義なり。七つの星は七つの教会の使ひにして、七つの燈台は七つの教会なり」
603
:
金木犀
:2012/05/06(日) 23:12:21 ID:WQgf7Y2.
うのはな様
おお、ここにいる全員と同い年の白髪の老翁様ですね。
この白髪の老翁は雅春先生自身は見られていないそうで、それは自分自身の姿は
自分では見られないと言った理由に近いとおっしゃっていましたよね。
604
:
うのはな
:2012/05/06(日) 23:46:48 ID:El6gIMAw
>>603
上記で金木犀さまがいわれている話は、わたしも他の信徒さんから
お聞きしたことがあるのですが、私自身は清超先生の代になってから、
平成になってから生長の家に入ったので実際に雅春先生からお聞きしたことは
ないんです。
605
:
金木犀
:2012/05/07(月) 05:46:44 ID:WQgf7Y2.
うのはな様
私もご著書で読んだ話で、直接雅春先生のご講話とかでお聞きした話ではないのです。
でもうのはな様はお若いから、雅春先生に実際にお会いしていらっしゃらないのは当然ですよね。
いろいろ古い神誌や聖使命新聞を持っていらっしゃるから、なんとなくしっかり昔からの信徒のような
錯覚に陥りそうですね。と言って若いというイメージもしっかりあるから、不思議な存在、不可思議
神秘の雰囲気ですね。
606
:
金木犀
:2012/05/07(月) 08:06:31 ID:WQgf7Y2.
昭和五十七年六月号『生長の家』から「甦る建国の精神」
龍宮住吉本宮で行われた紀元祭の様子
美しい自然と太陽に恵まれた総本山の空は抜けるように青い、樹木の枝には若芽がふくらみ、龍宮住吉本宮の境内地は透き通るような新緑に蔽われていく。太陽の光も揺れて、桜前線が南から北へ進むと、参道の金蓮花は今が盛りと咲き誇っている。明るい総本山の素晴らしい春だ。桜をたずねて野に出る人々が、ひきもきらずに総本山を訪れて来る。此の頃は、龍宮住吉本宮、龍宮住吉霊宮に参拝を済ませたその足で温故資料館を拝観していく人々の数が一日約百名にも達するほどになった。また龍宮横の峰に建立中の「七つの灯台」を仰ぎ見、その威容に賛嘆して、「さすがに生長の家は日本一だ!!」との声も聞かれるようになって来た。
この早春の総本山で、去る二月十一日、地元を中心に一五〇余名の熱烈な愛国者が相集い、紀元祭が厳粛に執り行われた。総本山ではこの日のために、西彼町、琴海町、大瀬戸町の全戸(約八千戸)に、新聞折込チラシ配布の愛行を行って来た。その結果、此の度の紀元祭には、西彼町をはじめ各町民も積極的に参加して、例年にない盛大な紀元祭となった。この日を待ちに待っていた地元の鳥伽老人クラブの人々は、朝早くから駆けつけ、顕斎殿前に置かれている「さざれ石」の前に立って、日本の昔の姿に思いを馳せ、深い感銘を受けながら、晴れの式典に他の人々と共に参列した。
鎮護国家出龍宮顕斎殿の住吉大神の御前で国の誕生日を奉祝できる無上の悦びが、それぞれ参列者の顔に溢れている。午後十時、国歌・君が代斉唱のあと、ただちに式典が始められた。修祓、御扉開扉の儀、招神歌、献饌のあと、宮司が恭々しく祭壇に進む。東方に姿勢を正して「伊勢皇大神宮並びに橿原神宮遥拝式」が、熱烈なる愛国精神の雰囲気の中で執り行われる。続いて宮司より祝詞が奏上され、宇宙浄化の祈りがなされると、皇紀二千六百四十二年の記念すべき日の慶びが、誰の胸にも熱く高まり、荘厳な中にも護国の理念が甦ってくる。さらに、日本書紀神典がよどみなく奉読されると、日本人としての魂の誇りと悦びが沸々と湧き起こり、会場全体が深い感動につつまれていく。なかでも、老人クラブの人々は、甦る建国の魂に我を忘れ、青年に若返ったような輝かしい目をして式典を見守っている。楽しい紀元節奉祝歌の斉唱のひとときには、誰もが童心にもどって声高らかに歌っていた。歌う喜びの中に、天皇仰慕の心がいやが上にも高まり、涙さえ浮かべる人も見られた。式は粛々と進行し、玉串奉奠が来賓及び関係者によってなされたあと、大和理念が地上に悠久であれと、神舞姫の正装で舞う「悠久の舞」があでやかに奉納され、午前十一時四十分式典は滞りなく終了した。
このあと西彼町町長が来賓代表の挨拶に立たれ、
「今日ほど瑞穂の国日本に生れた喜びを感じたことはございません。今の日本の教育は荒廃し切っています。この御教えを教育の中にとり入れ、真の日本人造りのために、正しい教育をすべきだと痛感致しました。私達も龍宮住吉本宮のお膝元で、神聖日本国再建のために頑張ります」と力強く述べられた。
これを受けて、良元宮司は、
「住吉大神より使命を受けられた皆様すべてが、私たちの人類光明化運動に参加して頂き、それぞれの地元で天皇国日本の実現のために、立ち上がって下さい」と、熱烈な挨拶、参列者一同に深い感動を与えた。
「今日はほんとうに素晴らしい一日でした」
「来年はもっと多くの人達を連れて、きっとやって来ます。それまで皆様も頑張ってください」
と、互いにあらためて祖国再建の志を誓い合った総本山の一日であった。
607
:
ハマナス
:2012/05/07(月) 09:37:02 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。魂のお勉強に行って来ました。真理がわかるという事は、
何物にも代えられない喜びですね。生長の家に触れられてありがたいです。
問題を神にゆだねよ (『新版 生活の智慧365章』P.146)
如何なる問題が起こって来ても、常に明るい心を以ってそれに立ち向かうことが必要
である。どんな問題でも、神なら解決できるのである。自分の「我」の力で解決しようと
思うから、解決の方法を失ってどうすることもできないような事になるのである。問題を
神に振り向け、神に肩代わりしてもらうがよいのである。
そのためには、「神は全知全能であるから、どんな問題でも必ず解決できるのである。
私はこの問題を神様あなたに委ねます」と繰り返し繰り返し、心に念して祈り、その問題を
神に委ねるがよい。徹底的に神に解決をゆだねたら、神は必ずその問題を解決に導き給うの
である。それは自分に好い考えが思い浮かんで来ることもあれば、誰か、思いがけない
ところから、援助の手を差しのべる人が出てくることもあるのである。充分祈った後に、
誰かがその問題解決について案を示してくれるならば素直にそれに従うがよい。
感謝合掌
608
:
ハマナス
:2012/05/07(月) 10:12:03 ID:u5mC.eb2
ありがとうございます。
『新版真理第8巻』P.270にも、素晴らしいご文章がありました。
本当に神に全托するとは
「神に一切を委(まか)す」のは本当に「神に一切を委す」のでなければならない。
「自分の力で神に委そうと努力する」のであったならば、それでは自力が半分混入して
いると云うことになるから、本当に神に委(まか)したことにならないのである。
まことに神に委すのは、「自分の力で神にまかす」のでなく、自己放棄して、「神の
力で神にまかす」と云うことにならなければならない。「自分の力」で何とか工夫を
しようと考えている限りに於いては、どこまでも完全なる他力にはなり得ないのである。
「放つ」ことは、ただ「放つ」のであって、「放つことを努力する」と云う事ではない。
本当に放ったとき、本当に神の力が完全にあらわれる。病気なども忽然と治り得る所以
(ゆえん)である。
宗教で治るのは斯(こ)うした「自己精神を抜く」ことであって精神力を使うことでない。
感謝合掌
609
:
SAKURA
:2012/05/07(月) 21:33:17 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者に皆様 へ
「ゴ−ルデン連休明け?」ですが…私の“連休”は???と
思う位〜〜〜“いつもの生活”でしたが…
皆様は、この“ゴ−ルデンウイ−ク期間中”如何お過ごしでしたかしら〜〜ン?
では!久しぶりに「今日の言葉」を 【開け〜〜〜ごま〜〜〜♫〜〜〜】念じます。
出ました〜〜「今日の言葉」
■【幸福を招く生活365章】
――――神独在以外の真理は本物ではない――――
あなたを救う真理は、「唯、神のみ実在したまう」と云うことである。
この真理から外れたところのあらゆる論理も学説もあなたを幸福にすることは
出来ないのである。今病気で苦しんでいる人は、また貧乏で苦しんでいる人は、
その他如何なる不幸にでも苦しんでいる人はこの真理から外れて、ほかの真理を
信じている人なのである。或る人は病気や不幸を実在であると信じている。
そして神に対して、「この不幸を取り去り給え」と祈るのである。
そして中々その不幸は癒されないのである。そして時には「不幸」の方が
「神」よりも力が強いのではないかと思う。併し、この人の心が「神」
も信じ、「不幸」も信じている限りそれは二元論であって真理ではない。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「祈る時」…“迷い”は、タブ−です〜〜ネ!もう〜〜【絶対論】でしょうか!
必ず!【願いが叶うと金剛心で祈ります…】
更に!【もう〜〜〜慣れた!そうです“実現出来た!”と断定し祈っていました】が…
■この頃は「神様に委ねる心境」で、
【なすべき道を示したまえ〜〜〜♫〜と云って神の啓示を、待つような状態ですが…】
時としては、不安になる事も?
このような“心境”では、【神と一体】とは云えませんです〜〜〜ヨネ!
更に「祈り」ながら…
「自分は不幸だとか…?“心”でネガティブな感情は一変でも思えば…
その【願いは通じない】のです〜〜〜ョネ!当に!「金剛心…」が必要でしょう!
今回!【心…強く思念する事】だと、新たに思いました…。
■更に“何時も幸せ〜〜〜☆〜”と、心からの【感謝!感謝!】からが…
「神…」に対しましての“絶対論”でしょうかしら〜〜ン?
更に【神の啓示】が来ましたら…忠実に従って【start・me・up……信じて邁進!!】
再合掌
PS; トキ様 へ
今日の“言葉”どの様に?思われますか?【絶対論=神】そうなのですが“とき”と
いたしまして、“雑念=煩悩”が、どうしても入る時がありますが…?
トキ様は?如何でしょうか??
610
:
a hope
:2012/05/08(火) 08:02:44 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
第十章 働きの生かし方
心は常に働く
心は働くようにできています。心は自分が生きているからには働くほかに道はないのです。
身体(からだ)はじっとしていても心は働いています。心を休ませる方法はないのです。
寝ている時にも心は働いています。ただその時には身体や頭を使わないでいて、
心だけで働きますから、頭にはその働きは憶えていませんが、やはり心は働いているのです。
その証拠に皆さんは眠っている間にも夢を見るでしょう。
身体はじっと寝ているのに運動会の夢を見るでしょう、遠足の夢を見るでしょう。
勉強の夢も見るでしょう。しかしそれは「心」だけで働いたので、
「頭」の方は働かなかったからハッキリとは思いだすことができないのであります。
このように「心」は眠っている間も働いているのです。
すべての生きてものは少しも休みなしに働いているのです。
一分間でも働きが止まったら死んだということになるのです。
どんなに獺(なま)けていてもお腹が減るのは、身体が獺けていても心がつまらない事に働いている証拠です。
だから獺けている人は同じように働いていながらも、自分はちょっとも進歩しないし、(ひと)からは「あいつは獺けている」
と憎まれるだけが損なのです。
同じお腹が減るくらいなら、同じ自分働くくらいなら、
「あいつは獺けている」と言っている人から憎まれるようなことをしないで、
自分自身が進歩しながら、人から誉められるような働きようをした方がよいではありませんか。
それには仕事をすることです。それには勉強をすることです。
仕事をし、勉強をしたら、人は喜んでくれます。自分が進歩します。
身体が達者になります。立身出世ができるのです。
(つづく)
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