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聖典引用 板
370
:
金木犀
:2012/04/12(木) 15:41:44 ID:y/Po8pPE
『秘められたる神示』より「終戦後の神示」
われは7つの燈臺に火を点ずる者である。われは白髪の老翁である。白髪とは久遠永劫より続く無量寿の象徴である。われは彦火火出見尊が魚(な)釣らす鈎(つりばり)を失い給ひて憂ひ泣きたまふ海邊(うみべ)に来りて、尊を龍宮海に導きたる鹽椎神(しおつちのかみ)である。鹽椎神とは水火土之神の謂(いい)である。霊は水火土と顕れ、一切のものは水火土から生れたのである。われは霊の海、創造の神である。水即ち『おしめり』と火即ち『ぬくもり』と『土』の働きとがあって萬物は生ずるのである。黙示録には『われはアルファなり、オメガなり、生と死との鑰(かぎ)を持てり』と録(しる)されてゐるのがそれである。われを単に海の神だと思ふな。龍宮海の神の如くあらはれてゐるのはウミ(生み)の象徴であり、龍宮無限供給の神のシンボルである。われは一切の創造(うみ)の神であるから無にして無尽蔵である。
日本の国が貧しくなったとて歎くことはない。日本の国は不幸にして我れを容れなかったのである。キリストの教会を閉鎖せしめ、そのほか色々の圧迫を加へた。『生命の實相』も不当に用紙を配給せぬやうにして其の出版を閉鎖したのである。われは愛の神であるから神罰を当てたのではない。真理に目を閉ぢ、『我』を突き貫してつひに自壊するときが来たのである。
日本の国民よ、歎くな。迷ひの自壊の後には必ず住よしの世界が来るのである。われを戦ひの神と思ふな。われは平和進駐の神である。住吉とは平和の理想境と云ふことである。わが行くところに平和は来り、わが行くところに龍宮無限の供給は来るのである。キリストはわれの別名であるから、キリストを押し込めたのが可かぬのである。陸前の鹽釜神社でも香取鹿島の神を正面にして、鹽釜の神を傍(かたわら)に押し込めてある。軍国主義の神を正座に置いて、平和の神を別座に一段下におとしてあるのが今までの日本の姿であったのである。このような状態では日本が負けたのも仕方がない。折角今此処にある無限の供給を閉じ込めて置いて、増産を高唱してもそれは空念仏である。
まだ日本の真の姿はあらはれてゐない。今は伊邪那岐神の禊祓のときである。伊邪那岐神は日本の神、日本の象徴である。これから八十禍津日神、大禍津日神など色々の禍が出て来るが、それは、日本が『穢き』心になってゐたときの汚れが落ちる働きであるから憂ふることはない。この禊祓によって日本国の業が消え、真に浄まった日本国になるのである。心を明るく持ち、すべてを神直日、大直日に見直して、禍を転じて福となさねばならぬ。かくて斎女(いづのめ)の神はあらはれ、本当にこの世が斎き清められて、その後に住吉の神があらはれるのである。住吉の神はまだ本当にあらはれてゐぬ。併しもうあらはれるに間もないのである。住吉の神があらはれたら、伊邪那岐神の左の眼が真に清められて、日本の實相荘厳の姿があらはれるのである。古事記の預言を廃れりと思うふな。預言は成就しつつあるのである。ただその預言を間違って解釈する人が多いのである。
(昭和二十年十一月二十七日未明神示)
j
371
:
ももんが《宗教篇・質問》
:2012/04/12(木) 17:39:01 ID:XXCuaQns
>>370
金木犀様
金木犀様、始めまして。合掌、拝。
少し、わかない事が、あるので、御質問させてください。
実は、『終戦の神示』のこのこの箇所の事なのですが、おわかりになりますでしょか?
《陸前の鹽釜神社も香取鹿島の神を正面にして、鹽釜の神を傍(かたわら)に押し込めてある。》
確かに、陸前高田に『塩釜神社』は有ります。
そして、常陸一宮として、『鹿島神宮』、下総一宮とし『香取神宮』が、あり、確かに、“武道の神様“として、有名です。”神示 “に言われてる、戦いの神を前に出した”?チョト疑問に感じたのです。
まず、
①、関東三社と、呼ばれていて、
1、鹿島神宮=建御雷之男神《タケミナカズミチノオノカミ》
2、香取神宮=経津主神《フツヌシノカミ》
3、息栖神社=天鳥船命、別名、鳥之石楠船神
と、住吉三神《底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命》いわゆる、住吉大神様のこと。
私も、最近知っただけですが、三社は地図で見ると、トライアングル情態になり、昔から共有関係にあるようです。どうなんでしょう?住吉三神が、確り、祀られいますが?どうして、神示には、出てこないでしょか?
②、『延喜式神名帳』《延喜5年・927年》には、『伊勢神宮』と『鹿島神宮』と『香取神宮』のみ『神宮』格の称号が与えらていたようです。
平安時代から江戸時代まではこのようだったと、調べたら出ていました。
『神宮』は、皇祖皇宗や平和に貢献した“神”に与えらるようです。
確かに、鹿島、香取神宮は、現在は、していませんが、“式年遷宮”をしていたので、“遷宮式”がある、神宮のようで、皇室、日本を守護した証でありますが、この神示の云わんとすることは、現象的に、辻つまが、合わないようで、何とも、解釈が、難しいなと、思いした。
もし、お解りに、成るようでしたら、教えくださいますか。
解らないようなら、『解らない』とだけで、よろしゅうございます。
大変、不躾な質問になりましたが、文章の粗雑な箇所と、言葉使いの悪い箇所は、御容赦ください。
では、失礼、致します。合掌、拝
372
:
金木犀
:2012/04/12(木) 18:34:05 ID:y/Po8pPE
ももんが様
はじめまして、合掌、有難うございます。
この神示の解説に、その説明が載っているのですが、先ず、生長の家の大神は
住吉大神であり、創造の本源の神であり、無にして無尽蔵の神であり、
また同時に黙示録に現れる白髪老翁のキリストです。
とりあえず、疑問に思われている箇所の説明の部分を以下に転載致します。
鹽椎神は龍宮の大神として陸前の鹽釜にある鹽釜神社におまつりしてあるけれども、私は実際のことを調査していないから確言はできませぬが、この神示によると鹽釜神社の正座の社には香取鹿島の神がお祀りしてあって、鹽椎神を脇社に一段下にお祀りしてあるらしいのであります。
香取鹿島の神といふのは、天孫降臨の際、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の命を奉じて大国主命に国譲りをせしめた経津主神(ふつぬしのかみ)が香取神社の祭神で、武甕槌神(たけみかずちのかみ)は大国主命の帰順後も抵抗して譲らなかった大国主命の御子建御名方命(たけみなかたのみこと)を諏訪湖にまで押しつめてつひに降伏せしめた神で鹿島神社の祭神である。
いづれも軍神であるが陸前の鹽釜神社には、この両軍神を正社に祀って平和な住吉世界の神である鹽釜の神を脇社に押し込めてあり、龍宮無限の神を一段下におとしてあるから、生産増強が空念仏に終わってしまって、つひに生産力の豊富なアメリカに敗北を喫することになったといふのであります。
神を如何に祀るかといふやうなことはどうでもよいやうなことでありますが、それは時の日本国民全体の心境又はその指導階級の心境の表現でありますから、現象はその心境の具象化として、その心境同様のことがあらはれて来るのであります。
しかし、深く現象の奥にあるものを考経てみますならば、その当時の日本の指導者の心境がそのやうであったことも、また日本が敗戦したといふことも、あるべき事物があるべき順序であらはれて来たのであって、それは『古事記』に既に預言的に書かれてゐたのであります。
以上ですが、これによると、戦争当時の頃の鹽釜神社内における配置であり、香取、鹿島神宮と住吉三神の神社の位置関係を言われているのではないようです。
373
:
金木犀
:2012/04/12(木) 18:37:11 ID:y/Po8pPE
訂正します。
深く現象の奥にあるものを考経てみますならば
↓
深く現象の奥にあるものを考へてみますならば
374
:
ももんが《質問・日本篇》
:2012/04/12(木) 20:05:12 ID:XXCuaQns
>>372
金木犀様
金木犀様、丁寧な御回答、ありがとうございます。感謝、合掌、拝。
御回答していただき、ありがく感謝いたしますが、私は、その回答には、今一つ、納得いかないのです。
金木犀様は、以下の様に、雅春先生の御言葉のまま、のべておられます。
《私は実際のことを調査していないから確言はできませぬが、この神示によると鹽釜神社の正座の社には香取鹿島の神がお祀りしてあって、鹽椎神を脇社に一段下にお祀りしてあるらしいのであります。》
しかし、実際は塩釜神社に祀られてるのは、
①、塩椎神《主宮》《この神を住吉神と同じと観てますよね》
②、建御雷之男神《左宮》
③、経津主神《右宮》
を祀っているのです。
ただし、塩釜神社の説明では、次の如くありました。
『陸奥国が平安に成ったので、塩椎神だけを残して、鹿島神、香取神は、自分の宮に帰らた。塩椎神は、地元で塩の製法を伝承した。』ような、言葉は、私の言葉ですが、この様な、事が書いてありました。
押し込めたと?解釈は、何とも、おかしいな、思っています。
私は、こう捉えてます。
①、建御雷之神
②、経津主神
③、住吉神《塩椎神》
は、”三神で一体“として、国を護る役目を果たしていたのだと。
本来、鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の、関東三社に、元々、本籍を置いていた神様でしたが?
陸奥国平定のおりに、住吉神《塩椎神》だけ、陸奥国一宮として、残られた。
関東三社は、綺麗な、三角形を描きます。
ある、意味、パワーバランスが、崩れたと、この神示は、言われてるのと、私は、感じられたのたのです。
ですから。金木犀様の言われ。
《、戦争当時の頃の鹽釜神社内における配置であり、香取、鹿島神宮と住吉三神の神社の位置関係を言われているのではないようです。》
ように、関東三社の位置関係が、関係ないとは、言えないと、思います。何故なら、このような、例えは違いますが、将門公の怨霊を鎮めたりするのでも、古代の人は、良く使われます。これが、正しいか、間違いかは、わかりません。
息栖神社は、応仁天皇様くらいの頃からの、湧水があり。《現在まで続いてる》
私は、この、神示は、内容は、神様の位置や、神様の働きを、知ると、今まで、言われていたこと以上に、深い意味を持ってるきがしたので、御質問させて、いただいのです。
真に、丁寧に、御回答いただき、心より、感謝いましたす。失礼な御言葉になりましたところは、御許し下した。また、自分でも、勉強して見ます。ありがとうございました。
感謝敬白、合掌、拝。
375
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/12(木) 20:40:17 ID:ml49uOrg
金木犀さま、
第1巻の巻頭のヒントを有難うございました。ヒントというより、、、
疑問の回答をズバリ!と思います、有難うございます。
376
:
金木犀
:2012/04/12(木) 21:40:32 ID:y/Po8pPE
ももんが様
ももんが様の仰る意味もあるかも知れません。
鹽釜神社というのは本来住吉大神を祀る神社であり、その神社の祭神である住吉大神を脇に押しやって、
香取鹿島の神を首座に据えたのですから、あるいは仰るようなパワーバランスというものがあって、
それが崩れたのかも知れません。
雅春先生は、此処ではこの神示の解説を人間の心の影と言うことにポイントを
置いて説明されております。すなわち、
神は愛の神であるから、神罰を当てるということはないが、
この世界は、心の影であるから、国民あるいは指導者の心が軍神を前に出し、
平和の神である住吉の神をわきにやる祀り方をするのも、
その精神の反映であり、それはそのまま、軍の方針を表している。
即ち、軍閥が戦争中に、キリスト教を圧迫して諸方のキリスト教会を閉鎖せしめたこと、
生長の家の神様が、”言葉の力”を強調して、必勝の道を授けられたのに、
それを使わずに、「必死、決死、水漬く屍、草生す屍」など不詳な言葉を濫用して、
自然に自ら発する言葉の力に呪縛されて、戦死は増え、水漬く屍や草生す屍が殖えて、
敗戦に至った事を歎いてい給うのでありますと
云うように雅春先生はおっしゃっています。
軍指導者の精神が神の祀り方にも現れているという、
心の影から見た説明ですが、パワーバランスの観点でみると
ももんが様の説明になるのかも知れません。
有難うございます。
377
:
金木犀
:2012/04/12(木) 21:47:19 ID:y/Po8pPE
ユタカ様
ユタカ様の疑問の答えが、あるいはこのことかと思いましたが、
そのものズバリであったとは、嬉しいです。
お役に立ててよかったです。
378
:
復興G
:2012/04/12(木) 22:03:13 ID:ojEbkDH2
『生命の實相』第1巻の冒頭に、『黙示録』第1章12節―20節が掲載されているのはなぜか、というご質問が「部室板」の方にありました。それについて参考になる谷口雅春先生のご文章を、『神ひとに語り給う』(神示講義「教」の巻)より、2回に分けて謹写投稿させていただきます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「新天新地の神示」講義(1)
「七つの燈臺」の意味するもの
さて、聖経の巻頭に「七つの燈臺の點燈者の神示」といふ言葉が出てゐるのでありますが、爰(ここ)に生長の家は一宗一派ではないといふことが、ちやんとこの神示に書かれてゐるのであります。「我は七つの燈臺に燈を點ずる者である」と生長の家の教へを創(はじ)められた神様がみづから言つてをられるのであります。この「七つの燈臺」といふ言葉は、キリスト教の新約聖書の一番終に『黙示録』といふのがありますが、その第一章を披(ひら)いて御覧になりますと次のやうに書かれてゐるのであります。
「われ振反(ふりかえ)りて我に語る聲を見んとし、振反りて見れば七つの金の燈臺あり。また燈臺の間に人の子のごとき者ありて、足まで垂るる衣を着、胸に金の帯を束(つか)ね、その頭(かしら)と頭髪(かみのけ)とは白き毛のごとく雪のごとく白く、その目は焔の如く、その足は爐にて焼きたる輝ける真鍮(しんちゅう)のごとく、その聲は衆(おお)くの水の聲のごとし。その右の手に七つの星を持ち、その口より兩刀(もろは)の利(と)き剣(つるぎ)いで、その顔は烈しく照る日のごとし。……彼その右の手を我に按(お)きて言ひたまふ「懼(おそ)るな、我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ曾(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く。また死と陰府(よみ)との鍵を有(も)てり……」
此の「人の子」といふのは、じつは「神の子」であつて、イエス・キリスト自身が、常に自分を「人の子」と言つてをられた。そして「我れ曾て死にたりしが」とあるのは一度は十字架にかけられて死んだやうに見えたがといふことであります。それで「人の子のごとき者」といふのは、イエス・キリストのことであることがわかるのであります。肉体のイェス・キリストは三十三歳で磔けにかかりましたから、老人ではないのでありますが、それが復活して久遠の古(ふ)りたる無始の昔からの存在として白髪の老翁の姿を以つてこの七つの燈臺の間を歩んでをられるのであります。ヨハネから見たら、どうも人相が「人の子」即ちイエスに似てゐるけれども老人の姿でありますから、どうも、イエスでないかも知れない、それで「人の子そのもの」と書かないで「人の子のごとき者」と書かれてゐるのであります。ところが、その人の子のごとき者は、「我は最先なり、最後なり、世々限りなく生く。また生と死との鍵をもてり」と仰せられてゐるのであります。白髪といふのは老人の老いぼれといふ意味ではなくて、また今漸く三十歳になつたばかりのイエスであるといふ意味ではなしに、久遠の昔から永遠に続いてゐる生き通しの生命を象徴した「白髪の老翁」といふわけでありまして、決して老いぼれのお爺さんといふ意味ではないのであります。「久遠の生命」といふのは百五十歳位の数へられる長壽ではなくて、無限の長壽といふものを象徴した白髪の老翁の姿で示されたので、その「頭と頭髪とは白き毛の如く雪の如く」白衣(びゃくえ)を足先まで垂れた姿であらはれられたのであります。
<つづく>
379
:
復興G
:2012/04/12(木) 22:04:31 ID:ojEbkDH2
<つづき>
「新天新地の神示」講義(2)
これはヨハネといふキリストの弟子の中で、一番靈感の秀れた弟子が、キリストが磔(はりつ)けになりましてから、ローマ帝國の迫害を受けて、パトモス島といふ小アジアの小島へ流されて居つたときに神に祈つて居りましたら、靈感的に、眼は瞑(つぶ)つてをつても眼の前に七つの燈臺の有様が見えて、白髪の老翁の姿がその間に歩みたまふのが見えたといふのであります。その白髪の老翁は一我はα(アルファ)でありω(オメガ)であり――始めであり終りであり、生と死との鍵をもてり」と宣言したまうたことによつて「宇宙の根元の神」であるといふことが明かであります。その神様が出て來られたので、ヨハネはその威嚴にうたれて、そこに平伏(ひれふ)してしまった。そして「死したるものの如くなれり」と聖書には書かれてゐます。単に土下座したといふくらゐのものではないのであって、地面に平伏してしまつて、もう再び起き上る事は出來ないといふ様な状態になつた。そのとき“吾はアルファなりオメガなり、最先なり最後なり、生と死との鍵をもてり”とかう言はれた。この神様が、生長の家の神様であつて「七つの燈臺に燈を點ずる者」でありたまふのであります。キリスト教的に言へば「久遠のキリスト」であります。肉体のキリストは三十三歳で死んだけれども、「本當のキリスト」は、久遠不滅であらせられるのです。『生命の實相』の中には眞理と書いて、「キリスト」とフリ假名をつけてある箇處が所々にあるのであります。「キリスト」といふと、三十三歳でハリツケになつたユダヤ人の男の事だと、かう思つてゐる人もありますけれども、あれはキリストの應現身であつて、肉体的に或る時代に適するように應じて現れた姿であつて、「本當のキリスト」は「眞理」そのものであり、始めなく終りなく宇宙に充ちてゐる所の眞理そのものである訳なのです。その眞理そのものは久遠不滅であるから、初めであり終りであり、永遠に不滅である、といふので白髪の老翁の長壽の姿をもつて人格化して出て來られてゐる――かういふ事になつてゐる訳であります。
<つづく>
380
:
復興G
:2012/04/12(木) 22:07:37 ID:ojEbkDH2
<つづき>
「新天新地の神示」講義(3)
内にやどるキリスト
さて、新たに生れる問題でありますが、キリストの弟子のパウロといふ人が言つてをりますが、「も早われ生くるにあらず、キリスト我れにあつて生くるなり」この自覚が「新たに生れる」生れ更りであります。肉体の自覚からキリストの自覚に新たに生れるのです。自分といふ肉体的な存在が生きてゐるのではなくて、「キリストわれにあつて生くるなり」といふ所の自覚を得ることが、新たに生れることであります。「谷口先生はキリストの再來である」なんておつしやる人もありますけれども、キリストは眞理であり、普遍的な存在でありますから、私だけがキリストの再來ぢやない、皆さんすべてにキリスト――即ち眞理が宿つてゐるから、パウロと同じやうに「キリストわれにあつて生くるなり」といふ自覚を得るならば皆さんは「われキリスト」の自覚を得られたのであつて、キリストの再來であるわけなんです。諸君、「汝自らを知れ」といふソクラテスの言葉を、深い意味に於て如實に知つてですね、「自分といふものは神の生命なんだ。最早われ生くるに非ず、キリスト我にあつて生くるなり」と自覚するんですね。これを忘れるから不可(いか)んのですよ。これが根本問題であつて、戰爭が起るのも、人類の一人一人がキリストだといふ事を忘れてゐるからですよ。自分が「愛」そのものであるところのキリストだといふ事を忘れてゐるところに、色々の争ひが起り、奪ひ合ひが起り、色々面白からざる事が起つてくるのであります。自分がキリストであるといふ事を忘れて、自分は「煩悩の猿(ましら)」であると、ダーウィンの進化論などから、人間は獣類の子孫だなどと思つて、人間が神の子であり、キリストであるといふ事を忘れてゐる――其処に一切の混乱の源があるんですよ。佛教では「キリスト」と言はないで「佛性」と言ふんです。つまり自分に宿つてゐる處の佛性――佛なる本性がキリスト敏では「内在のキリスト」であります。日本的に言へば「ミコト」なるものであります。何宗教にも偏らない用語を使へば「眞理」と言ふべきであります。神道でもキリスト教でも佛教でも同じ事です。生長の家は萬教帰一であります。だから此の講習會に集つて居られる方々には、いろいろの宗教の方々がゐられる。佛教各宗の人も居られるし、キリスト教の各派の人も居られる。或ひは教派神道の方々も居られる。かうして色々の宗教の人が生長の家に來て教へに触れられる。すると、“自分の信じてをつた宗教の神髄は本當はかういふ意味であつたのであるか”といふ事が判つて其の宗教が本當に有りがたくなるのが生長の家であります。それで、自分が燈臺だと言はないで「七つの燈臺に火を點ずる者」といふのであります。
<つづく>
381
:
復興G
:2012/04/12(木) 22:08:49 ID:ojEbkDH2
<つづき>
七つは完成の数でありまして一切を包容する意味であります。燈臺といふのは世を照らす光であつて、世の光となる宗教の象徴であります。ところで、現在はまだあらゆる世を照らす光である筈の宗教が眠つてゐて其の法燈が消えてゐるのであります。もう大分眼が覚めたらしい宗教もあるのですけれども、生長の家が二十七年前に出現した時分は、大抵の宗教は眠つてをつて燈がついてゐなかつたのであります。だからどの宗教でもみな教祖の時代には、いろいろの奇蹟が現れたり、魂を本當に目覚めきせて如實に人間を救ふ事ができたのでありますけれども、それが段々弟子から弟子へ傳はり、それが「又弟子」に傳はりしてゆく中(うち)に、教へが段々水増しをするやうに迷ひで薄まつて、到頭、レッテルだけが「キリスト教」と書いてあつて中身は別物が入つてゐたり、或ひはレッテルは「佛教」と書いてあつて、中身は釈尊のお読きになった眞理がない水だけが入つてゐるといふやうな宗派ができて來ました。そして、さういふ様な中身の異るものを「キリスト教」とか「佛教」とか言つて売つてゐるといふ様な事でありますから教祖が出現せられた時代にあらはれてゐた奇蹟があらはれなくなつた。そしてその奇蹟があらはれないことを弁解する爲に、奇蹟のあらはれる宗教を治病宗教とか新興宗教とか言つて攻撃してをれば、自分の宗教が偉いやうに見えるだらうと思ふやうな間違を犯して、テンとして恥ぢないやうになつて來たのであります。イエスでも釈尊でもはじめて出現したときには、既成宗敏にあきたらないで出発した新興宗教であつて、奇蹟が続々あらはれてゐたのであります――ところがその法燈が途中で消えて居たのですから、人生といふ航路を行く舟が難破するといふのは無理がないといふ訳であります。其処で神様がそれに燈を點(つ)けなければいかん、といふ訳で、世を照らす光の燈臺である各宗の教へに、生きた火を點ずる役目として出現せしめられたのが、生長の家であります。燈をつけるのであつて、決して各宗の燈臺を壊すのではないんですから安心せられたいのであります。だから私たちは決して生長の家へ改宗してやつて來いとは言はないのであります。皆さんの信じてゐられる今迄の宗教のそのままでそれに本當に世を照す事のできる燈がついたらそれでいいんでありますから、生長の家にあらはれた神さまは『七つの燈臺の點燈者』と呼んでも好いといふ風に「新天新地の神示」に示されてゐるのであります。(後略)
<以上>
382
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/13(金) 00:14:20 ID:awZ2qvz6
金木犀さま、
秘められたる神示を教えてくれたり「神人に語り給う」の長文の入力、、本当に有難うございます。(肩をもみ、もみ。。)
打ち込みがメチャ早いですね。私は終戦後の神示を今入力中です。 (内緒話、我が家もこの生長の家関係専用のPCもうすぐこわれそうです、一番古いので、、
カーソルさえもチラチラ点滅状態です。。)準備もありあれもこれも打ち込みたいのですが、、なかなかです。。、明日、時間のあるときに読ませてください、よろしくお願いいします。。。。
余談になりますが・・・秘められたる神示をさがしていると、よく見ていないのですが住吉大神顕祭の祝詞のコピーみたいのがでてきました。ですが、多分50年史にはかいてあるのでしょうね・・・
383
:
ももんが《質問・宗教篇》
:2012/04/13(金) 01:00:00 ID:XXCuaQns
>>376
金木犀様
金木犀様、お返事下さり、ありがとうございます。合掌、拝。
せっかく、お返事くだされたのに恐縮なのですが?
私の言ったことを、勘違いされております。
パワースポットに為ったのは?
息栖神社に、住吉神《塩椎神》の魂が抜けてしまって、三角形に形成されていても、神の御霊がない情態で、力が発揮されない。
一方、塩釜神社の方も?
①、主宮→塩椎神《御霊有り》
②、左宮→建御雷之神《鹿島に帰る御霊無し》
③、右宮→経津主神《香取に帰る御霊無し》
塩釜神社に、鹿島神の宮も、香取の神の宮もあり、主宮には、塩椎神が、祀られてる。しかし、実際は、塩椎神しか、住んで無い。鹿島神、香取神は、関東へ帰り、留守。
だから、
>>鹽釜神社というのは本来住吉大神を祀る神社であり、その神社の祭神である住吉大神を脇に押しやって、
香取鹿島の神を首座に据えたのですから<<
このようには、解釈してましません、間違いて、おられます。
元々、塩椎神を主座に、置いて、“三神一体”でいた神々だったのが、いつの時代から、わかりませんが、主座神=塩椎神を最前線に、残し、香取、鹿島神は、後方に退いたのです。
言わば、退却した形です。
本来、三神一体で、祀ることに、意味があったのではないでしょか?
それが、方位学《パワーバランス》的ことや、昔のことは、無視して、現世利益てき、二神を讃えたからでしょ。
二神を讃えたことは、同じなのですが、塩椎神を押し込めたと云うのは、間違いだと、思と云うことです。
あとの、金木犀様の、御説明文は、私も、素晴らしいと、同感できます。
お返事すると、悪が強くなりそうで、止めようと思ったのですが、私の解釈と違う表現をされてしまったので、あえて、書きました。どうか、悪く思わないでいで下さい。おやすみなさい、合掌、拝。
384
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/13(金) 01:42:44 ID:awZ2qvz6
長文は金木犀さま出なく
復興Gさまでした。ありがとうございます。
Gさま、教団の方なのですか?
385
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/13(金) 01:46:15 ID:awZ2qvz6
長文は金木犀さま出なく
復興Gさまでした。ありがとうございます。
Gさま、終戦後の神示を読まれてGさまが咀嚼した返信とお見受けしました。有難うございます・。
386
:
志恩
:2012/04/13(金) 04:25:32 ID:.QY5jUA6
ユタカ様
ここは、身バレすることは、はっきり言ってはいけない規則になっておりますから、私は本当は言いたくて喉まで出ていますけれどね、
言いませんけれど、
復興G様は、80才を越えられて高齢になられたので、現在は地方講師としてご活躍されてますが、元はといえば、数々の
重職をされてたお方で、燈臺卒じゃなくて東大卒でいらして、元神誌(普及誌)の編集長やその他を、こなしていらしっしゃいました。
聖典に特にお詳しいお方でいらっしゃいますので、「生命の實相」については、分らない事は、このお方にお聞きすれば、なんでも
教えて下さいます。
387
:
金木犀
:2012/04/13(金) 05:17:56 ID:y/Po8pPE
ももんが様
そうでしたか、私はその辺のことは、全くよくわからず、そのために
ももんが様の真意もよく理解できなかったようです。重ね重ね、
質問の真意を誤解してお返事申し上げ、失礼致しました。
ももんが様のご質問の真意に関しては、分からないとしか言えません。
はじめから、そうお答えすべきところ、
こちらこそお手間をとらせまして、申し訳ありませんでした。
388
:
金木犀
:2012/04/13(金) 06:58:27 ID:y/Po8pPE
復興G様
此処に書き込んだあとで、部室板にて復興G様のご投稿を読み、
もう少し待っておけば、よかったと思いました。
実にはっきりと、詳細なる説明をご投稿下さり、私も、G様のご投稿を
読みながら、何か生長の家の使命の深さを改めて感じて、胸がジーンと
来るような、心が振動するような感銘を受けました。
ほんとに神示は、教えの基本であり、この神示を読み学ぶ機会を奪われていますことは
教団の運営、方針、運動に、少なからぬ影響をあたえ、雅春先生の目指されたものから、
外れてしまう原因を作ることになりかねないと思います。
というより、外れることを前提に、神示を読めなくしたと思ってしまいますね。
ユタカ様
復興G様は、私の投稿を読む前に、既に部室板にて、ご投稿下さっており、
その続きとして、この聖典板に投稿されたのであり、たまたま私の投稿の
続きの位置になっただけであると思います。
それにしても、志恩様のお話で、復興G様が80歳の方であると聞き、非常な
驚きです。私など、神示を書き写しただけで疲れて、解釈の部分も書きたかったのですが、
もう書く気力がなくなりました。こういう正漢字、正仮名遣いの文章は、疲れます。
と言っても正確には再現してませんが。
復興G様、正に生長の家の無限力を証しするようなお方ですね。
389
:
ハマナス
:2012/04/13(金) 09:05:48 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。今日も皆さまにとって、最良の日でありますように。
天の網は漏らさない (『新版 生活の智慧365章』P.127)
「あなたの魂の底ふかく欲するところのものをあなたは必ず得ることができるのである。
あなたはその深く欲する事物を「既に受けたり」と信じて感謝するがよいのである。
しかしその深く欲する事物が、それが成就することによって他の人を陥れたり、他の人
の損失に於てそれが成就するような事情(ことがら)を祈っては、それは決して聞かれないか、
或いは自分の念力の強さで一時きかれたように見えても、それは神が与えたまうたものではなく、
自分の念力の強さで、“強奪”したものであるから、“奪うものは奪われる”の心の法則に
したがって、それは結局自分にとって不幸な結果を齎(もたら)し、“奪ったもの”
に利子をつけて返却せしめられるような結果となるのである。天の網は疎(まばら)
なように見えても、決して原因結果の法則から漏らし給うことはないのである。」
感謝合掌
390
:
a hope
:2012/04/13(金) 09:35:16 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
強情張りとは我(が)の強い人
いったい、強情っぱりという言葉をもう一つの言葉でいえば、
「我(が)」が強い人ということになるのです。
この「我」、つまり「我(われ)」とか、「私」とか、「俺」とかいう、
この自分というものが、自分の思うままに、自分の力で生きていると思うと、
どうしても「俺が、俺が」という心が強く働いて、強情を張らなければならなくなるのです。
そうして、そのあげくのはてに夫婦喧嘩、親子喧嘩、その他、
いろいろないやらしいことが起こって来るのです。
(つづく)
391
:
役行者
:2012/04/13(金) 10:44:43 ID:srbdKJr6
復興Gさま
金木犀さま
ユタカさま
>G様のご投稿を 読みながら、何か生長の家の使命の深さを改めて感 じて、胸がジーンと 来るような、心が振動するような感銘を受けまし た 。ほんとに神示は、教えの基本であり、この神示を読 み学ぶ機会を奪われていますことは 教団の運営、方針、運動に、少なからぬ影響をあた え、雅春先生の目指されたものから 外れてしまう原因を作ることになりかねないと思います 。<
いよいよ復興Gさまの再来ですね。ちゃんと肝心なときに来てくださいますね(*^_^*)信じています。
そうですよね。生命の実相、一巻のチョイス、間違いなかったですね。ユタカさん!
雅春先生が生長の家を立教されたその誓願が、この生命の実相、一巻に秘められております。
生長の家は雅春先生が立教されたので、その原点に帰ることは大切なことと存じます。
このことは明らかに、原理主義とは違います。
初代、創始者が記された生命の実相、一巻!
ここを語り合いながら、是非、生長の家の立教の使命をもっともっと掘り下げて、明らかにしてゆきましょう。
そして尚、生長の家が未来に、はたすべき使命を明らかにしてゆきましょう。
その軸足をぶらさないで、治まるものは収まり、分派としてはもちもん、双方認め合い、敬しあいながら、独立した団体として人類を光明化してゆけばいいと思うのです。
まずは、生長の家が立教された、雅春先生の誓願をわかりやすく天下に公表すべきと存じます。
その意味でも、多くの方の参加を私も望みます。
元職員さま、お久しぶりです。
もし、ご都合が付けばご参加願えると、私もうれしいです。
感謝 合掌 再拝
392
:
さくら(ひらがな、)
:2012/04/13(金) 13:05:29 ID:tPVxKQcE
こんにちは!
『ヨハネ伝』講義 谷口雅春
第一講
これから『ヨハネ伝福音書』の講義を致します。生長の家で『古事記』を講義したり聖書
を講義したり、或は仏典を講義したりするのは、どう云う訳であるかと申しますと、生長
の家の集りは、一宗一派ではなく万教帰一の真理を説くのですから、神道の人もやって来
られれば、キリスト教の人もやって来られるし、仏教の人もやって来られる、それらの色
々の人達が指導を求めにやってこられるからであります。集まってくる人の中には何か病
気癒しの秘伝秘術と云う風なものを習いに来たつもりで来る人もあるが、道場に坐ってい
ても秘伝も秘術も何も教えて呉れない。当たり前のことを当たり前に言っている、何だつ
まらないと言うような人があるかも知れませんが此の当り前の処に人生を幸福にする秘訣
も病気を治す秘伝もあるんですけれども、それに気がついて居られない人が多いのです。
太陽は照っておっても、目を閉じて居ったら、実際明るいかどうか分からないのです。そ
れで太陽よりも人工的な光線の方が明るいように思う人がある。電灯がともると昼の光よ
りは明るい様な感じがするけれども、本当は人工光線の照明よりも自然の太陽光線の方が
明るいのです。我々を生かす力も本当は太陽光線の方が多くあって人工光線の中には少な
いのです。人工的なものは或る程度まで効くには効きますけれども本当の生かす力と云う
ものは自然の光の中にあるのだと思ってもらわなければならないのです。そんな訳で生長
の家は、別に手のひら療法でも、気合術でも、霊気療法でもないのでありますから、余所
の宗教のように、そう云う術は教えません。どう云うお札を胸にさげていたらその霊的療
法がよく効くとか、そう云うことも申しません。ただ一切の宗教の真髄を知って戴く、す
ると、宗教というものは「個」の生命を宇宙の大生命に合一せしめるのですから病気も自
然と消えてしまうのです。病気を宗教家が治すのでない。病気は「個」と大生命との合一
が失われているから、その結果起こるのだから、宇宙大生命との合一が回復されたら病気
はないと云う事を説いているのが生長の家であります。
太初に言り、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、万の
物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あ
り、この生命は人の光なりき。光は暗黒に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。
(第一章一〜五節)
これが『ヨハネ伝福音書』の最初にある言葉であります。この『ヨハネ伝福音書』は四
福音書の中で、最も霊的な最も実相をよく描いた福音書でありまして、外の福音書はイエ
スの肉体の親が誰で、どう云う系統で生まれたと云うような、肉体、物質的なことなんか
が最初に書かれてありますけれども、これは初めから、言とは何であるか、神とは何であ
るか、生命とは何であるか光とは何であるかと云うことから書初めておりまして、それに
書いてあることは生長の家に説くところ同じことが書いてあるのであります。無論、読み
方によっては生長の家とは違うようにも読めるのでありますが、宗教は「和を以て貴し」
とするのですから、何宗の経典も其の神髄を掴み出せば、どの宗教でも斯くの如く同じ真
理になるものであると、万教帰一的な真理を教えて宗派の対立をなくすのが生長の家であ
ります。そのつもりで聴いて頂きます。
それで「言は神である」と云うことをはっきりさせたいと云うので、言霊学の極概論を
やろうと思うのであります。
393
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/13(金) 14:31:22 ID:c7OTN61A
うわぁ!さくらさん、またえらいもん見つけてきたなぁ。。。
すごいわ、、ここ。。。。 不動の信仰心養成講座かも・・・
ありがとうございます。
394
:
役行者
:2012/04/13(金) 15:51:03 ID:qBxVkqJs
さくら様
合掌
私は個人的に、ヨハネ伝解釈は大切なことが記されていると思ってます。
この聖書の解釈法を世に、特にキリスト圏に知らしめることは、大業であり、それこそ、表層的解釈でなく、日本的な深層的解釈を世に、特に西洋に知らし召す、絶好のチャンスと思っております。
>太初に言り、言は神と偕にあり、言は神なりき この言は太初に神とともに在り、万の 物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之 によらで成りたるはなし。之に生命あ り、この生命は人の光なりき。光は暗黒に照る 。而して暗黒は之を悟らざりき(第一章一〜五節)<
このコトバは太初に神とともにあり!です。
弁証法的には闇は光のために存在し、やがて光が世を隅々まで照らし、光明燦然と輝いたら、そのとき、闇の使命は終わるのでしょう。
>光は暗黒に照る 。而して暗黒は之を悟らざりき<
ということでしょう。闇は悟ることのできないサダメなのでしょう。
現象世界で繰り広げられている闇の言葉は、あくまでも光の非在に過ぎず、光の言葉があまねく地球を覆ったら・・・
現象的に地球に始めがあった以上、終わりが来ます。
その現象的な ディ エンド は、きっと光あまねく世界の到来!千年王国の到来をしての、歓喜あふれる世界の到来をしての ディ エンドでありましょう、
また、そのときからが、本当の始まりなのかもしれません。
合 掌
395
:
復興G
:2012/04/13(金) 17:36:51 ID:ojEbkDH2
>>388
:
金木犀様。
たいへんな讃嘆のお言葉を頂戴していました。恐縮の極みであります。
私は、金木犀様の、
>>351
〜359までの「矛盾の解決」という谷口清超先生のご文章、感銘深く拝読し、思うところがありましたが、書き込みできないでいました。
何を思ったかと言いますと――
前記ご文章の最後のところに
>この事実を見ても、現象界に起る様々な矛盾や撞着を解消するには、「実相を観る」以外真の解決法はあり得ないと言わざるを得ないのである。これをやらず如何に不幸を恐怖しても、それは不幸を回避する手立てにはならず、如何に戦争を恐怖しても、戦争は消えさるものではない。従ってその反対に多くの人々の心を光明化し、真実の世界が大調和であり、完全円満であることを確信する人々をふやし、愛と感謝と祈りと讃嘆の思いを拡大する「人類光明化運動」を強力に前進させることが、最重要課題であると確信する次第である。<
とありますが、これを拝読して思ったことは――
谷口雅宣先生が、20年以上前だったでしょうか、副総裁時代に、生長の家にやがて別派、分派ができたときのことを予想し(恐怖し)その対策として「法務課」をつくり、規則で分裂混乱を回避する手立てを講じることを計られた、ということを思い出していました。そして、今日の生長の家教団の混乱は、総裁のそうした心の結果なのではないか――と思ったのです。
でも、今、思います。意味のないこと、無駄なことは何一つないのである。「総裁が悪い」と他者に責任を転嫁するのは、神の子のすがたではない。総裁のすがたは信徒われら自身を鏡に写したすがたである、と考えるのが本当ではないか。
部室板の<1797 >に書いたことですが、
<神は、信徒私たちに、もっと真剣さをもって真理を学び、神の子の自覚を持つように、雅宣先生を遣わされ、一見『生命の實相』と谷口雅春先生を否定しておられるかのようなことを言わしめられて、磨いてくださっているのかも知れませんね。私も、雅宣先生に感謝します。>
と、心を入れ替えましょう。そして、いっそう真剣に、命がけで真理研鑽に励みましょう。
ありがとうございます。
396
:
復興G
:2012/04/13(金) 17:54:48 ID:ojEbkDH2
>>325
でハマナス様が打ち込んでくださった「本当の自由」というご文章が、重いです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
本 当 の 自 由
(『新版 生活の智慧365章』P.117)
『吾々は“無限”を求める存在であると同時に,”自由”を求める存在である。何故なら人間は神の自己顕現であり、本来“無限の自由”を内に蔵するからである。「自由」を、何か自分を縛るものを破壊することだ、と考える人があるが、本当の自由は、そのような対立観念、相対的な物の考え方では得られるものではないのである。本当の自由は「絶対者」となることによってのみ得られる。自分が神の自己顕現であり、「絶対者」の自己実現であるとの悟りによってのみ得られるのである。
それ故に本当の自由は、神想観によってのみ得られる。何故なら吾々は神想観によって自己が神と一体であり、絶対者と一体であり、環境とか外物とか見えるものも「他物」ではなく自己の心の顕現であると悟ることができるからである。それだから神想観は真に最高の尊き神人合一の行事であると共に、何人も“本当の自由”を求むる限り修しなければならない修行であって、生ま易しいものではないのである。』
397
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/13(金) 18:08:44 ID:pSGtlyDo
割り込んですみません。
役行者様、
>雅春先生が生長の家を立教されたその誓願が、この生命の実相、一巻に秘められております
そうなんですか!いろいろと教えてください、ご存知のこと、、、あすのWEB誌友会で沢山紹介して下さい。よろしくお願いします。
398
:
SAKURA
:2012/04/13(金) 19:04:14 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
皆様今晩は…
お久しぶりで〜〜す。此処“一週間”ドタバタ!ドタバタ!でしたが…フ〜〜ゥ?
いろんな“精神面の勉強?”になりました。そして、わずかな時間を割いて
投稿者の皆様方の文章を拝読させて頂きながら、つくづく考えされた“一週間”です。
そして、今日!久しぶりに“投稿…”出来る時間的余裕の素晴らしさ!に、
“感謝”申し上げます。
本当に両親から「生長の家」を受け次いで、今!「感謝…」の念で、いっぱいです。
私も両親の“意志”を受け継いで、私なりの「時代に会った伝導」をして行きたいと
改めて思いました。
さぁ〜〜〜“スタ−ト”です。
今日から〜〜〜明日の〜〜〜♫“虹の架け橋”に〜〜〜勉強中です。
■【幸福を招く365章】
―――神の道を歩む人生は滑らかである―――
人間は神の子ですから、人の歩く道は神の歩く道であります。
だから神の道を真直ぐに歩かないでは、自動車に撥ねとばされたり、
崖から墜落したりいたします。人に対して悪意をもったり、
嫌悪の情を感じたり、素直でなく剛情であったり、
人を憎んで赦すことをしなかったりいたしますと、
それは神の道から離れて歩いていることになるのであります。
吾々の歩む人生の行路が滑らかでないのは、神の道を歩いていないからであります。
神の道は愛の道、サ−ビスの道、赦しの道、包容の道、円い道、角の立たない道、
人を助ける道、やさしい言葉の道、利己主義でない道、霊と法悦の道であります。
あなたの生活がこれらの道に乗っているか反省して見て下さい。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。
■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 >231 です!!
399
:
さくら、ひらがなですよ、笑。
:2012/04/13(金) 19:07:51 ID:lrOEyIZg
>ユタカさま
>役行者さま
はじめて、この『ヨハネ伝』講義と出会った体験を、
自分の中では「内なるバベルの塔崩壊…」?と、呼んでいます、笑。
既成のキリスト教解釈で積み上げていた罪観が、ガラガラ音をたてて崩れていくというような、
そんな衝撃の感覚でしたので…。
役行者さまが、仰られたように、
我の力で掴んでは、つかんでは、としてきたものが、
本来実態の無い、闇であり、光の中に溶けていった…
わたしには、それが実感でした。
ユタカさま。
熱心に、そして率直に学ばれる姿勢、貴いですね…
またよろしくお願いします、
ありがとうございます。
拝
400
:
「訊け」管理人(1/3)
:2012/04/13(金) 19:23:48 ID:???
(榎本恵吾記念館・文書館(2)より謹写)
1.天地一切のものは、すでに和解し調和している
神は天地宇宙を創造し給いながら、そのいずくにも記念碑のようなものはたてられていないのであります。神を否定しようとすればいくらでも否定出来るように、全く姿を消してい給うのであります。「神など無い」という人さえも生み給い、その声も神が出させているのでありながら神はご自分を現わしていたまわないのであります。「神は無い」と強く言えば言うほど「それほどまでに姿を消していられる神はまことにも偉大であるかな」と思わしめられるのであります。
尊師谷口雅春先生の著わされた『生命の實相』も、これと同じ姿をしているのであります。萬物を生かし輝かせながら、「自分が救ってやった」というものは少しも無いのであります。「自性(じしょう・そのままで)円満」なる神の子の姿をただただ祝福し、礼拝する、その拝みの姿としてあるのであります。『生命の實相』の中には「物質無し」と書かれているのであります。「物質無し」とは、本自身が「私は無いのです」と無我になって澄み切っているのであります。無我になっているとは、天地一切のものを神仏として拝んでいることであります。ここに「汝ら天地一切のものと和解せよ」ということ、そして和解するとは感謝するということであるということの、その感謝の内容が示されているのであります。本自身が天地一切のものを拝んでおり、感謝と祝福の輝きそのものなのであります。
(つづく)
401
:
「訊け」管理人(2/3)
:2012/04/13(金) 19:25:08 ID:???
尊師谷口雅春先生がお悟りになられたとき、目覚めてみれば天地一切のものが神そのものであったのであります。その心境を尊師は「汝ら天地一切のものと和解せよ」と喜びうたわれたのであります。『生命の實相』や『甘露の法雨』の冒頭に「大調和の神示」がおかれているのは、人間は「仲よくせよ」といってもなかなか仲よくしないから、先ず最初によくわかるように警告を発しておくために、あの神示がおかれているのではないのであります。そうではなくて、「私が悟ってみたら、どんなに殺し合い、憎しみあっているかのように見えていても、そのまますべてが神と神、仏と仏とが抱き合って喜んでいる姿に観えて来たのであります。ありがとうございます」と、尊くも尊師が天地一切のものを拝んでい給うことを示されたものであります。ですから、谷口雅春先生の住んでいられる世界は、すべてが神仏に観えていられるのであります。「神一元」つまり「唯神實相」論からゆけば、「今ここ極楽、天国浄土」なのでありますから、谷口雅春先生だけが悟っており、その他のものはすべて「これからみ教えによって教えて悟りに導いて彼岸に度すべき材料」ばかりが住んでいる、というような天国はないのであります。それ故、谷口雅春先生がお悟りになったということは、同時に全宇宙が悟ったのでなければならないのであります。「同時成道(どうじじょうどう)」なのであります。「同時成道」は釈迦の表現せられた言葉であります。お釈迦さんが悟りの眼をもってごらんになられたとき、山川草木国土悉皆成佛(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)と観えたのであります。そのように釈迦がすべてを拝まれたのであります。これはお釈迦様の「汝ら天地一切のものと和解せよ」の現成であったのであります。
「衆生劫尽きて、この世の焼くときも天人満つる、わが浄土安穏なり」というのが、法華経にありますが、これは衆生が苦しんでいるのに自分だけが一人安穏な状態で嬉しいというようなことではないのであります。それではお釈迦さんは何という冷たい人間かということになります。もしそうであるならば衆生が苦しんでいるのに自分だけが一人安穏としているというのは、『聖使命菩薩讃偈』と矛盾しているといわなければならないのであります。衆生を放ったらかしておいて、自分だけが浄土に住んで衆生の苦しみに対して高見の見物をきめているということになってしまうのであります。果してこんな状態で大慈大悲の釈迦牟尼世尊が安穏としておれるものだろうかという疑問が湧いて来るのであります。世界と自分というものを分けて考えると、お釈迦さんの心境もわからなくなるのであります。やはりお釈迦さんがお悟りになったとき、全宇宙が悟ったのであります。それはお釈迦さんだけがポツンと光となったのではなくして、すべてを解決されているのです。それですから衆生が劫つきて苦しんでいる姿そのままに苦しんでいない仏のすがたを、つまり、自分のいのちと同じいのちがそこにあるのを拝んでいられるのであります。自分が完全であるように、すべての人々の實相が完全に見える、ということを書かれたのが法華経の「自我偈(じがげ)」の真意なのであります。
それと同じようにして、尊師谷口雅春先生の、すべてのもの、つまり天地一切のものへの祝福と礼拝とが録されているのが『生命の實相』なのであります。でありますから、『生命の實相』は神の愛と大生命の大光明の祝福礼拝のすべてを尽して光明のかたまりとなっているとでも申し上げるのがふさわしいのであります。それですから、研修生のみなさんが『生命の實相』や聖典をかかえて歩いていられる姿は、まことにも光り輝く神の子が、光明そのものなる『生命の實相』をかかえていらっしゃるお姿でありまして、まことに尊いお姿をそこに拝ませていただくのであります。
このとき最早、聖典の中の一文字一文字が、神の吾れを讃え給う愛の光そのものなのであります。どのようなことが書かれているのかという前に、すでに聖典全体が光体そのものなのであります。それですから、たとえば研修生の諸君が聖典を手にしていられるとき、聖典の輝きがさんさんとして全身の毛穴から流れ入っているときなのであります。胸にかかえているときは眼を通さずとも直接聖典の光りが胸の中に直射して入って来ているのであります。手でさわれば指先から直接に光明がはいって来ているのであります。
(つづく)
402
:
「訊け」管理人(3/3)
:2012/04/13(金) 19:25:54 ID:???
かくの如くして、天地一切の山も川も緑も青も黄も花々も人々も、光明身である神の子なる自分を讃嘆する神の真理のコーラスであると拝ませていただくとき、すべての人々は、周囲のすべてのものという光りにつつまれていられる姿であるのであります。まさにこれは光りが光りの中で光りしているのであります。「讃嘆の中で讃嘆しているのが研修である」というのはこのことなのであります。何かしら力強きもの、円相なるもの、喜ばしきものの気配がふっくらと自分の眼にふれる限りのものを包んでいるのを感じるとき、そのものとこちらが調和の状態にあることを私たちの本性は知っているのであります。
景色を見て私たちは「いいなあー」という思いが湧いてくるときは、私たちはその景色と調和し、和解し、感謝が通い合っているときなのであります。不調和であるならば「いいなあー」という思いにも、いつまでもふれていたいという気持にも、なれないはずであります。
研修生の諸君が宇治別格本山の境内を景色を眺めながら歩いている姿を見るときがあります。そのとき、その人は景色全体と和解が成立しているのであります。本山を囲む山の木が何十万本あり、木の葉が何億枚あり、土の砂つぶがどれだけあるのか、はかり知れませんが、それらの一つ一つとすべて和解が成立しているのであります。和解が成立しているとき、もう既に神がそこに顕われてい給うのであります。そして自分をとりまくすべてのものが神であるのであります。本当は神がすでに現われ給いて自分を生かし感謝し和解せしめ給うていたのであります。
そもそも私たちは神のいのちによって誕生し、生かされていたのであります。和解のあるところ神があり給い、神のあるところ和解があるのでありました。天地すべてのものに感謝したときに神が顕われるのであります。そして天地一切のものがすでに神であることを礼拝するのが感謝であります。そしてまた天地一切が神であることを拝めるのは、自分のいのちが神であるからであります。すべてにおいて神が神の世界で神しているのが私たちの生きている姿なのであり、實相の世界で實相が實相しているのがこの世界であり、唯神實相、光明一元の教えが生長の家の教えであります。
尊師が啓示を受けられたとき、庭の木が黄金色の光りに輝き、その木の枝から枝に飛びうつる雀が金色に輝いていたのであります。このときすべての生きとし生けるものがこのように拝まれたのであります。尊師が「招神歌」において「生きとし生けるものを……」と言われるときは、このような光明生命として生きているすべてのものを拝み給うているのであります。
研修生が『生命の實相』をひらいてあちらのページ、こちらのページと読み移られる姿は、聖典という光明の木の中でページという光明の枝々をとびかう金色(こんじき)の雀の姿として、尊師は私たちを拝み給うているのであります。また、あちらの部屋からこちらの部屋へと移り、あるいは棟から棟へと移られる練成員のお姿もまた、そのように拝まれているのであります。
『生命の實相』は、ただただそのような生命のほんとの相(すがた)を、讃えに讃えて書かれたものなのであります。
<終了>
403
:
SAKURA
:2012/04/13(金) 20:49:47 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者様 へ
こんばんは…ロ−マ字の【SAKURA】です。御無沙汰していますが…
久しぶりに…【仏教典…】以前からの続きですが“投稿”させて頂きます。
【はじめの第1章…】からで〜〜〜〜〜す!
■第1章 史上の仏
−−−【 第1節 偉大な生涯 】−−−
1.ヒマラヤの南のふもとを流れるロ−ヒニ−河のほとりに、釈尊族の都カピラがあった。
その王シユッド−ダナ(浄飯)は、世々純正な血統を伝え、城を築き、善政をしき、
民衆は喜び従っていた。王の姓はゴ−タマであった。
妃、マ−ヤ−(麻耶)夫人は同じ釈尊族の一族でコ−リャ族と呼ばれる
デ−ヴァダハ城の姫で、王の従妹にあたっていた。
結婚の後、ながく子に恵まれず、二十幾年の歳月の後、ある夜、
白象が右わきから胎内に入る夢をみて懐妊した。王の一族をはじめ
国民ひとしく指折り数えて王子の出生を待ちわびたが、臨月近く、妃は国の習慣に従って生家に帰ろうとし、その途中ルンビニ―園に休息した。
折りから春の陽はうららかに、アショ−カの花はうるわしく咲きにおっていた。
妃は右手をあげてその枝を手折ろうとし、そのせつなに王子を生んだ。
天地は喜びの声をあげて母と子を寿いだ。ときに四月八日であった。
シュッド−ダナ王の喜びはたとえようがなく、一切の願いが成就したという意味の
シッダ―ルタ(悉達多)という名を王子に与えた。
2.しかし、喜びの裏に悲しみもあった。マ−ヤ−夫人は間もなくこの世を去り、太子は
以後、夫人の妹マハ−ブラジャーパティによって養育された。
そのころ、アシタという仙人が山で修行していたが、城のあたりに漂う吉相を見て、
城に来り、太子を見て「このお子が長じて家にいられたら世界を統一する偉大な王となり、もし出家して道を修めれば世を救う仏になられるであろう」
と予言した。
はじめ王はこの予言を聞いて喜んだが、次第に、もしや出家されてはという
憂いを持つようになった。
太子は七つの年から文武の道を学んだ。春、耕耘(こううん)の祭に、父王に従って
田園に出、農夫の耕すさまを見ているうち、すきの先に掘り出された小虫を
小鳥がついばみ去るのを見て、
「あわれ、生きものは互いに殺しあう」とつぶやき、ひとり木陰に座って静思した。
生れて間もなく母に別れ、今また生きもののかみあう有り様をみて、太子の心は早くも
人生の苦悩が刻まれた。それはちょうど、若木につけられた傷のように、
日とともに成長し、太子をますます暗い思いに沈ませた。
父王はこの有様を見て大いに憂い、かねての仙人の予言を思いあわせ、太子の心を
引きたてようといろいろ企てた。ついに太子十九歳のとき太子の兄デ−ヴァダハ城王
スプラブッダの娘ショ−ダラ−を迎えて妃と定めた。
<つづく>
404
:
役行者
:2012/04/14(土) 08:26:23 ID:CXZ0R/p6
>>397
ユタカ(なせば成る我ハ神の子) 様
>雅春先生が生長の家を立教されたその誓願が、こ の生命の実相、一巻に秘められております、 そうなんですか!いろいろと教えてください、ご存 知のこと、、、あすのWEB誌友会で沢山紹介して 下さい。よろしくお願いします<
輪読、Web談のなかから、ともに紡ぎ出してゆきましょう。
たとえば、生命の実相の一巻の見開きに、黙示録が、次に七つの灯台の点灯者の神示が続く、その理由を解明すること自体が、生命の実相の一巻に秘められた真理ですよ。
このような生命の実相、一巻に秘められた真理を、立教の誓願を、みなともに、湧き出ずる泉の如く引き出し、紡ぎ出してゆきましょう。
合 掌
405
:
役行者
:2012/04/14(土) 11:48:26 ID:CXZ0R/p6
>>399
さくら、ひらがなですよ、笑。さま
>はじめて、この『ヨハネ伝』講義と出会った体験を、
自分の中では「内なるバベルの塔崩壊…」?と、呼んでいます、笑。
既成のキリスト教解釈で積み上げていた罪観が、ガラガラ音をたてて崩れていくというような、
そんな衝撃の感覚でしたので…。
役行者さまが、仰られたように、
我の力で掴んでは、つかんでは、としてきたものが、
本来実態の無い、闇であり、光の中に溶けていった…
わたしには、それが実感でした。<
素晴らしい体験ですよね。
この『ヨハネ伝』講義は、聖書解釈のコペルニクス的転換であると思っており
ます。西欧に、キリスト教圏にドンドンと伝えるべきと思っております。
それも、生長の家の使命の一つかと存じます。
406
:
SAKURA
:2012/04/14(土) 22:11:50 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者様 へ
こんばんは…ロ−マ字の【SAKURA】です。大変御無沙汰しておりますが…
昨日に続きまして…【仏教典…】からの続きですが…
皆様も御存じの「釈尊…生涯」を、投稿させて頂きます…。
【はじめの第1章…】からで〜〜〜〜〜す!詳しくは???
■昨日投稿致しました >403 からの続きです…。
■第1章 史上の仏
−−−【 第1節 偉大な生涯 】−−−
3.この後十年の間、太子は春季・秋季・雨季それぞれの宮殿にあって
歌舞管絃の生活を楽しんだが、その間もしきりに沈思瞑想して人生を見きわめようと
苦心した。
「宮廷の栄華も、すこやかなこの肉体も、人から喜ばれることの若さも、
結局このわたしにとって何であるのか。人は病む。いつかは老いる。
死を免れることはできない。若さも健康も、生きていることも、
どんな意味があるというのか。
人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。しかし、
この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることとの
二つがある。誤ったものを求めることというのは、自分が老いと病と死とを
免れることを得ない者でありながら、同じようにそれらのものを
求めていることである。
正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死とを越えた、
人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。今のわたしは、
誤ったものの方を求めている者に過ぎない。」
4.このように心を悩ます日々が続いて、月日は流れ太子二十九歳の年、
一子ラ−フラが生まれたときに、太子はついに出家を決心した。
太子は御者のチャンダカを伴い、白馬カンタカにまたがって、住みなれた宮殿を
出て行った。そして、この俗世界とつながりを断ち切って出家の身となった。
このとき、悪魔は早くも太子につきまとった。
「宮殿に帰るがいい。時を待つがいい。この世界はすべておまえのものになるのだ。」
太子は叱咤した。
「悪魔よ、去れ。すべて地上のものは、わたしの求めるところではないのだ。」
太子は悪魔を追い払い、髪をそり、鉢を手にして食を乞いつつ南方に下った。
太子ははじめバガバ仙人を訪れてその苦行を実際見、次にア−ラ−ダ・カ−ラ−マと、
ウドラカ・ラ−マプトラを訪ねてその修禅を見、また自らそれを実行した。しかし、
それらは結局さとりの道ではないと知った太子は、マガダ国に行き、ガヤ−の町の
かたわらを流れるナイランジャ河のほとり、ウルビルバ−の林の中において、激しい
苦行をしたのである。
5.それはまことに激しい苦行であった。釈尊自ら「過去のどのような修行者も、現在の
どのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をした者はなく、
また、これからもないであろう」と言われたほど、世にもまれな苦行であった。
しかし、この苦行も太子の求めるものを与えなかった。
そこで太子は、六年の長きにわたってこの苦行を未練なく投げ捨てた。
ナイランジャナ河に沐浴して身の汚れを洗い流し、スジャ−タ−という娘の手から乳粥を
受けて健康を回復した
このとき、それまで太子と一緒に同じ林の中で苦行していた5人の出家者たちは、
太子が堕落したと考え、太子を見捨てて他の地へ去って行った。
いまや天地の間に太子はただひとりになった
太子は静かに木の下に端坐し、命をかけて最後の思惟に入った。
「血も涸れよ、肉も爛れよ、骨も腐れよ。さとりを得るまでは、わたしはこの座を
立たないであろう。」これがそのときの太子の決心であった。
その日太子の心はまことにたとえるものがないほど悪戦苦闘であった。
乱れ散る心、騒ぎ立つ思い、黒い心の影、醜い想いの姿、すべてそれは悪魔の襲来と
いうべきものであった。太子は心のすみずみまでそれらを追求して散々に
裂き破った。まことに、血は流れ、肉は飛び、骨は砕けるほどの苦闘であった。
しかし、その戦いも終わり、夜明けを迎えて明けの明星を仰いだとき、
太子の心は光り輝き、さとりは開け、仏となった。
それは太子三十五歳の年の十二月八日の朝のことであった。
<つづく>
407
:
「訊け」管理人
:2012/04/15(日) 09:58:36 ID:???
(昨日のWEB誌友会に関連し)榎本恵吾先生ご文章を謹写――
「いや、私は、釈迦やキリストとは同じではありませんから、これから徐々に修行を積んで、やがて神の子とならせていただくのでございます」という人があるかも知れませんが、これは一見、神に対して非常に謙遜のように見えるのですけれども、また、それだからこそその道を選ばれる人が多いのでありますが、これほど神に対して不遜なことはないのであります。それはつまり「神さま、あなたが完全でありますならば何故、私たちと釈迦やキリストや谷口雅春先生と差別をつけられたのですか。あなたは全能かも知れませんが、私のようにこんなつくりそこないもありますよ。」と言って、心の底では神を恨んでいるということになるのであります。即ち、神をもっとも尊び礼拝し、祝福申し上げて、神に対して素直なる神の子たり得るためには、どうしても「神さま、あなたのお創造(つく)りになられたものには不完全はありません。すべては完全で、つくりそこないは一つもありまん。したがって、私もこのまま完全であります。ありがとうございます。」と喜ぶ以外にはないのであります。そのほかに、“ある時間の後に完全となる”ということを認めたが最後、それが、どんなに、善意に満ち、努力精進のたまものであっても、神を軽蔑したことにしかならないのであります。
「七つの燈台の点燈者の神示」の冒頭に、「今、すべての病人は起つことができる」と録(しる)されていますが、これは、「今、すべての人々は聖使命菩薩として起つことが出来る」ということが示されているのです。今、すべてのものは輝く聖そのものとして、すべてを輝かせるものとして、起つことが出来る。神さまと同じようにいちじるしく輝く、すべてを輝かせ、すべてを生かす側に立っていることが唱われているのであります。「すべての病人」というのは「生長の家に入っている人も、いない人も」ということであります。「生長の家」という形に入らなければ神は光りとして立たせることが出来ないというのでは、神一元の教えである生長の家の外であることになります。天地一切のものを神として、光りとして、聖なる輝きとして感謝し、拝ませていただくのが生長の家であります。「今、すべて」ということが神の創造の完全性を表現しているのであります。「今」というのは、「このまま」ということであります。如何に不完全があるように見えていても、それはすべて神の創造ではなく、現象の仮相にすぎないのです。ここに、すべてのものはそのままで「聖なる姿」を顕わすのです。
全文:
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65631409.html
408
:
a hope
:2012/04/15(日) 10:51:07 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
人間は自分の勝手で生まれない
だが、この世の中に、自分が思いどおりに、自分の力で勝手に生きているのが、
この人間であると考えるのは大変な誤りであります。考えてみましょう。
いったい、この世の中に、勝手きままに生まれて出たくて
飛び出して来た方が、はして幾人おりましょうか?
男の方は、「俺は男になって生まれ出てやろう」と、
そんなことを思って生まれ出ましたでしょうか。
女の方はまた女の方で、「私は女になって生まれて出て、
白粉(おしろい)をつけて、赤い着物を着て、それから……」
なんて考えて生まれて出たでしょうか。
おそらくただの一人もそんな方はないはずであります。
それから、私達の親にしてもそうです。
男の子が欲しいと思っても女の子ができたり、
女の子が欲しいと思っても男の子ができたり、
もう子供なんかたくさんだと思ってもまたできたり、
なんとかして一人欲しいと思っても一人もできなかったり、
本当にままならないものです。
こうした事実を見ますと、人間が人間をつくるのではなく、
人間は人間以外の、何か目に見えない不思議な力で
造られるのだということは明らかです。
この目に見えない力、人間をつくる力を神様、あるいは仏様といいます。
(つづく)
409
:
金木犀
:2012/04/15(日) 15:30:26 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
第四章 地上に於ける人間生活の意義 を謹写致します。
あなた達にとって、何より大切なことは肉体の健康でもなければ、物質的な富の豊富ということでもないのである。あなた達、人間にとって最高必須のものは、あなた達自身の生命の本源にさかのぼって“本当の自分”を知り、その“本当の自分”が“神”そのものであり、“わたし”があなたに宿っているのであり、“わたし”はあなたの肉体という媒体を通して自己顕現しつつあるのだということを自覚することなのである。
天地一切のものは“わたし”のいろいろの段階に於ける自己顕現であるけれども、それらは無意識的の自己顕現であるから、彼らみずからは“わたし”の自己顕現であることを知らないのである。それは単なる顕現されたものであり、受け身的あらわれであるから、彼らは単なる被造物に過ぎないのである。けれども、あなた達は異(ちが)うのである。決して単なる被造物ではないのである。
◯
あなた達・人間は単なる被造物ではないというのは、あなた達・人間は“わたし”自身の意識的な自己顕現として、あなた達の内に宿るところの“神”を意識して此の世に出現しているのだからである。人間の生命が他の生物よりも、一層尊いというのは、その生命が“わたし”自身の“意識的顕現”であり、人体は、わたし自身の“意識的顕現”の“座”であるからである。
肉体の生命も尊重しなければならないというのは、ひとりの肉体の生命がなくなれば“わたし”自身の意識的顕現の“座”がひとつ無くなるからである。
◯
“わたし”の意識的顕現としての“生命”は、あなた達人間の肉体生命を、地上顕現の“座”として、そこの天降って来たのである。人間の肉体生命が尊ばれなければならないのは、それが単なる“人間の肉体”ではなく、神の生命の意識的自己顕現の“座”であるからである。
胎児の肉体生命といえども、それは出産後の人間の肉体生命と同じく“わたし”の意識的自己顕現の“座”として予定されたるものであるから、その尊さは同じことなのである。出産後の“人間生命”は殺してはならないが、胎児の“人間生命”は殺すことは“殺生”ではないなどと考えるのは間違いである。人間は物質的な損得の価値判断で考えたがるので、胎児を殺すのは経済的に安くつくから“殺してしまえ”。そして胎児を殺せば大人の生活が楽になるから、その方がよいなどと勝手気儘な評価をするけれども、神から見れば、“神の意識的自己顕現の座”が破壊されるのだから、その罪悪は大人の肉体を殺すのと同罪なのである。
410
:
金木犀
:2012/04/15(日) 16:12:22 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
第四章 地上に於ける人間生活の意義(2)
人間の肉体は“わたし”の生命が地球上という“場”に於いて自己顕現するための必須の媒体として“わたし”がそれに生命力を与え、“わたし”の設計に従ってその機構が定められて完全に生理作用をいとなむように構造せられたものであるから、不完全な出来そこないというものは本来無いのである。
けれども肉体の自我には完全な自治を与えてあるから、その自我の自由意志に従って、その完全な機構の運転を進めることも遅らすことも、乱調子にすることも、調和ある状態にすることも自由なのである。病気というものも過去の業の自働的あらわれとして出て来るものもあるが、大抵は、人体自身の「病気になりたい意志」の表現として、本来病気でないものが、病気な心をスクリーンに映し出してそれを映画のようにテレビのように見ているのである。そして肉体の感覚は苦しんでいるのに、彼の「病気になりたい意志」はその希望を満足し得たことを痛快に思い、「わしの創作した病気は、どんな医術でも治し得ない最大の傑作だ」とほ’く’そ’笑んでいるのもある。しかし、その「病気になりたい意志」が作り出したどんな傑作の病気があらわれていても、あなたたちの実相である“神の子”の真身は、病まず、老いず、疲れず、永遠に健かに、若々しい金剛不壊不老不憊(ふはい)の霊身である――このことをあなた達は決して忘れてはならないのである。
◯
金剛不壊不老不憊の霊的真身を“肉体の心”が知るためには、その霊的真身の波動を“肉体の心”の現在意識に感受し得るように徐々にその脳髄機構が発達しなければならないのである。機構の成熟発達も必要であるけれども機構の成熟発達だけでは尚足りないのである。その機構を実相の霊的真身の波動を感受し得るように操作の訓練が必要なのである。機構の成熟発達は電子計算機のハードウェアの整備のようなものであり、その操作の訓練は電子計算機のソフトウェアのようなものである。
◯
脳髄機構が成熟発達し来るにつれて、人間はだんだん物質的なものに直接触れてその波動を感受する触覚から、稍々物質から離れて感受し得る臭覚、更に離れた距離に於いて感受する力をもつところの聴覚等が発達して来、ついに数十億マイル彼方にまで離れている天体から発する光の波動まで感受し得る視覚が発達して来るのである。しかし此等はいずれも物質の波動を感受するのであって、霊的波動を感受する程度にまで発達していないのである。これでは彼の魂は、まだ物質界という囹圄(れいご)の中で右往左往しているだけなのである。彼らはまだ物質の世界のみに住んでいて霊的世界に住む段階にまでは発達していないのである。
411
:
うのはな
:2012/04/15(日) 19:54:37 ID:El6gIMAw
悪なし、罪なし、人類無罪
私の『美しき日本の再建』という本の中にちょっと書いておきましたがね、それにはある奥さんが夕方に目を
覚ましてみたら、娘の部屋でギャーと娘の叫び声が聞える。お父さんがまた叫び声をあげた。
何事かと思ってそのお母さん目を覚まして行ってみたら、強盗がはいっておった。
そのお嬢さんは二十歳くらいのお嬢さんですが、このお嬢さんの腕の両方からはがいじめにして、脇の下に腕をつっこんで、
そして喉にナイフをつきつけて“金を出せ”というのです。“金を出さなかったら、ナイフで頚動脈を切るぞ”という格好をしている。
その時、このお母さんは、熱心な生長の家白鳩会員でした、それで夫は叫び声をあげたまま出て行ってしまってどこへ行ったかわけが分らないが、
彼女は「この男も、“神の子”である神性が宿っているから悪いことはしない」と心に念じていると、彼女すなわちそのお母さんには
“神の智慧”が湧いてきた。これは、始終神想観をして、神様とつながっていなければそういう智慧は湧いてこないのです。
「あんた早く逃げなさい」と言った。強盗にですよ。
「今、夫がここへ来たけれども、どこかへいっちゃったでしょう。あれは警察へ行ったんだから、あんた、ながくここにいると警察がでてきてあんたをつかまえるから
早く逃げなさい」と言ったんです。ナイフで喉とつかれたらいかんというので、娘はナイフを手で掴んでいる。その掴んでいるところから血が流れている。
「そのナイフを捨てなさい」というとその少年はナイフを捨てた。
「血が流れているじゃないですか。包帯をしてあげます」
娘の手から血が流れていると思ったけれどもそうじゃなかった。強盗の少年から出ている血だった。
それで薬をつけてあげるからと言って、薬をつけて包帯をしてやった。そして、
「はやく逃げなさい。夫が警察へ行って警官を連れてくる時間だから早く逃げなさい」と言ったら、その男は、
「僕、逃げません。つかまります」といって、警察がくると自ら手をつき出して縛って下さいといった。
これは事実の話です。そんな強盗になっている少年でも、その実相を観れば善なるものなのですよ。
すべて善なるもので、そんなに自分をいたわってくれて、警察につかまらないで逃げて下さいというその愛情に打たれたのでしょう。
それで自ら縛られて行くというようになったと言うのであります。
観ればその完全な姿がそこにあらわれてくるということになるのであります。
『生命の根元を培う新しき教育』P59-60 谷口雅春先生著 新教育者連盟編
412
:
ハマナス
:2012/04/15(日) 20:00:42 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
昨日は仕事から帰ってバタンキュ―、パソコンをつけっ放しで寝てしまい聖典引用を
お休みしました。
今朝早く起きて、びっくり!! WEB誌友会の皆様の活発なご意見を拝見致しました。
素晴らしいですね。
トキ様を始め、司会、司会補佐役、ご参加の皆様お疲れ様でした。
色々と学ばせて頂きました。ありがとうございます。
今日は教区の用事で出掛けていました。
信念は継続せねばならない (『新版 生活の智慧365章』P.127)
祈りの成就に対して必要なことは、「必ず成就する」「既に受けたり」と云う深い信念が
必要であると同時に、その信念が“一時的”のものではなく、「成就」が現象化するまで、
すこしも変わらずにその信念を永続しなければならないのである。祈りの時間の十数分間だけ、
「既に成就しました、有難うございます」と念じても、その祈った事物が現象化しつつある
途中の時間に於て、「まだあの事は出て来ないがな。駄目かな」などと考えては、「既に
成就しました」と前(さき)に念じた事をみずから打ち消しているようなものである。
従って前(さき)に折角祈ったことが実現しないのも無理がないのである。
一旦、或る事柄の成就を祈ったならば、それが成就するまでは「すでに成就している
光景」を常に心に描きつづけて、その反対の「不安の念」を一切起こさぬようにするが
よいのである。無論、他の仕事をしている最中に、そんな「光景」を現在意識の念に
描きつづけることはできないが、「必ず成る」と云う深い「期待の念」を崩さずにさえ
いるならば、潜在意識は、前(さき)に祈った時の「必ず成る」と云う念を持続している
のだから差支えないのである。暇があるときに其の問題に就いて思い出したならば、
「ありがとうございます」と神に感謝の言葉を心に唱えて、「既にそれを受けたり」と云う
感銘を深めるようにするがよいのである。
感謝合掌
413
:
SAKURA
:2012/04/15(日) 20:13:29 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様へ
こんばんは…
ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。今日の休日は、如何でしたかしら〜〜ン?
毎日の聖典引用板で“投稿”していきますと、
此方も改めて“教えられる事”が多々ありますから?【不思議な国のアリス】です。
今日も、何が出るのか分らず…“勉強スタ−ト”です…。
では、“本…”を、開きます〜〜〜!目を閉じまして…心を静めて…!【オ−プン!!】
今日の“タイトル…”は〜〜〜〜〜?????(微笑み)
■【幸福を招く365章】
――――創造の選択は人間に委されている――――
宇宙は大自然の創造してやまない力が満ち満ちている。人間は生まれるまでは、
大自然は自己みずからの想念の形に、大自然の姿を造講して来たのであるが、
人間が神の創造力の自覚的意識的発想の中心として出現して来て以来は、聖書は
「審判は子に委ねられたり」とイエスは云っているのであるが、宇宙の創造力を
どんな形にあらわすかは、人間(神の子)が出現して以来は、人間にその「想念」
(創造の模型)の選択力が与えられていると云う意味である。
自己自身の想念の相に自分の身辺の事が作られ、自己自身の想念が選んだ通りの
形に宇宙の創造力は働いてくれるのである。爰に於て人間は宇宙の創造力の主人公
となったのである。
宇宙にエネルギ−が充ち満ちているのであって、人間がエネルギ−を創造するので
はないのである。人間はそのエネルギ−を物質化して自己の想念する位置に配置
するのである。人間は自己の欲する位置に必ずしもそのエネルギ−を配置することは
出来ない。それを欲する位置に配置するのは、心の方面では心の法則に従わねば
ならないし、物質の方面では物質の法則に従わねばならない。
尤も物質の法則を探求し、それを利用するのも心の力によるのであるから、
人間は物質両面に於ても心によって運命の支配者となるのである。
善き想念を意志強く持続し、そこから自然に動く叡智を意志強く実践して
行く者が人生の勝利者となるのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。
■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 >240 です!!
414
:
金木犀
:2012/04/15(日) 23:49:20 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第五章 泥中にあって既に咲く蓮華」より、一部抜粋
人間の肉体がどんなに健康であっても、やがて死ぬものであるというのは、“肉体”というものが“人間”そのものでないからなのである。人間は“神の子”であり、神の最高の自己実現であるから、神が不死不滅であるように人間も亦、不死不滅である。“人間”そ’の’も’の’は時に応じ、必要に応じ、修行のためや、訓練のために、さまざまの境涯に於いて、さまざまの姿をあらわすけれども、結局、その本体は不死であるのだ。
◯
肉体は人間ではないと言うのは、肉体というものは、“人間”なる“神の子”が地球という天体の上で空気の気圧に抵抗して、使命づけられた仕事を果たすために必要な内圧をもつようにつくられた一種の“宇宙服”又は“作業服”が肉体なのであるからである。肉体の実質は物質でできているように見えているけれども、それは五官には、そう感じられるだけで、肉体の実質は物質ではない。それは嘗て「“心の絃(いと)”を組み合せて肉体の繭を造り」と譬えをもって示しておいた通り念絃の弾奏する“生命の韻(ひびき)”が、五官の感覚に触れるとき翻訳されて“物質”として感じられるのである。物質と見えるものは、悉くあるアイディアを載せた“生命の韻(ひびき)”が、“五官の感覚”という“認識の形式”を通過するときに“物質”として変貌して見えるのであって、その実質は「念絃の弾奏」する“生命の韻(ひびき)”にほかならないのである。
つづく
415
:
金木犀
:2012/04/16(月) 00:20:37 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第五章 泥中にあって既に咲く蓮華」より、一部抜粋(2)
生命は相形(すがたかたち)なくして宇宙に充ち満ちており、それが“わたし”である。あなた達に生命が宿っているのは“わたし”があなた達に宿っているのである。生命は生きているのであるから常に動いているのである。しかし生命は真に生きているのであるから、単に物理的振動を繰返すだけではなく、また単に惰力だけで運動方向が決定せられるというようなものではなく、知性を持ち、その個性ある知性に従って自主的に、その知性の動きによって個性あるアイディアを心に描く。生命はそのアイディアを載せてアイディアの指向する方向に向かってアイディアの内包する様相を実現するために動く。それゆえに、生命の波動に載せられたアイディアそのものも恰も生きていて、自働的にアイディアの内包する形相を具体化する力があるように見えるのである。
◯
自然界は“わたし”の知性がその全知にして全能の力によって描き出したるアイディアが形相化してあらわれたものである。“わたし”は創造主であり、宇宙大生命であり、あなた達の生命の本源者であり、あなた達に生命を賦与した者である。それゆえに、あなた達は“神の子”であり、あなた達の生命は、実は“わたし”の生命である。それ故にあなた達の生命は、常に永遠に健康であって、病気にかかることも、老いることも、衰えることも、疲れるなどということも決してないのである。
(つづく)
416
:
金木犀
:2012/04/16(月) 00:47:10 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第五章 泥中にあって既に咲く蓮華」より、一部抜粋(3)
“わたし”は大自然のすべてのありとしあらゆるものと、生きとし生ける凡ゆるものとをつくって、それぞれに個性ある特色と美と働きとを備えるようにしたのである。“わたし”の内には“無限の個性”と“無限の形相”と“無限の美”とがあるのである。自然界のすべての存在を見よ。海の波の上に聳える奇巌怪石の美を見よ。海の中にも地上にも劣らぬ美しき樹草を“わたし”は造った。そこには森林のような珊瑚の幹や枝があり、色々の海藻が、潅木や篠草(ささぐさ)のように色とりどりに繁っている。その樹草の間を、鰭を色彩ゆたかにパラソルのようにひろげて散歩する魚たちの美しさを見よ。その美は単に色彩のさまざまな美しさだけではない。それぞれの魚の形にはみな個性を備えた美しさがあるのである。“わたし”は“無限の個性”であり、“無限の色彩”であり、“無限の形相”である。わたしは、それを具体化し実現するのに歓びを感ずるのである。この世界を“わたし”は“歓び”の表現として創造したのである。
◯
“わたし”の創造したものはすべて“善”である。“悪しきもの”はひとつも、また何処にも存在しないのである。すべてのありとしあらゆるもの、すべての生きとし生きるもの、皆ことごとく善である。あなた達はこのことを信じなければならない。
そしてすべての被造物の最後に、すべての被造物が単に個性をもってバラバラに存在するだけでなく、それらを互いに連絡させ、結び合せて、全体として調和ある連繋(つながり)と美しさとを実現するための主働者とするために“わたし”は人間を――そうだ“あなた”たちを――地上に生み出したのである。そしてそれまでに創造ったすべてのものを美しき妙なる一大体系に組織する主働者として“わたし”は人間を地上に生み出したのである。
417
:
金木犀
:2012/04/16(月) 01:11:01 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第五章 泥中にあって既に咲く蓮華」より、一部抜粋(4)
“わたし”は人間を地上に生み出したのであって創造ったものではない。創造られたものは単に“被造物”であっていつまでたっても“創造主(つくりぬし)”になることはできない。“被造物”は永遠に被造物であって創造主になることはできない。創造主(つくりぬし)はいよいよ高く、被造物は永遠に低いのである。その隔たりは無限であって、雲泥の懸隔ぐらいの差ではない。
けれども人間たちよ、“わたし”は創造主(つくりぬし)として“あなた”達を被造物としてつくったのではない。“わたし”は“あなた”達を生み出したのだ、“神の子”として産んだのである。それゆえ、あなた達は“わたし”の後嗣者なのである。神はあなた達人間の父であり、母であり、神の“いのちの延長”として、“わたし”が“あなた”達を産んだのである。そして“わたし”は“あなた”達を“わたし”の嫡出子として“わたし”のもつ一切の善徳を“あなた”達のすべてに譲って、あなた達のひとりひとりが“神の子”として、他の一切の被造物を支配し、塩梅(あんばい)し、過不及を調節し、すべてのものに適当な位置と役割を与え、すべての創造られたるものが、互いに相食むものなく、傷つけ合う者なく、天地一切が、神の国、即ち“霊的実相の世界”の通りに渾然一体に調和あらしめる権利と能力(ちから)とを与えたのであった。
◯
あなた達は“神の子”として、神の生命の延長として、神の生命の具体的な最高顕現として此世に出現したのであるから、決して被造物ではないのである。あなた達人間は“わたし”の天地創造の主体者の後継者として、大自然の生(な)まの儘のはたらきでは成就し得なかったところのものを編曲し、編成し、一層完全に、被造物の各々に秩序ある連繋(つながり)を与えて、大自然のままでは混沌として秩序なき状態であった万物を、一層秩序ある状態に再組織せしめ、大自然の一切のものが、バラバラの無秩序の繁茂ではなく、美的秩序を得ることによって、完全なる有機体即ち渾然一体の生命体ならしめる使命を与えたのである。
◯
あなた達は“神の子”であり、一切の“美”と“完全”と“調和”と“繁栄”と“豊富”と“歓び”と“智慧”と“愛”と“勇気”と“断行”と……ありとあらゆる美しきもの、善きもの、愛すべきもの等……称讃さるべきことごとくの神徳が、“実相”として内に宿っているのである。
あなた達は、自己の内に宿るところの“神の子”たる実相を潜在状態に置くことに満足せず現実に引き出し顕現してこそ、まこと神の世嗣、“わたし”の跡継ぎとしての使命を完うしたことになるのである。しかし残念ながら、“神の子”たる実相を現実に顕現することを成就し得た人間は非常に少ないのは勿論、神の世嗣たる実相に気がついていない人間が大部分なのである。
418
:
ハマナス
:2012/04/16(月) 09:40:39 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
皆さまにとって、一層幸福、一層健康、一層繁栄の日でありますように。
天国に入る心境 (『新版 生活の智慧365章』P.129)
「神は愛深き吾等の父であり、吾等が幸福であるために必要なもの、また、吾等が
使命遂行に必要なものは必ず与え給うに吝(やぶさ)かではないと云う事を深く信じて
常に心を平和に、常に神に感謝することが、あなたの幸福生活には是非必要なのである。
幼児(おさなご)が「母は必ず私の生活に必要な“充分な母乳”を与え給うにちがいない」
と信じて安心し切っているのと同じような心境になることが、イエスの教えた「凡(およ)そ
天国に入(い)る者は幼児の如きものである」と云う“天国に入る心境”なのである。
この場合の「天国に入る」とはエデンの楽園のような欲する事物が悉く自由になる
環境に入ることである。」
感謝合掌
419
:
a hope
:2012/04/16(月) 10:07:16 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
吾々の中には神様の生命(いのち)がある
前にも申しましたように、私達はこの世の中に勝手に生まれようと思って
飛び出して来たのではなく、跳び出させられて来たものです。
自分の力で生きているのではない、生かされているのです。
神様に生かされているのです。
言いかえると、私達には神様の生命が生きているのです。
今まで「自分が、自分が」と考えていた自分は、ちっとも生きているのではなくて、
神様の生命が生きているということになるのです。
こう思えば自分というものが自然とありがたくなってきます。
どうしなくともありがたくなってくるのです。
こうして、自分が本当にありがたいということが解って来ましたら、
他人も全部ありがたくなくなって来るのです。
今まで考えていたような、自分の力で生まれた「自分」が生きているのではない。
実は神様のお力が、此処に、この身体に生きているのだということが解れば、
人間というものはみな、神様の子で誰でもみんな同じ力で、
同じ立派さで生きていることがわかります。
みんな立派な「神の子」であるはずの人間同士が寄っていて、腹を立てたり、
憎み合ったりすることは、どう考えても間違っています。
ですから腹を立てたり、憎んだりすることは、どう考えても間違っています。
ですから腹を立てたり、憎んだりすることは、人間が神様に生かされている
「神の子」であるということを、知らなかったためだということが、はっきり解ってきたわけです。
仕事だってそうです。仕事をする力は、神様から生み出された力がやるのですから、
自分がやるのではなくみな神様がやるのだし、与えられた仕事も神様の仕事ですから、
自分がよけい仕事をしたから損だとか、なまけて得したという考えは、
いっさい間違っていたことがわかります。
こういうふうに、今まで考えていた自分というものが、どこにもなくなってしまいますと、
強情を張ってみたくも張れなくなってしまいます。
その上、今までは「俺が、俺が」という我の心で蓋していた神様のお光が急に輝き出しますから、
その人には善いことがどんどん出て来るようになります。
病気や貧乏で泣きごとを言っている人は、実はありがたい神様のお力で
自分を生かしていてくださるということを知らない人なのです。
(つづく)
420
:
SAKURA
:2012/04/16(月) 11:49:29 ID:GrjKQGvA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…ロ−マ字の【SAKURA】です。
今月【 4月…御釈迦様が誕生されました月!! 】です〜〜〜ネ!
二千五百余年の間、国を越え〜民族を越えて保ち続けられました【仏の真髄…】
幸せな事に【仏教典…】以前からの続きですが“投稿”させて頂きます事に…
深く感謝申し上げます…。
【はじめの第1章…】からで〜〜〜〜〜す! (■仏教典からの抜粋)
■第1章 史上の仏
−−−【 第1節 偉大な生涯 】−−−
6.これより太子は仏陀、無上覚者、如来、釈迦牟尼、釈尊、世尊の種々の名で
知られるようになった。
釈尊はまず、六年にわたる苦行間ともに修行してくれた恩義のある五人の出家者に道を
説こうとして、彼らの住むバ−ラ−ナシ−のムリガダ−バ(鹿野苑)に赴き、彼らを
教化した。彼らは最初釈尊を避けようとしたが、教えを聞いてから彼を信じ最初の弟子と
なった。また、ラ−ジャグリハ(王舎城)に入ってビンビザ−ラ王を教化し、ここを
教えを説く根拠地として、さかんに教えを広めた。
人びとは、ちょうど渇いた者が水を求めるように、飢えた者が食を求めるように、
釈尊のもとに寄り集まった。シャ−リプトラ、マウドガルヤ−ヤナ(目連)の二大弟子を
はじめとする、二千余人の弟子たちは、釈尊を仰ぎ、釈尊に帰依した。
釈尊の出家を憂えてこれを止めようとし、また釈尊の出家によって
深い苦しみを味わった父のシュッド−ダナ王
養母のマハ−プラジャ−パティ−、妃のヤショ−ダラ−をはじめとする釈尊族の人たちも、
みな釈尊に帰依して弟子となった。
その他非常に多くの人びとが彼の信奉者になった。
7.このようにして伝道の旅を続けること四十五年、釈尊は八十歳を迎えた。
ラ−ジャグリハ(王舎城)からシュラ−ヴァスティ−(舎衛城)に赴く途中、
ヴァイシャ−リ−に於いて病を得、「三月の後に涅槃に入るであろう」と予言された。
さらに進んでパ−バ−に至り、鍛冶屋のチュンダの供養した食物にあたって病が悪化し、
痛みを押してクシナガラに入った。
釈尊は城外のシャ−ラ(沙羅)樹の林に行き、シャ−ラの大木が二本並び立っている間に
横たわった。釈尊は、懇ろに弟子たちを教戒し最後のせつなまで教えを説いて世間の大導師たる仏としての仕事をなし終わり、静かに涅槃に入った。
8.クシナガラの人びとは、釈尊が涅槃に入られたのを悲しみ嘆き、ア−ナンダ(阿難)の
指示に従って、定められたとおり釈尊の遺骸を火葬した。
このとき、マガダ国の王アジャ−タシャトルをはじめとするハ大国の王は、みな釈尊の
遺骨の分配を乞うたが、クシナガラの人びとはこれを拒否し、争いが起った。
しかし、賢者ドロ−ナの計らいにより、遺骨はハ大国に分配された。
その他、遺骸の瓶と火葬の灰を受けた者があり、それぞれの国に奉安されて、
この世に仏の十の大塔が建立されるに至った。
<つづく>
421
:
SAKURA
:2012/04/16(月) 12:06:17 ID:GrjKQGvA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
光り輝く〜♫〜 “春…” サクラの花も…終わり
“葉ザクラ”とかし、“若葉の美しさ”ひときわ目にとまりますが…?
これも又!“いとおかし〜〜〜♫〜〜〜”でしょうかしら〜〜〜ン!
さて!昨日は…“奥殿”に直ぐ引きこもりましたでしょうか?
【再度投稿】させて頂きま〜〜〜す。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
413 :SAKURA:2012/04/15(日) 20:13:29 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様へ
こんばんは…
ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。今日の休日は、如何でしたかしら〜〜ン?
毎日の聖典引用板で“投稿”していきますと、
此方も改めて“教えられる事”が多々ありますから?【不思議な国のアリス】です。
今日も、何が出るのか分らず…“勉強スタ−ト”です…。
では、“本…”を、開きます〜〜〜!目を閉じまして…心を静めて…!【オ−プン!!】
今日の“タイトル…”は〜〜〜〜〜?????(微笑み)
■【幸福を招く365章】
――――創造の選択は人間に委されている――――
宇宙は大自然の創造してやまない力が満ち満ちている。人間は生まれるまでは、
大自然は自己みずからの想念の形に、大自然の姿を造講して来たのであるが、
人間が神の創造力の自覚的意識的発想の中心として出現して来て以来は、聖書は
「審判は子に委ねられたり」とイエスは云っているのであるが、宇宙の創造力を
どんな形にあらわすかは、人間(神の子)が出現して以来は、人間にその「想念」
(創造の模型)の選択力が与えられていると云う意味である。
自己自身の想念の相に自分の身辺の事が作られ、自己自身の想念が選んだ通りの
形に宇宙の創造力は働いてくれるのである。爰に於て人間は宇宙の創造力の主人公
となったのである。
宇宙にエネルギ−が充ち満ちているのであって、人間がエネルギ−を創造するので
はないのである。人間はそのエネルギ−を物質化して自己の想念する位置に配置
するのである。人間は自己の欲する位置に必ずしもそのエネルギ−を配置することは
出来ない。それを欲する位置に配置するのは、心の方面では心の法則に従わねば
ならないし、物質の方面では物質の法則に従わねばならない。
尤も物質の法則を探求し、それを利用するのも心の力によるのであるから、
人間は物質両面に於ても心によって運命の支配者となるのである。
善き想念を意志強く持続し、そこから自然に動く叡智を意志強く実践して
行く者が人生の勝利者となるのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。
■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 >240 です!!
422
:
志恩
:2012/04/16(月) 12:51:03 ID:.QY5jUA6
訊け君
國太郎先生、藤原先生、榎本先生のご文章の謹写をいつも、ありがとうございます。
榎本恵吾先生ブログの「文書館」のご文章は、もしも、ブログが消えたらいけないと思いまして、
私は、しばらく前に ぜ〜〜んぶ、プリントアウトしたのですよ。
ところが、プリントアウトは、用紙の片面にしか出来ないでしょ、だからその枚数たるや、700枚くらいになりました。
厚い本みたいです。綴じました。
よくこれだけ、榎本先生は、遺稿として後輩のために執筆されて遺してくださいましたよね。
このブログを作成してくださった0先生、遺稿を惜しみなく提供してくださった恵吾先生の奥様の一子先生に、あらためて
感謝の気持ちでいっぱいです。
全部プリントアウトしてはあるのですが、一度は通読しましたが、なにせ、量が多いので、たいせつにしまってあります。
読んでも、すぐに忘れてしまいます。
やはり、掲示板に載せてくださると、フレッシュな気持ちで勉強できますので、ありがたく思っております。
423
:
志恩
:2012/04/16(月) 12:58:00 ID:.QY5jUA6
うんはなさま、ハマナスさま、ahope
424
:
志恩
:2012/04/16(月) 13:09:27 ID:.QY5jUA6
書き込み途中で423が、勝手にそちらへ風で飛んで行ってしまいました。
今日は,こちら、風が強いもんで、、ごめんなさい。
うのはな様、ももんが様、金木犀様、ハマナス様、ahope様、さくら様、SAKURA様、
皆様の書き込み、いつも楽しみに1つ1つ拝見しております。
家にいながら、いろいろと真理を教えていただける幸運をありがたく、皆様に心から
感謝申し上げております。
憧れのママの創作の芸術作品にも、いつも爆笑して癒されております。鈴夜ちゃんは、
WEB誌友会最中に、コードは踏むし、相変わらず、ユニークな役柄を、、、(笑)
425
:
さくら(ひらがな)
:2012/04/16(月) 16:46:38 ID:tPVxKQcE
こんにちは〜!
関係ない話ですが、有能な物理学者は、
数式を見るだけで、ビックバンを「リアルに体験」できるそうです。
・・どういうことなのでしょう。?
数式では、宇宙の真理がずっと的確に解明されているようですが、
ことばであらわれる、しんりというのはどんなものなのか、奥が深いですね・・
『ヨハネ伝』講義 谷口雅春
日本の国は、言霊の幸う国とふるくから云われておりまして、言葉の力を讃える国であ
りました。それで日本では言葉と云うものを大切に取扱いまして、仮初にもわるい言葉を
吐かないようにしていました。そして若し悪い言葉で宇宙を掻き乱したら善き言葉を祝詞
によって宣べることにより、天地を清めると云うことにしていたのであります。祝詞と云
うのは「祝福の詞」と云うことであって、悪しきものはあらわれていても、そんなものは
ない「ありがたいものばかりだ」と善き言葉で祝福の詞をのべることによって、天地の穢
れを祓清めることをやっていたのであります。「言は神である」と云う其の言葉と云うの
は、生命のバイブーション(振動)であります。「太初に言あり」と云うのは、一切のも
のは波動が再始原のものであると云うことであります。「苟も、波動のあるところに神が
ある」と云うのが、「言は神と偕にあり」と云う事であります。「偕にある」と云うのは
「別のもの」は併列してあるのかと思うと、そうではない。「言は神なりき」であって言
と神とは同じものだと云うことであります。この「言」と云うのは英語ではゴド(God)
と濁っておりますが、神様のことであります。言葉が神様である、一切のものは言葉によ
って造られているのであります。「言は神様である」と云うのは、吾々は古代から神様の
ことを「命」と言います。美は美称であります。神様とはミコトバ様だと云うことなので
あります。漢字に当て嵌めても「ミコト」と云う字は命令の「命」が書いてある、命令は
口でする、即ち漢字でも言は神様である。その「命」と云う字は「命」とも読む。言は又
命であって、『ヨハネ伝』の最初に「太初に言あり」云々と書いて「之に生命あり、この
生命は人の光なりき」とこう云うように書いてあるのに一致するのであります。それで、
言は神であり、生命である。旧い訳の聖書には「道」と云う字を書いて「ことば」と振仮
名を付けてあります。「道」と云うのは吾々の肉体の足が歩いて行く道のことでないので
ありまして、天地遍満の道、即ち天地にミチミチているから「ミチ」である。「道」は「言
う」とも読む字であって、言葉である。そして「道」と云う字は「首(ハジメ)」に「ス
スム」と云う字画であります。詰り、天地にミチていて、事物のハジメを成しているもの
が言即ち、波動であり、それは一切の本源である神であって、それから万物が発生したと
云うのであります。
426
:
ももんが《宗教篇》
:2012/04/16(月) 18:51:54 ID:XXCuaQns
〜生命の実相・34巻〜
《道場篇・弁道聴き書き》
☆実相は実相を招び出す
より。
その日の午前中、道場には十人ばかりの人が集まっていた。この中に安東駕馬太(あんどうかまた)といって五十八歳の老人があった。その老人が言うのに、
『私は『生命の実相』を手にするまでは、病気で痩せ細って仕事はできずに、家内の世話にばかりなっていました。ところが聖典『生命の実相』を手にしますと、肉体がこんなに若若しくなって、二十七、八歳に立ち返りました。手などもこんなに丸々と肥え太ってまいりました。これは聖典『生命の実相』の功徳でしょうか。誰も聖典『生命の実相』を所持すれば、こんな奇跡が起こるのでしょうか?』
『安東さん』と谷口先生はおっしゃた。『それは聖典『生命の実相』の功徳ではありません。本という物質がそんな功徳を与えと思うのはまちがいです。本は紙であり、物質でするから、生命を若返らす効果がありません。あなたを若返らせてたのは紙で綴った『生命の実相』ではありません。この本の中には『生命の実相の真理』はあります。
その生命の実相があなたの生命の実相を招びだしたのです。あなたを若返らせたのは、その招び出されたあなた自身の生命の実相です。他のものが人間を若返らすと思うのまちががいです。人は自分が主人公なんですから何者にも支配せられるものではないのです。』
(安東氏)『『生命の実相』の真理がなぜ私自身の『生命の実相』を招び出すのでしょうか?』
(雅春先生)『それは類は類を招ぶ親和の法則によるのです。同じ振動数の音叉に同じ振動数の音響を地か近づける、その音叉は振動して鳴りはじめるでしょう。』
(安東氏)『鳴りはじめます。』
(雅春先生)『その鳴りはじめるのは、互いに同じ振動数を持っているからです。あなたの生命の実相が鳴りはじめたのは、あなたな生命の実相が聖典『生命の実相』の中にある思想と共鳴したからです。聖典の中にある思想も『心的存在』であり、あなた自身も生命の実相も『心的存在』です。同じ振動数の心的存在は互いに共鳴を起こすのです。聖典『生命の実相』の中にある真理が読まれると、同じ振動数をもっていながら、まだ制止していたあなた自身の生命の実相が振動して表面的活動に移るのです。』〜以下省略
7㌻3行目〜8㌻12行目まで。
427
:
さくら(ひらがな)
:2012/04/17(火) 07:57:05 ID:tPVxKQcE
おはようございます!
朝が来ると、どんなときにもどんな人にも、同じように朝が来るってすごいな〜、
と、時々しみじみ感激するさくらです、
日本の言葉の発生と、外国の言葉の発生はおなじように自然発生的とありますが、
西洋的ロゴスの世界観と、言霊の世界観はまったくちがいますね・・、
ことばを考えると、奥が深すぎる。
『ヨハネ伝』講義
谷口雅春著
それで、万物は一切この言葉によって展開したのであって、こ
の言葉が大切なのであります。それで吾々が病人に対して「お前
はもう病気でない、神の子である」ということを言葉で言えば、
それは本当に力ある言葉であれば病人が治るということにもなる
のであります。そうかと思うと。あべこべに、「お前は罪人であ
るぞ、いくら善くなろうと思うても善くなれない凡夫である」と
云うようなことを云ったら、やはりその言葉の力によって、いくら
善くなろうと思うても、善くなれないと云う風なことになるわけで
あります。このように言葉は命であり、神であり、命令であり、天
地に満つる道であると云うことになるのであります。
この天地に満つる言葉が、「神光あれと言いたまいければ光あり
き。」(『創世記』第一章)とあるのも、最初にこの「阿」の声が出
て来たことをあらわしております。「阿」の声、これは光輝く声で
あります。「光」の声と云うのは大日如来の本体であります。
(註)大日経疏第七に「阿字は是れ一切法教の本なり。凡そ最初に口を開く阿の声あり若し阿の声を離るれば即ち一切の言説なし。故に衆声の母とす」とあり、此の「阿」の声はまた菩提心即ち「ほとけの心」であります。大日如来経疏第十四「阿字は菩提心なり」とあり、同第十には「阿は是れ空の義の本不生を以っての故に虚に同じ」とあります。
「本不生」と云うのは本来不生不滅の本体の意味でありますから、
「阿字を大日如来の法体である」と云うのであります。真言密教では
「阿字観」と云う修行をする。要するに本来不生の宇宙の本体であ
る大日如来と自分と一体であると云う『神想観』のような修行をす
るのであります。(谷口清超との共著『苦難と恐怖の克服法』参照)
この「阿」と云う言は現れるという意味をもっていまして、現れ
る、明るい、赤い、暁・・・・等、光のアラワレル意味をもった語が
此の「ア」と云う発音で始っていることに注意して頂きたいのであり
ます。これは自然発生の言葉であります。そのほかの言葉にも、「ァ」
の付いた言葉には「頭」であるとか「足」であるとか色々あります。
_頭と云うのはどういう意味であるかと言うと、真丸く玉のように現
れている、あらわれてたまのようであるから「頭」なんです。そうす
ると「足」というのは、あらわれて「した」にある。それで「アシ」と
云うのであります。それから、暴れる、荒狂う、荒魂、これらは外に
現れるという意味から、自然とそう云う言葉が出て来たのであって、
これは仮名文字審議会を開いて決めた言葉ではないのであります。自
然と天地創造のコトバと、人間の中に宿るコトバ(命)とが一体であ
るから、人間が、事物を見ると、その事物の本質にあたるコトバを自
然に出す。それが通用語になったのであります。
そう云う工合になっているのが我々の使っている言葉であります。
「ア」はどう云う意味の語、「イ」はどう云う意味の語と云うように、
五十音にわたって説明したいのですが、今は時間が足りませんから、
これは詳しくは『真理』の青年篇に書いてあるからご覧ねがいます。
外国の言葉でも最初はそう云う工合に自然発生の言葉から次第に転化
して来たのでありますけれども、私は余り深く外国語に精通しており
ませんから申し上げぬことに致しまして、『ヨハネ伝』の次のパラグラム
の処に参ります。
428
:
a hope
:2012/04/17(火) 08:26:50 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
幸福になるには
よくあることです。「苦しい時の神だのみ」と申しまして、
自分が困りきると今までは見向きもしなかった神様に頼みたくなる心が、
どこからともなく湧いて来るものです。
しかし、自分は神様に生かされている神の子だということを知らないで、
いくら拝んでみても、あまり御利益がないものです。
それよりか、自分は神様に生かされている神の子だ、
神様が自分の中に生きていてくださるのだ、神様には病気も、
一切の悪いことも、苦しいことも、お与えになることはないはずだ、
私はそうした立派な神様に、今こうして生かされているのだと知って、
「神様ありがとうございます!」と喜ぶのです。
こうして、自分の中に生きてくださる神様を拝むのです。
拝んで、拝んで、拝みきるのです。「神様に生かされているのだ。
ありがたい!」と、自分の中に生きていてくださる神様に、
朝から晩まで御礼を言う気持ちになるのです。
こうした生き方を続けてゆきますと、自然に神様のような善い生活ができてくるのです。
言いかえればとてもうれしい、楽しい、その日その日が始まって来るのです。
自分の中の神様を拝む心になり、また人の中にも神様がいられるのだと拝む心になりますと、
自然に強情っぱりが除(と)れてゆきます。
そうなれば、神様はいつでも私達を助け通しで、いつも嬉しい、
善いことばかりができて来るのです。
(「第8章自分の生かし方」終わり、 次回より「第9章他人の生かし方」へ)
429
:
ハマナス
:2012/04/17(火) 09:42:13 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。皆さまにとって、今日も最良の日でありますように。
不正は永続しない (『新版 生活の智慧365章』P.129)
人は自分で掘った穴に墜落して苦しみながら、恰もその穴を他の人が仕掛けてその穴に
陥(おとしい)れたかの如く思って人を恨んだり、憎んだりし勝ちである。他を呪い、他を
陥れ、それによって自分が強勢を拡張したり、自分が利益を得ようと思うならば、それは
不自然に、自分の指先で天秤の一方を押さえて目盛りを不正に誤魔化しておいても、その指先を
放してしまえば、元の正しい目盛りに帰るようなもので、自然は永遠には不正を許さず、不正に
獲得したものは、やがて自壊作用を起こして恢復(かいふく)されることになるのである。
自分で自分を縛る縄をつくってはならない。自己限定をやめるがよい。そして自分が他の人を
陥れたり、悪評をたてたりして、他の人のものを奪わなければ、自分の領域が拡大しないなどと
考えないがよい。他を生かし、他を救うことによって、その平衡作用として自分も生きて来る
ような生活を営むべきである。
感謝合掌
430
:
金木犀
:2012/04/17(火) 10:51:31 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第一章 宇宙及び人間の創造について」の一部を謹写致します。
“わたし”は実相である。“わたし”はあなたの実相である。“わたし”は永遠に存在する実在である。“あなた”の実相は“わたし”であるから永遠に存在するものであって金剛不壊の存在なのである。本当のあなたは不滅の存在なのである。
◯
“わたし”は久遠永劫の存在である。“わたし”は時間空間を超えている。時間の流れの中にいないから、“わたし”は不滅である。“わたし”は“生まれた”という時はないのである。従って、“死ぬ”という時もないのである。“わたし”はあなたの“実相”としてあなたの内に宿っている。そしてあなたの肉体を生かしている。肉体は自分で生きているように思っているけれども、“わたし”があなたの肉体から去ったら、肉体は死んでしまう。あなたの肉体に生気を与えているのは“わたし”である。そしてあなたの“本当の自分”は“わたし”即ち“神”なのである。
◯
あなたが『生命の實相』を読むとき、あなたの内にあって眠っていた“わたし”の分身が、実相を語るコトバの力によって目覚めしめられる。その程度は人によって異なるのであるけれども、その目覚めの程度にしたがって、或いは病気が消えたり、その人の経営する事業が、実相円満の展開として、繁栄して来るなどの体験があらわれて来る。人々によって、そのお蔭の種類や程度が異なるのは、過去の善行の蓄積の相異や、精進努力の相違によるのであって止むを得ないことである。
431
:
金木犀
:2012/04/17(火) 10:52:43 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第一章 宇宙及び人間の創造について」の一部(2)
あなたの肉体を、生きている姿で動かしているのは、“わたし”である。“わたし”はあなたの心臓を鼓動させ、あなたの肺臓を呼吸させる。“わたし”があなたの肉体から去れば、どんなに肉体の機構が同じように健全な、故障のない相(すがた)であっても、あなたの心臓の鼓動はとまり、あなたの肺臓の呼吸は止まる。
あなただけではない、すべての生物を生かしているのは“わたし”である。どんな微生物でも、どんな巨大な動物でも、皆“わたし”の生命が生かしているのである。
◯
どんな微生物でも“わたし”が生かしているのである。あなたが病菌であるといっておそれている微生物も、本来“病菌”ではない。それは“わたし”が生かしているのである。その病菌とみえている者が、実は、あなた達の間違った“心の思い”や“生き方”を警告して、それを是正させるために“わたし”が姿を病菌の如くあらわしていることがあるのである。
“わたし”は、どんな消毒薬よりも強いのである。“わたし”はその人間の魂に警告を与えて、正しい生き方に還らせようとして病菌としてあらわれている場合には、その目的を達しない限り、どんな薬剤を与えても、その病菌は消えるものではない。しかしその目的を達して人間たちの心が正しくなったとき、わたしはその微生物を現象界から“生命の素材の世界”へ引き戻す。その時、あなた達の病気は癒えるのである。
432
:
金木犀
:2012/04/17(火) 10:53:42 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第一章 宇宙及び人間の創造について」の一部(3)
けれども、それを神が人間に罰を与えているのだと考えてはならないのである。“わたし”は愛であるから“罰”を与えたりはしない。“わたし”は人間の魂が墜落しようとするのを、ある方法で引き留めようとしているに過ぎない。病菌と見える者は、“わたし”が墜落しかけている魂に、墜落してはならないという電報を配達させるためのメッセンジャーに過ぎないのだ。
それは神の罰でも神の鞭でもない。それはかみの救けの綱であり、墜落を防いでやるためのガードレールのようなものである。
◯
“わたし”は“愛”であるが、同時に智慧であり、また生命である。それは物質の世界に於いては熱とあらわれ、、光とあらわれ、エネルギーとしてあらわれている。“愛”が先でもなければ、智慧が先でもなければ、生命が先でもない。光と熱とエネルギーとが相互に一体であり、どの相(すがた)にも交互にあらわれ得るように、“わたし”は愛ともあらわれ、智慧ともあらわれ、生命ともあらわれる。愛と智慧と生命との三つが同時に一体となって万物を生かしているのである。
◯
“わたし”は一切の現象の中に“わたし”の智慧と愛と生命とを顕現している。“わたし”を見たければ森羅万象をみればよいのである。しかし肉眼でそれを見るならば、必ずしも“わたし”の創造した万象の“真実の姿”を見ることはできない。何故なら、肉眼で見る人は、自分の先入観念や迷いの念で“雲”をつくって“真実の姿”を覆い隠しているからだ。だから神想観の時には肉眼を閉じて、心の眼をひらいて実相を直視せよというのである。
433
:
金木犀
:2012/04/17(火) 12:25:19 ID:zilIu2tA
>>395-396
復興G様
レスを頂いていることに気づかず、今読みました。御返事がおくれ、
申し訳ございません。
さすがに復興G様のお言葉の深さに、正にそのとおりだと思います。
私も復興G様のこの投稿を読み、今までは、何とか雅宣総裁の実相を見ようと、
ちょっと無理をして、つい怒りのほうが先に来て、いくら危険管理人様の榎本先生の
引用を読んでも、実相を観る気になるのは一瞬で、つい現象のほうが見えてしまうので、
実相を観るのが苦労でしたが、なんとなく、たしかに総裁は観世音菩薩だという気が、
心からそんな気がしてきました。
それにしても、将来分派ができるのを恐れて、とは正に心の法則をそのまま例証されてますね。
雅春先生が、とにかく神想観をあれほど言われていたのですから、すべて神想観に尽きますね。
どんなに知識として知っても、神想観で五官を去って、自己の内奥に穿ちいることなくば
結局頓得の悟りを脱することは出来ませんね。
有難うございます。頑張って、神想観に励むことに致します。
434
:
金木犀
:2012/04/17(火) 12:26:53 ID:zilIu2tA
訂正します。
危険管理人様 → 訊け管理人様
435
:
「訊け」管理人
:2012/04/17(火) 12:27:28 ID:???
>>434
爆笑
436
:
SAKURA
:2012/04/17(火) 14:48:52 ID:tB36Kte6
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは……ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。
今日も”春〜♫〜春〜♫〜” 満潔していま〜〜す。
このすがすがしい“朝…”
”洗濯”も昔と違いまして”情緒…”は幾分?違いいますが……
それでも”洗いたての衣服”は、香りが”プ〜〜〜ン?爽やか気分”いいです〜ネ!
”さわやかな春風〜♫〜”が、舞い誘い込んできま〜〜す!
そして、私の耳元に、囁きかけ、その瞬間”瞼”を閉じますと…
今はもう〜「亡き両親と暮らしました家」…裏に小高い山があり、
ここは”明治の記念碑…発祥地新日鉄の高炉の塔”がありましたが……?
今はもう…>< 全てが様変わり!「過去…」は、何処に去ってしまったの???
でも”裏山の公園”は、当時!毎日朝の日課の”散歩コ−ス”でしたが…
今の私は”公園”が近くにある事が今でも居住地の条件としての課題の一つです。
これは、子供の頃からの”感覚…?習慣…?”でしょうネ!皆様は如何かしら〜ン?
さて!今日のテキスト…”ひらけごま〜♫〜”では参ります!【1・2・3…スタ−ト】
■【幸福を招く365章】
−−−先ず第一のものを第一に−−−
第一のものを第一にし、第二のものを第二にすることが成功の秘訣である。
柳生流の極意にも相手が千人であろうとも、次々と受けてゆけば、
相手は一人同じであると云う意味のことがかかれているのである。
人生百般の仕事は随分沢山のものがあるのであるから、
その順序を間違えたら労して功なきことになるばかりか、
物事がアベコベになることがある。
最も重要なるものを先に行え。多くの人々は、問題にならないような
些事に引っかかって重要なことをなし得る時間を空費してしまっているのである。
第一のことを第一に、第二の事を第二に秩序整然と行うようにするならば
何事もすべて都合よくゆくのであって、譬えば囲碁の名人が石を打つように
一つも無駄なく成功するのである。
(谷口雅春著)
私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。
■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 >257 です!!
437
:
うのはな
:2012/04/17(火) 20:47:42 ID:El6gIMAw
聖経読誦の問題について
本当は聖経を幾回読んだら治り、幾回では治らぬというような回数の問題ではないのである。
「汝の信仰、汝を癒せり」であるのであって、それを読誦する人の信仰が、一回の読誦で充分高揚する人もあるが、
毎日数回読誦しなければ「病気無し」の心境に達し得ない人もある訳である。
大抵一回の心境が毎日つづいておれば、毎日現象的症状に心が捉われる程度が、悟りに到る心境よりも勝るというような事に
なるので功徳があらわれないことになるのである。
一日五回、十回読誦するような心境では、症状は如何にともあれ、「この聖経には必ず功徳がある」という信念が強烈で
あるからこそ、そのような継続的に長時間、長日数の読誦ができるのであり、その読誦を重ねているうちに、聖経に書かれている真理が、
自分の潜在意識に深く印象され、「病気本来無」の真理を読誦者自身が深く自覚して、その自覚の反映として病気が消えることになるのである。
まことに「汝の信仰、汝を癒せり」ということになるのである。
『女は愛の太陽だ』 谷口雅春先生 著
438
:
うのはな
:2012/04/17(火) 21:01:16 ID:El6gIMAw
“天地一切のものと和解する”ということ
人間はすべて、一つの神の生命の分霊であるから、バラバラになって、つながらないでいることは不自然なので
ある。みんな一つに結ばれるということが本当の正しい生き方なのである。
「天地一切のものと和解せよ」との神示はそのことである。長いこと人間神の子の真理に接しながら、組織のつながりの中に
はいらないで、自分だけ別々の行動をしているようなものは、天地一切のものと和解したとはいえないのである。
本当に互いに魂がつながり合って、互いに会うことがよろこびであり、一緒に人類を光明化する運動につながることができる心境に
なってこそ、天地一切のものと和解したといえるのである。
“和解する”とは“感謝する”ことであると同時に、和解するとは“愛する”ことであり、その“愛”の実現として、多くの人々と互いに
手をつないで全人類救済運動に挺身することなのである。全人類に手をつなぐことができないで、孤高ひとり清しと思うが如きは、自他分離であり、
和解ではないのである。全人類ひとしく神の子の兄弟姉妹である自覚が乏しいのである。
『女は愛の太陽だ』 谷口雅春 先生著
439
:
さくら,
:2012/04/18(水) 05:47:42 ID:tPVxKQcE
おはようございます〜!
朝カツで、雅春先生の『ヨハネ伝』講義をいたします、、。
『ヨハネ伝』講義
谷口雅春 著
神より遣わされる人いでたり、その名をヨハネと云う。この人は証のためにきたれり、
光に就きて証をなし、又凡ての人の彼によりて信ぜん為なり。彼は光にあらず、光に
就きて証せん為に来れるなり。
キリストの福音書は『マタイ伝』『マルコ伝』『ルカ伝』等があ
りますが、此の『ヨハネ伝福音書』は特にイエス・キリストの霊
的な実相について書かれた伝記でありますが、イエス・キリスト
の本当の説かれた真理が生長の家によって、はじめて本当に開顕
され、生活に実現し、成就するのでありますから、『ヨハネ伝福音
書』は結局生長の家で述べられている真理のことが書いてある。こ
う思うて読んで頂くと良い訳であります。
その頃、神より遣わされたる人があった、それはヨハネと云う。
此のヨハネと云うのは此の福音書に書いてありませんけれども、水
行をしたり或は蜂蜜ばかりを嘗めて居ったり色々減食とか断食とか
苦行をやって、そして段々神に近づこうと云う風なことをやって居
られた自力修行の代表者としてここにあるのであります。此の自力
修行は到底本当の神を云うものを掴むことができないのでありまし
て、それがここに書いてあるのであります。
440
:
a hope
:2012/04/18(水) 07:14:50 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
第九章 他人の生かし方
人に深切にする味わい
人と人とは肉体を見ておりますと、彼と我(われ)、
我と彼とは合い分かれているように見えますが、
本当はただ一つの神の生命(いのち)が、
そういう具合に分かれて出たように見えているだけであって、
決してこの別々の存在ではないのであります。
この真理を知るのを、自他一体とか事々無礙(じじむげ)とか申します。
まことに人に深切にしてあげ、人が幸福になるとこちらも嬉しい。
この私達が人に深切にした時の嬉しさ、というものを振返って味わってみますと、
長く別れておったところの親子が再び出会ったような、
兄弟または夫婦がひさしぶりに出会ったような何とも言えない喜ばしい感じなのであります。
これは人間は本来、ひとつの神様の生命の水が吾々に流れ入って人間となっているので、
同じ命の別れであり、兄弟であり、親子であり、本来他人というものは一人もない。
それが別れたように見えていたものが一つに合(がっ)する――その喜びを感ずるのであります。
分かれていた半分同士が一つになる――そこに深切をすれば嬉しいという根本原理があるのであります。
(つづく)
441
:
金木犀
:2012/04/18(水) 08:15:48 ID:zilIu2tA
大東亜戦争無縁戦没者英霊に捧ぐる辞 昭和35年8月15日
谷口雅春先生
大東亜戦争に忠勇無双の奮闘ををつづけ、ついにこの戦争に肉体の生命を献げつくして霊界に旅立ち給える諸霊に告げ奉る。ことに今なお遺族不明にして御霊を祀ることを成し得ざりし戦死の霊たちに斎主谷口雅春告げ奉る。本日大東亜戦争終了の記念日を選び卿等の忠誠と功績を偲び奉りみたまを慰め奉り、真理の悟りに導き奉らんとして、ここに生長の家の信徒たち集まりて聖経『甘露の法雨』を読誦し奉らんとす。庶幾(こいねがわ)くはこれを受け給え。
惟うに大東亜戦争は卿等の忠勇無比なる奮戦にも拘らず日本の敗戦となりたれども、決して卿等の奮戦は無駄に終りたるにも、犬死せられたるにも非ず。あの戦いの目的は当時すでに明瞭に「大東亜民族の解放戦」と名づけられたるに非ずや。
これは人類進化の一周期の完了期が近づきたるが故に、今まで白色人種に侵略され、その原住国土を白色人種の属国、保護領、植民地とされ、有色民族たる原住民は奴隷のごとく待遇されいたる大東亜およびアフリカの有色民族も、この人類進化の宇宙周期の完了に際して、白色人種と同等に「神の子なり」との自覚を得て独立すべき宇宙プログラムを現象界に実現する時機至りたれば、有色人種といえども、白色人種を圧倒する力を有するという実例を示して、有色民族たちの自立独立の精神を自覚せしめる契機を与うる必要ありてあの戦争には宇宙の人類進化の神界のプログラムを達成する役割を演ずる偉大なる犠牲者出現せざるべからざりしなり。
その偉大なる役割を演ずるために開かれたるがあの大東亜戦争なり。その偉大なる犠牲的役割を演じて自己の生命を献げて人類進化に道をひらきたるが、あの大東亜戦争において戦死されたる卿等日本軍の将兵たちなり。卿等の戦死はまことに無意義にも犬死にも非ざりしなり。
キリストが一身を献げて人類の身代りとなりしがごとく、卿等は一命を捧げて、大東亜諸民族およびアフリカ諸民族の魂の自覚の進歩のために貢献せるなり。卿等の功績決してキリストの人類救済の功績に優るとも劣るものにあらず。すでに大東亜の民族はすべてその原住国土において独立せり。すでにアフリカの民族もそのほとんどは原住国土において独立せり。かくて「大東亜民族の解放戦」と称したりしかの戦争目的はすでに達したり。戦争目的の達成は勝利というべきなり。日本は勝利せるなり。
卿等はみじめに敗戦して犬死せる者には非ず、人類進化の周期完了に近づきて偉大なる功績を果せるなり。今上天皇陛下が、平和愛好の御心にて、あの大東亜戦争開始に反対の意志をなされ「四方の海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という明治陛下の御製を御前会議の席上にて朗詠せられたるにも拘らず戦争を抑止することを得ず、軍の真珠湾攻撃後、陛下はついに宣戦布告の詔勅において「豈朕が志ならんや」の一句を挿入せしめられたるごときは、まことに以て、あの戦争が人類進化の過程として道を拓くべき宇宙的プログラムにして何れの国民かが犠牲となって大東亜およびアフリカ民族の自覚促進に貢献する宇宙的必要必須の使命を果たす必要ありたるが故なり。
かくて卿等は一身を献げ一命を捧げて、すでにこの偉大なる目的を達せられたるなり。讃うべきかな卿等の犠牲的精神よ。宇宙の大神、今卿等の功績を称讃し、霊界において一層高き位に進められんとす。そのための悟りの彼岸に渡すべき如来の願船としてここに聖経『甘露の法雨』を読誦す。これ観世音菩薩の願船なり、塩椎大神の目無堅間の小船なり、この如来の願船たる聖経に乗りたまいて悟りの彼岸に渡り給えと生長の家信徒一同卿等を敬って合掌礼拝して感謝の意を述べ奉る。
442
:
ハマナス
:2012/04/18(水) 09:02:46 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。今日4月18日は、「全てが成功に変わる日」(光明道中記)です。
皆さまが健康に過ごされますように。
あなたの不幸は出尽くした (『新版 生活の智慧365章』P.130)
悲しみを棄てよ。怒りを棄てよ。憎しみを棄てよ。そこから天国浄土が実現する
であろう。よくよく考えて見るならば、真に悲しむべき事は一度もこの世界に起こった
こともなければ、これからも起こらないであろう。あの戦争の犠牲者となって霊界に
悼(おもむ)いた人たちも、本当はその霊魂は生き通しであって、決して死んでは
いないものであるから、現象界は“想像の影”世界にすぎないのであって、実在――
即ち「本当に在るもの」は、未だ嘗て無くなりはしないし、無くなるものは、“本来
無いもの”ばかりであるからである。
もし悲しみや、怒りや、憎しみを起こすならば、その人は事物の暗い面のみを想像し、
必要以上に、不幸や悪を拡大して見、みずから好んで自分の想像がつくり出した暗い
煙の中に窒息してしまうことになるであろう。不幸は想像することによって増大し、
悲しみは“類は友を招(よ)ぶ”ことによって続々その数を加えて来るのであろう。
不幸が起こったときには、これで不幸は出尽くしたと思うのがよい。悲しみが起ったら、
これで悲しみは出尽くしたと思うがよい。
そしてみずからを祝福し、みずからを歓喜せよ。
感謝合掌
443
:
復興G
:2012/04/18(水) 10:05:14 ID:ojEbkDH2
合掌 ありがとうございます。
WEB誌友会、「部室」板で論議されました「新天新地の神示」およびそのご講義を、谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』より謹写させていただきます。ご講義はとても長いので(60ページにわたっています)、「七つの燈台の点燈者」および「イスラエルの十二の分派(わかれ)」に関するところを抽出して投稿させていただきます。原文は正漢字使用ですが、新漢字に換えさせていただきます。(仮名遣いは歴史的仮名遣いのまま)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
新天新地の神示
見よ、われ既に天地を新たならしめたのである。人々よ、眼の蔽ひをとれ、われは新しき智慧である。新しき生命である。新しき宇宙である。新しき光明である。われ臨(きた)つて此の世界は既に変貌したのである。既に信ずる者の暗黒は消え、醜悪(しゅうお)は滅し、病ひは癒え、悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。神秘を見て人々よ、目覚めよ、覚めてわが新しき光に照らして存在の真実を見よ。われは存在の実相を照らし出す完成(ななつ)の燈台に燈(ひ)を点ずるものである。悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。汝の悲しみは喜びに変るであらう。病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命を受けよ。われを拒むな。われを信ぜざる者は已むを得ぬ。われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。われ汝等に『神想観』と言ふ観行を教へたればそれを為せ。われに汲むものは常に新しき力に涸れないであらう。吾を呼ぶ者のもとに吾れは常にありて、汝らのために汝らの重きくびきを軽からしめる。なんぢ一人ならば吾れを念じて吾れとともに二人なりと思へ。なんぢら二人ならば、吾れを念じて吾れと倶に三人なりと思へ。悩める者よ、わが言葉を読めば苦しめる魂も軽くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。そはわれは限りなき大愛であるからである。汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであらう。信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫であるが助けやうがないのである。汝の心の疑ひがわが心の波長に合はないからである。遠くにゐて救はれてゐる者もあるが、近くにゐても救はれぬ人もある。仕方のないことであるが不憫である。もつと兄弟たちに、『生長の家』を伝へよ。神の愛は貰ひ切りではならぬ。頂いたお蔭を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。『生長の家の神』と仮に呼ばしてあるが、『七つの燈台の点燈者』と呼んでも好い。七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで新しき生命を得るのだ。わが教へはどんな教へをも排斥するやうな狭い宗教ではない。教への太宗(もと)であるから宗教と言ふのである。
(昭和六年五月六日神示)
<つづく>
444
:
復興G
:2012/04/18(水) 10:22:40 ID:ojEbkDH2
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<1>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
新たに生れること
誰でも新年といひますと、新たに生れ更つた気持がするのであります。新たに生れるといふ気持がするのでありますが、何時の間にかその新年が古年になつてしまひまして、この年頭の新たに生れるといふ感激を、忘れてしまふ傾きがあるのであります。
それで私達は、この年頭に当りまして深く人間神の子の自覚を、潜在意識の底の底まで植ゑつけて、そして一年中神の子の自覚を失はない様に深く真理を刻みつけて置きたいと思ふのでありまして、それで毎年年頭に、恒例として講習会をやつてゐるのであります。
さて、宗教とは一体何であるか、といふ話をしたいと思ふのであります。宗教といふものは病気を治すものだと思つてゐる人も中にはある。それですから、もう医者にかかつても薬の力でも治らないときに、“新興宗教へでも行かうか”と思つてやつて来る人もあるのですけれども、宗教といふものは、所謂る「病気」といふ「肉体の病ひ」を治すものではないのであります。
宗教の本質は何であるか
宗教といふものは一体何でありますかといふと、先づ、自分とは如何なるものか、それを明かにする所の教へが宗教であります。ソクラテスは、汝自らを知れと言つたのでありますが、汝自らを知るといふ事が宗教であります。或ひは、新たに生れるといふのも、それも汝自らを知る、といふ事にほかならないのであります。今迄は人間は肉体の子であると思つてゐた。そして物質の塊がここに生れてきてゐるのが人間であると、かう思つてゐたのでありますが、「人間といふものは、さういふ物質の塊ではないのだ」といふ事を自覚して、人聞自らは如何なるものであるかといふ人間の実相を知る事が宗教である訳です。
人間自らは如何なるものであるか。キリストはお父さんがなかつたのですね。大工ヨセフといふのは名目上父としてありましたけれども、聖母マリアは、そのヨセフとの許婚の間に、まだ結婚しないのに妊娠して生れたといふのですから、キリストは幼い時から「自分のお父さんは誰であるか」といふ事に思ひ悩んだに違ひないのであります。それで遂にイエスは自分の父は、天に在します神である、といふ事を自覚して、自分は「神の子である」といふ事を言ったのであります。これがキリスト教といふ宗教の基であります。かういふやうに宗教といふものは汝自らを知る、といふ事なのであります。
お釈迦さんも、生れると直ぐ七歩あるいて、といふのは七といふ数は完成の数ですから、自覚を完成してといふ意味でありますが、一方の手は天を指し、一方の手は地を指して、“天上天下唯我独尊”と言つたんです。これが佛教の肇(はじめ)である。
天上天下唯我独尊といふことは――宇宙で自分が一番勝(すぐ)れた所のものである。言ひ換へると自分は“神の子”であるといふ事です。「人間神の子であつて、素晴しい存在だ、肉体から生れたものではない」といふ自覚を得られたといふ訳なんです。尤もこれは象徴物語りであつて、いくらお釈迦さんでも、オギャーと生れるなり歩き出して、そして天を指し地を指して「天上天下唯我独尊」といふ訳にはゆかないと思ひますけれども、これは七歩あるくといふことは、七は完成の数でありまして、自覚を完成したら、人間は天上天下唯我独尊だ、ただ我れ一人尊し、我は神の子であり、最もすぐれたる存在であり、自分は宇宙の中心だといふ事がわかつたといふのであります。
<つづく>
445
:
復興G
:2012/04/18(水) 10:23:55 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<2>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
佛陀(ほとけ)とは何であるか
さて宗教の定義は、自分自らを知ることの自覚を得させる教へだといふ事であります。その自覚を得たものが佛といふ訳です。佛といふと、「あの人は死んぢやつた。ああ佛さんになつた」なんて言ひますけれど、そんな佛さんぢやないんです。尤もあれも或る意昧から言ふと佛であります。人間は肉体を現してゐる間は、肉体といふものに縛られてゐるのであります。從つてまた物質の法則に縛られてゐるのです。飯を食はなかつたら腹は減るし、余り働き過ぎたらくたびれるし、眠らなかつたら辛い、……いろく肉体的な縛りといふものがある訳です。霊魂が肉体を抜け出したら、さういふ肉体の制約から、解放される訳です。さういふ意味に於て肉体の死んだ人は佛でありますけれども、しかし霊魂が肉体を脱けても、肉体を抜けたといふ事を知らずに、解放されないのがゐるのであります。さういふのを亡者(もうじゃ)といふんです。つまり未だ解放されてゐないのです。自分自身を「天上天下唯我独尊」の自由自在の存在であるといふ事を知らないで、そしてやつぱり肉体の中にゐて苦しんでゐる、といふ様な妄覚のままで霊界に行つてしまふ。この状態は永久に続くかどうか判らぬが、ともかく霊魂が霊界に往つても「何々といふ病気で苦しんでゐる自分だ」といふその想ひが続いてゐる間は、亡者である。「亡びたる者」である。「亡びたる者」といふのは、肉体があると思つて亡びないと思つてゐるのですけど、魂の方は亡びてゐる。つまり、人間みづからの生命そのものが、自由自在である神の子であるといふ事を自覚し得ないのでありますから、その自由自在性の霊なる存在を悟らんから、「霊なる存在」が亡びたる状態であるから、いはゆる「亡者」である、といふ訳であります。我々は亡者ぢやいかんですよ。
今言ひました通り、肉体が生きてをつても肉体が自分であると思つてゐる者は、霊性の自覚がないから或る意味から言ふと亡者である。肉体といふものは、これは恒(つね)に亡びるものなのであるからです。肉体は亡びるものであつて、偉さうに言つて百五十歳長寿会に入会してをつたからとて、それでも、それ一杯ギリギリ生きてゐても百五十年だ。宇宙の長い生命と比べたら、実につまらんものであって、皆「亡びるもの」が肉体の人間なんだから、亡者即ち亡びるものと書いてある。だから、肉体が人間だと思つてゐるものは、みな亡者mortal(モータル)と言ひますね。それが不滅のものといふもの「亡びない者」immortal(インモータル)といふものになる事が必要なんです。それが即ち亡ぶる者から亡びないimmortalといふものに生れ更るのが、これが「新たに生れる」といふ事である訳です。宗教を定義して、「宗教といふものは個生命(個人個人の生命)が宇宙大生命と一体であるといふ事を悟らせる教へが宗教である」といふ風に定義する人もある。この定義は無論正しい訳であります。これは「汝自らを正しく知つたとき」自然に自分といふ「個」の生命が宇宙生命といふ「全」の生命との關係がわかつて来るのであります。自分の生命といふものが、単なる肉体に宿つてゐる五尺何寸、十何貫といふやうな――中には五十貫も目方のある、この前日本に来たプロレスのキング・コングみたいな人もゐますが――それでも、十何貫にせよ、五十貫にせよ、いづれも有限であつて、やはり「亡びる者」であります。如何にキング・コングでも、力道山にやられる。その力道山も終ひには誰かにやられる時が来るであらうし、またやられないでも死ぬ時も来るであらうし、人間を肉体だと見てゐる限りは、人間は所詮は亡びる者、亡者である。そこで此の「亡びる者」から「亡びない者」に移り変らせ、人間は肉体でない、久遠の生命であるといふ事を自覚せしめるのが、宗教である訳であります。だから、久遠無限の宇宙大生命と個生命たる自分とは一つであるといふ事を自覚する教へが宗教である、といふ訳であります。
<つづく>
446
:
復興G
:2012/04/18(水) 10:51:37 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<3>
前記 謹写<2>につづくご講義は、すでに
>>378
〜381に投稿しておりましたから、そちらをご覧ください。
中略させていただきまして、「イスラエルの十二の分派(わかれ)」に関するところを謹写投稿させていただきます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さて「新天新地の神示」のつづきであります。
「『生長の家の神』と仮りに呼ばしてあるが、『七つの燈台の点燈者』と呼んでも好い。七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで新しき生命を得るのだ。わが教へはどんな宗派をも排斥するやうな狭い宗教ではない。教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。」
七つの教へといふのは、すでに説明致しました通り、七つは「完成」の数で、すべてを表すのであります。「燈台」といふのは「世を照らす光」即ち宗教であります。「七つの燈台」で「すべての世を照らす光となる宗教」といふ意味であり、智慧の光によつて迷ひの暗を消してしまふところの教へであるといふことであります。
イスラエルの十二の分派(わかれ)とありますが、イスラエルつていふのは、五十鈴(いすず)の川の流れといふ意味であります。「いすす」といふのは五十(いす)の鈴の音即ちアイウエオ・アカサタナ・ハマヤラワ………の五十音によつて全ての言葉のヒビキが代表されますが、神はコトバであり、五十音の展開が万物であり、その万物が「統(す)」によつて統一せられる、それを五十鈴(いすず)といふのであります。
伊勢大神宮の境内に流れてゐる川があります。それを五十鈴川と申しますのは、宇宙の万物を統一する大神をお祀りしてあるのが伊勢大廟であるからです。
*「イスズ」の「ズ」は濁音ではなく、「スス」といふ重音です。
日本の神社神社にお祀りしてある神々は、伊勢の大神宮ほか二、三を除いては、ほとんどすべてが人間の霊魂でありますが、伊勢の大神宮には宇宙の万物を統一する天照大神をお祀りしてあります。天(あま)といふのは「天球(あま)」であつて宇宙全体であります。「天球」即ち「宇宙全体」を照らしてゐる大神といふ意味で天照大神(あまてらすおおみかみ)と申し上げます。宇宙本源の神様が仮りに応化して、伊邪那岐大神よりお生れになつた方が、天照大神であられるわけであります。
神仏混淆時代に伊勢大神宮の奥院に、阿弥陀仏が祀つてあつたといふ考証を誰かがしてゐられたのを読んだことがありますが、本当にそんな事があつたとしても別に不思議ではありません。阿弥陀とは十方世界光明遍照、尽十方に満つる無礙光といふ意味でありますから天照大神といふ意味と同じ意味であります。それを仏教では尽十方無礙光如来と申し上げ、別の名称を大日如来と呼び奉るのでありまして、十方世界に充ち満ちてをられるところの神様であり、仏様であり、「天球(あま)」に充ち満ちてそれを照らしたまふところの大神であります。
そこから五十鈴(いすず)の流れ、五十音の言葉の流れが展開して万物が成る(鳴る)のであります。これを象徴して伊勢大廟には五十の鈴が宝蔵されてゐるといふことを承つたことがありますが、私はまだ拝観したことはありません。そこには鈴の言霊が五十音ある。その五十を統(ス)べるスの音が鈴(スス)であります。
ここから五十鈴(イスス)の川の流れが出て十二に分れ、そしてこれがすべての諸国の民族の本源となつたといふのであります。だから、イスラエルの十二の支流(わかれ)といふのは、五十鈴の流れから発して世界各民族となつたすべての人類といふ意味です。
<つづく>
447
:
復興G
:2012/04/18(水) 10:53:10 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<4>
『万葉集の謎』といふ本が出てゐる。そしてベスト・セラーになつてゐるのでありますが、言語の類似から研究して、日本人は、今ヒマラヤの奥地に残つてゐるレプチャ民族といふ未開民族の子孫であると言つてゐるのでありますけれども、ああいふ言葉の類似といふものは、到る処にあるのでありまして、必らずしも万葉集の言葉とレプチャ民族の言葉だけではないのであります。
大体言葉といふものは宇宙に充ち満ちてゐて、それが事物の相に応じて自然発生するものであります。聖書にある「太初(はじめ)にコトバあり。コトバは神なりき」のあの言葉のヒビキが事物となつて現れてゐる。それを表現するのに人間は自然に発生する言語をもつてするのであります。
言(こと)は事(こと)であつてすべてのものは事であり言である。言事不二(ごんじふじ)であります。英語でも神様のことをゴドと言ふ。『万葉集の謎』にはもつと似てゐない言語を類似してゐると指摘して、レプチャ語は万葉集時代の日本語だと結論を下してゐるのでありますが、この程度の類似を持つて来て、同語源だといふ証明をしようと思へば、レプチャ語をもつて来なくても、イギリス語でも日本語と語源は同じだと言ふこともできるのであります。
英語の単語と日本語の単語の類似は『生長の家』誌二月號(昭和31年)の明窓浄机に書いて置きましたけれども、これはレプチャ語や英語だけの問題ではなく、「世界の言語は悉く一つであつた」といふことが旧約聖書に書かれてをります。言語は事物の内的意義や状態を表現するために自然に発したものでありますから、共通の発音に共通の意義をもつてゐたのであります。
ところがバベルの塔といふのを人類がこしらへて、それを高く築いて、つひには天までとどかせるのだといつて、高く高く塔を築いて行つたのであります。さうしたら神様は怒りたまうて、人間の我の能力(ちから)によつてはどうしても神に到達することは出来ないといふことの象徴として、そのバベルの塔を壊して、民族を諸方へ散らしたまうた。そして其の時までは言葉も一つであつたと旧約聖書には書かれてゐるのであります。
世界は最初一民族・一言語であつたのが、神によつて四散せしめられて、それが十二の民族となつて岐(わか)れたのであります。十二と言つても、十、十一、十二、十三といふ実数ではないのであります。七つと言ひ、十二と言ひ、すべて一周期の完成を指すのであります。七つは既に申しましたが、十二は十二ケ月とか一ダースとか十二インチが一フィートとかいふ風に一つの数が完成して上位にうつる節であります。だから「十二の支流(わかれ)」といふのはすべての分派した人種といふ意味であります。
大体事物の発展といふものは、三と五と七との倍数が節になつて発展することになつてゐます。それで七・五・三を人間生育の節としてお祝ひするのであります。何でも人間が厄年としてお祝ひをするといふときは一つの節になつてゐるときであります。周期の代り目を厄年として祝ふのであります。十二といふのは五と七の和でありまして、一年を十二ケ月といふやうにしたり、一フィートが十二インチであるとかいふ風にして一段落を示すのであります。
わたしたちの厄年も、七・五・三の倍数になつてゐるのであります。女の人は三十九歳が大厄年であると言ひ、男の人は四十二歳が大厄年だと言ひ、或ひは還暦の祝ひは満六十歳でやる。やつぱり三の倍数であります。つまりこれらの年は三・五・七の倍数によつて展開して行くところの節の年になつてゐるのであります。
それは兎も角、同じ言語や同じ地名がレプチャ族にもあるから、日本人の祖先はレプチャ人だといふ結論は成立たないのであります。
<つづく>
448
:
復興G
:2012/04/18(水) 10:54:13 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<5>
嘗て木村鷹太郎といふ人が、天孫降臨の記録にある日本地名とおんなじ地名がギリシャにあるといふのでズーッとその地名を列(なら)べまして、日本民族はギリシャ民族である、「タカアマハラはギリシャにある」といふ説を立てて、『大日本太古史』といふ部厚い上下二冊の書物をあらはされたこともあります。人類の本源はすべて一つの神から発生したのですから、レプチャ民族も日本民族も本源はおんなじだと言つてもかまはぬけれども、『万葉集の謎』といふ本がよくないのは、日本民族の祖先はレプチャ民族だといつて、未開のレプチャ民族の子孫だと幾分日本民族軽蔑の意味を含めていふところに、近頃流行の日本蔑視自己侮辱の弊害にひつかかつてゐるといふのであります。日本語とレプチャ語とが似てゐるなら日本民族はレプチャ民族の祖先だ、と言つた方がいいと思ふのであります。
小谷部といふ人の研究を読んだことがありますが、これはまた別の説を立ててゐます。この人はユダヤ人は日本民族であるといふ説なのであります。ユダヤ人の風俗、言語、習慣などの日本人に似てゐることを列記して、イスラエル民族は日本民族である。それが十二に分れて諸方へ散つたと言ふのであります。
これはバベルの塔が壊されて諸方へ民族が散つたといふ旧約聖書の記録にも当て嵌まるわけでありますが、その十二の民族のうちの一番すぐれた民族が東方へやつて来たガド族といふ民族であつたと言ふのです。そのガド族が日本の九州に上陸して、日本の国を建てた。それがミガド民族であると言ふのであります。ミは「御」で美称であつてガド族を尊称して、ミガド族になつたのだといふので、旧約聖書にあるイスラエルの再建といふことは日本民族の再建を意味するといふ風に、日本民族の優秀性を説くためにさういふ説を立てた人もあるのであります。
兎も角イスラエルといふのは、コトバが神であり、万物これによつて成り、人類もこれによつて成つたが、コトバは「五十鈴」即ち五十音に展開し、それがイスラエル即ち五十鈴の川の流れであり、それが十二の分派となり、すべての民族と分れたが、凡ての民族が此の教へによつて救はれるのである、とさういふ意味が此の神示に示されてゐるのであります。別に何の民族が祖先であり、優秀であるといふ必要もないのであつて、すべての民族がこの教へによつて救はれるのであります。
「新天新地の神示」ご講義 謹写<終わり>
449
:
トキ
:2012/04/18(水) 20:52:13 ID:/sKPaFps
復興G様、すばらしいご投稿、ありがとうございました。『神ひとに語り給う』は特に最近、
入手が困難と聞いていますから、ご投稿は広く信徒にも有益だと思います。深く感謝申し上げます。
合掌 ありがとうございます
450
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/18(水) 21:12:53 ID:nNFoldc2
トキ様、
誌友会板が独立したら、貼付してください。
451
:
復興G
:2012/04/18(水) 21:23:01 ID:ojEbkDH2
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<1>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
万教帰一の神示
われに姿かたちあるやうに言ふものもあれどわれは姿なきものである。われは道である。われは霊性である。智慧である、愛である、生命である、われは如来である、われは一つにして多である。信仰深き諸方の霊覚者にわが神姿を示したることあれども、そはわが真の姿に非ず、見えたる神姿は霊覚者の心識の所現にも非ず。そは、われ神通力によつて、疑ふ者の蒙を啓かんがために、異る場所と異る人とに同じき一定の神姿を示して、神の客観的存在を実証したに過ぎない。されど、本来われに一定の神姿はない。如何なる姿も欲(おも)ひのままに現ずることが自由である。されば、嘗(かつ)てわれ汝に告げたのである『われに神殿は不要である』と。われは神殿がないとて身の入れ場所に困るやうな神ではない。供へ物も要らぬ。わが姿を見んと欲ふものは『生長の家』を読め。われは言葉である。吾が言葉を盛る雑誌こそ吾が神殿である。この雑誌がひろがるのこそわが神殿の大きくなることである。われにすがた形はない。われは霊の海である。大海原である。すべての宗教(おしへ)流れ来りて吾れに入らん。
吾れは完成する者である。われは『七つの燈台』に燈を点ずる者である。古道も、仏教も、キリスト教も、天理教も、金光教も、黒住教も、大本教も、すべての教我に流れ入りて生命を得ん。われは大(おほい)なるものなるかな。すべての教を呑吐(どんと)して、これに生命を与へ、すべての相争ふ教をその真髄に於て握手せしめる。吾れはすべてを包容し、すべてに光を与へ、すべてに栄養を与へ、すべてを生かす地下水である。他の如何なる宗教をも誹(そし)らず批(う)たず、常に讃頌(さんしょう)と、善き言葉とを雨ふらして、それを浄めその真髄に燈を点ずる。あらゆる宗教がその真髄を礼拝して手をつなぐやうにならねば此の現実世界の改造は完成せぬ。精神界が先きで現実界はその影である。元乱れて影完(まった)からず、宗教家よ、宗派争ひをしてゐる時ではない。 (昭和六年四月五日神示)
<つづく>
452
:
復興G
:2012/04/18(水) 21:24:29 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<2>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〔講義〕
本源の称は如何なるものか
「われに姿かたちあるやうに言ふものあれどわれは姿なきものである」と、神示にありますが、これは神様とは如何なるものであるかといふことを示してゐるのであります。「われ」といふのは神様御自身を指されたのであります。時々神の姿を見たと言ふ方がありますが、本源の神様には姿がないのであります。それを無相と謂(い)ひます。無相だからどんな相(すがた)もないのかと思ふと、無相であるからどんな相でも現ずることが自由であるのであります。だから、神は無相にして無限相であるといふのであります。現象界の相のあるものはさういふやうに自由に姿を変ずるわけにはゆかんのであります。姿がないからこそ何にもさはりになるものはない、姿が限定されません。姿が限定されませんからどんな姿にも現れられるのであります。ところが現象界のものは時間空間に限定されて形が各々異つて独特の姿をしてゐる。ところが、神様は姿かたちがないから無限の姿を持つてをられるのである。また姿がないから一定の形の宮や神殿の中にをらねばならぬことはないのです。それで「吾れに神殿は不要である」と書かれてゐて、神様のお宮や神殿みたいなものは宇宙の本体神たる生長の家の神様には要らぬことを示されたのであります。
既に古くからの誌友の人は御存じの方が多いと思ひますが、生長の家の「生」といふのは縦に生(の)びるといふ意味の文字であります。「長」といふのは横に「長く」延びる、即ち延長するといふことで横広がりの世界――「空間」を象徴してゐるのであります。縦につづいてゐるのが「時間」である。時間は縦に心の世界で象徴されるのであります。吾々のいのちを、お父さん、お祖父(じい)さん、曾祖父(ひいじい)さんと縦に遡つて行く。この遡つて行くのは時間的にさかのぼつてゆくのですね。吾々の現象的にあらはれてゐる生命の本質は「時間」の持続で出来てゐます。その時間を象徴するのに、何の某(なにがし)家の系図とか何とかいふ場合には、上から下へと縦に線を引いて、「時間」又は「いのち」の持続または継続をあらはすのであります。子孫から先祖に遡るといふ場合には下から上へと縦の線を引いて示します。かういふやうに、「時間」といふ観念は、吾々の心の世界で縦の連想を有(も)つてゐるので、それで縦の線を以つて仮りに時間を象徴的に表すのであります。
さて十字を描きますと、此の縦に生(の)びる線が「時間」にあたるので、これが生長の家の「生」であります。「生」といふ字は、樹木が無限に生びるといふ意味が表されてゐるのであります。楠でも杉の木でも老衰することなく無限にのびます。それで時間の無限持続を象徴して十字の縦の線があります。これは時間の無限持続――即ちつづきであります。それから「長」の方は空間的ひろがりであります。かうして十字は持続と広袤(こうぼう)――「つづき」と「ひろがり」――「時間」の続きと「空間」的広がりをあらはします。この「時間」と「空間」とが十字にまとまつて、天球(あま)となり「家」を成します。その「家」即ち宇宙を形成してゐるのが生長の家であります。ですから、大宇宙全体のことを生長の家と言ふのであります。そして「生長の家の神」といふのは大宇宙の神といふ意味であります。別に「生長の家」といふ一宗一派の本尊の神といふやうな他宗と対立するやうな神ではないのであります。
<つづく>
453
:
復興G
:2012/04/18(水) 21:25:39 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<3>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
宇宙の中に神様が生れたのではなく、神様の生命そのものの広がりが宇宙であります。
「吾れは智慧である、生命である、宇宙である」と「新天新地の神示」 中に書かれてありますが、宇宙そのものが神様であるわけです。天理教では神様のことを「月日」と書いてをりますが、月は陰であり、日は陽であります。「時間」の方は「生命」をあらはし、生命の本質は発動的でありますから、陽であります。「空間」の方は生命が展開するための「場」となるものでありまして、受ける方でありますから受動的で「陰」であります。「生命」が天降つて来て「場」に展開する、そこに秩序が生じます。これを智慧と言ひます。「生命」と、それを受ける「場」と言ひましたが、「場」そのものも、生命の展開でありますから、本来陰陽一体であり、月日本来一つであります。それで「月日」と書いて神をあらはすといふ訳であります。
さて其の神は「遍在」する、到る処に神が充満してゐるわけであります。日本神道では、「高天原に神つまります」といふ語で、天津祝詞(あまつのりと)も大祓祝詞(おほはらひのりと)も、始まつてゐるのであります。神道に於て高天原といふのは、↑縦線をもつて高く昇ることを象徴する「高」は時間であり、「原」は横線をもつて広がりを示す空間であります。時間と空間、「高」と「原」とが互に交叉して○(まる)く現れて「天」即ち天球を成してゐるのが「高天原」であります。だから大宇宙のことを神道では「高天原」と言ふ。天津祝詞で「高天原に神詰ります」といふのは、即ち宇宙全体に神様が充満してゐたまふといふ意味でありまして、これが即ち、キリスト教で「神は遍在である」といふところの教へに一致するのであります。神は遍在で、あまねく在(ましま)す、オムニプレゼント(omnipresent)であらせられる。神は何処にでもをられるといふので、「高天原――宇宙全体――に神つまります」と神道でいふのです。
キリスト教の真理も、神道の真理も同じことであります。クリスチャンが日本神道を評して偶像崇拝だなどと言ふのは間違であります。佛教で尽十方に佛様が充満してゐると説かれてゐるのもやつぱりおんなじ神は遍在だといふ真理であります。それで神示に「本統の神は霊媒には憑(かか)らぬ」とあるのも、霊媒にかかるのは個別霊でありますから普遍的ではない、普遍的根本神は霊媒にはかからぬのであります。だから神示には「われは此処に見よ、彼処(かしこ)に見よといふが如くにはゐないのである」と示されてゐるのであります。何処にでも到るところに、我の内に、すべての人のうちに、宿つてましますのが宇宙の大神であります。
<つづく>
454
:
復興G
:2012/04/18(水) 21:27:08 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<4>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
カミの語源について
神といふのは「幽(かす)かなる身」或ひは「隠れてゐる身」、さういふ意味から来てゐる語であります。或ひは、輝く光明の身といふ意味に於て「輝く身」といふ意味も含まれてをります。また尽十方に神通自在に身をあらはすといふ意味で、「翔(かけ)り身」といふ意味も含まれてゐます。神は姿形が隠れてゐる「光」であり、神通自在にして何処にでも姿を現すことが出来るといふ、さういふ色々の意味が「カミ」の語意には含まれてゐるのであります。「カミ」の「カ」が「隠れて見えない」といふ意味だといふことは一見コジツケみたいにきこえますけれども、コジツケではありません。
「カ」といふ語を考へて御覧なさい。“幽かな”とか“隠れてゐる”とか“風”とか“香”とか“霞”とか、皆かすかにして肉眼でハッキリ見えないことに「カ」がつく。影などといふのも全然影つてしまつて光がないと見えない。「かがやく」といふのは、あまり輝くものは、其処にあつても眩しくて幽かであつて見えません。「翔り身」なんかも、空飛ぶ円盤のやうにあまり速力早く翔るものは見えない。結局、「隠り身」「輝く身」「翔り身」といふ風に三つに説明できるけれども神通自在で、姿が見えないといふ意味を含んでをります。
さういふやうに、神様は姿形が見えずして遍在であり、宇宙到る処に、何処にでも充満してをられて、吾々の生命となつてをられるのであります。さういふ普遍の本体である神様には社や神殿は要らないわけであります。しかしながら、それだけが神様かといふと、さうぢやない。今申しましたのは第一義の神様であります。第一義といふと本来の意味に於てといふことです。第二義の神、第三義の神といふと、本来の意味から多少はなれて、副次的に第二義的、第三義的な意味に於て又別の神があるといふ意味であります。
第二義の神様と申しますと、第一義の神様――実相の神様――即ち宇宙に充ち満ちてをられて、姿かたちが見えない、無相にして無限の姿の本源の神様が、無限の姿の一つを化身として現されたものであります。例へば、観世音菩薩であるとか、白髪の老翁の姿をして多くの誌友の霊眼に生長の家の神様として現れられた神様といふやうな方であります。
ところが第三義の神様といふのは、簡単にいへば、霊魂即ち霊魂(みたま)の神であります。(幽霊とは霊魂でも神格を得ないで、迷つてゐるものですが)霊魂の神といふのは、幽体といふ体があつて、(物質ではない一種の幽質で出来てゐる「肉体と同じやうな形」の体(たい)と思へばよろしい。)靖国神社等に神としてお祀りしてあつて、神格を得てゐられる人間の霊魂であります。或ひは乃木神社には乃木希典公の霊魂がお祀りしてあるとか、或ひは東郷神社には東郷平八郎公の霊魂がお祀りしてある。護王神社に和気清麻呂公の霊魂がお祀りしてある。湊川神社には楠正成公の霊魂がお祀りしてある。生田神社に若姫君命がお祀りしてある。槵触(くしふる)神社には瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がお祀りしてある。その他色々あるけれどもこれらはみんな霊魂の神様です。
かういふ風な神様たちはこれは「第三義の神」であつて、個別霊即ち個々別々の霊魂であります。個別霊であるからそれぞれ個性がある、それぞれ職責が異ふ、性格が異ふ、受持が異ふわけで全能でない、從つて何でも彼でも、祈ればきいて下さるといふ訳には行かないのであります。広い意味に於ては、「霊魂(みたま)の神」も神様の中には入つてをりますけれども、「宇宙の大神」ではないのでありますが、宇宙の大神の一つの表現の中心として個性的に現れてゐられるといふことに於ては皆さんと同じであります。皆さんに個性があると同じやうに、神社に祀つてある神々にも、色々の個性があるわけであります。そしてそれぞれ司る処が異ふといふことになつてをります。
<つづく>
455
:
復興G
:2012/04/18(水) 21:28:00 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
(神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<5>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
大体霊魂の世界といふものは、吾々の世界と密接な関係があるのであります。私たちは肉体によつて物質の世界に生きてゐると同じやうに、霊体によつて霊魂の世界に交渉をもつてをります。其の霊魂の世界も、低い波長の霊魂の世界、高度の波長の霊魂の世界と色々あります。丁度NHKの第一放送の世界、第二放送の世界、或ひは文化放送、日本放送、ラジオ東京等各局放送の波の世界が二重三重に皆一つ処、今此処にあるでせう、それと同じ様に、霊魂の世界といふものが、肉眼には触れないけれども、二重三重にあるのです。そして、その二重三重の、その奥の奥の奥に、実相世界といふのがあつて、吾々は「本体」によつて実相世界に交渉をもつてゐる。実相世界は何処にあるかといふと、やつぱり此処にあるんです。現に私たちの実相(本体)は実相世界にをるのです。現に実在世界にをるのですけれども、感覚面には出て来ないのです。五官面には出て来ないけれども其処に私の本体は居るのです。
実相の世界とは
霊界と一と口に申しますけれども、一番深奥にある実在の世界は実相の世界でありまして、これが第一義の世界であります。其処は天国浄土といはうか、極樂といはうか、龍宮といはうか、名前の附け方は色々ありますが、兎も角既に完全円満に成就せる世界であります。キリストが「御意(みこころ)の天に成る如く、地にも成らせ給へ」と言はれたやうに、「既に天に成る」さういふ世界が実在してゐる。
「天」といふのは、実相の世界――実の相(すがた)の世界であつて、永遠に滅びないところの世界である。それが此処にあるのであります。或ひは佛教では何といひますか、「空」ですね。「色即是空、空即是色」といふ「真空」ですね。「真空妙有」の世界ですね。或ひは禅に於ける「無」ですね。「無」といつても、「有」と相対する「無」ではなくて、一切のものが無相にして其処に無限を包藏する「無」ですから、「相対無」でなくて「絶対無」ですね。さういふ世界があつて、それが実相の世界で、これが「本体界」であつて、「吾々の本体」が生活してをります。
その次は霊魂界ですが、霊魂界を二つに別ければ「霊界」と「幽界」との二つになります。幽界はまだ悟りをひらかぬ霊の世界、霊界は稍々(やや)悟りをひらいた霊の世界であります。
(後略)
<万教帰一の神示 ご講義 謹写終わり>
456
:
志恩
:2012/04/18(水) 21:57:16 ID:.QY5jUA6
復興G様
「神ひとに語り給う」、これは、深いご講義が書かれてあるのですよね。
今、プリントアウトさせて頂きました。
アマゾンコムを見ましたら、中古本で、9、980円もしていました。
高くて買えません。
確か、昔、私も持っていましたが、また貸ししたりして、無いのか、今は手元にありませんでした。
457
:
ももんが《宗教・歴史篇》
:2012/04/18(水) 22:09:34 ID:XXCuaQns
〜ユダの福音書〜《再投稿》
『キリスト教グノーシス派』の福音書の『ユダの福音書』です。
ある意味、”光明思想“に良く似てとこもあります。
大変、面白い、『福音書』です。
神の解釈が、面白いので、是非御覧になって、下さい。
①
http://m.youtube.com/watch?guid=ON&gl=JP&hl=ja&client=mv-google&v=KTO3zHGIDCY
②
http://m.youtube.com/watch?guid=ON&gl=JP&hl=ja&client=mv-google&v=g0C0DSb4Gu4
では、一つの歴学として、御覧ください。
合掌、拝。
458
:
a hope
:2012/04/19(木) 09:04:14 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
悪いところへ自然に手が行く
神想感を一か月も或いはそれ以上も続いて稽古なさった人が病人を揉んであげたりすると、自然にその手が相手の病気のところ、凝りのところに触れて行って、その凝りを解してあげるように手が自然に動いて来て、柔らかく揉んだり強く捻ったりあるいは急所(つぼ)を押さえたりすることがあります。神想観をした後で、「お母様の肩を揉んであげたい、どうぞお母さま肩の凝りの治るように自然に手を動かして揉ましてください」と念じてやると、たいていの皆さまでもそれができるようでありましょう。
そういうふうな事がどうして起こるかというと、人間の生命(いのち)は自他一体―――即ち、どの人間も神の生命に生かされていて元は一つという根本原理からくるのであります。人と吾とが別ものでありましたならば、決してこちらの手が、見えもしない向こう様の悪いところへ自然にゆくなどということはあり得ようがないのです。
眼で見てここが悪いのであるとか、聴診器を当てて見てここが悪いのだと指さすことなら誰にもできるのでありますが、そんな道具も何も使わないで、ただ神想観をして自他一体の観念を深めてから、人に手を触れて、「この人の病気を治して上げたいナ」という気持ちを起こしますと、自然とその病患部(びょうきのところ)に掌が吸いつけられるようにゆくのでありますが、これは皆さんが神想観をよく稽古してからおやりになれば判りますが、電気療法とか、生気術とか、指圧療法とかをお習いになった人でもできる人があります。
その時に掌が病気のところへ吸寄せられるような感じのする人もありますが、何の感じもなしに自然と何となしにそこへ手をやりたいという気持で、掌がその病患部へゆく人もあります。いずれにせよ、これは要するに相手と自分とが本来一つのものであるから、眼で見ず機械で測らずして悪いところが判るのであります。
この現象をもっと人間の身体と身体との触合(ふれあい)以上に広く考えて行きますと、機械の取扱い方や、鉱山の採掘や、経済界の問題などにも、ここをこうやればよくなるということが判るようになるのであります。もう少し放って置けば大故障の起こるというときに、何となくそこへ行きたくなってその故障を未然に防いだり、何となく前の晩に読みたくなったものが明くる日の試験に出ているなどはそれであります。
「この人を治してあげたいナ」と思って、そこへ手がゆくということを経済界でいいますと、「私の所で金が要る」」という事になっていると、そこに自然に金のある人が「お金を出してやろう」という気持ちになって自分のところへ振向いてきてくれるのも同じであります。
自然に故障のあるところに救いの手がいって治そうとしているのが「神」の働き、「全体の生命」の働きであります。この「全体の生命」のお助けを受けることができないのは、それは自分が「全体の生命」から離れている―――言い換えると自他一体の観念が欠乏していて、自分と他(ひと)とは別ものだとはっきりと自分と全体を区別し過ぎて、我と我が心で仕切りを拵(こしら)えているからであります。
言い換えるとその人が利己主義なのです。世の中が都合よくゆかないという人は、たいていこういう自分と他とを区別し過ぎた利己主義の人であります。自分の心の中に、彼と我とは他人であって、眼で見える通り物質的肉体によって分かれておる。人間というものはこれだけの一メートル数十センチの丈と数十キログラムの重量の肉体であるに過ぎない―――こう考えて「彼」と「我」とはすっかり物質的に別々で何等の連絡もないものだという心で仕切りをつけると、こちらの心で仕切りをつけていますから、こちらの必要な時に向こうからも誰からも助けてくれないのであります。
そして私は「運が悪い」と、ぶつぶつ言うのであります。「全体の生命」の助けが、我々を助けるやめに誰かを寄越そうとしても、自分の心が邪魔をしていてそうさせないのです。ちょうど、太陽の光は煌々と照り輝いても、私達が目をつぶっていれば、光は眼には入らないとおなじように、自他一体―――全体の命は一体―――の事実があっても、それを目をつぶって人間は別々なものだという観念を持っていると、自分の欠乏しているものを他から自然と補っていただく作用(はたらき)が出てこないのであります。
ところが神想観を実修し、『生命の実相』を十分お読みになりまして、「自分と「他」とが一体であり、「全体の生命」によって繋がっているという事が分かってまいりますと、病気の患部(わるいところ)へ自然に手がゆくように、経済界においても足りないところへ自然と他の手が届いて助けていただけるようになるのであります。
(つづく)
459
:
ハマナス
:2012/04/19(木) 09:34:08 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。皆様にとって神様の法悦に満たされた一日でありますように。
必勝の力 (『新版 生活の智慧365章』P.131)
悲しみの来るとき、孤独感におそわれたとき、心を神に振り向けよ。神はつねにあなたの愛人であり、
最も愛ふかき慰め手であるのである。実際、変化常なき現象界の出来事に振り廻されて一喜一憂して
いるような状態に於ては、本当に魂の休まるときは来ないのである。魂の本当の平和は、移り変わら
ないもの、永遠に信頼できるものに倚り頼り、母の手にまかせ切った赤ん坊のような心持になった時
にのみ得られるのである。
野球の打者が“三度振り”をしたからとて、相手の投手が悪いのでも、野球の開催者が悪いのでも
ないのである。自分が人生で面白くない点数しかあげ得ないからとて、人生そのものを呪ったり、
対人関係を呪ったりする理由は決してないのである。自分をさえ研けば、点数を沢山あげることも出来るし、
人生の勝者となることが出来るのである。弱い相手とのみ試合して「勝てる」と自負していて、強い相手と
試合して零敗するようでは何の価値もないのである。強敵と常に試合し、困難と常に打ち闘うことによって
その人は、如何なる相手とも互角に立ち向かう力が養われるのである。そして困難に立ち向かうとき、自己
の内に宿る“常に敵二倍力”の神を呼ぶことを忘れてはならない。
感謝合掌
460
:
SAKURA
:2012/04/19(木) 22:14:30 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…
ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。
今日は遅くなりましたが…毎日、此の“書物”を開きます時〜〜
「神様!お願いします」と〜〜不思議なのですが?“ピッタリ”した【答…】?
【課題…】が出て来ます…。勿論!この書籍は続きものでしょうが…
これは「雅春先生の書物」の中で…この本を開いて「人生行路の羅針盤」にと、
記載してありました。それから、【オ−プン 】します様になりまして、
“ピッタリ”した【神事…】を頂く事になりました。すご〜〜イ!!!
それでは…始めます【スタ−ト】
■【幸福を招く365章】
―――神の子の自覚は現状満足ではない―――
自分だって、自分自身は気がつかぬけれども、他の人に対して不快な思いをさせたことが
度々あるのである。考えて見れば他を責める資格など自分にはないのである。
——— 斯う気がついたとき却って自分の心が平安になるのである。神は謙れる者に
来り給うて其人を平安に護りたまうのである。人間神の子の自覚は、現在の自分は、
まだまだ内在の神性が完全に発現していないと云う自己反省に裏づけられるのである。
だから「神に救われている」と云う自覚は、奇しくも「罪悪深重の凡夫」と裏表である。
(谷口雅春著)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。
■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2
>>278
です!!!
461
:
金木犀
:2012/04/19(木) 23:09:36 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第一章 宇宙及び人間の創造について」の一部(4)
“わたし”は創造者である。全てのものをアイディアによって創造したのである。アイディアは現象界の一切の形に先行する形である。それは“心でつくった形”である。それを人間たちは想念とか観念とか呼んでいる。ともかく“わたし”は“生命”であるからジッとしていることはない。必ず動く。必ず動くけれども物質のように無目的でうごくのではないのである。智慧によって動き、愛によって動く。わが動くところ必ず、智慧による計画があり、愛による結びがあり、生命による“生かす”はたらきがある。そこに生物が出現するのである。
何事によらず、“わたし”の生命の動きがなければ何物も創造されることはない。すべて真に存在するものは、“わたし”の創造である。“わたし”の生命が動けば必ず智慧がはたらき出す。生命と智慧とは一体であるからだ。智慧は生命から離れて独立するものではない。しかもその智慧は愛から離れて独立するものではない。本当の智慧は愛を完(まっと)うするようにはたらく。愛を完うするように働かない智慧は智慧ではなくて、知識の樹の果である。それは蛇に瞞されて、本当の智慧から脱線して物質に幸福ありと思う“ニセモノの知恵”である。そのような“ニセモノの知恵”は生命を尊重するよりも物質を獲得するようにはたらく。そのような“ニセモノの知恵”は魂の愛を獲得するより肉体の快楽を得ようとするようにはたらく。そして結局はエデンの楽園から追放せられるのである。
◯
“わたし”は“思う”ということによって一切のものを造った。“思う”ということは、生命が或るアイディアを発動さすことである。名人が銃弾を発射すれば必ず“的”に命中する。銃弾は、あるエネルギーを持っており、そのエネルギーは“心”の狙いによってその動きが統制せられているのである。生命から発動したエネルギーは、アイディアによって統制され、その動く方向を決定せられることになって、そのアイディアの姿を具体化することになるのである。それゆえにあなたの運命は、あなた自身の発するアイディアの形をとるのである。あなたの運命を、神から強制的に課せられた宿命的なものだと考えては間違いである。あなたの運命はあなた自身の発想したアイディアが決定するのである。
462
:
さくら
:2012/04/20(金) 08:00:47 ID:tPVxKQcE
おはようございます。
「聖道へ」
谷口雅春先生著
はしがき
本書はわたしの青年時代の人生論である。この十一月二十二日に
わたしが満八十歳の誕生日を迎へるに臨んで、初心に帰りたいつ
もりで、この『聖道へ』を読み返して見て、その解説を「生長の
家」誌の新年号に書いてたのであつた。この論文集には生長の家
の信仰と思想とが創かれて来た最初のわたしの心が書かれてゐる
ので、生長の家の信仰と思想の淵源に遡つて、その新鮮な蕾の将
にひらかうとするやうな若々しい純粋な、ひた向きな求道精神を
汲んでみたいと思はれる方には是非読んで頂かねばならぬ書である。
キリストが再臨して天変地変による最後の審判が将に下されん
とする瞬刻限が今だと、その危機を説いた大本教にゐて、その神
の審判に耐へるやうな純粋な清浄な人間になりたいと、ひたすら
心身の浄化につとめた青年時代から、その神罰を起す残酷な神に
つひに疑ひをいだいて大本教を脱退して、至高の愛の神を求めて、
一燈園を訪ねてその尊い、”懺悔の生活”に共感し、更にそれを
契機として維摩経に触れ、つひに現世を無明縁起の世界として、
物質の否定、肉体の否定を通して實相のみ独在するといふ現在の
生長の家の思想と信仰に到達した其の真理入門の道程が、本書に
は録されてゐるのである。詳しい解説は本書の巻末に収録した今
年の「生長の家」新年号ものした法語に述べてあるから、本文と
対照しながら読んで頂くことにしたいと思ふ。共版の序文及びそ
のころ西田香師が書いて下さつた本書推薦の序文も。そのまま残
しておくことにした。
昭和四十八年十一月
著者しるす
463
:
ハマナス
:2012/04/20(金) 08:24:58 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。皆様にとって、素晴らしい一日でありますように。
真珠は深海の底にある (『新版 生活の智慧365章』P.132)
悲しみの奥には聖地がある。悲しみに溺るること勿れ。悲しみの彼方に見ゆる聖地に
希望をもてよ。高価なるダイヤモンドは地殻の底に深く秘められ、高貴なる真珠は深海
の底に貝殻をもって秘められている。外の地殻や貝殻を見て、その奥に秘められてある
高貴な宝を見失ってはならないのである。今ある困難は最後の「光輝」を発見するための
坑内掘削工事だと見ればよいのである。
すべての悩みを神からの神罰又は仏陀からの仏だと考えてはならないものである。
通行すべからざる車道を人間が通行したためにトラックに撥ねられて死傷するのは神罰でも
仏罰でもない、法則に違反し、法則に触れたからである。これは交通条例と云う法則に違反し、
人間が歩くべからざる道を歩いたために肉体と云う柔らかい物質がトラックと云う鋼鉄車に
衝突すれば、柔らかい物質の方がくだけると云う物質の法則に触れたのである。
それと同じく“心の法則”と云うものがあり、その“心の法則”に違反して触れると法則に
よって傷つくのである。その傷つきによって今後、法則に触れないようにすれば、幸福と
健康との聖地を見出すのである。
感謝合掌
464
:
a hope
:2012/04/20(金) 09:29:53 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
ケチをつける心は卑怯な心
ところがこの自他一体の観念の少ない人は利己主義になるのでありますが、利己主義になってまいりますと、自分が偉くなるためには人を貶さなければ偉くなれないという気持ちがしてくるのであります。
自分が八十点ならば他を七十点にし、六十点にしなければ自分が偉く感じられない事になって人を嫉妬するようになります。金持ちを見れば癪に触るし、自分より点数の多い学生は憎らしいし、自分より収入の多い社員には腹が立つ。そういう嫉妬を起こす心になると、自分の心が苦しい上に自分が立身出世できないのです。他が八十点なら自分は九十点になろうと努力する人なら偉くなるけれども、そんな気持ちでなしに相手の点数にケチをつけてやろうと思って悪口を言うようになったら、人間はもう駄目であります。
生長の家が他の宗教から一時悪口を言われたのも、やはりこれは、生長の家があまり良いために他の宗教から嫉妬されたのであります。伊藤証信さんなども言っておられましたが、他の宗教が生長の家に反対したりするのは、生長の家が本当に邪教(わるいおしえ)であって、なんの力のないものなら反対しないのであります。本当に邪教なら放っておいても、値打ちのないことが誰にも自然に分かるから反対しないでも潰れてしまうのですから、反対する必要がない。
ところが生長の家の教えは釈迦の教えと同じものである。またキリストの教えと同じ真理を説いている。同じものであるがもう一つ生き生きとして説いているから、このように力のあるものが現れたら、もしかしたら自分の方が負けることになるかも知れぬ、そういう恐怖心から予防のために悪口をおっしゃるのであります。
或る誌友の集会にお坊様が出席して、「生長の家は邪教であるから止めなさい」といろいろ悪口をおっしゃいましたところ、誌友はじっとそれを聞いていましたが、そのうちの一人が立って「ただ今たいへん生長の家の悪口をおっしゃいましたが、生長の家では仏教に対してもキリスト教に対しても少しも悪口を言うのを聞いたことはありません。ただ生長の家はみんなを誉め讃えているばかりですから邪教とは思えません」といいましたので、そのお坊さんは赤面したということであります。
自分をえらく見せるためには人を貶さなければ偉く見えないということでは実にあさましいことであって、争いはそこから起こって来るのであります。生長の家の生き方では決して何物をも貶さない、どなたの悪口も言わないという事が生長の家の生き方になっているのであります。それどころか誰かに対してもその美点を見つけ出して賞めるのであります。
(つづく)
465
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:35:18 ID:ojEbkDH2
<第二回 W E B 誌 友 会>が
●日時:4月28日(土)21:30〜
●テキスト:『生命の實相』第一巻 「七つの光明宣言」
●場所:「部室2」板
にて開催されます。その参考資料として、谷口雅春著作集第4巻 『實相と現象』 より、
『「七つの光明宣言」解義』(p.85〜147)を謹写し、20回に分けて投稿させていただきます。
私はこの聖典ご文章謹写中に、二度、涙がこみ上げるのを押さえることが出来ませんでした。……
皆様、ぜひご拝読、心読、霊読、体読くださいませ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
谷口雅春著作集第4巻『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(1)
“七つの光明宣言”とは何か
“七つの光明宣言”というのは生長の家が発祥した最初に、生長の家は何のためにこの世に出現したものであるか、その目的及び理想並びに使命とするところを七ヵ条に分けて宣言したものであります。その“七つの光明宣言”の解説は、『生命の實相』の第一巻の三ページからずーっと載っているのでありますが、あらためて皆さんの前で直接解説する機会を得まして嬉しく思います。先ず冒頭に、
吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんこと期す
と書いてあるのが第一ヵ条であります。
生命の起源に就いて
生命と生命の実相の話につきまして、この人間の“本体”は単なる物質ではないのでありまして“生命”そのものなのであります。しかし唯物論者に言わせますと“生命”というものは、物質がなにか微妙に集まって生命現象というものが出てくるのである――とこういうふうに普通考えられているのであります。
たとえばソ連のオパーリンという生物学者が、『生命の起源』という本を書いておりますが、それには、最初に何か物質が偶然に集まって、太陽の光を受けて、光合成の化学作用がそこに起って、そして原始的な一種の蛋白質であるアミノ酸というものが出来た。そのアミノ酸というものは生物だけが造るものであって、そういう生物の成分であるものが自然の化合によって起ってくることがあるから、それが生命の起源である。という様な書き方をしているのであります。
しかしながら、いくらアミノ酸ができても、それは“生命”の起源ではないのであって、それは“生命”が“排泄”したところの一つの物質、あるいは生命が“生産”したところの物質であって、“生命”というものは物質を超えたものであります。
実験室で人工受精した人間の卵は?
ある生物学者が、人間の卵を人体の中でなしに実験室で人工受精した。人工受精すると一つの卵が二つになり、二つが四つになり、四つが八つになり、八つが十六になるという具合に分裂して数多く増えて行くのであります。するとその人間の“卵”が“人間”になるかというと“人間”にならなかったのであります。三十二代までは分裂増殖させたのですけれどもそれ以上はできなかったというのであります。
もっと分裂増殖を重ねて行きまして、その卵細胞が百兆になりましても、その分裂した卵が人間の姿に如何にして適当なる位置に排列せしめられて、この複雑きわまる人体組織となるか、という事が問題になるわけであります。アミノ酸がいくらできても、そのアミノ酸の分子がどのように排列せられて細胞となりその一個一個の細胞が人間の姿に列ぶのにはどうして列ぶかという事が問題なのです。
物質には“知性”がない。“知性”即ち“心の働”がない。だからどういう形に列(なら)んだら、これが血液を送るポンプ作用をするところの心臓の構造になり得るか。あるいは心臓から出てきている血液を濾過して、本当の良い血液と、尿になるところの老廃物とを分ける腎臓のような装置を、どの様にこしらえたらできるかという事、そのような事は、知性のない考える力のない物質そのものが勝手に集まって造る事によっては決してできないはずであります。
<つづく>
466
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:37:28 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(2)
人間が出来るには人間の“設計”即ち“理念”が要る
単に細胞がいくら増えても必ずしも人間にはならない。人間の形になるには「人間」にならせるところの“理念”又は“設計”がなければならない。ある細胞が増えて、その細胞が色々の形に排列されれば、色々の生物になる。猿になるものもあれば、犬になるのもあるし、また豚になるのもある。何がその細胞群を豚の形に列べるか。何がその細胞群を犬の形に列べるか。その“何が”という事、“主格”になるところの本体、それが問題であるわけです。
アミノ酸のような物質は、ただ生命がこしらえた生産物にすぎない。その生産物を材料として、どういう形又は構造に列べるかというのは、そこにその形にならせるところの設計又は精神的原型がなければならないのであります。その精神的原型を“理念”というのであります。
“理念”というのは、心の世界に出来た原型とでもいうべきところのものであります。原型というと、物質の型みたいに受取れるかも知れませんが、「生命」を“本質”としてそれに“叡智”のはたらきが加わって、生命それみずからが一定の人間の姿をあらわした霊的実在でありまして、それが「本当の人間」なのであります。
皆さんの中には、この「人間」というものは、物質がただ単に集まってできた肉体であると思う人があるかも知れませぬけれども、肉体は「精神的原型」に肖(に)せてつくられた「人間」の皮袋に過ぎないのであります。
物質の建物のできる迄に心の世界にその建物はできる
今申しましたように、物質が“ある形”に集まる為にはその形の設計になるべきところの心の世界にある“型”というものが無ければその物質の分子が一定の豚なら豚の形に、犬なら犬の形に、猿なら猿の形に列ぶわけにはいかんわけなのであります。
たとえばコンクリートが小さい分子として存在するのが、それが建物になる為には、建物の模型となるべきところの設計が心の世界に造られて、それが鉄筋なら鉄筋を柱として、コンクリートの分子がその上に設計通りに列べられて建物がつくられてゆくわけであります。即ち鉄筋の形の奥に、まだ「精神の鉄筋」とも謂うべき、精神の原型(設計)があって、その原型通りにセメントの分子が列べられて建物がつくられるのと同じように、吾々の肉体も、その成分たる分子が、精神的原型の形に列べられてはじめて人間となるわけであります。
人間の生命の本質を礼拝すること
人間の精神的型を「理念の人間」というのであります。「理念の人間」が「本当の人間」であって、それは「生命」を本質として叡智によってつくられたものでありますから、この本の四ページには、人間を「生命」として取り扱い次のように書かれているのであります。「そこでわれわれが『生命』を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝むことになるのであります。自分自身が尊い『生命』であるとの自覚がすべての道徳生活の根本になるのであります」
「生命」という言葉を使いますと、なにか抽象的なただ「生きるエネルギー」というような感じを与えるのでありますけれども、そういう漠然とした「生命力」というよりも、ちゃんと“一定の形”を持った、“精神的原型”という意味での「理念」という語を使う方が尚いっそう適当であると思うのであります。
<つづく>
467
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:38:27 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(3)
“霊”は形がないのではない“無相の相”がある
旧約聖書の創世記に、神様が、全てのものをお造りになりまして、最後に人間をお造りになりまして「生めよ殖えよ、地に満てよ、これを従わせよ」こうおおせられましたとあります。そして人間を造る時「神その像(かたち)の如くに人を創造(つく)り給えり。即ち神の像の如くに之を造り、これを男と女に創造りたまえり」と、こういうふうに書かれているのであります。
神様は“霊”であって、霊的な存在である。しかし“霊”というと、やはり“生命”という言葉と似て一種の抽象的な漠然としたような存在の如く考えるのでありますけれども、決して“霊”といっても“生命”といっても漠然としたものではないのであって確固とした理念的存在なのであります。
ただそれは、肉眼に見えないから、肉眼の方からいうと、それは無形のものである。だから、それを“無相”という。それは、肉眼に見える形ではないから、“無相”だけれども、その“無相”の中に“無限の相”を蔵している。これを「無相にして無限相」という。無限種類の原型が“無相”の中に蔵されていて、それが肉眼に見える形となって現れるのです。
その“精神的原型”が“理念”であって、人間に於いては、その“人間”の“理念”の形に、眼が二つあり、その眼は横に切れており、鼻が顔の中央に縦に通り、その下に口が横についているからこそ、その設計の通りに、肉体人間は横目縦鼻(おうもくじゆうび)にあらわれているのです。
ところが根本的設計は同じでありながら皆な人相が違う。人は全部顔の感じが違うのです。実にこれは驚くべきものであります。簡単に目が横に二つつき、鼻が縦につき横に口がついていて、皆形が同じくせに、各人は全然、顔の感じが異う、雰囲気が異う。それは何故であるか。
それは皆さんの生命の内容というものが、単なる漠然とした、「生きるエネルギー」という様なものではなくて、“心の世界”に或る“精神的原型”を持った、「個性ある生命」であるからであります。「個性ある理念をもった生命」それが「本当の人間」であるわけであります。
皆さんは、皆、横目縦鼻の人間でありながら皆異なる顔をしている。それは皆さんの精神的原型の内容が悉く違うからなのです。神様は無限でありますから、無限の理念を内に持っておられて、そして無限の精神的原型を人間として現しておられるから皆顔が異うわけです。私は人間の顔を見るたび毎に、すべて人相が異なるので、神の無限さに驚嘆し、神秘の感じに打たれるのであります。
何故、母から出た子の血液型が母と異なるか
世界的に有名な血液型の専門家の古畑医学博士の研究によりますと、血液型には、A型、B型、AB型、O型とかいう風に大きく分けられているけれども、細かく検討すると、全部人間の人相の異うだけ血液型も異うということであります。しかも母親の血液型とその母の生んだ子供の血液型とが異なったりするのであります。
赤ん坊は、母親のお腹の中では臍(へそ)の緒を通して、母親の血液が胎児に循環して、その血液によって搬ばれている養分によって養われ成長して行くのであります。だから母親の血液が循環して成長してゆくところの子供であるから、母親と同一の血液型であるかと思うと、そうではない。単に唯物論的に考えたら、母親の血液が送られ、その血液が循環して成長した子供なんだから同じ物質的成分の続きとして母と子は同じ血液型であるべきはずであります。
ところが、そのお母さんと全然ちがう血液型を持っている子供が随分沢山ある訳でありますから、母と子は単なる物質の続きでないことが分かるのです。すなわち血液型というのは血液の人相みたいなものであってその人独特のものであり、その人独得の精神内容型をあらわしているのであります。
<つづく>
468
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:39:07 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(4)
皆さんの生命は結局神様から天降って来たところの独特の個性を持ったところの「神の子」なるもの、独特の“精神的原型”(理念)を持って天降ってきたところの“生命”であるということができるのであります。そしてその本源はことごとく神様から天降って来ているのでありますから、それを「神の子」というわけであります。
ですから人間は、単に“親”と“子”とが、親の男性物質と女性物質とが集まって物質的にただ結合したものでなく、“神の子”なる個性ある霊的内容をもっていて、肉体はその内容なる個性の表現であります。だから同じ親から生れた兄弟姉妹は、唯物論的に考えたら皆同じ血液型でなければならないものが兄弟姉妹皆血液型が違い、又母親とも血液型が違うような姿が出て来るのであります。
このように皆さんは神様から天降って来た、独特の精神的原型(理念)を持っているところの生命でありますから、その生命を吾々はみな、「神の子」として礼拝するというのであります。
宗派を超越し万教帰一と称する理由
さて、この第一ヵ条には、生長の家は宗派を超越すると宣言されているのでありまして、決して一宗一派の宗教ではないのであります。この万教帰一ということは、凡そ数百年もつづいて尚ほろびない宗教には、その滅びない訳がある。
それは人間を救う真理が、それらの宗教には金線として一本ズーッと通っている、その一本ズーッと通っている真理のみを純粋に押し出したら、万教はすべて一つの真理に帰一するのであって、各々異なる教義の宗教だと見えるのは、その宗教出現の時代の常識や知識の程度に従った夾雑物がまじっているからである。その夾雑物を取り除いて純粋の真理化すれば、みな同一の真理となる――それは恰も世界の何処の金鉱で採取した鉱石も鉱石だけを見れば皆品質がちがうけれども、その夾雑物を取除いて純金にすれば皆同じ“金”になるのと同じだと言うのであります。
生長の家は創価学会の様に「あらゆる宗教は邪教である。大石寺にある『楠の板』を本尊として拝む日蓮正宗だけが正しいのである」というような「物」を拝む宗教ではないのであります。「物」を拝むと拝物宗教になります。「物」には全然同じ物は世の中に一つもありませんから、自然に他教排斥になるのであります。
生長の家は民族の文化的遺産を尊敬する
生長の家は全ての過去の文化的遺産というものを尊敬する。人類の文化的遺産というものは、全て今言いました生命が此の地上に生れて、生み出して来たところのものでありますから、それを尊敬しなければならない。これは生命を尊敬するという根本的な立場から自らそうなって来るのであります。
そして吾々の祖先――祖先として生れた生命達――が、努力をして築き上げて来たところの全ての文化的遺産に対して尊敬を払って、それを無闇に否定してしまわないのであります。ですから皆さんの祖先が或る宗教を築き上げて、それによって祖先の魂が或る“安心”を得、ある程度まで救われたということは、それは確かに立派なことであって、その築き上げたところの宗教の中には必ず立派な真理が宿っている訳なのであります。すなわちそれには「真理」が宿っている。人間の魂がそれに触れると、喜びを得、安心を得、そして生き甲斐を感ずる様な真理が色々の立派な宗教には必ず宿っているのでありまして、吾々の祖先はそれを信じて来たのであります。
<つづく>
469
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:39:56 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(5)
ところがそれらの宗教の教がその時代を過ぎて次から次へと伝わっている間に段々と歪んで来る。そしてその一番最初の教祖の発見したところの真理と言うものが埋没されて埃(ほこり)につつまれて、本当の姿を現さなくなっているのが現代の多くの宗教の現状である訳であります。そこでそれらの宗教の神髄を埋めて覆い隠している埃をきれいに払って、「あなたの祖先の宗教の奥にはこう言うような立派な真理があるのですよ」と、こういうように示してあげるのが生長の家の宗教である訳であります。
“七つの燈台の点燈者”という意味
それですから生長の家の教は「七つの燈台に燈を点ずる者」と呼ばれている。「燈台」というのは「世を照らす光」即ち宗教の象徴であります。宗教は世を照らす光として、その光を水先案内として人生の航路を歩んで行けば暗礁に乗り上げる事もないし、本当の正しい行くべき港に着くことが出来るのである。
そういう真理の光が、祖先の時代から宗教という燈台に点(つ)いておったんだけれども、月日がたつにつれて年代を経るにつれて、その燈台の窓硝子が煙霧で曇ってしまって、光を放たぬ様に成ってしまっている。その燈台の窓硝子を綺麗に拭いて輝くようにしてあげるというのが生長の家の宗教であります。それで、今までの“祖先の宗教”+“生長の家”ということにした時に初めて祖先の宗教が光を放って来る訳であります。
生長の家に触れなかったら埋没されたままで、光を放つことなく、単なる葬式だけを営む宗教になっていた宗教が多かったのでありまして、家族の誰かが死んだ時にお坊さんを呼んで来て拝んでもらうのが何宗という宗教だと云うような、そういう単なる“葬式宗教”になってしまっておった眠れる宗教が生長の家に触れると、光を放って、“祖先の宗教”のまま改宗しないで素晴しい功徳を得ると云う事になるわけであります。
無限の内容を内に蔵する人間の生命
さて、吾々の生命は、神の生命が天降って来たものでありますから、私たちの生命の内には無限の内容を持っているのであります。無限の内容、無限の可能性、無限の力、無限の美しさを内部に持っているのであります。けれどもそれが現象界に現れて来るのには、時間的に一定の順序を追って、「段々生長して来る」という形において現れて来るのであります。それが次の“七つの光明宣言”の第二ヵ条であります。
吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ、個人に宿る生命も不死なりと信ず。
すなわち、生命が現象界に現れることを「生命顕現」と、ここには表現されているのであります。生命が顕現してくるには一定の法則を通して“無限生長”という姿を持って出て来るわけであります。それはちょうどあの映画の物語の過去・現在・未来が、ひと握りの渦巻形フィルムの中にこういうふうに巻き収められている。(図を黒板に書いて)この中には過去・未来・現在が一握りの中にあるのであります。映画のフィルムは時間・空間を超えた実相の世界のたとえであります。つまり過去・現在・未来がそのまま「超次元」の中に握られている訳であります。
それが現象世界に現れてくるとき一駒一駒がこういう具合に段々巻きもどされて出てきて、レンズがあって、光がこう来てレンズで屈折して空間的にひろがりを生じて、銀幕にうつるという事になるのであります。フィルムが展開するに従って(図で説明しながら)段々現在が出てきて、それがやがて過去になり、そして未来のひとこまが新らしく出て来て現在となる、というように、時間的流れというものに従って、超次元の世界に本来ある“過去・現在・未来”が悉く順序を通して出て来るというようになるのであります。
それは丁度種をまいたら、種の中にその植物の「過去・現在・未来」がもうすでにあるわけなのが、それが植物の発芽、若葉、茎の生長、蕾(つぼみ)の出現という風に出て来るようなものであります。
<つづく>
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