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聖典引用 板
470
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:41:10 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(6)
朝顔の花にたとえて理念が現象化することを説明する
よく私は、この真理を説明するのに、朝顔にたとえることがあるのですが、朝顔の種を播いたら、その種の中に、植物の「過去・現在・未来」が既にあるのですが、併しその種の中にある「理念」というものは、現象界の“時間・空間”を超えた世界でありますから、顕微鏡で見ても見えない。顕微鏡は時間空間の縦横厚みの世界のものだけを拡大して見るのだから、種の奥の奥にあるところの縦横厚み以前の、奥にあるところの“朝顔の花”の形というものは顕微鏡で見ても解らないのであります。
けれどもその種が発芽して段々と蔓(つる)が出てきて、蕾ができて葉が出て花が咲くと、その花は朝顔の花になり朝顔の種が出来る。それはその種の中に既に必ず朝顔の花となり、実を結ぶべき原型があるからであります。
さっき言いました人間の人相が皆異うのと同じように、朝顔なら朝顔、赤い花の朝顔になる種は、必ず赤い花の朝顔になるべき精神的原型が、その種の中の超次元世界にあって、それが現象界に一駒一駒あらわれて、それが段々生長する姿となり、そして蕾の形に生長し、さらに蕾が大きくなって花咲くという形に生長してくる。これがす.なわち「生命顕現の法則は無限生長なり」ということであります。
ところがそれが生長して実を結んだら、その朝顔は枯れてしまう。その朝顔が枯れてしまったら、朝顔の生命は終りかと思ったら、終りではないのであって、そこにちゃんと次の年に播かれたら、そこから又同じ朝顔の花の形の出てくる「原型」がそこに種を契機とした超次元界にあるわけです。すなわち朝顔の花の精神的原型――理念なるものがそこにあるわけです。
だから、現象の朝顔に宿っている朝顔の生命も種の中にある朝顔の生命(いのち)も、それは朝顔の花の形が死ぬとともに死ぬのではない、常に超次元の世界に保存されている訳です。個人内に宿っているところの生命もやはり永遠不滅の生命であって、肉体が死んでも死する訳ではない、また生れ変ってくるのであります。それですから、皆さんの生命は幾度でも生れ変って、それを繰返す毎に無限に生長しているのであります。
人間は“生れ変り”を続けて魂が無限に生長する
ヘンリー・フォードとトラインというアメリカの光明思想家の会話の本の中には、こういうことが書いてあります。
「キリストは三十三歳で死んだけれども、彼は老人である。」
これはどういう意味かというと、彼は何遍も“生れ変った”のである。そして彼はこの世の中においては三十三歳で死んだけれども、しかしその“生れ変り”の数の多さにおいて年齢を数えるとしたならば非常に老人である。だから、このような立派な真理を説くことができたのである――というような意味のことをいっているのであります。
佛教においても、この生れ変りということは、繰返し説かれているのであります。たとえば法華経の常不軽菩薩品の中にもでています。
<つづく>
471
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:41:48 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(7)
常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)のこと
常不軽菩薩という高徳の菩薩があって、彼は「吾常に人を軽(かろ)んぜず」といって、すべての人間を拝んだ。すべての人間のうちには“神の生命(いのち)”“佛の生命”がやどっているのであるから、どんなルンペンでも、どんなヤクザでも、わたくしはすべての人間を軽んじないのである。といって出逢うすべての人間を拝んだ。どんなヤクザでも、どんなルンペンでも皆、
「あなたのうちには佛様の実相が宿っていらっしゃいます。ありがとうございます。将来かならずその佛の実相が現れてくる方に違いございません」といって拝んだ。すると、ヤクザの男が、
「何が俺が佛だ、馬鹿なこというな。」といって石を投げ付けて、菩薩を傷つけようとしたら、常不軽菩薩は、石の届かぬ所へ行って、
「貴男(あなた)が何んとおっしゃいましても、貴男様は佛様に違いございません」と、一心に拝んだ。常不軽菩薩はこうしてすべての人間を礼拝した功徳によって、今、釈迦牟尼如来としてここに現れているのである――と釈尊は自分が常不軽菩薩の生れ変りだといっておられる。そういうように“生れ変り”の説を、お釈迦様も説いておられるのであります。
さて、お釈迦さんやキリストがこの世の中にでてこられて、人類救済のために真理をお説きになることができたのは、一遍ぐらいの“生れ変り”ではなく、幾百回も幾千回も“生れ変って”いろいろの苦労をなさって修行せられた結果、真理を悟られたのであります。
釈尊も人生の意義を探ねられた
お釈迦さんは自分の生れた王宮におれば、非常に贅沢な楽な生活ができたはずなのに、自ら人生問題に悩まれて、王宮から家出されたのです。そして、人間は何のために生きているのであるか、人生の意義はどこにあるかを知りたいとおもって、神経衰弱のようになって、悩んでおられた。そしてとうとう家出してからバラモンの先生について教をきいたけれども、よくわからない。
それで六年間ウルビルワーという林のなかに這入ってそこで食うや飲まずのきびしい断食に近い生活を送って、痩せさらぼうて「苦しんで、苦しんで、行をしたら真理がわかるであろう」とおもって肉体を苦しめて修行なさったけれども、どうしても真理がわからなかった。それでお釈迦さんはついに苦行をあきらめた。
そして最後に、「苦行は悟りの因(たね)にあらず。」と悟られまして、いくら肉体を苦しめても悟りの原因にならない。というので、あの「出山(しゅっせん)の釈迦像」にあるように、肋(あばら)の骨がいっぱい飛び出した骨と皮との痩せさらぼうた姿で苦行林からでてこられまして尼連禅河(にっれんぜんがわ)のほとりで坐禅を組んで、「人生何の意義ありや」と瞑想にふけっておられた。
その時に、ひとりのバラモンの娘が、供養のために、牛乳のおかゆを持って参りまして、「どうぞこれをおあがり下さいませ」といって、釈迦に差出したのです。釈迦はそれをお飲みになったわけです。その時、釈迦は忽然として悟りをひらかれて釈迦牟尼佛となられたのであります。
釈尊はこのように悟られた
その悟りというのはなにかというと、「山川草木国土悉皆成佛(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」ということであったのであります。わかり易くいうならば、山も川も、草も木も、国も土も、悉く皆成れる佛である。佛の生命そのものが、天地間の万物として表れているのであるとお悟りになったのであります。
<つづく>
472
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:42:27 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(8)
山や川をわれわれは普通あれを鉱物だとおもっているけれども、あれは鉱物ではないのだ、佛の生命なんだ。草や木は植物だと思っているけれども、あれもやっぱり佛の生命が表れているのだ。国土もこれは、鉱物だとおもっているけれども佛の生命が表れているのだという意味です。そして「有情非情同時成道」の“有情”というのは「情(こころ)のあるもの」“非情”というのは、「情(こころ)のないもの」無機物みたいなものです。情の有る生物も、情の無い無機物と思われているものも、悉く同時に、今ここに、天地いっぱいの「道」を現成しているのだという悟りをえられたのです。
太初(はじめ)に道(ことば)あり
「道」というのは「コトバ」とも読む字です。この字は「首(はじめ)」という字に「辶(しんにゅう)」がかけてありまして、「首(はじめ)に進むもの」が道なのであります。天地の万物がうまれる前の、その元始(はじめ)に、まずあったものが“道”であります。宇宙にミチ満ちておって、一切のもののはじめである。それですからこの「道」という字は「ことば」とも読める字なんです。
「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」というふうにキリスト教の日本訳のバイブルのヨハネ伝の第一章に書かれておりますが、明治時代に和訳された聖書に「太初に言あり」というところを「太初に道(ことば)あり」と書いて、その「道」という字に「ことば」と振り仮名がつけてあったものです。この「道」という字は、ギリシャ語のLogos(ロゴス)という字の訳で、はじめに進むところのもので、宇宙にみちみちているところのコトバであって、人間の口からでる言葉でないから「道」という字の方が当てはまるのであります。いいかえると神の生命(いのち)のことであります。
そこで「有情非情同時成道」というのは、心あるものも、心なきものも同時に――今ここに――神の生命が現成しているのである、というのです。
「現成」とは、現に今成り鳴り響いているという意味であります。「成」というのは、すべてのものは“神”即ちコトバの鳴りひびきによって成就しているのでありますから、それで「成る」も「鳴る」いずれも、語源が同じなのであります。キリスト教の聖書には、「太初に言あり、言は神と偕にあり」という風に神を言として表現しておりますが、神道では、神様を「命(みこと)」といっている。「みこと」というのは、「御言(みこと)」でありまして、コトバであります。宇宙にみちみちている御言(みこと)すなわち言(ことば)が神であります。
「言(ことば)」といっても、宇宙にみちみちている言は、われわれが咽喉からだすような貧弱な言葉ではないのでありまして、宇宙にみちみちている言は、ちょっと想像しにくいけれども、ラジオやテレビが発達しました今では割合に説明しやすいのであります。
宇宙に満つる言(ことば)としての神
皆さん、ここには、ちゃんとラジオの放送局からきている言葉があるのだけれども、皆さんはその言葉を目で見ることができず、耳できくことができないのであります。しかしラジオ・セットを持ってきて、波長を合わせたらちゃんと言葉がでてくるのであります。
もしこのところに放送されている言葉がなかったら、いくらラジオ・セットを持ってきても言葉がでてくる筈はない。いまこのところにはラジオ・セットを持ってきても、持ってこなくても言葉があるのです。だから、ラジオ・セットを持ってきて波長を合わすと、その言葉が現象化してでてくるのです。
そういうように、神様の言(ことば)というものは、耳に聞こえないでも、神様の心のうちに「これを、こうしよう」とコトバで想い浮かべられたら、それが想念でありまして、想念すなわち言葉であります。そのようなわけで、宇宙には、神様の言がみちみちておりまして、それは言でありますから、鳴り響くわけであります。で、言葉が「鳴る」と、全てのことが「成る」ということに成るわけであります。
<つづく>
473
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:43:01 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(9)
「言」と「事」とは語源が同じなんです、「言事不二(ごんじふに)」というわけで、「言」の発するところ、必ずそれが「事」として現れるということになるのでありまして、すなわち「言葉は鳴り」「事は成る」のであります。このことをすべての事は、「言(ことば)」すなわち、「想念」が形に現れているというのであります。
ここにこういう場合がありますが、この湯呑は陶器である。陶器は陶土という粘土みたいな物質を固めてこしらえたので、物質がもとであると考える人があるかも知れませんが、物質が、勝手にスーッと、ここへ出て来て、こんな湯呑の形になったのなら、物質がもとだけれども、この物質をこういう形にならべて、斯くあらしめたのは「陶器師」の心の中に作られた「思い」が、それが形に現れたのでありますから、すなわち、心の中の「思い」というのが言でありまして、その言が形に現れたのですから、これは言が鳴り響いて湯呑の形になっているのであります。
これは陶器だけではない。全てのものは、みなコトバが因(もと)になって出来ている。だから、湯呑のことを、「これは湯呑なり」という。「これはタオルなり」という。「これは書物なり」という。「なり」というのは「也」であり、「鳴り」であり、「成り」であり、コトバが実現しているという意味であります。
それを口語体でいいますと、「これは湯呑と言うものである」「これはタオルと言うものである」「これは書物というものである」というのであります。
「言うもの」とは「言葉によってなり立っている」という意味で、そのことを吾々は無意識のうちに知っておって、そういう言語を使っているのであります。
一切のものは物質のように見えているけれども、物質で出来ているのではないのでありまして、悉く「心の世界に想い浮かべられた言(ことば)」、言い換えると「想念」が形に現れているのであります。このように一切の物は想念が形に現れたものである。
世界の革命でも、想念によって行われる。マルクスが『資本論』を書いた。その本の中の想念がロシヤに共産革命を起こし、中国に共産革命を起こした。マルキシズムの想念が、全世界を風靡したならば、全世界に社会主義革命とか、共産主義革命とかいうものが成就する、想念は創造力であり、世界を動かす。
そういう共産主義革命に対して、もっと完全な理想主義社会建設の想念をもっている吾々の「生命の実相」の想念というものがそれであって、これが、社会主義革命の想念に打ち勝ったら、神の世界にあるところの、独特な理想的な有様が、この世界に実現する、すなわち理想世界が実現するというふうになるわけであります。
吾々の生命は無限の可能性をもっている
さて、「七つの光明宣言」の第三ヵ条には次の如く宣言されております。
吾等は人類が無限生長の真道(まことのみち)を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。
吾々の生命は神から天降って来た神の生命そのものですから、「無限の可能性」を持っておるのであります。既に「実相」に於いては無限がある。しかし、現象面から見ると、それはまだ完全にあらわれていないので可能性として存在する。そして、ある時間的流れを通して徐々に、その無限内容が生長という姿で展開してくるということになるのであります。
このことは既に申しましたが、その展開のしかたには、法則があるわけであって、正しい法則に則とらなかったならば、色々と苦労をして、遠廻りに麓をドウドウめぐりして、なかなか早く生長しないということになるのであります。それですから、早く、人類の生命が「無限の可能性」を出来るだけ多く展開して、早く人類が幸福になって貰うように、生命が創化作用を、完全にいとなむ法則を研究して発表するのが生長の家出現の使命だという宣言であります。
<つづく>
474
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:43:39 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(10)
愛を実現するのは祈りと愛語と讃め言葉である
宣言の第四ヵ条は次のように書かれております。
吾等は生命の糧は愛にして、祈りと愛語と讃嘆とは愛を実現する言葉の創化力なりと信ず。
さてその生命の無限生長を速めるためには、祈りと、愛語と、讃嘆との「言葉の創化力」が必要なのであります。生命の糧は愛であって、愛は生命の食糧みたいなものです。しかし食糧が与えられても、それを消化して同化吸収させなければならない。それにはどの様にしたらいいかというと、祈りと愛語と讃嘆との言葉によって、その愛をしみじみと感じさせ、相手の生命が愛によって培われて生長しやすいようにしてあげるのであります。創化作用というのは形なき状態から形あるものに化して創り出すはたらきであります。
祈りの意義について
「祈り」といいますと、普通の宗教では、たいてい神に懇願する意味につかわれています。神様にかきくどき、泣き付いて、「私は貧乏で困っているのであります。どうぞ神様、何とか今日の食事を与えたまえ。」という様な祈りをしたり、「私は病気で困っているのです。神様お慈悲がありましたら、この病苦からお救い下さいませ。」と縋(すが)り付き泣き付くのが、いわゆる「祈り」だと思われていたのであります。
けれども、生長の家の祈りは、神様のおこしらえになった世界には、神は全能であり、全智であり、無限の智慧であり、無限の愛である――その神様が設計せられてお創りになった世界は完全であって「悪いもの」など本来無いのですから、「悪いものを直して下さい」というようには祈らないのであります。
創世記の第一章には、「神その造りたる諸(すべて)の物を視たまいけるに甚だ善かりき」と、このように書かれているのでありまして、神様御自身が自分の造った一切のものを点検なさいまして、「すべて善し、悪いものは無い」と宣言なさった。それに対して「悪いものがあるから、神様どうぞお慈悲でこれをお直し下さいませ」と頼むというのは、ちょっと矛盾しているではありませんか。
ですから、生長の家の祈りというものは、そういう「悪いもの」があると認めて、それをなんとか「神様のお慈悲で、善い状態に改善して下さい。」というような祈りではないのであります。「神様のおこしらえになった一切のものは善である」ということを、生命(いのち)の底から宣言する。「命宣(いのり)」というのが「祈り」である。「イノリ」の「イ」は命という意味であります。「ノリ」というのは「宣(の)り」即ち「宣べる」ということでありまして、吾々は命の底深く「すでに完全な姿がある」ということを宣言する。そしてそれを確認するのです。それが本当の祈りであります。そしてその想念を心の想いの世界にそれを確認した時に、それが現れてくるということになるのであります。
<つづく>
475
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:44:22 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(11)
何故今までの宗教は人類の道徳心の進歩に貢献しなかったか
今までの宗教家が、あるいは教育家が、人間を善くしようと思い、子供を善くしようと思って一所懸命に道を説いたり、学校で教えたりしておっても子供がどうしてもよくならないのは何故であるかというと、心の底深く、「人間は罪人である。罪悪深重の凡夫である」と、その子供を本来悪いものと認めて、「ここに不良少年がいる。」「ここに不良少女がいる。」「ここに非行少年がいる。」という風に、「悪いものがある」と命で宣言(いのり)して、それを直そうとおもったから直らなかったのです。
創世記には「アダムの名付けた通りに生きものはなった。」と書いてあります。アダムというのは、モーゼが霊感によって天地創造及び人間創造を書いた神話に於いて、人間の一番の祖先で、人間を代表しているのであります。人間そのものが、自分が名付けたとおりのものに全ての“生きもの”はなるのだという真理が、象徴的に書かれているのであります。
人間が“言葉の力”で名づけた通りのものになるのですから「ここに非行少年が居る。」「お前は非行少年である。」「お前は不良少年である。」と名付けたら、その通りになるのです。
今まで色々の宗教家があらわれて、人類を善導しようとした。釈迦牟尼佛が現れて、二千六百幾十年、キリストが生れて約二千年、その間に釈迦の弟子である坊さんや、あるいはキリストの弟子であるところの牧師や宣教師達が、一所懸命に道を説いて来たけれども、少しも人類がよくならなかったのは何故であるかというと、彼らの祈りが間違っていたからです。
命の底深く、何を命宣したかというと、キリスト教では人間は「罪の子」だと宣言し、佛教では「罪悪深重の凡夫」であると宣言して、「悪」を言葉の力で祈り顕しておったのです。まるで、すべての人間が罪人なるように、命の底深く宣言しながら、どうして人類が善くなることができましょう。それは、もう実験ずみなのです。
そこで吾々は、祈りを変えなければならない。「神様のお造りになった人間には、非行少年だとか、不良少年だとかそんなものは無いのである。皆な“神の子”で素晴しいのである。」ということを命の底深く宣言して、その生命の実相を拝むのです。これが本当の正しい祈りなのです。この正しい祈りを行った時に、始めて相手が善くなるのであります。
それが実際善くなる実例は各地にある生長の家の練成道場で毎月実験されて成果を挙げているのであります。だからこの世界をよくする為には生長の家的な「人間の実相は神の子であって本来完全である」という真理を宣言して、それを心にハッキリ認めて、人類の善なる実相を礼拝する行事を行う人たちが殖えることによってのみはじめて人類がよくなるわけであります。
御存知の通り、生長の家では、不良少年や非行青年が優良な子供に一変するほかに病気が治る実例が随分沢山出ているのでありますが、皆さんの様に若くして元気で滅多に病気にかからぬというような人は、病気が治った実例をあげても、たいして興味が起らないのでありますけれども、病気が治る実例は何を示すかというと、これは物理学の実験室において科学者が小さな実験の設備機械の中でやることが、大いなる意義をもっており、それが世界を変貌さすことになるのと同じです。
例えば、どうすれば原子の崩壊が連鎖反応をおこして原子爆弾になるのだとかいうようなことは小さな実験室で実験される、それがもとで、今世界が全滅か、全面的に戦争禁止かの境に立っているようなものであります。それと同じように、一個の人体に於いて、そこに病人があっても、神は病気を造らないから病人はないのであるということを徹底的にそれを拝んでみることによって、病気が消えてしまうという事実によって、全ての人間は皆な神の子であって完全であるということを、それを実証する証拠となるわけであります。
<つづく>
476
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:44:59 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(12)
生命の糧は愛である
さて、この光明宣言の第四ヵ条に、「生命の糧は愛にして」と書かれているのでありますが、愛とは何であるかというと、『生命の實相』の第十三巻、倫理篇に、「愛の感じは自他一体の感じである」とこう書かれているのであります。「愛」というものはいったいなにかというと、肉体が別れておっても、彼と吾と別々の存在のように見えておっても、「互いに一体だ」という感じであります。それで、ある青年が、あるお嬢さんを愛するとする。肉体は自分と彼女とは全然別々であり、体格も違うし、性別も違うけれども、しかし本来一体であるという感じが、すなわち「愛」という感じに現れてくるわけなのであります。
吾々生長の家家族が、人間は神と一体である。神と同体であると申しますと、人間が“神の子”であってたまるものか、人間は“罪の子”だ。こういうクリスチャンもあるし、人間が神と一体であるというのは不遜なことだという。神は人間の「主」であって、人間は神の「僕(しもべ)」にすぎないのである。というように、このキリスト教信者の中では、人間を「神の子」といわないで「神の僕」であるという人などがあるのです。だけども、聖書の中にキリストははっきりとこう言っておられるのであります。
「汝らもし我が命ずる事をおこなわば“我が友”なり。今よりのち我なんじらを“僕(しもべ)”といわず、“僕”は主人のなす事を知らざるなり。我なんじらを“友”と呼べり。」
このようにヨハネ伝に書かれてあるのであります。これはキリストが磔(はりつ)けになる直前の言葉でありますが、それで僕というものは、主人の心がよくわからない。僕は僕だけのことを考えておって、主人の心は解らないのである。若し人間が神の僕ならば神様の御心はわからないのであります。「併し人間はそんな神様なる主人のことがわからないような、そんなつまらないものではないんだ、イエス・キリストと同じく同等の神の子であるから、これからお前達を友と呼ぶのである。」とこうイエス自身が言っているのであります。
神との自他一体感が「神を愛する」ということである
或る時、弟子が、イエスに対して、「誡めの内で一番尊い誡めは何でございますか」と訊いた。誡めというのは道徳律とでもいう意味であります。道徳律の中で一番尊い道徳律は、いったい何でございますか。といってたずねた時に、マタイ伝の二十二章で、イエスはこういうふうに答えておられます。
「『なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる汝の神を愛すべし』これは大にして第一の誡命(いましめ)なり」といっているのであります。それでここに「主なる神」とありますから、人間の方は僕で、主人であるところの神様を愛するのであるかというと、そういう意味ではないのです。「なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、主なる“汝の神”を愛すべし。」といわれた教に注目すべき言葉があるのです。
「汝、イエスの神を愛すべし。」とはいっておられないのです。「主なる“汝の神”を愛すべし。」即ちお前の主人公であるところの“汝の神”を愛すべし。とこう言っておられるのであって、すべての人間には、その自己の内に神が宿っているということをイエスは認めて、「汝の内に宿っている汝の主なる神を愛すべし。」と、このように言っておられるのです。
その時まで弟子たちは自分の内に神が宿っているなんて知らないで、罪が宿っているくらいに思っておったのですね。ところがそうではないのであって、汝の神が、汝の内にあるのだから、それを愛すべし。とこういわれたわけなのであります。
<つづく>
477
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:45:33 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(13)
「愛する」とは「自他一体」の自覚でありますから、神を愛するとは、神と一体であると認めることをもって第一とするのであります。妻を愛するとは妻と一体であると認めること、子を愛するとは、子と一体であると認めること。隣人を愛するとは、隣人と一体であると認めること。この一体であると認めることが「愛」であります。「主なる汝の神を愛すべし」とは、汝に宿っている神と一体であると認めることが第一であると仰せられたのであります。
色々の掟、すなわち“殺すなかれ”とか“盗むなかれ”とか、“姦淫するなかれ”とか“偽りの誓をたてるなかれ”とかいうようにモーゼの十誡には色々書いてありますけれども、何よりも一番尊い誡は、神と一体であることを認めることが第一である。「ここに自分の内に神が宿っておる。自分は神と一体である」という中心自覚が伴わなかったならば、本当に「神を愛する」ことは出来ないのであります。それですから、自分が、神様の本当の子であるということを知らなければ、神を愛するといっても、本当に愛することはできない。お前は神様の継子(ままこ)であるなんていうのだったら、やっぱりひねくれてしまって本当に神様を愛するわけにはゆかないでしょう。
あるいは神様が雲の上にいらっしゃって、吾々の一挙手一投足――何でもやっていること――を雲の上からにらんでおって、「あいつ間違いをした、一つ罰をあててやろうか」と思って裁判官のようににらんでいると思ったら神様を愛するわけにはゆかない。それでは神を畏れるかも知らんけれども、本当に神を愛するわけに行かないんです。それですから、神を愛するためには、神と吾とは、「一体である」という中心自覚がなければならないのであります。
これに反して、神と人間とを、主人と下僕との関係に見たて、神を愛しなければ罰せられると思って、愛しようと努力し、愛したと同じ行いを外に表しても、「罰があたる」と思って、恐怖心で一所懸命やっているのでは、それは愛しているのではなくて、忠実に努めてはいるが、本当に神様を愛しているということにはならないのです。
神を愛するとは、自分が神の子である。言換えれば、「神の生命とは一体である。」と自覚することです。さらに極言するならば、「自分は神そのものである。」という中心自覚があってこそはじめて吾々は神を愛することが出来るのであります。
(註・自分が「神そのもの」であるということについてはデーヴィス氏著『人間とは何か』によくあらわされている。読んで頂きたい)
この問題がすなわち「吾等は生命の糧は愛にして」というわけでありまして、神と一体であるという根本自覚を得た時に、生命が本当に成長する栄養を得て、生長するわけであります。
<つづく>
478
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:46:09 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(14)
内部に宿る“無限の可能性”を発揮するには
正しき祈りというものは「悪」の存在をみとめて、「神様どうぞ、この悪を取除きたまえ」と懇願するのではなく、「神のつくり給うたこの世界には、悪は存在しないのである。あなたは神の子である。善のほかないのである。」と心の中に唱えて、その人の“実相”をじーっと拝む祈りであります。それが「愛を実現する言葉の創化力」なのであります。
創化力とは、先に申しましたように“創”というのは“つくる”です。“化”というのは、“お化け”の“化”であって、姿なき世界にあるものが、姿を現すことであります。
最近では、“化成”などという言葉がありますね。液体で一定の形のなかったものが、繊維になったり固形的なプラスチックになって姿を現してくる。それが化成です。
そういうように、人間は“神の生命”そのものであるが、“神の生命”は肉眼には見えないけれども、それが形に現れて来る。人間の“無限の可能性”というものは肉眼に見えないけれども、それが見えない世界から、見えてくる世界に現れてくるための力が、すなわち祈りと愛語と讃嘆であります。
愛語というのは、愛の言葉、やさしい愛情に満ちた言葉です。讃嘆とはほめ言葉、吾々は、だれでも「認められたい」、「愛されたい」、「称(ほ)められたい」、「誰かのお役に立ちたい。自分は必要な人物だと思われたい」このような根本的な願いがある。その願いを愛情に満ちた言葉で満足させてあげるとき、その人は“生き甲斐”を感じて益々精進努力することになる。そうすると内部にある無限の可能性が出て来るのであります。
さて、吾々青年の機関誌「理想世界」誌も諸君が弘めようとして、大いに努力したら一度に数万も増えたけれども、近頃又多少減って来たというので、一ぺんに無理して努力しても、また減るから、つまらんから、あんまり大きな目標を立てないで徐々に、着実に少しずつ増やそうなんていうことになったそうだけれども、そんなに自己縮小することは私は賛成しないのであります。
大いに増やしておいたら、脱落する人も多いから、大いに増やさないことにしたら脱落する人も少なくなる。そんな消極的な論理を弄んでいたら、もう一人も誌友をつくらなかったら、一人も誌友が減らないことになる。それでは「理想世界」はどうして実現するのです? 一時ふえた誌友が脱落するのは、雑誌を大いに弘めたからではない。単に部数を増やすということばかり考えて、理想世界建設の人間をつくらなかったからです。部数のふえることばかり考えているが、「理想世界」の部数拡大は、理想世界を建設する同志が増えるから尊いのです。
吾々は人類を救うのです。人類を救うんだ。雑誌をふやすのはただ理想実現の手段にすぎないのである。それなのに新聞配達みたいに、増やす部数のことばかりやって、その人間を、理想実現の選士に導かなかったら喜びがないのですよ。喜びがないから脱落するのです。実際に雑誌を手渡した人たちに、人類を救う選士になったという喜びをもたせることが出来た時に、その時はじめて、「あの人も救われた」「この人も救われた」というので、どこどこまでも喜びが続くので脱落しない。また其の人から救われた人も、ただ雑誌をもらっただけではなしに、その感激が出てくるから、また次へ次へと伝えるということが出来てくるのであります。
だけども、「ともかく部数さえ増やせ。」というわけで、ただ雑誌を配ったらそれでお終いということなら、自分の知人に皆な渡した、もうあとに知人はないから渡す人はないのだ。という様なことになって行き詰まってしまう。そこから、後退する人がでて来るのです。吾々同志は理想世界実現、目本の実相顕現、人を救う喜びの躍動というものを出て来させなければならぬ。その時に、はじめて、自分は「人のお役にたっているのだ」という魂の喜びが起って来る。
他の人の“生命”と自分の“生命”とは神の子の命であるから互いに兄弟である。その愛を実現するということによって、そこに本当の喜びが感じられて来るので、いくら「理想世界」を普及しても、くたぶれない「無限の可能性」が出てくる事になる訳なんであります。
<つづく>
479
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:46:46 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(15)
だから、“七つの光明宣言”の第五ヵ条には、
吾等は神の子として無限の可能性を内に包有し言葉の創化力を駆使して、大自在の境に達し得ることを信ず。
と、書かれております。人間は“神の子”として自己の内に“無限の可能性”を有するのですが、それを現実にあらわすには言葉の創化力を使うのです。すなわち言葉によって賞めるのであります。賞められると内在のカがでて来るのです。
それは人を賞めてあげる。自分の兄弟を賞める。あるいは子供を賞める。赤ちゃんを賞める。これは生長の家の教育法で、既に無数の実績をあげているのでありますが、さらに、自分を賞めるということが大切でありまして、これを忘れている人が多いのです。この神想観の実修そのものが、実は自分自身を称め讃える行事でありまして、言葉の創化力を駆使して、大自在の境地に達し得るところの方法であるわけなんであります。すなわち“言葉の力”によって、
「神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給、無限の歓び、無限の調和が充ち満ちている」
ということを心の内に言葉で誦(とな)えて、その通りの想いを喚起し、神様の智慧が、無限の愛が、無限の生命が、無限の供給が、無限の歓び及び調和が、ズーと自分に流れ入って充ち満ちている有様を、心にハッキリ描いてジーッと心の眼で見詰めるのです。これは“言葉の力”と、“観”の力とを併用して、自覚が速やかに高まるようにした行法であります。
“観”とは“心で見ること”であります。凡て観なければそれがあっても現れないのであります。
どんなに宝物が一杯あっても、目を閉(ふさ)いでおったら、わからないのです。ところが、肉眼で見るものは現象であって、それには限りがある。この現象世界には吾々の色々の“迷いの心”がレンズのはたらきをして、“本当の姿”(実相)が屈折して、歪められて、そこに現れているわけであります。そのことを谷口清超先生の『人間の体験』という本には、次のように書かれてあるのであります。
誤った常識を超えること
「世の中には『常識論』と言われるものがありますが、『常識』の中にはよい考えも悪い考えも混在しております。たとえば昔は『人間は空を飛ぶことができない』というのが常識となっていたのであって、この常識をくつがえしてはいけないということになれば、今日の航空機の発達は望めなかったに違いありません。したがってこのような常識は打ち破ってゆかなければならないのでありますが……」
いろいろの常識がこの世界にはあるのです。そして「病気がある」なんていうような常識も随分あります。その常識が形に現れているのです。この世界は心の現す世界でありますから、間違った常識は間違ったものを現す。そして色々の間違いがこの世界に現れているわけなんであります。現象世界は、殆どそういう間違った常識の現れの世界であるといってもいいのであります。
そこで、そういう間違った常識の現れている世界に目を閉じて、そして神様のお造りになったところの「神、その創りたる諸(すべて)の物を視たまいけるに甚だ善かりき。」と創世記の第一章に神が宣言されているところの、「全てのものが美しく楽しく、豊かに調和している」そういう実相の完全な世界を目の裡(うち)に描くのです。即ち心の世界に描くのです。そしてそれをジーッと心の眼で観ずるのです。見れば現れる、観ずれば現れるのです。すべて心に思ったものが、形に現れてくるわけのものであります。これを釈尊は“三界唯心”と説かれ、キリストは「汝の信ずる如く汝にまで成れ」とか、「汝の信仰、汝を癒やせり」とか仰せられたのであります。
<つづく>
480
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:47:27 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(16)
ブラジリヤが伯国の首都となる預言
私がブラジルへ行きました時、ブラジリヤと称するブラジルの新らしい首都を視察に行きまして、そこでも講演会がありましたが、その時、日系のブラジル上院議員の田村幸重さんに聴いた話でありましたが、その町ができるということは1877年10月30目、イタリーのカトリックの坊さんのヨハネス・ボズゴーという聖者が、祈っている時に、此の奥地のブラジリヤというところにブラジル国首都ができるという事を、ジーッと霊眼で視て、それを預言した。
ところが当時ポルトガル領土であったブラジルが、今から七十何年か前に独立して、新らしい憲法が制定されることになった。その時に、ヨハネス・ボズゴーの預言に従って、ブラジル国の都をブラジリヤに創るということが書き入れられたが、今から約四年程前に現象界にそれが実現して、この大分奥地であるところのブラジリヤの大平原にブラジルの都を作ることになってきたのであります。
何故、預言はできるか
さて、それでは、その「事実に符合する預言」というものがどうしてできるかといいますと、“現象界”に現れてくるものは、悉く“心の世界”に先ず“想念”として、“言葉”として、“心の思い”(心の中で唱えられるコトバ)として存在したものが、それが形の世界に現れてくるのだからです。だからすべての事物は、“形の世界”にあるまでに、“心の世界”に必ずその精神的原型が――元の形が――あるわけであります。
しかしそれは“心の世界”の存在であるから、普通の肉眼では感じられない。肉の耳にも聴こえない。けれども、祈りによって心を澄ましているときには、そういう「現象以前の世界」に波長が合うことがありまして、それがいわゆる霊感として現れてきて、その原型が視えたり聴こえたりするのです。その霊感で視聴したものを発表すれば、それが預言者すなわち、やがて来るべき事をまず知った人ということになる訳なのであります。
すべて形あるものは、“心の世界”にあるのであるから、霊感によってそれを感じたとき、霊感者は、それを預言することが出来るわけであります。しかしながら、霊感者が預言しても、預言しなくても、すべてのものはまず“心の世界”にその“原型”があって、それが現象化して形に現れて来るのであります。
さっき言いましたように、朝顔の花の形でも、種の奥の奥に、肉眼に見えない縦横厚み以上の世界に、ちゃんと朝顔の“花の原型”があって、それがやがて現象界に形に現れて来るわけであります。人間がこの現象世界において、成功をしたり、発展をしたり、色々幸福生活が現れて来るというのも、先ず“心の世界”にそれが描かれていなかったならば、“形の世界”にそれは出てこないということになるわけなんです。
“心の世界”が“現象の世界”に先行するのです。吾々は現象世界にあらわれているものが「本当にある」かのように肉眼で見て感じているけれども、現象世界は“心の世界”にあるものの唯“影”にすぎないのであります。影だから移ろう――変化して、やがて消えてしまうのです。
<つづく>
481
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:48:06 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(17)
変化するものは本来ない
だいたい、ものが変化するということは、如何なることかというと、前の形が消えて、別の姿が出てくるということを変化するというのであります。前の形が消えるというのは、今は形が現れておるけれども、「本来ない」から消えるのです。本当にあるものは消えないのです。消えるものは唯の影にすぎないから、実在性がないから消えてしまうのであります。そういう点から考えますと、吾々が本当に確乎としてあると見ているところの“物質の世界”は「本当はない」のである。その“物質の世界”の奥にあるところの、“心の世界”にある理念的存在というものだけが、「本当にある」というわけであります。
先ず“心の世界”に描かれたものが形にあらわれる
徳久先生は、ブラジルへ三回もおいでになりましたが、どうしてブラジルへ行くことになったかというと、“心の世界”に、ブラジルへ行くことを強く描かれた。それが形に現れたのです。それは具体的にはどうせられたかといいますと、徳久先生は御自分の部屋に大きな紙に、「神様有難うございます。すでにブラジル国へやっていただきましてありがとうございます。」と墨で黒々と書いて貼っておいて、毎日それを見る毎に「既に自分はブラジル国に行っている」と心に描いて感謝されたのです。
無論、それは必ずしも書いて貼らなくてもよいのです。心に書いて貼っておくのが本義でありますけれども、肉眼に見えるところに貼って置かないと、吾々の心はそれを忘れてしまって、毎日それを心に念じないかも知れない。ところが自分の部屋に貼っておいたら、それを一日に必ず何回か見る。そして、「ああ神様ありがとうございます。すでにブラジル国へやっていただきましてありがとうございます。」と念じ感謝して、ブラジルにすでに居る有様を心に如実に描くのに便利なわけであります。徳久さんは、こうして“心の世界”にまずブラジルへ往って、それが影を映して現実世界にもブラジルへ行くことになられたのであります。
また或る時、徳久先生は自動車を通勤用に欲しいと思われた。そこで「神様すでに自動車一台与えて下さいましてありがとうございます。」と書いて貼っておいて、それを見る度毎に「すでに自動車を与えられて、ありがとうございます」と念ずることにせられた。そしたら自動車が天降って来たのです。天降るといっても、“心の世界”から現象界に物質化して来るのであって、それが出てくるのは現象的な自然の秩序で時間的流れを追って、順序を追って出てくるということになる訳です。
具体的にいいますと、高知県にいらっしゃるお父さんが、自分の地面をお売りになったが、このお父さんは、徳久先生一人だけしか息子がないので、他にお金やる人もないから、「地面を売ったお金はお前のものじゃ」というわけで、徳久先生のところへ何十万円か送ってこられたのです。徳久先生が何故自動車が欲しかったかといいますと、飛田給の自宅から原宿の生長の家本部へ毎日通うのには、自動車のない時には、電車を乗り更えたりすると電車は混んで押し合い、へし合いですから電車の中では勉強はできないし、片道に一時間半くらいかかるのです。往復に三時間もかかる。
人間、一日の内に三時間も往復のために無駄に時間を空費していたのではもったいないから、徳久先生は自動車が欲しいというので、「自動車をすでに与えていただきましてありがとうございます」と書いて貼って、そのように念じたのです。そうしたら郷里のお父さんから金を送って来たのです。しかしお父さんから送って来たお金だけではトヨペットの新らしい自動車を買うためには半分くらいの金額しかないわけなんでした。
そのとき、徳久先生は、紙に「自動車は既に与えられた。有りがとうございます。」と書いて貼っておいたら、有りがたいことに父から、その半分位の金額が来たという話を私にされたのです。そしたら、「その半分の金は生長の家の本部から出すことにしましょう」と僕が言ったのです。それでちゃんとトヨペットの新らしい自動車が徳久先生の手に入るということになったのです。
その購入費の半分の金は公けの金、半分の金は徳久個人の金であるから、その自動車は、私用にも公用にも両方に遠慮なしに使えるという、たいへん便利な自動車になったのであります。公用の自動車だけ買ってもらったら、私用に使おうと思ったって使えないのですが、自分のお金も半分出ているから、両方に自由につかえる、税金もガソリン代も公用の自動車として公けから出るというような便利な車が出来た訳です。
<つづく>
482
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:48:38 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(18)
世界一安価な高級車
ところが、最近聞いてみると、仙頭君が自動車を一台買った。それは又安い、たった一万円の自動車である。それが得られた由来をきいてみると、徳久先生は東京都の教化支部長になったとき、トヨペットでは狭い路地などに入るのに都合が悪い。スバルが小さくて東京の街々を走り廻るのに便利であるし、ガソリンがよけいいらないで本部の負担にならないといって、トヨペットをやめて、スバルを買って乗ることにしていらっしゃった。
ところが仙頭君が、飛田給の練成道場に同居していたのをやめて、自分の家を建てた。それは飛田給よりも一層本部に遠いのです。それで仙頭君は、小さなスバルよりも、もっとほかの自動車が欲しいと思ったのだけども、先輩の徳久先生がスバルに乗っているので、後輩の自分が「もっといい自動車を」と思うといかんと思って、遠慮したというのです。そして「まあ、ダットサン位の自動車なら、それ程先輩に対して遠慮せずともよい」と思って、これは、徳久先生のように紙に書いて貼っておいたのではなく、ダットサンの自動車の写真の印刷したのを切り抜いて眼につくところに貼っておいたというのです。
仙頭君は、毎日幾回かそれを見詰めて、「すでにその自動車は与えられているのである。ありがとうございます」と念じておったら、だれか熱心な誌友の人が、新車を買ったので、今まで使っていたダットサンが要らなくなったので、ゆずってやる。“ただであげるというと遠慮したらいかんから一万円でゆずってあげたい”といって、たった一万円でゆずってもらって、それを乗り廻して自宅から本部へ出勤していられる。
仙頭君は軍隊におったことがあり、自分で自動車をあつかったことがあって、自分で修繕もできる。ダットサンはガソリンもそんなにいらぬ。非常に便利で、たった一万円の自動車で自由に乗り廻わして、この前も、富士河口湖練成道場へあの車に乗ってとんで行ったということであります。
そういうように心の世界に描いておったら、自動車を買う金があるなしに拘らず、そんな世界一の安い自動車でも、天降ってくるということになるわけです。こんな話をするのは、自動車でも何でも「金がなければ得られない」と考えてはならないことを知って頂くためで、吾々は言葉の力を応用すれば、吾々が“神の子”としての無限の可能性を引き出して欲するものを金なしにでも実現することが出来るということを申し上げたかったのであります。
それから第六ヵ条は、
吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんが為に、善き言葉の雑誌『生長の家』及び聖典を結集して発行す。
と書かれております。
本日のテキストの『眞理』という本とか、あるいは『生命の實相』とかいうような善き言葉を載せた雑誌や書物を発行することによって、人類を光明化するのが生長の家の使命であるわけであります。人間の運命はその人の読む書物の言葉によって左右されるのでありますから、現行の憲法に言論の自由、表現の自由が許されているからとて、罷り通っているセックス文学や犯罪文学を読んでいると、無意識のうちにその言葉と自己同一して、自分の運命を堕落させることになるのであります。今度海外旅行で知ったことは、驚くべき奇蹟がブラジルに唯、単に『生命の實相』を読むだけで起っているということであります。
<つづく>
483
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:49:16 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(19)
繁栄のための心の法則
私がブラジルへ行って感じたことは、「与えよ、さらば与えられん。奪えよ、さらば奪われん」という生長の家の真理が如実に生活に実証されていることであります。
最初ブラジルへ移民した人達の中には、「四、五十年あそこで働いて、相当の金をこしらえて日本へ帰りたい。」こう思って行った人達が非常に多かったのであります。つまり或る意味ではブラジルの富を奪って日本へ持って帰るつもりだったのです。そういうブラジルの富を日本へ持って帰りたいという気持で行った人達は、たいてい成功しなかったのです。
ところが目本が戦争に敗けたということを聞きまして、日本の大都市が殆ど焼けて灰になってしまって、もう日本へ帰っても安住の土地ではないから、ブラジルへ腰をすえてブラジルの繁栄とともに自分も繁栄致しましょうという気持になって、ブラジル国の建設に自分の命を注ごうという訳で、即ち“与える心”になって働き出したのです。それから日本人はブラジルで、すばらしく発展するようになったのです。幾百エーカーの地面の持主になって白人系の労働者を幾百家族も雇って大事業をやっている日本人も随分あります。
(谷口輝子著『世界を旅して』後篇、参照)
これはすべて、「与えよ、さらば与えられん」というところの法則によってそういうことが起って来るのであります。皆さんがこの生長の家の真理を、人に勧められる場合でも、やっぱり与えることによって自分の運命が好転してくるわけであります。
商売の競争相手を祝福して却って繁昌
このあいだも浜松の講習会の時、熱海の八百半デパートの和田一夫さんが、“八百半ビル”を建てて、始めは食料品ばかり売っていたのでありますけれども、去年から大きなビルの一部分に衣料品をあつかう衣料部をこしらえて、反物を売りだしたのです。ところが最近、八百半から歩いて五分間くらいの処に長崎屋という衣料専門の大デパートが建築を始めた。それが近く愈々開店するという事になったら、さすがの和田一夫さんも、衣料を主にした大デパートが自分の店から歩いてわずか五分間くらいの距離にできることになったら、そこへ自分の衣料部の客を取られるのは決まっている。それでどうしたら好いか。というので、一時非常に悩んだというのです。
ところが、和田一夫さんはやっぱり生長の家の信者ですから偉いですね。“与えよ、さらば与えられん”“祝福するものが祝福される”という根本法則を利用するより仕方がないと悟られまして、神想観をなさいますときに、その長崎屋が繁栄しているありさまを、心に描いて一所懸命に「長崎屋の繁栄」を祈ったというのです。そうして、いよいよ長崎屋のデパートが開店する日に、「長崎屋さん、開店おめでとう。八百半。」と書いた広告を四つの新聞に堂々と出して、長崎屋の開店を祝福してあげたのです。
そうしますと、その開店の日は自分の店の衣料部はいつもの売上げ高の三十パーセント減ったけれども、そのかわり、長崎屋さんは「開店祝い」の広告まで出して祝福してもらったので、沢山のお客さんが長崎屋になだれ込んで満員の盛況になったそうですが、午前中に長崎屋へ買物に出かけて行ったお客さんが、そこから歩いて五分くらいの距離ですから、帰り途に八百半の食堂の方へなだれ込んできて、その時には食堂が満員になった。その日、衣料部の売上げは減ったけれども、食料品の売上げの増加で、いつもよりもなお収益が多かったという結果が出て、競争相手を祝福してあげることによって自分の店も一層繁昌することになったのであります。
それから後も、また奇蹟が起ったというのです。あたり前ならば衣料品の方は長崎屋さんの方へ沢山お客が流れて行って、自分の店のお客は減ると思っておったら、そうではなくて、自分の方の店の衣料部も、これまでの売上げより増え、総売上げは今迄の三倍も増えて来て、今では長崎屋ができる時より繁昌しているというような話をなさいましたが、そういう風に“敵”とみとめられるものも、本当は“敵”じゃないのであります。およそ“敵”なんてものは“実相”に於いてはないのです。神様のおこしらえになった世界は、みんな大調和の「共存共栄の世界」なのであります。
<つづく>
484
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:51:22 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(20)
そういうわけで吾々が実相を観る目を開いて敵の無い世界を見ると、そこにすべてのものが互いに調和しながら共存共栄の繁栄・平和の世界が実現するのであります。だから正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法が必要になって来るのであります。
だから七つの光明宣言の第七ヵ条には、
吾等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法とにより病苦その他一切の人生苦を克服し相愛協力の天国を地上に建設せんが為に実際運動を起こす。
と宣言されているのであります。生長の家は、この光明宣言の第七ヵ条に書かれてありますように、天国を地上に建設するための実際運動であり、それは発祥当初から宣言されているのであります。生長の家の信仰を生活に実践すれば、健康も得られ、繁栄も達成せられるけれども、ただ単に、個人の自分だけが悟って、それで自分だけが幸福を得たらそれでおしまいというような、そういう小さな目的の団体ではないのであります。
すべての人類に正しき人生観を知らせること。人間がこの世の中に生れた意義は何であるか、それをまず知らせること。それからこの人生を如何に生きるのが正しいか。その正しい生き方、生活法を知らせること。人間は自己の生命の生長をせしめるためにはどのような法則に従わねばならぬか。心の法則はこうであるから、このような心懸けで生活すれば、人間は幸福になることができるのである。これを教えて人類全艦の生活を至福の天国にするのが生長の家の使命であります。
次には正しい教育法を教える。さっきの八百半の実例でいえば、“敵”と見えるのも“敵”ではない。それを祝福したら、かえって自分がいっそう繁昌するのであるというような、そういうすばらしい凡ての人が幸福繁昌の生かし合いの生活法を教える。そして正しき教育法によって次代の人類及び国家の運命を背負って立つ立派な人間をつくる。
今までの教育法では子供の欠点を指摘して、「お前はここが悪い。数学が下手であるから、よく勉強しなさい」というように、欠点をみつけて、その欠点を改善させるつもりで教育して、かえって子供に劣等感を植え付けながら善くしようと思っておった。いや子供だけではない、人間全体を「罪悪深重」といい、「罪の子」として教えた。
このような間違った教育法を改めて、そしてすべての人間に“言葉の力”によって、本来ないところの“悪”を無いと宣言することによって消滅して、病気を治したり、人生苦をなくしたり、犯罪傾向を無くしたり、一切の悪を消尽して、皆なが「人間、神の子。互いに兄弟姉妹である」との自覚をもって互いに愛し愛されて、相愛協力の人類すべてが拝み合い、互いに力を合わして、みんなが栄えて行くところの地上天国を建設せんが為の、実際運動を起こすのが、生長の家であるというわけであります。皆さんは、そういう高い理想と、重大な目的との為に、ここへ集まって来ておられるのでありまして、自分だけが救われたらいいというような、けちな考えの人はいないわけなのであります。
さて、その為には、自分自身が神の子であるという事を悟らねばなりません。皆さん、十分、『生命の實相』を読み、真理を体得し、“国の柱”となり、“人類の救済者”となり、神が皆さんを人類光明化の選士として選びたもうた、その使命を忘れずに一路邁進、愛行に努力せられんことを希望いたします。
<終わり>
(昭和39年5月・青年会全国大会講話)
〈「理想世界」昭和39年9〜11月〉
485
:
a hope
:2012/04/21(土) 08:29:58 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
人の魂を傷つけるな
人の魂の傷口にナイフを刺込むような、そういうふうな皮肉を浴びせる悪い習慣のある人が往々ありますが、こういう心の人は出世できないのであります。こんな人は織田信長のように明智光秀のようにどちらも滅びてしまわなければならないのです。
何か人が良い噂をすると、「しかしあの人はこうですよ」と何かケチをつける人がありますが、まことにあさましいことであります。そういうふうな人は自分は自分の性質に気がつかないかも知れませんけれども、そういう人は往々にして切開手術を要するような病気にかかる事があります。それは「類は類を招(よ)ぶ」という心の法則によりまして、人の奥底を切り開いてそうして汚いものを掘出したいという気持ちがある。その心は類は類を招(よ)んで自分の身体(からだ)に具象化(かたちにあらわ)れるのです。これを生長の家では「肉体は心の影」と申しております。
よほど良い人格をもった人で、自分よりも弱い人に深切にする人でも、それでいて自分と同等の人や、自分より少し偉いかもしれぬと思われる人には、すぐにそれを貶(けな)したくなったり悪口言いたくなったりする人があります。こういう人は強いようで、その実まだ弱いところがあるのです。そんなに強い者に反抗する気持ちにならないで、弱い人に深切にすると同時に強い人にも、自分より上の人にも、深切にならなければ、吾々はまだ平等の高さまで偉くなっていないのであります。
弱い人にも深切、強い人にも深切の平等の高さに達するのが生長の家の生き方であります。強きを挫(くじ)き弱きを助ける侠客肌(きょうかくはだ)というような人は、ちょっと偉そうに見えますけれども、その人が強い者に反抗せずにいられないのは「負ける」という不安があるからで、まだ全く強くなってない証拠であります。
(つづく)
486
:
ハマナス
:2012/04/21(土) 08:54:59 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
自分で自分を限るなかれ (『新版 生活の智慧365章』P.134)
人間は神の子であり、神の全能の力を譲り受けたる後嗣者であるから、何でも、善きこと、
正しきことであったら成就し得ないと云うことはあり得ないのである。しかし、それでも成就し
得ないものがあるのは、それは自己が自分を限るからである。即ち自己限定がなければ、その
程度に随って驚くべき奇跡をさえ実現する力が人間には宿っているのである。しかし、人間が
“神の子”として賦(あた)えられている無限力は、“父なる神”又は“創造の親様”なる神
との関係に於て、“神の子”として与えられているのであるから、“神”とのつながりに於て
それは実現するのである。だから、神を無視して、自分を「肉体の子」であると誤認している
限りに於て、その無限力は現われて来ないのである。
吾々は「人間・神の子」の真理を教えられながら、依然として潜在意識の底には
「人間は物質的存在である、肉体が人間である」と云う考えが中々抜きがたいものである
からこれが自己限定となって、霊的実在たる無限力を発揮する力が限られ縮小するのである。
この潜在意識の自己限定を去る最良の方法が神想観なのである。毎日怠らず神想観を実習
することが必要である。
感謝合掌
487
:
志恩
:2012/04/21(土) 09:51:21 ID:.QY5jUA6
復興Gさまが謹写して下さった
『神ひとに語り給う』のご講義につづき、
實相と現象』の20に分けて謹写してくださった真理の数々、
まだ十分に咀嚼出来ていませんが、落ちついて何度も拝読して、WEB誌友会までに間に合うよう、勉強しておきたいと思って
おります。
実は,復興G様が参加されたという昭和39年5月3日〜5日の間の、
東京台東区台東体育館に於いて開催された「全国青年大会」・「全国白鳩大会」(他に、全国相愛会大会もありましたね)
に、私も、裏方のお世話係として参加しております。
アルバムに、その『全国青年大会』のときに、台東体育館前で、青年会の友人たちと一緒に、記念写真を撮った笑顔の写真が
貼ってあります(笑)
その年だったか、どうか、はっきりしませんが、我々の地元の青年会支部の委員長(私は副委員長だった)が、東京都の
予選を通過して、東京都代表に選出され、その「全国青年大会」で、されていた全国各地区代表による「全国青年弁論大会」
に出場しまして、うちの委員長が、見事、全国優勝した誇らしく晴れやかな記憶が、ございます。
私は、なぜ、こんなに、あほなのかなぁと、自らを省みますと、全国大会に参加させて頂いたにも関わらず、ご講話は、ほとんど
拝聴してなかったからかもしれないと、自分でおかしがっております。
ある時は、私は、裏の部屋の方で、総裁先生ご夫妻のお茶や昼ご飯の、お世話の仕事のことで、頭がいっぱいだったり、ある時は、
全国からお越しくださった幹部の皆様の雑用係に追われていたりしていましたので、肝腎のご講話の方は、
右からら左へ抜けてしまっており、はずかしながら、心に入っておりませんでした。
ですから、復興G様が謹写してくださった『實相と現象』のご講話の内容も、初めて聴かせて頂いているように
感じております。
復興Gさまのお陰で、生きているうちに、改めて、こんなすばらしい内容のご講話に触れる事ができましたこと、
ほんとに、ありがたくかたじけない気持ちでいっぱいです。感謝 礼拝
488
:
志恩
:2012/04/21(土) 10:07:56 ID:.QY5jUA6
昭和39年の,総裁先生とは、言うまでもなく、谷口雅春先生 のことです。
489
:
復興G
:2012/04/21(土) 14:59:46 ID:ojEbkDH2
>>487
:
志恩様。
丁寧なご感想、ありがとうございます。
>昭和39年5月3日〜5日の間の、東京台東区台東体育館に於いて開催された「全国青年大会」・「全国白鳩大会」(他に、全国相愛会大会もありましたね)<
――昭和39年5月3日〜5日の3日間は3日とも全部、青年会の特別教修会・全国大会でした。「四十年史」にも、そう書かれています。このころは白鳩会全国大会は3月、輝子先生のお誕生日に行われており、相愛会の全国大会というのはありませんでした。いかに谷口雅春先生は青年に期待されるところが大きかったかがわかります。
>その年だったか、どうか、はっきりしませんが、我々の地元の青年会支部の委員長(私は副委員長だった)が、東京都の予選を通過して、東京都代表に選出され、その「全国青年大会」で、されていた全国各地区代表による「全国青年弁論大会」に出場しまして、うちの委員長が、見事、全国優勝した誇らしく晴れやかな記憶が、ございます。<
そうでしたか。私はこの年に台東体育館での雄弁大会で優勝したという人に最近会ってきましたが、その方は地元青年会委員長はされていなかったと思いますので、多分、そのころ志恩様の地元青年会委員長が優勝されたのは、開催年が違うと思われます。
台東体育館は、隅田川ぞいにあって、今は台東リバーサイドスポーツセンターというのになっているようですね。
なつかしい場所です。ありがとうございます。
490
:
志恩
:2012/04/21(土) 16:54:41 ID:.QY5jUA6
復興G様
お返事、ありがとうございます。
そうでしたか。昭和39年(1964年)では、なかったんだ、うちの委員長が雄弁大会で優勝したのは。日記、つけてないころでしたので。
でも、場所は、台東体育館でしたし、「全国青年大会」の(全国弁論大会でなく)全国雄弁大会で、うちの委員長が、全国優勝したのは、
ほんとうの事ですから、それは、別の年だったのですね。
今年は,2012年ですから、あの時から数えましたら、早、48年も経ちました。
しかし、つい最近のことのように思えますから不思議ですね。
最近のあの辺りの事は知らなかったのですが、今は様変わりして、台東リバーサイドスポーツセンターというのになってるそうで、情報、
ありがとうございます。
昔は,あの辺りは、「靴・下駄」などの履物の問屋さん街が、近くにありましたよ。
491
:
志恩
:2012/04/21(土) 17:21:02 ID:.QY5jUA6
489:復興G様のご文章を,再度読ませていただきました。
もう、約50年も前のことなので、私の記憶が、あやふやになっている点が多くあるのですね。
私は、「四十年史」は、持っておりませんので、記録が記されているのを確認された復興Gさまのおっしゃることの方が、正解です。
5月3日〜5日は、全部、全国青年大会関係で、3日間とも、全国青年教修会、青年大会を開催していたのでしたか。
すごいことですよね。当時は、3日間連続やっても会場が埋まるほどの青年が、全国から集まっていたのですから。
全国白鳩大会は、あの当時は、3月に開催でしたか。古い記憶なので、私の頭の中で、記憶が、ごちゃまぜになっておりました。
正しい情報を、ありがとうございました。失礼いたしました。あの当時は、相愛会の全国大会は、なかったのですね。
復興G様が、おっしゃるように、雅春先生は、青年にすごく期待されてましたね。
ずっと,ずっと前の20年代だったかの全国青年大会の雄弁大会に,東京都代表で、中沖様というお方が,東京代表で
出場されて、全国第5位になられたと、どこかに書いてございましたが、
中沖様とは、企画の佐脇嘉久先生の旧名ですので、佐脇先生は,昔,雄弁大会に出たことがあると,本部時代、親しくして頂いておりましたので、
確か,直にお話を聞いたことがありますので、当時は、
そのような全国青年大会、教修会で勉強されて、その後、本部の幹部になれたお方も多かったのかもしれませんね。
いろいろと教えてくださいまして、深謝いたします。
492
:
a hope
:2012/04/22(日) 11:19:25 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
弱きを助け、強きにも深切
私達は弱きをも助けるが、強きをも挫(くじ)く事は要らないのであります。弱きにも深切にし強きにも深切にし、どちらも褒めてみんなを生かし、みんなを味方にしてゆくという事によってのみ私達は本当に生長することができるのであります。
人間をよく見ていますと判ります。たいてい発達しない人、立身出世しない人は、よほど頭も鋭い人で、こんな人がどうして出世しないのだろうと思ってよく見ると、強きを挫くという性質があるのであります。これが私達の成功を妨げる事が非常に多いのであります。自分より上役に丁寧にすることをお追従(ついしょう)をするように思い、自分より偉い人に深切にする事をおべっかを使う事だというように、自分考えで誤解している人が出世しない人に多いのであります。純な気持で、偉い人を偉い人として尊敬する事は、素直な動機であっって、それは尊敬すべき美点であります。
それなのに、それを何かおべっかを使う事だと考えて、そうしてその素直な人の悪口を言ってみたり、邪魔をしてみたりしておりますと、その人はどうしても自分自身の運命を自分の言葉で阻まれて発達しない、幸福に見舞われないという事になります。なぜかと言うと、それはやはり「類は類を招(よ)ぶ」という心の法則によるのであります。そういう人は弱き人ばかりに深切にしているから弱い者ばかりが自分の見かたである。本当に自分の助けになるような強い人は自分の味方になってくれないという事になるのであります。それでは出世のしようがありません。
本当に自分が発達しようと思うには弱い人に深切にすると同時に強い人にも深切にしなければならないのです。私達は上役にも、点数の多い人にも、月給の多い人にも、どんな強い人にも親切丁寧にしなければなりません。むろん卑劣な根性で、阿諛追従(おべっかついしょう)をするのではありません。けれども他(ひと)の偉いところを正直に認める事ができるのは、それだけでも非常に偉大な心なのです。
むろん大きな光の中にも或いは陰があるかもしれません。太陽にだって黒点があるのですが、太陽の黒点ばかりを睨んでおって、太陽だって黒いじゃないかと悪口(あっこう)を言っておってもしかたがないのです。光明思想というのはその太陽の明るい方ばかりを見て、「太陽は明るい、ありがとうございます」とお礼を言い、感謝する心であります。
こういう心の人はきっと成功いたします。如何にその人に黒点があっても、大きな光は大きな光として尊敬する、それが自分自身を大きくするゆえんであります。級長や、金持ちや、目上の者や、ともかく自分より多きなるものの悪口を言う心の中にはきっと、嫉妬(ねたみ)羨望(うらやみ)などという悪い心持、不徳な気持ちが隠れているのでありまして、それは卑怯なやり方であります。偉いものを偉い者として朗らかに褒め得る、それはまた非常に偉大な人間でなければできない。それができれば、それだけでも偉いのであります。なんでも素直に白い者は白いと言い得るように、偉い者は偉いと誉め得る者でないと出世しません。
(つづく)
493
:
うのはな
:2012/04/22(日) 20:30:18 ID:El6gIMAw
迷いの暗を切り光を現わす真理の神剣の働き
『生命の實相』第一巻の開巻冒頭に、“はしがき”よりも、目次よりも、尚、
その前の頁に、新約聖書の『黙示録』の第一章にある白髪の翁の姿をもってあらわれた
「久遠のキリスト」の姿が描写されているのである。「何故、生長の家はキリスト教ではないのに、
キリスト教聖書の一節を、『生命の實相』第一巻の“はしがき”よりも目次よりも尚前に引用して提出
してあるか」といいますと白髪は久遠の表象であり、キリスト教に於いては“生長の家の大神”は白髪の
久遠神(ユダヤ人のイエスではない)としてあらわれていられるからであります。その白髪のキリストの御姿の
描写の中に「その口より両刃の利き剣出で」と示されている。
これ真と偽とを別ち美と醜とを分別し、善悪を審く、最後の審判の神剣なのである。善悪・美醜を審判する“秩序の智慧”が
神であり、その神剣によって悪は切り棄てられ、偽は葬られ、本来無いのに姿をあらわしている病その他一切の醜きものは切り棄てられて
地獄の火の杭に投げ入れられ焼きほろぼされて、真なるもの、美なるもの、善なるもののみがそこに住吉の世界が地上天国として姿をあらわすのであります。
もし、この真と偽とを分ち、真なるもの、善なるもの、美なるもののみを顕わし、これに反するものを切り棄てるハタラキが発動しなければ天地は完成しないのであります。
この真偽を分ち、美醜を区別し、善悪を審判するはたらきによって、天地は一新するのである。
『黙示録』第二十一章にはこの事が明らかにされている
『我また新しき天と新しき地を見たり、これ前の天と地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。我また聖なる都、新しきエルサレムの夫のために飾りたる新婦のごとく準備して、神の許をいで、
天より降るを見たり・・・見よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して、かれらの目の涙をことごとく拭い去り給はん。今よりのち
死もなく、悲嘆も、号叫も、苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり・・・斯くて御座に坐し給ふもの言ひたまふ「視よ、われ一切のものを新たにするなり」....』
これが、“両刃の剣”のはたらきであります。“剣”は“片無”(刀)ではないのであって、敵を切るために、敵に向う一方にのみ刃がついていないで、自分に向う側にも刃がついていて、真ならざるもの、
美ならざるもの、善ならざるものがあれば自分を切るのが、剣のハタラキであります。
これが地上に平和をもち来らし、最後の審判によって、新しき天と地とをもち来たす住吉の世界を創造する神剣のはたらきである。
参考につぎに『秘められたる神示』の中に収録せられている『最後の審判の神示』を再録して、両刃の剣のハタラキを明らかにする。
生長の家 誌 昭和53年11月号 谷口雅春 先生
494
:
ハマナス
:2012/04/22(日) 21:40:00 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。すみません、今日は、出掛けていまして遅くなりました。
苦痛を迎える五つの態度 (『新版 生活の智慧365章』P.133)
苦痛がやって来たときに、それを迎える受け方に五種類ある。
(一)苦痛に対して恐怖し、悲鳴をあげて逃げ出そうとする受け方である。これでは
苦痛は軽減せず、恐怖すればするほど、その苦痛は吾々を追っかけて来て益々苦痛の
種が増えて来るのである。
(二)次には苦痛を意志の力によって忍耐する克己的(こっきてき)方法である。
苦痛と戦うことによってその人の意志の力は鍛錬し増加する。克己主義(ストイズム)
がこれである。
(三)苦痛を本来無きものとして、苦痛あるがままに、「自己」を「苦痛」そのものから
遊離して、第三者として「苦痛」を傍観し、「苦痛」に対して無関心となり、苦痛を超え
る方法である。
(四)すべては自己の心の所現であると観じ、苦痛があらわれて来たときに、自分の
「どの想い」が間違いであったかを反省して、その間違った想いを改めて良き想いに
更(か)えることによって苦痛を消除する方法である。
(五)ひたすら実相の完全さを観て、実相そのままの完全さに成り切り、自然に
不完全さが消えて、苦痛も消滅し、天国浄土的状態が現実化する方法である。
この最後の(五)が生長の家の“縦の真理”であり、(四)の解決方法が生長
の家の“横の真理”である、その方法を実践する途上に於て、(三)の「苦痛
本来なし」の否定によって、自己を苦痛から引き離す方法が用いられるのである。
感謝合掌
495
:
金木犀
:2012/04/22(日) 21:46:20 ID:XJ2w09Xw
うの花様
ああ、この文章です。
これを私は以前読んで、この文章が頭に残っていたのですが、
一体どこで読んだのかがわかりませんでした。
ああ、そうです。この御文章、『永久に国護り給わん』の一節ですね。
私はこの御文章に付箋までつけていたのに、ここにあったことを忘れていました。
尤も全体のページ数長いですから、印象だけ残って全部を覚えてはいないですものね。
私もこの御文章を皆様に紹介したかったのです。
うの花さま、有難うございます。
496
:
金木犀
:2012/04/22(日) 21:48:58 ID:XJ2w09Xw
うの花様ではなく、うのはな様でした。すみません。
497
:
訊け氏へ
:2012/04/22(日) 22:24:50 ID:El6gIMAw
金木犀様。
合掌、ありがとうございます。
金木犀様は大東亜戦争や靖国問題にお詳しい感じがするので、
また機会があれば、いろいろと教えていただければ幸いです。
おやすみなさい。
再拝。
498
:
うのはな
:2012/04/22(日) 22:25:41 ID:El6gIMAw
訊け氏へ というのは うのはなです。
499
:
金木犀
:2012/04/22(日) 22:54:03 ID:XJ2w09Xw
うのはな様
有難うございます。
そのようにおっしゃって頂き恐縮ですが、私の知っていることは、
実は雅春先生や、ネットのいろんなサイトからの受け売りです。それらの寄せ集めのような
知識であり、教えるには自信がありませんが、ここには役行者様もいらっしゃって
よくご存知のようですから、色々やり取りしているうちに、もし間違ったら訂正してくださるでしょう。
うのはな様も知識は豊富だと拝察します。お互いに勉強しあえたらいいですね。
そういえば春らんまん様もよくご存知のようでしたよね。
うのはな様のいろんな投稿、いつも感銘受けました。引用の文章もですが、乙女の祈り最高でした。
それに花々素敵でしたね。とくに野の花が素敵でした。
500
:
SAKURA
:2012/04/22(日) 23:26:30 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者様 へ
こんばんは…ロ−マ字の【SAKURA】です。御無沙汰していますが…
久しぶりに…【仏教典…】以前からの続きですが“投稿”させて頂きます。
【はじめの第1章…】からの“続編”で〜〜〜〜〜す!
■第2章 最後の教え
1.釈尊はクシナガラの郊外、シャ−ラ樹の木の中で最後の教えを説かれた。
弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ、
他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えを
よりどころとしてはならない。
わが身を見ては、その汚れを思って貪らず、苦しみも楽しみもともに苦しみの因であると思ってふけらず、わが心を観ては、その中に「我」はないと思い、それらに迷ってはならない。
そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。わたしがこの世を去った後も、
このように教えを守るならば、これこそわたしのまことの弟子である。
2.弟子たちよ、これでおまえたちのために説いたわたしの教えは、常に聞き、常に考え、
常に修めて捨ててはならない。もし教えのとおりに行うなら常に幸いに
満たされるであろう。
教えのかなめは心を修めることにある。だから、欲をおさえておのれに克つことに
努めなければならない。身を正し、心を正し、ことばをまことあるものに
しなければならない。
貧ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。
もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。
心に従わず、心の主となれ。心は人を仏にし、また、畜生にする。迷って鬼となり、
さとって仏と成るのもみな、この心のしわざである。だから、よく心を正しくし、
道に外れないよう努めるがよい。
3.弟子たちよ、おまえたちはこの教えのもとに、相和し、相敬い、争いを起こしてはならない。
水と乳とのように和合せよ。水と油のようにはじきあってはならない。
ともにわたしの教えを守り、ともに学び、ともに修め、励ましあって、道の楽しみを
ともにせよ。つまらないことに心をつかい、むだなことに時をついやせず、さとりの花を摘み、道の果をとるがよい。
弟子たちよ、わたしは自らこの教えをさとり、おまえたちのためにこの教えを説いた。
おまえたちはよくこれを守って、ことごとにこの教えに従って行わなければならない。
だから、この教えのとおりに行わない者は、わたしに会っていながらわたしに会わず、
わたしと一緒にいながらわたしから遠く離れている。また、この教えの通りに行う者は、
たとえわたしから遠く離れていてもわたしと一緒にいる。
4.弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。別離も遠いことではない。しかし、いたずらに
悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なない者はない。今わたしの身が朽ちた
車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。
いたずらに悲しむことをやめて、この無常の道理に気がつき、人の世の真実のすがたに眼を
覚まさなければならない。変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである。
煩悩の賊は常におまえたちのすきまをうかがって倒そうとしている。
もしおまたちの部屋に毒蛇が住んでいるのなら、その毒蛇を追いださない限り、
落ちついてその部屋で眠ることはできないであろう。
煩悩の賊は追わなければならない。煩悩の蛇は出さなければならない。おまえたちは
慎んでその心を守るがよい。
5・弟子たちよ、今わたしの最期の時である。しかし、この死は肉体の死であることを
忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、
傷つき、こわれることはやむを得ない。
仏の本質は肉体ではない。さとりである。肉体はここに滅びても、さとりは永遠に
法と道にいきている。だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのでなく、
わたしの教えを知る者こそわたしを見る。
わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師である。この法を保ち続けて
わたしに使えるようにするがよい。
弟子たちよ、わたしはこの人生の後半四十五年間において、説くべきものはすべて
説き終わり、なすべきことはすべてなし終わった。
わたしにはもはや秘密はない。内もなく、外もなく、すべてみな完全に説きあかし終わった。
弟子たちよ、今やわたしの最期である。わたしは今より涅槃に入るであろう。
これがわたしの最期の教戒である。
501
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/22(日) 23:38:06 ID:45UP8rIY
永久に国護り給わん」と言う本はどのような本なのだろう??
興味あります。。。色々と知る事が出来てネットはいいです。
502
:
金木犀
:2012/04/23(月) 05:41:56 ID:XJ2w09Xw
『永久に国護り給わん』というのは本ではなく、雅春先生が、すみ
503
:
金木犀
:2012/04/23(月) 05:49:09 ID:XJ2w09Xw
すみません、途中で、切れてしまいました。
雅春先生が、神誌住吉大神について書かれたものを『生長の家』誌の編集部が
集めて53年11月号で、集大成して載せたものです。
生長の家出現の意義がわかりやすく書かれています。
龍宮住吉本宮御造営奉祝特別企画(昭和53年)
永遠(とわ)に国護り給わん
谷口雅春 (生長の家誌編集部構成)
第一章住吉大神出現の意義と生長の家
生長の家発祥の因縁について
生長の家の教えは一宗一派ではない。万教の真髄は唯一の「真理」に帰一する、真理は普遍的なものであるから、どの正しい宗教にも宿っている。その真理を明らかにするとき、あらゆる正しき宗教は同一真理を宣布しつつあるのだということが明らかになり、宗教と宗教とが互いに仲よく手をつなぐことができるようになり、祖先伝承の宗教を棄てるのでもなく祖先の宗教が生きて来て功徳があらわれて来るのであります。
この真理の啓示を受けましたのは、私が兵庫県武庫郡住吉村に住んでおりました頃に、勇湯という銭湯がありまして、午前五時からもう新湯が沸いておりましたので、風呂好きの私はいち早くその銭湯へ出掛けて行き、快い湯加減に温まって爽かな気持ちになり、身も清浄、心も清浄に洗い浄めたそのままに、勇湯から三丁ばかりの距離にある産土神社なる本住吉神社に、毎朝日参して日本国の隆昌と皇室の御安泰とを祈願して帰ることにいたしておりました際に、霊感をいただいて始まったのが生長の家の人類光明化運動であります。
生長の家大神とは住吉大神(すみのえのおおかみ)である
生長の家大神とは住吉大神(すみのえのおおかみ)である
この生長の家大神とは誰方(どなた)であるかと言いますと、『古事記』に、天照大御神様がお生まれになるに先立って、この大宇宙浄めの神として、水と塩(霊)とを以て浄め給うところの龍宮海の神様として現れられたところの上筒之男神、中筒之男神、底筒之男神と言われる三柱の神様を一体に総称して、住吉大神(俗称すみよしの大神)と申しているのであります。
『古事記』にあらわれたる住吉大神は其の後同書に塩椎神又は塩椎翁(日本書紀・神武天皇の巻)として現れていらっしゃるのであります。塩椎神は塩筒之男神であらせられまして、海の潮(うしお)を上潮(うわうしお)、中潮(なかうしお)、底潮(そこうしお)と分けまして上筒之男神、中筒之男神、底筒之男神の三柱に顕れていられるのでありますが、総じて塩筒之男神と申し上げるのであります。此の神様は宇宙創造の神であると同時に宇宙浄化の神であり、東道(みちびき)の神でもいらせられます。
504
:
金木犀
:2012/04/23(月) 05:54:13 ID:XJ2w09Xw
住吉大神と阿弥陀仏、観世音菩薩との関係
この住吉大神は如何なる神様であるかと言いますと、人生を住みよき世界にする所の神様であります。仏教で言うと、この神様は阿弥陀仏にあたるのであります。阿弥陀仏の慈悲の働きが観世音菩薩、阿弥陀仏の智慧の働きが勢至菩薩であります。阿弥陀・観世・勢至の三尊一体であります。生長の家の神様は観世音菩薩であると言われておりますが、その本地は阿弥陀仏であります。
聖観世音菩薩の仏像を拝見致しますと、宝冠をかぶっておられる。その宝冠の真中に普通は、もう一つ仏像が刻んであるのであります。その宝冠の仏像は阿弥陀如来であります。これは観世音菩薩が阿弥陀仏の示現であることをあらわしております。
阿弥陀仏は尽十方に満満(みちみち)ておられる“宇宙の本体”的実在であらせられ、尽十方無碍光如来とよばれているのであります。尽十方というのは八方に天地の二方を加えて十方であります。十方をことごとく尽してあらゆる方角にも充ち満ちていられる無礙の光が阿弥陀仏なのです。無礙というのは、どんなものもさわりにならない障礙物(しょうがいぶつ)にならないで何処にでも満ちておられることであって、「光」というのは「智慧」のことであります。
宇宙遍満の智慧が阿弥陀如来である。如来は尽十方に満ちみちておられるから、「彼の仏如来は去って去る所なく、来って来る所なく」と、法顕訳の大無量寿経に書いてあります様に、去来して、どこからどこへ来迎あそばれてお救けになるというような、そういう空間的な距離的働きがなく、十方――あらゆる方角――に満ちみちておられるのが阿弥陀如来であります。
だから現実に人格的に姿を顕して人をお救いになるという時には、阿弥陀仏そのままでは出てこられないで“観世音菩薩”のお姿をして出て来られるという事になるのであります。この観世音菩薩が生長の家の神様なのであります。
普門成就の観世音菩薩
さて、この観世音菩薩という仏様は一宗一派の仏様ではないのでありまして、これは仏教のどんな宗派の方でも、真言宗であろうが、浄土宗であろうが、日蓮宗であろうが、観世音菩薩を拝まないところの仏教はないのであります。
この観世音菩薩の功徳がかかれてあるところのお経は、法華経の“普門品第二十五”という所に書かれているのであります。この“普門品第二十五”というところを、独立さして“観音経”とも謂われているのであります。観音様は、何故“普門品”に収録(おさ)めてあるかと言いますと、“普門”というのは、“あまねき門”ということで“あまねく”というのは“どこにでも”ということです。“門”というのは“宗門”です。観世音菩薩はあらゆる宗門を、あまねく成就するところの仏様であるから、普門成就の仏様として「普門品」に収録めてあるのです。
このように観世音菩薩という仏様は、普門成就のキリスト教にも、神道にも、この観世音菩薩は示現して救いを垂れていられるのです。神道に於いては既に申しました様に、住吉大神、塩椎大神、それからまた綿津見神という様に龍宮の大神として顕れてましますのであります。
505
:
金木犀
:2012/04/23(月) 05:56:11 ID:XJ2w09Xw
あ、本流青年掲示板に載っていますから、後はそこで読んで下さい。
506
:
金木犀
:2012/04/23(月) 06:03:59 ID:XJ2w09Xw
>>503
訂正します。
神誌住吉大神について → 神誌で住吉大神について
507
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/23(月) 06:18:32 ID:T2l6C5DY
わ=====い!!
金木犀さん!!!
ありがと==========!!!
青年板 行ってきま====す!!
508
:
ハマナス
:2012/04/23(月) 09:49:08 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
今週も皆さまによって、喜びいっぱいの光輝く一週間でありますように。
愛は他と共に自己をも癒す (『新版 生活の智慧365章』P.135)
『愛は凡て癒す』と云う谷口清超氏の著書の中には無数の奇跡的治癒が書かれているが、
ブラザー・マンデス師の著書の中にも次のような愛の奇蹟が書かれている。
或る婦人が慢性の頭痛と、中耳炎とで悩んでいたが色々の医療を受けても治らなかった。
この婦人がマンデス師の説教会にやって来て、その由を訴えたのである。そして「自分の
心が完全になるまでこの病気は治らないでしょうか」とたずねた。マンデス師は「自分の
心が完全になるまで、神の救いが来ないのであれば、すべての人間は永遠に神の救いを
待ちのぞむばかりで救われる事はないでしょう」と答えた。そして「今あなたが自分の事
を忘れて人を愛そう、人を癒してあげたいと云う愛の心を起こしたら、神のすべてを癒し
給う愛の力が流れ入ってあなたは癒されてしまうのである。さあ、私が神の癒す力の仲立ちに
なってあげましょう。あなたは自分の病気を治そうと云う考えを捨て、自分の病気を忘れて、
他の人を癒してあげようと思う心になって、他の病人に手を触れてあげなさい」と言った。
そしてマンデス師は、その頭と耳とが慢性的に悪い病人の手を握り、握られた彼は脊椎と
臀部の痛む病人に手を按して、「神の癒す力、われを媒介としてこの人に流れ入り癒し給う」
と念ぜしめたのである。すると、脊椎と臀部の神経痛の患者は忽ち治ると同時に、それを
癒そうと愛の思いを起こした人の慢性の耳及び頭の病気も治ってしまったのであった。
感謝合掌
509
:
a hope
:2012/04/23(月) 10:28:49 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
出世するには人を妬むな
出世しようと思う人は嫉妬心を起こしてはなりません。私達が偉い人に深切にした場合、
「あいつは目上に阿諛追従(おべっかついしょう)をしている、けしからん」と思う心持を起こす人には、
実はその人自身に阿諛追従する気持ちがあるので人のすることがそう見えるのです。
自分にある阿諛追従の心を無理に抑えているので、その経験が心にあるから人が偉い人に深切にしていると
「あいつは阿諛追従しているのだ」と想像できるのであります。
環境は心の影です。他(ひと)が悪いと見える場合には自分が悪いのです。
人があいつ泥棒をするかも知れぬと思うならば、その人は自分に泥棒する根性があって、
それを心のうちに経験したことがあるからであります。
ここにひとりの赤ん坊が人のものを盗って来て、そうして自分のものとして舐めているとしても、
これは子供同士で見ると、あの赤ん坊は泥棒したとは思わないのであります。
子供はむしろ自他一体の観念が強いために自分のものは他のもの、他のものは自分のものだと思っている。
ところが自分と他との区別のハッキリした大人になると「あいつ泥棒した」という事になります。
大人になるといろいろの経験から「盗み」という思いが心のどこかに教えられてあるので、
その思いに照らして「泥棒した」と判るのであります。
人間は自分の心にない事は判らない。他を阿諛(おべっか)使いだと思うのは、
自分に阿諛使いの心があるのであります。そういうふうな心持が自分にあるものですから、
素直に偉い人や目上の人を尊敬する人を阿諛使いだと邪推する事になるのであります。
(つづく)
510
:
ももんが《宗教・詩》
:2012/04/23(月) 12:14:35 ID:XXCuaQns
〜失望と神へ恨み〜
『願いが叶う、一時、一瞬、手前で、その願いが、跡形も消え去る時。心に大きいな、“失望”が、顕れる。この“失望”が強い時、あるいわ、蓄積され、増幅された時、その人は、“神へ強い恨み”を抱き、その心に、“悪魔の子”が現れ、“悪の権化”と化していく。』
〜魔王の王国〜
『光は、深海までは、届かない闇である。それでも、生命《せいめい》は活きている。それと、同じで”暗黒“もまた、存在する。
”暗黒生命“を無しにしてならない。神の使命にて暗黒を支配しているのである。光明だけが、実相にあらず。両者相まって、世界に初めて調和を成す。』
511
:
ハマナス
:2012/04/24(火) 08:46:29 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
今日は、谷口輝子先生の24年祭がございます。
祈り合いの神想観 (『新版 生活の智慧365章』P.136)
眼底の網膜剥離で、自分のために読書するのだったら、十分間と継続して読書できない人が
他の人の腎臓炎を治してあげたいと思って幾時間もその腎臓炎の患者の枕頭で『生命の實相』を
読んであげたら、その腎臓炎の患者も症状が非常によくなったが、自分の網膜剥離も軽快して
少しも痛まなくなったと云う体験談を発表された誌友があった。
生長の家本部の飛田給練成道場に於ける「祈りの神想観」と云うのは、互いに相向かい合って
自分の病気(その他の不幸)や自分のことは全然忘れて、互いに相手が神の愛によって既に完全
に癒されていることを観ずる神想観であって、それが驚くべき奇跡的効験をあげつつあるのも、
「自己」忘れて他を救おうと云う「愛」そのものになったとき、神の愛は完全に流通するものだと
云う実証である。天理教で、悪因縁を断ち切って完全に業から解放されるためには、「わが身
わすれて日の寄進」と教えているのも正しい事である。寄進と云うのは必ずしも労働奉仕ばかり
ではない。寄進と云うのは布施行と同じことである。報いもとめず唯与えることである。
「祈り」を与えるのも偉大なる布施である。
感謝合掌
512
:
a hope
:2012/04/24(火) 08:57:13 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
素直が一等大なる美徳
私達は素直になる事が一番必要であります。生長の家の生き方は素直な生き方であります。偉い者は偉いとして、偉くないものは偉くないとして、光は光として、影は影として正直に一切のものをそのまま受容(うけい)れる心持には、ちっとも無理がありません。無理があるのはどこかに本当でないところがあるのです。耳が聞こえないとか、目が見えないとか、或いは鼻がよく利かぬとか、蓄膿症とかいう人の中には、素直な気持ちが乏しい人が多いのであります。
素直な気持ちが乏しい場合、すなわち総てのものをそのまま受容れる心がない場合には、心の目を閉じ、心の鼻を抑え、心の耳を塞いでいるのでありますから、それが肉体にあらわれますと、目が疎くなったり、耳が聞こえなくなったり、鼻が利かなくなったりするのであります。蓄膿症や、乱視や、中耳炎などはこれから起こることがあります。それですから、健康のためにも成功のためにも何でも素直な心、ハイハイというような心持、一切のものをそのままありがたく受容れるという心持になることこそ非常に大切であります。
すべてを素直に受容れる心は神の心であります。神というものは善にもあれ、悪にもあれ、太陽の照るがごとく一様に光を与えてくださる、これが本当の神であります。この大包容の心持になった時、病気の治る事はもちろんですが、総ての事業にも成功するのであります。これが生長の家の生き方であります。小さい心は小さいおかげしか受けることができません。
太陽に黒点があっても黒点なんか目もくれないで、太陽の光の良いところばかり讃歎(さんたん)して吸収する、そうすると私達は生き生きと自分自身がその太陽に育てられて伸びてくるのであります。私達は科学者が太陽の黒点を研究している間に黒点なんかを忘れてしまい、「ああ私の暖かい太陽よ!光の太陽よ!」と喜ばねばなりません。そういう人は必ず発達し成功するのであります。
(つづく)
513
:
ハマナス
:2012/04/25(水) 00:05:29 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
女子会の板の方にも、引用させて頂きましたが、今日4月24日は谷口輝子先生のご命日ですので、
こちらにも謹写いたします。
谷口輝子先生著『めざめゆく魂』の『はしがき』
彼女というのは私の妻のことである。人間は、彼がどんな女性を自分の妻にするかということによって、
自分の運命が変わってくるのである。若し私の理想に向かって彼女がついてくることを拒んでいたならば、
また、拒まないにしても反対意見をもっていたならば、私はただの会社員で一生涯を終わっていたかも知れないと
思うのである。彼女は私が浴衣一枚の着のみ着のままで縄の帯を締めて、世界で一ばん貧しい生活をするのが理想
だと思っていた時、結婚してくれたのである。たしかには売れるという目算もない精神修養の雑誌を出して”人類
光明化“と云う大それた運動を起こすというような第三者から見たら狂喜の沙汰だと思えるような仕事を私が初め
ても、反対するどころか、それこそ人間としてうまれた生き甲斐であるといって激励し協力してくれたのが彼女である。
もし、彼女がそんな理想には、とて馬鹿らしく随いていけないというような妻であったならば、私は屹度、その運動を
つづけて行く勇気を失っていただろうと思われるのである。私はこの随筆を最初のページから読みながら、生長の家の
人類光明化運動の今日のあるのは、まったく、この妻のお陰であると自然に感謝の念で眼がしらが熱くなるのを感じた。
(中略)
こうした問題とたたかいながら彼女は始終かわることなく私の理想について来てくれたのである。私は妻の協力に支え
られつつ、突兀(とつこつ)たる人生の険路を越え、色々の迫害や侮辱やマスコミの見当ちがいの批評に耐えながら
生長の家の人類光明化運動が、実際に多くの人を救う今日の実績を築き挙げるに至ったのである。それは神が私に「真理」
の炬火(たいまつ)を授けられた結果であり、人々が救われるのは、その「真理」の力によるのであって、私の自力では
ないに相違ないけれども、この運動の初期時代の貧しさと、色々の困難とをものともせず、四十年間もの長い間、この
「真理」の炬火をもちつづけて人類の先頭に立って走りつづけてくれた妻があったればこそであるのである。まったく
この随筆の著者は私の魂の半身であると共に、生長の家・人類光明化運動の半身でもあるのである。
本書を読む人はその随想随筆に始終一貫して流れている清潔は魂の声に必ず何らかの共鳴を得られるに違いないと思う
のである。
昭和四十四年二月十一日 谷口雅春先生
514
:
95%ロムの信徒
:2012/04/25(水) 09:19:13 ID:tWP7OEjY
甘露の法雨
神
ある日天使生長の家に来りて歌い給う
創造の神は五感を超越している六感も超越している・・・・
五感六感を超越しているもをどうやって感じたのだろうか・・・
私には7感というものがあるのだろうか・・・ずっと疑問なんです。
515
:
95%ロムの信徒
:2012/04/25(水) 09:20:35 ID:tWP7OEjY
突然 すみませんでした。
516
:
a hope
:2012/04/25(水) 09:42:05 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
花びらの降るような褒め言葉(前半)
人の悪口(あっこう)を言う暇があれば、良き言葉を発すると、自分自身がその良き言葉の力によって育てられるのであります。善き言葉は空から花びらが降るような、音楽が聞えてくるような美しい感じがしますが、悪しき言葉は雷のように吾々の心を真黒にするのであります。空から花びらが降るように讃嘆(ほめたたえる)語(ことば)をもって雨降らすのが生長の家の生き方であります。
この世の中を住みよくするのも住み難(にく)くするのも、皆さん自身の言葉一つできまります。必ずしも金があるから、それで人間は幸福(しあわせ)だというものではない。金が幾らあっても、その家の中が針の筵(むしろ)のように苦しい世界であって、奥様がヒステリーになったり、子どもが疳虫(かんむし)になったりしていてはなんにもなりません。
それで皆さんは今日から、空から花びらが降るように、いつも善き言葉を雨降らそうではありませんか。皆さんの口から常に花びらのような良い言葉が出るようになったら、どんな狭い裏長屋におりましても、そこがこの世の極楽となり天国となるのであります。たいてい会社や、工場商店などの勤め先へ行ってもやはり能率がはっきり上がらないで、そのために勤め先で又ぶつぶつやっている。その結果、昇給もしないという事になります。事業の発達しないのも、元はと言うと、皆家庭が悪いのであります。
家庭の中で讃(ほ)め合わず、暗い心持で、責め合っている時には、事業は失敗し、工場や鉱山では故障が起こり、子供の健康も成績も悪くなります。何事も家が元になるのでありまして、生長の家へ来れば病気が名乗るという事も、要するに人間の身体の病気を治すのではなく、心の持ち方をかえさせて家の病気を治すのであります。家の病気を治すと言っても家に何かあるのではない、それは家の家族の互いの調和という事ができていないことです。家族と家族とが調和していなければ、喧嘩しながら互いに争って熱心に『生命の實相』を読んでも、病気もなおらないことがあり、成績がよくならない場合が多いのです。だから何よりもます家族同士仲よくして互いに褒め合う生活をして『生命の實相』を読む事であります。褒める言葉ぐらい結構な言葉はないのであります。
ところがなかなか家族同士が褒め合えないものであります。というのは、それは現象(あらわれ)に執(とら)われて、目前の姿に執われて、人間の実相(ほんとうのすがた)を見失ってしまって、人間が神の子である、ここが現実(このよ)の浄土であるということを忘れてしまって、ちょっと何か外に現れた失敗があると、それに執われてしまって、一分間あった失敗を一時間ぐらい怒鳴りつける。その上、そのことをいつまでも心に持続けるというような事をしているような人たちの集まっている家庭は、いつも面白くないのであります。そして「自家(うち)の親爺は一日中叱言(こごと)ばかり言ってる」と言う奥さんもありますけれど、必ずしもそうではないので、本当はその御主人が偶(たま)に十分間ぐらい怒鳴った事を、一日中叱言言うと誇張して奥さんが考えている場合が多いのです。
それは、心の中にその叱言を常に持続けているから、十分間位ちょっと叱言を言った事が一日中言った様に思えるのです。どんな悪い主人でも、どんな疳癪持ちのお父さんでも、一日中叱言をいう主人はいないのであります。ときたま叱言がある場合でも、それは一日のうちの何分の一に過ぎない叱言であります。
(つづく)
517
:
うのはな
:2012/04/25(水) 18:01:46 ID:El6gIMAw
奇跡のごとく見えるもの
昭和五十三年四月二十一日。
府中青年会の招請を受けて衛藤氏宅の二階で講話していました。そのとき、片岡委員長から申し出があり、
午後九時からはスライドを映写する時間にして欲しいということでした。それで、十分前に話をやめて、委員長の方に
バトンをわたそうとしたのです。
すると、片岡氏は非常に困った表情をしてこういうのです。
「実は、幻灯機を自動車内においたまま、鍵がかかってしまって出すことができません。
鍵も車内の腰掛けの上においたままです。もう二時間も前から府中や国分寺の町の鍵屋を探し、万能鍵を買って
きてあげようと努力してみましたがどうしてもあきません。万策つきました。
もう先生に祈っていただくより外しかたない状態です。よろしくお願いします」
参会者は皆生長の家の誌友で、祈りに理解のある人たちなので、相談することにしました。
「今、委員長が話した通りです。祈りによって自動車の中にあるスライドを出してこようということになったのです。
それで、これから皆さんと一緒に祈ることにしますが、そんなバカげたことはできるはずがないと思われる方は、申しわけありませんが
席を外して下さい。祈りについて疑いをもっている人の念が、祈りの実現を滅殺してしまうことになりますので、ぜひ御協力をして下さい。
祈りについて真正面に信じている人だけ残って下さい。
つづく
518
:
うのはな
:2012/04/25(水) 18:25:24 ID:El6gIMAw
517つづき
では、祈りにうつりますが、その前に、祈りについての心のリズムをととのえる言葉を唱えますから、
眼をつむったまま静かに聞いていて下さい。このように心をととのえることが第一の関門です。
● 祈りに入るための心の姿勢
次の聖句を繰返し念じます。
為し得ばというか、信ずる者には、凡ての事なし得らるるなり。(マルコ伝 九 ニ三)
なんじら心を騒がすな、神を信じ、また我を信ぜよ。 (ヨハネ伝 一四 一)
神は凡ての事をなし得るなり。 (マタイ伝 一九 ニ六)
怖るるなかれ、我なんじと偕にあり (イザヤ書 四三 五)
かつ祈りのとき何にても信じて求めば、ことごとく得べし。 (マタイ伝 ニ一 ニニ)
われ汝の行為を知る、汝は冷やかにもあらず熱きにもあらず、
我は寧ろ汝が冷やかならんか、熱からんかを願う。かく熱きにもあらず、冷やかにもあらず
ただ微温が故に、我なんじをわが口より吐き出さん。 (黙示録三 一五〜一六)
されば大いなる報いを受くべき汝らの確信を投げすつな。
なんじらの神の御意を行いて約束のものを受けん為に必要なるは忍耐なり。
いま暫くせば、来るべきものきたらん、遅からじ。 (ヘブル書 一〇 三五〜三七)
誠に汝らに告ぐ、人のもし此の山に「移りて海に入れ」と言うとも、其の言うところ必ず成るべしと
信じて、心に疑わずば、その如く成るべし。 (マルコ伝 一一 ニ三)
つづく
519
:
ももんが《宗教篇・聖典》
:2012/04/25(水) 18:48:28 ID:XXCuaQns
〜根源と礎《いしずえ》〜
人間は創造されつつある。それは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるため、また、それによって、自分の魂を救うためである。
さらに、地上の他のものが創られつつあるのも、人間のためであり、人間が創られた目的を達成する上で助けるためである。
従って、人間は、それらのものが自分の目的を達成する上で助けとなる度合いに応じて、それらを用いる必要があり、妨げとなる程度に応じて、それらを放棄しなければならない。
そのために、われわれは、自分の自由意志に委ねられ、禁じられていない限り、われわれの方からは、病気よりも健康を、貧しさよりは富を、不名誉より名誉を、短命よりも長生きなどを好むことなく、ただわれわれが創られた目的へよりよく導くものだけを好み、選ぶべきである。
〜イグナチオ・デ・ロヨラ著『霊 操』より〜
520
:
うのはな
:2012/04/25(水) 20:16:44 ID:El6gIMAw
518つづき
次に、祈りの実現のための瞑想の注意を申します。
1 願望成就には、あらゆる疑惑がなくなってしまうまで、信じて瞑想を続けます。
2 願望は必ず実現すると、ハッキリと心に確信します。
3 ズバリ、その欲するものを得たりと深く信ずるまで瞑想を続けます。
4 この信仰は幼児のように全く単純であればあるほどよろしいのです。
5 これまでに神がないたまうた事蹟をかぞえあげて、神への感謝の大饗宴をひらきます。
神への感謝こそ霊的生活への冒険の第一歩であり、最も重要なことです。
では、神想観にうつります。
招神歌をとなえます。
大いそぎで神様を招ぶときは、「すみのえのおおかみ」と感情こめてくり返しよびます。
谷口雅春先生がお示し下さった方法は、熱心に「神よびうた」を唱えることです。
そうすると具体的な導きをいただくことができます。
次に、神様に対する大いなる信頼と感謝の心を湧きたたすことです。
神の眼は雀の涙さえ見まもりたまう。一羽の雀も神のゆるしなくては屋根より落つることとはないのです。
ましてや神の子人間については、親さまなる神は、わが心のすみずみまで知りたもうて、わが求むるに先立って、
なくてはならぬものを知りたまい、それを与えたくて与えたくてたまらないのが神の愛です。
ですから、私たちは、神様にお願いするよりも、ただひたすら神様の救いを受ける最大の近道になっています。
その近道のパイプをひらくにはどうしたらよいかと言うと、今までの人生で、神様が具体的にどんなにか自分を愛し、
わがためにどんなにたくさんの導きをして下さったかを数えあげて、その一つ一つに丹念にお礼を申しあげて、随喜の涙を
流さんばかりの感動をこめて感謝もコトバをささげることにします。そうして、わが願いについては、神様はすでに御存知であって、
今、それを実現する道を講じておられるのだと、安心してすべてを神様のなさることにおまかせするのであります。
では、皆さん、それぞれに、これまでに神様から戴いた御愛念を探しだして感動こめてお礼をする行事をはじめて下さい。
各自、それぞれ黙然に入る 」
私は、『生命の實相』にふれて以来、数々の奇跡ともいうべき神様の恩寵について思い浮かべては感謝の大饗宴をひらいた。
先ず第一に、わが家の子どもたちは、神様にお願いしていただいた、神様から授けられた宝である。
この世の何ものをもっても代えることのできないすばらしい神の子を授けて下さった神様に、無限の感謝をささげます。
学芸大学(当時は師範学校)に付属中学が新設されたとき、校長にならせて下さいと神様にお願いしました。
一旦は任命されたのが御破算になり、民主的な選挙制度となって選挙になりました。波乱万丈のなかで、神様はいつもはげまして下さり、
僅少差で当選させて下さいました。あのときの神様の導きがなければ、私は、あぼごたごたをのりきることはできませんでした。神様ありがとうございます。
次に、大学教育になるための資格審査がありました。私にはもとるべき学歴も学問上の成果もあげてなかったのに、全く不思議という外はありません。
奇跡的に文部省の資格審査にパスしました。私は早く業績をあげ、学位を取得する必要にせまられ、あせりにあせって、学者としは全く致命傷の失敗をしてしまいました。
そのとき、神様は、私に本当の信仰というものを教えて下さいました。
何とお礼を申しあげてよいかわかりません。
つづく
521
:
SAKURA
:2012/04/25(水) 22:27:16 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
今日!「生命の実相」拝読しながら〜
■生命の実相抜粋・・・
『文章術によって生命力を振起する道を拓いたのが
『生命の実相』である。学と術とはちがう。現象学は正確に
告げる必要があるし、現象学は現象を正確に告げる必要があるし、人を生かす術は
現象を飛び越えさせてしまう。』 (谷口雅春著)
此の文章に、心打つものがありました。「現総裁先生…」の書物…
現代版としてマッチ致すものと、私なりに解釈致しました。此処で、改めまして、
『投稿』という形を、とらさせて頂きます…。
■■ 【 心でつくる世界 】
【序章 生長の家の世界観】
―――現実は仕方がないのか?―――
「それが現実だから、仕方がないよ」
―――こういう言葉を、我々は学生時代によく使った記憶があるだろう。その頃は、
子供から大人になりつつある時期だから、家庭や学校で学んだ「正しい生き方」
とか「理想」や「夢」を胸に抱きながらも、そのような望ましい生き方ができず、
あるいは自分の希望が実現しないことが多かった。そんな時、「壁にぶつかる」と
いう表現もよく使ったはずだ。もちろん、大人になっても同じ言葉を使いたい時は
あるだろう。が、大人は“ 現実 ”が何であるかを先に見越して「仕方がない」
ことに手を触れなくなりがちだし、あらかじめ “壁 ”との接触を避ける方法を
考え出していたりする。また、夢などとうに失っている場合には、 “壁 ”の
存在も感じなくなっているかもしれない。だから多くの大人は、学生の頃の覇気を
失い、“現実”や “壁” とは闘わなくなる。そういう “敵”が自分より強い
ことは、もう十分経験してわかっていることだからだ。
このようにして我々は、いつの間にか “現実”や “壁” というものが、自分
一人の手にはとても負えない、何か堅固で、頑丈で、恐るべき存在であるかのような
印象を心の中に作り上げてしまう。そして次第に、そのようなものが ”現実世界“
であり、客観世界であると思いこむようになる。自己は現実の外側に違和感をもって
対峠し、自分と客観は対立してくる。重要なのは、この迫り来る “現実” とどう
取り組み、“客観世界” にどのようなインパクトを与えるかだ、と思う。
だから、「現実的な生き方をしろ」と言えば、「理想や夢を追うのは価値がない」という
ニュアンスが含まれ、「主観的な問題だ」と言えば、「あまり重要でない」という意味が、
その背後にある。
そのように広大で、硬質で、無情な世界の中で、人間はたった一人で生きて
いかねばならないと思うと、我々は時に、たまらなく不安になり、寂しくなる。
そこで恋人や家族にその「不安」や「寂しさ」を癒してもらおうとする。
また、この孤独の不安の問題を解決するために、宗教の門を叩く人もあるだろう。
すると、そんな人に向かって「宗教に入るのは、現実からの逃壁だ」と非難する人も
出てくる。また、「孤独に耐えられない弱者の溜り場が、宗教だ」と言う者もいるだろう。
こういう宗教批判者の心の中には、独力で “壁”を破り、“現実”を
自力でネジ曲げることができるのが強者であり、人生の勝利者であるとの考えが
あるのだろう。そこには、やはり“現実世界”堅固で、容易に変えることのできない
世界が、本当に我々の周りにあるのだろうか?
<つづく> No.1
522
:
SAKURA
:2012/04/25(水) 22:28:30 ID:FEa/NNlc
<つづく> No.2
祇園精舍の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりを
あらはす。おごれる人は久しからず、只春の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。
これは有名な「平家物語」の出だしだ。平家の登場と降盛、そして滅亡の様子を、
年代を追って長編叙事詩として描き、天下を自分のものにした者もいずれ滅びるという
「盛者必衰」の仏教的無常観をよく表している。「諸行無常」とは、
すべての人間の行いは、常に移り変わり、常なるものはない―つまり、我々の周りの
世界は、堅固で、動かし難いものではなく、いつも流動して変化して
止まることがない、というわけだ。
日本人ならば恐らく誰もが、学校でこの文章を読んだことだろう。そして、「無常」
ということの意味を学んだはずだ。にもかかわらず、社会から出てから
「現実は堅固だ」という印象をもっているとしたら、それは一体どうしたことだ。
我々はもしかしたら、“現実世界”は変化するが、自分の周りの“壁”だけは堅固
だという、奇妙な認識をもっているのかもしれない。この考えが、なぜか奇妙か?
それは、自分のまえにある“壁”が現実ではないという意味になるからだ。
“壁”が現実でなければ、それは“夢”のようなものであり“夢”が堅固である
はずがないからだ。
再合掌
PS:
次回も…引き続き“続編…”投稿させて頂きます…。
■【「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板】に、私なりの解釈論を、
投稿させて頂いておりますので…。
523
:
ハマナス
:2012/04/26(木) 00:01:41 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
愛他心は自己の病を癒す (『新版 生活の智慧365章』P.127)
九州の鹿児島だか宮崎高の講習会で、こんな体験談を述べた人があった。
一生懸命、自分の結核を治したいと思って神想観と祈りとを続けていたが、中々治らなかった。或る日、彼は神誌を
読んでいるうちにふと気がついたのであった。「自分は自分の病気を治すことばかりを念じて神想観をしていたが、
それは一種の利己心の表現でしかなかった。利己心を去ったとき、其処に神の救いがあらわれるのである」
そう考えてこの人は、もう自分の肺結核を治そうという考えを棄ててしまった。そうして神想観をするときには主として,
”世界平和の祈り“を念じたのであった。
「神の無限の愛われに流れ入り給いて、われに於て愛の霊光燦然と輝き給う。その光愈々輝きを増して全地上を覆い、
全ての人類の心に愛と平和の想いを以って満たし給うのである。」この祈りを毎日続けていたが、或る日ふと気が
ついてみると肺結核が完全に癒されているらしいので、医師にレントゲン検査をして貰ったが、結核の痕跡は全然
消えてしまっていたのであった。
感謝合掌
524
:
ハマナス
:2012/04/26(木) 00:04:11 ID:u5mC.eb2
すみません、訂正いたします。
宮崎高ーー>宮崎県
525
:
a hope
:2012/04/26(木) 09:14:43 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
花びらが降るような誉め言葉(後半)
ところが「自家(うち)のおやじは一日中叱言(こごと)言う」とか「一年中叱言を言っている」とか考えているのは、そう考える奥様や子供の心の中に「叱言」がいつまでも忘れられずに貯えられているからです。そういう場合にはどうもその家庭は面白くないから、良人の方でもあんな家内に話しかけても面白くないと思って奥様の部屋に行かないで、夫婦一つ屋根の下で同棲していながら、黙って十日も二十日も物も言わずに暮らしているような状態になる事もあります。
そんな状態はなぜ起こりかと申しますと、それは「悪いこと」をいつまでも心に持っているからであります。「悪い事」をするのは悪いには相違ありませんが、「悪いこと」を心に持っているのは尚いけないのです。なぜなら悪いことを実行するだけなら、やってしまったあとはもう無いのですけれども、心の中に持っている時は、その悪いことを何時(いつ)までも何時までも持っているからであります。
悪い事はなんでも忘れる事が、生長の家の生き方でありまして、たまには腹が立ってもよろしい。しかし五分間もしたらその腹立ちが心の中ですっかり帳消しになって忘れてしまうようでないといけません。それを生長の家では自壊作用と申しまして、業が解消する作用の一つとして叱言が出たり夫婦喧嘩をしたり、時には攫(つか)み合いをするという事がありましても、それは決して悪い事ではないのでありまして、過去に溜まっておった自分の念(おもい)―――その念の鬱積(うっせき)というものが形になったのであって、形に現れた時、内部の心もつれは消える時なのであります。
たまたま主人ががんがん言っても、「これはありがたい、これで二人の間の蟠(わだかまり)が今夕立のようにあらわれて明日は晴れるのだ、これで二人の中が晴天になるのだ」と思うと本当に晴天になって、よけい中が良くなる事になります。会社、工場で上役や同僚(なかま)の者とイザコザが起こるのも同じこと、業が消えてなお一層よくなる。「これはありがたい!」と感謝の心で受ければ、その後は一層よくなるのです。そういうふうに致しますと、私達の生活が本当に生長の家となり、栄える家の生活になるのであります。
(つづく)
526
:
金木犀
:2012/04/26(木) 09:26:24 ID:gUphdZ4w
『生長の家』誌 昭和53年10月号から謹謝致します。
生長の家入門講義 谷口雅春先生
(ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)
夫の浮気が本妻の肉体に病気をあらわした実例
今日はひとつ三角関係の解消した実例を話したいと思います。
私が日本の高知県の安芸市という所で講習会を開いて、講習会の最後が終りまして、その後で幹部会が開かれたのであります。
そこにはその町の生長の家の幹部が三十人ばかり集まっておりました。そこひとりの男が遅れて参りました。その遅れてきた男を他の幹部の人が指差して、「この人は小林君と言うんです。新聞記者なんですよ」
と言って紹介しました。そこで私は「あー、あんたは新聞記者ですか、何という新聞の記者ですか」と尋ねました。その人は答えました。「そんな大新聞じゃないんですよ。実はこの町の商工業の職業紹介の連絡機関みたいな新聞なんですよ」と言いました。「実は私の本宅と神戸との間にある芦屋という町にあるんですが、商用をもって私はこの町へ時々来ていたんです」彼はこう言って体験を話し出しました。
「そしたら或る女に引っかかりましてね、そしてこの町から離れられなくなったんでございます。それでこの町に滞在する口実を設けなければならないので、それでここで商工業の機関新聞みたいなものを拵えて発行することにしたんです。そうしたら、女性の本能で、芦屋における本妻がそのことを知りまして、非常に嫉妬心を起こしたんです。嫉妬心を起こしましたらそれが忽ち肉体に現れまして、家内の肉体の生殖器に変なおできが出来まして、何だか生椎茸の腐ったような形をして、押えてみるとブヨブヨとして、そんなおできが出来たんです。これは医者と家内自身と私の他は誰も知らないんですが、医者が色々と薬を変えてみるけれども、どんな黴菌か判らないので、どうしても治らなかったんです」
ところが、その時分にその地方に住んでいた坂井正義という生長の家の地方講師をしている先生がおりまして、その先生に本妻の奥さんが導かれたというのであります。坂井先生は奥さんにこう言われた。
527
:
金木犀
:2012/04/26(木) 09:27:57 ID:gUphdZ4w
生長の家入門講義(2) 谷口雅春先生
(ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)
夫が浮気する原因は?
「夫が浮気して他に女を拵えるのは、夫に対する愛情が足りないからするんですよ」と、そして、「他に女の愛情を求めるような夫は、それは本妻から貰いたいところの愛情に飢えているからだ。やさしい温かい女らしい愛情を本妻が充分満足するように捧げてくれないから、夫は女性的なやさしい愛情に飢えて、何処かに愛情のお腹の減った自分の心を満足させるような相手はいないかと思って、フラフラしていると、丁度そういう女がおって、それに引っかかるということになるんですよ。日常生活中に夫が不満を感ずることと云えば、例せば、あなたは夫がこうしてくれとこう言ってもその通りハイと素直にしないことも色々あったり、夫がこうしたいと言ってもなかなか素直にしないで、尻が重く動かなかったこともあるでしょう。そういう小さな不満足が積ると、夫は妻が自分に対して冷たいと感ずるようになるのです。妻の外に女を拵えるような夫は、本当は妻を愛し過ぎて、もっともっと妻から豊かなる愛情を欲しいと思っているのに、それを与えてくれないから、この愛情の空腹をどこか別の女から得ようということになるんですよ。だからね。夫が浮気をしたのはあんたが悪いんですよ、夫にお詫びをしなければいけません」
と言いました。
その奥さんは言いました。
「夫にお詫びをしようにも、夫はなかなか家へ帰って来ないんですもの」
坂井先生は言いました。
「帰って来ないでも、お詫びの心は通ずるのです。人間はどんなに距離がはなれておっても、心と心とは無線電信以上に通ずるんですよ」
こう説明してから、次のよう念じなさいと教えました。
「それには神想観をしてから夫の顔を思い浮かべて、名前を唱えて呼び出し、そのような気になって、“今迄私は妻として愛情の献げようが足りないのでございまして、誠に申し訳ございませんでした。これからは豊かにあなたに愛情を献げまして、あなたの仰る通り何でも素直にさして頂きますから、どうぞ、私の所へ帰って来て下さいませ”と真実を籠めてお念じなさい」
妻は夫のお妾または愛人を憎んではならない
それから坂井先生は、
「あんたはその第二夫人を、お妾を憎んでいるから、憎んでおったら何時まで
経っても、そのお妾は消えないですよ。憎む者は嫌う者は益々現れるんですよ」
と言いました。
528
:
金木犀
:2012/04/26(木) 09:29:10 ID:gUphdZ4w
生長の家入門講義(3) 谷口雅春先生
(ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)
何故お妾に感謝しなければならないか
「あんたはそのお妾に感謝しなければなりません。何故なら、そのお妾はあなたが夫に対する仕えようが足りないもんだから、妻という者は男にはこのように親切にして仕えるんだ、という手本を示してあなたに教える為に、お妾として現れていらっしゃるんですよ。だからそのお妾に感謝しなければならんのです。その感謝を神想観のうちに念じなさい」
と言いました。そうして、
「神想観の姿勢をして眼の裏にそのお妾の姿を思い浮かべ、名前を唱えてその魂を呼び出して、次のように念じなさい」と教えました。
お妾を解消するために念ずる言葉
その念ずる言葉は次のようであります。
「今迄私の夫を貴女が愛して下さいまして有難うございます。私の献げる愛情の足りない所を、あなた様が補って下さったんで御座いまして、まことに有難うございます。若し貴女が私の足りない愛情を補って下さらなかったら、私の夫は愛情に飢えて、あるいは気が狂っておったかもしれないのを、それを助けて下さったのは貴女の愛情で御座います。有難うございます。然しこれからは私は豊かに夫に愛情を献げますから、もう貴女様には愛情を補って頂かなくても結構でございますから、どうぞお引き取り下さいませ。今迄のご親切を感謝いたします。有難うございます」
こういうふうに念ずるように教えたのでありました。
彼女は教えられた通りに三日間熱心に念じました。三日目には本当に精神が統一して、この祈りは必ず通じたという感じがしました。そしたらその彼女即ち自分の妻の生殖器に出来ておった生椎茸のような形をしたその変な腫物(おでき)は姿を消してしまいました。
「それと同時にそのお妾も姿を消しちゃったんです」
と小林くんは言うのでした。
私は小林くんに尋ねました。
「お妾が姿を消したと仰ったが、どうなったんですか」と。
小林くんは答えました。
「ああ、彼女は死んじゃったんですよ」と無造作に言うのでした。
こういうように、お妾を拝んだら死んだ実例を私は三つ程、講習会の体験談で聞かされておるのであります。それはお妾出現の使命が終ったからであります。
529
:
金木犀
:2012/04/26(木) 09:30:24 ID:gUphdZ4w
生長の家入門講義(4) 谷口雅春先生
(ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)
お妾出現の使命について
大体お妾という者は、その本妻の奥さんの心を教育するために現れているところの、愛情の先生でありますから、だから本妻の心が今迄夫に対して愛情が、愛情の捧げようが足りなかったということに気が付くまでは、それを追っているために姿が消えないのであります。そのお妾がもう已に寿命が来て死ぬ筈になっておっても、その本妻の心が本当に自分が悪かったと気が付くまでは、その妻の教育者としてこの世に滞在しなければならないから生きているんですが、その本妻が“ああ、私が悪かった、夫に対する愛情の献げようが足りなかった”と気が付いたら、もう教える役目は終ったというわけで、寿命の来ているお妾さんは、これで死んでしまうということになるわけであって、すべてのお妾は、彼女に感謝して拝んだら、皆死ぬというわけではないのであります。
今より一層家庭が幸せになる真理
さて、小林君は自分のお妾が解消した話の次に、こういう話をしたのであります。
「先生、ただ今私が遅刻して参りましたのは、実はこの会場から五軒あちらに、料理屋があるでしょう。あの料理屋のマダムの恵美さんというのが、この講習を受けに来ていたんです。その恵美さんの夫は六ヶ月も前から家出をして行方不明になっておったんです。ところがその恵美さんが講習を聴いていましたら、先生は妻が夫に愛情を献げるのは、このようでなければならないという話をなさいましたね。“夫というものは自分の宅(うち)が一番気兼ねなく、気安らかで、誰に遠慮もなしに足腰延ばして自由になれる一番居心地のいい、安らぎのある場所なのです。その最も安らぎのある筈の家庭に居ることが出来ないで、そしてよそへ飛び出して行ったり、女を拵えたりするのはそれは本妻がその一番安らぎのある場所に夫を置かないで、夫を追い出すようなそういう険しい雰囲気を持っているから、そういうことになったんだ”という話を先生はされました……
「それを聴いた時、恵美さんは、六ヶ月前から夫は自分の家を飛び出して行方不明になっていたので、こんな一番夫にとって安らぎのある家庭に、居ることができないようにしたのは誰がしたんだろう、私がしたんだ、私が悪かった。“夫よ赦せ、赦せ、赦せ”と心で繰り返しながら涙を流して、そして先生の続きのお話を聞いておったんです。それで恵美さんは講習会を終って自宅へ帰りました。突然今まで蒸発して行方不明だった夫から電話がかかって来とったんです……」
530
:
金木犀
:2012/04/26(木) 09:31:24 ID:gUphdZ4w
生長の家入門講義(5) 谷口雅春先生
(ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)
恵美さんの夫は、高知の町から六十哩も離れている宇和島という町に居ったんですけれども、妻の恵美さんが講習を聴きながら、“夫よ、赦せ、赦してください、あんたが出て行かなければならないようにしたのは、この私の愛情が足りなかったからです。赦して下さい。赦してください”と涙ながらに、一心に念じて居ったその時間に、夫は急に自分の妻君のことを思い出したんです。夫婦は幾十哩も距れていても心は通うのであります。……
小林君は続けてこう話されました。
「その夫の電話はこのように言いました。
『今日突然お前のことを思い出してね。そしてお前の顔を見たくて仕方なくなった。けれども距離が六十哩もあるからお前の顔を見るわけにいかんから、せめてお前の声だけでも聞きたいと思って、今電話をかけて居るんだよ。もう一週間程もしたら私がここでやりかけている事業が一段落終るから、そしたら帰るから待っていてくれよ』
こういう電話がかかって来て居ったんです。そこへ私は行っておって話をきいていたので遅れて来たんです」
この小林君の体験が語るように、六十哩も距(へだ)てておっても、妻の心が夫に対して冷淡である時には、その夫は妻の愛情に飢えて妻のいる家から飛び出しておったのに、妻の心がクラリと変って、夫にお詫びをする心になると、その夫は妻恋しくなり、せめて妻の声だけでも聞きたいと言って、電話をかけるほど妻に対して夫が、愛情を戻して来たということはですね、夫の心の状態は妻の愛情を反映するものであるということを現しているのであります。
この真理をお聞きになりましたら、きっと皆さんの家庭は今より一層幸福におなりになることを信じます。
531
:
うのはな
:2012/04/26(木) 10:40:58 ID:El6gIMAw
>520つづき 『奇跡の教育』 鹿沼景揚 先生著
近年になってからのことです。生命学園の練成会が富士河口湖道場であったとき、
四万円の盗難事件がありました。あのとき、神様にお祈りしましたら、「ものがなくなるということはない。
それはお金がある場所から別の場所へ移動しただけである。天地一切のものに感謝し、神のつくりたもうた世界では、
あるべきものが、あるべきところに、ちゃんと返っていると、強く念じなさい」と教えられて、その通りにしましたら、
とうとうお金が自然にでてきた、そして盗みをしたという犯人もいないということを教えていただきました。
神様はすばらしいことを教えて下さいます。ありがとうございます。
さて、いよいよ道場から帰京するとき、K君の車にのせてもらうことになりました。
そうしたら、鍵がドアーにさしこんだままで、おしてもひいてもとどうしてもビクともしません。
どうすることもできないで、K君が祈ってほしいと言ってきました。三十分くらい道場の祈りの間で祈っていると、
K君がきて、鍵がとれましたというのです。あのときも、神様がみわざをなさしめたのでした。
このようなことは、合理的な科学精神からは全く理解することはできません。
全く不合理なことを神様は解決してしまうのです。
私は次から次へと神のなしたまうみわざをたたえて、感謝の饗宴をひらいてたのしんでおりました。
すると耳元で声がするのです。「先生、幻灯機がでました。もうスライドが写せます」
片岡委員長の報告がありました。
私は、おわりの祈りの言葉を唱えて神想観を終りました。
『奇跡の教育』 鹿沼景揚 先生著 奇跡の教育ノートP36〜
532
:
ハマナス
:2012/04/26(木) 12:50:43 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんにちは。もうすく、ゴールデンウイークですね。私は、都会を離れて関西の方面へ
行きたいと思っています。
明日のWEB誌友会が大成功でありますように。
主権を神様に返せ (『新版 生活の智慧365章』P.138)
神に完全に無条件降伏せよ。神は全ての癒す力を持ち給うのである。神は戦争に於ける占領軍のように、
こちらに抵抗の心があるのに無理に暴力をもって進駐して来られる云うことはないのである。神は一切の
ものの生みの親として、また創造(つく)り主として、吾等の人事に潜在主権をもち給うのである。
しかし、吾々自身が「我」の仮主権を握って頑張っている限りは、その仮主権を排除してまで、神の潜在
主権を実行に移し給うことはないのである。
神の全能の完全なる機能を、わが身体及び人事、事業等に於て実現しようと思ったならば、完全に神に
主権を返還して、神の叡智によって、自分の一挙手一投足を支配せしめるようにしなければならないので
ある。神に主権を返還するなどと言えば、自分以外の「神」に自分の主権を奪われるかのように錯覚する
人があるかも知れぬが、「神」と云うのは、自己の霊なる“本当の自分”なのである。“肉体の自我”の
主権を“霊の自我”の主権に譲り渡すことなのである。
感謝合掌
533
:
ももんが《聖典》
:2012/04/26(木) 18:37:04 ID:XXCuaQns
〜修証義〜
第一章総序
生を明きらめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏心あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時初めて生死を離れる分あり、唯一大事因縁と究尽《ぐんじん》すべし。
人身得ること難し、仏法値うこと稀れなり、今我等宿善の助くるに依りて、已に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇い難き仏法に値い奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし、最勝の善身を徒《いたず》らにして露命を無常の風に任すこと勿れ。
無常憑《たの》み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停《とど》め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡《しょうせき》なし、熟観《つらつらかん》ずる所に往事の再び逢べからざる多し、無常忽ちに至るときは、国王大臣親ジツ《注①》従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉《こうせん》に赴くなり、己れに随い行くは、只是れ善悪業等のみなり。
〜つづく。
※《注①》の『ジツ』は、漢字では、『目匿』と書く、『なれる』とも読む。
端末になかったので、カタカナとしました。
『修証義』は、曹洞宗で『仏戒』を易しく、説いた、聖典です。
以上。
合掌、拝。
534
:
a hope
:2012/04/27(金) 10:14:14 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
善い言葉は人生の宝(前半)
善き言葉は人生の宝であります。何がなくとも「深切」は言葉でできるのです。貧乏では深切ができない、金がなければ深切ができないというようなものではないのであって、私達は深切の第一歩を言葉によって実行する事ができるのであります。人に深切な言葉をかけてあげる、人が意気消沈している時にそれを鼓舞(こぶ)して高め上げるような言葉を出す、これが深切であります。
人が誰も同情してくらない、淋しくなって人生を呪うような心の起こった時に、本当に深切な表情をして、深切な微笑を投げかける、これが深切の実行であります。誰だって微笑はできるのでありまして、その深切な微笑がどれだけ相手を生かすことになるか分からないのであります。私達は、なんにも持っていないから深切ができないと言うのはあまり物質的な考えに執(とら)われているのであります。
本当に深切にしようと思えば、どんな場合でもできないという事はないのであります。常に優しい心持をもち、愛に満ちた霑(うるお)いのある心を持ち、人に接する時、拝み合い感謝し合い、相手を尊敬して、その自信を失わしめない。これが深切の中の一番深切になるのであります。どんなに金をやっても或いは物をやっても、本当にその人を尊ばなければ深切にはならないという事になります。
「貴様みたいな仕方のない奴はこいつやるから持って帰れ」と乱暴な言葉を出して千円札を放り出したところが、それは深切にはならないで却って恨まれるかも知れません。物を与えても相手を怒らせるのは、それは深切にならないのです。物をやらなくとも相手を生かして喜ばすようにすれば、それが本当に深切をした事になるのであります。
(つづく)
535
:
ももんが
:2012/04/27(金) 10:43:08 ID:XXCuaQns
>>534
a hope様
a hope様、おはようございます。毎朝、素晴らしい、御投稿文、ありがとうございます。合掌、拝。
先日は、静観して、頂きありがとうございます。感謝、礼拝。
さて、お話は、変わります。
先日、a hope様は、静観して、いただいた事に関しましてて、感謝しております。
しかし、その後a hope様は?私へ、祝福や賛嘆を何故?
されなかったのでしょ?
最も、さいそく、するわけでは、ないですが、いつも、a hope様は、この様に言われてますね。
①、『わたしの愛する「生長の家」のみなさま、』
と?
これは、誰にされているのですか?《心の奥に差別の心が存在してる証》
先日、復興G様へ御言葉は、ありました。
しかし、私へはありませんでした。《その事は気にしてません》
その行い、行動を見るなら、上の言動と矛盾していますし。
先日の行動は、私へ当て付けの行動だったととれるわけです。
ahope様の行動は、『憎しみのみ』行動であり、感情に流された、行動であったと、理解します。
それが、a hope様の言う
②「真の生長の家の教え」
なら、間違えた、行いであり、行動だと、思うしだいです。
私は、先日、a hope様の『憎しみの感情』も、私は感受してしまったので、
神様の火で、“浄心行”させて頂きました。和解の祈りも、させて頂きました。
本日は、朝から、気分の良くない、お話をして、真に、申し訳ありません。
しかし、a hope様の心の影を観たものですから、御自分で、気づいて、頂きたく、この様に、言葉にいたしました。真に、差別なく、許し与えらる心を、取り戻して、頂きたく、心より、御祈りしております。
ありがとうございます。
合掌、拝。
536
:
ハマナス
:2012/04/27(金) 17:52:11 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。。
勇敢に困難と取り組め (『新版 生活の智慧365章』P.139)
「人生には一面、色々の苦痛や困難がある。それを苦痛とし困難として受け取るかどうかはその人自身の“受け方”(精神的受け方)によるのである。
それらの苦痛や困難があるということは、恰も学校で学ぶ過程に於て色々の学科があるのと同じことである。勉強家は、その困難な学科を学習し、
問題を解いて行くことに却って喜びを感じるが、或る学生はそれを困難として苦痛として感ずるのである。
私たちは人生の色々の学科を学ぶべく色々の問題にぶつかるのであるが、それを困難として苦痛として受け取らずに、喜びとし、楽しみとして受け
取らなければならないのである。若しあなたに何らかの困難な問題が起こって来たならば、それを回避し、それから逃げだそうなどと考えてはならない。
たとい一時その問題から逃げ出しても、それはあなたの魂の進歩について必要な学習であるから、再びそれに類似の問題を課せられることになるので
ある。だから人生の問題については進んで勇敢に取り組んで解決するようにするがよい。その人の魂がその学科を卒業し得た心境に到達したとき、
その問題はあなたの人生から消え去るのである。」
感謝合掌
537
:
SAKURA
:2012/04/27(金) 21:07:57 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者様 へ
こんばんは…ロ−マ字の【SAKURA】です。御無沙汰していますが…
久しぶりに…【仏教典…】以前からの続きですが“投稿”させて頂きます。
【はじめの第1章…】からで〜〜〜〜〜す! 続編です…。
■ 第2章 永遠の仏
−−−第1節 いつくしみと願い−−ー
1.仏の心とは大慈悲である。あらゆる手だてによって、すべての人びとを救う大慈の心、
人とともに病み、人ともに悩む大悲の心である。
ちょうど子を思う母のように、しばらくの間も捨て去ることなく、守り、育て、
救い取るのが仏の心である。「おまえの悩みはわたしの悩み、おまえの楽しみはわたしの楽しみ」と、かたときも捨てることがない。
仏の大悲は人によって起こり、この大悲に触れて信ずる心が生まれ、信ずる心に
よってさとりが得られる。それは、子を愛することによって母であることを自覚し、
母の心に触れて子の心が安らかとなるようなものである。ところが、
人びとはこの仏の心を知らず、その無知から愛着を起こして苦しみ、煩悩のままに
ふるまって悩む。罪業の重荷を負って、あえぎつつ、迷いの山から山を駆けめぐる。
2.仏の慈悲をただこの世の一生だけのことと思ってはならない。それは久しい間の
ことである。人びとが生まれ変わり
死に変わりして迷いを重ねてきたその初めから今日まで続いている。
仏は常に人びとの前、その人びとにもっとも親しみのある姿を示し、
救いの手段を尽くす。
釈尊族の太子と生まれ、出家し、苦行をし、道をさとり、教えを説き、死を示した。
人びとの迷いに限りがないから、仏のはたらきにも限りがなく、人びとの罪の深さに
底がないから仏の慈悲にも底がない。
だから、仏はその修行の初めに四つの大誓願を起こした。
一つには誓ってすべての人びとを救おう。二つには誓ってすべての煩悩を断とう。
三つには誓ってすべての教えを学ぼう。四つには誓ってこの上ないさとりを得よう。
この四つの誓願をもととして仏は修行した。仏の修行のもとがこの誓願であることは、
そのまま仏の心が人びとを救う大慈悲であることを示している。
<つづく> No.1
538
:
SAKURA
:2012/04/27(金) 21:10:04 ID:FEa/NNlc
<つづく> No.2
3.仏は、仏に成ろうとして殺生の罪を離れることを修め、そしてその功徳によって
人びとの長寿を願った。
仏は盗みの罪を離れることを修め、その功徳によって人びとが求めるものを
得られるようにと願った。
仏はみだらな行いを離れることを修め、その功徳によって人びとの心に
害心がなく、また身に飢えや渇きがないようにと願った。
仏は、仏に成ろうとして、偽りの言葉を離れる行を修め、その功徳によって
人びとが真実を語る心の静けさを知るようにと願った。
二枚舌を離れる行を修めては、人びとが常に和合して互いに道を語るようにと
願った。また悪口を離れる行を修めては、人びとの心が平らかでうろたえ騒ぐ
ことがないようにと願った。
むだ口を離れる行を修めては、人びとに思いやりの心をつちかうよにと願った。
また仏は、仏に成ろうとして、貪りを離れる行を修め、その功徳によつて人びとの
心に貪りがない様にと願った。
憎しみを離れる行を修めて、人びとの心に慈しみの思いやりがあるれる
ようにと願った。
愚かさを離れる行を修めて、人びとの心に因果の道理を無視する誤った考えが
ないようにと願った。
このように、仏の慈悲はすべての人々に向かうものであり、その本領はすべての
人びとの幸福のため以外の何ものでもない。仏はあたかも父母のように人びとを
あわれみ、人びとをして迷いの海を渡らせようと願ったのである。
<つづく>
539
:
a hope
:2012/04/28(土) 06:38:40 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
善い言葉は人生の宝(後半)
人というものは、物を貰う癖がつきますと、相手に依頼心(たよりごころ)が生じて来、却ってその人が堕落することもあります。すなわち深切が却って仇を成すとはこの事であります。あの勤勉家の蜜蜂も、インドの持ってゆけば、そこは花が常に咲いているからよく蜜が取れるだろうと思って蜜蜂を連れていったら、蜜蜂はインドはいつも花があるから蜜を貯えて置く必要はないと思って働かなくなり、いっこう蜜がとれなくなったという事を本で読んだ事があります。
ですからあまり物があり過ぎると、人は働かなくなり、立身出世する必要もなくなって依頼心ばかり増長する恐れがあります。だから物を与える事は賢い智慧をもって適当な与え方をしなければならないのであります。生長の家では「出せば出すほど殖える」という諺がありますが、それでも所わきまえず相手わきまえず、金を無暗にだすようなことではいけません。
出すという事は、物を出しただけではいけないのです。もっと智慧を出さなければならないのです。生命を出さなければならないのです。物ばかり出すのが殖えるのであれば、家の財産を全部浪費して懶(なま)けていれば財産は殖えるということになるはずですが、決して殖えないのであります。物ばかり出すのが、「出せば出すほど殖える」というのではありません。
本当に出して殖えるのは自分の中にあるところの智慧を出し、愛の力を出し、生命の働く力を出して、みんなを生かすことにして出せば、出すほど殖える。ところが智慧を出し惜しみして、生命を出し惜しみしていながら、「私は物を出したが殖えない」と言って小言を言ってもそれは殖えないはずであります。「物質」は本来ないものです。「無いもの」を出しても殖えないのが当たり前です。有るものを出したら殖えるのです。
では、「本当にあるもの」とは何であるか、それは物質ではない。私達の「生命(いのち)」「智慧」「愛」「誠」……これが本当にあるものです。その本当にあるところの「生命」「智慧」「愛」「誠」……を出したとき「出せば出すほど殖える」事になります。金を出すにしても、物を出すにしても、それに「生命」をつけて出し、「智慧」をつけて出すところに、初めてそれがぐんぐん殖えてくるのです。
日本を再建するには力の出し方、物の出し方、節約の仕方には是非とも智慧を出し、愛を出し、生命も出し、力も出す、そうすれば出せば出すほど無限に物が殖えて来る、せまい日本でも、資源(もの)が足りないなどの心配はないのであります。今自分の手許に合っても要らぬものを蔵って置くのは、その物の生命を生かさない事になりますから、そういう品物は、紙屑でも何でも出して循環させる……そうすると出せば出すほど殖えます。紙屑でも糸屑でも布切れでも何一つ捨てないで、それを有用の方面に出す―――こういうふうに、智慧と愛と生命とを出すようにすれば、到る所に宝が満ちている。この世界は無限供給の世界であります。
(第9章「他人の生かし方」終り、次回から、第10章「働き方の生かし方」へ)
540
:
ハマナス
:2012/04/28(土) 09:06:09 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。こちらの板にも、再投稿させて頂きます。
毎晩寝る前に、雅春先生のテープを拝聴していますが、最近、
『真理の吟唱』の中に印象に残るところがありましたので、謹写させて頂きます。
想念感情を浄める祈り (『真理の吟唱』P.57より)
神の“平和の霊”よ、吾に臨(きた)り給え。われを平和の雰囲気をもって包み給え。わがうちに“平和の想念”をもって満たし給え、
“調和の霊”をもって満たし給え、争いの心を起こさしめ給うことなかれ。憎しみの感情を起こさしめ給うことなかれ。憂え悲しみの念
(こころ)を起こさしめ給うことなかれ。すべての暗黒なる想念感情を、太陽の光を乗せた朝風が、夕べの霧を吹き払うがごとく雲散霧消
せしめ給え。ああ我れかく祈り奉る。
ああ神の霊(みたま)わがうちにあり、神の霊わがうちに輝きわたる。霊の光あまねくわが内にあり、また、わが外を包めり。
わがうちに神のコトバあり、神がそのコトバにて天地の一切のものを造り給いしが如く、われも亦わが身辺、わが運命の一切をわが
コトバにて造るのである。コトバは創造のエネルギーであり、創造の鋳型であるのである。鉄を溶かしてそれを鋳型の中に流し込めば、
その鉄が固まるとき鋳型の通りになるが如く、宇宙に満つる“無形の実質”が固定化して物質の形を帯びてくるとき、それはコトバで
述べた通りの姿形をあらわすのである。
それゆえに、私は今後決して、悪しき事をコトバにて言い表すことをしないのはもちろんのこと、コトバによって悪しき事を心に
想うことさえもしないのである。心に想うことは“無性のコトバ”を心の中で発しているのであるから、それは、ガラス工場の工員が、
“無形の息”を透明のガラスの中に吹き込むその吹き方の相違によって、色々のガラスの像(かたち)やガラスの器具を作るのと同じ
であって、色々の運命、環境、境遇、健不健の肉体等を造り出すことになるのである。
今より後、決して私は悪しきことを思わず悪しきことを言わず、人を呪うことなく、怒ることなく、現象の悪に心を捉えられることなく、
ただ善のみ、光のみ、美のみ、幸福のみ、豊かさのみ、調和のみ、平和のみの実相を心に見、コトバに発し、常に想念感情を浄めて、
この世界の実相たる天国浄土を地上に実現せんことを期するのである。仰ぎ願わくは、大神の御慈導を得て、われら行く道に迷うことなく、
険しきを平らかならしめ給い、あやまりて暗黒の想念を起こすことなく、我が心を常に護りて、もろもろの汚れより遠ざからしめ給え。
ああ、われは、天地を想像し給いし大いなる力ある“神のコトバ”と同じき言葉をわが内に有(も)つのである。コトバは双刃(もろは)
の剣である。それは公平に自己を斬り、相手を斬り、一切の悪しき言葉を出す者のすべてのものに公平なる宣告を与えるのである。
善き言葉をいだす者は永遠に祝福せられ、悪しき言葉をいだす者は常にその言葉相応の傷を受けるのである。われは今、この真理を
知らしめ給いしことを神に感謝いたします。ありがとうございます。
541
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/28(土) 16:01:34 ID:4u9fyInI
<誌友会案内詳細>
●日時:4月28日(土)21:30〜23:30(延長あり)
●テキスト:『生命の實相』第一巻 「七つの光明宣言」
●場所:「トーキングスティックボード」板(業務連絡は「部室2」板)
●前夜祭期間:28日迄
(前夜祭期間は該当箇所に関する話題を、どしどしお寄せください。多少の脱線もありです)
* WEB誌友会は「皆で同一箇所を拝読すること」これを最大の目的としております。
* 誌友会での発言に関してですが、「完璧を期す必要はございません。」65点主義でお願い致します。
* 同時に他者投稿文に対しての、細かなご指摘等はご遠慮願います。
* 輪読箇所関連資料が、聖典板(465以降)に掲載されております。事前拝読されるとより理解が深まります。
542
:
ハマナス
:2012/04/28(土) 18:40:43 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
自己を誤魔化すことなかれ (『新版 生活の智慧365章』P.140)
人間のみが地上に於ける自己反省の能力をもっている唯一の生物であって人を批判し、
反省し、分析し、改造遷善し得るすぐれたる精神をそなえているのである。それにも拘わらず、
人間ほど自分自身の欠点を知らないものも少ないと言ってよいほど、自分自身のことに気が
つかないのである。他人(ひと)のことだったら、自分のことよりもよく解って、色々批評
したり、悪口を叩いたりする。何故だろうか。まともに自分の欠点を見たくないので、自分を
誤魔化そうとするのである。
自分の顔に白粉(おしろい)を塗って素地を見えぬようにして、白粉を塗った表面から、
自分を鏡に映してみて、「自分は美しいな」と暫し、自分の美粧したかとに見惚れたいよう
なものなのである。そこで摂理が自分の心の姿を、自分の病気や、周囲の人々の風当たりや、
形にあらわれる姿に見せてくれて自己反省せしめ、改造遷善が行われやすいようにしていて
下さるのである。環境を見、周囲を見、自己の肉体の状態を観て心を改める者は幸いなるかな。
感謝合掌
543
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/28(土) 19:26:48 ID:qAbFUkAo
正しい信仰
正しい信仰は、聖書、経典、その他霊感の書にもとずいて、肉眼に見えざる完全な〃霊なる實相〃を、先ず心の世界に観ることによって、完全な實相を地上に現実化する力を得るのである。
『生命の實相』を読み、『甘露の法雨』を読誦し、先ずあなたの實相の完全さを観、観ることによって実践の勇気と力とを得、地上に天国をつくるために邁進するがよい。
正しい信仰は前途に光を見、疑いは前途に暗黒を見る。光を見る者は前進して〃生き甲斐〃を感じ、暗黒を見る者は前進することが出来ないで、暗澹たる泥沼に陥って、ただもがくばかりである。
正しい信仰とは、「真理」をみつめる信仰である。「真理」とは、神のみが実在であり、神は善であり、善のみが実在であり、人間は〃神の子〃であり、神の善徳を継承して地上に出現した霊的実在であるから、悪しき運命にとざされることは絶対にないとの信仰である。
谷口雅春先生 『理想世界』誌 47年4月号
(某ブログより)
544
:
SAKURA
:2012/04/28(土) 20:50:54 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
久しぶりに“本”を開きますと……やはり!当たっています〜〜〜ネ!
更に、今日は【二項目を渡航…】します。では!!“スタ−ト”……です。
■【幸福を招く365章】
―――神はどんな難問題をも解決し給う―――
神はすべての渾てであるから、神は外にも内にも到る処にいますのである。
何事が起こって来ようとも、問題が起こるのは解決があるから
起こるのであるから心配することは要らないのである。
解決が出来ないのは智慧が足りないからである。
神の智慧をもって来さえすればどんな問題でも解決ができるのである。
神の智慧をもって来るのはどうするか、神にその問題を
わたしてしまえば好いのである。
神に「自分」を明け渡すのである。「神よ、この問題を貴方に全部ゆだねます。
神よ、あなたは無限の愛であり、無限のちであられます。だから必ず此の問題を
すべての人の幸福になるよう解決して下さいます」
このように祈るが好い。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ここしばらく【祈りも不規則…】な時間帯でした。…そして?
「結果???」は、やはり!大きい〜〜ですネ!
【祈ること】により、私の“神性開発の向上”に……
不規則なる時間帯に?或いは…神想観が出来ない時には?
■【甘露の法雨】に黙読したり、瞼を閉じて、
静かに精神統一をしまして、最初の【神呼び歌】を、何度も〜何度も〜繰り返し
唱えたり、ある時は?魔除けの様に【宇宙浄化の歌】を…でも!やはり!
日々の【規則正しい時間の祈り】は、大切です〜〜〜ネ!
そして、どんな問題も、必ず!答を下さるのですから……
■【神様の叡智】を頂けますように〜〜〜“祈り・祈り・・・祈り”にと、思います。
もしかしますと?今の「生長の家」の問題も“祈りが足りない”のでは??とも??
思いながら…唯!!ひたすらに【祈る事】でしょうか???
PS:トキ様へ
久しぶりに“投稿”させて頂きました…。「祈り」ひたすら精神統一しまして…
神様に“全托“しますと…必ず!“神様からのメッセ−ジ”頂けますもの〜ネ!
トキ「管理人」様は、この事に関しまして、如何でしょうか?
545
:
SAKURA
:2012/04/28(土) 20:52:51 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
■【幸福を招く365章】
――――神の愛を「今」を完全に生きよ――――
あなたの生命(いのち)の内に神の愛が宿っているのである。神の愛は
唯勝利するほかないのである。過去に何があろうとも、それは今日の魂の前進の
準備となったのである。過去の失敗に捉われるな。形の一進一退のうちに魂は
必ず前進して行くのである。今生かせ、神を信じ、神に祈りつつ今を全力を出して
生きるのである。「今」は実相世界に既にあるところの勝利が現実世界に
あらわれて来るところの門であるのである。「今」を支配するものは過去の失敗を
勝利にかえ、魂の進歩にかえ、未来永劫にただ悦びの生活を送ることが
できるのである。次の如く念ぜよ。
「われは今日、善と愛と親切の言葉のみを語るのである。われはそれ故に愛と深切
のみを刈り取るのである。われは如何なる悪しき言葉も今より後に口にしない
のである。自分は人の行いと其の動機とをさばかない。
自分はあらゆる人々の行いに其の善意をみるのである。自分は人を軽蔑する
ような言葉を決して語らない。自分はすべての人々の美点のみを見、美点のみを
かたるのである。自分は言語が神であり、創造者であることをしったのである。
だから、今後自分は善き事のみ語り、善き事のみが実現するのである。」繁昌は
一日にして来らず、それが単なる偶然の好意であるかに見えても、必ず過去に
蓄積されている善き想念、善き言葉、善き感情が現実化して生ずるのである。
すべての想念、感情、言葉、行為の結果は実現しないではいないのである。
それは原因結果の法則である。原因結果の法則には、物理化学な法則と、
心の法則とがあるのである。大抵の人は物理化学的法則のみを知っていて、心の
法則を知らないのである。繁栄せんと欲する者は顧客に対してよき想念、善き感情、
深切な注意、行き届いたサービスの精神を揮い起さなければならないのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
“今日の言葉”から、“過去の失敗”は、ふとした事で、最近よく思いだします。
「何故!!」この様になったのかしら〜〜〜ン!自問自答!!
この様な“祈り”をしています時には、どうしても“そちらの想念”に心を奪われて
行く事が多々あります…。
そして“過去の失敗”と分かった瞬間から「悪しきの想念」にきりかえられるのです。
【悪の想念…感情】は、“失敗”と言う言葉が、どうしても出てくる訳ですが…
仕事をしております時にも、何かの拍子にそのような気持ちになってしまう…私が!!
「ネガティブ感情である不安」が、何故!何故!起きるのでしょうか?
此処3年半近くの間…振り返りますと、同じ繰り返しの様に感じた次第です。…が?
いつも、その“原点の繰り返し”にも見えます。「今日の言葉」で…
■【過去の失敗】を【勝利に帰る事】は、
まず!!私の【深い傷…】を呼びおこさないようにと…更に!
それに対して、仮に生じました場合は【立ち向かわなければいけない】と…
其の勇気の必要性を…思う様になりました…。
■【言葉は神】ですから…【言葉を駆使】しまして、
どんな状態でも【善と!愛と!深切!を語る…】ように、
なるべく【正しい想念感情の訓練】が足りないようですので
私自身「今日の言葉」を、唱えて行く様にと、心の深層部に深く刻みこみました…。
きっと!!更に!!
此処「2チャンネル」でも【SAKURA…いじめ】は、起きている様なものでしょうが?
■そう云えば…ある所に【昨日のダイエット献立にて…】キノコを使用致しましたが?
今まで“話題性にもならなかった??キノコ”…が…まるで【悪いキノコ?】
変な現象??■【悪いキノコ〜〜〜〜!!!!】
つい!私は【悪の想念連想…ゲ−ム】でしょうか??
ここが、わたしの“修行”なのでしょう〜〜〜〜〜〜〜ネ!
余りにも“タイミング…”がと、思いつつも【一応再投稿!!】致しましたが?
■■【心の善の言葉】は、周囲にも、明るい輝き〜☆〜が…
【報恩に感謝】が出て来ますよ〜〜〜ネ! 再合掌
PS:トキ様へ
続けて“投稿”させて頂きました…。先程の「雅春先生の言葉」関連して
いますものと思いまして…「感情のコントロ−ル」…難しい時もありますが…?
これが「人生劇場」にての訓練でしょうかと、つくづく“人の投稿言葉”を
拝読しながら思いました。トキ「管理人」様は、この事に関しまして、如何でしょうか?
546
:
トキ
:2012/04/28(土) 21:39:11 ID:AfiyqW7Q
>>545
SAKURA様
すばらしい御文章、ありがとうございました。
先の戦争で「撃墜王」として活躍した坂井三郎さんが、「失敗をした時に、”しまった”と100回言っても
何もならない。それよりも、早く立て直す事。これが生き残る秘訣だ。」と、どこかで書いていました。
最初は誰でも、失敗をしたり、他人とトラブルがあれば、気持ちが落ち込みます。でも、いつまでもそれに
留まっていたら、進歩はありません。
気持ちのきりかえができる人になることが、修行だと思います。頑張って下さい。
合掌 ありがとうございます
547
:
ハマナス
:2012/04/29(日) 14:18:40 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんにちは。今日は、爽やかな、素晴らしいお天気です。
機嫌の悪さは人に感染する (『新版 生活の智慧365章』P.141)
御機嫌が悪いということは自分だけの問題であり、その時の生理作用であり、頭の
具合によるのであり、他の人の関する事ではないし、それは何も重大な事柄ではないと
考えている人もあるけれども、これは非常に重大な問題なのである。人間は一個の精神
ラジオ・セット又は生きたテレビ・セットとして自分の気分に波長の合ったものを受信し
受像して、それを自己の運命として、具体化するものだからである。
機嫌の悪さは、単にその人一個を不幸に突き落すだけではなく、その人に触れる殆ど
すべての人に、その不機嫌を感染させ、他の人々をも不幸の運命に巻き込むことになる
のである。だから、“機嫌の悪さ”は単なる自己虐待であるばかりでなく、他の人々をも
不幸に陥れる罪悪であり、それを感染させて行くとき、大なる戦争さえも起こりかねない
のである。世界の人々がフルシチョフのご機嫌がよかったとか、悪かったとかで一喜一憂
しているのもそのためである。
感謝合掌
548
:
金木犀
:2012/04/29(日) 14:58:49 ID:fLEJ35eI
『生長の家』誌昭和五十七年六月号より
『古事記』連続講話(ラジオ放送より) 谷口雅春先生
「夫先ず唱え妻これに随う」という天地の法則
おみなを先だてた結果……
さて、女性がトップに立っておりますと、ろくなことが起こって来ない。これは天地の法則に背いているからであります。
それが、女性の正しい位置に戻って夫を優先させて、夫を立てて夫に感謝するような心になると、その家庭がよくなって、夫が競輪にこったり、パチンコ遊びに夢中になっておったのが直ってしまうという実例も出て来るのであります。
これは、昭和四十四年の六月二十六日に、長崎公会堂で生長の家の講習会があった時に長崎市の郊外に長与という所がありまして、そこの前田ミキエさんといわれる四十七歳の奥さんが、こういう話をなさったのです。その録音を朗読してみます。
『有難うございます。昭和四十三年の九月のことです。私は子供に導かれたのであります。それまでの私は、一日、十五日にお聖経を誦げる程度のことでした』
お聖経というのは『甘露の法雨』というお経のことです。この方は生長の家の誌友であるわけです。それで生長の家の人は毎日一回は聖経を誦げるのですけれども、この方は一日と十五日に誦げるぐらいで、まだ熱心でなかったことを言っておられるわけです。続いてこう言われる。
『主人は戦後流行しましたパチンコ、競輪、ボートレースと、気狂いのように目の色を変えて夢中だったんでございます。私は何度も止めてくれるように頼んだのですけれども、私の言うことなど、フンフンと鼻の先であしらうんです。少しも言うことを聞いてくれないのです。主人にいくら言うても聞きませんから、子供達の顔を見ると、私が働かなくちゃならないと思いまして生命保険の外交をして働いたんですが、私が働けば働くほど、主人に賭け事を止めてくれと言えば言うほど、主人は夢中で賭け事に熱中するのです。どうしようもありません。
もう貧乏という字の二字でございます。私は貧乏でどうしようもなかったんです。それで私は、こんな嫌な生活ならば、いっそ死んだ方がましだと思ったことが再三でございました。でも三人の子供の顔を見ると「死ぬということはやさしいものだ。よし競輪に夢中になっている主人に負けないように私も子供を育てよう」と思ったのです。それで働きましたが、主人はますます賭け事に夢中になって、いくら言っても聞きません。私はそれでサジを投げました。これはもう“ガン”だ。死ななくては治らないと思って途方に暮れていました。そんな或る日のこと、それは去年の九月(昭和四十三年)のことでございました』
549
:
SAKURA
:2012/04/29(日) 16:55:31 ID:FIUIhwU2
>>546
トキ様 へ
昨日のお返事ありがとうございます。
■坂井三郎さんの言葉を「失敗をした時に、”しまった”と100回言っても
何もならない。それよりも、早く立て直す事。これが生き残る秘訣だ。」
この“言葉…”教えて頂きまして、本当にそうです〜〜ネ!
失敗するたびに、“あっ!しまった…ヮ”と言っている間は?
正直な話、まだ!余裕があるのでしょうか…?つまり!何度も〜何度も〜><
繰り返す事になるのでしょうか?
それを“早く立て直す事”が大事…とあらためて思いました。
この“言葉”より“過去の失敗に悔む”前に、どの様にしていったらよいかの対策…
更に!講じて、いつまでも“悲劇の主人公”では“進歩向上”何も得る事ができなく
なりますでしょう〜〜ネ!当に“後退=負け組”でしょうか??
やはり、【前進!!】如何なる状況下にても、その様に思います…。
■最後に「トキ様の言葉」より、
>最初は誰でも、失敗をしたり、他人とトラブルがあれば、気持ちが落ち込みます。でも、いつまでもそれに留まっていたら、進歩はありません。
気持ちのきりかえができる人になることが、修行だと思います…。
私も気持ちを切り替える“訓練”をしていきます。ありがとうございます。
PS:
先程、“悲報”の電話がありましたので、今から出かけます…。
いつも【感情コントロ−ル】出来ます人間でありたいと思います…。
550
:
ももんが
:2012/04/29(日) 19:10:30 ID:XXCuaQns
>>547
ハマナス様
ハマナス様、いつも、素晴らしい、紹介文ありがとうございます。感謝、合掌、拝。
私は、いつも、ハマナス様の選ばれる紹介文に、感動と教えらる事ばかりです。
本日も、私の心に響きました。
真に、御教え感謝申し上げます。
ありがとうございます。
感謝敬白、合掌、拝。
551
:
ハマナス
:2012/04/29(日) 23:31:24 ID:u5mC.eb2
ももんが様
ありがとうございます。
ご丁寧なレスを恐れ入りました。
ももんが様のいつも思いやりのある、優しいお言葉に“力”を頂いております。
感謝申し上げます。
552
:
晴れときどき・・・
:2012/04/30(月) 00:43:40 ID:UCkc6HMs
合掌
拙ブログ掲載記事(谷口雅春先生のお言葉)を貴掲示板にて、転載されているようですが
せめて足跡を残してからにしてください
生長の家の教えを忘れた皆さまのお役に立てるのは嬉しいのですが。
553
:
ルミエール
:2012/04/30(月) 01:31:42 ID:vsZYH/3w
:金木犀様
526から530 読ませていただきました。
私、ちょっと質問があるのですが、
夫が浮気をした場合、このような考え方をするのが生長の家だとは知っていますが
では、妻が浮気をした場合はどうなんでしょうか?
その場合も「夫が悪い。妻の浮気相手に感謝せよ。」と指導されるのでしょうか?
554
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/30(月) 01:55:44 ID:PVyWFNfg
はれ時々ホークスさん。
あこがれのホークスさん、足跡を残せないので、今度は挨拶をします。
あこがれのホークスさん、誌友会、前夜祭に是非参加してください!!!
お待ちしています!!!
555
:
金木犀
:2012/04/30(月) 10:54:32 ID:fLEJ35eI
>>553
相談相手が妻である場合に、そのような指導がなされていると思いますが、
これは、妻が悪いとか夫が悪いとかいうことではなく、きっと、自分自身の運命は
全て自分が責任を持つという意味であると思います。もっとも陰陽の法則などもあり、
妻が夫を立てるということも法則としてありますが、その前に自分の運命は自分が作った
ものであるとすれば、夫の立場からすれば、夫自身の心の影であり、妻がやさしくないのも
あるいは妻が浮気した場合も、全て夫の心の影であり、妻が自分を立ててくれないから、
外に愛人を作っているのも、夫自身の方から見れば、夫がそのように自分が運命を
作っているということではないでしょうか。
自分の不幸を誰か他人のせいだと恨むことをやめて、全てを自分の責任と感じることで、
自分自身がまたその運命を変えることも自由にできるという、自分が運命を支配する
主人公であるという自覚を得るように、指導されているのではないかと思います。
だから夫自身を指導する時には、当然夫自身の心の影なのであり、
夫自身に責任があると指導されるのだと思います。
私も組織に属した経験はごく少なくしかも末端信徒ですから、
指導的立場に立ったことはないので、ご著書から得た知識ですので、
実際には現場のことはわかりません。
556
:
ハマナス
:2012/04/30(月) 11:08:17 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。今日も皆さまにとって、燦々と光輝く日でありますように。
機嫌の善さは万人を明るくする (『新版 生活の智慧365章』P.142)
「愛はよく耐え忍ぶ」と云うことは、愛深き人は、怒りや不機嫌を爆発さすとき、
その影響がどんなに多くの人々に破壊的結果をもたらすかを知っているからである。
御機嫌がよいと云うことはその人の心が明るいことであり、心が明るい時には、
その人のもって生まれた智能がいつもよりよく働くから、よき考えが浮かび、よき
仕事ができるということになるのである。心明るき時には肩が凝らない。筋肉が
無理な緊張をしない。人が自分を侮辱して来ても腹が立たない。常に平和で、何事
も善意に受けることができるのである。新しき智慧が湧き出で、新しき勇気を生じ
どんな逆境をも好転させる不思議なるインスピレーションを受けることができる。
次の如く念ぜよ。
「私は神の子である。神は光である。私は光の子である。それゆえ私は常に
心が明るくて、何事も光明面を見て暗黒を見ないのである。自分自身が光である
から闇が近づいてもそれを光に変えてしまうことができるのである。」
感謝合掌
557
:
金木犀
:2012/04/30(月) 11:21:33 ID:fLEJ35eI
ハマナス様
有難うございます。ほんとに自分の機嫌をコントロールすると言うことの
重要さを感じます。
念じる言葉、書き取って、暗記するまで覚えることにします。
そして、うっかり不機嫌な念波を受信したり、自分が発信しそうになった時、
これを常に唱えることに致します。
ありがとうございました。
558
:
うのはな
:2012/04/30(月) 14:18:57 ID:El6gIMAw
本日の朝の時間より、いいちこ氏ブログ 晴れときどき競馬とホークス
において、田中忠雄先生などの神誌の文章が掲載されています。
休日の間ゆっくり拝読させていただきます。
感謝 拝。
:
http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/22680399.html
559
:
ももんが《感想》
:2012/04/30(月) 14:48:01 ID:XXCuaQns
うのはな様
ハマナス様
うのはな様、ハマナス様、本日の御文章、拝読しました。ありがとうございます。
うのはな様の、お話は、先日より、道元様のお話ですね。大変、面白く読ませて、頂きました。ありがとうございます。
ハマナス様の、本日の御文章も、真に自分のいつも、心でイメージしてるものと同じであります。いつも、素晴らしい教えを受け止めて、自分の心に止めなが、学んでおります。ありがとうございます。
合掌、礼拝。
560
:
うのはな
:2012/04/30(月) 15:11:52 ID:El6gIMAw
生長の家「今昔物語」ブログにも、谷口雅春先生御高弟 諸先生方
真の生長の家の教えや、貴重な資料が掲載されています。
御覧下さい。
http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/
561
:
志恩
:2012/04/30(月) 16:52:30 ID:.QY5jUA6
うのはな様
いいちこ氏のブログと、生長の家「今昔物語」ブログのご紹介を、ありがとうございました。
「今昔物語」は、愛読させて頂いてますけれど、いいちこ氏のブログは、初めてでした。
田中忠雄先生と佐脇嘉久先生の対談が、掲載されていて、お二人とも存知上げておりますので、
お懐かしく、タイムスリップしたような幸せな気持ちで、読ませていただきました。
うのはな様、いつもありがとう。
562
:
金木犀
:2012/04/30(月) 19:13:49 ID:fLEJ35eI
『生長の家』誌昭和五十七年六月号より
『古事記』連続講話(ラジオ放送より) 谷口雅春先生
「夫先ず唱え妻これに随う」という天地の法則(2)
ご主人は“観音様”ですよ
『皆さんも御存知と思いますが、九月の『生長の家』誌の増刊号を、上の女の子が歯医者さんに行きまして、「知らないおばさんから貰ったのよ」と言って貰って来ました。そして「お母さんね、お父さんがパチンコや競輪に夢中になるのは何かあると思うのよ。それがここに書いてあるから見ておいてね」と言って娘は会社に行ったのです。
私は浮かぬ顔をして「ああ、こんなの見たってどうしようもないわね」と思い思い手に取って開いてみまして、はっと思ったのです。本当にどうしようもない時でしたので、
「これは子供が言う事じゃない、何かのお導きかも知れない」
と思って教化部の道場に行ったのです。そしたらその時の講師が、藤井先生でございまして、「どうしました?」と聞かれました。私はこれ幸いと思いまして今までの胸の支えを吐き出すようにペラペラと話したんです。そうしましたところ先生は、「御主人に感謝をしなさい」とおっしゃるんです。「まあ主人のどこを取って感謝すればいいのですか?」と私は言ったんです。そうしたら、「御主人は観音様ですよ。あなたの心の姿が形に現れてそういうことになっているんですよ。御主人にあなたが下から出て感謝をしたらいいんですよ。あなたは毎日道場へ来て、一人一人の講師のお話を聞いて、御主人は観音様だから、御主人を上に立てて、自分は下に降りて、御主人に感謝をしなさい」
とおっしゃって、三時間半もかかって、私と腰を突き合わせて、長いこと一所懸命になって夫婦の生活の原理をお話下さったのであります。そして、
「あなたはきっと幸せになりますよ」
とおっしゃいました。私には“幸せ”なんて縁遠いと思っていたのですけれども、幸せということを聞いたものですから、もう無我夢中でした。それで、先生のおっしゃいましたように、その場ですぐ、主人と私を聖使命会に入会させて頂きました。更に、子供達三人も入会させて頂き、それから霊宮聖使命会二十柱申し込み、そして毎月道場通いを始めました』
「れいぐう」というのは“霊のお宮”と書きます。これは京都府の宇治(お茶の名所)に生長の家別格本山というのがありまして、そこに宝蔵神社と言って、信徒や誌友の祖先を、特に生長の家の真理で祀って上げる神社があるのです。生長の家の誌友や信徒は、霊界へ行った魂でも、生きている人と同じように考えて、生長の家の聖使命会員に霊魂を登録して祀って上げる。これが“霊宮聖使命会員としてお祀りして上げる”ということです。それで、祖先の人達を十柱もお祀りして上げたというわけです。
563
:
ルミエール
:2012/04/30(月) 22:36:36 ID:vsZYH/3w
>>555
金木犀さま
お返事ありがとうございます。
そうですね。この世界は心の影ですものね。
ですが、生長の家は、どっちかいうと男尊女卑風のところがあるように思えて
ついそんな事を考えてしまいました。
564
:
金木犀
:2012/04/30(月) 23:42:08 ID:fLEJ35eI
ルミエール様
確かに一見そう言う感じもしますよね。
然し、これはものごとが生成化育しているための陰陽に分かれて
それが再び結び合って新しいものが生まれるという法則が、陽が先に進み、
陰が退いてという調和のなかから起るとする単なる法則であり、これは
法則であるから、そのようにならざるを得ないものと思います。
然し、男女それぞれの中にまた陰陽があり、陽ばかりの人も、陰ばかりの人もいないのであり、
現世で振り当てられた役を完ぺきにこなしていきながら、陰陽どちらも揃った完全円満の人間神の子を
顕現していけばいいのではないでしょうか。
現世でどちらの役になろうと、来世ではまた別の役となって、進化の過程を進んでいるのだから、
現世の役がどちらになろうと、私はこだわることはないと思うのですが。
それに重要さは意外と女性のほうがより役割は大きいかも知れません。
男性の成否を左右するのは女性だというのですから、
支えるものは余程大きな力が必要で、
縁の下の力持ちと言われるくらいに、
見えている部分より、それを支えている部分のほうが、
実は重要なのかもと思います。
565
:
晴れときどき・・・
:2012/05/01(火) 01:51:07 ID:UCkc6HMs
合掌
うのはな様
拙ブログを紹介していただき有難うございます
志恩様
ご訪問いただき有難うございます
左欄の『今日の言葉』をやってもらいますと、バックナンバーが読めます
最近忘れられた谷口雅春師の御教えが光輝いて導いてくださいます
566
:
志恩
:2012/05/01(火) 02:29:21 ID:.QY5jUA6
晴れときどき…ホークス様(いいちこ様)
早速、お訪ねして『今日の言葉』のバックナンバーを繰り、拝読してまいりました。
とてもいい真理類をチョイスされてありますね。
いいちこ様が、載せられた
谷口雅春先生、清超先生、佐脇嘉久先生、その他、、の真理の言葉は、「明窓浄机」から「生長の家」誌s24から等々、
かなり昔の神誌からの抜粋が多いですが、よくあのような古い時代の神誌を持っておられましたねぇ。
いいちこ様が、おっしゃる通り、最近忘れられた谷口雅春先生の教えが、光り輝いていていますね。
ありがとうございました。
567
:
金木犀
:2012/05/01(火) 11:37:03 ID:wfGwvgwo
『生長の家』誌昭和五十七年六月号より
『古事記』連続講話(ラジオ放送より) 谷口雅春先生
「夫先ず唱え妻これに随う」という天地の法則(3)
ピタッと消えた賭博癖
『そして、「夫を観世音菩薩として拝みなさい」と言われましたけれども、夫に面と向かっては拝めないものですから、朝出勤する時に「有難うございます、有難うございます」と夫の後姿を拝んでおりました。
ところが十二日になりました時に、どうしたことか、あの気狂いじみた競輪やパチンコが、とうとう止まってしまったのです』
奥さんが上に立って「あなた、こんなことをしてはいけませんよ」と、女性が、こと先だって「競輪をやめなさい」「パチンコを止めなさい」と言っておった間は、結果が悪いんです。どうしても賭け事が止まないのです。それで「もう一生涯、私の家庭には幸福は来ない」と思っていた。そして貧乏のドン底であった。
ところが「夫を立てなさい。夫を拝みなさい」と言われて、女性がトップであるという現代的な考えがクラリと変ってしまった。「還り降りて改め言え」と天津神(あまつかみ)が仰せられた――それを実践したわけです。
『そうしたら夫の競輪、パチンコの気狂いが止まってしまったんです。そして久しぶりに今まで見なかったお給料まで頂いたのです』
この夫はそれまで、会社でもらうお給料をみな使ってしまって、奥さんに渡さなかったらしいですね。それで奥さんの方は保険会社の外交員か何かしておられて、それでやっと生活しておられたのですね。今まで夫の給料なんか見たことなかったのが、夫が久しぶりにその給料を奥さんに渡した。
『私は有頂天になりました。飛びつきました。皆さん、御想像下さい。本当に嬉しくて主人に飛びついて「ああ、有難うございます」と言いますと、主人は「初めて喜ばれた!」と言ったんです。私は今まで“感謝”という言葉を忘れていたのだと思って、私はあらためて座って、そして夫を上から下へ、下から上へとじーっと眺めわたしました。その時の主人の神々しい顔は、今もって忘れることが出来ません』
今まで「パチンコの気狂いだ、競輪の気狂いだ」と思っておった夫を、今度は観世音菩薩として拝んだら、神々しい拝める顔に変っているのです。だから、奥さんの幸福は、夫を馬鹿にするところにあるのじゃないんです。夫を拝める心境になった時に、本当に奥さんの幸福が出て来るということですね。
『こんな素晴らしい主人、神々しい神様のような表情をしている主人を、私はどうして今まであんなに蔑んだものかと、私は恥ずかしくなりました。そして私が働こう働こうと一所懸命思っていればいる程、私の我の強さというものを主人が教えてくれました。私は我が強すぎて、夫に先立って、夫を剋していたのだ、済まなかったと気がついたのです。
私は両親もございますし、兄弟も沢山おりますのに、たった一人の主人であればこそ私の強い我を、体でもって私に教えて下さったのだと思いました。「お前の我が強いから、わしがこうして現れているんだよ」と言って肉体をもって私の我の強さを教えて下さっておったので、私の我が砕けた時に、夫の本当の優しい神々しい姿が現れたのだ――と感じたんです。本当に有難うございます。
そして現在では、夫は晩酌の二合のお酒に顔をほころばせて、とても喜んでおります。本当に素晴らしい主人になって頂きました』
568
:
ハマナス
:2012/05/01(火) 23:03:03 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。今日は、母の用事で一日、出掛けていました。
引用が遅く失礼いたしました。
殻がわれて雛が生れる (『新版 生活の智慧365章』P.143)
人が過ちを犯したときに、その人を“愚か者”または“悪人”と思ってはならない。
神の造り給うた世界には“愚か者”も“悪人”もいないのである。唯、彼等の実相が
あらわれていないだけである。彼の実相の完全さがあらわれるように、神想観又は
いのりによって、彼の「完全なる実相」を心に描き、すでに彼が完全であることを
心に念ずるがよいのである。
「彼も神の子である。彼の実相は完全なのである。現象はどのように見えていても、
それは卵の殻がわれて、中から鶏の雛が生れて来るように、完全なる実相があら
われて来つつあるのである」と念じて、その人を祝福するがよい。雛が現象界に
あらわれて来るためには、卵と殻がわれなければならないのであるあ。それと同じく
実相の完全な姿があらわられる過程としては、現象的には破壊的に見えることが
人間の行動にも、世界の運命にもあらわれて来るであろう。
併し喜び歓べ、それは幸福を生み出す卵の殻が破れつつあるのである。
感謝合掌
569
:
ルミエール
:2012/05/02(水) 00:04:35 ID:vsZYH/3w
金木犀様
再び、ご親切にご教示くださってありがとうございます。
そういう風に考えたらいいのですね。
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