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聖典引用 板
270
:
a hope
:2012/03/21(水) 11:47:31 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
楽しく思って仕事をせよ
もうひとつのコツは、仕事をする時にはその仕事を、
勉強する時にはその勉強を、絶えず楽しく思ってすることです、
いやいや仕事をしたり勉強したりするのは、病気の因(もと)です。
例えば糸を紡ぐにしても、
「わたしが糸を紡いであげるので、多くの人が着物を着られて喜ぶのだ。
みんなの人が私の仕事にありがたがっている。みんなの人が私の仕事を感謝している。
私はみんなに喜ばれる仕事をしているのだ。ああ今日も私は人々の為になった。
ああ今も皆さんが私のことを喜んでくれている」
と思いつつ、喜びながら仕事をするのです。
そうすると人間は決して疲れません。本当に疲れません。
(つづく)
271
:
うのはな
:2012/03/21(水) 18:38:38 ID:El6gIMAw
『生命の實相』が刊行されたとき、聖書型の黒革の表紙には、私の名は無かった。
表紙や背文字には、「生長の家聖典」とのみ記して、著者名は出さなかった。
神が私をパイプとして書かしめた聖なる典籍との畏れ慎みであった。
天を視るに
幾万の天使たち身に羽衣の如きものを着け、
手に巻物を持ちて打ち振り 何事かなすものの如し。
天使たちの手にせる巻物には「生命の實相」と書かれたりと見る。
その巻物より白き霊の糸の如きもの無数蜘蛛の糸の如く下りて光を放つ。
霊の糸の先端に黒き書物あり、三方より光を放つ。
大涛の如き天使の声聞えて
「生命の實相を握るものは焔の中にあって焼けず、死を超えて永遠に生きん」
谷口雅春 先生 著 『生命の實相』
272
:
ハマナス
:2012/03/21(水) 21:56:34 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
神の創造に協力しよう (『新版 生活の智慧365章』P.101より)
人間に於ては、“創造の霊”(神)が“真空妙有”の世界から常に“新しき創造の原型”
を形の世界に押し出してきて、常に吾々は何か新しい設計や計画や創造的仕事をなしつつ
あり、人体では、それが新陳代謝としてあらわれてきているのである。
神はその霊の“創造の新しき拠点”として肉体を作り、その肉体の中に、自己の“霊”を
宿らせて、其処に自己の欲する事物をつくり出す“中心”を創造したのである。吾らは
神の“新しき創造の拠点”として、即ち神の常に新しき自己表現の“中心者”たるもの
である。
人間は常に新しき創造をつくり出しつつあり、人体は新陳代謝で、陳(ふる)きものを
追い出して新しき創造をつくりつづけつつあるのである。自然界では春夏秋冬の遷(うつ)
りかわりに、花咲き実り、葉茂り、落葉し、更に新たな春の装いをつけつつ、植物は常に
新しき形にまで生長をつづけるのである。即ちこの世界は新創造新生長の実現する世界で
あり、それを内部から動かしているのは、“創造の霊”なのである。従って吾らは常に新しき
創造をこの世界に為すべきであり、それによってのみ、神の創造に協力することができるのである。
もし吾々が“新しき創造”を何もしないならば、それは神の“創造力”の出口たる使命を
果たさないのであるから生命は内部から引退し死に招くに至るのである。
感謝合掌
273
:
SAKURA
:2012/03/22(木) 04:50:15 ID:qjU6h9ik
トキ様 へ
皆様 へ
おはようございます…。
今日は【嵐の〜♫〜】前〜〜なのでしょうか…?
前触れ???なのでしょう〜〜か?
しかも…「ジ〜〜〜〜〜っと見ている”竿の先“…」でしょうか??
【統一教会】の様な感じ?…変な感じ?…「解説論…」に見えてしまいます〜ネ!
本当の「生長の家」の人〜〜〜♫〜〜〜何処にいるの〜〜〜〜〜??
まるで〜まるで〜【創価学会・統一教会の人…???】
その様中でも【SAKURA…】 神に誓って頑張りま〜〜す。
■「生長の家」の灯をもう一度!!今日も“真理”の勉強をさせて頂きます…。
■【幸福を招く365章】
―――巧みな忘却は人生を洗う石鹸なり―――
過去の事を思い煩うな、未来のことを心配するな。
思い煩いと心配とはあなたの神経を病的に刺激し、つい生理的不調和を
惹起し或いは抵抗力を弱めて病気に至らしめるのである。
過去は過ぎ去ったのである。思い煩うは愚かなことである。
未来はまだ来たらないのである。心配するのは愚かなことである。
結局、悩む者は、過去を今に持ち来し、未来を今に持ち来し、
今の幸福を想像の中で汚してしまうのであるから、
そんな愚かな事はしないが好い。「今」を喜べ。
過去を忘れよ。未来を忘れよ。
この忘却はあなたの人生を清める石鹸の働きをするのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今日は“過去の事”を思い出しながら…澄み切った夜空に輝く星〜〜♫〜〜見上げ、
“お墓参り”へと…「亡き母」が眠っています“お寺”に行く…途中…
まだ!母の“面影”があちらにも〜こちらにも〜?残っています…街並み???
あの頃の“面影”がそのまま残っている“ビル”があったり、
もう〜?“空きビル”になってしまい、過去の繁栄した“姿”何処〜〜なの><
“時間”と云う概念は…
この世から“亡き最愛の母が別世界に飛び立ち”それでも、刻々まれていく〜♫
それを思いながら“心”の何処か片隅に、大きな空洞… >< 小学校の頃、
夏休みの補習がありまして、担任の先生と一緒に勉強を…
ある時昼休みに、先生が「木村屋のあんパン」をおごると云って下さいまして、
私にお金を渡し「パン屋…」へと!!此処は有名な「銀座の支店」だったのですが…
今は、もう〜〜〜〜〜“独立”にて、全く関係ない様ですが…
当時は「人気商品」…それを20個買ってきて、
先生は、私に“アンパン・メロンパンと牛乳…”今〜♫〜
幼いころの思い出が?ついつい〜♫〜「走馬灯」の様に思いだしますと、
胸が締め付けられる気持ちです〜〜。
確かに!!あの時代〜あの頃〜あの場所で〜父も母も…健在でいたのです〜〜ョネ!
■【肉体は借りもの?】
子供の頃、私が必ず!親孝行……此の“文字”を…いつも念頭に抱きながら…
思い出しますと…「親不孝者…」でした…その“後悔の念”…
母が亡くなって以来、そればかり考える様になりまして、
唯!今…「母も霊界」にいますが?どのような部屋にいるのかしら〜〜〜ンと?
いつも…母へのメッセ−ジ!
そして、あちらの世界…母にとりましては、まだ“期間”が短い様ですので…
唯!今!!!今!!!今を生かす事が…如何に大切なモノなのかを知る事ができ
そう思える様に〜〜なった私自身を少しだけ“よかった子ちゃん”でしょうか?
私は“過去の事”を、思い煩うより“前向きに未来”へと目を向け様と思います。
…今は、きっと〜♫〜きっと〜素敵な未来が…待ち受けている!!
前に〜〜前に〜〜ひたすら“前進” オンリ−!!
そして【生長の家も…必ず!必ず!信じて待つ……『信力』】
現在!本当〜〜〜〜〜「生長の家」??と思うぐらい新しい方の“投稿言葉”
あらゆる分野…キリスト教・仏教…に起きましても、
■人間は“真理=愛”…そこに行く過程まで…“光明=光”…更に“慧=叡智”…
そうなのですョ〜〜〜ネ!【真理…】が見えなければ〜〜〜
【霊界の世界…】いい世界へと、行く事が出来ない見たい〜〜〜ですョネ!
だからこそ「宗教・哲学…」学ぶ必要性が…
更に!私も少し【真理…】に目覚め出しまして〜〜♫〜〜
■ ■ 【真理…】これこそ永遠不変!!!! 再合掌
PS:トキ様へ…本日の解釈どの様にお考えでしょうか?“アドバイス”頂きますと
幸いに存じます…。
274
:
a hope
:2012/03/22(木) 11:20:36 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
或る少年の話
神戸に肋膜炎という病気に罹って、やっと治りかけたくらいの痩せ衰えた六年生の生徒がありました。
中学へ入学するのに、試験の競争がはげしいので、病後のその少年にとっては、
誰がみても一年ぐらい休学して、来年もう一年、
六年生の勉強をしてから中学校へ入るほうが無理がなくてよかろうと思えるのでした。
母親もそう思っていました。
そして私のところへ、その少年をつれて相談に来られたのです。
その時私は、その少年と母親とに申しました。
「勉強は心を富(と)まし、身体を丈夫にする薬なのです。
勉強をすれば身体が弱くなると思っていたのは、ふるい時代の迷信です。
勉強する時には、これから身体の丈夫になる薬をのむと思って勉強しなさい。
『ああこの薬は楽しい。楽しいことはいくらやっても疲れない。
私が勉強したら、父さま母さまが喜んでくださる。
人を喜ばすことをすれば身体は丈夫になるばかりだ。決して疲れない。』
こう思ってから本を開いて勉強しなさい」
と私が申上げますと、その少年は、病後の疲れた身体で、
毎晩二時三時頃までも勉強したものです。
それに決して疲れるということなく、しだいに肥えて、
小学校を卒業する頃には、学科もよくできるし、
体格も立派になり、無事に中学へ入学して、次の日その母親に私が会ったときには、
大変喜んでお礼を申されたのであります。
(つづく)
275
:
a hope
:2012/03/22(木) 11:25:09 ID:kcv2QXTk
SAKURAさま
いつも、すばらしい聖典の筆写を、
こちらの聖典引用板にしていただきありがとうございます。
こちらの聖典引用板が、たしか多くの投稿者さま方が、他の板で聖典の筆写をされるようになり、
「それならば、聖典のみを筆写する板をつくろう!」ということがきっかけでできた板だとわたしは記憶しています。
そのほうが、閲覧する方も他の板でされている討論などを、目にすることなく、
聖典のみを閲覧できるということも考慮されて作られた板だったと思います。
管理人さまのトキさまも、
―――――――――――――――――――――――――――――――――――ー
1:トキ:2011/11/23(水) 13:32:46 ID:YRze2u3c
このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
と一番最初に言われていますので、聖典の引用とは関係のない、個人的な内容や、
トキさまへの質問などは、他の板でされた方がよいのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
276
:
トキ
:2012/03/22(木) 11:26:19 ID:iFhznFvc
>>275
お尋ね、ありがとうございました。その場合は、「部室」板でお願いします。
合掌 ありがとうございます
277
:
a hope
:2012/03/22(木) 11:29:23 ID:kcv2QXTk
>>275
訂正
6行目
こちらの聖典引用板が、→ こちらの聖典引用板ですが、
278
:
SAKURA
:2012/03/22(木) 14:44:48 ID:gXyivFRg
>ももんが様 へ
こんにちは …。
>269拝読 させて頂きまして……
まだまだ未熟な私の“投稿文”…賛同して頂きました事に、深く感謝申し上げます。
ありがとうございます…。(遅くなりまして…申し訳ありません。)
“恐縮…”と云う“言葉”一言に尽きます…。
『モモンガ様』の仏教論…私なりに…日々“勉強中”です…。
話は変わりますが…この頃“若者”が、私の感じます限り【仏教…】に興味を
持っているようです〜〜〜〜〜ョ!
『モモンガ様』の影響…“パワ―”ではないでしょうか?? (微笑み)
今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます…。
再合掌
PS:此処でお礼の“言葉”お伝えします事…此の掲示板趣旨に反しますかしら〜ン
思いながらも…【此処に書いて頂いておりましたので】御迷惑を「ももんが様」に
おかけしましたら?申し訳ありません…。
279
:
SAKURA
:2012/03/22(木) 15:58:08 ID:gXyivFRg
トキ様 へ
皆様 へ
現在、社会が複雑化しています昨今!!「心の灯」よりどころとなるモノが…
とても素敵な文章が目に留まりましたので…ここで紹介(続きモノとして…)
投稿させて頂きます…。
■ 【仏教典…】一部抜粋
広い暗黒の野原がある。何の光もささない。
そこには無数の生物がうようよしている。
しかも暗黒のために互いに知ることがなく、めいめいひとりぼっちで、
さびしさにおののきながらうごめいている。いかにも哀れな有様である。
そこへ急に光がさしてきた。すぐれた人が不意に現れ、手に大きなたいまつを
ふりかざしている。真暗闇の野原が一度明るい野原となった。
すると、今まで闇を探ってうごめいていた生物が立ち上がってあたりを見渡し、
まわりに自分と同じものがたくさんいる事に気づき、驚いて喜びの声をあげながら、
互いに走り寄って抱き合い、にぎやかに語りあい、喜びあった。
今この野原というのは人生、暗黒というのは正しい智慧の光のない事である。
心に智慧の光のないものは、たがいに会っても知り合い和合することをしらないため、
独り生まれ独り死ぬ。ひとりぼっちである。
ただ意味もなく動き回り、さびしさにおののく事は当然である。
「すぐれた人がたいまつをかかげて現れた」とは、仏が智慧の光をかざして、
人生に向かったことである。
この光に照らされて、人々は、はじめておのれを知ると同時に他人を見つけ、
驚き喜んでここにはじめて和合の国が生まれる。
幾千万の人が住んでいても、互いに知りあうことがなければ、社会ではない。
社会とは、そこにまことの智慧が輝いて、互に知りあい信じあって、
和合する団体のことである。
In fact、
harmony is the life and real purport of a true community or an organization/
まことに、和合が社会や団体の生命であり、また真の意味である。
<つづく>
280
:
「訊け」管理人
:2012/03/22(木) 17:04:54 ID:???
『祈りの科学』24項より謹写――
真空妙有の世界
天文学者は太陽系統の如き天体群の発生する前にその母体として星雲の如きものが存在し、その星雲の発生する以前には全然そこは「無」即ち真空の世界のみであったことを想定しているのである。「真空」を単に「無」と解すれば、「無」よりして星雲が何故発生し、太陽系が何故発生したかが問題になるのであるが、「真空」とは無尽蔵の根源だと分かれば問題は直ちに解明するのである。
過去に於いては太陽は一個の高熱なる一大発光体だと考えられていたが現在ではそれは原子エネルギーの集団であると認められているのである。星雲と称するものは恐らく原子エネルギーの集団であろうと考えられるのであるが、原子エネルギーの本体である「運動する電子」その他の素粒子の如き微粒子は如何にして発生したのであろうか。それはウイルソンの霧函(きりばこ)に於いて電子の運動を観察している際に一個の電子が突如として二個となり、「無」の世界より、一個が新たに創造されたるが如き観を呈し、或いはいま観測中の電子が、突然「無」の状態に帰して行方不明になってしまう所に事実よりして、「運動する電子」その他の素粒子は「無」よりして出て「無」に帰るものであることが発見されたのである。そうすれば太陽や星雲を構成する所の「運動する電子」その他の素粒子(即ち原子力集団)も亦「無」より発生したものだといわなければならないのである。「無」即ち「真空」であって、「真空」が万物の本源であり、一切を構成する創造者であるということができるのである。
かくの如く吾々をとりまく所のものはすべて「真空」であり、天体と天体、星と星との間の空間及び分子と分子との空間、電子と電子との間及び電子と原子核との間も結局真空であり、真空は即ち「無」であって、「無」が一切の存在の殆どすべてを占めているということができるのである。然もその「無」は何ものも存在しないのではないのであって、すべての天体を虚空に於いてあるべき位置にあるべきようにあらしめている所の力であり智慧であり、分子及び電子その他の物質構成分たる微粒子をしてあるべき所にあるべきようにあらしめている所の力であり、従ってそれは驚くべき正確なる智慧を含む所の力であるのである。即ち宇宙に満つる「智慧の力」は「無」よりして一切のものを発生せしむる所の本源であるのである。この「真空」は吾々の身体の一切の部分に行き亙っているのであって、従って又宇宙の一切の部分につながっているのであるということができるのである。それは驚くべき精巧なる智慧であるから単につながっているというだけではなく、吾々の〝智慧〟に、又〝願い〟に答えてくれる所の〝智慧〟である筈であるのである。ここに吾々の祈りが宇宙の智慧である所の神に到達し、一切の電子分子等々を生み出した所の「真空妙有」なる所の神に到達してその願いをかなえてくれる所の根拠に到達するのである。されば祈りはかなえられないということはないのである。ただそれがかなえられないのは祈りがかなえられる所の法則に対して吾々が無智であり、ラジオの放送は必ず聴取することができるのに、法則を知らないために聴取することができないようになっているのと同じことなのである。
281
:
「訊け」管理人
:2012/03/22(木) 17:11:37 ID:???
WEB「榎本恵吾記念館」文書館より謹写――
悪あり、罪ありであったならば、1人の子でも堕ろした人が来たら、「自分が殺されてから来なさい」ということになります。人1人でも殺していたら、たとい全宇宙が赦してくれても、自分で自分を赦すことは絶対にできないということは、いつも講話などで申し上げていることです。罪を犯しているけれども気にしないで喜ぶという喜びではないのです。神は罪を犯し給わないから、神の子もまた罪を犯せていないのです。繰り返しになりますが、罪を犯せていないことが喜びなのだということなのです。
人類は、この意味での喜びを味わうことを長い間忘れていたのではないでしょうか。そうした理由から、練成会では「笑いの練習」をするのです。「笑いの大会」ということまでやって、神の子としての喜びを遠慮しないことを練習しているのであります。以前「笑いの大会」で最優秀賞を受賞した人の中に、私が個人指導をさせていただいたときに子供を5人堕ろしたと話していた人がいらっしゃいました。そんな人が、最高の賞をもらっているのです。そして、1人も堕ろしていない人が何も賞をもらっていなかったりするのです。少なくとも子供は堕ろしていないとしても、すでに完全円満の實相を包み隠してこれを喜ぶことをその人が遠慮していたとすれば、それはそれで別の種類の罪を犯していることになるのではないだろうかと、つくづく想わされたことでした。
こう考えてみますと、練成会の行事は、神想観から聖経の読誦、講話、感謝行など、すべて完全円満の實相を遠慮しない行事ばかりであることに気づかされるはずであります。
先日も私がこのことを話して、結局、
「そのまま円満を喜ぶことが懺悔なのですよ」
と言いましたところ、
「私は15人も堕ろしているのですよ。それでも喜ぶのですか?」
と詰め寄るように私に言ってきた人がありました。その人の眼は複雑な眼でした。その眼は、「喜べたらどんなによいでしょう」と訴えている、もどかしさのこもった眼でした。そこで私は、
「喜ぶのはあなたのためではないのですよ。もしも殺し合いの不完全な世界が本当にあるとしたら、神は不完全であり、神はないということになって、神を殺すことになるのですよ。喜ぶのはあなたのためじゃないのです。あなたはどうでもよいのです」
と言ったのですが、そのときついつい語調が強くなりました。するとその人は、
「ああ、私のためじゃないのですか」
と言われて、見る見るうちに表情が明るくなられました。
その場にいて、その光景を見ていた方が、40数年間の罪の重荷から解放されたことを後日お知らせくださいました。實相のそのまま円満なことを喜ばないのは、神を審くということであります。何よりも先に神を赦すことが第一であるという教えが、生長の家の教えなのであります。これが『神を審判く』という青年期の著書に著わされた思想を超えて行かれた谷口雅春先生のお姿であるのです。
尊師谷口雅春先生が、初めての海外ご巡錫でブラジルにお寄りになったときのことですが、「人間は神の子で、罪の子ではない」と話されたところ、それは傲慢だという非難の声があったそうです。そのとき、谷口雅春先生は、
「人間が罪の子であると考えることが神に対して傲慢なのです。神が人間を罪だらけとしてしか造れなかった、ということを認めることは、神が不完全で罪だらけであると軽蔑することになるのであって、人間が神の子であるということは、神が罪だらけでなく、完全であることを弁護しているのです。私は神を弁護する弁護士であります」
と答えられたということです。
すると、その場に本当の弁護士がおられて、谷口先生の話を聴いて「私も神を弁護する弁護士になりたいなあ」と想われたそうです。そしてその方が帰宅してみると、8年間も患っていた奥さんの病気が消えていました。歓迎夕食会のときには、その弁護士夫婦がお二人揃って出席されて体験を話され、谷口先生にお礼を言われたということです。
私たちがそのまま円満の神の子であり、罪の子ではないということは、神のために、神を憎むのではなく、神を赦すために受け入れなければならないことなのです。
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65570759.html
282
:
トキ
:2012/03/22(木) 19:33:05 ID:iFhznFvc
徹頭徹尾自力の否定であり、感謝以外にはないのであります。祈りも感謝、愛行も感謝、神想観も
聖経読詭も悉く感謝であります。
自己中心の祈りや行は、生長の家ではありません。目的や都合から出発した行は、どんなに完壁に
出来ても、不安を取りのぞく力とはなりません。やりながら不安を伴うのであります。それは心の底
では自分を頼み、結果を期待していることになり、肝腎の神様がぬきになっているからです。神様が
抜きになっていて救われるはずがありません。神に全托したものには、あるのは唯感謝のみでありま
す。感謝以外の努力は救いにつながる努力とはなりません。
「七つの燈台の点燈者の神一空の中にも、一にも感謝、二にも感謝、感謝、感謝、ただ感謝だけとあ
ります。あまり感謝ということばが多いので数えてみましたら、何とあの短い御文章の申に、十四回
も感謝というおことばがあり、最後の方に、
「その感謝の念の中にこそ、汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう」とお示し頂いています。
これをみても、生長の家がどんな教えであり、どんな方法で救われるかが明らかであります。この
「七つの燈台の点燈者の神一空は何十とある神示の中の、根本の神示であり、み教えを代表する神示
であります。そのご神示で「感謝」がすべてであり、それのみが救いの根本であるとお示し頂いてお
りますから、私たちはその教えに素直に従い、信じて行ずる以外に方法はありません。それ以外のこ
とを考えたのでは、生長の家でなくなります。
このように救いの根本は信であり、感謝であることがわかるのでありますが、私どもの所に相談に
こられる人の中には、「何を信じたらよろしいのですか?」とか「感謝しなければいけないことはよ
くわかるのですが、きて感謝しなければ…と思ってみると、感謝するようなことが見つからないの
ですが・…‥」といわれる方があります。このような方は決まって、現象を対象にしておられる方々で
あります。信ずる対象はあくまで神様であり、現象ではなく実相であります。また感謝でも、現象や
条件を対象にするのではなく、実相に感謝するのであります。生長の家は現象なしに徹する教えであ
りますから、ない現象を相手にしているようなことでは、本ものの信仰ではありません。実相直視、
実相独在の教えであります。
「すべてを癒す道 藤原敏之著 P92」
283
:
「訊け」管理人
:2012/03/22(木) 21:17:23 ID:???
WEB「榎本恵吾記念館」文書館より謹写――
素直に素直に、この「招神歌」の中身を受け取るのを遠慮しないことが大切です。第一のものを第一とすることです。第一とは神であり、實相であり、そのまま円満ということであり、「生きとし生けるもの」が、神そのものとして、神に愛され生かされているということです。はっきり言えば、“そのままでよい”ということです。“そのままでよい”と言えるのが實相であり、“そのままでよい”と言えないものは實相ではありません。
神に生かされていることを喜んでいるとき、我が要らなくなり、消えて、そこに感謝が輝いているのです。また、そのようなときにこそ「聖使命菩薩讃偈」の中に示されているような菩薩が、そこに世の光として立っているということになるのです。
「感謝しないと現れてやらないぞ」「愛行をしないと現れてやらないぞ」というのでは、これほど冷たい「神示」や「お経」はないということになります。それを全部自分の力でやってからでないと神が顕れないというのでは、神が顕れるための、生かされるための準備ばかりをしているのであり、それでは今ここには神は在さないということになります。生かされるための準備は何がやっているかというと、我がやっていることになり、また一方では我がないのが感謝なのですから、もう何が何だか解らなくなり、結局は「できていない、できていない」ということになってしまうでしょう。それでは永遠に感謝はあり得ず、ついに「生長の家ほど神に遠い教えはない!」という結論になってしまわないとも限りません。
しかし、断じてそうではないのです! 今第一のものを第一として、「生きとし生けるもの」として生かされていることを喜べば、それがそのまま感謝であり、世の聖なる光となっているのです。
生長の家では、神の愛が姿形をとって現れ給うたのが父母であると教えられています。父母は神なのです。父母は、「御祖神」の「みおや」なのです。ですから、この神を遠慮してしまうと、父母のいのちの流れから外れてしまうことになってしまうのです。
神のことを“親様”と言うのですから、神は父母そのものであり給います。親様である“神”に生かされている、愛されている、または生かされていてよい、愛されていてよいということを素直に“ハイ”と受けとめれば、父母に素直になっていることであり、感謝していることになっているのです。こちらの力のいらない教えです。“ハイ”と受け取るしかないという教えです。受け取る側は、遠慮しないことだけでよいという教えです。感謝する行為さえも神さまに全托できる教えであります。もちろん愛行もです。常に、常にこちら側にいて味方となってくださって居るのが神です。
神はすべてのすべてであり給うのですから、神が味方であり給うということは、天地一切のものが味方であるということに他ならないのです。これだけはこちらでやらなければならない、ということが一つもなく、丸もらいの丸儲けができるのが生長の家であり、感謝の教えだという意味です。
284
:
「訊け」管理人
:2012/03/22(木) 21:47:18 ID:???
――服部仁郎曰く、
實相は無形であるけれど、種子を土の中におろすと、水分を吸収し、日光を浴びて、立派に朝顔の花は開花する働きをもっているのであります。それで、ここで注意すべきことは、實相は現象に顕われようとする働きをもっているということであります。
この實相が現象にあらわれたことをわたし達は、仏教の語を藉りて「諸法實相」と云い、この現れようとする働き、つまり實相が現象的象徴を求める働きを、天地を貫く心の法則と見ているのであります。諸法とは諸ゝのものと云うほどの意味であります。これはたゞ単に朝顔の花だけでなく、宇宙の生きとし生ける、あらゆる生命に通じている法則でありまして、まことに宇宙の万物はすべて實相の顕現でありまして、これを「諸法實相」と言っているのであります。
『神経症は治る』10項
――榎本恵吾曰く、
「實相は現象に顕われようとする働きをもっているということであります。」
ここのところは「實相」は人間の心のレンズを磨くという人間業を通さずに、「實相」は自ら顕われる力がそなわっていることを語っているのである。ここに心のレンズを磨かなければ出て来ることの出来ない、動きのとれない實相ではなく、本当の意味での全托に値するところの「實相」というものが伝えられているのである。
この〝實相は現象に顕われようとする働きをもっている〟ことが解らなければ、どうして尊師が「實相」「實相」と大書されるのかの意味が解らなくなるのである。繰り返すが、實相は人間の修行という心のレンズを研くことによって、わずかに心からすべてを放つということ、安心するということではないのである。實相はみずから顕れるという全托の中にこの大安心を得て、現象から心がはなれたときに病は消えると服部氏は多くの実例をあげているのである。ここに生長の家のみ教えを通しての世界観、人生観が書かれていると思われる。そしてそれがそのまま、服部氏の尊師谷口雅春先生の弟子として道を伝え、奇跡的な治癒を行っていた力の根本の自覚の説明となっているのである。
285
:
a hope
:2012/03/23(金) 10:40:36 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
誰でも楽しくなれば生き生きする
仕事や勉強は自分を立派にすることであり、自分の値打ちを出すことであり、
自分を丈夫にすることであり、その上、他(ひと)を喜ばすこと、
他からありがたがられることだと知れば、吾々は仕事や勉強が自然に楽しくならずにはいられないのです。
楽しくなれば、吾々は生き生きしてくるのです。
生き生きしてくれば身体も元気になって来るのです。
生き生きしない植木は枯れて来ますが、生き生きしている植木は、
ズンズン伸びて行くのでも明らかになりましょう。
(つづく)
286
:
ハマナス
:2012/03/23(金) 13:57:28 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。
善き想念・悪しき想念 (『新版 生活の智慧365章』P.103)
あなたの人生はあなたの想念の具象化である。「あなたの想念」と仮にいうけれども、
人は自己独特の精神の上に周囲の人物から色々の想念を感受して「自己の想念」を
混成するのである。幼い時には、両親及びその家族から最も多く想念を感受して、それを
総合して「自己の想念」を混成する。十三歳以上になると、個性が独立して来て、必ずし
も周囲の想念ばかりに支配されなくなるけれども、依然として両親・家族・人類からその
想念の影響を感受して、全然「無影響」ということはあり得ないのである。
併しながら年を重ねるにしたがって個性的は表現要求は強くなるが、同時に幼児以来
受けて来(きた)った家族及び人類から感受した想念もその人の潜在意識に固定化して
抜きがたき傾向を形づくることにもなる。その固定化した傾向が、よき想念・明るき想念
である場合は、その人の生涯に善き影響をもちつづけるが、それが悪しき想念である場合
には、その人の生涯に常に悪しき影響を与えつつ、その人の運命を暗い方法に導いて行く
ことになるのである。
感謝合掌
287
:
SAKURA
:2012/03/23(金) 23:06:33 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ
こんばんは…
279>前回の“つづき”として、投稿させて頂きます…。
■ 仏教典 (一部抜粋…)
しかし、世の中には三とおりの団体がある。
一つは、権力や財力のそなわった指導者がいるために集まった団体、二つは、
ただ都合のために集まって、自分たちに都合よく争わなくてもよい間だけ続いている団体、
三つは、教えを中心として和合を生命とする団体である。
もとよりこの三種の団体のうち、まことの団体は第三の団体であって、この団体は、
一つの心を心として生活し、その中から色々の功徳を生んでくるから、
そこには平和があり、喜びあり、満足があり、幸福がある。
そして、ちょうど山に降った雨が流れて、谷川となり、次第に大河となって、
ついに大海に入るように、
いろいろの境遇の人びとも、同じ教えの雨に潤されて、次第に小さな団体から社会へと
流れあい、ついには同じ味のさとりの海へと流れ込むのである。
すべての心が水と乳とのように和合して、そこに美しい団体が生まれる。
だから正しい教えは、実にこの地上に、美しいまことの団体を作りだす
根本の力であって、それは先に言ったように、互いに見いだす光であるとともに、
人々の心の凹凸を平らにして、和合させる力でもある。
Thus,
the organization that is formed on the perfect teaching of Buddha can be called
the Brotherhood.
このまことの団体は、このように教えを根本の力とするから教団といい得る。
そして、すべての人は、みなその心をこの教えによって養わなければならないから、
教団は道理としては、地上のあらゆる人間を含むが、事実としては、
同信の人達の団体である。
■この事実としての団体は、教えを説いて在家に施すものと、これに対して
衣食を施すものと,両者相まって、教団を維持し拡張し、教えの久しく伝わるように
努めなければならない。
それで、教団の人は和合を旨とし、その教団の使命を果たすように
心がけなければならない。僧侶は在家を教え、
在家は教えを受け教えを信じるのであり、したがって両者に和合があり得るのである。
互いに和らぎむつみあって争うことなく、同信の人ともに住む幸せを喜び、
慈しみ交わり、人々の心と一つになるように努めなければならない。
■ここに教団和合の6つの原則がある。
第一に、慈悲のことばを語り
第ニに、慈悲の行いをなし、
第三に、慈悲の意をまもり、
第四に、得たものは互いに分かちあい、
第五に、同じ清らかな戒を保ち、
第六に、互いに正しい見方を持つ。
このうち、正しい見方が中心となって、他の五つを包むのである。
また次に、教団を栄えさせる二種の七原則がある。
1)しばしば相集まって教えを語り合い、
2)上下相和して互いに敬い、
3)教えをあがめ尊んで、みだりにこれをあらためず、
4)長幼相交わるとき礼をもってし、
5)心を守って正直を敬いを旨とし、
6)閑かなところにあって行いを清め、人を先にし、自分を後にして道に従い
7)人びとを愛し、来るものを厚くもてなし、病めるものは大事に看護する。
この七つを守れば教団は衰えない。
次に、
1)清らかな心を守って雑事の多いのを願わず、
2)欲なきを守って貪らず
3)忍辱を守って争わず
4)沈黙を守って言わず
5)教えを守っておごらず
6)一つの教えを守って他の教えに従わず
7)倹約を守って衣食に質素であること。
この七つを守れば教団は衰えない。
<つづく> 再合掌
288
:
下流の人
:2012/03/24(土) 00:29:43 ID:rW.yYvdc
谷口雅春先生は『維摩経講義』にて
・・・普通、仏教では、悟りは言語文字にあらわすことは出来ないと云いますけれども、実際は言語文字にあらわすことが出来るのです。
悟りの境地を言語文字にあらわすことが出来ないのは、本当には、まだ悟っていないからであります。
私は『生命の實相』二十巻の中に於いて、その解脱の境地をむつかしい哲学的熟語や、仏教用語などを使わないで表現しました。それゆえにこそ『生命の實相』を讀むだけで、読者の生命の迷いが消え、自縄自縛されていた生命の縛りが解放されて、病気が消えたり、人生百般の悩みが解消したりするのである。
これは言語文字によって、解脱の境地を表現し得る証拠であります。
また『ヨハネ傳講義』にては
吾々は聖書や教典を講義して、一字一句どうであるとわかったとて、そんなことは生命の悟りの前には何でもない。
吾々が語るのは本の字句の講義ではないのです。聖書に託して自内證の真理を話しているのであります。
289
:
ハマナス
:2012/03/24(土) 08:44:47 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
善人は団結して言動せよ。 (『新版 生活の智慧365章』P.108)
社会的、国家的、人類的な大黄な目的に関する願いは、個人がひとりひとりでやるよりも
大きな団体及び組織の力を利用してやる方が実現の速度も簡易が大きくなるのである。
今までの善人は、あまり温和(おとな)しすぎて黙って控え目にしていて、悪人の方が
団結して言いたい放題なことを主張したり、群衆行動の圧力でその要求を貫徹しようとしていた
嫌いがある。そんなことでは社会も国家もよくならないのである。善人はその目的を一つにして
大同団結して建設的に協力するとき速やかに社会も国家もよくなるのである。
人類光明化運動の団体の中における者は、尚一層調和して、その主たる目的のために
常に建設的は言動をなすべきであって、苟(いやしく)も、破壊的な、内部紛争をかもす
ような言動をなしてはならないのである。内部に相争うものを包容している団体は、寄生中や
癌細胞を内に宿している人体のようなものであって、早晩、瀕死の状態に陥るか、大手術をして
内部の病原を切除しなければならなくなるのである。
感謝合掌
290
:
SAKURA
:2012/03/24(土) 12:57:06 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ
昨日は、雨が〜〜〜シトシト〜〜〜♫“金曜日”でしたが…?更に…時間の経過が〜
このような日こそ・・・精神統一が大事ですネ・・・
今から心の浄化出来る谷口雅春先生の浄化作用を・・・【心のエッセンス】
■【幸福を招く365章】
―――与えると受けるとの悦び―――
受ける者よりも、与える者の方が幸福である。与えると云うことには幸福感を伴う。
神の愛は「与えてやまぬ愛」であるから、与える心の中には神の愛が目覚めて
来るのである。しかし受ける者があるので与える悦びが完了するのである。
だから受ける者を軽蔑してはならぬ。受ける者を軽蔑したとき、
与える悦びは減ってしまうのである。受ける者を愛し祝福する気持になったとき、
与えた悦びは増大するのである。与える喜びも大切であるが、
何事にても受けるときに真にそれを神の恵みとして感謝するならば、
受けることも大なる悦びに変化して来るのである。
自分が与える悦びばかり固執していて、他に与えさす機会を与えないのは
他人の人の魂の進歩を妨げることがある。
(谷口雅春著)
■【生長の家政治連合と「今の教え」を考える】
866> 此処に私なりの…【解釈…】してみましたが…?
291
:
SAKURA
:2012/03/24(土) 21:54:11 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ
>279>287 の続き
■■ 仏教典 より
■ 第3章 【仏国土の建設…】
第1節 ―― むつみあうなかま ――
前にも言ったように、教団は和合を生命とするものであり、和合のない教団は
教団ではないから、不和の生じないよう、生じた場合は、速やかにその不和を
除き去るように努めなければならない。
血は血によって清められるものでなく、恨みは恨みによって報いられるものではない。
ただ恨みを忘れることよってなくすことができる。
昔、長災王という王があった。隣国の兵を好むブラフマダッタ王に国を奪われ、
妃と王子とともに隠れているうちに、敵に捕らえられたが、王子だけは幸いにして
逃げることができた。
王が刑場の露と消える日、王子は父の命を救う機会をねらったが、ついにその折もなく、
無念に泣いて父の哀れな姿を見守った。
王は王子を見つけて、「長く見てはならない。短く急いではならない。
恨みは恨みなきによってのみ静まるものである」
と、独り言のようにつぶやいた。
この後王子は、ただいちずに復讐の道をたどった。機会を得て王家にやとわれ、
王に接近してその親任を得るに至った。
ある日、王は猟に出たが、王子は今日こそ目的を果たさなければならないと、
ひそかにはかって王の軍勢から引き離し、ただひとり王について山中を駆け回った。
王はまったく疲れはてて、親任しているこの青年のひざまくらに、
しばしまどろんだ。
いまこそ時が来たと、王子は刀を抜いて王の首に当てたが、その刹那父の臨終の
ことばを思い出されて、いくたびか刺そうとしたが刺せずにいるうちに、
突然王は目を覚し、いま長災王の王子に首を刺されようとしている
恐ろしい夢を見たと言う。
王子は王を押さえて刀を振りあげ、今こそ長年の恨みを晴らす時が来たと言って
名のりをあてたが、またすぐ刀を捨てて王の前にひざまずいた。
王は長災王の臨終のことばを聞いて大いに感動し、ここに互いに罪をわびて許しあい、
王子にはもとの国を返すことになり、その後両国は親睦を続けた。
ここに「長く見てはならない」というのは、恨みを長く続かせるなということである。
「短く急いではならない」というのは、友情を破るのに急ぐなということである。
恨みはもとより恨みによって静まるものでなく、恨みを忘れることによってのみ静まる。
和合の教団においては、終始この物語りの精神を味わうことが必要である。
ひとり教団ばかりではない。世間の生活においても、このことはまた同様である。
<つづく> No.1
292
:
SAKURA
:2012/03/24(土) 21:55:42 ID:FEa/NNlc
<つづく> No.2
第2節 ―― 仏の国 ――
1)前にも説いてきたように、教団が和合を主として、その教えの宣布という
使命を忘れないときには、
教団は次第にその円周を大きくして、教えが広まってゆく。
ここに教えが広まるというのは、心を養い修める人が多くなってゆくことであり、
今までこの世の中を支配した
無明と愛欲の魔王が率いる貪りと怒りと愚かさとの魔軍が退いてここに
智慧と光明と信仰と歓喜とが、その支配権を得ることになる。
悪魔の領土は欲であり、闇であり、争いであり、剣であり、血であり、
戦いである。
そねみ、妬み、憎しみ、欺き、へつらい、おもねり、隠し、そしることである。
いまそこに、智慧が輝き、慈悲が潤い、信仰の根が張り、歓喜の花が開き、
悪魔の領土は、一変して仏の国となる。
さわやかなそよ風や、
一輪の花が春の来たことを告げるように、ひとりがさとりを開けば、
草木国土、山河大地、ことごとく仏の国となる。
2)教えのしかれている世界では、人びとの心が素直になる。
これはまことに、あくことない大事日によって、常に人びとを照らし守るところの
仏の心に触れて、汚れた心も清められるからである。
この素直な心は、同時に深い心、道にかなう心、施す心、戒を守る心、
忍ぶ心、静かな心、智慧の心、慈悲の心となり、また方便をめぐらして、
人びとに道を得させる心ともなるから、ここに仏の国が、立派にうち建てられる。
妻子とともにある家庭も、立派に仏の宿る家庭となり、
社会的差別の免れない国家でも、仏の治める心の王国となる。
まことに、欲にまみれた人によって建てられた御殿が仏の住所ではない。
月の光が漏れこむような粗末な小屋も、素直な心の人を主(あるじ)とすれば、
仏の宿る場所となる。
ひとりの心の上にうち建てられた仏の国は、同信の人を呼んでその数を加えてゆく。
家庭に村に町に都市に国に、次第に広がってゆく。
まことに、教えを広めてゆくことは、この仏の国を広げてゆくことにほかならない。
<つづく>
再合掌
293
:
a hope
:2012/03/26(月) 08:47:27 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
最も楽しくなる法
生き生きするには楽しいと思わなければなりません。
悲しいと思っていて生き生きできる人はありません。
生き生きしないものは、枯れかかった植木と同じく、新しい芽が伸びないのです。
生き生きしない者は枯れるよりほかはないのです。
では生き生きするにはどうすればよいか、楽しく仕事をし、
楽しく勉強をするのがよいことは今申しました。
しかし、もう一つ大切なことがあります。
それは自分を神の子だと思うことです。
皆さんは、自分を世界一の金持ちの子だと思うだけで楽しいでしょう。
皆さんは、自分をどこかの国の王様の王子だと考えるだけでも楽しいでしょう。
では、その王様よりも、もうひとつ偉い神様の、
その子供だとお考えになったらどんなに楽しくなられるでしょう。
どんなに生き生きせられるでしょう。
王子でも学者でも、自分を「神の子」だと考えて、
生き生きした心持になった人はたくさんあります。
キリストでも釈迦でも、自分を神様の子だと思って生き生きした心持になったのです。
(つづく)
294
:
「訊け」管理人
:2012/03/26(月) 16:29:53 ID:PgLin6Xs
――榎本恵吾曰く、
現象なしとは内から輝く実在の光りなのである。實相自らの自発の輝きの喜びの光りなのである。現象なしとは實相に到達するためのプロセスではない。實相から輝き出でたる輝きである。これが實相自ら顕われる顕斎ということである。これが人類光明化運動の自発であることの意味内容である。光りばかりの世界で光りが光りする生命の純粋持続としての光りの運動なのである。現象なしとは中心より出でたる生命の輝きの放射なのである。現象無しでは「虚無に陥る」とはインドの話であって、中心、天皇のいない国のことである。この輝きは教団や組織形成以前よりの存在である。現象なしも實相独在もはじめからある尊師のいのちの輝きの放射として出て来た言葉であり、この言葉を発してからそれになったのではないということである。自発的とは先づある光りのすがたの世界である。運動も運動をしてから光りがもたらされるのではなく、運動そのものが先づある光りの表現としてあるのである。内容は光りばかりなのである。・・・(中略)・・・われわれは組織の数量的発展拡大を通して『生命の實相』を見ようとするようになってはいないだろうか。つまり『生命の實相』の素晴らしさというものを現象的現われによって測るようになってはいないだろうか。
――尊師曰く、
吾々が生命を礼拝し、かうした『生命』の法則にしたがつて生活することを日標においてゐますのは、吾々がこの世界に『生命』を享けて来た事実から出発するのでありまして、事実ほど力強いものはないのであります。吾々が『生命』をこの世界に享けて来たと申しますと、〝わたし〟というものが別に何処かにあつて『生命』というものを何処かほかのところから貰つて来たやうに聞えるかも知れませんがさう云ふ意味ではないのであります。吾々各々そのものが一個の『生命』であります。何ものを否定しましても、自分が生きてゐると云ふ事実は否定出来ないのであります。自分は生きてゐると云ふ事実は取りも直さず自分自身が『生命』であると云ふことであります。
『生命の實相』第一巷4頁より謹写
――榎本恵吾曰く、
此処(上記尊師御文章)に全『生長の家』の全説法の要がある。今此処に生きる生命、この生命は何ものであるか。その生命の実相(ほんとうのすがた)が、この否定不可能の絶対事実が、実在なのであり、神なのであり、完全なのである。
扨て、問題の解決とは一体何であらうか。解決とは神が『今』『此処』に顔を出すと云ふことなのである。神は完全であるから完全が顕れる時最早や問題と云ふべきものは無いのである。そして「生命」が「実在」であり、「神」であり、それがそのまま自分なのであるから自分が解決そのものなのである。太陽が出る前に昼と云ふものがあるのではない。太陽の出て行つた処を称して昼と云ふのである。問題の解決と云ふものは自分を離れた処の何処かに形として存在するのではない。自分の行つた処を称して解決と言ふのである。
人間はすべてこの『生命』の実相(ほんとうのすがた)に還へらなければならない。此処にのみ、人生くると云ひ得る世界があるのである。『此処』とは『久遠の今』のことであり、『実相』であり、『神』である。・・・(中略)・・・この『今』と云ふ宇宙万物発生の枢機を握る一点を生きる神の子の消息を『生命の實相』第八巻で尊師は次の如く述べて居られる。
『波状光明化への道』12項より謹写
295
:
「訊け」管理人
:2012/03/26(月) 16:56:51 ID:PgLin6Xs
(つづき)
――尊師曰く、
それは自然に神催しにです。『我』で憂へるのではないのです。『生命』はどう云ふ形で生きねばならぬと言ふことはない。大生命に押し流されて生きる時最も自由なのです。形の方は『執して執せず』です。形と云ふものは影であるから執する必要はないのです。『生命』が主です。『生命』さへ吾れ斯くの如くして生きると云ふ筋道が立つてゐるなら、形は千変萬化しても好いのです。その反対に形は一つを貫いてゐても、形を維持することに『生命』の方が支配されてゐてはその人の生活は生きたものでありません。さうかと云つて形の方を無闇にやり方を始終かへて行くのかと云ふとさうでもないのです。しつかりと自分の魂の底に死んでも死なない生き通しの生命が自覺されて来ますと、自然に時に應じた最も適当な生き方が出来て来るのです。『我』の力で焦る生活、力む生活、かうでなければならぬと形を極め過ぎた生活は、ある時期は大いに生長してもやがては行きつまるのです。幸ひにしてその人が死ぬ瞬間まではゆき詰らないにしても、その愈々の瞬間には行詰る。ナポレオンも行詰り、豊臣秀吉も行詰つたのです。死ぬ時には、世界統一の夢も朝鮮征伐の夢も捨てなければならぬ。況んや雑誌経営などの夢は捨てなければならないでせう。吾々は死の時になつてさへも行詰らない生活をしなければならないのです。形には執して執せず、たゞ吾々の『本当の生命』が影を映して進む生活なら、死んでさへも行詰らないのです。『生命』は円い鏡には円い影を、四角な鏡には四角な影を、 一滴の露の珠にはまたそれに相應はしい小さな影を映して進みます。それを一定の形の影しか映すまいと力むとき、その人は我に捉はれたのです。形を定めて置かないでも生命が環境を通り過ぎる時必ず其処に『生命』の影たるに相應はしい美しい像を宿すのです。どの影も善い、どの影も美しい!それは恰度、寒風が露の中を通りすぎるとき、どう工まないでも六稜形のさまざまな美しい雪の結晶を造るやうなものです。人生とは『生命』がそれぞれの環境の鏡に生命の影を映して進むことなんです。たゞ吾々は『生命』それみづからの本物の影さへ投げかけて進めば好いのです。すると美しい生活の結晶は自然に出来る。そのためには自己の生命そのものの完全な本性を自覺するのが第一です。形を生命だと見ちがへないことが肝腎です。形を生命だと見ちがへるとき、それは迷ひです。形は影であるから必ず消える。形を生命だと思つて執著し切つてゐるとき、形が消えたときその人は躓くのです。だが、雪の六稜形の結品は治えてもその結品を六角ならしめた生命は滅びないのです。これが肝腎です。『生長の家』の生き方には大乗も小乗も論いてありますが、今日は大分『生長の家』の大乗的方面を読きました。貴方になら解つて貰へると思つたからです。
『生命の實相』第八巻151頁より謹写
296
:
a hope
:2012/03/27(火) 08:50:35 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
考える事は力です
私は、皆さんに、「神の子」でないものを、「神の子」だと無理にお考えなさいと言うのではありません。
人間ははじめから「神の子」だから、「神の子」だとお考えなさいと言うのです。
そう考えても、考えなくても「神の子」なのです。
しかし考えることは力なのです。
それがこの世を楽しく生きるコツなのです。
それが力を出すコツなのです。
何百万円の金持ちでも、自分の心が眠ってしまって、貧乏で乞食をしている夢を見ている限りは、
その夢の中では十円の品物だって買うことができないでしょう。
何百万円の金持ちがその金持ちだけの力を出すには、貧乏で乞食をしているその夢から覚めて、
「ああ今のは夢であった、わたしは金持ちであったのだ」と気がつかねばならないでしょう。
それと同じく皆さんは、はじめから「神の子」なのですけれども、「神の子」そのままの楽しさを現わし、
「神の子」そのままの生き生きしさを現すには、「自分は神の子だ」気がつかねばならないのです。
私は世の中の人に、「自分は神の子だ」と気づかせてあげるために、毎月雑誌におしえを書いているのです。
皆さんは、誰も彼も本当に「神の子」なのです。
皆さんは自分を「神に子」だと思うだけでも楽しいでしょう。
楽しいから仕事も勉強もよくできるのです。
今日から仕事の成績が上がりますよ。
勉強の成績が上がりますよ。
その証拠には皆さんの顔が生き生きして来ました。
生き生きするところに神様の生命は生きているのです。
ごらんなさい!春の若葉は生き生きしているではありませんか。
生き生きしている新芽はずんずん伸びるでしょう。
やがて生き生きしなくなれば伸びなくなります。
皆さんは楽しく生き生きして来られましたから、なんでおズンズン上手になります。
仕事は楽しく、勉強は楽しくなります。きっとですよ。
(つづく)
297
:
SAKURA
:2012/03/27(火) 09:11:21 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様へ
おはようございます…。
■【幸福を招く365章】
―――性格も運命も改善し得る―――
心があなたの行為、環境、運命等をつくり出す原動力なのであります。
併し「心」と云うものを現在意識ばかりだと考えていては間違います。
現在意識は吾々の表面にあらわれている心であって、
全体の心の略々(ほぼ)五パ−セント位しか占めていない。あとの九十五パ−セント
と云う莫大な心の領域は表面にあらわれていないのだけれども、それが内部から、
見えざる手もて、隠れたる力で、吾々の行動を左右しているのである。
この事は『人間性の解剖』(新選谷口雅春選集)を読めば実に容易くわかるのである。
この潜在意識にレコ−ドされた感情や観念が、人間を無意識の世界から
引摺って動かしているのである。それを仏教では業の力と云っている。
業を淨める方法が発見されるまでは、人間は業力に支配せられるところの
奴隷に過ぎないのである。どうにもならない性格だとおもわれていたもの、
運命だと思われていたものも、潜在意識を浄めることによって
変化することが解ってきたのである。 (谷口雅春書)
昨日は、お天気がよく気持ちよく過ごすことが出来ました…。感謝!
そして「雅春先生の書物」を読みながら…私は「幸せ者」と思えるのです…。
やはり「書物を読む」事で考えの視野の幅が!グ〜〜〜ッと広がりますネ???
“レッスン・・・1・・・・2・・・・3・・・・・”ゴ−!!
PS:
■生長の家政治連合会と「今の教え」を考える
871> 此処に私なりの【解釈…】をしてみましたが…?
宜しかったら…?そちらで拝読して頂きますと幸いです…。 合掌
298
:
【霊界より】徳久訊己【医学博士】
:2012/03/27(火) 10:12:47 ID:DmNhD9W.
『そのまま極楽の道』(藤原敏之著)25項より謹写――
(親鸞上人に関して)その中で特に有名なのは、〝枕石寺の由来〟であります。
常陸の国(茨城地方)を二人のお弟子を伴って托鉢しながら縁のある人々を教化し、導いて歩いているうちに猛吹雪となり、五メートル先も見えない程の大雪で、あっという間に雪が積もってどこが道だか田圃だか全然判らなくなりました。そのうち日がくれてしまい、どうすることも出来なくて困っているとき、はるか彼方に明りが見えるのを頼りに辿りついてみると、立派な門構えの大邸宅がありました。これは有難い、一晩だけ吹雪を避けさせてもらいましょうと、一夜の宿を乞いました。すると家の主人が立ち現れ、「縁起でもない、クソ坊主など泊めるいわれはない、さっさと出て行け」と大声でどなりながら、木の棒で追い払い、門の外まで追い出して内側から厳重に閉めてしまったというのであります。この人物は日野左衛門といって近郷近在きっての大金持ちでありました。
門の外まで追い出された主従三人は仕方なく歩き出すことに致しました。しかし何分にも北国の冬であり、今とちがって降る雪の量も多くてどうすることも出来ません。夜が更けるにつれて雪はうなりを立て容赦なく吹きつけて来ます。親鸞上人は門の敷石を枕に横になって休まれました。二人の弟子が衣の袖と菅の笠で上人さまにかかる吹雪を防ごうとしますが、見る見る雪が積もってまるで雪の布団にくるまっているような状態であります。素足に草鞋の上人の足からは、皸(あか)ぎれで血が吹き出しています。これを見て二人の若い弟子が、「なんという無慈悲な翁であろう、せめて門の内にでも入れてくれたらこんなにまで痛ましいお姿にならなくてもすんだものを・・・・・」「もしも出家せられずに家を継いでおられたら、今は公卿の御身分で、どんな栄耀栄華も思いのままであろうものを、衆生済度のためとはいいながらこのご難儀は、何と痛ましいことか・・・・・」と泣いているのをごらんになった上人は、「お前達は何を文句をいっているのか、そんな間違った考えを起しては親様に申訳ないぞ」といいながら詠まれた歌が有名な、
寒くとも袂(たもと)に入れよ西の風
弥陀の国より吹くと思へば
というお歌であります。この意味は申すまでもなく、どんな寒さも、困難と見えるものも、何一つとして神様の恵み、仏のお慈悲でないものはないのだぞ、どんな寒さも阿弥陀様のみ国から吹いてくる風だという気持で受け、有難いと感謝して大切に袂にでもしまうような心で受けてみよ、苦しいものなど何一つとしてないぞよと、天地一切のもの悉く仏の恵み御慈悲の現れであると諭しておられるのであります。
諭され、教えられた二人の弟子たちは、大いに恥じて眠られぬままに大声で、感謝の称名、お念仏を称えておりました。と、先程の当家の主が松明を掲げて出て来て門の戸を開き、「どうぞ家にお入り下さい」と丁寧に招じ入れ、火を焚いて温めてくれた上に、温かい雑炊を作って食べさせてくれ、一晩中仏のお慈悲について親鸞上人から説き聴かされ、さすがの強欲非道な日野左衛門も真理に目覚め、本願他力によって救われたのであります。ついにご開山の弟子となり、広い邸宅を解放して教えの道場に捧げるに至ったのであります。そのいわれによって寺号を枕石寺、即ち石を枕の寺と号されたのであります。
299
:
「訊け」管理人
:2012/03/27(火) 16:48:15 ID:Lnhsn5Ng
WEB「榎本恵吾記念館」文書館より謹写――
ある画学生への手紙――
先ず最初に、物質の眼で見れば一ミリの何千分の一の大きさ(の卵)でしかなかったあなたが、自分で美しさを感じ、考え、もっともっと何かを作り出そうとするようにまで生長していることに、とても感動しています。あなたの中に、すべての美しさがあるのです。
景色をもっともっと美しく描(か)き写したいということは、あなたの中に「もっともっとここにあるものに感動したい」という魂の輝きが動いている。景色を写生しようとして立っているあなたそのものが、私には美しい魂の輝きに見えるのです。
あるものに向かって、もっともっと感動したいと思うこと、その思いが出てくるということそのことが尊い。自分の内に動いているその輝きをもっともっと、いつも賞めてほめぬいてやらなければならない。
これから、どれだけのものが描けるかはわかりませんが、内にある輝きが、自分の内に動いたということだけは、厳然とした事実なのです。その尊いものをジッと拝みつづけ、ほめつづけていると、やがてあなたは何かしら充実した喜ばしいものを内に感じはじめ、そしてその時から不思議にも、自分の前にあるものを何か美しいものというか、それがそこにあるということの不思議さというようなものを感じはじめる。それがそこにあるものの生命(いのち)の尊さ、美しさなのであります。対象を写すことによって、新たにそのものの美しさに気がついて行く、ということはたしかにあるが、しかし、まずはじめに何か美しさ不思議さを感ずるということが、内になければならない。それが自然に自分のうちにあるからこそ、外のものを写したいという願いが起こるのです。
“まず”はじめという、“まず”とは、自分がそこに立って生きているということ。そして、感動したいという願い、描きたいという願いが起っていることへの、自己祝福、満足がなければなりません。あなたが対象を写すと同時に、あなたの前にある対象はあなたのその満足、よろこびを写すものであるからです。そして明るいもの、よろこびなるものこそが、一番いのちに近く深いものであります。美しさとは明るさであり、よろこびであるということを忘れないようにしなければなりません。
(つづく)
300
:
「訊け」管理人
:2012/03/27(火) 16:48:48 ID:Lnhsn5Ng
(つづき)
しかし、明るさと美しさとは、単なる形や色彩のことではありません。それは“これこそがそれだ”と決められることではありません。ただ、それは“自分にすでに動いている輝きを賞めたとき、外に感じられてくるもののすべてである”ということが出来るのではないかと、人類は気づきはじめています。そのとき感じたものを、内からもよおすままに筆を動かせば、セザンヌの言ったように、「形ではない」美しさが、そこに写されるのです。
アスファルトを持ち上げ、つき破って芽を出す草があります。よく見ると、アスファルトに一番さきに下から接するところは、芽のうちでも最もやわらかいところで、今生まれたばかり、あるいは生まれようとしているところ、というような全くやわらかいものです。それが一番はじめに、かたいアスファルトを破ってゆく。これは力と形からは、はかることの出来ない働きです。これはもはや、一切の形や芽と見えるもの以外の働き、不思議さです。
このようにして、私達をとりまくすべての草や木や動物や一切のものが、この不思議さを現わして立っている。そこに何かの不思議さを感ずる心があなたの中に動いたら、そのとき、すでにあなたの絵は形式をこえて感動しているのです。
如何につまらぬと見えるものの中にでも、このような美しさがあるということを、感じさせてくれるのが芸術家でありましょう。一切のもの、美しく見えるもの、みにくく見えるものの中にも、その不思議さに感動をくみとれば、あなたはすべてのものが喜びをもって立ち上がるのを感じ、すべてのものから感謝される、偉大な栄光に浴することでしょう。その不思議さ、美しさ、明るさ、喜びが感じられてくるには、先ず自分が落ち着かなければならない。落ちつくためには、すでに自分の中に動いている“感動したい心”をほめなければなりません。そして、このすでに自分に中にあるよろこび、輝き、感動を表現するために絵をかくのであって、絵の出来具合や成績からよろこびをもらうために描くのではない、ということを、絶えず筆をもつ前に自分に言いきかせなければなりません。
それには自分がこのまま、神に許され、愛され、抱かれていることを知ることです。あなたは光になるためにこれからあらゆる努力をするのではなく、すでに自分はあらゆるものを内に持っている「神の子」であることを自覚することです。すべてがすでに内にあるからには、あなたが何かをすれば――たとえば描くとすれば、それはあなたの内にあった光を外に出して来たということしかありません。このようにして、あなたという光の前におかれたキャンバスは、どんなによろこんでいるか。あなたに握られる筆は、どんなに栄光に浴しているか――ということが、私には見えているのです。
最後に、形を超えること。明るさ、美しさとは形ではない。真っ暗いものも輝いている。美しい。くらいという字は“暗い”と書くが、日を二つも書いていて、明るいという字よりも日が多くて明るい。これはなにか形を超えた美しさを暗示しているのではないかと思います。
谷口先生は、心をもふくめて、見える形の現象を“一切なし”と消してしまわれたのです。その奥にあるものが、生命であり、美しさです。宗教は全宇宙という形をも捨て、すべての奥にあるものを拝むのです。
それから大切なことは、あなたのしていること、やることは、一ミリの動きでもこの宇宙に初めて起こったことで、神様もびっくりして喜んでいるということです。神をもおどろかせていること、あなたにしか出来ない尊い価値のあるものだということです。そういうことですから、決して他人(ひと)の真似をしようとしてはいけません。何者かの前に立ったとき、自然と自分の中に動く想いを写生するのです。その想いだけをみつめていればよいのです。描(か)いた人の感動が感じられるようなものが、そこから生まれるのです。
ものを見て、自分のうちに動き出すその感動を描くのですから、はじめのうちはその感動のうごくものをさがして、感じることの出来るものだけを描くようにした方がよいのです。本当は、どんなものにでも感動するようにならなければなりません。
教材としてモデルを与えられたら、どんなものでも描かなければならないでしょうから、しばらくはよくその対象をみて、どこか一点だけ感ずるところをみつけるのです。そしてそこをほめるのです。すると、その感動が全体に拡がっていくのです。ほめられた対象が自分で“ここにもこんな美しさがありますよ”と自分で言い出すのです。とにかく感動だけを持ちつづけることです。技術がうまくいかないといって、感動の方をとめてしまうことは絶対にいけません。
もしも「あまりの感動で一本の線しか引けなかった」という画家が出たら、それこそ私の一番尊敬する大画家です。
301
:
a hope
:2012/03/28(水) 10:41:03 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
思うとおりに人間はなる
「思うとおりに人間は成る」という諺があります。
自分を「偉い」と思う者は、ついには本当に偉くなるのです。
自分は駄目だと思うものは、ついには本当に駄目になるのです。
自分を偉いと思えと言っても、いばれと言うのでは決してありません。
弱い者の前でいばり散らしているような者は、きっと強い者の前では猫のようになっている卑怯者です。
本当に自分を「偉い」と思っている者は、かえって誰の前にもいばらないで、
少しも気取ったりしないで、自分の仕事や勉強をただ当たり前に熱心に精出してやるものです。
気取ったり、いばったり、人前で飾ったりしている者は、本当に自分を偉いと思っていないのです。
だから他(ひと)から「偉くない」と思われてはかなわぬと思って、なるべく偉そうに見せかけるために、
人前を飾ったり、いばったりするのです。
本当に自分を偉いと思っている者は、庭掃きでも、便所掃除でも、廊下拭きでも、
どんなことでも、人のためになることが平気でできるのです。
掃除をしても、「誰かソッと見とってくれて、誉めてくれればよいのになア」と思いながら、
掃除をするようでは、まだまだ本当ではありません。
(つづく)
302
:
ハマナス
:2012/03/28(水) 15:15:12 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんにちは。今日は素晴らしいお天気です。
最近当たり前のことに気が付きました。谷口雅春先生は『365章シリーズ』の様な
365もの短いご文章が連なっているご著書にしても、ちゃんと順番を考えて編纂され
ている事がわかりました。
順番には意味があり、その通りに読むと、より一層真理がわかるように思いましたので
連続して引用させて頂きます。
会議に臨むとき (『新版 生活の智慧365章』P.111より)
「どんな団体にせよ、団体の会議に臨む場合には、欠点を論議して反対党をやっつける
為のような気持ちで臨んではならないのである。調和精神と善意とをもって建設的な
意見を平和裡に述べて、全体を生かし皆なを生かすような気持ちをもって会議を進行
させなかったら良い結果が得られる訳はないのである。荒々しい攻撃的な語調をもって
議論をすれば、結果は必ずよくないのである。無論、すべてのメンバーが悉(ことごと)く
同一意見をもっている訳のものではない。しかしその意見を述べる時の気持ちが、平和な、
全体愛に満ちた、調和した気持ちでなければならないのである。
他の意見を打倒しようというような、また自分の意見と異なる者には「腹が立つ」と
いうような、悪意や憤怒の気持ちを棄てて、一層高い一層繁栄する観念を導き出そうと
いうような建設的は気持ちをもって会議を進めるとき、善きアイディアが会議の進行
するに従って思い浮かんで来るようになるのである。一切の善きものは「和解」の中から
生れて来るのである。
「汝ら天地一切のものと和解せよ」との神示の実践を忘れてはならないのである。」
雅春先生はこの大事な時に「調和精神と善意とをもって建設的な意見を平和裡に述べて、
全体を生かし皆なを生かすような気持ちをもって会議を進行すること、汝ら天地一切のものと和解せよ」との
神示の実践」の必要性をお説きに下さっているように思います。
感謝合掌
303
:
「訊け」管理人
:2012/03/28(水) 17:34:03 ID:???
藤原敏之著『そのまま極楽の道』218項より謹写――
今迄生長の家のどこを勉強しておられたのですか。生長の家は、唯神實相の哲学を基本にしてお説き頂いているのですよ。神様以外のものや実在でもない現象を相手にして解決の方法を研究するところではありません。神一元、實相一元の教えでありますよ。今あなたは神様以外のものや、ありもしない現象の出来事に心を奪われて、慌てて行き詰っておられるではありませんか。そんな生長の家はありません。それでは生長の家を知らない世間一般の人と同じで、全然生長の家になっておりませんよ。どんなに焦っても努力しても元々見当違いであり、方向を間違えておられるから行き詰るのが当たり前ですよ。電気工事がどんなに完璧でも、電球が立派でもそれだけでは明るくなりません。スイッチを入れて、電源につながるからどんな暗闇でも明るくなり、夜でも野球が出来るほど明るくなるのです。貴方の今の考えの中に、生活の何処にも神さまは現れていないではありませんか。あなただけが頑張っているではないですか。
あなたの見ておられるのは、不況と行き詰まりだけではありませんか。そんなありもしない現象や影を相手にしていて、どうして解決するものですか。今あなたは八方塞がりで手も足もでないと申されましたが、現象で八方が塞がっていても、上の方(實相)はあいておりますよ。神のお造りになった實相の世界には、不景気も行きづまりもありません。会社の経営もあなたがやっているから、貴方の考えた通り、思ったとおりに現れるのです。神業(かみわざ)で生まれ、神意によって生かされているのが人間であり、神の生命そのものであることに気付かず、自分で生きて自分で仕事しているなどと思い上がった心で生活しておられるから、神のお造りにならないトンデモナイことが起るのです。今日限り、あなたの身体も家族も従業員も会社も全部神さまにお返しなさい。
と諄々とお話申し上げておりますうちに、蒼ざめて血色のなかった顔に段々と赤味がさして来ました。私は〝ああこれで八、九分通り片付いたな〟という確信を得たのであります。
304
:
a hope
:2012/03/29(木) 09:55:53 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
自分の心に褒められる人間になれ
人間は自分が「神の子」であり、自分の心に神の心が宿っているのですから、
自分の心で自分自身を、少しも依怙贔屓(えこひいき)なしに誉められるようになることが第一です。
自分を本当に「偉い」と思うことは、自分の心で自分を振返って見て、誉められるようになることです。
他(ひと)に見て貰って誉められたいと思うかわりに、自分の心で見て、自分自身を誉められるようにおなりなさい。
「誰も見ていないのに、自分はよく仕事に精出して偉いなア」と思えるようにおなりなさい。
「誰も見ていないのに、自分はこんなに勉強できて偉いなア」と思えるようにおなりなさい。
自分の心に神の心が宿っているのですから、自分の心に誉められるのは神様に誉められるのも同じことです。
だから自分で自分が誉められるようになったら、世の中でこんなに楽しい事はありません。
今まで、世界で偉くなった人はみんな、自分の心が本当に褒めるような、
立派なことをするように心がけて来た人ばかりです。
(つづく)
305
:
SAKURA
:2012/03/29(木) 14:07:22 ID:FEa/NNlc
皆様 へ
>279>287>291>292 の続き
■■ 仏教典 より
■ 第3章 【仏国土の建設…】
第2節 ―― 仏 の 国 ――
3.まことにこの世界は、一方から見れば、悪魔の領土であり、欲の世界であり、
血の戦いの場ではあるが、この世界において、仏のさとりを信じる者は、
この世を汚す血を乳とし、欲を慈に例え、この世を悪魔の手から奪い取って、
仏の国とならそうとする。
一つの柄杓を取って、大海の水を汲み尽くそうとすることは、容易ではない。
しかし、生まれ変わり死に変わり、必ずこの仕事を成しとげようとするのが、
仏を信ずるものの心の願いである。
仏は彼岸に立って待っている。彼岸はさとりの世界であって、永久に、貪りと
いかりと愚かさと苦しみと悩みとのない国である。そこには智慧の光だけが輝き、
慈悲の雨だけが、しとしと潤している。
この世にあって、悩む者、苦しむ者、悲しむ者、または、教えの宣布に疲れた者が、
ことごとく入って憩い休らうところの国である。
この国は、光の尽きることのない、命の終わることのない、ふたたび迷いに帰る
ことのない仏のくにである。
まことにこの国は、さとりの楽しみが満ちみち、花の光は智慧をたたえ、鳥の
さえずりも教えを説く国である。まことにすべての人びとが
最後に帰ってゆくべきところである。
4.しかし、この国は休息のところではあるが、安逸のところではない。
その花の台は、いたずらに安楽に眠る場所ではない。真に働く力を得て、
それをたくわえておくところの場所である。
仏の仕事は、永遠に終ることを知らない。
人ある限り、生物の続く限り、また、それぞれの生物の心がそれぞれの世界を
作り出している限り、そのやむときはついにない。
今仏の力によって彼岸の浄土に入った仏の子らは、再びそれぞれの縁ある世界に
帰って、仏の仕事に参加する。
一つの燈(ともしび)がともると、次々に他の燈が火に移されて、尽きるところが
ないように、仏の心の燈も、人々の燈に次から次へと点じて、
永遠にその終わるところを知らないであろう。
仏の子らも、またこの仏の仕事を受け持って、人々の心を成就し
仏の国を美しく飾るため、永遠に働いてやまないのである。
<つづく> No.1
306
:
SAKURA
:2012/03/29(木) 14:10:00 ID:FEa/NNlc
<つづく> No.2
第 3 節 仏の国をささえるもの
1.ウダヤナ王の妃シャマヴァティ−は、あつく世尊に帰依していた。
妃は王宮の奥深くにいて外出しなかった。侍女のせむしのウッタラ−は、
記憶力がよくて、いつも世尊の法座につらなり、
教えを受けて世尊のことばのとおりを妃に伝え、これによって、妃の信仰は、
いよいよその深さを増したのであった。
第ニの妃、マ−ガンディヤは、シャマヴァティ−をねたんでこれを殺そうと企て、
ウダヤナ王に色々中傷した。
ついに心を動かした王は、シャマヴァティ−を殺そうとした。
その時シャマヴァティ−は、従容として王の前に立ったが、
王は妃の慈悲に満ちた姿に打たれて矢を放つこともできず、ついに心が解けて、
妃にその粗暴なふるまいをわびた。
マ−ガンディヤは、いっそうの怒りを増し、ついに王の留守の間に、
悪者と謀ってシャマヴァティ−の奥殿に火を放った。妃はあわてて騒ぐ侍女たちを
教え励まして、驚きも恐れもせずに、世尊の教えに生きながら従容として道に殉じた。
せむしのウッタラ−も火の中で死んだ。
シャマヴァティ−は、在家の信女のうち慈心第一、ウッタラ−は多聞第一と
たたえられた。
2.釈尊族の王、マハ−ナ−マは世尊のいとこであるが、世尊の教えを信ずる心が
至ってあつく、誠を尽くして帰依する信者であった。
コ−サラ国の凶悪な王、バイル−ダカ王が釈尊族を攻め滅ぼしたとき、
マハ−ナ−マは出ていって王に会い、城民を救いたいと願ったが、凶悪な王が
容易に許さないのを知って、せめて自分が池の中に沈んでいる間だけ、門を開いて
自由に城民を逃げさせてほしいと頼んだ。
王は人間の水中に沈んでいる間だけのことなら、わずかな時間であるからと考えて
これ許した。
マハ−ナ−マは池に沈み、城門は開かれ、人びとは喜んで逃げのびた。しかし、
いつまでたってもマハ−ナ−マは浮かび上がらなかった。彼は池に入って髪を解き、
柳の根に結びつけ、自らを殺して人びとを救ったのであった。
3.ウトパラバルナ−(蓮華色)は神通第一の比丘尼であって、マウドガルヤ―ヤナ
(目連)に比べられる人であり、多くの比丘尼を引き連れて常に教化し、比丘尼の中で
すぐれた指導者のひとりであった。
デ−ヴァダッタ(提婆達多)がアジャ−タサルト(阿闍世)王をそそのかして、
世尊に対して反逆を企てたが、後、王が世尊に帰依してデ−ヴァダッタを顧みないようになり、城門に至ったがさえぎられて入ることができず、門前にたたずんでいたとき、
おりから門を出てくるウトパラバルナ−を見て、にわかに怒り出し、その大力にまかせて
こぶしをあげて頭を打った。
ウトパラバルナ−は痛みを忍んで僧坊に帰ったが、弟子たちの驚き悲しむのを慰めて
「姉妹よ、人の命ははかられない。ものみなすべて無常であり、無我である。
さとりの世界ばかりが、静かであって頼るべきところである。
努め励んで道を修めるように」と教え、静かに死についた。
<つづく>
307
:
「訊け」管理人
:2012/03/29(木) 17:16:21 ID:???
WEB榎本恵吾記念館「葩(はなびら)さんさん」より謹写――
“浄まる”というコトバには、「あるべきものがあるべき相にある」という意味があるそうです。『生命の實相』によって“浄められる”というときには、本来の自然な相に還ったとき、そこに調和がもどり、争いが水でしずまるという意味で「浄」という字を使いたくなるのではないでしょうか。
聖経『甘露の法雨』のキリストの言葉のあたりに注目してみますと、先ほどの「吾が国は此の世の国にあらず」という言葉が出てくる前に、「キリストは『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり」という言葉が出てきます。この「内」とは、すでに今ここにある實在の国、實相の国ということであります。「内なる国」とは、罪なき完全なる神そのもののすがたなのです。そこで想い起こされるのが、聖書に出てくるイエス・キリストの言葉であります。
ヨハネ伝福音書第8章の冒頭、イエスがオリブ山において人々に向かって説教をしていたとき、パリサイ人らが姦淫の罪で捕えられた女性を連れてきました。そしてイエスに「師よ、この女は姦淫のをり、そのまま捕へられたるなり。モーセは律法に斯る者を石にて撃つべき事を我らに命じたるが、汝は如何に言ふか」と問いつめます。そのときイエスは黙っていましたが、しばらくして地面に何か文字のようなものを書いたと言われています。ここで何をお書きになったかは『聖書』には書かれていないと思うのですが、谷口雅春先生の御著『イエスは十字架に架かり給わず』の中では、このときイエスは地面に「大調和、大調和」とお書きになったと書かれています。そしてイエスは言ったのです。「汝らの内、罪なき者まづ石を擲て」と。すると群衆の中から1人去り、2人去りして、ついに1人残らず去ってしまいました。そこでイエスはその女性に「われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな」と言ったのです。
この場面はよく引用されるところですが、これは「他人のことは言えないぞ、自分だって罪を犯していないわけではないのだから」と言って、罪あるレベルで突き詰めた結果そうなったのだという解釈もあるでしょう。しかし生長の家式に解釈するのであれば、「汝らの内、罪なき者まづ…」の言葉は、本当に罪のない「内」なる實相を拝んで言われた言葉であるということになるのです。汝らの内なるもの、實相なるものは未だかつて罪を犯したことの無い者であるから、そこにいるすべての人々の「内なるもの」「罪なきもの」に向かって拝んで、発せられたお言葉であったのだと解釈できるのです。そして、その罪無きものが本当に罪を打ったのです。その結果打たれた罪は消えて、そこに罪なきものばかりの大調和の世界が顕われたということになるのです。そうでないと、イエスはその女性は救ったが、群衆は救わなかったということになってしまいます。
このときイエスは、パリサイ人が連れてきた女性に向かって「吾も汝を罪せじ」と言ったのは、神は罪を造り給わないから「汝らを罪せじ」と言われたのです。その神と同じように「吾も罪せじ」と言ったのです。もしも「他人のことは言えない。自分だって罪はないとは言えないのだから」という解釈をすれば、やはり罪ありということは依然としてそのまま残ってしまい、「汝の罪赦されたり」という罪そのものの消滅にはなり得ません。これは現象に現れた人間の姿のありようでは証明できないのです。現象的な体験からでは言えない直観によってとらえる實相世界でのことなのです。
その後、その女性が2度と罪を犯さなかったと言えるのは實相の把握から来るのであって、現象的には未来永劫に如何なる罪も犯さなかったかということに証拠はないのです。また罪なきことは群衆1人1人に言われている言葉ですから、群衆1人1人のその後の行いはどうであったかに至ってはますますその証拠になるものはないのです。ただ言えることは、神は完全であるから完全なる實相のみがあるのであり、不完全なる現象、不完全そのもの、罪そのものが無いという大真実だけなのであります。
308
:
ももんが
:2012/03/29(木) 19:24:18 ID:XXCuaQns
本日は、『ブッダのことば スッタニパッター』より、『慈 経』を、載せます。この教えは、史上のお釈迦様の説かれた、”御言葉“として、南方の仏教徒は、”般若心経“のように、読まれるようです。
内容は、大変素晴らしく、既にに、2500年前に、生長の家と同じような事を説かれています。
皆様も、存分な、味わって下さい。感謝、合掌。
> 〜『慈経』〜
目的をよくわきまえた人が、静かな場所に行ってなすべきことは《以下のとおりである》
・何事にもすぐれ、しっかりして、まつすぐしなやかで、人の言葉をよく聞き、柔和で高慢でない人になるように。
・足ることを知り、手が掛からず、雑務少なく、簡素に暮らし、諸々の感覚器官が落ち着いていて、裏表がなく、在家に執着しないように。
・《智慧ある》識者たちが批判するような、どんな過ちも犯さないように。
・幸福で平安でありますよに。生きとし生けるものが幸せでありますように。
・いかなる生命であろともことごとく、動き回っているものでも、動き回らないでも、長いものでも、大きいものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、見たことがあるものも、遠くに住むものでも、近くに、住むものでも、すでに生まれたものも、《卵など、これから》生まれようとしてるものも、生きとし生けるものが幸せでありますように。
・どんな場合でも、人を欺いたり、軽んじたりしてはいけません。
・怒鳴ったり、腹を立てたり、お互いに人の苦しみを望んではいけません。
・あたかも母が、たった一人の我が子を、命がけで守るように、そのようにすべての生命に対しても、無量の《慈しみの》心を育てることです。
慈しみの心を、一切世間《全ての生命》に対して限りなく育てることです。
上に、下に、横《まわり》に《棲む如何なる生命に対して》も、わだかまりのない、怨みのない、敵意のない心を育てることです。
立っている時も、歩いている時も、座している時も、あるいは横になっていても眠っていない限り、この《慈悲の》念をしっかり保つものである。これが梵天《崇高な者の例え》の生き方であると言われています。
《このように実践する人は》邪見を乗り越え、常に戒を保ち、正見を得て、諸々 の欲望に対する執着をなくし、もう母体に宿る《輪廻を繰り返す》ことはありません。<<
私は、特に、この部分が、大変、気に入ってます。
>・幸福で平安でありますよに。生きとし生けるものが幸せでありますように。<
と
>・怒鳴ったり、腹を立てたり、お互いに人の苦しみを望んではいけません。<
我が国の聖徳太子も、この様な、ブッダの精神を深く、尊敬され、学ばれて我が国の精神と融合し、日本精神の『和』が、出来上がっていったのかと、思います。
それでは、皆様、春も、花見も、近いです。
では、では、本日も、ありがとうございます。心の平安を、願いながら、ありがとうございます。感謝、合掌、拝。
309
:
a hope
:2012/03/30(金) 10:21:03 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
「自分はまだまだこれからだ」
自分で自分を振り返ってみて、まだまだ本当に自分の行いや、
仕事や、勉強に、満点がつけられない人はたくさんありましょう。
そんなときにあなたはどうお考えになりますか。
「自分は駄目だ」とお考えになりますか。
それとも「自分はまだまだ駄目だ」とお考えになりますか。
自分を振り返って見て、満点がつけられない場合に、「自分は駄目だ!」
とお考えになれば、勇気がくじけて、これから先は進歩しないのです。
「自分はまだまだ駄目だ!」とお考えになる人も、
行く先まだまだ道遠しというような感じがして、そんなことでは本当に勇気が生まれて来ないのです。
では、そんな時にはどう考えればよいでしようか。
「自分はまだまだこれからだ」と考えるのです。
幼い人も、若い人も、年寄りも、みんな「自分はまだまだこれからだ」
と思うことによって、元気が出て来るのです。力が内から湧いてくるのです。
年寄りも若返ってくるのです。
では皆さん、これからどんな時にも「自分はまだまだこれからだ」と思うようにしましょうね。
(つづく)
310
:
「訊け」管理人
:2012/03/30(金) 16:53:49 ID:???
WEB榎本恵吾記念館「葩(はなびら)さんさん」より謹写――
釈尊の「まこと恨み心を以てしては、恨みを消すことはできない。ただ恨み無き心こそ恨みを消すことができるのである。これは永劫に変わらざる真理である」というお言葉には、誰しも“なるほど”と想わされることでしょう。しかし実際のところは、
「お釈迦さんは、その恨み無き心があるからいいよ。しかし、その恨み無き心になるのが大変で、困っているのではないか」
と言われる人もいらっしゃるでしょう。この釈尊のお言葉は「罪は罪によっては消えない。罪なきもののみが罪を消すことができる」ということを表わしているのだと思います。
さて、生長の家はどのようにしてこの恨み無き心を出してくる道を開いたのでしょうか。それは、恨み心や罪の心そのものは不完全であるが故に「無い!」という言葉によってこれを否定し、實相の實相自らの輝き出しによって恨み心を撥無したのです。そこには理由は無いのです。なぜ無いのかと問われても答えはありません。無いから無いのです。ただただその事実によるのみなのです。ですから、ただただ「そうか、そうか」と言っていればよいのです。恨み心によって恨み心はなぜ消えないかというと、最初から無いものは消えることも無いという意味において、無いから消えないのであると言うほかはないのです。罪は無いという事実によって無いと言えるのであります。
では、罪とはいったい何であるかというと、聖経『甘露の法雨』に書かれてありますように、「完全円満の生命の實相を包みて顕現せしめざるが故に罪けがれと云う」ということでありまして、神の造り給うたそのままの完全円満なる實相を包み隠してしまっているその「包み」が「罪」ということなのです。“ああしてからでないと救われない”“こうしてからでないと救われない”などと、未来という時間の向こうにすでにそのまま完全である實相を追いやって、喜ぶことを遠慮してしまっている状態です。ですから、あらゆる罪というものは、現象の不完全を責め足りなかったところにあるのではなく、そのまま今、円満完全の實相を喜ぶことを遠慮したところにあるのであり、實相を喜ぶことを遠慮しないことが実は本当の意味での「懺悔」ということになるのです。生長の家で行う「神想観」という行は實相を喜び感謝するのですから、これは最大の懺悔であると言えるでしょう。聖経『甘露の法雨』も、神一元の完全円満が書かれているのですから、これを読誦することもまた懺悔なのであります。
それでは、いったい此の罪の正体であるところの「包み」というものは、人間が努力して取り払わなければ神に生かされないものなのでしょうか。また、實相というものは包まれてしまって、縛られてしまって身動きのとれないものなのでしょうか。それでは實相が完全円満であると言うわけにはいきません。實相が完全円満であるのでしたら、自分で顕れ出てくる力も備えているはずではないでしょうか。とにかくこの罪、包みは本当にあって、これだけは自分で何とかしなければ救われないものなのでしょうか? そんな疑問と悩みを持つ人もいらっしゃるのではありませんか? その疑問と悩みを代表して、天の童子は天使に、「罪は実在なりや?」と訴えているのです。すると天使は「罪は不完全なるが故に実在にあらず」と答えたと、聖経『甘露の法雨』には記されています。
生長の家の教えは、罪の正体を暴露して無に帰せしめた教えであります。つまり包みが罪なのですから、「罪は無い」ということはそのまま「包みは無い」ということなのです。皆さんの實相から言えば、
「私は1度も包み隠されたことはありません」
と言っているのであります。それは解るとか、納得するとかしないとかの問題ではないのです。理解できないとか、納得できないとかいう罪も不完全なるがゆえに実在にあらず、すなわち無いということなのです。「罪は不完全なるが故に実在に非ず」と書かれてありますように、不完全という不完全は神が造り給うたものではないのですから「無い」のです。
ですから、實相を観じられないという罪も無ければ、包み隠してしまうという罪はもちろん、感謝が足りないという罪もありません。徳積みの足りない罪も無ければ、供養の足りないという罪も、潜在意識の浄まっていないという罪も、教えを実行できていないという罪もなく、与え方が足りないという罪もまた無いのです。
311
:
うのはな
:2012/03/30(金) 17:56:58 ID:El6gIMAw
護國の神剣
共産主義は結核菌のようなものです。共産主義は迷いであり、本来在るものではありません。だから共産党を憎んだり呪ったりすることはいらない。それよりもまだ自分の愛行が足らんのだということを考えなければいかんのです。
共産党がなぜ伸びたかというと、日頃の地域住民に対する奉仕活動であり、その昼夜を問わぬ激しい努力なのです。
私たちがまだ徹底的に自我を死に切らずに、個人の生活の片手間に日本の國のことを考えてみたり、あるいは片手間に少しばかり生政連活動のお手伝いしているようでは、日本をよくするこが出来ないばかりではなく、そもそも自分を欺いているのではないかと惟うんです。
自ら省みて、自分が全生命をかけて日本の國を救いたいという、そういう熱情に自分の全身全霊が燃えているかということなんです。
自分がまだ本当に燃えていないで燻っているとすれば、その燻っているようなところが結核菌なんだ。自分の〃心〃の中に燻っているところのその結核菌が具体化して共産党となって現れてきているわけなんです。
生長の家では「心の影」といい、仏教では「三界は唯心の所現」というのもこのことなのであって、一切は自分にあるという自覚に100%起たないといかんのです。
だから我々は、どこどこまでも日本の実相を観じてその実相を顕現する運動に全身全霊、生命の100%をかけて生政連活動に熱中できたら自然に国家の実相が現われるし、天皇の実相が現われるし、自分の実相も現われるのです。実相が現われたら悪いものや迷いは無いんだから、共産党も自然に消え、日本はひとりでに立派な國になってゆくのです。
皆さん、今、起ち上がってください。このたび生政連の歌を作りました。この歌にある通り生政連は〃八岐大蛇〃を平げた須佐之男命の「護國の神剣」であるという大いなる使命をもって進んでください。 合掌
谷口雅春師 48年2月1日
晴れときどき競馬とホークス ブログ
312
:
「訊け」管理人
:2012/03/31(土) 08:01:25 ID:???
WEB榎本恵吾記念館「葩さんさん」より謹写――
生長の家の人が實相と現象のことで尋ねてこられる際、「實相は完全円満で、現象は無いのですから、現象にとらわれずに實相を観ればよいのに、どうしても現象にとらわれてしまうのです」という人が多いのですが、この悩みにすべての問題は帰着するのではないかとさえ思えます。
実はこのような人は、實相は完全円満であるというときの、この「完全」の意味をよく解っていないだけのことなのです。實相は完全なのですから、こちらの心で観ようが観まいが、いちいち努力して實相を引っぱり出そうとしなくても、絶対的に自分で出てくる力を完備しているのです。それを知らないから観る、観ないに引っかかってしまうのです。
そして、實相と現象の中間あたりに自分を置いて、「實相⇔現象」「實相⇔現象」と左を向いたり右を向いたり、その中間あたりでキョロキョロと首を振っている状態を「観ずる」とか「観じない」とか、「自覚する」とか「自覚しない」とかということだと思ってしまっているのです。なるほど「實相は観ずれば顕われ、観じざれば顕われることなし」と書かれていますし、また、『生命の實相』の第1巻の本論の第1行目には「生命の實相の自性円満を自覚すれば、大生命の癒力が働いてメタフィジカルヒーリング(神癒)となります」と書かれています。しかし、そこに書かれている「観ずる」「自覚する」ということと、自分の受け取っている「観ずる」「自覚する」ということの意味が違ってはいないでしょうか。
(つづく)
313
:
「訊け」管理人
:2012/03/31(土) 08:02:37 ID:???
(つづき)
谷口雅春先生が抱かれたお悩みというのは、すべては心の展開であり、いわゆる三界は唯心の所現であるということは解るけれども、その心が思うように支配できなくて困り果てられたのです。そして、「この心を改心して懺悔して改めてからでないと救われないのであれば、自分は決して救われることはない。改心しないまま、懺悔しないままで救ってくれる神が欲しい」と切実に願われたのでした。この悩みを拡げて解釈すれば、實相の円満完全を観ようとしてもなかなか思うように観ることができないから、實相を観られないままで、自覚もできないままで救ってくれる神(實相)が欲しいと言われたということになるでしょう。
やがて、現象無し、不完全無し、観る観ない、自覚するしないという心も無い、實相はそのまま円満であり、この實相は完全なるがゆえに自ら出てくる力をも備えているということを神からの啓示によって知られたのでした。そして、そのとき初めて「心」というものから解放されて、「生かされている」という喜び、つまり感謝が湧き起こられたのでした。「實相は完全であるからこちらの力は何も要らない」というふうに、喜ぶのを遠慮しないことが「實相を観ずる」とか「自覚する」とかいうことであったのです。
ですから、實相にはこちらの力というものが要らないのです。ただただ實相のみの世界なのです。實相を現象に顕すといっても、實相が自分で顕れて来るのであり、實相だけがすべてのすべてなのです。顕れる、顕れないは現象であって、顕れても顕れなくてもどちらも無いのであって、實相だけを喜んでいればよいというのが「今を生きよ」ということなのです。實相は「今」完全であり、實相だけでよい、というのが「今」ということなのです。顕すための心や時間というものは要らないということなのです。
「観ずる」ということについては、生長の家で行う行(ぎょう)の一つである「神想観」がまず思い浮かぶのですが、「神想観」は「神を想い観る」ということと同時に、「神が想い観給う」ということでもあるようです。神想観を始めるときに唱える「招神歌」にありますように、すべては神が為し給うのでありますから、自分はどこにも要らないのです。観ることも、自覚することも、感謝することも、すべては神が為し給うているのです。
「自覚する」ということも、「自覚」という言葉は自ら覚めると書くように、はじめの初めから、宗教をやるやらないとか祈る祈らないよりも以前から、そして今も生きとし生けるものとして生かされている實相なるものが「自ら目覚めて出てくる」ということなのです。内なる實相が自ら出てきて、生長の家の話を聴き、内なる實相が自ら出てきて、聖典を読んでいるのです。すべては外から来るのではないのです。内なる實相がそのままどんどん出てくるのに任せればよいのです。出てくることが、自覚が始まっているということなのですから、それを勝手に自分でああしてから、こうしてからと邪魔をしないことがすばらしいのです。ただただ喜んでいるだけでよいのです。言い替えれば、喜んでもよいということなのです。實相だけでよいと喜んでいることが感謝ということなのです。「感謝せよ」とは「喜べ」ということに他ならなかったのです。喜びとは自分は要らなかったということであり、すでに完成している實相を遠慮しないこと、そのままでよいことを遠慮しないことであったのです。遠慮しないのは神のためであって自分のためではないのです。そのまま今喜んでよいということでなければ、神は今完全な世界を生んでいないということになり、不完全なものしか生めなかったものは神とは言えませんから、神は無いということになってしまうのです。ですから、實相円満、そのままでよいということを認め喜ぶのは自分のためではないのです。神のために遠慮しないようにしなければならないのです。喜びましょう。喜びましょう。すべての不完全は不完全なるがゆえに無いのです。無いということは、今赦され切って、生かされているということなのです。
(つづく)
314
:
「訊け」管理人
:2012/03/31(土) 08:03:10 ID:???
(つづき)
ああしてから、こうしてからは止めて、今そのまま素っ裸のままで喜ばせてくださるのが生長の家の御教えなのです。
どんな善いことでも、ああしてから、こうしてからは要らないのです。善いことをたくさん身にまとっていくと、だんだんと裸でなくなっていくのです。実はこの善いことが曲者なのです。「感謝してから」「我を消してから」「懺悔してから」「潜在意識を浄めてから」「教えを実行してから」「実感してから」「愛行をして徳をたくさん積んでから」「先祖供養してから」「祈ってから」「信仰に徹してから」「實相を観じてから」「實相を自覚してから」……。まだまだ立派な善いことを掴んではいないでしょうか。それをすべて吐き出して、脱ぎ捨ててしまいましょう。死んだつもりになってすべてを捨てるのが生長の家です。そしてゼロでよいのが無我ということなのです。ゼロということは何も要らないということです。自分も要らないということです。
315
:
a hope
:2012/03/31(土) 09:02:43 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
燃え滓(かす)の人間になるな
「自分はまだまだこれからだ」と思う者には、行きづまりということがありません。
もうそうとう偉い人でも、慢心するということがありません。
今、どんなにできが悪くとも、まだまだこれから偉くなり、上手になると思えば勇気が出、励みが出てまいります。
「自分はまだまだこれからだ」と思う人には、今後どれだけでも引出し得る中味があるのです。
今後どれだけでも引出し得る値打が残っているのです。
「私はできるだけのことをしました。もうこれでわたしの力はおしまいです」
と言うようなことでは、もう進歩の行き止りです。
もう燃え滓になった石炭のようなものです。
人間は燃え滓になってはなりません。
どれだけ燃やしても火力の続く無限の石炭にならねばなりません。
それには、自分は「まだまだこれからだ」と思うようにすることが肝心です。
(つづく)
316
:
a hope
:2012/04/01(日) 06:43:58 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
自分の中に神の力が
「自分はまだまだこれからだ。」こう思う人には失望はありません。
どんなにいま失敗していても勇気がくじけることはありません。
どんなに今成功していても、どんなに今偉くても、自分はまだまだこれからなのです。
「自分はまだまだこれからだ」という言葉には、どれだけ偉くなっても、
まだまだ善くなる力を含んでいます。
それには無限の力を含んでいるのです。
無限の力は神の力ですから、「自分はまだまだこれからだ」と言う人は、
自分の中には神様の力があると、自分自身を誉めているのと同じことです。
(つづく)
317
:
「訊け」管理人 (1/3)
:2012/04/01(日) 14:37:40 ID:???
WEB榎本恵吾記念館「葩さんさん」より謹写――
實相は完全円満でありますから自分で顕れ出てくるのであります。そのことを喜んだら我が消えているのです。
先日も、練成会の後半になって、
「先生、感謝が大切だということが解りましたが、感謝ができないのです。それは我があるからだと解りました。先生この我はどうしたら消えるのでしょうか?」
と、ある方が訊いてこられました。私は、「それは實相のそのまま円満完全を喜べば、その後で我が消えるのです。生かされていてよいのだということを遠慮しないことですよ」
と話してさしあげました。今考えてみますと、感謝すなわち實相というものは實在として宇宙に充満し、同時に我が内にも充満しているのですから、
「あなたに感謝してもらわなくとも、私は厳然として在り続け、輝き続けているよ」
と常に言っているのであります。それこそ、「感謝は今日も元気いっぱい」なのです。感謝は神でありますから、感謝のあるところ神があり給い、神のあるところ感謝があるのは自然なことなのであります。
神は何に感謝し給うのでしょうか。神は絶対者であり、すべてのすべてでありますから、神以外には何もなく神には相手なるものは無いのですから、太陽が自ら光を発しているように、神は自ら感謝の輝きそのものであり給うのです。その神の延長、展開が神の子人間でありますから、神の子人間もまた感謝そのものであり、その感謝は永遠に久遠に不滅なのです。ですから「感謝は今日も元気です」ということになるのです。今日もまた、内なる感謝を讃えようではありませんか。
感謝は内に在す神でありまして、内より自己展開し給うのです。「光は東方より」という言葉がありますが、それは「光は当方より」ということであります。
(つづく)
318
:
「訊け」管理人 (2/3)
:2012/04/01(日) 14:39:15 ID:???
(つづき)
生長の家は「我をなくせ」という教えではないのです。我が要らなくなる道なのです。すでにはじめの初めより完成そのものである實相を説くということは、我が要らなくなることなのです。この實相の完全なる相を照らし出すことのできる教えであればこそ、感謝の神示と言われている「大調和の神示」が「完成の燈台の点燈者の神示」と言われている所以なのです。すでに、久遠に、平等に、今ここに生きとし生けるもののそのままの相の中に「完成」なるものを拝んでいるのが生長の家であり、このことが生長の家が感謝の教えである所以なのです。
神は感謝したもののところには顕れるが、感謝しないもののところには顕れてくれないというふうに、「大調和の神示」の中の神を受け取っているとすると、これは大変な間違いであります。それでは「大調和の神示」は完成を照らし出し、拝むところの温かさの極みの神示ではなくして、冷たい限りの神示になってしまわざるを得ません。平等完全の神を観ていないところには、我は消えないのですから、結局、永遠に我が消えることはなく、神は永遠に顕れ給うことはなくて、生長の家ほど神に遠い教えはない、ということになってしまいます。それどころか、「神はなぜ平等に感謝ができるようにすべての者を生んでくれなかったのか」という不足と神への裁きの気持ちしか出てこないのであります。このような神を相手にしていますと、感謝の喜びは永遠に味わうことは出来ず、永遠に神に来ていただくための準備ばかりしていることになってしまいます。こういう場合、今は神は出てきていないということになりますから、その準備というのは我がやっているということになってしまいます。そして一方では我の消えているのが感謝であると言われてしまって、まったく何が何だかさっぱり解らないモヤモヤとした霧の中にいるような状態になってしまうのです。
そうではないのです。たとえば聖経『甘露の法雨』を開きますと、「招神歌」が出てきます。ここでは、「生きとし生けるものを生かし給える御祖神」とうたわれています。この大神はあれこれと過去に努力してきたことの結果を観て、そしてその成績いかんによって生かす神ではないのです。神は完全にして平等に生かし給うている神なのです。そこに實相なる世界がうたわれているのです。その實相の相を知るとき、感謝そのものとなっているのです。ですから、感謝せよとは、生きとし生けるものとして、完全円満に生かされていることを喜びなさいということなのであります。ですから、無条件の神、現象のない神を知ることが感謝のすべてなのです。
谷口雅春先生が、神から啓示をお受けになったときの神のお言葉は「天地一切のものに感謝せよ」というお言葉ではありませんでした。むしろ「感謝できていないという不完全なお前は無いのであり、完全円満、そのまま神であるお前だけがあるのだ」という意味の啓示の言葉だったのです。それをお聴きになったときに、谷口雅春先生が感謝そのものに甦っておられたのです。ですから聖経『甘露の法雨』には「大調和の神示」よりも先に「招神歌」が書かれているのであります。また、四部経では愛行のための聖経ともいうべき「聖使命菩薩讃偈」よりも先にこの「招神歌」が書かれているのです。素直にハイと生かされていることを受け取るところから、上の空にならない聖経の読誦が始まるのです。
(つづく)
319
:
「訊け」管理人 (3/3)
:2012/04/01(日) 14:40:12 ID:???
(つづき)
生長の家の教えの根本が感謝であるということは、たとえ生長の家の聖典に、感謝という言葉が出てこない場合でも、そこに書かれていることを素直に受け取っていけば必ず感謝が湧き出てくるということです。
例えば、「大調和の神示」は昭和6年9月27日の神示となっています。一方、生長の家の教えの立教はご存知のように昭和5年3月1日です。生長の家が立教したときには「大調和の神示」は無くて、その1年半後に生まれたということになっているのです。立教のときにあったのは、おそらく自由詩として生まれた聖経『甘露の法雨』でありましょうが、この聖経『甘露の法雨』の「神」から「人間」に至るまでの文中には「感謝」という言葉は1度も出てこなくて、ただそこには神の天地創造の完全一元の世界、すなわち實相が説かれているのであります。そこには我の消える道、我の要らなくなる道が書かれていたのです。それで「感謝」という言葉の一語も出てこない文章を読んだ人の中に感謝が湧き起こり、大調和の姿が現れる体験が続出したのです。感謝のあるところに神があらわれ、健康となり、繁栄となり、調和となったのです。それは感謝は實相であり、神そのものであるからなのです。
ですから、生長の家の集まりのあるところには、どこに行っても「實相」という掛軸か額が正面に掲げられているのです。特に「感謝」と書かれていなくとも、實相は感謝そのものであるからなのです。
とにかくそのまま完全の實相を喜べという温かさの極みにおいて天降っているのが「大調和の神示」であります。「神に感謝しても父母に感謝し得ないものは神の心にかなわぬ」と書かれていますが、どこが、何が神の心にかなわないのでしょうか。それは、神様からすれば、「初めのはじめから無条件に、生きとし生けるものとして生かして1度も離れたことなく、神である私のいのちが現われてお前となっているのに、今さら感謝したり、拝んだりしなければ現われないと思っているのか、そんな離れた想いが私にはさびしいよ」というほどの意味なのであります。「私(神)のほうはいいから、父母をはじめあなたを取り巻くすべてのものに感謝してくれれば私はいちばん嬉しいのであり、すべてのものもまた私であるから私は嬉しいのだよ」ということなのです。
「神示」そのものがすでに神が顕れて「神示」となっているのであるし、父母への感謝が第一と書かれているのに、「皇恩に感謝せよ」から始まっていたり、神はすべてのすべてで到らないところはどこにも無いのに、感謝のあるところにのみ顕れるとなっていたり、あの「大調和の神示」は矛盾だらけであるということも言えますが、とにかく矛盾をも省みず、「喜べ、喜べ」と神が言ってくださっている温かさの極みの姿であるのがこの神示なのです。
また、「大調和の神示」には實相という言葉が出てこないから「感謝したら……」と書かれているのです。實相という場合は、人はそのまま神であり、感謝そのものであり、そのままを喜ぶだけでよいということになるのです。このことについては、また別の項で多少詳しく述べさせていただくことにいたしましょう。
<終了>
320
:
ハマナス
:2012/04/02(月) 00:14:17 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
すみません、子供達が帰って来ていまして、しばらく投稿をお休みしていました。
今日から、4月ですね。新学期、新入社員、心も一新し、何となく嬉しくなります。
四月 若葉寄り繁る 『生命の實相』第37巻P.92より
四 月 一 日
「なんという歓びであろう。自分の棲んでいる宇宙には、自分の意志に反対する
意志は一つとして存在しないのである。
なぜなら、自分は神の子であり、宇宙生命は神御自身であり、宇宙は神の支配下に
あるからである。われ祈れば天地応(こた)える。神は常に我が祈りに応えたまい、
我がために処を備え給い、宝を備え給い、時を得せしめたまい、すべての必需物(な
くてはならぬもの)を与えたまうからである。」
「実相を観ずる歌」 谷口雅春先生・作詞
二 神は生命(いのち)して、吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを生かし、すべては吾れを生かす。
神は愛にして、吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを愛し、すべては吾れを愛す。
神は智慧にして、吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを知り、全てのもの吾れを知れり。
神はすべてにして、吾れは神の子なれば、
吾れ祈れば天地応え、吾れ動けば宇宙動く。
吾れ座す妙々実相世界
吾身は金剛実相神の子
万ず円満大調和
光明遍照実相世界。
321
:
SAKURA
:2012/04/02(月) 02:42:21 ID:HrXENstc
皆様 へ
遅くなりました…今日で【仏国土の建設】シリ−ズは、終了です…。
>279>287>291>292>305>306続き…
■■ 仏教典 より
■ 第3章 【仏国土の建設…】
第 3 節 仏の国をささえるもの
4.かって殺人鬼として、多くの人々の命をあやめ、世尊に救われて仏弟子と
なったアングリマールヤ(指鬘しまん)は、その出家以前の罪のために、托鉢の途上で、
人々の迫害を受けた。
ある日、町に入って托鉢し、恨みのある人びとに傷つけられて、全身血にまみれながら、
やっと僧坊に帰って、世尊の足を託して喜びのことばをのべた。
「世尊、わたくしはもと、無害という名でありながら、愚かさのために、多くの人の
命を損ない、洗えども清まらない血の指を集めたために、指鬘の名を得ましたが、
いまでは三宝に帰依してさとりの智慧を得ました。馬や牛を御するには、むちや網を
用いますが、世尊は、むちも網もかぎも用いずに、わたくしの心をととのえて
下さいました。
今日わたくしは、わたくしの受けるべき報いを受けました。生も願わず死も待たずに、
静かに時の至るのをまちます。」
5.マウドガルヤ−ヤナ(目連)はシャ―リプトラ(舎利佛)と並び称せられた
世尊の二大弟子のひとりであった。世尊の教えが水のように人々の心に浸みこむのを見て、
異教の人々がねたみを起こし、いろいろな妨げをした。
しかしどんな妨げも、まことの教えの広まってゆくのをとめることはできないで、
異教の人々は、世尊の手足をもぎ取ろうととして、目連をねらった。
一度ならず二度までも、その人々の襲撃を避け得た目連も、ついに三度めに大勢
の異教者に取りまかれて、その迫害を受けることとなった。
目連は、骨も砕け肉もただれ、暴逆の限りを静かに受け忍んで、さとりの
心に何のたじろぎもなく、平和な心で死についた。
此の章は「終了…」
322
:
a hope
:2012/04/02(月) 11:24:27 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
自惚(うぬぼれ)と自尊は異(ちが)う
自分自身で、自分を誉めるような人になれとは、自惚で、
できもしないものをできたと思い、ちょっとぐらいできたので、
これで神の子のでき栄えだと思い上がっていばることではないのです。
自分を神の子だと思うことは、言い換えれば「自分はまだまだこれからだ」
と思うことなのです。
誉められていばる者は、自分がまだまだこれからいくらでも
たくさん能力の出る神の子だということがわからないのです。
「自分はまだまだこれからだ」ということと「自分はまだ駄目です」と
謙遜(へりくだ)ることとは表と裏です。
「自分はまだ駄目です」ということは、今のようではまだ駄目だから、
これからまだまだ力を出すという意味ではありましょうが、
「自分はまだ駄目です」といえば、「駄目」という悲観的な言葉の力で、
心が沈んでしまいやすいのです。
同じ意味でも「自分はまだまだこれからだ」と心の中で言うようにすれば、
力が湧然(ゆうぜん)と湧き出てまいります。
これを言葉の力と申します。
皆さん、常に「自分はまだまだこれからだ」と考えて、
今日は昨日よりも上手に、明日は今日よりも上手に、仕事でも、
勉強でも熱心に精出してやることにいたしましょう。
(つづく)
323
:
SAKURA
:2012/04/02(月) 19:51:50 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは
今日も春風に誘われて“心の探求”です・・・。
いつものように精神統一・・・my・heart・・・only!
■【幸福を招く365章】
―――すべての人の善を信ぜよ―――
神は常にあなたと偕にある。憂えること勿れ。何処におろうとも、
何をしていようとも神はあなたを護ってい給うのである。如何なる危急の場合にも、
真に神の無限力を信じて、呼べば必ず答え給うのである。
併し、真に神の無限力を信じなければならぬ。
信じない祈りには派長が合わぬのである。
常に神の御救いに応ずることが出来るように、
深き「神の子」の自覚を呼び起こすようにつとめよ。
常に、「われ神の子なり、常に護り給う」と心のうちに唱えよ。
而(しか)して同時に、その常の譲りに感謝報恩するために、神徳を人に
伝えなければならぬ。何か神様のお役にたつことをしなければならぬ。
(谷口雅春著)
■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2
15>投稿…
此処に私なりの【解釈…】をしてみましたが…?
宜しかったら…?そちらで拝読して頂きますと幸いです…。
再合掌
324
:
「訊け」管理人
:2012/04/02(月) 20:54:26 ID:???
WEB榎本恵吾記念館「葩さんさん」より謹写――
生長の家では、恨み心や憎み心、赦せない心があると完全な實相が出てくることを邪魔をしてしまって出て来れなくしている、と仮にそういう表現をするときもありますが、その恨みや憎みや赦せない心も神様が取り去ってくださるのであるというのが本当の教えなのです。なぜなら「神の国は汝らの内にあり」であり、神の国、即ちはじめのはじめからそのままで善いという實相はいつも私達の内に厳然とあり続けているのであり、私たちは常に神に愛され、生かされ、赦され続けているからです。神はいつもこちら側にいてくださるのが大前提であればこそ、懺悔さえも神様に任せることができるのです。憎みや恨みや赦せないという心が現実にあって、その向こうに神を追いやってしまってはいけないのです。全托するということも全托できるのでなければまことの全托とは言えないのです。こちらの力は何も要らないのであり、神と一度も離れたことのない、晴れ渡って、澄み切って、神と一つである姿が先であって、それは永遠の昔から、今も、久遠の先の先まで変わることのない實在の實相であるというところに全托という雰囲気が生まれるのであります。
生長の家には「浄心行」という行がありますが、これは「懺悔」の行であると言えるでしょう。この中身をよく見てみますと、はじめに「實相」と書かれた掛軸を礼拝して、まず神の子そのままの円満完全で未だかつて罪を犯したことのない自分を喜び、拝し、受け入れ、その次には「招神歌」を唱えて、無条件に今、神に生かされていることを感謝します。それが終わると、いよいよ焼却の行事に入りますが、そのときには聖経『甘露の法雨』を読み続けています。そして最後に「光明思念の歌」を唱えて、暗は無く、光のみの世界が本当であること、未だかつて、犯された罪もなく、報いられなければならない罪もない世界であったことを確認して終わるのです。どこにも罪を認めたすがたは無いのであります。あらゆる罪は、すでにそのままでよい姿である完全の實相を包み隠して喜ぶことを遠慮したところにあるのであって、過去である現象を責め足りなかったところにあるのでは断じてなかったのです。實相の完全を遠慮しないで喜ぶことが、生長の家のあらゆる行事の根本となっているのであります。
普通なら懺悔をして心が浄まってはじめて、神に顔向けができるのであって、それから神をよぶ歌が唱えられるのが順序でありましょう。生長の家の浄心行というのはこれとはまったく趣を異にしていると言わなければならないのです。「浄心行」とは「心を浄める行」と読むこともできますが、実際にやっている中身から言えば、浄い心が行う「浄い心の行」ということになっているのです。
325
:
ハマナス
:2012/04/03(火) 00:36:48 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
本 当 の 自 由 (『新版 生活の智慧365章』P.117)
「吾々は“無限”を求める存在であると同時に,”自由”を求める存在である。何故なら
人間は神の自己顕現であり、本来“無限の自由”を内に蔵するからである。「自由」を、
何か自分を縛るものを破壊することだ、と考える人があるが、本当の自由は、そのような
対立観念、相対的な物の考え方では得られるものではないのである。本当の自由は「絶対者」
となることによってのみ得られる。自分が神の自己顕現であり、「絶対者」の自己実現である
との悟りによってのみ得られるのである。
それ故に本当の自由は、神想観によってのみ得られる。何故なら吾々は神想観によって自己
が神と一体であり、絶対者と一致であり、環境とか外物とか見えるものも「他物」ではなく
自己の心の顕現であると悟ることができるからである。それだから神想観は真に
最高の尊き神人合一の行事であると共に、何人も“本当の自由”を求むる限り修しなければ
ならない修行であって、生ま易しいものではないのである。」
感謝合掌
おやすみなさい。
326
:
ももんが
:2012/04/03(火) 02:07:22 ID:XXCuaQns
白髪の翁・三蔵法師篇
〜大唐西域記〜
十日目にナーランダー寺の人々が、四人の大徳を使わして、三蔵法師を迎えに来たので、いっしょに行くことになった。七ヨージャナばかり進むと、ナーランダー寺の荘園に着いた。ここは目連尊者が生まれた村である。法師はここで食事をした。暫くすると、さらに二百余人の僧侶が千余人の信者と旗や日傘や花や香をもって出迎えに来、みなで三蔵法師を誉めたたえ、まわりを取り囲みながら、ナーランダー寺に入った。ナーランダー寺の衆僧はすでに集まつていて、ともに三蔵法師と会見した。上座の上の方に別に牀机をおき、三蔵法師はそこに座らせられ、衆僧もおのおの座についた。座り終わると維那が板木を打って衆僧に、
『いまより、法師はこの寺はに住むことになった。寺の中のすべて僧が用いる法物・道具は、ことごとく共用である。』と唱えさせた。
それから経律をよく解し、威儀正しい老人でもなくあまり若くもない僧二十人を選び、三蔵法師をつれて正法蔵に会見させた。
正法蔵とは即ち戒賢法師(シーラバドラ尊者)のことで、人々は彼を尊重して名を呼ばず、正法蔵と呼んでいるのである。
こうして法師は人々とともに正法蔵に拝謁し師事することになった。そこでつとめてうやうやしく敬礼し、インドの作法に従って膝と肘で進み、足を鳴らし額を床につけ礼拝し、丁重に挨拶と尊敬の言葉を述べた。すると正法蔵は広く牀机をおかせ、法師や諸僧を座らせ、
正法蔵:『そなたは何処から来られたか』と尋ねた。
三蔵法師:『私はチーナ国から参りました。師のみもとで「瑜伽論」を学びたい一心でやって参りました。』
と答えると、正法蔵は聞き終わって涙を流し、弟子のブッダバドラ尊者を呼んだ。彼は、正法蔵の甥で、年は七十余歳、広く経論に通じ談話に巧みな人であった。正法蔵が、
『そなたが人々とのために、私の三年前までの病気の因縁について話してあげてください。』
と言うと、ブッダバトラは泣いて涙をぬぐいながら、つぎように、説明した。
正法蔵はもとリューマチスを患われ、発作のたびに手足が痛んで火に焼かれたり刀で刺されるようでありました。
急に発病したかと思うと治り、そんな状態が二十余年も続いたのです。もっともひどかったのが三年前のことで、苦痛ははなはだしく、御自身の体を厭われて断食して自殺しようとされました。ところがある夜、夢に三人の天人が現れました。その一人は黄金色、二人目は瑠璃色、三人目は白銀色で、風采うるわしく、その服は軽やかで輝いていました。三人は正法蔵に近づいてくると、
『そなたはみずから身を捨てようとしているのか。経典には身に苦があることを説いているが、身を捨てることは説いていない。そなたは過去にかつて国王となり、多くの国民を悩ませたので、いまその報いを受けているのである、いまこそよろしく過去の罪業を反省して、至誠をつくし懺悔すべきときである。苦しいときは安んじて忍び、つとめて経論をひろめ、みずから罪業を消すべきである。いまだだ身を厭うて死んでも、苦は永劫に尽きないであろう』
といった。正法蔵は聞き終わって心を込めて礼拝すると、その金色の人は碧色の人をさして、
『そなたは知っているか、この人こそ観自在菩薩である』といい、また銀色の人をさして、
『この方は慈氏菩薩である』と言われた。
正法蔵は慈氏菩薩に礼拝して、『私はいつも御身もとに生まれ変わることを願っております。この願いは達せられましょうか』というと、
『そなたが正法を広く伝えたならば、後世にはその願い達せられよう』と答えらた。そのとき、金色の人は、 『私は文殊菩薩である。私たちはそなたが空しく身を捨てようとしており、それが利益とならないのをみて、いまここに来てそなたに翻心をすすめているのである。そなたはいまこそ私の言葉に従い、正法『瑜伽論』などをあまねくまだ知られていない地方に及ぼしなさい。そうすればそなたの身はしだいに安らかになるであろう。使者を遣わしえぬことを憂うる必要はない。チーナ国に一人の僧がおり、大法を流通せんことを願いそなについて学びたいと心から欲している。そなたは待っていて、その者に教えなさい。』といった。
正法蔵は聞き終わって礼拝し『謹んで御教えに従います』
と申しあげると、三人の姿はもう見えなかった。しかしそれ以来、正法蔵の病苦は忘れたように消えてしまったのです。
〜つづく
327
:
ももんが
:2012/04/03(火) 02:10:30 ID:XXCuaQns
>>326
〜大唐西域記②・つづき
これを聞いて衆僧は、みな希有のことであると称嘆せぬ者はなかった。三蔵法師は親しくこの話しを聞いて、あまりの喜びに心高ぶりを抑えることができなかった。さらに礼拝して、
『もしお話のとおりであれば、私は全力を尽くして勉強させていただきたいと思います。どうか尊師よ、御慈悲をもってお教えください。』とお願いした。
正法蔵はまた、
『三蔵法師よ、そなたは何年かかってここまで辿りついたか?』と尋ねられた。『三年でございます。』と答えると、まさに夢の時期と合致している。正法蔵は種々教え諭して三蔵法師を歓喜させ、もって師弟の情を述べ、三蔵法師は話しが終わってから退出した。
328
:
a hope
:2012/04/03(火) 08:03:15 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
思うとおりになる世界
私達は思う通りの人間になり、思う通りの運を招(よ)ぶことができるのであります。
運が悪いという人は、みな自分の思いが悪いのです。
だから私達は善い事ばかり思うようにしましょうね。
そして自分は立派な「神の子」だと常(いつ)も思うようにしましょうね。
私達みんなの心の中には、「みおや神様」のお力がいつも一杯に満ちていて、
自分の思うとおりのものを造ってくださるのです。
ですから、あなたがいつも「自分は神の子だ、神の子はなんでも都合よくできる」
「神の子は素直だ」「神の子には病気が無い」「神の子はいつもしあわせである」
などと善いことばかり思うようにしておれば、神様がそのとおりにしてくださるのです。
嬉しいことではありませんか。
「わたしは神の子だから、神の子らしくなるのだ」とただ思っているだけで、
本当に神の子らしくなって、あなたのお顔まで明るい立派なお顔に変わり、
成績もよくなり、身体(からだ)も達者になってくるのです。
それが、人間は「神の子」「仏の子」である証拠なのです。
善き思いをすれば、いくらでも善きことが出て来るのです。仲よくすれば、
神様、仏様の姿が私達の心の中(うち)に、健康の中に、運がよくなることの中に、顕れられるのです。
どうぞ皆さん、私達はこれから、みな善い事ばかり思うようにして、
皆仲よくして「神様」がお造りになったとおりの楽しい世界に私達のお家を造りましょうね。
あなたが、「私は神の子である」としっかり思い、また他の人も各自に「私は神の子である」としっかり思い、
互いに敬って相手の悪口を言わず、互いに仲よくするだけで、私達の住む家が、住む世界が美しく変わってくるのです。
あなたのお宅(うち)でも、お父様お母様がご機嫌よくしてあなたを可愛がってくださる時には極楽のようでしょう。
お父様がご機嫌が悪くて叱られた時には地獄のようでしょう。
私達は、みんな自分たちの心が変ってくるだけで、こんなふうにこの世は変わってくるのです。
自分が「神の子」であるということが、はっきりわかった人の言葉は、しっかりしてきます。
また、その人の考えは正しく間違はないのです。
そうしてその人の行いは美しくなり、その人の心はいつも勇(いさ)んでいるのです。
顔はいつもにこやかで、その言葉つきは晴れ晴れしてきます。
ですから、その人と話す人はみな喜ばされ、その人の言葉を聞く人はみな力強く思い、
その人は誰にでも頼られる人になるのです。
(第7章「生命の生かし方」終り、次回より第8章「自分の生かし方」へ)
329
:
ハマナス
:2012/04/03(火) 12:36:11 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんにちは。今日も皆さまにとって、素晴らしい一日でありますように。
人生誕生の輝かしい使命 (『新版 生活の智慧365章』P.118)
「生命の進化と云う事は、個生命の発現によってのみ可能なのである。宇宙大生命が
如何に荘厳に宇宙に充ち満ちていようとも、若し「個生命」が発現しなかったなら、
何処にも進化ということは得られないのである。この事はいみじくも、神には個生命
必要だということをあらわしているのである。まことに神には人間という自意識を
もった個生命が必要であり、それによってのみ「本当の自由」を体験し得給うのである。
若し人間が宇宙に誕生しなかったならば、どんなに日月星辰(じつげつせいしん)が
宇宙を荘厳に運行しようとも、草木鳥獣が美しき姿をあらわそうとも、それは単に
機械的に運行しているか、本能によって、自由なしに、美しさをあらわしているに
過ぎないのである。宇宙に人間が誕生した事によってのみ、神は神御自身が人間と
現れて、意識的な自由を体験し得給うのである。人間の使命の偉大なることは
これによっても明らかである。神は人間なくして生長も進歩も自由も体験することが
できないのである。」
感謝合掌
330
:
「訊け」管理人
:2012/04/03(火) 18:25:01 ID:???
弊ブログより
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65616219.html
#more
――――――――――――――――――――――――――――――――
「総裁を追い出す方策」あります。下記は聖典準拠の「追放策」とな
りましょうか。そして下記以外の聖典準拠の追放策ですが、少なくとも
愚生蔵書90冊内には、存在しないものと診ます。
さて、総裁追放に向けてやるべきこととは何なのか?「悪あり」「そ
れを除去すべし」の考え方は果たして、機能するのか?
(註:なおこの「追放策」なる言葉、やや方便的に表現されております。
愚生意見とやや趣きが異なります)
――――――――――――――――――――――――――――――――
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<「迷い」はどうしたら消えるのか>
心の「迷い」を無くするには、「迷い」を捉えて破壊しようと力む事は要
らないのである。それは却って自分の心が「迷い」を掴むことになって益々
大いに「迷う」ばかりである。「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」
から一転せしめて、「人間」の本来完全なる相を見詰めるようにすれば好い
のである。自分の病気を癒すには、自分の病気を見詰めないで、自分の実相
の完全さを見詰めれば好いのであるし、他の病気を治すには、彼の病気を治
そうとか、病気をどうしようとか思わないで、ただ彼の完全さを見詰めれば
好いのである。全世界の人々が、ただ、他の善のみを見詰めるようにすれば
忽ち平和は来るのである。
〝自分が〟祈る力や、自分の思念力によって不幸や病気を退散せしめよう
などと思ってはならないのである。われわれが善き言葉で祈り、善き想いを
想念したならば、あとは神が成就したまうのであると知らなければならない
のである。それは種を蒔くのと同じことである。善き言葉又は善き想念を述
べることは、大宇宙の創化力の沃地に、善き種子を蒔くことになるのである。
その種子を育て生長せしめたまい実を結ばしめ給う力は神にあるのである。
吾々は自分の力で、蒔いた種子から茎や葉を引張り出そうなどと考えてはな
らないのである。「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうの
は神の力である」と念じて、静かに神に全托せよ。
『幸福を招く365章』186項より謹写
331
:
SAKURA
:2012/04/04(水) 00:35:47 ID:FEa/NNlc
皆様 へ
■「生命の実相…」より
−−−−−【自己内在の光】−−−−−
生長の家の光明書籍類は諸君自身の内に宿る力を指示するために
執筆されるのである。
他に依頼する心を持つ者は躓くであろうが、自己の内に埋積されたる宝庫の方へ
幸いに振り向く人は救われるであろう。
救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在り所を指示するだけである。われわれの光明思想に諸君の心が転向
した結果病気が治るというのも諸君自身がそういう思想になった結果であって
わたしはただ指さすのみである。
文章の力による指さし方が親切丁寧を極めているので、文章の力が
病気を治したともいいうるが、くわしく言えば文章の力は、よく諸君の心を
振り向けただけである。そこに自己内在の光を見、
そこに自己内在の無限の力を見出すのは諸君自身の力であって
わたしの力ではないのである。光栄は諸君自身の「内」にこそ
帰せられるべきものであって、わたしはただラッパであり、指南車である。
指を月とまちがえわたしの書いた符号を本物と取り違える者は
実相を見ることができないであろう。
わたしはただ諸君を振り向かすために、文章で叫ぶだけにすぎないのである。
わたしという人間を尊敬せずに真理こそ尊敬せられたいと思う。次に掲ぐるは、
光明思想の講習会に参加した講習生がその席で衆人環視の中で起ち上がって
話した体験談であって、速記者は超中根式速記の名手倉橋公宣君である。
(一部抜粋…)
再合掌
332
:
a hope
:2012/04/04(水) 10:19:24 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
第八章 自分の生かし方
自分に深切にせよ
皆さんは「他に深切にせよ」という言葉を、聞きあきるほどきいたことでありましょう。
しかし吾々の教えではまず「自分に深切にせよ」と教えるのです。
もし「自分に深切にせよ」と教えて下さった先生が多かったならば、
自分を殺す戦争など起こさなかったでしょう。
他に深切にすることなら、どうすればよいのか判るが、
「自分に深切にする」のはどうしたら好いか判らないとおっしゃる方があるかもしれません。
それではここに「自分に深切にする」そのやり方を考えてみましょう。
(つづく)
333
:
下流のしんと
:2012/04/04(水) 10:57:20 ID:NS7./ufw
>330
訊けさんの内容、いいとこまで来ているんだけど、、、後一歩。
もう少し内容をツメラレルよ。現象なしのものすごいバーージョン!がありまっせ。つーか、自分が今、感動中の感動の本紹介になるけど。
どこで書くかな==?? どこかいいとこある??
334
:
ハマナス
:2012/04/04(水) 21:30:43 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
昨日は全国的に強風でたいへんでしたが、今日は穏やかな一日となりました。
困難にいどむ (『新版 生活の智慧365章』P.119)
「人間の自由は、彼が環境や境遇の奴隷でなくなったときにのみ得られるのである。
環境がどうだから出来ないとか、こんな境遇では迚(とて)も思うようにならないとか
云うのでは、環境や境遇の奴隷であって、自由の主体である“神の子”の自覚を得た
ものということができないのである。もっと神想観をして絶対者との一体感を深めなさい。
全ての環境・境遇は、その人が或る能力を発現さすための運動用具のようなものである。
木馬や鉄棒(かなぼう)や平均台や吊環などはいずれも運動の選手がその網力を発現
さすために是非無くてはならない環境又は境遇であるのである。運動の選手はみずから
そのような環境・境遇の条件をもとめて、それを克服し、自由に肉体の運動美を発揮
するための用具とするのである。そのとき運動選手は主人公であり、自由の主体である。
ところが学校の体操の時間に学生みずからはそんな運動をやりたくないのに課せられて、
嫌々ながら、木馬の練習や鉄棒の練習をやらせられたとしたならば、学生は強制された
のであり、自由を奪われた訳である。同じ木馬や鉄棒で運動しながら前者は主人公であり、
後者は自由を奪われた奴隷である。その相違はどうして生ずるか。人生の勝者となるものは
受動を飜(ひるがえ)して、能動をすることにあるのである。常に受動である者は奴隷で
あり敗者であるが、能動的にみずから進んで困難にいどむ者は常に勝者であり、主人公で
あるのである。」
感謝合掌
335
:
a hope
:2012/04/05(木) 10:17:55 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
腹を立てるのは自分に不親切
「自分に深切にする」とは、もっと十分自分のことを考えてやることです。
たいていの人は、いい加減不深切に自分自身を扱っているのです。
たとえば、腹を立てれば自分自身が気持ちが悪くなります。
自分自身を気持ち悪くさせることは、自分に深切な扱いとは言えないでしょう。
誰に対してでも好い気持ちにしてあげるのが、その人に深切なのです。
そしたら、自分自身もよい気持にしてあげるのが、自分自身に深切なのです。
それだのに、腹を立てるのは自分自身を悪い気持ちにしているのだから、
自分自身を不深切に扱っているということになるのです。
(つづく)
336
:
ハマナス
:2012/04/05(木) 14:35:53 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんにちは。
良心の自己処罰 (『新版 生活の智慧365章』P.120より)
「吾々が進んで他の対して善を為し、愛を行じ、人を救い、人を悟りに導くとき
その人は主人公であり、その行動は“自由”の発露であり、“自由”の発露であるから
喜びを感ずることができるのである。そしてあなたが施した善は必ず自分に還ってくる
のである。
MRAの信条の第一に「絶対正直」ということがあるが、吾々は他を欺(あざむ)けば、
それは必ず自分に返って来るのである。欺きが自分に返って来るならば、他を欺く
ことその事が自己を欺きつつあるのである。吾々の潜在意識は一種のテープレコーダーで
あって、他を欺いて、顔を拭って涼しい顔を装っていても自分は常に自己の内で鳴り
響いているので、他からその類似のものを引き寄せて自己がまた欺かれることになる
のである。
嘘発見機がその人の嘘をグラフに捉え得るように人間は他を欺いても自己を欺き得ず
良心が常に自己を審(さば)いていて自己処罰して自己を不幸に陥れるのである。」
感謝合掌
337
:
ハマナス
:2012/04/06(金) 06:24:57 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
週末出かけますので、その間、聖典引用はお休みいたします。
今日も皆さまにとって、素晴らしい一日でありますように。
念(おも)った通りになる (『新版 生活の智慧365章』P.121より)
「彼を悪人と審いたとき、自分が悪人となっているのである。少なくとも其の審く人の
心は地獄の鬼と化しているのである。雇主は雇人をよく働く人にも、懶(なま)ける人
にも、嘘告(うそつき)にも、正直な人にも、自分の想う形にすることができるのである。
催眠術家が相手に対(むか)って「汝は眠くなる」と念ずれば、相手が眠ってしまうように、
雇主は雇人にたいして「お前は蔭日向なしに克(よ)く働く」と念ずれば、その雇人
は本当に蔭日向なく忠実に主人のために働くのである。「どうせ自分が見張りをして居ないと、
こいつは懶(なま)けて仕方がない」と主人公が念ずると、その通り雇人は懶けるようになる。
親が子供に対するのも同じことである。「うちの子は中々勉強しないから、勉強するように
見張っていなければならない」と母親が子供のことを思い詰めていると、見張っていても中々
その子供は勉強しないし、「うちの子供は神の子だからほっておいてもよく勉強する」と
母親が念じていると本当に子供は放っておいてもよく勉強するのである。
心は通ずるものである。「思う通りにならぬ」場合があるのは「表面の心」は兎も角、
潜在意識の中に「思う通りにならぬ」という念(こころ)が鳴り響いていてその通りに
なっているのである。」
感謝合掌
338
:
a hope
:2012/04/06(金) 10:33:09 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
腹を立てれば血に毒素ができる
アメリカに、ハーバード大学という有名な大学があります。
その大学からは心理学といって、心のことを研究する学問の先生で、
立派な学者がたくさん出ました。
その中でも、ウイリアム・ジェイムズ教授とか、
エルマー・ゲーツ博士とかいう人は、世界的に有名な学者です。
そのゲーツ博士の調べたところによりますと、人間は腹を立てたら、
血の中に毒ができることが判りました。
腹を立てると気持ちが悪くなるのは、自分の血の中に毒ができるからです。
日本でも鼠を棒切れで追い廻して、六時間続けて腹をたたさしておく実験で、
その鼠が死んでしまったという話があります。
腹を立てると自分の血の中に毒ができるとしましたら、
腹を立てるのは自分に毒をのませるのと同じことです。
自分に毒を飲ませるのは、まことに自分に不深切なことです。
たいていの人は、この自分に不親切なことを平気でやっているのです。
だから、私は、「もっと自分に深切になれ」と申すのです。
(つづく)
339
:
SAKURA
:2012/04/06(金) 17:43:20 ID:.xavN.NY
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
■【幸福を招く365章】
―――精神の進歩も他の進歩も同じこと―――
進歩と云うものは最初は極めて徐々に、やがて大きく伸びるようになるものです。
これは植物の苗の生長と同じことであります。
魂の進歩や、精神統一力の進歩も、最初は遅々として、中々伸びないように思われて、
兎もすれば倦怠の念を起してくるようですが、其処を乗り切らなければ物になりません。
其処を乗り切ったとき、其の後は実に大きく急速に伸びて来るようになるのであります。
すべての力はそれを正しく法則に随って使うことによって増大するのです。
法則を無視して無茶に使っては却って力は消耗します。の稽古にしても、
最初は中々上手に弾けませんが、その時期を超えると上達は早くなって来ます。
ピアノの稽古も、ピアノを出鱈目に掻きならしているだけでは何時まで経っても
上達しません。楽譜に随って規律正しく稽古することによって上達するのです。
楽譜に随って規律正しく稽古することによって上達するのです。
神想観の上達も同じことです。
人びとの中には、他にすぐれて鋭敏な感受性を具えた人たちがあります。
往々これらの人たちは神経質と云う名でよばれる人たちであります。
他から来る精神波動に非常に感じ易い性質を持っているのです。中には天候に
従って気分が変わるだけではなく、低気圧が近づくと気象台よりも
早く健康に影響を感ずる人もあります。こう云う神経質の人はその肉体的素質が
繊弱で非常に不利な生れ附きだと思っている人もあるが、神は決して一方的に
不利な性質を与えるものではありません。その鋭敏な感受性を正しき神の啓示の
方向にのみ向けることにするならば、その過敏な感受性は却って其の人の長所と
なるのです。常に次のように念じなさい。
「私は神の子である。私は神の子の権威をもって神の子ならざる低次の精神波動に
対して完全に自己を閉ざすのである。そしていと高き神の啓示に対してのみ鋭敏である。」
(谷口雅春著)
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トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
いつも拝読いただきまして、感謝申し上げます…。
私なりの「解釈論」を「他の掲示板ボード」にて投稿させて頂きたいのですが?
個人的に今!「時間がありませんので…」後程投稿(途中まで)させて頂きます…。
再合掌
340
:
ルンルン
:2012/04/07(土) 03:10:28 ID:vsZYH/3w
こんばんは、ルンルンともうします。
生活応用 健全の真理 p70 谷口雅春先生著
神想観は、(欲する事物を心に描いてそれを呼び出す方法」だと思われてるかもしれないが
それ以上のものである。
そんな現象的な効果を予期するようなケチなサモシイ行法ではないのである。
それは、「既にある完全な実相」をただ観ずるだけである。祇感唯感実相(唯ひたすら実相のみを観ずる)
である。既に完全な実相があるのに、それ以上の効果を期待することが、既にあるとの自覚を裏切ることにすらなるのである。
原文は旧仮名使いです。
341
:
下流のしんと
:2012/04/08(日) 23:54:14 ID:WmbFDQVc
>立ち上がれ 気高く舞え 天命(さだめ)を受けた戦士よ
千の覚悟 身にまとい 君よ 雄々しく 羽ばたけ
闇の時代を告げる 鐘が遠く鳴り響く
戦う友よ 今 君は 死も恐れず
瓦礫の街を染めて 沈む夕日は紅
愛する地球(ほし)の未来を守るため
おお 神の刃は 人類(ひと)の愛
祈りを 込めて つらめけ
立ち上がれ 気高く舞え 天命(さだめ)を受けた戦士よ
明日の平和への 礎となれ
熱くなれ 大きく咲れ 天に捧げし命よ
弱き者の盾となれ そして 世界を 導け
きらめく星の海に 浮かぶ おまえの面影
二度と逢えない愛ゆえに なお いとしい
背中合わせの世界 重ね合えない現実
涙とともに捨て去れ なにもかも
さぁ 振り返らずに 風になれ
痛みを越えて 駆け出せ!!
立ち上がれ 気高く舞え 天命(さだめ)を受けた戦士よ
たとえ傷ついて 力尽きても
赤く燃え 見事に散って 星になった命よ
時を越え その名前を 胸に刻もう Just Forever
立ち上がれ 気高く舞え 天命(さだめ)を受けた戦士よ
たとえ傷ついて 力尽きても
熱くなれ 大きく咲れ 天に捧げし命よ
明日の平和への 礎となれ
赤く燃え 見事に散って 星になった命よ
時を越え その名前を 胸に刻もう Just Forever
342
:
a hope
:2012/04/09(月) 08:34:58 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
他が悪い時、善い人が毒を飲むな
「そんなことを言っても、あいつが悪いから腹が立ってしかたがない」と言う人があります。
あいつが悪いのなら、その悪いやつが自分で腹立てて、
自分の身体の血の中に毒をこしらえていればよいのです。
それだのに、悪くない者が腹を立てて、毒を自分の血の中にこしらえるのは間違っています。
ですから、これから自分が善いと思ったら、自分の血の中に毒をこしらえないことです。
腹を立てないようにすることです。そして自分が悪いと思ったときこそ、
うんと自分自身に腹を立てて、自分の血の中に毒をつくってやることです。
それを逆さまに、普通の人は「他人が悪い、自分が善い」と思っているときに腹をたてて、
自分の血の中に毒を飲ましているのですから、間違っています。
これからはそんなばかなことはいたしますまい。これからは決して腹を立てたりいたしますまい。
(つづく)
344
:
a hope
:2012/04/10(火) 08:11:25 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
時間を大切にせよ
他(ひと)に深切にする心掛は、たいへん結構なことです。
しかし、自分に深切にすることは、また大変善いことだということを
多くの人は忘れています。
だから、腹を立てて自分の身体(からだ)に毒を飲ませたり、
なまけて、自分に与えられたせっかくの時間を、
何にも使わないで捨ててしまったり、自分に損をかけて平気でいたりするのです。
人間に何が一番大切だと言っても、自分に深切をつくすことほど大切なことはありません。
自分に深切をつくすというのは、自分の生命を無駄に捨てないことです。
お金を道ばたへ無駄に捨てる人はめったにありませんが、
自分の生命を無駄に捨てる人はたくさんあります。
自分の命を捨てる人はたくさんあると申し上げても、世の中には
そんなに自殺をしている人はないと思いになるかもしれません。
しかしあなたが百歳になるまで生きるとしましても、一時間無駄にすごしたら、
あなたの命はもう一時間だけ無駄に捨てたのです。
たいていの人は夜になったら何もせずに寝てしまいます。
一生の半分は人間は寝てしまうのです。
そうすると百歳になるまで生きましても、半分は何もしないのですから、
五十年しか生きないのと同じことです。
ところが、その五十年のうちで私達は朝昼夜の御飯時(どき)に、
早い人で三十分ずつ、遅い人で一時間ずつぐらいはかかります。
それで一日ニ時間や三時間は無駄になるのです。
用を達(た)したり、お風呂へ入ったりしていると、
一日のうちの五時間は、そのために無くなります。
そうしたら、私達は一日二十四時間のうち、七、八時間しか
勉強とか仕事とかはできないのです。
言いかえると、一日のうちの四分の一しか自分の生命を働かせ、
自分の値打ちを出すことができないのです。
すると一日のうちの四分の三の時間は、無駄に捨てたと同じなのです。
皆さん、無駄に捨てた時間は決して還って来ません。
一日のうちの四分の三の時間を無駄に捨てていたら、
百歳まで長生きしても七十五年間は無駄に捨てたので、
ただニ十五年間しか生きたことになりません。
それは百歳まで長生きしても、二十五歳で若死にしたのと同じことです。
私達の生命は「時間」でできているのですから、ぼんやりしている間に、
生命は減って行きつつあるのです。こんなつまらないことはありません。
一分間でもぼんやりしないで、何かこの世のためになることをいたしましょう。
会社のためになることをいたしましょう。
父さま母さまに喜ばれることをいたしましょう。
何か自分の力のつく勉強をしましょう。
(つづく)
345
:
ハマナス
:2012/04/10(火) 08:49:53 ID:u5mC.eb2
神の子もみなさま
おはようございます。お久しぶりです。
日本中が桜の色、一色に染まっています。
今日も皆様にとって人生の最良の日でありますように。
すべての人間は「王」である (『新版 生活の智慧365章』P.124)
自己に宿る絶対者、自己に宿る超越者、自己の宿る普遍者、自己に宿る無限者、
有限の内に宿る無限なる者、相対者の如くあらわれている絶対者、現象のあらわれて
いる奥にある超越者、今このままに久遠なる者、有限即無限、個性即普遍――それが
私であり、あなたであり、一切の人々である。それを自覚するとき相互礼拝が自然に
行われるようになるのである。
自己を単に物質的存在たる肉体だと観る限りに於て、人間は「制約」から超越する
ことはできない。即ち自由を完全に享受することができないのである。その制約から
超越して自由を得るためには、「真理は汝を自由ならしめん」とイエスが言ったように、
真理を知らなければならないのである。「真理とは何ぞや」とピラトがイエスに訊いたとき、
イエスは黙然として答えなかったが、ピラトが再び「汝は王なるか」と訊いたときに、
イエスは、「汝が言えるが如し」と答えているのである。王とは「神聖にして犯すべか
ざる絶対者だ」と云う意味である。すべての人間は法制上では王ではないけれども、宗教的
意味に於ては王であり、絶対の自由者であるのである。これが真理なのである。この真理を
知るとき何人も本当の自由を得るのである。
感謝合掌
346
:
ももんが
:2012/04/10(火) 08:57:30 ID:XXCuaQns
>>345
ハマナス様
ハマナス様、おはようございます。感謝、合掌、拝。
ハマナス様の、いつも、素晴らしい、御言葉、尊敬の一句です。
今日も、心に残りました。いつも、素晴らしい、行いを、尊敬してます。真に、ありがとうございます。
感謝、合掌、拝。
347
:
ハマナス
:2012/04/10(火) 09:14:46 ID:u5mC.eb2
ももんが様
おはようございます。早速、あたたかいレスをありがとうございます。
今日も、お仕事頑張って下さい。お祈りしています。
感謝合掌
348
:
ぼるぼ
:2012/04/10(火) 19:18:48 ID:iV0JULqA
「わたし」はあなたを支配している。あなたの行動を支配し、あなたの生理作用を支配している。
しかしそれは「無我の愛」によって支配しているのである。あなたが自分の心を素直に開いて、自由意思によって「わたし」の支配を受け容れるならば、あなたの行動は宇宙に調和し、環境に調和し、あなたの生活は誠に順潮に棹さすように行われる。
またその生理作用も健全円滑に行われるであろう。しかし、「わたし」の愛は「無我の愛」であるから、「わたし」はあなた達に自分の知恵を強制しようとは欲しないのである。それ故に、あなた達は時々自分の考えによって、「わたし」の知恵と異なる行動をとることがある。食欲や性欲も自分勝手に気儘な行動に身をゆだねることがある。
けれども、「わたし」は「無我の愛」であるから、あなた達を罰しようとは思わない、また罰したこともない。
しかし「わたし」の知恵は偏りのない普遍に調和した知恵であるから、「わたし」の知恵に従っておれば、すべてに調和した生活が出来るであろうが、あなた達の知恵は個別的で、分断された知恵であるから、その知恵は全相に達しない。
それ故に、どこかに衝突が起こり、摩擦が生じ、行き詰まりが生ずる。それは自分の知恵が勝手な傍道を歩かした為に、自分自身で、行き詰まる道を歩いた結果であって、決して「わたし」があなた達を罰した訳ではない。道なき道を勝手に進めば自分で行き詰るのは当然である。
谷口雅春著「神 真理を告げ給う」26P
349
:
ぼるぼ
:2012/04/10(火) 20:43:04 ID:iV0JULqA
>>348
「本当の教祖」と言うべき「真理の掲示者」は「実相世界」にある「神」のみなのである。
谷口雅春も、「自分は教祖ではない。実相世界に生長の家の本部はある」と言っているのである。
同著、13P
350
:
ぼるぼ
:2012/04/10(火) 20:50:07 ID:iV0JULqA
>>349
「真理の掲示者」 誤
「真理の啓示者」 正
351
:
金木犀
:2012/04/11(水) 04:52:55 ID:oWXOwFKk
むかしの神誌の記事から抜き出しました。
矛盾の解決
谷口清超先生、 『生長の家』誌、昭和58年
スリの集合
あるお花の稽古に行っていた家内が帰ってから、こんな話をしてくれた。ここに「稽古に行った」というのは、「教えに行った」のではなく、まさに「習いに行った」のである。すると仲間の生徒さん、といってもそんなに若くはないと思う、が言うのに、近所の奥さんが二人で三越のバーゲンセールに出かけたそうだ。その頃三越は、岡田前社長の背任問題や、竹久みちさんの“特別背任”事件などで新聞に大袈裟に書きたてられていた頃で、そのイメージアップのために「310周年記念大感謝祭」というのを行った。日本橋三越だけでも初日に三十万人がつめかけ、約十億円の売上があったというから、スキャンダルを逆手にとったこのやり方は、一応成功だったと言えるだろう。
ところで話はお花の生徒さんに戻って、二人で出かけた奥さん連中が、夢中になって買いあさっているうち、二人ともあり金をスリにすられてしまったというのである。聞いてみると「日本中の女スリがあの日集まった」という噂だったという。それを聞いて家内は、「それじゃ予め警察官が三越に張り込んでいたら、一遍につかまったのにね」と言って、皆で笑ったと話していた。しかしいくら日本の警察が優秀だといっても、そこまでは手が回りかねたらしいのである。
人は「商売」となると熱心なもので、スリでも泥棒でも、本職はかなりの努力をして辛抱強くチャンスをうかがうものらしい。もしその努力をまともな商売に振り向けたら、どんなにすばらしいことになるかと、いつも私は思うのである。偽金作りにしても、あれだけ技術を持ちながら、どうして本物の印刷業務に専念しないのか? 竹久さんでも「不法利益十六億円を越す」などと読売新聞に書かれたが、もし事実なら、どうしてそんなことまでしてお金をため込む必要があるのか不思議だ。何れにしても「悪銭身につかず」であることは、厳然たる事実である。
バッグの中味
ところでこの世の中には「心の法則」というのがある。心で強く思うことが実現するという原則だが、これは単に「こうありたい」と願うことや希望が実現するというのではない。だからいくら「金儲けがしたい」と思っても、中々そううまくは行かないし、「損をすまい」と思っても損することにはなる。がここに言う「思うこと」とは、「心に強く念ずること、思うこと、信ずること」などであって、要するに心に強く印象づけられた内容が実現するという通則である。
だからあることをひどく恐怖して、いつもそれを心に思い描いていても、却ってそれが実現するのである。悪事の露顕を恐れたり、病気や事故や怪我を恐れても、それだけでは不幸をを防止することにならぬのは、その恐怖が心の中の強い想念となり、却って実現力を持つからである。江国滋さんという随筆家の書いた『旅はプリズム』という本には外国のおもしろい話が色々出てくる。主にヨーロッパ旅行の話だが、あちらは中々泥棒さんが多いらしく、ことにイタリーは世界的に有名な所だ。
江国さんは先ず東独を旅行して、その記事を日本に送る約束をしたらしい。だから原稿を後生大事に持ってローマ入りをした。というのは東独では郵便が不確実で、日本に着くのに四週間はかかる。おまけに確実でないことが確実だというので、ローマに入って、バチカンの郵便局が一番確実で速いという話を聞いて、先ずそこに行った。がしかしまだ沢山残りの取材資料をかかえ、それらをカメラバッグにつめ込み、後生大事にかかえて車に乗り、
「盗られては一大事」
と、そればかり用心していた。というのはローマに来る前も又来てからも、散々イタリーの泥棒さんの凄まじさを聞かされていたからである。彼らは自動車どころか、アメリカの軍艦まで盗ったというのだ。車を盗られた人が仕方なく新車を買いかえると、その日又々その新車を盗られたなどと聞かされ、用心に用心を重ねたのであった。江国さんはローマでは知人のNさんにキャンピングカーで案内してもらい、その広い車内の運転席と助手席の間に大事なバッグを置いて、常に目に触れるようにしてローマの街を走ったのである。
352
:
金木犀
:2012/04/11(水) 05:01:52 ID:oWXOwFKk
矛盾の解決(2)
谷口清超先生、 『生長の家』誌、昭和58年
心の法則
こんなに用心していたら、どんな大泥棒でもこの鞄は盗れない筈だ。そう思ってしばらく行くと、急に車がガタガタし出した。Nさんが「おかしいな、パンクしたらしい」と言いつつ、道路の片隅に駐車し、車から降りてみるとやはりパンクであった。
「ちょっとタイヤをとり換えます、しばらく待っていて下さい」
と言って修理を始めた。江国さんも助手席でじっとしている訳にも行かず、
「手伝いましょうか」
と車を降り、のぞき込んだ。「いや、大丈夫、慣れていますから……」そんな訳で間もなくタイヤの交換が終わり、二人とも車内に入った。すぐ出発したが、鞄が見当たらないのだ。どこを探してもない。結局二人が車外に降りたわずかの隙に、泥棒さんに見事してやられたということが分かったのである。
「そういえばずっと変な車が後をつけて来ていたが……」
明らかに江国さんの鞄は狙われていたのだ。何故か?あまりにも大事にしすぎて、
「盗られはしまいか」と、肌身離さず持っていたから、泥ちゃんは余程金目なものが入っていると勘違いし、何としてもそれを盗るべく後をつけた。辛抱強くチャンスをうかがい、パンクの小細工までして、ついに目的を達したという訳である。あとで調べてみると、タイヤは仕掛けられた刃物で切られたようになっていたという。
どうしてこんなことになるのかというと、やはり「心のなかに強く描いたことが実現した」という他ないであろう。それは希望しないことであっても、恐怖することは実現する。だから人はいくら失敗を恐怖しても失敗するし、病気を恐れても、又事故を恐れても、そんなことは駄目なのだ。勿論戦争を恐怖するだけでは駄目だし、原爆水爆に反対して、広場に寝転がっていくら「死んだ真似」をしても駄目だ。いや、むしろあんなことをすればするほど、「水爆で死ぬ」ことを強く心に描き、且つ実演までするのであるから、水爆戦を誘発する一つの力になるだけである。
これはごく簡単な「心の法則」を理解するかしないかの問題だ。人はいくら善意出会っても、智慧が足らず、法則を理解せず、それを逆用していると、その結果大失敗する。だから釈尊も「悟りに到る第一は知ることである」と教えられたのである。法則を知り、真実を知ることが何よりも肝腎で、失敗を恐怖したり憎んだりするより、積極的な「成功」を心に描き、「健康」や「幸福」を強く思うようにしなければならないのである。
353
:
金木犀
:2012/04/11(水) 05:03:01 ID:oWXOwFKk
矛盾の解決(3)
谷口清超先生、 『生長の家』誌、昭和58年
悪はナイ
つまり不幸や悪や盗難を恐れるより、積極的な善いことや健康や幸福や繁栄を心に強く描かなければならないということである。この簡単な法則を正しく理解しないために、多くの人々は折角の人生を台無しにしている。闇を消すには光をもって来なければならない。光とは善であり、そして又健康である。人はとかく一旦不幸になると、光を描き見る事を忘れ、いたずらに悪や病気や失敗を恐怖する。がしかしそれでは何一つよいものは現れて来ないのである。
例えばもし今ひどい病気に罹った人がいるとしよう。すると彼は「健康」を心に描かなければならないのに、とかく「死」や「衰弱」を恐怖する。すると恐怖すればするほど、「死」や「衰弱」は近づいて来る。心に強く描くものがあらわれ来るという法則があるからだ。その逆をやらなければならないのに、それをする力が出て来ないのである。一体何故だろう?それは人々が「悪はナイ、善のみアル」ということを知らないからである。つまり「神」があることを知らず、「神」が善のみを創り給うたことを信じていないからである。
そもそも神を信ずるということは、この世の現象を見て、それに引っかかって祈ることではない。確かにこの世には病人もいるし、泥棒も詐欺師もいるだろう。戦争も起こるし、死人も出る。しかしこれらは全て“現象”であり、“影”であって、「実在」ではないのである。「実在」は完全なのだ。これが分かるか分からないかが、人生の別れ道だと言う事が出来る。真に繁栄し、幸福となり、生死を超越するか、それとも物欲や名誉欲に囚われ他一生を送るか否かの岐路が、ここにあることを知らなければならない。
長崎県の佐世保市南風崎町に宮田一郎さんという人が住んでおられ、永年生長の家の幹部として活躍しておられるが、昭和五十六年八月の出来事だった。その年は九月に私の講習会が佐世保で行われることになっていて、宮田さんは相愛会の連合会長として大変忙しく大会の準備などしておられた。さて宮田さんには息子さんが一人いて、三重県の電電公社鈴鹿学園に勤務して、その奥さんは雅子さんといい、お里が福岡で、当時二十八歳になっていた。
ところが雅子さんはどうも頭の調子が悪いというので、その年の八月福岡に帰って来て、九州大学の付属病院に行って検査を受けた。すると詳しい検査の結果頭の中に大人の拳大の脳腫瘍が出来ていて、このままでは今年一杯いのちがもたないと診断されたのである。宮田さんにとっては一大ショックだ。まだ若い息子の嫁が、難病にとりつかれた。おまけに一ヶ月後に講習会がある。平素「悪はない、善のみある」と教えられ、又人にもそう伝えているのに、現実には難問題が出てきて解決を迫っている。だがここで現象に引っかかって、その悪を「ある」と見たり、「絶体絶命」などと考えてはいけない。陰極は必ず陽転するのだ。自分自身にい言いきかせた。宮田さんは日夜講習会の準備に教区内を東奔西走する、その重大な時期に、多くの時間を嫁さんのためにさくわけにはいかない。がしかし病人の見舞いもしないといけない。本人も実家の人も、「死にはしないか」と思って非常に心配しているのは明らかだ。
「何とかしなければならない……」
と切実に思った。
354
:
なせば成る我ハ神の子
:2012/04/11(水) 07:11:35 ID:OfrX..6o
おはようございます。
金木犀さん、PCの調子は絶好調、技術も絶好調じゃぁないですか?
私だったらこの作業でしたら1時間はかかりますよ。ファイルから出すののでしたら、手間取りで10分かなぁ??
カッコイイ!! じゃぁないですか! WEB誌友会はモタモタ、ドタドタです。。えへへ・・・。
これからも、よろしくお願いします。
355
:
ハマナス
:2012/04/11(水) 09:34:18 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
神の宝はあなたに譲渡済みである。 (『新版 生活の智慧365章』P.125より)
「吾々の幸福は決して、自己以外の外界の存在によって規制せられたり、支配せられ
たりするものではないのである。自己の許さない不幸も悪も吾らに入り来ることは
できないのである。神は常にあなたと偕にあり、神の持ち給えるあらゆる善きもの、
美しきもの裕(ゆた)かなるもの、好ましきものは、悉くあなたに譲られているのである。
神の登記所に於ては、既に神の有ち給えるあらゆる“善きもの”の、あなたへの譲渡
手続きが完了しているのである。譲渡手続きが完了していても、それを譲り受ける者が、
譲り渡されたことを自覚しなかったら、それは現実にならないのである。
多くの人は、自分が神の子であり、神の有(も)ちたまえる凡(あら)ゆる
“善きもの”が譲り渡されて、既に“自己のもの”となっていることを知らないから、
それを利用することができないのである。その譲渡が既に完了していることを悟らせる
聖業をするのが生長の家の信徒の使命であり仕事である。併し譲渡が完了していることを
知らされても、実際に譲渡されたものを生活に応用しない限り、名儀だけのことであって、
何の役にも立たないのである。」
この大事な時に、私たち信徒一人一人が、「自分が神の子であり、神の有ちたまえる凡ゆる
“善きもの”が譲り渡され済み」であることを再認識し、実際に生かすことが問われていると
思います。
争い合うのではなく、お互いに神の子として、拝むことが生長の家の信徒の使命であり仕事
であると、雅春先生は仰っておられます。
“神の子”の教えを説くのが生長の家の意義ではないのでしょうか。
感謝合掌
」
356
:
a hope
:2012/04/11(水) 09:48:23 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
強情は、自分に不深切
素直に「はい」と言えない心を強情と言い、
その強情がひどく突っ張っている人を、強情っぱりと言います。
強情っぱりはやさしくないから、誰からでも憎まれたり、
嫌がられたりするものです。
自分が人から憎まれたり嫌がられたりするようなことをするのは、
自分に対して親切だとは言えません。
神様、仏様だって、強情っぱりはかまってくださいません。
本当にそれは寂しいことです。損なことです。
自分をそんなに寂しい者にし、
損な者にするのは自分に対して深切だとは言えません。
(つづく)
357
:
金木犀
:2012/04/11(水) 10:54:25 ID:y/Po8pPE
矛盾の解決(4)
谷口清超先生、 『生長の家』誌、昭和58年
連日連夜
そこで先ず宮田さんは頭の病気は先祖に関係があると思いついた。これは心の法則で、心に類似した肉体現象が現れて来るものであるから、先祖のお祀りがよく行われていないのであろうと想像した。よく調べてみると、実家では大事な人の先祖をお祀りしていなかったということも分かったのである。このことを伝えて、宮田さんの家でも雅子さんの実家でも真剣にやり始めた。一方病院側では「一刻も早く手術をしよう」とする。しかし宮田さんは講習会があるので、何とか手術がそのあとにならないものだろうかと思うのである。
雅子さんも救わなければならないし、講習会も疎かにできない。現象的には、正に切羽詰まった状態だが、実相世界では全てが可能であり、何一つ矛盾はない筈だ。そこで宮田さんは昼は終日推進運動に没頭し、夕方になるとその足で佐世保から特急列車に乗って福岡に行き、着くとすぐ病院に直行した。病院に入るとすぐに「招神歌」を唱え、雅子さんの本質が完全で健康そのもので、何一つ不完全はないということを心から祈ったのである。
さらに続いて枕元で『甘露の法雨』を読誦し、持参したテープレコーダーで真理の講話を聞かせ、1日一万遍「有難うございます」を唱えるように、数とり器を持って行って力づけてあげた。そうして彼女は、今までほとんど無関心だった「生長の家」を真剣に実行し、「人間神の子ですばらしいいのちだ」ということを信ずるようになって行った。日が経つにつれて舅の来訪を待ち受けていてくれる様子が在り在りと見える。実の父母にも、
「佐世保のお父さんが来て下さるのが一番うれしい」
と言ったりした。こうなると真理の言葉は吸い取り紙にインキが吸い込まれるように彼女の心に吸収され、偉大な言葉が実現して行くものである
358
:
金木犀
:2012/04/11(水) 11:00:00 ID:y/Po8pPE
なせば成る我ハ神の子様
一度で投稿したからといって、
そんな一時間そこらでやったなんてことはありません。
PCは調子の良い時も悪い時もありますが、キーボードがどうも変なのは確実で、
これは息子に試してもらっても、変だといってましたから。
まあそのキーボードの変な癖に、使っているうちに慣れたということもあるようです。
359
:
金木犀
:2012/04/11(水) 11:01:53 ID:y/Po8pPE
矛盾の解決(5)
谷口清超先生、 『生長の家』誌、昭和58年
矛盾の克服
しかし乍ら現実はなかなか厳しい。先ず手術日はずっと前から九月十七日と決まっていた。ところが講習会はこれ又九月二十日と決まっている。手術の日とその後には彼女の身辺についていてやりたいが、講習会と重なるからこれでは大変困るのだ。ことに時間が足りない。夜病院に行って、祈ったり『甘露の法雨』を読誦したり、励ましたり、慰めたりしてから帰るとなると、福岡発は夜中の一時頃の夜行列車だ。すると佐世保に着くのが四時半頃である。その列車中で仮眠するだけが、宮田さんの唯一の睡眠時間だった。朝になると又佐世保教区内を講習会の準備に駆け回る。その他の組織との幹部会もある。講習会直前の手術は、誠に具合が悪いのであった。
だから宮田さんの熱烈な祈りの中には、この問題が矛盾なく行われることが折り込まれていた。本来実相世界は何一つ矛盾はない。しかるにそれが三次元空間に現れて来ると、各種の矛盾点が出てくるのである。もう一つの大きな矛盾点は、雅子さんの脳腫瘍が、予想以上に大きく、医学的診断によると視神経を妨げる場所にあるので、腫瘍を切開すると、必ず視神経も切断され、たとえ腫瘍が治っても一生盲目になるという予告であった。もしこんなことになると折角手術して一命をとり止めても、若い身空で一生目が見えなくなる。これはとても可哀そうである。何とかしてこの矛盾も克服したい。それにはただ実相を心から視る、祈る以外に道はないのだ。どういう手立てでこの問題が解決するか、そんなことは全く分からない。ただ「神の創り給うた世界には不可能はない」とう堅い信仰だけが唯一の拠り所であった。
宮田さんは列車の中でも祈り続け、又わずかの暇を見ては祈り続けた。そして最後に全てを神に全託したのである。すると手術日の二日前になって、突然「手術が二十二日に延期された」と通知された。別に病院側にかけ合ったわけでも何でもないが、二十日に講習会が終わった次の次の日であるから、もう何の心配もなくなった。宮田さんには「やはり祈りは叶えられる」という確信が湧いてきた。
最も重要なことは
このように心の中に強く描く思いは実現する。それがたとえ願望することでもしないことでも、強い思いは実現するのであるから、恐怖心によって心を占領せず、神の御心にあるところの明るい想念や信念によって占領しなければならない。それが可能となる根柢は、言うまでもなく「神のみ実在する」という純粋な信仰であり、それについての行である。
とにかくこのようにして講習会と手術日との矛盾は解決したので、宮田さんは力一杯講習会に打ち込み、各組織とも昨年以上の成績を上げることが出来た。さて会が終わるやすぐさま福岡に飛んで行き、雅子さんの手術の準備にとりかかった。がしかし腫瘍と視神経、が重なり合っているという重大な問題がまだ残っている。盲目になっても手術するかどうかと重ねて聞かれても、やはり「お願いします」と言わざるを得なかった。
脳腫瘍の大手術は九時間もかかった。その間宮田さんは奥さんと交代々々で『甘露の法雨』をずっと読誦し続けた。やがて手術が終わり、説明に出て来られた主治医はこう言われた。
「開いてみると、病状が非常に好転していて、大きかった腫瘍が縮小し、うまい具合に視神経からも外れていました。しかも非常によい形をしていて、視神経には何ら異常なく完全に摘出することが出来ました」
以来雅子さんの病状は急速によくなり、その後一ヶ月を経て退院し、さらに一ヶ年経ってからもすっかり健康で、いつ病院に検査に行っても完全治癒ということで、今は明るく楽しい毎日を送るようになられたのである。
この事実を見ても、現象界に起る様々な矛盾や撞着を解消するには、「実相を観る」以外真の解決法はあり得ないと言わざるを得ないのである。これをやらず如何に不幸を恐怖しても、それは不幸を回避する手立てにはならず、如何に戦争を恐怖しても、戦争は消えさるものではない。従ってその反対に多くの人々の心を光明化し、真実の世界が大調和であり、完全円満であることを確信する人々をふやし、愛と感謝と祈りと讃嘆の思いを拡大する「人類光明化運動」を強力に前進させることが、最重要課題であると確信する次第である。
360
:
なせば成る我ハ神の子
:2012/04/11(水) 12:48:14 ID:pu1fAvFo
金木犀さま。。
すいません、、どーも。 早とちりで。 志恩さんとの会話を読みました。
私はなんでも、言葉どーーーり受け取るので。。。(笑) もしかして、私、謙遜なども通用しないのかもしれません(恥・・)ご注意ください。。
361
:
うのはな
:2012/04/11(水) 22:40:08 ID:El6gIMAw
“ 真の自由”とは何か 感謝一元の世界へ
北条信夫 ありがとうございます。今日は“真の自由について”という題をいただきまして、
本当に心の底から感謝しております。“真の自由を得たい”ということは、あらゆる人の希望すること
でありますが、僕も小さい頃から色々と不自由な立場にいたものですから、自由になりたいと思って、色んな宗教、
哲学の本も読んで努力してきました。その結果として、この生長の家に触れて,“生命の實相”ということを知らさせていただき、
本当に感激しまして、それから、生長の家のために、この現象の自分は死んで、この真理をあらゆる人に知っていただきたいと思って
一所懸命、自分なりに努力している次第であります。
ここで、僕の体験を通して話させていただきます。僕のおじいさんが、小学四年の時に亡くなりまして、その時から僕は家族と別れて、
おばあちゃんと一緒に生活するようになりました。僕はそれがきっかけとなって、宗教というものに目覚めていったわけです。
つづく
362
:
うのはな
:2012/04/11(水) 22:53:21 ID:El6gIMAw
361 つづき
家のおばあちゃんは、毎朝、毎晩、いかなる日も欠かすことなく、仏様に向って
“南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏”と言って唱えられるわけです。それを
私は小学四年生の時、見ていて、おかしいんですね。まあ、宗教というものはへんなものだという
先入観念がその頃からあったものですから、おばあちゃんに訊いたんです。
「おばあちゃんは何が一番欲しいの?いつも毎日、何を欲しがってお祈りしているの?」と聞きましたら、
「信ちゃんよ、何かが欲しいから、こうして毎日お祈りしているんじゃないんだよ。こうして毎日生かされていることが
ありがたいから、ただ、感謝をしているだけなんだよ。何かを求めてお祈りしてはいけないんだよ」と言われました。
僕はその時、心の底から「ああ、宗教って素晴らしいものだなあ!」と思ったんです。
それから僕の宗教の見方が変りまして、学校では宗教戦争だ、やれ宗教というものは....と聞いても、それは宗教を説く人がまちがっていたんだ。
宗教というものはそんな悪いものじゃない、宗教は本当にお一人、お一人が本当に幸せになるためにあるんだと、そういう自覚が強くありましたから、
よりいっそう宗教に目覚めて行ったんです。
つづく
363
:
役行者
:2012/04/11(水) 22:57:43 ID:K0LOZtMM
金木犀様
素晴らしい文章の筆写、ありがとうございます。
>>352
>これはごく簡単な「心の法則」を理解するかしないかの問題だ。
人はいくら善意であっても、智慧が足らず、法則を理解せず、それを逆用してい
ると、その結果大失敗する。だから釈尊も「悟りに到る第一は知ることである」
と教えられたのである。法則を知り、真実を知ることが何よりも肝腎で、失敗を
恐怖したり憎んだりするより、積極的な「成功」を心に描き、「健康」や「幸福」
を強く思うようにしなければならないのである。<
特に、この箇所に共感しました。
>真実を知ることが何よりも肝腎で、失敗を
恐怖したり憎んだりするより、積極的な「成功」を心に描き、「健康」や「幸福」
を強く思うようにしなければならないのである。<
「言葉」は確かにマイナス(暴走)の視点から観ると、人類を、地球を、また
日本を蝕む源かもしれませんが、プラスの方面から観ると、人類を光明化し、進化向上させる原石であると思い
ます。
>>359
矛盾の克服
> 最も重要なことは
> このように心の中に強く描く思いは実現する。それがたとえ願望すること
でもしないことでも、強い思いは実現するのであるから、恐怖心によって心を占
領せず、神の御心にあるところの明るい想念や信念によって占領しなければなら
ない。それが可能となる根柢は、言うまでもなく「神のみ実在する」という純粋
な信仰であり、それについての行である。<
この文章に口を挟む余地はなかったです。
> この事実を見ても、現象界に起る様々な矛盾や撞着を解消するには、
「実相を観る」以外真の解決法はあり得ないと言わざるを得ないのである。これ
をやらず如何に不幸を恐怖しても、それは不幸を回避する手立てにはならず、如
何に戦争を恐怖しても、戦争は消えさるものではない。従ってその反対に多くの
人々の心を光明化し、真実の世界が大調和であり、完全円満であることを確信す
る人々をふやし、愛と感謝と祈りと讃嘆の思いを拡大する「人類光明化運動」を
強力に前進させることが、最重要課題であると確信する次第である。<
言葉がいろいろな悲劇をもたらすのも事実ですが、言葉が歓びを運んでくるの
も事実です。いまの私の生活観で思いを述べれば、苦しみがあり、悲しみがあり、
だからこそ、歓びもヒトシオだと思えるのです。
また、地球規模の大きな見地から眺めると、新しい文明がやってくる足音が聞こえてくるのです。
つまり、現象的にも、歓びの言葉が闇の言葉を凌駕する日が近づいていると確信しております。きっと、輝かしい未来がやってくると信じてます。
感謝合掌
364
:
うのはな
:2012/04/12(木) 00:07:44 ID:El6gIMAw
362 つづき
そして中学二年頃でした。家の中ではお父さんお母さんが毎晩のように、火が飛ぶように
夫婦喧嘩をやっているんですね。もちろん、家族が病弱だし、貧乏で、あらゆる束縛を受けて生活して
いたわけです。そんな中で“自分は今何するべきか”と心に問うたんです。
世界一の金持ちになるか、名誉ある人になるべきか、と考えました時“人間の本当の幸せというのは、
心が、泥沼に咲く蓮みたいに、心が美しく咲ききることが、人生の本当の悦びではなかろうか”と結論したわけですね。
よし、僕はこれから学校に何しに行くか。今、学校はきたないから、掃除しに行く。
家では色んな面で貧乏しているから、お父さんお母さんを本当に幸せにするために、
学校の勉強も大事だけれどーー朝は五時から新聞配達、豆腐売りをやり、学校から帰ると、豆腐売りを続けて、色んなアルバイトを
したんです。そしてお父さん、お母さんに幸せになっていただきたい、そして自分も心の思う通りの自由自在な人間になりたい、そういう
考えで毎日生活していました。
そして本当に生長の家に触れましたのは、高校二年のときでした。ちょうど、アルバイト先が生長の家の誌友会場だったんです。
そこで仕事が終って、真理のお話を聞いたんです。
そしたら、僕は創価学会のお話も、キリスト教会の話も、浄土真宗のお寺のお話も、聞いて来たんです。
しかしすべてよかったけれども最後にみな、他の宗教の悪口を言うんですね。
それだけが僕には不思議で、しっくりしなくてたまらなかった。が、生長の家のお話を聞いたら“あらゆる宗教は兄弟姉妹であり、本当に
お一人、お一人の幸せのためにあるんだ”と、自分の気持ちと一致する教えを説いて下さったんです。
その時“これだ!!”と思って、本当に喜んで、それから毎日欠かさず誌友会を訪ねて勉強したわけです。
そして生長の家に真剣になりましたら、お父さんがお酒を飲みたくなくなるし、そして、お父さんお母さんが仲良く調和して、「お父さんが
観世音菩薩みたいになってしまった」とお母さんが言うし、本当に毎日が幸せで仕方ないようになりました。
しかし学校では、先生が、「北条君よ、お前みたいにアルバイトして親孝行しようという考えはまちがいだよ。お前は今一所懸命勉強することが本当だよ」
といつも注意されていました。しかし僕は生長の家の教えが腹にあったものですから、先生に向って、
「いや違います。先生、今お父さんお母さんがあったればこそ、こうして生きておれるんです。だから僕は、お父さん、お母さんに幸せになってもらうことが、僕の
今の最高の願いです」と言って、一所懸命になって、学校では生徒会の人を全員練成会に連れて行って、仲間が生長の家に沢山なってくれましたし、その時分は、校長先生、
教頭先生、生活指導の先生にも、『生命の實相』を持って行って、勧めました。
つづく
365
:
うのはな
:2012/04/12(木) 00:36:54 ID:El6gIMAw
364 つづき
そうして本当に幸せな毎日を生活して高校を卒業して上京しました。そして横浜で
青年会に入って伝道を一所懸命やっていたんです。そしたら今度、あまりに真理の言葉が解ってきまして、
自分の不完全さがハッキリと解って、自分がつらくてつらくてたまらなくなってきました。
僕は生長の家の信仰に入って、どうしてこんなに苦しまねばならないのかと思って、「よし、僕は来年の九月十八日の
誕生日までに、“神の子”であると言える人間になろう」ときめまして、一年間努力したんです。
そして九月十八日が来て、その夜に“僕は神の子である”と言おうとしたんですけれども、言えないんです。
この一年間、一所懸命に『生命の實相』を読み、神想観をし、愛行していたのに「神の子」と言えない。
言えなかったら死ぬ約束だったものですから仕方がないから、僕は死の決意をしたんです。
そしたらそのとたんに、「お前は死ぬために生れてきたんじゃない!!実相の心を表現するために生れて来たんだ!!」
という言葉が浮かんで来たんです。
その時はもう本当に嬉しくて嬉しくてたまらなかったですね。
「よし、これから僕は愛を行じてゆこう」と決意しまして、今まで以上に熱心にやり始めました。
僕は「般若心経」が好きなものですから、食事の時も、入浴の時も、手洗に入っている時も、常に「般若心経」を唱えて、
「もう一切は無いんだ!!在るのは神の光のみなんだ!!」と唱えていたんです。
そうしましたらある日突然、自分というものがパッと無くなったようになって、宇宙と一つになるというか、ずうっと空間が、
自分の生命の中にあるというか、一切が自分の中にあるように感じて、もうありがたくて、「自分は肉体じゃないんだ。大生命と一つだ!!」と
いうことが解って、見るものあらゆるものが光明燦然と輝いているんです。
これは本当にこの真理を一人でも多くの人に知らせよう。本当にこの真理を知っていただけば、お一人一人が本当に幸せになるんだという自覚が出来ますと
同時に、今までの自分の考え方がまちがっていたことが反省されまして、この世界は、不完全な不自由な束縛に満ちた世界じゃなくて、本当に自分が神の心になった時こそ、
真の自由の世界に生活できるんだと解ったんです。今、自分が不自由に見えるのは、まだ自分の心が神様の自由な心になっていないから、不自由なのであって、これも、神様の
本当の自由を与えて下さるための問題なんだなあということがわかりまして、今は不自由ながらも安心して毎日毎日、ありがたい生活をさせていただいております。
これも皆、谷口雅春先生がお説き下さる、この素晴らしい生長の家のみ教えの賜であり、本当に心の底から感謝を捧げます。
『實相研鑽』第三集 谷口雅春 先生監修
366
:
金木犀
:2012/04/12(木) 06:47:45 ID:y/Po8pPE
役行者様
有難うございます。
新しい時代の足音、本当にその通りですね。
367
:
ハマナス
:2012/04/12(木) 09:41:06 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
無限宝庫の扉を開く鍵 (『新版 生活の智慧365章』P,126)
「真理は生活に応用するとき、力を発揮するのである。応用しない真理は、名儀だけ
自分に書き換えられたが、実際に耕しているのは別の人であるところの「不在地主」
みたいなものである。「不在地主」は、やがて、その所有権を行使する権利すらも
剥奪される時が来るのである。だから、“神の子“たるものは、”神の父“から譲り
受けた資産を無駄に遊ばせないで、今直ぐにその資産なる「無限力」を実践に移す
べきである。
神から譲られた資産の「無限力」と称する宝庫の扉を開く鍵は「信」である。
イエスは「汝ら祈りて求むるとき、既にそれを受けたりと信ぜよ。即ち汝はそれを得ん」
と教えているのはそのためである。また弟子が病人を癒す事に失敗して帰って来たとき、
イエスは、「その病気が重かったのだから止むを得ない」とはいわずに、「汝等、信仰
うすき者よ」と歎(なげ)いているのである。要するに「信」の鍵によって「無限宝庫」
の扉をひらくか開かないかの相違である。」
感謝合掌
368
:
a hope
:2012/04/12(木) 09:43:38 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
強情張るのは自分の損
「君、そんなに強情張るとみんなに、憎まれたり、嫌われたりして損だよ。」
或る深切な友人が、強情っぱりの友人に向かってそう言いますと、
「損だって仕方がない。これが持って生まれた性分なんだから!」
と、強情に突っぱねて、なかなか御自分の癖を直そうとはせぬ人があります。
強情っぱりは損です。かわいそうです。自分自身にも損です。
つまらないとは知っていながら、こんなひとは強情張らずにはいられないのですから、
本当に気の毒なわけです。
私はなぜ強情っぱりが強情を直せないのか、
強情っぱりというものはどんな心の持方から生まれて来るものだか、
しらべてみたいと思います。
「ハハァ、強情っぱりとは、そんなところから出てくる心か、ばからしい。俺はもう強情っぱりなんかやめた!」と、
こうした人がどんどんでて来てくれたらなら、大変に幸いであります。
或る人は素直に「ハイ」という気持になり、或る人はあくまでも強情を突っ張るというからには、
そこにはっきりした理由がなければなりません。
(つづく)
369
:
さくら
:2012/04/12(木) 11:53:50 ID:tPVxKQcE
こんにちは。聖典版デビュー、さくらです。
何度読んでも、魂にひびく、『ヨハネ伝』講義、はしがき、より。
『ヨハネ伝講義』 谷口雅春
はしがき
『ヨハネ伝』はキリストの福音書のうちで最も霊感的な著書である。
だから真にキリスト教を理解し、キリスト・イエスの霊的人格に触れるためには、
『ヨハネ伝』を数十回、数百回読んでキリストの生命に直接触れなければならない。
教会キリスト教についてはむしろ門外漢である私が『ヨハネ伝』を講義するのは僭越のそ
しりを免れないかも知れぬが、既成の教会に属する人たちは、伝統的な解釈や教権にしばられていて、陳き無力な解釈になじんで、却って真にキリストの生命に触れ得ない憾みが
あるのである。レッテルやポスターは「キリスト教会」と称しながら中身は全然、反キリ
スト教を説いている教会すらあるのである。
私が敢て、キリスト福音書の中で最も霊感的解釈を必要とする『ヨハネ伝』の講義の速記
を爰に発表しようとするのは、読者諸賢に真にキリストの生命に触れて新生して頂き度いからである。
「では、汝はキリストの生命に触れたのであるか」と問う人があるならば、
私は躊躇なく「私はキリストの生命に触れ、キリストの魂を理解し得たと信ずる」と答えるであろう。
イエスは、「誠にまことに汝らに告ぐ、我を信ずるものは我がなす業をなさん、
かつ之よりも、大いなる業をなすべし」と『ヨハネ伝』第十四章に断言していられるのに、
何故、現在の概くのキリスト教会では、イエスが行ったほどの奇蹟を実演することができないのであろうか。
イエスの此の言葉をキリスト教会の人たちは、ただ空言として信じないのだろうか。
イエスの言葉を空言として彼らが信じないのならば、何故「キリスト教会」と称う
門票を掲げるのであろうか。またキリストを信じるならば、「我が信ずる者は我がなす業
をなさん、かつ之より大いなる業をなずべし」と云うキリスト自身の証言を何故生活に実
演することができないのであろうか。それは、「キリストを信ずる」と称しながらも、キ
リストの教えを歪めて信じているからにほかならないのではないだろうか。真にキリスト
の教えを歪めないで信ずるならばキリスト以上の奇蹟を実演し得なければならない。
わたしは、どんな既成のキリスト教会にも属しないが、わたしは独自の霊感によって聖
書に接し、キリストの生命に触れたのである。そして、誰よりも深くキリストを信ずる者
である。それゆえに、私たちのグループは、キリスト自身が証言したとおり「キリストが
なせし如き奇蹟を為し、かつ之より大いなる業を為し」つつあるのである。私はイエスと
共に、「わが言うことを信ぜよ。我が父におり、父は我に居給うなり。もし信ぜずば我が
業によりて信ぜよ」と言うことができるのである。
この講座は私たちの道場が東京赤坂にあった頃、生長の家の講師として地方に派遣され
る人たちに、『ヨハネ伝』を講義したときの速記を基本として。それを読みやすいように
文章に書き直して者である。生長の家の講師たちが、いろいろの奇蹟的み業を為すことが
できるのは、この講義によってキリストの生命に触れることになり、「我が信ずる者は我
がなす業をなさん」というイエスの言葉を実演しつつあるからだと言い得るのである。真
の「キリスト教会」とは名称や看板に「キリスト教会」と書かれていることでなく、キリ
ストの福音を間違いなく伝える教会のことでなければならない。私は、あらゆるキリスト
教会に属する人たちが、信者も宣教師をも、ひっくるめて、この『ヨハネ伝』講義により、
本当にキリストの生命に触れることができ、キリストよりも大いなる業をなすことができ
ることになり、まことの「キリスト教会」としてその人類救済の使命を完うせられんこと
を希望するものである。
私は、本書を校正しながら、磔けに釘けられて後復活したキリストが、ペテロと食事を
共にしたのち、「汝この者どもに勝りて我を愛するか」と三度繰り返して訪ねられる処に
至って滂沱として涙せずにはいられなかった。「わが汝を愛する事はなんじ知り給う」と
ペテロが答えると、イエスは「わが羊をやしなえ。・・・・われに従え」と仰せられてい
るのである。名称がキリスト教徒であるばかりでなく真にイエスの魂に触れ、イエスに従
う者のみが真にクリスチャンであるのである。
昭和三十五年八月二十五日
著者識す
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