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【資料】神秘主義の系譜【探索】

33名無しさん:2013/07/20(土) 05:18:33
大本教
おおもときょう

京都府綾部に本部を置く神道系の宗教。教祖出口なおは1836年(天保7)丹波国(京都府)の大工の長女として生まれ,のち出口家の養女となって,大工の夫を婿に迎えた。夫の放蕩で家財いっさいを失い,ついにはぼろ買いをするほどの生活苦を体験した。1890年三女が発狂し,その際金光(こんこう)教の布教師の祈裳によって正気にもどるというご利益があらわれたのを機に金光教に深く帰依するようになる。さらに長女が発狂してまもない92年1月5日,なおは突然神がかりし,〈三千世界一度に開く梅の花,艮(うしとら)の金神の世になりたぞよ〉と口走り,世の中の立直しを叫んだ。なおは病気治しを中心に宗教活動をすすめ,そのなかで,大本教の教義の原典ともいうべき〈筆先〉の執筆にあたった。94年,なおは金光教の布教師となり,いわば金光教の軒を借りて布教活動をつづけたが,のちに決別して,大本教を独立させた。98年,なおは稲荷講社で霊学や神がかりの行法を学んだ上田喜三郎(のちの王仁三郎(おにさぶろう))とめぐり会った。王仁三郎は翌年には稲荷講社所属の金明霊学会をつくり,非公認の大本教を権力や社会の弾圧から合法的に救うことになった。そのうえ神の言葉を理論化する能力をもつ王仁三郎はなおの信頼を得,1900年にはなおの後継者五女すみと結婚。これ以後大本教は出口王仁三郎によって教義の体系化,組織化が進められ,聖師とよばれた彼の指導力が発揮されることになる。王仁三郎は戦争によってさらに富を増大していく資本家・地主といった人々に激しい憤りを燃やし,日本人の大多数を占める庶民を不幸に追いやる戦争を強く否定しつづけた。
 金明霊学会はやがて大日本修斎会へと発展し,16年には皇道大本と教団名を改称しつつ,多くの信者を獲得した。18年教祖出口なおは世を去ったが,五女すみが2代教主となり,王仁三郎が教団の指導者となって教団の運営がすすめられた。翌年に京都府亀岡の亀岡城址を入手し,布教の拠点である本部とした。さらに大阪の新聞社を買収して,マスコミを使って大本教の宣伝,布教を展開した。だが21年,大本教は政治権力からの弾圧をうけた(第1次弾圧)。それによって多数の幹部が不敬罪,新聞紙法違反等で起訴され,なおの墓は天皇の陵に類し不敬であるとの理由から破壊された。35年大本教は再び政治権力からの弾圧を体験した。このときも多数の幹部が検挙され,大本教の綾部と亀岡にある本部施設のほとんどがダイナマイトで爆破された(第2次弾圧)。権力による2度にわたる苛烈な弾圧をうけながらも,大本教は反権力思想をかかげ,戦争反対を叫びつづけた。第2次大戦後の46年,大本教は王仁三郎を苑主とし愛善苑として出発し,その後も一貫して戦争反対を叫び,平和運動を展開しつづけた。現在は大本と称している。              小栗 純子

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