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【資料】神秘主義の系譜【探索】
14
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 04:16:49
阿弥陀
あみだ
極楽浄土にいて衆生を救済するとされる仏。弥陀とも略称される。《無量寿経》によれば,過去世に法蔵比丘が世自在王如来のもとで四十八の誓願をたて,長期間の修行を果たし,現在では阿弥陀仏となり,極楽浄土の主となって,その浄土へ往生を願う衆生を摂取するという。四十八の誓願のうち第十八願は阿弥陀仏を念ずれば極楽往生できるというもので,後世の中国,日本では称名念仏の根拠とされた。この仏はサンスクリット文献では Amit´bha(無量光),Amit´yus(無量寿)として現れるが,阿弥陀はおそらくこの前半部 amita(無限)の方言であろう(他にも説がある)。阿弥陀仏は大乗仏教の仏としてクシャーナ時代の初期(1〜2世紀)に登場したらしいが,その起源に関してイラン思想の影響がいわれている。1977年7月にインドのマトゥラー博物館が入手した,足だけを残す仏の台座に,この像が阿弥陀 Amit´bha であることを示す文字があった。台座が奉献された時代はフビシュカ Huvioka 王の28年(2世紀後半)と記されている。《無量寿経》が中国で翻訳されたのは252年であるが,それより前に安世高や支婁梼讖(しるかせん)(いずれも2世紀)が同系の経を翻訳したという伝承がある。クシャーナ時代には北西インドにクシャーナの王たちが信奉するゾロアスター教系の信仰が広まったとみられ,クシャーナの貨幣には太陽神ミイロが表現され,また神や王の姿には光線や索がそえられており,〈無量の光〉を属性とする仏の信仰を生みだす背景は十分にあった。またオリエント(イランを含む)のメシア思想も無視しえない。阿弥陀仏は衆生を救済する仏として,従来の自力仏教の伝統のなかに他力仏教という新しい要素をもたらした。自力仏教においては阿弥陀仏は観想の対象としての意味をもち,修行者の成仏の意志を励ますものとなった。密教では絶対者の顕現の一つとしてそのパンテオンに組みいれられた。三身 trik´ya 説では報身とされる。観音,勢至を脇侍とする。 定方 里
[日本における阿弥陀信仰] 阿弥陀信仰は中央アジアを経て,中国に伝わった。中国でこの信仰が高まるのは4世紀後半から5世紀以後である。日本へは7世紀のはじめに伝わった。人びとをひきつけたのは《無量寿経》《観無量寿経》《阿弥陀経》であり,これらは阿弥陀仏とその浄土を語り,阿弥陀仏の救済が衆生の極楽浄土への往生で実現されることをのべている。奈良時代以前の阿弥陀信仰は弥勒信仰と混在した形であり,追善的性格が濃厚であった。奈良時代の後期に浄土変相図がつくられ,阿弥陀仏と浄土への観想に関心が寄せられたが,往生を願う中心に死者だけでなく,自己を据えるようになってきた。阿弥陀仏とともに,その西方の浄土が日本人の心にしみついたのは平安時代からである。
阿弥陀信仰の本格的展開のきっかけをなしたのは比叡山の不断念仏であり,源信の《往生要集》であった。阿弥陀信仰が成熟したのは平安時代中・末期である。阿弥陀堂,迎接堂が建てられ,聖衆来迎図が描かれ,迎講,往生講,阿弥陀講などが営まれた。信仰者は当初僧侶・貴族層であったが,官人,武士,農民,沙弥など各層に及び,奴婢,環児など卑賤のものも阿弥陀信仰を精神的支柱としていた。〈往生伝〉はこれら信仰者の往生の証の書であるが,10世紀末から約2世紀の間に,慶滋保胤の《日本往生極楽記》以下7種類も著された。鎌倉時代になると,阿弥陀信仰は質的に飛躍した。本願,往生,名号などに関する教学が深まり,いわば念仏宗ともいうべき新宗派,すなわち法然の浄土宗,親鸞の浄土真宗,一遍の時宗が成立した。日本での阿弥陀信仰の特色は,阿弥陀仏の〈来迎引接〉と,行者の〈極楽往生〉に特別の関心が寄せられていたこと,阿弥陀仏の〈本願〉への絶対的な帰信がみられたこと,念仏が自身の〈滅罪〉と死者への〈追善〉に最適と考えられたことである。阿弥陀仏への帰依を本旨とした宗派(浄土宗,西山系の浄土宗,浄土真宗,融通念仏宗など)の信者は,今日,全仏教徒の約5分の2を占め,阿弥陀仏を本尊とする寺院は全寺院の半数近くに達している。 伊藤 唯真
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