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【資料】神秘主義の系譜【探索】
55
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 21:59:40
マニ教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99
東方宣教とその影響[編集]
マニ教は西アジアからユーラシア大陸の東西に拡大し、トルコ族の国ウイグルでも多くの信者を獲得した。
唐においては694年に伝来して「摩尼教」ないし「末尼教」と音写され、また教義からは「明教」「二宗教」との訳語もあった。「白衣白冠の徒」といわれた東方のマニ教(明教)は、景教(ネストリウス派キリスト教)・?教(ゾロアスター教)とともに、三夷教ないし三夷寺と呼ばれて西方起源の諸宗教のなかで代表的なもののひとつと見なされた[16]。則天武后は官寺として首都長安に大雲寺を建立した[7][16]。これには、ウイグルとの関係を良好に保つ意図があったともいわれている[7]。768年、大雲光明寺が建てられ、こののち8世紀後葉から9世紀初頭にかけて長江流域の大都市や洛陽、太原などの都邑にもマニ教寺院が建てられた[16]。
しかし、「会昌の廃仏」に先だつ843年に唐の武宗によって禁教されるに至った[16]。「会昌の廃仏」は845年に始まり、仏教のみならず三夷教の宗教も禁止され、多くの聖職者・宣教者は還俗させられたが、そうしたなかにあってマニ教僧は多くの殉教者を出したことが、当時、唐にあった日本の円仁の『入唐求法巡礼行記』に記されている[16]。
ウイグルにおいては、8世紀後半の3代牟羽可汗の統治時代にマニ教が国教とされるほどの隆盛と国家的保護を得た。やがて反マニ教勢力の巻き返しによって、弾圧を受けたが、8世紀末から9世紀初頭にかけての7代懐信可汗によって再び国教化された。イラン・アフガニスタンのイスラーム化ののち、ウイグルでもイスラームへの改宗が進み、14世紀後半のティムールによるティムール朝建国以降は中央アジアのイスラーム化はさらに進行していった。
三武一宗の法難(会昌の廃仏)の弾圧ののち、中国本土では、マニ教は五代十国時代から宋において仏教や道教の一派として流布し続けた。歴史小説『水滸伝』の舞台となった北宋の「方臘の乱」の首謀者方臘はマニ教徒であったともいわれている[注釈 9]。マニ教は、弾圧のなかで呪術的要素を強めていったために、取り締まりに手を焼く権力者からは「魔教」とまで称された。官憲によるマニ教取り締まりはしばしば江南地方や四川でなされており、そのなかでマニ教信者は「喫菜事魔の輩」(「菜食で魔に仕える輩」の意)とも呼ばれている。
宗教に寛容な元朝においては、明教すなわちマニ教が復興し、福建省の泉州と浙江省の温州を中心に信者を広げていった。明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、その指導者の一人であった朱元璋の建てた明の国号は「明教」に由来したものだといわれている。しかし明王朝による中国支配が安定期に入ると、マニ教は危険視されて厳しく弾圧された。15世紀においてすでに教勢の衰退著しく、ほとんど消滅したとされてきたが、秘密結社を通じて19世紀末まで受け継がれた。1900年の北清事変(義和団の乱)の契機となった排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社のひとつといわれる。
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