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【資料】神秘主義の系譜【探索】
22
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 04:38:35
クシャーナ朝
クシャーナちょう Kuo´la
インド,中央アジアの古代王朝。1世紀半ば〜3世紀前半。クシャン Kushan 朝とも呼ばれ,中国の史書では貴霜(きそう)と記される。前2世紀後半,東方から移動しバクトリア地方を征服し大月氏は,領内に5翕侯(きゆうこう)(諸侯)を置いた。5翕侯については,彼らを土着の民族とみる説と,大月氏の一族とみる説とがある。1世紀半ばごろ,5翕侯の一つを出していたクシャーナ族が,クジューラ・カドフィセース(カドフィセース1世)のもとに強大となった。彼は他の4翕侯を倒して自ら王と称し,南方のガンダーラ地方にまで征服軍を進めた。その子ビマ・カドフィセース(カドフィセース2世)は,領土をさらに北インド中部にまで広げている。両カドフィセースのあと,王家の交替があったらしい。新王家より出たカニシカ(カニシュカ)は,都をガンダーラ地方のプルシャプラ(現,ペシャーワル)に置き,中央アジアから中部インドに至る大帝国を統治した。彼はアショーカ王と並ぶ仏教の大保護者としても知られる。貨幣銘や碑文から,カニシカのあと,バーシシュカ,フビシュカ,バースデーバ V´sudeva など4〜5人の王が出たことが知られる。西暦230年に魏に使者を送った大月氏王の波調は,クシャーナ朝末期のバースデーバとみられている。このころから王朝は,イランに興ったササン朝の軍の攻撃を受けて領土の西半を失い,地方政権にその東半を奪われて急速に衰退し,3世紀半ばごろ滅びた。ただしクシャーナ族はその後も地方勢力として残存し,5世紀には一時的にバクトリアからガンダーラに至る地に国家を建設している(キダーラ Kid´ra 朝)。
クシャーナ朝の領土には,インド系,イラン系,ギリシア系,中央アジア系の諸民族が住み,民族と文化の融合がみられた。例えば,貨幣の銘文にはギリシア語,イラン語,インド語と,ギリシア文字,カローシュティー文字が使われ,貨幣の裏面に打ち出された神像には,イラン,メソポタミア,ギリシア,ローマの神々とヒンドゥー教の神々,仏像などが混在している。また王たちはイラン,中央アジア,ギリシア,ローマ,インドなどの諸国の王の称号を併せ用いている。
クシャーナ朝時代の西北インドは,仏教の歴史の上でも重要である。当時この地方では,伝統的な小乗仏教の諸部派(とくに説一切有部)が隆盛であったが,新たに興った大乗仏教も,この地の諸民族に受け入れられ栄えた。大乗仏典の多くもこの地で編まれている。またギリシア・ローマの造形思想と技術が流入したこの地で,1世紀末ごろ初めて仏像が刻まれ,ガンダーラ美術が起こった。一方,ほぼ同じころ,帝国南東部の都市マトゥラーでも,独自のインド的様式をもつ仏像彫刻が作られている。
クシャーナ帝国は,中国,インド,イラン,ローマといった大文明圏を結ぶ交通路の中央に位置し,経済的に繁栄した。帝政期ローマの文献は,当時ローマからインドに大量の金が流出したことを伝えているが,ちょうどこの時期にクシャーナ朝によって大量の金貨が発行されている。このクシャーナ金貨の重量基準はローマ貨幣の基準に従っており,またその金貨は,ローマのデナリウス貨に由来するディーナーラ d ̄n´ra の名で呼ばれた。
山崎 元一
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