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【資料】神秘主義の系譜【探索】

61名無しさん:2013/07/20(土) 22:18:33
>>60

18代皇帝????


http://www002.upp.so-net.ne.jp/ayuta/hito/hitolog/buso.htm

唐第15代皇帝武宗。至道昭粛孝皇帝。諱は炎。12代皇帝穆宗の第5子である。
 穆宗の子供は長男、次男が続けて帝位に就いた(敬宗、文宗)。文宗の皇太子には、敬宗の子、陳王成美が定められていたが(これにもいろいろ問題があったのだが)、皇太弟炎は宦官の魚弘志、仇子良らに担がれて、文宗の死後、皇太子を出し抜いて即位した。陳王はその後殺害されている。
 皇帝になった炎は、文宗時代に左遷されていた李徳裕を都に召還し、宰相とした。牛僧儒一派と李徳裕一派の争いは、「牛李の党争」といって穆宗治世下から続いていたが、武宗在位中は殆ど李一派の天下、ということになった。

(中略)

 武宗の廃仏はその年号をとって、「会昌の廃仏(法難)」とも称される。中国史上の大規模な廃仏としては、3回目に当たる。
 唐代の仏教史を逐一説明すると煩雑になるのでここでは省略するが(詳しく知りたい方は『唐代仏教史の研究』法蔵館 等をどうぞ)、北周武帝の弾圧後、南北朝から隋〜唐建国へかけての混乱期を過ぎ、太宗の時代にインドから新しい経典がもたらされ、仏教は新たな時代を迎えていた。高宗、武則天の時代に仏教は保護され隆盛し、日本からも多くの留学僧が訪れたのがこの時期である。
 しかし、玄宗末期の争乱を経て、唐が「中華帝国」としての再編、巻き返しを計ろうとする段階において、外来の宗教は些か煙たい存在となったようだ。李炎は、そんな時期に皇帝になった。
 「会昌の廃仏」と、仏教弾圧ばかりが前面に出るが、この時期弾圧されたのは仏教ばかりではない。景教(ネストリウス派キリスト教)、【示夭】教(ゾロアスター教)、マニ教といった、外来宗教は全て対象になった。ただ、仏教が一番勢力が大きく、結果弾圧の規模も大きかったので、目立っただけである。
 その頃の仏教勢力はかなりのもので、出家をすれば課税対象から逃れられるのもあって、勝手に出家したことにしているいわばもぐりの僧侶(私度僧)も多く、仏教界全体は腐敗の度合いを強めていた。
 会昌の廃仏はそうした私度僧を中心に、僧尼を還俗させたり、寺院の田畑(これも非課税)を没収したり、と、腐敗した仏教界の粛正、不正行為の厳重取り締まり的な要素もあった。
 武宗の道教趣味に乗じて、皇帝が反対しないのをいいことに、官僚達が手っ取り早く財政の建て直しを計ろうとして非課税対象を削ろうとした。
 思想の弾圧というより、財政という実利的な面での締め付け。
 そんな側面が、この廃仏にはあっただろう。
 仏教自身にも、弾圧される「身に覚え」があった、と、この廃仏は言われるが、厳しい徴税に耐えられず、非課税の身分に逃れようとあがき、仏寺にすがる民衆を多く輩出した。そこまでの道筋を作った唐王朝の失策も、非難されてよいと思う。

 この廃仏は、税金逃れの俄仏教徒だけでなく、真面目な信徒も弾圧した。そのことは、丁度先進の仏法を学ぼうと渡唐していた日本の僧侶、円仁までもが弾圧の対象となり、国外退去をやむなくされ、彼自身無念の思いを記したことから知られている。
 付け焼き刃的な仏教弾圧、課税対象の確保は、唐の財政破綻を回復出来うるべくもなく、大唐帝国全土を巻き込んだ廃仏運動も空しく、唐は滅亡への道を転がり落ちていく。
 武宗・李炎はただひたすら道術に耽溺し、不老不死を求め、怪しげな仙丹を服用して薬物中毒に陥り、人事不肖のまま没した。
 享年33歳。
 彼の在位中、ウィグル討伐に成功した、というのが唯一と言ってよい華々しい事績だが、これも当のウィグル族にとっては迷惑以外の何ものでもない。
 もっとも本人は、誰かに迷惑をかけたとか、自分の在位中にいろいろあった、など、考えもしなかったであろう。
 第5子で、来ることを予想しなかった帝位が本人、たいして画策もせずに転がり込み、自身なんら政策も持たず皇帝の座にあり、大して深く考えないうちに短い治世、短い一生を終えた。
 はた迷惑ではあったが、どこか物寂しい気もする、帝国晩期の皇帝様である。


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