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【資料】神秘主義の系譜【探索】
16
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 04:22:09
>>15
[作例] 西北インドのガンダーラ地方において仏教の造像活動が活発になる1〜2世紀ころ,北西インドでは大乗仏教がかなり広まり,阿弥陀信仰が行われていても不思議でない状況であったとされているが,その時代に造られた阿弥陀像と断定できる完全な作例はまだ報告されていない。西域ではトゥルファン地方に大乗仏教が伝えられたが,西域の特色を示す阿弥陀像は発見されていない。注目すべきはトゥルファン東部のトユク(吐峪溝)から発見された中国唐代の大歴6年(771)の銘をもつ阿弥陀浄土図断片(絹絵)である。8世紀のトゥルファン地方では,仏教東漸の方向とは逆に唐代美術の影響が西方に及んだことをこの断片は示している。中国においてもこの頃から阿弥陀如来を表現することが盛んになった。竜門石窟では6世紀に阿弥陀像が造られているが,著名な作例としてはアメリカのボストン美術館蔵の隋の開皇13年(593)銘を持つ《青銅阿弥陀如来像》がある。また,敦煌石窟では初唐時代から阿弥陀浄土図や観経変相図が数多く描かれた。彫像は左右に観世音菩醍,勢至菩醍を脇侍にした三尊形式の像で,与願・施無畏印が多い。朝鮮においても6世紀には阿弥陀如来像が造られたと考えられている。辛卯銘《金銅三尊仏》は517年,癸酉銘《全氏阿弥陀仏三尊石像》(ソウル,国立中央博物館)は673年の造像と推定され,ともに右手は施無畏印である。左手は,前者が与願印に似るが無名指,小指を曲げ,後者は掌を上にして胸前に添える。また,7世紀末ころの作と推定されている慶尚北道の軍威三尊石窟本尊も脇侍の表現によって阿弥陀如来と考えられる。
日本には7世紀中ごろに阿弥陀如来像が登場した。現存する作例は7世紀末ころのものばかりだが,東京国立博物館蔵法隆寺献納宝物中の小金銅仏のうち〈山田殿像〉と言われる金銅阿弥陀三尊像や法隆寺蔵《橘夫人厨子》の本尊は与願・施無畏印で,同寺金堂壁画(6号壁)の《阿弥陀浄土図》や同寺蔵の厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像の中の阿弥陀像は転法輪印の像であり,その当時の中国と朝鮮における阿弥陀像と同形式の古様を伝えている。さらに奈良の当麻(たいま)寺には観経変相図があり《当麻曼荼羅》と呼ばれている。平安時代前期に入ると阿弥陀は,密教の両界曼荼羅図の中に定印の座像として表現されることはあるが,単独で造像されることはなかった。平安中・後期に浄土教が盛んになって各地に阿弥陀堂が建立されると,その本尊に定印の阿弥陀如来座像が造られた。定印の阿弥陀像には常行三昧など観法修行の本尊としての性格が認められることが指摘されている。浄土教信仰は,やがて阿弥陀如来が往生者を極楽から迎えに来る姿,すなわち来迎印の阿弥陀像を表現する。《阿弥陀聖衆来迎図》がその代表例で,さまざまな形式に表現された。特殊な例としては,説法印の阿弥陀如来が山の背後から巨大な上半身を現す《山越阿弥陀図》,後方を振り返る姿の《見返り阿弥陀像》(京都禅林寺)などが造られた。鎌倉時代以降は,当麻寺の《当麻曼荼羅》や長野善光寺の本尊阿弥陀三尊像(秘仏)が盛んに模作された。後者は〈善光寺式阿弥陀三尊〉と呼ばれている。なお,九品阿弥陀の印相について,上品・中品・下品の各上生の印を定印とし,同じく中生印を説法印に,下生印を来迎印に当てて九種の印を組み合わせたものが,《仏像図彙》(江戸時代)などに見られ,現在も一般の概説書等に取り上げられているが,これらを説く儀軌はなく,しかも近世以前にはそれに基づいて造像されたものは存在しないことから,この九品印は近世に考案されたものと推定され,阿弥陀の印相としては説明すべきではないとの提言がなされている。 関口 正之
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