したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

【資料】神秘主義の系譜【探索】

20名無しさん:2013/07/20(土) 04:29:16
慧遠 334‐416
えおん

中国,東晋の僧。雁門楼煩(山西省寧武)の人。俗姓は賈(か)氏。中国浄土教の祖師といわれ,念仏の結社〈白蓮社〉の開祖とされる。廬山に住したので〈廬山の慧遠〉といい,隋代の地論宗の浄影寺の慧遠と区別している。13歳のときに郷里を離れて,許昌,洛陽に遊学し,儒教の六経を修め,ことに老荘の学をよくした。354年(永和10),21歳のとき,胡族支配下の混乱のつづく華北から,江南に行き隠士范宣を訪ねようとしたが果たせず,帰って弟の慧持とともに,太行恒山の寺で大いに弘法に努めていた釈道安のもとに参じて弟子となり,仏門に入ることになった。かくて釈道安に従って各地を転々として,365年(興寧3)に襄陽に移った。しかし襄陽が379年(太元4)に前秦の軍隊に襲われ,釈道安らが長安に拉致(らち)されたため,慧遠は乱を避け弟子数十人を引きつれて草州上明寺にいたり,さらに羅浮山に赴こうとする途中,廬山の景勝の地で先輩の慧永にとどめられ,江州刺史の桓伊の寄進で東林寺を建て,そこに住した。
 それ以後,416年に83歳で没するまでの30年ばかり,〈影,山を出でず,迹,俗に入らず〉の生活をつづけたが,その宗教的感化は江南全域におよび,多くの僧侶のみならず,劉遺民,宗炳(そうへい),雷次宗といった知識人が雲集することになった。インド僧のサンガデーバ(僧伽提婆)が廬山に来るや《阿毘曇心論》《三法度論》の重訳を請うて,彼自身は序文を書き,曇摩流支には《十誦律》の漢訳を依頼し,仏陀跋陀羅が長安から廬山に入るや,《修行方便禅経》などの訳出を要請した。またクマーラジーバ(鳩摩羅什)が長安に迎えられると,書簡を送ってよしみを通じ,たびたび弟子を遣わして教義をただした。この成果が《大乗大義章》である。廬山といえば〈白蓮社の念仏〉,慧遠といえば蓮宗(浄土宗)の祖師といわれるほどに,後世への影響の大きなものは,123人の同志と般若台,阿弥陀像の前において念仏実践を誓約した事跡である。その立誓文は慧遠に代わって劉遺民が書いた。その誓いは,無常観と三世因果応報の教義の上に立てられている。この念仏三昧実践の主要な依拠となった仏典は《般舟三昧経》であって,釈道安の熱心な般若学を継承した慧遠は,称名念仏を説いたのではなく,見仏三昧の念仏をすすめたのである。
 慧遠を中心とする廬山教団が隆盛となるにつれ,当時の国家権力との摩擦は避けられなかった。東晋の実力者桓玄が,仏教教団の王権への従属を要求するにいたるや,慧遠は《沙門不敬王者論》を著して反対し,さすがの桓玄も強行を差し控えねばならなかった。しかし,当時の教団が肥大化に伴い俗化してきたことも認めざるをえなかったので,教団の自粛を求めて,教団生活の清規とも称すべき〈法社節度序〉などをつくった。これが後世〈遠規〉とよばれたものである。慧遠から始まる浄土教を〈慧遠流〉とよび,慈愍(じみん)三蔵の流れ,道綽(どうしやく)・善導の流れとともに,中国における浄土教の三流の一つとされている。                    礪波 護

(C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板