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おしゃべりルーム

1Sekko:2006/03/26(日) 01:15:42
ヴィルパン
フランス語のコーナーみたいになりますが、フランスの呼称って、住んでいたらもちろん分かってきますが、アングロサクソンとは全然違います。イギリスの映画とか観てたら、学校で生徒を姓で呼んでるみたいですが、フランスではほぼ名のほうです。スターはアメリカでは名で呼ぶことが多いようですが、こちらでは少しでも公共の人はドヌーヴとかドロンとか姓で呼ぶことが多いです。だからこそ今のアイドルは、アメリカ風にファーストネームを呼ぶ傾向があります。後、インタヴューなどで、姓名をフルネームで呼べば、ムッシューという敬称は必要ないのです。たとえば、「メルシー、ドミニック・ド・ヴィルパン」と言えます。「ムッシュー・ル・プルミエ・ミニストル」とも言います。雑誌や新聞では敬称抜きのヴィルパンあるいはフル・ネームです。一番多いのは「ヴィルパン」だけ。ドはつけても間違いじゃないですが、有名になればなるほど消えます。ヴィルパンも外務大臣の頃はド・ヴィルパンと書かれていたことがありました。ムッシューの後ではどちらかと言えばド・ヴィルパンかな。ではどうしてド・ゴールはド・ゴールかといいますと、ドがなくなるには、1「有名」、2「ドに続く名がある程度長い」、3「ドに続く名が知られた地名でないか地名以外のルーツを持つ」の条件があり、ド・ゴールは1しか満たしていないからです。日本でも、たとえばシモーヌ・ド・ボーヴォワールとか有名でしたが、ド・ボーヴォワールと呼ばれずに、フランス風にボーヴォワールでしたね。でもフルネームならドが復活します。画家のアンリ・ド・ツールーズ=ロートレックとなると、ツールーズは有名な土地ですが、フルネームでないと誰もド・ツールーズ=ロートレックと言ってくれません。日本同様、ロートレックで通用します。ただし、彼は厳密に言うと、ツールーズ伯爵家とロートレック伯爵家の姻戚で生れた分家で彼の代で途絶えました。本家筋のロートレック伯爵家はまだ存在しますが、姓からドをとっちゃってます。ええと、上に挙げた条件というのは、私の見た経験則であり、別にどこかで成文化されてるわけではないです。おもしろいですね。
 共同体の話ですが、たとえばどこかの優勢な共同体に属しているから安泰というわけでなく、その中で老いたり病んだり落ちこぼれたりしたときに誰が救ってくれるかと言うことですね。アリストテレスは「愛があれば正義はもう必要ない」なんて言っていました。確かに、みなが自然に弱い人をかばってくれるなら、主義も法律もいらないかもしれません。今のユニヴァーサリズムは、起源的にはユマニスムということです。こういうと必ず、「西洋の人間中心主義が地球の環境を壊したから八百万神の多神教の方が地球に優しくベターだ」とか言う人が出てくるんですが、よく見てください。ユニヴァーサーリズムのヒューマニズムの名において、国籍や文化がどうこうを超えて、何の関係もないのに、ソマリアに水を運ぶ人とか、ルワンダに援助に行く人とか世界中の天災現場に駆けつけるグループが存在し、キューバの捕虜収容所で虐待されている人が世界に向けて連帯を求めたりしているんですよ。ユニヴァーサリズムが西洋キリスト教起源であろうとなかろうと、全体主義の国に生れたり貧困国に生れたりするのは、偶然の采配に過ぎず、失業、事故、老いや死など、誰にとっても明日はわが身、強い時に弱い者を思いやり、弱くなったら共同体の枠を超えて助けてもらえるという理想はすごく大事にしたいと私は思います。愛があればすべて解決するかもしれませんが、愛することはアリストテレスの時代からいかにも難しく、永遠の挑戦なのですよね。それと、人間の置かれる状況は一筋縄でいかず、正義のために愛を犠牲にしたり、愛のために正義を犠牲にしたりという局面を繰り返して、相対主義のニヒリズムや絶対主義の誘惑と戦いながら少しずつ連帯していくという希望を捨てたくないです。

2:2006/03/27(月) 09:30:08
拍手
仏文学者、杉本秀太郎氏の「半日半夜」講談社文芸文庫 に音楽会の話がかいてありました。その中で、拍手について、かかれているところ。

3:2006/03/27(月) 09:49:04
拍手
急にきえたので、つずけます。「音楽会には、じつに厄介な音楽の天敵がかならずあらわれる。つい今し方までの音楽をたちまちにして、食いつぶす天敵とは、拍手である。。何故拍手をしなくてはいけないのだろう。ドビュツシは拍手の習慣をいまいましくおもつて板。「最大の熱狂を表明するのに、戦争の雄たけびを発しつつ、両手をパンパンとうちあわせるというのは、あの石器時代以來の本能的な欲求のしからしめるところなのだが、かんがえてみると、まつたく奇妙なものだ。(ドビユツシー「音楽のために」15p)ラモーも拍手はきらいだつたようですね。「拍手の音はあなたのオペラ音楽以上に快くお耳にひびくのでしょうか」というドビュツシーの質問に「私は自分の音楽の方をまだあいしております。」とこたえたとか。宮廷人の評判を気にしながらの答えであつたとか。音楽家にとつて、拍手のもツ、意味とか、感じとか、おしえていただけるとうれしいです。政治論議のなか、お邪魔しました。

4:2006/03/27(月) 09:51:40
間違い多くて、ごめんなさい。
サイトへの投稿はどうもうまくゆかず、アツというまにはいつてしまい、間違いだらけ。すみません。

5hiromin:2006/03/27(月) 12:29:56
ギリシャ
竹下様、

私事ですが、今度GWにギリシャへ行きます。ギリシャでは、学生時代に演劇部で『オイディプス王』をやって以来憧れのデルフォイに行こうと思っているのですが、竹下さんはデルフォイに行かれたことはありますか?もし行かれたことがあるなら、どんなところか教えてください。また、こんなところがよかったよ、というところがあれば教えてください。それと、エーゲ海クルーズをされたということでしたが、船酔いはなかったですか?サントリーニ島に行こうと思ってるのですが、私は船に弱く(ダイバーなのに!いつも酔い止めのお世話になってます)ひどく揺れたりしないかと心配でちょっとブルーになってきてるんです。。。
なんだか、みなさん、次元の高いお話をされてるのに変な質問でスミマセン。

6Sekko:2006/03/27(月) 21:08:55
拍手とギリシャと船酔い
なんていうか、音楽会で「音楽鑑賞」をしている人には拍手が天敵というのは分かります。自分のうちのリスニングルームで一人静かに音楽を聴いたあとで、雷鳴に驚かされると興ざめなように。でも、生の演奏会に行くのは、社会的な行為で、生の演奏家からメッセージを受けているわけですから、演奏の後にこちらの気持ちを拍手で伝えたいというのも自然で、たいていの聴衆は後から個人的に感動を伝えたりできないのですから、拍手に目くじら立てることはできないと思います。私は、拍手したい気分の時はします。あるいは知り合いが演奏したときは必ずします。それから知り合いが私のそばにいる時も。私が拍手をしないことに気づいて興をそがれる気になる人がいるときは特に。
 弾く立場になって言いますと、これは、拍手の中身が微妙に分かります。演奏してるときは集中力とか研ぎ澄まされていますから、心から喜んでもらえたとか、感動してもらえたとか、感謝してもらえたとか、感心されたとか、義理の拍手とか、終わってほっとしたという解放感の拍手だとか伝わってくるんですよ。それは演奏中にも伝わってきて、すごく支えてもらってると思えた後で拍手をいただけると嬉しいです。逆にちょっと、だめだったかなと思ったときに意外に暖かい拍手だとほっとしたり。
 サロンコンサートとかだと、最前列で居眠りされたりするのが見えるとすごくつらいです(私もコンサートで寝ることがあります。でも最前列なら我慢します)。私たちのようにオリジナルの組曲ばかり演奏してると、組曲の途中でまだ緊張状態が続いてたり、次の曲とのつなぎが重要な時に、拍手されると、緊張感の腰が折られる、緊張感が伝わっていなかったという反省、とかが頭の中をぐるぐるし、一番いやなのは、拍手がぱらぱらで、拍手した人たちが「あっ、これはまずかったな」と思ったり、拍手しない人が「こんなとこで拍手するなよ、この無教養なやつ」と無言で非難してる空気が伝わったりするときです。本当に、演奏会中ってすごい情報量をキャッチしちゃうんですよ。完全に無我の境地で、周りの反応は邪魔なだけという人もいるかもしれませんが。
 2曲続けてというときで、どうしても1曲目の後で拍手が来る場合があるのですが、それは、その曲が拍手を促す曲らしく、私たちも割り切っています。逆に、拍手を期待している曲のつなぎでシーンとされたら、交感神経が高ぶりすぎて、すごい緊迫感のまま続行ということもあります。そんなケースが多いときは、知り合いをサクラにして、ここで拍手してね、ということもあるんですが、周りの緊張に気おされて拍手できなかったということもあります。集合としての「聴衆」のカラーの方が絶対勝つんですね。
 演奏家も「音楽鑑賞」状態で弾いてることももちろんあり、そういうときは終わったあと、静かに眼を閉じて余韻を味わいたい気分ですが、聴衆が一人でもいれば、その人に向けてのコミュニケーション・モードですから、「分かち合い」というのがメインです。つたなくとも、贈り物をしているつもりなので、よかったと言ってもらえたらうれしいですよ。だって、後に何も残らないんですよ。 録音してもそれは別物だし。今弾けないともう意味がないんです。あああのときはこれが弾けたなあと思っても。
 絵描きは一人で描いて、鑑賞者とは場を共有しないし、物書きも、本は、考えの容れ物であって、読者の好意的な声をいただけるとすごく嬉しいですが、同時進行の分かち合いにはなれず、それでも、あの時描けた、あの時考えたものは、そのまま残ります。演奏は基本的に一回きりで、でもそのナマの感じが麻薬みたいに強烈でやめられないです。演奏家としても聴衆としても。拍手はその表現かな。
 日本でコンサートをした時、一度由緒ある舞台でさせていただいたんですが、最初に主催の方が着物で出ていらして、正座で深々とお辞儀されたので、周りに座っていた参加者もみなお辞儀しました。引っ込まれる時も同様でした。ええっ、ここでは拍手してもらえないんだろうかと一瞬あせりましたが、その後の演奏や舞では自然に拍手が出たのでホットしました。以上私や私の周りの人の感じ方です。全然違う人もいるんでしょうね。サロンコンサートや講演などでは、主催者のお人柄というのがすごく聴衆にも演奏家や講演者に影響を与えると思います。すごーく商業的なものやメディアティックなものは別ですけど。他の方の意見も聞きたいです。
 後、書き込みですけど、私も誤変換だらけで冷や汗ですが、疲れてるときは、直接書き込みを避けて、ワードに行くのも面倒なので、メールを書く画面にして、字のポイントを14位に拡大して、大きくゆっくり書いてからそれをコピーして、書き込みのところに貼り付けることもあります。これ便利なので、お試しを。今のこの文もそうして書いてますが、画面の前に猫が陣取っているので、ほとんど画面が見えないから意味ないかも。
 拍手の話が長くなりました。ギリシャのこと、あまり役に立てません。昨年9月のギリシャは頭がビザンチン・モードだったので、デルフォイにも行ってないし。2度目に訪れた遺跡は、昔と違って、とにかく人が多い、柵が多くなってるというのが印象的だったので、デルフォイも今は結構人が多いのでは。しかし、「自然の景観」「景勝地」の旅行と違って、人間の残した文化を訪ねる旅行は、もう、その文化的歴史的知識を識ってはじめて面白くなります。識ることによってはじめてつながることができるので、遺跡を「景勝地」みたいに訪れたら、すごくもったいないと思います。事前にできるだけいろんなものを読んで、もう「マイ・デルフォイ」というのを作っといて、それから対峙するくらいにしておいたらいいかも。
 クルーズですが、基本的に内海ですから、あまり揺れません。でもナイル河のクルーズなどよりは揺れることもあります。寝るとき船が傾いている日があって、足と頭を反対に寝ました。アテネのホテルに帰ったら、浴室が揺れているような気がしました。私は船酔いしない方ですが、ノルマンディのヴァカンスでジャージー島に渡ったときは時化の後ですごく揺れ、薬を飲んでももう遅く、その苦しみから解放されるなら死んでもいいと本気で思いました。一緒にいた父だけは酔わず、揺れに抵抗せず体を動かしていました、そして、戦争で中国に渡った時はこの上に魚雷と敵機に狙われていた、それに比べたら揺れるだけなんてたいしたことないと言っておりました。戦争に行った人はすごいと思いながらも、そんなこと言われても・・・と恨めしく思い吐き続けました。母も苦しみ、帰りは海はもういや、飛行機チャーターすると決心してたそうですが、結局帰りは波が静かで、薬も早めに飲み、それでも私と母は往路の父に倣って馬鹿みたいに体を揺らしていました。父は寝てました。日航機事故があった夏で、両親は帰りの飛行機に不安を抱いていましたが、船でこれほど苦しいなら、飛行機できりもみ状態になったら恐怖よりも苦しみが大きく、解放されることだけを望むかもしれないと気休めになりました。ちなみに私は飛行機が嫌いです。

7hiromin:2006/03/28(火) 00:24:50
拍手
Nao様、竹下様、
拍手のお話、大変興味深く読みました。今まで私が行ったコンサートでした拍手も、気持ちが伝わっていたのかもと思うとちょっと焦ったりするコンサートもありました。
そういえば、ずっと前に、世界的に有名な演奏者たちとものすごく有名な(らしい)指揮者のコンサートに行ったことがあります。クラシックに疎いので名前など忘れてしまいましたが。そのときに組曲の途中で拍手をした人がいて、ひとつかふたつパチパチと音を立てたのですが、普通ならそれに大勢が続くところが、その指揮者は手のひらをこちらに向けて『拍手をするな』と合図したのです。そういう合図をする人を初めて見たし、とっさにそんなことができるのがすごいと思って、ただただ感心してしまいました。
ギリシャと船酔いのお話もありがとうございます。そうですね、『マイデルフォイ』作ります。船酔いってホントに死んだほうがマシだと思うぐらいつらいですよね。北海道へ船で行ったとき行程30時間中20時間ぐらい酔った状態でホントに地獄でした。船酔いよりもつらい目にあわせる戦争はやっぱりやっちゃダメですよね。(って変な比較ですが)

8Fusako:2006/03/31(金) 22:17:02
拍手の話
わたしは音楽ならけっこう何でも聴くのですが、CDで聴くとき、好きなのはライブ版。で、ヌヴーかリパッティのライブ版だったかしら、それとも田中希代子さんだったかな、昔のライブ録音は、演奏終了で切ってしまって、拍手を入れませんでしたね。ですので、演奏の終盤、聴衆の反応や盛り上がりがわかるのに、いきなりばしっと切られる終わり方に、なんとも気持ちのやり場がない気分がしたことがあります。今は長く拍手を入れますので、「ああ、楽しかった」と思えます。すばらしいコンサートで、演奏も終わらないうちに怒涛の拍手、なんていうのもありますし。スペインの聴衆が「オレ、オレー」と叫んでいて思わず笑ってしまうものもありました。
拍手、というか、聴衆との距離のとり方って、「聴衆はいらない」人から、「聴衆込み」の人までそれはもうほんとにいろいろではないでしょうか。ウィーンのニューイヤーコンサートのラデツキーの拍手はいわゆる「お約束」ですし、それから、クラシックではなくて、ロックコンサートになると、これはもう最初から最後までオールスタンディングで拍手どころでなくて、一緒に歌ってますしね(東京ドームでストーンズに行ってきたばかりなので・・・)。
中世の演奏だとどうだったのかしら、なんて思います。なんだか、拡散した話になってしまったかしら。

9Sekko:2006/04/01(土) 02:25:03
手拍子
 フランスのコンサート(特にポップス)では、開演が遅いと痺れを切らした聴衆が催促の拍手というか手拍子を始め、それでも始まらないと足をならしてます。日本ではたいてい時間通りに始まるせいか、そういう経験はありません。アンコールの催促で手拍子になるのはどこも同じですけど。スペインで、パエリャを食べながらフラメンコを見る場所で、女性のダンサーが、この踊りは途中でミュージシャンが手拍子を打つけれど、あなた方は絶対に一緒に打たないようにと客に注意したことがありました。フラメンコの手拍子はすごくデリケートなので、少しでもずれたら踊れないと言われました。前に酔った客にでもひどい手拍子をされたのかもしれません。そう言われると、見るだけで何か緊張したのを覚えています。フランスのロックグループで「インドシナ」というのがいるんですが、そのキイボード奏者の息子が私の生徒で、パパのコンサートに行くには耳栓をするのが条件だと言っていました。特に拍手の音が一番難聴の原因だそうです。演奏者たちはイヤホンとかつけているので、会場がどんなにやかましくても全く気にならずに演奏できると言ってました。こうなるとコミュニケーションどころではないような気がします。
 中世だと誰かのため何かのために演奏したのでしょうから、やはりいわゆる民主的な「コンサート」が成立してから、演劇の例に倣って拍手が定着したのでしょうか。カストラートとかのスターシステムの登場やヴィルチュオーゾ趣味の流行とも関係がありますよね。バレエでも、早くから、ヴァリエーションなどで難易度の高い踊りに成功するとその後すぐに拍手するようになってたようです。古代のギリシャ演劇ではどうだったのか知りません。どなたか教えてください。神に捧げるタイプの芸能では観客のためではないから拍手はないですよね、日本で門付け芸などどうだったでしょう。ご祝儀を渡すだけだったでしょうか。私の子供の頃はまだ獅子舞とかありましたが拍手した記憶ないです。紙芝居もありましたが、拍手したかしら・・・

10Sekko:2006/04/01(土) 02:30:29
インドシナ
さっき、日本風にインドシナと書きましたが、日本ではフランス風にアンドシーヌと呼ばれているようです。
検索したら
「アンドシーヌ」、フランスのエレクトロ・フォーク・ロックのグループ ...
とありました。

11Sekko:2006/04/04(火) 17:34:33
大統領ネタ
 フランスには「アメリカ人とフランス人とイギリス人が集まって、何かが起こったら、それぞれこうした」というジョークがすごく多く、もちろんアメリカを揶揄したのもありますが、一番多いのは自虐ネタです。
 昨日ネットで拾ったネタにこういうのがありました。飛行機にアメリカとフランスとロシアとポルトガルの大統領が乗っていた。事故が起こり、パラシュートで脱出しなくてはならないがパラシュートが3つしかない。まずアメリカ大統領がひとつ取り、「私は世界で最強の国の大統領だからこれをもらうといって脱出。次にフランス大統領が「私は世界で一番文化的で頭のいい国の大統領だからと言って脱出。残ったポルトガルの大統領はロシアの大統領に、「いいですよ、お宅の国はうちと違って大国だから、どうぞ」と言って譲ろうとした。すると、ロシアの大統領が言った。「大丈夫です。まだ二つ残ってます。だって、さっき、世界で一番頭のいい国の大統領が、寝袋を背負って降りたから」

12Fusako:2006/04/04(火) 22:11:43
自虐、かな
自分のことを笑える、というのはけっこう高等な技術ですよね。日本にも笑いの伝統はありますけど、最近ないなー、と思えるのはゆとりのあるユーモア。日本にこういうジョークがあったかしら。と、日本自虐ネタ、でしたー。

13Sekko:2006/04/08(土) 01:03:25
ヴァリエーション
前のジョーク、小学校3年の生徒に話したら、小学生なら知っているそれに似たネタがあるといって次のようなヴァリエーションを教えてくれました。
 ブッシュ大統領とトニー・ブレアとヨハネ=パウロ2世と小学生が飛行機に乗っていて事故が起こり、パラシュートが三つです。ブッシュとブレアはわれ先に飛び降りました。残ったのはJP2と小学生。JP2に小学生に言いました。「私はもう年をとっている、君がパラシュートで逃げなさい。」小学生が答えて、「大丈夫です。さっきブッシュ大統領が僕のランドセルをかついで降りたから。」
 小学生のジョークらしさがおもしろく、ローマ法王が普通にジョークに出てくるところもヨーロッパっぽいなあと思いました。

14Fusako:2006/04/08(土) 14:36:16
ヴァリエーションへの感想
たしかに、「天皇陛下」が出てくるジョークなんてないですね。
でも、それよりも、小学生、それも低学年の子が政治ジョークを知ってるんですねー。
わが国の政治はジョークになるようなネタには事欠かないのですけどもね。こちこちの官僚の世界も、スキャンダルでドタバタしている議会の有様も。

15Sekko:2006/04/09(日) 22:15:40
聖骸布の仔
 中央公論新社から4月10日『聖骸布の仔』が発売されます。私の初めての翻訳本です。イエス・キリストのクローンの話です。『ダ・ヴィンチ・コード』の成功を見るにつけ、同じようなちょっと怪しいテーマでこれほどの文学が書けるのかと感心して、ぜひ紹介したいと思っていました。舞台はアメリカが主で、フランス人のスピリチュアル感がよく出ています。ぜひ一読してご感想ください。

16M.yagi:2006/04/10(月) 07:42:35
それは・・買わねば
今日発売ですか。

ところで、各国の人々ネタ。イギリス人にその手の各国ジョークをしたら、うちの国ではそういうジョークはない。と言っておりました。ほんとかなぁ?
イギリスのジョークも毒が効いてて好きですが、各国人を比較するみたいなジョークは流行ってないのでしょうか?

17Fusako:2006/04/10(月) 10:03:34
イギリス
ってけっこうそういうジョークの本場って感じがしますけれど。で、サッカーでもそうですが、大陸諸国よりも、イギリスの中での「各国」もの、いろいろありますよね。特に「アイルランド、スコットランド、イングランド」ものって多いです。たしか、カラス麦を、イングランドでは馬が食べるがアイルランドでは人が食べる、と言ったのは(ジョークと言うよりは差別的発言、ですが)サミュエル・ジョンソンじゃなかったでしょうか。

18M.yagi:2006/04/10(月) 18:58:33
各国ジョーク
う〜ん?各国ジョークよりも、内部で忙しいのか?
確かにスコットランドネタとかウエールズネタとかアイルランドネタは出たような。
もっとも、話を聞いたイギリス人T氏がその手の外国ジョークを好まないという気もします。
しかしフランスとは伝統的に仲が悪いのでフランスネタの意地悪ジョークは多いみたいですね。
かなりブラックなのでは、「先だってのロンドンテロはオリンピックを逃したフランスの仕業だ。」
というジョークが流行ったらしい。まぁ明らかに違うのが判って、言っているわけですが。
でもまぁ、自国民の階級ジョークは多いみたいですね。

19Sekko:2006/04/15(土) 06:03:17
若者の話
 最近『中央公論』の5月号をいただいたので読みましたが、考えさせられる記事ばかりでした。フランスのCPEの騒ぎのこともあって(5月発売の新潮45でこのことについてまとめる予定です)、日本の若年失業者やフリーターのことも考えていたのですが、この雑誌にはいくつかの全く違う見方が紹介されていました。そのひとつは、今の若者は「毎月確実にもらえる給料」につながる雇用が保証されていないから、底辺を這いずる者にとっては「金」が人間の尊厳だというのです。給料という土台を前提とした日本の社会で、給料がない人は、人権がないのと一緒で、若者が「金が欲しい」というのは、「人間として認めて欲しい」という魂の叫びだというのです。これを読んで、それはフランスの移民の若者たちの不全感と同じだなあと思いました。ところが、もうひとつ、別の記事では、若者たちは格差が広がってもかまわないとだんだん思っているというのです。富の再分配なんてしなくてもよいから自由に生きたいらしいです。「金は要らないから好きに生きさせてくれよ」「再分配よりも自由や多様性を認めてほしい、その結果自己責任で死んでもかまわないから」と考える人が増えているというのです。この言葉を読んで、なんだか胸がつまりました。フランスの若者ならなんだか絶対に言いそうにないことだから。
 後、原田豊さんという方が、楽しい人口減少社会について書いていて、びっくりしましたが、後味はよかったです。ペシミスティックな見方が多い中で、こうはっきり楽観的にものを見られるのはうらやましいです。日本は孝を強調する儒教文化と違って、親の子に対する情愛が強調されたという津田左右吉の指摘も面白いと思いました。親の恩が尊いから子は孝を実践しなくてはならないので、互恵的だというのです。まあそれで、日本の高齢者は若者のために我慢できるという論になっていくんですけど。でも、動物でもそうですけど、子供がちっちゃくて子供の形をしてるうちは確かにそうですけど、高齢化社会になると、子育てが終わってから延々と生きるので、自分も保身のために自己中心になることの方が多いような気がします。いくつになっても子はかわいいという人もまあいますけど。
 でもその点ではフランス人も子を保護しますね。アングロサクソンの自助努力風の育て方は少ないです。フランスの子をアメリカのホームステイにやる説明会では、「アメリカの家庭では、洗濯物は子供が自分で乾燥機から出します、フランスのように、お母さんがアイロンをかけてたたんで片付けるということはありませんから」という注意がありました。それを聞いたうちの子は「ママ、うちはアメリカ風だったんだね」と言っておりました。

20Fusako:2006/04/18(火) 23:04:04
中央公論5月号
1.原田さんの論文について
 日本の人口減少については、悲観論と楽観論がありますね。楽観論では、人口減少恐るるに足らず、かえって活気ある団塊高齢者を中心にゆったりして過ごせるでしょう、的なものが多いですかね。原田さん(団塊の世代に近い方)もそんな感じの論調で、そして、少ない若い世代に温かく、「自分の孫を愛するように他人の孫も愛して」豊かな文化を維持しよう、とおっしゃっています。
 でも、そもそも、なぜ人口が減るか、若い人が家庭を形成せず、子どもを持たないか、ということを、原田さんは特に深く追究せず、「人口減少、少子・高齢化」という所与の条件での暮らし方について述べておられるように見えました。わたしから見れば、日本の問題は、若い世代が家庭を形成できない、子どもを持ちたくない、ということ、そのものにあると思えます。
 それと、すでに子どもや孫を持っている大人。バスや電車に乗るだけでわかります。わたしは、子どもは座るものじゃない、と言われて育ちました、というか、そういうしつけを受けましたが、シルバーシートに子どもを座らせて平気な親(混雑する通勤時間に乗る子どもは私立の小学校に遠距離通学しているわけです)とか、電車で「OOちゃん、ここにお座り。」と孫に席をとる祖父母!!、多いですよー。一方で、貧困家庭のDVや児童虐待、・・・ 日本てこんなだったかしら、と最近、けっこううんざりしています。
 つまり、日本が少子化・高齢化してゆく原因、少子化・高齢化しているなかで社会規範が崩壊している、そういう社会について問うことなしに、人口が減ることそのことだけについて議論することに疑問があります。
2.日本の若者について
 堀江氏が「金で買えないものはない」と言った続きは、「金で買えないものは差別につながる。血筋、家柄、毛並み」という文章がありましたね。日本のムラ的つながりの中では、家柄、ムラ的組織では肩書き、そういったものが日本社会での「価値」だった、それを突破しようとしたのはわかりますが、結局置き換えられるのが、せいぜいのところ、お金、というわかりやすい数字でしかないのが、日本の精神的貧困ですね。お金に換算できない価値で大切なものは、「人権」とか「生活の質(Qualite de lvie)」とか、だと思うのですが、なぜ、日本では、人と比較して出る数字や地位が生活の基準になるんでしょうね。他人がどうであっても、世間一般がどうであっても、自分には自分の「権利」が、「基準」が、「考え方」が、とならなかった、なっていないことが日本の問題だと思います。そこから出たいと思うと、「ほっておいてくれ」「自由にさせてくれ」ということにしかならない。
誰もが、自分の考え、自分の暮らしを対等に持ち、それを保障するのが「再配分」であるとまで理解しての「再配分なんていらない」ではないと思います。
かつて、ムラの大きな集合体であった日本(江戸時代、あるいは戦前)、それが、中央集権、ムラの崩壊のみが進んで、かつて存在した価値の継承はなくなってしまいました。でも、不思議なことに、ムラの仲間うちのみ意識する、という行動様式だけが残っている感じがするんですね。安定した共同体で、秩序をわきまえ、分に合った暮らしをする、という生活様式はなくなりましたが、自分の所属する共同体のあり方にはとりあえず順応して生きる、というのが、老若問わず、日本人の「自分でものを考えない」生き方であるように思えます。
年功序列に従って「ものを考えずに生きる」だったのが、年功序列が崩壊したために、次は「金」を基準に、あるいは、基準なんて何もなしに「ものを考えずに生きる」状態が、日本人ではないでしょうか。で、自然に恵まれ、人は温和でそこそこ均質で(字の読めない人はいない)、今のところ家族も最低限の機能はしている、というところで、厳しい闘争にまで至らないでいる社会が、日本の社会なのでは、と思っています。でも、そのように、厳しい闘争に至らないように、と抑圧されているものがかなりある社会、でもあるのだろうと。

21Sekko:2006/04/19(水) 17:43:23
激しい闘争
「でも、そのように、厳しい闘争に至らないように、と抑圧されているものがかなりある社会、でもあるのだろうと。 」?? の文は考えさせられます。激しさが局地的に内的に爆発すると、家庭内暴力とか、下手すると無差別殺人になるのでしょうか。それならストやデモでガス抜きしてくれた方がいいかも。
 最近、ピレネー地方の知事が38日のハンストをして、日本企業の誘致に成功、日本大使館も企業のトップも怒りに狂ってるというニュースがあります。日本ではどう報道されてるのでしょう。日本側の言い分は、喉にナイフを突きつけるようなこんなやり方は野蛮、と怒っているのです。首相や内相や大統領まで圧力をかけたということで。でも、知事そのものは、自分の喉にナイフを突きつけたわけですね。企業にとっては理不尽な脅迫でしょうが、別に企業側を人質にとったとか、爆破すると警告したわけではなく、ハンストなので、後は、「このままむざむざ飢え死にさせられない」という感情論やモラルです。当初には連帯もなく、たった一人の「闘争」です。とにかく、文句を言われようと、日本企業は合意したのですし、政治家が命をかけて、何かを成就させるというケースで、こういう発想があってそれを実行したということ自体がすごいです。戦争反対とかいう意思表示のハンストでなく、行政者が政経上の目的到達のためにハンスト。確かに彼が死んだりしたら、「自己責任」かもしれませんが、それはやはり社会の責任というか、ハンストのことをメディアによって知ってしまった人すべての責任になってしまいます。イラクやイスラエルで毎日テロや内戦で死ぬ人が出ていますが、それであわてて軍を撤退したり、平和交渉が始まるということもない、それで、ピレネーで、一人の知事がハンストをしたら、大統領や日本の大使館まで巻き込んで、その地域の未来が変わる・・・いろいろ考えさせられました。資本の論理で動いてる企業側が怒るのはもっともですが、どうせ屈するなら、何か一言もっとかっこいいことを言って欲しかった気もします。日本や日本の企業が注目されたいいチャンスだったのだから。

22古川利明:2006/04/19(水) 21:27:23
中央公論5月号
 私も読んでみましたが、さほどというか、私はほとんど共感するところはありませんでした(特にホリエモンを取り上げた武田徹の文章)。何かアタマの中で「今の若者はこうだ」と決め付けたい、爺さん連中のたわごとというと、言い過ぎですか(笑)。「金ですべてが買える、金こそが人間の尊厳」だなんて、アングロサクソンの営利至上主義そのものじゃないですか。別にホリエモンはそうしたイデオロギーに忠実だっただけで、それは別に彼だけじゃないのではないでしょうか。だからこそ、ユニヴァーサリズムの現実化ということの重要性に思いが至ります。ビンボー、質素はすがすがしいですけど、極貧は人間の尊厳を破壊します。最近の二極分解で、そういう状況に追い込まれていく若者たちが、「金こそ、人間の尊厳だ」と思うのは、至極、当然だと思うんですよ。そうならないように、政治が、思想(ジャーナリズム)に何ができるのか、ということを考えていかなくちゃ、だと思うのですよ。

23古川利明:2006/04/22(土) 13:15:05
共謀罪と精神操作罪
 今、日本の国会で、例の「共謀罪」が突然、審議入りして、相変わらず、マスコミの反応も鈍いんですけど、それと似たような話で、フランスのカルト対策において、マインドコントロールについて、「精神操作罪」の創設が議会でかなり大問題になっていましたよね。双方の通じるのは、「個人の思想、信条、良心を法で縛る」ということだと思うのですが、結局、この精神操作罪の議論はどうなったんですか? フランスでも相当、もめましたよね。まあ、「精神操作罪」はそれでも、「マインドコントロール」という「実行行為」があって、それを処罰しようとするのですから、まだ、わかるんですけど、「共謀罪」はそうした犯行がなくても、「共謀した」というだけで、実行に至らなくても罪に問えるんですから、無茶苦茶ですよ。で、この法案も原本は、アメリカの愛国者法で、要は、アングロ・サクソンマターなんですよ。相変わらず、米英はヘンですよね(笑)

24Sekko:2006/04/23(日) 08:00:44
マインドコントロール罪法案のその後
 2000年の6月に全員一致で国会を通過したマインドコントロール罪法案は、その後すったもんだして、2005年だかに、結局、やや尻つぼみの、L’abus de faiblesse という代替案に差し替えられました。CPEじゃないですけど、宗教側の、マインドコントロールの境界線を決める決定的な基準がない以上、司法の自由裁量は、信仰や精神活動の自由を侵すリスクがあるという主張が通った結果です。その議論の時に何度も出てきたのは、我々はピューリタニズムに陥ってはならない、という言葉でした。こういう法の適用は、いくらでも逸脱していく可能性があるから、その強権の危険を冒すくらいなら、法を先にガス抜きしといた方が賢明という感じです。ある意味、フランスらしい結論です。そしてここでも、アングロサクソン・ピューリタンを反面教師として意識してるのが面白いです。しかし、フランス人的には、カルトが弱者(未成年者、一人暮らしの老人、病者、障害者etc・・)を食い物にするのはどうしても許せないので、「弱みに付け込む」ことの違法性だけは成文化しときたかったということでしょうね。
 まあ、そんな国ですから、「共謀罪」なんてとんでもないですよ。「愛国者法」なんて、ユニヴァーサリズムがピューリタニズムによって逸脱していく典型で、アメリカは建国以来、こういう傾向(インディアン抹殺、魔女狩り、マッカーシズム・・・)を繰り返してます。でも、まあ、それに対抗して本来のユニヴァーサリズムのために戦う人たちも必ずいて、それに期待したいです。
 しかし、共謀罪が、適用の範囲の自由裁量の幅を大きくしといて、勝手に使えるようにするのを許すのは、何とかに刃物の状況もあり得ますよね。日本はピューリタンじゃないんだから、もうちょっとは良識を残して、アングロサクソンの魔女狩りの真似はしてもらいたくないです。
 このことが分かりやすい面白い本があります。ハヤカワミステリ文庫のエラリー・クイーン『ガラスの村』です。読んだことがある人も、もう一度読み返してください。ヤンキーのピューリタニズムの理想と現実、絶え間ない逸脱とそれに抵抗して建国のユニヴァーサリズムの理想に何とか帰ろうとする人たちの努力が実によく書かれていて、志の高い名作です。そこにも、国会の煽動家が腕を振るうのは民衆の責任だと書いてあります。日本で悪法が通るとしたら、国民の側に、すでに思考や判断の放棄があるから、それを通してしまうのでしょう。共謀罪なんて、人の自由や尊厳の根を深いところで蝕む、絶対このまま通してはならないものです。限定や保留条項を付けまくって骨抜きにする可能性はあるんでしょうか。メディアもきっちり論議して欲しいです。でも日本では、路上の論議やストやデモの対象にはならないのでしょうね、きっと。

25Fusako:2006/04/23(日) 10:06:38
法律や政策
について、フランスの人たちは、けっこう日常的に議論をするのでしょうか?
昔、「思い出のアンネ・フランク」という、アンネ達を支えたオランダ人の本を読んだときに、その著者は実は外国からの養子でオランダ人になったのですが、オランダでは子どものころから政治について論じることを教えられる、というくだりがあり、とても印象的だったのを覚えています。ヨーロッパの小国では、特に、政治と生活はとても近いのでしょうね。あと、分権が進んでいれば、国が大きくても、政治と暮らしは近くなる道理ですね。
でも、日本では、たぶん、国の大きさとそして国民性というか歴史的背景もあるだろうと思いますが、法律ってとても遠く、関係なく感じますね。
それと、法律用語も生活の言葉と関係なくて、「共同参画」「次世代育成」「均等」(わたしが少し関係ある分野なのですが)なんて、法律以外では使わない言葉ですしね。
で、法律案が、どういう必然性で作られて、どういう実際の効果があるのかもとてもわかりにくい。最近で、わたしには一番わかりにくかった(いまだによくわからない)のが、「人権擁護法案」でしたけれど。

26Sekko:2006/04/24(月) 00:00:13
政治論議
すごくします。週刊誌に、あなたがこの1週間で職場や家庭で話題にしたテーマ(複数回答OK)はという統計をとってるのがありますが、CPE騒ぎの時は、今手元に無いので確かじゃないですが、7,8割以上がCPEについて話し、サッカーとかは1割台でした。私も家庭、友人、生徒、生徒の親らと毎日話してました。今も、ヴィルパンの今後だとか、セゴレーヌ・ロワイヤルの品評だとか、延々と話します。たとえば、5月の個展の打ち合わせでTELしてきた友人(60代フランス人女性)とかと話しこむと、個展の話より政治の話につい熱が入ります。「政治」とは「生活」であり、それを語るのは人間観察なので。
 日本は確かに漢字や漢語のせいで、法律と日常の遊離がありますよね。それに、大本の法律があっても、適用に自由裁量の幅が広ければ、ほんとはそれは危険なのに、まあまあ、なあなあで何とかなるだろうから法律を通しといてもいいんじゃないかという、鷹揚さというとポジティヴですが、馴れ合いやごまかしや思考停止がまかり通るような・・心配です。

27古川利明:2006/04/24(月) 21:12:42
歴史の身体性
 竹下さんのお答えを読んでいると、改めて「アングロサクソン・カルチャー」の根底にある、「ピューリタニズム」ということに思いが至ります。アンリ4世(でしたっけ?)がナントの勅令で信教の自由を認めたことなども含めて、「歴史」というのは大きいですね。その「政治談義」について、私がふと思うのは、フランスはあの大革命で国王の首を民衆の手でギロチンにかけて、チョン切っているわけですよね。これは大きいと思います。その点、イギリスの清教徒革命も名誉革命も、「革命」とはいいながらも、別に王政自体は無傷だったわけですよね。そういうところも含めて、「歴史の身体性」というのは、すごく大きな影響を与えているような気がします。

28Sekko:2006/04/24(月) 22:24:04
ギロチンのトラウマ
 私も、国王を処刑したことは、今もフランス共和主義のトラウマになっていると思います。地縁血縁による特権を廃するという点では、ルイ16世がシトワイアン・ルイ・カペーになりそれを認めた時点で、革命は成就したわけですよ。王の首を切って、殉教者にしてしまったことが、その後の帝政やら王政復古を招く混乱になったんです。それを思うと、イギリス軍が、ナポレオンの首を切らなかったのは殉教者を作らないという戦略ですね。ジャンヌ・ダルクの火刑で学習したのでしょう。

29Masako:2006/04/26(水) 12:56:06
王殺し、皇帝殺し
ロシアのニコライ二世一家も同様な運命でしたが、これはあくまでもボリシェヴィキが殺したということで、ロシア人一般のトラウマにはなっていないのかもしれません。また、殺されたからこそ、生き延びたアナスタシア伝説などが生まれることになったわけですね。

ソ連時代、ソ連政権を認めない正教会(在外ロシア教会)では、たしか70年代に皇帝一家は列聖されて、私はパリのカテドラルで殉教聖人としての皇帝一家のイコンを見た記憶があります。

30M.yagi:2006/04/26(水) 13:57:19
共謀罪について
ここでの皆さんの対話や古川さんのブログは勉強になります。
私は知識がないので傍観しておりましたが、なんとなく嫌な法案のにほひを感じています。
・・・というわけで、ブログにご紹介させていただきました。ご報告まで。

31古川利明:2006/04/27(木) 20:40:59
政治を語りたがらなくする
 今度の「共謀罪」も含めて思うのは、日本人は(まあ、あんまりこんなふうに「日本人は」という物言いで括るのはよくないのかもしれませんが、他に適当な表現も見つからないので)、「政治」を語りたがらないですよね。確かに日常語と、政治を語る語が遊離しているという面はあるにしても、政治をあまり語るカルチャーはないですよね。まあ、社会にいろんなタブーを抱え込む(もしくはそれがタブーだと思い込んでしまいたがる)国民性もあるかもしれませんが、それだけでもないような気がします。かつて「中」にいた人間の一人として、メディアの責任は大きいというか、「それがすべてではないか」という気さえします。新聞、テレビはいわずもがなですが、雑誌媒体なんかも、おねえちゃん雑誌とかでも、何とかの一つ覚えのように、ファッションとグルメだけじゃないですか。敢えて名前は伏せますけど、そういう系の雑誌にコラムを連載している元女子アナの人もいたりしますが、読んでいて、「本当にフランスで生活してんだろうか?」と思うことがあります。ただ、私の経験では、例えば、そういう読者層のおねえちゃんたちが「じゃあ、政治に無関心か」というと、実は、全然、そうじゃないんですよ(笑)。スキャンダルとか、ゴシップとか大好きですもんね、女の人は。そういうふうに「政治を語りたがらなくしているメディアの責任」も大きいと思います。ファシズムは常に「知識人の転向」から始まるんですよ。

32Fusako:2006/04/27(木) 21:49:57
政治の話
うーむ、古川さんにちょっと物申させて下さい。「おねえちゃん雑誌」「元女子アナ」「スキャンダルとか、ゴシップとか大好きですもんね、女の人は。」 ・・・ これはメディアの中にいて、一家言をお持ちの方によくある、女性への偏見のような気がするのですけれど。

わたしは、たまたま「政治」にやや近いところで仕事をしておりまして、えらそうに政治を論じる男性にもけっこう疑問があります。

自分の暮らしの問題、として、当たり前に政治を論じることは、男女を問わず、必要ですよね。そして、そういう議論が「面白い」と思える成熟も必要ですね。

33Sekko:2006/04/27(木) 23:11:53
政治、ゴシップ、偏見など
 フランスで普通のおじさんやおばさんが政治の話を延々とする背景には、別に彼らの意識が高いということじゃなくて、「一家言」もっているように見えることが評価されているからだと思うんですよ。よくパリの日本人が気づくことですが、フランスのデパートの店員とか、全然働かなくて、商品知識もゼロみたいな人が、何かクレームをつけられたり注意されたりすると、猛然と、しかし理路整然と反論を述べ立てたりするんですよ。あのエネルギーと頭を仕事に使えばいいのに、と日本人なんかはびっくりして思うわけです。なんにつけても「自説を披露する」と言うこと自体にステイタスがあるわけですね。ところが、日本では、「普通の人」が突然「しかし、共謀罪は・・」とかファミレスで話し始めたら、「何、この人」って思われるじゃないですか。日本ではよくよく立派なことを言っていると認められる人か、あるいは専門家と認められる人の「高説」でなきゃ、市民権がないんです。これって外国語習得もそうです。たとえばパリのフランス語学校で、日本人は、相当知ってるのに、なかなかしゃべらない、絶対確かで自信がないと口を開かない人がすごく多いんです。そこへ行くと、ブラジル人とかスペイン人とかは、ブロークンでも実によくしゃべります。しかし彼らは、文法問題とかは全滅で、日本人は高得点をとったりするんですよね。日本人は、「言霊」のせいか、口に出していう言葉のハードルが高いのかしら。前にも書きましたが、私だって、フランスでは今回のCPEについて、リセの生徒とも延々と対等に話せて盛り上がりましたが、日本についたとたん、駅前で核廃絶の署名を求めている人を見るだけでうっとおしいとか、ほかにやることないのか、プロ市民、とか感じてしまうんです。すみません。風土とか言葉の持つメンタリティなのでしょう。でも、今いいと思うのは、各種ブログなどで、いろんな人がいろんなことについて自由に意見を交わす場穂が生れたことで、そこには敬語などの言語の縛りも、風土の縛り(自説をぶつ人よりも、口数少ない人の方が尊敬される)もないので、多くの人の考えを知ることが出来ることです。そうすると、日本人のレベルの高さが分かってほっとします。やっぱ、言わないと聞けないですからね。
 それで、日本で人前で「一家言を語る人」ってのは、偉い人、自分の正しさに自信を持っている人、になってきて、それが権威とか権力にも関係してくるので、いかがわしかったりするのでは?
 「おねえちゃん雑誌」がファッション、コスメ、ブランドを多く語るのは、広告収入のせいでしょう。広告収入の取りにくい雑誌はなかなか存続できないし。おばさん雑誌だとサプリメンとか健康グッズも? 女性のスキャンダル、ゴシップ好きも、マーケット的にはある程度あたってると思います。皇室ゴシップがあると絶対女性誌の売り上げが伸びるということは、買う人が多いからでしょうし。男の方がゴシップに無関心の率が多いかどうかはよく分かりません。ただ、それを、「女性=ゴシップ好き=政治には無関心」というのは日本的くくりかたで、フランスなら「女性=ゴシップ好き=政治を論じるのも好き」なので、両立するし、別にゴシップ好きに価値判断はないのでは?
 悪意のゴシップもありますが、これもネットの2チャンネルとか見てると、これもネットでは男女の縛りがないので、男も堂々とゴシップ好きと悪意のゴシップを展開してるし。私は悪意のゴシップはもちろん反対です。でも、他人に関する悪意のゴシップは蜜の味みたいな卑しい根性もふつふつと沸いてくるので、自分の卑しさを確認するだけでもゴシップは反面教師です。
 さすがに「おねえちゃん雑誌」は見るとこがほとんどないのでパスですが、おばさん系の他人の愚痴とかゴシップは楽しく読めます。コミックも好きだし。それで馬鹿にされても別に気になりません。でもそれらのほとんどは確かにただその場で消費して終わりのものなので、自分の卑しいところは痩せさせて、人の役にたちそうなところに栄養を与えていかなくちゃと思ってます。

34古川利明:2006/04/28(金) 13:08:52
言葉に出すことの大事さ
 いや、まさに、そうなんですよ。日本人というのは、どうしても「沈黙は金」というのか、自己主張しないのが「徳」というカルチャーがあるんですよね。あと、似たような物言いに「墓場まで持っていく」とか。そういう意味では、一連のCPE問題で、サルコジにしろ、ドビルパンしろ、セゴレーヌにしろ、自分の「立場」なり、「主張」を明確にするため、いろんな言葉を駆使して説明しまくったというのは、すごく、大事なことだと思います。日本だと、そういう人はどうしても「うるさい人」というレッテルを貼られてしまうんですよ。その「おねえちゃん雑誌」という表現は、ちょっとお下劣でしたので(これも「品がない」ですね)、ここは竹下さんの掲示板なので(やはり女性読者が多いようなので)、「女性誌」という表現に言い換えますが(笑)、その女性誌でも、そうしたファッションやグルメの記事の中に、あまり目たない真ん中や最後の方のモノクロのページですけど、かなり硬派な記事やコラムを掲載してるのもありますよ(私の見る限り「Oggi」と「Grazia」)。でも、例の「負け犬本」が賞賛していた光文社系はダメですね。ただ、私の認識では、女性でも、一定レベル以上の知的教養を持っている層は、だいたい政治的スキャンダルの話は好きですよ。永田町や政局のウラとか、身を乗り出して来ますね。ただ、普段はネコをかぶってます(笑)

35M.yagi:2006/04/28(金) 21:07:53
スキャンダル
私は不確定な都市伝説のたぐいは常に眉唾つけてしまいますが、ゴシップ系にいたっては興味ないというか、そもそも他人様の私生活など読んでも面白くない。なもんでおばちゃん系雑誌は買わないのですが、最近文春までどんどんゴシップ系になっていて。。ただ、うちの祖母が、「そういうゴシップは人の道が書かれていてひとつの道徳なのだ」といっていたのには「なるほど」と思いました。例えば作家などにとって、人間心理をしるための素材として格好の素材なのかもしれませんね。
言葉に出す場合、日本い於いては往々にして相手とは違う考えだということに抵抗を示す層がいますね。私などは議論した相手(それが対立する意見だとしても)はかなり友達になった気がするんですが、批判意見を述べると全人格否定されたと思う人もいるみたいです。相手を選ぶ必要もありますね。

36M.yagi:2006/04/28(金) 21:13:23
で、共謀罪
古川さんもご指摘の通り、共謀罪に関しては、沈黙してる人が多いのは何故だろうか?と思います。
いつも政治についてよく語るブロガー仲間でも、その辺りに関しては敢て沈黙というより興味すらないという印象ですね。わたくしは表現者なんで、他のこと以上にすごく気になります。語らないというより、政治に関心のある層ですらその無関心が何故なのか?疑問はあります。

37Sekko:2006/04/30(日) 06:21:23
だれも見たくない共謀罪
 共謀罪がどうもうさんくさいのに、日本人にもうひとつピンとこない理由は、これが古川さんの言うように、アングロサクソンマターだからです。ピューリタンマターといってもいいです。共謀罪の内容については、NETで調べてもらうとして、このピューリタンのメンタリティについてだけ書きます。
 アメリカは17世紀以来ピューリタンが「開拓」「建国」した国です。イギリスを逃れたピューリタンといっても、初めは実は土地のない貴族の次男坊とか3男坊が多く、「神の国」を創ることを甘く見ていたのが、先住民の抵抗にあって、すごく苦労し、彼らを奴隷化することも出来ずにほぼ殲滅し、奴隷はアフリカから調達しました。私たちから見たらひどいやつらだと思いますが、彼ら的には、苦労して、禁欲的で、勇気と勤勉で、国を創った英雄なのですね。ヨーロッパのような生まれながらの特権階級でなくて、額に汗して国を創り、独立を勝ち取った実力者たちがエスタブリッシュメントなわけです。だからこそ、コミュニティ意識も強いわけです。かれらのメンタリティは、競争を勝ち抜く不屈の自助努力、なわけです。これが、資本主義の発展をもたらせました。
 でも、マイケル・ムーアが「BOLING FOR COLUMBINE」で揶揄したように、アメリカは、自助努力のあまり、武装した自警団を作るという感じで極端に武装する社会になったわけです。あの映画では、同じ湖のアメリカ側では、どの家も高い塀に警報装置があり、誰かが敷地内に入ったら即射殺のような雰囲気に対して、カナダ側では、どの家も鍵すらかかっていなくて、ムーアが勝手にドアを開けても「はーい、なあに」という感じで家人が出てくるという具合でした。ムーアは、これを、アメリカの白人はインディアンや黒人を人として扱っていなかったから、彼らからの反逆を潜在的に恐れて被害妄想のパニックのうちに暮らしている、と分析していました。
 アメリカはもともとそういう国ですが、これに比べて、近代以降のヨーロッパは、まあいろいろ理由はいろいろありますが、国が国民を保護し、富を循環させて福祉という形で再分配する傾向にあったわけです。社会民主主義というやつで、アメリカ風の自助努力の弱肉強食、完全自由競争というのは嫌っていたわけです。Noblesse oblige というのもコンセンサスでした。だから、資本主義の企業も、内では従業員の生活を守り、社会に向けては税金や社会保障費負担などで利益を国に戻して、国に再分配を任せたわけです。 これがいわゆる「冷戦」の間は、普通でした。自由主義陣営の先進国はみな、ロシアや中国の革命を目にし、自国内にも革命を口にする共産主義者を抱えていたわけですから、労働力の搾取とか言われないように、それなりに社会福祉に励んでいたわけです。ところが、共産主義陣営が自壊して冷戦が終わったので、もう革命の心配はなくなった、歯止めがなくなったので、アメリカの本性というべき苛酷な競争社会が出現しました。これがネオ・リベラルというものです。
 ネオ・リベラルの大企業は、もう利益を従業員や社会へ還元する理由を持たず、ただ金の論理にのみよって、短期利益を計上すること、株主と経営者のみを優先することになりました。しかもグローバリゼーションで、途上国の安い労働力が無限に手に入るようになったので、自国では従業員のリストラや給料引き下げが平気で行われるようになりました。社会への還元もしたくないので、税などの軽減をしてもらえるように、国にロビーイングをするようになりました。要するに政治献金をしたり票集めをするから代りに企業の便宜を図ってくれというわけです。
 それで、何が起こったかといいますと、先進国内での失業者や低所得者や保障のない契約社員やパートが増えた、というのは、まだいいんですが、富の90%を10%の金持ちが握っているというようなアンバランスと連動して、地球規模で格差が広がり、地球上の人間のマジョリティは貧困と病と内戦の中で暮らしているわけです。インディアンを抹殺しなくても、かってにどんどん死んでいくわけです。奴隷制を復活しなくても最低賃金で働く人もいくらでも調達できるわけです。しかも途上国の多くは金の論理で動く独裁者によって治められています。
 そこで、尊厳を傷つけられた人々は、絶望して原理主義やテロリズムにはしるわけです。アメリカはそんなこと見ないふりをして自分ちに鍵をかけて、銃や核で武装してたんですが、9・11に自国をテロリストに攻撃され震え上がり、あわてて愛国法を作り、徹底防衛体制に入ったわけです。自衛だけでは足りなくて、塀に囲まれ24時間セキュリティ大勢の大規模な Gated community に住みたがり、本当は、国中を Gated community にしたいわけです。その表れが、盗聴や監視カメラの正当化と蔓延です。銃所持の許可と同じくピューリタンの神経症的自助精神の法的表現なのですね。
 そして、長くなりましたが、今回の「共謀罪」というのは、どういう理屈をつけているにしろ、基本的には、そういう、今のアメリカのパニックと連動しているのだと思います。既成の法律を適用することで違法行為の共謀に対処することを考えず、出来るだけ広く新しい危険の幅をとっておきます。でも、日本にはピューリタン的なメンタリティがなく、伝統的に、外的の侵入を想定しない、引き戸の長屋とか縁側からこんにちはの社会でしたよね。今でこそ「外人が増えてぶっそうだ」と言われたり、アメリカ風セキュリティのマンションが流行ったり、監視カメラもたくさんつけるとか、駅や道路のくずかごを取り払うとか、どんどん変わってきていますが、そしてネオリベの格差社会が来ると言われていますが、そんな警戒心や闘争心むき出しの競争社会はもともと日本人に向いてないんですよ。
 「ぶっこわされる」前の自民党の護送船団方式とか、中央から地方に金を還元するとか、談合体質の年功序列でそれなりののどかな繁栄があったわけです。しかし金には国境がなく、株式は誰にでも買え、世界は一部のトランスナショナル大企業の私物になりそうです。だから日本も生き残るための「改革」は迫られているのですが、だからといって、それがアメリカ式のネオリべで格差社会を助長し、びくびくして鍵をかけて武装してテロリストにおびえるような方向でいいものでしょうか。中東など、せっかく、非白人で非キリスト教の先進国日本に好感情を持ってくれているのに、イラクには自衛隊を送るし。つまり、「共謀罪」は、「すごい悪に対する対症療法なんだよ]と言っても、その「悪」の構造を、日本人のメンタリティにも立場にも反する形で、地球規模でさらに深めていく流れにあるから、よくないんです。その居心地の悪さを意識化したり言語化したりできないから、論議があいまいなのだと私は思います。
 実は、5月18日発売の新潮45にフランスのCPEについての記事を書きまして、その中で、この「尊厳を奪われたテロリストが跋扈するネオリベ世界」を何とかできないかということを解説しました。ここに書いたようなことです。私はこの世界で、強いものの「強さ」、「大きいもの」の「大きさ」は、「より弱いものやより小さいもの」に捧げ仕えるるためにあるべきだと思っています。それは相対的なことで、誰でも、たとえ、アメリカ東部のWASPのエスタブリッシュメントの健康な男だって、いつかは老いや病や死によって弱くなります。誰かが今強くて大きいのは、成果主義やメリットとは関係がないし、弱くて小さいのも、その人のせいではない。家族レベルでも、地球レベルでも、力や富を循環させて、相対的弱者の尊厳が守られる世界に生きたいです。そのためには、「信頼」が存在できる社会が必要で、「共謀罪」は、日本人が島国の平和で培ってきたそんな漠とした「信頼」の夢を破るもので、多くの人はそこから目をそらしていたいのかもしれません。

38古川利明:2006/04/30(日) 18:32:44
知識人の役割
 このアメリカ(アングロサクソン)のピューリタニズムに切り込んだ竹下さんの共謀罪に対する根源的な批判は、実に鋭く、非常に冴えていますよね。最近はあまり流行らなくなりましたけど、ふと、「知識人の役割とは」ということに思いが至ります。この「知識人」という語は英語や仏語でどう表現するのかわかりませんが、かつてレイモン・アロンでしたか、邦題で「知識人の阿片」という本を書いていましたし、「9・11」以降、いちばんシャープな言説を吐いてきたチョムスキ、ーが繰り返し、「知識人であることの役割と責任」ということも言及しているんですよね。私の周りでも、普通の人は会社に勤めていて、夜遅くまで残業で働かされていて、こうした共謀罪のような危険な法案までなかなか思いをめぐらすことは難しいですよ。でも、鋭敏なセンスビリティを持っている人であれば、「何か変だぞ」というカンは働くと思いますが、じゃあ、「どこがどういうふうに具体的におかしいのか」という部分まで、言葉として表現はなかなかできないですよ。そこの壁を埋めるために、「知識人(という名の有閑人)」が存在し、警告を発する役割を担っていると思います。私は100歩譲って、日本の政府与党が、アメリカの愛国者法猿真似のこんなトンデモ法案を成立させようとするのは、まだ、理解できるし、全然、許せるのですよ。だからこそ、こうした権力の横暴にきちんとした批判を加え、まっとうな方向に持っていかせるのが、まさに「知識人の役割」でしょう。劣化がひどいんですよ。こういうときに文明的な視点から、きちんとした批判行為ができなかったら、何のために学問を身につけているのか、と言いたいですよ。同じ慶応仏文出身ということで、敢えて、今回は名指しさせていただきますが(少なくとも私には批判する資格がある)、福田和也に荻野アンナが「沈黙」してますよね。こういう動きが起こっているのをもし、知らないのであれば、「無知」ということですし、もし、知っててどう言っていいのかわからないのであれば、「無能」ということですし、知っていても敢えて見て見ぬフリをしているのであれば、「野蛮」、「臆病」ということでしょう。いったい、何のためにフランス文学を、そして、フランスを研究してきたのでしょうかね。新潮45は福田和也が連載を持っているので、竹下さんの論文が掲載される来月号でどんなことを言ってるか、注目ですね。

39M.yagi:2006/05/02(火) 21:49:41
共謀罪・感謝
詳しいご説明有り難うございます。
拙ブログの方でも後ほどご紹介したいかと。
やはり嫌なにほひぷんぷんですよね。

40M.yagi:2006/05/02(火) 21:51:03
そういえば
右さん達のマドンナ、桜井よしこさんも反対意見を出しましたね。

41Sekko:2006/05/10(水) 02:39:21
新刊お知らせなど
 共謀罪、その後どうなりましたか?それなりに盛り上がりましたね。障害者自立支援法案の時にも、もっと何とかならなかったかというのが心残りです。
 今日5月10日、中央公論新社から『レオナルド・ダ・ヴィンチ−伝説の虚実』という単行本を出します。哲学、エゾテリズムから、欧米比較まで、マニアックなところから最近興味をもっている分野まで、ちゃんとつながってるお気に入りの1冊なので、ぜひ、お読みください。今日発売の『文藝春秋』にもダヴィンチ・コードについて記事を書いているのですが、その奥座敷がこの本です。
 18日発売の新潮45にCPEの話を書いたのですが、編集者と話していると、結局フランス人の反応は日本人には全然分からないのだ、と言われてしまいました。それで、説明ばかりしてるうちにあまり本質に切り込めなかったかも。記事からカットした部分をそのうちこのサイトに載せましょう。
 このところ、書下ろしをひとつと、聖ヨセフに見られる父親像、18世紀啓蒙時代のフェミニズム、無神論の系譜、の3テーマの資料読みのほか、奴隷制と植民地主義についてあれこれ調べています。日本人は黒人と直接の接触がなかったので、また幸いだれからも組織的な奴隷にもされなかったので、わりと良心の呵責が少ない分野かと思っていたのですが、調べれば調べるほど、「痛い」話です。そのうち一部を考えるタネにUPしておきます。西アフリカの黒人奴隷制に対して、啓蒙主義者はおかしいといって、ヨーロッパではフランス人が最初に廃止したのですが、それが、もろ植民地政策につながったのです。フランス革命がテロルに逸脱したり、フランス人は志は高くてそれを実現させるエネルギーもあるのに、すぐ低きに流れて、理念を消化してないことを露呈してくれます。でも20世紀の終わりに奴隷取引に関わった国で唯一、奴隷制を人類に対する罪にわざわざ認定するなど、ちゃんとつじつまを合わせて責任を取っているのは偉いかも。昨年春の法案の中で植民地に関するポジティヴな見解を入れて批判された条項もあっさり削除したし、それなりにけじめをつけるのは好感があります。
 とにかく、植民地とは奴隷制の発展的解消なんですよ。それが理解できるとショックです。そして、「相手に選択の余地のない安い労力を調達して自分の生活のグレードを上げると」いうことの快楽って、原罪のようにどこかにあるような気がします。親からすべてを享受していた赤ん坊の万能感の名残なのでしょうか。全ての悪は何と人間的なのでしょう。怖いです。

42M.yagi:2006/05/10(水) 05:16:34
お疲れ様です
新刊、愉しみにしています。(なんせレオナルド先生だし)
共謀罪はあちこち読んでますが、ネット上は議論が出ていますがマスコミはあまり興味がないように感じられます。で、国会でやり合っている最中のようですね。不備等が指摘されているようです。

先日、ルワンダの虐殺についての曾野さんの本を読み終えましたが、アフリカにおける欧州のやり方は褒められたものではないですね。フランスが武器を流し続け、あのフツによる虐殺が起きた等。その辺りも興味深いところです。
奴隷制に関してはローマ時代の奴隷のあり方ってのも面白いですね。ギリシャ人の教師奴隷とか。威張っていた。
寧ろ近代の奴隷制や植民地主義の方が酷いのではないか?などとも思います。この辺りは進化論やプロテスタンティズムも関わってくるのでしょうか。

43Sekko:2006/05/10(水) 18:11:33
シラクの日本口座など
レオナルド、島に送ってもらうように頼んでます。そろそろ・・・?
なんせ私自身、離島にいるようなもんで、状況がよく分からなくてすみません。
 古代の奴隷は皆、被征服民でした。 敗者が勝者の奴隷になるわけで、人種的じゃないので、歴史の中でまた陽の目を見る可能性もあったわけです。でも、黒人は黒人であることをやめるわけにはいかないので、人種として否定されたことになります。しかし道具(特に武器)の優越というのは、人間にとって本質的に見えるのでしょうか。ヨーロッパが「未開」と出合った時に、自分たちの優位が自明に映ったのは事実なのでしょう。ブラック・アフリカの資料を見てて、服がミニマムな文化というのが「野蛮」に見えてしまうのは、私も温帯モンスーンの人だから? 服をいっぱい着て、サヴァイヴァルの工夫を日常的にしているエスキモーに対しては、「未開人」だから奴隷にしたりその後植民地にしたりって、ありませんでしたよね。やはり寒いか暑いかっていうのが、人間の欲望のシステムに大いに関係するのでしょう。
 フランスではクリアストリーム・スキャンダルで、与党の大臣たちの多くが裏金問題を追及されてます。昨日からはついにシラク大統領が1992年に日本に60億円の口座を開いたというのが出てきました。調書にはSOWAバンク
とあります。そんなのありましたっけ? SANWA がSAUWA になってSOWA とか? 日本の銀行の名ってしょっちゅう変わるし、とてもついてけません。シラクのLe souci(心配事) をSOUSHI=Sushi(寿司)にかけて、今日のカナル・アンシェネに大きく出てました。

44M.yagi:2006/05/10(水) 18:28:33
ええ〜〜〜!!!
恐縮です。どうしよう。今から愉しみです。有り難うございます。
奴隷システムはそうでしたね。互いが交換されたり、文明同士というのは分断があれどそれなりに対等ではあるものの、「アフリカ」という異文化がヨーロッパ人にとって動物的に見えたのが「衣類」っていうのは面白いですね。
うちの島も暑いのでお洒落なものは持っていてもしょうがない。自然だらけた風になりますが、戦前に体験した本土からの差別の一つの要因にそのような見下しがあったのでしょうか?
そういえば今、三和ってないですね。
東京相和銀行というのはあります。色々怪しからん過去があるようです↓
http://tostar.s70.xrea.com/wiki/wiki.cgi?%C5%EC%B5%FE%C1%EA%CF%C2%B6%E4%B9%D4

45Sekko:2006/05/11(木) 17:33:34
レジオンドヌール
ふーん、この相和ってのはそれっぽいですね。会長だった長田という人がフランスの勲章レジオンドヌールを受けていたというのがめちゃ怪しいですね。シラクが子供の母親に銀座の画廊を開かせたという例のゴシップとも関連してそうだし。
 服装と文明の程度の誤解というのはおもしろいでしょ。確かに蒸し暑いとことか虫の多い気候のとこではレースとか刺繍とか発展しないでしょ。夜が長い、虫が少ない、重ね着が必要なくらいに寒い、とかないと。そして人間って服込みのイメージですから。変な話、黒人だって、露出部が少なければ肌の色の差も目立たなかったし。しつこいですが、エスキモーの肌の色なんて、ほとんどわかんないし、彼らの軽装なんて想像しにくいじゃないですか。逆に、ドイツの優生思想と連動していたヌーディスト・クラブなんて、はっきり言って見た目は醜いんですが、思い切り倒錯的な優越感があるんでしょう。

46古川利明:2006/05/12(金) 20:51:12
コウモリ男、暗躍か?
 フランス政局も「裏金スキャンダル暴露合戦」の様相を呈してきて、なかなかオモロクなってきましたね。ただ、そのドビルパンのサルコジに対する裏金の調査指示、そして、シラクの旧東京相和銀行(現・東京スター銀行)の秘密口座の話も、どこまで信憑性があるかは別として、ネタの「出所」が、どうもコウモリ男臭いですね(笑)。だって、フランスの内務大臣っていうのは、日本でいうところの総務大臣兼警察庁長官でしょう。正規の官僚機構から上がってくる情報に加えて、個人的な人脈も絶対に持っているあるはずですから、そこらあたりから、ワン・クッションなり、ツー・クッション置いて、足がつかないように、情報の「ロンダリング」を図って、マスコミにリークしているような気がしますね。私に言わせれば、内務大臣のポストにいて、政敵(=ドビルパン、シラク)のスキャンダルを徹底的に洗わなかったら、ただのおバカさんですよ。そのシラクの口座預金について、思うのはちょっと「額」が大きすぎますね。もし、仮にあったにしても、桁が一つ多いような気がします。日本とフランスでそうした「政治とカネ」に関する相場がどれくらい違うかは、よくわかりませんが、日本円で60億円っていったら、相当な金額ですよ。あの金丸信ですら、ワリシンなどの隠し資産で、せいぜい5億程度でしたから、そのあたりが私としては非常に眉唾ですね。私はむしろヘソ曲がりなので、こういう状況であるがこそ、断固、今こそ「シラク支持」を打ち出しますね。3選出馬してもいいです。

47古川利明:2006/05/12(金) 21:05:06
共謀罪、その後
 共謀罪の方はその後、例えば、桜井よしこが反対の意思表示をするなど(といっても、ちょっと微妙なスタンスではありますけどね)、私がブログで最初に書き始めたころに比べたら、かなり盛り上がってきました。日和見を決め込んでいた売文業者たちも、ここにきて(まあ、アリバイ作りもあるんでしょうけど)、反対の声を上げ始めました。あと、一息ですね。結局、今の国会の会期が6月18日までなんで、戦術としては会期延長を封じ込め、「時間切れゲーム・オーバー」ということです(笑)。だから、小泉とも手を組むんですよ。

48Fusako:2006/05/12(金) 22:31:11
レオナルド
ご本はもう発売になったのですよね。読んでみよう。楽しみです。
わたしの好きなアメリカの作家で、カニグズバーグという人がいるのですが、この人が、レオナルドについての小説、それから、エレアノール・ダキテーヌについての小説を書いていまして、秀逸。レオナルド小説は、彼のもとで働いたサライという青年の視点から書かれています。(ナントカ・コードは読んでいないです。)

49Sekko:2006/05/17(水) 16:06:03
ナントカコード
 ナントカ・コードの映画は、昨夜カンヌでプレス関係者2000人に向けての試写会があったのですが、終わったあと拍手なしで、口笛を吹く人も、というさんざんな様子だったらしいです。パリの一般公開は今日からです。今日は昼間は生徒たちが来て夜はお芝居に行くので見にいけませんが、明日観にいこうかな。
 サライって不思議な人物です。あんまりひどいので、レオナルドの隠し子かと一瞬思ったのですが、そうでないようだし、では何であんな男を? 美貌だけで我慢できたのか? 精神の気高さなんて関係がなかったのか・・・レオナルドはひょっとしてマゾ? 晩年にメルツィがやってきて救われた感じです。私の中ではサライの居場所が見つけられません。ミケランジェロのところにいたら、1日で追い出されてたろうなと思います。

50Fusako:2006/05/17(水) 23:27:38
サライ
わたしは、サライ、って、このカニグズバーグの本、「ジョコンダ夫人の肖像」The Second Mrs. Gioconda 、でしか知らないんです。ここでは、そうですね、生のままの人間、子どものような無垢な欲望を体現した者、として描かれていてとても説得性がありました。

51Sekko:2006/05/19(金) 05:43:14
ダ・ヴィンチ・コードの映画
 ダ・ヴィンチ・コードの映画、パリでは昨日から上映なので、今日(18日)、観にいってきました。
最近映画に行ってないのですが、ダ・ヴィンチ・コードは私のダヴィンチ本のきっかけをくれた本だし、最近『文藝春秋』にも記事を書いたので、一応見ておこうと思って。
 いろんな視点によって変わると思うのですが、まず、キリスト教のことを特に知らず、原作も読んでない普通の日本人の視点で見ると、多分、何言ってるのかよく分かんない、です。原作には、さすがに長編だけあって、あることないことたくさん書かれているので、「そうか、分かった」と感じた人は多いと思いますが、映画では、当然細かいことが抜けてるので、「???」です。スリラーとしても中途半端だし。
 次にキリスト教やカトリックのことを普通に知っている普通のフランス人の視点で見ますと、いくらフィクションと思って見ても、メインのテーマがあまりにも違和感があって、全く楽しめません。だってマグダラのマリアの棺が実はルーヴルの地下に眠ってるというのがラスト・シーンなんですが、文春にも書きましたが、普通のフランス人にとって、マグダラのマリアの墓所は秘密も何も、真偽は別として中世以来の大巡礼地だし、その信仰は聖母マリアに匹敵するくらいポピュラーなのですから、今さらヴァチカンがそれを必死に隠してきたと言われても・・・映画でもっとなんとか脚色できればよかったのに、原作に忠実にと言うのが絶対条件だったらしく・・・原作はとにかく長いので、変な中心テーマもそれなりに希釈されてしまうのですが、映画ではごまかしがきかなくて、宗教や教義や信仰がどうのというより、「ポピュラー常識」とあまりにもかけ離れた部分がここまで強調されると引いてしまいます。
 キリスト教にそれなりの知識があってかつ原作を読んだ人の視点からこの映画を観ると、「原作の方が面白い」に尽きます。原作の方が、映画のシーンが脳裏に浮かんで、テンポもいいし、わくわくエンタテインメント感もあり、映画で観てみたいというのがありました。実際映画になると、まあ大画面で夜のルーヴルやパリやロンドンなどを楽しめるというだけで、俳優たちもやることが大してないので不全感があり、もったいないという感じです。(個人的にはシラスというアルビノスの修道士が、灰色の目のもっと怪物っぽい大男を想像していたのに、ナルシスティックな青い目のお兄さんで、ロシアのダンサーみたいだと思いました。)全体的にはがっかりという感じでしょう。
 最後に、キリスト教の知識とかがなくて、映画の原作によってはじめてキリスト教のタブーに触れたとか陰謀史観の薀蓄に感動したとかいう人たちの視点です。これが私には想像不可能です。タブーや秘密をヴィジュアルに堪能できて満足なのか、本の方が信頼感をそそられて、映画は物足りなかったと思うのか・・・
 今はスリラーでもレべルの高い映画がたくさんあるので、この映画はプロはもちろん一般観客を感動させるのは無理だと思います。ハリーポッターやナルニア国のほうがずっとまし。 私の訳した『聖骸布の仔』という小説にも映画化の引きがいくつかあるようなのですが、そっちの方が断然期待できそうです。しかし、カンヌ映画祭は一昔前はハリウッドから見向きもされなかったのに、今は、すごい経済効果をあげているそうです。ネオリベラリズムの行き着く先がカンヌ映画祭のダ・ヴィンチ・コードかと思うとショックです。宣伝って何?金って何?ベストセラーって何?という感じです。

52M.yagi:2006/05/20(土) 18:44:13
本が届きました
竹下先生の本が届きました。
もう世間はダ・ヴィンチコードネタがあちこちで交わされていて、丁度タイムリー。
ちゃんとした本を読んで溜飲でも下げないと。
と本ネタばかりが飛び交ってる状況じゃぁ脳味噌が腐りそうで(^^;
・・・・・・・・というわけで私の脳味噌の健康のためにも嬉しく思います。
有り難うございます。

サライですが、、、たしかにいいトコなしですね。この小悪魔を手元に置くレオナルドの屈折した心理ってのはなんでしょうね。彼の行動を観察しながらなんらかのカタルシスを得るものがあったのかもしれません。

53Sekko:2006/05/24(水) 16:09:46
ダ・ヴィンチ・コードとヴァチカン
ダ・ヴィンチ・コードとヴァチカンについてのコメントを宗教のコーナーに入れました。

54KAORU:2006/05/27(土) 16:59:28
自分探し
竹下様。最近ちょっとした事件が私の周りであり、ご意見を伺いたく思いました。
事件というのか、私の友人(43歳の女性)のダンナさんの浮気問題なのです。
この夫婦は本当に仲がよくて、ダンナの浮気なんて露とも想像していませんでした。
このダンナさん、すっごくまじめなそして優秀な人で、自営で仕事をしているほか大学で経営学を教えたりもしてるんです。
が、まじめすぎて「人生とは?生きるとは?本当の幸せとは?人間とは?」とかそういうのを追求しすぎて、
とある心理系ワークショップで会った10歳年下の女性にころっと参ってしまいました。
「あなたは、奥さんといる限り、人間的に成長できない」とか言われて、友人である奥さんと離婚するつもりになっています。
で、このダンナと浮気相手がはまっているのがとある大学の先生の論で、この人、本をいっぱい出していて、私も参考までに本屋で立ち読みしました。内容は、純粋な心を持った人は生きにくい、とか、自分のやりたいことをやれそのためには手段を選ぶな、とか、人の目を気にしてどうなる、とかそういう人生訓みたいのをいっぱい書いていて、とにかく薄っぺらいし、なんでこんなのにはまる人がいっぱいいるのか、それも立派な職業を持った40歳を過ぎた人(ダンナのこと)がはまるのか、不思議になるような本なんです。
ダンナさんはすごく頭も切れるし、これまでに哲学系の話とかで結構盛り上がったこともあって、
すごくものごとをよく考える人だなぁと思ってました。
今回の件は「なんで東大出てそんなしょーもない新興宗教にひっかかるの??」というのと似た感じがしました。
なんか、変な世の中ですよね。

55Sekko:2006/05/27(土) 17:02:03
大変ですね
この手の罪作りなワークショップとか、セミナーはすごくたくさんあって、マインドコントロールだと思うんですが、
多くの場合は、コントロールされることをどこかで望んでいる人が引っかかるもので、健康で生活も安定していた大人が
自発的に引っかかる分には、もうどうしようもないです。
 40にもなって、不惑じゃないですが、それ以上「成長する」ために、自力でできないでグループセミナーを頼ったり、
奥さんなど第三者のせいで成長できないなどというのは、実は大人になっていないんですね。
人生で、もうちょっとこうしたいとか、ひょっとしたらこうなれるかも、とかいくら思っても、
「だめなものはだめ」というのが私の実感です。自分を「高めたり」「成長したり」「幸せになったり」というのは、なろうとしてなれるわけではなく、とりあえず自分より弱い人や小さい人に手助けをしながら生きていけばいいんですよ。
ましてや自分を頼る人を踏みつけにしたり、不幸にしたりしながら「成長」も何もありません。自分というのは近くにいる
他者との関係性の文脈にしか現れてこないんですから、「自分」という素材があってそれを見つけろとか磨けとか実現せよという
言辞は全てまやかしだと思います。特に他人からそれを言われる場合は。

56にいく:2006/05/27(土) 22:14:36
胡散臭さの正体
はじめまして。
私は「自分を高める」「自分を磨く」という表現を見るたびに、いつもなんだかヤーな感じがしていたのですが、KAORUさんへのお返事で竹下先生が書かれたことを読んで、その理由がよくわかったように思います。「自分を高める」ことや「自分を磨く」ことは決して目的とすべきことではなく、まず自分のできることとして周囲の人たち(「人類」とかじゃなくて)に目を向け、何かできることがあれば手助けする。そうしているうちに自分が「高められたり」「磨かれたり」することはあるかもしれないし、ないかもしれないけれど、それはあくまでも結果であって、それ自体を目的とすべきではない。というか、それを目的としている限り、本当の「成長」はありえないでしょうね。
頭の中にもやもやと漂っていることを、竹下先生がご著書やこのサイトで明確な言葉にしてくださっているのを読むと、本当に晴れ晴れとした気分になります。

57Sekko:2006/05/28(日) 18:57:38
自己実現
 私の翻訳した『聖骸布の仔』という小説の解説(帯裏にも転載されてます)にこう書きました。「本書が秀逸なのは、ヒーローが数々の試練を経て、または啓次を得て、人間的に成長していくというただのイニシエーション小説やニューエイジ風の自己実現小説とは一線を画し、人は、「ありのままでい続けて、なおかつ成長できる」という驚くべきメッセージを発していることだ。」
 要するに私はニューエイジ風の自己進歩史観が苦手なのです。それは、たいてい、他の烏合の衆とは違う解脱やら悟りやら超人やらを目指しているみたいなので。そういう人に限って、「まず世間並みになることをめざせば?」といいたくなる人も多いです。それに、自己、自己と言ってますが、所詮、他人より偉いとか、他人から認めてもらえるとか、他人から羨まれるとか、他者を基準とした市場価値みたいなものが入り、自己実現って、自己満足のことかと突っ込みたくなります。また、他人によって高められたいとか磨かれたいという根性もちょっと卑怯な気がしてました。たとえば、「自分を高めてくれる人と結婚したい」なんていう女性よりもまだ、僕が妻子を養わなければ、と思っている男の方が潔いと思ってます。キーワードはやっぱり「assumer」かしら。他人を巻き込んで自分が選択したことを投げ出さない、というのは基本ですね。
 たまに私に向かって、「あなたはいいわよ、自己実現してるから、」という人がいます。私が「自己実現って何?」と聞くと「ほら、本を出してるし」という答え。しかし、私の本は、援けてくれる編集者や、スタッフの方や、共感してくださる少数の読者とのかかわりの中で、多くのものを受けながら少しでもお返ししたいという気持ちで、本来なら「何もしないのが一番楽」という怠け心と戦っている日常の、終わりのない苦労が時々形になるというものであり、しいて言えば、ある種の関係性の実現です。その関係性がまた、育って、こういうサイトにつながっています。
 私の友人で中古の医療機器をアフリカに送るNPOをやっている人がいて、そのパンフには「Ce qui n’est pas donne est perdu.(与えないものは失われる)」と書いてあります。私がそれを別の人に見せたらその人は、自分は昔から「Ce qu’on donne aux autres murit, ce qu’on garde pour soi pourrit.(他人にあげるものは実を結ぶが、自分のためにとっておくものは腐る)」と教えられて育ったといってました。形のないものでもそれは同じだと思います。

58KAORU:2006/05/29(月) 12:38:56
自己実現
竹下先生、にいくさま、ありがとうございます。
私も自己実現とか、自分探しとかいう言葉にイヤな感じを持っていたのですが、竹下先生の文章を読んできがつきました。
自己実現という言葉の中には、「自分だけ」っていうのが入ってる感じですね。「自分を大切に」とかいうのもよく聞きますけど、それって「自分を最優先で」という風にも聞こえます。そんなに自分が大事か〜?って思います。イヤ、もちろん大事なんですけど、他者を蹴落としてまで・・・ていうところがあります。
その友人の夫と浮気相手がはまっている本の中に「自分のやりたいことをやらなくてどうする。自分のやりたいことをやるためなら他人を殺す(!)ぐらいの覚悟がなくてはだめだ」とか書いてあるらしいです。やりたいことってどうせたいしたことじゃないだろ〜とか思います(奥さんのいる男の人を離婚さす、とか)。こういう本を出そうという編集者も疑います。ま、よく売れてるようなんで利益はあがってるんでしょうね。

59Sekko:2006/05/29(月) 16:50:10
Passion
「自分が大事」というのは、動物としてある程度、すでに自己保存の本能として組み込まれていると思うんですよ。その本能に輪をかけて文化で補強しなくてもいいと思うんです。たとえば食べる本能をグルメな文化にしていくというのはわかります。それこそ、ただ自分が生きるために食べるところから他者と分け合って楽しむ方へ進化する感じだから。つまりむしろ「自分大事」からいかに離れていくかというのが文化や教養のような気がするんですが。
 「やりたいことをやるためには・・」という話も、たとえば私のやりたいことは遠くはバロックオペラの演出、近くは毎週のトリオの練習ですが、それはやはりPassionなんですね。情熱と訳されますが、キリストの「受難」という意味もあるように、本来受身のpassifと同じで、自分がこれをしたいというより、抗いがたく、無理やりさせられているような・・・恋愛にもこういうことはあると思います。不倫でも。そういう時は、やりたいことをやるためには邪魔者を取り除いてでも、というんじゃなく、すごく苦しんで、抵抗しても、どうにもならなく、それでもせめて他者への害を少なくすることを目指して努力するとか、passionの実現には、自分の払う犠牲が一番大きいのが当たり前です。他人を踏みつけようなんて、それはただのわがままですよね。そういえばこのわがままって言葉、なかなか含蓄がありますね。「我儘」、自分のままだったら人迷惑なんですから。そんな「自分」を探すなよ、と言いたくなります。大体、生きることは自分を矯めていくことで成り立ってて、たまにパッションに翻弄されたり、うまくいくと、ひとさま(これも奥ゆかしいといえば言えることばですね)のお役に立てたり、喜びを共有できたり、じゃないでしょうか。

60KAORU:2006/05/30(火) 19:28:17
自分って
竹下先生のお話、盛り沢山な中身でいろいろ考えさせられます。
自分という存在が他者なくしては成立しえないこと(ソシュール思い出しますね)も当然のことなのに気がついていませんでした。
自分大事から離れていくこと、passionのために自分の払う犠牲の方を大きくすることって、”愛”でもあるような気がします。文化や教養のそこに流れているのは大きな愛かなぁ、とか妄想したりして。。。

61にいく:2006/05/30(火) 23:42:38
自己啓発本
「ニューエイジ風の自己進歩史観」という言葉が出てきましたが、放っておいても肥大しようとする自己をわざわざ肥大させようとする自己啓発本やセミナーは、ニューエイジ・ムーブメントが起こったころのアメリカ西海岸あたりから出てきたものなのでしょうか。ニューエイジといえば、自然や宇宙との合一みたいな、「自分」の外に出ていくイメージもありますが、それでもなんだかやっぱり怪しい。自然や宇宙のエネルギーをもらって、自己をさらに肥大させようという魂胆があったりして? 結局、他者への思いが欠けていれば、自分の内側を見ても外側を見ても、近くを見ても遠くを見ても、どこかピントが狂っているのかもしれません。
 ところで、フランスにも自己啓発本ってあるのでしょうか。少なくとも日本では、その手のフランスの本の訳書はあまり見かけないような気がします(といっても、英米以外の翻訳書の占める割合は低いので、当然と言えば当然かもしれませんが)。よくも悪くもナイーブなアメリカ人に比べると、老練な(?)フランス人はそう簡単にはハマりこまないように思えますが、いかがでしょうか。

62Sekko:2006/06/03(土) 08:03:44
やめよう自己実現、咲かそう小花
 フランスにも自己啓発本ありますよ。でもほとんどアメリカ系ニューエイジの輸入、翻訳です。たいていはエゾテリスムとかオカルト本のコーナーにあります。精神世界系の見本市に、お香や健康食品や開運グッズと一緒に並ぶのもこの手の本で、まあ一定の需要はあるわけです。でも、平均的フランス人は、確かに、もっと、現世を単純に楽しむ志向の方が強いです。
 ニューエイジ・ムーブメントの発端には、中国に侵略されたチベットから僧侶が欧米へ亡命したことではじめて欧米が密教系(修行系)仏教と内輪で接触したことがあります。瞑想法とかヨガとか呼吸法も含めて。特にアングロサクソンのピューリタン系の「禁欲的な精進と出世」イメージが、規範社会から少しずれた形で展開して、「自己を高める」に繋がったのではないかと私は見ています。これに対してカトリック社会では、禁欲生活は修道会に任せて、一般信徒は緩く生きるのが伝統だったので、「がんばって成り上がる」式の志向は優勢ではありません。だから、自己実現(realisation de soi)とか自己啓発(developpement de soi)とかはSself−actualizationなどの訳語としてはあっても、自然なフランス語ではないようです。フランス語でぴったりのこの手の言葉はむしろ自己開花(epanouissement de soi)かもしれません。それは、各自がどんな植物として生れたかによって咲かせる花も違うわけで、仕事で花咲く人も、美食で花咲く人も、家庭でも趣味でもいいので、努力して咲く人も、ただ運がよくて咲く人もある、体系化されたメソードがあるわけないし、あるべき姿や理想もなく上下関係もないという感じです。
 問題は、仏教ではもともとこの世でのさまざまな煩悩、執着を取り除くための「方便」として自己を立てて訓練していくという方法論になっているので、最終的な目的はむしろ「エゴから自由になる」ことなのに、ニューエイジの文脈の中では、「解脱してステージの上がった自分」とか「超能力を獲得した自分」「潜在能力を伸ばした自分」とか「世界の終わりが来ても生き残れる自分」になることが目的にすりかわっていることです。それは、ピューリタン的な自由競争とも親和性があり、「人より努力した者が人より報われる」成果主義や優生思想にもつながるわけですね。
 もちろん、人生で仕事のスキルを上げるというようなことは必要です。筋トレに励むのも、スポーツなどの記録に挑戦するのもいい。でも、たとえば猛練習してチャンピオンになった人が、だから信頼できる立派な人間だといえるでしょうか。チャンピオンの中にも、チャンピオンでない人と同じように、エゴイストもいればそうでない人もいるでしょう。同じように、修行してたとえば空中浮揚できるようになったとして、それが人間の品格と何の関係があるでしょう。(現に偉大な宗教者はどの文化でも、超能力は聖性獲得に至る修行におけるアクシデントのようなものだと言っています。それを他人に還元できるときにのみ意味があるのであって、自己の価値とは関係がないわけです)
逆に、寝たきりでも周囲の人に暖かさを分けてくれるオーラのある人もいます。仕事のスキルや身体能力、あるいは超能力を高めることと、「自己を高める」ことはあきらかに別物です。自己の価値とは常に他者をリスペクトする関係においてのみ現れてくるものだからです。けれど、そこをごまかして、「自己実現して救済を得よう」などというノウハウを売るカルトなども存在します。
 あるいは、ある特定のライフスタイルを称揚して、それに近づくのが自己実現の道のように扇動するメディアもあります。そんな抑圧的言辞は、執着から自由になる境地を目指す本来の仏教からも遠く離れています。
 自己実現とか、自分探しとかに惑わされるのは、もうやめましょう。
毎日のちょっとしたことで時々小さく開花する気分を楽しみ、生活で求められるスキルは地道に高めるよう努力し、獲得できたものは、何らかの形で分け合い還元する。それでも、前に書いたように「だめなものはだめ」。それを見極めたり認めたりする「分別」を、試行錯誤しながら高めることが大切だと思います。もちろんその方が、レディメイドの「理想のライフスタイル」を獲得したり「勝ち組」に参入したりすることよりも、ずっと難しい茨の道だったりしますけど。

63Sekko:2006/06/04(日) 02:14:16
正法眼蔵
 今、講談社の広報誌『本』(5月号)を読んでたら、その中の「『眼蔵』を読む』という連載の仏性の注解で、菅野覚明さんが、「自己実現の誤解」とそっくりなことを書いていたので、そういうことは昔からあるのだなあと感慨を覚えました。
 道元は当時の次のような誤解を徹底的に断ち切ろうとしたというのです。その誤解とは「仏とはスーパーマンのようなもので、我々凡夫の内にも、仏になる素質(仏性)が眠っている」という「抜きがたい思い込み」です。
 一切衆生には仏性があるがそれはどのようにしてあるのかという問題形式で議論されてきた伝統的仏性論では、仏性は「元出」のようなもので、修行という事業でその元手を増やし、悟りという財産を得、仏とは罪をなした大金持ちのようなものにイメージされます。
 道元は、その上流にある「十聖三賢」(菩薩のように、凡夫から仏への中間段階の高い階位)には仏性の道理は決して理解できないといいます。それは、悟りとは、正しく知ること自体であって、知って得た「もの」ではないからです。悟ること、悟る営みとしての修行の形において仏性が存立するので、仏性、修行、悟りは同時に成立する、というのが道元の考え方だそうです。
 これを自己実現に当てはめますと、「自己という素材を掘り起こし探り当て、自己啓発で加工して、自己実現で完成品にする」というのが「抜きがたい思い込み」なんですね。で、完成に近づいたという自負のある「十聖三賢」のカリスマ何とかとかリーダーとか、カルトの教祖のような人は、自分たちを理想のモデルのように提示したり、されたりするわけです。それを見て、凡夫は自分の中にも磨けば輝く「本来の自己」的な素材があるはず、とそれを探し、育てて完成させなきゃと思いがちなのですね。
 でも道元風に言うと、そんな自己の「発見」も「啓発」も「実現」も、みな、「正しく生きる」という営みに吸収される、生きることと同時に成立するわけです。他者との関係性を生きる中で自己が発現してくるので、それは素材でなく、即実現であるわけです。ここで「正しく生きる」というのは、とりあえず、他者の「生きること」を阻まない生き方、関係性の中で生きることから生じるいろいろな不都合を、できるだけ自分で引き受けるということかと思います。
 そう思えば、そんなに難しくなく、道元も「無知無学の六祖」を「十聖三賢」に対して挙げています。しかし、昔から、どの文化でも「修行系上昇志向の誘惑」というのは大きく、すぐ規範的に働きますね。
 「Boys be ambitious」の「大志」はambition 「野心」でもあります。大志というのは抱くとすぐに野望とか野心へ引っ張られる誘惑にさらされているんですね。一人の人の大志が多くの人を救うこともあれば、野望が多くの人を踏み潰すこともあります。道元をはじめ、古来の賢人がいろいろ警告しても、エゴイズムや集団エゴイズムからはなかなか抜けられません。伝統宗教ですら大昔から模索しては失敗しているのですから、ニューエイジや新宗教が「自分大切」にシフトするのも無理がないですね。ましてや、それが一見して「地球大切」のエコロジー原理主義とか、ナチュラル志向とか手作り原理主義とか節制とか健康法とかを看板にして「到達すべきもの」「獲得すべきもの」を見せて一定のライフスタイルを煽るマーケットが大きくなると、もともと「ambitious」なタイプでない人は、がんばる前から「負け感」にとらわれますよね。
 私がカトリックの聖女伝が好きなのは、そういう上昇志向価値観の解毒剤になってるものが多いからです。彼女らが愛したイエスという人が世間的に言うと最悪な死に方をしたことも逆説的に彼女らの力の源泉になってます。「そうだ、自己実現をやめて聖女になろう」というテーマは楽しいですよ。

64にいく:2006/06/04(日) 12:46:53
さよなら自己実現
 う〜ん、なるほど。ニューエイジのはるか昔から、「自分の中に眠っている本物の自分を探りあてて育て、完成させる」という思い込みは存在してたんですね。人間につきものの誘惑なのかも。動物は自己保存の本能はあるものの、こんなことは考えないでしょうから。人間でも、ある程度衣食住がこと足りて、とくに真面目な向上心があると、この誘惑に陥りやすくなるように思います。
 それにしても、「小さな花を咲かそう」って、いいですね。たどるべき道とかあるべき姿とか理想とか上下関係があるのではなくて、それぞれがいろいろな花をいろいろなときにいろいろな形で咲かせる……。「ありのままでい続けて、なおかつ成長できる」という『聖骸布の仔』のメッセージにも通じるところがありそうな。この本、これから読んでみるつもりです。

65Sekko:2006/06/05(月) 17:43:58
訂正
「正法眼蔵」の項の10行目の「仏とは罪をなした大金持ちのような・・・」というところの「罪」は「財」の誤りでした。

66:2006/06/06(火) 10:07:21
文芸春秋 ダヴィンチ
文春6月号「ダヴィンチコード四つの嘘」読みました。とても参考になりました。
友人に次のようなメールを送りました。
5月19−23日までは義父の法事のため新潟に行き、
田舎で山菜を取ったり、山歩きをして、初夏をのんびり過しました。
晴天が二日あり、兄夫婦と妹と我々5人で近くのブナ林、と言ってもかなりの山。翌日は今は荒地となっている旧田んぼに、
そこから道なき道を山越え、清水の源流で弁当を食べ、さらに頂上へ。
頂上にゆくと尾根つたいに昔の細い道があり、そこをおりて帰ってきました。
まだ足元より低いところに、あちこちに残雪がありました。
山々の緑が美しく、前日テレビで見たモナリザの背景よりはるかに
綺麗でした。ダビンチにも見せてあげたいくらいでした。テレビでは、その背景に
謎があるとか、それがダビンチコードで解明されるとありましたが、
あれは現代人のマニヤックな人が考えたものだと、美しい風景をみながら考えました。


美しいものはただ感動すればよいし、絵を描きたい人はその気になって描けばよい。
そこに何かを忍ばせようなど人為的なことでは、私には良い
ものだと感動しません。もしダビンチがそうだとしたら、他の画家も同じ
ようなことがあり、絵を見るより謎なぞ解きが主流となってしまいます。
さらに画家がそうならば、彫刻家も作曲家もそのようなこともないとは言えません。
それらが本当ならば(そう信じるなら)
神はもっと上手(うわて)に自然に中に謎を忍ばせていることになります。
自然の美しさはそっちのけで、人間たちはなぞなぞ問題でいくつにも自分に都合よく
解釈が出来ることになりそうです。
参考までに文芸春秋6月号318ページに「ダヴィンチ・コード」四つの嘘という
記事がありました。
〇〇様

67Sekko:2006/06/08(木) 21:11:32
ありがとうございました。
ご感想ありがとうございました。中央公論新社から『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝説の虚実』も出しています。あわせて感想をいただければ嬉しいです。他の方もよろしく。
 風景をただ「美しい」ものとして感動するというのも、文化に規定されたコードが介在しているように思われます。たとえば日本人にとって桜の花咲く風景の持つ含意の豊かさが切り離せないように。ただ、文化による解釈の違いはあるにしろ、「環境を愛でる」という営み自体は人間にユニヴァーサルにあるようで、だから絵画芸術も成立するのでしょう。
 光ファイバーがまだ珍しい頃、東急ハンズで買った光ファイバーで色とりどりに輝くクリスマスツリーをフランスに持ってきました。部屋を暗くして生徒たちに見せますと、老いも若きも、なに人でも、はっと息をつめるような感じで魅惑されて、わくわくと見つめました。それで、うちの猫たちにも見せたのですが、反応なしです。っていうか、見てない。無理に視線を固定させても、やだやだってば、というばかり。このとき、私はすごく疎外感とショックを受けました。すごく可愛がって、日常的に以心伝心って場面もあるこの子たち、やっぱり、異人種じゃん、というか異種。感動のしどころが違う。花火とか見せても、全く無視だろうなと。ヒトなら、まあ難しい文化の文脈の共有を前提にするような美術は別として、夜空に花火が上がるのを見ると「わー、きれいだ」というプリミティヴな感動のレベルが共通してます。そういう類的な感動の琴線の振動数が合っているというのを信じて、そこから芸術も哲学も出発するんだなとか思いました。

68Sekko:2006/06/11(日) 08:14:26
ギグー女史のことなど
 こないだエリザベト・ギグー女史の話をしてたら、今日、うちの町の彫刻家夫婦のアトリエで彼女と偶然出会いました。この週末、町に住んでる画家や彫刻家のアトリエが午後公開されるアトリエ・ラリーみたいなのがあって、11軒のアトリエを回ることができるのです。汗ばむほどのいい天気で、ギグー女史は濃紺のサファリ風ワンピースでブロンドの髪は後ろで束ねてました。化粧気のない顔で、ちょっとぎすぎすしたイメージで、セゴレーヌ・ロワイヤルと自然に比べてしまい、よほど、大統領選にいかがですか、とか言おうと思ったのですが、その場所ではまずいかと思って、普通に挨拶を交わしただけです。彼女はどういうところで展示の機会があるのかと彫刻家に尋ねていました。その後他の画家のアトリエを訪ねたら、そこにはうちの市の「緑の党」の代表(彼女の娘は昔私の生徒だった)であるアンヌ・デオ女史が来ていました。この二人に出くわしたことで、そうか、フランスでは芸術は政治のツールなんだと改めて確認しました。
 私は21日の夏至の音楽フェスティヴァルの夜、市役所のホールでコンサートをするので、御影石のオブジェを舞台において照明で遊んだらきれいだろうなと物色してたんですが・・その彫刻家は数年前に死んだハンガリー人の彫刻家ピエール・セケリーを知っているといったので、私もセケリーに頼まれて評伝を訳したり、セケリーについて論孝を書いたことがあるんですよ、と話がはずみ、オブジェを貸しますよ、と言ってくれました。でも、照明技師との打ち合わせがますますややこしくなるから使わないかもしれませんが。
 画家のアトリエも何軒か回りました。うちの通りの少し先のアトリエに1点気に入ったのがあって、そのうち購入するかも。ここのところ2点続けて絵を買ったので、ちょっとセーブするか迷ってます。まだ支払い残ってるし。
 それで、ギグー女史ですが、夏の光の中でじっくり観察してみると「小柄でやせぎす」というのが目立ちました。セゴレーヌは若さがあって長身だし、今勢いづいてるから、オーラもでてきたし・・・たとえばヒラリー・クリントンって、長身の夫のそばにいると小柄に見えますが、なかなかの長身です。アメリカには今、ヒラリーのためか、女性大統領がヒロインのTV番組のシリーズがあるのですが、そのヒロインも、180センチ以上の長身です。男と並んでも見た目に堂々としているというので違和感を薄め、視聴者に少しずつ慣れさせようというわけです。メディアの時代の政治家にとって、「見た目」というのは恐ろしい、ギグーは、端正な美女でフォトジェニックですが、空間の占め方が少なすぎると思いました。政治家なのに政権だけでなく、これほど自分が外見に左右されること自体に動揺します。日頃
Etre 画大事でparaitre には興味ないと思っているのに。
 ある女性彫刻家のアトリエには、「Creer, c'est vivre deux fois」(創造するのは2度生きること)というカミュの言葉が座右の銘として貼ってありました。この2度というのは時間的でなく、「別の次元で生きること」と彼女は言いました。

69古川利明:2006/06/11(日) 17:46:14
ギグー女史と大統領選
 そうですか、竹下さん、ギグー女史と偶然、会ったのですか。現在、彼女は「無役」というか、表立った政治活動は多分していないのですね。最近のこっちの新聞の外電面記事だと、そのセゴレーヌがかなりこのところ「右傾化」した発言をしていて(「若者を軍隊でしごけ」とか、「治安対策を強化しろ」とかの類)、それにサルコジがニヤニヤしながら「なかなか頼もしい」と皮肉っているという内容でしたが。大統領選まであとちょうど1年弱ですか、左派は今のところ、かなりセゴレーヌが突出してますけど、彼女が出るとなると、旦那のオランドが出るということはありえないですので、ここは左派も右派同様、もう少し揉めてくれないと、オモロクならないですよね。どうせ、最後は上位2人の決選投票になるんですから、私はギグー女史あたりはチャレンジしてもいいと思いますけどね。セゴレーヌが「右傾化発言」している折、「対立軸」を出すいいチャンスです(お隣のイタリアでもプロディ左派政権ができたことですし)。私は右派であれば、一貫して「シラク・ドビルパン」ラインの支持ですが、サルコジのマスコミ懐柔が上手いのか、ちょっと彼らに対するバッシングがひどいですよね。そうした論調を受け売りする形で、最近も産経のパリ特派員の山口ナントカというオバハン記者が「サルコジゴマすり、シラク・ドビルパン叩き」の記事を書いてましたけど(まあ、そういう無難な記事さえ書いていれば、読者からも本社からも文句を言われない)、いずれにしてもシラク時代が長いんで、それに対する国民の「飽き」もあるのかもしれませんね。そうすると、「シラク後継」という彼のポジショニングがちょっと損な役回りになっているかもしれません。ただ、目的のためには手段を選ばない、あのコウモリ男の首根っこを押さえつけるためには、多少、カネで汚れていても、シラクぐらいの「腕力」がないとダメですね。それゆえ、私の理想形は右派が勝つのであれば、「シラク3選・ドビルパン首相、もしくはドビルパン大統領」(負けたサルコジはもちろん閣外追放、党首クビ)で、左派が勝つとすれば、ズバリ、「ギグー大統領」です(笑)。たぶん、彼女もユニヴァーサリストだと思うんですが。

70古川利明:2006/06/18(日) 18:30:38
サルコジ移民選別法成立
 内容的にはこっちの方のような気がしますので、おしゃべりルームの方に書きますが、今朝の新聞の外電面で東京新聞だけが、例の「サルコジ移民選別法案、16日夜に上院で可決、成立」と報じていました(たぶん、他紙は特落ち?)。そもそもこんな重要なニュースを打電しない他紙の特派員は「寝ている」としか言いようがありませんが、それはともかく、何と同じ日、ドビルパンはモン・サン・ミッシェルの例の堆積土砂の大除去工事の起工式に出ていたとのことです<毎日のヒマダネより。しかし、サルコジも一連の裏金スキャンダルで、シラク・ドビルパンのラインを揺さぶっておいて、その最中にサクサクとこんな法案を成立させるとは、まあ、ケンカだけはうまいですね。そっちでの法案審議がどういうふうになっていたかよくわかりませんが、手早く纏め上げたなあ、という気がします。バカンスに入る前にさっさと処理しようという腹だったのかもしれませんね(笑)。ただ、下院で通過した原案よりは、上院でだいぶ修正が加えられたとのことですが、そのへんの細かいところは法案の原文が手元にないので、よくわかりませんが。ただ、竹下さんも含めて、ユニヴァーサリストはこういう動きに対し、きちんと批判の声を上げないとダメですよ。大統領選が近づいてきている今、声を上げないで、いつ、声を上げるのか、という気がします。例のセゴレーヌの「極右発言」とも合わせて。どこか、その「サルコジ的なる発想」(=アングロサクソン的コミュニタリズム)に媚びてますよね。

71Sekko:2006/06/18(日) 20:55:59
批判してますよー
みんな批判してますよー。しかも連立与党のUDFやヴィルパン派もサルコジに批判的なので、彼も結構ニュアンスを変えたんですよ。でも、この前私が書いたような「ねえ、みなさん、フランスだけが無制限に世界中の不幸を引き受けるわけにはいきませんよね」云々のル・ペン風のサルコジ節は、彼は、TVのニュースとか特番に出てきては、直接訴えてきてたのです。ポピュリストの面目躍如というか、国会より何よりまずフランス公民さまのために、というより根回しがうまいんです。そこですでに反対派の言い分を出させておいて、それを考慮して一部修正したり折り合いをつけたりするから、という柔軟なとこまで見せてるわけです。
 セゴレーヌといえば、今まで社会党は教育とセキュリティはあまりタッチしなかったんです。労働問題画社会党で教育とセキュリティは保守という棲み分けがあったんですね。それが社会党の弱みにもなっていたのです。セゴレーヌが過激なことを言い出したので社会党のお偉方はあせっていますが、これで、セゴレーヌは、社会党の操り人形でない独自のオピニオンを持っているということで、むしろ信頼感を得ているようです。セキュリティの問題は確かにサルコジお得意の分野なので、セゴレーヌが口出ししたのは、むしろ、浮動票をサルコジから奪うという意味では悪くないと思うんですが。

72古川利明:2006/06/20(火) 21:25:46
サルコジ・ユーゲント?
 昨日の朝日の外電面で、UMPが党員をこの2年で倍増させて、23万人を突破したという記事が出ていたのですが、そこで妙に引っかかったくだりがあって、それは「(党首の)サルコジを慕う若い世代が大量に入党し、サルコジの選挙マシーンとなっている」という部分でした。まあ、こうした「党員数」がどれほど実勢を反映しているのかわからないし、いまのフランス社会の空気も、日本にいるとイマイチ感じることができないんですが、妙にそこに「サルコジ・ユーゲント」の臭いを嗅ぎ取るというのは、私の勘ぐり過ぎですか。ヒットラーのナチスにせよ、毛沢東の中国共産党にせよ、今の北朝鮮にせよ、「独裁組織」には必ず「共通項」があって、その一つがこうした「ユーゲント=紅衛兵」で脇を固めることなんですよ。そのサルコジのじつにコウモリそのもののポピュリストぶりとも合わせて、相当、トンデモないオッサンじゃないかという感じがしているんですよ。それと、セゴレーヌの「治安問題」のスタンスに関していうと、英国・労働党のブレア政権を見てもわかるように、お隣のアングロサクソンでは、とうの昔に「左派=人権擁護路線」という図式は崩れているんですよ。ただ、私はそうした「治安」に対する根本政策は、その党というより、政治家としての基本理念や方向性が如実に出るような気がします。シビアな言い方をして本当に申し訳ないのですけれど、その「批判のコトバ」があまり伝わってこないというより、それ以上に琴線に触れてくるものがないんですよ。それは私の勘ぐり過ぎでしょうか。

73古川利明:2006/06/22(木) 21:16:03
それと、もう一つだけ
 それともう一つだけ、竹下さんが「フランス語・文化」の方で、「移民法」のところで書かれていた、「優秀な人にフランスに来てもらいたい」というくだりですが、私はすごくここの部分が引っかかるのですよ。例えば、マグレブとか、フランスが旧宗主国だったところの移民は、ジダンのようにフランスのプロのサッカーチームで通用する「人材」なら、フランス国籍を与えましょう、ということですよね。結局、それこそが「差別」であって、ユニヴァーサリズムの価値観にもろ、反しているんじゃないですか。その根底にあるのは、ダーウィニズムに端を発する「優生思想」そのものじゃないですか。特に、ナチスの時代なんかは、ユダヤ人とともに、そうやって障害を持った人も「抹殺」の対象となったではないですか。私は今度の「サルコジ移民選別法」に、そういういやな臭いを確実に嗅ぎ取っています。要は、「金銭的な儲けを生み出さない存在は切り捨ててよろしい」ということであれば、障害者であったり、子供、高齢者といった「弱者」や「マイノリティ」が存在できる場が、社会からなくなっていくではないですか。何で、そういうおかしな動きに、毅然として「ノン」を突きつけないのか、私は不思議でしょうがいのです。サルコジ的発想に媚びているセゴレーヌも含めて。「サルコジ、あなたのやろうとしていることは、間違っている」。なぜ、この一言が言えないのか。「批判をする」というのは、日本の大新聞の社説のように、わけのわからないどうでもいい「総論」をごたごたと並べるのではなくて、個別具体的な批判対象に対して、「コトバという刃」をきっちりと突きつけることではないのでしょうか。私はそれが「実践」ということだと思いますし、もっと言えば、「実践なき思想はゼロに等しい」といえるのではないか、と思うのですが。

74Sekko:2006/06/24(土) 02:03:44
あれこれ
18日に生徒たちの発表会、私もちょっとヴィオラとを弾いたりトリオで弾いたり、その後21日、夏至の音楽祭で、夜11時から12時までのコンサートを受け持たされたので、いろいろ大変で、返事すぐ書かなくてすみません。あれこれ更新もしなきゃ。昨日はそのコンサートのヴィデオを見て打ち上げをやりました、夜11時からのコンサートというのは初めてで、前日の同時刻にうちで練習しようと思っていたのに、疲れてパスしました。でも私のピアノの生徒である照明技師エリックが、パリのコンセルヴァトワールから照明を借りてきてくれて、その据付に一日中費やしたのを見て、ちゃんと弾かないと申し訳ないと、がんばりました。とにかく、「燭台のコンサート」のイメージで演出したので楽譜の明りが暗く、鉛筆で書き込んだ指使いの数字とかが見えにくく、そのストレスの方が大きいでした。
 昨日は日本ブラジル戦をTVで観て、今日はフランス−トーゴ戦です。フランスも日本も、最後まではっきりしない似たような状況で、何かがっかり。でも18日の発表会で、弾いた小学生の男の子たち(フランス人)は皆ブラジルとかイタリアとかスペインのチームのシャツを着てましたから、子供は正直、とにかく「強いものが好き」なんだなあと思いました。彼らには、98年のフランスが強かった熱い夏の記憶なんてないから、「今強いもの」にあこがれるんですね。健全かも。
 昨日の日本ブラジル戦の初めは、フランス人の解説者が何度も、96年のオリンピックで日本はブラジルに勝ったことがある、と繰り返していました。フランスチームが情けないせいか、「弱者に優しい」雰囲気でした。でもここで敗退するなら、ブラジルと戦えて、しかも先取点を奪えて日本はラッキーだったかも。ワールド・カップでブラジルと戦え、しかも、ブラジルはもう決勝リーグ進出が決まってるから、主力選手を休ませて消化試合に徹してもいいところを、ちゃんと本気で戦っているので気持ちがいいでした。政治的にも経済的にも問題山積みの国が、サッカーで圧倒的に世界に君臨できて世界中から認められているのですから、彼らにとって、一つ一つのゴールが同胞に捧げる国の尊厳や、何かスピリチュアルなものと関わっているのかもしれません。
 今日のトーゴは内的にも問題を抱えていてぼろぼろなので、フランスがちゃんと戦えるのが筋ですが、2002年からずっとなにか負け癖がついてて監督と選手もまとまってないので、どうなるか分かりません。負けたらさぞや散々叩かれるでしょう。最近ヴィルパンらもサッカーを話題にして受けを狙ってたのでつらいところでしょう。ヴィルパンといえば、議会でオランドに「卑怯者」といって、翌日謝罪する羽目になりました。
 それで、サルコジ批判ですが、そう簡単ではないんですよ。前に書いたように不法滞在の未成年の扱いに関しては、すごい勢いで世論から反対されて引っ込めましたが、他の件については、これまでの無策をカバーする必要性があることと、ちょっと分かりにくいかもしれませんが、サルコジは、彼なりにユニヴァーサリストで、その理念とつかず離れずという感じで泳いでいるんです。その抑え方がうまいので、その線だけで弾劾することは困難なのです。カトリックだということもあるせいか「フランス風ユニヴァーサリスム」の正統的言辞を完璧に語れる人なんです。まあこれについてはまた次にゆっくり書きます。日本のみなさんがこれをお読みくださる頃はフランスの運命も決まっていることでしょう。

75hiromin:2006/06/24(土) 10:59:16
二元論の誘惑
私の会社の同僚に、人の悪口を言うのが好きな人がいます。竹下先生の『Noと言える国』の中で、”二元論の誘惑”というのが出てきて、「二元論は誘惑的に働く、それはしばしば権力の誘惑であり、二元論の誘惑にさらされながら、悪は「絶対悪」でなく人間の自由意志に向けられた試練であり克服すべきものであるとする・・・」という箇所があります。
悪口を言っている同僚を見ながら「この人も二元論の誘惑に負けたのだろうか」とふと思いました。
誰かを悪と定めて、自分を善とすることは単純に気持ちいいことなのかもしれません。同僚の場合は権力の誘惑とは言えませんが、ある種の力ではあるでしょう。自分の方が絶対的に上なのだということを他者に知らしめたいということからくる行為なのかも。もちろん本人は無自覚ですが。
ちょっと思いついたことをつらつらと書いてみました。。。
話は、変わりますが、小説の『ダヴィンチコード』読みました。
正直言ってこれが世界で大ヒットした理由がよくわかりません。
ミステリーとして面白くなくはないし、テンポ良く進行していって、ちょっとした謎解きも用意されていて。
まあ二塁打ぐらいの感じは確かにあるんですが、心理描写も特になく、日本のミステリーの方がずっと面白いです。
なんだかインディジョーンズを小説で読んでいるような感じで、読んでいて、うまく作れば小説より映画の方が面白いのではないかと思いました。
本が売れたのは営業上の戦略が成功したというのもあるんでしょうが、キリストとダヴィンチというのが、キリスト教世界の人々には受けたんでしょうか。キリストの隠し子とか、ダヴィンチがキリストに関しての暗号を残したとか、私はフィクションとしてしか読めませんでした。状況設定がハリウッド映画っぽいし。ひょっとしたら真実も含まれているのかもしれないけど、たぶん大方の日本人にとってこれは小説でしかないでしょうね。
この本がヒットして、そして映画が上映中止になったところもありますが、それが不思議な感じがいたしました。

76Sekko:2006/06/25(日) 02:43:39
フランス人とサッカー
 フランスはなんとか2−0でトーゴに勝って、決勝リーグに進出しました。韓国と引き分けの翌日は、新聞の一面に「NUL」(Match nul=引き分けと「最低」をかけている)や、「絶望的」「われらを失望させる」などなど、すごく糾弾の見出しばかりで、今日はどんなだろうと楽しみにしていたら、「どうにかこうにか」や「やれやれ」みたいなタイトルでした。日本の新聞は見ていませんが、負けてももっと親切だと思います。
 98年に優勝した時はチームが黒人、アラブ系、白人とバランスが取れていたので共和国ユニヴァーサリズムのシンボルみたいに言われたものですが、それ以来、町に黒人の数がどっと増えたのを反映して、チームの黒人率が増えました。98年のプチのようないわゆる典型的なフランス名は皆無です。それで、2度の引き分けの後、「典型的フランス人」たちがあまりにもチームに冷たいので、「あんたたち、ひょっとして、ナショナルチームのことを傭兵とか外人部隊みたいに思ってない?」と聞くと、「その通り」と本音を吐く人が何人かいました。だから弱いと平気で批判できるのです。「自分たち」は傷ついてない。オリンピックでも、勝つと、関係ない人でも自分が偉くなったように昂揚するのはどの国でも似てますが、負けた時の反応の方がお国柄によって異なるようです。
 昨日のトーゴ戦の前、TVでもラジオでも、「トーゴさん、もう負けてるんですから、フランスに勝たしてやってくださいよ」とか、「トーゴと取引して負けてもらえばいい、金を渡せば簡単さ」とか、ジョークにしてもあまりにも情けない、君たちには誇りというものがないのかフランス人、といいたくなるようなコメントが飛び交ってました。とにかくとってもシニカルで、勝つ時は熱くなるけど負けたら「ぼくの価値とは関係ないもんね」風になるのがフランス的です。愛国心がどうというより、また外人部隊というより、闘犬とか競馬のイメージ、チームは選抜され訓練された犬や馬で、国民はそのオーナーみたいな態度というのが近い気がします。まあ、現実にはそれぞれの選手は月収何千万円という高所得者なんですから、勝敗次第で庶民にどう扱われてもそれもメチエのうちかもしれませんが。
 サルコジについてのいろいろな世論アンケートがフィガロ・マガジンに載ってたのでさっき買ってきました。今から読みますね。
 『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝説の虚実』の感想もどなたかお知らせくださいね。

77Sekko:2006/06/25(日) 20:38:30
サッカーとユニヴァーサリズム
しつこいようですが、サッカーネタです。あんとに庵さんの今日のブログにこんな記事がありました。

『 某所で某知り合いがこんな意見を述べていた。と言っても閉鎖されたところなので引用するわけにはいかないので大意。

GNPが世界第二位の日本が敗退して喜ばしい

サッカーのワールドカップは最貧国が活躍出来る場だからGNPが20位までの国は出場出来ない方がいい。

なんじゃ?こりゃ。
あまりにも酷い意見なんで、悪いけど、ここで反論させてもらう。
これはものすごい差別意識としか思えん。
金銭の多寡関係なしに南米や中南米の選手が強豪として君臨しているという現実はどうよ?彼等は足の蹴りっぷり一つで王者とか神様とか言われ尊敬を集めている。サッカーってなぁボールがありゃ出来るスポーツでもある。で、すごいヤツらがゴロゴロしてるサッカー世界に「経済的ハンデがあるんだから」などと「配慮する」ってのは、彼等に対するものすごい侮辱である。
久々に怒髪天を突いてしまった。
こんなくだらない意見を吐くな馬鹿もの!!!!!!!!!
ヨーロッパは確かに先進国が多くGNPが高い。だからサッカーが強いのか???ああ?
いやね、わたしゃ球転がしには詳しくないですよ。だから間違ってるかもしれないけど、大雑把な感覚でもおかしいと思うよ。サッカーってなぁヨーロッパの伝統的な球技で歴史が長い。つけ焼き刃なアジアとかアメリカとかオセアニアとはわけが違う。もうサッカーは彼等のアイディンティティであったりするわけで気合いの歴史も違っていたりする。だから強いのは当然でしょうよ。サッカーてなぁ彼等ヨーロッパ人の歴史文化そのものであるんじゃねーのかい。で、そこに南米というヨーロッパの伝統を受け継いだ新たな国々が闘いを挑んで君臨してくるようになった。「王者」はイギリスでもイタリアでもフランスでもなく常にブラジルに冠して言われるように。すごいよなぁ。南米の人々。植民地の反撃を球転がしで返したと。
 で、いまや中南米の国々から、或いは東欧の国々はもとより、アフリカから優れた選手が沢山出て来るようになったし、彼等はサッカー文化の歴史の長い欧州の国々で活躍し、そこで力をつけ本国の誇りとしてW杯に臨んでいるという感じだしょ。ヨーロッパ人は強い選手なら出自関係なくどんな人種だろうが称賛する。ダメな選手はこき下ろすだけだ。それは他のことにも言える。芸術でもそうだ。優れた人物は出自関係なく認める。そういう土壌がサッカーワールドカップを支えてきたわけでもあるだろうよ。
 金銭とかそういうことで物事を測る意識なんか関係ない。彼等は「サッカーをする俺」に誇りを持っているわけでその出自など関係ない。そういう世界に対し「最貧国だから配慮しろ」ってのは見下した物言いだ罠。
そういう価値観の人々が生きている世界にGNPがどうたらとか。。。もうね、あほかと。
村上ファンドみたいなアホ経済上下脳思考はやめてくれって感じ。
 腕一本で生きようとしている人々(スポーツ・芸術・言論)が造る文化への侮辱でもある。
あまりにも怒ってしまったので、某所で反論すると荒れそうだし、嫌がる人が多数いそうなんでここに書いたが、ここ読んでいて反論したいならどうぞ。』

 以上です。私はもちろん、逆差別反対、ユニヴァーサリズム擁護論者なんで、この意見には賛成なんですが、ワールド・カップがそういうユニヴァーサリズムの花開く場所だとはあまり思ってません。ていうか経済大国が参加しなければワールドカップは経済的に成り立たないし。ちょうど昨日のフィガロにこういう記事が載ってました。エリック・ゼムール記者。意訳します。
 『「お客様は神様です」
 分かった。一瞬で全てが分かった。木曜夜のニュールンベルクのことだ。ドイツ人審判がガーナ=アメリカ戦で、アフリカの最強選手エシアンがアメリカのキャプテンにごく普通のタックルをしたのにイエロー・カードを出した。これによってガーナの天才エシアンは決勝トーナメントの第一試合を戦えなくなった。このことで、我々は、サッカーの神とその秘密の宗教は審判という大司祭を擁する「不正義」だったと分かったのだ。
 審判はコート・イヴォワールのドログバがシュートした時にオランダ選手が腰をつかんだのを見なかった。スイス選手がトーゴ選手にした明らかな反則も無視。フランスのヴェイラのシュートが韓国のゴール・ラインの後ろに入ったのも見なかった。(・・・)
 しかし「不正」によるいかづちは、神の制裁と同様、偶然に与えられるものではない。いつも、より弱いものが打たれ、強い者は守られる。ワールドカップの経済利益に鋭い自覚を有する不正なのだ。現世的不正である。
 1982年、セヴィリアで、ドイツのGKがフランスのバチストンに突撃した時、審判は微動だにしなかったが、2000年のヨーロッパカップで、ポルトガル選手がジダンに軽く触れただけで、ジダンはフリーキックの機会を与えられて決勝進出を果たした。フランスが98年に世界チャンピオンになっていたから、審判の見る目が変わったのだ。
 1966年のイギリスでのワールドカップでは、イングランドへの肩入れが目にあまり、78年のアルゼンチンもひどく、2002年には韓国が助けられた。FIFAにとってはお客様が神様なのだ。FIFAがサッカー場にラグビーのようなヴィデオ・アシスタンスのシステムの導入に抵抗する理由がよく分かる。ヴィデオ判定がされればサッカーはその毒ある魅力を失うに違いない。」

という感じです。つまり、中南米のサッカー大国は、GNP的には弱小国化もしれませんがサカー連盟の顧客リスト的には、経済効果絶大で、神様のようなもの。要するに金には国籍がないというか、金を生むところが優先されるという、全く他の世界と同じ普通の金の論理が働いているわけです。GNPの小さい国が強いという全くのサクセスストーリーでもなければ、実力主義のユニヴァーサリズムの理想郷でもないんですよね。
 世界の強豪サッカー選手で、自国のリーグだけを渡り歩いているのはイタリアとサウジアラビアだけということも読みました。サウジは、自国のトレードが600万ユーロ(9億円近い)というので他国は手が出せないそうです。アラブ首長国連邦は、自国チームで戦ってくれる強いサッカー選手には国籍上げます(しかも税金なし)と公式に呼びかけて、FIFA が国籍に関する規定を厳しく変更したほどなのも記憶に新しいです。
 しかし、ワールドカップやオリンピックって、国民性はもとより、世界の地政学や経済学についていろいろ考えるタネをもらえる貴重な機会です。

78あんとに庵:2006/06/26(月) 21:27:55
いやぁ
お恥ずかしいです。友人がいつになくとんでもないことをいい出したんで思わず突っ込んでしまったのですが。

。。。。で、
経済の理論による偏向が例えば審判の判断において為されているだろうというのはなんとなくあるのかな?どうなのか?この辺りは判らないのですがサッカーに詳しい友人がここを読んで、幾つかに於いてはそれは違う。ゲームの流れとしての判断だろう。と言ってました。それはサッカーに熟知している人の論理で私は説明を受けたのですがよく判りませんでした。

ただ、韓国戦に関してはあきらかに韓国が気の毒だといってましたね。でも韓国は前回のイタリア戦のことがあるから同情はしないし、全開の韓国イタリア戦もイタリアも以前似たようなことしたから同情しなかったといってました。因果応報だ!と言ってましたね。ズルをすればどこかでやり返されるだけ。それ以上に実力に左右されるのがサッカーなんだから。と言ってました。笑)

79Sekko:2006/06/27(火) 04:45:35
作品のスタイル
 フランスでは、日本チームはテクニカルだが体力や体格で劣ると言われてました。そういう時、私は、「日本では体格体力に優れたスポーツマンは国技の相撲に行くから」と言うことにしてます。そうするとフランス人は何か納得します。昔は「野球に行くから」と、まっとうなことを言ってたのですが、相撲の方がインパクトあるかなあと思って。モンゴル勢などに牛耳られてることは知られてないので無視。
 ええと、ブログの方にコメントした絵の購入基準ですが、寝る前と起きた後に目に入るというその基準は、買うときの話で、創るときには別の基準を私は採用してます。ある日本人の彫刻家が、技術がどんなに上がっても自分のスタイルを見出せないと悩んで、師匠のハンガリー人彫刻家に尋ねたときの話です。その師匠は、見た目がどんな違うものを作っても、どれもひと目で彼の作品だと分かったので。彼の答えは、「僕はどの作品を創るときにも、ひとつの状況設定をする。それは、地球が壊滅して、地球人の生き残りが遠い星に移住をするという状況だ。そこに持っていける彫刻はただひとつで、そのタイトルは《地球の生命(=ライフ=生活とも訳せる)》というものだ。どんな小さなものを創るときもそういう設定を信じて創る。それが僕の署名なのだ」というものです。
 それ以来、私も、何かを書くときや、コンサートを開く時、そういうことを漠然と考えます。遠くに旅立つ人に最後に聞いてもらえるもの、読んでもらえるものだと少し想像すると、どれもおろそかにできません。残った作品、そういう意気で仕上げてみてください。楽しみです。

80Fusako:2006/06/29(木) 22:05:54
一回性
芸術だと特に、一つ一つに精魂込めて、という感じがあるでしょうけれど、普通の暮らしも人とのお付き合いも、どのひと時もユニークなものですよね。人については、「一期一会」という素敵な言葉がありますね。大量生産でない、どれも同じ、というのではない一日一日を、人との出会いを楽しみたいと思っております。
さて、先日、市の図書館で「聖骸布の仔」を借りて来ました。でもねー、まだ読み終わっていないんです。訳文がとてもこなれていて、違和感なく、すいすいと読めるのですが、分厚い!一緒に借りた薄い本(トーベ・ヤンソンの「島暮らしの記録」と、露伴の孫の青木玉さんの「着物あとさき」)は読んでしまったのですが、うーむ、コヴラルト先生のはまだ道半ばでする。その上に、「プチ・プランス」のテグジュペリの本も、「夜間飛行」と「人間の土地」は、堀口大学の訳が良いですよ、と勧められたのにも、手をつけたので・・・・。

81Sekko:2006/07/21(金) 09:52:53
いろいろ
 『聖骸布の仔』、『ダ・ヴィンチ・コード』の長さに対抗するためにはある程度の長さがあった方が存在感があるかなと思ってたんですよ。私も最初10日くらいかけて読んだ気がします。今まで直接感想をいただいたのはMLの女性一人です。YKさま。
 「竹下様の翻訳された「聖骸布の仔」を読みました。
科学の進歩と政治の世界、権謀術数をからめ見事に組み立てられて、ロマンスでもあり最後にいたるまで、最後に更に心地よく読み勧める作品と思います。ダビンチコードは最初の数ページでいつもの冷酷さを感じ、又後で読みましょと投げ出しましたが、こちらは素直に読み終えました。」
 ということでした。FUSAKOさん、読み終わったらまたご感想ください。
 昨日、W杯でフランスはブラジルに勝ちました。夜の3時ごろまで、爆竹が鳴ったりクラクションで外がやかましいでした。ブラジルにはよく勝ってるみたいで愛称がいいんでしょうね。火曜のスペイン戦では、スペインのサポーターが、フランスの黒人選手に対して、猿の鳴きまねをしたことで問題になりました。確かに、他のヨーロッパチームはいかにもネーションというか、ゲルマンやラテンやアングロサクソンのがヨーロッパを住み分けてきた部族の代表のような面がありますが、フランスはもともと部族混在妥協の地であったことと、ユニヴァーサリズム同化主義のせいで、チームは今やほとんど移民の子孫、黒人が目立ち、トーゴ戦など、ユニフォームがないと遠目にはブラックアフリカチーム同士の戦いみたいでした。98年の時にはキャプテンのデュシャンとかプチとか、いかにも土着フランスっぽいスター選手がいましたが、今は・・・それで、一次リーグ突破前には、フランス人はできの悪い傭兵チームを見るような冷たい視線でした。しかし、他国人から見ると違って見えるようで、朝鮮日報のコラムにこんなのがありました。http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/06/27/20060627000031.html

【W杯コラム】韓国のゴリ押し、フランスの余裕
「老いた雄鶏」再考

 ドイツ・ワールドカップサッカー大会で韓国とスイスの試合が行われた23日夜(韓国時間24日未明)。パリにある韓国大使館は門戸を開放してフランスにいる韓国人たちにサッカー中継を公開し、応援の場を提供した。さらにフランスの警察に届け出をし、「夜遅くまで騒々しいだろうが了解してほしい」と近隣の建物に了解を求める手紙も送った。そんな在仏韓国大使館にはパリに住む居住民・留学生・旅行客らが1000人以上集まった。一方、韓国大使館と道ひとつ隔てた所にスイス大使館もあったが、そこはこうした応援の場を提供していなかった。

 韓国サッカーの「12番目の戦士」たち。韓国内でも、海外でも11人の選手を応援する韓国人たちは全員、選手と同じくらい試合に気合を入れ、この熱い思いが再び2002年の奇跡をもたらすと信じていた。

 だが私たちのワールドカップは終わり、12番目の戦士たちも、もうその情熱を鎮めるときが来たようだ。

 4年前に韓国で見守ったW杯と、異国の地で見たW杯の感慨は違っていた。フランスで暮らしながら韓国対フランス戦を見ることになり、「痛快に打ち負かしてほしい」という気持ちが誰よりも強かった。これまで、私個人がフランスで感じた憤りを、韓国代表がフランス代表を打ちのめすことでスッキリさせたい、という期待があったからだ。

 しかし、このような期待に気まずく、また恥ずかしく感じさせられる状況を何度も目にした。韓国対フランス戦が終わった翌朝、フランス代表のベスト16入りが不透明になっているのにも関わらず、このニュースを伝えるフランス人ニュースキャスターの表情は全く暗くなかった。喜び勇んで歓声を上げる韓国人の姿を、にっこり笑って伝えた。おそらく韓国のニュースキャスターが笑いながら自国チームの不利な状況を伝えようものなら、インターネットにはあらゆる罵詈雑言や非難があふれるだろう。

 韓国人がW杯でトーゴという国を知ったように、フランスでは韓国に対する関心や理解がW杯をきっかけにいっそう高まった。「中国人? 日本人?」と聞かれて「韓国人」と答えると、「ああ、そうだったの」と親しげに微笑み、さらに話かけてくる人々が韓国対フランス戦以降、急に増えた。

 それから数日後。韓国人がため息交じりに韓国対スイス戦を見守っていたころ、世界最強の実力を持ちながらずっとW杯で勝てなかったために「年老いた雄鳥」と嘲笑されていたフランスは、トーゴを破ってW杯ベスト16入りした。韓国にとっては一試合一試合、薄氷を踏む思いで経過を見守っていたにもかかわらず、突然「ニワトリを追いかけていたのに、屋根に逃げられて眺めるしかない犬の気持ち」になってしまったのだ。

 不振でもたついていると批判されても、やはり年老いた雄鶏が恐かったのは、いつでも軽々と屋根の上に飛び上がる実力を持っているからだ。フランスとの引き分けで沸き返えった韓国人を見て微笑んでいたフランス人キャスターも、勝負にはあまり執着しない様子だった街のフランス人たちも、みな実力があるからチャンスは今でなくてもモノにできるという自信や余裕から出た態度だったのだ。 (・・・)」

 という感じです。でもこれって絶対穿ちすぎ。自信や余裕でなくて、自虐とシニカルな態度で、そこに、「外人部隊の不手際だから・・」という差別的責任転嫁が少しという感じでしょう。それをスペインのサポーターなんかはもっと抑圧せずに出してて、「ヨーロッパ同士の戦いにアフリカが出てくるな」みたいな人種差別だったのです。ジダンに対しての帰れコール、マルセイエーズの演奏中や選手名発表中の野次もすごいでした。そして、フランス人はそれに対して、あまり反発せずシニカルに見ていました。自分たちの中にも差別感情があって、しかしそれを表に出せないからでしょう。イラク戦争の時にアメリカからヒステリックにバッシングされても、この立場しかあり得ないんだからしょうがないと我慢してたのも似てます。
 それで、思いがけなくスペインに勝ったものだから、「外人部隊」はたちまち「フランス共和国軍」です。みんながご機嫌なものだから、次の日から空気が変わりました。黒人やアラブ人とすれちがっても、ヴェイラやジダンの親戚に思え、不法移民の子のデモだって、この子達の中から未来のヴェイラやジダンやマケレレが出てフランスに栄光をもたらすかも、と思われてるような感じです。(私は、日本が中国での先のサッカー・アジア杯に優勝したとこを日本でTVで観てひとり盛り上がったんですが、翌日町の空気が全然変わってないのでがっかり。野球のW杯の時は盛り上がったんでしょうか?)
 快進撃のドイツではちょっとゲルマン・ナショナリズムが心配な状況なようで複雑です。イギリスがポルトガルに勝ってたらなんか準決勝はなんか第二次大戦みたいになってたかもという人もいました。結局、準決勝はフランス・ポルトガルになり、フランスの移民の第一はポルトガル系で、どちらかというといい関係です。いや、最初は差別されてたんですが、アラブ・アフリカ系が増えたせいとヨーロッパ連合のおかげで、相対的に家族になったんですね。その昔フランスのカペー朝がカステーリャ王を助けたので、お礼にポルトーとその周辺を分けてもらったのがポルトガルの発祥で、カペー朝は結構長く続いたとかいう因縁もあります。でも、ブラジルはポルトガルの旧植民地だったわけだし・・・もしフランスとドイツと決勝戦ということにでもなれば、アーリア民族対移民見たいになるかと心配です。ベルリンに住んでる日本の音楽家のブログによればスキンヘッドの人は同じマンションの住民でも挨拶もしないとか、黒人は、怖くてネオナチの多い町を歩けないとかありました。フランスでは黒人が怖くて町を歩けないよね、と友達と話しました。
 でもドイツでサッカーが盛んになったのは炭鉱で働くポーランド人移民から来たのだとか、ババリア地方が牽引したとか言われてます。ポーランドもババリアもカトリック圏、カトリック教会が青少年にサッカーを奨励したとも言われてるし、宗教地図も面白いですね。スタジアムにはその宗教の人も祈れるようにチャペルがついてるそうです。もっとも、本当のチャンピオンたちは、「ゴールを決めたいとか勝ちたいとかいう祈り方をしたことはない」といってます。無理と分かってるのでしょう。きっと、最後まで実力を出せますようにとか、事故や病気がありませんようにとか、最善を尽くせますようにとか祈るのでしょう。それが筋で、たとえば日本の神社の「合格祈願」なんて、サッカーでみんな勝てるわけがないようにみんな合格できるわけないのにちょっと変かも、と思ってしまいます。

82Fusako:2006/07/04(火) 22:19:10
読みました!
で、感想ですが、わたしは、キリスト教の云々ということよりも何よりも、ミステリー、サスペンスとして期待して読んだので、すみません、イマイチ物足りない感じです。ジミーがヒーローのはずだ、とか思って読むのが違っているのかもしれないんですけど、ジミーは、プールの清掃人とか設定は面白いと思うのですが、まじめに悩むまっすぐな人で「魅力的なヒーロー」では特にないような。
ただ、この主題をとりあげてがっぷり四つに組んでストーリーを作ること自体が大変だろうなと思いました。

わたしはミステリー・サスペンスは好きでけっこう読むのですが、魅力的な人々、わくわくするストーリー展開、を純粋に楽しめるものが好きです。「ダヴィンチコード」は、読まないうちに聞こえてくる声の中に、「キリスト教って実はこうなんだって」的なものが多くて、すごく下世話にくだけて言いますと「誰とかさんて、すましているけれど、実はこうなんですって」的な話が好きでないわたしは、結局それだけで読む気をなくしてしまいました。

83hiromin:2006/07/08(土) 10:04:28
読みました〜
「レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実」拝読しました。
とても中身の濃い本ですね!ひとつの章でそれぞれ1冊分ぐらいの知識を得た感じがしました。
お書きになっているように、私たちは最後の晩餐とか見慣れている気がしますが、実際ちゃんと見たことなどないんですよね。モナリザにしても、ルーブルで初めて本物を見たとき「案外笑ってないんや〜」と思いましたし。
サチュルヌスのお話も、ちょうど読んでいた本と呼応してとても興味深かったです。(ハドリアヌス帝の回想を読んでいたのですが、その中でハドリアヌスが「不吉な土星の運行にはいつも注意を払っている」という下りがあるのです)
そういう感じで「いや〜、この話おもしろいなぁ。また自分でもこれに関すること調べてみよう。」とか思って付箋を貼っていったら付箋だらけになって、まるで大量の宿題を前にしているような気になってしまいました・・・。
読み終わったとき、レオナルドダヴィンチは実は私たちが作り出した幻のような気がしてきました。レオナルドという人はいたけれど、彼について世間で喧伝されていることって、勝手に後世の人たちが作り出したものなんですね。
終章の「ルーブルで考えたこと」とってもよかったです。私はこれが読みたくて第5章までを読んだのじゃないかしら、という気がしました。ありがとうございました。

84Fusako:2006/07/09(日) 10:03:16
読みました・2!
わたしも「レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実」読みました(こちらは買いました)。
西洋の神秘思想の流れをダ・ヴィンチを切り口にとてもすっきり見せて頂いた、という感じがします。
でも、一番興味があるのは、なんといっても、ダ・ヴィンチってほんとはどういう人だったのか、ということですね。で、絵についてはいつも思うのですが、絵は実物を見ないとわからないですよね。音楽が、他者による再生を通してであるにもかかわらず、「わかる」のに比べて、絵は複製と実物とは全然違うといつも(実物を見たときに)感じます。ですので、ダ・ヴィンチの絵を見たことのないわたしには、ダ・ヴィンチはまだわからない人なのですが、竹下さんのご本では、彼は、バランスのとれた、多くのことに興味があり、有能だけれど、作るうえでも語る上でも多弁ではなかった人、でしょうか。
わたしが以前ここでちょっとふれた、アメリカの作家、カニグズバーグは、サライを主人公にした小説を書いていますが、そこでのダ・ヴィンチは、抑制のきいた、社会秩序に沿って暮らす人で、だけれど、描くものについては頑固さのある人で、描きたくないものはなんのかのと描かず、描きたいものは頼まれなくても描いた人、となっていたと思います。で、自由奔放で、貴族達の裏をかいてちょっとした盗みをすることなど悪と思わないサライの、伸び伸びしたとらわれなさを好んでいた、という書き方だったと思います。まあ、これはその作家がダ・ヴィンチの絵を見て感じたところがそうだったということなのですが。
わたし自身がダ・ヴィンチについてはわからないので、なんだか中途半端な感想になってしまってすみません。

85Sekko:2006/07/11(火) 06:21:32
再びいろいろ
 今、聖ヨセフにおける父性の話を書こうとして、家族の歴史を調べてたら、3世紀ごろのイタリアでは、奴隷の子や単に可愛い子が愛玩用に売買されていたそうです。小さい子の声が聞こえると家が明るくなるし、我儘もまた可愛いと。私も近頃は猫で代用してますが、小さい子がわらわらといて騒いでいるホームの雰囲気が欲しくて、養子はあきらめましたが、小さい子を抱えた母子とかに同居してもらおうかなとか時々考えます。何か、レオナルドも、そんな心境で美しいサライを泳がせていたのかなあとふと考えました。ルネサンス時代も愛玩用の子供や小人を王侯は「飼っていた」のですから。孤独は受け入れたけれど、装飾と活力源として、若くてどうしようもない子供を必要としていたのかも。
 『聖骸布の仔』の方は、この手のテーマだと、私はつい自分でも小説が書けると思ってしまうんですが、この小説に関しては、「私には絶対に書けない」であろう玄人業がふんだんにあって、脱帽しました。この30年で私が訳したいと思った第2の小説です。第1の小説もジャンル分け困難なすごく魅力的なもので、かってに挿絵まで描いたのですが、当時、サンリオSF文庫に版権をとられてしまいました。ぜひ訳させてほしいとサンリオに手紙を書いたのですが、返事がなく、出版はされましたがサンリオ出版もその後つぶれてしまい、がっかりです。今度めぐり合ったこの本は縁あって出させてもらえて幸せですが、テーマが重層的で中身が濃いので、いろいろに楽しんでもらってOKです。
 W杯はフランスが負けたので残念でしたが、今日のル・モンドにイタリアの元大臣(ロベルト・カルデローニ)のコメントが報道されていて、それにびっくりしました。短いので訳しますと、「ベルリンでの勝利は、われらのアイデンティティの勝利、ロンバルディア人と、ナポリ人と、ヴェニス人と・・・らをひとつにしたチームの勝利だ。このチームが、結果を得るために自らのアイデンティティを犠牲にして黒人とイスラミストと共産主義者をひとつにしたチームに勝利したのだ」というのです。もうびっくりです。
 はっきりいって、ああいう状態の選手もサポーターも、別に紳士的だと期待してないので、侮辱してもそれを頭突きで返しても、なんでもあり得ると思いますが、一国の大臣までになった政治家が・・・フランスチームの誰が共産党なのか知りませんが、それがどうした、としか言えません。イスラミストという言い方は、こちらでは今やテロリストと同義ですし、フランスチーム23人のうち8人、つまり3分の1以上が西インド諸島のフランス海外県出身です。旧植民地だとか奴隷の子孫とかいうより、ともかく現実に、本土ではないけれどもう先祖代々フランス生れのフランス人ということで、アメリカのようなアフロアメリカンのような感覚もありません。南米の仏領ギアナも含めて中南米文化としてサッカーが盛んなので、本土のクラブがスカウトしに行くわけですが、日本の相撲部屋でさえ有望な新人を求めてトンガとかモンゴルにスカウトに行くのですから、フランス本土のクラブが同じフランスの飛び地の優秀なフランス人を連れてくるのは不思議ではないし。
 それをいうならミッシェル・プラティニだって、名からすると、明らかにイタリア系移民だと思いますが、100パーセントフランス人のヒーローでした。ただ、肌が黒いというだけで、何代も続けてフランスに生まれ育ちフランスの教育だけを受けたチュラムに、イタリア人がずっと猿の鳴きまねなどの差別言辞を浴びせてきたのです。それなのにイタリアのサッカー協会は見てみぬふりでした。
 私も、実はひそかに、イタリアチームはいかにもシーザーやダヴィンチやメディチやガリレオの子孫みたいでかっこいいなあ、それに引き換え、フランスチームは、とてもルイ14世やデカルトやヴォルテールの子孫とは見えないからなあ、と文化的ネーションを捨ててエスニック・フリーの共和国を守ることのさびしさとかを感じてたんですが、イタリアの政治家がこんなことをいうなんて、これならアングロサクソンの偽善的なポリティカル・コレクトネスの方がよっぽどましですね。とにかく、フランスなら極右だって建前としての共和国主義は不可侵なので、こんなこと口が裂けてもいえません。EUは人権について同じ価値観を共有してるはずなのだから、こんなことを言う政治家はEUの人権法廷に訴えれば、と思ってしまいます。
 そうすると、ルネサンスの文化人の子孫のように見えてたイタリア選手が、マフィアのチンピラみたいに見えてきました。文化の継承とは、血縁や見た目で決まるのではなく、理念や価値観や、絶えず更新される努力にあるのです。(考えたら、柔道や剣道や相撲で相手を挑発したり罵詈雑言を浴びせるなんて考えられませんね。競技中に罵り合うスポーツなんて・・・)まあ、ブラジル選手には少なくともそういうことはないでしょう(多分)。あそこまで混血が進んだ文化だと、少なくともエスニックのアイデンティティで差別しないでしょうね。読唇術の専門家によると、マテラツィがジダンに言ったのは「お前のおふくろがどうとか」というよくある下品な罵倒だったそうです。一度はやり過ごしたジダンが戻っていって頭突きとなったのは魔が差したのでしょう。 人類の祖先はアフリカから世界に広がったというのはもう定説ですし、みんなが類としてのよりよい部分を継承していきながら後世にも伝えていけばいいですね。
 しかしW杯の度に各国のメンタリティの違いが観察できて興味深いです。世界は広い、でも、祭りの感動とかが共有できるのですから、世界に希望を持ち続けたいです。

86Sekko:2006/07/16(日) 10:49:44
こんにちは
 13日から日本です。昨日はあんとに庵さんの個展の最終日にうかがいました。ワインの差し入れをしてくださった片桐様、18世紀の象牙のトラヴェルソを演奏してくださった朝倉さん、ありがとうございました。Le Lutinの解説読みましたよ。奥様美人でチェンバリスト、最高ですね。文章もすごくおもしろくて、楽しいです。フランス・バロックをやってる人に私のバロックの本を読んでもらってお話できたのははじめてで、幸せ。でもCDには19世紀音楽が好みってありました。フランスバロックを広めるために19世紀ものはちょいと控え目に、ね。平塚さんの話もとてもおもしろそうです。すでに「名物先生」なのでは?ギターの奏法とトロイボロジーについてとか話したいですね。またお会いしましょう。Fusakoさんともお会いできて嬉しいでした。今度あらためてお食事でもしましょう。こういう展覧会ではお一人ずつとはゆっくりお話しできませんが、楽しい時間と空間を共有できるということで、やはり特別です。フランスでは自分のアソシエーションや発表会やコンサートで友人を招待できますが、日本でも時々こうやってお友達皆とあえるといいな、と思います。
 今から関西です。関西でも関西のお友達とお会いできるので楽しみです。

87あんとに庵:2006/07/19(水) 15:12:33
どうもありがとうございました
先日は素敵なひと時を有難うございました。
お忙しい中いらしてくださった先生、差し入れをしてくださったK様、F様、演奏をしてくださったA様はじめ皆様の素敵な暖かい空間を分けていただけて嬉しかったです。
いやぁ、プチ演奏会になって贅沢な時間を過ごしました。

関西での講演の成功をお祈りいたします。
気温が不安定ですがばてませぬよう。

88Seiko:2006/07/23(日) 19:20:28
お元気ですか
お聞きするまでもなく相変わらず元気一杯のご様子。日本でもご活躍で何よりです。
パリは、ご存知でしょうが猛暑で、外を歩けばオーブンの中を歩いているよう、と日本のサウナ状態との違いを感じ入ります。
こちらではサングラスでは伊達ではなく必需品ですね。

移民の問題、いろいろ勉強になります。こちらにいて新聞、ニュースがわからず周りで何が起こっているか知らない状態で、もうかなり感度が鈍くなっておりますが、多分テレビでやっているコマーシャル、あれってそれの里子のことだったんですね。
私なんて働きたくても働けない、ビジターの紙なしですが、こうした問題は興味深いです。
いずれにしてもフランスというところは懐が深いですね。
いつも日本と照らし合わせて考えてしまいますから。ま、いいことばかりじゃあありませんが。
先だっては、外から帰ってきて、家に帰ると、電気がなく暗いはずの風呂場から明かりが漏れているので見たら、なんと隣の部屋との壁がぶち抜かれて穴が開いていたのでした。つまりとなりの内装工事で間違って壁に穴を開けてしまったのでした。
もうどうしようかと思ったけど、まあ皆さんのお世話になって今ほとんど修理できました。

そして先日はまた、3週間前に現金で払ったはずの住民税が、郵便局の私の口座から再度引き落とされていて、青くなりました。大体、私の銀行口座番号を知らないはずの税務署がパリの金融機関をいろいろ調べて口座を見つけてしまうというのもぞっとしました。
これは税務署に支払い済みの紙を見せて、苦情を言いましたので何とかなりそうです。
でも恐ろしいです。

そして七階に住む私の真上の住人、新しい人で顔も見たことない人たちですが、先日月、火、水と続けて真夜中に騒ぎ、男女四人で夜中の3時過ぎてもうるさく、この暑さで窓を大きく開け放しているため、筒抜け状態でした。
三日目とうとう切れた私は、夜中の3時半に窓をドッカン、バッタンと大きな音を立てて閉めたのです。それからしばらくして静かになり、寝てくれたようなのですが、さらに私の反撃は次の朝、目覚まし時計は消さないで鳴らし続け、テレビを私自身うるさいくらいに大きくし、家を出るまでそうしてました。
利きました、効果ありです。今のところ静かです、、、、、でも顔をあわせるのが怖いです。

ジェシーノーマンいかれたのですね。私もこれはとてもいきたかった。過去に二回、日本とニューヨークで利いたことがあるのですが、もう一度今のうちに聞いておきたい歌手です。
お聞きするまでもなく相変わらず元気一杯のご様子。日本でもご活躍で何よりです。
パリは、ご存知でしょうが猛暑で、外を歩けばオーブンの中を歩いているよう、と日本のサウナ状態との違いを感じ入ります。
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私なんて働きたくても働けない、ビジターの紙なしですが、こうした問題は興味深いです。
いずれにしてもフランスというところは懐が深いですね。
いつも日本と照らし合わせて考えてしまいますから。ま、いいことばかりじゃあありませんが。
先だっては、外から帰ってきて、家に帰ると、電気がなく暗いはずの風呂場から明かりが漏れているので見たら、なんと隣の部屋との壁がぶち抜かれて穴が開いていたのでした。つまりとなりの内装工事で間違って壁に穴を開けてしまったのでした。
もうどうしようかと思ったけど、まあ皆さんのお世話になって今ほとんど修理できました。

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利きました、効果ありです。今のところ静かです、、、、、でも顔をあわせるのが怖いです。

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私なんて働きたくても働けない、ビジターの紙なしですが、こうした問題は興味深いです。
いずれにしてもフランスというところは懐が深いですね。
いつも日本と照らし合わせて考えてしまいますから。ま、いいことばかりじゃあありませんが。
先だっては、外から帰ってきて、家に帰ると、電気がなく暗いはずの風呂場から明かりが漏れているので見たら、なんと隣の部屋との壁がぶち抜かれて穴が開いていたのでした。つまりとなりの内装工事で間違って壁に穴を開けてしまったのでした。
もうどうしようかと思ったけど、まあ皆さんのお世話になって今ほとんど修理できました。

そして先日はまた、3週間前に現金で払ったはずの住民税が、(いつぞやはメールにていろいろ教えていただきありがとうございました)郵便局の私の口座から再度引き落とされていて、青くなりました。大体、私の銀行口座番号を知らないはずの税務署がパリの金融機関をいろいろ調べて口座を見つけてしまうというのもぞっとしました。
これは税務署に支払い済みの紙を見せて、苦情を言いましたので何とかなりそうです。
でも恐ろしいです。

そして七階に住む私の真上の住人、新しい人で顔も見たことない人たちですが、先日月、火、水と続けて真夜中に騒ぎ、男女四人で夜中の3時過ぎてもうるさく、この暑さで窓を大きく開け放しているため、筒抜け状態でした。
三日目とうとう切れた私は、夜中の3時半に窓をドッカン、バッタンと大きな音を立てて閉めたのです。それからしばらくして静かになり、寝てくれたようなのですが、さらに私の反撃は次の朝、目覚まし時計は消さないで鳴らし続け、テレビを私自身うるさいくらいに大きくし、家を出るまでそうしてました。
利きました、効果ありです。今のところ静かです、、、、でも顔をあわせるのが怖いです。

ジェシーノーマン聞きに行かれたのですね。私もこれはとてもいきたかった。過去に二回、日本とニューヨークで聞いたことがあるのですが、もう一度今のうちに聞いておきたい歌手です。
モンテベルディのオルフェも行ってみたかった。
音楽会にむけてのアンテナもちゃんと張っていないので、今残念だと思うばかりです。

なんだか近況をだらだらと書いてしまいましたが、今はアドレスも違うと伺ってますので、こちらにさせていただきました、私的でごめんなさい。

ますますのご活躍、ご成功お祈りしております。それではお体にお気をつけください。

http://8925teacup.com/babarde/bbs

89Sekko:2006/07/24(月) 12:00:26
近況
お久しぶり。Seikoさんの書き込み、途中バグっちゃいましたね。はじめ、あまりにも長そうなんでびっくりしました。でも最後まで見ないと、結語がでて来ません・・・こないだ、みなから、私の書き込みは長すぎる、掲示板で3行以上だと読む気がしなくなると言われたんですが、私より上手が?と一瞬思っちゃいました。
 こちらはまだ梅雨明けしていないので蒸しますが、まあしのぎやすいです。こんなくらいの方が疲れは少ないです。
 税務署は口座を調べる権利があるんですよね。でも、無断で引き落とすなんてはじめて聞きました。文句の手紙を書いたほうがいいですよ。私の帰る8月下旬にまだ解決してなければ助けられます。
 日本はよく、四季がはっきりしてて美しいといわれますが、緯度が上がるほど、1年の太陽の高さと日照時間の差が激しくて、そのたび人生観を揺さぶられるほどドラマチックですよね。でも近頃の夏、パリはちょっと焼かれすぎ?ホントに「天火」ですよね。うちの猫たち、さぞや「A plat plat」(この表現ってよく考えたら字面を見たことないけど、多分こう? 体表面積を最大にして横になってる猫を見るとこれがぴったり、「だらーん」とはちょっと違うし)状態でしょう。
 私は奈良女子大の講演を終え、翌日は奈良で10台しかない個人タクシー(京都は2600台とか)の堀内さんにいろいろ案内していただきました。東京の整体師だった堀内さんは奈良に講演にきたとき聖林寺の11面観音を見せてもらって感動し、その後奈良に移住されたユニークな方です。この11面観音の前って、アッシジのフランチェスコの聖堂のような「回心体験」のスポットなので期待して連れて行っていただきましたが、美術作品としての突出した「巧さ」の方に感動し、スピリチュアルな部分は私の中に潜行してまだ言語化して出てきてません。
 奈良から帰って、歌舞伎座に泉鏡花特集を観に行きました。猿之助一門の若く美しいトリオが『夜叉が池』をやってるのが去年の朗読劇を思い出させて、興味深いでした。この中で村の人が、ヒロインに村の犠牲になれと強要し、愛国心とか、村のためとか武士道とか持ち出すのを聞いてると、共同体至上主義の誤りを鏡花が伝えたかったのがよく分かります。共同体と女性一人、どちらが大事かという軽重でなく、女性より強い「共同体」の強さとは、弱い人を押しつぶすためにあるのではなく、弱い人を助けるためにあるべきだという基本を見失ってはならない、ということですね。武士道だとか品格だとか愛国心とか、美学だとか伝統だとかいくら言っても、人間の共同体の中では弱肉強食は絶対ダメ、とあらためて思います。鏡花を観てここまで身につまされるとは驚きでした。鏡花といえば幻想文学の関心でしたが、フランスに鏡花の全集を持っていってるので、帰ったらもっと別の視点で読みましょう。『海神別荘』は宝塚の世界、玉三郎って、ほんとは宝塚でやりたいんじゃないかと思いました。ヒーローの台詞も宝塚なら違和感ないのに、海老蔵がやると学芸会みたい。もちろん海老蔵が下手だという意味じゃないです。むしろ海老蔵だから何とかなってる。ジェンダーのひねりでもないと無理ありすぎ? 8月に宝塚観に行くので、またトランスジェンダー演劇論の続きを書きましょう。
 次の日は新宿の末広亭に寄席を見に行きました。フランス・バロック音楽におけるDeclamations のコンセプトと、日本の話芸との関係に関心を持っているので、落語は聴くものじゃなく、空間芸だと毎回思います。間、ずれ、トーンと強弱の変化、それらにストラクチュアを与える身振りとマイム。一度も落語をヴィジュアルで観たことがない人は、耳だけで聞いても脳で身体性を補えないでしょう。噺家が出てきて座るだけで、人間性が無防備に分かってしまう瞬間もおもしろいですね。
 それで昨日は調布のサレジオ神学院に「トリノ巡礼」。ちょっと怪しい仲間を連れていったのですが、「トリノ」のみなさんにすごくよくしていただき、W杯でフランスがイタリアに負けたのも、もういいやと思いました。チマッティ神父の書簡集を3冊買ったので、もう数年あたためてるチマッティ神父ものの企画と、映像と連動した聖骸布ものの企画を具体化したいと思ってます。
 今日の夜は文化会館にチェコの国立オペラかなんかの『ドラマチック・モーツアルト』とかいうのを観にいきます。文化会館久しぶり。
 そんな感じで「日本で元気いっぱい」というより、猫がいないとひきこもり状態から解放されます。家猫数匹と暮らしてる人なら分かると思いますが、あいつらといると、ぐうたら昼寝することから自己嫌悪や罪の意識が掻き消えるので。そいでここでも、馬鹿みたいにPCでヴァーチャル猫の部屋を開けては遊んだりエサやったりしてる私って・・・
 ではまた。暑い時は抵抗せず、のんびり適当にやりすごして、倒れないようにしてくださいね。Evianのアトマイザーを冷蔵庫に入れといて時々振りかけるのもいいかも。

90Sekko:2006/07/25(火) 12:38:19
ブルノ劇場のアマデウス
夕べの『ドラマティック・モーツアルト/アマデウス』はちょっと「??」でした。構成は凝っていて、チェコに来たときの11歳のモーツアルトの演奏会という感じで、カツラをつけた11歳の少年ピアニストが協奏曲と、トルコ行進曲を演奏、次に、リムスキー・コルサコフのオペラ『モーツアルトとサリエリ』の上演でモーツアルトが死ぬ。第3部がレクイエムで、モーツアルトへの鎮魂というストーリー性があります。
 でも、最初から、少年がモーツアルト扮装で出てきたときから、映画ならともかく、なんか猿真似のようで痛々しく、18世紀の世界にいざなわれる、なんて気はしませんでした。次のオペラ、これが一番まともでした。そして、第3部、久しぶりにレクイエムを聴けると思ったら、頭巾をすっぽりかぶった白い修道服みたいな8人が蝋燭立てを手にして変な踊りをはじめたのです。しかも均質性がなく背の高さがボコボコで綺麗じゃない。それは実は修道服をとった後で、4組の男女ペアだったということで納得です。そのペアが、まるでフギュア・スケートの男女ペアみたいに、背の高さや大きさがすごく違うんです。こんなレクイエムで、ペアで踊るなよ、といいたくなるうっとうしさです。海神別荘の最後で海老蔵が言う「女の行く極楽には男はおらんぞ、男の行く極楽には女はいない」という台詞を思い出しました。ミサがすっかり近代化したフランスでも葬儀ミサだけは教会の中で男と女が左右に分けられたりするのも思い出しました。
 一つのシーンだけ、モーツアルトの霊みたいな宮廷スタイルの男性ダンサーがペアで手と手を取り合って踊るんですが、それはそれで違和感ありすぎ。しかも二人のテクニックのレベルに明らかな差があって、それが目立つ。
 悪趣味の極みはわざわざ棺を運んできたりその蓋を開けたりするところです。だいたい、フランス系レクイエムと違って、このレクイエムはバレー、しかもクラッシック・バレーには合わないです。さすがに『ラクリ・モーサ』ではダンサーたちもじっとしてましたが、最後のほうはごろごろ床に転がるコンテンポラリー風の振り付けだし、洗練されてなさすぎ。バックにスクリーンがあって映像や光の演出があるのだから、踊りはないほうがよかった、と思いました。できるだけ見ないようにしてたんですが。歌と音楽はよかったです。
 贅沢で、サーヴィス精神旺盛で、変化に富んで、オリジナルで、楽しかったとも言えるはずが、少しずれると空疎になるのかとびっくりしました。会場で広告をもらった中に来年1月のベルガモ・ドニゼッティ劇場の『ルチア』があったんで、口直しに、帰ってからインタネットでチケット買っちゃいました。29000円なんて、今までで一番高価なチケットで驚きましたが。「引越し公演」という日本語が広告によく出てきて不思議でした、一部の出演者だけでなく全スタッフ丸ごと総出でやってくるという意味なのでしょうが、引越しというとその後日本に留まるみたいなので、変な表現です。30年前はこんな言葉なかったような。

91古川利明:2006/07/26(水) 20:48:38
シラクVSサルコジの亀裂
昨日ですか、サルコジが不法滞在難民1万数千人の国外強制退去を発表したようですが、シラクがさきほど、レバノンの即時停戦へ向け、仏軍投入の準備があることを声明で発表したようです。もはや、両者の亀裂は、埋めようがないですね。今後は「シラク3選」ヘ向け、私自身のブログで展開することにします。

92Seiko:2006/07/29(土) 02:07:10
長くてごめんなさい
お返事ありがとうございます。
ご無沙汰だったものですから、ついつい手紙感覚で出してしまいました。
奈良女子大はずいぶん意欲的に広い方面にわたって講師をお願いされるところです。かって私の友人ででパッセリさんというフィレンツエに住む画の修復家も何回か行っておられました。
聖林寺もアシジもずっと以前に訪ねた事はありますが、残念ながら私には一度も回心体験はありません。
私の母は敬虔なカソリック教徒なので、私がそうなることを心から望んでいるようですが、きっとこの先もないような気がします。どこかお勧めがあったら教えてください。
ただコルビジェのロンシャンの教会に行ったときは、なんだかとっても感動しました。コルビジェが特に好きというわけでもないですが、あそこだけは特別です。
なんだか建築で表現されたポエムといった印象です。

玉三郎は歌舞伎でも見ましたが、なんだか強烈なのは、ベジャール演出で踊ったいくつかのバレエ?でしたね。ちゃんと衣装を身に着け踊ってましたよ。体も柔らかく、ちゃんと役をこなしているのには驚きました。
それとまた、ジョルジュドンとの共演で、藤娘だったか、玉三郎は着物で舞っていました。
意欲的な人だから宝塚だって完璧にこなすでしょう。
ジョルジュドンで思い出したけど、彼とパトリックデュポンの二人で、『そしてバルス』と言うのを見たときは感動しました。シングル版のボレロの裏面の曲ということで、そのバレエが始まるシーンも、『ボレロ』の踊りが終わったシーンから始まるものでした。あんなバレエはまた見られるでしょうか。音楽界でも何でもちょくちょく行ってると思いもかけず感動するときがありますね。

最近は、いろいろな事情で行かなくなってしまったけど、今までに観てきたいろいろな物、旅行やスペクタクルは確実に自分の中に何かが残されていて、宝石とかそういった類のものより、ずっと良かったと思うこのごろです。
またいろいろお話聞かせてください。楽しみにしています。

http://8925teacup.com/babarde/bbs

93:2006/07/31(月) 02:37:26
Oranda kara
Takeshita-sama,
Yominikui roma-ji de no toko o o-yurushi kudasai. Watakushi wa Amsterdam zaiju no nihon-jin de, "Pari no Maria'" irai go-hon o haidoku shiteorimas. O-kiniiri wa "yohroppa shishya no sho", "Seijo den(Coretto no haru) " de, "Seijyo no jouken" no naka no "Lurudo de kangaeta koto" mo tanoshime mashita."Barokku ongaku wa naze iyasuka" mo omoshiroktta.Korekara mo omoshiroi shiten de, michi no sekai ni izanatte kudasai. Gokatsuyaku o oinori moushiagemasu.

94Sekko:2006/08/03(木) 18:05:35
あれこれ
 古川さん、私はシラク出馬はないとみています。個人的にはDSK支持です。でも猿居士を止めるためならルペンと極左以外ならすべて応援します。ヴィルパンへの基本的信頼は変わってませんが、彼には猿居士の知略に抵抗するしたたかさが欠けてるような気がします。レバノンは元々ローカルなキリスト教信者を保護するためフランスが恣意的に国境を弾いて作った国、内乱後も大統領はキリスト教徒という、政教分離とは程遠い憲法が残っていたはずです。その国がヒズボラの拠点になるとは皮肉です。そもそもオスマントルコのなきあと、部族しかいないところにヨーロッパがよってたかって統治領や「国家」を作ったのだから、少なくともフランスがレバノンを「見捨てない」というのは彼らのエゴのロジックですね。歴史の整合性というか筋は通ってます。シラクの立場として他に選択はないでしょう。猿居士はそれを批判しないと思いますが・・・お盆あたり(15日から17日)いますか?masakoさんもまた古川節を聞きたいと言ってたので、お会いしましょう。東京のメール、又はこのサイト内のメール、又は携帯にTel下さい。
 Seikoさま、Arts premiers のmuseeはいかれましたか?私はまだですが、帰仏したら早速いかなきゃと思ってます。空間としてのmuseeのコンセプトについて、金沢の21世紀美術館に行ってからいろいろ考えさせられて、Arts Premiers のmuseeと21世紀美術館を比べるとすごく面白い気がします。そのうちアート評論のコーナーに書きます。あ、金沢のみなさん、それから彫刻家のOさん、ありがとうございました。「日本人の美意識」問題やBUTOの話もあれから考えてたので、そのうちUPします。
 Massimoさん、ご愛読ありがとうございます。フランドル好きです。ヨーロッパ仕様のPCでも、日本語インストールできたり、機能が隠れてたりすると思います。でも読めるんですね。それだけでも便利ですね。ローマ字でもまた遊びに来てください。
 それから、Fusakoさん、フランスのアドレスからメールコピーしてもらったんですが、Fusakoさんのアドレスが抜けてて返信できません。東京のメール(お教えしてなかったですか?)か、このサイトのメールにあらためてメールください。8月7日から9日は銀座OKです。又は携帯に電話ください。最後4桁は0297なのでチェックしてください。(数名の方に0927と書いてしまい迷惑かけてしまいました。すみません)

95Sekko:2006/08/07(月) 16:21:37
レバノンのことなど
 古川利明さんのサイトでレバノン支援の記事読みました。パチパチ。ことの発端になったヒズボラの捕虜になった兵士って、フランスとイスラエルの2重国籍なんですよ。こういう微妙なスタンスでフランスがいつもながら明確な主張をするのは説得力があります。イスラエルではユダヤ人の少子化が進み、それに対してパレスチナ人は多産化しているので、このままほっとけばユダヤ人の絶滅によってことが解決するらしく、この数年、アメリカについでユダヤ人コミュニティの多いフランス(といっても50万くらいですが)のユダヤ人をイスラエルに移住させる勧誘が、まるでカルトの誘いのように盛んです。特にマグレバン、北アフリカから移住してきたユダヤ人の若者たちが、ゲットー化したシテでアラブ移民たちと対立して、そのままイスラエルに送り込まれる、アラブ移民もモスクでアルカイダ等に勧誘されるなど、最悪のパターンです。パリの真ん中で裕福な暮らしを送ってる昔ながらのヨーロッパ系ユダヤ人とは別の世界です。フランスにいる移民の子弟に、とにかく共和国原理を教育すること、そのためには社会的弱者を構造的に支援しなくてはなりません。しかし特定の組織やグループの援助という視点ではなく、社会的に弱い個人を個々に助けるという理念を失わないようにするのは容易ではありません。
 しかしフランスにはユダヤ人にもムスリムにも共和国型知識人がいるので、彼らのペンの力に期待するとともに、そんな人にどんどんイスラエルに移住してもらって、良心的なイスラエル人の世論を組織して、先制攻撃のメンタリティを根本的に変えてほしいですね。

96:2006/08/14(月) 10:55:11
”アメリカに「NO」といえる国”を読みました。(
”アメリカに「NO」といえる国”を読みました。(先生の論考は、文藝春秋6月号の”「ダ・ヴィンチ・コード」四つの嘘 ”が最初でした。)
「比較文化史」の現代国際政治へのアプローチの有効性、何よりもフランスとアメリカとの「文化」の比較に瞠目致しました。
 実は、時節柄?Mozartのlifeに関心があって、吉村 正和”フリーメイソン―西欧神秘主義の変容 ”を最近、読んでいました。また、「魔笛」をDVDで鑑賞する機会を持っています。
 フランスとアメリカとの文化史(政治思想)の接点が、18世紀思潮である、フリーメイソンによって担われている、と理解していました。「フランスのユニヴァーサリズム」にはフリーメイソンの思想が確実に影響していることが看取される、と思います。このような理解でよろしいのでしょうか?
 なお、先生は、フリーメイソンについて、論文、「フリーメイスンとグノーシス主義」で論じられています(私は未だ読んでおりません)。グノーシス思想(シリア・エジプト型とペルシャ型)については、ご著本のp.60に解説されているように、善悪二元論であること。「catholicから−非宗教化したフランス」の「ユニヴァーサリズム」は一元論であること、を何とか私の理解を辿っています。

 どなたか既に質問されているかもしれませんが、お教え下さい。
 日本が「フランスのユニヴァーサリズム」および猫!の国に見習って、理性が支配します国になりますことを祈りつつ。

97Sekko:2006/08/15(火) 18:29:17
フリーメイスンなど
 ご感想ありがとうございました。フランスのフリーメイスン思想が革命を通してユニヴァーサリスムに至ったのは確かです。同じフリーメイスンが、グループとしては閉鎖なコミュノタリスムに傾斜していくのは残念ですが。もともとフランスのユニヴァーサリズムの基本にあったのは、キリスト教の伝統だと思います。しかし、人間の組織であるカトリック教会はいつも権力と特定利益に結びついていました。フリーメイスンや啓蒙思想は、教会に私物化されていたペルソナとしての神を否定して、宇宙の創造者、設計者としての神を説くTheismを打ち出しました。これは、既成教会側から見ると異端であり「無神論」でしたが、一元論化した本来のキリスト教ユニヴァーサリスムからインスパイアされたものだと言えるでしょう。考えてみると、社会に依存しなくては生きられず、さまざまな不公平な運命を背負う人間をみな「自由で平等」だと言い切ることは、今でこそわりと普通に聞こえますが、目くるめくほど不自然です。これは事実の言明ではなくて、生き方を導く志向なのですね。
 モーツアルトは明らかにフリーメイスンの救済論や倫理観を持っていたと思います。でも、アーティストとしては連帯型でなく孤独で、身体感覚をつかむのが巧かった人です。信仰とクリエーションのタイプが少しずれているのが彼の魅力だと思っています。
 フリーメースンやユニヴァーサリズムを生んだ「キリスト教無神論」の光を当ててはじめて、西洋型一神教がよく理解できるのでしょう。
 一神教のなかった日本には緩い政教分離しかできないのも自然で、それもまたいいと思うのですが、国際社会を生きるのにはユニヴァーサリズムをツールとして使えるよう学びたいと思います。

98:2006/08/17(木) 21:26:35
Motto Shiritai Freemason
New York ni sunde ita kro, Freemason to ieba "Katolikku kyoukai no tenpuku o takuramu akuma-suuhai-shuudan" to sasayakareru ippou de, jissai ni au Freemason no member wa, shotoku(income) ga hikukattari, jinshyu teki minority dattari shite, uwasa tono rakusa ni odoroki mashita. Mousou ga hitori-aruki shite iru you ni omoimashita. Kenzen na hihan-seishin o motta hito ga kono shudai ni tsuite kataru koto mo sukunai shi...
Freemason no koto, motto kikasete kudasai. Toku ni geijutsu ni motarashita eikyou ya, keizai-kouka nado.
Roma-ji, yominikukute??gomen-nasai

99:2006/08/19(土) 14:47:02
「フランスのユニヴァーサリズム」の理解
早速に回答、お教えいただき、ありがとうございました。
「フランスのユニヴァーサリズム」にはフリーメイソンの思想が確実に影響している、と言えますか?という私の質問に対して、一面においてはそうである、という肯定的な回答を得ました。

「フランスのフリーメイスン思想」がフランス革命を通してユニヴァーサリスムに至ったのは確かです。(!!!)

また、下記のような懇切なる説明をいただきましたが、多分、新規なる竹下説をお聴かせいただいたのではないかと、拝察しております。フリーメイスンの意義、重要性を評価されています。

フランスのユニヴァーサリズムの基本にあったのは、キリスト教の伝統である。フリーメイスンや啓蒙思想は、「カトリック教会に私物化されていたペルソナとしての神」を否定して、宇宙の創造者、設計者としての神を説くTheism(有神論)を打ち出した。
Theismであるのだが、既成教会側から見ると異端であり、即、「無神論」である。
フリーメイスンや啓蒙思想のTheismは、「一元論化した本来のキリスト教ユニヴァーサリスム」からインスパイアされたものだと言える。


フリーメースンやユニヴァーサリズムを生んだ「キリスト教無神論の光」について:ちょっと理解しにくいです。ここでの「無神論」は、既成教会側から見ると異端であり、即、「無神論」である、という意味でのキリスト教無神論なのでしょうか、それとも18世紀以前にあった「キリスト教無神論」の伝統(あまりないのですね)のことでしょうか。

Mozartの音楽についても一家言を持ってられ、その一端を伺うことが出来ました。演奏家からの発言は貴重ですね。「信仰とクリエーションのタイプの普通からのずれ」---何かしら、私には謎です。
昨年、偶然、聴いたPiano Concert No.24が殆んど初めてのMozartです。高橋英郎さんの解説(NHKラジオ第二、25回)を聴いたり、同氏や海老沢氏の本を読んでいます。

人間をみな「自由で平等」だと言い切ることについての謂い、今、大きな問題になっている日本における政教分離の問題---文字通りinspireされました。

厚くお礼を申し上げます。今後ともよろしくお願いいたします。

100Sekko:2006/08/19(土) 17:36:03
無神論
すみません、わかりにくくて。キリスト教無神論というのは、唯一神の存在を否定することで事実上あらゆる「超越」を否定することに向かいました。個人的な「明言」という意味では信仰告白の一種です。でも思想のグループとしては実証主義、ペシミズム、ニヒリズム、快楽主義、科学原理主義から共産革命や実存主義にいたるまで、いろいろな表現を生むことになりました。超越への感性が人間の文化や文明を生んだように、その否定が人間に新しい地平や可能性を開いたわけです。それはけっこう大変な思想ですよね。だって、「困ったときの神頼み」というように、人は困ったときに「カミ」に出会うのですから。カミを否定したら、困ったときにそれを引き受けたり処理したり自棄になったり、あるいは「生き神」を称する人間にたよったり、いろいろあるわけです。この無神論の系譜については近く本にするつもりなので、そこでゆっくり解説します。
 フリーメイソンについては、岩波のグノーシスの本の中に書いたものが一番まとまっていて、その後も研究は続けていますが今のところ単独の本の予定はないです。
岩波の本、Massimo さんには手に入りにくいでしょうね。NYって何につけ、アメリカの他の地方と違って特殊ですよね。メイスン内では原則的に人種差別はない(はず)なので、ある種のカルト宗教のようにマイノリティの命綱になってる場合もあるのかもしれません。




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