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おしゃべりルーム

1Sekko:2006/03/26(日) 01:15:42
ヴィルパン
フランス語のコーナーみたいになりますが、フランスの呼称って、住んでいたらもちろん分かってきますが、アングロサクソンとは全然違います。イギリスの映画とか観てたら、学校で生徒を姓で呼んでるみたいですが、フランスではほぼ名のほうです。スターはアメリカでは名で呼ぶことが多いようですが、こちらでは少しでも公共の人はドヌーヴとかドロンとか姓で呼ぶことが多いです。だからこそ今のアイドルは、アメリカ風にファーストネームを呼ぶ傾向があります。後、インタヴューなどで、姓名をフルネームで呼べば、ムッシューという敬称は必要ないのです。たとえば、「メルシー、ドミニック・ド・ヴィルパン」と言えます。「ムッシュー・ル・プルミエ・ミニストル」とも言います。雑誌や新聞では敬称抜きのヴィルパンあるいはフル・ネームです。一番多いのは「ヴィルパン」だけ。ドはつけても間違いじゃないですが、有名になればなるほど消えます。ヴィルパンも外務大臣の頃はド・ヴィルパンと書かれていたことがありました。ムッシューの後ではどちらかと言えばド・ヴィルパンかな。ではどうしてド・ゴールはド・ゴールかといいますと、ドがなくなるには、1「有名」、2「ドに続く名がある程度長い」、3「ドに続く名が知られた地名でないか地名以外のルーツを持つ」の条件があり、ド・ゴールは1しか満たしていないからです。日本でも、たとえばシモーヌ・ド・ボーヴォワールとか有名でしたが、ド・ボーヴォワールと呼ばれずに、フランス風にボーヴォワールでしたね。でもフルネームならドが復活します。画家のアンリ・ド・ツールーズ=ロートレックとなると、ツールーズは有名な土地ですが、フルネームでないと誰もド・ツールーズ=ロートレックと言ってくれません。日本同様、ロートレックで通用します。ただし、彼は厳密に言うと、ツールーズ伯爵家とロートレック伯爵家の姻戚で生れた分家で彼の代で途絶えました。本家筋のロートレック伯爵家はまだ存在しますが、姓からドをとっちゃってます。ええと、上に挙げた条件というのは、私の見た経験則であり、別にどこかで成文化されてるわけではないです。おもしろいですね。
 共同体の話ですが、たとえばどこかの優勢な共同体に属しているから安泰というわけでなく、その中で老いたり病んだり落ちこぼれたりしたときに誰が救ってくれるかと言うことですね。アリストテレスは「愛があれば正義はもう必要ない」なんて言っていました。確かに、みなが自然に弱い人をかばってくれるなら、主義も法律もいらないかもしれません。今のユニヴァーサリズムは、起源的にはユマニスムということです。こういうと必ず、「西洋の人間中心主義が地球の環境を壊したから八百万神の多神教の方が地球に優しくベターだ」とか言う人が出てくるんですが、よく見てください。ユニヴァーサーリズムのヒューマニズムの名において、国籍や文化がどうこうを超えて、何の関係もないのに、ソマリアに水を運ぶ人とか、ルワンダに援助に行く人とか世界中の天災現場に駆けつけるグループが存在し、キューバの捕虜収容所で虐待されている人が世界に向けて連帯を求めたりしているんですよ。ユニヴァーサリズムが西洋キリスト教起源であろうとなかろうと、全体主義の国に生れたり貧困国に生れたりするのは、偶然の采配に過ぎず、失業、事故、老いや死など、誰にとっても明日はわが身、強い時に弱い者を思いやり、弱くなったら共同体の枠を超えて助けてもらえるという理想はすごく大事にしたいと私は思います。愛があればすべて解決するかもしれませんが、愛することはアリストテレスの時代からいかにも難しく、永遠の挑戦なのですよね。それと、人間の置かれる状況は一筋縄でいかず、正義のために愛を犠牲にしたり、愛のために正義を犠牲にしたりという局面を繰り返して、相対主義のニヒリズムや絶対主義の誘惑と戦いながら少しずつ連帯していくという希望を捨てたくないです。

1022Sekko:2021/06/01(火) 02:34:52
小寄道さま
ジョセフィーヌについての日本語の本は読んだことがありません。
池田理代子さんの『エロイカ』によく出ていたのを見たことがありますが、単に、浮気女が貞淑な妻になったのに離縁されたというキャラだったような記憶があります。
(バラスの愛人だったという説を採用していたようですが、バラスは同性愛者だったことが分かっています。)

ナポレオンにマルメゾンの城を建ててもらって、ナポレオン失脚の絶妙のタイミングで死んだのも運命的です。

ブログにも書きましたが、この辺のことをいろいろ書くと一冊の本になってしまいます。
でも、フランスではあまり言われていないのですが、「島」出身者への差別とかコンプレックスとかは終始ついて回ったような気がしてそこに焦点を当てました。島のエピソード、まだ少し続いています。またご感想をお聞かせください。

1023大神和子:2021/07/04(日) 09:18:12
ブログの内容を紹介するには
カノウミサワさんのお宅でのバーベキューで、初めてお目にかかった、大神和子と申します。以来、何冊かの御著書を読みました。又、こちらのブログとも出会って、読んでおります。おかげで、視野が広がる思いです。私のFacebook(対象は友達)のページに時々、l’art de croireの内容を紹介したいなと思うことが多いのですが、転載など、よろしいでしょうか?

1024Sekko:2021/07/04(日) 16:58:45
大神さま
ご無沙汰しています。

KANOさん宅のバーベキュー、もう5年くらい前になりますね。

https://spinou.exblog.jp/26149736/で書いた笈田ヨシさんと出会った時だと思います。

KANOさんのお宅も売却され、時の流れを感じさせられますが、笈田さんは90歳近くでも舞台動画を配信してくださるなど、エネルギー発露のご様子に元気をいただいています。

「コロナ禍」で、さまざまな生き方を考えさせられました。

私のブログでお役に立てるものがあればどうぞ問題なくリンクなどしてください。

次のコンサートはパリのレピュブリックの書店でのコラボで10/9の午後です。
近くなればブログでご案内しますのでぜひどうぞ。

1025大神和子:2021/07/07(水) 19:26:17
ブログの内容を紹介するには
竹下節子様
ご返事ありがとうございます。
ブログの紹介のご承諾、ありがとうございます。いつか、パリに行けたら、kanoさんに逢いに行くつもりでおります。笈田さんのことも、全然知らなくて、(お顔はテレビなどで見知っていましたが、)今回、ブログで分かりました。竹下様のブログ、Facebookを通じて、知り合いに紹介出来ますこと、嬉しいです。ではでは
  大神和子(パリ近郊在住の、宇津宮功と、敏枝の妹です。)でも、ミサワさんとは、彼女が親しくしていた中国人(香港)を通じて知り合いました。

1026hanakogainai:2021/07/31(土) 11:51:59
「疫病の精神史 - ユダヤ・キリスト教の穢れと救い」を読んで
久し振りに著者の本を手にしました。新型コロナ感染症という大災厄の続くなか、ポスト・コロナのことを予測した書物や、幾つかのコロナに纏わるものを手にしました。どれを読んでもなかなか心晴れず、鬱々とした日を送っていましたが、この本を読み始めて、気持ちが変わりました。未来が開けて、心爽やかになった気分になったのです。著者が、「おわりに」で「対神徳」の「信仰、希望、愛」に触れておられますが、希望という言葉は、「永遠に生きる」とともにこれから大事にしていこうと思いました。

1027Sekko:2021/07/31(土) 18:13:59
hanakogainai さま
hanakogainai さま、(ハンドルネームが気になります。「hanakoさん」がいなくなった哀しみの名前ならと、心配になりました。勘違いだったら余計なお世話ですみません。)

投稿ありがとうございます。

自著についてネットで検索を一切しないので、少しでもお役に立っていることをこうして知らせてくださること、すごく嬉しいです。書き続けていこうと力づけられます。

「希望」はまさに人生という旅の糧だと実感しました。

あらためて、ありがとうございました。

1028小寄道:2021/08/14(土) 01:11:43
花に魅せられて
ご無沙汰しておりました。
Sekkoさまが花の写真を載せていたので、なんかワクワクしてコメントしてしまいます。。

まず、お友達の庭の花です。白い花に引きつけられました。
最初、ユーチャリスかなと思いましたが、白い桔梗ですね。中心に淡い紫がさしているんでしょうか。
上品であり凛々しくもある。小生の好みであります。

白い斑入りの葉の植物も珍しいベゴニアの仲間でしょうか、たぶん。

三つ目はカラテアの仲間だと思います。対称的な葉っぱの線の模様は独特で、ちょっと言葉にならない強さがありますね。
日本ではオルビフォリア種がけっこう人気らしく、メルカリでは人気の観葉植物とのこと(妻からの受けうり)。

最後のものは「Decorum」という名札がありました。石楠花(シャクナゲ)と読めますが、でもこれは低木種。
写真のものは葉から咲いた花で、明らかに名札は間違ってさしたような気がします。
妻のアドバイスで、グーグルの「レンズ」(google lenz)というアプリで検索したら、蘭科のクルクリゴみたいです。
この花も可憐に見えて、たくましい生命力を感じます。
最初、葉っぱを観て、菖蒲の類いかと思いましたが・・。オーキッドでも、この葉っぱの多さは面白い。お求めやすい?

最後に、ちかごろブログを書く原泉を失っています。オリンピックとコロナの熱狂に少々あたっています。
では、お身体にお気をつけて・・。

1029Sekko:2021/08/14(土) 03:06:51
小寄道さま
ありがとうございます。

斑入りの二つの鉢のひとつ目は名札をなくしてしまいました。すぐ近くの花屋さんなので聞いてきます。

二つ目はカラテアです。名札がついています。Decorumというのはオランダの大手の園芸会社の名です。植物の名はその下に書いてあります。
黄色い花が咲いているのはカラテアです。下の写真にも葉が少し映っています。
上から見ると葉っぱが密集しているのですが、下の方の花を撮影すると、茎ばかりが映って、確かに別の植物みたいに見えますが。

こういう主張の強そうな葉が、葉陰にこっそりとこっそりと花を宿しているコントラストがおもしろいですね。

日本は五輪の後の脱力と、デルタ株や病床逼迫とか、お盆休みとか、なんだか、暮らしのリズムというか気持ちの切り替えがうまくいかない雰囲気が伝わってきます。

異常気象、気候変動のニュースも落ち着きませんね、
でも、私たちのように、恵まれた時代を生きてこれた世代で、パンデミーにも持ちこたえているのですから、この僥倖を何とか次世代に還元していきましょう。

ブログの更新も楽しみに待っていますね。

頼りになる奥様にもよろしく。

1030テレサ:2021/10/17(日) 16:21:21
10月10日のブログ
久しぶりの投稿になります。

10月10日のブログに、「難しすぎると言って、読むのをやめてしまう人がいる」と書かれていたので、私も途中で読むのをやめてしまった著書に心当たりがあり、投稿させていただきました。


竹下先生の著書は、私は、たいていの場合「なるほど〜」と思いながら、ザーッと最後まで読み、一度読んだ後、何度も読み返します。
読み返す理由は、2つあります。

一つは、書かれている言葉を何度も読むことで、励まされたり、支えられたり、自分を立ち返らせてくれるからです。

もう一つの理由は、1回読んだだけだと私も「難しくて」理解できないからです。


殆どの場合、その時、十分に理解できなくて、ページを戻ったりしながらも最後まで読むのですが、唯一、途中でやめてしまった著書が「バロック音楽はなぜ人を癒すのか」です。(先生の著書を全て読んだわけではありませんが…)


視聴する芸術を文章で説明するって難しい〜と思いました。
特に、バレエやオペラについて、観客レベルの知識しかない私は、殆どわかりませんでした。
けれど、この内容を「音と動き」で説明してもらったら、わかりやすいかも〜と思いました。

何故なら、ちょっと前ですが、「ラモーの音楽」がテレビで取り上げられていて、その番組を視聴した時、「イタリア・オペラ」と「フランス・オペラ」について動画を観ながら、その違いを解説していました。大変分かりやすく、この本の内容と私の中でリンクしました。

いつか、この著書の内容をYouTubeとかで観たいです(笑)


もしかしたら、「難しい」というより、理解しながら想像することが、しんどくなったのかもしれません…(申し訳ございません。)

でも、たとえ書かれている内容すべてを分からなくとも、この著書には、心に突き刺さる言葉が随所にありました。例えば「音楽もコンサートで名人芸を聴くという消費活動として定着した…」という文章には、ハッとする思いがありました。
また、音楽の歴史的変遷を知ることは、意味があるな〜とか、音楽と人との普遍的な関係性にもっと思いを寄せるべきだな〜ということも強く思いました。


余談ですが、私は、幼い時から個人レッスンでピアノを習ってきました。子どもの時、新しい曲を頂くと、その譜面を「かいめい(階名)で読みなさい」と必ず先生から言われてきました。「かいめい」という言葉は使てきたにもかかわらず、「階名」という「漢字熟語」を著著の中で見た時、最初、意味が分かりませんでした。さんざん耳にした言葉でも、漢字で書いたり、読んだりすることがなかったのかなあ〜とこの本を読んで、半世紀以上生きてきて、初めて気がつきました。


もちろん新書の「疫病の精神史」も読ませていただきましたが、
ここに色々書きながら、もう一度、「バロック音楽〜」を読み返そう!と今、思っています。

1031Sekko:2021/10/17(日) 19:03:52
テレサさま
ブログのご愛読ありがとうございます。

数学、物理系番組や一般書で数式が登場するたびに、単に「難しすぎる」というだけでなく、何とか基礎に立ち止まって理解しようという気もなくスルーする自分を見て、人文系のものの「難しさ」への想像力が発動した次第です。

『バロック音楽はなぜ癒すのか』は、私とアートの関係を根本的に変えてくれた「綱領」みたいなものでした。その後もサイトやブログのバロック音楽室や音楽、踊りのカテゴリーで各論も深めていっていますが、「分かりやすさ」の配慮はゼロです。

この本は、私のトリオが最初に日本公演をした2003年に同時に発売しました。
私の音楽体験のすばらしさを、一生一度でいいから何とか生で日本の友人たちに伝えたいと思っていた時に笹川日仏財団の助成金を得て、教会やお寺やらで11度のコンサートをやりました。
会場の提供や告知などをしてくださった人も来てくださった人の多くも、演奏者としての私ではなく少数の熱心な読者の方でした。

そのコンサートに当たって、この本を書くことで、私の他の本とフランス・バロックの世界観が連動していることを知っていただこうと思ったのです。

「文化人の音楽趣味」と受け取られないように「音楽之友社」から出していただいたことはラッキーでした。実際は、本の販売をコンサート会場で開始したわけで、「本を読んでから演奏を聴く」という方はゼロだったのですが、この本のおかげで、その後、日本のバロック奏者やバロックダンサーの方々から連絡を受け、さまざまなコラボも実現しました。自分たちが思っていたことを言語化してくれた、と喜んでいただき、私たちのトリオもたくさんのことを学びました。「音楽之友社」というレーベルに支えられました。

この本から20年近く、テレサさまのおっしゃるようなラモーのオペラについての番組が日本で観られるようになったなんて感激です。

私にはyoutubeを配信するような時間も技量もありませんが、確かに、バロックバレエも含めて、音と映像で解説できればすてきです。
でも今の世の中の空気を見ると、コメント不可能なブログやこのサイト以外にすべてのSNSを避ける方針は変えられないと思います。

そういう「分かりやすさへの努力のない」ものを読んでいただいてこうしてコメントいただけることを感謝しています。

そういえば確かに「階名」「音名」が違うとか、変ロ短調、とか、日本の音楽漢字用語って、なじみがなさすぎですね。日本でも音大に行ったら、「イロハ」など誰も使わずアルファベットです。
フランスはコンセルヴァトワールの中級クラスまで階名も音名も区別せず、四分音符は「黒」、二分音符は「白」とプロの音楽家も一生使っています。すごくハードルが低いのに、小学校で教えられていないのは残念です。

1032若生敏由:2021/11/01(月) 15:06:27
『リバティ・バランスを射った男』について
『リバティ・バランスを射った男』の紹介を、興味深く読ませていただきました。

<<「サボテンの花」がアメリカの広大さと、東部と西部の異質さのシンボルのようになっているわけだ。>>

 このような理解、さすがだなとおもいます。

 私がこの映画を見たのは、14年前のことでした。見たのは、映画館ではなく大学の講義室ででした。県立高校の教員として、退職まであと数年という時期だったのですが、学校図書館の運営責任者となり、司書教諭の免許を取得したほうがよかろうというおもいで、夏休みを利用して地元の大学で必要な講座を受けることにしました。そのときの担当教員が多趣味な方で、講座の最後にこの映画を見せて、単位取得の条件として、レポートの提出を要求したのです。
 西部劇はそこそこには見ていたのですが、この作品の存在はそのときまで知りませんでした。鑑賞しながら、自由について柔軟に考え直す必要を感じたのを憶えています。
 印象深い映画作品を思い出させていただけたこと、竹下さんなりの見方に触れることができたこと、嬉しくおもいます。

 実は、かつて書いたレポートの原稿を読み直してみました。少々長めですが、一読していただければとおもい、おもいきって、ここに貼り付けさせていただきます。



『リバティ・バランス』という映画は、魅力的でありながら不思議さが残る作品だった。

 なによりもまず、悪役の名がなぜリバティ・バランスとされたのか。リバティは自由あるいは解放という意味だし、バランスは均整あるいは安定という意味だ。どちらも、普通は肯定的な意味でしか用いられない。ところが、あの映画のリバティは、まだ州として自治が確立する以前の西部の地で、どこかの牧場主に雇われている用心棒という風体で登場する。雇主からの給金だけでは満たされない欲望を、旅の途上の幌馬車を襲撃して金品を強奪するという手口で充足させている。どう見ても、その挙動は無法者であり、ならず者というという枠組みにしか収まらない。作品の舞台であるシンボーンという町の住民は、その名を耳にしただけで恐れをなし、その姿を見れば震えあがって静まりかえってしまう。そういう役柄にリバティ・バランスという名が与えられている。

 脚本家の狙いは何なのか。なにもかもは分からない。そこで精いっぱい推測をはたらかせることにした。確信は持てないが、リバティに対抗する主人公ランスの別称を手掛かりにしてみた。

 映画のなかで、主人公を取り巻く人間のほとんどは、当人をそのままランスと呼んでいる。ただ、度胸のよさと銃さばきでリバティにも一目置かれているトム・ドニフォンだけは、ランスをなぜか「ピルグリム」と呼びかけていた。字幕では、それを「先生」と訳していた。おそらく、その役柄を意識して「弁護士先生」とでも捉え直したのだろう。捉え直しが悪いわけではないが、それでは原語のもつ含みが薄まってしまう。おそらく脚本家の念頭には、「ピルグリム・ファーザーズ」という言葉が去来していたはずだ。そうおもうのは考えすぎだろうか。しかし、西部の地にアメリカの良心を体現する人物を赴かせるとなれば、「新世界」の原点でもある言葉は、少々からかい気味の言い方がなされていても、やはりその属性をこめて用いられているだろう。

 ピルグリム・ファーザーズを、まだカタカナ表記にためらいがあった時代の日本の教科書では「巡礼始祖」と訳していた。その訳語には、使命感を抱いていた移住者たちが清教徒であったということで、多分に宗教的な含みがとどまっていた。ピルグリムという語だけを取り上げるなら、「遍歴者」「放浪者」「旅人」としても用いられる。このようなことを背後に置くと、あの映画の主人公は、旅人は旅人でも「理念や信念を持った旅人」という存在として見えてくる。さらに、ランスが弁護士であるということを踏まえれば、西部の事情をよく知るトムからピルグリムと呼ばれるのにもそれなりの根拠があったのだともおもわれる。

 ランスという名は、「槍」を意味する。またその名に近い「ランスロット」という言い方になると、アーサー王物語の円卓の騎士のなかでもっともすぐれた騎士の名になる。すると、ランスという名は、直接的には武具を意味して必ずしも肯定的ではないが、そこにピルグリムという属性が加わると、肯定的な含みが際立ってくる。ランスという主人公は理念の実現のため、あるいは未熟な理念を鍛えるために、ひたむきにたたかうという建設的な使命を担う存在だったのだろう。

 そうすると、ランスとリバティ・バランスの対抗関係はどうなるか。リバティは、名前は肯定的であるとしても、そのなりふりは否定的で、恐怖そのものの役柄を与えられている。それは自由という理念が無法と変わらないありかたにとどまっていることの象徴ともとれる。無法者が求める秩序は、暴力による威圧的な均衡状態(バランス)以外にはない。そこに「理念と信念を持った旅人」(ピルグリム)が現れ、あえて武器に手を出す役柄(ランス)を引き受け、威圧による秩序ではなく法による秩序を形成するいとなみにいのちを賭ける。映画の展開は、ランスの働きかけによって、シンボーンの町が、おそるおそるの歩みながらも、どうにか自由の秩序を定着させていく流れになっている。それは、悪漢リバティの無法状態を克服し、理念にもとづく安定した(バランスのある)コミュニティを実現していく過程である。もっと言うなら、リバティとバランスという言葉が本来の肯定的な意味に生まれ変わっていく過程でもあるだろう。同時にそれは、自由であることが肯定的な理念であるためには、法による保証を不可欠とするのだということが了解される過程にもなっている。リバティ・バランスは、そのような過程が現実のものとなるために、意味ある障害を体現する悪役だったのだ。言い換えるなら、その役柄は、自由が恣意的なありかたにとどまっていて、正義を望む声が法を引き寄せる以前の段階の無法者であり、その威圧力に永続性があるわけではないという証しなのだろう。

 言わずもがなだが、自由とは何でもありということではない。特定の生き方や一様の価値や権威にとらわれることなく、それぞれの人が個人的によき生き方を求める条件こそが、自由の出発点になる。つまり自由は求めるものではなく、むしろ守るべきものなのだ。したがって、守る手立てのないところには自由はありえず、よき生活も望めない。

 では、自由を守るものは何なのか。それぞれの人が求めるよきあり方が対立したり矛盾したりしないような配慮の必要を保証する力が自由には欠かせない。そうした力といえば、やはり多くの人々が納得する妥当な理念にもとづく法になるだろう。

 法を制定すれば、いつでも秩序が安定するわけではない。その次には、法を共同社会に定着させる工夫が問われる。『リバティ・バランスを射った男』という映画は、その工夫の必要な現実と、その現実を生きる人間の多様なありかたを、説得力のあるやりかたで描いてみせた。その際、一方的に理念を振りかざすのではなく、苦悩を強いられながらも、地道に学び合う人間関係を結ぼうとすることが理念をはぐくみ、さらには法を根付かせていくのだというような展開がとりわけ好ましかった。


 だらだらとして、迷惑だったかもしれません。
 失礼しました。









 

1033Sekko:2021/11/01(月) 18:23:56
若生敏由 さま
名前に注目されたレポートを興味深く読みました。

私が考えたのは、「リバティ・バランス」のリバティは「自称」か、人々がつけた通称だったのだと思います。自由の執行人(実は無法者ですが)という意味でリバティというだけの名前はむしろ女性名だと今は意識されていると思いますが。
バランスが Balance ならリバティと込みの通称の気もしますが、Valance は分かりません。

まあ、映画の設定の時期と制作時と今がばらばらなのでよく分かりませんが。

ピリグリムというあだ名も単に「よそ者」という感じだと思いました。

ランスという名は、ドイツ語にもフランス語にもありますが、「槍」という語源はゼロでした。
ランスはこの名で選挙に立候補し、知事や上院議員にまでなっているのですから本名でしょうが そもそもLanceでなくRansom(通称でRanse)ですからこの映画で暗示的な意味はないのでは?

自由や法治政治の意味は「識字」と「教育」によって養われるというテーマはその通りですね。

1034若生敏由:2021/11/04(木) 13:41:55
あらためて映画を見た感想
??ご指摘を読み、なんとも恥じ入るしかありません。Liberty ValanceをLiberty Balanceと思い込み、RanseをLanceと勘違いしていたわけですから。あの映画を見たとき、字幕付きということで、リスニングに自信のない私は、ほとんど字幕を追いながら展開を理解しようとしていました。そのため、作品の狙いについても、自分の関心の都合に引き寄せながら、分かったつもりになっていたようです。あのレポートは、結局は私の非力さをとどめたものにすぎません。
 そこで、消せない恥を噛みしめながら、せめて思い込みを解消しようという気持ちになり、アマゾンであらためて『リバティ・バランスを射った男』を鑑賞し直してみました。
 今度は食い入るように映像を見つめ、台詞に聞き耳を立て、作品の狙いをありのままに捉えようとしました。そうして気づいたことを、いくらか述べることにします。

 初めてあの映画を見たときは、主人公がランスだとおもっていた。けれども、今回は、実はトム・ドニフォンの方が主人公らしくおもえた。ランスの告白が終わって、地元紙の編集長が取材メモを破って語った言葉が、おそらく作品の狙いを反映しているのだろう。

 "This is the West. When the legend becomes fact, press the legend."
 「ここは西部だ。伝説が事実になったら、伝説を報ずるのさ」

『リバティ・バランスを射った男』というタイトルは両義的なのではないか。その事実はトム・ドニフォンのことであり、伝説としてはランサム・ストッダード。そして作品の展開は、称賛される伝説を生きる男の背後には、実は無法時代の苦難を引き受けた強く優しい男の自己犠牲的な生き方があったことを伝えている。トム・ドニフォンは、欲望と力がせめぎあう時代が創意と智恵を工夫する時代へと転換する、過渡期の課題に誠実に答えようとする人物におもえた。

 もうひとつ、印象深い台詞がある。西部に向かう幌馬車を待ち伏せていたリバティ・バランスが、乗客の金品を強奪し、女性を守ろうとしたストッダードを残虐に叩きのめしたときに発した言葉。

 "Out here, a man solves his own business."
 「ここではな、ひとは自分のことは自分で片付けるのだ」

 確認違いでなければ、後にランス自身も、ドニフォンとのやりとりで同じ台詞を述べざるをえなくなったはず。個人の自立、社会の自治が定着する前段階では、「自分のことを自分で片付ける」いとなみのせめぎあいや葛藤が避けられなかった。そのせめぎあいや葛藤を適度に調停したり緩和する存在が、ドニフォンのような強くやさしい男だったのだろう。

 トム・ドニフォンとリバティ・バランスは、無法地帯に必要最小限の秩序がととのう条件の両極にある存在だった。つまり、脅迫的な支配力と強固な防衛力。それらは、西部の開拓地に生きる男たちの野望と本能が奔放に露出されていた時代の秩序に見合う力だった。やがて開拓地にも町ができ、女性や子供たちがともに暮らす地域となった段階では、「自分のこと」だけではなく「共にいる自分たち」を守る秩序が要請される。その要請に応える力は、必ずしも武力ではなく、望ましい約束や契約を可能にする言葉の力になってくる。その言葉は、「共にいる自分たち」のおもいを集約する理念に裏づけられる必要がある。その必要を満たすのが、守りつづけるにあたいする言葉としての法というものだった。

 法が定着するためには、「共にいる自分たち」で法に求められる精神を学び、規範とすべきことを合意し合うことが必要になる。そうしたいとなみが「共にいる自分たち」の生活習慣として揺るがないありかたになれば、リバティ・バランスのような脅威を抑制する可能性が高まるし、トム・ドニフォンのような強くやさしい男の防衛力に頼る必要も少なくなる。無法地帯の秩序を両極から測り合っていた男たちが、自己破壞や自己犠牲によって消えゆくのも、時の流れだったのだろう。

 以上のような感想を抱いた後で、主要な登場人物の名前についても考え直してみました。往生際が悪いかもしれませんが、それについてのメモも記してみます。

Liberty Valance
・valance: 前飾り、掛け布 < descend, go down
⇒ 自由を衰弱させる存在

Tom Doniphon
・doni <do or don:??一定の状態におく,与える、
・phon<phone: 音、声
⇒ 折々に妥当な声を発する存在、不測の事態にも対応する力の担い手
?? 欲望と力がせめぎあう時代から創意と智恵を工夫する時代への過渡的存在

Ransom Stoddard/ "Ranse"
ransom: 身請け、解放、あがない
dard <Dardan: Trojan
????<Dardanus: ZeusとElectoraの息子、トロイアTroy、人の祖先
⇒ あえて苦境を引き受け平穏な秩序を求める
  約束や契約にもとづき、お互いの自由を尊重し合える社会のいしずえとなる
????無名な者の自己犠牲に支えられながら、称賛のまとになる伝説を担う
  公衆が望む役割に徹する

Hallie< hallelujha; holy
  賛美、神聖さの響き

 かなりこじつけがましいかもしれませんが、作品を生かしている個性から類推してみた次第です。

1035Sekko:2021/11/04(木) 19:24:56
若生敏由 さま
わざわざ観なおされたのですね。

RとL、BとVの 聴き取りは、少なくとも3歳未満に聞き分けないと、日本人には難しいですね。
私も45年フランスにいますが、文脈でしか聞き取れません。だから固有名詞などは
フランスのよくある名の Roland と Laurent なんていつもあせります。カタカナだとどちらもローランです。o と au の「オ」も厳密には違います。anとen はつづりは違っても同じですが。
スペイン人もBもVもほぼ同じ発音なので聞き分けないようです。

アメリカ英語は特に子音をのみこんじゃうので私は聞き取りが苦手です。
でも外国人同士の英語での会話は分かりやすくて便利ですが。

また、読み書きに不便がなくても映画のセリフを聞き取るには数年かかりました。
今でも、俗語系は、聞き取れないというより、どんどん変わるし、俗語語彙が貧困なので、そういうのが多い映画には聞き取れないものがたくさんあります。若い子のSMSなんて書かれていても謎だったり。今の日本語も、もう私の分からないものはたくさんありそうです。

若生さまの件のレポート、講師の方はどういう評価なされたのかしら、とちょっと気になります。

私は最初からトムが主役で、タイトルの意味だと思って観ていました。だって、ジョン・ウェインだから。

でも、アメリカって、アングロサクソンの判例主義で、フランスの法治主義とは違う伝統です。だから差別を含めた過去を引きずりやすいのかと思います。

聞き取りバイリンガルは無理ですが、そこいらのバイリンガルの人よりずっとバイカルチャーだと自認している私は、年とるにつれてどんな映画を観ても、複眼視できて楽しいです。

1036小寄道:2021/12/09(木) 13:29:24
Sekkoさま
ごぶさたしております。
今日の「クリスマスの曲」の最後のくだり、
「クリスマスはサンタクロースに託してプレゼントをもらえる、プレゼントする側が無名性に隠れて、子供が喜ぶ姿をただ見たいだけ、というのがクリスマスの奇跡だ」に思わず膝を打ちました。
子や孫のいない寂しさに年甲斐もなく、小生、胸が熱くなりました。
また、理知的に、合理的にものごとを語ることで、年端のいかない子供でも得心するのだと思い至りました。
もちろん、そうして子供たちに音楽やバレエの神髄を教えていらっしゃるSekkoさまに敬意を表したいです。
ありがとうございました。

1037Sekko:2021/12/09(木) 18:36:30
小寄道さま
ありがとうございます。

「サンタクロースなんていない、分かっちゃったよ、ウフフ」と自慢げに私に言ってくる子供たちへの私の返事も、毎年進化しています。

子供たちが内緒話風、自慢話風に「サンタさんって実はいないんだもんね」と言った後すぐに「サンタさんはいるよ、私は信じているよ」とまず答えます。

子供たちは一瞬驚いて、私も彼らを「だまそう」としているのかという顔をします。それから私が説明するので真剣に聞きます。。

日本語だと「いる」は生き物、「ある」は無生物、になってしまいますが、フランス語ではこういう場合「存在するexister」を使うので割と楽です。

「『存在する』にはいろいろな形があるよね、例えば、愛(アムール)って存在するよね。でも、見えないしさわれない。サンタクロースの存在の仕方も、ひげのおじいさんだけでない、その存在を信じる、大人全部が、子供たちに分けようとする愛と言う形で存在するんだよ。親がサンタクロースに代わってプレゼントをくれるのもその一つ。それをもらえない子供たちにはサンタクロースが来る。
考えてみて、もし今、クリスマスにも何ももらえなくて苦しいことばかりという子供が遠くにいるとして、君は、その子のサンタクロースになってプレゼントをあげたくない?
その子は喜ぶよね。その時<君は、その子にありがとうって言ってほしい?
その子が喜ぶと思っただけでうれしいよね。それがサンタクロースなんだよ。」

「サンタクロースのプレゼントを楽しみにしている子供を見るのがうれしいパパやママに、サンタクロースの話は嘘だ、なんて言ったらパパやママはきっと悲しいよね。でも、そんな『嘘』を共有することでサンタクロースのあり方を続けようと思ったからパパやママはプレゼントを一生懸命に用意するんだよ」

といった具合です。

これで子供たちは100%納得します。

まず、私のところにピアノやギターの個人レッスンに通ってくるような子供は、親が経済的に困っていず、子供の教育にとって音楽が重要だと考えている家庭の子供という前提があるからです。

そして私は、彼らにとっては「音楽」の面では、親よりも権威があるわけで、絶大の信頼を寄せてくれているわけです。その私が、「サンタクロースはいる」と真剣に言うわけですから、「理解しよう」という意欲満々になるわけです。

「男の一生には三段階ある、サンタクロースを信じる時、サンタクロースを信じなくなった時、サンタクロースになる時」などという言葉があるのですが、「愛」や「神仏」に置き換えてもそうだなあ、とも思います。子供や孫がいなくても、ある年代になったら「利他」を素直に実践できれば人生の完成かもしれません。

私のサンタクロース論だって、自分の子供や孫にならなかなか耳を傾けてもらえないでしょう。子供や孫ならこっちもいろいろ煩悩が混ざるでしょうが、生徒たちには「無償の愛」(つまり、レッスンの間はその子の喜びと上達のことだけで頭がいっぱいという状態)を実践させてもらえているので彼らもそれを感じているし、私も感謝しているということです。

もう何十年もレッスンを通じて子供たちとディスカッションをしてきました。そういう時、フランス語って便利だとつくづく思います。

1038小寄道:2021/12/10(金) 01:41:12
Sekkoさま
アメリカにおける麻薬問題のことを遅くまで書いて、煮詰まってきてふとメールボックスを見たら、Sekkoさんのリコメのお知らせ。

さっそく拝読。実際の子供たちのやりとりが手に取るように分かり、しかも実存主義ならぬ哲学的な問答。子供もしっかり考えていますね。

とても心温まる言葉のかけあいでして、なんというか、竹下節子さんの教室なんだなと実感した次第。

関係ないですが、コロナ前に日本にいらした時、絵本と音楽の話をされていました。
それも思いだして、今宵はぐっすり眠れる気持ちです。
ありがとうございました。

1039まつ:2021/12/14(火) 21:57:37
ご講演をありがとうございました
初めまして。
先日講演会にて会場隅っこのほうで初めてお話を拝聴した者です。

コロナ禍で、輪郭がはっきりしない不安のようなものを抱きながら日本で過ごし、仕事のため今年渡仏して参りました。
講演会には、パリにいながら日本語の講演が直接聴ける!という半ばよこしまなモチベーションもあって申し込みましたが、
今を生きる私(達)が日々肌で感じ、時には内心葛藤しているような話題を幅広く取り上げてくださり、
聴き終えた後は、コロナなど周りの状況は何も変わっていないにも関わらず、
希望を持って進んでいけばいいと肩を叩いてもらえたような、そんな暖かい時間を体験させて頂きました。

年末という時期は1年の中でも特に、自分がクリスチャンであることを強く自覚させられる時のような気がしています。
無宗教と言いながら初詣をし、おみくじを引く、そんな”文化”に少しばかりの反抗と伝道の意味を込めて、
ここ数年は年賀状の代わりにクリスマスカードを友人へ送るようになりました。
今年はエアメールということで早めに投函してみましたが、
思ったより早く届き、しかも1通のロストもなく、ずいぶん驚きました。

フランスにいる間にもまたお話を伺ったり、演奏をお聴きできる機会を楽しみにしております。
先生がブログに書かれていたパレスチナ支援のポップアップショップ、
ぜひ行ってみたかったです(もう終わってしまったのですね)。
どうぞお身体にお気をつけて、暖かくしてお過ごし下さい。

1040Sekko:2021/12/15(水) 06:33:00
まつ様
おやさしい感想を送ってくださってありがとうございます。

「適応力という言葉が頭に残り、フランスで生きて行く力になった」と言ってくださった方もいて、少しでもお役に立てたかとうれしく思います。

クリスマスは、目に見えない「神」が目に見える子供の形で分かりやすい「救い」を先に贈ってくれたというスタートですね。ベツレヘム製の聖家族像を見ていると、身に覚えのない私生児を10代半ばで生むことになったマリアと、その子を敢えて引き受けたヨセフというカップルの決断にあらためて驚かされます。それでも、無垢の赤ちゃんを見て、二人とも喜び、いたわり合う姿に、「無償の愛」を託されることの意味を考えさせられます。

その「無償の愛」を「目に見える形」にしたいから、フランスでは大人も子供もみんながプレゼントを贈り合うのだなあと思います。

愛も救いも取引ではない、と再確認する機会です。

でも、今やこのフランスの普通の教会でのクリスマス・イヴのミサ、テロをおそれて警備が必要だという現実が残念です。

まつ様のクリスマスと新年が平和で恵みに満ちたものでありますようにお祈りします。

いつでもお声をかけてくださいね。

1041小寄道:2021/12/30(木) 02:20:07
本を読む女性
『本を読む女は危険』を読み、初めて観る絵画がほとんどで、正直びっくりし感動しています。
唯一、ユトリロのお母さんの作品は観たかもしれませんが、その他の絵は、初めて見ても意味深な女性に見える。何なんでしょうか。美術的には、一つのジャンルなんですか?

面白かったのは、「寝落ち」というキーワード。
読書しながら寝てしまう、これは最高の幸せ状態。そのときの表情を絵画にするというのは、現代にはあるようでない。どうですかね?

これらは、なんかの伏線ですか? と、したら興味津々です。
就寝前に拝読し、眠気がぶっ飛び、思うがままにコメントを書きました。乱文失礼

1042Sekko:2021/12/30(木) 04:07:04
小寄道
いや、別に伏線ではありません。

でも、男性の肖像画で書物が添えられている場合は、「教養」や「社会的地位」を示す小道具なんですが、女性が本を読んでいるのは、実は「イヴの林檎」なんだと思います。

つまり、禁断の香り。それを嗅ぎとった小寄道さまはさすがです。

日本では源氏物語とか女性による文学作品の伝統があるわけですが、やはり漢字と仮名の棲み分けがキイワードかなとも思います。「漢字」は男という主人の死守する「知恵の木」で、「仮名文学」は女性がひそかに発酵させた林檎なのかも。

おもしろいですね。

よいお年をお迎えください。

1043若生敏由:2022/01/10(月) 13:13:19
利他について
 1月9日付けの記事を読んで、中島岳志が若い頃にインドで体験した話を思い出しました。それは、やはり手助けの場面なのですが、竹下さんの場合とは立場が逆で、しかも当事者どうしが違和感を抱いた特異な体験談でした。

 中島岳志をご存じでしょうか。私は、『ヒンドゥー・ナショナリズム』(2002)を読んで以来、当人の著作を追いつづけています。(ちなみに、竹下さんの愛読者になったのは、遅ればせながら、『無神論』(2010)に出会ってからでした。)

 中島は、大学院時代にヒンドゥー・ナショナリズムのフィールドワークのためにインドに長期滞在していました。体験談というのは、彼が大量の調査資料を詰め込んだトランクを手にして、鉄道駅のやや長めの階段を登ろうとしていたときのことです。重さに苦労しながら登っていると、通りかかった現地の人が無言で手を貸してくれたそうです。登り切って、助かったおもいを感謝の言葉にして伝えると、その人は表情を曇らせ憮然として足早にその場を立ち去ってしまったという話。中島本人は、しばらくはそうなった事情をうまく理解できずにいたようです。
 やがて中島が納得したのは、熱心なヒンドゥー教徒は、日常生活の中で「ダルマ:宇宙全体の法則であり、そのなかで人が果たすべき役割」を体得し自然に実践できるように暮らしているということでした。そういう人は、たまたま出会った人間でも隣人と受けとめ、苦労や不自由に気づけば、思わず自動的に体が動くようになっている。中島が出会った人物も、当然の役割を自然に果たしただけで、返礼を求めての手助けではなかった。それは特別なおもいやものをやりとりする交換関係とは無縁な、ありふれた相互扶助の関係だったのだ。そういう人間関係を大切にしている共同社会があるのだ、と中島岳志は理解しているようです。

 竹下さんは、「彼らは私にメルシ―とさえ言わなかったのに、私はまったくお礼の言葉を期待していなかった」「少し困っていた彼らのそばに居合わせた偶然が、まるでプレゼントのように感じられた」と書いていました。相手はヒンドゥー教徒ではなくムスリムだったようですが、竹下さんがためらいもなく、自然にさりげない対応ができる姿勢を身につけていたため、相手もその場ではあたりまえのことをしてもらえたのだという受けとめ方になっていたのかもしれません。その場のやりとりを振り返って「プレゼント」のように感じられたのは、意図したわけでもないのに自然に相互扶助の関係にめぐまれたということだったのかもしれません。

 中島岳志は、一昨年あたりから「利他」を捉え直す本をたてつづけに世に出しています。そのテーマを所属の東京工業大学で共同研究に取り上げていて、とりあえずの成果の妥当性を確認する意図があるようです。

 中島たちの考える利他は、同情や共感とは異なったところに動機があるようです。同情や共感が動機となる利他には、大なり小なり利己的なはたらきがあると考えられています。同情や共感を寄せられる側にも、同情や共感を抱かれるありかたでないと助けてもらえないというプレッシャーが生ずる場合がある。環境対策を掲げる企業、途上国の開発援助、慈善事業を支援する企業や個人、世の中や他人のためになる仕事に励むという意志、思いやりのある人になろうとか好かれる人になろういう要請、などはどこかに自分(たち)のためという動機を潜ませている。けれども、人間が抑圧のない共同性を失わないでいるためには相互依存や相互扶助の関係が欠かせない。というわけで、利己的に傾かない利他のありかたを、文学、宗教、落語、料理、商業、社会内外の交換関係の中に見いだそうとしているようです。今のところ中島岳志が考えている利他は、偶然に立ち会った場面で、思いがけずとっさに行ってしまうことが、結果的に相手の利益になること、とみなされています。そのような思いを込めて、『思いがけず利他』という本が昨年刊行されました。

 東京工業大学に「未来の人間研究センター」という研究機関があって、伊藤亜紗という、東大で生物学から文転しヴァレリーを研究した若手の美学者が代表を務めています。仏教徒を公言している中島岳志、カトリック教徒の若松英輔、小説家の磯崎憲一?、スピノザ学者の國分功一郎(東大に転出)が中心メンバーです。それぞれに成熟期を迎えている面々であるだけに、私なりには、しばらく彼らの活動と発言に注目してみようとおもっています。昨年は、最初の成果を『「利他」とは何か』(集英社新書)として出版し、一定の評価を受けています。

 長くなってしまい、申し訳ありません。

1044sekko:2022/01/10(月) 22:49:35
若生敏由さま
興味深いお話をありがとうございます。
フランスでは日本より気軽に階段での手助けやらが行われていて、メルシーも普通に言われていました。2年ほど前には全く普通だったのです。
ところが、公共交通機関でのマスクが義務化されて、社会的距離が言い出され、メトロの出入り口のオートマ化があっという間に進み、情景は変わりました。次の人のためにドアを開けたり押さえておいたりなど、できるだけ触りたくないし、他人の荷物やバギーなどに勝手に触れるのも、向こうも警戒してありがた迷惑な気もするし、そういうやりとりがあってもマスクしてのメルシーでは、はっきり聞き取れないし…。
そんな日常でしたから、先日、いろいろ気にすることなく思いがけなく「親切」が成立した時に幸福を感じたのかもしれません。。

私が常々思っていて書いてもいるのは、利己と利他ではなく、「私」の反対は「私たち」だという見方です。「私」と「私以外」というのは分かりやすいですが、「私たち」とは何かについては、いつも考えされられます。

「思いがけず、私たち」を生きていきたいです。

今年もよろしく。

1045小寄道:2022/01/25(火) 00:29:30
Sekkoさま
「改宗の話」でちょっと質問させて下さい。

「フランスにいるムスリム系移民や移民の子孫がイスラム教を離れてキリスト教に「改宗」する場合の多くは、アメリカ系のプロテスタントや「福音派」教会に向かうものと思われる。」
この下りに刮目しました。

フランスにも、アメリカ由来の福音主義つまりエバンジェリストの活動は盛んなんですね。
元イスラームにとっては、「福音派」のイエスへの信仰が主眼なのか。
それとも偶像崇拝に重きをおかないこと、それが改宗のハードルを下げているのか?

論点の設定が、曖昧過ぎますかね。

イスラムへの改宗者が多く出るというのは、テロリストがふえる可能性が大になる。そのことの将来的な危惧が課題となるであろう。
全体としてみれば、フランスのクリスチャン、無神論者など、イスラームに改宗する人たちの数は、10倍もいる。それが現実ですね。

それとも、まったく関係なく、IT技術者として成功するために、イスラームはエバンジェリストになる。それが若い世代のトレンドだというトピックを目にしたことがあります。

フランスのカトリック界において、シャルル・ド・フーコー氏の「改宗」の力は、やはり論議の対象になるのでしょうか?
いや、フランスにおいて「福音派」教会は、いわゆる「隣人」として、どう見做しているのか・・。
このことが、私の最終的な疑問ですね。すみません、回りくどくて。

1046Sekko:2022/01/25(火) 07:38:37
小寄道さま
いや、いろんなところで書いているのですが、単純化して言うと、今のカトリック教会は基本的に「布教」をしないのです。福音宣教というのはありますが、要するに、「うちの教会へどうぞ」という「勧誘」はいっさいありません。老舗だからというのもありますが、歴史の中で他文化の人に改宗を迫るような布教をしたことで生まれた弊害を反省して「救いはカトリック教会の外にもある」みたいなことを第二バチカン公会議で言ってしまってるので、「宗教」というより、カトリックのもとの意味である「普遍」を標榜しているかのように見えてしまいます。
プロテスタント諸派からどんなに非難されたり攻撃されてもスルーだし。
(これはもちろん、ヨーロッパのカトリック文化圏で顕著な特徴ですが。)

で、フランスでも、戸別訪問して勧誘したり、駅前で「あなたは救われる」とか大声をあげているのはみな「信者獲得」が目標に組み込まれているタイプのプロテスタントなのです。で、大抵は、ばりばりの共同体主義のコネ社会だから、ビジネス的にも互助的にもメリットが大きいのでしょうね。フランスで、ムスリムから福音派に入って、それからカトリックに改宗した人の例を前に記事にしました。参考にどうぞ。

https://spinou.exblog.jp/30671639/

1047小寄道:2022/02/05(土) 03:46:45
トッドの事など
今回、エマニュエル・トッドについて書かれていて、彼の思考法に違和感をもっていることや、日本との関係にふれ、そしてポール・二ザンへと話を紡がれていました。
トッドといえば、ソ連崩壊を予言した社会人類学者で、30年ほど前になりますか、日本でも注目を集めました。
フランスの人類学といえばレヴィストロースやマルセルモースですから、私も俄然、新進気鋭の学者、トッド関連の本を読みまくりました。

ご指摘のように、アングロサクソン直伝というか、データ分析に基ずく実証主義的な家族社会学でして、人口動態のデータの基本となる官製資料をベースにしたもの。乳幼児の死亡、出生数の減退で、ソ連の崩壊を論証したといわれます。
もちろん論文そのものは読んでいませんし、それを注釈した解説書しか読まなかったです。

そういえば、トマ・ピケティも官製データをもとに税金、資産蓄積やそれらの歴史的推移の分析で『21世紀の資本』の来るべき未来像を示唆しています。彼もまた、アングロサクソン流の方法論を踏襲したもので、それゆえに世界的なベストセラーを生みだしたといえます。アナール派のアラン・コルバンも、そういう系統の著書がありました。

とつぜん話がとびます。さきほど、メロンパンチさんのブログを拝読したら、私がコメントした記事に、Sekko様もコメントされていて、考えること多々ありました。

ただ、一点、おききしたいことがあって、こちらにコメントを書いています。

「天災等の苦難、試練(復讐すべき加害者の顔が見えない時)に遭遇した場合、その『意味』を探ろうとするのはサバイバルの一種で、古今東西共通です」と。
端折っていますが、そうした理不尽な事態に実際にあわれた当事者、つまり被害者は語ること、ときにそれを拒否する「特権」がある、と書かれています。
だから、第三者(特に政治家)は、軽々に口にすべきものではないと強調しています。もちろん、これな3.11のときの故石原氏の発言を示唆したものでしょう。

もちろん第三者には、被害者の「特権」など有するはずはないし、皇室の方々のように耳を傾け、心に寄りそうことが模範的といえるでしょう。
でも、あのときは、世界中のひとが日本のことを語ったと思います。

サバイバルの意味を瞬時に考え、「原発をストップする」と宣言したのはメルケルさんでした。
日本ではお笑い芸人や識者、子どもたちまでも被害者の皆さんにメッセージを発した。
そのなかには一見ネガティブで、自省を忘れるな、油断するなとか、供養は充分かとか、もっといえば「メメントモリ」なるものを発信した人たちだって、けっこういたんじゃないかと思っています(SNSの草創期でしたから)。

わたしは、悪意をもったメッセージは相手の心に届かないと思っています。受けたかたは、心外な内容ならその場では落ち込む、心が傷つくでしょうね。でも、そのひとはやがて忘れるだろうし、気に留めていたら前に進まないと考える。被害を受けた人々の「特権」は、普遍的に守られるべきだ。しかし、法律で保障されていないし、規範に属してはないか・・。


実は、故石原氏があの発言をしたとき、マスコミをふくめて徹底的に言論の俎上にのせるべきだと、私は考えていました。
各界、一般ふくめて、故石原氏の思想、信条、人間観などを徹底的に議論すべきだと考えたのです。
正義の物差しで議論するか、宗教的なそれか、科学的判断の有効性、もろもろの観点からか・・。
石原慎太郎という人物をこれでもというぐらいに切り刻んで料理する。
これは、彼にとっても「特権=義務」であり、議論する側の当然の自由です。
これぐらいの局限まで追及しないと、日本はいつまでも事なかれでいくんじゃないかと思いました。

どうも、長くなってすみません。どうかまともに相手せず、二言三言で一刀両断してくださいね。
同じく二ザンの倍を齢喰った市井の爺の世迷言です。適当にあしらってくださいね。

ともあれ、当時、トッドの出自とかバックグランドに興味をもち、Sekko様と同じく二ザンへとたどり着いたことは記したいです。
Sekko様の若かかりし頃の思想遍歴とも、ほんの少しだけオーバーラップしますし、『アデン・アラビア』はランボーの『地獄の季節』とおなじ質量をもつ書物だった。

以上、長文・乱文にて失礼いたします。

1048Sekko:2022/02/05(土) 04:39:59
小寄道さま
いや、別に、一刀両断なんて、異論などありません。

人間の「罪悪感」形成って、自分に対しても他人に対しても、逃れられない生存戦略のひとつとして組み込まれているんでしょうか…。それでも古来どこでも誰でも、病や死について「罰」と不当感とに悩まされてきたのは事実ですね。

「悪意を持ったメッセージが相手の心に届かない、とはケースバイケースだと思います。メロンパンチさんの宮?勤事件の解説(私は日本にいなかったし、当時は日本のメディアとも距離があったので)を読んで驚き、ついでに宅間守についても検索して驚きました。この人たちの生い立ちって悲惨すぎると思ったからです。いろいろないじめやハラスメントのトラウマを抱えた人にとっては、「悪意を持ったメッセージ」はそれこそ心をえぐるもので、爆発や暴走に至る場合もあるのかと。

私も日本では狭いお花畑の中にいましたが、フランスに来ていろいろな過去を持った人と付き合って、(相手の立場に立つという)想像力も鍛えられ、リスクマネージメントもうまくなりました。
ブログにコメント欄を設けないのもエゴサーチしないのもその一つです。必要な人に役立つメッセージを発していきたい気持ちはありますが、嫉妬や悪意を抱きそうな人を刺激しないように目立たないでいる、というのが一番楽かと。
一応、物理的に日本と距離を置いているし、失うものもないので、これからはもっとはっきりものを言おうとは思いますが。

それに比べたら、(私の周りの)フランス人たちは単純で裏表がないか、あってもすぐ見抜けるので、対人関係は楽です。ともかく日本で暮らしていたら絶対に得られなかった多くの知見や感性に援けられたことは多いので、それを同胞に還元できたらなあ、と思っています。

1049小寄道:2022/02/09(水) 02:38:02
Sekkoさま
タレラン(昔、タレーランと習いました)はさておきます。

7歳のギターを習いに来る少年の話は、胸が熱くなりました。老人域に入ると、この手の話には手放しで涙腺が崩壊します。

サンタクロースの話も伏線としてあり、余計にきましたね。

少年に対する同等のまなざしというか、一個の人間として耳を傾け、自分の考えをのべる。しっかりした子どもは、これを待っていますね。

私の子ども時代には、そんな大人は一人もいませんでしたね。
下町特有のガサツな喋り方で、「ガキは生意気なことを口にすんじゃねえ」、これだもの。

今日また、深夜になってSekkoさまの話で、心もからだも温まりました。

1050Sekko:2022/02/09(水) 03:54:27
小寄道さま
ありがとうございます。

私も、日本語でならこのような会話ができません。
フランスの子用の絵本を何冊か日本語に訳したことがありますが、とても難しいでした。

日本語で子供と対等に話そうとしても、「漢語」がネックになる気がします。
早い話、「愛」とか「自由」とかはそのまま子供に使えません。子供用の語彙に「翻訳」する必要があります。フランス語なら、大抵の言葉は大人も子供も共通なので、自然に話せるのです。

逆に、自分より年長の人と話すときも、フランス語なら自由に対等に話せますが、日本語なら敬語を駆使しますし、気を使うことが多かったです。

近頃の日本の若い人はそんなこと考えていないかもしれませんが…。(若者言葉はこちらが分からなかったりして。)

1051舟木雅子:2022/03/03(木) 15:17:00
著作物利用申請について
初めてご連絡いたします。 日本著作権教育研究会の舟木と申します。
小会は著作物の利用申請に関する業務を代行しております。

2022年度東京経済大学入試問題に『疫病の精神史』が使用されました。
そのご報告と大学が発行いたします過去問題集等への掲載許可を頂きたいのですが、申請書類のご送付先のメールアドレスをお知らせ頂けませんでしょうか。

お忙しいところ大変お手数をおかけいたしますが、ご連絡のほど、宜しくお願い申し上げます。

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一般社団法人日本著作権教育研究会
鎌倉事務所
〒248-0027 神奈川県鎌倉市笛田5丁目19−9
TEL: 0467-38-1590??FAX: 0467-38-1591
E-mail: copyright@jcea.jp
舟木 雅子

1052小寄道:2022/03/04(金) 02:16:31
Sekkoさま
3/3のSekkoさまの記事、マクロン・ウクライナメモの「二度目の投稿」について、2,3質問させてください。

まず、マクロン大統領と経済相のブルーノ・ルメールの言動についてです。
フランスとロシアが歴史的に深い繋がりがあることを前提にして、国際世論を意識して彼らなりのアジェンダを出している。
でも、それは必ずしも、政治家としての本質的な責任をともなうものではない。

軽いとはいえませんが、日本で言うところの「爪痕を残す」感じのポジショントークのようなものに思えてしかたがないです。
なにか極めて個人的な発言に思える。
組織的見解なのか、公人としてなのか、私人的見解なのか、呟きなのか・・。
これほどの曖昧な政治家の物言いというのは、これまでの仏露関係において慣例としてあったんでしょうか?

マクロン大統領は、欧州における政府間交渉において、とてもフットワークが軽く調整役を買って出るイメージが強いです。
Rakitarouさんの記事にもありましたが、ロックフェラーVSロスチャイルドの陰謀論的力関係はさておき、やはりアメリカの存在を視座に置いている。
これは彼の出自とかパーソナリティによるものか、純然たるフランスの為政者として対米政策を念頭においているのか? Sekkoさんはどちらと見ますか。

それと関連して、ドイツとフランスの因縁ですけど、いまウクライナの危機のなか、ドイツはけっこう困難な状況です。
エネルギーでも、NATOにおける役割でも、メルケルさんの後では、ドイツは今、フランスの後塵を拝すかんじが強い。
下世話な話なんですが、マクロン大統領はそんな状況を待っていた。そんな印象を勝手にもってしまいましたが、どうでしょうか?

最後に総評を頼みます。
駄目、駄目、そんなふうに物事をとらえるのは・・・A
こんなコメントは的外れ、勉強し直しなさい。・・・B
面倒くさいわ、自分で判断すべきでしょうね。・・・C
神の御心のままに。            ・・・D

以上の4択で、お願いいたします。

1053Sekko:2022/03/04(金) 07:06:52
小寄道さま
今は純粋に自分の覚え書きで書いているので、説明が足らなくてすみません。小寄道さまの質問とこの答えをブログに転載するつもりです。

まず、今のマクロン政府のディスクールは、個人的というより、やはり意識下に4/10の大統領選を踏まえているのだと思います。今日(3/3)マクロンはようやく出馬を表明しましたが、新聞上で「手紙」の形をとりました。予定されていたマルセイユの第一回ミーティングもキャンセルしました。フランス大統領というのは「外交と軍事」のトップなので、今の状態でマクロンの再選は決まったようなもの、第五共和制はじめての、首相との政党ねじれのない二期目となることでしょう。

マクロンがプーチンと今年もう9度も話しあったようですが、個人的に親称で呼び合う関係だったのは事実です。互いが好きなタイプという印象も受けます。
でも、今回大活躍しているのは、エネルギーや軍事で今のEUの中では比較的ロシア依存が少ないこと、そしてフランスが1月からの半年間EU評議会の代表というポジションだからです。メルケルの後のドイツ首相の存在感がまだ薄いこともあります。

でも、思い返せば、2008年の北京オリンピックが始った8月にロシア=グルジア(ジョージア)戦争が勃発した時、EU議長国だったフランスのサルコジ大統領がトビリシとモスクワに飛び、当時のロシア大統領だったメドベージェフに会って調停を試みました。この時、ロシアは5日でジョージア軍を破り、390人の市民が戦死しています。8月半ば、両軍は兵を納め、フランスの提示した平和条約に署名しました。けれどもその後すぐにロシアは、グルジア国土の20%を占めていた自治政府のの南オセチアとアブハジアに基地を残したままで独立を承認、ジョージアはロシアと国交断絶しています。この事件は、ウクライナの事情と似ている部分も似ていない部分もあり、複雑なのですが、今回も、最悪、ロシアがウクライナの親ロシア地域を支配することで終わるだろうと見られていたり、EU やフランスが何をしても、ロシアは平気で条約を反故にするという前例になったりもしました。

ドイツとフランスについては、ブログでも触れましたが、今までドイツはどんなに経済が強くても、二度の大戦の侵略国、敗戦国というスティグマはあり、NATOでアメリカの核ミサイルの基地を提供するという立場でした。アメリカが、中国や北朝鮮もあるし、北方領土もあるし、もうヨーロッパ側の防衛はヨーロッパでやってくれ、というスタンスになったので、ドイツの軍事的自由が拡大しつつあり、それがフランスのストレスになっています。
ドイツが自前の核兵器を持つのは(日本と同様)簡単だと言われています。
アメリカの核の傘に直接入らずに済み米軍基地を提供する義務もなくNATOから脱退した時期もあった核保有国(規模は小さいですが)のフランスがEUでの外交ヘゲモニーを脅かされると警戒しているわけです。

総評って、何ですか?

できる範囲でご質問に答えようとしましたが、うまく答えられたかどうか心配なのはこちらです。

陰謀論の二つのタイプの記事はおもしろかったですね。
皆さんのブログからいろいろヒントをいただいています。

私もよほど、ウクライナ関係の記事のコメント欄を開放しようかと思ったのですが、それでなくても仕事を中断したまま冬休みが終わりそうなので、時事については少しセーブしようと思っています。

フランスは3/14からようやくワクチンパスも屋内のマスク着用義務もなくなるようでほっとします。ウクライナ危機があるから、コロナがなくても求心力を保てるという思惑でしょうね。

1054小寄道:2022/03/05(土) 00:02:59
Sekkoさま
愚生の記事をもとに、予定外の記事をわざわざ起こしていただき恐縮しております。

以前、Sekkoさまが『アメリカにNoを言える国』という著書を上梓されました。そのご著書のモチーフが、愚生にもやっと腑に落ちる、確かな手ごたえというか理解ができました。

フランスという国は、「たかが、されど」論はさておき、核保有国であり実行力も兼ね備えている常任安全保障理事国だということです。
その政府の首長としての責任、発言力を、サルコジは自覚していたし、また今年になって9回もプーチンと話し合いをもったマクロンも然りです。
彼もまた、フランスの持てるステータスを身を粉にして発揮した、ということにしておきましょう。

これは正直、フランスの新たな発見です(恥ずかしながら、遅まきながら、です)。
ほんとうに政府筋の仕事なり、或いは軍事関係の実務についてない限り、一般人には体感できない国家観だと思います。
アメリカの傘の下に入るということが、いかに一国として立場を脆弱にすることかを痛感した次第です。

だからといって、日本が核保有するとしたら、ウクライナ以上に叩かれるでしょうね。
米中が寄りそって、日本に襲いかかってきそうです。

最後に、先にコメントに書いた「総評」ですが、愚生が書いたことの「総合的評価」を4択の中からお選びくださいという意味でした。
半分ふざけた気持ちが入っていたので、「総評」なぞと紛らわしい簡略化をしてしまいました。(ちょっとお酒が入っていたのです。ごめんなさい)

ちかいうちに拙ブログにも、Sekkoさまの記事をシェアさせていただくことになるかもしれません。その節はよろしくお願いいたします。

1055小寄道:2022/03/07(月) 01:46:23
Sekkoさま
孫氏のいうところの「戦わずにして勝つ」のがいいんです。
負けるが勝ちでもいいですけど・・。
ナチスに対するフランスは、見事といっていいです。
レジスタンスもそれなりに役割を果たしましたし、継続しただけでも凄い。
ドゴールも身の処し方がうまかった。生き続けること、身を引くことのバランスを知っていた。
連合国の精神というか、戦略遂行メソッドはNATOに継承されたんでしょうね。たぶん。

ソ連崩壊したあと、冷戦以降のNATOはいちおうブレークスルーする手続きをするべきだった。仮想敵国にこだわりすぎた。

戦わないメソッド、アメリカ抜きの平和戦略、英仏だけでやれたら良かったと思います。
歴史的には無理筋ですが、「核抜き」を前提としたらできたんじゃないかと思います。
いつもながら突拍子もないことを書きましてすみません。

1056愚者:2022/03/28(月) 14:15:10
マリウポリ
sekko様、

何度も試みたのですが、新しいサイトにはアクセスできませんでした。

ところで、ウクライナ大統領を国会に招いて演説させ、議員たちにスタンディングオベーションをさせ、防衛装備品を与えたことなどについて、ロシア(と中国)の敵として自ら名乗りをあげて危険を招き寄せたと、鮫島タイムス・鮫島浩氏が27日の動画であらためて指摘しました。

侵攻の当初から、孫崎享氏や東郷和彦元欧亜局長などロシアに詳しい外務省OBが米国とNATOの対応について厳しい指摘をしていました。しかし、れいわ新選組以外のすべての政党が、護憲政党である日本共産党までが、ロシア非難決議に賛成したそうで、国会が全体主義的な様相になってきたことに衝撃を受けます。
知合いにも、ゼレンスキーは立派だ、がんばれ、みたいな反応を返さないとおもしろくない人はいます。

オリバー・ストーン「ウクライナ オン ファイア」の日本語字幕付き動画は、消されてはアップされるのを繰り返すイタチごっこになっているようです。この映画は必見だと思いますが、オリバー・ストーンがプーチンに利用されている感じは明らかに伝わってきます。
一方、れいわ以外の国会議員やメディアはウクライナを代理とする勢力によって、無意識に利用されていると思われます。
マスメディアは言うまでもありません。

孫崎氏らは「プーチンはゼレンスキーを全く信用していないので、停戦交渉を実のあるものにするには、プーとゼレ双方から信頼され評価されるだけの知性人格手腕を備えた者が代理になるか、間に入るかでないと停戦を成立させるのは難しい」と言っていました。

かろうじてSNSには「プーチンは悪魔、ゼレンスキーは正義」という見方と、それに賛同しないと黙殺される風潮への疑問がみられます。
その中に「2014年のユーロマイダン革命後に、おそらく武器製造企業に近い勢力によって養われる暴力的な極右勢力がウクライナで台頭した状況については、EU諸国の首脳らも、『とんでもないものが出現してしまった』と受けとめて危惧していた」と、ウクライナに住んだこともあるというロシア通の人が書いているのをみつけました。

sekkoさまは、フランスなどの首脳たちがユーロマイダン革命のもたらしたものについて危惧したと思われますか?

こちらでは、ある司祭が、ファティマの予言がロシアの回心のための祈りを求める聖母マリアのお告げであったという説教をしました。プーチンがキリスト教徒で共産党員じゃないことは知らないのかもしれません。
また、バイデンはカトリック教徒だから善人だろうと無意識に考える「偏見」も見え隠れします。
難民が発生しているウクライナ西部はカトリックが多く、東部はオーソドックスが多いことで、偏見に磨きがかかってしまうのかもしれません。

その点、マイケル・ムーアは流石ですね。
民主党支持者だそうですが、トランプよりバイデンがましだ、オバマは素晴らしい、などの幻想を人々が捨てる先鞭をつけてくれるといいのですが。

日本では26日午前1時、ローマでは25日夕刻に行われた教皇フランシスコの祈りは、さすがに「ロシアよ、回心せよ」といった文言がなくてよかったです。
この祈りは聖母マリアに向けた祈りでした。マリウポリはマリアの街という意味だそうですが、シンボルからなんらかの効果が生まれるのか、興味しんしんです。

もう一つ、ご存じだったら教えていただけますか。
キツィン(キジン)に出現した聖母マリアがロシアのウクライナ侵攻に関する預言をしたという情報が送られて来たのですが、キツィンの聖母出現について耳にしたことはおありですか?

1057Sekko:2022/03/28(月) 19:30:29
愚者さま
>>>何度も試みたのですが、新しいサイトにはアクセスできませんでした。<<
おかしいですね。ブログもサイトもアドレスは変わっていません。
http://www.setukotakeshita.com/
https://spinou.exblog.jp/

>>ところで、ウクライナ大統領を国会に招いて演説させ、議員たちにスタンディングオベーションをさせ、防衛装備品を与えたことなどについて、ロシア(と中国)の敵として自ら名乗りをあげて危険を招き寄せた<<<

これは私もそう思います。

 幕末に欧米帝国主義者から受けた脅威を前に、日本は「富国強兵」「和魂洋才」路線をとり、自ら「大陸」へ進出(侵攻)していったわけですが、あの時に他の生存戦略があったのかどうか、私には分かりません。

 でも第二次世界大戦での「無条件降伏」の後は、「富国・洋才」路線となり、早い話が「名誉白人」路線に切り替わりました。「名誉アングロサクソン」と言ってもいいかもしれません。G7の一員としてそのアイデンティティを自己賦与したように思います。

今回のウクライナ戦に関しても、何の迷いもなくNATOと同調したわけで、「名誉白人」路線としては当然の選択だったのでしょう。でも、21世紀、グローバリゼーションも進み地政学も大きく変わったのですから、今回の場面で「名誉白人」路線を可視化する必要はなかったと思います。逆に、「欧米が諸悪の根源」のような民族主義を刺激することにもなるのではと懸念しました。

 第二次世界大戦の終わりには、ヨーロッパも日本も荒廃状態(フランスの爆撃被害はほとんど米軍によるものでしたが)で、アメリカの資金や軍備に頼って急速な経済復興を優先したのは生存戦略として有効なものだったとは理解できます。そのことと「冷戦」構造とがパラレルに起こって、欧米、日米の軍事一体化が既成のものとなったわけです。

 冷戦終結後、ロシアのようなハイブリッドな国を、ヨーロッパが受け入れてくれていれば、日本にとっても悪くないもっとバランスの取れたグローバリゼーションに向かったのではないかと思いますが、軍事産業の利権に支えられたアメリカの善悪二元論的な冷戦マインドでは無理だったのでしょう。

>>>「2014年のユーロマイダン革命後に、おそらく武器製造企業に近い勢力によって養われる暴力的な極右勢力がウクライナで台頭した状況については、EU諸国の首脳らも、『とんでもないものが出現してしまった』と受けとめて危惧していた」<<

 ネオナチなどの極右勢力については、思うところはいろいろありますがここでは書きません。
ウクライナの複雑な歴史から見て当然のカオスが内在していて、それを「金」や「利権」に利用するグローバルな勢力が当然のように侵襲していました。

私のブログhttps://spinou.exblog.jp/31724654/で少し書いています。

>>ある司祭が、ファティマの予言がロシアの回心のための祈りを求める聖母マリアのお告げであったという説教をしました。プーチンがキリスト教徒で共産党員じゃないことは知らないのかもしれません。
また、バイデンはカトリック教徒だから善人だろうと無意識に考える「偏見」も見え隠れします。
難民が発生しているウクライナ西部はカトリックが多く、東部はオーソドックスが多いことで、偏見に磨きがかかってしまうのかもしれません。<<

 プーチンがロシア正教に熱心に「帰依」しつつ政治のツールとして利用していることはよく知られていると思います。私も何度かブログに書いています。プーチンはファティマのこともよく知っています。

 キリル大主教はプーチンから完全に洗脳されるような人ではなく、エキュメニカルなカトリックとのパイプを持ち続けていると思われます。バイデンのカトリックは出自のアイデンティティを共有するロビーと結びついているのでしょうが、だから「善人」だなどとはカトリックの人も無意識でも思っていないでしょう。

>>その点、マイケル・ムーアは流石ですね。
民主党支持者だそうですが、トランプよりバイデンがましだ、オバマは素晴らしい、などの幻想を人々が捨てる先鞭をつけてくれるといいのですが。<<

 銃社会反対やキューバへの視線、イラク侵攻反対など、ムーアの立場に賛同します。根強い「オバマ崇敬」を崩すのはなかなか難しいですね。いろいろなオーラをまとって現れた人ですから。Change Yes We Can! ってよく言ったよなあ、と思います。

>>日本では26日午前1時、ローマでは25日夕刻に行われた教皇フランシスコの祈りは、さすがに「ロシアよ、回心せよ」といった文言がなくてよかったです。
この祈りは聖母マリアに向けた祈りでした。マリウポリはマリアの街という意味だそうですが、シンボルからなんらかの効果が生まれるのか、興味しんしんです。<<

 プロテスタントと違って、ローマ・カトリックは「聖母崇敬」を通して正教と歩み寄れますからそれを最大限に生かしてほしいですね。教皇は分かり過ぎるほど分かっていると思います。(ヨハネ=パウロ二世と違って個人的には聖ヨセフ恃みのようですけど。)

>>>キツィン(キジン)に出現した聖母マリアがロシアのウクライナ侵攻に関する預言をしたという情報が送られて来たのですが、キツィンの聖母出現について耳にしたことはおありですか?<<

 クルシフの聖母御出現はもう17世紀のことでその後「奇跡の泉」が湧き出て19 世紀にはウクライナのルルドとして巡礼地になっていました。
 その後ソ連邦下でカトリックは正教の監督下に置かれ、チャペルも閉鎖されていたのが、1987/4/26に、11歳のマリア・キツィンがチャペルの上方に輝く女性のシルエットを見て、その後も村人たちも目撃しました。
 定期的に定時に現れました。

 最初の御出現はチェルノブイリ事故のちょうど1年後です。
 もともとグレコ・カトリックの地方ですし、ペレストロイカが始っていましたし、ロシア革命100周年の年でもあり、いろいろな要素がこの御出現に意味を持たせたわけです。(すでにこの地には危機の度に何度も御出現やお告げがありました。電磁エネルギー?が強い場所に人々のサイコ・エネルギーが加わって何らかの心理的な現象が起こる?)

 共産党ロシアが侵攻を失って、聖母崇敬を守るウクライナを攻撃するというような「お告げ」はソ連時代にすでにいろいろな形ですでにありました。「無神論」対「西側カトリック」との戦いです。

 1987 年の御出現が共有された後でも「声を聴いた」という人は出てきましたが、別に今回のロシアの侵攻を予言したというものではありません。

でも、今ならそんな解釈もされそうですね。

 昨今の危機的状況には、あの「ノストラダムス」だってまた何か言わせられているかも。

 何かが起こる度に、「実はそれは昔から警告されていた」、ということで納得できる人がいるのでしょうか。その「納得」を利用できる人やグループがいるのでしょうか。

 幸い直接の攻撃を受けていない立場にある人は冷静になって、平和への道筋を考える人の声に耳を傾けたいものです。

1058愚者:2022/04/22(金) 22:51:43
Sekkoさま
まず、アドレスが変わってアクセスできないと書いたのは私の間違いだったようです。
申し訳ありません。

質問に中身の濃い解説を示してくださりまことにありがとうございます。

特に、リンクされた絶望と希望についての2回にわたる記事を読んで、2014年のマイダン革命が抵抗から民族主義的な運動に変質した原因が少し理解できたような気がします。そうした潮流に国や地域を超えて共通性があることもわかりました。

>>冷戦終結後、ロシアのようなハイブリッドな国を、ヨーロッパが受け入れてくれていれば、日本にとっても悪くないもっとバランスの取れたグローバリゼーションに向かったのではないかと思いますが、軍事産業の利権に支えられたアメリカの善悪二元論的な冷戦マインドでは無理だったのでしょう。

ご指摘の善悪二元論は「アメリカの権力者にとって都合のよいものが善、都合の悪い実のが悪」とチョムスキーが言ってます。

昔、日本人が何度目かのノーベル物理学賞を受賞したときに新聞で読んだ奇妙な記事が忘れられません。「日本は人文社会科学分野においては全くみるべきものを生んでいないが、科学や技術の分野では優れた才能を持つ者がいる。」という、たしか米国の知識人の評だったと記憶しています。

しかし、歴史や思想哲学の分野で西田哲学など優れた業績はあります。Sekkoさまのように、俯瞰的に複雑な現代史を解き明かす歴史家もおられます。
要するに、歴史や政治や外交などに首を突っ込むな、ということだったのかもしれません。

日本の政治学者らは国際政治を考えるにあたっては、各国の、特に大国の権力者と国民を同一視してはいけない、とあたりまえのことを指摘しています。この視点は忘れられがちですが、理性的な態度ではないでしょうか。
ロシア人アーティストをキャンセルしたり、ロシア語の看板を隠したり。それがウクライナ人の助けになると思っているのでしょうか。

今の日本のマスメディアや言論空間では「悪いのは攻撃をしたロシアです。ところで、」と導入してからマイダン革命の影響を述べたり、オリバー・ストーンの映画を参考にすることを提案したりするだけで叩かれます。

論者の意図は戦争の再発を防ぐため背景・経緯を考察することなのですが、ちょっとでもウクライナにケチをつけるのはロシアの味方だ、戦争を推進する者だ、と判定されます。

ゼレンスキーはすばらしい大統領だ、残忍な人殺しの嘘つきプーチンに負けるな、の大合唱。
民間人の虐殺も、恐怖のロシア軍の戦争犯罪だ、絶対ゆるしてはいけない、の一色です。

停戦や戦後の国際関係でロシアの立場を決定的に悪くする非戦闘員に対する大規模な残虐行為を、ロシア軍の統率者や上官らが許すのだろうか?という疑問を感じます。残虐行為はあったと思いますが、言われるような規模の蛮行を現代の軍事大国の軍隊が行えるものでしょうか?

フランス文学者の堀茂樹慶大名誉教授は英仏語のメディアを読み漁っているそうで、民間人虐殺現場の国連による調査のロシアからの要求に対してイギリスが拒否した、という記事を読んだと言っています。この記事も真偽は不明。

さらに、ロシアが原発を攻撃した、という報道もありました。いくらロシア軍が蒙昧野蛮だとしても、原発を攻撃すれば自らが被曝死を免れないことくらい知ってるでしょう。なにがなんでもロシアを得体のしれない恐怖の存在にしたい意図があるように感じます。

ゼレンスキー大統領のパトロンがいかがわしい人物であるとか、バイデン父子がエネルギー利権でウクライナを食い物にしている、など不都合な情報はマスメディアには皆無です。
だからといって、ロシアが戦争を仕掛けるのは仕方がない、とはだれも思っていないのですが、「虐げられた100%正しいウクライナ対100%悪のプーチンのロシア」という水戸黄門ドラマになっています。

ウクライナ在住でゼレンスキー大統領を批判していたゴンザロ・リラというチリ人のジャーナリストが数日前から行方不明で、どうやらウクライナ軍側のなにものかによって殺害されたという情報が飛び交っています。真偽はわかりませんが。
「ドンバス2016」を制作しYoutube に公開したフランスのAnne-Laure Bonnel記者も20日以来沈黙しているのが気になります。

EU議会のClare Daly議員の火のような演説は正論。
ScottRitterのSNSは停止。
でも日本のマスメディアは黙殺。


結局、日本は宗主国の二元論文化に忠実に、宗主国の敵か味方かという基準だけで外交をする国になりつつあるようです。

ウクライナの聖母に関する後半はまだちゃんと消化しておりませんが、知らなかったことを教えていただけたのでSekkoさまに質問したのは正解でした。感謝しております。

24日が正教会の復活祭なので、少なくとも停戦の合意に向かう動きがあることを願って祈ります。
正教会の上層部は、これは聖戦だ、と公言しているそうですね。
もっとも、ロシア側もNATO側も、広告代理店による情報戦に力を入れているそうなのでどちら側の言い分も嘘だらけなのでしょう。

山本太郎や鮫島記者が指摘するように、プーチン、ゼレンスキー、そのトリマキは戦場に行かないし制裁を受けtおても自分は困らないが、ウクライナの人々の命の危険と恐怖は言うまでもなく、ロシアの兵士だけではなく庶民も制裁によって被害を被っているというのは事実だと思います。


これほどまでに「悪党」に憎しみをぶつけ、その滅亡を願う空気の盛り上がりを鑑みるに、私たち日本人は、どんな攻撃してもゆるされる敵を必要としているのかもしれません。理由はわかりませんが。
もしかしたら、そう誘導されているのかもしれない、と今思いついてぞっとしました。

1059愚者:2022/05/12(木) 03:34:59
Sekko様
 >>クルシフの聖母御出現はもう17世紀のことでその後「奇跡の泉」が湧き出て19 世紀にはウクライナのルルドとして巡礼地になっていました。
 その後ソ連邦下でカトリックは正教の監督下に置かれ、チャペルも閉鎖されていたのが、1987/4/26に、11歳のマリア・キツィンがチャペルの上方に輝く女性のシルエットを見て、その後も村人たちも目撃しました。
 定期的に定時に現れました。

>>最初の御出現はチェルノブイリ事故のちょうど1年後です。
 もともとグレコ・カトリックの地方ですし、ペレストロイカが始っていましたし、ロシア革命100周年の年でもあり、いろいろな要素がこの御出現に意味を持たせたわけです。(すでにこの地には危機の度に何度も御出現やお告げがありました。電磁エネルギー?が強い場所に人々のサイコ・エネルギーが加わって何らかの心理的な現象が起こる?)

 ルルドとファティマしか知りませんでしたが、本家だと思っていた1853年のルルドよりも前にクルシフの御出現があったのですね。
 チェルノブイリ事故の一年後にマリア・キツィンに現れたクルシフの聖母は日本語のウイキペディアには見出しもないので、お告げの内容もわかりませんでした。

 L’art de croire は、国際関係論、世界史、聖書学、宗教史、文明論などの講義を受けているような感じの記事が豊富で、いまさらながら勉強になります。
Sekkoさまがクルシフの聖母をテーマにウクライナ、ロシア、ポーランドの近現代史について新書を書いて下されば、ぜひ読みたいと思います。

 そして今回、このブログに出会えて幸運だったことにようやく気付きました。多くの知識人やジャーナリストがブログを書いていますが、質問したり感想を書いたりするには、ログインしてパスワードを決める、といった手続きが必要なものが少なくないと思います。
 この、パスワードを決めるというのが私は苦手なので、またパスワードが必要な理由もよくわからないので、そういう手続きなしで質問することが出来て、コメントをいただけるのは珍しく開かれた寛大な空間?だと思います。
 なにより、俗っぽい質問や低レベルのコメントにもクールに答えてくださることに感謝しています。

 グテーレス国連事務総長のミッションが成功することを願って祈りを続けます。

 チョムスキーのインタビュー日本語字幕付きが公開されたので聴きました。チョムスキーの発言はだれもが納得できるものだったと思いますが、世界で起きているたくさんの紛争や様々な出来事について知らないことはあまりなくて、それらの意味もわかっていて、次にどうなるか知っているかのような魔法使いチョムスキーに匹敵する知識人は今の日本にはやっぱりいないのでしょうね。
 冗長なおしゃべりを読んでくださりありがとうございました。







 

1060Sekko:2022/05/02(月) 18:09:31
愚者さま
励みになるお言葉をありがとうございます。

私のブログはまず自分のための覚え書きなので読者にとってやさしい解説などないので申し訳ありません。でも関心のツボにはまっている記事を見つけた方にはお役に立てるかと思います。

ひと昔前までは、もう死語かもしれませんが、資料になる記事などを「スクラップ」してとっておいたのですが、それが厖大になり、今となっては何がどこにあるのかも分からなくなっています。ブログに書いておくと自分で検索できるので助かります。同時に、一度ブログに書きとめておくと安心して内容を忘れてしまい、後になって、よく分からない言葉をネットで検索したら自分のブログ記事が出てくるということもあります。本当の up to date って難しいですね。
月イチ更新の健康ブログの方も、今回引っ越しを余儀なくされたのですが、やはり記録を残したくて引っ越しを完了しました。

目立たないことを基本にしているので他のSNSは使いませんし、ブログのコメント欄も閉鎖していますが、17年前に読者の方に作っていただいたこの掲示板のおかげで皆さんとつながることができて感謝です。

少し先ですが、6/10発売の『カトリック生活』7月号でキリスト教文化圏であるロシアとウクライナについて少し触れています。それも含めて、「戦争と聖母マリア」戦争が起こるたびに「御出現」する聖母やその「お告げ」の意味、それをめぐる政治的、霊的、宗派的、民間信仰的な分析を二度の大戦と冷戦終了後の21世紀における「テロとの戦争」「コロナとの戦争」「米中露の覇権戦争」を通して解析する本を今執筆中です。

みなさまのご質問や雑談も含めてインスパイアいただいているので、引き続きよろしくお願いします。

1061愚者:2022/05/11(水) 16:46:55
Sekkoさま
応答ありがとうございます。

ブログにそんな使い方があったのですね。
電子機器は使いこなせれば便利ですね。

『カトリック生活』7月号の記事楽しみにしております。
執筆中のご本も期待しております。

『キリスト教はコロナといかに対峙したか?』をすでに出版されていたことにいましがた気づきました。

2020年のはじめに日本で最初の感染者が確認された頃、感染症患者の守護聖人とされる聖コロナのなまえが取り沙汰されました。

実在しなかったかもしれない伝説上の聖人だそうですが、世界各地で山火事や海面の上昇や大洪水の被害が頻発するさなか、さすがにこれ以上の自然破壊環境破壊は致命的だろうという予感を裏付けるような符牒でした。
『ラウダート・シ』日本語訳の出版から5年後だったと思います。

ブログを読んで消化できないのはもったいないのですが、目をショボショボさせて読むのが辛い私たちIT弱者というか普通の人には出版してくださるのがありがたいことです。

6月にこちらの掲示板で出版情報を確認させていただきます。

1062Tomotan:2022/05/12(木) 08:27:43
固有名詞
いつもブログ記事楽しみに読ませていただいています。
その中で一つお願いがあります。
地名や建造物などの名前をカタカナだけでなく原語でも載せていただけると嬉しいのですが。
よろしくお願いします。

1063Sekko:2022/05/12(木) 17:58:51
Tomotanさま
ブログのご愛読ありがとうございます。

フランスに足場があるのでフランス語系の固有名詞がたくさん出てきますが、フランス語は発音の仕組みが日本の方にはなじみのないものが多いので基本カタカナにしています。

日本語で検索して日本語で定着しているようなものはそれに従っています。ですからカタカナで検索してくださっても、出てくると思いますし、原語も見つかると思います。
また、固有名詞でフランス語でさえ発音が一定していないものもあるのでその場合はアルファベット表記にだけしています。

日本語で一般読者に向けて本を出版する時はカタカナがデフォルトなのでその習慣です。でも原語で書いておかないと私自身後でスペルが分からなくなるようなものは原語か併記にしています。

そんなわけで、原語対応はテクニカルには楽ですが時間的に無理な状態です。ご理解ください。
逆に、日本語に訳する暇がない記事やビデオなどをそのまま貼っていることがありますが、それはフランス語OKの人だけを想定しています。

でも、特に言語表記を知りたいという言葉があればもちろんすぐにお知らせしますので気軽にこの掲示板にお書きください。私としても、このブログに記録したことを参考にしてくださってさらに情報を集めてくださる方がいらしてくださると嬉しいです。

今のナントやレンヌの次の紀行文はモントリオール、ケベック、オタワなどになりますが、これも日本のガイドなどでは英語読みが多く、私はフランス語圏でのカトリック史を調べに行くので、カタカナ表記をどうしようかと思っています。

ご要望にそえなくてごめんなさい。

1064Tomotan:2022/05/12(木) 19:31:02
固有名詞
早速ご丁寧なお返事ありがとうございました。
固有名詞の表記方法にご苦心されていらっしゃるご事情、理解いたしました。
今後どうしてもフランス語表記が分からない場合はお言葉に甘えてこの掲示板で質問させていただきます。
よろしくお願いします。
カトリック生活7月号楽しみにしています。

1065小寄道:2022/06/30(木) 21:59:25
Sekkoさまへ
とても親切なるご助言をいただき、心から感謝しています。
いつもこの掲示板を利用させていただいており、こちらにお礼のコメントを残します。

なお、拙ブログの「ブリコラージュ」に関するフランス語の情報は、普遍的なものであり、追加情報としてブログに反映させてください。
「フランス在住云十年の方」からの情報として紹介するつもりですが、もし差しさわりがありましたら、ご指示のとおりにいたします。

長期にわたるケベック州の記事は、写真の豊富さでいろいろ想像力をかき立てられます。
もちろん、フランスとの比較もありますが、アメリカとカナダのキリスト教受容の差異なども考えさせられます。
もちろん、Sekkoさまご自身の仕事に反映されるかと期待しております。

『疫病の精神史』は中断したままです。
必ず読んで自分なりの感想をブログに書きたいのですが、コロナ禍がこの日本では宙ぶらりんのままで、医学的な成果、決着はない。
また知識人による見るべき思想的な成果もありませんね(私が知らないだけでしょうか?)。
まあ、メディアのせいとはいいませんが、こうした問題の向きあい方がどうも場当たり的であり、西欧のような「精神史」が欠如している、ここに帰結しますかね。

どうも、思いつくままに乱文になってしまい。失礼いたしました。
今回の件では、とても感謝しております。ありがとうございました。

1066Sekko:2022/07/01(金) 07:24:22
小寄道さま
生徒の発表会と自分のコンサートを控えてばたばたしていましてお返事遅れました。
ブリコラージュのこと、もちろん引用なさって結構です。

日常会話では、これってブリコラージュだよね、というのは「素人仕事」だという揶揄の意味もあります。

その意味では、レヴィ・ストロースの使い方も今の時代では上から目線を感じさせるかもしれません。肯定的な文脈では、今風になら「レジリエンス」っぽいかなあ、という感じです。

(この掲示板のサービスがもうすぐ終了するそうで、その後どうしたらいいかまだ決めていません。今までのやり取りを保存できるのかどうかもよく分かりません。このサーバーのブログの引っ越し先というのは分かるのですが、掲示板の引っ越しや転送が可能なのかよく分からないのです。できなくなったらブログでお知らせして、別の方法を考えます。)

1067テレサ:2022/07/14(木) 13:01:27
ピアノ発表会
「発表会」の記事を読んで、私も大変「幸せな気持ち」になりました。
そして、思わず「お疲れさまでした」とお伝えしたくなり、
コメントしております。

フランスの子ども達は、どんな曲を発表会で弾くのでしょうか?
また、ピアノを習得する過程で、どんな曲を弾くのでしょうか?

日本の子ども達が必ず出会うような、「ブルグミューラー」「バーナム」や、チェルニーの練習曲もやるのでしょうか?

日本なら「音楽の友社」などから出ている「ソナチネアルバム」とかも使用するのでしょうか?

質問ばかりで、申し訳ありません。

子ども達の楽しそうな光景が、伝わってきて、
私も、子ども達の演奏を聞きたいぐらいでした。

1068Sekko:2022/07/14(木) 17:32:41
テレサさま
ありがとうございます。

終わった後で、トリオの仲間が生徒全員のmusicalitéが素晴らしかったと言われたのが最高の賛辞でした。

私の使っているのはこちらのコンセルヴァトワールに準じたもので、子供は

Méthode de piano pour débutants de Charles Hervé et Jacqueline Pouillard

とそのサブ曲集。このPouillardさんは直接知っていて、できる子だけとる最低の先生だと思いましたが、このメソードはよくできています。

少し大きい子や集中力のある子や大人の初心者には


Méthode de Piano ? Partition aux édition Henry Lemoine  Robert-Charles Martin
Méthode de Piano Opus 80

で、これは優れものです。最初からピアノの真ん中のドレミを使わないので右手と左手がバランスよく使えます。最初から左手はヘ音記号で楽です。

ツェルニーのop599などはバランスが悪いので今は使いません。

ツェルニーで使っているのはop821でこちらでは『les heures du matin』( ed. M combre)です。テクニックに特化ですが、曲としてもよくできています。私も使います。

ソナチネなどに当たるのは「Le Piano classique」1〜4です。
子供用の「Mon premier Mozart」(Ed.Henry Lemoine)なども使います。

曲集として大人にも人気なのは

Denes Agay の『The Joy of Piano』『The joy of Recital Time』の2冊です。

もちろん、バッハの平均律とかインベンションも使います。

私は日本で自分が使ってきた全音ピアノピースだとか、ベートーベンやショパンのソナタやワルツ集、声楽の本などもすべてこちらに持ってきています。
こちらで教えるようになってから日本で買ったのは最近のたくさんのシニア向けメソード、「楽しいピアノ曲集世界の名曲1〜6」(音友)、「譜めくりの要らないやさしいピアノ連弾」(ヤマハ)のシリーズ、などです。(子供の連弾曲集は日本のものが優れているので他にいろいろ使っています)
日本で私の子供の頃に発表会でよく弾かれた「乙女の祈り」「銀波」「花の歌」などはフランスでは全く知られていないので、バカロレアでピアノのオプションを選ぶ生徒に弾かせています。審査員も知らない曲なので。逆にこちらのスタンダードの「Le lac de Côme」などは日本で知られていないような。エリック・サティもよく弾かれます。

後は、映画やアニメの曲で生徒のリクエストが多いものはレベルに合わせて編曲したりしながら弾かせています。近頃はゲーム音楽とかのリクエストもあり、私はまったく知らないのでネットで検索して編曲したり。思えばもう30年も教えてきて、感無量です。

1069テレサ:2022/07/14(木) 21:54:20
(無題)
早速のご返信、ありがとうございます。

「Le lac de Côme」をネットで検索して聴きましたが、
やはり聴いたことがない、知らない曲でした。
ゆったりとした綺麗な曲ですね。

エリック・サティは、
アラ還の私の中で、最近、全音のピースや楽譜が出たという感じです。


やっぱり「バッハの平均律」とか「インベンション」は、
フランスの子ども達もやるんですね〜。
そして、チェルニーも・・・



今年の3/14のブログに、

“「美」の追求には忍耐と厳しさが要求され、それは「真実」の究明にもつながる。
歴史には戦争や災害や疫病が詰まっているけれど、いろいろな楽譜が残り、歌や楽器演奏が伝承され継承され続けたことの奇跡を思う。私も、私の生徒たちも、モーツァルトやショパンやベートーベンやバッハを聴いたり弾いたりできるし、先行する無数の音楽にインスパイアされた新しい音楽が次々と生まれる。”

このように書かれていて、大変感動しました。

幼稚園の孫娘の「ピアノ発表会」に行った時、
様々な年齢の子ども達が、
ショパンやベートーヴェンの曲を弾いているのを聴いていると、
自分がこの世からいなくなった後も、
それらの曲は、こうやって伝承されていくんだな〜と、
先生の文章とリンクして、感動しました。

「発表会の目的はただ一つ、聴いている人たちを幸せにすること」
???
先生のこの言葉を、発表会が近くなったら、
そのまま孫娘に伝えます。


「人前での演奏は最初と最後が大事。途中の失敗は誰も覚えていない。最後のフレーズと、最後の音のおさめ方(音符をもとの世界にそっと戻してやること)が一番大切。」
???
そして、この言葉は、
私も、ずっとピアノを続けているので、
自分自身に、言い聞かせます。

ピアノのお稽古は、子どもにとっては、
つらいこともあったりしますが、
先生の生徒さんたちが、ピアノに触れることで、
素晴らしい人生が、待っている事を確信し、
心より応援を送ります!

貴重な情報をありがとうございました。

1070小寄道:2022/07/29(金) 03:20:19
宗教二世について
ご連絡ありがとうございます。
『「神様」のいる家で育ちました〜宗教2世な私たち〜』の連載打ち切りの件は、コロナやウクライナのなかでも、なんとなく記憶に残っていました。

日本のタブーである、天皇制の裏、新興宗教、部落問題、人種差別などいろいろあります。
とはいえ、マイナーなメディアでは、気骨ある編集者なり出版社が、その表現力を維持したきたわけです。
この「宗教二世」の漫画は、大手の集英社ではありますがいわゆるウェブマガジンであり、まあメジャーとはいえない。よく言えばマイジャーですかね(笑)。

作品自体にも該当する団体名を明示しなかったらしいですし、5話まで継続していたという。全話削除されていて、今まったく読めませんが、幸福の本体から抗議がきたら、即連載休止だったという。

私は常々、昨今のメディアのていたらく、腰抜けぶりに激しく怒りを覚えていますが、そこまでの忖度ぶり、世間体への配慮は、なにか世代的な共通認識じゃないかと思っています。

宗教二世という存在がまさにそれで、作者も含めて、親や権威、上位権力者への気づかいが半端ない気がします。
日本人特有なんでしょうか、周囲の視線を過剰に気にして、自分の意見、感じ方さえも封印している。
その意味でいえば、作者の「きくちまりこ」さんは女性ですし、それを自分の作品として昇華させたのですから、とても立派な方だと思います。

どうなんでしょうか、先の狙撃犯山岸某もそうですが宗教二世の世代をひっくるめてなんか共通の傾向があるような気がします。
早計かもしれませんが、なにかへの依存体質が感じられてしょうがない。
自分を守ることの本質を教えられていない、そんな気がしてしょうがないのです。

取り急ぎ、ご報告いたします。また、「宗教二世問題」は自分のブログで展開したいテーマでもありましたので、ここでの文面を使います、たぶん。
乱筆、乱文、失礼しました。

1071Sekko:2022/07/29(金) 15:28:13
小寄道さま
宗教二世の問題、あるいは子供がカルトやテロリズムにはまってしまった親の問題、あらためて「カルトか宗教か」を読んでほしい人はたくさんいます。
80年代後半からこの問題について中沢新一くんといろいろ話し合ってきました。それでもいろいろ食い違ったこともあり、難しい問題です。私はフランスから見ているので距離を置ける分、役に立つかもしれません。(彼にもまた相談するつもりです。)
この掲示板も閉鎖のようですので、新しい掲示板ができたらまたご連絡します。




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