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おしゃべりルーム
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やめよう自己実現、咲かそう小花
フランスにも自己啓発本ありますよ。でもほとんどアメリカ系ニューエイジの輸入、翻訳です。たいていはエゾテリスムとかオカルト本のコーナーにあります。精神世界系の見本市に、お香や健康食品や開運グッズと一緒に並ぶのもこの手の本で、まあ一定の需要はあるわけです。でも、平均的フランス人は、確かに、もっと、現世を単純に楽しむ志向の方が強いです。
ニューエイジ・ムーブメントの発端には、中国に侵略されたチベットから僧侶が欧米へ亡命したことではじめて欧米が密教系(修行系)仏教と内輪で接触したことがあります。瞑想法とかヨガとか呼吸法も含めて。特にアングロサクソンのピューリタン系の「禁欲的な精進と出世」イメージが、規範社会から少しずれた形で展開して、「自己を高める」に繋がったのではないかと私は見ています。これに対してカトリック社会では、禁欲生活は修道会に任せて、一般信徒は緩く生きるのが伝統だったので、「がんばって成り上がる」式の志向は優勢ではありません。だから、自己実現(realisation de soi)とか自己啓発(developpement de soi)とかはSself−actualizationなどの訳語としてはあっても、自然なフランス語ではないようです。フランス語でぴったりのこの手の言葉はむしろ自己開花(epanouissement de soi)かもしれません。それは、各自がどんな植物として生れたかによって咲かせる花も違うわけで、仕事で花咲く人も、美食で花咲く人も、家庭でも趣味でもいいので、努力して咲く人も、ただ運がよくて咲く人もある、体系化されたメソードがあるわけないし、あるべき姿や理想もなく上下関係もないという感じです。
問題は、仏教ではもともとこの世でのさまざまな煩悩、執着を取り除くための「方便」として自己を立てて訓練していくという方法論になっているので、最終的な目的はむしろ「エゴから自由になる」ことなのに、ニューエイジの文脈の中では、「解脱してステージの上がった自分」とか「超能力を獲得した自分」「潜在能力を伸ばした自分」とか「世界の終わりが来ても生き残れる自分」になることが目的にすりかわっていることです。それは、ピューリタン的な自由競争とも親和性があり、「人より努力した者が人より報われる」成果主義や優生思想にもつながるわけですね。
もちろん、人生で仕事のスキルを上げるというようなことは必要です。筋トレに励むのも、スポーツなどの記録に挑戦するのもいい。でも、たとえば猛練習してチャンピオンになった人が、だから信頼できる立派な人間だといえるでしょうか。チャンピオンの中にも、チャンピオンでない人と同じように、エゴイストもいればそうでない人もいるでしょう。同じように、修行してたとえば空中浮揚できるようになったとして、それが人間の品格と何の関係があるでしょう。(現に偉大な宗教者はどの文化でも、超能力は聖性獲得に至る修行におけるアクシデントのようなものだと言っています。それを他人に還元できるときにのみ意味があるのであって、自己の価値とは関係がないわけです)
逆に、寝たきりでも周囲の人に暖かさを分けてくれるオーラのある人もいます。仕事のスキルや身体能力、あるいは超能力を高めることと、「自己を高める」ことはあきらかに別物です。自己の価値とは常に他者をリスペクトする関係においてのみ現れてくるものだからです。けれど、そこをごまかして、「自己実現して救済を得よう」などというノウハウを売るカルトなども存在します。
あるいは、ある特定のライフスタイルを称揚して、それに近づくのが自己実現の道のように扇動するメディアもあります。そんな抑圧的言辞は、執着から自由になる境地を目指す本来の仏教からも遠く離れています。
自己実現とか、自分探しとかに惑わされるのは、もうやめましょう。
毎日のちょっとしたことで時々小さく開花する気分を楽しみ、生活で求められるスキルは地道に高めるよう努力し、獲得できたものは、何らかの形で分け合い還元する。それでも、前に書いたように「だめなものはだめ」。それを見極めたり認めたりする「分別」を、試行錯誤しながら高めることが大切だと思います。もちろんその方が、レディメイドの「理想のライフスタイル」を獲得したり「勝ち組」に参入したりすることよりも、ずっと難しい茨の道だったりしますけど。
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