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おしゃべりルーム
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正法眼蔵
今、講談社の広報誌『本』(5月号)を読んでたら、その中の「『眼蔵』を読む』という連載の仏性の注解で、菅野覚明さんが、「自己実現の誤解」とそっくりなことを書いていたので、そういうことは昔からあるのだなあと感慨を覚えました。
道元は当時の次のような誤解を徹底的に断ち切ろうとしたというのです。その誤解とは「仏とはスーパーマンのようなもので、我々凡夫の内にも、仏になる素質(仏性)が眠っている」という「抜きがたい思い込み」です。
一切衆生には仏性があるがそれはどのようにしてあるのかという問題形式で議論されてきた伝統的仏性論では、仏性は「元出」のようなもので、修行という事業でその元手を増やし、悟りという財産を得、仏とは罪をなした大金持ちのようなものにイメージされます。
道元は、その上流にある「十聖三賢」(菩薩のように、凡夫から仏への中間段階の高い階位)には仏性の道理は決して理解できないといいます。それは、悟りとは、正しく知ること自体であって、知って得た「もの」ではないからです。悟ること、悟る営みとしての修行の形において仏性が存立するので、仏性、修行、悟りは同時に成立する、というのが道元の考え方だそうです。
これを自己実現に当てはめますと、「自己という素材を掘り起こし探り当て、自己啓発で加工して、自己実現で完成品にする」というのが「抜きがたい思い込み」なんですね。で、完成に近づいたという自負のある「十聖三賢」のカリスマ何とかとかリーダーとか、カルトの教祖のような人は、自分たちを理想のモデルのように提示したり、されたりするわけです。それを見て、凡夫は自分の中にも磨けば輝く「本来の自己」的な素材があるはず、とそれを探し、育てて完成させなきゃと思いがちなのですね。
でも道元風に言うと、そんな自己の「発見」も「啓発」も「実現」も、みな、「正しく生きる」という営みに吸収される、生きることと同時に成立するわけです。他者との関係性を生きる中で自己が発現してくるので、それは素材でなく、即実現であるわけです。ここで「正しく生きる」というのは、とりあえず、他者の「生きること」を阻まない生き方、関係性の中で生きることから生じるいろいろな不都合を、できるだけ自分で引き受けるということかと思います。
そう思えば、そんなに難しくなく、道元も「無知無学の六祖」を「十聖三賢」に対して挙げています。しかし、昔から、どの文化でも「修行系上昇志向の誘惑」というのは大きく、すぐ規範的に働きますね。
「Boys be ambitious」の「大志」はambition 「野心」でもあります。大志というのは抱くとすぐに野望とか野心へ引っ張られる誘惑にさらされているんですね。一人の人の大志が多くの人を救うこともあれば、野望が多くの人を踏み潰すこともあります。道元をはじめ、古来の賢人がいろいろ警告しても、エゴイズムや集団エゴイズムからはなかなか抜けられません。伝統宗教ですら大昔から模索しては失敗しているのですから、ニューエイジや新宗教が「自分大切」にシフトするのも無理がないですね。ましてや、それが一見して「地球大切」のエコロジー原理主義とか、ナチュラル志向とか手作り原理主義とか節制とか健康法とかを看板にして「到達すべきもの」「獲得すべきもの」を見せて一定のライフスタイルを煽るマーケットが大きくなると、もともと「ambitious」なタイプでない人は、がんばる前から「負け感」にとらわれますよね。
私がカトリックの聖女伝が好きなのは、そういう上昇志向価値観の解毒剤になってるものが多いからです。彼女らが愛したイエスという人が世間的に言うと最悪な死に方をしたことも逆説的に彼女らの力の源泉になってます。「そうだ、自己実現をやめて聖女になろう」というテーマは楽しいですよ。
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