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おしゃべりルーム
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だれも見たくない共謀罪
共謀罪がどうもうさんくさいのに、日本人にもうひとつピンとこない理由は、これが古川さんの言うように、アングロサクソンマターだからです。ピューリタンマターといってもいいです。共謀罪の内容については、NETで調べてもらうとして、このピューリタンのメンタリティについてだけ書きます。
アメリカは17世紀以来ピューリタンが「開拓」「建国」した国です。イギリスを逃れたピューリタンといっても、初めは実は土地のない貴族の次男坊とか3男坊が多く、「神の国」を創ることを甘く見ていたのが、先住民の抵抗にあって、すごく苦労し、彼らを奴隷化することも出来ずにほぼ殲滅し、奴隷はアフリカから調達しました。私たちから見たらひどいやつらだと思いますが、彼ら的には、苦労して、禁欲的で、勇気と勤勉で、国を創った英雄なのですね。ヨーロッパのような生まれながらの特権階級でなくて、額に汗して国を創り、独立を勝ち取った実力者たちがエスタブリッシュメントなわけです。だからこそ、コミュニティ意識も強いわけです。かれらのメンタリティは、競争を勝ち抜く不屈の自助努力、なわけです。これが、資本主義の発展をもたらせました。
でも、マイケル・ムーアが「BOLING FOR COLUMBINE」で揶揄したように、アメリカは、自助努力のあまり、武装した自警団を作るという感じで極端に武装する社会になったわけです。あの映画では、同じ湖のアメリカ側では、どの家も高い塀に警報装置があり、誰かが敷地内に入ったら即射殺のような雰囲気に対して、カナダ側では、どの家も鍵すらかかっていなくて、ムーアが勝手にドアを開けても「はーい、なあに」という感じで家人が出てくるという具合でした。ムーアは、これを、アメリカの白人はインディアンや黒人を人として扱っていなかったから、彼らからの反逆を潜在的に恐れて被害妄想のパニックのうちに暮らしている、と分析していました。
アメリカはもともとそういう国ですが、これに比べて、近代以降のヨーロッパは、まあいろいろ理由はいろいろありますが、国が国民を保護し、富を循環させて福祉という形で再分配する傾向にあったわけです。社会民主主義というやつで、アメリカ風の自助努力の弱肉強食、完全自由競争というのは嫌っていたわけです。Noblesse oblige というのもコンセンサスでした。だから、資本主義の企業も、内では従業員の生活を守り、社会に向けては税金や社会保障費負担などで利益を国に戻して、国に再分配を任せたわけです。 これがいわゆる「冷戦」の間は、普通でした。自由主義陣営の先進国はみな、ロシアや中国の革命を目にし、自国内にも革命を口にする共産主義者を抱えていたわけですから、労働力の搾取とか言われないように、それなりに社会福祉に励んでいたわけです。ところが、共産主義陣営が自壊して冷戦が終わったので、もう革命の心配はなくなった、歯止めがなくなったので、アメリカの本性というべき苛酷な競争社会が出現しました。これがネオ・リベラルというものです。
ネオ・リベラルの大企業は、もう利益を従業員や社会へ還元する理由を持たず、ただ金の論理にのみよって、短期利益を計上すること、株主と経営者のみを優先することになりました。しかもグローバリゼーションで、途上国の安い労働力が無限に手に入るようになったので、自国では従業員のリストラや給料引き下げが平気で行われるようになりました。社会への還元もしたくないので、税などの軽減をしてもらえるように、国にロビーイングをするようになりました。要するに政治献金をしたり票集めをするから代りに企業の便宜を図ってくれというわけです。
それで、何が起こったかといいますと、先進国内での失業者や低所得者や保障のない契約社員やパートが増えた、というのは、まだいいんですが、富の90%を10%の金持ちが握っているというようなアンバランスと連動して、地球規模で格差が広がり、地球上の人間のマジョリティは貧困と病と内戦の中で暮らしているわけです。インディアンを抹殺しなくても、かってにどんどん死んでいくわけです。奴隷制を復活しなくても最低賃金で働く人もいくらでも調達できるわけです。しかも途上国の多くは金の論理で動く独裁者によって治められています。
そこで、尊厳を傷つけられた人々は、絶望して原理主義やテロリズムにはしるわけです。アメリカはそんなこと見ないふりをして自分ちに鍵をかけて、銃や核で武装してたんですが、9・11に自国をテロリストに攻撃され震え上がり、あわてて愛国法を作り、徹底防衛体制に入ったわけです。自衛だけでは足りなくて、塀に囲まれ24時間セキュリティ大勢の大規模な Gated community に住みたがり、本当は、国中を Gated community にしたいわけです。その表れが、盗聴や監視カメラの正当化と蔓延です。銃所持の許可と同じくピューリタンの神経症的自助精神の法的表現なのですね。
そして、長くなりましたが、今回の「共謀罪」というのは、どういう理屈をつけているにしろ、基本的には、そういう、今のアメリカのパニックと連動しているのだと思います。既成の法律を適用することで違法行為の共謀に対処することを考えず、出来るだけ広く新しい危険の幅をとっておきます。でも、日本にはピューリタン的なメンタリティがなく、伝統的に、外的の侵入を想定しない、引き戸の長屋とか縁側からこんにちはの社会でしたよね。今でこそ「外人が増えてぶっそうだ」と言われたり、アメリカ風セキュリティのマンションが流行ったり、監視カメラもたくさんつけるとか、駅や道路のくずかごを取り払うとか、どんどん変わってきていますが、そしてネオリベの格差社会が来ると言われていますが、そんな警戒心や闘争心むき出しの競争社会はもともと日本人に向いてないんですよ。
「ぶっこわされる」前の自民党の護送船団方式とか、中央から地方に金を還元するとか、談合体質の年功序列でそれなりののどかな繁栄があったわけです。しかし金には国境がなく、株式は誰にでも買え、世界は一部のトランスナショナル大企業の私物になりそうです。だから日本も生き残るための「改革」は迫られているのですが、だからといって、それがアメリカ式のネオリべで格差社会を助長し、びくびくして鍵をかけて武装してテロリストにおびえるような方向でいいものでしょうか。中東など、せっかく、非白人で非キリスト教の先進国日本に好感情を持ってくれているのに、イラクには自衛隊を送るし。つまり、「共謀罪」は、「すごい悪に対する対症療法なんだよ]と言っても、その「悪」の構造を、日本人のメンタリティにも立場にも反する形で、地球規模でさらに深めていく流れにあるから、よくないんです。その居心地の悪さを意識化したり言語化したりできないから、論議があいまいなのだと私は思います。
実は、5月18日発売の新潮45にフランスのCPEについての記事を書きまして、その中で、この「尊厳を奪われたテロリストが跋扈するネオリベ世界」を何とかできないかということを解説しました。ここに書いたようなことです。私はこの世界で、強いものの「強さ」、「大きいもの」の「大きさ」は、「より弱いものやより小さいもの」に捧げ仕えるるためにあるべきだと思っています。それは相対的なことで、誰でも、たとえ、アメリカ東部のWASPのエスタブリッシュメントの健康な男だって、いつかは老いや病や死によって弱くなります。誰かが今強くて大きいのは、成果主義やメリットとは関係がないし、弱くて小さいのも、その人のせいではない。家族レベルでも、地球レベルでも、力や富を循環させて、相対的弱者の尊厳が守られる世界に生きたいです。そのためには、「信頼」が存在できる社会が必要で、「共謀罪」は、日本人が島国の平和で培ってきたそんな漠とした「信頼」の夢を破るもので、多くの人はそこから目をそらしていたいのかもしれません。
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