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おしゃべりルーム
ヴィルパン
フランス語のコーナーみたいになりますが、フランスの呼称って、住んでいたらもちろん分かってきますが、アングロサクソンとは全然違います。イギリスの映画とか観てたら、学校で生徒を姓で呼んでるみたいですが、フランスではほぼ名のほうです。スターはアメリカでは名で呼ぶことが多いようですが、こちらでは少しでも公共の人はドヌーヴとかドロンとか姓で呼ぶことが多いです。だからこそ今のアイドルは、アメリカ風にファーストネームを呼ぶ傾向があります。後、インタヴューなどで、姓名をフルネームで呼べば、ムッシューという敬称は必要ないのです。たとえば、「メルシー、ドミニック・ド・ヴィルパン」と言えます。「ムッシュー・ル・プルミエ・ミニストル」とも言います。雑誌や新聞では敬称抜きのヴィルパンあるいはフル・ネームです。一番多いのは「ヴィルパン」だけ。ドはつけても間違いじゃないですが、有名になればなるほど消えます。ヴィルパンも外務大臣の頃はド・ヴィルパンと書かれていたことがありました。ムッシューの後ではどちらかと言えばド・ヴィルパンかな。ではどうしてド・ゴールはド・ゴールかといいますと、ドがなくなるには、1「有名」、2「ドに続く名がある程度長い」、3「ドに続く名が知られた地名でないか地名以外のルーツを持つ」の条件があり、ド・ゴールは1しか満たしていないからです。日本でも、たとえばシモーヌ・ド・ボーヴォワールとか有名でしたが、ド・ボーヴォワールと呼ばれずに、フランス風にボーヴォワールでしたね。でもフルネームならドが復活します。画家のアンリ・ド・ツールーズ=ロートレックとなると、ツールーズは有名な土地ですが、フルネームでないと誰もド・ツールーズ=ロートレックと言ってくれません。日本同様、ロートレックで通用します。ただし、彼は厳密に言うと、ツールーズ伯爵家とロートレック伯爵家の姻戚で生れた分家で彼の代で途絶えました。本家筋のロートレック伯爵家はまだ存在しますが、姓からドをとっちゃってます。ええと、上に挙げた条件というのは、私の見た経験則であり、別にどこかで成文化されてるわけではないです。おもしろいですね。
共同体の話ですが、たとえばどこかの優勢な共同体に属しているから安泰というわけでなく、その中で老いたり病んだり落ちこぼれたりしたときに誰が救ってくれるかと言うことですね。アリストテレスは「愛があれば正義はもう必要ない」なんて言っていました。確かに、みなが自然に弱い人をかばってくれるなら、主義も法律もいらないかもしれません。今のユニヴァーサリズムは、起源的にはユマニスムということです。こういうと必ず、「西洋の人間中心主義が地球の環境を壊したから八百万神の多神教の方が地球に優しくベターだ」とか言う人が出てくるんですが、よく見てください。ユニヴァーサーリズムのヒューマニズムの名において、国籍や文化がどうこうを超えて、何の関係もないのに、ソマリアに水を運ぶ人とか、ルワンダに援助に行く人とか世界中の天災現場に駆けつけるグループが存在し、キューバの捕虜収容所で虐待されている人が世界に向けて連帯を求めたりしているんですよ。ユニヴァーサリズムが西洋キリスト教起源であろうとなかろうと、全体主義の国に生れたり貧困国に生れたりするのは、偶然の采配に過ぎず、失業、事故、老いや死など、誰にとっても明日はわが身、強い時に弱い者を思いやり、弱くなったら共同体の枠を超えて助けてもらえるという理想はすごく大事にしたいと私は思います。愛があればすべて解決するかもしれませんが、愛することはアリストテレスの時代からいかにも難しく、永遠の挑戦なのですよね。それと、人間の置かれる状況は一筋縄でいかず、正義のために愛を犠牲にしたり、愛のために正義を犠牲にしたりという局面を繰り返して、相対主義のニヒリズムや絶対主義の誘惑と戦いながら少しずつ連帯していくという希望を捨てたくないです。
で、共謀罪
古川さんもご指摘の通り、共謀罪に関しては、沈黙してる人が多いのは何故だろうか?と思います。
いつも政治についてよく語るブロガー仲間でも、その辺りに関しては敢て沈黙というより興味すらないという印象ですね。わたくしは表現者なんで、他のこと以上にすごく気になります。語らないというより、政治に関心のある層ですらその無関心が何故なのか?疑問はあります。
だれも見たくない共謀罪
共謀罪がどうもうさんくさいのに、日本人にもうひとつピンとこない理由は、これが古川さんの言うように、アングロサクソンマターだからです。ピューリタンマターといってもいいです。共謀罪の内容については、NETで調べてもらうとして、このピューリタンのメンタリティについてだけ書きます。
アメリカは17世紀以来ピューリタンが「開拓」「建国」した国です。イギリスを逃れたピューリタンといっても、初めは実は土地のない貴族の次男坊とか3男坊が多く、「神の国」を創ることを甘く見ていたのが、先住民の抵抗にあって、すごく苦労し、彼らを奴隷化することも出来ずにほぼ殲滅し、奴隷はアフリカから調達しました。私たちから見たらひどいやつらだと思いますが、彼ら的には、苦労して、禁欲的で、勇気と勤勉で、国を創った英雄なのですね。ヨーロッパのような生まれながらの特権階級でなくて、額に汗して国を創り、独立を勝ち取った実力者たちがエスタブリッシュメントなわけです。だからこそ、コミュニティ意識も強いわけです。かれらのメンタリティは、競争を勝ち抜く不屈の自助努力、なわけです。これが、資本主義の発展をもたらせました。
でも、マイケル・ムーアが「BOLING FOR COLUMBINE」で揶揄したように、アメリカは、自助努力のあまり、武装した自警団を作るという感じで極端に武装する社会になったわけです。あの映画では、同じ湖のアメリカ側では、どの家も高い塀に警報装置があり、誰かが敷地内に入ったら即射殺のような雰囲気に対して、カナダ側では、どの家も鍵すらかかっていなくて、ムーアが勝手にドアを開けても「はーい、なあに」という感じで家人が出てくるという具合でした。ムーアは、これを、アメリカの白人はインディアンや黒人を人として扱っていなかったから、彼らからの反逆を潜在的に恐れて被害妄想のパニックのうちに暮らしている、と分析していました。
アメリカはもともとそういう国ですが、これに比べて、近代以降のヨーロッパは、まあいろいろ理由はいろいろありますが、国が国民を保護し、富を循環させて福祉という形で再分配する傾向にあったわけです。社会民主主義というやつで、アメリカ風の自助努力の弱肉強食、完全自由競争というのは嫌っていたわけです。Noblesse oblige というのもコンセンサスでした。だから、資本主義の企業も、内では従業員の生活を守り、社会に向けては税金や社会保障費負担などで利益を国に戻して、国に再分配を任せたわけです。 これがいわゆる「冷戦」の間は、普通でした。自由主義陣営の先進国はみな、ロシアや中国の革命を目にし、自国内にも革命を口にする共産主義者を抱えていたわけですから、労働力の搾取とか言われないように、それなりに社会福祉に励んでいたわけです。ところが、共産主義陣営が自壊して冷戦が終わったので、もう革命の心配はなくなった、歯止めがなくなったので、アメリカの本性というべき苛酷な競争社会が出現しました。これがネオ・リベラルというものです。
ネオ・リベラルの大企業は、もう利益を従業員や社会へ還元する理由を持たず、ただ金の論理にのみよって、短期利益を計上すること、株主と経営者のみを優先することになりました。しかもグローバリゼーションで、途上国の安い労働力が無限に手に入るようになったので、自国では従業員のリストラや給料引き下げが平気で行われるようになりました。社会への還元もしたくないので、税などの軽減をしてもらえるように、国にロビーイングをするようになりました。要するに政治献金をしたり票集めをするから代りに企業の便宜を図ってくれというわけです。
それで、何が起こったかといいますと、先進国内での失業者や低所得者や保障のない契約社員やパートが増えた、というのは、まだいいんですが、富の90%を10%の金持ちが握っているというようなアンバランスと連動して、地球規模で格差が広がり、地球上の人間のマジョリティは貧困と病と内戦の中で暮らしているわけです。インディアンを抹殺しなくても、かってにどんどん死んでいくわけです。奴隷制を復活しなくても最低賃金で働く人もいくらでも調達できるわけです。しかも途上国の多くは金の論理で動く独裁者によって治められています。
そこで、尊厳を傷つけられた人々は、絶望して原理主義やテロリズムにはしるわけです。アメリカはそんなこと見ないふりをして自分ちに鍵をかけて、銃や核で武装してたんですが、9・11に自国をテロリストに攻撃され震え上がり、あわてて愛国法を作り、徹底防衛体制に入ったわけです。自衛だけでは足りなくて、塀に囲まれ24時間セキュリティ大勢の大規模な Gated community に住みたがり、本当は、国中を Gated community にしたいわけです。その表れが、盗聴や監視カメラの正当化と蔓延です。銃所持の許可と同じくピューリタンの神経症的自助精神の法的表現なのですね。
そして、長くなりましたが、今回の「共謀罪」というのは、どういう理屈をつけているにしろ、基本的には、そういう、今のアメリカのパニックと連動しているのだと思います。既成の法律を適用することで違法行為の共謀に対処することを考えず、出来るだけ広く新しい危険の幅をとっておきます。でも、日本にはピューリタン的なメンタリティがなく、伝統的に、外的の侵入を想定しない、引き戸の長屋とか縁側からこんにちはの社会でしたよね。今でこそ「外人が増えてぶっそうだ」と言われたり、アメリカ風セキュリティのマンションが流行ったり、監視カメラもたくさんつけるとか、駅や道路のくずかごを取り払うとか、どんどん変わってきていますが、そしてネオリベの格差社会が来ると言われていますが、そんな警戒心や闘争心むき出しの競争社会はもともと日本人に向いてないんですよ。
「ぶっこわされる」前の自民党の護送船団方式とか、中央から地方に金を還元するとか、談合体質の年功序列でそれなりののどかな繁栄があったわけです。しかし金には国境がなく、株式は誰にでも買え、世界は一部のトランスナショナル大企業の私物になりそうです。だから日本も生き残るための「改革」は迫られているのですが、だからといって、それがアメリカ式のネオリべで格差社会を助長し、びくびくして鍵をかけて武装してテロリストにおびえるような方向でいいものでしょうか。中東など、せっかく、非白人で非キリスト教の先進国日本に好感情を持ってくれているのに、イラクには自衛隊を送るし。つまり、「共謀罪」は、「すごい悪に対する対症療法なんだよ]と言っても、その「悪」の構造を、日本人のメンタリティにも立場にも反する形で、地球規模でさらに深めていく流れにあるから、よくないんです。その居心地の悪さを意識化したり言語化したりできないから、論議があいまいなのだと私は思います。
実は、5月18日発売の新潮45にフランスのCPEについての記事を書きまして、その中で、この「尊厳を奪われたテロリストが跋扈するネオリベ世界」を何とかできないかということを解説しました。ここに書いたようなことです。私はこの世界で、強いものの「強さ」、「大きいもの」の「大きさ」は、「より弱いものやより小さいもの」に捧げ仕えるるためにあるべきだと思っています。それは相対的なことで、誰でも、たとえ、アメリカ東部のWASPのエスタブリッシュメントの健康な男だって、いつかは老いや病や死によって弱くなります。誰かが今強くて大きいのは、成果主義やメリットとは関係がないし、弱くて小さいのも、その人のせいではない。家族レベルでも、地球レベルでも、力や富を循環させて、相対的弱者の尊厳が守られる世界に生きたいです。そのためには、「信頼」が存在できる社会が必要で、「共謀罪」は、日本人が島国の平和で培ってきたそんな漠とした「信頼」の夢を破るもので、多くの人はそこから目をそらしていたいのかもしれません。
知識人の役割
このアメリカ(アングロサクソン)のピューリタニズムに切り込んだ竹下さんの共謀罪に対する根源的な批判は、実に鋭く、非常に冴えていますよね。最近はあまり流行らなくなりましたけど、ふと、「知識人の役割とは」ということに思いが至ります。この「知識人」という語は英語や仏語でどう表現するのかわかりませんが、かつてレイモン・アロンでしたか、邦題で「知識人の阿片」という本を書いていましたし、「9・11」以降、いちばんシャープな言説を吐いてきたチョムスキ、ーが繰り返し、「知識人であることの役割と責任」ということも言及しているんですよね。私の周りでも、普通の人は会社に勤めていて、夜遅くまで残業で働かされていて、こうした共謀罪のような危険な法案までなかなか思いをめぐらすことは難しいですよ。でも、鋭敏なセンスビリティを持っている人であれば、「何か変だぞ」というカンは働くと思いますが、じゃあ、「どこがどういうふうに具体的におかしいのか」という部分まで、言葉として表現はなかなかできないですよ。そこの壁を埋めるために、「知識人(という名の有閑人)」が存在し、警告を発する役割を担っていると思います。私は100歩譲って、日本の政府与党が、アメリカの愛国者法猿真似のこんなトンデモ法案を成立させようとするのは、まだ、理解できるし、全然、許せるのですよ。だからこそ、こうした権力の横暴にきちんとした批判を加え、まっとうな方向に持っていかせるのが、まさに「知識人の役割」でしょう。劣化がひどいんですよ。こういうときに文明的な視点から、きちんとした批判行為ができなかったら、何のために学問を身につけているのか、と言いたいですよ。同じ慶応仏文出身ということで、敢えて、今回は名指しさせていただきますが(少なくとも私には批判する資格がある)、福田和也に荻野アンナが「沈黙」してますよね。こういう動きが起こっているのをもし、知らないのであれば、「無知」ということですし、もし、知っててどう言っていいのかわからないのであれば、「無能」ということですし、知っていても敢えて見て見ぬフリをしているのであれば、「野蛮」、「臆病」ということでしょう。いったい、何のためにフランス文学を、そして、フランスを研究してきたのでしょうかね。新潮45は福田和也が連載を持っているので、竹下さんの論文が掲載される来月号でどんなことを言ってるか、注目ですね。
共謀罪・感謝
詳しいご説明有り難うございます。
拙ブログの方でも後ほどご紹介したいかと。
やはり嫌なにほひぷんぷんですよね。
そういえば
右さん達のマドンナ、桜井よしこさんも反対意見を出しましたね。
新刊お知らせなど
共謀罪、その後どうなりましたか?それなりに盛り上がりましたね。障害者自立支援法案の時にも、もっと何とかならなかったかというのが心残りです。
今日5月10日、中央公論新社から『レオナルド・ダ・ヴィンチ−伝説の虚実』という単行本を出します。哲学、エゾテリズムから、欧米比較まで、マニアックなところから最近興味をもっている分野まで、ちゃんとつながってるお気に入りの1冊なので、ぜひ、お読みください。今日発売の『文藝春秋』にもダヴィンチ・コードについて記事を書いているのですが、その奥座敷がこの本です。
18日発売の新潮45にCPEの話を書いたのですが、編集者と話していると、結局フランス人の反応は日本人には全然分からないのだ、と言われてしまいました。それで、説明ばかりしてるうちにあまり本質に切り込めなかったかも。記事からカットした部分をそのうちこのサイトに載せましょう。
このところ、書下ろしをひとつと、聖ヨセフに見られる父親像、18世紀啓蒙時代のフェミニズム、無神論の系譜、の3テーマの資料読みのほか、奴隷制と植民地主義についてあれこれ調べています。日本人は黒人と直接の接触がなかったので、また幸いだれからも組織的な奴隷にもされなかったので、わりと良心の呵責が少ない分野かと思っていたのですが、調べれば調べるほど、「痛い」話です。そのうち一部を考えるタネにUPしておきます。西アフリカの黒人奴隷制に対して、啓蒙主義者はおかしいといって、ヨーロッパではフランス人が最初に廃止したのですが、それが、もろ植民地政策につながったのです。フランス革命がテロルに逸脱したり、フランス人は志は高くてそれを実現させるエネルギーもあるのに、すぐ低きに流れて、理念を消化してないことを露呈してくれます。でも20世紀の終わりに奴隷取引に関わった国で唯一、奴隷制を人類に対する罪にわざわざ認定するなど、ちゃんとつじつまを合わせて責任を取っているのは偉いかも。昨年春の法案の中で植民地に関するポジティヴな見解を入れて批判された条項もあっさり削除したし、それなりにけじめをつけるのは好感があります。
とにかく、植民地とは奴隷制の発展的解消なんですよ。それが理解できるとショックです。そして、「相手に選択の余地のない安い労力を調達して自分の生活のグレードを上げると」いうことの快楽って、原罪のようにどこかにあるような気がします。親からすべてを享受していた赤ん坊の万能感の名残なのでしょうか。全ての悪は何と人間的なのでしょう。怖いです。
お疲れ様です
新刊、愉しみにしています。(なんせレオナルド先生だし)
共謀罪はあちこち読んでますが、ネット上は議論が出ていますがマスコミはあまり興味がないように感じられます。で、国会でやり合っている最中のようですね。不備等が指摘されているようです。
先日、ルワンダの虐殺についての曾野さんの本を読み終えましたが、アフリカにおける欧州のやり方は褒められたものではないですね。フランスが武器を流し続け、あのフツによる虐殺が起きた等。その辺りも興味深いところです。
奴隷制に関してはローマ時代の奴隷のあり方ってのも面白いですね。ギリシャ人の教師奴隷とか。威張っていた。
寧ろ近代の奴隷制や植民地主義の方が酷いのではないか?などとも思います。この辺りは進化論やプロテスタンティズムも関わってくるのでしょうか。
シラクの日本口座など
レオナルド、島に送ってもらうように頼んでます。そろそろ・・・?
なんせ私自身、離島にいるようなもんで、状況がよく分からなくてすみません。
古代の奴隷は皆、被征服民でした。 敗者が勝者の奴隷になるわけで、人種的じゃないので、歴史の中でまた陽の目を見る可能性もあったわけです。でも、黒人は黒人であることをやめるわけにはいかないので、人種として否定されたことになります。しかし道具(特に武器)の優越というのは、人間にとって本質的に見えるのでしょうか。ヨーロッパが「未開」と出合った時に、自分たちの優位が自明に映ったのは事実なのでしょう。ブラック・アフリカの資料を見てて、服がミニマムな文化というのが「野蛮」に見えてしまうのは、私も温帯モンスーンの人だから? 服をいっぱい着て、サヴァイヴァルの工夫を日常的にしているエスキモーに対しては、「未開人」だから奴隷にしたりその後植民地にしたりって、ありませんでしたよね。やはり寒いか暑いかっていうのが、人間の欲望のシステムに大いに関係するのでしょう。
フランスではクリアストリーム・スキャンダルで、与党の大臣たちの多くが裏金問題を追及されてます。昨日からはついにシラク大統領が1992年に日本に60億円の口座を開いたというのが出てきました。調書にはSOWAバンク
とあります。そんなのありましたっけ? SANWA がSAUWA になってSOWA とか? 日本の銀行の名ってしょっちゅう変わるし、とてもついてけません。シラクのLe souci(心配事) をSOUSHI=Sushi(寿司)にかけて、今日のカナル・アンシェネに大きく出てました。
ええ〜〜〜!!!
恐縮です。どうしよう。今から愉しみです。有り難うございます。
奴隷システムはそうでしたね。互いが交換されたり、文明同士というのは分断があれどそれなりに対等ではあるものの、「アフリカ」という異文化がヨーロッパ人にとって動物的に見えたのが「衣類」っていうのは面白いですね。
うちの島も暑いのでお洒落なものは持っていてもしょうがない。自然だらけた風になりますが、戦前に体験した本土からの差別の一つの要因にそのような見下しがあったのでしょうか?
そういえば今、三和ってないですね。
東京相和銀行というのはあります。色々怪しからん過去があるようです↓
http://tostar.s70.xrea.com/wiki/wiki.cgi?%C5%EC%B5%FE%C1%EA%CF%C2%B6%E4%B9%D4
レジオンドヌール
ふーん、この相和ってのはそれっぽいですね。会長だった長田という人がフランスの勲章レジオンドヌールを受けていたというのがめちゃ怪しいですね。シラクが子供の母親に銀座の画廊を開かせたという例のゴシップとも関連してそうだし。
服装と文明の程度の誤解というのはおもしろいでしょ。確かに蒸し暑いとことか虫の多い気候のとこではレースとか刺繍とか発展しないでしょ。夜が長い、虫が少ない、重ね着が必要なくらいに寒い、とかないと。そして人間って服込みのイメージですから。変な話、黒人だって、露出部が少なければ肌の色の差も目立たなかったし。しつこいですが、エスキモーの肌の色なんて、ほとんどわかんないし、彼らの軽装なんて想像しにくいじゃないですか。逆に、ドイツの優生思想と連動していたヌーディスト・クラブなんて、はっきり言って見た目は醜いんですが、思い切り倒錯的な優越感があるんでしょう。
コウモリ男、暗躍か?
フランス政局も「裏金スキャンダル暴露合戦」の様相を呈してきて、なかなかオモロクなってきましたね。ただ、そのドビルパンのサルコジに対する裏金の調査指示、そして、シラクの旧東京相和銀行(現・東京スター銀行)の秘密口座の話も、どこまで信憑性があるかは別として、ネタの「出所」が、どうもコウモリ男臭いですね(笑)。だって、フランスの内務大臣っていうのは、日本でいうところの総務大臣兼警察庁長官でしょう。正規の官僚機構から上がってくる情報に加えて、個人的な人脈も絶対に持っているあるはずですから、そこらあたりから、ワン・クッションなり、ツー・クッション置いて、足がつかないように、情報の「ロンダリング」を図って、マスコミにリークしているような気がしますね。私に言わせれば、内務大臣のポストにいて、政敵(=ドビルパン、シラク)のスキャンダルを徹底的に洗わなかったら、ただのおバカさんですよ。そのシラクの口座預金について、思うのはちょっと「額」が大きすぎますね。もし、仮にあったにしても、桁が一つ多いような気がします。日本とフランスでそうした「政治とカネ」に関する相場がどれくらい違うかは、よくわかりませんが、日本円で60億円っていったら、相当な金額ですよ。あの金丸信ですら、ワリシンなどの隠し資産で、せいぜい5億程度でしたから、そのあたりが私としては非常に眉唾ですね。私はむしろヘソ曲がりなので、こういう状況であるがこそ、断固、今こそ「シラク支持」を打ち出しますね。3選出馬してもいいです。
共謀罪、その後
共謀罪の方はその後、例えば、桜井よしこが反対の意思表示をするなど(といっても、ちょっと微妙なスタンスではありますけどね)、私がブログで最初に書き始めたころに比べたら、かなり盛り上がってきました。日和見を決め込んでいた売文業者たちも、ここにきて(まあ、アリバイ作りもあるんでしょうけど)、反対の声を上げ始めました。あと、一息ですね。結局、今の国会の会期が6月18日までなんで、戦術としては会期延長を封じ込め、「時間切れゲーム・オーバー」ということです(笑)。だから、小泉とも手を組むんですよ。
レオナルド
ご本はもう発売になったのですよね。読んでみよう。楽しみです。
わたしの好きなアメリカの作家で、カニグズバーグという人がいるのですが、この人が、レオナルドについての小説、それから、エレアノール・ダキテーヌについての小説を書いていまして、秀逸。レオナルド小説は、彼のもとで働いたサライという青年の視点から書かれています。(ナントカ・コードは読んでいないです。)
ナントカコード
ナントカ・コードの映画は、昨夜カンヌでプレス関係者2000人に向けての試写会があったのですが、終わったあと拍手なしで、口笛を吹く人も、というさんざんな様子だったらしいです。パリの一般公開は今日からです。今日は昼間は生徒たちが来て夜はお芝居に行くので見にいけませんが、明日観にいこうかな。
サライって不思議な人物です。あんまりひどいので、レオナルドの隠し子かと一瞬思ったのですが、そうでないようだし、では何であんな男を? 美貌だけで我慢できたのか? 精神の気高さなんて関係がなかったのか・・・レオナルドはひょっとしてマゾ? 晩年にメルツィがやってきて救われた感じです。私の中ではサライの居場所が見つけられません。ミケランジェロのところにいたら、1日で追い出されてたろうなと思います。
サライ
わたしは、サライ、って、このカニグズバーグの本、「ジョコンダ夫人の肖像」The Second Mrs. Gioconda 、でしか知らないんです。ここでは、そうですね、生のままの人間、子どものような無垢な欲望を体現した者、として描かれていてとても説得性がありました。
ダ・ヴィンチ・コードの映画
ダ・ヴィンチ・コードの映画、パリでは昨日から上映なので、今日(18日)、観にいってきました。
最近映画に行ってないのですが、ダ・ヴィンチ・コードは私のダヴィンチ本のきっかけをくれた本だし、最近『文藝春秋』にも記事を書いたので、一応見ておこうと思って。
いろんな視点によって変わると思うのですが、まず、キリスト教のことを特に知らず、原作も読んでない普通の日本人の視点で見ると、多分、何言ってるのかよく分かんない、です。原作には、さすがに長編だけあって、あることないことたくさん書かれているので、「そうか、分かった」と感じた人は多いと思いますが、映画では、当然細かいことが抜けてるので、「???」です。スリラーとしても中途半端だし。
次にキリスト教やカトリックのことを普通に知っている普通のフランス人の視点で見ますと、いくらフィクションと思って見ても、メインのテーマがあまりにも違和感があって、全く楽しめません。だってマグダラのマリアの棺が実はルーヴルの地下に眠ってるというのがラスト・シーンなんですが、文春にも書きましたが、普通のフランス人にとって、マグダラのマリアの墓所は秘密も何も、真偽は別として中世以来の大巡礼地だし、その信仰は聖母マリアに匹敵するくらいポピュラーなのですから、今さらヴァチカンがそれを必死に隠してきたと言われても・・・映画でもっとなんとか脚色できればよかったのに、原作に忠実にと言うのが絶対条件だったらしく・・・原作はとにかく長いので、変な中心テーマもそれなりに希釈されてしまうのですが、映画ではごまかしがきかなくて、宗教や教義や信仰がどうのというより、「ポピュラー常識」とあまりにもかけ離れた部分がここまで強調されると引いてしまいます。
キリスト教にそれなりの知識があってかつ原作を読んだ人の視点からこの映画を観ると、「原作の方が面白い」に尽きます。原作の方が、映画のシーンが脳裏に浮かんで、テンポもいいし、わくわくエンタテインメント感もあり、映画で観てみたいというのがありました。実際映画になると、まあ大画面で夜のルーヴルやパリやロンドンなどを楽しめるというだけで、俳優たちもやることが大してないので不全感があり、もったいないという感じです。(個人的にはシラスというアルビノスの修道士が、灰色の目のもっと怪物っぽい大男を想像していたのに、ナルシスティックな青い目のお兄さんで、ロシアのダンサーみたいだと思いました。)全体的にはがっかりという感じでしょう。
最後に、キリスト教の知識とかがなくて、映画の原作によってはじめてキリスト教のタブーに触れたとか陰謀史観の薀蓄に感動したとかいう人たちの視点です。これが私には想像不可能です。タブーや秘密をヴィジュアルに堪能できて満足なのか、本の方が信頼感をそそられて、映画は物足りなかったと思うのか・・・
今はスリラーでもレべルの高い映画がたくさんあるので、この映画はプロはもちろん一般観客を感動させるのは無理だと思います。ハリーポッターやナルニア国のほうがずっとまし。 私の訳した『聖骸布の仔』という小説にも映画化の引きがいくつかあるようなのですが、そっちの方が断然期待できそうです。しかし、カンヌ映画祭は一昔前はハリウッドから見向きもされなかったのに、今は、すごい経済効果をあげているそうです。ネオリベラリズムの行き着く先がカンヌ映画祭のダ・ヴィンチ・コードかと思うとショックです。宣伝って何?金って何?ベストセラーって何?という感じです。
本が届きました
竹下先生の本が届きました。
もう世間はダ・ヴィンチコードネタがあちこちで交わされていて、丁度タイムリー。
ちゃんとした本を読んで溜飲でも下げないと。
と本ネタばかりが飛び交ってる状況じゃぁ脳味噌が腐りそうで(^^;
・・・・・・・・というわけで私の脳味噌の健康のためにも嬉しく思います。
有り難うございます。
サライですが、、、たしかにいいトコなしですね。この小悪魔を手元に置くレオナルドの屈折した心理ってのはなんでしょうね。彼の行動を観察しながらなんらかのカタルシスを得るものがあったのかもしれません。
ダ・ヴィンチ・コードとヴァチカン
ダ・ヴィンチ・コードとヴァチカンについてのコメントを宗教のコーナーに入れました。
自分探し
竹下様。最近ちょっとした事件が私の周りであり、ご意見を伺いたく思いました。
事件というのか、私の友人(43歳の女性)のダンナさんの浮気問題なのです。
この夫婦は本当に仲がよくて、ダンナの浮気なんて露とも想像していませんでした。
このダンナさん、すっごくまじめなそして優秀な人で、自営で仕事をしているほか大学で経営学を教えたりもしてるんです。
が、まじめすぎて「人生とは?生きるとは?本当の幸せとは?人間とは?」とかそういうのを追求しすぎて、
とある心理系ワークショップで会った10歳年下の女性にころっと参ってしまいました。
「あなたは、奥さんといる限り、人間的に成長できない」とか言われて、友人である奥さんと離婚するつもりになっています。
で、このダンナと浮気相手がはまっているのがとある大学の先生の論で、この人、本をいっぱい出していて、私も参考までに本屋で立ち読みしました。内容は、純粋な心を持った人は生きにくい、とか、自分のやりたいことをやれそのためには手段を選ぶな、とか、人の目を気にしてどうなる、とかそういう人生訓みたいのをいっぱい書いていて、とにかく薄っぺらいし、なんでこんなのにはまる人がいっぱいいるのか、それも立派な職業を持った40歳を過ぎた人(ダンナのこと)がはまるのか、不思議になるような本なんです。
ダンナさんはすごく頭も切れるし、これまでに哲学系の話とかで結構盛り上がったこともあって、
すごくものごとをよく考える人だなぁと思ってました。
今回の件は「なんで東大出てそんなしょーもない新興宗教にひっかかるの??」というのと似た感じがしました。
なんか、変な世の中ですよね。
大変ですね
この手の罪作りなワークショップとか、セミナーはすごくたくさんあって、マインドコントロールだと思うんですが、
多くの場合は、コントロールされることをどこかで望んでいる人が引っかかるもので、健康で生活も安定していた大人が
自発的に引っかかる分には、もうどうしようもないです。
40にもなって、不惑じゃないですが、それ以上「成長する」ために、自力でできないでグループセミナーを頼ったり、
奥さんなど第三者のせいで成長できないなどというのは、実は大人になっていないんですね。
人生で、もうちょっとこうしたいとか、ひょっとしたらこうなれるかも、とかいくら思っても、
「だめなものはだめ」というのが私の実感です。自分を「高めたり」「成長したり」「幸せになったり」というのは、なろうとしてなれるわけではなく、とりあえず自分より弱い人や小さい人に手助けをしながら生きていけばいいんですよ。
ましてや自分を頼る人を踏みつけにしたり、不幸にしたりしながら「成長」も何もありません。自分というのは近くにいる
他者との関係性の文脈にしか現れてこないんですから、「自分」という素材があってそれを見つけろとか磨けとか実現せよという
言辞は全てまやかしだと思います。特に他人からそれを言われる場合は。
胡散臭さの正体
はじめまして。
私は「自分を高める」「自分を磨く」という表現を見るたびに、いつもなんだかヤーな感じがしていたのですが、KAORUさんへのお返事で竹下先生が書かれたことを読んで、その理由がよくわかったように思います。「自分を高める」ことや「自分を磨く」ことは決して目的とすべきことではなく、まず自分のできることとして周囲の人たち(「人類」とかじゃなくて)に目を向け、何かできることがあれば手助けする。そうしているうちに自分が「高められたり」「磨かれたり」することはあるかもしれないし、ないかもしれないけれど、それはあくまでも結果であって、それ自体を目的とすべきではない。というか、それを目的としている限り、本当の「成長」はありえないでしょうね。
頭の中にもやもやと漂っていることを、竹下先生がご著書やこのサイトで明確な言葉にしてくださっているのを読むと、本当に晴れ晴れとした気分になります。
自己実現
私の翻訳した『聖骸布の仔』という小説の解説(帯裏にも転載されてます)にこう書きました。「本書が秀逸なのは、ヒーローが数々の試練を経て、または啓次を得て、人間的に成長していくというただのイニシエーション小説やニューエイジ風の自己実現小説とは一線を画し、人は、「ありのままでい続けて、なおかつ成長できる」という驚くべきメッセージを発していることだ。」
要するに私はニューエイジ風の自己進歩史観が苦手なのです。それは、たいてい、他の烏合の衆とは違う解脱やら悟りやら超人やらを目指しているみたいなので。そういう人に限って、「まず世間並みになることをめざせば?」といいたくなる人も多いです。それに、自己、自己と言ってますが、所詮、他人より偉いとか、他人から認めてもらえるとか、他人から羨まれるとか、他者を基準とした市場価値みたいなものが入り、自己実現って、自己満足のことかと突っ込みたくなります。また、他人によって高められたいとか磨かれたいという根性もちょっと卑怯な気がしてました。たとえば、「自分を高めてくれる人と結婚したい」なんていう女性よりもまだ、僕が妻子を養わなければ、と思っている男の方が潔いと思ってます。キーワードはやっぱり「assumer」かしら。他人を巻き込んで自分が選択したことを投げ出さない、というのは基本ですね。
たまに私に向かって、「あなたはいいわよ、自己実現してるから、」という人がいます。私が「自己実現って何?」と聞くと「ほら、本を出してるし」という答え。しかし、私の本は、援けてくれる編集者や、スタッフの方や、共感してくださる少数の読者とのかかわりの中で、多くのものを受けながら少しでもお返ししたいという気持ちで、本来なら「何もしないのが一番楽」という怠け心と戦っている日常の、終わりのない苦労が時々形になるというものであり、しいて言えば、ある種の関係性の実現です。その関係性がまた、育って、こういうサイトにつながっています。
私の友人で中古の医療機器をアフリカに送るNPOをやっている人がいて、そのパンフには「Ce qui n’est pas donne est perdu.(与えないものは失われる)」と書いてあります。私がそれを別の人に見せたらその人は、自分は昔から「Ce qu’on donne aux autres murit, ce qu’on garde pour soi pourrit.(他人にあげるものは実を結ぶが、自分のためにとっておくものは腐る)」と教えられて育ったといってました。形のないものでもそれは同じだと思います。
自己実現
竹下先生、にいくさま、ありがとうございます。
私も自己実現とか、自分探しとかいう言葉にイヤな感じを持っていたのですが、竹下先生の文章を読んできがつきました。
自己実現という言葉の中には、「自分だけ」っていうのが入ってる感じですね。「自分を大切に」とかいうのもよく聞きますけど、それって「自分を最優先で」という風にも聞こえます。そんなに自分が大事か〜?って思います。イヤ、もちろん大事なんですけど、他者を蹴落としてまで・・・ていうところがあります。
その友人の夫と浮気相手がはまっている本の中に「自分のやりたいことをやらなくてどうする。自分のやりたいことをやるためなら他人を殺す(!)ぐらいの覚悟がなくてはだめだ」とか書いてあるらしいです。やりたいことってどうせたいしたことじゃないだろ〜とか思います(奥さんのいる男の人を離婚さす、とか)。こういう本を出そうという編集者も疑います。ま、よく売れてるようなんで利益はあがってるんでしょうね。
Passion
「自分が大事」というのは、動物としてある程度、すでに自己保存の本能として組み込まれていると思うんですよ。その本能に輪をかけて文化で補強しなくてもいいと思うんです。たとえば食べる本能をグルメな文化にしていくというのはわかります。それこそ、ただ自分が生きるために食べるところから他者と分け合って楽しむ方へ進化する感じだから。つまりむしろ「自分大事」からいかに離れていくかというのが文化や教養のような気がするんですが。
「やりたいことをやるためには・・」という話も、たとえば私のやりたいことは遠くはバロックオペラの演出、近くは毎週のトリオの練習ですが、それはやはりPassionなんですね。情熱と訳されますが、キリストの「受難」という意味もあるように、本来受身のpassifと同じで、自分がこれをしたいというより、抗いがたく、無理やりさせられているような・・・恋愛にもこういうことはあると思います。不倫でも。そういう時は、やりたいことをやるためには邪魔者を取り除いてでも、というんじゃなく、すごく苦しんで、抵抗しても、どうにもならなく、それでもせめて他者への害を少なくすることを目指して努力するとか、passionの実現には、自分の払う犠牲が一番大きいのが当たり前です。他人を踏みつけようなんて、それはただのわがままですよね。そういえばこのわがままって言葉、なかなか含蓄がありますね。「我儘」、自分のままだったら人迷惑なんですから。そんな「自分」を探すなよ、と言いたくなります。大体、生きることは自分を矯めていくことで成り立ってて、たまにパッションに翻弄されたり、うまくいくと、ひとさま(これも奥ゆかしいといえば言えることばですね)のお役に立てたり、喜びを共有できたり、じゃないでしょうか。
自分って
竹下先生のお話、盛り沢山な中身でいろいろ考えさせられます。
自分という存在が他者なくしては成立しえないこと(ソシュール思い出しますね)も当然のことなのに気がついていませんでした。
自分大事から離れていくこと、passionのために自分の払う犠牲の方を大きくすることって、”愛”でもあるような気がします。文化や教養のそこに流れているのは大きな愛かなぁ、とか妄想したりして。。。
自己啓発本
「ニューエイジ風の自己進歩史観」という言葉が出てきましたが、放っておいても肥大しようとする自己をわざわざ肥大させようとする自己啓発本やセミナーは、ニューエイジ・ムーブメントが起こったころのアメリカ西海岸あたりから出てきたものなのでしょうか。ニューエイジといえば、自然や宇宙との合一みたいな、「自分」の外に出ていくイメージもありますが、それでもなんだかやっぱり怪しい。自然や宇宙のエネルギーをもらって、自己をさらに肥大させようという魂胆があったりして? 結局、他者への思いが欠けていれば、自分の内側を見ても外側を見ても、近くを見ても遠くを見ても、どこかピントが狂っているのかもしれません。
ところで、フランスにも自己啓発本ってあるのでしょうか。少なくとも日本では、その手のフランスの本の訳書はあまり見かけないような気がします(といっても、英米以外の翻訳書の占める割合は低いので、当然と言えば当然かもしれませんが)。よくも悪くもナイーブなアメリカ人に比べると、老練な(?)フランス人はそう簡単にはハマりこまないように思えますが、いかがでしょうか。
やめよう自己実現、咲かそう小花
フランスにも自己啓発本ありますよ。でもほとんどアメリカ系ニューエイジの輸入、翻訳です。たいていはエゾテリスムとかオカルト本のコーナーにあります。精神世界系の見本市に、お香や健康食品や開運グッズと一緒に並ぶのもこの手の本で、まあ一定の需要はあるわけです。でも、平均的フランス人は、確かに、もっと、現世を単純に楽しむ志向の方が強いです。
ニューエイジ・ムーブメントの発端には、中国に侵略されたチベットから僧侶が欧米へ亡命したことではじめて欧米が密教系(修行系)仏教と内輪で接触したことがあります。瞑想法とかヨガとか呼吸法も含めて。特にアングロサクソンのピューリタン系の「禁欲的な精進と出世」イメージが、規範社会から少しずれた形で展開して、「自己を高める」に繋がったのではないかと私は見ています。これに対してカトリック社会では、禁欲生活は修道会に任せて、一般信徒は緩く生きるのが伝統だったので、「がんばって成り上がる」式の志向は優勢ではありません。だから、自己実現(realisation de soi)とか自己啓発(developpement de soi)とかはSself−actualizationなどの訳語としてはあっても、自然なフランス語ではないようです。フランス語でぴったりのこの手の言葉はむしろ自己開花(epanouissement de soi)かもしれません。それは、各自がどんな植物として生れたかによって咲かせる花も違うわけで、仕事で花咲く人も、美食で花咲く人も、家庭でも趣味でもいいので、努力して咲く人も、ただ運がよくて咲く人もある、体系化されたメソードがあるわけないし、あるべき姿や理想もなく上下関係もないという感じです。
問題は、仏教ではもともとこの世でのさまざまな煩悩、執着を取り除くための「方便」として自己を立てて訓練していくという方法論になっているので、最終的な目的はむしろ「エゴから自由になる」ことなのに、ニューエイジの文脈の中では、「解脱してステージの上がった自分」とか「超能力を獲得した自分」「潜在能力を伸ばした自分」とか「世界の終わりが来ても生き残れる自分」になることが目的にすりかわっていることです。それは、ピューリタン的な自由競争とも親和性があり、「人より努力した者が人より報われる」成果主義や優生思想にもつながるわけですね。
もちろん、人生で仕事のスキルを上げるというようなことは必要です。筋トレに励むのも、スポーツなどの記録に挑戦するのもいい。でも、たとえば猛練習してチャンピオンになった人が、だから信頼できる立派な人間だといえるでしょうか。チャンピオンの中にも、チャンピオンでない人と同じように、エゴイストもいればそうでない人もいるでしょう。同じように、修行してたとえば空中浮揚できるようになったとして、それが人間の品格と何の関係があるでしょう。(現に偉大な宗教者はどの文化でも、超能力は聖性獲得に至る修行におけるアクシデントのようなものだと言っています。それを他人に還元できるときにのみ意味があるのであって、自己の価値とは関係がないわけです)
逆に、寝たきりでも周囲の人に暖かさを分けてくれるオーラのある人もいます。仕事のスキルや身体能力、あるいは超能力を高めることと、「自己を高める」ことはあきらかに別物です。自己の価値とは常に他者をリスペクトする関係においてのみ現れてくるものだからです。けれど、そこをごまかして、「自己実現して救済を得よう」などというノウハウを売るカルトなども存在します。
あるいは、ある特定のライフスタイルを称揚して、それに近づくのが自己実現の道のように扇動するメディアもあります。そんな抑圧的言辞は、執着から自由になる境地を目指す本来の仏教からも遠く離れています。
自己実現とか、自分探しとかに惑わされるのは、もうやめましょう。
毎日のちょっとしたことで時々小さく開花する気分を楽しみ、生活で求められるスキルは地道に高めるよう努力し、獲得できたものは、何らかの形で分け合い還元する。それでも、前に書いたように「だめなものはだめ」。それを見極めたり認めたりする「分別」を、試行錯誤しながら高めることが大切だと思います。もちろんその方が、レディメイドの「理想のライフスタイル」を獲得したり「勝ち組」に参入したりすることよりも、ずっと難しい茨の道だったりしますけど。
正法眼蔵
今、講談社の広報誌『本』(5月号)を読んでたら、その中の「『眼蔵』を読む』という連載の仏性の注解で、菅野覚明さんが、「自己実現の誤解」とそっくりなことを書いていたので、そういうことは昔からあるのだなあと感慨を覚えました。
道元は当時の次のような誤解を徹底的に断ち切ろうとしたというのです。その誤解とは「仏とはスーパーマンのようなもので、我々凡夫の内にも、仏になる素質(仏性)が眠っている」という「抜きがたい思い込み」です。
一切衆生には仏性があるがそれはどのようにしてあるのかという問題形式で議論されてきた伝統的仏性論では、仏性は「元出」のようなもので、修行という事業でその元手を増やし、悟りという財産を得、仏とは罪をなした大金持ちのようなものにイメージされます。
道元は、その上流にある「十聖三賢」(菩薩のように、凡夫から仏への中間段階の高い階位)には仏性の道理は決して理解できないといいます。それは、悟りとは、正しく知ること自体であって、知って得た「もの」ではないからです。悟ること、悟る営みとしての修行の形において仏性が存立するので、仏性、修行、悟りは同時に成立する、というのが道元の考え方だそうです。
これを自己実現に当てはめますと、「自己という素材を掘り起こし探り当て、自己啓発で加工して、自己実現で完成品にする」というのが「抜きがたい思い込み」なんですね。で、完成に近づいたという自負のある「十聖三賢」のカリスマ何とかとかリーダーとか、カルトの教祖のような人は、自分たちを理想のモデルのように提示したり、されたりするわけです。それを見て、凡夫は自分の中にも磨けば輝く「本来の自己」的な素材があるはず、とそれを探し、育てて完成させなきゃと思いがちなのですね。
でも道元風に言うと、そんな自己の「発見」も「啓発」も「実現」も、みな、「正しく生きる」という営みに吸収される、生きることと同時に成立するわけです。他者との関係性を生きる中で自己が発現してくるので、それは素材でなく、即実現であるわけです。ここで「正しく生きる」というのは、とりあえず、他者の「生きること」を阻まない生き方、関係性の中で生きることから生じるいろいろな不都合を、できるだけ自分で引き受けるということかと思います。
そう思えば、そんなに難しくなく、道元も「無知無学の六祖」を「十聖三賢」に対して挙げています。しかし、昔から、どの文化でも「修行系上昇志向の誘惑」というのは大きく、すぐ規範的に働きますね。
「Boys be ambitious」の「大志」はambition 「野心」でもあります。大志というのは抱くとすぐに野望とか野心へ引っ張られる誘惑にさらされているんですね。一人の人の大志が多くの人を救うこともあれば、野望が多くの人を踏み潰すこともあります。道元をはじめ、古来の賢人がいろいろ警告しても、エゴイズムや集団エゴイズムからはなかなか抜けられません。伝統宗教ですら大昔から模索しては失敗しているのですから、ニューエイジや新宗教が「自分大切」にシフトするのも無理がないですね。ましてや、それが一見して「地球大切」のエコロジー原理主義とか、ナチュラル志向とか手作り原理主義とか節制とか健康法とかを看板にして「到達すべきもの」「獲得すべきもの」を見せて一定のライフスタイルを煽るマーケットが大きくなると、もともと「ambitious」なタイプでない人は、がんばる前から「負け感」にとらわれますよね。
私がカトリックの聖女伝が好きなのは、そういう上昇志向価値観の解毒剤になってるものが多いからです。彼女らが愛したイエスという人が世間的に言うと最悪な死に方をしたことも逆説的に彼女らの力の源泉になってます。「そうだ、自己実現をやめて聖女になろう」というテーマは楽しいですよ。
さよなら自己実現
う〜ん、なるほど。ニューエイジのはるか昔から、「自分の中に眠っている本物の自分を探りあてて育て、完成させる」という思い込みは存在してたんですね。人間につきものの誘惑なのかも。動物は自己保存の本能はあるものの、こんなことは考えないでしょうから。人間でも、ある程度衣食住がこと足りて、とくに真面目な向上心があると、この誘惑に陥りやすくなるように思います。
それにしても、「小さな花を咲かそう」って、いいですね。たどるべき道とかあるべき姿とか理想とか上下関係があるのではなくて、それぞれがいろいろな花をいろいろなときにいろいろな形で咲かせる……。「ありのままでい続けて、なおかつ成長できる」という『聖骸布の仔』のメッセージにも通じるところがありそうな。この本、これから読んでみるつもりです。
訂正
「正法眼蔵」の項の10行目の「仏とは罪をなした大金持ちのような・・・」というところの「罪」は「財」の誤りでした。
文芸春秋 ダヴィンチ
文春6月号「ダヴィンチコード四つの嘘」読みました。とても参考になりました。
友人に次のようなメールを送りました。
5月19−23日までは義父の法事のため新潟に行き、
田舎で山菜を取ったり、山歩きをして、初夏をのんびり過しました。
晴天が二日あり、兄夫婦と妹と我々5人で近くのブナ林、と言ってもかなりの山。翌日は今は荒地となっている旧田んぼに、
そこから道なき道を山越え、清水の源流で弁当を食べ、さらに頂上へ。
頂上にゆくと尾根つたいに昔の細い道があり、そこをおりて帰ってきました。
まだ足元より低いところに、あちこちに残雪がありました。
山々の緑が美しく、前日テレビで見たモナリザの背景よりはるかに
綺麗でした。ダビンチにも見せてあげたいくらいでした。テレビでは、その背景に
謎があるとか、それがダビンチコードで解明されるとありましたが、
あれは現代人のマニヤックな人が考えたものだと、美しい風景をみながら考えました。
美しいものはただ感動すればよいし、絵を描きたい人はその気になって描けばよい。
そこに何かを忍ばせようなど人為的なことでは、私には良い
ものだと感動しません。もしダビンチがそうだとしたら、他の画家も同じ
ようなことがあり、絵を見るより謎なぞ解きが主流となってしまいます。
さらに画家がそうならば、彫刻家も作曲家もそのようなこともないとは言えません。
それらが本当ならば(そう信じるなら)
神はもっと上手(うわて)に自然に中に謎を忍ばせていることになります。
自然の美しさはそっちのけで、人間たちはなぞなぞ問題でいくつにも自分に都合よく
解釈が出来ることになりそうです。
参考までに文芸春秋6月号318ページに「ダヴィンチ・コード」四つの嘘という
記事がありました。
〇〇様
ありがとうございました。
ご感想ありがとうございました。中央公論新社から『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝説の虚実』も出しています。あわせて感想をいただければ嬉しいです。他の方もよろしく。
風景をただ「美しい」ものとして感動するというのも、文化に規定されたコードが介在しているように思われます。たとえば日本人にとって桜の花咲く風景の持つ含意の豊かさが切り離せないように。ただ、文化による解釈の違いはあるにしろ、「環境を愛でる」という営み自体は人間にユニヴァーサルにあるようで、だから絵画芸術も成立するのでしょう。
光ファイバーがまだ珍しい頃、東急ハンズで買った光ファイバーで色とりどりに輝くクリスマスツリーをフランスに持ってきました。部屋を暗くして生徒たちに見せますと、老いも若きも、なに人でも、はっと息をつめるような感じで魅惑されて、わくわくと見つめました。それで、うちの猫たちにも見せたのですが、反応なしです。っていうか、見てない。無理に視線を固定させても、やだやだってば、というばかり。このとき、私はすごく疎外感とショックを受けました。すごく可愛がって、日常的に以心伝心って場面もあるこの子たち、やっぱり、異人種じゃん、というか異種。感動のしどころが違う。花火とか見せても、全く無視だろうなと。ヒトなら、まあ難しい文化の文脈の共有を前提にするような美術は別として、夜空に花火が上がるのを見ると「わー、きれいだ」というプリミティヴな感動のレベルが共通してます。そういう類的な感動の琴線の振動数が合っているというのを信じて、そこから芸術も哲学も出発するんだなとか思いました。
ギグー女史のことなど
こないだエリザベト・ギグー女史の話をしてたら、今日、うちの町の彫刻家夫婦のアトリエで彼女と偶然出会いました。この週末、町に住んでる画家や彫刻家のアトリエが午後公開されるアトリエ・ラリーみたいなのがあって、11軒のアトリエを回ることができるのです。汗ばむほどのいい天気で、ギグー女史は濃紺のサファリ風ワンピースでブロンドの髪は後ろで束ねてました。化粧気のない顔で、ちょっとぎすぎすしたイメージで、セゴレーヌ・ロワイヤルと自然に比べてしまい、よほど、大統領選にいかがですか、とか言おうと思ったのですが、その場所ではまずいかと思って、普通に挨拶を交わしただけです。彼女はどういうところで展示の機会があるのかと彫刻家に尋ねていました。その後他の画家のアトリエを訪ねたら、そこにはうちの市の「緑の党」の代表(彼女の娘は昔私の生徒だった)であるアンヌ・デオ女史が来ていました。この二人に出くわしたことで、そうか、フランスでは芸術は政治のツールなんだと改めて確認しました。
私は21日の夏至の音楽フェスティヴァルの夜、市役所のホールでコンサートをするので、御影石のオブジェを舞台において照明で遊んだらきれいだろうなと物色してたんですが・・その彫刻家は数年前に死んだハンガリー人の彫刻家ピエール・セケリーを知っているといったので、私もセケリーに頼まれて評伝を訳したり、セケリーについて論孝を書いたことがあるんですよ、と話がはずみ、オブジェを貸しますよ、と言ってくれました。でも、照明技師との打ち合わせがますますややこしくなるから使わないかもしれませんが。
画家のアトリエも何軒か回りました。うちの通りの少し先のアトリエに1点気に入ったのがあって、そのうち購入するかも。ここのところ2点続けて絵を買ったので、ちょっとセーブするか迷ってます。まだ支払い残ってるし。
それで、ギグー女史ですが、夏の光の中でじっくり観察してみると「小柄でやせぎす」というのが目立ちました。セゴレーヌは若さがあって長身だし、今勢いづいてるから、オーラもでてきたし・・・たとえばヒラリー・クリントンって、長身の夫のそばにいると小柄に見えますが、なかなかの長身です。アメリカには今、ヒラリーのためか、女性大統領がヒロインのTV番組のシリーズがあるのですが、そのヒロインも、180センチ以上の長身です。男と並んでも見た目に堂々としているというので違和感を薄め、視聴者に少しずつ慣れさせようというわけです。メディアの時代の政治家にとって、「見た目」というのは恐ろしい、ギグーは、端正な美女でフォトジェニックですが、空間の占め方が少なすぎると思いました。政治家なのに政権だけでなく、これほど自分が外見に左右されること自体に動揺します。日頃
Etre 画大事でparaitre には興味ないと思っているのに。
ある女性彫刻家のアトリエには、「Creer, c'est vivre deux fois」(創造するのは2度生きること)というカミュの言葉が座右の銘として貼ってありました。この2度というのは時間的でなく、「別の次元で生きること」と彼女は言いました。
ギグー女史と大統領選
そうですか、竹下さん、ギグー女史と偶然、会ったのですか。現在、彼女は「無役」というか、表立った政治活動は多分していないのですね。最近のこっちの新聞の外電面記事だと、そのセゴレーヌがかなりこのところ「右傾化」した発言をしていて(「若者を軍隊でしごけ」とか、「治安対策を強化しろ」とかの類)、それにサルコジがニヤニヤしながら「なかなか頼もしい」と皮肉っているという内容でしたが。大統領選まであとちょうど1年弱ですか、左派は今のところ、かなりセゴレーヌが突出してますけど、彼女が出るとなると、旦那のオランドが出るということはありえないですので、ここは左派も右派同様、もう少し揉めてくれないと、オモロクならないですよね。どうせ、最後は上位2人の決選投票になるんですから、私はギグー女史あたりはチャレンジしてもいいと思いますけどね。セゴレーヌが「右傾化発言」している折、「対立軸」を出すいいチャンスです(お隣のイタリアでもプロディ左派政権ができたことですし)。私は右派であれば、一貫して「シラク・ドビルパン」ラインの支持ですが、サルコジのマスコミ懐柔が上手いのか、ちょっと彼らに対するバッシングがひどいですよね。そうした論調を受け売りする形で、最近も産経のパリ特派員の山口ナントカというオバハン記者が「サルコジゴマすり、シラク・ドビルパン叩き」の記事を書いてましたけど(まあ、そういう無難な記事さえ書いていれば、読者からも本社からも文句を言われない)、いずれにしてもシラク時代が長いんで、それに対する国民の「飽き」もあるのかもしれませんね。そうすると、「シラク後継」という彼のポジショニングがちょっと損な役回りになっているかもしれません。ただ、目的のためには手段を選ばない、あのコウモリ男の首根っこを押さえつけるためには、多少、カネで汚れていても、シラクぐらいの「腕力」がないとダメですね。それゆえ、私の理想形は右派が勝つのであれば、「シラク3選・ドビルパン首相、もしくはドビルパン大統領」(負けたサルコジはもちろん閣外追放、党首クビ)で、左派が勝つとすれば、ズバリ、「ギグー大統領」です(笑)。たぶん、彼女もユニヴァーサリストだと思うんですが。
サルコジ移民選別法成立
内容的にはこっちの方のような気がしますので、おしゃべりルームの方に書きますが、今朝の新聞の外電面で東京新聞だけが、例の「サルコジ移民選別法案、16日夜に上院で可決、成立」と報じていました(たぶん、他紙は特落ち?)。そもそもこんな重要なニュースを打電しない他紙の特派員は「寝ている」としか言いようがありませんが、それはともかく、何と同じ日、ドビルパンはモン・サン・ミッシェルの例の堆積土砂の大除去工事の起工式に出ていたとのことです<毎日のヒマダネより。しかし、サルコジも一連の裏金スキャンダルで、シラク・ドビルパンのラインを揺さぶっておいて、その最中にサクサクとこんな法案を成立させるとは、まあ、ケンカだけはうまいですね。そっちでの法案審議がどういうふうになっていたかよくわかりませんが、手早く纏め上げたなあ、という気がします。バカンスに入る前にさっさと処理しようという腹だったのかもしれませんね(笑)。ただ、下院で通過した原案よりは、上院でだいぶ修正が加えられたとのことですが、そのへんの細かいところは法案の原文が手元にないので、よくわかりませんが。ただ、竹下さんも含めて、ユニヴァーサリストはこういう動きに対し、きちんと批判の声を上げないとダメですよ。大統領選が近づいてきている今、声を上げないで、いつ、声を上げるのか、という気がします。例のセゴレーヌの「極右発言」とも合わせて。どこか、その「サルコジ的なる発想」(=アングロサクソン的コミュニタリズム)に媚びてますよね。
批判してますよー
みんな批判してますよー。しかも連立与党のUDFやヴィルパン派もサルコジに批判的なので、彼も結構ニュアンスを変えたんですよ。でも、この前私が書いたような「ねえ、みなさん、フランスだけが無制限に世界中の不幸を引き受けるわけにはいきませんよね」云々のル・ペン風のサルコジ節は、彼は、TVのニュースとか特番に出てきては、直接訴えてきてたのです。ポピュリストの面目躍如というか、国会より何よりまずフランス公民さまのために、というより根回しがうまいんです。そこですでに反対派の言い分を出させておいて、それを考慮して一部修正したり折り合いをつけたりするから、という柔軟なとこまで見せてるわけです。
セゴレーヌといえば、今まで社会党は教育とセキュリティはあまりタッチしなかったんです。労働問題画社会党で教育とセキュリティは保守という棲み分けがあったんですね。それが社会党の弱みにもなっていたのです。セゴレーヌが過激なことを言い出したので社会党のお偉方はあせっていますが、これで、セゴレーヌは、社会党の操り人形でない独自のオピニオンを持っているということで、むしろ信頼感を得ているようです。セキュリティの問題は確かにサルコジお得意の分野なので、セゴレーヌが口出ししたのは、むしろ、浮動票をサルコジから奪うという意味では悪くないと思うんですが。
サルコジ・ユーゲント?
昨日の朝日の外電面で、UMPが党員をこの2年で倍増させて、23万人を突破したという記事が出ていたのですが、そこで妙に引っかかったくだりがあって、それは「(党首の)サルコジを慕う若い世代が大量に入党し、サルコジの選挙マシーンとなっている」という部分でした。まあ、こうした「党員数」がどれほど実勢を反映しているのかわからないし、いまのフランス社会の空気も、日本にいるとイマイチ感じることができないんですが、妙にそこに「サルコジ・ユーゲント」の臭いを嗅ぎ取るというのは、私の勘ぐり過ぎですか。ヒットラーのナチスにせよ、毛沢東の中国共産党にせよ、今の北朝鮮にせよ、「独裁組織」には必ず「共通項」があって、その一つがこうした「ユーゲント=紅衛兵」で脇を固めることなんですよ。そのサルコジのじつにコウモリそのもののポピュリストぶりとも合わせて、相当、トンデモないオッサンじゃないかという感じがしているんですよ。それと、セゴレーヌの「治安問題」のスタンスに関していうと、英国・労働党のブレア政権を見てもわかるように、お隣のアングロサクソンでは、とうの昔に「左派=人権擁護路線」という図式は崩れているんですよ。ただ、私はそうした「治安」に対する根本政策は、その党というより、政治家としての基本理念や方向性が如実に出るような気がします。シビアな言い方をして本当に申し訳ないのですけれど、その「批判のコトバ」があまり伝わってこないというより、それ以上に琴線に触れてくるものがないんですよ。それは私の勘ぐり過ぎでしょうか。
それと、もう一つだけ
それともう一つだけ、竹下さんが「フランス語・文化」の方で、「移民法」のところで書かれていた、「優秀な人にフランスに来てもらいたい」というくだりですが、私はすごくここの部分が引っかかるのですよ。例えば、マグレブとか、フランスが旧宗主国だったところの移民は、ジダンのようにフランスのプロのサッカーチームで通用する「人材」なら、フランス国籍を与えましょう、ということですよね。結局、それこそが「差別」であって、ユニヴァーサリズムの価値観にもろ、反しているんじゃないですか。その根底にあるのは、ダーウィニズムに端を発する「優生思想」そのものじゃないですか。特に、ナチスの時代なんかは、ユダヤ人とともに、そうやって障害を持った人も「抹殺」の対象となったではないですか。私は今度の「サルコジ移民選別法」に、そういういやな臭いを確実に嗅ぎ取っています。要は、「金銭的な儲けを生み出さない存在は切り捨ててよろしい」ということであれば、障害者であったり、子供、高齢者といった「弱者」や「マイノリティ」が存在できる場が、社会からなくなっていくではないですか。何で、そういうおかしな動きに、毅然として「ノン」を突きつけないのか、私は不思議でしょうがいのです。サルコジ的発想に媚びているセゴレーヌも含めて。「サルコジ、あなたのやろうとしていることは、間違っている」。なぜ、この一言が言えないのか。「批判をする」というのは、日本の大新聞の社説のように、わけのわからないどうでもいい「総論」をごたごたと並べるのではなくて、個別具体的な批判対象に対して、「コトバという刃」をきっちりと突きつけることではないのでしょうか。私はそれが「実践」ということだと思いますし、もっと言えば、「実践なき思想はゼロに等しい」といえるのではないか、と思うのですが。
あれこれ
18日に生徒たちの発表会、私もちょっとヴィオラとを弾いたりトリオで弾いたり、その後21日、夏至の音楽祭で、夜11時から12時までのコンサートを受け持たされたので、いろいろ大変で、返事すぐ書かなくてすみません。あれこれ更新もしなきゃ。昨日はそのコンサートのヴィデオを見て打ち上げをやりました、夜11時からのコンサートというのは初めてで、前日の同時刻にうちで練習しようと思っていたのに、疲れてパスしました。でも私のピアノの生徒である照明技師エリックが、パリのコンセルヴァトワールから照明を借りてきてくれて、その据付に一日中費やしたのを見て、ちゃんと弾かないと申し訳ないと、がんばりました。とにかく、「燭台のコンサート」のイメージで演出したので楽譜の明りが暗く、鉛筆で書き込んだ指使いの数字とかが見えにくく、そのストレスの方が大きいでした。
昨日は日本ブラジル戦をTVで観て、今日はフランス−トーゴ戦です。フランスも日本も、最後まではっきりしない似たような状況で、何かがっかり。でも18日の発表会で、弾いた小学生の男の子たち(フランス人)は皆ブラジルとかイタリアとかスペインのチームのシャツを着てましたから、子供は正直、とにかく「強いものが好き」なんだなあと思いました。彼らには、98年のフランスが強かった熱い夏の記憶なんてないから、「今強いもの」にあこがれるんですね。健全かも。
昨日の日本ブラジル戦の初めは、フランス人の解説者が何度も、96年のオリンピックで日本はブラジルに勝ったことがある、と繰り返していました。フランスチームが情けないせいか、「弱者に優しい」雰囲気でした。でもここで敗退するなら、ブラジルと戦えて、しかも先取点を奪えて日本はラッキーだったかも。ワールド・カップでブラジルと戦え、しかも、ブラジルはもう決勝リーグ進出が決まってるから、主力選手を休ませて消化試合に徹してもいいところを、ちゃんと本気で戦っているので気持ちがいいでした。政治的にも経済的にも問題山積みの国が、サッカーで圧倒的に世界に君臨できて世界中から認められているのですから、彼らにとって、一つ一つのゴールが同胞に捧げる国の尊厳や、何かスピリチュアルなものと関わっているのかもしれません。
今日のトーゴは内的にも問題を抱えていてぼろぼろなので、フランスがちゃんと戦えるのが筋ですが、2002年からずっとなにか負け癖がついてて監督と選手もまとまってないので、どうなるか分かりません。負けたらさぞや散々叩かれるでしょう。最近ヴィルパンらもサッカーを話題にして受けを狙ってたのでつらいところでしょう。ヴィルパンといえば、議会でオランドに「卑怯者」といって、翌日謝罪する羽目になりました。
それで、サルコジ批判ですが、そう簡単ではないんですよ。前に書いたように不法滞在の未成年の扱いに関しては、すごい勢いで世論から反対されて引っ込めましたが、他の件については、これまでの無策をカバーする必要性があることと、ちょっと分かりにくいかもしれませんが、サルコジは、彼なりにユニヴァーサリストで、その理念とつかず離れずという感じで泳いでいるんです。その抑え方がうまいので、その線だけで弾劾することは困難なのです。カトリックだということもあるせいか「フランス風ユニヴァーサリスム」の正統的言辞を完璧に語れる人なんです。まあこれについてはまた次にゆっくり書きます。日本のみなさんがこれをお読みくださる頃はフランスの運命も決まっていることでしょう。
二元論の誘惑
私の会社の同僚に、人の悪口を言うのが好きな人がいます。竹下先生の『Noと言える国』の中で、”二元論の誘惑”というのが出てきて、「二元論は誘惑的に働く、それはしばしば権力の誘惑であり、二元論の誘惑にさらされながら、悪は「絶対悪」でなく人間の自由意志に向けられた試練であり克服すべきものであるとする・・・」という箇所があります。
悪口を言っている同僚を見ながら「この人も二元論の誘惑に負けたのだろうか」とふと思いました。
誰かを悪と定めて、自分を善とすることは単純に気持ちいいことなのかもしれません。同僚の場合は権力の誘惑とは言えませんが、ある種の力ではあるでしょう。自分の方が絶対的に上なのだということを他者に知らしめたいということからくる行為なのかも。もちろん本人は無自覚ですが。
ちょっと思いついたことをつらつらと書いてみました。。。
話は、変わりますが、小説の『ダヴィンチコード』読みました。
正直言ってこれが世界で大ヒットした理由がよくわかりません。
ミステリーとして面白くなくはないし、テンポ良く進行していって、ちょっとした謎解きも用意されていて。
まあ二塁打ぐらいの感じは確かにあるんですが、心理描写も特になく、日本のミステリーの方がずっと面白いです。
なんだかインディジョーンズを小説で読んでいるような感じで、読んでいて、うまく作れば小説より映画の方が面白いのではないかと思いました。
本が売れたのは営業上の戦略が成功したというのもあるんでしょうが、キリストとダヴィンチというのが、キリスト教世界の人々には受けたんでしょうか。キリストの隠し子とか、ダヴィンチがキリストに関しての暗号を残したとか、私はフィクションとしてしか読めませんでした。状況設定がハリウッド映画っぽいし。ひょっとしたら真実も含まれているのかもしれないけど、たぶん大方の日本人にとってこれは小説でしかないでしょうね。
この本がヒットして、そして映画が上映中止になったところもありますが、それが不思議な感じがいたしました。
フランス人とサッカー
フランスはなんとか2−0でトーゴに勝って、決勝リーグに進出しました。韓国と引き分けの翌日は、新聞の一面に「NUL」(Match nul=引き分けと「最低」をかけている)や、「絶望的」「われらを失望させる」などなど、すごく糾弾の見出しばかりで、今日はどんなだろうと楽しみにしていたら、「どうにかこうにか」や「やれやれ」みたいなタイトルでした。日本の新聞は見ていませんが、負けてももっと親切だと思います。
98年に優勝した時はチームが黒人、アラブ系、白人とバランスが取れていたので共和国ユニヴァーサリズムのシンボルみたいに言われたものですが、それ以来、町に黒人の数がどっと増えたのを反映して、チームの黒人率が増えました。98年のプチのようないわゆる典型的なフランス名は皆無です。それで、2度の引き分けの後、「典型的フランス人」たちがあまりにもチームに冷たいので、「あんたたち、ひょっとして、ナショナルチームのことを傭兵とか外人部隊みたいに思ってない?」と聞くと、「その通り」と本音を吐く人が何人かいました。だから弱いと平気で批判できるのです。「自分たち」は傷ついてない。オリンピックでも、勝つと、関係ない人でも自分が偉くなったように昂揚するのはどの国でも似てますが、負けた時の反応の方がお国柄によって異なるようです。
昨日のトーゴ戦の前、TVでもラジオでも、「トーゴさん、もう負けてるんですから、フランスに勝たしてやってくださいよ」とか、「トーゴと取引して負けてもらえばいい、金を渡せば簡単さ」とか、ジョークにしてもあまりにも情けない、君たちには誇りというものがないのかフランス人、といいたくなるようなコメントが飛び交ってました。とにかくとってもシニカルで、勝つ時は熱くなるけど負けたら「ぼくの価値とは関係ないもんね」風になるのがフランス的です。愛国心がどうというより、また外人部隊というより、闘犬とか競馬のイメージ、チームは選抜され訓練された犬や馬で、国民はそのオーナーみたいな態度というのが近い気がします。まあ、現実にはそれぞれの選手は月収何千万円という高所得者なんですから、勝敗次第で庶民にどう扱われてもそれもメチエのうちかもしれませんが。
サルコジについてのいろいろな世論アンケートがフィガロ・マガジンに載ってたのでさっき買ってきました。今から読みますね。
『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝説の虚実』の感想もどなたかお知らせくださいね。
サッカーとユニヴァーサリズム
しつこいようですが、サッカーネタです。あんとに庵さんの今日のブログにこんな記事がありました。
『 某所で某知り合いがこんな意見を述べていた。と言っても閉鎖されたところなので引用するわけにはいかないので大意。
GNPが世界第二位の日本が敗退して喜ばしい
サッカーのワールドカップは最貧国が活躍出来る場だからGNPが20位までの国は出場出来ない方がいい。
なんじゃ?こりゃ。
あまりにも酷い意見なんで、悪いけど、ここで反論させてもらう。
これはものすごい差別意識としか思えん。
金銭の多寡関係なしに南米や中南米の選手が強豪として君臨しているという現実はどうよ?彼等は足の蹴りっぷり一つで王者とか神様とか言われ尊敬を集めている。サッカーってなぁボールがありゃ出来るスポーツでもある。で、すごいヤツらがゴロゴロしてるサッカー世界に「経済的ハンデがあるんだから」などと「配慮する」ってのは、彼等に対するものすごい侮辱である。
久々に怒髪天を突いてしまった。
こんなくだらない意見を吐くな馬鹿もの!!!!!!!!!
ヨーロッパは確かに先進国が多くGNPが高い。だからサッカーが強いのか???ああ?
いやね、わたしゃ球転がしには詳しくないですよ。だから間違ってるかもしれないけど、大雑把な感覚でもおかしいと思うよ。サッカーってなぁヨーロッパの伝統的な球技で歴史が長い。つけ焼き刃なアジアとかアメリカとかオセアニアとはわけが違う。もうサッカーは彼等のアイディンティティであったりするわけで気合いの歴史も違っていたりする。だから強いのは当然でしょうよ。サッカーてなぁ彼等ヨーロッパ人の歴史文化そのものであるんじゃねーのかい。で、そこに南米というヨーロッパの伝統を受け継いだ新たな国々が闘いを挑んで君臨してくるようになった。「王者」はイギリスでもイタリアでもフランスでもなく常にブラジルに冠して言われるように。すごいよなぁ。南米の人々。植民地の反撃を球転がしで返したと。
で、いまや中南米の国々から、或いは東欧の国々はもとより、アフリカから優れた選手が沢山出て来るようになったし、彼等はサッカー文化の歴史の長い欧州の国々で活躍し、そこで力をつけ本国の誇りとしてW杯に臨んでいるという感じだしょ。ヨーロッパ人は強い選手なら出自関係なくどんな人種だろうが称賛する。ダメな選手はこき下ろすだけだ。それは他のことにも言える。芸術でもそうだ。優れた人物は出自関係なく認める。そういう土壌がサッカーワールドカップを支えてきたわけでもあるだろうよ。
金銭とかそういうことで物事を測る意識なんか関係ない。彼等は「サッカーをする俺」に誇りを持っているわけでその出自など関係ない。そういう世界に対し「最貧国だから配慮しろ」ってのは見下した物言いだ罠。
そういう価値観の人々が生きている世界にGNPがどうたらとか。。。もうね、あほかと。
村上ファンドみたいなアホ経済上下脳思考はやめてくれって感じ。
腕一本で生きようとしている人々(スポーツ・芸術・言論)が造る文化への侮辱でもある。
あまりにも怒ってしまったので、某所で反論すると荒れそうだし、嫌がる人が多数いそうなんでここに書いたが、ここ読んでいて反論したいならどうぞ。』
以上です。私はもちろん、逆差別反対、ユニヴァーサリズム擁護論者なんで、この意見には賛成なんですが、ワールド・カップがそういうユニヴァーサリズムの花開く場所だとはあまり思ってません。ていうか経済大国が参加しなければワールドカップは経済的に成り立たないし。ちょうど昨日のフィガロにこういう記事が載ってました。エリック・ゼムール記者。意訳します。
『「お客様は神様です」
分かった。一瞬で全てが分かった。木曜夜のニュールンベルクのことだ。ドイツ人審判がガーナ=アメリカ戦で、アフリカの最強選手エシアンがアメリカのキャプテンにごく普通のタックルをしたのにイエロー・カードを出した。これによってガーナの天才エシアンは決勝トーナメントの第一試合を戦えなくなった。このことで、我々は、サッカーの神とその秘密の宗教は審判という大司祭を擁する「不正義」だったと分かったのだ。
審判はコート・イヴォワールのドログバがシュートした時にオランダ選手が腰をつかんだのを見なかった。スイス選手がトーゴ選手にした明らかな反則も無視。フランスのヴェイラのシュートが韓国のゴール・ラインの後ろに入ったのも見なかった。(・・・)
しかし「不正」によるいかづちは、神の制裁と同様、偶然に与えられるものではない。いつも、より弱いものが打たれ、強い者は守られる。ワールドカップの経済利益に鋭い自覚を有する不正なのだ。現世的不正である。
1982年、セヴィリアで、ドイツのGKがフランスのバチストンに突撃した時、審判は微動だにしなかったが、2000年のヨーロッパカップで、ポルトガル選手がジダンに軽く触れただけで、ジダンはフリーキックの機会を与えられて決勝進出を果たした。フランスが98年に世界チャンピオンになっていたから、審判の見る目が変わったのだ。
1966年のイギリスでのワールドカップでは、イングランドへの肩入れが目にあまり、78年のアルゼンチンもひどく、2002年には韓国が助けられた。FIFAにとってはお客様が神様なのだ。FIFAがサッカー場にラグビーのようなヴィデオ・アシスタンスのシステムの導入に抵抗する理由がよく分かる。ヴィデオ判定がされればサッカーはその毒ある魅力を失うに違いない。」
という感じです。つまり、中南米のサッカー大国は、GNP的には弱小国化もしれませんがサカー連盟の顧客リスト的には、経済効果絶大で、神様のようなもの。要するに金には国籍がないというか、金を生むところが優先されるという、全く他の世界と同じ普通の金の論理が働いているわけです。GNPの小さい国が強いという全くのサクセスストーリーでもなければ、実力主義のユニヴァーサリズムの理想郷でもないんですよね。
世界の強豪サッカー選手で、自国のリーグだけを渡り歩いているのはイタリアとサウジアラビアだけということも読みました。サウジは、自国のトレードが600万ユーロ(9億円近い)というので他国は手が出せないそうです。アラブ首長国連邦は、自国チームで戦ってくれる強いサッカー選手には国籍上げます(しかも税金なし)と公式に呼びかけて、FIFA が国籍に関する規定を厳しく変更したほどなのも記憶に新しいです。
しかし、ワールドカップやオリンピックって、国民性はもとより、世界の地政学や経済学についていろいろ考えるタネをもらえる貴重な機会です。
いやぁ
お恥ずかしいです。友人がいつになくとんでもないことをいい出したんで思わず突っ込んでしまったのですが。
。。。。で、
経済の理論による偏向が例えば審判の判断において為されているだろうというのはなんとなくあるのかな?どうなのか?この辺りは判らないのですがサッカーに詳しい友人がここを読んで、幾つかに於いてはそれは違う。ゲームの流れとしての判断だろう。と言ってました。それはサッカーに熟知している人の論理で私は説明を受けたのですがよく判りませんでした。
ただ、韓国戦に関してはあきらかに韓国が気の毒だといってましたね。でも韓国は前回のイタリア戦のことがあるから同情はしないし、全開の韓国イタリア戦もイタリアも以前似たようなことしたから同情しなかったといってました。因果応報だ!と言ってましたね。ズルをすればどこかでやり返されるだけ。それ以上に実力に左右されるのがサッカーなんだから。と言ってました。笑)
作品のスタイル
フランスでは、日本チームはテクニカルだが体力や体格で劣ると言われてました。そういう時、私は、「日本では体格体力に優れたスポーツマンは国技の相撲に行くから」と言うことにしてます。そうするとフランス人は何か納得します。昔は「野球に行くから」と、まっとうなことを言ってたのですが、相撲の方がインパクトあるかなあと思って。モンゴル勢などに牛耳られてることは知られてないので無視。
ええと、ブログの方にコメントした絵の購入基準ですが、寝る前と起きた後に目に入るというその基準は、買うときの話で、創るときには別の基準を私は採用してます。ある日本人の彫刻家が、技術がどんなに上がっても自分のスタイルを見出せないと悩んで、師匠のハンガリー人彫刻家に尋ねたときの話です。その師匠は、見た目がどんな違うものを作っても、どれもひと目で彼の作品だと分かったので。彼の答えは、「僕はどの作品を創るときにも、ひとつの状況設定をする。それは、地球が壊滅して、地球人の生き残りが遠い星に移住をするという状況だ。そこに持っていける彫刻はただひとつで、そのタイトルは《地球の生命(=ライフ=生活とも訳せる)》というものだ。どんな小さなものを創るときもそういう設定を信じて創る。それが僕の署名なのだ」というものです。
それ以来、私も、何かを書くときや、コンサートを開く時、そういうことを漠然と考えます。遠くに旅立つ人に最後に聞いてもらえるもの、読んでもらえるものだと少し想像すると、どれもおろそかにできません。残った作品、そういう意気で仕上げてみてください。楽しみです。
一回性
芸術だと特に、一つ一つに精魂込めて、という感じがあるでしょうけれど、普通の暮らしも人とのお付き合いも、どのひと時もユニークなものですよね。人については、「一期一会」という素敵な言葉がありますね。大量生産でない、どれも同じ、というのではない一日一日を、人との出会いを楽しみたいと思っております。
さて、先日、市の図書館で「聖骸布の仔」を借りて来ました。でもねー、まだ読み終わっていないんです。訳文がとてもこなれていて、違和感なく、すいすいと読めるのですが、分厚い!一緒に借りた薄い本(トーベ・ヤンソンの「島暮らしの記録」と、露伴の孫の青木玉さんの「着物あとさき」)は読んでしまったのですが、うーむ、コヴラルト先生のはまだ道半ばでする。その上に、「プチ・プランス」のテグジュペリの本も、「夜間飛行」と「人間の土地」は、堀口大学の訳が良いですよ、と勧められたのにも、手をつけたので・・・・。
いろいろ
『聖骸布の仔』、『ダ・ヴィンチ・コード』の長さに対抗するためにはある程度の長さがあった方が存在感があるかなと思ってたんですよ。私も最初10日くらいかけて読んだ気がします。今まで直接感想をいただいたのはMLの女性一人です。YKさま。
「竹下様の翻訳された「聖骸布の仔」を読みました。
科学の進歩と政治の世界、権謀術数をからめ見事に組み立てられて、ロマンスでもあり最後にいたるまで、最後に更に心地よく読み勧める作品と思います。ダビンチコードは最初の数ページでいつもの冷酷さを感じ、又後で読みましょと投げ出しましたが、こちらは素直に読み終えました。」
ということでした。FUSAKOさん、読み終わったらまたご感想ください。
昨日、W杯でフランスはブラジルに勝ちました。夜の3時ごろまで、爆竹が鳴ったりクラクションで外がやかましいでした。ブラジルにはよく勝ってるみたいで愛称がいいんでしょうね。火曜のスペイン戦では、スペインのサポーターが、フランスの黒人選手に対して、猿の鳴きまねをしたことで問題になりました。確かに、他のヨーロッパチームはいかにもネーションというか、ゲルマンやラテンやアングロサクソンのがヨーロッパを住み分けてきた部族の代表のような面がありますが、フランスはもともと部族混在妥協の地であったことと、ユニヴァーサリズム同化主義のせいで、チームは今やほとんど移民の子孫、黒人が目立ち、トーゴ戦など、ユニフォームがないと遠目にはブラックアフリカチーム同士の戦いみたいでした。98年の時にはキャプテンのデュシャンとかプチとか、いかにも土着フランスっぽいスター選手がいましたが、今は・・・それで、一次リーグ突破前には、フランス人はできの悪い傭兵チームを見るような冷たい視線でした。しかし、他国人から見ると違って見えるようで、朝鮮日報のコラムにこんなのがありました。http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/06/27/20060627000031.html
【W杯コラム】韓国のゴリ押し、フランスの余裕
「老いた雄鶏」再考
ドイツ・ワールドカップサッカー大会で韓国とスイスの試合が行われた23日夜(韓国時間24日未明)。パリにある韓国大使館は門戸を開放してフランスにいる韓国人たちにサッカー中継を公開し、応援の場を提供した。さらにフランスの警察に届け出をし、「夜遅くまで騒々しいだろうが了解してほしい」と近隣の建物に了解を求める手紙も送った。そんな在仏韓国大使館にはパリに住む居住民・留学生・旅行客らが1000人以上集まった。一方、韓国大使館と道ひとつ隔てた所にスイス大使館もあったが、そこはこうした応援の場を提供していなかった。
韓国サッカーの「12番目の戦士」たち。韓国内でも、海外でも11人の選手を応援する韓国人たちは全員、選手と同じくらい試合に気合を入れ、この熱い思いが再び2002年の奇跡をもたらすと信じていた。
だが私たちのワールドカップは終わり、12番目の戦士たちも、もうその情熱を鎮めるときが来たようだ。
4年前に韓国で見守ったW杯と、異国の地で見たW杯の感慨は違っていた。フランスで暮らしながら韓国対フランス戦を見ることになり、「痛快に打ち負かしてほしい」という気持ちが誰よりも強かった。これまで、私個人がフランスで感じた憤りを、韓国代表がフランス代表を打ちのめすことでスッキリさせたい、という期待があったからだ。
しかし、このような期待に気まずく、また恥ずかしく感じさせられる状況を何度も目にした。韓国対フランス戦が終わった翌朝、フランス代表のベスト16入りが不透明になっているのにも関わらず、このニュースを伝えるフランス人ニュースキャスターの表情は全く暗くなかった。喜び勇んで歓声を上げる韓国人の姿を、にっこり笑って伝えた。おそらく韓国のニュースキャスターが笑いながら自国チームの不利な状況を伝えようものなら、インターネットにはあらゆる罵詈雑言や非難があふれるだろう。
韓国人がW杯でトーゴという国を知ったように、フランスでは韓国に対する関心や理解がW杯をきっかけにいっそう高まった。「中国人? 日本人?」と聞かれて「韓国人」と答えると、「ああ、そうだったの」と親しげに微笑み、さらに話かけてくる人々が韓国対フランス戦以降、急に増えた。
それから数日後。韓国人がため息交じりに韓国対スイス戦を見守っていたころ、世界最強の実力を持ちながらずっとW杯で勝てなかったために「年老いた雄鳥」と嘲笑されていたフランスは、トーゴを破ってW杯ベスト16入りした。韓国にとっては一試合一試合、薄氷を踏む思いで経過を見守っていたにもかかわらず、突然「ニワトリを追いかけていたのに、屋根に逃げられて眺めるしかない犬の気持ち」になってしまったのだ。
不振でもたついていると批判されても、やはり年老いた雄鶏が恐かったのは、いつでも軽々と屋根の上に飛び上がる実力を持っているからだ。フランスとの引き分けで沸き返えった韓国人を見て微笑んでいたフランス人キャスターも、勝負にはあまり執着しない様子だった街のフランス人たちも、みな実力があるからチャンスは今でなくてもモノにできるという自信や余裕から出た態度だったのだ。 (・・・)」
という感じです。でもこれって絶対穿ちすぎ。自信や余裕でなくて、自虐とシニカルな態度で、そこに、「外人部隊の不手際だから・・」という差別的責任転嫁が少しという感じでしょう。それをスペインのサポーターなんかはもっと抑圧せずに出してて、「ヨーロッパ同士の戦いにアフリカが出てくるな」みたいな人種差別だったのです。ジダンに対しての帰れコール、マルセイエーズの演奏中や選手名発表中の野次もすごいでした。そして、フランス人はそれに対して、あまり反発せずシニカルに見ていました。自分たちの中にも差別感情があって、しかしそれを表に出せないからでしょう。イラク戦争の時にアメリカからヒステリックにバッシングされても、この立場しかあり得ないんだからしょうがないと我慢してたのも似てます。
それで、思いがけなくスペインに勝ったものだから、「外人部隊」はたちまち「フランス共和国軍」です。みんながご機嫌なものだから、次の日から空気が変わりました。黒人やアラブ人とすれちがっても、ヴェイラやジダンの親戚に思え、不法移民の子のデモだって、この子達の中から未来のヴェイラやジダンやマケレレが出てフランスに栄光をもたらすかも、と思われてるような感じです。(私は、日本が中国での先のサッカー・アジア杯に優勝したとこを日本でTVで観てひとり盛り上がったんですが、翌日町の空気が全然変わってないのでがっかり。野球のW杯の時は盛り上がったんでしょうか?)
快進撃のドイツではちょっとゲルマン・ナショナリズムが心配な状況なようで複雑です。イギリスがポルトガルに勝ってたらなんか準決勝はなんか第二次大戦みたいになってたかもという人もいました。結局、準決勝はフランス・ポルトガルになり、フランスの移民の第一はポルトガル系で、どちらかというといい関係です。いや、最初は差別されてたんですが、アラブ・アフリカ系が増えたせいとヨーロッパ連合のおかげで、相対的に家族になったんですね。その昔フランスのカペー朝がカステーリャ王を助けたので、お礼にポルトーとその周辺を分けてもらったのがポルトガルの発祥で、カペー朝は結構長く続いたとかいう因縁もあります。でも、ブラジルはポルトガルの旧植民地だったわけだし・・・もしフランスとドイツと決勝戦ということにでもなれば、アーリア民族対移民見たいになるかと心配です。ベルリンに住んでる日本の音楽家のブログによればスキンヘッドの人は同じマンションの住民でも挨拶もしないとか、黒人は、怖くてネオナチの多い町を歩けないとかありました。フランスでは黒人が怖くて町を歩けないよね、と友達と話しました。
でもドイツでサッカーが盛んになったのは炭鉱で働くポーランド人移民から来たのだとか、ババリア地方が牽引したとか言われてます。ポーランドもババリアもカトリック圏、カトリック教会が青少年にサッカーを奨励したとも言われてるし、宗教地図も面白いですね。スタジアムにはその宗教の人も祈れるようにチャペルがついてるそうです。もっとも、本当のチャンピオンたちは、「ゴールを決めたいとか勝ちたいとかいう祈り方をしたことはない」といってます。無理と分かってるのでしょう。きっと、最後まで実力を出せますようにとか、事故や病気がありませんようにとか、最善を尽くせますようにとか祈るのでしょう。それが筋で、たとえば日本の神社の「合格祈願」なんて、サッカーでみんな勝てるわけがないようにみんな合格できるわけないのにちょっと変かも、と思ってしまいます。
読みました!
で、感想ですが、わたしは、キリスト教の云々ということよりも何よりも、ミステリー、サスペンスとして期待して読んだので、すみません、イマイチ物足りない感じです。ジミーがヒーローのはずだ、とか思って読むのが違っているのかもしれないんですけど、ジミーは、プールの清掃人とか設定は面白いと思うのですが、まじめに悩むまっすぐな人で「魅力的なヒーロー」では特にないような。
ただ、この主題をとりあげてがっぷり四つに組んでストーリーを作ること自体が大変だろうなと思いました。
わたしはミステリー・サスペンスは好きでけっこう読むのですが、魅力的な人々、わくわくするストーリー展開、を純粋に楽しめるものが好きです。「ダヴィンチコード」は、読まないうちに聞こえてくる声の中に、「キリスト教って実はこうなんだって」的なものが多くて、すごく下世話にくだけて言いますと「誰とかさんて、すましているけれど、実はこうなんですって」的な話が好きでないわたしは、結局それだけで読む気をなくしてしまいました。
読みました〜
「レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実」拝読しました。
とても中身の濃い本ですね!ひとつの章でそれぞれ1冊分ぐらいの知識を得た感じがしました。
お書きになっているように、私たちは最後の晩餐とか見慣れている気がしますが、実際ちゃんと見たことなどないんですよね。モナリザにしても、ルーブルで初めて本物を見たとき「案外笑ってないんや〜」と思いましたし。
サチュルヌスのお話も、ちょうど読んでいた本と呼応してとても興味深かったです。(ハドリアヌス帝の回想を読んでいたのですが、その中でハドリアヌスが「不吉な土星の運行にはいつも注意を払っている」という下りがあるのです)
そういう感じで「いや〜、この話おもしろいなぁ。また自分でもこれに関すること調べてみよう。」とか思って付箋を貼っていったら付箋だらけになって、まるで大量の宿題を前にしているような気になってしまいました・・・。
読み終わったとき、レオナルドダヴィンチは実は私たちが作り出した幻のような気がしてきました。レオナルドという人はいたけれど、彼について世間で喧伝されていることって、勝手に後世の人たちが作り出したものなんですね。
終章の「ルーブルで考えたこと」とってもよかったです。私はこれが読みたくて第5章までを読んだのじゃないかしら、という気がしました。ありがとうございました。
読みました・2!
わたしも「レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実」読みました(こちらは買いました)。
西洋の神秘思想の流れをダ・ヴィンチを切り口にとてもすっきり見せて頂いた、という感じがします。
でも、一番興味があるのは、なんといっても、ダ・ヴィンチってほんとはどういう人だったのか、ということですね。で、絵についてはいつも思うのですが、絵は実物を見ないとわからないですよね。音楽が、他者による再生を通してであるにもかかわらず、「わかる」のに比べて、絵は複製と実物とは全然違うといつも(実物を見たときに)感じます。ですので、ダ・ヴィンチの絵を見たことのないわたしには、ダ・ヴィンチはまだわからない人なのですが、竹下さんのご本では、彼は、バランスのとれた、多くのことに興味があり、有能だけれど、作るうえでも語る上でも多弁ではなかった人、でしょうか。
わたしが以前ここでちょっとふれた、アメリカの作家、カニグズバーグは、サライを主人公にした小説を書いていますが、そこでのダ・ヴィンチは、抑制のきいた、社会秩序に沿って暮らす人で、だけれど、描くものについては頑固さのある人で、描きたくないものはなんのかのと描かず、描きたいものは頼まれなくても描いた人、となっていたと思います。で、自由奔放で、貴族達の裏をかいてちょっとした盗みをすることなど悪と思わないサライの、伸び伸びしたとらわれなさを好んでいた、という書き方だったと思います。まあ、これはその作家がダ・ヴィンチの絵を見て感じたところがそうだったということなのですが。
わたし自身がダ・ヴィンチについてはわからないので、なんだか中途半端な感想になってしまってすみません。
再びいろいろ
今、聖ヨセフにおける父性の話を書こうとして、家族の歴史を調べてたら、3世紀ごろのイタリアでは、奴隷の子や単に可愛い子が愛玩用に売買されていたそうです。小さい子の声が聞こえると家が明るくなるし、我儘もまた可愛いと。私も近頃は猫で代用してますが、小さい子がわらわらといて騒いでいるホームの雰囲気が欲しくて、養子はあきらめましたが、小さい子を抱えた母子とかに同居してもらおうかなとか時々考えます。何か、レオナルドも、そんな心境で美しいサライを泳がせていたのかなあとふと考えました。ルネサンス時代も愛玩用の子供や小人を王侯は「飼っていた」のですから。孤独は受け入れたけれど、装飾と活力源として、若くてどうしようもない子供を必要としていたのかも。
『聖骸布の仔』の方は、この手のテーマだと、私はつい自分でも小説が書けると思ってしまうんですが、この小説に関しては、「私には絶対に書けない」であろう玄人業がふんだんにあって、脱帽しました。この30年で私が訳したいと思った第2の小説です。第1の小説もジャンル分け困難なすごく魅力的なもので、かってに挿絵まで描いたのですが、当時、サンリオSF文庫に版権をとられてしまいました。ぜひ訳させてほしいとサンリオに手紙を書いたのですが、返事がなく、出版はされましたがサンリオ出版もその後つぶれてしまい、がっかりです。今度めぐり合ったこの本は縁あって出させてもらえて幸せですが、テーマが重層的で中身が濃いので、いろいろに楽しんでもらってOKです。
W杯はフランスが負けたので残念でしたが、今日のル・モンドにイタリアの元大臣(ロベルト・カルデローニ)のコメントが報道されていて、それにびっくりしました。短いので訳しますと、「ベルリンでの勝利は、われらのアイデンティティの勝利、ロンバルディア人と、ナポリ人と、ヴェニス人と・・・らをひとつにしたチームの勝利だ。このチームが、結果を得るために自らのアイデンティティを犠牲にして黒人とイスラミストと共産主義者をひとつにしたチームに勝利したのだ」というのです。もうびっくりです。
はっきりいって、ああいう状態の選手もサポーターも、別に紳士的だと期待してないので、侮辱してもそれを頭突きで返しても、なんでもあり得ると思いますが、一国の大臣までになった政治家が・・・フランスチームの誰が共産党なのか知りませんが、それがどうした、としか言えません。イスラミストという言い方は、こちらでは今やテロリストと同義ですし、フランスチーム23人のうち8人、つまり3分の1以上が西インド諸島のフランス海外県出身です。旧植民地だとか奴隷の子孫とかいうより、ともかく現実に、本土ではないけれどもう先祖代々フランス生れのフランス人ということで、アメリカのようなアフロアメリカンのような感覚もありません。南米の仏領ギアナも含めて中南米文化としてサッカーが盛んなので、本土のクラブがスカウトしに行くわけですが、日本の相撲部屋でさえ有望な新人を求めてトンガとかモンゴルにスカウトに行くのですから、フランス本土のクラブが同じフランスの飛び地の優秀なフランス人を連れてくるのは不思議ではないし。
それをいうならミッシェル・プラティニだって、名からすると、明らかにイタリア系移民だと思いますが、100パーセントフランス人のヒーローでした。ただ、肌が黒いというだけで、何代も続けてフランスに生まれ育ちフランスの教育だけを受けたチュラムに、イタリア人がずっと猿の鳴きまねなどの差別言辞を浴びせてきたのです。それなのにイタリアのサッカー協会は見てみぬふりでした。
私も、実はひそかに、イタリアチームはいかにもシーザーやダヴィンチやメディチやガリレオの子孫みたいでかっこいいなあ、それに引き換え、フランスチームは、とてもルイ14世やデカルトやヴォルテールの子孫とは見えないからなあ、と文化的ネーションを捨ててエスニック・フリーの共和国を守ることのさびしさとかを感じてたんですが、イタリアの政治家がこんなことをいうなんて、これならアングロサクソンの偽善的なポリティカル・コレクトネスの方がよっぽどましですね。とにかく、フランスなら極右だって建前としての共和国主義は不可侵なので、こんなこと口が裂けてもいえません。EUは人権について同じ価値観を共有してるはずなのだから、こんなことを言う政治家はEUの人権法廷に訴えれば、と思ってしまいます。
そうすると、ルネサンスの文化人の子孫のように見えてたイタリア選手が、マフィアのチンピラみたいに見えてきました。文化の継承とは、血縁や見た目で決まるのではなく、理念や価値観や、絶えず更新される努力にあるのです。(考えたら、柔道や剣道や相撲で相手を挑発したり罵詈雑言を浴びせるなんて考えられませんね。競技中に罵り合うスポーツなんて・・・)まあ、ブラジル選手には少なくともそういうことはないでしょう(多分)。あそこまで混血が進んだ文化だと、少なくともエスニックのアイデンティティで差別しないでしょうね。読唇術の専門家によると、マテラツィがジダンに言ったのは「お前のおふくろがどうとか」というよくある下品な罵倒だったそうです。一度はやり過ごしたジダンが戻っていって頭突きとなったのは魔が差したのでしょう。 人類の祖先はアフリカから世界に広がったというのはもう定説ですし、みんなが類としてのよりよい部分を継承していきながら後世にも伝えていけばいいですね。
しかしW杯の度に各国のメンタリティの違いが観察できて興味深いです。世界は広い、でも、祭りの感動とかが共有できるのですから、世界に希望を持ち続けたいです。
こんにちは
13日から日本です。昨日はあんとに庵さんの個展の最終日にうかがいました。ワインの差し入れをしてくださった片桐様、18世紀の象牙のトラヴェルソを演奏してくださった朝倉さん、ありがとうございました。Le Lutinの解説読みましたよ。奥様美人でチェンバリスト、最高ですね。文章もすごくおもしろくて、楽しいです。フランス・バロックをやってる人に私のバロックの本を読んでもらってお話できたのははじめてで、幸せ。でもCDには19世紀音楽が好みってありました。フランスバロックを広めるために19世紀ものはちょいと控え目に、ね。平塚さんの話もとてもおもしろそうです。すでに「名物先生」なのでは?ギターの奏法とトロイボロジーについてとか話したいですね。またお会いしましょう。Fusakoさんともお会いできて嬉しいでした。今度あらためてお食事でもしましょう。こういう展覧会ではお一人ずつとはゆっくりお話しできませんが、楽しい時間と空間を共有できるということで、やはり特別です。フランスでは自分のアソシエーションや発表会やコンサートで友人を招待できますが、日本でも時々こうやってお友達皆とあえるといいな、と思います。
今から関西です。関西でも関西のお友達とお会いできるので楽しみです。
どうもありがとうございました
先日は素敵なひと時を有難うございました。
お忙しい中いらしてくださった先生、差し入れをしてくださったK様、F様、演奏をしてくださったA様はじめ皆様の素敵な暖かい空間を分けていただけて嬉しかったです。
いやぁ、プチ演奏会になって贅沢な時間を過ごしました。
関西での講演の成功をお祈りいたします。
気温が不安定ですがばてませぬよう。
お元気ですか
お聞きするまでもなく相変わらず元気一杯のご様子。日本でもご活躍で何よりです。
パリは、ご存知でしょうが猛暑で、外を歩けばオーブンの中を歩いているよう、と日本のサウナ状態との違いを感じ入ります。
こちらではサングラスでは伊達ではなく必需品ですね。
移民の問題、いろいろ勉強になります。こちらにいて新聞、ニュースがわからず周りで何が起こっているか知らない状態で、もうかなり感度が鈍くなっておりますが、多分テレビでやっているコマーシャル、あれってそれの里子のことだったんですね。
私なんて働きたくても働けない、ビジターの紙なしですが、こうした問題は興味深いです。
いずれにしてもフランスというところは懐が深いですね。
いつも日本と照らし合わせて考えてしまいますから。ま、いいことばかりじゃあありませんが。
先だっては、外から帰ってきて、家に帰ると、電気がなく暗いはずの風呂場から明かりが漏れているので見たら、なんと隣の部屋との壁がぶち抜かれて穴が開いていたのでした。つまりとなりの内装工事で間違って壁に穴を開けてしまったのでした。
もうどうしようかと思ったけど、まあ皆さんのお世話になって今ほとんど修理できました。
そして先日はまた、3週間前に現金で払ったはずの住民税が、郵便局の私の口座から再度引き落とされていて、青くなりました。大体、私の銀行口座番号を知らないはずの税務署がパリの金融機関をいろいろ調べて口座を見つけてしまうというのもぞっとしました。
これは税務署に支払い済みの紙を見せて、苦情を言いましたので何とかなりそうです。
でも恐ろしいです。
そして七階に住む私の真上の住人、新しい人で顔も見たことない人たちですが、先日月、火、水と続けて真夜中に騒ぎ、男女四人で夜中の3時過ぎてもうるさく、この暑さで窓を大きく開け放しているため、筒抜け状態でした。
三日目とうとう切れた私は、夜中の3時半に窓をドッカン、バッタンと大きな音を立てて閉めたのです。それからしばらくして静かになり、寝てくれたようなのですが、さらに私の反撃は次の朝、目覚まし時計は消さないで鳴らし続け、テレビを私自身うるさいくらいに大きくし、家を出るまでそうしてました。
利きました、効果ありです。今のところ静かです、、、、、でも顔をあわせるのが怖いです。
ジェシーノーマンいかれたのですね。私もこれはとてもいきたかった。過去に二回、日本とニューヨークで利いたことがあるのですが、もう一度今のうちに聞いておきたい歌手です。
お聞きするまでもなく相変わらず元気一杯のご様子。日本でもご活躍で何よりです。
パリは、ご存知でしょうが猛暑で、外を歩けばオーブンの中を歩いているよう、と日本のサウナ状態との違いを感じ入ります。
こちらではサングラスでは伊達ではなく必需品ですね。
移民の問題、いろいろ勉強になります。こちらにいて新聞、ニュースがわからず周りで何が起こっているか知らない状態で、もうかなり感度が鈍くなっておりますが、多分テレビでやっているコマーシャル、あれってそれの里子のことだったんですね。
私なんて働きたくても働けない、ビジターの紙なしですが、こうした問題は興味深いです。
いずれにしてもフランスというところは懐が深いですね。
いつも日本と照らし合わせて考えてしまいますから。ま、いいことばかりじゃあありませんが。
先だっては、外から帰ってきて、家に帰ると、電気がなく暗いはずの風呂場から明かりが漏れているので見たら、なんと隣の部屋との壁がぶち抜かれて穴が開いていたのでした。つまりとなりの内装工事で間違って壁に穴を開けてしまったのでした。
もうどうしようかと思ったけど、まあ皆さんのお世話になって今ほとんど修理できました。
そして先日はまた、3週間前に現金で払ったはずの住民税が、郵便局の私の口座から再度引き落とされていて、青くなりました。大体、私の銀行口座番号を知らないはずの税務署がパリの金融機関をいろいろ調べて口座を見つけてしまうというのもぞっとしました。
これは税務署に支払い済みの紙を見せて、苦情を言いましたので何とかなりそうです。
でも恐ろしいです。
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三日目とうとう切れた私は、夜中の3時半に窓をドッカン、バッタンと大きな音を立てて閉めたのです。それからしばらくして静かになり、寝てくれたようなのですが、さらに私の反撃は次の朝、目覚まし時計は消さないで鳴らし続け、テレビを私自身うるさいくらいに大きくし、家を出るまでそうしてました。
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こちらではサングラスでは伊達ではなく必需品ですね。
移民の問題、いろいろ勉強になります。こちらにいて新聞、ニュースがわからず周りで何が起こっているか知らない状態で、もうかなり感度が鈍くなっておりますが、いまテレビでやっているコマーシャル、あれってそれの里子のことだったんですね。
私なんて働きたくても働けない、ビジターの紙なしですが、こうした問題は興味深いです。
いずれにしてもフランスというところは懐が深いですね。
いつも日本と照らし合わせて考えてしまいますから。ま、いいことばかりじゃあありませんが。
先だっては、外から帰ってきて、家に帰ると、電気がなく暗いはずの風呂場から明かりが漏れているので見たら、なんと隣の部屋との壁がぶち抜かれて穴が開いていたのでした。つまりとなりの内装工事で間違って壁に穴を開けてしまったのでした。
もうどうしようかと思ったけど、まあ皆さんのお世話になって今ほとんど修理できました。
そして先日はまた、3週間前に現金で払ったはずの住民税が、(いつぞやはメールにていろいろ教えていただきありがとうございました)郵便局の私の口座から再度引き落とされていて、青くなりました。大体、私の銀行口座番号を知らないはずの税務署がパリの金融機関をいろいろ調べて口座を見つけてしまうというのもぞっとしました。
これは税務署に支払い済みの紙を見せて、苦情を言いましたので何とかなりそうです。
でも恐ろしいです。
そして七階に住む私の真上の住人、新しい人で顔も見たことない人たちですが、先日月、火、水と続けて真夜中に騒ぎ、男女四人で夜中の3時過ぎてもうるさく、この暑さで窓を大きく開け放しているため、筒抜け状態でした。
三日目とうとう切れた私は、夜中の3時半に窓をドッカン、バッタンと大きな音を立てて閉めたのです。それからしばらくして静かになり、寝てくれたようなのですが、さらに私の反撃は次の朝、目覚まし時計は消さないで鳴らし続け、テレビを私自身うるさいくらいに大きくし、家を出るまでそうしてました。
利きました、効果ありです。今のところ静かです、、、、でも顔をあわせるのが怖いです。
ジェシーノーマン聞きに行かれたのですね。私もこれはとてもいきたかった。過去に二回、日本とニューヨークで聞いたことがあるのですが、もう一度今のうちに聞いておきたい歌手です。
モンテベルディのオルフェも行ってみたかった。
音楽会にむけてのアンテナもちゃんと張っていないので、今残念だと思うばかりです。
なんだか近況をだらだらと書いてしまいましたが、今はアドレスも違うと伺ってますので、こちらにさせていただきました、私的でごめんなさい。
ますますのご活躍、ご成功お祈りしております。それではお体にお気をつけください。
http://8925teacup.com/babarde/bbs
近況
お久しぶり。Seikoさんの書き込み、途中バグっちゃいましたね。はじめ、あまりにも長そうなんでびっくりしました。でも最後まで見ないと、結語がでて来ません・・・こないだ、みなから、私の書き込みは長すぎる、掲示板で3行以上だと読む気がしなくなると言われたんですが、私より上手が?と一瞬思っちゃいました。
こちらはまだ梅雨明けしていないので蒸しますが、まあしのぎやすいです。こんなくらいの方が疲れは少ないです。
税務署は口座を調べる権利があるんですよね。でも、無断で引き落とすなんてはじめて聞きました。文句の手紙を書いたほうがいいですよ。私の帰る8月下旬にまだ解決してなければ助けられます。
日本はよく、四季がはっきりしてて美しいといわれますが、緯度が上がるほど、1年の太陽の高さと日照時間の差が激しくて、そのたび人生観を揺さぶられるほどドラマチックですよね。でも近頃の夏、パリはちょっと焼かれすぎ?ホントに「天火」ですよね。うちの猫たち、さぞや「A plat plat」(この表現ってよく考えたら字面を見たことないけど、多分こう? 体表面積を最大にして横になってる猫を見るとこれがぴったり、「だらーん」とはちょっと違うし)状態でしょう。
私は奈良女子大の講演を終え、翌日は奈良で10台しかない個人タクシー(京都は2600台とか)の堀内さんにいろいろ案内していただきました。東京の整体師だった堀内さんは奈良に講演にきたとき聖林寺の11面観音を見せてもらって感動し、その後奈良に移住されたユニークな方です。この11面観音の前って、アッシジのフランチェスコの聖堂のような「回心体験」のスポットなので期待して連れて行っていただきましたが、美術作品としての突出した「巧さ」の方に感動し、スピリチュアルな部分は私の中に潜行してまだ言語化して出てきてません。
奈良から帰って、歌舞伎座に泉鏡花特集を観に行きました。猿之助一門の若く美しいトリオが『夜叉が池』をやってるのが去年の朗読劇を思い出させて、興味深いでした。この中で村の人が、ヒロインに村の犠牲になれと強要し、愛国心とか、村のためとか武士道とか持ち出すのを聞いてると、共同体至上主義の誤りを鏡花が伝えたかったのがよく分かります。共同体と女性一人、どちらが大事かという軽重でなく、女性より強い「共同体」の強さとは、弱い人を押しつぶすためにあるのではなく、弱い人を助けるためにあるべきだという基本を見失ってはならない、ということですね。武士道だとか品格だとか愛国心とか、美学だとか伝統だとかいくら言っても、人間の共同体の中では弱肉強食は絶対ダメ、とあらためて思います。鏡花を観てここまで身につまされるとは驚きでした。鏡花といえば幻想文学の関心でしたが、フランスに鏡花の全集を持っていってるので、帰ったらもっと別の視点で読みましょう。『海神別荘』は宝塚の世界、玉三郎って、ほんとは宝塚でやりたいんじゃないかと思いました。ヒーローの台詞も宝塚なら違和感ないのに、海老蔵がやると学芸会みたい。もちろん海老蔵が下手だという意味じゃないです。むしろ海老蔵だから何とかなってる。ジェンダーのひねりでもないと無理ありすぎ? 8月に宝塚観に行くので、またトランスジェンダー演劇論の続きを書きましょう。
次の日は新宿の末広亭に寄席を見に行きました。フランス・バロック音楽におけるDeclamations のコンセプトと、日本の話芸との関係に関心を持っているので、落語は聴くものじゃなく、空間芸だと毎回思います。間、ずれ、トーンと強弱の変化、それらにストラクチュアを与える身振りとマイム。一度も落語をヴィジュアルで観たことがない人は、耳だけで聞いても脳で身体性を補えないでしょう。噺家が出てきて座るだけで、人間性が無防備に分かってしまう瞬間もおもしろいですね。
それで昨日は調布のサレジオ神学院に「トリノ巡礼」。ちょっと怪しい仲間を連れていったのですが、「トリノ」のみなさんにすごくよくしていただき、W杯でフランスがイタリアに負けたのも、もういいやと思いました。チマッティ神父の書簡集を3冊買ったので、もう数年あたためてるチマッティ神父ものの企画と、映像と連動した聖骸布ものの企画を具体化したいと思ってます。
今日の夜は文化会館にチェコの国立オペラかなんかの『ドラマチック・モーツアルト』とかいうのを観にいきます。文化会館久しぶり。
そんな感じで「日本で元気いっぱい」というより、猫がいないとひきこもり状態から解放されます。家猫数匹と暮らしてる人なら分かると思いますが、あいつらといると、ぐうたら昼寝することから自己嫌悪や罪の意識が掻き消えるので。そいでここでも、馬鹿みたいにPCでヴァーチャル猫の部屋を開けては遊んだりエサやったりしてる私って・・・
ではまた。暑い時は抵抗せず、のんびり適当にやりすごして、倒れないようにしてくださいね。Evianのアトマイザーを冷蔵庫に入れといて時々振りかけるのもいいかも。
ブルノ劇場のアマデウス
夕べの『ドラマティック・モーツアルト/アマデウス』はちょっと「??」でした。構成は凝っていて、チェコに来たときの11歳のモーツアルトの演奏会という感じで、カツラをつけた11歳の少年ピアニストが協奏曲と、トルコ行進曲を演奏、次に、リムスキー・コルサコフのオペラ『モーツアルトとサリエリ』の上演でモーツアルトが死ぬ。第3部がレクイエムで、モーツアルトへの鎮魂というストーリー性があります。
でも、最初から、少年がモーツアルト扮装で出てきたときから、映画ならともかく、なんか猿真似のようで痛々しく、18世紀の世界にいざなわれる、なんて気はしませんでした。次のオペラ、これが一番まともでした。そして、第3部、久しぶりにレクイエムを聴けると思ったら、頭巾をすっぽりかぶった白い修道服みたいな8人が蝋燭立てを手にして変な踊りをはじめたのです。しかも均質性がなく背の高さがボコボコで綺麗じゃない。それは実は修道服をとった後で、4組の男女ペアだったということで納得です。そのペアが、まるでフギュア・スケートの男女ペアみたいに、背の高さや大きさがすごく違うんです。こんなレクイエムで、ペアで踊るなよ、といいたくなるうっとうしさです。海神別荘の最後で海老蔵が言う「女の行く極楽には男はおらんぞ、男の行く極楽には女はいない」という台詞を思い出しました。ミサがすっかり近代化したフランスでも葬儀ミサだけは教会の中で男と女が左右に分けられたりするのも思い出しました。
一つのシーンだけ、モーツアルトの霊みたいな宮廷スタイルの男性ダンサーがペアで手と手を取り合って踊るんですが、それはそれで違和感ありすぎ。しかも二人のテクニックのレベルに明らかな差があって、それが目立つ。
悪趣味の極みはわざわざ棺を運んできたりその蓋を開けたりするところです。だいたい、フランス系レクイエムと違って、このレクイエムはバレー、しかもクラッシック・バレーには合わないです。さすがに『ラクリ・モーサ』ではダンサーたちもじっとしてましたが、最後のほうはごろごろ床に転がるコンテンポラリー風の振り付けだし、洗練されてなさすぎ。バックにスクリーンがあって映像や光の演出があるのだから、踊りはないほうがよかった、と思いました。できるだけ見ないようにしてたんですが。歌と音楽はよかったです。
贅沢で、サーヴィス精神旺盛で、変化に富んで、オリジナルで、楽しかったとも言えるはずが、少しずれると空疎になるのかとびっくりしました。会場で広告をもらった中に来年1月のベルガモ・ドニゼッティ劇場の『ルチア』があったんで、口直しに、帰ってからインタネットでチケット買っちゃいました。29000円なんて、今までで一番高価なチケットで驚きましたが。「引越し公演」という日本語が広告によく出てきて不思議でした、一部の出演者だけでなく全スタッフ丸ごと総出でやってくるという意味なのでしょうが、引越しというとその後日本に留まるみたいなので、変な表現です。30年前はこんな言葉なかったような。
シラクVSサルコジの亀裂
昨日ですか、サルコジが不法滞在難民1万数千人の国外強制退去を発表したようですが、シラクがさきほど、レバノンの即時停戦へ向け、仏軍投入の準備があることを声明で発表したようです。もはや、両者の亀裂は、埋めようがないですね。今後は「シラク3選」ヘ向け、私自身のブログで展開することにします。
長くてごめんなさい
お返事ありがとうございます。
ご無沙汰だったものですから、ついつい手紙感覚で出してしまいました。
奈良女子大はずいぶん意欲的に広い方面にわたって講師をお願いされるところです。かって私の友人ででパッセリさんというフィレンツエに住む画の修復家も何回か行っておられました。
聖林寺もアシジもずっと以前に訪ねた事はありますが、残念ながら私には一度も回心体験はありません。
私の母は敬虔なカソリック教徒なので、私がそうなることを心から望んでいるようですが、きっとこの先もないような気がします。どこかお勧めがあったら教えてください。
ただコルビジェのロンシャンの教会に行ったときは、なんだかとっても感動しました。コルビジェが特に好きというわけでもないですが、あそこだけは特別です。
なんだか建築で表現されたポエムといった印象です。
玉三郎は歌舞伎でも見ましたが、なんだか強烈なのは、ベジャール演出で踊ったいくつかのバレエ?でしたね。ちゃんと衣装を身に着け踊ってましたよ。体も柔らかく、ちゃんと役をこなしているのには驚きました。
それとまた、ジョルジュドンとの共演で、藤娘だったか、玉三郎は着物で舞っていました。
意欲的な人だから宝塚だって完璧にこなすでしょう。
ジョルジュドンで思い出したけど、彼とパトリックデュポンの二人で、『そしてバルス』と言うのを見たときは感動しました。シングル版のボレロの裏面の曲ということで、そのバレエが始まるシーンも、『ボレロ』の踊りが終わったシーンから始まるものでした。あんなバレエはまた見られるでしょうか。音楽界でも何でもちょくちょく行ってると思いもかけず感動するときがありますね。
最近は、いろいろな事情で行かなくなってしまったけど、今までに観てきたいろいろな物、旅行やスペクタクルは確実に自分の中に何かが残されていて、宝石とかそういった類のものより、ずっと良かったと思うこのごろです。
またいろいろお話聞かせてください。楽しみにしています。
http://8925teacup.com/babarde/bbs
Oranda kara
Takeshita-sama,
Yominikui roma-ji de no toko o o-yurushi kudasai. Watakushi wa Amsterdam zaiju no nihon-jin de, "Pari no Maria'" irai go-hon o haidoku shiteorimas. O-kiniiri wa "yohroppa shishya no sho", "Seijo den(Coretto no haru) " de, "Seijyo no jouken" no naka no "Lurudo de kangaeta koto" mo tanoshime mashita."Barokku ongaku wa naze iyasuka" mo omoshiroktta.Korekara mo omoshiroi shiten de, michi no sekai ni izanatte kudasai. Gokatsuyaku o oinori moushiagemasu.
あれこれ
古川さん、私はシラク出馬はないとみています。個人的にはDSK支持です。でも猿居士を止めるためならルペンと極左以外ならすべて応援します。ヴィルパンへの基本的信頼は変わってませんが、彼には猿居士の知略に抵抗するしたたかさが欠けてるような気がします。レバノンは元々ローカルなキリスト教信者を保護するためフランスが恣意的に国境を弾いて作った国、内乱後も大統領はキリスト教徒という、政教分離とは程遠い憲法が残っていたはずです。その国がヒズボラの拠点になるとは皮肉です。そもそもオスマントルコのなきあと、部族しかいないところにヨーロッパがよってたかって統治領や「国家」を作ったのだから、少なくともフランスがレバノンを「見捨てない」というのは彼らのエゴのロジックですね。歴史の整合性というか筋は通ってます。シラクの立場として他に選択はないでしょう。猿居士はそれを批判しないと思いますが・・・お盆あたり(15日から17日)いますか?masakoさんもまた古川節を聞きたいと言ってたので、お会いしましょう。東京のメール、又はこのサイト内のメール、又は携帯にTel下さい。
Seikoさま、Arts premiers のmuseeはいかれましたか?私はまだですが、帰仏したら早速いかなきゃと思ってます。空間としてのmuseeのコンセプトについて、金沢の21世紀美術館に行ってからいろいろ考えさせられて、Arts Premiers のmuseeと21世紀美術館を比べるとすごく面白い気がします。そのうちアート評論のコーナーに書きます。あ、金沢のみなさん、それから彫刻家のOさん、ありがとうございました。「日本人の美意識」問題やBUTOの話もあれから考えてたので、そのうちUPします。
Massimoさん、ご愛読ありがとうございます。フランドル好きです。ヨーロッパ仕様のPCでも、日本語インストールできたり、機能が隠れてたりすると思います。でも読めるんですね。それだけでも便利ですね。ローマ字でもまた遊びに来てください。
それから、Fusakoさん、フランスのアドレスからメールコピーしてもらったんですが、Fusakoさんのアドレスが抜けてて返信できません。東京のメール(お教えしてなかったですか?)か、このサイトのメールにあらためてメールください。8月7日から9日は銀座OKです。又は携帯に電話ください。最後4桁は0297なのでチェックしてください。(数名の方に0927と書いてしまい迷惑かけてしまいました。すみません)
レバノンのことなど
古川利明さんのサイトでレバノン支援の記事読みました。パチパチ。ことの発端になったヒズボラの捕虜になった兵士って、フランスとイスラエルの2重国籍なんですよ。こういう微妙なスタンスでフランスがいつもながら明確な主張をするのは説得力があります。イスラエルではユダヤ人の少子化が進み、それに対してパレスチナ人は多産化しているので、このままほっとけばユダヤ人の絶滅によってことが解決するらしく、この数年、アメリカについでユダヤ人コミュニティの多いフランス(といっても50万くらいですが)のユダヤ人をイスラエルに移住させる勧誘が、まるでカルトの誘いのように盛んです。特にマグレバン、北アフリカから移住してきたユダヤ人の若者たちが、ゲットー化したシテでアラブ移民たちと対立して、そのままイスラエルに送り込まれる、アラブ移民もモスクでアルカイダ等に勧誘されるなど、最悪のパターンです。パリの真ん中で裕福な暮らしを送ってる昔ながらのヨーロッパ系ユダヤ人とは別の世界です。フランスにいる移民の子弟に、とにかく共和国原理を教育すること、そのためには社会的弱者を構造的に支援しなくてはなりません。しかし特定の組織やグループの援助という視点ではなく、社会的に弱い個人を個々に助けるという理念を失わないようにするのは容易ではありません。
しかしフランスにはユダヤ人にもムスリムにも共和国型知識人がいるので、彼らのペンの力に期待するとともに、そんな人にどんどんイスラエルに移住してもらって、良心的なイスラエル人の世論を組織して、先制攻撃のメンタリティを根本的に変えてほしいですね。
”アメリカに「NO」といえる国”を読みました。(
”アメリカに「NO」といえる国”を読みました。(先生の論考は、文藝春秋6月号の”「ダ・ヴィンチ・コード」四つの嘘 ”が最初でした。)
「比較文化史」の現代国際政治へのアプローチの有効性、何よりもフランスとアメリカとの「文化」の比較に瞠目致しました。
実は、時節柄?Mozartのlifeに関心があって、吉村 正和”フリーメイソン―西欧神秘主義の変容 ”を最近、読んでいました。また、「魔笛」をDVDで鑑賞する機会を持っています。
フランスとアメリカとの文化史(政治思想)の接点が、18世紀思潮である、フリーメイソンによって担われている、と理解していました。「フランスのユニヴァーサリズム」にはフリーメイソンの思想が確実に影響していることが看取される、と思います。このような理解でよろしいのでしょうか?
なお、先生は、フリーメイソンについて、論文、「フリーメイスンとグノーシス主義」で論じられています(私は未だ読んでおりません)。グノーシス思想(シリア・エジプト型とペルシャ型)については、ご著本のp.60に解説されているように、善悪二元論であること。「catholicから−非宗教化したフランス」の「ユニヴァーサリズム」は一元論であること、を何とか私の理解を辿っています。
どなたか既に質問されているかもしれませんが、お教え下さい。
日本が「フランスのユニヴァーサリズム」および猫!の国に見習って、理性が支配します国になりますことを祈りつつ。
フリーメイスンなど
ご感想ありがとうございました。フランスのフリーメイスン思想が革命を通してユニヴァーサリスムに至ったのは確かです。同じフリーメイスンが、グループとしては閉鎖なコミュノタリスムに傾斜していくのは残念ですが。もともとフランスのユニヴァーサリズムの基本にあったのは、キリスト教の伝統だと思います。しかし、人間の組織であるカトリック教会はいつも権力と特定利益に結びついていました。フリーメイスンや啓蒙思想は、教会に私物化されていたペルソナとしての神を否定して、宇宙の創造者、設計者としての神を説くTheismを打ち出しました。これは、既成教会側から見ると異端であり「無神論」でしたが、一元論化した本来のキリスト教ユニヴァーサリスムからインスパイアされたものだと言えるでしょう。考えてみると、社会に依存しなくては生きられず、さまざまな不公平な運命を背負う人間をみな「自由で平等」だと言い切ることは、今でこそわりと普通に聞こえますが、目くるめくほど不自然です。これは事実の言明ではなくて、生き方を導く志向なのですね。
モーツアルトは明らかにフリーメイスンの救済論や倫理観を持っていたと思います。でも、アーティストとしては連帯型でなく孤独で、身体感覚をつかむのが巧かった人です。信仰とクリエーションのタイプが少しずれているのが彼の魅力だと思っています。
フリーメースンやユニヴァーサリズムを生んだ「キリスト教無神論」の光を当ててはじめて、西洋型一神教がよく理解できるのでしょう。
一神教のなかった日本には緩い政教分離しかできないのも自然で、それもまたいいと思うのですが、国際社会を生きるのにはユニヴァーサリズムをツールとして使えるよう学びたいと思います。
Motto Shiritai Freemason
New York ni sunde ita kro, Freemason to ieba "Katolikku kyoukai no tenpuku o takuramu akuma-suuhai-shuudan" to sasayakareru ippou de, jissai ni au Freemason no member wa, shotoku(income) ga hikukattari, jinshyu teki minority dattari shite, uwasa tono rakusa ni odoroki mashita. Mousou ga hitori-aruki shite iru you ni omoimashita. Kenzen na hihan-seishin o motta hito ga kono shudai ni tsuite kataru koto mo sukunai shi...
Freemason no koto, motto kikasete kudasai. Toku ni geijutsu ni motarashita eikyou ya, keizai-kouka nado.
Roma-ji, yominikukute??gomen-nasai
「フランスのユニヴァーサリズム」の理解
早速に回答、お教えいただき、ありがとうございました。
「フランスのユニヴァーサリズム」にはフリーメイソンの思想が確実に影響している、と言えますか?という私の質問に対して、一面においてはそうである、という肯定的な回答を得ました。
「フランスのフリーメイスン思想」がフランス革命を通してユニヴァーサリスムに至ったのは確かです。(!!!)
また、下記のような懇切なる説明をいただきましたが、多分、新規なる竹下説をお聴かせいただいたのではないかと、拝察しております。フリーメイスンの意義、重要性を評価されています。
フランスのユニヴァーサリズムの基本にあったのは、キリスト教の伝統である。フリーメイスンや啓蒙思想は、「カトリック教会に私物化されていたペルソナとしての神」を否定して、宇宙の創造者、設計者としての神を説くTheism(有神論)を打ち出した。
Theismであるのだが、既成教会側から見ると異端であり、即、「無神論」である。
フリーメイスンや啓蒙思想のTheismは、「一元論化した本来のキリスト教ユニヴァーサリスム」からインスパイアされたものだと言える。
フリーメースンやユニヴァーサリズムを生んだ「キリスト教無神論の光」について:ちょっと理解しにくいです。ここでの「無神論」は、既成教会側から見ると異端であり、即、「無神論」である、という意味でのキリスト教無神論なのでしょうか、それとも18世紀以前にあった「キリスト教無神論」の伝統(あまりないのですね)のことでしょうか。
Mozartの音楽についても一家言を持ってられ、その一端を伺うことが出来ました。演奏家からの発言は貴重ですね。「信仰とクリエーションのタイプの普通からのずれ」---何かしら、私には謎です。
昨年、偶然、聴いたPiano Concert No.24が殆んど初めてのMozartです。高橋英郎さんの解説(NHKラジオ第二、25回)を聴いたり、同氏や海老沢氏の本を読んでいます。
人間をみな「自由で平等」だと言い切ることについての謂い、今、大きな問題になっている日本における政教分離の問題---文字通りinspireされました。
厚くお礼を申し上げます。今後ともよろしくお願いいたします。
無神論
すみません、わかりにくくて。キリスト教無神論というのは、唯一神の存在を否定することで事実上あらゆる「超越」を否定することに向かいました。個人的な「明言」という意味では信仰告白の一種です。でも思想のグループとしては実証主義、ペシミズム、ニヒリズム、快楽主義、科学原理主義から共産革命や実存主義にいたるまで、いろいろな表現を生むことになりました。超越への感性が人間の文化や文明を生んだように、その否定が人間に新しい地平や可能性を開いたわけです。それはけっこう大変な思想ですよね。だって、「困ったときの神頼み」というように、人は困ったときに「カミ」に出会うのですから。カミを否定したら、困ったときにそれを引き受けたり処理したり自棄になったり、あるいは「生き神」を称する人間にたよったり、いろいろあるわけです。この無神論の系譜については近く本にするつもりなので、そこでゆっくり解説します。
フリーメイソンについては、岩波のグノーシスの本の中に書いたものが一番まとまっていて、その後も研究は続けていますが今のところ単独の本の予定はないです。
岩波の本、Massimo さんには手に入りにくいでしょうね。NYって何につけ、アメリカの他の地方と違って特殊ですよね。メイスン内では原則的に人種差別はない(はず)なので、ある種のカルト宗教のようにマイノリティの命綱になってる場合もあるのかもしれません。
キリスト教無神論について
竹下節子先生
再度、懇切に説明いただき、ありがとうございました。無神論の系譜について新たに書籍としてご発表の由、先生のエスプリたっぷりのご本(昔、高校の教科書で習った、たしか鈴木信太郎先生の文章によれば、先生の比較的長い論考もessayとも言えるのでしょうか?)の出版が待ち望まれます。
今回のご説明の理解と同時に、CD-ROM 《世界大百科事典 第2版、》(旧 平凡社版に相当。4、5年前に購入したパソコンに添付されていました)を頼りに、無神論(竹内良知 筆)、啓蒙思想(坂部恵 筆)などを参照して懸命に理解に努めております。次のような図式を得ました。
「キリスト教無神論の光」 → フリーメースンやユニヴァーサリズム
啓蒙思想、Enlightment
17C、18Cの英(Locke)、仏
宗教批判としての理神論(無神論を理神論と混同することは不可とされていますが)
唯一神、超越への感性(恩寵の光) → 人間の文化や文明を生んだ
(併行)
19C以降
唯一神の存在を否定すること 人間に
事実上あらゆる「超越」を否定すること → 新しい地平や可能性を開いた
i.e. フォイエルバッハ、ニーチェ e.g. サルトル 実存主義的無神論
このような中で、「ユニヴァーサリズム」のことをもっと理解しなければ、と痛感しています。
Mozartの音楽の魅力こと、「信仰とクリエーションのタイプの普通からのずれ」---現在、私には謎ですが、ワサビのように効いて来ますことを。昨夏、偶然、試聴したPiano Concerto No.24は、Serkin−Abbado:London Symphony Orchestra です。購入いたしました。
また、このHome Pageの庭に参りたくよろしくお願い致します。 森 正博
(無題)
森さまのご質問は、私がききたいところを、見事に表現してくださつていて、とても助かります。モーツアルトのフアンで、「毎日モーツアルト」を文章におこして、保存していおます。これからも、ご質問楽しみによませていただきます。
8/22(火)の「毎日モーツアルト」
naoさまも視聴されたことと思います。
回顧される風で、B.Hendricksさんが次のような発言をされていました。
・ Mozartの音楽には普遍的な美しさがあります。
・ 喚びさまされる感動は教会に通うような信仰深さとはまた違うものです。私たちは 誰でも心のどこかに敬虔な気持ちを持って生きています。そうした普遍的なものと してMozartの音楽は訴えかけて来るのです。
ユニヴァーサリズムそのものです!!!
B.Hendricksさん、実は、私は初めて知った方ですK.Battleの次の世代の方でしょうか。 (英語の聴き取りを、もう、10回も試みているのですが、駄目です。翻訳が少し不正確のように思えるのですが。)
書けなかつたですね。
私もききました。すごく感動したんですが、はやいのか、かきにくかつたのか、記録に残せませんでした。8月は特別番組なのでやすんでいるんです。9月から、また記録しようとおもつています。フアンなんて、偉そうなこといつてますが、音楽無知の音楽好きなのです。もう老婆なんですよ。この番組を書くことで、夫の介護生活に,はりができるんです。
http://竹下
書けなかつたですね。
私もききました。すごく感動したんですが、はやいのか、かきにくかつたのか、記録に残せませんでした。8月は特別番組なのでやすんでいるんです。9月から、また記録しようとおもつています。フアンなんて、偉そうなこといつてますが、音楽無知の音楽好きなのです。もう老婆なんですよ。この番組を書くことで、夫の介護生活に,はりができるんです。
竹下先生は今度「やめよう自己実現」という(仮題)本をかかれるそうですが、森さまにとつて、自己実現て、どんなイメージですか?私には原石の宝石がけずられて、光り輝く,イメージがあるのですが、一方で自己開発のイメージもあります。それは私にとつて、あまりいい,自己実現じゃないんです。削られてゆく,自分にあこがれます。
モーツアルトの音楽
「毎日モーツアルト」、HD−DVDに録画していますので、以前の分を繰り返して視聴することがあります。カミオカンデ?の小柴さんが60歳になって以降、良さが一層、理解できる、と言う意味のことを言ってられましたね。?? 普遍的である所以ですね。 今後も親しんで行きたいと思います。 K.Battleの次の世代の方 → 前の世代(訂正)
養老孟司さんの本
関西人にはエスプリを欠いた、titleの本:『バカの壁』です(バカでギクッとします)。養老さんは新聞(講演や広告)などで持て囃されていますし、『バカの壁』にchallengeしょうと思い、地域の図書で借りて読みました。目次に共同体や一元論を超えて、がありますので、竹下先生の論考と関係があると思い、注意をして読みました。
まえがきで口述筆記本と断っていますが、『雑談』の筆記本ですね。目次の事項に対して述べているのですが、話の内容が断片的・総花的です。p.173で、「常に素人談義のレベルを抜け出ない」という記載があるのですが、養老さんご自身がその轍を踏んでいるように思いました。
「一元論を超えて」ですが、ここでの「一元論」は竹下先生の論考の「善悪二元論」に相当します(と思います)。
「一元論」(竹下先生の論考の「善悪二元論」)を否定するのであれば、我々は別の普遍原理を提示しなければならない(p,201)、という「常識」重視の立場、論考から結論を得てられます。
養老先生は解剖学(脳)のご専門から広く論じられていますが、『雑談』にお付き合いして、疲れました。やはり伝統的に論考の紡がれた本がありがたいです。
小柴さん
「アイ ラブ モーツアルト」で小柴さんのコメントききましたが、かきとめていません。でも「自分の仕事とちがつて、何世紀にもわたつて、人々に喜びや感動をあたえられる、というのは羨ましいですね」というようなことおつしゃつてましたね。「羨ましい」なんて、モーツアルトに関していえる人つて、やはりいるんだなあ・・とおどろきでした。別次元の人とは考えない、というのは、ノーベル賞レベルの方はやはりちがうなあ・・とおもいました。耳がわるくなつて、山本さんの声はききとれるんですが、コメンターの方のこえでは、ききとれない場合がよくあります。「一元論」「ニ元論」「それを超える論」について、竹下先生に整理していただき、解説していただきたいものです。
モーツアルト
フランスに帰って、まずピアノでショパンとバッハを弾きました。その後ヴィオラでバッハとアキムの曲を。夏に一月楽器に触らないのは奏者として致命的なんですが、練習に復帰するのに後少しあるので、少しずつ馴らしていきます。骨伝導のヴィオラの音が、特に違和感があって、下手なこともありますがつらいです。なぜかこういうトレーニングの時にはモーツアルトに手が伸びません。多分、体の調子に耳を傾けるとか、心地よいことをやればいいというような場合じゃなくて、自分に鞭打つ必要があるから? 逆に練習をたくさんしてハイになった状態だと、モーツアルトが潤滑油になる時があります。
一元論と二元論のことですが、仔猫殺しについての質問をちょうどいただいたので、それもあわせて宗教の質問箱に答えを入れておきます。
アキムとモーツアルト
アキムの曲−−−のアキムは、”アキム・エル・シカメヤ”のアキムでしょうか。このあと、アキムを求めて先生のHPをよく見ることも致したいと思います。
naoさまに−−−−小柴さんのお仕事の有用性の、一般の人たちへの波及(?)性において、モーツアルトに及ばないのが羨ましい、といったことを述べられたのだと思います(ずいぶん前の放送です。)。 小柴先生は謙虚な方とお見受けいたしました。
モーツアルトとアンサンブル
先日、友人とmailを取り交わしていて、その2、3日後に彼の娘さん(テレマン協会所属のviolinist)が私のいる町に近い市の公会堂で四重奏曲を演奏しますよ、という知らせを得て、inter-netで確認いたしたところ、プログラムにモーツアルトが4曲。その中に”不協和音”(K.465)という名を持つ曲があり、翌日、NAXOS のレーベルのCD()Eder Quartet)を求め、pre-listening致しました。出だしが”不協和音”的であるようです。そのCDにはK.136 が入っているのですが、この曲もも演奏されました。
アンサンブル、実はliveは初めてでして、独特の難しさ、面白さ(愉しさ)と奥深さのあることが推察されました。 よく合うものだな、と不思議で、驚きました。
独特の難しさ、−−−アンサンブル−−−「一元的で普遍的な価値観を中心に共有して、その周辺部は個人レベルまで徹底的な「多様」を許容し、保護し、残す」(宗教の質問箱)に通ずるものがありますね。
アキム
アキムは私のトリオのメンバーの音楽家で、彼の曲とは、彼がバロックヴィオラとチェンバロとトラヴェルソのために作曲してくれたソナタのうちの2楽章のことでした。2年前、うちにピアニストとフルーティストが下宿してて、時々3人でアンサンブルをやっていたので、アキムにバロックテイストの曲を作ってもらったんです。でもその二人がいなくなってから、今度は私が一人で練習できるように無伴奏のプレリュードとアルマンドを作曲してもらいました。(このサイトのバロック音楽室の初めの方にちょっと載ってます)
彼とは彼が15歳の頃から20年近い付き合いで、私にとって、もっとも信頼できる音楽家です。フランスでは最も権威ある音楽のアグレガシオンの資格も持っています。ただ、精神的にはガラス細工みたいな人で、それはトリオのもう一人のミレイユも同じ。この二人を連れて3年前に2週間の日本公演に行ったときは、私も疲労してぼろぼろで、フランスに帰ったらすぐにトリオを解散して彼らと別れよう、と思うことで我慢してたんです。でも帰仏前日、最後の公演が終わって、ショッピングに出かけた時の解放感を分かち合い、その後もすぐに、新しい曲をアキムがトリオのために編曲してくれて、また
アキム
アキムは私のトリオのメンバーの音楽家で、彼の曲とは、彼がバロックヴィオラとチェンバロとトラヴェルソのために作曲してくれたソナタのうちの2楽章のことでした。2年前、うちにピアニストとフルーティストが下宿してて、時々3人でアンサンブルをやっていたので、アキムにバロック・テイストの曲を作ってもらったんです。でもその二人がいなくなってから、今度は私が一人で練習できるように無伴奏のプレリュードとアルマンドを作曲してもらいました。(このサイトのバロック音楽室の初めの方にちょっと載ってます)今はエリカというフルーティストと仲良くなったので、またトリオ曲に再挑戦することにしました。
アキムとは彼が15歳の頃からの20年近い付き合いで、私にとって、もっとも信頼できる音楽家です。フランスでは最も権威ある音楽のアグレガシオンの資格も持っています。ただ、精神的にはガラス細工みたいな人で、それはトリオのもう一人のミレイユも同じ。この二人を連れて3年前に2週間の日本公演に行ったときは、私も疲労してぼろぼろで彼らの繊細さを支えきれず、フランスに帰ったらすぐにトリオを解散して彼らと別れよう、と思うことでなんとか我慢してたんです。でも帰仏前日、最後の公演が終わって、ショッピングに出かけた時の解放感を分かち合い、その後もすぐに、新しい曲をアキムがトリオのために編曲してくれて、また情熱が蘇りました。今は新しい企画を携えて、凝りもせず2度目の日本公演を目指しています。アンサンブルの秘密は、パッションの共有、そして寛容と赦し、忍耐です。自分の責任と、全体への目配り、誰かが疲れていたら手を差し伸べあう、あとはひたすら我慢とパッション。家族やら社会もそんなものでしょうか。私の場合、家族へは「諦念」、社会へは「義務」とか「使命」がキーワードかも。
アキム氏のことを伺いまして。
アキム氏について、私のそそっかしい質問に対して、お答えいただきありがとうございました。
アキム氏は「バロック音楽室」のsarabandeに述べられている、フランスバロック学者Hさんのことですね。「ヴィオラでバッハとアキムの曲を。」と言ってられましたので、現代音楽作曲家かな、とも思ったのですが、フランスバロックの「現代音楽」作曲家とのこと、分かりました。
『バロック音楽』が作曲というジャンルにおいても脈々と継承されていることを知りまして、クラッシック音楽の50年後、100年後はどうなっているのだろうと、ふと思うことがありますが、心配は杞憂とは言うことができそうで喜ばしい限りです。
「アンサンブルの秘密」について伺いまして、「めくらめく」の感を致しました。
(無題)
2 e essai plus court jespe que tu vas bien, tr bien. josette
http://sekko boussemart
Je suis de retour!
Je suis de retour !! Bonne surprise de te retrouver ici, t'as bien fait de venir!
Au Japon, j'ai peut-etre trouve une opportunite du concert pour 2007.
Plus interessant que la derniere fois, mais l'enjeu est beaucoup plus grand??aussi.??Personnellement, j'aimerais bien me laisser tenter.
On y sera entoure de vrais musiciens baroques que j'ai rencontres cet ete, tres sympas prets
月刊・論座の広告を見て。
香山リカさんが、小泉・安倍氏の旧・新政権に関連して『善悪二項対立では人間も社会も語れない』というタイトルで執筆されているようです。即座に、竹下先生の「善悪二元論」を想起いたしました。
criticsの視座・観点としての「善悪二元論」からどのような創見を展開されているか、一読しょうと思います。
クープラン
本日のコンサート、どれも素敵でしたが、クープランが、前半のチェンバロのソロも、アンコール・ピースも印象に残りました。
全く別件で、さきごろ読んだ光文社新書、薬師院仁志さんの「日本とフランス 二つの民主主義 不平等か、不自由か」という本が、「アメリカ型自由主義」と「フランス型平等主義か」という米仏対比で、竹下さんの本と通底するところがあると思いました。「神に守られるアメリカ人」と「国家に守られるフランス人」という対比についても述べられていましたね。
あと、これまた別件、竹下さんがフランスに戻られてまず弾かれたバッハとショパンて何の曲でしょうか。
いろいろ
Fusakoさま、コンサートの報告ありがとうございました。私も聴きたかった。
バッハは管弦楽組曲の編曲です。ショパンはポロネーズのひとつ。別に意味はないんですけど、新学期に生徒に渡す課題曲の選曲をしていて。手本に弾いて見せる時あまり下手ではまずいんで、ちょっとさらっとこうと夏休み前にすでに練習してたので、忘れてないかと。でも指を刺激すると頭がはっきりします。
モロッコに行ってたので、ご無沙汰してました。その間に猫のコーナーの更新をしてもらいましたのでご覧ください。モロッコでは円卓とディスカッションに出席し、フランスではマグレヴァンとしてアルジェリア、チュニジアと総括されちゃうモロッコが、フランスとの関係が他の国とは全然違うことに目を覚まされました。その場のたった一人の日本人(というより、たった一人の「非フランス人非モロッコ人」である立場を利用して、イスラムとヨーロッパの関係についてもデリケートな質問をたくさんできました。おりしもローマ教皇B16のイスラム発言についてテンションが高まって、いろいろ考えさせられました。
ヨーロッパのキリスト教が300年かかって、ようやく政教分離して宗教を相対化した近代ライシテ空間を、その「中立=自由=相対化」ゆえの脆弱さをねらって、イスラム勢力がイスラム化してくる(ヨーロッパをアラビア化しようというユーラビア・プロジェクトというのもある)傾向は実在します。それに対して、なんとか近代理念にのっとって共存の話し合いで対処が望まれるのですが、それを例の「キリスト教対イスラム教の一神教同士の内輪もめ」のようにくくってしまうのは、無知というよりも問題の本質から遠ざかる誤った見方なので、そこのところを説明していかなくてはと思います。
別の話ですが、21世紀フォーラムの102号に竹本忠雄さん(この方も一神教の優越感がなんとかとか、言ってます)が、日仏の見方についてちょっと腑に落ちないことをいろいろ述べておられるのですが、日本では年間3万人の自殺者が7年続いている、フランスで3百人も出たら間違いなく政府はつぶれるでしょう、というのは単純ミスでしょうか?フランスの自殺者は年間1万人、日本との人口比でいうと2万人相当で、ヨーロッパの中では高い方ですでに社会問題化してます。東欧や旧ソ連圏の自殺率が世界で最も高いのは有名で、かと思うと福祉の進んだ北欧も自殺者が多いし、自殺と社会や文化の関連ファクターはたくさんあるようで複雑です。交通事故死より自殺が多いこと、それよりはるかに多い自殺未遂者のことを考えると、つらいです。TVで欝のネズミ(動かず食べず孤立する)を水に浸けてももがかずにそのまま死ぬ、欝の遺伝子を取り除くと生きる本能が蘇ってもがき始めるという実験のシーンをやっていて胸が悪くなりました。みなさん、水に浸けられる前にいっしょに水際でもがきながら生きましょう。
自殺
数もですが、なぜ自殺するのか、その理由(動機?)が日本の場合、問題です。数の国際比較はありますが、動機ではどうなんでしょう。
日本では、生活苦、過労や過度の責任感からの自殺、そして、最近の新聞報道では、なんと、サラリーマン金融(高利貸)への借金返済のための(高利貸に「死んで保険金で返せ」と脅迫されて)自殺、があるのですね。
セゴレーヌ・ロワイヤル
10月17日に、社会党の大統領選3候補が党内選挙に向けて最初の討論(というより、所信表明になりましたが)を終え、翌日のアンケートでは、今まで圧倒的トップだったセゴレーヌ・ロワイヤルが、がたっと評判を落としました。左派のファビウスは反抗児のつっぱりがあり、セゴレーヌは右派、私の気に入っているDSKが社会民主主義の正道で堂々としてました。ジョスパンもDSK支援のために出馬をあきらめただけあって、このまま行くとDSKにチャンスがあるかも。
同じ日、前首相のラファランがUMPで演説して、サルコジの後UMP代表になることをにおわせ、ヴィルパンやアリオ=マリーが無所属で出ようとしているのは嘆かわしい、UMPは結束しなくては、みたいなことを言い、ついでに、同じポワトウのセゴレーヌを揶揄して彼女は遠くからは惹きつけるが近くで見ると失望させるんだ、と言っていました。
討論会でのセゴレーヌについて、ヘアスタイルが無造作すぎる、女がヘアスタイルを気にしないのは女としての誘惑をしないという意味だから、中身で勝負しようとして優等生過ぎたと新聞に書いてありました。ファビウスは背広のボタンをかけてたのが硬く、ボタンをはずしていたDSKが余裕があったと。なんかなあ、と思いました。
昨日イギリス映画『The Queen』を見ました。ダイアナが死んだとき、まだサッチャーが首相だったら、ダイアナ、サッチャー、エリザベスの三すくみになってたかもしれないと考えさせられます。就任3か月の若々しいブレアの役割は大きかったのですね。日本で公開されてますか?Stephen Frears 監督です。さすがですよ。とにかく日本人には絶対一見の価値ある映画です。なんというか、エリザベス2世もブレアもまだ現役なのに、こういうすごく intime な家庭内映画を撮っちゃって、しかも、それが成功してるというのには驚きで、日本人と皇室との関係にどうしても思いをはせてしまいます。日本では絶対に作れない映画。国民と、国家のシンポルとの位置関係とか親しみの温度とか、いろいろ考えさせられます。そして女性元首と政府のトップとの関係にも。
フランスだと、過去のノートルダムに変わって、今のマリアンヌ、それに仕える大統領はやはり「男」のイメージが刷り込まれているような。そのへんも含めて、ジェンダーのコーナーに女性大統領についての話題をUPしました。ご一読ください。
The Queen
ローマ法王のお話はどうもわからなくて、やっとついて行けるお話に。
フリアーズの映画はまだ日本に来ていませんが、そうか、ヘレン・ミレンが女王様なのですね。
ずいぶん前にイギリスでベストセラーになった本で、スー・タウンゼントの「The Queen and I」というのがありました。「王政廃止」をスローガンにした政党が総選挙で勝ってしまったので、ロイヤル・ファミリーは公営住宅に引っ越して・・・、というような本でした。まず出て来たのが、フィリップさんとエリザベスさんの争い、苗字はどっち、という話だった、と記憶しています。日本では絶対に出ない種類の本でしたね。
イギリス人
イギリス人っておもしろいですね。ステファン・フリアースはコノ映画が成功を博したことについて、女王は全国民のお母さんみたいなものだからリスペクトするように気を使ったと言ってました。これで、イギリスの専売テーマは、ヒュー・グラント系のロマンチック・コメディ、ハリー・ポッター、007に次いで、4つ目の金鉱を見つけたとかも言われてます。 この映画では、カリカチュラルなのは、フィリップ殿下です。現実とまったく遊離してて、狩のことしか頭にない。もっともこの人が現実を凝視し始めたら、かえってやっかいでしょうが。そして、広大な狩場が王族や貴族同士で隣り合ってるのを見ると、イギリスには、マルチ・カルチャーの都市と、貴族の田園とのふたつがあるのだと納得します。フランス人のエリートは結構都市の中のエリート空間に満足していて、「田園に逃げ込む」という完全二重生活は少ないですね。ヴァカンスでもヴァカンス先の社交場でまた同種の人とつるむという感じです。イギリス貴族は本気で自然の中で犬と馬と狩に打ち込めるんですね。
昨日は『ナポレオンと私』というイタリア映画に行きました。Paolo Virzi 監督です。Dniel Auteuilのナポレオンが見たかったので、ストーリーにそんなに期待していなかったのですが、鮮烈でした。エルバ島の20歳の青年教師が、ナポレオンの秘書に雇われるのですが。彼はナポレオンの戦争責任を問い、暗殺をねらっているのです。観客は、ナポレオンがエルバ島から脱出する史実を知っているので、ヒーローの青年に暗殺されないことが分かっているのですが、心理劇にはまってしまいます。
夜はTVでシラクについてのドキュメンタリーを見ましたが、そこで、どんな政治家でもここまで上り詰める人は、みんな「人間好き」の一面を持っている、というコメントがありました。「人間好き」の匂いのしない人は、どんなに優秀でも多くの人の心を捉えないのでしょう。それで、軍事の天才ナポレオンも、何万人もの兵士を殺したり殺されたりしたにもかかわらず、その孤独にもかかわらず、「人間好き」だった。コルシカから泣く泣くパリにやられ、フランス語が下手でいじめられていた男が、「人間好き」を捨てなかったのは天性のものだったのでしょう。そして、20歳の暗殺者はその魅力にまいってしまいます。
彼には、各論の人間好きが総論で残酷に人を殺せることがあると思いつかなかったのです。理想と現実、若い凡人と老練の天才の出会いの妙が楽しめます。そして、「人間好き」を表に出すというのは、何か、自分に対するすごい信頼のある人の特権のような気もします。たいていの人は、失望したり裏切られたり、他人からの評価を忌避したりしているうちに、「人間嫌い」になったり、「人間好き」を隠したり、身近な人だけ無難に愛したりするようになるのに。そんな中で、手放しで「人間好き」を感じさせる人がいると、それは他者にとってすごく魅力的に思えたりするのですね。「人間好き」な悪魔だってよくいるんですが・・・ しかしナポレオンとの関係でも、イギリス人はそこまでナポレオンを殉教者にすることを恐れていたのか、と不思議ですね。何で二度も莫大な費用をかけて「島流し」になったのか、普通の説明以上に、イギリス人のメンタリティの何かが関係してるような気もします。
ファンレター
竹下節子様 初めて書き込みさせていただきます。この夏読んだ“アメリカにNoといえる国”を読んで以来、貴殿の作品をむさぼるように読ましていただいております。独特の品のよいタッチでリズムに乗れ、琴線が理解できたという満足感と、心がちょっぴり豊かになった幸福感が残り、とうとう書き込みまでしてしまいました。
このサイトを見つけて、さらに、喜びが増えましたです。
解説書だけでなく、小説などはお書きにならないのですか? きっとすばらしい芸術作品になるような気がします。
ようこそ
Akiraさん、サロンにようこそ。ここんとこ立て続けにスパムが来てうんざりしてたので、普通のメールが来て嬉しいのに、しかもそれが「ファンレター」なんて感激です。こういうネット上のヴァーチャル空間って、匿名土足で踏み荒らすことも可能なわけで、それを思うと時々すごく暗くなるんですよ。
神秘主義をテーマにしたミステリーを含めて小説の構想はいくつかあるんですが、小説はたくさん書き手がいるので、私はまず他の人が書かないものを提供しようかと思って。今でも、メッセージ性のあるものを心がけているんですが、それはそれでアカデミックな側からは批判されたりするんですよ。もとより万人にうけるのは不可能ですが、嫌いな人は読まなければすむのだから迷惑にならない、好きな人は楽しみにしていてくださっているのでお役に立てている、だから差し引きプラスになると信じてがんばります。
こんな風におしゃべりできるのだからやっぱり、ネットテクノロジーには感謝ですね。本の感想でも軽い話題でも何でもお気軽にふってください。
続ファンレター
竹下節子 さま
お返事ありがとうございます。(感激!)
私のように、このサイトを読むのを楽しみにしている人が、一杯いますです。
竹下様の作品の一番の魅力は、日本に住む日本人への、より視野の広い、より深い観点からのメッセージですものね。
アカデミック側からの批判って、進歩性の証のようにも思えますし。
お言葉に甘えて、教えていただきたいのですが、私は今まで、夏の休暇でしかフランスを味わったことがないのですが、観光客にも、ユニバーサリズムやライシテを実感するいい方法などはありますでしょうか? 実は“アメリカにNoといえる国”を読んだのも、パリ行きの飛行機の中でして、観光中もあちこちにユニバーサリズムの香りを感じはしたのですが、来年は実感したく、よい方法があればよろしくお願いします。 もうひとつあって、こちらの質問もかなり重要なのですが、パリで一番おいしいレストランは、どこでしょうか? 竹下様の好みのお店を紹介してくださいませ。
パリのお勧め
パリというかフランスで一番ユニヴァーサリスムを感じるところって、やっぱり公立の小学校かも。でも普通の人は入れないですよね。まして夏休みだと・・私の今好きなスポットはケー・ブランリ美術館です。行かれましたか?最近ようやく行ったので、感想を近々アート評論にUPしてもらいます。このサイトの運営をしてくださっているPickyさんが5月にパリにいらっしゃった時には、私の行きつけの界隈、不思議のメダイのチャペルとラザリストとパリ外国宣教会のクリプトとか集まってる七区の一角をご案内しました。後、私の気に入りの下町の劇場も。ジャンヌダルクのミュージカルをやってたんです。お泊りはやはり私のアソシアシオン関係のアパルトマンで。http://kapizo.hp.infoseek.co.jp/index.htm
にアパルトマンの紹介があります。次はどうぞいらしてください。このサイトは一時更新が途絶えてたんですが、最近また更新してくださる方ができて、パリのご案内とかもあります。
レストランとかはなんとも言えません。ビッグ・コミック・スペリオールの料理コミックで、京都の人に京都で一番おいしい店をと聞いたら誰も教えてくれず、京都の人って意地悪と思っていたら、何がおいしいかは人それぞれなのであえて誘導しないという意味だったんだという話がありました。私は京都の人じゃないので、この夏行った柚子屋旅館の一心居がおいしかった、と言っちゃいますけど。
パリのBourseにあるヴェニス料理とか好きですけどもちろんフランスっぽくないし。母がきたら7区の音楽院の近くにあるキャビアで有名なペトロシアンのレストランです。料理もおいしいけど、ハーブティのテイスティングというのがあって、それ専門の方が、目の前でハーブをブレンドしてくれて、3種作って、3種のデザートといっしょにどう組み合わせて飲むか教えてくれるんです。それが好き。
後は、友人がオーナーの店によく行きます。フランスっぽい店では、このごろ時々行くのはマビヨン(8番地)にある La Petite Cour かな。火水木のお昼は知り合いが手伝ってるので。通りより下に中庭があっていい雰囲気です。各種美術館の付属のレストランやカフェも、それぞれの趣向があって好きです。セナのカフェ・メディシスとか、ジャクマール=アンドレの食堂も好き。でも、フランス人は、みな食いしん坊なので、他の国に比べたら、どこでも大きく当たり外れはないですよ。パンの水準がどこも一定以上クリアしてるのと同じで。クスクスとかもおいしいです。それに日本の方の方がパリの情報くわしいし。
どうしてもオンリーワンのレストランをご案内しなければならないVIPが日本から来たときは取って置きの裏技があるんですが、普通の人はアクセスできません。私は夏に日本に帰ってることが多いんですれ違いかもしれませんが、いつかAkiraさんとスケジュールが合えばご招待しますよ。後、時々個展や演奏会付のパーティをやるんで、その時パリにいる人は誰でも参加OKで無料です。今年は12月8日から10日にアソシアシオンで写真展、10日にパーティで、17日には自宅の近くの音楽院でクリスマスコンサート、その後自宅でパーティです。フランス料理の料理人の方にビュッフェをお願いする予定。
でも普段は全体的に貧しい食生活です。だからたまにおいしいものを食べると嬉しいです。料理は嫌いじゃないし手早くて得意だと思っていたのですが、何でも使わないと錆付いちゃうらしくこの頃は手料理でもてなすのがすごく億劫なんですよ。なんかくだらないおしゃべりになりました。どなたかグルメの方いらしたら、おいしいレストラン紹介してください、東京かパリね。行ってみてご報告します。よろしく。
続々 ファンレター
竹下節子 さま
お答え感謝します。
ケー・ブランリ美術館ですか、来年は行ってみます。キャビアとハーブティーも楽しみです。演奏会や個展、若手芸術家の卵の応援など、さまざまな活動をされていらっしゃるのですね。
この夏は不思議のメダイのチャペルにたまたま足を運びました。親切な修道女さんと非常にきれいなチャペルは強烈に記憶に残っております。
パリはいつも2−3泊でそのあとシャモニーで山にこもるのが夏休暇の過ごし方だったのですが、来年は変えてみようかな、竹下様の話を聞いていると、冬か、秋ごろにいって、観光客のためじゃないパリでずっと過ごしてみたくなりました。
ちょと勉強不足なので教えていただけますでしょうか? 作品か、ホームページか、どこで記述されていたのかも正確な文章も思い出せないのですが、“生まれた瞬間から、死ぬ瞬間までの人間としての尊厳を守るのが善で、それを危険にさらすのが悪”というような倫理規定に関して感銘深い文章がありました。
この倫理規定というのは、誰がどのような背景で構築されたものでしょうか?
なかなか、見つけ出せなくて、ちょっと捜し求めておりましたので、よろしくお願いします。
国際倫理規定
ええと、生まれた時から死ぬまでの自然のサイクルを安全にまっとうさせるのが善というやつですね。私もすごく納得してるんです。尊厳というのとは違うんですよ。自然にまっとうさせるんだから、恣意的な「尊厳死=安楽死」とかはむしろだめな感じですね。
これは、政策科学研究所というシンクタンクの発行している『21世紀フォーラム』で数年前に読んだものを紹介したものです。今詳しいことを調べようとして探したのですが、見つかりませんでした。すみません。多分、他の物書きの皆さんも資料の山の中で大事なものが見つからないことがあるのでは、と、言い訳になりませんが・・・でもとっても大事なので、今メールで編集者の方に問い合わせますね。Kさん、もしこれをお読みだったら、直接教えてください。何号だったか、確か国連関係の委員会だったと思いますが、正式名称も。
ファンレター
竹下節子 さま
ありがとうございます。
自然のサイクルというのを思い出しました。私の書いたものでは、ちょっと違うというより、ある意味、正反対ですね(聞いてよかった!)。
でも、意外でした。きっとユニバーサリズムの流れを作ったフランスの啓蒙思想家の作かと早合点しておりました。
政策科学研究所を少し調べてみました。経済、エネルギー、資源問題に注力しているシンクタンクのようで、21世紀の支えを精神的に育もうという姿勢ではない組織から、倫理の再構築のような概念が出てきたことが驚きです。さらに倫理の大枠を自然に任せちゃってるところがおもしろいです。
もっとおかしいのは、先週学生時代の友達と飲んだときに、竹下様の作品をあれこれ紹介して、酔った勢いで、ユニバーサリズムとこの倫理規定をくっつけて適当にストーリーにしてでっちあげのお話をしてしまったことです。ごめんなさい。ま、みんな覚えてないでしょうから、実害はないです。まあ、それだけこの倫理規定の境界条件の切り方が印象に残っていたのでしょう。
(ビッグコミックスペリオールも読まれるのですか!)
倫理の話
21世紀フォーラムのKさんから、「国際倫理規定」で記事を検索しても出てこないので、思い違いでは?と返事がありました。確かに、フランス語でも検索したのですが、そのままでは見つからなかったということは、別に正式に採択されたとかではなく、試案の紹介だったのだと思います。政策科学研究所が作ったのではなく、ゲストによる報告でした。あったのは確かで、今、バックナンバーをチェックしています。あまりにも気に入ったので、暗記したので。前世とか受精卵とか死後の世界とか人生の意味とかは、それぞれの宗教だの文化に任せて、誕生から死までというぎりぎりの目に見えるサイクルに規定したのがすっきりしてて気に入りました。病気とか障害や純然たる事故はあげつらわず、「安全に」というのが、大事です。殺人や生贄や安楽死はだめ、拷問も死刑も自殺も戦争もだめ。たとえ、生贄や拷問や報復や自殺が文化や伝統の一部であったとしても、それはやはり克服すべきものだと、考えたいのです。
これと同じように気に入って、あちこちで紹介したのが、WHOの「健康の定義」の変更案です。これもその会議に参加した知り合いの書いたものに感動したのですが、結局、日本の厚生省によるクレームとかもあり、定義の変更にはいたらず、局長の所信に入れられただけに終わりました。まあ、別に特定の誰かが考え付いたからというのではなく、その言い回しに私が個人的に賛同して採用したということですから。ユニヴァーサリズムの理念や文脈にぴったり収まるので、Akiraさんの「でっちあげ」は的外れじゃないですよ。
21世紀フォーラムでは、その他に人種別脳の報告とか、絵画のニューロ・サイエンスとかの記事がとても印象的だったのですが、今回、この倫理規定を探してるうちに、このふたつは見つかりました。まったく記憶どおりだったので、倫理規定の記事だけが思い違いということはないはずです。日本語で読む本は限られているので、内容はかなりよく記憶してるんです。
コミックは、日本にいる時は買って、主として電車の中で読みます。親父系のコミックが多いです。おかげで、自分では経験したことのないサラリーマンの悲哀とか、何十年も読んでて、すっかりなじみです。たまに女性向けで「家族愛感動もの」特集とかのコミックも読んで、本気で涙を流したりしてます。これは、泣けばストレス緩和ホルモンとか出て健康にいいし、と思って。そして、自分と境遇がかけ離れているストーリーでも、べたな感動ものでちゃんと泣けちゃうのは、人間の共通した情緒とか想像力とかって、ちゃんとあるんだなあと思って、その事実にまた感動します。
続 倫理の話
竹下節子 さま
ここまで誠意をもって答えていただきまして、感動しました(竹下様の貴重なお時間を無駄遣いさせていなければよいのですが)。
「安全に」がポイントなのは、見逃していました。
WHOの「健康の定義」の変更案を調べましたが、spiritualがポイントのようですね。Mentalを超えて、spiritualまで健康の範囲を広げて、未来にまで責任を持とうとする意思でしょうか。アラブ諸国発の、西洋の医療技術のみの発展に対する警告なんでしょうか。医療技術の発展で、延命は可能になっても今度は尊厳死が問題になってきてる先進国にはとっても重要ですよね。
もしこれが日本語になったら、精神的かつ、魂的福祉となるのでしょうか?
(電車の中でコミックを読んで、涙する竹下節子様、かわいいです)
ケブランリ美術館
竹下節子 さま
ケブランリー美術館がアート評論にUPされていましたので読ませていただきました。来年の目玉は(レストラン以外では)、下町の劇場とこの美術館に決めました。世界のアートのユニバーサリズムが感じられそうです。
この週末に初めて“テロリズムの彼方へ、我らを導くものは何か”を読みました。1ヶ月前に買ってはいたのですが、テロリストの心理背景描写に関する作品かと、なんとなく敬遠してしまい積読状態、HP記載のスタッフ様の挨拶文に刺激を受けて手にとってみたのですが、良かったです、特に後半が(何か非常に感動しちゃって! 最後まで読んでみて初めて、タイトルの“我ら”の意味がわかる仕掛けになってるんですね。)。これで謎がひとつ解けました。いままでは、竹下様の論考や展開の中で、竹下様のスタンドポイントが掴みきれない時がたまにあったのですが(理系の人間ですので洗練された表現に慣れていないので。)、今回一気に理解できたように思いまして、益々ファンになりました(作品の魅力はフランス在住の視点と洞察力とプラスアルファーだと思いはしてはいたのですが、そのプラスアルファーがこの作品で掴めたように思いました。エティーの日記も早速注文しました。)
竹下様にとって、御自身の作品の中で最も愛着のある、もしくは最も秀逸と自負されるのはどの作品でしょうか?(失礼な質問ですがご容赦を)
ファンです
はじめまして。著作は全部読んでいると思います。『バロックの聖女』『聖女伝』が文学的で好きです。聖女伝のコレットの描写はすごく思い入れが感じられます。ノストラダムスのような人物にも思い入れをされているのに驚きです。アカデミックなアプローチなのに自由な思い入れをしていくのが魅力です。小説も読みたいです。
自分の本
このところがPCのご機嫌が悪くてお返事遅れました。すみません。ご愛読ありがとうございます。どの本も、私にとってはそれぞれ書いたときの状況とかと切り離せないので、愛着の比較はできないいんですよ。編集者との関係も入ってきますし。編集者がいなくなったとか編集者からあまり愛されなかったような本はかえって不憫で可愛がりたくなります。ある本をきっかけに読者とお友達になれたような本も印象深いです。あと、気をつけたはずでもどの本にもミスプリントとか思い違い、勘違い、間違いなどあるので、それも申し訳なく気になってます。その正誤表とともに、このサイトの著作紹介のところで各著作について、自分のコメントをつけていく予定です。
最近の本では『レオナルド・ダ・ヴィンチ』が、万人への分かりやすさを無視して書いたのですが、けっこう好意的に読んでいただいて嬉しい驚きでした。『バロックの聖女』も、かなり好きなように書かせてもらったのに、コアなファンがいて嬉しいです。ある程度は使命感によって書いたもの(ノストラダムス、ローマ法王、カルトか宗教か、テロリズム、アメリカにNOといえる国etc)、趣味の本(からくり人形、バロック音楽 など)、後、聖女ものキリスト教ものなど、原動力は「思い入れ」というより「好奇心」かもしれません。ユニークな人や現象を見ると、もっと知りたくて知りたくて、理解したくてわくわくするんです。そういう状況から、「一人で面白がってるよりちゃんと分かち合うべきだ」と周囲の友人や業界の人から言われるようになって、一般向けの本を書くようになったのですが、とにかく誠実であることとメッセージを盛り込むことに努力しています。出版不況だったり、それでも膨大な本があふれていることを思うと結構空しくなることもありますが、気に入ってくださる方がある限り、書くことはたくさんあるので、気長に書いていくつもりです。Webの世界って、いわれのない中傷とかも多いのでとにかく目立たないことを願っているのですが、こういう場で読者の方の好意的なコメントを直接聞けるのもまたWebのおかげですから、感謝です。時々「敷居が高い」とか言われるのですが、ブログ記事のコメントのようにどうぞお気楽に本やサイトの記事についてコメントください。
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