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それは砕けし無貌の太陽のようです

7 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:04:06 ID:jePDeZ3M0
『だからね――』


「先生?」


『お前はお前を――』


――ダメだ。

「先生、どうしたんですか? 先生?」

どこにある。どこにしまった。家の中をひっくり返す。
棚の中を、机の後ろを、時計の裏を、床の下を。ない、ない、どこにもない。
使い切ってしまったのだろうか。使い切ってしまったのだ。

前回の時に、前の本の時に全部使い切ったのだ。
次は頼らぬと、もう必要ないと、補充しておかなかったのだ。
でも――ダメだ。“アレ”がないと。“アレ”を手に入れないと、このままでは俺は、俺は――。

「先生!」

肩に、熱。人の手。動悸が止まる。瞬間、冷静になる。
「先生」。女の声。不安を帯びた。懐の携帯。既に我が手の先に触れたそれ。
いまここで使うのは、得策でない。顔を合わせぬまま、告げる。

「帰れ」

「先生、でも――」

「帰れ」

痛みを伴う乾いた呼吸。やがて、肩に触れていた熱が離れていった。女が、離れていった。
ぎぃぎぃと、フローリングの硬い床が軋む音。こすれる音。右往左往する人の気配。
不必要な所作を感じさせるそれは、しかして遂に、宅の入り口にして出口でもある場所へと到達する。
かたこんと、下ろした鍵が上げられる。

8 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:04:48 ID:jePDeZ3M0
「何かあったら、いつでも連絡ください。何時でも私、出ますから。絶対に、出ますから」

扉は、中々開けられなかった。俺は返事をしない。壁を越えて突き刺さる視線。それが、切れた。
遠慮がちに“きぃ”と音立て開いた扉から、外気と風雨の喧騒が入り込む。
それも、一瞬。訪れるは、再び静寂。

腰を上げた。上げられた鍵を、元の姿へ下ろす。下ろす。
のぞき窓から、外を見る。誰も居ない。隣人も、女も。見える限りは。
そして俺は、のぞき穴に顔を接触させた格好のままずりずりと身を崩し、扉を背にして座り込んだ。
座り込んで、取り出した。懐の、携帯。かける先は、履歴の上から三番目。

相手を呼び出す無機質なコール。
そのけたたましくかつ刺々しい音に頭の中を撹拌されながら俺は、天井を見上げる。
天井から吊り下げられたそれを。首をくくったその人を。俺を見下ろすその人を。
砕けた頭部を。無間の洞を。その奥にて仄見える、青白く腐敗した太陽の――その、残滓を。

先生、先生、ぼくは、先生――。


『――人々が、お前の小説を待っているんだから』


……そうだ、書くんだ。ぼくは、書くんだ。


.

9 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:05:20 ID:jePDeZ3M0
               ※

「例えるならそう……阿片。阿片でしょうな」

指の間に挟んだ煙草を突きつけるようにしてキツネは、自論を展開する。

「大衆の頭を蕩けさせ、蕩けて判断力を失った頭に強烈な快楽という餌を次々ぶら下げ依存に導く、
 実に功名で犯罪的なやり口。昨今では、どこもかしこもこのような方法に溢れかえって……
 くっくっ、いまや私らの方こそ見習わねばならん時代ですわ」

笑う度に紫煙がくゆり、火の粉がぱちぱち爆ぜ飛び燃ゆる。
その前時代的な情景は、この小汚い中華飯店の裡において驚異的な統制感を生み出していた。
外の今を、疑いたくなる程に。

「ところで先生、新作、拝読させて頂きましたよ」

溜まった灰が、とんっと皿へと落とされる。

「そうですな、率直に言って――どうやら先生は、今の作家さんになってしまわれたようだ」

燻った焔を抱えた灰が、生命の終わりかの如くにその輝きを失っていく。
……ああそうかい。ズケズケと、いう。ふんっ、言われなくても判っている。お前なんかに言われなくても。
壁の方へと、顔を向けた。視界の端で、紫煙が揺れる。キツネが笑い出した。
押し潰したのどから空気だけを漏らすような、独特な笑い方。

「なぁに、責めやしませんとも。顧客第一、結構なことじゃありませんか。私らも同じです。
 売れねば食っていけません。食えねば生き残れません。生き残らねば、どうにも次へはつながらず。
 とくれば明るい未来もそっくりパァ!……なぁんてものでね」

大仰に両手を広げたキツネは、何が楽しいのかやはり再び笑い出す。
腹の底の読めないキツネ。高良とはまた異なる意味で、信用できない。
……だが。

おまちどぅ……と、気力の感じられない声と共に従業員が、叩きつけるように膳を配した。
美意識など感じられない、無造作な盛り付け。見た目はともかく量だけは揃えたといった風情のもの。
はっきりいって、食欲をそそられる代物ではない。
……が、だからこそ、気取らぬそれらからは理性に反した安堵を抱く。

「ま、食いましょうや。売れなくても死にますが食わなくとも死ぬ。それが世の理ってもんです」

指の間の煙草をもみ消しいただきますと、キツネが一番に手を付けだした。
背広の上からでも瞭然な針金のように細く長く不健康な肉体に、
でらでらと油に光る料理の群れが吸い込まれていく。

見ているだけで胸焼けを起こしそうな情景。
しかし当の本人はまるで意に介する様子なく、皿の上の塊を平らげていく。

10 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:05:41 ID:jePDeZ3M0
「ほらトラ、お前も食え。先生が気を使っちまうだろ」

「はい、キツネの兄貴。頂きます」

キツネの隣で彫像のように押し黙っていた男が、静かに合掌する。
キツネとは対象的に、明らかにサイズの合っていない背広をぱつぱつに張らせた
レスラーかラガーマンかとでもいった体躯のこの男は、その見た目からは想像のつかないほどに行儀良く、
皿の中の飯に手を出し始めた。そして、しばし、黙々と、食う。黙々と食うキツネとトラ。
その様子を、首から下を、俺は見つめる。キツネが箸を止めた。

「……餃子、味、変わったな」

それとはっきり判るほど、大きく吐かれるため息。

「“昔ながら”が失われるのは、いつだってさみしいもんだ……」

止めた箸を、キツネが置いた。

「なあトラよ。お前さんもそう思うだろう?」

合わせてトラが、箸を置いた。

「はい、キツネの兄貴。俺もそう思います」

「そうかいそうかい、素直なやつだなお前さんは」

「恐縮です」

キツネが笑う。押し潰したのどから空気だけを漏らすような、独特な笑い方。
笑いながら、キツネが新たな煙草を指に挟んだ。隣のトラが火を灯す。
皿の上の餃子はそのままに、紫煙がくゆる。時間が停滞していた。この場、この時に置いてだけ。

だが俺は、止まるためにここへ来たのではない。

手を伸ばした。キツネの残した餃子の乗った、その皿へ。
つかみ、引き寄せ、流し込むようにそれらを胃の腑へ落としていく。
油にぬめった包の皮が、のどをずるりと滑っていった。
空。空いた皿を、叩きつける。店主の視線が、こちらへ向いた。

「寄越せ。金ならある」

「くっくっ……相変わらず繊細なお人だ」

指で強くテーブルを打つ。くつくつと、呆れるように紫煙が揺れた。キツネが合図を送る。
「はい」と、生真面目さを感じさせる硬い声で応じたトラは脇に備えたブリーフケースから、
全国展開されている新古書店の安っぽいビニール袋を取り出した。
見慣れたその、多くの作家が目の敵にしているデフォルメにデザインされたスマイルマークの刻印。

11 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:06:11 ID:jePDeZ3M0
「私からのおすすめでね」

トラが取っ手を両に開き、中身を顕す。
中に入っているのは色あせた文庫本が二冊と、古ぼけたCDケースが、三つ。

「検めますかね?」

紫煙の向こうでキツネが揺れる。俺は答えない。ただ無言で、手を伸ばす。

「くっくっ、ご信用の程、感謝致しますよ」

キツネが笑う。向こう側から。辿り着く先を、見据えるように。判っている。
こんなこと、いつまでも続けられるものではないと。この行いが公になれば破滅はまず免れ得ず、
よしんば隠しおおせたとしても肉体的な破滅が待ち受ける。“こんなやつら“に頼ってはいけない。

そんなことは、常識として理解している。だが――だが、書くためだ。
書くためであれば、なんでもする。書くためであれば、何もかもを捧げる。
俺は、書かなければならないんだ。そうだ、だから。

だから――。


「ダメです!!」


……は?

「おやおや、こいつはかわいらしいお嬢さんだ」

なんだ、どういうことだ?

「お客さんちょっと困るよ、この人たちはね――」

「ああいいんだ、いいんだ親父。どうやらこのくりくりなお嬢さん、私らの“身内”だ」

慌てた様子の店主を、キツネが追い返す。
突然の闖入者は当たり前のようにして、そこに立っている。
聞き覚えのある声。それもつい最近。それこそ、そう、つい数時間前まで耳にしていた。

照出麗奈、なぜここに?

「それでお嬢さん、何がダメだというんだい。
 私らはほれこの通り、先生に頼まれて本やらなにやらを調達してきただけでさ」

「いますぐ」

らしくない、有無を言わせぬ語調。

「いますぐこのお店から、出ていってください。でなければ私、通報します」

12 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:06:32 ID:jePDeZ3M0
がたりりと、吹き飛ぶように椅子が倒れた。キツネの隣で、影に徹する巨躯が立つ。

「とぉーら、やめぇ」

「しかしキツネの兄貴」

兄貴分に諌められてなお、トラは敵意を剥き出しにしていた。
先程までの紳士な様子は影もなく、はちきれそうな背広の裡から
その生業に相応しい暴力の気配が放射されている。
トラという異名の通り、その姿からは肉食獣の攻撃性が余さず発揮されていた。
しかしキツネはまるで変わらず、自分のペースを崩さない。

「言ったろう、何でも力で解決するもんじゃねえって。それにほら、よく見てみ。
 気丈に振る舞おうとしてその実、おっかなくてしょうがないってこの姿。震えがな、止まってくれねえのさ。
 目尻には涙なんか溜めちまって、いじらしいと思わねえか?」

「はあ……」

トラはそれでも納得いかなかったのか、威圧した空気を抑えることなく女にぶつけている。
女は女で逃げることなく、握りしめた携帯へ銃口を突きつけるかのように伸ばした人差し指を構えている。
その手、その指先は確かにキツネの言う通り緊張に微震していたものの、
その屹立とした佇まいからはか弱さなど微塵も感じられはしない。

そこには、確たる意志が存在していた。
俺はといえば……俺はといえば未だこの状況に追いつけず、
ただ傍観者の如く成り行きを漠と見続けることしかできずにいた。

「なあお嬢さん、ひとつ構わんかね」

照出は答えない。

「くっくっ、嫌われちまったもんだ。まあいいさ、それじゃこいつは小汚いおっさんの寂しい独り言だがね」

あくまでも平生通りに、キツネは煙草を吹かす。

「どうもあんたは、私のことを稼業も含めてご存知のようだ。
 とくれば、下手な誤魔化しは無意味でしょうな」

安閑と、急くことなく、己のリズムで話を続ける。

「ま、お察しの通りですわ。
 私らはイケナイ薬の売人で、今日は先生に呼ばれてお品物を届けに来たってわけです。
 ですんで、通報されたらそりゃ、ちっとばかし具合が悪い。だがね――」

キツネが俺と照出へ、ゆるりと交互に首を振った。

「見たとこあんた、先生の新しい担当でしょう。判りますともそれくらい。
 あんたのことは知らずとも、先生とは“長い”ですからな。
 可能性をひとつひとつ潰していけば、それくらいは容易に察せるもんです。
 で、それでですがねお嬢さん――」

13 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:06:59 ID:jePDeZ3M0
長い、吐息。むわりと湿度の高い店内に、灰の煙が細く伸びる。
それは吹き出された場所から離れれば離れるほど急速に拡散し、
勢いを失って形状も失い、やがては色も失い店内の湿度の一部と消えていった。
それは、実際以上に、長い“溜め”に感じられた。そしてキツネが、言葉をつなぐ。

「あんたは公共の正義と企業人としての責務、どちらを選ぶおつもりで?」

「私は……」

張り詰めた、声。

「私はあなたたちを、許しません……!」

「……ああそうか、思い出しましたわ」

キツネが、笑う。
くっくっくっと独特な、押し潰したのどから空気だけを漏らすような笑い方で。
口の端を釣り上げキツネが、屹立する照出を見上げた。

「以前にお会いした時は、喪服姿でしたな」

照出の指が、携帯に触れた。「事件ですか、事故ですか、なにがありましたか」。
携帯から、応答者の声が響く。本当に、通報した。トラが飛びかかりかけた。
キツネがそれを留めた。電話の向こうから、呼びかけが続く。

「どうしました、もしもし、どうしました」。照出の胸が、上下していた。
呼吸が乱れているのだ。照出は立ち尽くして、固まっていた。
その様子を俺は、僅かに、僅かに視線を上げて、見る。
のどもとを、首を、顎を越えて、口元。 照出が、唇を震わせた。真一文字に結ばれていた口が、開いた。

「……すみません、間違えました」

静寂。キツネが煙草を吸う。じじじじと、先端で火の粉が爆ぜる。
その火が未だ消滅し切る前に、キツネは煙草を灰皿に押し付けた。

「ま、このまま商売という空気でもありませんし、今日の所は退散しますよ。
 信用第一が私らのモットーですからな」

さてトラよ、ずらかるかね。そう言ってキツネは、のそりと椅子から立ち上がる。
……待て、おい。お前、本当に帰るつもりか。俺はまだ、ブツを受け取っていないんだぞ。
アレがないと、俺は――おい、キツネ、おい。

「それでは先生、機会があればまた。小説、次は楽しみにしてますよ」

念ずる声は力にならず、夜闇の商売人であるキツネとトラは、
売品である薬を携え消えていった。彼らの領分である、乾いた夜へと。

14 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:07:23 ID:jePDeZ3M0



「この餃子、おいしいですね。ね、先生」

異物だ。

「毎日だとカロリー気にしちゃいますけど、たまにはこういうのもいいですよね」

こいつは、異物だ。

「先生、いらないんですか? 私、全部食べちゃいますよ?」

この店には余りにもそぐわない、異物だ。

「本当に、いらないんですか? 餃子、おいしいですよ?」

俺の、生息域においても。

「先生やせっぽちだし、ちょっとはお肉、つけた方がいいと思いますよ?」

「尾けたのか」

「ほら、先生お顔は悪くないんだし、もっと健康的になれば、その……
 そう、そうですそうです! モテモテですよ、モテモテ!」

「尾けたのか」

「モテモテ、ですよ、えへへ……」

「尾けたのか」

「……ええ、はい。尾行、しました」

「なんで」

「……」

「なんで」

15 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:07:44 ID:jePDeZ3M0
「……先生が」

「……」

「その、変な気を起こしたんじゃないかと、思って……」

「首でもくくると思ったか」

「……」

「そう、思ったのか」

「先生。もう、あの人達とは会わないでください」

「……」

「先生」

「お前らが……」

「先生?」

「お前らが、求めるからだろ」

「私、たちが?」

「下劣な駄文だ」

「下劣な……え?」

「下劣な駄文だ」

「先生、その、何をおっしゃっているのか……」

「俺が書いてお前らが売りさばく、下劣な駄文だ」

「……その、もしかして、先生の小説のこと、言ってるんですか」

「あんなくだらないもの、素面で書けるかよ」

「くだらないって……そんな、先生の小説は素晴らしいです!」

「そうだろうな、そうだろう。お前らにとっては、そうなんだろう。
 品性の欠片もない小説未満でも、売れさえすればそれでいい。それが、お前らなのだから」

16 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:08:15 ID:jePDeZ3M0
「そんなこと――」

「だから通報しなかったんだろ」

「違います! 私は――」

「金づるを失ったら困るからな。知っている、それくらい。知っているんだ、俺は。よく知っている。
 だからもう、邪魔をするな。書いてやる、書いてやるから。だから、そうだ、俺には――」

「先生、聞いてください、先生――」

「俺には――」

そうだ、俺には――。

「クスリが――」

「先生!!」

心臓に、衝撃を受けた。

「――私、決めました」

両肩をつかまれていた。

「私が、してみせます」

強く、痛むほどに、つかまれていた。

「クスリなんかに頼らなくても書けるように、私がしてみせます!」

顔を、上げそうになった。いま、目の前にいる女の、その顔を見るために。確かめるために。
すんでのところで、踏みとどまった。背けた顔の、その先で、店の親父が、こちらを見ていた。
俺の視線に気づいて親父は、厨房の奥へと逃げるようにひっこんだ。


.

17 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:08:42 ID:jePDeZ3M0
               二

人混みは、嫌いだ。

いつの頃からか……などと恍ける隙もないほど明確に、ある時期を境として俺はひとつの病を患った。
頭部。人間の。首から上に乗っかったその卵型の球体が、俺には欠けて視えるのだ。
より正確にいうなら、左側頭から頭頂部にかけて、それこそ卵が落ちて割れた時のように砕けて視える。
砕けたその隙間から、本来見えざるその内側も、視える。
そこにあるのは、洞。太陽の強い光ですらその底を見通せない、無間に広がる洞。光を呑み込む黒穴。

それを覗くと俺は、意識ごと己すべてを吸い込まれるような錯覚に陥ってしまう。
錯覚と理解しながらも意識の上では確かにそれは、現実に起こる白昼の悪夢に相違ない。
疲弊するのだ、精神以上に、肉体が。立っていることすら、困難となる程に。

故に俺は、人混みが嫌いなのだ。
人混みに塗れてしまうと、如何に気をつけていようとふとした間に視線を上げてしまう恐れが存在するから。
それは即ち、あの砕穴の洞を目にしてしまう危険を意味していたから。
故に俺は、人混みが嫌いなのだ。外へ出るのが、嫌なのだ。

「せーんせー!」

この二週間は、苦痛の連続だった。何故か。決まっている。照出麗奈のせいだ。
キツネを呼び出したあの夜、あの小汚い中華飯店で宣言した照出の言葉。
『クスリなんかに頼らなくても書けるように、私がしてみせます!』。

どうやらあれは一過性の気紛れではなく、本気の声明であるようだった。
少なくとも、本人の中では。照出は、自らの方法で俺をどうにか変容させるつもりでいるらしかった。

「せんせ、次はここ行ってみましょ! ここ!」

その方法というのが、苦痛でしかなかった。
ひとつ、自然公園に行ってトランポリンで跳ね回る。
ひとつ、ラケットを持ってシャトルと煌めく汗を飛ばす。
ひとつ、霊験あらたかな山嶺瀑布を観光し心身を洗い清める。
それから、他にも、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ――。

「あはは、先生あれ見てくださいあれ! すっごいがおがお言ってる! がおがお!」

その発想の無節操なことには驚きを禁じ得なかったものの、分析すれば根は同じ、
つまるところ健康的で清いものに、どうにか俺を感化させる腹積もりなのだろう。
疑問は山のように上った。そもそもこれは、職務怠慢でないのか。
旅費に遊興費にと湯水のように金を出して、これを高良は了承しているのか。

これがどうやら了承しているらしい。
俺の環境を整えるためなら、多少の支出は目をつむるのだと。
正気とは思えなかった。何もかも。高良も、照出も、外の世界に溢れる頭部の欠けた者共も。

18 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:09:47 ID:jePDeZ3M0
「先生ほら、見てないで一緒に来てください! すっごい迫力ですよ!」

それでも俺は拒絶せずに、照出麗奈に付き合った。何故か。決まっている。
それは偏に、判らせてやりたかったからだ。お前の行為は、無意味なただの自己満足に過ぎないと。
俺は変わらない。このようなママゴトで、俺という個人が変じることは一切ない。

畢竟それは、無為に過ぎず。書けない俺は、書けないままに、ただ時間のみを浪費する。
となればそれは、社への損失と意味を変ずる。いつまでも待つなどと嘯いた高良であるが、
その心根が口ほどに気長でないことを俺は知っている。やつは、何が何でも書かせようとするだろう。
例えそれが、法に抵触する方法であろうとも。何故ならやつは――“編集”なのだから。

「先生どうですか? 楽しめてますか? 私? 私は――」

照出麗奈も、同じだ。大言壮語に啖呵を切ったこの女も、所詮は同じ穴の狢の編集だ。
逼迫すれば、仮面を外す。能天気の仮面を取り去り、秘めた本性を顕とする。
気づいていないなら、自覚させる。己が如何に醜悪で、利己的な生き物であるかを。
お前が如何に――“編集”であるかを。

「……えへへ、とっても!」

化けの皮を、剥いでやる。
それが俺の、この馬鹿げた享楽に付き合う、ただ一つの理由だ。


 
「くるしい時は、デパートです!」

というわけで今日は、市内の総合デパートへと連れてこられていた。
平素に比して身体を酷使せぬぶん気の楽な苦行かと思ったが、
その予想は余りに短絡であったと反省せざるを得ない。
なぜ人は、人間は、この世にこれほど存在するのか。
間引いても構わないだろう、半分程度。その方が息もしやすく、空もまた晴れ渡るだろうに。

「先生、上から見ていきましょう!」

俺の気疲れを知ってから知らずか、照出は常に同じく生を振りまき、陰に沈む俺の心魂を辟易させた。
この二週間、俺なりに観察して判明したことが、幾つかある。

ひとつ、照出麗奈の行動力は、どうやら底なしらしい。
俺と同じように各地を飛び回り、俺とは比べるべくもなく物事に熱狂興奮してきたはずのこの女はしかし、
疲れの気配のその片鱗すら表しはしなかった。
その小柄な体躯のどこからこの無尽蔵なエネルギーが生み出されているのか、不思議でならない。

「あ、なつかしいこのおもちゃ。ちょっと前に、すっごい流行ってましたよね。くるくるくるーって。
 ……え、知らない? 先生、知らないんですか? あはは、おかしー!」

ひとつ、おもしろくもないことにもやたらと笑う。
本当に、脳の一部がどうにかなっているんじゃないかと思うほどに、笑う。
エネルギーの豊富さと併せて、俺にはまったくついていけない。
しかし、俺がついていけているか否かなど、照出にとって問題とはならなかった。何故ならば――。

19 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:10:18 ID:jePDeZ3M0
「先生、こっち! こっちです!」

ひとつ、パーソナルスペースが異様に狭い。
服と服が接触するのではというエリアに、微塵の躊躇もなく入り込んでくる。
だけでなく、その手はいかなる障害も突き破って、俺の下まで伸ばされた。
肩を叩かれ背中を叩かれ、服の端をつかまれてはあちこち縦横に引っ張り回された。
正に今も、そのようにして引っ張られている。そして――。

「これ、これ、かわいくないですか? えー、かわいい。すっごいかわいい!」

ひとつ、何に対してもかわいいと評してはしゃぐ。
生き物やぬいぐるみだけでなく小物やバッグ、時には食べ物に至るまで。
往々にして、俺にはそのかわいいという刺激が何を鍵として生じた感覚なのか、理解できなかった。

本日照出の目に止まったのは、凝った形状のサンダルらしかった。
伸びた紐がふくらはぎや脛にまで結びつくそのサンダルを見て俺は、
一目でローマ人が履くやつみたいだなと感じた。

当然かわいいとは思わなかったが、
余りにせがみ尋ねてくるのが鬱陶しかった為に一言「あーそうですネ」とだけ返してやった。
照出は両手をぱんと打ち合わせて「ですよね!」と、それはそれはうれしそうに声を上げた。

どこどこまでも軽薄な女だと、俺は思った。

20 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:10:57 ID:jePDeZ3M0
「先生! デパートの王様は地下なのですよ!」

鼻息荒く力説する照出は、上階ではあれだけかわいいおもしろいと叫びまわっていながら
何も購入せずにいたくせに、地下に降りた途端人が変わったように目につく菓子を片端から買い漁り始めた。
ひとつひとつ小綺麗に包装された菓子共が並び重なり積み積まれ、
照出の手の裡でそれらはけばけばしい色調のパターンを形成している。

「もちろん食べるんですよ、先生と私で。お菓子パーティです!」

胸焼けがした。

「あ、先生。あっちなんでしょう。すっごい行列」

山のような菓子を抱えながら器用に俺の袖をつかみ、行列の側へと小走りに照出は近寄る。
そこで売られているのはどうやら話題のシュークリームだそうで、
最後尾には三〇分待ちの札が掲示されている。
列に並んだ女どもの、ぺちゃくちゃと品なく囀り合う様が姦しい。
たかがシュークリーム如きに、なにをこんな馬鹿げた真似を。

「『シュークリームなんてどこで買っても同じだろ』……なーんて思ってますね、先生?」

懐へ飛び込むように、照出が身を詰めてきた。
顔は見ない。が、見上げてきているのは、判る。

「ふっふっふ……判りますよそれくらい。もう二週間も一緒ですからね! ふふん!」

なんで得意げなんだこいつ。腹が立つ。
二週間かそこらで理解できるくらい俺のことを、底の浅い人間だとでもいうつもりか。

21 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:11:20 ID:jePDeZ3M0
「でもね先生、その認識は甘い、甘すぎます!
 お菓子はね、名前が同じでも職人ごとに全く別の食べ物へと化けるのです!
 シュークリームは全部同じだなんて、小説はみんな同じだぁっていうのと同じくらい的外れなことなんですよ!」

わかりますか! 念を押すように照出が、強い声で付け加える。
そうかいそうかい、そうですか。一人勝手に熱を増して、ずいぶんと得意げに語ってくれるじゃないか。
同じだなんだとそもそも俺は、一言だって口走っちゃいないんだがな。

「それにね先生、待ってる時間って、そんなに悪いものじゃないんですよ。
 待ってる時間は、わくわくでいっぱいにする時間なんですから」

……わくわく?

「これからに、わくわくしちゃう時間です」

だから、ね、並びましょう!
そういって俺の裾をつかんだ照出の、その懐から無機質な電子の音階が鳴り響いた。
携帯だ。照出は俺から手を離すとやはり器用に指先をすぼめ、
いつか警察につないだのと同じあの携帯をするりとてのひらへと抜き出した。

が、スムーズなのはそこまでだった。携帯の表に表示されている画面を見て、照出は固まる。
その停止は、凡そ生命力の塊である照出らしからぬ動作と感じられた。

どうした、でないのか。言葉にはせず、心の中で問いかける。
その間もてのひらの裡の携帯は無機質な呼び出しを続け、それは四回、五回、六回と、
寸分違わぬ機械的な律動を繰り返す。そしてその反復がついに八回目に達しようとした頃、
照出がようやく、動いた。

22 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:11:52 ID:jePDeZ3M0
「……お久しぶりです! はい、麗奈です! どうしました今日は、何かありましたか?」

電話に出る直前の躊躇いからは想像もつかないほどの明朗快活な声。
即ちそれは、普段の照出とミリも違わず。相手の声は聞き取れないがずいぶんと愉快な話に興じているようで、
話して笑ってうんうん相槌を打っている。

そうして俺は、この甘ったるい匂いが充満する空間で一人、ただ待つだけの時間へと陥れられた。
……それで、なんだったか。待つ時間は、わくわくでいっぱいにする時間? はっ、どこが。冗談ではない。
待つ時間は待つ時間。ただただ退屈で、無為な時間に過ぎないことがこれで証明された。
これだから適当な人間の適当な言葉は、信用に足らないのだ。

「あ、私これ知ってる!」

列に並んだ女の一人が、ひとつ方向を指差し叫んだ。つられて俺も、そちらを見る。
女が指差したその先には、天井から吊り下げられたディスプレイが設置されていた。
ディスプレイには昼のニュース番組が映し出され、聞き覚えのある名の俳優が
明日上映される出演作の宣伝を行っている。そいつはべらべらと作品の見所を語り、謳い、
それがまるで決め台詞であるかのように作品のタイトルを連呼した。

俺の書いた、小説の。


『おまえはわるくないよ』


ここにはもう、いたくなかった。
真下の地面へ視線を落とし、出口に向かって歩きだす。

「あ! あのごめんなさい、いま仕事中だから! また折り返します!」

後方から、照出の慌てた声が聞こえてきた。俺を呼ぶ声。
しかし俺は歩みを止めず、そのままここから出ていった。
外では子午上の太陽が、真新しいアスファルトを焦がしていた。


.

23名無しさん:2021/10/16(土) 00:12:08 ID:0rPiPE5c0
冒頭からガツンと鬱々した空気よいですな

24 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:12:17 ID:jePDeZ3M0
               ※

「ごめんなさい先生。今日だけはその、どうしても外せない用事があって」



「ですので私は小説を書く時に必ず――」

俺は、何を話しているのか。

「本日この賞を頂けたことは、偏にそれらの努力が結実したものと――」

こいつらは、何を聞いているのか。

「大変ありがたく光栄なことで――」

中身のない、無味乾燥な言葉の羅列。

「支えてくださっているみなさま、何よりも読者の方々に――」

それでよいと、顔なき者の仮面の羅列。

「感謝を――――」

壊れてしまえ、何もかも。

授賞式。書いた本が、何かの賞に引っかかった。
それを祝うとの名目で、作家は壇上のパンダにされる。
カメラを向けられ、称賛を浴びせられ、儀式の一部に貶められる。
そこに歓びなど欠片もない。あるのは諦観と、憎悪と、強烈な侮蔑。
愚鈍な大衆。価値の判らぬ畜生どもへの。

こいつらの基準は真贋にない。流行りを作す詐欺師の手口に、脳を溶かして呑まれる畜群。
どいつもこいつも畜生だ。人以下の、人間未満の、人が人足る尊厳を放棄したケモノどもだ。
例えばいま、俺がこいつらを罵ったとして。それでもおそらくこいつらは、喝采上げて称えるだろう。
左右の隣に呼応して、違和の不信に目をつむる。乱れず、溢れず、統に制ずる。
示し合わせた訳でもないのに均一に、場へと従う家畜の群れ。唾棄すべき、顔のない人間ども。

嫌いだ。俺は、お前らが、大嫌いだ。

……苛立ちが収まらなかった。会場へ着く前から、家を出る以前から今日は、神経が昂ぶっていた。
要因は、多岐に渡る。この世はとかく無遠慮で品なく、癇に障るもので溢れているから。
世界は複雑系なのだ。故にただ一つの要因を特定することなどできはせず、
それをさも悟り覚したかのように断定し喧伝するのは、それは自らの足りなさを言いふらす愚行と変わりない。
愚か者の所業だ。俺はそんな愚は犯さない。だが、だが――だが、それでもこれだけは、いえる。

25 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:12:41 ID:jePDeZ3M0
照出麗奈は、関係ない。
照出麗奈が会場へ付いてこなかったことと、この苛立ちとの間には微塵の相関関係も、ない。


「ごめんなさい先生。今日だけはその、どうしても外せない用事があって」


外せない用事、三日の連休。理由を探れば、どうやら叔父がなんだという話。
事故や不幸の類でもないそうだ。急な要素など、どこにもない。つまるところ、口実なのだ。
逃げるための口実。俺から。かつて理想の存在であり、而して実像に触れたことでその認識を改めてしまった、
ニュッという作家から。驚くことではない。そんな経験は、これまでにも何度も出くわしてきた。

結局奴らは、口だけなのだ。多少冷ややかに対応されたくらいで嫌気が差し、容易く言葉を撤回する。
当然だ。何故なら奴らは、“編集“なのだから。始めから期待などしていない。期待など、始めから。
故に、相関性など絶無なのである。この苛立ちと、照出麗奈の二項において。
あいつがどこで何をしていようと、俺の知ったことではない。断じて。

スピーチを終える。畜群が一斉に、ばちばちと蹄をかき鳴らす。
轟々と圧を伴い壇上へとぶつけられるその波、熱。仮面の群れ、畜生の群れ。

ああ、うるさい。



「ようようニュッちゃん、ずいぶんご活躍みたいじゃんか、なあ」

思慮浅きマスコミの中身無き質問攻めに辟易し逃げ込んだ先の厠で俺は、面倒な男に絡まれた。
男は引き寄せるようにして肩を組み、旧来の親友かのように馴れ馴れしく顔を寄せてくる。

「俺も鼻が高いってもんよ、目にかけた後輩がこんなに有名になってよ」

「……どうも」

男の名は、ジョルジュ。本名ではない、ペンネームだ。
俺よりも数年前にこの世界へと入り、確かに男の言う通り、一時は世話にもなっていた。
……いや、正確に言うなら面倒見の良い先輩というジョルジュの自己アピールのポーズに、
無理やり付き合わされていた。

「ところでよ、ニュッちゃん聞いたぜ」

ぐいっと、強引に肩を引き寄せられる。酒くさい息が鼻腔を突く。

「キツネのやつ、袖にしたんだってな」

26 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:13:04 ID:jePDeZ3M0
まるで潜める様子のない、平然とした声。
キツネの、“向こう側”の人間の名を口にしているというのに。
人気のない厠とはいえ、不用心に過ぎる。

「俺もよ、紹介人として顔が立たない訳よ、あんま勝手されると。な、判る?」

「買うも買わないも自由って約束です」

「建前だよんなもん」

ごつごつとした筋肉質の腕は俺の肩から首を圧迫し、それはもはや苦痛の域に達していた。
しかし逃げ出そうにも、その拘束はきつく固い。適当な理由をつけてどうにかこの場から退散しなければ――
そう思った矢先、ジョルジュが懐から何かを取り出し、それを――それを、俺の眼前へと、晒した。

「ほらよ、後払いで構わねぇから」

耳元でジョルジュがささやく。それは、間違いなかった。
間違いなく、二週間前に俺が手に入れそびれた、物を書くための特効薬。のどの奥が、鳴った。
照出と出会ってから――いや、そのもうずっと以前から俺は、書けていない。
書くことだけが自己の存在を許容する、その唯一の方法であるというのに。
書かなければ、ならないというのに。

そうだ。実に単純明快な論理だ。使えば、書ける。これを、使えば。

「遠慮すんなよ。俺とお前の仲だろ?」

ジョルジュが目の前でそれを、左右に振った。
透明のビニールに閉じ込められた内容の粉末が、誘うように波を打つ。躊躇う理由などなかった。
ここには誰も居ない。法の犬である警察も、都合で掌を返す大衆も、それに……
自分勝手な理屈で商談をご破産にしてしまう女も。受け取らぬ道理はなかった。書くためならば。

そうだ、これが自然だ。当たり前であり、この二週間が異常だったのだ。
平常へと、もどるだけだ。だから、受け取れ。そうだ、そのまま、わずかにてのひらを開き、
指の先に触れたそれを、そう、つかめば、つかんでしまえば――。


『先生!』


「……へぇ」

気づけば、突き飛ばしていた。ジョルジュを。訳も、判らぬまま。

「さすがは売れっ子様だ。こんな落ち目と関わりたくはねぇってか」

突き飛ばされたジョルジュは壁を背にして座り込んだ姿勢のまま、俺を見上げていた。
下方から向けられる視線。目を背ける。

27 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:13:30 ID:jePDeZ3M0
「……酔っ払いは、嫌いです」

「酔ってちゃわりぃかよ、こんなクソみてぇな世界で」

壁を背にしたジョルジュがずりずりと、更に身体をすべらせる。
厠の床の上で、しかしそうした場所の忌避感をまるで気にしない様子で、
ジョルジュは自らを横たわらせていく。

「ああそうさ、俺はお前らが嫌いだよ。
 公明正大を装ってその実、痛みに鈍感なだけの無自覚で無責任な消費者共が」

「……書かないくせに」

「てめぇだって“てめぇの小説”捨てたじゃねぇか」

俺は、返事をしなかった。ジョルジュが笑い出した。高らかに、勝ち誇るように。
笑われたまま、俺は踵を返す。一言も、返すことなく。

「せいぜい大衆に媚び売って、必死に時代に追いすがってな。
 でなけりゃすぐに、“昔はすごかった人”にされちまうんだからな!」

ジョルジュの言葉を背中に受けて、そうして俺は外へ出た。
一枚の扉板で隔てられた厠の外は虚栄に彩られた異世界で、
そこもまた俺にとって呼吸のしづらい、俺以外の誰かの居場所なのだと感じられた。

「ああ先生、そんな所におられたんですか!」

行く宛がなく壁に持たれて呼吸を整えていた俺の下に、オカマ野郎の高良が小走りで駆け寄ってきた。
反射的に舌打ちが出る。しかしそれが聞こえていないのか、それともその程度気にもとめていないのか、
高良は例の猫なで声で許しもしていないのに話しかけてくる。

「よかった先生、見つかって。紹介したい方がおりましてね。付き合って頂けますね?」

すでに付き合うことが決定している物言いだった。
こうした一方的な都合の良さが、この男への悪感情を増幅する。
わざとらしくひとつ、ため息を吐いた。やはり気にする様子などなかった。もたれた壁から、背を離す。

「ニュッ先生、もしかしてジョルジュと一緒にいたのですか」

紹介相手とやらの下へ向かう途中、出し抜けに高良が問いかけてきた。俺は肯定も、否定もしない。

「先生、付き合う相手は選びなさい。彼はいけません。
 一時はもてはやされもしましたが、今はもうどこの出版社でも門前払いされるばかりで。それに――」

高良は一人で話を続ける。そしてその話がなにやら佳境に入ったのか、
俺の耳元に口を近づけ、こそっと辺りを伺いながら小さな声で話を続けた。

「噂ではよからぬ連中と付き合いがあるとかって。
 なんにせよおしまいですね、ああなってしまっては。惨めなもんです」

28 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:14:33 ID:jePDeZ3M0
何が楽しいのか、話を結ぶと同時に高良は、いやらしい笑い声を立てる。
何が楽しいというのか、こいつは。それに、惨めだと?
ジョルジュがもはや、どこからも相手にされていないことは知っている。
ジョルジュの書くものが、商品未満の烙印を押されてしまっていることも。
それは確かに惨めなのかもしれない。こいつら、編集者にとっては。

だがしかし、少なくともジョルジュは自分の小説を書いていた。
何を言われようと最後まで、自分の書くものを貫いたのだ。

……本当に惨めなのは、どちらだというのか。

「先生、こちらVIPテレビで役員をなさっている――」

紹介された男が何事か話しだし、高良がそれに受け答え、二人でなにやら談笑して。
興味などなかった。その会話にも、テレビ局の役員うんだらというじじいにも。とにかく嫌気が差していた。
何に対してと断定するのも億劫な程に。そのためこの質問も、取り立てて深い意味を付与したものではなかった。
ただ男の、仕立ての良い背広の片側が濡れているのに気づいたから、
話を振られたついでに尋ねてみただけだったのだ。

「ええ、急に降られてしまいましてね。大変な大雨ですよ」

雨――という言葉に脳髄が刺激され、瞬間的に意識が覚醒した。
先生と叫ぶ高良の声を無視して走り出し、会場の外へと出る。
役員の男が言っていた通り外は酷い大雨で、おまけに横殴りの強い風まで吹いていた。
最悪な光景だった。

『俺の木』。しまった記憶が、ない。

道路まで駆け出す。水しぶき跳ねる路上を滑走するタクシーを、折良く発見。
目の前へ飛び出す。夜闇を照らす強烈なライトに目がくらむ。
重量物を無理やり止めるけたたましいブレーキ音が路上に響く雨音をかき消し、
後輪を僅かに浮かせた車両が接触自己を起こすその直前で停止した。

「ちょっと、他所でやってくださいよそういうのは!」

窓を開けて、運転手が苦情を叫ぶ。その声に応えず俺は扉を開き、後部座席へ潜り込む。
そうして口早に住所を告げると後はただ、無言の圧力で発進を急かす。
車内では運転手がぶつぶつと不満をつぶやいていたが、車は程なくして雨中の路面を滑り出した。

いまから急いだところで、到底間に合いはしないだろう。『俺の木』は、繊細な木だ。
水をやりすぎても、やらなすぎても、陽に当てすぎても、当てなすぎても、根腐れを起こして枯れてしまう。
それは種の持つ繊細さではなく、『俺の木』が持つ個別の虚弱性だ。
そしてその虚弱性こそが、『俺の木』が『俺の木』である所以なのだ。代わりは他に、ありえないのだ。

29 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:15:11 ID:jePDeZ3M0
苛立っていた。酷く苛立っていた。
『俺の木』をしまい忘れた理由を探して、そのひとつひとつに怒りをぶつけていた。
なぜ、今日に限って雨が降るのか。なぜ、授賞式の日取りを今日に決めたのか。
そもそもなぜ賞を与えようなどと考えたのか。選者はいったい誰なのか。
なぜあんなものが売れたのか。大衆はなぜ愚かなのか。それから、それから――。

あいつはなぜ、休みを取ったのか。そして――。
俺は、なぜ――。


『それが、お前の木なんだね――』

声が、聞こえた。すぐ側から。懐かしく、やさしいその声。

『そうかい、それなら――』

その人は、俺の隣に座っていた。隣に座って、語りかけていた。

『お前はその子を、愛してあげなくっちゃいけないよ――』

俺とその人との間に挟まって座る、その少年に。そいつは、幼き時代のそれは――。

『うん! ぼく、絶対に大事にする!』

太陽を、見上げ――――。


「ちょっとお客さん、勘弁してくださいよ!」

運転手の声で、正気にもどる。どうやら俺は、えずいていた、らしい。
隣を見る。そこには誰もいなかった。残ってなど、いはしなかった。何の、痕跡も。

30 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:15:45 ID:jePDeZ3M0



異変にはすぐに気がついた。車を降り、雨降る空を見上げ、四階に位置する自宅のバルコニーを見上げる。
見慣れぬ光景が、そこには存在した。エレベーターを待つことも煩わしく、階段を駆け上がる。
取り落としそうになる鍵をなんとか玄関口へと突き刺し、部屋へと入る。明かりをつける。
部屋の明かりに照らされ、バルコニーの状況が顕となる。


照出が、そこにいた。
……なんで?


鍵を解き、窓を開く。
雨粒と共にばたばたと、風に煽られる分厚いビニールの翻る音が部屋の中へと侵入した。
両手を上げて照出が、ビニールの覆いをそこに形成していた。

「おかえりなさい、先生!」

ビニールの覆いの内側、風雨から守られたその空間には『俺の木』が、
今朝見た時と同じようにやや左曲がりの姿勢でそこに鎮座していた。
目に見える水滴もなく、風に枝を折られた形跡もない。

「先生、よじ登っただなんて思ってますか? まさか、そんなことしませんよ!
 お隣さんに頼んで、隣のバルコニーからこっちに入らせてもらったんです」

いつも通りの脳天気な声で、ずいぶんとおかしなことを照出は言い放った。
隣家のバルコニーを見る。このマンションのバルコニーは地続き型ではなく、
ひとつひとつが各部屋から出っ張った形で築かれている。つまり、隙間が存在する。
広い隙間ではないとはいえ、成人女性が滑り落ちる程度の幅は確かにある。ここは、四階だ。
落ちればひとたまりもない。だというのに照出は、それを実行した。

いつか取り返しのつかない目に遭うぞ。喉元まで迫り上がった言葉を、声に乗せる直前で嚥下する。
それは余計なお世話というものだろう。一他人に優ない俺が不用意に干渉するようなことでは、ない。
だから俺はその代わり、俺の都合を、口にした。

31 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:16:13 ID:jePDeZ3M0
「そっち」

『俺の木』の鉢の、片一方をつかみながら。

「そっち、持て」

「え、でも――」

「いいから」

顔を背けて、再び言う。

「いいから」

「……はい!」

生気に輝くその返事。その声に合わせ、手に力を込める。
さしたる重量もない『俺の木』を、二人で俺達は運び入れる。
部屋の中の定位置へとそっと下ろし、今一度確かめる。『俺の木』。問題は、どこにも見当たらなかった。

「休みじゃ、なかったのか」

服も髪もぐしゃぐしゃに濡らした照出にタオルを渡し、問い質す。
そうだ、休みのはずじゃなかったのか。外せない用事とやらで叔父の下へ向かったと、
そう聞いていたから、俺は――。

「えーと……はい、そのつもりだったんですけど」

ありがとうございますと言ってタオルを受け取った照出はしかし、
それを使うのもそこそこに、言葉を探り出す方に意識を割いている様子で。

「向こうに行く途中に、雲行きの怪しいのに気づいたんです。
 そしたら先生が大事にしてる木のこと思い出して」

口を挟まず、照出の言葉に耳を傾ける。

「先生のことだから大丈夫だとは思ったんですけど、
 でも、どうしても気にかかっちゃって……」

その言葉から、照出という女の本性を探る。

「えへへ、ユーターンして正解でした!」

言って、照出は笑った。濡れた全身はそのままに、そんな些事など気にもせずに。
とても、とても、喜ばしげに。

32 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:16:44 ID:jePDeZ3M0
ああ、そうか。

俺は理解した。照出麗奈。
こいつはただの――バカなのだ。

「あのぅ……もしかして、怒ってますか? 勝手なことして……」

「……ひとつだけ」

「はい?」

それならば――。

「ひとつだけ、言うことを聞いてやる」

「ほんとですか!?」

それならば、もう少しだけ――。

「ただし五秒だ。五秒で決めろ。はい五、四、三――」

「え、えぇ!? どうしよどうしよ……ていうかカウント早い! 早いです!」

「二、一――」

「えぇっと、えと、えと……あ!」

こいつのわがままに――。

「映画! 先生の実写映画、一緒に観に行きましょう!」

付き合ってやっても、いいかもしれない。
いつかこいつが諦める、もうしばらくの間だけ。


.

33 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:17:10 ID:jePDeZ3M0
               ※

「楽しみですね、先生!」

受付でスタンプを押印された半券を上下に振り回して照出は、興奮気味に繰り返した。
楽しみですね、先生。新作映画のポスターが所狭しと広告されている長く薄暗い廊下を、並んで歩く。
その暗闇の片隅で俺は、人影を見つけた。まだまだあどけなさが表に残った、笑顔の少年。
その少年が、隣に立つ青年を見上げ、両手を上下に振り回す。

『楽しみだね、先生!』

『お前にはむつかしいかもしれないよ』

『へいちゃらさ!』

充満する生命力を抑えられないといった様子で少年は、暗がりの廊下を走り出す。
歳にも身にも中身に置いて不相応に生意気で、自分を大人と勘違いした未熟なクソガキ。
しかし青年は無責任な自由に酔いしれる少年を前にしても、微笑んでその動向を見守る。
そう、青年は判っていたのだ。少年の気取った応えが、自身の小説に書かれた一節を真似たものであると。
故に青年は微笑んでいた。その無軌道をまるで、愛らしさとでも捉えているかのように。


「先生、この列ですよ!」

平日の館内に、観客は殆どいなかった。
広く空席が目立つその場所で、俺と照出は隣り合って座る。
スクリーンには洋の東西を問わぬ映画の宣伝が次々と流れ行き、そのひとつひとつに照出は反応を示していた。
このシリーズ新しいの出すんですね。あ、私これ知ってます。これ気になります、私観に来たいな。
ね、先生はどう思いますか。先生、先生、先生――。


『先生! もう始まるよ!』


天井の照明が落ちる。
暗闇の中でその一点に集中できるよう、ワイドサイズのスクリーンが強く光を放つ。
壁内に埋め込まれるように設置された幾多のスピーカーから、
日常ではまず耳にしない大ボリュームの音楽が流し出される。
これは非日常である、特別な時間であると、この場自体が主張する。

幕が開ける。

34 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:17:45 ID:jePDeZ3M0


古い、ロシアの映画だった。ジャンルはサイエンス・フィクション。
当時としては画期的な映像表現を駆使した注目作であるらしかったが、
まだ幼い俺にとって哲学的な内容を含むその映画は先生の危惧した通りに難解で、同時に退屈でもあった。
眠気にも、何度も襲われかけた。それでも俺が眠らずに最後まで見通せたのは、隣に先生がいたから。

判らないこと、むつかしいこと。秘められた意味、感情、科学に哲学に、そして信仰。
暗がりの館内で先生は、逐次耳打って解説してくれた。
平易な言葉でつむがれるその唄うような言葉たちは魔法のように不明を明へと解き明かし、
閉じたまぶたを開き、塞がれた耳からやさしく栓を抜き取ってくれた。

見えなかったものが見えていく快感。先生はそれを、俺にもたらしてくれた。
先生はいつだって、それを俺にもたらしてくれた。


危惧していた通り、スクリーン上の役者たちの顔が、俺には認識できなかった。
砕けた頭蓋に開いた黒穴。見続けていれば気分を害し、引いては昏倒するかもしれない。
目を逸らさざるを得なかった。幸いなことに、こいつは俺の小説が原作。話の筋は理解している。
音だけでいい。音だけでも、理解はむつかしくない。
この話の筋は、実に単純かつありきたりな構成で組まれているのだから。

青空と痛みが伴う未成年の青春群像劇を書いて欲しい。
そのような依頼を受けて執筆したのが、この作品だ。
当たり前に男女が出会い、当たり前に苦しみ、当たり前に別れの痛みを経て、当たり前に成長する。

そんな余りにありふれた、かつて何千何億と産み捨てられてきたくだらない物語の類型が、この作品の主軸だ。
「なんで」、「どうして」。無理解と攻撃性に満ちた若者たちが私は傷ついたと訴え叫ぶ。
ああだが傷ついたのは俺だけじゃない。お前だって俺を傷つけたじゃないか。刃物となった言葉の応酬。

そこに理性はない。理性なき所に解決はなく、自己に依って越えられぬ壁にぶつかった若者は
遍く真理を悟った賢者を頼り、その手解きを受けるものと決まっている。……そう、そうだ。
過ちに消沈した未熟な主人公に、その死を定められし導き手である青年が、言うのだ――。


『おまえはわるくないよ』

『役に立ちたかったんだ』

知っている。

『ぼくは、役に立ちたかったんだよ』

知っている。

『本当に、それだけだったんだよ』

知っている。言わなくても、知っている。

35 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:18:29 ID:jePDeZ3M0
資料が足りないと言っていたのだ。
新作を書くのに必要な資料が足りないと。物語の中身は知っていた。
まだ不確定な構想段階の話を聞くのはお前の人生において比類なき歓びであり、
優越を伴う特権であったのだから。

お前は知っていた。だからお前は向かったのだ。
立ち入りを禁止された子どもたちの遊び場、稼働を停止して久しいその廃工場へ。
もらったばかりのカメラを携えて。

初めて足を踏み入れた廃工場は、お前の好奇心を刺激するに充分な場所だった。
お前ははしゃいだ。はしゃいで興奮して、どんどんと工場の奥へと入り込んでいった。
打ち捨てられたこの工場にはかつてここで使用されていた資材がそのままに残されており、
そのくすんだ鉄の塊のどれもこれもがお前には宝物のように見えていた。

次々とカメラに収め、時間を忘れてお前は、この非日常の異世界に没頭した。
そしてふと、お前は思ったんだ。写真に収めるだけでなく、持っていってしまえばいいのではないかと。
これらの資材の、どれか持ち運べるものを持って帰れば先生は、きっと喜んでくれるに違いない。
役に立てるに違いない。お前は、愚かにもそう考えたんだ。

お前には友達がいなかった。
そのためお前は、ここのどこなら安全で、何をすると危険なのかも知らなかった。
腐食した鉄が思った以上に容易く折れてしまうことなど、お前は知らなかった。
夜になっても帰らぬお前を心配した母が、先生にその捜索を手伝ってもらっていたことをお前は知らなかった。

お前は、何も、知らなかった。
今が容易く崩れ去ってしまうだなんて、そんなことがあるなんて、知らなかった。

『役に立ちたかったんだ』

ああ。

『ぼくは、役に立ちたかったんだよ』

ああ。

『本当に、それだけだったんだよ』

ああ――。

『わかっているよ』

違う――。

36 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:19:01 ID:jePDeZ3M0


『おまえはわるくないよ』


スクリーンが切り変わる。

(やめろ……)

青年がいる。青年が、彼の木の前に立っている。

(やめてくれ……)

無数の紙片が、その一枚一枚が、
その一行一行が至宝そのものであったそれらが、風に呑まれて散っていく。

(こんなもの、見せないでくれ……)

凝固した眼球は、それから視線を外すことを赦さなかった。
これより起こることから目を離すなと、肉体が精神を戒めた。

(やめろ、やめてくれ……)

青年が、スクリーンの向こうから俺を見ていた。
俺を捉え、認識し、微笑んだ。

(お願いだ……)

頭蓋の砕けたその青年が。無間の洞が。そして、洞の底にて仄見える――。

(頼む、助けて――)

青白く腐敗した、太陽の残滓が――――。

(だれかぼくを――――)

首を――――――――。

(だれか――――――――)

.

37 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:19:32 ID:jePDeZ3M0


右手に、強い、圧迫感。人の手。握られていた。身体が動いた。
知らず、辿っていた。手の先。腕の上。首の、更に、その上。
人の、頭頂。そこに、視線を、向けていた。



ζ(;、;*ζ



……顔、が。
佳境を告げる音楽が、館内に満ちていた。役者たちが声を張り上げ、知った言葉を吐いている。
照出はその躍動し、目まぐるしく移り変わる画面に釘付けでいた。
俺の手を握りながら、おそらくはその行い自体気づかぬままに。
無意識に、ただ無意識に、何かを握りしめることで暴れまわる感情を抑制している。そう、感じられた。

スタッフロールが流れ終わり、館内に明かりが照らされるまで照出は、
涙を流しながら俺の手を握り続けていた。固く固く、握り続けていた。


.

38 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:20:05 ID:jePDeZ3M0



「ここ、おいしんですよ。焼きたてのパンが食べ放題で!」

上映終了後、照出おすすめのレストランとやらへ連れ込まれた俺は
手慰みにクロワッサンの皮を無限に剥きながら、
目の前の食事もそっちのけで映画の感想を口早に語る照出を眺めていた。

「私もう、私もう後半ぜんぜんだめで、ほんとにもういっぱいいっぱいになっちゃって」

「知ってる。まだ手が痛い」

「そ」

フォークを握った手が、空中で固まる。

「それは、そのう……うう、ごめんなさい。つい癖で」

両手でフォークを握りしめ、消沈を表すその“顔”。

「さ、さっきから私ばっかりしゃべってます!
 先生はどう思ったんですか。私にだけ話させてないで、先生の感想も聞かせてくださいよう!」

失態を誤魔化し、話題を変える。唇を尖らせ、すねたように当てこする“顔”。

「な、なんですか? そんなじっと人の顔見つめて……
 え、えと、何か変ですか? やだな、ちゃんとお化粧直したのに……」

気まずそうに目を泳がせ、戸惑いを顕とするその“顔”。

「ぴゃあ! 恥ずかしいですってばもう、なんなんですかー!」

「お前――」

39 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:20:35 ID:jePDeZ3M0
両手で顔を覆い隠し、目の前から隠された“顔”。
俺の言葉に呼応し、開かれた中指と人差し指の間から覗く“目”。

「不細工だな」

理解が追いつかず、ぽかんと口の開いた間抜けな“顔”。
理解が追いつくとともに紅潮し、釣り上がる“眉”。

「あんまりですよ先生! 乙女の純情もてあそんでこのやろー!」

迫力のない“顔“でわあわあと、私は怒っているぞと精一杯主張するその頭部。
砕けてもおらず、黒穴が広がってもいない、その、目まぐるしく移り変わる、人の、“顔”。

照出の、顔。

「食べないのなら先に帰るぞ……………………デレ」

立ち上がり、会計へと歩を進める。
ばたばたとした物音と共に背後から、強い勢いで騒がしい声がぶつけられる。
俺は気付かれないように、僅かに、僅かに身体を傾けて、俺を呼ぶその者の顔を確かめた。

「先生、いまデレって言いました? デレって言いましたよねせんせー!」

とてもうれしそうに笑う、その顔を。

照出麗奈について判明したこと。
ひとつ。不細工という形容には腹を立て、それから……デレと呼ばれると、喜ぶ。


書ける気がした。


.

40 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:21:06 ID:jePDeZ3M0
               ※

『星の水母は月へと唄う』。新作のタイトルである。
都合十二ヶ月以上も放置し続けていたこの新作、驚くことに、
本腰を入れてから一ヶ月に半月程度で書き終えてしまった。

発刊の方も手回し良く、売上も好調らしい。
高良の奴がにやけづらで銭勘定していると思うと気も滅入るが、
それでも以前のほどの嫌気は差さなかった。理由は――あえて、詮索もすまい。
ただひとつの事実として、俺は書いた。一切の薬に頼らぬままで。

「お祝いしましょう、お祝い!」

照出は上機嫌だった。
こいつがうれしそうにしていると何やら負けた気がしてそこそこに不愉快でもあったが、
それに矛盾するような感情も、まあ、少しはあった。少なくともこいつは、約束を果たしたのだ。
クスリなんかに頼らずとも書けるようにしてみせると、そう威勢よく切った啖呵を、現に実現してみせたのだ。
そのことについては見直してやらないでもなかった。言葉にするつもりは、絶対にないが。

「え、行きたいところがある、ですか?」

どこでお祝いしましょうと既に祝いの会を開く心積もりでいる照出に、俺は告げる。
一緒にそこへ行ってほしいと。一切の逡巡なく、照出は俺の言葉を受けた。
「先生の方からそう言ってくれたの初めてで、私うれしいです」と、そう言って。

そして俺は今、苦き思い出ばかりが残る我が故郷へと帰郷している。

「へぇ〜、先生、ここで育ったんですね?」

さびれうらびれ、人気も活気もないこの町をきょろきょろと見回しながら、照出は俺の後をついてくる。
今にも倒壊しそうな木造の小学校。取り潰さて壁を失い、内部が開け広げられたまま放置されている家屋。
剥げた看板の古書店は、もはや開くことも適わなそうな錆びたシャッターを降ろしっぱなしにしている。
俺という人格の軌跡であり、また汚点でもあるこの町を見回しながら、照出は俺の後をついてくる。

見せたいのは、ここじゃない。

41 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:21:33 ID:jePDeZ3M0
「先生、ここは……?」

照出の質問に答えぬまま、俺はそこへ登り始める。小高く盛り上がった丘。
この場所が町で唯一の総合病院から一望できることを、俺は知っている。
丘を登る。群生する木々が林立する林へと入っていく。
照出はこのような自然に分け入ると想定していなかったのか、些か歩きにくそうに俺の後を追っていた。
登るペースを落とした。

外に比べ差し込む光は少ないはずなのに、陰鬱に沈む町よりもむしろ静謐な輝きを感じさせる緑の海。
似ているようで確と異なるそれぞれの樹木。時の流れの緩やかな場所。
あの時から、何も変わらぬ場所。先生が生きていた、あの頃から。

しかし。

『ささやいてくれたんだ、彼女の方から。ぼくに会いたかったって』

緑の中心で、俺は立ち止まった。行く宛を失って。俺にはそれを、見つけられないから。

『おかしいかな――』

それは『先生の木』であって、俺の木ではないから。

「先生……?」

「昔」

ささやきなど、俺には聞こえないから。

「男が一人、ここで首をくくったんだ」

だから俺は、見つけられずにいた。今も――。

「首を、くくったんだ」

今も、先生の死を見つけられずにいた。

「太陽が……」

先生の死のその先を、見つけられずにいた。
見つけることなど叶わぬと、ずっと、ずっと、そう思って生きてきた。

だが――。

42 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:21:59 ID:jePDeZ3M0
場違いな電子音が、清閑にそよぐ枝葉を揺らした。
照出が、バッグからそれを取り出した。携帯。
密室から掬い出され、それが放つけたたましさは更に巨大なものとなる。
人と人とを無為にも有為にも結ぶつけるその文明の利器を、照出は見つめていた。
俺は何も言わなかった。何も言わず、照出の“顔”を見つめた。見つめて、照出の行動を、待った。

照出が、振動するそれに触れた。無機質なメロディが、止まった。

「あのね、先生。私の家、父子家庭だったんです」

照出麗奈は、語りだす。とつとつと、己が過去を振り返りながら。

「兄弟もいないからお父さんと二人切りで。
 でも、さみしいと思ったことはなかったんですよ。お父さん、やさしかったから」

それは、照出麗奈という女の起源。彼女が辿った生の足跡。

「もちろん、大変な思いをする時もたくさんありましたよ。
 でもね、くるしい時はデパートなんです。お父さんが、教えてくれたんです。
 二人で甘いお菓子をいっぱいに分け合えば、つらいことは半分で、うれしい気持ちは二倍になるって。
 そうして分け合える人がいれば、どんな“くるしい”も乗り越えられるって」

何を愛し、何に頼ってきたか。

「私、お父さん、大好きだったんです。うそじゃないんです。本当に、そう思ってたんですよ」

何と出会い、何と交わり、何と生きてきたか。

「そのころ私は大学生で、ちょうど浮かれてる真っ只中で、
 お父さんとも離れて一人暮らしを満喫していたんです。
 勉強もしてはいたけど、それ以上に遊んで、食べて、お仕事の真似っ子して」

何を抱えているか。

「その日ね、お父さんから電話があったんです。数カ月ぶりだったと思います。
 でも私、友達との約束を優先したんです。明日掛け直せばいいやって、電話、取らなかったんです」

何を、痛みとしているか。

「お父さん、死んじゃいました。その日の夜に。中毒死だったそうです。違法ドラッグの、薬物中毒」

何を、嫌悪しているか。

「周りは、私のことを慰めてくれました。お父さんを悪く言って、私は悪くないって。でも――」

43 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:22:28 ID:jePDeZ3M0
照出は語った。

「慰められれば慰められるほど私、つらかった。いっそ責めて欲しいって、何度も思った。
 だって私、お父さんの声を無視したんです。自分は何度も助けてもらっておいて、
 ぎりぎりで発したお父さんの訴えを、“くるしい”を分かち合う最後のチャンスを、
 私は無視しちゃったんです。誰がどんなに慰めてくれたって、
 私がお父さんよりその日限りの遊びを優先したのは絶対の事実なんです」

己について。

「みんなが本気でやさしくしてくれてることは、判るんです。だからなおさら私、嫌だった。
 みんなの応援に応えて、ありがとう、私はもう元気だよって、そう笑って返したかった。
 でも、できなかった。やさしくされて、腹がたった。みんなにじゃない。私自身に。
 それで、わかっちゃったんです。私、自分のこと、嫌いになっちゃったんだぁって」

己の価値観について。

「嫌いで嫌いで、消えちゃえばいいのになぁって、毎日そんなふうに思ってました」

己の価値観の変異について。

「――そんな時です。先生の『太陽を見上げた狼』と出会ったのは」

価値観を変じる、その切欠について。

「あのね、先生。できれば笑わないでほしいんですけど……
 『太陽を見上げた狼』を読んで私ね、感じたんです。これは、私に宛てた本なんだって」

その出会いについて。

「真剣に、そう感じたんです。それで――」

その奇跡について。そして――。

「……なんだか全部、赦せる気がしたんです」

赦しに、ついて。

照出は語った。とつとつと語った。
自らが自らとして形成されるに至った、その足跡について、語った。
彼女は自らの足跡を、自らを形成したその人物に向けて、語った。
語ってくれた。

44 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:22:52 ID:jePDeZ3M0
「先生、これ、受け取ってもらえますか?」

そう言って彼女は、ずっと持ち歩いていた袋を渡してくる。

「こんなものしか思い浮かばなくって、恥ずかしいんですけど……」

開けてと雰囲気で催促する彼女の声に応え、袋の裡に包装されたそれを開く。

「でも、それも私なんです。足りない所まで含めて、私だから」

そこに秘されていたのは、いつかのデパートで見かけたサンダル――
あの、ローマ人のサンダルだった。かわいいと聞かれ適当に相槌を打った、あの時の。

「先生、私はここにいますよ」

ローマ人のサンダルを抱えた俺に、彼女が笑う。

「先生に救われて私、ここに生きてます」

笑う彼女を、俺は見つめる。
俺の世界で唯一、同胞という意識を思い出させてくれるその顔を。
親愛を抱かせる微笑みが気恥ずかしそうに、いたずらっ子のそれへと変わった。

「……プレゼント、びっくりしました?」

……正直に言えば、予測はしていた。もうずっと前から欲しいものについて聞かれていたし、
これだけ不自然に大きな袋を持ち歩るかれては、意識しないほうが不自然というものだった。
中身こそ想定外ではあったが、そういうつもりなのだろうとは、予測していた。だが――。

「……ああ、びっくりした」

「ふふ、やった」

期待に溢れた目が、喜びに変わる。構わないだろう、小さなうそくらい。この顔を見るためならば。
林の中に、風が吹き込んだ。草葉が揺れ、自然の音色が一帯に奏でられる。清新な空気に抱えた重みが運ばれる。
照出が、一本の木を見ていた。じっと、不思議そうな顔をして。
その様子を見つめていた俺の視線に気づいて照出は、少し困ったように口を開いた。

「なんだかあの木、私達にささやきかけてたみたいで。……えへへ、気のせいですね、きっと」

俺は何も言わなかった。そうかもしれないし、そうでないかもしれないと思ったから。
どちらであってもよいと、そう思えた。そしてそれから、こんなことを思っていた。
いつか……いつか一緒に、並んでやってもいいかもしれない。
あの行列のシュークリームを、いつかこいつと、並んでやってもいいかもしれない。
待ってる時間とやらを、共有してやっても。

そんなことを俺は、風吹く緑の演奏に包まれながら思っていた――。

45 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:23:19 ID:jePDeZ3M0
               三

悩んでいた。深刻に悩んでいた。
『星の水母は月へと唄う』を出してから半年。
あれから更に一作書き上げ、今また新たな作品に取り掛かっている現在。
俺は今、すこぶる悩んでいた。それは新作の構想について――ではなく、
もっと卑小で、身近で、個人的な私事。しかし俺にとっては、大きな意味を持つそのこと。

照出の誕生日が、近づいていた。
プレゼントとは、何を贈ればよいものか。

思い返してみても、人に何か贈り物をしたという記憶がない。
そのように親密な交歓を図ってこれた知人などただの一人もおらず、
また打算やへつらいの絡まぬ私的な贈り物を寄越してもらえた覚えも、一度もなかった。
ましてや、女になどと。絶対的に、経験が不足していた。困っていた。
だがしかし、ならば何が良いかと第三者に相談するなど、かように恥さらしな真似ができる訳もなく。

照出は、あのローマ人のサンダルをくれた。
それは、適当な相槌だったとはいえ俺自身が下した評価を基準に判断した結果だ。
然るに照出の日頃の言動を想起することによって候補となる物品を絞るのが
王道の上策であると考えられる。られるのだが……事はそう、単純でもなかった。

照出麗奈という女は実に喜怒哀楽のはっきりとした、自分の感情を表に出すことを躊躇わない女だ。
好きなものには好きと、はっきり口にする。それは俺も知っている。それらの幾つかを覚えてもいる。
だが――好き好き好きかわいいかわいい好き好きかわいい好きかわいいかわいいかわいいかわいい……
俺は知る。何でもかんでも好き好きかわいいという輩にとって結局何が一番好きなのか、
外部から判断するのは至難の業であるということを。候補が、まるで絞れん。

適当に何か見繕い、居丈高にそいつをくれてやればよい。そういう意見もあるだろう。
が、この誕生を祝う行為については俺が手ずから企図したことなのだ。中途半端は、願い下げである。
やるからには最高の準備を施し、最高の結果をもたらしたい。
……あいつは、まあ、何をくれてやっても喜ぶだろうがそれはそれ、これは俺の尊厳の問題なのである。
なにせこいつは、俺から照出を祝う初めての催事となるのだから。

であるからして俺は、会話の中から聞き出すという古典的な策を用いて戦いに打って出ると決めた。
抜けた所の多い照出からならば、俺の話術でもなんなく探り出すことができるはずだ。
勝算は高い……はず。いや、仮に低くとも戦い、そして成し遂げる。そして、そう。成功した、その暁には――。

46 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:23:43 ID:jePDeZ3M0
それにしても、遅かった。
いつもであればとっくのとうに、様子を見に来たと顔を出していておかしくない時間だ。
人を待たせて、何を道草食っているのか。またぞろ木から降りれなくなった子猫でも救出しているのか。
それとも迷子を交番まで届けているのか。いずれにせよどうせ、弱者の救済にでも勤しんでいるのだろう。
まったく、あいつの性向にも困ったものだ。待たされる者の身にもなってもらいたい。

インターフォンが鳴った。ようやくか。俺は努めて冷静を装い、玄関へと向かった。
シミュレートは充分に行った。いかなる会話パターンにも対応できるようルートを分析し、
目的へ導くためのフローチャートも確実なものへと練磨した。そして辿り着いたひとつの解法。
肝心なのは、初手だ。初手で流れをつかめば、後はどうとでもなる。逆説的に、初手を逃してはならない。
扉を開き、最初に放つ一語。その言葉を脳内で反芻し、俺は扉を開く――。

そこには、見知らぬ男が立っていた。

「お世話になっております先生。照出の代理で参りました、したらば出版第三編集部の盛岡と申します」

俺の目論見は、どうやら初手から躓いたようだった。

47 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:24:08 ID:jePDeZ3M0
気が滅入った。照出の代理で来たというこの盛岡という男といると、とかく気が滅入った。
まず、覇気がない。常に茫漠と幽鬼のような態度で、返事をしても「はぁ」だの「へぇ」だの
こちらの言葉を理解しているのかいないのか、全般的に気力が感じられない。
新作の構想について話しても褒めるでもなく貶すでもなく、お任せしますの一点張り。

「先生は、どうして小説なんか書いてるんですか」

そのくせ、余計なことだけは聞いてくる。

「私も昔は、書いてたんですよ。アマチュアですが。
 それなりに読まれて、それなりにちやほやされて。まあ、悪い気はしませんでした」

聞いてもいないことは話してくる。

「プロになることも、考えなくはありませんでした。
 それなりに読まれてましたから、それなりに稼いでいけるんじゃないかと思いまして。
 でも、やめました。なんだか急に、アホらしくなって」

抑揚も感情もない、不気味な声で。

「私の中には、何もなかったんです。
 ちやほやされるのも、金を稼ぐのも、別に作家にならなくとも得られるものです。
 むしろ作家なんかより他の職を目指したほうが、そんなものもっとずっと簡単に手に入れられて、
 おまけに安定も得られる。そう思った時、判ったんですよ。私は別に、小説が好きな訳じゃないんだと。
 小説に対する思い入れなんて、何もなかったんです」

情熱の失せた声で。

「それで結局人生設計諸々失敗して、今はこんなしがないサラリーマンなんぞしてるわけです。で、先生」

憐れむような声で。

「先生は、どうして小説なんか書いてるんですか」

48 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:24:55 ID:jePDeZ3M0
数日の辛抱だ。そう言い聞かせ、俺は盛岡を無視した。数日もすれば照出がもどってきて、元の生活にもどる。
高良のやつがどういうつもりでこの男を送ってきたのか知らないが、俺にこいつは合わない。
いや、こいつでなくとも、誰も俺に合いはしないのだ。……照出を、除いては。
だから俺は待った。さっさと帰ってこい。いつまでも人を待たせるなと腹を立たせて。

だが、三日経ち、五日経っても照出はもどってこなかった。流石に不信が募った。
俺の預かり知らぬところで、何か異変が起こっているのではないかと。盛岡は当てにならなかった。
自分は代理に来ているだけで、他のことはよく知らないと、それしか言わなかった。

直接電話を掛けようとも思った。何度も思った。だが、結局やめた。
電話を掛け、それで何を話せばよいというのか。お前がいなくてさみしいとでも?
それともどうして一人にするのだと怒り狂う? バカなそんな、みっともない。そんな真似、できるわけがない。

それに……それに。切羽詰まって電話をするという行為そのものに、抵抗があった。
それは、必要以上に照出を追い詰めてしまうことになるのではと思われて。
父との一件を、おそらく一生抱えていくであろう照出の心傷を、可能な限り刺激してやりたくはなくて。
故に俺は、自分から電話を掛けるのは、やめた。そうして更に二日経ち、三日経ち、そして――十日が経過した。



「これはこれは先生。どうですか盛岡とは。うまくやれていますか」

あいつも変わり者ですが実績はある男でしてね、
読書数はうちの中でも随一ですしきっと先生のお役に立つはずですよ。
軽薄な声で、べらべらと自分の都合ばかり話す。本当に、勝手な、高良。
俺が抱く“編集”像そのものである男。この世で最も唾棄すべき存在。

「照出は」

だが、そんな男でも部署を預かる群れの長だ。
長じてなお使えぬ男では有るものの、それでも部下の動向の把握くらいはできているはずだろう。

「照出は、どうした」

最低限の期待を込めて、尋ねる。しかし、返ってきたのは沈黙だった。
まさか、この程度の期待にも応えられないのか。早くも憤りつつ、それでも俺は高良の返答を待った。
すると電話校の向こうから、高良の声が聞こえてきた。聞こえてきたのは、唸り声。

49 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:25:38 ID:jePDeZ3M0
「……もしかして、照出から聞いていないんですか」

不愉快さを隠さない声で、高良はいった。
まるでこの質問をする俺の方こそ非常識であると詰めているかのように。

「あいつならもう、先生の担当にはもどりませんよ」

心臓が、縮んだのを、感じた。
どういうことだと問いかける前に、高良が話を続ける。

「もう辞めるんですよ、あいつ。まだ在籍はしてますけど、任せてるのは事後処理だけで」


のどの奥が張り付く。眼球が乾く。「なぜ」。俺はそう、絞り出すように問いかける。
不満を前面に表して、高良はこともなげにそれに答えた。


「結婚ですよ結婚。寿退社ってやつです」


これだから女は困るんですよ、計算が立たなくて。うちの娘も最近すっかり生意気になりまして――。
電話口の向こうで、高良が文句を言い続けていた。しかしそれらの言葉はもう、俺の耳へと入らない。
俺は、見上げていた。ここしばらくの間――半年程の間、意識せずにすんでいたものを見つけて。
天井から吊り下がっている“その人”を見上げて。


『おまえはわるくないよ』


俺にはもう、かつて太陽であったそれの声しか聞こえなくなっていた。

50 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:26:10 ID:jePDeZ3M0



「よお、奇遇だな」

電車で、ジョルジュと会った。隣に、ジョルジュが座ってきた。
ジョルジュの鞄の中から、大量の紙の束が、見えた。

「……持ち込みですか」

「ああ……ああ、そうさ」

ジョルジュが、鞄ごと、紙の束を、抱きしめた。
抱きしめられた紙の束が、ぐしゃりと音を立てて、折り曲がった。
ジョルジュの口の端から、よだれが流れ落ちているのが見えた。

「こいつは大傑作だ。間違いない。俺がこれまで書いてきたものの中で、最高の一作さ。
 こいつさえあれば俺も、間違いなく返り咲くことができる」

「そうですか」

会話は打ち切られた。夕焼けの差し込む電車に、俺達は並んで揺られた。
がたんごとん、がたんごとん。心臓のリズム、心臓のリズムだ。
そんな考えが意味もなく、頭の中に浮かんでは消えた。

「嫉妬してくれ」

とつぜん、ジョルジュが言った。

「嫉妬してくれ、嫉妬。お前だけでも嫉妬してくれ。生きてくためには、そいつが必要なんだ」

電車に揺られながら、ジョルジュが言った。

「頼むよ。俺はまだ、自分を信じてたいんだ」

俺を見ずに、ジョルジュが言った。

「なあ、頼む。頼む――」

何も見ずに、ジョルジュが言った。

「……そうかい」

電車が止まった。したらば出版本社の最寄り駅に。
覚束ない足取りで、ジョルジュが電車から降りていった。俺は、降りなかった。
降りようとして、しかし、身体がそれを拒絶した。電車が発進した。
どこへ行くとも知れぬまま、電車に揺られ続けた。

がたんごとん、がたんごとん、心臓のリズム、心臓のリズム――。

51 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:26:40 ID:jePDeZ3M0
               ※



ジョルジュが人を殺して捕まった。

被害者は彼がデビューした当時担当していた編集にて、現したらば出版第三編集部編集長――高良文彦。
拘束直後のジョルジュからは重篤な薬物反応が検出されたため、警察ではその販路の捜査も進めていると報道された。


.

52 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:27:04 ID:jePDeZ3M0
               ※

















書けない。


.

53 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:27:35 ID:jePDeZ3M0
               ※


「海の向こうからね、来るんですよ、商売人が。金と鉛とネタを担いで」

……。

「親父が存命なら、許しゃしなかったでしょう。
 でもね、息子ってなぁ、父親の後追いじゃ満足できんのですよ」

……。

「親父が偉大であればある程、親父と違う形で自分を立てなきゃならん、なんとなれば殺さにゃならん。
 そうでもなけりゃ不安で不安でたまらない。いつまで経っても自分で自身を愛せない。
 本能でそう、理解しているんですな」

……。

「私もね、判らなくはないんですよ。男ですからね、私も。しかしね、連中はダメです」

……。

「連中の頭にゃ、銭勘定しかない。人間が、おらんのですよ。人を見て、けれどまるで見ちゃおらんのですよ」

……。

「それじゃ、いかんのですわ。こんな稼業に身をやつしているからこそ、忘れちゃいかんのです。
 自分が何を相手にしているのか。目の前の相手に、自分が何をしでかそうとしてんのか。
 人間を、顔を、直視した上で仕事しなけりゃならない」

……。

「私ァね、そう教わったんですよ。亡くなった先代から。何事も、愛がなきゃあいかん。
 愛がなきゃあ、人間おしまいだァ……ってね」

……。

「なあトラよ。お前さんもそう思うだろう?」

「はいキツネの兄貴。俺もそう思います」

「そうかいそうかい。……お前はホント、不器用だねぇ」

「恐縮です。……そうでしょうか?」

「自覚のなさがその証明さね。なあ先生……先生も、そう思いやしませんか」

……。

「なあ、先生」

54 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:28:00 ID:jePDeZ3M0
「……キツネ」

「くっくっ、せっかちですな。わかってますとも、書くんでしょう?
 愛してもらえるもんを。色々くっちゃべっちまいましたが案外、それで正解だったのかもしれませんな」

……。

「怒っちゃいませんよ、残念ではありますがね。私ァ本当に、先生のファンだったもんですから」

……。

「じゃ、こいつでおそらく最後です。いいですか先生、ここいらはもう、
 うろついちゃあいけませんよ。私らの勝手にカタギを巻き込みたかァないんでね」

……。

「こいつァ、私のケジメですから」

「……なあ」

「なにか?」

「……愛って、なんだ」

「…………くはっ」

「なあ」

「くくっくくく……皆まで言わせんでください。そんなもん、決まってるでしょうよ」

……。

「そいつの幸せを祈っちまいたくなる気持ち、ですよ」

……。

「相変わらず繊細ですな、先生は」

……。

「嫌いじゃなかったですよ、先生との逢瀬。もう一度会えることを望んじまうくらいにはね」

……。

「それじゃ先生、お達者で。幸せってやつに、どうぞよろしく」


.

55 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:28:20 ID:jePDeZ3M0
               ※


その役職上の責務を放棄し、己が助かるため教え子三〇余名を見殺しにして逃げ出した教師。
「お前たちを一人にしないためだろ!」。針のむしろとなった環境に耐えきれず、
都合のいいことを叫びながらその家族すら捨て去り逃げ出していった男。
逃げて、逃げて、逃げて逃げて逃げ続けることしかできなかった哀れな存在。
それが、ぼくの父親だった。

父が逃げ、町に残された母とぼくは父が被るはずであった憎悪を一身に受け、
誰に頼ることもできない生活を送っていた。そうした生活の中で、母は事あるごとに謝っていた。
頭を下げない日はなかった。町内会で、近所で、保護者の中で、いつも肩身狭く頭を下げていた。
そして、ぼくにも。

母はぼくを抱きしめ、謝った。
「ごめんね、ごめんね、あんな男の息子に産んでしまってごめんね。お母さんの子にしてしまってごめんね」。
母は謝った。何度も何度も、ぼくが泥をぶつけられて帰ってきた時、給食費を盗んだ犯人に仕立て上げられた時、
頭から血を流した時、何度も何度も、母はぼくに謝った。
ごめんねごめんね。産んでごめんね、産んでしまってごめんね。

母はあれで、慰めているつもりだったのだろうか。
そうかもしれない。あの人は学のない、悲劇に酔いしれることで
恍惚とすることだけが生きがいの女だったから。
頭を働かせ、手に職をつけ、町から出ていくという手段をついぞ取らず、
おそらくはそのような“不快なこと”など一度として考えなかったような人だから。

母は逃げなかった。しかしその停滞は、けして強さから出ているものではない。
子供ながらに感じ取っていた。母はただ、考えることを放棄しているだけだったのだ。

父も母も嫌いで、恐ろしかった。
嫌いで恐ろしいこの両者が自分の起源であるという事実にもまた、恐怖心を抱いた。
産まれたことを謝られるような存在。それがぼくなのだという苦痛が、
何をしていても、どこにいてもつきまとった。

生まれなければよかったのだ。そう思うまでに、時間は掛からなかった。
死んでしまえばいいのだ。そう思うまでに、時間は掛からなかった。いつも思っていた。
どうすれば死ねるのだろう。頭を強く打てば死ねるのだろうか。学校の屋上から飛び降りれば死ねるのだろうか。
包丁で首を挿せば死ねるのだろうか。トラックの前に飛び出せば死ねるのだろうか。
いつも、いつも、死ぬことを考えていた。

ぼくはぼくが、嫌いだった。
だからぼくはいつだって、ぼくを消し去ってしまいたがっていた。

56 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:28:49 ID:jePDeZ3M0


『そうかい、ぼくの本を読んでくれたんだね』


先生と出会ったのは、そうして死ぬ方法ばかりを考えていた時のことだった。
剥げた看板を掲げた古書店。その古書店の中に積まれた、簡素な造りの安っぽい本。
それは明らかに手作りで、市販されているものではないと一目で判った。

ぼくはそれを、何の気無しに持ち帰った。何かを期待していたわけじゃない。
ただ無料だったから、持っていっていいと言われたから、
そのまま持って帰っただけ……ただそれだけのことに過ぎなかった。

だから本腰を入れて読むつもりもなかったし、ただぱらぱらとめくってそれでおしまい、
死ぬことと死ぬことを考える間のちょっとした休憩程度に消費する、
それだけのつもりでぼくは、その安っぽい本をめくった。

泣いていた。訳も判らず、泣いていた。物語をきちんと読み解けた訳ではない。
難解な語句、まだ習っていない漢字も多用された文章は決して読みやすいものではなく、
おそらくは全体の五割も理解できていなかったのではないかと思う。

それでもぼくは、魅了された。
そこに内在する“なにか”を感じ取り、狭く閉じた世界が大きく広げられたのを感じた。
そして、ただただそして――赦せる気が、したのだ。

ぼくは直感した。これはぼくの為に書かれた本だと。真剣にそう感じ、そう信じた。
だから、会いたいと思った。これを書いた人に、その人に会わなければならないと思った。
何が何でもそうしなければならないと思った。こんなに強い衝動、生まれて初めてのことだった。

当時すでにもうろくしていた古書店の店主から何とか詳細を聞き出してぼくは、
一目散にその人に会いに行った。多大な期待と、一抹の不安を抱えながら。どんな人だろう。
受け入れてくれるだろうか。他にも書いているのだろうか。嫌われたりしないか。
きっと素敵な人に違いない。きっと素敵な人に違いない。そうに、違いない。


そしてぼくは出会った。その人に。先生に。ぼくの――太陽に。

57 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:29:16 ID:jePDeZ3M0


『そうだね、お前の書くものは――』

先生は、高校生だった。高校生だったけれど、けれどぼくの知るどんな大人よりも大人で、
頭が良くて、やさしくて、輝いていた。先生は様々なことを教えてくれた。
学ぶこと、遊ぶこと、生きること、愛すること。どれもむつかしくて、けれどどれも大切で。
その大切なことを、先生は自分自身で体現していて。

片時も離れたくなかった。いつでも側に居たかった。
目の眩む眩き光を浴びて、その光の一部になりたかった。光に溶けてしまいたかった。
先生のようになりたかった。先生のような人になりたいと、強く願った。先生の真似をした。
海外のむつかしい映画を観た。小学校では教えてもらえない学問の本を読んだ。
思索の論理と、自分自身で答えを探りだす哲学を覚えた。

先生に倣って自分の木を見つけた。病気に罹り、廃棄される寸前だったその木の赤児。
そいつのささやきが、ぼくには聞こえた気がした。それが誇らしくもあった。
先生に近づけた気がしたから。先生は言ってくれた。『お前はその子を、愛してあげなくっちゃいけないよ』。
その時の感情を、文章に書き表した。書くという行為を知った。
小説を、書き始めた。

すべては先生の模倣から始めたことだった。先生がぼくの道標だった。
先生はぼくの父だった。父であり、母ですらあった。先生はぼくのすべてだった。太陽だった。
ぼくという穴蔵に潜む虫けらを羽化へと導いてくれる、天上にて燦然と輝く太陽そのものだった。

58 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:30:00 ID:jePDeZ3M0
ああ。
太陽だった。
太陽だったのだ。
確かに先生は、太陽だったのだ。


その太陽を沈めたのは、ぼくだ。


『おまえはわるくないよ』

呂律の回らない声で、先生は言う。

『おまえはわるくないよ』

砕けた頭を揺らして、先生は言う。

『おまえはわるくないよ』

穴の奥で欠けたそれをぬめらせ、先生は言う。

『おまえはわるくないよ』

いつものように微笑んで、先生は言う。

『おまえはわるくないよ』『おまえはわるくないよ』『おまえはわるくないよ』。


そして微笑んだままに先生は、その首をくくって死んだ。


.

59 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:30:28 ID:jePDeZ3M0


悪いのは、ぼくだ。なにもかも、ぼくのせいだ。
先生から言語を、聡明さを、未来を奪ったのは、ぼくだ。
輝かしい太陽を無間の洞へと沈めたのは、ぼくなんだ。


償わなければならなかった。
ぼくの人生を賭けて、償い続けなければならなかった。

――いや、それとて言い訳かもしれない。ぼくはただ、耐えられなかったのだ。
先生が、あの太陽が、世に出る前に失墜してしまったなどという事実に。
ぼくだけの太陽で終わってしまったなどという事実に。ぼくはただ、耐えられなかったのだ。

世に知らしめなければならない。
先生の素晴らしさを、先生の偉大さを、先生の輝きを世に知らしめなければならない。
この世に生きる万民を、先生という無二なる光輝で照らさなければならない。
これより続く人類史に、先生という絶対の痕跡を刻みつけなければならない。
そうでなければ、耐えられない。しかし、先生は、喪われてしまった。

だから、ぼくが、やるのだ。
先生の模倣者であるぼくが、先生が書くはずだったものを、
歴史に刻むはずだったものを、この世界にそのままの姿で残すのだ。

誰よりも先生を尊び、誰よりも先生を愛し、誰よりも先生を理解しているぼくが――
俺が、やるのだ。やらなければならないのだ。

俺にしか、できないんだ。

書いて、書いて、書いて。
書いて、書いて、書いて、書いて。
書いて、書いて、書いて、書いて、書いて、書いて。
誰もが喜悦に耽るような先生の小説を、太陽を、俺が、書いて、書いて、書いて――――



古臭いんだよね、あんたの書くモン


.

60 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:30:55 ID:jePDeZ3M0
               ※

「先生、しっかりして先生! 先生、先生!!」

呼吸が、苦しかった。
苦しくて、酸素を求めて、空気を送り込む経路を作ろうとして首を掻きむしっていた。
苦しみはまるで和らぎなどせず、少しでも酸素のある場所を求めて転がった。
ごつごつと付近のものにぶつかったが、不思議と痛みはなかった。
ただただ酸素が足りなかった。呼吸ができなかった。苦しかった。

身体を押さえられた。暴れた。酸素が欲しかった。酸素。奪うつもりかと思った。
独り占めするのかと。俺に渡さないつもりかと。認められなかった。奪うつもりなら、それは敵だといえた。
俺から酸素を奪う、敵だと言えた。暴れた。敵を引き剥がして、酸素を得るために暴れた。
暴れるほど起動は狭く、呼吸は苦しくなっていった。敵が、ひときわ強く俺を、拘束した。

「先生……」

声が聞こえた。遠い場所から。懐かしい、ずいぶんと懐かしい声が。
呼吸が聞こえた。鼓動を感じた。それに合わせて、肺を動かした。
少しずつ、少しずつ、酸素が胸の奥へと入っていった。

月が出ていた。差し込んだ月明かり。
『俺の木』が、その影を部屋の奥へと伸ばしていた。
俺に抱きついている者の影が、部屋の奥へと伸びていた。
すんすんと鼻を鳴らしてそいつは、俺の影に覆い被さっていた。

誰だ。知ってる。よく知っている。
俺はこいつを知っていて、それで、何かを言うつもりだった。
言いたかった。でも、なんだったっけ。俺はこいつに、何を言おうとしていたんだっけ。

……ああそうだ、そうだった。

61 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:31:19 ID:jePDeZ3M0
「……おめでとう」

祝うんだった、そうだった。

「おめでとう、おめでとう、照出麗奈さん、ご結婚おめでとう、おめでとう」

結婚おめでとう、おめでとう。目出度いことだ。だから祝うのだ。
そうだったはず。そうするつもりだったはず。……そうだったろうか?

「先生、私……」

「おめでとう、おめでとう」

「先生」

ぎゅうと身体を密着させて照井でが、耳元で俺を呼んだ。
脳が揺れた。ぼやけた視界に輪郭が、急速に伴っていく。

「私これから、言い訳いいます。みっともないけど、
 でも、誤解されたままなのはいやだから、言い訳、いいます」

こいつ、こんなに小さかったんだな。
そんなことを思いながら俺は、照出の話を聞く。

「お父さん、借金、残してたんです。
 すっごい、たくさん。私じゃどうしようもないくらいの借金、たくさん」

照出と出会ってからこれまでのことを、思い出しながら。

「叔父が――おじさんが、肩代わりしてくれたんです。
 おじさん、工場の社長さんで、私のためならそれくらいなんてことないって、
 当たり前みたいにお金、返してくれて」

あだ名で呼んでくださいなどと、ずいぶん軽薄なやつだと苛立った。

「それからも、面倒見てくれて。私が大学を卒業できたのも、
 いまの生活を送れているのも、おじさんのおかげなんです。でも……」

キツネとの取引を邪魔された時は腹が立つ以上に呆気に取られて、
「書かせてみせる」なんて宣言もずいぶんと傲慢で。

「おじさんの工場、潰れそうなんです。大きな会社に仕事取られちゃって、
 銀行からもお金、借りられなくなって。手を出しちゃいけないとこにも、手を出して。
 ふくよかだったお腹もどんどん、どんどんへこんでいっちゃって。ぜんぜん、笑わなく、なっちゃって……」

けれど、あんなふうにぶつかってきたやつは、初めてで。

「だけどね先生、助け舟が現れたんです。おじさんの大得意の取引先の社長さんが、縁談を持ってきて。
 なんでも社長さんの息子さんが、私のことを気に入ってくれたみたいで。
 私がその……婚約を受けるなら、なんとかするって」

62 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:31:50 ID:jePDeZ3M0
学生の遊びみたいな行楽は、正直きつかった。
自然との触れ合いだのレジャーだのは、肌に合わなかった。

「私、それでも悪くないって思いました。
 相手の人のことはよく判らないけど、でもそれでおじさんに受けた恩を返せるなら、それでもいいって。
 でも、でも……私その人に、言われたんです」

だが、一生懸命だった。

「仕事を辞めて、家庭に入ることが条件だって」

一生懸命なのは、感じていた。

「……私、辞めたくなんかありません。まだまだ先生と一緒に、仕事してたいです。
 私が先生の本を読んで救われたみたいに苦しんで、自分だけじゃどうしようもなくなっちゃった人が
 立ち上がるそのお手伝いを、私だって、したい」

だから、期待していた。今だから素直に思えるが、俺はこいつに、期待していた。

「がんばって、理解してもらおうとしたんです。話し合って、長い時間、説得してみて。
 でも、認めてもらえなくて。時間はどんどん過ぎていって……」

こいつならもしかしたら、俺を理解してくれるのではないかと。

「これ以上引き伸ばしたら叔父は……ほんとに、もう……」

助けて、くれるんじゃないかと。

「何度も電話、掛けようとしたんです。でも、いざとなると怖くて、震えて……」

そしてこいつは、俺の期待に応えてくれた。

「掛けてしまったらもう、後戻りできなくなってしまう気がして……」

その姿を。

「先生は、私の心を救ってくれた。だけど、おじさんは私の生活を守ってくれた」

顔を。

「ふたりとも、大切なんです。ふたりとも大事で、ふたりとも恩人で、ふたりともに幸せになってほしくて……」

見せて、くれた。

「見捨てることなんて、私にはできなくて……だから――」

だから――。

「先生、書いてくれませんか」

63 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:32:17 ID:jePDeZ3M0
必要なんだ。

「私がいなくなっても、書いてくれませんか」

俺にはお前が必要なんだ。

「私、最初は意地になってたんです。
 先生にも、ううん、先生にこそ、先生の書いたものを否定して欲しくなくて」

一人じゃ書けないんだ。

「だって先生がそれを――『太陽を見上げた狼』を否定しちゃったら、
 それに救われた私、 なんだったのってなっちゃうじゃないですか。
 私の信じたもの、うそだったんじゃないかって、思っちゃうじゃないですか。
 だから私、意地になってたんです。私が愛したもの、先生もほんとは愛して書いたはずだって、
 その気持ちを証明してやろうって、そう、意気込んでたんです。だけど――」

自分と向き合いたくないんだ。

「だけどそんな気持ち、この半年できれいさっぱりなくなりました。
 だって私、見てましたから。短い間だけど私、見てましたから。先生の書いてる姿、見てましたから」

自分が本当は何を望んでいるかなんて、知りたくないんだ。

「書き続ける“必要”なんて、ほんとはなかったはずですよね。
 もういやだって投げ出しても、構わなかったはず。それなのにおクスリにまで頼って、
 あんなに苦しみながらも書き続けていたのはどうして? 筆を折ろうとしなかったのはなぜ?」

だから頼む照出、だからどうか――。

「ねえ先生、私知ってます。 ほんとは私なんかいなくても、何に頼ったりなんかしなくても、先生は書ける人だって。
 先生の心を縛るわだかまりさえ解ければ、先生は誰に頼まれなくったって 自由に書いてしまえる人だって。
 だって先生は、あなたは――」

俺の気持ちを、俺の信仰を――。


「“あなた”は“あなたの小説”を書きたくて書きたくて仕方のない人なんだって、私、知っていますから」


「お前は」

どうかお前だけは、どうか、どうか――。

「お前は俺が、あんなくだらない紛い物を好き好んで書いてるって、そう、言いたいのか」

「先生」

否定、しないで――――。

64 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:32:44 ID:jePDeZ3M0



「あなたはもう、自分の人生を生きていいんですよ」


首を、絞める。敵の首を。“編集”の首を。
赦せるものではない。とても赦せるものではない。
この下劣で俗悪な拝金主義の、金というクソにたかる蛆虫共が。
堕落して、思考を放棄して、向上を忘れ惰性と流行に流されることしかできない大衆の権化が。
お前らみたいなのがのさばるから本物が淘汰される。紛い物が蔓延る。
判り易さと中毒性を主張する毒物ばかりが世に溢れていく。

何が古臭いだ。何が一般受けしないだ。何が金にならないだ。
なぜ理解しない。どうして理解の努力をしない。そこに価値が、本物があるというのに。
お前らさえまともなら、俺はこんなに苦しまなくてすんだ。
お前らさえまともなら、俺は先生の小説を書き続けていられた。
お前らさえまともなら、太陽は輝き続けていた。お前らさえ、お前らさえ、お前らさえ――。


そうさ、お前らが先生を否定するなら、俺がお前らを否定してやる。消えてしまえ、一匹残らず――。


『そうだね、お前の書くものは――』

.

65 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:33:09 ID:jePDeZ3M0


「あ」

照出が、咳き込んでいる。首を押さえて、苦しそうに。
手が、熱かった。感触が、まだ、てのひらの裡に残っていた。
絞める、締まっていく、感触が。俺は、いったい、何を――。

「てる――」

「それでも」

欠けた所のない顔で、照出が俺を見て、言った。


「……それでも私、あなたが好きです」


理性が、飛んだ。

「お前らなんかより……」

浮かび上がりかけていた想いが、沈んだ。


「キツネの方が、よっぽど――!」


月明かりに伸びた影が、動いた。影はその姿を移動させ、影の主とともに部屋から消えていった。
静かな音が、けたたましく響いていた。衣の擦れる音が、床の踏まれる音が、世界中に響き渡っていた。
それで、それから……玄関扉が開いて――閉まった。


.

66 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:33:36 ID:jePDeZ3M0
               ※

『太陽を見上げた狼』。
売れるものを書け。最後通告的に課せられた命題に従いあれを書き上げてから、取り巻く環境のすべてが一変した。
原稿を受け取ることすら億劫がっていた高良は掌を返して俺の機嫌を取り始め、
見向きもしなかった者たちがこぞって俺を褒めそやすようになった。
にやけた面で俺を囲み、そしてやつらは口々にこう言うのだ。「前よりずっとよくなったね」。

認めるわけにはいかなかった。
こんな金稼ぎのための紛い物も、こんな紛い物を持ち上げるこいつらのことも、認めるわけにはいかなかった。
敵視して、心の中で強く、強く、強く強く強く蔑み嘲った。
物を知らぬ人以下の畜群めと、他でもない、俺自身にそう言い聞かせた。

頭が砕けた。人々の。かつて目にした最も目にしたくない光景が、世の中に溢れた。
人を人として認識できなくなった。肉眼での認識不全は元より、動画でも、写真でも、
果てはある程度の精巧さを備えた人物画でさえもその頭部は歪に砕け、無間に開いた黒穴に意識を吸い込まれた。
人を、見れなくなった。

そして――先生が、現れた。

67 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:34:02 ID:jePDeZ3M0
「……判ってるんだよ、ぼく。言うほどみんな、愚かなんかじゃないってことくらい」

判っている。この先生が、ぼくの生み出したただの幻覚だってことくらい。

「それでもぼくには、愚かで凶悪な敵が必要だった。
 実像以上の怪物に仕立て上げてでも、みんなを憎む必要があった」

それくらい判っていて、それでもぼくは意識せざるを得ない。
だってそれは、確かにそこにいるのだから。そういう実感があるのだから。

「凶悪で太刀打ちできない怪物たちに、書きたくもないものを書かされている。
 そういう体にしておかないと、だめだったんだ。そういう“ストーリー”が必要だったんだ。だって――」

だからぼくは問いかけてしまう。どうして、どうして。そのように、問いかけてしまう。

「ぼくまでもがぼくの小説を選んでしまったら、誰が先生を証明するの?」

先生はどうして、ぼくを責めてくれなかったの?

「そんなことしたら今度こそ、今度こそ本当に、太陽<あなた>に止めを差してしまう。
 ぼくを救ってくれた光を、“物知らぬ子どもの幼き憧れ<錯覚>”に貶めてしまう。
 それこそぼくには、耐えられない……」

そんなになってどうして、それでもぼくに微笑むの?

「ねえ先生、疲れたんだ。ぼく、とても、疲れちゃったよ」

もう、限界だった。幻覚も、人も、書くことも、生きることも。
全部投げ捨てて、逃げ出したかった。

「もう、眠りたい……」

眠って、ずっと眠って、このままずっと、一生、心地良い、夢の中で――。
沈まぬ太陽を拝む、あの懐かしき夢を――――。

68 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:34:34 ID:jePDeZ3M0



……眠りを妨げる異音。無機質に繰り返される、それ。
携帯の、着信音。まどろみかけていた頭をがんがんと、強く打ち付けてくる。
無性に、腹が立った。それは、俺の所有物から流れるメロディではなかった。
部屋の片隅に、女物のバッグが放置されていた。照出のものだ。音は、あの中から響き渡っていた。

立ち上がる。ふらつく。ふらつきながら、近寄る。
近寄る毎に音は大きく、やかましくなる。血が、沸騰しそうになる。つかむ。
逆さにして、振り回す。裡にしまわれていたものがばらばらと、乱雑に散らばる。
ハンカチ、化粧品、絆創膏、飴の包み、他にも様々な小物がばらばらと、ばさばさと散らばる。
そしてがつんと一際固い音を立てて、規則的な振動を繰り返す携帯がその姿を現す。

殴打するこの音を止めなければならない。その一心で俺は、犯人に向かって手を伸ばした――
が、その手が止まった。ばらまかれた照出の私物の、そのひとつに意識を奪われて。
それは、一冊の文庫本。見覚えのある、その表紙。事ある毎に、照出が事ある毎に名を挙げていた、一編の小説。


『太陽を見上げた狼』。


手が伸びていた。自然と。自然とそれを、つかんでいた。
つかんで、そのすこしひしゃげてしまっている表紙を見つめた。開いた。
ページをめくっていった。どのページにも、痕が残っていた。
皺として、指紋として、読んだ者の感情がそこに残っていた。


顔が、見えた。

.

69 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:34:59 ID:jePDeZ3M0
「……先生」

微笑むそれが。

「あいつ、言ってたんだよ……」

『そうだね。お前の書くものは、ぼくのものとは異なる可能性に満ちているよ』

怒ったそれが。

「ぼくの本を読んであいつ、『私に宛てた本だと思った』って、そう言ったんだ」

『悲しむことじゃないさ。それはお前の宝なんだから。ぼくでは届かない人へと届けられる、お前だけが持つ個性なんだから。だからね――』

喜ぶそれが。

「そんなふうに考えたこと、ぼくにはなかった。ずっと目を逸してきたから。見ないように、してきたから。だから――」

『お前がお前の木を愛するように、お前はお前を愛してあげなくっちゃいけないよ』

泣いたそれが。

「あんなふうに泣いてくれるなんて、考えたことも、なかったんだよ……」

『お前にしか癒してあげられない人々が、お前の小説を待っているんだから――』

感動する、それが。

「ねえ先生……」

読者<愛してくれる人>の、存在が。

「ぼくはぼくの小説を書いて、いいのかな」

『おまえはわるくないよ――――』

顔を上げた。先生の姿は、もう、どこにもなかった。
空は晴れ、外にはすでに、太陽が昇っていた。


.

70 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:35:25 ID:jePDeZ3M0
               ※

苦しい時はデパート、か。
履くのに手間を要するローマ人のサンダルを履いて俺は、街へ出る。
行き先は決まっている。かつて照出と行った、あのデパート。デパートの、その地下。
何故なら地下は、デパートの王様はだから。

大量の菓子を、洋の東西を問わずに大量の菓子を買い込んで、分け合って、食べる。
そうすれば、苦しいは半分に、うれしいは、二倍になるから。

会いたかった。
あんな真似をしでかして、いまさらどんな顔で会えばいいのか。会って何を話すつもりなのか。
何も決めてはいなかった。それでも会わなければならないと――いや、会いたいと思った。
照出に――デレに、会いたかった。

デレに会いたかった。

ローマ人のサンダルの微妙に重く歩きにくいそれを引きずって、地下の空間を練り歩く。
右を見ても左を見ても、デレの奴が喜んでほうばりそうなものばかり並んでいる。
片端から買っていく。ひとつひとつはそこまででも、重なると結構な重量となって
引きこもりの軟な腕をいじめ始める。しかし今は、その痛みすら不快でなかった。

「……あれは」

行列が、目についた。いつかも目にした行列。
店によって、職人によって味も出来もまるで異なるというシュークリームの。
『待ってる時間は、わくわくでいっぱいにする時間なんですから』。デレの言葉が思い起こされる。

女性ばかりが並ぶその行列の最後尾に、俺はそっと潜りこむ。
すぐさま後ろについた女性の視線に多少の肩身の狭さを覚えながら、それでも俺はそのまま待った。
ゆっくりと、ほんのわずかずつ消化されていく列に歩並みを合わせ、これからを思った。

「これからにわくわくしちゃう、か……」

これからのこと、先のこと。俺は、わくわくしているのだろうか。よく判らない。
そう言われればそのような気がするし、違うと言われれば違う気もする。不安は、あった。
未知の未来、いついかなる形で今が崩れてしまうか知れない未来への恐れは、耐え難く俺の裡に巣食っていた。
経験を伴う、恐れが。

デレはこのまま、叔父のために結婚するだろう。それはおそらく、変えようがない。
照出麗奈という性質が、叔父を見捨てるという選択肢を許すはずがないのだから。
それは、苦しいことだった。俺にとってこれ以上ないくらい苦しいことだと、俺はもう、自覚していた。

71 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:36:00 ID:jePDeZ3M0
だが。

デレは、笑った。泣いた。怒った。そして、感じた。俺の本から様々に、感じ取ってくれた。
そのよく動く顔を様々な表情に変じて、自らの血肉に取り入れてくれた。これからも、そうであって欲しいと思った。
これからもずっと、ずっとずっと遠い未来でも、そうして感動していて欲しいと思った。

未来を思うことは不安だった。しかし、それだけではなかった。なかったのだ。
俺はやはり、わくわくしているのかもしれない。あいつのおかげで。デレのおかげで。
俺はどうやら、デレに幸せで居て欲しいと願っているようだった。そうした未来を、望んでいた。


そして、そうした未来を描けるならば。
そうであれば俺も、今こそ、自分の人生を――。


菓子が、手から、落ちた。


.

72 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:36:35 ID:jePDeZ3M0

天井に設置された、ディスプレイ。
そこから流される、物々しい、報道。

ああ――。


「暴力団同士の抗争が――」


どうして――。


ζ(;、;*ζ


「複数の銃声が聞こえ――」


また――。


ζ(^ワ^*ζ


「付近に居合わせた住民が――」


太陽が――。


ζ(゚、 ゚#ζ


「照出麗奈さん二六歳会社員が――」


俺から――。


ζ(゚ー゚*ζ


「死亡――――――――」


墜ちて――――――――。

.

73 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:36:59 ID:jePDeZ3M0











               ζ(:::::: ζ









.

74 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:37:28 ID:jePDeZ3M0
               ※


縄を、用意します。丈夫な縄を。絶対に千切れたりなんかしない、強い縄を。
それで、輪っかを作ります。大玉のスイカや、ボーリング玉が通る程度の大きさであれば問題ありません。
それらがすっぽりと通る程度の大きさに、輪っかを作ります。

輪っかを作ったら、輪っかのが逆側を天井に引っ掛けます。
その際、天井がぐらついていたり、剥がれてしまわないか注意してください。
適切でないと思ったら場所を変えて、しっかりと固定できる場所を探してみてください。
今回は、『俺の木』を使うことにしました。『俺の木』を折って、添えて、信頼できる、天井にしました。
ここまで来たら、残りはわずかです。椅子に乗って、作った輪っかに首を通しましょう。

きちんと通せましたか?
縄は緩んでいませんか?
天井はしっかり固定されていますか?
問題有りませんか?

……なら、準備はこれで完了です。
後は、自分がいま足をつけているその椅子を、蹴り倒せば完了です。
簡単なことです。誰でもできることです。さあ、いざ、足を踏み出しましょう。
あちらに向かって、こちらを蹴り出してやりましょう。

さあ、さあ、さあ。

蹴り出しましょう。蹴り出すのです。蹴るんだよ。蹴り出せよ。蹴れよ。
蹴れよ、“ニュッ先生”。

蹴れ。



……なんだよ。
なんだよ、俺。
結局、なんにも……先生のことなんて、ぼく、なんにも――――――――


.

75 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:37:48 ID:jePDeZ3M0
               明


「なあ先生よ。争いってのは結局、信じる幸せの相違から起こるんでしょうな」

バカをやって、捕まって。そこを親父に拾われて。

「俺の幸せ、あんたの幸せ、あいつの幸せ、時代の幸せ――」

生きた心地なんてしない毎日で、そいつが実に充実していて。

「私はね、お世辞ってもんを口にしたことがないんです。ただの一度も、誰に対してもね」

親父の組を、俺の力で大きくしている実感があって。

「それがね、自慢なんですわ。
 そいつが私の矜持で、美学で、私なりの時代の愛し方ってやつだったんです」

そいつがずっと、この先死ぬまで続くもんだと思っていて。

「あんたの本にも、不格好な意気地を感じた……」

……まあ、若かったって、ことなんだろう。

「所詮は虚しい世迷い言<あの頃はよかった>に過ぎんのでしょうな、
 時代<今>に乗り遅れちまったジジイどもの」

76 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:38:14 ID:jePDeZ3M0
「兄貴、逃げ――」

慌てた声で俺を呼ぶトラの巨体が玄関からこっち、家屋の内側に向かって前のめりに倒れた。
右のこめかみからその反対側まで一直線に、小さな穴っぽこが貫通している。もはや生命ではない。
身体の反射運動によってトラの身体は倒れたままびくびくと跳ね、血をこぼし、それで、やがて止まった。

「……どうやら迎えが来たみたいですわ」

そういって俺は立ち上がる。ここまで話を聞いてくれた相手に、軽い会釈の礼をして。

「先生はそこで楽にしててください。なに、すぐに済みますから。それでは――」

半開きの目で虚空を見つめる、その顔に。

「せめて夢の中で、お幸せに」

別れを告げる。本心から、愛を込めて。

トラへと近寄る。もうそれなりに長いこと、俺の舎弟として側に居続けてくれた男。
見開かれたそのまぶたを閉じてやりながら、心の中で俺は、問いかけた。
なあトラよ、お前は俺に、何をみていたんだい。俺はそいつに、応えてやれてたかい。
返事はない。喉の奥から、笑いの息がこみ上げた。

「意地なんて張ったってまったくまったく、損するばかりでアホらしいもんだ。
 なあトラよ、お前もそう思わないかい? ……くっくっ、意固地だね、お前は」

笑いが止まらなかった。トラの前で。座って。足音が近づいてくる。
複数の、規則正しい足音。冷める。つまらねぇな、おめぇら、そんなとこまで。
本当にそれで、生きてんのかよ。そう感じる。そう感じることが即ち、時代遅れってことなのだろう。

団体さんが、ずらっと並んで現れた。俺はそれを、精一杯に手を広げて歓迎する。
ごきげんよう、新時代。そんでもって――――



あばヨ、せーしゅん


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77 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:39:09 ID:jePDeZ3M0








































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78 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:39:47 ID:jePDeZ3M0








































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79 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:40:13 ID:jePDeZ3M0








































.

80 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:41:16 ID:jePDeZ3M0


















                    あはっ、先生!



















                                         ―― 終 ――

81 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:41:50 ID:jePDeZ3M0
以上です。ありがとうございました

82名無しさん:2021/10/16(土) 00:48:32 ID:aAvzxOHU0
乙!
鬱うつな空気が逸品で胃もたれしそうだww

83名無しさん:2021/10/16(土) 09:31:45 ID:N.9JgeVQ0
乙 胸が苦しくなるのになんだかまぶしさを感じる

84名無しさん:2021/10/16(土) 11:19:56 ID:WyNOQP5.0

展開の急降下に心が追いつかなくて辛い
けど面白かったおつおつ

85名無しさん:2021/10/16(土) 17:01:10 ID:QgvdVgj.0
面白かった 乙

86名無しさん:2021/10/16(土) 21:48:44 ID:S8Kbb7w60
おつです

87名無しさん:2021/10/16(土) 23:23:35 ID:ZIXHGiaU0
こんな救いのないニュッデレを読むことになるとは……いや、全員死んだんだから逆に……うーん……

88名無しさん:2021/10/17(日) 17:13:50 ID:CO5MWvyI0
乙 辛いけど面白かった

89名無しさん:2021/10/19(火) 02:36:56 ID:oCd.4dNA0
すげーよかった

90名無しさん:2021/10/24(日) 12:18:34 ID:ZRd9i10U0
とてつもなくよかった、最高

91名無しさん:2021/10/25(月) 23:18:46 ID:JtanJ9.Q0
感情の濁流って感じ
乙……

92名無しさん:2021/10/26(火) 11:54:06 ID:Obxponbc0
紛うことなき上質な文学…最後どうにもならん気持ちになるのが最高

93名無しさん:2021/10/27(水) 21:21:12 ID:zvOd0ncc0
苦いものを噛んだみたいな後味めっちゃいい

94名無しさん:2021/10/29(金) 01:20:46 ID:FRxD/Ggc0
おつ
これはすごい……

95名無しさん:2021/11/01(月) 15:48:21 ID:oWVtEDLc0
乙乙
ニュッが元々ニュース(“New”s)速報のAAだったの考えると、また何とも言えない感覚が

96名無しさん:2021/11/02(火) 22:48:20 ID:X91TYAcQ0
とことん救いがなかった…乙


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