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それは砕けし無貌の太陽のようです

1 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:00:21 ID:jePDeZ3M0
               昏

光。
燦然と降り注ぐその輝きに、例えこの目を焼かれようと構いはすまい。
身も心も焦がすこの灼熱は、予て待ち望みし恩寵に相違ないのだから。
それを見上げ、それに焼かれ、それに溶けてそれと成る。それこそが幸福。
穴蔵に潜み隠れたる者の、羽化を兆す福音の歓喜。然るべきは再誕の曙光、新生の暁なり。

ああ。
太陽だったのだ。
確かにそれは、太陽だったのだ。
誰がそれを疑おうとも、信仰は我が胸の裡にて完成していたのだから。
何がそれを疑おうとも、疑うことすら忘れようとも。
我が胸の裡にてそれは、然と完成していたのだから。
完成していたのだから。

砕けたもの。果たしてそれは、世界か己か。

太陽の失墜。
天は夜を主と定め、光輝を失して世は久しく。
現はもはや見知らぬ外地。氾濫せしめる疑似似非誤謬。
今や既に、我らが故里は彼方の過去へ。永久への夢は、潰えたり。

最下の無間に仄見えたるは、かつて拝んだ光の残滓。
蛆に塗れた腐敗の結に、天地を逆してただ拝む。
盲の孤狼は無貌の天へ、刻理に背いて遠吠える。
沈まぬ光を、祈願して。沈まぬ光を、夢想して。
沈んだ光を、放捨して。沈んだ光を、放捨して――。

太陽よ、我が太陽よ、ああ――――――――


.

47 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:24:08 ID:jePDeZ3M0
気が滅入った。照出の代理で来たというこの盛岡という男といると、とかく気が滅入った。
まず、覇気がない。常に茫漠と幽鬼のような態度で、返事をしても「はぁ」だの「へぇ」だの
こちらの言葉を理解しているのかいないのか、全般的に気力が感じられない。
新作の構想について話しても褒めるでもなく貶すでもなく、お任せしますの一点張り。

「先生は、どうして小説なんか書いてるんですか」

そのくせ、余計なことだけは聞いてくる。

「私も昔は、書いてたんですよ。アマチュアですが。
 それなりに読まれて、それなりにちやほやされて。まあ、悪い気はしませんでした」

聞いてもいないことは話してくる。

「プロになることも、考えなくはありませんでした。
 それなりに読まれてましたから、それなりに稼いでいけるんじゃないかと思いまして。
 でも、やめました。なんだか急に、アホらしくなって」

抑揚も感情もない、不気味な声で。

「私の中には、何もなかったんです。
 ちやほやされるのも、金を稼ぐのも、別に作家にならなくとも得られるものです。
 むしろ作家なんかより他の職を目指したほうが、そんなものもっとずっと簡単に手に入れられて、
 おまけに安定も得られる。そう思った時、判ったんですよ。私は別に、小説が好きな訳じゃないんだと。
 小説に対する思い入れなんて、何もなかったんです」

情熱の失せた声で。

「それで結局人生設計諸々失敗して、今はこんなしがないサラリーマンなんぞしてるわけです。で、先生」

憐れむような声で。

「先生は、どうして小説なんか書いてるんですか」

48 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:24:55 ID:jePDeZ3M0
数日の辛抱だ。そう言い聞かせ、俺は盛岡を無視した。数日もすれば照出がもどってきて、元の生活にもどる。
高良のやつがどういうつもりでこの男を送ってきたのか知らないが、俺にこいつは合わない。
いや、こいつでなくとも、誰も俺に合いはしないのだ。……照出を、除いては。
だから俺は待った。さっさと帰ってこい。いつまでも人を待たせるなと腹を立たせて。

だが、三日経ち、五日経っても照出はもどってこなかった。流石に不信が募った。
俺の預かり知らぬところで、何か異変が起こっているのではないかと。盛岡は当てにならなかった。
自分は代理に来ているだけで、他のことはよく知らないと、それしか言わなかった。

直接電話を掛けようとも思った。何度も思った。だが、結局やめた。
電話を掛け、それで何を話せばよいというのか。お前がいなくてさみしいとでも?
それともどうして一人にするのだと怒り狂う? バカなそんな、みっともない。そんな真似、できるわけがない。

それに……それに。切羽詰まって電話をするという行為そのものに、抵抗があった。
それは、必要以上に照出を追い詰めてしまうことになるのではと思われて。
父との一件を、おそらく一生抱えていくであろう照出の心傷を、可能な限り刺激してやりたくはなくて。
故に俺は、自分から電話を掛けるのは、やめた。そうして更に二日経ち、三日経ち、そして――十日が経過した。



「これはこれは先生。どうですか盛岡とは。うまくやれていますか」

あいつも変わり者ですが実績はある男でしてね、
読書数はうちの中でも随一ですしきっと先生のお役に立つはずですよ。
軽薄な声で、べらべらと自分の都合ばかり話す。本当に、勝手な、高良。
俺が抱く“編集”像そのものである男。この世で最も唾棄すべき存在。

「照出は」

だが、そんな男でも部署を預かる群れの長だ。
長じてなお使えぬ男では有るものの、それでも部下の動向の把握くらいはできているはずだろう。

「照出は、どうした」

最低限の期待を込めて、尋ねる。しかし、返ってきたのは沈黙だった。
まさか、この程度の期待にも応えられないのか。早くも憤りつつ、それでも俺は高良の返答を待った。
すると電話校の向こうから、高良の声が聞こえてきた。聞こえてきたのは、唸り声。

49 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:25:38 ID:jePDeZ3M0
「……もしかして、照出から聞いていないんですか」

不愉快さを隠さない声で、高良はいった。
まるでこの質問をする俺の方こそ非常識であると詰めているかのように。

「あいつならもう、先生の担当にはもどりませんよ」

心臓が、縮んだのを、感じた。
どういうことだと問いかける前に、高良が話を続ける。

「もう辞めるんですよ、あいつ。まだ在籍はしてますけど、任せてるのは事後処理だけで」


のどの奥が張り付く。眼球が乾く。「なぜ」。俺はそう、絞り出すように問いかける。
不満を前面に表して、高良はこともなげにそれに答えた。


「結婚ですよ結婚。寿退社ってやつです」


これだから女は困るんですよ、計算が立たなくて。うちの娘も最近すっかり生意気になりまして――。
電話口の向こうで、高良が文句を言い続けていた。しかしそれらの言葉はもう、俺の耳へと入らない。
俺は、見上げていた。ここしばらくの間――半年程の間、意識せずにすんでいたものを見つけて。
天井から吊り下がっている“その人”を見上げて。


『おまえはわるくないよ』


俺にはもう、かつて太陽であったそれの声しか聞こえなくなっていた。

50 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:26:10 ID:jePDeZ3M0



「よお、奇遇だな」

電車で、ジョルジュと会った。隣に、ジョルジュが座ってきた。
ジョルジュの鞄の中から、大量の紙の束が、見えた。

「……持ち込みですか」

「ああ……ああ、そうさ」

ジョルジュが、鞄ごと、紙の束を、抱きしめた。
抱きしめられた紙の束が、ぐしゃりと音を立てて、折り曲がった。
ジョルジュの口の端から、よだれが流れ落ちているのが見えた。

「こいつは大傑作だ。間違いない。俺がこれまで書いてきたものの中で、最高の一作さ。
 こいつさえあれば俺も、間違いなく返り咲くことができる」

「そうですか」

会話は打ち切られた。夕焼けの差し込む電車に、俺達は並んで揺られた。
がたんごとん、がたんごとん。心臓のリズム、心臓のリズムだ。
そんな考えが意味もなく、頭の中に浮かんでは消えた。

「嫉妬してくれ」

とつぜん、ジョルジュが言った。

「嫉妬してくれ、嫉妬。お前だけでも嫉妬してくれ。生きてくためには、そいつが必要なんだ」

電車に揺られながら、ジョルジュが言った。

「頼むよ。俺はまだ、自分を信じてたいんだ」

俺を見ずに、ジョルジュが言った。

「なあ、頼む。頼む――」

何も見ずに、ジョルジュが言った。

「……そうかい」

電車が止まった。したらば出版本社の最寄り駅に。
覚束ない足取りで、ジョルジュが電車から降りていった。俺は、降りなかった。
降りようとして、しかし、身体がそれを拒絶した。電車が発進した。
どこへ行くとも知れぬまま、電車に揺られ続けた。

がたんごとん、がたんごとん、心臓のリズム、心臓のリズム――。

51 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:26:40 ID:jePDeZ3M0
               ※



ジョルジュが人を殺して捕まった。

被害者は彼がデビューした当時担当していた編集にて、現したらば出版第三編集部編集長――高良文彦。
拘束直後のジョルジュからは重篤な薬物反応が検出されたため、警察ではその販路の捜査も進めていると報道された。


.

52 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:27:04 ID:jePDeZ3M0
               ※

















書けない。


.

53 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:27:35 ID:jePDeZ3M0
               ※


「海の向こうからね、来るんですよ、商売人が。金と鉛とネタを担いで」

……。

「親父が存命なら、許しゃしなかったでしょう。
 でもね、息子ってなぁ、父親の後追いじゃ満足できんのですよ」

……。

「親父が偉大であればある程、親父と違う形で自分を立てなきゃならん、なんとなれば殺さにゃならん。
 そうでもなけりゃ不安で不安でたまらない。いつまで経っても自分で自身を愛せない。
 本能でそう、理解しているんですな」

……。

「私もね、判らなくはないんですよ。男ですからね、私も。しかしね、連中はダメです」

……。

「連中の頭にゃ、銭勘定しかない。人間が、おらんのですよ。人を見て、けれどまるで見ちゃおらんのですよ」

……。

「それじゃ、いかんのですわ。こんな稼業に身をやつしているからこそ、忘れちゃいかんのです。
 自分が何を相手にしているのか。目の前の相手に、自分が何をしでかそうとしてんのか。
 人間を、顔を、直視した上で仕事しなけりゃならない」

……。

「私ァね、そう教わったんですよ。亡くなった先代から。何事も、愛がなきゃあいかん。
 愛がなきゃあ、人間おしまいだァ……ってね」

……。

「なあトラよ。お前さんもそう思うだろう?」

「はいキツネの兄貴。俺もそう思います」

「そうかいそうかい。……お前はホント、不器用だねぇ」

「恐縮です。……そうでしょうか?」

「自覚のなさがその証明さね。なあ先生……先生も、そう思いやしませんか」

……。

「なあ、先生」

54 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:28:00 ID:jePDeZ3M0
「……キツネ」

「くっくっ、せっかちですな。わかってますとも、書くんでしょう?
 愛してもらえるもんを。色々くっちゃべっちまいましたが案外、それで正解だったのかもしれませんな」

……。

「怒っちゃいませんよ、残念ではありますがね。私ァ本当に、先生のファンだったもんですから」

……。

「じゃ、こいつでおそらく最後です。いいですか先生、ここいらはもう、
 うろついちゃあいけませんよ。私らの勝手にカタギを巻き込みたかァないんでね」

……。

「こいつァ、私のケジメですから」

「……なあ」

「なにか?」

「……愛って、なんだ」

「…………くはっ」

「なあ」

「くくっくくく……皆まで言わせんでください。そんなもん、決まってるでしょうよ」

……。

「そいつの幸せを祈っちまいたくなる気持ち、ですよ」

……。

「相変わらず繊細ですな、先生は」

……。

「嫌いじゃなかったですよ、先生との逢瀬。もう一度会えることを望んじまうくらいにはね」

……。

「それじゃ先生、お達者で。幸せってやつに、どうぞよろしく」


.

55 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:28:20 ID:jePDeZ3M0
               ※


その役職上の責務を放棄し、己が助かるため教え子三〇余名を見殺しにして逃げ出した教師。
「お前たちを一人にしないためだろ!」。針のむしろとなった環境に耐えきれず、
都合のいいことを叫びながらその家族すら捨て去り逃げ出していった男。
逃げて、逃げて、逃げて逃げて逃げ続けることしかできなかった哀れな存在。
それが、ぼくの父親だった。

父が逃げ、町に残された母とぼくは父が被るはずであった憎悪を一身に受け、
誰に頼ることもできない生活を送っていた。そうした生活の中で、母は事あるごとに謝っていた。
頭を下げない日はなかった。町内会で、近所で、保護者の中で、いつも肩身狭く頭を下げていた。
そして、ぼくにも。

母はぼくを抱きしめ、謝った。
「ごめんね、ごめんね、あんな男の息子に産んでしまってごめんね。お母さんの子にしてしまってごめんね」。
母は謝った。何度も何度も、ぼくが泥をぶつけられて帰ってきた時、給食費を盗んだ犯人に仕立て上げられた時、
頭から血を流した時、何度も何度も、母はぼくに謝った。
ごめんねごめんね。産んでごめんね、産んでしまってごめんね。

母はあれで、慰めているつもりだったのだろうか。
そうかもしれない。あの人は学のない、悲劇に酔いしれることで
恍惚とすることだけが生きがいの女だったから。
頭を働かせ、手に職をつけ、町から出ていくという手段をついぞ取らず、
おそらくはそのような“不快なこと”など一度として考えなかったような人だから。

母は逃げなかった。しかしその停滞は、けして強さから出ているものではない。
子供ながらに感じ取っていた。母はただ、考えることを放棄しているだけだったのだ。

父も母も嫌いで、恐ろしかった。
嫌いで恐ろしいこの両者が自分の起源であるという事実にもまた、恐怖心を抱いた。
産まれたことを謝られるような存在。それがぼくなのだという苦痛が、
何をしていても、どこにいてもつきまとった。

生まれなければよかったのだ。そう思うまでに、時間は掛からなかった。
死んでしまえばいいのだ。そう思うまでに、時間は掛からなかった。いつも思っていた。
どうすれば死ねるのだろう。頭を強く打てば死ねるのだろうか。学校の屋上から飛び降りれば死ねるのだろうか。
包丁で首を挿せば死ねるのだろうか。トラックの前に飛び出せば死ねるのだろうか。
いつも、いつも、死ぬことを考えていた。

ぼくはぼくが、嫌いだった。
だからぼくはいつだって、ぼくを消し去ってしまいたがっていた。

56 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:28:49 ID:jePDeZ3M0


『そうかい、ぼくの本を読んでくれたんだね』


先生と出会ったのは、そうして死ぬ方法ばかりを考えていた時のことだった。
剥げた看板を掲げた古書店。その古書店の中に積まれた、簡素な造りの安っぽい本。
それは明らかに手作りで、市販されているものではないと一目で判った。

ぼくはそれを、何の気無しに持ち帰った。何かを期待していたわけじゃない。
ただ無料だったから、持っていっていいと言われたから、
そのまま持って帰っただけ……ただそれだけのことに過ぎなかった。

だから本腰を入れて読むつもりもなかったし、ただぱらぱらとめくってそれでおしまい、
死ぬことと死ぬことを考える間のちょっとした休憩程度に消費する、
それだけのつもりでぼくは、その安っぽい本をめくった。

泣いていた。訳も判らず、泣いていた。物語をきちんと読み解けた訳ではない。
難解な語句、まだ習っていない漢字も多用された文章は決して読みやすいものではなく、
おそらくは全体の五割も理解できていなかったのではないかと思う。

それでもぼくは、魅了された。
そこに内在する“なにか”を感じ取り、狭く閉じた世界が大きく広げられたのを感じた。
そして、ただただそして――赦せる気が、したのだ。

ぼくは直感した。これはぼくの為に書かれた本だと。真剣にそう感じ、そう信じた。
だから、会いたいと思った。これを書いた人に、その人に会わなければならないと思った。
何が何でもそうしなければならないと思った。こんなに強い衝動、生まれて初めてのことだった。

当時すでにもうろくしていた古書店の店主から何とか詳細を聞き出してぼくは、
一目散にその人に会いに行った。多大な期待と、一抹の不安を抱えながら。どんな人だろう。
受け入れてくれるだろうか。他にも書いているのだろうか。嫌われたりしないか。
きっと素敵な人に違いない。きっと素敵な人に違いない。そうに、違いない。


そしてぼくは出会った。その人に。先生に。ぼくの――太陽に。

57 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:29:16 ID:jePDeZ3M0


『そうだね、お前の書くものは――』

先生は、高校生だった。高校生だったけれど、けれどぼくの知るどんな大人よりも大人で、
頭が良くて、やさしくて、輝いていた。先生は様々なことを教えてくれた。
学ぶこと、遊ぶこと、生きること、愛すること。どれもむつかしくて、けれどどれも大切で。
その大切なことを、先生は自分自身で体現していて。

片時も離れたくなかった。いつでも側に居たかった。
目の眩む眩き光を浴びて、その光の一部になりたかった。光に溶けてしまいたかった。
先生のようになりたかった。先生のような人になりたいと、強く願った。先生の真似をした。
海外のむつかしい映画を観た。小学校では教えてもらえない学問の本を読んだ。
思索の論理と、自分自身で答えを探りだす哲学を覚えた。

先生に倣って自分の木を見つけた。病気に罹り、廃棄される寸前だったその木の赤児。
そいつのささやきが、ぼくには聞こえた気がした。それが誇らしくもあった。
先生に近づけた気がしたから。先生は言ってくれた。『お前はその子を、愛してあげなくっちゃいけないよ』。
その時の感情を、文章に書き表した。書くという行為を知った。
小説を、書き始めた。

すべては先生の模倣から始めたことだった。先生がぼくの道標だった。
先生はぼくの父だった。父であり、母ですらあった。先生はぼくのすべてだった。太陽だった。
ぼくという穴蔵に潜む虫けらを羽化へと導いてくれる、天上にて燦然と輝く太陽そのものだった。

58 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:30:00 ID:jePDeZ3M0
ああ。
太陽だった。
太陽だったのだ。
確かに先生は、太陽だったのだ。


その太陽を沈めたのは、ぼくだ。


『おまえはわるくないよ』

呂律の回らない声で、先生は言う。

『おまえはわるくないよ』

砕けた頭を揺らして、先生は言う。

『おまえはわるくないよ』

穴の奥で欠けたそれをぬめらせ、先生は言う。

『おまえはわるくないよ』

いつものように微笑んで、先生は言う。

『おまえはわるくないよ』『おまえはわるくないよ』『おまえはわるくないよ』。


そして微笑んだままに先生は、その首をくくって死んだ。


.

59 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:30:28 ID:jePDeZ3M0


悪いのは、ぼくだ。なにもかも、ぼくのせいだ。
先生から言語を、聡明さを、未来を奪ったのは、ぼくだ。
輝かしい太陽を無間の洞へと沈めたのは、ぼくなんだ。


償わなければならなかった。
ぼくの人生を賭けて、償い続けなければならなかった。

――いや、それとて言い訳かもしれない。ぼくはただ、耐えられなかったのだ。
先生が、あの太陽が、世に出る前に失墜してしまったなどという事実に。
ぼくだけの太陽で終わってしまったなどという事実に。ぼくはただ、耐えられなかったのだ。

世に知らしめなければならない。
先生の素晴らしさを、先生の偉大さを、先生の輝きを世に知らしめなければならない。
この世に生きる万民を、先生という無二なる光輝で照らさなければならない。
これより続く人類史に、先生という絶対の痕跡を刻みつけなければならない。
そうでなければ、耐えられない。しかし、先生は、喪われてしまった。

だから、ぼくが、やるのだ。
先生の模倣者であるぼくが、先生が書くはずだったものを、
歴史に刻むはずだったものを、この世界にそのままの姿で残すのだ。

誰よりも先生を尊び、誰よりも先生を愛し、誰よりも先生を理解しているぼくが――
俺が、やるのだ。やらなければならないのだ。

俺にしか、できないんだ。

書いて、書いて、書いて。
書いて、書いて、書いて、書いて。
書いて、書いて、書いて、書いて、書いて、書いて。
誰もが喜悦に耽るような先生の小説を、太陽を、俺が、書いて、書いて、書いて――――



古臭いんだよね、あんたの書くモン


.

60 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:30:55 ID:jePDeZ3M0
               ※

「先生、しっかりして先生! 先生、先生!!」

呼吸が、苦しかった。
苦しくて、酸素を求めて、空気を送り込む経路を作ろうとして首を掻きむしっていた。
苦しみはまるで和らぎなどせず、少しでも酸素のある場所を求めて転がった。
ごつごつと付近のものにぶつかったが、不思議と痛みはなかった。
ただただ酸素が足りなかった。呼吸ができなかった。苦しかった。

身体を押さえられた。暴れた。酸素が欲しかった。酸素。奪うつもりかと思った。
独り占めするのかと。俺に渡さないつもりかと。認められなかった。奪うつもりなら、それは敵だといえた。
俺から酸素を奪う、敵だと言えた。暴れた。敵を引き剥がして、酸素を得るために暴れた。
暴れるほど起動は狭く、呼吸は苦しくなっていった。敵が、ひときわ強く俺を、拘束した。

「先生……」

声が聞こえた。遠い場所から。懐かしい、ずいぶんと懐かしい声が。
呼吸が聞こえた。鼓動を感じた。それに合わせて、肺を動かした。
少しずつ、少しずつ、酸素が胸の奥へと入っていった。

月が出ていた。差し込んだ月明かり。
『俺の木』が、その影を部屋の奥へと伸ばしていた。
俺に抱きついている者の影が、部屋の奥へと伸びていた。
すんすんと鼻を鳴らしてそいつは、俺の影に覆い被さっていた。

誰だ。知ってる。よく知っている。
俺はこいつを知っていて、それで、何かを言うつもりだった。
言いたかった。でも、なんだったっけ。俺はこいつに、何を言おうとしていたんだっけ。

……ああそうだ、そうだった。

61 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:31:19 ID:jePDeZ3M0
「……おめでとう」

祝うんだった、そうだった。

「おめでとう、おめでとう、照出麗奈さん、ご結婚おめでとう、おめでとう」

結婚おめでとう、おめでとう。目出度いことだ。だから祝うのだ。
そうだったはず。そうするつもりだったはず。……そうだったろうか?

「先生、私……」

「おめでとう、おめでとう」

「先生」

ぎゅうと身体を密着させて照井でが、耳元で俺を呼んだ。
脳が揺れた。ぼやけた視界に輪郭が、急速に伴っていく。

「私これから、言い訳いいます。みっともないけど、
 でも、誤解されたままなのはいやだから、言い訳、いいます」

こいつ、こんなに小さかったんだな。
そんなことを思いながら俺は、照出の話を聞く。

「お父さん、借金、残してたんです。
 すっごい、たくさん。私じゃどうしようもないくらいの借金、たくさん」

照出と出会ってからこれまでのことを、思い出しながら。

「叔父が――おじさんが、肩代わりしてくれたんです。
 おじさん、工場の社長さんで、私のためならそれくらいなんてことないって、
 当たり前みたいにお金、返してくれて」

あだ名で呼んでくださいなどと、ずいぶん軽薄なやつだと苛立った。

「それからも、面倒見てくれて。私が大学を卒業できたのも、
 いまの生活を送れているのも、おじさんのおかげなんです。でも……」

キツネとの取引を邪魔された時は腹が立つ以上に呆気に取られて、
「書かせてみせる」なんて宣言もずいぶんと傲慢で。

「おじさんの工場、潰れそうなんです。大きな会社に仕事取られちゃって、
 銀行からもお金、借りられなくなって。手を出しちゃいけないとこにも、手を出して。
 ふくよかだったお腹もどんどん、どんどんへこんでいっちゃって。ぜんぜん、笑わなく、なっちゃって……」

けれど、あんなふうにぶつかってきたやつは、初めてで。

「だけどね先生、助け舟が現れたんです。おじさんの大得意の取引先の社長さんが、縁談を持ってきて。
 なんでも社長さんの息子さんが、私のことを気に入ってくれたみたいで。
 私がその……婚約を受けるなら、なんとかするって」

62 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:31:50 ID:jePDeZ3M0
学生の遊びみたいな行楽は、正直きつかった。
自然との触れ合いだのレジャーだのは、肌に合わなかった。

「私、それでも悪くないって思いました。
 相手の人のことはよく判らないけど、でもそれでおじさんに受けた恩を返せるなら、それでもいいって。
 でも、でも……私その人に、言われたんです」

だが、一生懸命だった。

「仕事を辞めて、家庭に入ることが条件だって」

一生懸命なのは、感じていた。

「……私、辞めたくなんかありません。まだまだ先生と一緒に、仕事してたいです。
 私が先生の本を読んで救われたみたいに苦しんで、自分だけじゃどうしようもなくなっちゃった人が
 立ち上がるそのお手伝いを、私だって、したい」

だから、期待していた。今だから素直に思えるが、俺はこいつに、期待していた。

「がんばって、理解してもらおうとしたんです。話し合って、長い時間、説得してみて。
 でも、認めてもらえなくて。時間はどんどん過ぎていって……」

こいつならもしかしたら、俺を理解してくれるのではないかと。

「これ以上引き伸ばしたら叔父は……ほんとに、もう……」

助けて、くれるんじゃないかと。

「何度も電話、掛けようとしたんです。でも、いざとなると怖くて、震えて……」

そしてこいつは、俺の期待に応えてくれた。

「掛けてしまったらもう、後戻りできなくなってしまう気がして……」

その姿を。

「先生は、私の心を救ってくれた。だけど、おじさんは私の生活を守ってくれた」

顔を。

「ふたりとも、大切なんです。ふたりとも大事で、ふたりとも恩人で、ふたりともに幸せになってほしくて……」

見せて、くれた。

「見捨てることなんて、私にはできなくて……だから――」

だから――。

「先生、書いてくれませんか」

63 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:32:17 ID:jePDeZ3M0
必要なんだ。

「私がいなくなっても、書いてくれませんか」

俺にはお前が必要なんだ。

「私、最初は意地になってたんです。
 先生にも、ううん、先生にこそ、先生の書いたものを否定して欲しくなくて」

一人じゃ書けないんだ。

「だって先生がそれを――『太陽を見上げた狼』を否定しちゃったら、
 それに救われた私、 なんだったのってなっちゃうじゃないですか。
 私の信じたもの、うそだったんじゃないかって、思っちゃうじゃないですか。
 だから私、意地になってたんです。私が愛したもの、先生もほんとは愛して書いたはずだって、
 その気持ちを証明してやろうって、そう、意気込んでたんです。だけど――」

自分と向き合いたくないんだ。

「だけどそんな気持ち、この半年できれいさっぱりなくなりました。
 だって私、見てましたから。短い間だけど私、見てましたから。先生の書いてる姿、見てましたから」

自分が本当は何を望んでいるかなんて、知りたくないんだ。

「書き続ける“必要”なんて、ほんとはなかったはずですよね。
 もういやだって投げ出しても、構わなかったはず。それなのにおクスリにまで頼って、
 あんなに苦しみながらも書き続けていたのはどうして? 筆を折ろうとしなかったのはなぜ?」

だから頼む照出、だからどうか――。

「ねえ先生、私知ってます。 ほんとは私なんかいなくても、何に頼ったりなんかしなくても、先生は書ける人だって。
 先生の心を縛るわだかまりさえ解ければ、先生は誰に頼まれなくったって 自由に書いてしまえる人だって。
 だって先生は、あなたは――」

俺の気持ちを、俺の信仰を――。


「“あなた”は“あなたの小説”を書きたくて書きたくて仕方のない人なんだって、私、知っていますから」


「お前は」

どうかお前だけは、どうか、どうか――。

「お前は俺が、あんなくだらない紛い物を好き好んで書いてるって、そう、言いたいのか」

「先生」

否定、しないで――――。

64 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:32:44 ID:jePDeZ3M0



「あなたはもう、自分の人生を生きていいんですよ」


首を、絞める。敵の首を。“編集”の首を。
赦せるものではない。とても赦せるものではない。
この下劣で俗悪な拝金主義の、金というクソにたかる蛆虫共が。
堕落して、思考を放棄して、向上を忘れ惰性と流行に流されることしかできない大衆の権化が。
お前らみたいなのがのさばるから本物が淘汰される。紛い物が蔓延る。
判り易さと中毒性を主張する毒物ばかりが世に溢れていく。

何が古臭いだ。何が一般受けしないだ。何が金にならないだ。
なぜ理解しない。どうして理解の努力をしない。そこに価値が、本物があるというのに。
お前らさえまともなら、俺はこんなに苦しまなくてすんだ。
お前らさえまともなら、俺は先生の小説を書き続けていられた。
お前らさえまともなら、太陽は輝き続けていた。お前らさえ、お前らさえ、お前らさえ――。


そうさ、お前らが先生を否定するなら、俺がお前らを否定してやる。消えてしまえ、一匹残らず――。


『そうだね、お前の書くものは――』

.

65 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:33:09 ID:jePDeZ3M0


「あ」

照出が、咳き込んでいる。首を押さえて、苦しそうに。
手が、熱かった。感触が、まだ、てのひらの裡に残っていた。
絞める、締まっていく、感触が。俺は、いったい、何を――。

「てる――」

「それでも」

欠けた所のない顔で、照出が俺を見て、言った。


「……それでも私、あなたが好きです」


理性が、飛んだ。

「お前らなんかより……」

浮かび上がりかけていた想いが、沈んだ。


「キツネの方が、よっぽど――!」


月明かりに伸びた影が、動いた。影はその姿を移動させ、影の主とともに部屋から消えていった。
静かな音が、けたたましく響いていた。衣の擦れる音が、床の踏まれる音が、世界中に響き渡っていた。
それで、それから……玄関扉が開いて――閉まった。


.

66 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:33:36 ID:jePDeZ3M0
               ※

『太陽を見上げた狼』。
売れるものを書け。最後通告的に課せられた命題に従いあれを書き上げてから、取り巻く環境のすべてが一変した。
原稿を受け取ることすら億劫がっていた高良は掌を返して俺の機嫌を取り始め、
見向きもしなかった者たちがこぞって俺を褒めそやすようになった。
にやけた面で俺を囲み、そしてやつらは口々にこう言うのだ。「前よりずっとよくなったね」。

認めるわけにはいかなかった。
こんな金稼ぎのための紛い物も、こんな紛い物を持ち上げるこいつらのことも、認めるわけにはいかなかった。
敵視して、心の中で強く、強く、強く強く強く蔑み嘲った。
物を知らぬ人以下の畜群めと、他でもない、俺自身にそう言い聞かせた。

頭が砕けた。人々の。かつて目にした最も目にしたくない光景が、世の中に溢れた。
人を人として認識できなくなった。肉眼での認識不全は元より、動画でも、写真でも、
果てはある程度の精巧さを備えた人物画でさえもその頭部は歪に砕け、無間に開いた黒穴に意識を吸い込まれた。
人を、見れなくなった。

そして――先生が、現れた。

67 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:34:02 ID:jePDeZ3M0
「……判ってるんだよ、ぼく。言うほどみんな、愚かなんかじゃないってことくらい」

判っている。この先生が、ぼくの生み出したただの幻覚だってことくらい。

「それでもぼくには、愚かで凶悪な敵が必要だった。
 実像以上の怪物に仕立て上げてでも、みんなを憎む必要があった」

それくらい判っていて、それでもぼくは意識せざるを得ない。
だってそれは、確かにそこにいるのだから。そういう実感があるのだから。

「凶悪で太刀打ちできない怪物たちに、書きたくもないものを書かされている。
 そういう体にしておかないと、だめだったんだ。そういう“ストーリー”が必要だったんだ。だって――」

だからぼくは問いかけてしまう。どうして、どうして。そのように、問いかけてしまう。

「ぼくまでもがぼくの小説を選んでしまったら、誰が先生を証明するの?」

先生はどうして、ぼくを責めてくれなかったの?

「そんなことしたら今度こそ、今度こそ本当に、太陽<あなた>に止めを差してしまう。
 ぼくを救ってくれた光を、“物知らぬ子どもの幼き憧れ<錯覚>”に貶めてしまう。
 それこそぼくには、耐えられない……」

そんなになってどうして、それでもぼくに微笑むの?

「ねえ先生、疲れたんだ。ぼく、とても、疲れちゃったよ」

もう、限界だった。幻覚も、人も、書くことも、生きることも。
全部投げ捨てて、逃げ出したかった。

「もう、眠りたい……」

眠って、ずっと眠って、このままずっと、一生、心地良い、夢の中で――。
沈まぬ太陽を拝む、あの懐かしき夢を――――。

68 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:34:34 ID:jePDeZ3M0



……眠りを妨げる異音。無機質に繰り返される、それ。
携帯の、着信音。まどろみかけていた頭をがんがんと、強く打ち付けてくる。
無性に、腹が立った。それは、俺の所有物から流れるメロディではなかった。
部屋の片隅に、女物のバッグが放置されていた。照出のものだ。音は、あの中から響き渡っていた。

立ち上がる。ふらつく。ふらつきながら、近寄る。
近寄る毎に音は大きく、やかましくなる。血が、沸騰しそうになる。つかむ。
逆さにして、振り回す。裡にしまわれていたものがばらばらと、乱雑に散らばる。
ハンカチ、化粧品、絆創膏、飴の包み、他にも様々な小物がばらばらと、ばさばさと散らばる。
そしてがつんと一際固い音を立てて、規則的な振動を繰り返す携帯がその姿を現す。

殴打するこの音を止めなければならない。その一心で俺は、犯人に向かって手を伸ばした――
が、その手が止まった。ばらまかれた照出の私物の、そのひとつに意識を奪われて。
それは、一冊の文庫本。見覚えのある、その表紙。事ある毎に、照出が事ある毎に名を挙げていた、一編の小説。


『太陽を見上げた狼』。


手が伸びていた。自然と。自然とそれを、つかんでいた。
つかんで、そのすこしひしゃげてしまっている表紙を見つめた。開いた。
ページをめくっていった。どのページにも、痕が残っていた。
皺として、指紋として、読んだ者の感情がそこに残っていた。


顔が、見えた。

.

69 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:34:59 ID:jePDeZ3M0
「……先生」

微笑むそれが。

「あいつ、言ってたんだよ……」

『そうだね。お前の書くものは、ぼくのものとは異なる可能性に満ちているよ』

怒ったそれが。

「ぼくの本を読んであいつ、『私に宛てた本だと思った』って、そう言ったんだ」

『悲しむことじゃないさ。それはお前の宝なんだから。ぼくでは届かない人へと届けられる、お前だけが持つ個性なんだから。だからね――』

喜ぶそれが。

「そんなふうに考えたこと、ぼくにはなかった。ずっと目を逸してきたから。見ないように、してきたから。だから――」

『お前がお前の木を愛するように、お前はお前を愛してあげなくっちゃいけないよ』

泣いたそれが。

「あんなふうに泣いてくれるなんて、考えたことも、なかったんだよ……」

『お前にしか癒してあげられない人々が、お前の小説を待っているんだから――』

感動する、それが。

「ねえ先生……」

読者<愛してくれる人>の、存在が。

「ぼくはぼくの小説を書いて、いいのかな」

『おまえはわるくないよ――――』

顔を上げた。先生の姿は、もう、どこにもなかった。
空は晴れ、外にはすでに、太陽が昇っていた。


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70 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:35:25 ID:jePDeZ3M0
               ※

苦しい時はデパート、か。
履くのに手間を要するローマ人のサンダルを履いて俺は、街へ出る。
行き先は決まっている。かつて照出と行った、あのデパート。デパートの、その地下。
何故なら地下は、デパートの王様はだから。

大量の菓子を、洋の東西を問わずに大量の菓子を買い込んで、分け合って、食べる。
そうすれば、苦しいは半分に、うれしいは、二倍になるから。

会いたかった。
あんな真似をしでかして、いまさらどんな顔で会えばいいのか。会って何を話すつもりなのか。
何も決めてはいなかった。それでも会わなければならないと――いや、会いたいと思った。
照出に――デレに、会いたかった。

デレに会いたかった。

ローマ人のサンダルの微妙に重く歩きにくいそれを引きずって、地下の空間を練り歩く。
右を見ても左を見ても、デレの奴が喜んでほうばりそうなものばかり並んでいる。
片端から買っていく。ひとつひとつはそこまででも、重なると結構な重量となって
引きこもりの軟な腕をいじめ始める。しかし今は、その痛みすら不快でなかった。

「……あれは」

行列が、目についた。いつかも目にした行列。
店によって、職人によって味も出来もまるで異なるというシュークリームの。
『待ってる時間は、わくわくでいっぱいにする時間なんですから』。デレの言葉が思い起こされる。

女性ばかりが並ぶその行列の最後尾に、俺はそっと潜りこむ。
すぐさま後ろについた女性の視線に多少の肩身の狭さを覚えながら、それでも俺はそのまま待った。
ゆっくりと、ほんのわずかずつ消化されていく列に歩並みを合わせ、これからを思った。

「これからにわくわくしちゃう、か……」

これからのこと、先のこと。俺は、わくわくしているのだろうか。よく判らない。
そう言われればそのような気がするし、違うと言われれば違う気もする。不安は、あった。
未知の未来、いついかなる形で今が崩れてしまうか知れない未来への恐れは、耐え難く俺の裡に巣食っていた。
経験を伴う、恐れが。

デレはこのまま、叔父のために結婚するだろう。それはおそらく、変えようがない。
照出麗奈という性質が、叔父を見捨てるという選択肢を許すはずがないのだから。
それは、苦しいことだった。俺にとってこれ以上ないくらい苦しいことだと、俺はもう、自覚していた。

71 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:36:00 ID:jePDeZ3M0
だが。

デレは、笑った。泣いた。怒った。そして、感じた。俺の本から様々に、感じ取ってくれた。
そのよく動く顔を様々な表情に変じて、自らの血肉に取り入れてくれた。これからも、そうであって欲しいと思った。
これからもずっと、ずっとずっと遠い未来でも、そうして感動していて欲しいと思った。

未来を思うことは不安だった。しかし、それだけではなかった。なかったのだ。
俺はやはり、わくわくしているのかもしれない。あいつのおかげで。デレのおかげで。
俺はどうやら、デレに幸せで居て欲しいと願っているようだった。そうした未来を、望んでいた。


そして、そうした未来を描けるならば。
そうであれば俺も、今こそ、自分の人生を――。


菓子が、手から、落ちた。


.

72 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:36:35 ID:jePDeZ3M0

天井に設置された、ディスプレイ。
そこから流される、物々しい、報道。

ああ――。


「暴力団同士の抗争が――」


どうして――。


ζ(;、;*ζ


「複数の銃声が聞こえ――」


また――。


ζ(^ワ^*ζ


「付近に居合わせた住民が――」


太陽が――。


ζ(゚、 ゚#ζ


「照出麗奈さん二六歳会社員が――」


俺から――。


ζ(゚ー゚*ζ


「死亡――――――――」


墜ちて――――――――。

.

73 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:36:59 ID:jePDeZ3M0











               ζ(:::::: ζ









.

74 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:37:28 ID:jePDeZ3M0
               ※


縄を、用意します。丈夫な縄を。絶対に千切れたりなんかしない、強い縄を。
それで、輪っかを作ります。大玉のスイカや、ボーリング玉が通る程度の大きさであれば問題ありません。
それらがすっぽりと通る程度の大きさに、輪っかを作ります。

輪っかを作ったら、輪っかのが逆側を天井に引っ掛けます。
その際、天井がぐらついていたり、剥がれてしまわないか注意してください。
適切でないと思ったら場所を変えて、しっかりと固定できる場所を探してみてください。
今回は、『俺の木』を使うことにしました。『俺の木』を折って、添えて、信頼できる、天井にしました。
ここまで来たら、残りはわずかです。椅子に乗って、作った輪っかに首を通しましょう。

きちんと通せましたか?
縄は緩んでいませんか?
天井はしっかり固定されていますか?
問題有りませんか?

……なら、準備はこれで完了です。
後は、自分がいま足をつけているその椅子を、蹴り倒せば完了です。
簡単なことです。誰でもできることです。さあ、いざ、足を踏み出しましょう。
あちらに向かって、こちらを蹴り出してやりましょう。

さあ、さあ、さあ。

蹴り出しましょう。蹴り出すのです。蹴るんだよ。蹴り出せよ。蹴れよ。
蹴れよ、“ニュッ先生”。

蹴れ。



……なんだよ。
なんだよ、俺。
結局、なんにも……先生のことなんて、ぼく、なんにも――――――――


.

75 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:37:48 ID:jePDeZ3M0
               明


「なあ先生よ。争いってのは結局、信じる幸せの相違から起こるんでしょうな」

バカをやって、捕まって。そこを親父に拾われて。

「俺の幸せ、あんたの幸せ、あいつの幸せ、時代の幸せ――」

生きた心地なんてしない毎日で、そいつが実に充実していて。

「私はね、お世辞ってもんを口にしたことがないんです。ただの一度も、誰に対してもね」

親父の組を、俺の力で大きくしている実感があって。

「それがね、自慢なんですわ。
 そいつが私の矜持で、美学で、私なりの時代の愛し方ってやつだったんです」

そいつがずっと、この先死ぬまで続くもんだと思っていて。

「あんたの本にも、不格好な意気地を感じた……」

……まあ、若かったって、ことなんだろう。

「所詮は虚しい世迷い言<あの頃はよかった>に過ぎんのでしょうな、
 時代<今>に乗り遅れちまったジジイどもの」

76 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:38:14 ID:jePDeZ3M0
「兄貴、逃げ――」

慌てた声で俺を呼ぶトラの巨体が玄関からこっち、家屋の内側に向かって前のめりに倒れた。
右のこめかみからその反対側まで一直線に、小さな穴っぽこが貫通している。もはや生命ではない。
身体の反射運動によってトラの身体は倒れたままびくびくと跳ね、血をこぼし、それで、やがて止まった。

「……どうやら迎えが来たみたいですわ」

そういって俺は立ち上がる。ここまで話を聞いてくれた相手に、軽い会釈の礼をして。

「先生はそこで楽にしててください。なに、すぐに済みますから。それでは――」

半開きの目で虚空を見つめる、その顔に。

「せめて夢の中で、お幸せに」

別れを告げる。本心から、愛を込めて。

トラへと近寄る。もうそれなりに長いこと、俺の舎弟として側に居続けてくれた男。
見開かれたそのまぶたを閉じてやりながら、心の中で俺は、問いかけた。
なあトラよ、お前は俺に、何をみていたんだい。俺はそいつに、応えてやれてたかい。
返事はない。喉の奥から、笑いの息がこみ上げた。

「意地なんて張ったってまったくまったく、損するばかりでアホらしいもんだ。
 なあトラよ、お前もそう思わないかい? ……くっくっ、意固地だね、お前は」

笑いが止まらなかった。トラの前で。座って。足音が近づいてくる。
複数の、規則正しい足音。冷める。つまらねぇな、おめぇら、そんなとこまで。
本当にそれで、生きてんのかよ。そう感じる。そう感じることが即ち、時代遅れってことなのだろう。

団体さんが、ずらっと並んで現れた。俺はそれを、精一杯に手を広げて歓迎する。
ごきげんよう、新時代。そんでもって――――



あばヨ、せーしゅん


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77 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:39:09 ID:jePDeZ3M0








































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78 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:39:47 ID:jePDeZ3M0








































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79 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:40:13 ID:jePDeZ3M0








































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80 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:41:16 ID:jePDeZ3M0


















                    あはっ、先生!



















                                         ―― 終 ――

81 ◆HQdQA3Ajro:2021/10/16(土) 00:41:50 ID:jePDeZ3M0
以上です。ありがとうございました

82名無しさん:2021/10/16(土) 00:48:32 ID:aAvzxOHU0
乙!
鬱うつな空気が逸品で胃もたれしそうだww

83名無しさん:2021/10/16(土) 09:31:45 ID:N.9JgeVQ0
乙 胸が苦しくなるのになんだかまぶしさを感じる

84名無しさん:2021/10/16(土) 11:19:56 ID:WyNOQP5.0

展開の急降下に心が追いつかなくて辛い
けど面白かったおつおつ

85名無しさん:2021/10/16(土) 17:01:10 ID:QgvdVgj.0
面白かった 乙

86名無しさん:2021/10/16(土) 21:48:44 ID:S8Kbb7w60
おつです

87名無しさん:2021/10/16(土) 23:23:35 ID:ZIXHGiaU0
こんな救いのないニュッデレを読むことになるとは……いや、全員死んだんだから逆に……うーん……

88名無しさん:2021/10/17(日) 17:13:50 ID:CO5MWvyI0
乙 辛いけど面白かった

89名無しさん:2021/10/19(火) 02:36:56 ID:oCd.4dNA0
すげーよかった

90名無しさん:2021/10/24(日) 12:18:34 ID:ZRd9i10U0
とてつもなくよかった、最高

91名無しさん:2021/10/25(月) 23:18:46 ID:JtanJ9.Q0
感情の濁流って感じ
乙……

92名無しさん:2021/10/26(火) 11:54:06 ID:Obxponbc0
紛うことなき上質な文学…最後どうにもならん気持ちになるのが最高

93名無しさん:2021/10/27(水) 21:21:12 ID:zvOd0ncc0
苦いものを噛んだみたいな後味めっちゃいい

94名無しさん:2021/10/29(金) 01:20:46 ID:FRxD/Ggc0
おつ
これはすごい……

95名無しさん:2021/11/01(月) 15:48:21 ID:oWVtEDLc0
乙乙
ニュッが元々ニュース(“New”s)速報のAAだったの考えると、また何とも言えない感覚が

96名無しさん:2021/11/02(火) 22:48:20 ID:X91TYAcQ0
とことん救いがなかった…乙


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