したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

日本の城郭

1日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

71荷主研究者:2010/01/02(土) 16:20:13

http://kumanichi.com/news/local/main/20091230004.shtml
2009年12月30日 熊本日日新聞
熊本城入園者、今年は177万人 去年下回る

 熊本城の2009年の入園者(有料区域)が約177万人と、過去最高だった08年の約204万人を13%下回ったことが29日、熊本市熊本城総合事務所のまとめで分かった。

 1月1日から12月28日までの速報値。昨年は築城400年に伴う復元整備事業の目玉である本丸御殿の落成などで“大入り”となり、年度集計でも222万人の過去最高を記録した。

 今年は本丸御殿落成効果が薄れつつあるのに加え、ウォン安による韓国人観光客の減少、新型インフルエンザの流行が追い打ちを掛けたとみられる。

 幸山政史市長は来年3月までの本年度目標を200万人台維持としており、さらなる魅力アップ策が急務。同事務所は九州新幹線の全線開業が迫る中、「熊本城のよさを広くアピールしたい」としている。(高宗亮輔)

72荷主研究者:2010/01/02(土) 16:27:20

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20100101101.htm
2010年1月1日03時49分 北國新聞
金沢城橋爪門、復元へ 県が新年度から 2014年度までに 玉泉院丸跡も加速

復元整備後の完成イメージ

 藩政期の文献に名が残る金沢城の「三御門」が再びそろい踏みする。石川県は新年度、橋爪門の復元に向けた埋蔵文化財調査に着手する。金沢城公園では市中心部をつなぐ新たな玄関口として玉泉院丸跡の暫定整備も計画されており、現存する石川門、4月中旬に復元が完了する河北門と合わせ、2014年度の北陸新幹線金沢開業を出迎える。

 橋爪門は、藩主が執務し、生活した二の丸御殿の入り口に位置する正門で、1881(明治14)年の火災で焼失した。一の門と二の門、土塀からなる枡形門で、このうち一の門は菱櫓(ひしやぐら)・五十間長屋・橋爪門続櫓とともに01年7月に復元された。

 新年度は二の門と枡形土塀の復元に向け、土塀や門柱の基礎、石垣などの遺構を調べる埋文調査に入る。庁内に有識者や専門家による復元整備専門委員会を設け、写真や古絵図を基に江戸後期の工法、構造に従って忠実に復元する方針だ。工期は4〜5年となる見通し。国重要文化財である石川門の本体改修工事は13年度中の完了を予定している。

 金沢城公園では、三御門の復元整備に合わせて、玉泉院丸跡の埋文調査も進められており、跡地からは庭園の中心となっていた泉水(大きな池)の護岸石垣や出島などの遺構が確認されている。

 県は玉泉院丸跡を石垣や泉水の眺望が楽しめる「もてなし空間」と位置付け、いもり坂口を含め、金沢城公園と市中心部をつなぐエントランスゾーンとして14年度までに整備する。これにより、玉泉院丸跡から金沢城公園に入り、橋爪門や石川門を通って兼六園に至るルートが整備され、同公園を中心とした回遊性がさらに高まることになる。

●金沢城三御門(かなざわじょう・さんごもん) 金沢城の実質的な正門だった河北門と、裏門の石川門、橋爪門の三つを指す。江戸後期の文献には、城内でも格式が高い門と記されており、門内には番所が置かれていたほか、通行の際には衣装や従事者の数など厳格な規則が定められていたとされる。

73荷主研究者:2010/01/02(土) 16:28:30

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20100101205.htm
2010年1月1日04時02分 北國新聞
富山城の鉄御門、石垣に固定用の加工跡 富山市埋文センター確認

仕口加工が施された石(富山市埋蔵文化財センター提供)

 藩政期、富山城本丸の入り口になっていた鉄(くろがね)御門の石垣で、門を固定するために特殊な加工を施した石が、現存する石垣の中に残っていることが、31日までに分かった。門の底面を水平に通した木材「蹴放(けはなし)」を受けた四角形の跡が刻まれた石で、江戸期に鉄御門が建った地点と異なる場所で確認された。調査した富山市埋蔵文化財センターは「鉄御門にまつわる唯一の歴史遺産で、石垣改修の変遷を考えるうえで貴重な発見」としている。

 四角形の「仕口(しくち)加工」が施された石は、同市郷土博物館の南西側で、同博物館正面から西側へ続く石垣が南側に折れて数メートルの地点で見つかった。地面に接し、仕口加工の跡は上半分程度だけ判別できる。

 同センターの古川知明所長によると、この石についてはこれまで、石垣の鎮め石や、石仏を彫る石を転用したものなど、用途をめぐって諸説あったが、真相は謎に包まれていた。同センターは石垣の試掘で石を掘り起こし、全体の加工跡を確認した。

 石は縦約50センチ、横約54センチの方形で、中央の彫り込みは縦約22センチ、横約32センチ、深さ約1センチ。彫り込みの底面の両端に、それぞれ下に約5センチ延びる溝があった。

 古川所長は、この2つの溝が、雨などで仕口にたまった水を流す排出口で、蹴放の劣化を防ぐ役割を果たしていたと推測。富山藩が1859(安政6)年に作成した「鉄御門正面之図・妻之図」(県立図書館蔵)で確認できる、石垣と蹴放の配置や大きさを考え合わせ、この石は鉄御門ゆかりの石と結論づけた。

 一方、藩政期から明治初期まで建っていた鉄御門の位置は、市郷土博物館正面から西に続く石垣が南に折れ、さらに東に折れた個所で、加工跡がある石の場所から南東側に約10メートル離れている。昭和初期には現在の石積みになっているため、明治から大正期にかけての改修で石が移動したとみられる。

 鉄御門は、復元された千歳(ちとせ)御門と同じく「薬医門型」で、屋根が付くなど木造の門としては格式が高い。古川所長は「貴重な痕跡が残る鉄御門の石とともに、千歳御門の仕口加工を見ることで、富山城の歴史を感じてほしい」としている。

74荷主研究者:2010/01/02(土) 16:28:58

http://svr.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010010109420294/
2010年1/1 9:42 山陽新聞
丸亀城天守、入場者が過去最多 2009年 ETC割引や歴史ブーム影響

ETC割引や歴史ブームの影響で2009年の入場者数が過去最多となった丸亀城天守

 国重要文化財の丸亀城天守(丸亀市一番丁)の2009年入場者が記録が残る1999年以降最多の4万6583人を記録した。関係者は「高速道路のETC割引と歴史ブームの相乗効果」と分析。土産売り場の開設や天守開館日の増加など、観光地としての魅力アップに努めている。

 1999〜2008年の天守入場者は、2003年の2万9764人が最多で、ずっと2万人台で推移してきた。しかし、2009年は一気に前年比約60%増となった。

 天守を管理している安井元春さん(67)は「ETC割引で週末の入場数が増えた上、大河ドラマの影響か、“歴女”といわれる歴史ファンの女性の姿が目立つようになった。歴史上の人物を主人公にしたテレビゲームの流行も追い風になっている」と分析する。

 入場者増を受け、市観光協会は昨年12月、城内の観光案内所に特産品を販売する「お土産ショップ」を開設。これまで1、2月は来場者が少なく天守を閉鎖していたが、昨年、試験的に開けたところ好評だったため、今年からは正式に元日から開放する。城内の舗装工事も進めている。

75荷主研究者:2010/01/07(木) 23:59:44

今日の帰宅時に電車の中で女子高生(中学生かもしれぬ、私服だったのでよく分からん)と思われる二人組が隣に居てペチャクチャ盛り上がっていたのだが、
突然そのうちの一人が、「あー上田城に行きたいなー。小田原城は行ったし。」みたいなことを言い出したので思わず二人組の会話に注目してしまった。
最近流行っているらしい歴女(れきじょ)のようで、自分でそんなことも言っていた。
見た目普通にかわいい少女だったのだが、普通に『上田城』とか知ってるのには驚かされた。もう片方の子は城に興味は無いらしく城トークはすぐに終了していたが…。

まぁ、戦国武将ではメジャーな真田幸村との関係で上田城を知っているのかと想像されるが。下見板張の渋い城郭で、堀の中を上田交通真田傍陽線が走っていたことでも有名だ。

歴女ブームってことで、をれもカノジョに城を教え込むチャンスかねぇ。付き合ってると意外と歴史に明るいなと思わせる瞬間もあるし、素質はあるのかもしれん(笑)。

76とはずがたり:2010/01/08(金) 01:22:36
>>75
>女子高生(中学生かもしれぬ、私服だったのでよく分からん)
話しは全く関係ないけえが最近俺も電車の中で女子高生と女子中学生の区別がつかなくなってきたけえが(俺など制服着てても自信ない),おじさん化の兆候じゃないだかやぁ。注意すること。

先日,横に坐った女の子が眠りこけて凄い勢いでもたれかかってきたまま暫く起きなくて嬉し恥ずかしだったが,多分中坊だったな。俺もガキがもたれかかってきたぐらいで修行がたりんのぉ。

78荷主研究者:2010/01/20(水) 23:15:36

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100114/CK2010011402000031.html
2010年1月14日 中日新聞
名古屋城の築城工賃、支払いは尾張藩

名古屋城築城にかかわった職人の工賃などが分かる書状「飯米・作料請取状」(名古屋市博物館提供)

 名古屋城の築城工事に加わった職人の工賃などを示す珍しい書状が、近く名古屋市博物館(同市瑞穂区瑞穂通1)へ寄付される。所有者の同市南区鳥山町、無職菅井和男さん(75)が「名古屋開府400年の記念に」と申し出た。同種の書状は2例目だが、博物館は「今回は支払い元が尾張藩と特定できた。築城時、石垣などの土木工事は諸大名、建築物は尾張藩(または幕府)が担当したとの史実を裏付けるもの」と評価している。

 書状は、「飯米・作料請取状(うけとりじょう)」。名古屋城本丸東側の東一之門(戦災で焼失)両脇にあった櫓(やぐら)(書状では「御長屋」)の壁塗りをした左官614人が、飯米(食料米)と作料(工賃)を1日当たり、1人4升ずつ受け取ったことが記されている。

 裏面のあて先には尾張藩蔵奉行(会計責任者)の安井弥左衛門らの名があった。

 名古屋城は1610(慶長15)年に築城が始まり、14年までに天守閣や本丸御殿が完成。翌年に初代藩主の徳川義直が入城した。請取状は築城真っ最中の11年10月25日付。博物館が所蔵する別の請取状は、同年10月11日付と時期も近く、本丸北側の建物工事に加わった大工への報酬として、1日当たり1人5升とある。学芸員は「職人別の工賃の違いが具体的に分かって興味深い」と話す。

 請取状は菅井さんの曾祖父の収集品。博物館で3月7日まで開催中の特別展「名古屋400年のあゆみ」で初公開されている。

 (嶋津栄之)

79荷主研究者:2010/01/24(日) 17:55:30

http://svr.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010012323024941/
2010年1/23 23:02 山陽新聞
岡山城から江戸初期の長屋門跡 岡山市教委確認

岡山城本丸下の段で見つかった長屋門跡。舗装された出入り口(中央)の両側に、建物部分の堅固な基礎が見える

 国史跡・岡山城(同市北区丸の内)の本丸下の段で岡山市教委が進めている発掘調査で、鉄砲蔵などを守る長屋門跡が23日までに確認された。石垣を思わせる堅固な基礎を持つ重厚な構造で、同市教委は「城内防衛の1つの鍵となる重要施設だった」とみている。

 同門跡は、天守閣のある本段南側に位置。岡山藩が元禄13(1700)年に製作した「御城内御絵図」(岡山大付属図書館蔵)に記載され、江戸初期の藩主池田光政(1609〜82年)時代の建築とみられる。

 遺構は、天守閣へと至る通路をさえぎる形で出土し、幅約35メートル、奥行き約7メートル。中央の出入り口(幅6メートル)はしっくいを混ぜた土で舗装されており、全体の幅は絵図と照合すると45メートル近くになると推測される。

80荷主研究者:2010/01/24(日) 22:06:35

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20100121/CK2010012102000017.html
2010年1月21日 中日新聞
松本城土塁の一部を保存し公園に

復元工事が進む松本城総堀土塁跡=松本市大手で

 松本市は、同市大手に残る松本城総堀の土塁跡を復元し、「松本城西総堀土塁歴史公園」(仮称)の整備を進めている。貴重な土塁跡を保護すると同時に、市民や観光客に松本城の魅力を実感してもらう。3月の完成を目指す。

 総堀と土塁は、城の外周をぐるりと囲む防御施設。土塁は堀を掘った土を盛って築かれその上に塀が建てられていたという。本来総堀の内側沿い約2キロにわたって存在したが、明治維新後に次第に取り壊され、現在整備中の土塁跡を含め3カ所しか残っていない。

 土塁跡は民家の庭に残されており、市が保護のため買い取った。雨などで削れて小さくなった土塁跡に、保護シートをかぶせて新たに土で覆い、元の形状に戻す。復元される土塁は長さ約20メートル、高さ約4メートル。公園の総面積は約680平方メートル。

 復元土塁の断面には、埋められた本物の土塁跡の断面を描き、案内板で解説する。また堀や武家屋敷があった場所をカラー舗装で表示し、訪れた人が当時を想像できるようにする。

 整備を担当する松本城管理事務所の堀井亮彦さんは「松本駅から近く、新たな観光スポットになる。松本城について、より深く知ってもらえる機会になれば」と語った。

 (坪井千隼)

81荷主研究者:2010/01/24(日) 22:15:00

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20100121/CK2010012102000151.html
2010年1月21日 中日新聞
県教委、飯山城跡に高校建設計画

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/PK2010012102100103_size0.jpg
新校舎建設候補地となっている市営城北グラウンド(手前)。小高い丘が県史跡の飯山城跡=長野県飯山市飯山で

 戦国武将、上杉謙信が築城した「飯山城」(長野県飯山市)の跡地に、県教育委員会が県立高校2校統合後の新校舎建設を計画していることが分かった。計画地は県史跡の隣接地で、城の施設があったとされるため市教委が遺跡に指定。計画を問題視した県考古学会は昨年12月、保存などを求める要望書を県教委に提出した。

 建設が計画されるのは飯山、飯山北両校の2014年統合後の新校舎。計画地は飯山城跡の北側で、現在は市営城北グラウンドとして使われている。

 17世紀前半の絵図によると、計画地には築城当時、北門があり、食事を作った「下御台所」や「下御長屋」などの施設があった。市遺跡内のため、工事の際は文化財保護法で文化庁への届け出が義務付けられている。

 考古学関係者は「城施設の遺構などが埋まっている可能性が高い」と指摘。県考古学会の会田進会長は「文化財保護を第一に考えなければならない県教委が計画したことが悲しい」と訴える。

 これに対し、県教委高校教育課の担当者は、同グラウンドを候補地の一つと認めた上で「正式に建設地に決まった場合は工事前に発掘調査を行う。どういう保存方法がいいのか考えていく」と説明。市教委は「城跡の一角にあることは無視できない。市民の意見を聞きながら対応を検討したい」との姿勢だ。

 文化庁記念物課の禰宜田(ねぎた)佳男主任文化財調査官は「工事前の調査など必要な手続きを取れば法的には問題ないが、遺構などが出土した場合は学校の敷地の中で保存し、教材として活用するという方法もある」と話している。

 【飯山城】 信濃一円に侵攻した武田信玄に対抗する「最後のとりで」として、上杉謙信が築城した千曲川河畔の丘陵に位置する平山城。江戸時代には有力諸侯の居城として、飯山市の基礎となる城下町が発展した。1868年の戊辰戦争で、旧幕府軍の攻撃を受け焼失。1965年に長野県史跡に指定された。

82荷主研究者:2010/02/01(月) 01:15:21

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/143592
2009年12月30日 09:37 西日本新聞
原城抜け穴 謎解明へ 天草四郎 脱出探った? 世界遺産登録見据え調査 南島原市 新年度から

原城の本丸があったがけの側面に残る「抜け穴」の出入り口。現在は土のうを積んで立ち入りを禁止している=長崎県南島原市

 長崎県南島原市は、江戸時代最大のキリシタン一揆「島原の乱」(1637−38年)で天草四郎率いる一揆軍が立てこもった国指定史跡「原城跡」(同市南有馬町)に残る「抜け穴」の発掘調査に新年度から着手する。抜け穴は落城時に一揆軍の一部が脱出に使ったとの説もあり、公的調査は初めて。乱をめぐる謎の解明を図るとともに、世界遺産登録をにらんだ城跡の整備にも反映させる。

 抜け穴は、有明海に面したがけの上にあった同城本丸の地下に存在。干潮時にしか近づけないがけの側面(海岸から高さ約6メートル)に、出入り口(高さ約1・4メートル、幅約1メートル)が残っている。

 穴の存在は古くから知られていたが、国史跡指定(1938年)により発掘を伴う調査も制約されており、建造時期や目的は不明。63年に地元郷土史家グループが測量調査などを行った直後、豪雨で内部が崩落し、人が入れなくなった。この調査で出入り口から約30メートル奥に3畳ほどの空間があることが確認され、中には乱当時のものとみられる瓦や刀片もあったという。

 今年9月、東海大の研究グループの小型ロボットカメラ調査で、これまで判明していた部分より奥に空間があることが判明。空間には石で人為的に埋めた形跡があり、一揆軍が埋めたか、幕府軍が埋めたかを調べることで、穴の用途解明の手掛かりとなる可能性も出ている。

 同城跡は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一つとして世界遺産登録を目指しており、同市は整備計画を策定中。松島世佳(つぐよし)市長は年明け、文化庁に発掘許可を申請する方針で「空間はキリシタンの祈りの部屋という説もある。当時の信仰の様子も分かるのではないか」と期待している。

=2009/12/30付 西日本新聞朝刊=

83荷主研究者:2010/02/01(月) 22:47:10

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100130/201001300922_9874.shtml
2010年01月30日09:22 岐阜新聞
岐阜城の城跡を国史跡に 岐阜市が指定申請

 戦国武将織田信長が天下統一の拠点としたことで知られる岐阜城の城跡(金華山一帯)について、岐阜市は29日、国史跡指定を文化庁へ申請した、と発表した。市教育委員会は「16世紀後半の中世から近世への転換期に当たる日本史上重要な城」として史跡指定に期待を寄せている。今春開かれる文化審議会で審査されるという。

 市教委によると、1984年から4次にわたって金華山ふもとの岐阜公園内を発掘調査。石垣や、庭園の可能性のある遺構、茶室とみられる建物の礎石などが見つかった。戦国時代に信長居館を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの書簡とも符合し、金華山の地形を活用した庭園と信長居館の全体像が浮かび上がりつつある。

 今回は、山全体が自然の要害として機能していたことから、金華山一帯209ヘクタールを岐阜城跡として申請した。08年には文化庁委員会から「価値を明らかにした上で国史跡になる遺跡」との高い評価を受けている。

 市教委では「(とりでのような)中世の城から(天守閣などのある)近世の城への移行期に当たるのが岐阜城」と説明。「フロイスの記述を投影できる点でも希少な遺跡」と話している。

84荷主研究者:2010/02/11(木) 00:30:57

http://www.oita-press.co.jp/localNews/2009_125055740884.html
2009年08月18日 10:01 大分合同新聞
珍しい城郭建築 隅櫓を日出町指定文化財に

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/2009_125055740553.jpg
北東に向いた隅を欠く(右手前)五角形構造の隅櫓

 暘谷城の遺構で、日出町が所有する町内東仁王の隅櫓(すみやぐら)=別名「鬼門(きもん)櫓」=が町指定文化財になった。今後、解体して歴史的風情のある町並みづくりをしている暘谷城跡の二の丸に移築する予定。

 町の史料によると、隅櫓(木造2階建て延べ約100平方メートル)は17世紀初期の建造とされる。暘谷城跡にあったが、1921年に町内の個人が買い取って現在地に移築、2007年に町に寄贈された。

 隅櫓は北東に向いた隅(角)を欠いた五角形の構造。江戸時代当時、陰陽道(おんみょうどう)で北東側は鬼門とされ、邪気が入らないよう隅が取り除かれたという。

 櫓の研究をしている熊本大学名誉教授の北野隆さんの所見によると、隅櫓自体ほとんど現存しない上、石垣部分だけ隅を欠いた一般的な隅櫓と違い、暘谷城の隅櫓は屋根も隅を欠いており「全国的にも珍しい城郭建築」としている。

 築400年余り経過した現在は、土壁がはがれ瓦屋根も一部紛失したり崩れ落ちており、すき間に草が生えるなど損傷が激しい。14日に町役場で文化財指定書交付式があった。町教委生涯学習課は「骨組みはしっかりしているので調査しながら慎重に解体し、当時の流れをくむ建築として復元したい」と話した。

85荷主研究者:2010/02/13(土) 18:29:59

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201002110020.html
'10/2/11 中国新聞
福山城遺構最終調査始まる
--------------------------------------------------------------------------------
 福山市教委は10日、JR福山駅前広場整備に伴う福山城遺構の最終発掘調査を始めた。かつての外堀部分で、地下送迎場の本体部分に当たる。

 駅前広場の中心部約2500平方メートルのうち、3カ所計180平方メートルを3メートル掘り、堀底の形状や埋蔵物などを調べる。初日は文化課職員が立ち会い、業者が重機で作業した。調査は2週間で終了する予定という。

 市教委は2007年2月以降、今回を含めて5回の発掘調査を実施。歴史的価値が高いとされる二重櫓(やぐら)跡や舟入状遺構などの全容をほぼ確認した。遺構からは福山空襲で焼け溶けたガラス瓶などが見つかり、保存・活用方法を検討している。

【写真説明】福山城遺構の最終発掘調査に臨む市教委職員

86荷主研究者:2010/02/15(月) 01:53:24

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20100211/CK2010021102000002.html
2010年2月11日 中日新聞
鳥羽城跡周辺の整備進む まち活性化の拠点に

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010021102100078_size0.jpg
生い茂った草木が伐採されるなどし、石垣が姿を現した城山=鳥羽市で

 全国的にも珍しい海城の鳥羽城があった鳥羽市の城山周辺の整備を市が進めている。草木に覆われた城山は昨年秋からの本格的な伐採作業で石垣が現れ、城跡の面影がしのばれるように。3月末には玄関口に当たる東側にポケットパークも完成する予定だ。

 鳥羽城は、戦国時代に九鬼水軍として活躍した武将九鬼嘉隆が文禄3(1594)年、海に囲まれた小山に築いた。海側に正門の大手門があり、城の周囲は約1200メートル。明治時代の廃城時には本丸天守をはじめ、13の櫓(やぐら)があったといわれる。廃城以後ほとんどがなくなり、当時の城の石垣がわずかに残るばかりだ。

 現在は本丸跡に、昨年末に国登録有形文化財への登録を答申された鳥羽小学校旧校舎をはじめ、旧鳥羽幼稚園や市役所、城山公園がある。1965(昭和40)年に県史跡に指定されている。

 城山公園からは鳥羽湾を見下ろせ、海城を実感できるが、観光客らが通る近くの国道側からは城山全体が草木に覆われ、城跡であることが分かりづらかった。

 このため、市まちづくり整備室が市民とともに2007年度から「城山を美しく見せたいプロジェクト」を立ち上げ、歴史が詰まった城山を生かしたまちづくりをと整備の在り方を検討。ボランティアが草木の伐採にも当たってきた。

 整備中のポケットパークは、入り口を当時の大手門をイメージし高さ約2メートルの石垣で構成。あずまやや芝生広場を配し、城山公園に通じる108段の階段も設置する。従来あった7列の段々石垣は廃城後の築造物だが、整備し直して、夜間は照明を当て城山を演出する予定だ。

 市は、城山北側に当たる妙慶川沿いの遊歩道整備も進めていて「城山を拠点に観光施設が並ぶ海側から市街地までを動線でつなぎ、まちの活性化につなげたい」と話している。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010021102100079_size0.jpg
鳥羽城絵図(鳥羽市教育委員会提供)

 3月には、九鬼嘉隆などについて調べる鳥羽郷土史会も立ち上がる予定で、市民の中には「天守閣を再現したい」と、鳥羽の歴史を生かしたまちづくりに期待する声もある。

 (遠藤健司)

87荷主研究者:2010/02/20(土) 18:25:10

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/02/20100215t61010.htm
2010年02月15日月曜日 河北新報
鶴ケ城ふき替え赤瓦に 藩制時代再現、天守閣を修復へ

天守閣も幕末までの赤瓦にふき替えられる若松城(完成予想図)

 福島県会津若松市のシンボルで国史跡の若松城(鶴ケ城)が、3月下旬から約1年間の予定で修繕工事に入る。今回の工事の中心は天守閣の瓦の全面ふき替え。現在は黒い色だが、藩制時代の赤い瓦に戻し、観光客にかつての城の様子を知ってもらう計画だ。

 市によると、若松城は1648(慶安元)年ごろから赤い瓦だったと記録されている。うわぐすりを掛けて焼き、雪国でも割れにくいようにしたという。
 市の若松城総合整備計画では、想定する時代は江戸末期。幕末までは赤瓦だったためで、2001年に復元した食料貯蔵庫の「干飯櫓(やぐら)」と武器庫の「南走長屋」は既に赤瓦になっている。天守閣修繕で、城全体の瓦の色調が統一される。

 天守閣は1965年に復元されたが、40年以上経過し、外壁にひび割れや汚れも目立ってきた。外壁の塗り替え工事なども併せて行われる。工事期間中、天守閣はシートで覆われるが、内部の博物館には入場できる。

 修繕費用は約5億円で、国の補助金と天守閣の入場料収入などによる若松城等整備基金で賄う。
 若松城整備計画では天守閣再建50年に当たる15年度までに、かつて本丸東側にあった建物の「御三階」も復元されることになっている。
 会津若松市観光課は「史実に示されている赤瓦の天守閣を再現することで、史跡全体の魅力が増す」と期待している。

88荷主研究者:2010/02/24(水) 22:52:53

http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2010021902000150.html?ref=related
2010年2月19日 朝刊 中日新聞
信長居館庭園に室町文化の香り 池や水溜め遺構発見

 戦国武将織田信長が拠点とした岐阜城のふもとの居館跡を調査している岐阜市教育委員会は18日、居館付近にあったとされる庭園の池や手水(ちょうず)とみられる水溜(た)めの遺構が見つかったと発表した。室町時代の将軍邸のものと類似しており、市教委は「革新的なイメージが強かった信長が、室町将軍家の伝統や権威を継承しようとしていたことが見て取れる貴重な発見」と指摘している。

 発掘場所は岐阜市大宮町の岐阜公園内で、居館跡の中心部とみられる場所から東へ約100メートルの金華山山麓(さんろく)。出土した陶磁器の形などから、信長が岐阜へ入城した1567年から、廃城となる1601年までの遺構とみられる。

 市教委によると、池は約5メートル四方で深さ30センチ。石組みで護岸され、水が漏れないよう側面や底が粘土で固められている。池底には砂や小石が敷かれており、1569年に居館を訪れたポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの手記につづられている池の記載とも合致する。

 水溜めは池のすぐ南側の約1メートル四方。石で丸く周囲を囲って水をためる形状。居館の奥に手水を配置した構造が、将軍足利義政の別荘「東山殿」(京都市)と似ているという。このほか、巨石を用いた石組みや石垣なども出土した。

 市教委は「信長は、将軍足利義昭のために何度も京都に足を運び、義昭の邸宅建造に現場で指揮を執ったこともある。このときに学んだ室町文化を自らの居館にも取り入れたのでは」と分析した。

 京都造形芸術大の仲隆裕教授(日本庭園史)は「今回初めて姿を現した庭園からは、日本の頂点を目指した信長の強い意志や野望を感じる」と話した。

 現地説明会は2月27日午後零時半から3時まで。公園内のロープウエー乗り場の奥にある明治大帝像の前に集合。小雨決行。

89荷主研究者:2010/02/24(水) 23:03:35

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20100220/CK2010022002000003.html
2010年2月20日 中日新聞
彦根市が6件指定 歴史的風致形成建造物

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010022002100109_size0.jpg
歴史的風致形成建造物に指定された足軽組辻番所=彦根市で

◆旧彦根藩足軽組辻番所など

 地域における歴史的な価値が高い「歴史的風致形成建造物」として、彦根市は、旧彦根藩足軽組辻番所(つじばんしょ)など6件を指定した。今後、国の補助を得て修復・保全を図り、まちづくりに生かす。

 昨年1月、「市歴史的風致維持向上計画」が国から認定されたことを受け、指定作業を進めてきた。ほかに指定されたのは、彦根藩校で唯一現存する建物「金亀会館」、中級武家屋敷の長屋門として貴重な「旧鈴木屋敷長屋門」など。今後10年間で計17件を指定する。

 市が、建物の修復や改築をする場合は事業費の2分の1、活用する事業などは3分の1を、それぞれ国が補助する。 

  (伊藤弘喜)

90荷主研究者:2010/02/24(水) 23:20:42

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201002210010.html
'10/2/21 中国新聞
遍照寺山城は豪族宮氏の城か
--------------------------------------------------------------------------------
 福山市神辺町の遍照寺山城跡が、中世の備後地方で最大の勢力を誇った豪族・宮氏の拠点だった可能性が高いことが、広島県東部の歴史愛好家グループ「備陽史探訪の会」の調査で分かった。同会は「幻の一族と言われた宮氏の歴史の解明につながるのでは」としている。

 昨年1月から約1年間をかけて測量などの現地調査をした結果、約6万平方メートルの敷地に、山を切り開いて平地にした大小43カ所の郭(くるわ)がある県内有数の中世山城であることが分かった。これまでの県調査では、本丸跡など一部城跡しか確認されていなかった。

 宮氏は、室町幕府初代将軍である足利尊氏に味方して現在の福山市北部から庄原市東部まで勢力を広げ、「備後殿」と呼ばれた豪族。毛利元就によって滅ぼされた。同会は、城の規模や、2つの本丸を持つ築城の特徴などから、遍照寺山城が宮氏の城だったとみている。

 遍照寺山城跡は、福山市神辺町西中条の遍照寺の西側。調査では、本丸跡近くの岩に防御施設を設置したとみられる2つの穴も確認した。

【写真説明】宮氏の拠点の可能性が高いとされる遍照寺山城跡の本丸跡を紹介する備陽史探訪の会メンバー

91荷主研究者:2010/02/28(日) 16:18:01

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100224/CK2010022402000030.html
2010年2月24日 中日新聞
小牧山頂上付近の石垣確認 階段状、壁のように連続

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010022402100045_size0.jpg
発掘調査で出てきた石垣=小牧市の小牧山で

 織田信長が小牧市の小牧山に築いた小牧山城の石垣が、頂上付近を囲むように配置されていたことが同市教委の調査で分かった。市教委が23日、発表した。

 5年前の試掘で上下2層の石垣が見つかり「土の城」との定説を覆したが、今回の調査であらためて確認された。27日午前10時半から現地説明会を予定している。

 調査は、試掘で出土した石垣付近など頂上の周辺4カ所で実施。3カ所から信長築城時の永禄期(1558〜70年)の物と推定される石垣が出てきた。

 いずれも中腹から切り出したとみられるチャートという岩石で造られ、最も長い部分で長さ10メートル。1段目が1〜1・3メートル、2段目が1・8〜2メートルの高さに積み上げられた階段状の石垣で、頂上を囲む“壁”のように連続している。担当者は「清須から移った信長が本格的な居城として位置付けていたのではないか」と話している。

 現地説明会の問い合わせは、小牧市教委文化振興課=電0568(76)1189=へ。

 (神谷浩一郎)

92荷主研究者:2010/03/07(日) 14:49:26

http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20100304/news20100304346.html
2010年03月04日(木)愛媛新聞
排水路備えた庭池発見 松山城三之丸跡調査

 松山市と市教育委員会は4日、同市堀之内の松山城三之丸跡13次調査(2009年8月−10年3月26日)で、自然排水路を備えた武家屋敷の庭池遺構を確認したと発表した。市教委は、同様の遺構は県内初とし「池にたまった余分な雨水を外に流し、既に見つかっている堀端南西の貯水池にためて火災時などに用いた」とみている。

 調査は競輪場跡北側の234・5平方メートルで実施。北辺(約34・5メートル)と西辺(約37・5メートル)の柱穴列と礎石から武家屋敷境界が判明し、約1300平方メートルの敷地内の同じ場所で2つの時期に埋められた庭池跡を確認した。

 先に埋められた池は約50平方メートル、深さ約30センチで、池から塀を抜け屋敷外の側溝につながる排水路(幅約30センチ、長さ推定約2メートル)が設けられていた。底に瓦を敷き、両側に花こう岩を組んでおり、水が流れた跡もあった。

93荷主研究者:2010/03/11(木) 23:58:56

http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/administration/article.aspx?id=20100306000113
2010/03/06 09:55 四国新聞
丸亀城、完全復元へ最後の期待/市がはがき作成

情報提供を募るため、新たに作成した木図を刷り込んだ絵はがき

 丸亀城の完全復元を目指し、丸亀市が懸賞金総額1千万円をかけて2004年度から行っている同城の古写真や絵図など復元資料の募集は、10年度が最終年度となるがこれまで手がかりとなる情報は寄せられていない。このため市は、往事の姿の木図を刷り込んだ募集はがきを新規に作成、3月から天守来訪者に配布し一層の情報提供を呼びかけている。

 同城では国の重要文化財の天守を取り巻くように、隅櫓(すみやぐら)とそれをつなぐ渡櫓(わたりやぐら)がそれぞれ11棟建っていたことが分かっている。だが1869(明治2)年の火災で隅櫓1棟が焼失したのをはじめ、76〜77(明治9〜10)年ごろにすべて取り壊されたとされる。

 市は歴史を体感できる場として京極藩時代の丸亀城を再現しようと、両櫓の外観や高さ、内部の様子が分かる写真などの募集を始めた。取り壊しの時代にカメラが普及していなかったことなどもあり、これまで6件の問い合わせがあったが、有力な情報とはなっていない。

 1872(明治5)年に丸亀を訪れた明治天皇一行にカメラマンが同行していたという記録があるほか、高松城や城下を撮影した写真が英国ケンブリッジ大から発見された事例もある。

 市は「再現につながる未発見の資料がまだどこかに潜んでいる可能性はある」と、広く国内外からの情報提供に期待を寄せている。問い合わせは市教委文化課〈0877(24)8822〉。

94荷主研究者:2010/03/14(日) 15:20:37

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20100304/CK2010030402000168.html
2010年3月4日 中日新聞
浜松市が安土桃山の城門確認 二俣城・本丸中仕切門の規模を確定

 浜松市は3日、二俣城跡(天竜区)の発掘調査で、本丸中仕切門(なかじきりもん)の規模を確定したと発表した。建物の柱を支えた礎石4カ所の間隔から、門の大きさは東西2・1メートル、南北3・2メートルという。安土桃山時代の瓦も出土しており、豊臣家配下だった堀尾氏の領有時代に瓦ぶき城門が存在したとみている。 (後藤隆行)

 堀尾氏時代の改修の跡が発掘調査で確認されたのは初めて。生涯学習課の辰巳均文化財担当課長は「石垣を持つ城の初期の形態とみられ、近世城郭の流れにつながる」と話している。6日に現地説明会を開く。

 同課によると、中仕切門は二の丸と本丸をつなぐ通路に位置し、昨年の発掘調査で北側の礎石2カ所を確認。1日からの南側の調査では、礎石と、礎石の抜き取り穴が見つかった。門の両側に石垣を築いたことも確認した。丸瓦や平瓦が多く出土し、市は瓦ぶきの城門とみている。

 築城は16世紀中ごろと伝えられ、今川氏や徳川氏が形づくったが、徳川氏のころは土塁をめぐらしていた。その後の堀尾氏時代(1590〜1600年)の改修は、現存する天守台が物語る程度だった。居城したのは浜松城主だった堀尾吉晴の弟、宗光という。

 現地説明会は、午前10時と午後1時30分の2回。雨天決行。

95荷主研究者:2010/03/14(日) 17:02:51
>>94
http://www.shizushin.com/news/local/west/20100304000000000021.htm
2010/03/04 静岡新聞
二俣城に本丸中仕切門 浜松市、発掘調査で発見

 浜松市は3日、二俣城跡(同市天竜区二俣町)の発掘調査の結果、城跡内に「本丸中仕切門」があったことを示す遺構が発見されたと発表した。市は「(豊臣秀吉の勢力下だった)1590〜1600年ごろに、石垣や瓦を使用した近代的な城に改修されたのでは」(同市生涯学習課)と推測している。

 本丸中仕切門は天守台のある本丸と二の丸を結ぶ門。市は昨年から城跡の発掘調査を始め、今回、門の柱を支える4つの礎石や石垣など門の全容を確認した。安土桃山時代の瓦も出土した。

 現在の城跡は16世紀中ごろに築かれたと言われているが、天守台以外の建築物の遺構はこれまで確認されていなかった。今回の調査を受け、市は秀吉勢力下の城主、堀尾宗光が浜松城のような近代城郭として一帯を整備したのでは、とみている。

 同課は「城の守りを固める、かわらぶきの立派な門があったということ。今後も調査を進めれば、櫓(やぐら)などの遺構を発見できるかもしれない」と話している。

 6日に発掘現場の現地見学会を行う。午前10時、午後1時半の2回。希望者は昨年発掘が行われた鳥羽山城跡の見学もできる。問い合わせは天竜区振興課<電053(922)3300>へ。

発掘された「本丸中仕切門」の礎石。奧は天守台=浜松市天竜区

96荷主研究者:2010/03/14(日) 17:08:04

http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/region/news/20100312/294206
2010年3月12日 05:00 下野新聞
烏山城の大規模拡張跡を確認 13日に現地説明会

 【那須烏山】市教委が本年度から実施している烏山城跡の発掘調査で、城の中枢にあたる古本丸部分で、大規模に拡張された跡が確認されたことが11日までに分かった。市教委によると、烏山城に関する本格的な調査はこれまで行われておらず、文献は残っているものの実態は分かっていないという。同市教委は13日午前10時半から、現地説明会を開く。

 烏山城は、室町時代の1417(応永24)年に沢村五郎資重によって、現在の烏山地区市街地北西の丘陵頂上部に築かれたとされる。調査は2012年度まで行う予定で、今回は1月から実施。1530年代に焼失するまで本丸として使われていた古本丸部分を発掘した。

 南北約70メートル、東西約60メートルある古本丸内を十字に試掘。その過程で、時期は不明ながら大きな城へと拡張するための城普請(土木工事)跡を確認したほか、戦国期とみられる土師質土器や陶磁器なども出土した。

 市教委生涯学習課は「実体解明に一歩近づくことができた。戦国時代の城の様子を見に来てもらえたら」としている。現地説明会は雨天決行。烏山高付近の現地事務所に直接集合する。問い合わせは同課電話0287・88・6223。

97荷主研究者:2010/03/14(日) 17:41:00

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki2/218615_all.html
2010年03/03 14:31 北海道新聞
松前城天守閣の復元を検討 町、可能性審議し年内結論

(上)現在の「復興天守」(松前城資料館)。左が国指定重要文化財の「本丸御(ほんまるご)門」(下)松前城全体の想像図。中央の三層建築が天守閣。周囲には御殿や土蔵、堀や多数の門などが配置されている

 【松前】1949年(昭和24年)に焼失した道内唯一の日本式城郭「松前城(福山城)」の天守閣完全復元の可能性について、町が検討に入る方針を固めた。前田一男町長が8日、議会で表明する。現在の鉄筋コンクリート(RC)建築が老朽化したためで、焼失前の木造建築復元か、RC構造のまま補修かを選択する見通し。5月にも史跡福山城保存整備審議会で具体的な調査検討を始め、年内に答申を得て町の最終結論を出したい考えだ。

 松前城の中核、天守閣は1854年(安政元年)に築造された。当時は地上3階木造しっくい造り。焼失後、現在のRC地上3階地下1階、延べ129平方メートルの「復興天守」が完成したのは1960年。外観はほぼ同じだが、部材や内部構造は全く異なる。

 現在は壁が劣化、屋根の銅板がはがれるなど老朽化が目立ち、町は「ほぼ耐用年数の築50年を迎えた今年、本格的な整備を考えざるを得ない」と判断。天守閣を中心とした城と寺町を含む約13ヘクタールの史跡全体の整備について近く文化庁の了承を求める方針だ。

 天守閣整備の本格検討は2度目で、初回は焼失の直前だった。その際に作成した実測図と詳細メモが保存されていることが昨年までに判明。柱の位置や屋根のこう配など詳しい情報も得られた。国宝指定時の外観写真なども見つかった。

 また、城の石垣などに使う緑色凝灰岩を切り出した江戸時代の石切り遺構(町内神明)が2005年に発見された。調査で保存区域と採石区域の区分が進み、城内遺構の復元に石を使うことが可能になった。

 松前の歴史の象徴である天守閣の復元は、半世紀にわたる町民の悲願。観光振興の起爆剤にもなる。

 町と町教委はこれらの資料や素材を駆使すれば復元は可能とみているが、文化庁が実際に復元を了承するかどうかは未定だ。

 また、復元には巨額の資金が必要。専門家の間では、設計費を除いた建築費だけで20億円前後との見方もある。

 国や道の補助額、RCで補修の場合との比較など詳細な検討はこれからだが、大規模整備に向け、まずは復元可能性を探るとともに復元の意義と負担を町民がどうみるか、今後の議論が注目される。(久田徳二)

98荷主研究者:2010/03/20(土) 18:40:41

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100318000198&genre=M2&area=S00
2010年03月18日(木)Kyoto Shimbun
三成の居城で内堀跡など見つかる
彦根市・佐和山城遺跡

 関ケ原の合戦で西軍の指揮をとった武将、石田三成の居城だ・た彦根市の佐和山城遺跡で内堀跡が見つかった。内堀の幅は少なくとも22メートルあり、安土城に匹敵する大きな規模だという。付近では城下町の町屋区画とみられる溝跡もあった=彦根市・佐和山城遺跡

 豊臣秀吉の重臣、石田三成(1560〜1600年)の居城だった佐和山城遺跡(彦根市佐和山町)の発掘調査で、内堀跡や、城下町の町屋区画跡が見つかったと、滋賀県教育委員会が18日発表した。内堀の幅は少なくとも22メートルあり、「内堀は安土城に匹敵する大きな規模だ。『三成に過ぎたるもの』と称された城の姿がうかがえる」という。

 調査は2回目で、前回に武家屋敷跡が見つかった佐和山の東北の山すそで約550平方メートルを発掘した。

 発掘された内堀跡は幅が東西10メートル、南北4メートル、深さ約0・5メートル。西側に内堀の一部と伝わる小野川や土塁跡があり、土塁跡から測ると内堀の幅は約22メートルだった。発掘した県文化財保護協会は「土塁は廃城後に削られたが、現存部でも1・5メートルの高さがある。当時はさらに高い土塁と幅広い内堀で城と城下町を隔てた」とみる。

 付近では約2メートルの道跡や幅3メートル、長さ約30メートルの溝跡も見つかった。また、鋳物で使うスズを一時保管する入れ物「とりべ」、炉に風を送る「ふいご」の一部、鉄かすも近くで出土し、鉄砲などを作る鍛冶職人が居住したとみられる。協会は「道は城下町の主要道だった可能性が高く、溝は町屋区画の仕切りだった」とみている。

 佐和山城は鎌倉初期に造られ、彦根城築城開始(1604年)前後に廃城になったとされる。今回の調査地では大阪城築城開始(1583年)以後の瓦、瀬戸美濃焼の天目碗(わん)など16世紀後半の遺物が多く出土し、三成の居城だった時期にも使われた遺構とみられる。

 現地説明会は20日午後1時半から。雨天決行。県文化財保護協会Tel:077(548)9780。

99荷主研究者:2010/03/23(火) 22:50:44

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201003170041.html
'10/3/17 中国新聞
広島城の金鯱瓦、11月公開へ
--------------------------------------------------------------------------------
 広島市は11月、昨年1月に広島城(中区)の中堀跡近くで出土した鯱(しゃち)形の金箔(きんぱく)瓦を、天守閣で企画展示する。織田信長が築いた安土城(滋賀県)から出土した金箔瓦なども同時に展示する計画を進めている。

 開催期間は1カ月程度を予定する。広島城の鯱瓦をメーンに公開。安土城や大坂城(大阪市)、姫路城(姫路市)から出土した金箔瓦も各自治体から借りて飾る。展示が困難な金箔瓦は写真など資料を展示する。

 広島城の金鯱瓦は、雄が高さ約75センチ、雌は同70センチの雌雄一対で、いずれもほぼ完全形で出土した。胴と上あご、左右の下あごを組み合わせる過去に例のない構造が特徴。ひれや歯、目などに金箔が残る。発掘した測量会社パスコ(東京)が3月中に調査を終え、市に引き渡す。

100荷主研究者:2010/03/23(火) 23:18:25

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100319/CK2010031902000034.html
2010年3月19日 中日新聞
岡崎城東隅櫓を再建 27日から内部公開

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010031902100061_size0.jpg
再建された東隅櫓(右)と城壁。左奥は大手門

 江戸時代の岡崎城(岡崎市康生町)で東側の防備を担っていた東隅櫓(やぐら)が、往時の工法で再建された。明治維新後に取り壊されて以来約140年ぶりに、優美さと機能性を兼備した姿がよみがえった。

 東隅櫓は、望楼式二重櫓と呼ばれる木造2階建てで、白しっくい塗りの壁が映える。入り母屋造りの屋根は、岡崎藩主を務めた譜代大名本多家の家紋「立ち葵」が刻まれた本瓦ぶき。高さ約9・4メートルで、かつて「東曲輪」だった岡崎公園駐車場の南東角に位置する。

 詳細な設計図は残っていないため、旧岡崎藩士和田家が保存する1781(天明元)年の「岡崎城絵図」と、松山市に現存する松山城の櫓を参考に、江戸時代の工法を忠実に再現。城内で発掘された石材を使い、石垣も築いた。隣接して同時に整備した長さ約45メートルの城壁と合わせ、総工費は約1億円。

 直径60センチ以上の巨大なマツ材の梁(はり)や、ヒノキ材の柱の木組みが見学できるよう、27日から年中無休で内部を公開。公開は午前9時〜午後5時で、4月11日までは、特別に2階にも上れる。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010031902100062_size0.jpg
巨大な梁など構造が見学できる内部=岡崎市康生町で

 担当した岡崎市公園緑地課の加藤栄一主幹(54)は「東海道の名城・岡崎城の雄姿が復活した。市民の誇りになってくれれば」と話した。

 (中野祐紀)

101荷主研究者:2010/04/04(日) 00:37:12

http://www.shizushin.com/news/local/central/20100327000000000024.htm
2010/03/27 静岡新聞
駿府城の天守閣復元に否定見解 市検討委報告書

 駿府城天守閣復元の可能性について、静岡市の諮問を受け、検討を進めてきた市駿府城天守閣建設可能性検討委員会は26日、「現時点では天守閣復元を行うべきではない」との報告書をまとめ、小嶋善吉市長に提出した。

 会長の志田直正静岡英和学院大副学長が市役所静岡庁舎を訪れ、小嶋市長に報告書を手渡した。検討委は学識経験者や市民ら16人が、2年にわたり議論を重ねてきた。

 報告書は、天守閣全体の高さ、各階の高さを示す図面や記録などの原本がなく、現段階では史実に沿った再現ができないとした。ただ、確実な資料が残る天守台については復元を検討すべきとした。

 また、史跡としての価値を発信する観点から、駿府公園の名称を「駿府城公園」に変更することも提言した。

 志田会長は「今後も、市民の関心を呼び起こしながら周辺整備を進めてほしい」と強調した。小嶋市長は「(報告書の内容を)しっかり受けとめてやっていきたい」と答えた。

102荷主研究者:2010/04/04(日) 01:15:54

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201003230029.html
'10/3/23 中国新聞
蓮華山で室町末期の山城確認
--------------------------------------------------------------------------------
 岩国市文化財専門員の松岡睦彦さん(70)=考古学=と、同市玖珂、周東町の住民有志6人が、両町にまたがる蓮華山(576メートル)で室町時代末期の山城の遺構を確認した。頂上一帯に防御施設の廓(くるわ)跡があったとみている。

 蓮華山には地元の武将椙杜(すぎのもり)隆康の出城があったとされる。隆康は1555年、毛利氏の山口侵攻をめぐり近くで繰り広げられた「鞍掛合戦」で毛利氏側に加勢し、功績を残したと伝えられている。

 松岡さんは、山頂一帯の東西約500メートルに幅約70〜120メートルの平地が連続していることから、木の柵で囲んだ大小6カ所の廓(計約4万7500平方メートル)があったと判断。廓の周囲で2〜4重に張り巡らされた「武者走り」と呼ばれる小道の跡も確認した。

【写真説明】蓮華山の山頂で廓の説明をする松岡さん(右端)

103荷主研究者:2010/04/04(日) 01:26:54

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100328/CK2010032802000027.html
2010年3月28日 中日新聞
田中吉政の石像除幕 岡崎城下町発展の基礎築く

完成した田中吉政の石像=岡崎市籠田町で

 岡崎城下町発展の基礎を築いた岡崎城主・田中吉政(1548〜1609年)の石像が岡崎市籠田町の中央緑道に完成し、27日に除幕された。

 吉政の菩提(ぼだい)寺に残る肖像画を基に、岡崎石製品協同組合連合会の石工、磯貝泰隆さんが彫り上げた。あぐらをかいて座った姿と台座を合わせ、高さ185センチ。激しい戦歴を物語る顔面の刀傷もくっきりと再現した。

 城下の旧東海道「二十七曲り」を手製のわらじで練り歩くイベントに参加した小学生や石材工業、地元の関係者計70人が式典に集まり、加藤邦彦副市長らが除幕。子どもたちは「家康だけじゃなく、吉政のことも勉強しなきゃ。強そうで格好いい」と喜んでいた。

 豊臣秀吉に仕えた戦国武将の吉政は徳川家康の関東転封(1590年)後、約6万石の岡崎城主に。関ケ原の合戦(1600年)では家康方に付いて石田三成を捕らえる大功を立て、筑後(現福岡県)柳川32万5000石の城主に栄転した。

 岡崎在城時代に、東海道を城下町に引き込んで複雑に屈折させて防御力を高めた「二十七曲り」や大規模な「田中堀」、天守閣などを築いた。精巧な石垣を築くため、関西から招いた職人が岡崎石工の起源になったと伝わる。

 家康に比べ、いまひとつ知名度が低い「まちづくりの祖」を顕彰し、石工業をPRしようと、市が総事業費250万円で石像を作った。

 (中野祐紀)

104荷主研究者:2010/04/25(日) 03:08:18

http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0002875347.shtml
2010/04/15 09:15 神戸新聞
二之丸庭園の「西仕切門」復元完了 旧赤穂城内

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/02875348.jpg
復元が完了した二之丸庭園の西仕切門=赤穂市上仮屋

 赤穂市が整備を進める、旧赤穂城内の国名勝、二之丸庭園にある「西仕切門」の復元工事が、このほど完了した。文献や絵図、発掘調査の資料から往年の姿をよみがえらせ、旧城内の新しい風景として親しまれそうだ。

 二之丸庭園は、1998年度から4年間に行われた発掘調査で、門や土塀の遺構が発見され、2002年、国名勝に指定。現在は復元整備が進んでおり、今回は、庭園の南限に位置し、二之丸を南北に仕切る「西仕切門」と周辺の土塀が完成した。

 西仕切門は、高さ約4・6メートル、幅約3メートルの棟門。一部に横板を張らず、向こう側が見通せる「透かし門」の構造になっている。周辺の土塀は、高さ約2・4メートルで、長さ約10メートル。石灰やにがりを混ぜた土を、何重にも圧縮し固めた版築工法が用いられている。

 いずれも瓦は、発掘調査で出土したものを参考にしており、構造や規模は、かつての絵図資料などを基本とした。また、姫路城や松山城(松山市)などの棟門も参考に、門扉の意匠を設計したという。

(黒田耕司)

105荷主研究者:2010/04/27(火) 21:56:09

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201004130037.html
'10/4/13 中国新聞
郡山城跡 説明板を一新
--------------------------------------------------------------------------------
 安芸高田市教委は同市吉田町の国史跡・郡山城跡の遊歩道の説明板や方向表示などを一新した。展望が利かなかった遊歩道も一部見晴らしを確保するなど改善している。

 説明板は毛利元就墓所入り口と、2年前に酉谷(とりたに)地点から出土した石垣付近の2カ所に設置。墓所入り口には、従来の戦国年表板に代わり、その後、周辺で発掘された大通院谷(だいつういんだに)遺跡や100メートルにわたる薬研堀の解説文を掲げた。

 遊歩道は、本丸への登り道で、雑木を除去。ベンチも設けた。城内の土塁などの遺構の指示板や、遊歩道の全体地図も設けた。

 道標は、本丸のほぼ南約450メートルにある旧本城への遊歩道を中心に13カ所新設した。

 旧本城跡は、約250年間の同城の歴史で城が全山に展開するまでの約190年間拠点だった。再評価機運が出ていて、道標整備はそれに応えた形。事業費は計409万円。

【写真説明】遊歩道入り口の薬研堀跡(右側の溝)と、新設された説明板

106荷主研究者:2010/04/27(火) 22:18:09

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20100416/CK2010041602000185.html
2010年4月16日 中日新聞
戦国の面影『野面積みの石垣』が人気 09年度、浜松城天守閣の入場者が過去最多

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010041602100126_size0.jpg
戦国の面影をとどめる野面積みの石垣の上に建つ浜松城天守閣=浜松市中区元城町で

 戦国時代や城への関心の高まりに合わせるように、この数年来、来場者を増やしてきた浜松城天守閣(浜松市中区元城町)は2009年度、14万3230人が来場し、過去最高を更新した。最近は、徳川家康が築いた当時のままの荒々しい野面(のづら)積みの石垣にあらためて光が当たり、本格的な城郭ファンも引きつけているようだ。(飯田時生)

 浜松城は徳川家康が武田軍の進攻に備えて築き1570年に入城。29歳から45歳までの17年間に長篠、小牧・長久手の戦いなどを経て、天下統一への足掛かりを築いた。野面積みの旧天守台の上に、1958(昭和33)年、市民の寄付金で天守閣が再建された。

 野面積みの石垣とは、自然石を、平らな面を表に出すように組み合わせて積み上げ、すき間に小さな石と砂利を詰めて補強してある。一見崩れやすそうだが、水はけがよく豪雨などの水圧にも強い。敵からの攻撃にも強く、堅固に造られている。

 「三方ケ原の合戦など、激動の青年期が刻まれた家康の浜松城。城郭が好きな者にとって、天守閣とそれを守る石垣を眺めていると戦国ロマンがかきたてられる」。昨年11月、国民文化祭しずおか2009の浜松城見学会で講師を務めた城郭研究家の中井均さんは魅力を話す。

 2009年度は国文祭のほか、浜松モザイカルチャー世界博(浜名湖立体花博)と大きなイベントが開かれたことも、来場者増の追い風になったとみられる。

 最近では、戦国の世の興亡に彩られた各地の城郭を見学することを、一部の歴史ファンは“城攻め”と呼ぶという。浜松城で来訪者の案内にあたる浜松観光ボランティアガイドの会員たちも「専門知識を持った人たちがくまなく見学していく姿に静かな熱気を感じます」と話している。

107荷主研究者:2010/04/27(火) 22:20:57

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20100413/CK2010041302000145.html
2010年4月13日 中日新聞
西内惣構の復元整備完成 堀の幅拡大 江戸時代の規模に

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010041302100086_size0.jpg
堀や土居を復元整備した西内惣構=金沢市主計町で

主計町『緑水苑』

 金沢市が進めていた、同市主計町の公園「緑水苑(えん)」内の西内惣構(にしうちそうがまえ)の復元整備が完成した。堀の幅をこれまでの約二メートルから、藩政期当時に合わせて約十メートルに拡大。土を盛り上げた土居(どい)も復元し、江戸時代の規模に近い形で惣構を体感できる空間となった。(村上一樹)

 惣構とは、城下町を囲い込んだ堀や盛り上げた土居などのことで、金沢城では防衛のため内・外二重の惣構が造られた。緑水苑は城の西側にある内側の惣構(西内惣構)が浅野川に流れ落ちる地点で、市は二〇〇八年度に発掘調査を実施。調査結果に基づく復元整備を〇九年秋から進めていた。

 明治以降は埋め立てられて幅が約二メートルまで狭くなっていた堀を、長さ十八メートルにわたり、幅約十メートルに拡大。合わせて、高さ約三メートルの土居を設け、斜面にはコグマザサを植えた。土居の上部には見学所も設けた。

 また公園機能との共存を図るため、平たん部分をなるべく残し、大雨時に氾濫(はんらん)しないよう排水機能の強化も図った。復元したのは広さ約三百平方メートルで、整備費は約二千万円。

 市は週内には新たな案内板を設置する予定で「市民が気軽に立ち寄り、歴史遺産にふれ合える空間になれば」としている。

108名無しさん:2010/05/02(日) 03:15:11
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010050120390144/
岡山城特別展 会期終盤もにぎわう 幕末の動乱 史料で紹介

 岡山城天守閣(岡山市北区丸の内)で開催中の春季特別展「幕末の動乱 会津と長州そして岡山」(同市、おかやま観光コンベンション協会、山陽新聞社主催)は9日の閉幕まであと1週間。ゴールデンウイークが重なり、続々と訪れた歴史ファンが近代日本の夜明けに思いをはせている。

 黒船来航や会津、長州両藩の激突、官軍と旧幕府軍による戊辰(ぼしん)戦争終結ごろまでを約90点の史料で紹介。志士の心得を説いた高杉晋作の書をはじめ、土方歳三の愛刀や新式ライフル銃、官軍の隊長が頭に着けた赤い毛「赤熊(しゃぐま)」が目を引く。郷土関連では岡山市長に当たる岡山区長を務めた会津藩士手代木(てしろぎ)勝任(かつとう)の遺言状などが並ぶ。

 夫と旅行中の兵庫県宝塚市、主婦川口倫子さん(39)は「坂本竜馬ら志士の筆跡や白虎隊士の絵図から動乱の生々しさが伝わってきます」と話した。

 会期中無休。午前9時〜午後5時半。入場料は15歳以上800円、5歳以上400円。

【詳しくは山陽新聞紙面をご覧ください。】(5/1 22:30)

109荷主研究者:2010/05/06(木) 23:47:50

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20100423/CK2010042302000004.html
2010年4月23日 中日新聞
戦国期のガラス工房 福井・一乗谷朝倉氏遺跡で発掘

上級武家屋敷の一角にあったとみられるガラス工房の遺構(県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館提供)

 県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館は22日、戦国大名朝倉氏の城下町だった福井市城戸ノ内町の同遺跡から、ガラス工房とみられる遺構や炉跡、原料、ガラス玉などが出土したと発表した。これまで鎌倉時代から江戸初期までは、国内ガラス生産の空白期と考えられていたが、覆る可能性が出てきたという。

 同資料館によると、工房跡が発見されたのは遺跡の玄関部に当たる南端の上級武家屋敷跡の一角。幅9・5メートル、奥行き3・8メートルの遺構からガラス片、原料の鉛や石英、鉱物を高温で溶解する炉が集中的に見つかった。

 昨年度の発掘調査でガラス玉など156点が出土した。ガラス玉は直径2・5〜4・5ミリ、中心に穴があり、色は紺、緑、水色など。奈良文化財研究所に鑑定を依頼し、奈良時代に奈良で作られていた製法と酷似していた。鎌倉時代初期に途絶えたとされていたガラス生産が、戦国期の地方で受け継がれていたことがうかがえる貴重な資料という。

 水野和雄館長は「日本のガラス史を塗り替える発見。装飾品や仏具だったガラス玉を武士が(職人らに)作らせていたのではないか」と推測している。

遺構から見つかったガラス玉やガラスの溶解片=福井市城戸ノ内町で(県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館提供)

 同遺跡は朝倉氏が5代約100年間にわたって越前国(福井県の一部)を支配した城下町跡で、国特別史跡に指定されている。

 (原田晃成)

110荷主研究者:2010/05/06(木) 23:49:44

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20100424/CK2010042402000138.html
2010年4月24日 中日新聞
130年ぶり いよっ三代目 河北門デビュー

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010042402100057_size0.jpg
約130年ぶりに復元され報道関係者らに公開された河北門=金沢城公園で

職人500人 2年半かけ復元

 金沢城の三御門の一つで、四月半ばに復元が完了した河北門の報道関係者向け内見会が二十三日開かれ、一八八二(明治十五)年ごろに撤去されてから約百三十年ぶりによみがえった門の全容が披露された。(佐藤航)

 河北門は現存する石川門の北側に位置し、これまでの研究では金沢城の実質的な正門だったとされている。一七五九年の宝暦の大火で焼失した後に一度復元されたが、明治に入り旧陸軍が駐留していた約百三十年前に取り壊された。今回の復元で三代目の門になるという。

 二代目の門の絵図や明治初期の写真などを基に、約五百人の職人が二年半で仕上げた。石川門と同じ構造で、ケヤキ造りの「一の門」(高さ七・四メートル)、両側の石垣にやぐらを渡した「二の門」(同一二・三メートル)、双方の門をつなぐ「枡形(ますがた)土塀」などを備える。事業費は約十五億円。

 二十四日午前に完成の記念式典があり、同日午後六時半からはライトアップが始まる。

111荷主研究者:2010/05/10(月) 22:56:45

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20100429/CK2010042902000004.html
2010年4月29日 中日新聞
二階と三階を初公開 彦根城の西の丸三重櫓、29日から

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010042902100062_size0.jpg
公開が始まる彦根城西の丸三重櫓と続櫓

 彦根城(彦根市)の西の丸三重櫓(やぐら)(国の重要文化財)が29日から公開される。

 櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北に位置する。3階建てで1階はすでに公開されており、2階と3階が初公開となる。高さは約11メートル。東側と北側の1階に、それぞれ続櫓(つづきやぐら)がある。

 市文化財課によると、彦根城が築城された当初は、筆頭家老の木俣土佐が毎月20日間ほど詰めていた。江戸後期の嘉永6(1853)年に実施された大修理で柱や梁(はり)などの部材の8割近くが取り換えられたという。

 櫓は、戦国武将の浅井長政の居城だった小谷城の天守を移した建物との言い伝えがあるが、昭和30年代に行われた解体修理では、その痕跡は見つからなかった。

 29日午前9時半から、公開を祝うために人気キャラクター「ひこにゃん」が登場する。

 (伊藤弘喜)

112荷主研究者:2010/05/21(金) 00:16:02

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/170337
2010年5月9日 01:10 西日本新聞
福岡城本丸の模型披露 復元目指して講演会 福岡市のNPO法人など企画

 初代福岡藩主・黒田長政が築いた福岡城(福岡市中央区)の復元を目指す市民講演会「ふくおかの歴史を見直そう! 蘇(よみがえ)れ!福岡城&黒田家の人々」が8日、同区で開かれ、本丸の模型などが披露された。

 市民団体「つくしの歴史を学ぶ会」とNPO法人「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」の共催で約130人が参加。市民団体「筑前城郭研究会」の小田原早嗣会長が制作中の福岡城の本丸模型が初めて展示され、関心を集めた。

 この日は、小田原会長がコンピューターグラフィックス映像で本丸の構造を解説。市教委職員がこれまでの復元整備の経過と展望について話した。夫と聞き入った大野城市の女性(58)は「郷土の歴史シンボルとして、福岡城の復元が進んでほしいですね」と話していた。

 福岡城復元をめぐっては3月、市と民間団体、有識者などによる官民共働勉強会が発足。「市民の会」の岡部定一郎事務局長は「市民募金につながるよう、機運を盛り上げていきたい」と参加者に呼びかけていた。

=2010/05/09付 西日本新聞朝刊=

113荷主研究者:2010/05/27(木) 22:30:38

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100516/CK2010051602000023.html
2010年5月16日 中日新聞
交通対策待ったなし 戦国ブームで活気の犬山観光

駐車待ちの車で埋まった城下町の本町通り=5月3日、犬山市犬山北古券で

 好天に恵まれた今年の大型連休期間中、犬山市の城下町や観光施設は近年にない人出でごった返した。半面、交通対策の“不行き届き”があらためて浮き彫りとなり、観光地としての弱点を露呈した。

 市観光協会によると、人出の指標となる1〜5日の国宝犬山城入場者数は2万284人。昨年同期間の入場者数1万2193人を66%上回る大幅な増加となった。天守閣登城まで1時間半待ちの日もあり、炎天下、城郭の外まで長い行列ができた。

 同協会は、城下町の観光客が増えた要因として▽最近の戦国ブームで“本物”である犬山城が注目された▽連休序盤の4月29日、お笑いコンビ「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳さんが市の観光特使に任命され大きく報道された▽市と名古屋鉄道が展開している「犬山キャンペーン」の町歩き企画が浸透した−などを挙げる。

 一方で、駐車場不足に伴う渋滞、歩行者の安全確保といった以前から指摘されている交通に関する行政サイドの対応の遅れは深刻だった。

 城下町の狭い通りは一方通行が多く、駐車待ちの車であふれ、歩行者がのんびり散策するどころか、江戸情緒の“かけら”すら感じられない状況が続いた。近隣の学校やグラウンドの開放も進まず、車を止めるのに3時間以上も待たされた観光客らからは不満が噴出した。通りを生活道路にしている住民も渋滞の影響で不便を強いられた。

犬山城天守閣への登城を待つ観光客らの列=5月3日、犬山市犬山北古券で

 現場で対応した観光協会職員には「犬山市の交通対策は野放し」「歩行者の安全への考えがまったくでたらめ」「ここには『もてなしの心』がないのか」「これでは犬山城という宝が泣く」といった怒りの声が観光客から浴びせられたという。

 その職員は「特に有名観光地でもないのに、今は全国から大勢のお客さんが犬山を訪れてくれる。その人たちをがっかりさせないためには、どうすれば良いのか、もう話し合っている時間などない」と言い切った。

<記者の目>
 予測を上回る観光客にわいた連休中の犬山市。だが、ここ数年、犬山観光を取り巻く状況は劇的に変化している。特に「駐車場問題は限界を超えた」と言われて久しい。行政や観光の関係者には、変化に迅速に対応するスピード感が求められる。

 (野末幹雄)

114荷主研究者:2010/05/30(日) 10:35:01

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20100517/CK2010051702000011.html
2010年5月17日 中日新聞
入場者800万人突破 伊賀上野城、開館以来74年7カ月

福井専務理事(左)から記念の花束を受け取る安江さん一家=伊賀市上野丸之内で

 伊賀市の伊賀上野城の入場者数が16日、開館以来74年7カ月で800万人を突破した。800万人目の岐阜県白川町、会社員安江好博さん(42)一家に、城を管理する伊賀文化産業協会から記念品が贈られた。

 安江さんは長女の杏さん(7つ)ら家族4人で来場。協会の福井健二専務理事(73)から記念の花束と城のガイドブックを手渡され「偶然で驚いた。初めて来たが、岐阜の城と比べても立派で美しい」と話していた。

 伊賀上野城は伊賀を治めた大名の藤堂高虎(とうどうたかとら)が1611(慶長16)年に建造したが翌年の暴風で倒壊。1935(昭和10)年に3層3階建ての大天守閣が復興、開館された。入場者数は1989(昭和64)年に500万人を突破し、90年ごろに年間20万人以上とピークを迎えた。その後減少が続き昨年は10万五千人が訪れている。

 豊臣秀吉から高虎に贈られたと伝わる「唐冠形兜(とうかんなりかぶと)」(県有形文化財)など藤堂家ゆかりの武具を展示している。

 (河北彬光)

115荷主研究者:2010/06/16(水) 22:29:19

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/171710
2010年5月15日 00:27 西日本新聞
戦国末期の大名・龍造寺隆信 佐賀城内に居城遺構

初確認された戦国大名・龍造寺氏の居城「村中城」の建物跡。白いマークがついているのが掘立柱の柱穴=14日午後、佐賀市城内1丁目

 佐賀市教委は14日、佐賀藩鍋島家の居城・佐賀城の前身で、戦国大名龍造寺(りゅうぞうじ)隆信(1529−84)が拠点とした中世の平城(ひらじろ)「村中(むらなか)城」の関連建物遺構を、佐賀市城内1丁目で初確認したと発表した。佐賀城跡周辺は佐賀県が公園整備を進めているが、村中城の遺構は痕跡すら見つかっていなかった。同市教委は「九州で一大勢力を誇った龍造寺氏の実像に迫る重要な発見」としている。

 遺構が確認されたのは、佐賀城西堀に架かる西の御門橋付近の一角。約350平方メートルの調査区画から、東西に整然と並ぶ大型掘立柱(ほったてばしら)建物2棟の25の柱穴が見つかった。柱穴は江戸期の地層から約80センチ掘り下げた土中から、16世紀後半に製造された中国・景徳鎮や朝鮮半島産の磁器などと一緒に出土したことから、村中城関連遺構と判明した。

 同市教委によると、柱穴の直径は55−65センチで、当時、佐賀平野にあった建物では群を抜く規模。ただ、村中城に関する絵図や文書はないため建物の名称や用途は不明で、館や寺院など重要施設であることが推定されるという。

 龍造寺隆信は戦国末期の16世紀後半、薩摩の島津氏、豊後の大友氏と九州を三分する大名に成長。最盛期は肥前から筑後、肥後、筑前、豊前、壱岐・対馬に勢力を伸ばし、「五州二島の太守」と号した。隆信は島津氏との戦いに敗れ戦死するが、領国を継承した鍋島直茂・勝茂父子が江戸期の1608−11年、村中城を拡張。巨大な堀を有する佐賀城に整備した。

 丸山雍成(やすなり)・九大名誉教授(日本中近世史)は「幕末維新期に近代日本形成の一翼を担った佐賀藩のルーツを知る上でも、村中城関連遺構の確認は意義深い」と話している。

=2010/05/15付 西日本新聞朝刊=

116荷主研究者:2010/06/20(日) 14:54:04

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201006010079.html
'10/6/1 中国新聞
戦国の山城跡、住民が再整備
--------------------------------------------------------------------------------
 庄原市口和町大月の大月自治会が、戦国時代の山城だった黒岩城跡を再整備した。あずまやを設け、登山道には手すりなどを取り付けた。建設中の中国横断自動車道尾道松江線口和インターチェンジ(IC)=仮称=完成を見込み、通行客にも町に立ち寄ってもらう期待を込めている。

 黒岩山(456メートル)に築かれた山城跡は市史跡。かつて尼子氏と毛利氏の争いのときの最前線に当たり、領主は毛利方の和泉氏だったと伝えられる。

 頂上にあった旧神社(約10平方メートル)をあずまやに改修し、ベンチなどを置いた。南ルートと東ルートがある登山道(いずれも約150メートル)には、安心して訪れられるよう、手すりやプラスチック製の階段を設けた。

 ふもとには約500平方メートルの公園を整備し、トイレも改修した。桜とモミジの苗木計100本も植樹した。

【写真説明】山頂にあった旧金比羅神社を改装したあずまや

117荷主研究者:2010/06/20(日) 14:57:49

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20100602/CK2010060202000012.html
2010年6月2日 中日新聞
岐阜公園で発掘始まる 信長の居館跡

メーン通路の構造解明に向けて階段のコンクリートをはがす業者ら=岐阜市の岐阜公園で

 戦国武将の織田信長が、客人をもてなしたり政務を執ったりするための「居館」を構えたと伝わる岐阜市の岐阜公園で1日、本年度の発掘調査が始まった。屋外のメーン通路とみられる上り口の構造や、昨年度の調査で見つかった庭園遺構などの全容解明を目指す。

 市教育委員会が居館跡の発掘調査を始めたのは1984年で、現在は2007年度から始まった4次調査の4年目。本年度は、金華山ロープウエーの南東2地区約260平方メートルを掘り進める。発掘事業費は約4064万円。

 この一帯は、迎賓館や宣教師ルイス・フロイスが書き記した高層の建物、茶室などがあった“もてなしのエリア”とみられている。

 6〜9月は、迎賓館のように要人を接待する建物があったとされる明治大帝像の西側地区を重点的に調査。幅約4メートル、全長約30メートルとみられるメーン通路や、門の構造などを明らかにする。

 10〜3月は、昨年度の調査で、池や水溜めの石組みなど園池遺構が見つかった槻谷(けやきだに)の奥をさらに発掘。高層の建物の一部とみられる焼けた石垣の周囲の調査も進める。

 信長は1567年から9年間、岐阜城に住み、天下統一を目指した。城は1600年、関ケ原の戦いの前哨戦で、孫の秀信が徳川家康の東軍に敵対したため池田輝政らに攻められ落城。その際、現在の岐阜公園一帯に広がっていた居館も焼き払われたとみられる。

 発掘現場は9月まで、柵越しに常時公開されている。市教委社会教育課文化財グループの井川祥子さんは「ロープウエーの近くでやっているので、ぜひ見に来て、歴史に思いをはせてほしい」と話している。

 (森村陽子)

118荷主研究者:2010/07/06(火) 22:44:33

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20100616/CK2010061602000006.html
2010年6月16日 中日新聞
110年前にも修復の記録 改修中の飯田城「赤門」

屋根材の一部から見つかった板書

 飯田市追手町の飯田合同庁舎敷地内で改修工事中の飯田城桜丸御門、通称「赤門」の屋根から、110年前に修復をしたと見られる年号や担当した大工の名前が書かれた板書が見つかった。この時期の改修の記録は確認されていないという。19日には、改修工事の一般見学会が開かれる。

 板書が見つかったのは5月下旬ごろで、瓦などをはずしたところ、屋根材の棟札に「明治33年8月3日 大工 筒井…」などと書かれていた。大工の名前はもう一人書いてあった。

 下伊那地方事務所によると、赤門は、1985(昭和60)年に、土台を中心に改修されたほか、40(昭和15)年にも改修された記録はあるが、それ以前については不明だった。

 板書が見つかった付近の屋根の構造を見ると、それ以前とは違った方法で改修されていると見られ、今後、元の状態に戻すかどうかも検討していく。

改修工事が進められている赤門=いずれも飯田市の飯田合同庁舎敷地内で

 今回の改修では屋根瓦を取り換えるほか、赤いベンガラを塗る工事が進められる。板書した屋根材も何らかの形で保存をしていく。

 工事の見学会は19日午後1時30分から同4時まで、現地で工事業者などから工事の状況の説明や当時の建築などについて説明される。

 (吉田幸雄)

119荷主研究者:2010/07/19(月) 21:17:34

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/E20100628001.htm
2010年6月28日 北國新聞
橋爪門一の門 しばし閉鎖 二の門復元へ埋文調査開始 金沢城公園

橋爪門二の門の復元工事に合わせて閉鎖された一の門=28日午前8時半、金沢城公園

 金沢城公園で28日、橋爪門二の門の復元に向けた石川県の埋蔵文化財調査が始まり、一の門の扉が閉鎖された。約2年間かけて埋文調査を行い、2012(平成24)年度の本体着工を目指す。二の門の完成は14年度を見込んでおり、同年度末の北陸新幹線金沢開業に向けて金沢城の風格に厚みが増す。

 埋文調査の対象範囲は、橋爪門続櫓(やぐら)の周辺約1千平方メートルで、一の門から二の丸広場につながる園路の一部は、橋爪門二の門が完成する14年度まで、通行が禁止される。

 この日は、県公園緑地課の職員2人が左右に開いた一の門の扉を内側からゆっくりと閉め、かんぬきを通して閉鎖した。一の門は01年9月に開門式が行われ、同年の全国都市緑化フェアなどイベント時を除き、常時開放されていた。長期間の閉鎖は開門以来初めてとなる。

 県は排水路の付け替え工事などを終えた上で、10月中に鶴の丸広場を経由して二の丸広場につながる迂回(うかい)路を設置する。

 橋爪門は二の丸御殿の入り口に位置した正門で、明治期の火災で焼失した。石川門、今年4月に復元された河北門とともに「金沢城三御門」の一つに数えられる。一の門と二の門、土塀で構成される枡形門で、一の門は菱(ひし)櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓とともに01年7月に復元された。

120荷主研究者:2010/08/12(木) 21:24:07

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/182862
2010年7月7日 00:05 西日本新聞
中津城 民間売却へ 市と所有者 評価額で折り合わず

民間に売り出されることになった中津城の天守閣(中央) 大分県中津市の中津城の天守閣を所有する中津勧業(同市)が、市と進めてきた天守閣と敷地の売却交渉を打ち切り、近く民間に売りに出すことが、6日分かった。市と同社の双方が提示した評価額の開きが大きく、交渉が折り合わなかったという。

 中津城は、九州最古の近世城郭で日本三大水城の一つとされる。1877年の西南戦争で焼き打ちに遭うなどして、石垣だけが残った。鉄筋5階建ての天守閣は1964年、最後の城主だった奥平家の子孫が中心になり本丸跡に建設。現在、奥平政幸氏が代表取締役を務める中津勧業が建物を、代表役員を務める宗教法人「奥平神社」が敷地(2175平方メートル)を所有している。

 2007年7月に中津勧業側が突然、城と敷地を3億2千万円で売り出すという広告を出し、「市のシンボルであり、観光資源として必要」とする市と同年8月から売却交渉を進めてきた。

 関係者によると、昨年秋に双方が不動産鑑定したところ、市の評価額は1億3900万円だったが、中津勧業は1億9600万円だった。今年に入り、同社は1億5000万円まで譲歩したが、市は「1億3900万円しか出せない」と譲らず6月下旬、耐震診断し正確な評価額を出したいと申し入れた。

 同社は、耐震診断の結果、さらに減額される可能性があるとして断り、結局、交渉は決裂した。同社は、今月中に不動産会社を通してインターネット上に広告を出すという。

 奥平氏は「市は天守閣の文化的な価値や観光面での経済価値を認めなかった。市民のために市に買ってほしかったが、残念だ」と話している。

=2010/07/07付 西日本新聞朝刊=

121荷主研究者@新潟遠征中:2010/08/28(土) 10:00:05
なまこ壁が印象的で昔から好きだった新発田城についでに立ち寄る。しっかりと整備保存されボランティアガイドも常駐し、非常に好感の持てる城跡である。

122荷主研究者:2010/08/29(日) 13:06:10

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20100821/CK2010082102000126.html
2010年8月21日 中日新聞
松波城跡庭園 構築 16世紀前半か 能登町教委調査で限定 火災で消失濃厚

16世紀前半の構築と推定される庭園跡の枯れ山水遺構=能登町松波で

 平らな小石を敷きつめて水の流れを表現した全国でも珍しい枯れ山水遺構のある松波城跡庭園跡(能登町)を発掘調査していた同町教委は二十日、庭園が十六世紀前半に構築され、同後半以降に消失した可能性が高いことが分かったと発表した。庭園は火災による落城とともに消失したと推測できるという。

 町教委によると、築造年代についてはこれまで「十五世紀後半から十六世紀代」と推定されていた。二〇〇九〜一〇年度の調査で新たに出土した珠洲焼や越前焼の破片などを調べた結果、十六世紀前半に絞られたという。

 さらに、枯れ山水遺構に隣接する建物跡の礎石が熱で赤く焼けていることから、町教委では建物が火災にあったと推定。意図的に庭園のあった場所を埋めた形跡もあり、地層などから十六世紀後半以降に庭園が消失したとみられる。

 火災の時期や原因は不明だが、文献によると一五七七(天正五)年に松波城が落城したとされており、消失時期ともほぼ一致しているという。

 庭園のある平たん面の段階的な造成方法、枯れ山水を構築する景石や平らな小石の配置や種類、建物の規模なども補足調査で判明。庭園の全容がほぼ明らかになり、〇六年度から進めてきた庭園跡の現場調査は今回で終了した。今後は現場から採取した炭化物で年代を詳しく測定する。また、金沢学院大の東四柳史明教授が文献資料を調査している。庭園跡の現地説明会は二十二日午後一時半から。問い合わせは真脇遺跡縄文館=電0768(62)4800=へ。 (中平雄大)

 ◇松波城跡庭園跡◇ 七尾城主畠山義統の三男義智が1474年に松波城を築城し、約100年続いたとされる。庭園跡は1962(昭和37)年に公園整備中に発見され、80年の発掘調査で枯れ山水遺構などが明らかになった。県指定史跡。

123荷主研究者:2010/08/29(日) 13:24:27

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201008170081.html
'10/8/17 中国新聞
城に隣接、和の新空間 松江
--------------------------------------------------------------------------------
 来年3月にオープンする松江市殿町の松江歴史館。7月末に本館工事が終了し、全容がほぼ姿を現した。「お城の見える博物館」をテーマに、松江城に隣接する絶好のロケーション。新たな観光、交流、歴史研究の拠点になりそうだ。

 開府400年の中心事業で、総事業費約39億円、敷地面積は約5500平方メートル。江戸時代の古文書や絵図などを展示する。

 武家屋敷をイメージした外観で、2007年に建設地から出土した江戸時代後期の瓦を再現し、使用している。和を感じてほしいと本館は畳敷き。中庭の日本庭園を眺められる「暮らしの大広間」は、くつろぎスペースとしてや、茶会、華道のイベントなど多目的に活用できる。

 耐火設備の収蔵庫3カ所計690平方メートルには、市が分庁舎や松江城などで管理している江戸時代の史料約2万点を選定し保管、研究を進めていく。

【写真説明】<上>松江城天守閣(手前)を見上げる場所に建設された松江歴史館(奥)<下>郷土芸能を催したり、喫茶店のテラスとして活用する「濡れ縁」

124荷主研究者:2010/09/27(月) 00:12:38

http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=12841299300988&elem=kennai
2010年9月11日(土)茨城新聞
水戸城 二の丸御殿跡初調査

石組み用排水施設出土

【写真説明】初めての二の丸御殿跡調査により見つかった凝灰岩を使った石組みの用排水施設跡=水戸市三の丸

県教育財団は10日、水戸市三の丸の水戸城二の丸御殿跡の発掘調査結果を発表した。水戸徳川家の居城として知られる水戸城の中枢建物である二の丸御殿跡の調査は今回が初めて。凝灰岩を使った石組みの用排水施設跡や、井戸のような遺構などが見つかった。同財団は「初めての二の丸御殿跡の調査で、水戸城の全体像を探るきっかけになる」と話す。

調査地は県立水戸三高の敷地内で、同校図書館改築工事に伴い、6月から9月までの予定で調査が実施されている。調査面積は270平方メートル。

今回の調査では、江戸時代中期から幕末にかけての整地層を8面確認。用排水施設を持つ二の丸御殿の立っていた時代の層や、焼けて黒ずんだ土の見える1872年の建物焼失の時期の層、その後建てられた師範学校の土管などが残る層など。

ほとんどの層に同じ向き、並びで排水施設が張り巡らされている。のみで削った痕跡のあるふた付きの石樋(いしどい)や土管のほか、大量の瓦や古銭、常滑焼の陶器の破片などが見つかった。

同財団は「幕末以前から何度も建物の改修が行われ、以前の遺構を埋め、そこに同じ軸を利用して新たに建物を建てていたことが分かる。当時の基礎工事や排水施設の構築方法の一部を垣間見ることができる」と話す。

125荷主研究者:2010/10/03(日) 21:25:23

http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=12845583226670
2010年9月16日(木)茨城新聞
土浦城櫓門の太鼓1770年製、国内3番目の古さ

墨書で判明

【写真説明】太鼓内部の墨書(左側2行)で製作年が1770年と判明=土浦市教委提供

江戸時代の土浦藩で城下の藩士、領民に朝夕の時刻を告げた、土浦市指定文化財「土浦城櫓(やぐら)門の太鼓」(刻(とき)の太鼓)が1770(明和7)年に製作されたことが、太鼓内部の墨書から分かった。市教委によると、現存する「刻の太鼓」で製作年が判明している中で3番目に古く、「歴史遺産としての価値を高める新発見」という。

市教委文化課によると、太鼓は胴部の漆がはがれ、革の張りも不均一になったのを受けて、現在の所有者の八坂神社(同市真鍋5丁目、鈴木健一宮司)が都内の業者に依頼して今年7月から修復。その際に、革を外して内部を点検したところ、墨書が多数見つかり、それにより製作年をはじめ、江戸・浅草の太鼓師が製作したこと、江戸時代に8回、大正時代に1回修理されたこと-などが判明した。

1770年の土浦藩主は土屋篤直。幕府では2年後に田沼意次が老中に就任している。製作年が明らかなものの中では、柏原(かいばら)藩(現兵庫県丹波市)の1668(寛文8)年、丸亀藩(現香川県丸亀市)の1751(寛延4)年に次ぐ古さという。

市教委文化課の萩谷良太学芸員は「修理の回数、間隔などから日常的に使われていたことが分かる貴重な発見」と評価している。

10月末に修復が終わる土浦城櫓門の太鼓は、11月3日に開かれる市制施行70周年記念式典で、「刻の太鼓の会」(須田義之会長)のバチさばきで240年の歴史の音を響かせる。

126荷主研究者:2010/10/03(日) 22:12:50

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201009180042.html
'10/9/18 中国新聞
広島城から移築?土蔵復元へ
--------------------------------------------------------------------------------
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20100918004201.jpg

 広島城から移築され、貴重な建築物とみられながら取り壊しの危機にあった江戸時代後期の土蔵(広島市東区愛宕町)を、修道中・高(中区)が譲り受ける。同校の前身で、かつて城内にあった学問所の蔵の可能性が浮上。調査のうえ、復元を検討する。

 土蔵は、間口3・8メートル、奥行き5・7メートルの2階建て。老朽化のため取り壊し、マンション建設の計画がある。15年近く独自に土蔵を調べてきた西区の建築士加藤早苗さん(63)が、江戸期の広島城の図面に同じ寸法の学問所の蔵を確認。同校関係者に伝え、保存の道が開けた。

 土蔵を所有する東区の重谷昌江さん(73)方には「明治期に城の蔵を譲り受けた」との言い伝えが残る。加藤さんは、広島大大学院の三浦正幸教授(日本建築史)と調べ、梁(はり)の作り具合などから「江戸後期、城内にあった蔵にほぼ間違いない」とみている。

 同校は土蔵を無償で譲り受け、市などの協力を得て近く解体、調査する。柱や瓦は保管し、学問所の蔵と同一かなど調査結果を見て同校敷地内への復元を具体化させる方針だ。

【写真説明】広島城内にあったとされる土蔵。修道中・高が保存に乗り出す(広島市東区愛宕町)

127荷主研究者:2010/10/23(土) 12:27:17

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20101009/CK2010100902000151.html
2010年10月9日 中日新聞
観光目玉に城郭群 浜松市が国史跡の指定を目指す

 天竜川流域に点在する戦国時代の代表的な城跡を、浜松市が全国発信に乗り出す。徳川氏と武田氏が争奪戦を演じた城郭群として、2011年度から発掘や文献の調査をさらに進め、散策道などの整備も急ぐ。14年度をめどに国史跡の包括的な指定を目指しており、観光誘客の目玉とする狙いだ。

 売り出しを図る城跡は浜松城(中区)大平城(浜北区)二俣城、鳥羽山城、高根城(天竜区)など10カ所。

 平山城の浜松城を含め地形を生かした山城で、武田氏が天竜川沿いに南進し、徳川氏と攻防を繰り広げた。武田氏の滅亡後は放置されたケースが多く、堀や土塁などが良好な状態で残るという。

 市は11年秋開催の全国山城サミットを誘致しており、その後も持続的に魅力を発信しようと振興策の検討を重ねている。

 国史跡は駿府城(静岡市)や名古屋城(名古屋市)クラスを除くと単独では難しく、包括的な指定を目指す構想が浮上した。

 市は「特定水系の範囲で城跡が指定されれば全国的にも珍しい」(文化財課)と意気込む。史跡整備などで国庫補助を受けられる利点もあり、県境をまたいだ三遠南信地域を結ぶ歴史資源としてアピールする考えだ。

128荷主研究者:2010/10/23(土) 14:52:05

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/201536
2010年10月4日 13:45 西日本新聞
中津城の売却先決定 埼玉の福祉会社に5000万円

売却が決まった中津城天守閣(左側)とやぐら=大分県中津市

 戦国大名の黒田如水(じょすい)が手掛けた大分県中津市の中津城を復元した天守閣とやぐらが4日、埼玉県の福祉事業会社「千雅(ちが)」に売却されることが決まった。天守閣を所有する「中津勧業」(同市)は、引き続き歴史博物館として運営することを条件に5千万円で売却すると発表。この日、同市で開かれた中津勧業の株主総会で承認され、13日に千雅側に引き渡す。

 中津城は、黒田如水が1588年築城を始めた九州最古の近世城郭。1871年に廃城、77年には西南戦争で焼き打ちに遭い、石垣だけが残った。鉄筋5階建ての天守閣と木造2階建てのやぐらは1964年、旧藩主・奥平家の子孫が中心となり本丸跡に建設した。

 施設は現在、観光博物館として一般公開され、武具や絵画などを展示している。売却後、展示物は、奥平家の子孫である中津勧業の奥平政幸社長が有償で貸し出す方向で調整している。

 中津勧業は2007年7月、施設の維持管理が困難になったとして、敷地(2175平方メートル)を含め3億2000万円で売り出した。中津市が購入に名乗りを上げたが、双方の評価額に開きがあり、今年6月に交渉決裂。民間の売却先を探していた。

 中津勧業によると、国内外の5社から購入の打診があったが、博物館として使用継続を確約したことが決め手となり、千雅への売却がまとまった。敷地は、奥平社長が代表役員を務める宗教法人が所有を続けるという。

=2010/10/04付 西日本新聞夕刊=

129荷主研究者:2010/11/08(月) 22:55:26

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/10/20101027t15028.htm
2010年10月27日水曜日 河北新報
桃生城跡、荒れ放題 市民「歴史的価値泣く」

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20101027-m1.jpg

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20101027005jd.jpg
雑草が生い茂る桃生城跡

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20101027006jd.jpg
桃生城跡の歴史などを説明する立て看板と案内板。右の山道を20メートルほど進むと、政庁跡にたどり着く

 古代多賀城の関連遺跡で、国の史跡指定を目指す機運もあった「桃生城跡」(宮城県石巻市)が、雑草が生い茂る荒れた状態で放置されている。歴史ファンや見物客が訪れており、市民からは「歴史的価値のある遺跡なのにもったいない。せめて政庁跡だけでも草を刈って、後世に残す工夫をしてほしい」との声が上がっている。

 政庁跡は石巻市飯野にあり、面積約4ヘクタール。現地にたどり着くまでの山道には案内板や桃生城の歴史を示す看板があり、誰でも立ち入れる。

 だが政庁跡には人の背丈を超す雑草が一面に生い茂り、わずかな踏み跡の先に「桃生城跡」と書かれた看板があるだけで、文化財の面影はない。

 2001年に終了した県の発掘調査の後、地元民がボランティアで草刈りをしていたが、高齢化が進んだこともあって、徐々に荒廃していったらしい。

 近くに住む女性(76)は「最近も埼玉や青森から見学に来た人が残念そうに引き返すのを見た。地元の誇りなのに、申し訳なく思う」と話す。

 石巻市教委歴史文化資料展示施設整備対策室によると、桃生城跡は市や県などの史跡には指定されておらず、扱いは一般埋蔵文化財。県や市による管理もされていないという。

 担当者は「一般埋蔵文化財はほかにも数多くあり、桃生城跡だけを特別扱いして管理することはできない」と説明する。

 桃生城跡は県の調査で規模が判明し、国の史跡指定を目指す動きもあったが、具体化はしなかった。土地の多くが私有地で、地権者から許可を得る手続きが煩雑だという事情が背景にあるとの指摘もある。

 東北大埋蔵文化財調査室の藤沢敦特任准教授は「中央国家の北進政策を考える上で非常に価値が高く、国史跡になり得る価値は十分ある。あらためて国の指定を目指すなど、行政として今後の活用策を検討してもいいのではないか」と話している。

[桃生城跡]1974、75年と92〜2001年、県多賀城跡調査研究所が計10回の発掘調査を実施し、政庁と城柵の規模や位置関係などが明らかになった。石巻市の旧桃生町と旧河北町地域にまたがり、規模は東西800メートル、南北650メートル。城は、北進政策を進める中央の律令(りつりょう)国家が、桃生・牡鹿地方(石巻市)を支配する拠点として建設した。完成は760年。続日本紀によると、城は774年、牡鹿郡などの蝦夷(えみし)によって焼き打ちされ、蝦夷が律令国家に反旗を翻した象徴とされる。

130荷主研究者:2010/11/14(日) 12:39:23

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20101103/201011031600_12057.shtml
2010年11月03日16:00 岐阜新聞
金華山と岐阜城、国史跡に 今月中旬にも指定

国史跡指定を受ける見込みとなった岐阜城と金華山一帯。観光客増加などが期待される=昨年11月、本社チャーターヘリから撮影

 岐阜市指定史跡の金華山と岐阜城が、国史跡に指定される見込みであることが2日、分かった。市のシンボルとして広く親しまれている史跡が国の財産と認められることで、観光資源としての魅力アップなどに期待が集まりそうだ。

 関係者によると、既に国の文化審議会での協議を経ており、今月中旬にも指定を受ける見通し。市は今年1月、「中世から近世への転換期に当たる日本史上重要な城」などとして国に指定を申請していた。

 国史跡となる見込みなのは、岐阜城と金華山を合わせた「岐阜城跡」。指定が金華山を含む広範にわたるのは、城だけではなく、急しゅんな地形を含めて山全体が城として機能していたためで、市の申請段階で範囲は計209ヘクタールとなる。

 岐阜市内の国指定史跡は、加納城跡、琴塚古墳、老洞朝倉須恵器窯跡に続き4カ所目。

 岐阜城跡は1957(昭和32)年に市指定史跡となり、市は84年からふもとの信長居館跡を中心に発掘調査を続けてきた。調査では庭園跡や門の礎石、石垣など、織田信長が天下統一の拠点としたとみられる居館の史跡が多数見つかり、山城としての全体像の把握が進んでいる。

 市は国史跡への指定を契機に、さらなる観光客の誘客などを目指す。金華山登山道の整備などを行っている市内のボランティア団体「十時会」の藤井義康代表は「岐阜の財産が国の宝となることで、多くの人の関心が高まり、周辺の保護活動にも追い風になる。誇らしく思う」と話している。

【岐阜城】

 金華山(329メートル)山頂にある、織田信長の天下統一の出発点となった城。1201(建仁元)年〜03年に二階堂行政が最初に砦(とりで)を築いたと伝えられている。斎藤道三が造ったとされる稲葉山城を織田信長が1567(永禄10)年に攻略し、岐阜城を置いた。1600(慶長5)年の関ケ原の合戦の前哨戦で落城して以後は廃城だったが、1910(明治43)年に復興、43年に失火で消失した。現在の城は56年に再建された。

131荷主研究者:2010/11/14(日) 12:49:44

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20101105/CK2010110502000137.html
2010年11月5日 中日新聞
玉泉院丸庭園に階段状の滝 金沢城発掘調査 あす現地説明会

調査の概要を説明する担当者。担当者近くの平らな石が水受石とみられる=金沢城玉泉院丸跡で

 江戸時代に造られた金沢城玉泉院丸の庭園(金沢市丸の内)に、階段状に水が落ちる形の滝があったことが、金沢城調査研究所の発掘調査で分かった。研究所が四日、報道関係者向けの現地説明会で明らかにした。

 研究所によると、玉泉院丸跡の北東部の斜面に、大型で平らな赤戸室石が階段状に置かれていた。石は滝の水を受け止める「水受石」で、斜面には小さな滝が連続していたと考えられる。段数は三、四段で、高低差は約四メートルと推定される。

 発掘調査の担当者は「庭の一番の見どころとみられる滝の概要が分かった。今後は導水の経路を明らかにしたい」と話している。

 玉泉院丸の庭園は加賀藩の三代藩主前田利常が一六三四(寛永一一)年に造成。明治以降は埋め立てられ、陸軍の施設や旧県体育館の敷地になっていた。

 発掘調査は二〇〇九年度から本格的に始まり、一二年度まで続く予定。一般向けの現地説明会は六日午後二〜三時に開かれる。 (山本真士)

132荷主研究者:2010/11/21(日) 11:23:34

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/HT20101109401.htm
2010年11月9日03時14分 北國新聞
「松根城と切山城」加越城郭群を国史跡へ調査 金沢市が着手

国史跡指定に向けた取り組みが動き出す松根城跡=金沢市内

 金沢市は8日までに、市北東部の松根(まつね)城跡、切山(きりやま)城跡を含む一帯について、国史跡指定に向けた調査に着手した。石川、富山県境に近い二つの城跡は、文化庁も羽柴(豊臣)秀吉の天下統一に至る過程を示す貴重な歴史遺産であると高い評価を与えている。市は来年度以降に本格的な調査を進め、「加越国境城郭群」として一体的な価値付けを目指す。

 市によると、秀吉と徳川家康の天下統一をめぐる対立は北陸の地にも及び、天正12(1584)年に羽柴方の前田利家が切山城、徳川方の佐々成政が松根城をそれぞれ出城とし、加越両国を結ぶ重要な交通路である小原越(おはらごえ)を介して対峙(たいじ)した。天正13年には佐々成政が秀吉に降伏し、松根城、切山城とも廃止されたと考えられている。

 松根城、切山城とも小原越を城の中に取り込んで築城している点が特徴。いずれも本丸などの建物は現存していないが、土塁や堀などの遺構は良好な状態で残っている。

 松根城跡は一部が小矢部市にまたがる。1974(昭和49)年に金沢市史跡に指定され、市は2000年度から2年計画で史跡整備している。一方、切山城跡は樹木が生い茂り、見た目には城跡だと分かりにくい状態になっている。

 市は今年度の調査で、直線距離で約4キロの松根、切山両城跡を結ぶ小原越の状態などを確認する。小原越の一部は舗装され、現在も道路として活用されており、これまでの調査では新たに古道が見つかったという。

 文化庁が2007年度に設置した「中世城館遺跡・近世大名墓所等の保存検討委員会」ではかつての加賀、越中国境に位置する城郭群の歴史的重要性が指摘されている。既に同庁の調査官も現地視察を実施している。

 金沢、小矢部両市間では県境を越えた住民交流が活発化しており、6月の歴史講座には金沢市三谷、小矢部市北蟹谷両公民館から60人が参加した。金沢市は国史跡指定に向け、小矢部市との協力態勢も構築する。

 金沢市内では08年6月に金沢城跡、昨年2月に加賀藩主前田家墓所、今年2月に辰巳用水が国史跡に指定されている。市は二つの城郭と古道が一体的に「加越国境城郭群」として価値付けされ、市内の歴史遺産群に厚みが増すことを期待している。

●松根城 金沢市街地の北東約13キロの松根山山頂に所在する。最初に史上に登場するのは南北朝の時代の応安2(1369)年で、木曽義仲が布陣したとも伝わる。最頂部に面積約900平方メートルの本丸跡、南北に延びる尾根筋に二の丸、三の丸などの跡と推定される大小の平坦面(郭)が確認されている。

●切山城 戦国時代の天正12(1584)年ごろに築かれ、天正13年に佐々成政が降伏すると役割を終え、廃城になったとされる。規模は東西約180メートル、南北約260メートルで面積は約2万平方メートル。2001年度に金沢市が実施した測量調査事業では、城の中心部である主郭や敵の侵入を食い止める堀切、竪堀などの遺構が確認されている。

133荷主研究者:2010/11/21(日) 13:33:33

http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&mode=0&classId=&blockId=9746857&newsMode=article
2010/11/03 08:54 福島民報
遺構に伊達氏居住時の主殿 桑折町の国史跡・西山城跡

 福島県桑折町の国指定史跡・桑折西山城跡の発掘調査で見つかった遺構が伊達氏居住時の主殿跡であることが2日までに分かった。柱と柱の間が七尺で統一されていることや四角の柱跡が残ることから、畳敷きの部屋だったとみられる。主殿の存在は、伊達氏の分国法「塵芥集(じんかいしゅう)」が西山城で書かれたとされる史料を裏付ける発見で、関係者は「中世の伊達氏や伊達郡の歴史を知る上で大きな手掛かりとなる」と注目している。

 町教委などによると、主殿は本丸の北東に位置する最も高い部分にあった。広さは縦約12メートル、横約8メートルで、庇(ひさし)や縁(えん)を持った構造で、柱と柱の間も統一されていており、格調高い建物だったことがうかがえる。さらに、角柱跡や燃えて炭となった柱片なども見つかっている。

 西山城は、伊達氏14代の伊達稙宗(たねむね)が梁川城から居を移した城とされている。今回発見された主殿の構造は梁川城と似ており、城を移したことも証明する発見となった。

 町教委学芸員の井沼千秋さん(41)は「西山城の存在は分かっていたが、実際にどのような建物があったのかが判明した。大きな成果だ」と話す。

 塵芥集は戦国大名の支配を示す分国法で全171条で戦国大名の分国法としては最大級。鎌倉幕府の「御成敗式目」を基準につくられ、神社・寺院に関する法、殺人・窃盗・強盗などに関する刑事法、境界や用水に関する法など多岐にわたる。北条氏の「早雲寺殿21条」武田氏の「信玄家法」などとともに知られる。

 主殿は主に会議などで使われる公式な場とされ、文献にも塵芥集は西山城で制定作業がなされたとされていることから、主殿で書かれた可能性が高い。

 県考古学会顧問の鈴木啓さん(77)は「梁川城から西山城に移ったことを証明する核心部分が判明した。さらに、教科書にも載っている塵芥集が主殿で書かれたことに思いを巡らすことができる歴史ロマンあふれる発見ではないか」と喜んでいる。

■※桑折西山城 天文元(1532)年ごろ、伊達氏14代の稙宗によって築城されたとされる戦国時代の山城。陸奥国守護として認められ、伊達氏全盛期を築いた稙宗だが、嫡男の晴宗と対立し、南奥羽を巻き込んだ戦乱「天文の乱」が勃発。晴宗が家督を継ぎ、稙宗は隠居し、和解の条件として西山城は廃城となった。平成2年に国指定史跡となり、19年から史跡公園整備を目指し、調査が進められている。稙宗は「独眼竜」で知られる17代政宗の曾祖父。

【写真】主殿跡とみられる遺構

134荷主研究者:2010/11/23(火) 12:25:58

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/11/20101117t15031.htm
2010年11月17日水曜日 河北新報
石巻城、南北の空堀跡確認 堀の内側に中心施設か

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20101117006jd.jpg
石巻城跡で見つかった空堀跡

 宮城県石巻市教委は16日、同市日和が丘の日和山公園で行ってきた石巻城跡の発掘調査で、南北に延びる空堀跡を確認したと発表した。1997年に見つかった別の空堀跡とつながっているとみられ、市教委は「石巻城中心施設の位置が判明した」としている。

 空堀は日和山(56.4メートル)山頂にある鹿島御児神社の南西側で見つかった。幅約4〜10メートルで、深さは約2〜3メートル。神社北側の東西方向の空堀と同じく、初期段階はV字型の「薬研堀」でその後、箱型に再構築された形跡があった。

 市教委は、構造がほぼ同じ二つの堀がつながっていると推測。長さ約130メートルの空堀が南北方向に山頂を取り囲むように掘られ、堀の内側が城の中心的役割を担った区画と考えられるという。

 石巻城は南北朝時代以降に築城され、石巻地方を支配下に置いた葛西氏一族が居住していたという説があるが、はっきりしたことは分かっていない。今回の調査でも遺物は見つからず、空堀の構築年代は不明という。

135荷主研究者:2010/12/02(木) 21:37:46

http://www.isenp.co.jp/news/20101120/news02.htm
2010/11/20(土)伊勢新聞
松坂城跡を国史跡に 文化審答申

【上空から見た「松坂城跡」(松阪市教委提供)】

【松阪】国の文化審議会は十九日、松阪市殿町の県史跡「松坂城跡(まつさかじょうあと)」を新たに国史跡に指定するよう、高木義明文部科学大臣に答申した。今回の指定は県内では同史跡だけ。国史跡は県内三十六件目、同市では七件目で、平成十二年指定の天白遺跡(嬉野釜生田町)以来。

 「松坂城跡」は、戦国武将蒲生氏郷(一五五六―九五年)が十六世紀末に築いた松坂城の城跡。同市教委によると、城の面積は約四万七千三百四十平方メートルで、本丸、二の丸、三の丸などからなり、「野面(のづら)積み」と呼ばれる自然石を積み上げた豪壮な石垣が、見どころの一つ。サクラの名所として知られ、多くの花見客でにぎわう。

 古文書の記録によると、かつて本丸西隅の天守台には、三層の天守閣がそびえていたが、正保元(一六四四)年の大風で倒壊。幅十五―三十一メートル、総延長二キロ余あった堀は明治初期に埋められ、遺構の一部は神道川などに名残をとどめている。

 平成元年と二年に実施された同市の発掘調査では、天守閣の基礎や金箔(きんぱく)を押した瓦などが確認されており、同審議会では、「石垣などは織田豊臣時代に完成された城郭としての特徴が顕著で、御三家の一つ和歌山藩領地内にあり、近世の政治・軍事を知る上で貴重」などと評価された。

 同城跡を町づくりの中心拠点と位置付けている、山中光茂市長は伊勢新聞社の取材に、「行政として、新たな責任が生まれた。文化や観光の資源として、市民と行政が一体となり、積極的に活用していきたい」と話した。

136荷主研究者:2010/12/02(木) 22:24:46
>>135
http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20101120/CK2010112002000107.html
2010年11月20日 中日新聞
国史跡に「松坂城跡」 行政と住民の協働が結実

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010112002100054_size0.jpg
国の史跡に指定されることが決まった松坂城跡=本社ヘリ「まなづる」から

 国の文化審議会による答申で19日、新たに指定する国史跡に、県内から松阪市殿町の「松坂城跡(まつさかじょうあと)」が選ばれた。県内の国史跡は、これで36件になる。

 松坂城は、戦国武将の蒲生氏郷(がもううじさと)(1556〜95)が1585(天正13)年に築城を始め、1600年前後に完成したとされる。天守閣は江戸初期に倒壊。城郭や門などの建築物も明治初期までになくなったが、城跡の中心部には自然石を使った貴重な「野面(のづら)積み」の石垣が残っている。2006年には日本城郭協会の「日本百名城」にも選ばれた。

 指定対象になったのは標高35メートルほどの丘陵上にある本丸跡、二の丸跡、希代丸(きたいまる)跡、隠居丸跡など延べ約4万7000平方メートル。範囲内には国特別史跡の「本居宣長旧宅」も含まれている。ほぼ全域が「松阪公園」の敷地で、国と市が土地を所有している。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010112002100055_size0.jpg
築城当時の状態で現存する天守閣跡の石垣=松阪市殿町で

 市では1年半ほど前から松坂城跡の国史跡指定に向けて、地元住民らと協力しながら手続きを進めてきた。山中光茂市長は「行政と住民が一体となって働きかけてたことが認められてうれしい」とコメント。市文化財保護審議会委員の門暉代司(かどきよし)さん(58)は「松阪のシンボルが国史跡になった。城跡を訪れる人が増え、市街地の活性化にもつながれば」と期待を膨らます。

 松阪市内の国史跡指定は、2000年の「天白遺跡」以来で、7件目。

 (石原猛)

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010112002100056_size0.jpg
希代丸跡の石垣=松阪市殿町で

137荷主研究者:2010/12/05(日) 14:43:18

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/212083
2010年11月26日 01:44 西日本新聞
国特別史跡「基肄城」跡の石塁 1300年ぶり大修復

5カ年計画で本格的な修復工事が12月に始まる基肄城跡の石塁

 築城から約1300年の歴史を誇る国特別史跡「基肄城(きいじょう)」跡の大規模な保存・整備工事を、基山町が進めている。石が積み上げられた石塁(水門跡)が傾き、崩落の危険があるためだ。町によると、698(文武2)年に城が修理されて以来の大規模な保存・整備工事で、本年度から約5年かけて工事を完成させる方針。

 基肄城は同町北部と福岡県筑紫野市にかかる基山(きざん)(404メートル)の一帯に位置する。倭国が朝鮮半島に出兵した「白村江(はくすきのえ)の戦い」で敗れた後、唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えるため、防衛の拠点として665(天智4)年に築いたとされる。城を囲む全周4・3キロの土塁、南北にある門跡、礎石群などが残っており、県内では吉野ケ里遺跡(神埼市、吉野ケ里町)、名護屋城跡(唐津市)とともに国特別史跡に指定されている。

 基山町教委はこれまで、基肄城跡の補修工事に向け、調査を進めてきた。1993年には水門の整備、高床式倉庫の復元といった基本計画を策定。10月から進めてきた工事の準備が完了し、12月に本格着工する。

 本年度の工事個所は、南側に位置する石塁で、長さ26メートル、高さ8・5メートル、上部の幅3・3メートル。傾いている石積みを本来の状態に戻す。周辺の発掘調査なども実施する。

 歴史的建造物の保護を呼び掛けてきた同町の住民有志でつくる「ありがとう水門実行委員会」(久保山彰委員長)は、今月10日、町が誇る歴史遺産に感謝するセレモニーを開いた。地元の園児たちが基肄城の歴史をテーマにした創作劇を披露。町民約70人がシャボン玉を飛ばし、工事の安全を祈願した。

 久保山委員長は「基肄城跡は、昔から基山の象徴だった。補修は“歴史の分岐点”になる。未来の子どもたちに残していくため、大切に保存してもらえれば」と話した。

=2010/11/26付 西日本新聞朝刊=

138荷主研究者:2010/12/18(土) 16:09:26

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20101123/CK2010112302000116.html
2010年11月23日 中日新聞
信長公の地下通路? 岐阜城ふもとで金箔瓦など出土

居館跡から出土した金箔が施された瓦片

 戦国武将織田信長の居館跡とされる岐阜市の岐阜公園の一角から、居館に通じる通路の遺構が発見され、岐阜市教委が22日、発表した。通路は一部階段状になっており、中からは金箔(きんぱく)が施された瓦片や壁土も出土。市教委は「通路の上に建物があり、地下通路として使用されていた可能性もある」と指摘している。

 市教委によると、確認された通路遺構は幅約4メートル、長さ約10メートル。居館跡の中心部と推測される部分から出土した。

 過去の調査で遺構の南側部分でも、同じような通路が確認されている。今回の遺構に通じることから、通路の規模は少なくとも長さ35メートルほどと推測されるという。

 瓦片は縦横各約3センチ。金箔の瓦は、信長が築城した安土城(滋賀県近江八幡市)の天主など主要な建物にも使われている。市教委は「通路の上には、主殿や宴会に使う会所など重要な建物が建っていた可能性もある」としている。

 1569年に居館を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは著書『日本史』に「広い石段を登りますと大きい“広間”に入る」と記しており、通路上の建物の存在をうかがわせるという。

 通路の遺構から出土した陶磁器から、遺構の年代は、信長が岐阜城に入った1567年から、廃城となる1601年までのものとみられる。

 居館跡の調査は1984年から実施。今回は第4次として6月から中心部周辺の約150平方メートルを調査した。

 大阪市立大の仁木宏教授(中世史)は通路の上に建物があった可能性から「もし地下通路であれば、当時の建築物としてはかなり珍しい構造となる」と話している。

 現地説明会は27日午前10時から。

 (松山祥子)

139荷主研究者:2010/12/18(土) 16:22:46

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20101125/CK2010112502000149.html
2010年11月25日 中日新聞
金沢城跡 手水鉢は坪野石 金大・酒寄教授が調査

坪野石とわかった舟形の手水鉢を調べる酒寄教授=金沢城公園で

豪放さ 利常時代の特徴?

 金沢城跡の三十間長屋前にある手水鉢(ちょうずばち)が金沢市南部産の坪野石製であることが、金沢大の酒寄淳史教授(50)=地質学=の研究で分かった。石の使われ方などを調べる研究はこれまで、金沢の南東部から産した戸室石中心だった。同城跡での坪野石使用はほとんどなく、今後はほかにも使われていないか研究が待たれる。(今宮久志)

 手水鉢は長さ百七十六センチ、幅百十六センチ、高さ七十一センチで、水を張るくぼみの直径が五十九センチ、深さ十九センチとどっしりしている。

 石の由来を調査するため、県などが酒寄教授に岩石の解析を依頼。その結果、斜方輝石や斜長石、鉄チタン鉱物、黒曜岩レンズ、ガラス質の組織を持った溶結凝灰岩であることが判明。K−Ar法により、約二千万年前の火砕流によってできた岩で、金沢市坪野町で産出されたことも分かった。酒寄教授は「坪野石は量的に少なく、どこでも採れるわけではない」と話す。

 坪野石の使用例としては、一六五七年創建の小松天満宮にある十五重の塔、金沢城跡の玉泉院丸庭園に水を落とすV字形の石樋(とい)と周りの石組み、同城跡本丸の庭園一部(池)と考えられる遺構から出た突起部のある石造物など、ごく限られている。

 小松天満宮の塔は三代藩主・前田利常(一五九三〜一六五八年)の建立で、玉泉院丸庭園も利常の意向で築庭された。さらに、坪野石の採掘禁止(止め石)は利常の時代からとの記録があり、この舟形手水鉢も利常時代のものと考えられる。

 国立歴史民俗博物館名誉教授の吉岡康暢さんは「この手水鉢の大きさ、豪放な感じからも、戦国武将の威風をもった利常時代のものと考えていい」と話している。

 ◇K−Ar法(カリウム−アルゴン法)◇ 放射性カリウム(原子量40)は半減期12・5億年で崩壊してアルゴン(原子量40)に変わる。岩石中に残っているアルゴンを集めて年代を測定する方法。

140荷主研究者:2010/12/26(日) 22:47:58

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20101214201.htm
2010年12月14日01時36分 北國新聞
高岡市教委が「天守閣予定地」を発掘へ 高岡城本丸北端など7カ所

高岡市教委が発掘調査に着手する高岡城跡=富山新聞社ヘリ「あすなろ」から

 高岡市教委は13日までに、高岡城跡(高岡古城公園)の発掘調査で、「天守閣」予定地との指摘がある本丸北端など7カ所を今年度の調査対象にすることを決めた。高岡城は開城から5年で廃城になり、天守閣は造られなかったというのが定説であるが、本丸北端は地形などから重要施設があった可能性が高く、市教委は城の構造解明の足掛かりになることを期待している。

 高岡城は築城時の姿がほとんど分かっていない。同市教委は国史跡指定を目指し、今年度から3カ年の発掘調査を計画し、本丸北端など7カ所については年内にも着手する。

 調査対象は、本丸の北端と南端、土橋の石垣、本丸外周の土塁3カ所、北端斜面の計7カ所。これまでの測量調査などでは、7カ所は保存状態がよく、遺構が見つかる可能性が高いとみている。

 高岡城跡の本丸北端は大きな出っ張りになっており、本丸の他の方角とは異なる形状になっている。小高くなっていることからも、城全体を見渡すような天守閣など施設の建設が予定されていたとの推測もある。

 天守閣については、存在を裏付けるような絵図など史料は確認されていない。1612(慶長17)年に描かれたとされる高岡城の絵図「高岡御城景台之絵図」(高岡市立中央図書館蔵)では本丸北端は「御材木御蔵」と記されている。

 ただ、明治期以前に記されたとされる文献「瑞龍院様高岡ニ御築城ノ件」(同図書館蔵)には「天守台」の記述があり、城内に天守閣のような施設があったと推測する向きもある。

 高岡市立博物館元館長の神保成伍氏は「高岡のまちは高岡城から始まった。城の象徴といえる天守閣の有無に関して市民の関心は高い」と調査に期待している。

141荷主研究者:2010/12/30(木) 19:54:29

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20101223202.htm
2010年12月23日01時14分 北國新聞
高岡城跡の発掘に着手 高岡市教委、「天守閣」指摘の本丸北端から

土を削って遺構や遺物の手掛かりを調べる関係者=高岡市の高岡古城公園

 高岡市教委は22日までに、高岡城跡(高岡古城公園)の発掘調査に着手した。最初の調査地は「天守閣」予定地の指摘がある本丸北端で、遺構や遺物の手掛かりを探した。市教委は加賀藩2代藩主・前田利長公が1609(慶長14)年に築いた高岡城の構造解明を目指す。

 高岡城跡の史跡価値を判断する発掘調査は初めて。国史跡指定を目指す同市は3カ年の発掘を計画しており、今年度は本丸北端のほか、土橋の地下、本丸南端、本丸外周の土塁3カ所、城跡の北側斜面の計7カ所で行う。

 本丸北端について、市教委は地形の形状などから重要施設があった可能性が高いとみている。高岡城は天守閣は造られなかったというのが定説だが、北端は城全体を見渡すように小高い場所になっている。明治以前の文献に「天守台」の記述があり、北端から調査することにした。

 22日は本丸北端にある児童公園の裏手で、市の委託業者8人が発掘に取り組んだ。幅2メートル、面積約40平方メートルの範囲で土を削り、土の色合いなどを確認しながら数センチ単位で掘り進めた。土質に変化が見つかった場合、写真を撮影。地層の生成時期を知るため土壌の軟らかさも調べた。

 発掘対象となる土橋は、橋を支える石垣が築城時から残るとされる。石垣の地下部分を発掘し、石垣が積み直されていないかなどを確認する。本丸外周の土塁は周辺が踏み荒らされていないことが事前調査で分かっており、遺構発見が期待されている。

 今年度の発掘は来年2月末まで。調査結果は専門家でつくる高岡城跡詳細調査指導委員会に報告される。

142荷主研究者:2010/12/30(木) 20:27:16

http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&mode=0&classId=&blockId=9766682&newsMode=article
2010/12/23 09:34 福島民報
小峰城石垣修復盛り込む 白河市歴史的風致維持向上計画

 白河市歴史的風致維持向上計画の今年度内認定に向け、市が国に申請する計画の内容が固まった。22日、市役所で開いた第3回法定協議会(会長・有賀隆早大大学院教授)で明らかになった。

 歴史的風致の維持向上のために実施する事業として、小峰城本丸と二の丸石垣修復事業、小峰城道場門遺構修復事業などを当初計画に盛り込む方針だ。

 法定協議会は歴史的風致の整備・管理に関する基本的な考え方を整理した上で、維持向上のために実施する事業14件をまとめた。小峰城の石垣修復は平成24年度、道場門跡修復は23年度から、いずれも市が事業主体となって実施する方針。蔵修復、無電柱化調査、歴史的まちなみ修景などの事業も予定している。重点区域の範囲を761ヘクタールに変更した。

 向上計画は文化庁と農林水産省、国土交通省が所管する歴史まちづくり法に基づいて定める。国認定を受ければ重点区域内のハード、ソフト事業に国補助が受けられる。白河市は県内初、東北でも青森県弘前市に次いで2番目の国認定を目指している。

 法定協議会では3日から17日まで行われた市民の意見を聞くパブリックコメントの結果も報告された。法定協議会の審議は22日で終了した。24日に開かれる市文化財保護審議会での審議を経て来年1月上旬、鈴木和夫市長名で国に申請する。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/IP101223.jpg
【写真】崩落の危険性が高まっている小峰城北側の石垣

143荷主研究者:2010/12/31(金) 22:22:38

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20101215/CK2010121502000139.html
2010年12月15日 中日新聞
玉泉院丸跡 3区画に分け整備へ

14年度まで県が計画案 石垣眺める休憩所も

 金沢城玉泉院丸跡の整備について話し合う調査検討委員会の整備活用部会が十四日、県庁で開かれた。県側は二〇一四年度までに跡地を「暫定整備」「入り口部周辺」「確認調査を優先」の三区画に分けて整備する基本計画案を提示した。

 暫定整備エリアは、尾山神社の向かいにある「鼠多門(ねずみたもん)」跡と庭園を管理していた「露地役所」跡を含む約三千平方メートル。石垣や調査の様子を眺めることができる休憩所などを設けるが、将来の調査に備えて暫定的な整備にとどめる。

 広坂側の入り口部周辺エリアには、バリアフリー対応のスロープや広場を造り、石垣の眺めを遮る樹木を伐採する。ほかのエリアでは整備を始めず、遺構の調査を続ける。

 県の提示案に対し、委員からは「駐車場からの動線が不便」「休憩所まで車いすで上れるようにしてほしい」といった意見が出た。

 県は再び部会を開いた上で意見を集約し、来年三月の調査検討委員会で基本計画の承認を受ける方針。

 (山本真士)

144荷主研究者:2011/01/16(日) 16:38:39

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2011010820170122/
2011年1/8 20:17 山陽新聞
備中松山城の石垣修復始まる 昨年7月の豪雨で崩落

石垣修復で行われている石の取り除き作業

 2010年7月の大雨で崩落した高梁市内山下、国史跡・備中松山城の石垣修復が、年明けから本格化している。石の積み直しなどを行い、11年度中に元の姿に戻す計画。

 崩落したのは二重櫓(やぐら)(国重要文化財)の北東約30メートルで、後曲輪(うしろぐるわ)と呼ばれる区画の一部。高さ、幅約3メートルにわたり、長さが80センチほどもある大きな石から手のひらサイズまで約200個が崩れた。

 市教委が地元業者に委託し10年末着工。現在は崩落した石、石垣内部の砂利や土を取り除いている。国史跡のため崩落以前の状態に正確に戻す必要があり、全ての石の位置を、過去に撮影した石垣の写真と照合した上で、4月以降に積み直す。

 天守など他の建物は通常通り入場できるが、崩落現場周辺は完工まで立ち入り禁止。市教委は「二重櫓を望む格好のスポットでもあり、観光に支障は多少出るが、完全な形で修復したい」としている。

145荷主研究者:2011/01/30(日) 20:44:40

http://www.shizushin.com/news/local/west/20110113000000000044.htm
2011/01/13 静岡新聞
天守門と富士見櫓復元 浜松市、整備計画を発表

 浜松市は徳川家康ゆかりの浜松城公園を“市民の心のよりどころ”となるような歴史的空間として再整備する「浜松城公園歴史ゾーン整備基本計画」を策定し、12日、市議会建設委員会に報告した。発掘調査で構造が明らかになった天守門と富士見櫓(やぐら)を復元し、現在の市役所西別館を撤去して公園の南玄関としての整備を目指す。

 市指定文化財である野面(のづら)積みの石垣や地下に残る城郭施設の遺構を保存するとともに、公園の歴史的価値を高め、学習や観光の場とするのが狙い。

 現在ある浜松城天守閣を中心に歴史ゾーンとし、天守門、富士見櫓、土塀などを復元。石垣を保全するため樹木は伐採・剪定(せんてい)する。現在の市役所西別館を撤去し南エントランスゾーンと名付けた歩行者向けの入り口として整備し、利便性を高めていく。

 市は2008年度に整備基本構想を策定。09〜10年にかけて、広島大大学院の三浦正幸教授ら学識経験者を含む基本計画策定委員会を構成し、調査を行ってきた。

 この日の建設委員会では、発掘された天守門と富士見櫓の礎石から三浦教授が作製した、横10メートル91センチ、高さ9メートル38センチの天守門、横7メートル88センチで高さ5メートル61センチの富士見櫓の復元図案も委員に示された。

 市は2月11日午後1時半からアクトシティ浜松コングレスセンターで、市民フォーラムを開催し、市民に調査結果などを報告する。

146荷主研究者:2011/02/06(日) 11:21:13

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20110120/CK2011012002000106.html
2011年1月20日 中日新聞
黒野城で町おこし 住民ら研究会「加藤貞泰公知って」

河口さんが作成した平面図

◆平面図完成で市に活用策要望へ

 岐阜市黒野地区の有志でつくる「黒野城と加藤貞泰公研究会」が、地元でもあまり知られていない黒野城の歴史を発掘しようと、研究に取り組んでいる。「歴史の町 黒野」をPRし、城跡の公園を黒野地区の観光資源にしたいと意気込んでいる。

 黒野城は1598年ごろ、黒野藩主の加藤貞泰(1580〜1623年)が築き、1610年に廃城となった。本丸跡は高さ5・4メートルの土塁と桜の木に囲まれ公園として親しまれている。

 しかし、知名度は岐阜城に比べて低く、廃城から400年の昨年4月、城や城主の歴史を掘り起こして観光資源として活用できないかと、地元市民が集って会を結成した。

黒野城跡と、城の歴史発掘に努める河口さん=岐阜市黒野で

 会員は、歴史好きの市民や学識経験者など40〜70代の約20人。2カ月おきに会合を開いて研究内容を発表するほか、地元で講演会を開き、成果を市民に伝えている。

 「城がかつてどんな姿をしていたか、どうしても知りたかった」という会社員の河口耕三さん(62)=同市今川=は、城の構造について研究。図書館や地元市民などから入手した資料を参考に、本丸跡の測量を続け、半年間かけて平面図を完成させた。現在は、黒野城下町の全体構造を把握しようと、研究を続けている。

 河口さんは「岐阜城に匹敵するくらいに知名度をあげ、町おこしにつなげたい」と話す。会は、城跡を歴史公園として整備するなどの活用策を市に要望していきたいと考えている。

 (松山祥子)

148荷主研究者:2011/02/20(日) 12:06:37

http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&mode=0&classId=&blockId=9781513&newsMode=article
2011/01/31 09:32 福島民報
神指城跡など調査状況報告 若松で城郭検討会

 東北地方の城などをテーマにした「北日本近世城郭検討会」は30日、福島県会津若松市の県立博物館で開かれた。市内の神指城跡をメーンに、各地の城跡の調査状況を研究者が報告した。

 神指城跡については市教委の近藤真佐夫さん、県文化振興事業団の本間宏さん、県立博物館の高橋充さんの3人が発表した。途中で建設が中止されたため、築城過程が分かる全国でもまれな史跡で、発掘調査を基に工法などを説明。さらに築城をめぐる時代背景などを解説した。

 この他、米沢や山形、仙台など各城跡の調査報告が行われた。検討会の鈴木啓会長が「館から都市へ」を演題に記念講演した。

 研究者や歴史ファンら200人以上が詰め掛け、立ち見が出るほどの人気ぶりだった。 検討会は平成11年に始まり、今回で5回目。県内での開催は15年の二本松市以来。

【写真】歴史ファンが大勢詰め掛けた検討会

149荷主研究者:2011/02/20(日) 12:25:43

http://www.shizushin.com/news/local/central/20110204000000000022.htm
2011/02/04 静岡新聞
徳川氏が築いた?門の礎石発見 島田「諏訪原城跡」

 戦国時代に武田、徳川両軍攻防の舞台となり、島田市教委が発掘調査を進めている同市菊川の国指定史跡「諏訪原城跡」でこのほど、徳川氏が築いたとみられる新たな門の礎石が見つかった。市博物館は「武田の城とされてきた諏訪原城が後年徳川氏によって大規模に改修された可能性が強まった。礎石のある城門の造営から恒久的に城を使用する意図が見て取れる」としている。5日午前11時10分から、現地で説明会を行う。

 市教委によると、本年度は史跡内の「二の曲輪(くるわ)」部分約350平方メートルを発掘調査し、曲輪の出入り口で門の礎石が四つ確認された。徳川家康の家臣で城主の一人だったとされる松平家忠の日記に記載された門の礎石に該当するとみられるという。

 発掘調査ではこのほか、幅20メートルの土塁の基底部や出入り口の橋台の跡なども確認された。

 市はこれまでの調査結果を踏まえ、2011年度から10年間の同史跡の整備基本計画案を策定。静岡空港周辺の立地を生かし、地域一体となった整備を目指す予定で、5日から3月6日までパブリックコメントを募集する。

 問い合わせは、市博物館<電0547(35)3008>へ。

150荷主研究者:2011/02/27(日) 11:48:21

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20110207/201102071800_12901.shtml
2011年02月07日18:00 岐阜新聞
「岐阜城跡」国史跡に指定 地域発展の起爆剤に

国史跡に指定された、岐阜城を頂く金華山一帯の「岐阜城跡」=昨年12月、本社チャーターヘリから

 岐阜城がある金華山(329メートル)の山頂部と同山一帯を合わせた「岐阜城跡」が7日、国史跡に指定された。岐阜市は、岐阜のシンボルとして親しまれている岐阜城跡が国の宝と認められたことで、さらなる観光客誘致などを図るとし、地域活性化の期待が高まっている。

 岐阜城跡の国史跡指定は、同日付の官報で告示された。市内の国史跡は4件目。

 現在の岐阜城は1956(昭和31)年に再建された。岐阜城跡は、城跡の山頂部だけでなく山一帯が「山城」として機能していたとして、これらを含む計約209ヘクタールが国史跡の指定を受けた。

 市教育委員会によると、国特別史跡の安土城(滋賀県近江八幡市)、国史跡の小牧山(愛知県小牧市)など、織田信長の居城では、岐阜城跡が最も指定範囲が広い。

 細江茂光市長は「国史跡指定を機に『信長学』と岐阜公園整備を推進することで、ハード・ソフトの両面から岐阜をPRしたい」などとコメントした。

 市観光コンベンション課によると、岐阜城の来場者数は92年度には43万人を超えたが、近年は19万人台が続いた。昨年度は戦国武将らに関心を抱く女性「歴女」ブームなどで21万人を超えたという。

 岐阜市は新年度中に岐阜城跡の保存管理計画を策定し、史跡や環境の保護を進める。さらに、金華山ロープウェーの3月11日のリニューアルオープンに合わせたイベントや鵜飼観覧をセットにした宿泊プランのPRといった官民連携“戦法”で観光客らを囲い込む方針だ。

151荷主研究者:2011/02/27(日) 11:59:14

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20110211/CK2011021102000112.html
2011年2月11日 中日新聞
御城番屋敷の工事完了 松阪の国重文を2年半かけ大改修

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011021102100062_size0.jpg
改修工事が終了した国重要文化財の御城番屋敷=松阪市殿町で

 紀州藩が江戸末期に建造した松阪市殿町の国重要文化財(重文)「御城番屋敷(ごじょうばんやしき)」で、東棟の改修工事が1月末までに終了した。一時的に移転していた屋敷の住民の引っ越しも本年度中に終える予定で、2年半がかりの大改修が計画通りに完了する。

 御城番屋敷は1863年、松坂城の警備を担う藩士たちの住居として整備された。東西2棟の主屋と土蔵などからなり、長さ90メートルの東棟に10戸、83メートルの西棟に9戸が連なる。現存する武家長屋では全国最大級で、2004年には国重文に指定。現在も藩士の子孫らが住んでおり、全国の文化財でも非常に珍しい。

 初の大規模改修となった今回の工事は、屋敷の重文指定後、国や県の補助を受けて06年から始まった。総工費約2億8000万円をかけ、2棟の長屋を西棟、東棟の順に改修。伝統的な外観を保ったまま、鋼材による柱や梁(はり)の補強をしたり、屋根瓦のふき替えなどを実施した。

 同市殿町周辺では、今月7日に松坂城跡が国史跡に指定され、明治・大正期の実業家・原田二郎の旧宅も公開に向けて整備事業が進んでいる。同市教委文化課では「市街地の観光振興や、子どもたちへの郷土史教育に役立てたい」と話している。 (石原猛)

152荷主研究者:2011/03/06(日) 12:57:53

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20110220101.htm
2011年2月20日02時24分 北國新聞
橋爪門の遺構確認 金沢城、焼け跡手掛かりに

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/H20110220101.jpg
橋爪門二の門の埋蔵文化財調査が進められている金沢城公園内

 金沢城橋爪門の復元整備で、石川県は19日までに、1881(明治14)年の火災で焼失した橋爪門二の門の遺構を確認した。巨大な柱の重さに耐えられるよう地盤を固めた跡と、橋爪門続櫓(やぐら)の石垣から発見された柱と屋根の焼け跡が手掛かりとなり、門の正確な位置が裏付けられた。

 県は21日に初会合を開く「橋爪門の復元整備専門委員会」で具体的な整備方針の協議を始め、2014年度の北陸新幹線金沢開業を見据えた復元を急ぐ。

 遺構が見つかったのは、橋爪門二の門があったとされる現在の鶴の丸広場の一角。地表を1・5メートル掘り下げたところに、粘土質の土や小石を敷き詰め、地盤を固めた跡が2カ所見つかった。門の重みで地盤が沈み込まないよう補強した「根固め」の跡で、この上に柱の基礎となる礎石を置いて門を建てたとみられる。

 礎石はすべて取り除かれ、地中の遺構から柱の正確な位置は特定できなかったが、橋爪門続櫓の石垣から、石垣に接していた「添(そえ)柱(ばしら)」と1階ひさしの焼け跡が発見された。石垣には敷石の切り込みも残っており、この痕跡が橋爪門の構造を記した金沢城絵図の図面と符合したため、門柱の位置や屋根の高さが特定できたという。

 埋蔵文化財調査ではこのほか、雨水などを引き込む石組みの地下水路や枡(ます)の遺構も見つかった。二の丸から流れてきた排水を橋爪門の下を通して城内の内堀に流し込んでいたとみられる。

 橋爪門続櫓の石垣は2001年の菱(ひし)櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓の再建に合わせて組み直されている。県金沢城調査研究所は「石垣に焦げたような跡があるのは以前から分かっていたが、それが焼けた柱などの痕跡と分かり、門の詳細を把握する重要な手掛かりになった」としている。

 橋爪門(はしづめもん) 二の丸御殿の入り口に位置した正門で、石川門、河北門とともに「金沢城三御門」の一つに数えられる。城内で最も格式が高い門とされ、門内には番所が置かれていたほか、三御門で唯一、二の門の床に敷石で装飾が施されていた。通行の際には衣装や従事者の数など厳格な規則が定められていたとされる。

153nagamasa:2011/03/11(金) 22:29:59
福岡城についてのシンポジウム(「福岡城の実像に迫る」)が開催されるようです。
福岡市の「福岡城さくらまつり」のイベントの一つとして、「福岡城の実像に迫る」と題して、福岡城に関わるシンポジウムが開催されるようです。
日時、場所などは以下の通りです。「福岡城の天守閣存否問題を中心に開催」とされているので、「天守閣」の有無に関わる論争も正面から取り上げられるようです。
また、今、教育テレビに出演中の「城博士」千田嘉博奈良大学教授が、「織豊系城郭における福岡城」と題して、基調講演をされるそうです。
 日時 平成23年3月26日(土) 10:00〜16:10
 場所 福岡市立中央区市民センター3階大ホール
 申込先(事前申込制) C.E.Works TEL:092-432-7088
 お問合せ先 福岡市教育委員会文化財整備課
TEL:092-711-4783

 詳しくは、下記のリンクをご覧下さい。
 http://saku-hana.jp/sakura/introduction.html
 シンポジウムの詳細を記したチラシのリンクもあるので貼っておきます。
http://saku-hana.jp/sakura/introduction_symposium.pdf

 また、福岡市のホームページにも詳しい情報があったので貼ります。
「平成22年度「福岡城」シンポジウムの開催について(文化財
整備課)」
http://www.city.fukuoka.lg.jp/kyoiku-iinkai/bunsei/shisei/20110311.html
文中にシンポジウムチラシのリンクも入っています。
「福岡市の文化財 新着情報」
 「福岡城シンポジウム「福岡城の実像に迫る」の開催について」
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/whatsnew/index.php?id=252

興味のある方はどうぞ。福岡城、天守は本当にあったんかいな?
「織豊系城郭」の話も気になるなあ、、、

154荷主研究者:2011/03/17(木) 23:02:37

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20110223/201102230848_13023.shtml
2011年02月23日08:48 岐阜新聞
“国宝”大垣城よみがえる 戦災前の外観復元

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/201102230848_13023.jpg
改修工事が完了し、戦災で焼失する前の姿にほぼ復元された大垣城=大垣市郭町

 大垣市は22日、大垣城(同市郭町)の改修工事が完了した、と発表した。瓦の大きさや文様、窓、外壁など、外観がほぼ戦災前の国宝に指定されていた往時の姿に復元された。

 大垣城は、1535(天文4)年に美濃の守護土岐氏に仕えた宮川安定が築城(1500年、土岐氏の家臣竹腰尚綱の築城説もある)したとされる。1936(昭和11)年に国宝に指定されたが、45年7月の大垣空襲で焼失。現在の天守は59年に再建された。

 再建から半世紀以上が経過し、瓦が落ちるなどの老朽化が進んでいたことなどから、2007(平成19)年3月に危険防止柵を設置。施設の安全性を確保するとともに、外観を焼失前の状態に可能な限り復元しようと、09年9月から改修工事を行っていた。総事業費は約2億1800万円。

 今回の外観改修は、古い写真や図面などの資料に基づき実施。4階部分の窓を小さくし、アルミサッシから鉄製に変更したり、再建時に取り付けられた破風(はふ)板の上にあった飾り金物を撤去、天守の鯱(しゃち)瓦も焼失前の姿に近付けた。また改修前は全て桃鬼瓦だったが、古写真から確認された鬼面鬼瓦を14カ所に設置した。

 同市教育委員会は「焼失前にかなり近付き、付加価値も高まった。ぜひ一度見に来てもらいたい」と話している。

155荷主研究者:2011/03/20(日) 13:35:58
>>154
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20110223/CK2011022302000115.html
2011年2月23日 中日新聞
4年ぶり雄姿 大垣城改修完了

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011022302100054_size0.jpg
改修後の大垣城。窓の大きさや金物、瓦の様子が戦前に近い=大垣市で

 大垣市教育委員会は22日、戦災で焼失する前の姿へ復元を進めてきた大垣城(郭町)の改修工事が完了したと、発表した。天守周辺の全体像を見学できるのは4年ぶりで、市民や大垣を訪れる観光客の注目を集めている。

 大垣城は、1535(天文4)年の築城とされ、石田三成が西軍の本拠地とするなど関ケ原合戦の舞台にもなった。

 戦前は国宝に指定されていたが、1945(昭和20)年7月、米軍機による空襲で焼失。市民の熱望で59年に鉄筋コンクリート造りで再建され、戦後復興のシンボルとされてきた。しかし、近年、外壁のひび割れなど老朽化が進み、屋根瓦が落下する危険もあったことから、2007年以来、城周辺に危険防止柵が設置されていた。

 市教委は、再建後の城の外観が焼失前と異なる部分が多かったため、古い写真や図面などを基に、09年9月から復元・改修工事を開始。4階部分のアルミサッシ展望窓を小さくし、しっくい塗り風の鉄製扉をつけたほか、古写真を基に天守鯱瓦や鬼面鬼瓦を再現。丸瓦や飾り金物の大きさ、文様も焼失前に近づけた。石垣も強化し、全面ふき替えした瓦計約4万3000枚はすべてリサイクルした。総工費は2億1819万円。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011022302100055_size0.jpg
改修前の大垣城=大垣市で

 改修前の鯱瓦は城内で展示している。入場料大人100円、18歳未満無料。火曜休館。 (小椋由紀子)

156荷主研究者:2011/03/20(日) 13:41:42

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20110222/CK2011022202000141.html
2011年2月22日 中日新聞
橋爪門整備 文献参考に 有識者委が県庁で初会合 二の門など復元へ

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011022202100047_size0.jpg
橋爪門の完成予想図。点線内が復元部分の二の門と枡形土塀で、中央上部は続櫓

 「金沢城三御門」の一つに位置付けられる橋爪門の復元整備の方針を検討する有識者委員会の初会合が二十一日、県庁であった。県は発掘調査で見つかった痕跡や古絵図などを根拠に、復元の基本的な在り方を示した。

 橋爪門は「一の門」と「二の門」、二つの門をつなぐL字形の「枡(ます)形土塀」で構成。一の門は隣接する「橋爪門続櫓(つづきやぐら)」や「五十間長屋」などとともに二〇〇一年に復元が終わっており、県は一四年までに残る二の門、枡形土塀の復元を目指している。

 二の門は二階建てで、橋爪門続櫓に連なるように建てられていたことが分かっている。県は続櫓の石垣の表面に、二の門の柱や礎石が当たっていたとみられる痕跡を確認したと報告。現存する古文書や絵図なども参考にしながら、復元を進める考えを述べた。

 金沢城は江戸時代に三度、明治初期にも火災が起きており、橋爪門二の門は明治の大火で焼失してから復元されていない。三御門のうち、石川門は江戸後期に再建されたものが現存、河北門は昨年春に復元されている。 (佐藤航)

157荷主研究者:2011/03/27(日) 20:23:18

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20110302/201103021146_13098.shtml
2011年03月02日11:46 岐阜新聞
岐阜城下町、やはり道三が整備 市教委、発掘調査で証明

岐阜城下町遺跡で発掘された中国産磁器などと、武家屋敷地付近のイメージ図を示す市教委職員=1日午前、岐阜市役所

◆信長火攻め跡から中国磁器出土

 岐阜市教育委員会は1日、金華山の麓にある岐阜城下町遺跡で行っていた発掘調査で、織田信長の岐阜侵攻による1567(永禄10)年の火事が原因とみられる焼土層から、大型の中国産磁器など2万点が出土した、と発表した。市教委によると、文献や通説では岐阜の町の骨格をつくり上げたのは信長侵攻前の斎藤家とされているが、大規模な遺跡で明確に確認されたのは初めて。

 発掘調査は、同市松ケ枝町の市道拡幅に伴い、市歴史博物館南側の約900平方メートルの範囲で昨年9月から行われていた。調査では焼土層のほか、敷地を区画するための溝や柱穴、中国産磁器などが見つかった。

 市教委は、多数の磁器が広範囲の焼土層から見つかったことを重要視。焼土層は、信長が侵攻した際に町に火を付けた跡と見られており、当時は貴重品だった中国産磁器を多数所有しているような身分の高い武士が、侵攻以前から一帯に武家屋敷地をつくっていたと考えられるという。

 同遺跡一帯は、斎藤道三が通したとみられている街路「大道」「七曲通」「百曲通」にはさまれた区画で、これまで調査はほとんど行われていなかった。発掘された溝などの方向は、街路の中でも南北に通る「大道」と直交しており、街路を基準として建物が築かれていたと考えられる。

 市の信長居館発掘調査専門委員会の仁木宏委員(大阪市立大教授)は「普通の町人の家ではなく、斎藤道三の家臣など有力者の屋敷の一部が見つかったとみてほぼ間違いないだろう。道三が建設した城下町の計画性が明らかになったといえる」と話している。

 市教委は5日午前10時から、同遺跡と、隣接する岐阜公園内の信長居館跡発掘調査現場の一般公開を行う。問い合わせは市教委社会教育課、電話058(265)4141。

158荷主研究者:2011/03/27(日) 20:42:48

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20110306103.htm
2011年3月6日03時07分 北國新聞
絵図にない石垣確認 小松城

石垣が見つかった場所に建てられた美術品収蔵館=小松市芦城公園

 小松城の三の丸を囲む堀に護岸用の石垣があったことが、小松市埋蔵文化財センターの調査で初めて確認された。江戸前期の絵図に石垣は記載されておらず、これまで三の丸の堀に石垣は無かったと考えられていた。同センターは「小松城の実像を示す重要な発見」としており、6日に開く講演会で報告する。

 石垣は小松市芦城公園南側で整備された「美術品収蔵館」(仮称)の建設のための調査で見つかった。約200平方メートルを発掘したところ、地表から数十センチ下の位置にあり、長さ約10メートル、高さは約1・5メートル。

 江戸前期の絵図「小松城御城中(おんじょうちゅう)並びに侍(さむらい)屋(や)敷町共之(しきまちともの)絵図」には、三の丸を囲む堀が記されているが、石垣は描かれていなかった。同センターによると、水漏れを防ぐための石垣とみられ、城壁ではないという。

 石垣は1個約40センチ四方の大きさ。4段に積まれており、下2段は水に漬かっていた跡があった。石垣は5段以上あったとみられるが、詳細は不明。石垣の内部には、裏込石(うらごめいし)が約2メートルにわたって詰め込まれていた。

 同センターによると、石材は色などから小松市八里台や鵜川町、大野町などから切り出した凝灰岩で、積み方は石材を事前に加工して石と石の間の隙間を開けない「切り込みハギ積み」という。

 石垣周辺からは江戸前期のいぶし瓦などが見つかっている。同センターは、加賀藩3代藩主前田利常が同時期に小松城に隠居した以降に整備されたと推測し、「三の丸の調査はこれまでほとんど行われておらず、新しい知見が判明した。市民に小松城について関心を持ってもらいたい」としている。

 講演会は6日午後1時半から、小松市第一地区コミュニティセンターで開かれ、小松城跡については同センター職員の川畑謙二さんが報告する。このほか、八幡遺跡、月津台地の集落、南加賀窯跡群の発表も行われる。

159荷主研究者:2011/03/27(日) 20:45:33

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20110301/CK2011030102000096.html
2011年3月1日 中日新聞
小牧山城に先進的石垣 信長の近世城郭、安土より13年早く

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011030102100049_size0.jpg
大規模な築城技術が確認された小牧山城の石垣=小牧市堀の内で

 小牧市教委は28日、国史跡の小牧山城(同市堀の内)で、山頂の周囲に巡らせてある織田信長が築いた石垣に、築城当時としては大規模、先進的な技術が施されていたことが確認できたと発表した。天守閣と石垣を特徴とする近世城郭のルーツはこれまで、同じ信長が築いた安土城(滋賀県近江八幡市)にあるとされてきたが、さらに13年さかのぼって小牧山城に原型があることが明らかとなった。

 小牧山城は1563(永禄6)年、清洲城から移ってきた信長が築いた。斎藤氏を滅ぼし岐阜に本拠を移すまでの4年間、本拠にした。

 市教委によると、確認された石垣は長さ35メートルの上下2段で、高さは上段が2・5〜3・8メートル、下段は1〜1・5メートルだったと推測。特に上段を構成していた石垣は重さ2トン前後の巨大な自然石が整然と積み上げられ、「土が主体だった当時の城にはない技術が具体化され、これを原型にして『石の要塞(ようさい)』のような今日の城が全国に広まっていったと考えられる」と小野友記子考古学専門員(38)は話す。

 石の配列にはデザインを意識したような工夫が見られ、内部には石垣の強度を上げるために細かい石や盛り土が敷き詰められ、近世城郭の城に見られる特徴と共通している。小野専門員は「こうした築城技術ひとつを見ても、戦乱の世を生き抜くには守りを固めることが肝要とする、信長の非凡な才能がうかがえる」と語り、戦国武将として優れていたことを裏付ける資料になるとみている。

 城郭に詳しい千田嘉博奈良大教授は「信長が理想とする城郭の原点は小牧山城だったと推測され、後の岐阜城や安土城を通じて江戸時代の城にも決定的な影響を与えたのではないか」と話す。

 市教委は今回の調査結果を受け、5日午前10時と午後2時、現地説明会を開く。無料、申し込み不要。(問)文化振興課=電0568(76)1189

 (平井剛)

160荷主研究者:2011/03/27(日) 20:47:35

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20110228/CK2011022802000087.html
2011年2月28日 中日新聞
金山城跡を国指定に 可児市が申請へ「織豊系城郭の特徴」

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011022802100062_size0.jpg
石垣が壊されたまま残っている金山城三の丸=可児市兼山で

 可児市は、同市兼山の県指定史跡「金山城跡」を2012年度にも国指定史跡へ申請する方針を明らかにした。

 金山城は1537年に斎藤道三の養子、正義により築城された山城で烏峰(うほう)城と呼ばれた。1565年に森可成が、織田信長から城を与えられ金山城と改名。1600年に森家が国替えとなった後、城の一部が壊され、尾張藩領として一般人の立ち入りが禁じられた。

 市は5年がかりで調査を実施。城跡からは建物の柱の下に据える川原石の礎石が見つかったほか、建物や門に使ったと想定される瓦も大量に出土。城を壊した際の石垣も残り、「織豊系城郭の特徴すべてを備え、良好に保たれた東海地区で珍しい城郭」としている。石垣がない部分も岩盤を加工した跡があり、国指定を受けた岐阜城との共通性が見られるという。 (斉藤明彦)

161荷主研究者:2011/03/27(日) 20:50:37

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20110306/CK2011030602000140.html
2011年3月6日 中日新聞
個性際立つ、甲賀中世城郭 複合で防御機能を発揮か

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011030602100088_size0.jpg
県史跡に指定されている小川城跡。土塁で囲われた主郭には建物礎石が残されている=甲賀市信楽町で

 甲賀地域で戦国時代に盛んに築かれた中世城郭。これまで単純な構造ばかりで軍事的発達が認められないとされてきたが、甲賀市の市史編さん調査で、独自の発展をとげた可能性が高いことが分かった。江戸時代に大名が築いた城郭に比べ、謎に包まれた中世城郭の実情に迫る手がかりとして、専門家の注目を集めている。

 甲賀は約200の城郭があったとされ、三重県の伊賀とともに全国有数の密集度を誇る。1982(昭和57)年に始まった県教育委員会の中世城郭分布調査で180の城の位置が確認されたが、土塁や堀など詳しい情報が乏しかった。

 市史編さん調査は専門家が5年かけて現地を歩き、遺構の形状を地図上に記録した。調査した長浜城歴史博物館の中井均館長は「昔に比べ城郭研究が進み、自然地形との判別ができるようになり、より複雑な形状が分かった」と話す。

 その結果、甲賀の城郭は土塁を「コ」の字形に築いた単郭方形だけという従来の見方が一変。敵が城郭へ直進して攻め入るのを防ぐ「虎口」や、地形を巧みに利用した補助的な土塁や堀の存在が多くの城郭で明らかになった。

 いくつかの城郭がセットで防御機能を発揮したとの見方も浮上。甲賀町和田には谷筋に沿って7つの城郭が並んでおり、中井さんは「谷全体で一つの城の機能を持たせた可能性もある」と推測。複合タイプの存在はこれまで甲賀の城郭を特徴付けてきた一村一城説の再検討も迫る。

 戦国時代の甲賀は、畿内中央地域から離れた山間部にあり、織田信長らの進攻まで大規模な戦乱に直接巻き込まれなかったとされる。その代わり、小規模な地域紛争に備える城郭のスタイルが定着したという。中井さんは「今回、明らかになった甲賀の城郭が、これまで分かっている歴史とどう結びつくのか、これからの研究の大きな課題」と指摘。今後、城郭の築造時期や軍事的機能の解明のためには、本格的な発掘調査が必要となる。

全国的にも珍しい中世城郭をテーマにした甲賀市史

◆市史が好評、遺構の形状など紹介
 甲賀の180の城郭遺構の形状を分かりやすく紹介する「甲賀市史第七巻・甲賀の城」が、城の愛好家の間で評判となり、県外の注文も相次いでいる。

 2004年の5町合併で誕生した市が新市の事業で甲賀市史の編さんを開始。古代から現代までの通史とは別に、地域の成り立ちに深く関わる題材として城に焦点を絞って編集。行政史では全国的に珍しい。

 B5判で500ページ。城郭の構造物の位置関係や大きさから機能を分析し、先人らの意図を推理。概要図を等高線入りの地図上に描いてあり、イメージしやすい。実際の城跡見学で使える小冊子(B5判カラー20ページ)も付録で盛り込んだ。

 評判は全国にも伝わり、これまで東海や関東、九州からの引き合いがある。市史は紙箱入りで1巻3500円。

 問い合わせは市史編さん室=電話0748(86)8075=へ。

 (林勝)

162荷主研究者:2011/04/03(日) 14:17:04

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20110317/CK2011031702000104.html
2011年3月17日 中日新聞
江戸中期の上野城下町絵図発見 伊賀市内の旧家、来春公開

正徳5(1715)年の上野城下町絵図と福井さん。指さすのは上野城の位置=伊賀上野城大天守閣で

 江戸中期の上野城と、その城下町を描いた絵図(縦152センチ、横219センチ)など約100点の資料が、伊賀市内の旧家から見つかった。藤堂藩からの拝領屋敷や町屋などが色別に分類され、当時の町の詳細が分かる貴重な資料となりそうだ。購入した財団法人・伊賀文化産業協会は「文化財級の資料」とみている。

 協会によると、絵図は藤堂藩の絵師・上西宗牧の作で、正徳5(1715)年当時の上野城一帯の町が描かれている。藤堂藩の拝領屋敷はだいだい色、町屋と農人の家は黄色、侍屋敷は水色などと塗り分けられている。さらに戸別に四方の寸法も記され、建物の大きさが分かる。

 測量目的で作られたとみられ、現在と同じ位置に菅原神社や愛宕神社、今はない東西大手門や外堀なども描かれている。上野城研究の第一人者で同協会専務理事の福井健二さん(74)は「同時期の絵図はこれまでに見つかっておらず資料的価値は高い。ほかの時代の絵図と見比べれば、さらに町の変遷が解明できそうだ」と話す。

 このほか元禄年間(1688〜1704年)に描かれた伊賀国一帯の絵図をはじめ、享保4(1719)年ごろの上野城下町絵図、屋敷の庭の絵図なども見つかった。今後、協会が上野城の研究に活用し、来年春には大天守閣で一般公開する。

 (河北彬光)

163荷主研究者:2011/04/09(土) 16:49:43

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20110330/CK2011033002000139.html
2011年3月30日 中日新聞
玉泉院丸跡 整備計画を差し戻し 県調査検討委 途中の見直し求め

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011033002100046_size0.jpg
計画案で示された玉泉院丸跡整備のイメージ図(手前が西側の道路)

 金沢城玉泉院丸跡の整備について話し合う県の調査検討委員会の第四回会合が、県庁で開かれ、事務局側が示した整備基本計画案について、「遺構調査の経過を踏まえて途中で計画を見直しできる条項を盛り込んでほしい」などとして差し戻した。

 事務局案では玉泉院丸跡を「調査優先」「暫定整備」「入り口部」の三つのエリアに分け、跡地東側の庭園部分は長期にわたって調査を実施する一方、西側の鼠多(ねずみた)門周辺は二〇一四年度までに芝生園地などとして整備し、南側の入り口部は今年六月から広場の供用を始めると定めている。

 この日の会合では複数の委員が「庭園内の石垣の価値が現段階ではまだ分からない」「一体的な整備のため、庭園部分の調査経過を踏まえ、計画を修正する機会を設けることが必要だ」などと指摘。

 委員長代理の北垣聡一郎・県金沢城調査研究所長が「今日の意見を整理して、もう一度お願いしたい」と事務局側に再考を促した。

 事務局側は本紙の取材に「検討委の指摘を踏まえ、四月中に計画案をあらためて示したい」と述べている。

 事務局はこの日、本年度に実施した庭園部分の遺構調査の成果について報告。池の北東部にある斜面で階段状に置かれた石組みが見つかったと明かし、低い滝を三、四段連続させた「段落ち」形式の滝の石組みだった可能性が高いと指摘した。 (榊原崇仁)

164荷主研究者:2011/04/09(土) 16:51:28

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20110329/CK2011032902000140.html
2011年3月29日 中日新聞
江戸時代の土塁 富山城址で発見 市埋文センター

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011032902100063_size0.jpg
敵の侵入を防ぐために江戸時代に造られた土塁=富山城址公園で

敵の侵入防ぐ

 富山市教委埋蔵文化財センターは二十八日、富山城址(じょうし)公園で、敵の侵入を防ぐために城の周囲に土を盛った江戸時代の土塁が見つかったと発表した。江戸時代の土塁の発掘は初めてで、報道陣に同日公開した。二十九日午後一時半から一般公開する。(永井響太)

 土塁は公園の南東側で見つかり、長さ約六十メートル、堀からの高さが約六メートル。公園の整備に合わせて今月上旬に始まった調査で、地表から十五センチほど掘ったところに出現。公園南側の堀に向かって土が四〇度傾斜していた。

 資料などから、富山藩の初代藩主前田利次が一六六一(寛文元)年、堀を整備した際に出た土を盛ったとみられる。当初は約七メートルの高さがあったが、明治以降の開発で一部が崩され、一九五四(昭和二十九)年には石垣に整備された。野垣好史主任学芸員は「江戸、明治、昭和と土塁がどのように移り変わったかが分かり、大変貴重」と話した。

166荷主研究者:2011/04/24(日) 15:01:07

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/236286
2011年4月10日 00:53 西日本新聞
「福岡城」の成り立ち学ぶ 市民団体企画 服部九大教授が解説

 福岡城の史跡を巡って成り立ちを考えるフィールドワークが9日、福岡市中央区城内の福岡城跡であった。九州大大学院の服部英雄教授(日本中世史)が案内役を務め、存在の有無が議論される天守閣について「強風を受けやすい立地条件で、存在したとは考えにくい」と持論を展開した。

 史実に基づいて史跡を残そうと、同市の市民団体「福岡・住環境を守る会」が企画。満開の桜を楽しむ花見客でにぎわう中、約20人の参加者が名島門や多聞櫓(たもんやぐら)などを見学した。

 福岡城の天守台跡では、服部教授が案内板に「天守閣が後年に取り壊されたという説が説得力を増している」と記されている点に注目。「福岡藩の文献に天守閣があったとの記述はない。この場所は台風の被害を受けやすく、天守閣を造ったとは思えない」と指摘した。

 不審火によって焼損し2008年に復元された下之橋(しものはし)御門では内部を見学。中央に仕切りを作った構造について、服部教授は「門の中は敵襲に備える兵士が動きやすい必要がある。復元された構造は、史実と異なるのではないか」との考えを示した。

 福岡城は、福岡藩の初代藩主黒田長政が1601年から7年をかけて築城したとされる。現在は石垣や櫓が残り、地元のNPO法人が城の復元を模索する動きがある。

=2011/04/10付 西日本新聞朝刊=

167荷主研究者:2011/06/05(日) 21:36:45

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1105120017/
2011年5月12日 神奈川新聞
小田原城の整備構想見直しへ、市が緑保護の市民意見反映/小田原

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/7_114538.jpg
樹木に覆われ正面から天守閣が見えにくいという課題も

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/7_114552.jpg
整備が完了した馬屋曲輪=小田原市城内

 お城ブームの中、小田原市は2011年度から小田原城の整備基本構想を見直す作業に入る。馬屋曲輪(くるわ)の修景整備が終わり、4月から御用米曲輪の整備に着手したが、史跡を忠実に復元するだけでなく、市民が憩いを感じられる空間も取り入れていく方針だ。

 3月で整備が終了した馬屋曲輪は登城者のための馬屋が置かれた区域。広さは約7800平方メートル。2000年度から発掘調査が始まり、馬出門(うまだしもん)や櫓(やぐら)台の復元、馬屋や大腰掛けの位置を看板で表示するなどの整備を実施した。

 本丸の南側にあるこの区域は正規の登城ルートに当たる。整備により大手正面から城の景観を見られるようになった。総整備費は約6億6千万円(国が約半額負担)。

 御用米曲輪は江戸時代に幕府が米などを保管する蔵が最大6棟あった区域。広さは約1万8800平方メートル。石垣でなく土塁で囲まれ、中世期の特徴が残されている。

 基本構想の見直しは昨年、植栽管理計画に市民団体が反発したことがきっかけになった。緑の保護を求める市民の意見を反映して「極力保全を前提に検討する」と方針を転換した。

 小田原城は国指定の史跡であることから、市は1993年に整備基本構想を策定。史跡にそぐわない動物園や遊園地などを移転・撤去、江戸末期の姿に近づける方針を採ってきた。

 一方、史跡整備とは別に60年建設の天守閣は耐震不足の問題を抱えている。年間約40万人が訪れる観光のシンボルでもあり、対策が急がれる。

 市文化財課は「中心市街地内にあり緑化や都市公園的な視点でも検討する。国の方針を踏まえながら2〜3年かけて構想全体を見直したい」と話している。

168荷主研究者:2011/06/05(日) 22:13:36

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/241154
2011年5月10日 01:01 西日本新聞
佐賀城「東堀」整備始まる 往時の風情復活へ

現地で始まった佐賀城東堀の整備事業

 佐賀藩鍋島家の居城だった佐賀城(佐賀市城内)の「東堀」を“復元”する整備事業が9日、現地で始まった。県の佐賀城跡整備計画「佐賀城下再生百年構想」(2007年3月策定)の中核事業の一つ。完成すれば、80数年ぶりの東堀復活となる。

 佐賀城を囲む堀は、北、西、南の各堀が逆コの字形に現存。しかし、幅70メートルを超えていた東堀は、開発の波にのみ込まれ1939(昭和14)年までに埋め立てられた。復元事業では、堀の一部を掘り返し、地中に眠る江戸期に築造された赤石の石積みを発掘。この石積みを生かして、往時の風情をよみがえらせ、公園として整備する。

 整備を担当する県佐賀土木事務所によると、復元エリアは佐賀城本丸歴史館や佐賀大学付属小学校の東側約1ヘクタール。数年計画で、堀の一部に当たる総延長約230メートル、幅約40メートルを深さ約1・8メートルの堀として整備し、堀端には植栽や散策道を設ける。9日は早速、NHK佐賀放送局近くの区画で重機での作業が始まった。事業費は3−5億円を見込んでいる。

 佐賀城の堀は、福岡藩黒田家の協力で築かれた北堀が「筑前堀」と呼ばれるなど、大名同士の交流を今に伝える史跡でもある。

 県佐賀土木事務所は「佐賀の歴史をしのぶことができる市民憩いの公園として整備したい」と話している。

=2011/05/10付 西日本新聞朝刊=

169荷主研究者:2011/06/05(日) 22:14:00

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/241917
2011年5月14日 01:16 西日本新聞
築城400年の佐賀城天守台 9−10月に予備調査着手

佐賀市教委が9月から予備調査に着手する佐賀城跡の天守台。天守閣の規模などの特定が期待される

 佐賀城築城400年の節目に合わせ、城跡に残る天守台(同市城内2丁目)の発掘調査を行う佐賀市教委は、9−10月にかけ、現地での「予備調査」に着手することを決めた。3年計画の発掘調査の第1弾。礎石など遺構群の現存状況を見極め、広い範囲を本格的に発掘する「確認調査」につなげる狙い。天守台には5層構造の勇壮な天守閣があったとされ、調査を通じ全体像の解明に期待がかかる。

 市教委文化振興課文化財係によると、予備調査では天守台(一辺35メートル前後、高さ約8・5メートル)上面の一部を幅2メートル、長さ10メートル程度の範囲で掘り下げ、遺構の確認を進める。天守閣の基礎構造を知る手掛かりとなる礎石の確認のほか、「穴蔵(天守閣地階)」といった地下遺構の有無も調べる。確認調査は来年度に実施する。

 予備調査実施を前に市教委は、佐賀城をめぐる古里の歴史を広く知ってもらおうと、6月中旬には講演会を開催。さらに、城郭建築や石垣研究、文献調査などの専門家でつくる調査指導委員会を立ち上げ、7月に第1回会合を開く。

 佐賀城は江戸期に35万7千石を治めた佐賀藩鍋島家の居城で、1611(慶長16)年に完成。天守閣は1726(享保11)年の大火で焼失し、以後再建されなかった。

 明治以降の天守台をめぐる歴史をみると、明治−昭和初期に県立の測候所が建設されていたほか、1957年に「佐賀の鹿鳴館」とも呼ばれた明治期の迎賓館・協和館が移築され、2004年の県立佐賀城本丸歴史館開館に合わせて解体された。市教委は、これらの建造物が天守台の遺構にどの程度影響を与えたかについても、慎重に調査する考えだ。

 調査担当者の1人、市教委文化振興課文化財係の谷澤仁(ひとし)係長は「佐賀城天守閣の存在については、絵図や文献の記録にとどまっている。築城400年の節目を機に、天守台調査を通じて佐賀城をめぐる謎のさらなる解明に向け、天守閣の真の姿に迫りたい」と話している。

=2011/05/14付 西日本新聞朝刊=

170荷主研究者:2011/06/05(日) 23:22:18

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20110516/CK2011051602000093.html
2011年5月16日 中日新聞
倒壊時期の定説覆る 名古屋城・西南隅櫓

1891年の濃尾地震で倒壊したとの定説が覆った西南隅櫓(工事中)=名古屋市中区の名古屋城で

 1891年の濃尾地震で倒壊し、1923年に修復したとの説が定着していた名古屋城の重要文化財(重文)「西南隅櫓(すみやぐら)」が、実は1921年の台風で壊れていたことが市教委の調査で分かった。従来の公式見解を改め、名古屋城パンフレットやHPの解説を修正する。

 本丸の南西角にある物見や倉庫に使われた櫓で、1930年に国の重文に指定された。7000人を超える死者を出した1891年10月の濃尾地震の時に倒壊したと、著名な建築学者が戦後に唱えたのが語り継がれ、公式見解として定着していた。

 2009年、老朽化に伴う屋根と壁の修理に際し、重文を所管する文化庁が倒壊と修復の経緯の調査を指示。「倒壊から再建まで30年も放置されていたのは不自然」と従来の見解を疑っていた市教委文化財保護室の井上光夫文化財専門員が、宮内庁などに残る記録を見直した。

 濃尾地震後に被災状況を記した図面には、西南隅櫓が壊れた記録は見当たらなかった。

 井上さんは「壊れていたら、何らかの記録があるはず。濃尾地震から修復までに天皇陛下が50回以上、宿泊していることから考えても、壊れた櫓を放置しておいたとは考えにくい」と考えた。

 壊れた櫓の写真には、石垣が崩れて骨組みがむき出しになった様子が写る。「天災しか考えられない」。井上さんが原因と考えるのは、1921年6月30日に尾張地方を襲った台風。死者5人、倒壊家屋362戸の被害が出ていた。

 この直前の5月に完成した名古屋城の総図には、西南隅櫓の絵が描かれていた。修復は、この年の8月にがれきの撤去や石垣の積み直しを業者に発注し、2年後に終えたとの文書が残る。こうした記録から、井上さんは「この台風で石垣とともに櫓が崩れ、8月から修復に着手したに違いない」と結論づけた。

 調査結果は、名古屋城跡全体整備検討委員会も了承。名古屋城の知識を試す「名古屋城検定」の公式テキストの記載も修正した。

 (北島忠輔)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板