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哲学・宗教質問箱

488Sekko:2010/09/10(金) 01:44:08
神話や宗教
 スルーしようと思いましたが匿名希望様にひと言。

 私が「復活が不思議、何が起こったんでしょう・・・」と書いたのは、復活についてのその後の言説や教義のいろいろな面における他の宗教との影響などとは何の関係もありません。

 キリスト教はユダヤ教と同じくエジプトやバビロンの宗教の神話や典礼の影響を受けていますし、キリスト教が成立するにあたって、別の宗教との置き換えを意識して典礼暦を整えていったのもよく知られた事実です。
 キリストの誕生日を冬至に合わせることに決めた時には、太陽暦の修正法が確立していなくてすでにずれていて、それを修正したにもかかわらず、冬至が21日になっている現在との日付の差は残ったし、夏至も確か同じ理由で聖ヨハネの祝日などがずれたと思います。比較宗教史学はいろいろな興味深い研究がありますから、ネットで拾った安易な「真実」みたいなものは、一人で楽しむだけにしてください。

 歴史研究とか比較研究とか、考古学とか文献考証学とか、何世紀も何世紀も、碩学の先人が積み上げていますが、ある特定の宗教への帰依とか信仰の真実というものは、それらとは別の地平にあるものだと思います。

 キリスト教について言えば、「唯一神がすべてを造り、人は復活して永遠に生きるキリストの体として一体である」というぎりぎりのところを押し詰めれば、キリスト者の使命とはすべての人の兄弟となることだ、と理解できるようになったという神父がいます。こういうシンプルさは大好きです。ここでいう兄弟とは、互いに相手の必要に応じて助け合う存在、という意味でしょう。

誰でも、どこか痛い時には、疾患や療法についての知識の披露を聞くより、痛いところにそっと手を当ててもらうとか優しい言葉をかけてもらうことを望んでいると思います。ここはどちらかというとそういう場所にしたいです。

489あがるま:2010/09/18(土) 03:09:21
<松井冬子「痛みが美に変る」>
日本での学位論文だと云ふ今村純子『シモーヌ・ウェイユの詩学』(慶應大学出版会)にも同じやうなテーゼがありました。
どうやら美女にとつては不幸は美に繋がつてゐるらしい
<認識を阻む不幸の直中で美的感情が溢れ出るところに至高の自由が開かれてゆくウェイユの形而上学において、詩といファクターに着目するならば、私たちは、創造的想像力が構築した『架空の世界』を、すなはち、けつして経験してえない、『無』、『真空』、『ないもの』を、現実の非実在性として認識してしまつてゐるといふ『不思議さ』のうちにある。p.26>
この引用文では難解のやうですが、この本はとても読み易くて博士論文としてのアカデミックな骨格が不足してゐやうにも思はれます。

490:2010/09/18(土) 05:51:38
竹下節子さん
節子さんの本「無神論」を読みました。
具体的に色々書かれていました。
竹下節子さんはキリスト教が嫌になったので、
無神論という本を書かれたのですか?

491Sekko:2010/09/19(日) 00:39:46
無神論の本について
「匿名希望」さま

>竹下節子さんはキリスト教が嫌になったので、無神論という本を書かれたのですか?

そんなことはまったくありません。そう読めたとしたら、私の力不足です。

キリスト教の歴史の中でも、他の宗教もそうですが、どうしても人は「自分」や「自分の家族」や「自分の共同体」の損得や都合によって、神も宗教も変質させていく傾向があり、けれども、それに対して、いつの時代にも、エゴイズムを離れた刷新の力もまた生まれるもので、それによって、「既成宗教」もまた、自分を見直していく、そういう繰り返しだと思います。

キリスト教の中には、人と人が支配関係や依存関係を維持するのに都合よく作られた偶像を破壊する力があると私は思います。(別に他の宗教にはその力がないという意味ではありませんが。)

逆に、キリスト教と称していても、キリスト教信者と称していても、弱い立場の人を従属させたり依存させたり無視したりする個々のケースはあるわけで、そういう場合は、名前が「キリスト教」だからといっても、本質は遠いところにあると思います。たとえ「無神論者」と称している人でも、今目の前に倒れている知らない人をすすんで助けるとしたら、倒れている人にとっては、道路の反対側に渡ってしまうキリスト教信者よりも、「隣人」ですよね。福音書にあるとおりです。

結局は、一人一人が、実際にどうやって他者とかかわって行くかという毎日の実践が問われていると思います。

その意味で、「キリスト者」だと言われるかどうかよりも「隣人」だと言われるように生きたいですが、難しいですね。

492arikui:2010/09/24(金) 23:50:54
司祭になることについて
はじめまして。
フランスの事情に詳しい竹下節子さまに伺いたいことがあります。
最近テレビでフランスでカトリックの司祭・修道女への志願者が激減していて
教区でミサを行い続けるためにアフリカから司祭を招いているというニュースを見てびっくりしました。
世界全体の潮流とはいえ、フランスでさえそうなのか・・・という感じです。
かつては一家から聖職者を出すことは「誇り」のようにとらえられていたと思うのですが(或いは貧しい家庭の秀才にとっては勉強を続けるチャンスという)今のフランス人家庭にとって子供が司祭・修道女を目指すということはどういうとらえ方なのでしょうか?

493Sekko:2010/09/25(土) 23:48:08
arikuiさま
 そうですね。でも、「司祭が足りないから、アフリカから招く」という単純なものでもないです。人口に対する司祭の割合は今でも、フランスはアフリカよりも多いです。
 カトリックでは司祭に叙階される時、特定の司教区か修道院などの所属が決められます。Incardination といいます。五年間以上別のところで働いたら変更も可能だそうです。で、昔はどの小教区にも、所属の司祭がいたんですが、今は、老齢化して、フランスの小教区所属司祭の半数以上が75歳以上です。75歳が一応定年なのですが、司祭不足なのでその半数は現役です。というより、健康状態が許す限りみな続けるようです。
 Pontoiseの例で、181人の司祭のうち、62人がincardineされた人、68人が、他の司教区所属の人(たとえば別の場所の修道会に所属しているとか、企業で言えば出向 立場)、51人が外国人司祭となっています。
 アフリカ人が多いのは、たとえばコンゴなど旧ベルギー領のカトリックがマジョリティの国とかでは、フランス語が公用語だし、フランス語系修道会が根強いので、フランスやベルギーの神学校に入って司祭になる人も多いからです。つまり、言葉を含めて歴史的に関係が深いからです。
 後は、EU拡大で、ヨーロッパ同士の行き来が自由化したこともあり、司祭の数の多いポーランド人司祭がたくさん来ています。人口の規模からいっても、ポーランド人司祭が外国人司祭の中でも多いようです。

 確かに昔は、教育の質のために神学校に行く人も少なくなかったし、一家に一人は聖職者を、という傾向もありました。カトリックの聖職者は独身なので、甥や姪たちにとって持続したスーパーバイザーとしてよりどころになったという側面もありました。

 今はブルジョワのカトリック家庭の子女のグループなどをのぞいて、若くしてカトリックに深くかかわる青年は少ないです。全体として精神的な危機にあたって救いを求める若者はカルト宗教や福音派などマーケッティングがうまいか積極的なグループへと向かいますし、カトリックでも教条主義的なグループとか、「キリスト軍団」のような使命感に燃えたタイプのグループに近づくことが多いです。
 これは、カトリックだけが衰退したということではなくて、今は情報も多く、若者のモラトリアムが許される時代でもあり、すべてについて、昔のように若いうちに「社会での立ち位置を決めて引き受ける」という傾向が減ったことの一部でもあと言われています。昔はたとえば、労働組合の所属は基本のひとつでしたし、結婚も標準でした。今のフランス人は子供は作っても、結婚率はすごく少なくなってます。組合参加率も。

 でも、ある意味で、長い家庭生活を経てから結婚するとか、他の職業を経た後で使命を自覚して聖職者になるとか、自覚的な選択が可能なのは悪いことばかりではありません。
 親が子供の選択をリスペクトする率は日本より高いと思います。

494arikui:2010/10/11(月) 06:49:08
御礼が遅くなりました
Sekkoさま
御礼が遅くなり誠に申し訳ありません。丁寧なご回答ありがとうございました。

>長い家庭生活を経てから結婚するとか、他の職業を経た後で使命を自覚して聖職者になる
ことのベネフィットについては同感です。
問題は「受け入れる」カトリック教会の組織の柔軟性ですよね・・・

495迷える大羊:2010/12/16(木) 22:21:44
東京都「青少年健全育成条例」
 以前から、現都知事が熱心に制定を推進していたこの条例、ついに今月可決されました。それと、キリスト教、宗教に何の関係が?ということは後述するとしまして、とりあえず、この条例がなんなのか?と申しますと・・・。

『非実在青少年』(18才未満の登場人物)の性行為をみだりに性的対象として肯定的に描写した漫画など」を「自主的な区分販売」とし、成人コーナーにしか置かないようにするよう自主規制、です。

 この「非実在青少年」というのが基準があまりにあいまい、との反発をマンガ家、出版社側から受け、「非実在青少年」の言葉が削除し、「刑罰法規に触れる性行為や、婚姻を禁止されている近親者間の行為を、不当に賛美・誇張して描いた漫画など」の表現が加え修正、めでたく?今月条例成立と相成ったわけです。

まあ、この条例については賛否両論いろいろあるでしょうが、その辺はとりあえず脇に置いといて・・。

 個人的に気になるのは、この条例によれば、旧約聖書の「マンガ化」はアウト、思いっきり「成人指定」の範疇に入ってしまうんじゃないのか?近親相姦、ノゾキ、レイプ、親子どんぶり・・などなど、「健全な青少年の育成」に「有害」な要素がテンコ盛りやないか!とふと考えてしまったのですが・・。

 これから東京都下のキリスト教書店などにおいてもマンガ化された聖書本は、一般の神学本、エッセイとは隔離して「成人コーナー」に置かないとならなくなるんですかねぇ?あと、日本を代表する古典文学「源氏物語」も相当にヤバいんじゃ?
 これも、マンガ化されたものは今のように呑気に一般の受験本と並べて陳列、っていうのはダメなのでしょうかね?

 あと旧約聖書が日本・東京で「成人指定」を受け、エロ本扱いされた場合、イスラエルあたりを筆頭に世界の一神教の国々がどのような反応を示すかも気になるところですね。

 しかし、個人的には「青少年健全育成」(偽善ぽくて嫌いです、この言葉)に「有害」なコンテンツは他にいくらでもあるだろうに、なんでマンガ、アニメなんでしょうね?とりあえず、叩きやすいところから叩いてるとしか思えないんですが・・。そもそも、エロマンガの流通と「青少年健全育成」だの、実際の性犯罪だのに本当に何か関係あるんですかね?

 旧約聖書についても、やれ性的に乱脈だとか、矛盾しとるやないか、と散々ツッコミを入れてきましたが、あれが、やたらと「清らか」で「健全」で単純な「勧善懲悪」な話ばっかりだったら・・・。確かに理解はしやすいかもしれないけども、恐ろしく単純で図式的な、感動的ではあってもどうにも底の浅い、それこそ「マンガチック」な有様にとっくに飽きがきて白けきってるかもしれませんね。

 先生はじめ、皆さんはどうお考えでしょうか?

496異邦人ヨハネ:2010/12/18(土) 17:41:59
迷える大羊さん、心配不要では
確かに旧約聖書には人間の悪い行いが書かれていますが、それらを「肯定的に描写」しているのでありませんから、条例違反と判断されることはないのではありませんか。

497迷える大羊:2010/12/19(日) 13:03:37
(無題)
>確かに旧約聖書には人間の悪い行いが書かれていますが、それらを「肯定的に描写」しているのでありませんから、条例違反と判断されることはないのではありませんか。

確かにレビ記では主はモーゼに近親相姦はダメって言ってますね。でも、あからさまにそのタブーを犯している連中(サラはアブラハムの妻であると同時にアブラハムの父テラの妻でもある)に何のおとがめもないですし、親子で交わったロト父娘に対しても主より非難やお仕置きが加えられた形跡は・・。
 それどころか、「オナニー」で有名なオナンが交わるべき相手は兄貴の嫁さんですし。ダビデなど部下の妻に横恋慕し、風呂をノゾき、ものにして、旦那は職権でもって最前線の戦場に送りこみ戦死させ・・、鬼のような男ですね(でも、マタイの福音書ではイエス様のご先祖)。ダビデに対しては一応、お仕置きはあるにはあるんですが、何にもやってないヨブが悲惨な目にあわされていることを考えると、随分、罰が軽いっていうか、エコひいきされているよな、やっぱり、アウト、まずいなぁと個人的には思います。

 まあ、「マンガ」にしなけりゃいいんですけどね。しかし、エロマンガ、エロアニメ、その他エロ本の流通と青少年の「健全」な育成だのって本当に何か関係あるんですかね?
 こんな「聖典」を常日頃読んでるクリスチャン、ユダヤ教徒、ムスリムは「変質者予備軍」なんでしょうか?

 大体「肯定的に描写」しているかどうか?なんて誰が何の基準を元にして判断するつもりなんですかね?
 そもそも、条例でいう「健全な青少年」というのがどういう定義なのかわかりませんが、条例の内容を鑑みて、とりあえず性犯罪を犯さない青少年、と定義することにして、未成年の性犯罪ってそんなに増えているのか?統計、データをあたってみましたが、そんな傾向は全然見当たらない、むしろ近年はえらい勢いで減ってますけどね。

http://www.npa.go.jp/toukei/keiki/hanzai_h21/h21hanzaitoukei.htm
(平成21年の犯罪(警察庁))

http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Rape.htm
(少年によるレイプ統計、未成年の強姦犯検挙人数と少年人口(10歳〜19歳)10万人あたりの比率、元ネタはやはり警察庁統計書)

 ただ、これらのデータは日本国全体を対象にしたデータで、「東京都のみ」に絞ったデータは発見できませんでした。また、エロマンガ、エロアニメとの因果関係を調べたデータも今のところ発見しておりません。
 東京都側、現都知事側でそういうデータを持っているのかもしれませんね(棒読み)。

498Sekko:2010/12/20(月) 07:23:17
この話、
東京都の条例って言うところが、知事さんのキャラやキャリアから考えてなんだか、笑える感じがしますね。彼の昔の小説なんかは映画化はされてましたけれどマンガやアニメはなかったんですね、きっと。

そう言えば私は前に、旧約聖書のマンガ化について監修などのお話を相談されたことがあります。でも、そういう細かいこと考えつきませんでした。

よく猥褻物の基準として「劣情を刺激」というのがありますよね。あれもなんだか笑えますね。別に肯定的とか賛美とかじゃなくとも、否定的でも「劣情を刺激される」ことはシチュエーションによってあるでしょうけど。

そういうことを言い出したら、なんでも、マンガとかアニメでビジュアルに表現してしまったら、想像の余地は減ってしまって、タブーの持つ刺激も少なくなるんじゃないかなあ。

まあ、年齢やシチュエーションによってはもう何をどのように見ても聞いても読んでも劣情を刺激されちゃう人もいるでしょうし、そんな心配をするなら、青少年の鬱病や自死の問題の対策を立てる方が急務のような気もします。

後、キリスト教圏の人がどうこう言うよりも、すごく正直に言って、劣情を刺激するだけの表現テクニックなら日本人の方がはるかに進んでると思いますよ。屈折しているのかなあ。ラテン系の人とか一般に単純だと思う。普通のフランス艶笑ジョークとか、日本人には全然おかしくないと思うのは私だけなのかなあ。もちろん頽廃的で倒錯的なすごい文学もフランスにはあるわけで、あくまでも平均レベルの話ですけど。

個人的には、あまりにも進化した日本製のひどいマンガやアニメがフランスに入ってくるのは嬉しくないですし、私がもし、妻とか娘とか恋人とかを愛する男だとしたら、ものすごく嫌だと思います。そういうものがあるからこそ、何が嫌なのか、とか、自分が大切にしたいのは何なのかとかを気づかせてくれるという面もありますね。

499迷える大羊:2010/12/20(月) 22:43:31
「健全」って何?
 お断りしておきたいのですが、別に私だって「いかにも」といったキャラが性器むき出しでナニをしているシーンが露骨なエロアニメ、エロマンガのあからさまな氾濫を肯定しているわけではないですよ。倫理というよりは趣味の問題ですけど。

 でも、この手の問題って結局のところ客観的な基準を設けることが難しい、というか不可能じゃないですか。それにそういったものを不自然に排除した社会が本当に「健全」なのかどうか?はなはだ疑問で。

 それに「青少年の健全な育成」とはいうけれど、自分の子供時代を省みても、大きなお世話っていうか、子供をあまりにバカにしすぎてないですか?という疑問もありますね。

 日本製のアニメやマンガがどうして世界でどうしてウケたのか?というと、いろいろ理由があるけれど、子供だからこの程度でいい、といった「手抜き」がないことがあると思います。つまり、日本製アニメやマンガの登場以前、世界の大抵の国々でマンガやアニメといえば「子供向き」、子供相手だから、この程度の話、なるべく「健全」で「当たり障りのないもの」という呪縛にとらわれていたところが多かった。でも、子供は大人が勝手に考えるほどに世間知らずでも、ものを考えていないわけでもない、自分自身の子供時代を省みても、そういう「手抜き」とか「偽善」は意外とわかっちゃいます。

 そんな中、そういった呪縛に囚われない、子供相手だからといって「手を抜かない」ストーリーやクオリティで作り込んだ日本製アニメがタイミングよく出てきた、というところが大きいと思うのです。
 例えば、40代以下の日本人、特に男性なら大体名前くらいは知っているアニメに「機動戦士ガンダム」なんてのがあります。ロボットがドンパチを展開するアニメ、ってことで内容を知らないと子供向けそのものに見えますが、宇宙植民地の独立闘争とか、人類の進化とか、中間管理職の立場の苦しさ、あと、なんといっても勧善懲悪ではなく、敵側にも彼らなりの正義とか理想があるし、主人公の側にもずる賢い人物が結構いて、一筋縄ではいかないキャラクターばかり、どうみても大人にならないと理解できそうにないストーリー(少なくとも一部のおバカなハリウッド製アクション映画よりは、はるかに「大人」な内容)にも関わらず、子供たちにバカ受けし、関連商品のプラモデルはデパートで奪い合いになるような大ヒット。
 初回放送から三十年経った今も人気は廃れず、「国民的アニメ」になってます。あれが、明るくて「健全」な少年が主人公が「悪い」敵をやっつける内容なら・・、例え子供時代でも観る気なんておきませんね。
 今回の規制が東京都限定とはいえ、日本のマンガ、アニメの衰退のはじまりにならなきゃいいけど、と思う次第。日本のマンガが「スーパーマン」みたいな単純、無難きわまりない、「健全」な「勧善懲悪」ものばっかりになるなんて、考えただけでゾッとします。

 ここで引き合いに出した、旧約聖書にしたって、いろいろツッコんできましたが、あれが「健全」な内容だったら、さぞかし「つまらない」代物だと思います。聖書解説本の中には旧約聖書(新約もだけれども)の毒毒しい部分はカットして、見て見ぬふりをして、当たり障りのない、誰にでも理解できる道徳的な部分しか紹介しないものがありますが、一体、何を考えているんだろう、と思ったりします。実際、それではキリスト教、ユダヤ教は単なる「道徳」とは似て非なるもの、という本質的なところがわからなくなるんじゃないでしょうか?

 

500りゅう:2010/12/23(木) 08:29:52
聖Sekkoによる救い?
カトリック生活1月号の「カトリック・サプリ」を読ませていただきました。
よくわからない点があったので質問させてもらいます。

「でも、神の愛が永遠だとしたら、やぱり永遠の地獄などない。一人で這い上がれなくても、誰かがきっと手を差し伸べてくれる。地獄にいるときはその手をつかむ勇気をもとう。天国にいるときは手を差し伸べる勇気をもとう。」(カトリック・サプリ 最後の段落)

これは、まだ生きている状況のことを言っているのでしょうか。
それとも、死後の話をしているのでしょうか?

死後の話だとすれば、これは完全に異端説になると思います。
神が救ってくれないなら、わたしたちが救おうと言っているように見えます。わたしたちに人を救う力があると言っているのでしょうか。
人を救えるのは神のみで、わたしたちはそのお手伝いをするだけでしょう。
また、地獄に落ちてしまったなら、それを神の意思として受け入れるのではなく、天国にいる神ではない誰かに助けを求めようと言っていますね。

つまりは、
「救いに関しては、もう神様など関係ない。わたしたちで勝手にやりましょう!」
と言っているように見えます。


上のカトリック・サプリの文章は、とても優しい文章に見えて、実は神不在のまま救いを進めようとしている、とても恐ろしい異端説に思えます。
わたしたちの救いはイエスからのみでしょう。
それとも、主イエス以外にも、「聖Sekkoとその仲間たち」による救いも別にあると説いているのでしょうか?

解説をお願いします。

501Sekko:2010/12/24(金) 04:16:06
りゅうさまへ
誤解を与えてすみません。

死後のことは私には分からないので、とりあえず、ここでは、生きているうちに「天国にいるような気分だ」とか「地獄にいるような気分だ」とかいう精神状態の意味だと考えてください。

その前のところで、神の愛の関係性においては生と死とか時空は関係ないと書いたので、死後だとか生きているうちだとか限定しなかったのです。


実はこの部分を書いていた時にははっきりと、LYTTA BASSET という女性牧師で神学者が人間の脆弱さとキリスト教について書いたエッセイが頭にありました。

『LA FRAGILITE faiblesse ou richesse? 』(ALBIN MICHEL)

この人のことは前にも『カトサプ』で書いたことがあるのですが、息子さんが自殺した後でどのように喪を生き、生き続けたかという貴重な体験を語ってくれる人です。

その中で彼女は、ラザロが死んで悲しみにくれているマリアとマルタの姉妹の様子が描かれた福音書のシーン(ヨハネ11)について解説しています。

姉妹はラザロが病気なのでイエスのもとに使いをやって助けを求めたのですが、イエスはすぐに動かず、ラザロは死んでしまいます。姉妹は絶望します。

埋葬後四日も経ってからようやくイエスが到着するのですが、その知らせを聞いて、マルタの方は、すぐに迎えに行きます。ところがマリアは家に引きこもったままです。絶望のあまり、イエスの到着の知らせも耳に入っていなかったのでしょう。

で、先にイエスに出会ったマルタがうちに戻り、マリアを呼んで「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちします。これを聞くとマリアはすぐに立ち上がってイエスのもとに行くのです。

このことからリタ・バセは、人は愛する人を失った絶望の中にいる時には、主の呼びかけも聞こえないことがあるが、そんな時でも、他の人が手をさしのべてくれると起き上がれることがあるのだ、と言っています。マリアが立ち上がることができたのは、自分の意志ではなく、マルトが耳打ちしてくれたからなのです。

愛する人を失うような絶望のどん底で、神の声がきこえない、というのはいわば「地獄」の状態で、そんな時には人はなかなか自力で脱出できません。でも、知らせにとびついて先に駆けつけてイエスの声を聞けたマルタが耳元でささやいたことでマリアに知らせが届いたように、知らせに耳をすましているような幸せな人に助けてもらえれば、誰でも絶望から脱することができるかもしれない、という話です。

思えば、聖人と呼ばれる人たちは、まさにその役目を果たしてくれる方たちなのでしょう。

いわゆる崇敬の対象になる聖人たちはキリスト者の生き方の模範として推奨されているわけです。でも、誰でも、生きているうちに、周りの人よりは元気があるとか余力があるとかいう人、恵み感じているような人は、自分の周りで苦しんでいたりぐったりしたりしている人に声をかけたり助けたりしなさい、と言うことだと思います。それは地獄にいる人を救えるとか救いなさい、という話ではありません。「先生がいらして、あなたをお呼びです」と、取り次ぎをしなさいという話で、誰でもその役目に招かれているのだと思います。

リタ・バセは、人は毎日寝て起きるように、そうやって、小さな死、喪失を経験しながら、それでも、呼ばれ、陽に照らされ、再び目を覚まし、生き始めるのだとも言っています。(彼女を息子の死という「地獄」から出るようにと導いてくれたのは、聖母マリアでした)

私も、毎日少し落ち込んだりしていても、究極の救いに信頼を置いている人たちのメッセージには励まされて、そのうち、また起き上がることができます。

連載では言葉が足りなくて申し訳ありませんが、この文を補足させてくださってありがとうございました。りゅうさま、みなさま、メリー・クリスマス!!!

502りゅう:2010/12/25(土) 00:05:55
解説ありがとうございました
解説ありがとうございました。

カトリック・サプリの中盤くらいに、個人的に異端だと思っているテイヤール・ド・シャルダンの引用があったり、ニーチェが出たりと、かなり疑いながら読んでいました。
ド・シャルダンが否定している地獄は、間違いなく「死後の地獄そのもの」でしょう。

また、解説を受けた今も「神の愛が永遠だとしたら、やっぱり永遠の地獄などない」の表現は良くなかったと思います。

辛いことや悲しいことを経験すると、自分の人生を『永遠の地獄』と思い込むこともある。そのような時「天国の状態にある人」は手を差し伸べる勇気を持とう。
解説を読んだ今は、そのように受け止められます。

しかし、ド・シャルダンの引用があり、その後に『神の愛が永遠だとしたら、やっぱり永遠の地獄などはない。』と言われると、死後の地獄を想定すると思います。

ここで解説してもらえて安心しました。
質問をしたおかげで、新たな良いお話も読めて、カトリック・サプリを二度楽しむことができました(^ー^* )♪

メリー・クリスマス♪

503迷える大羊:2010/12/31(金) 08:55:50
アカのイエス?
 聖書読んで、イエス様のお言葉について、いつも気になるのは、どこまでが本気?どこまでが冗談?どこまでが譬え?どこまでが挑発、皮肉?なのかが今一つ判然としないこと。

 その中でも、特に気になるのは「金持ちの青年」の話(マタイ19章16−30、マルコ10章17-31、ルカ18章18−30)

 何がか、というとイエスって私有財産制を否定しているのかな?今でいうところの共産主義者(それも過激な)なのか?ってこと。
 それも財産だけならまだしも、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑、みんな捨てろ、といっているのだから穏やかではないですよね。

 字句通りに読むなら、共産主義的な平等社会を理想として、しかも、出家のような形で教団みんなが加わることにより実現しようとした、ととれますが。

 しかし、出家っていうとオウム(現アレフ)の「出家信者」を連想してしまって、どうにも落ち着かないです。個人的に・・。あと「親兄弟を捨てろ」のくだりは、スターリン政権下のソ連や文化大革命中の中国といった旧共産圏で、「反党分子」は親兄弟であっても告発、密告した歴史を思い浮かべてしまい、ぎょっとします。
 もしかして、イエスが処刑されず生き延びていたら、スターリンや毛沢東ばりの独裁者になっていたんだろうか?と失礼かつ恐ろしい想像すらしてしまいます。

 それとも、現実には不可能であることは承知で、あえて弟子や、弟子志願の青年の「覚悟」を試す意味で「言ってみた」だけなのか?どう解釈すればいいんでしょうね?

 字句通り解釈すれば、高額所得者、セレブのクリスチャンは「あり得ない」話ですし、クリスチャンは全財産を捨て去り、無一文にならなければならないことになりますね。
 これですと、十一献金どころの話、騒ぎではなくなってしまいますが・・

504迷える大羊:2010/12/31(金) 09:11:18
ダビデへのエコひいき
 連続投稿失礼します。旧約聖書を読んで思ったことなんですが・・。主はどうして、ダビデに「甘い」んでしょうか?
 これまでに何度か触れましたけど、トンでもない男ですよね。

 人は殺しまくり、部下の妻、人妻の風呂を覗いて、横恋慕して、ナニをして、旦那は最前線の戦場に送り込んで亡き者にして・・・、鬼畜の如き所業。この哀れな旦那の他にもダビデに殺戮された者は数知れず・・。

 一応、主も彼にお仕置きはしているんですけど(寝取った部下の妻パテシバとのの赤ん坊は亡くなったり、領民が殺されたり)、彼が行ってきた殺りく行為、レイプの数々と比較して、どうにも軽い感じがするのは否めない、なんといっても彼自身は無事だし、と思うのは私だけでしょうか??

 なんといっても主、神様がおかしいのは、後世の王様を残酷な目にあわせるとき、いつも、都合よくダビデの所業を忘れて

 「しかし、我が僕ダビデが私の戒めを守り、心を尽くして、私に従って歩み、私の目にかなう正しいことだけを行った・・」(列王記上14章8節、新共同訳聖書より)

 あまり、主に向かってこんなこといいたくありませんが、「アホですか?どこに目をつけてるんですか?」といいたくなります。
 一体、ダビデのエピソードで旧約聖書の記者はどんなメッセージを送りたいんでしょうか?主の御贔屓にあずかれば、どんな悪さをやってもOKとか、世の中力がすべて、という身もフタもない不条理な教訓しか読み取れませんが・・。

 それにしても、私もダビデのように主の御贔屓にあずかれればなぁ、と思う次第。

 よい御年を。

505Sekko:2011/01/06(木) 06:58:48
謹賀新年
年末年始でバタバタしていてお返事遅れてすみません。

まず最初の話。

金持ちの青年の救いの話の方ですが、これについてはいろいろな人が解説しているし、説教も読めるので、ネットで検索してみてください。

ポイントは、後半にあるのだとは言えます。

つまり、金持ちが天の国に入るのはほとんど不可能(だってらくだが針の穴を通る方より難しいんですからね)なのですが、そういういろいろな掟だの条件を超えて、

「人間にできることではないが、神には何でもできる」

というところであって、人間が掟をあげつらって完全になるとか天国に行くとかについて仕分けすることはできない、というのが分かります。

確かに初期キリスト教会はかなり原始共産制に近かったですが、それはイデオロギーではなかったし、支配のツールでもなかったわけです。

次のダビデの依怙贔屓ですが、これはもう、キリスト教的には、ナザレのイエスが人と神との新しい関係に入って行くにあたって、どのような文化的、歴史的、宗教的な文脈に現れたのかということを知るための大きな流れとして読んでいくしかないですね。

まあ、政治や権力を担う人を宗教のリーダーになる、あるいは、宗教のリーダーが政治や軍事のリーダーになると、いつの時代も結局は大変なことになるわけで、だからこそ神はついに自分の独り子を武器を持たさずに送りこんだということになるのかもしれません。

ダビデというと、去年の夏に広尾の山種美術館に行くために恵比寿から歩いて行くとミケランジェロの巨大ダビデ像の型どりコピーが道路沿いに立っているのでびっくりしたのを思い出します。ゴリアトを投石で殺した若きダビデはそれなりにオーラがありますが・・・

アメリカのメガ伝道師たちは、アブラハムもダビデもソロモンも経済的に恵まれていたのだから宗教的指導者が経済的に恵まれることは望ましいのだと堂々と言ったりしているようなんですが、これはもう、キリスト教と違いますよね。

キリスト教のメッセージで何が本質的なのかというのは、素直に読めばキャッチできると思います。多分大羊さんも分かっていらっしゃるのでしょうが、どうしてもダビデの所業やその評価なんかが気になるあたり、それは、ひょっとして、別のレベルの不信感が形を変えて現れているような気がします。まあ、今年もぼちぼち行ってください。

506迷える大羊:2011/01/06(木) 22:06:32
明けましておめでとうございます
 いつも、御世話になります。不快な表現もあるかもしれませんが、これでも、聖書は私なりに真面目に読んでいるつもりですし、キリスト教についても真剣に考えているつもりです。信じていただけないかもしれませんけど・・。というか、真面目に、真剣に聖書を読んだり考えたりすると、却ってワケわかんなくなりますね。
 まあ、単に察しが悪いだけかもしれませんが・・。そういえば、ペテロも察しが悪いというか、いまいち空気が読めないところがあって、イエスによく叱られる印象がありますね。なんていうか、絶妙なボケとツッコミというか・・。

>だからこそ神はついに自分の独り子を武器を持たさずに送りこんだということになるのかもしれません

 しかし、現実にイエスについてきたのは、どう考えてもダビデタイプの救世主を期待しているユダヤ民族主義者が大部分で・・。なんでまた、イエスってこんな過激派を連れて歩いたんでしょうね?いずれ、彼らの怒りやら憎しみやらを買い、裏切りを招くことはわかりそうなものなのに・・。また、どうして自分は旧約でいうところのメシアとは違うってあっさり認めなかったのかな?とも。

>ゴリアトを投石で殺した若きダビデ

 重箱の隅をつつくわけじゃないんですけど。私は以前、ダビデは投石一発でゴリアテを殺した、とばっかり思いこんでいたんですが、聖書を真面目にじっくりと読んでみると違いました。
 確かにダビデの投石はゴリアテの額に命中するんですが、致命傷にはなっておらず、戦闘不能に陥らせただけ。そこから、ダビデは倒れたゴリアテに駆け寄り、ゴリアテの腰に差している剣を奪い、とどめを刺し、首をちょん切って絶命させた・・、というのが聖書の記述ですね(新共同訳聖書 サムエル記上17章49〜51節)。
 聖書を真面目に読んでみると、聖母マリアとかイエスの誕生(馬小屋で云々)とか、教会や一般的に信じられている伝承と実際の聖書の記述って微妙に、あるいは全然違っていることが多くて、なんだか戸惑ってしまうことが多いです。

 それにしてもなぁ、ダビデに関してはやっぱり納得がいかない、どう考えても神様を一番ナメている人物としか思えないんですが・・・(笑)。

507今紫:2011/01/08(土) 23:49:46
謹賀新年
 竹下先生、明けましておめでとうございます。そしてお久しぶりです。

 昨年は複雑な年でした。サタンが勢力を伸ばしているようです。
さて、先生の著書である『陰謀論にダマされるな』を拝読しました。確かに事件やスキャンダルの裏には陰謀が存在するといわれますが「陰謀論」になりますと、却って物事の判断を誤らせる危険性があることを知りました。私は中丸薫氏やベンジャミン・フルフォード氏の著書やサイトを拝読することがありますがこれも決して惑わされないようにすることが大切なのですね。
 おしまいに著名なエクソシストのアモルス師の言葉で覚えている箇所があります。
 「オカルトの木は真の信仰が翳ると育つ」
 イエス様が「偽預言者には警戒せよ」とおっしゃっているのと同じです。真の信仰をゆるがせる「陰謀論」「カルト」「ニューエイジ」「マシューブックス」に対してどの様に接したらよろしいのでしょうか?
 『聖者の宇宙』も拝読しました。改めて聖人の世界を味わうことができました。どんな英雄や偉人、新宗教(カルト)、各宗教の原理主義も彼らには敵わないでしょう。本年の活躍を期待いたします。

508迷える大羊:2011/01/09(日) 12:41:06
不信感
 >不信感

 ああ、これはですね。まあ、以前から抜けない疑問、でこちらでも何度かお話しさせていただいてはおりますが、キリスト教やクリスチャンの世界では、聖書にどんなに理不尽な話、明らかにひどい話があっても、「これは何か意味があるに違いない」「いや、聖書は侵略、略奪行為を正当化などしていない」なんて無理やり思いこまなければいけないんですかねぇ・・ってことですね。

 正直、私、旧約聖書にはどうにもついていけないものを感じることが多くって。ダビデの話なんてまだいいんです。どうにも個人的に「これは問題だ」と思わざるえないのは、ヨシュア記。

 神様はイスラエルの民に「足の裏が踏むところすべてをあなたたちに与える」と約束。しかし、そこにはすでに異民族が居住。で、主はどうしたか、っていうと、城門を閉じて抵抗する(当たり前ですね)現地人(異民族)への攻略方法をイスラエル人に指南した上、略奪行為に「お墨付き」を与えているのですから恐れ入ります。
 とにかく、イスラエル人に占領された異民族の街は男も女も若者から老人に至るまですべて抹殺されたのだからすさまじい限り。

 これ読むと、「ああ、道理でパレスチナ問題は解決しないはずだ・・」とため息が出てきますね。第三者や非ユダヤ教徒、非クリスチャンからすると「超勝手」「自己中」、としか言いようがない理屈、所業でも、イスラエルの民、ユダヤ教徒からすれば「主のご命令」だし、占領地は「約束の地」なのですから、話がかみ合うわけないですし。

 でも、私がわけあって関わっている教会(プロテスタント)の牧師さんなんかは「聖書は侵略、略奪行為を決して正当化していない」って言い張るんですよね。察しが悪く、素直でもない私などは「ええ??どこをどう読んだらそんな風に解釈できるんだ〜??」と頭を抱えざるえないんですが・・・。
 ていうか、クリスチャンの世界じゃ、たとえ聖書でもおかしい個所はおかしい、っていったり考えたりしたらいかんのかなぁ、という疑問と、何か必死に自分の理論を正当化しようとして、歪曲に歪曲を重ねている姿が見えてくるようで、白けてしまいました。

 どうも、聖書の過剰な神聖化は考えものだなって思うのと、別にカトリック関係者のサイトだからいうわけではないのですが、聖書に対する接し方とか距離の取り方はカトリックの方が「健全」かもなぁ、と思った次第です。

 あと、私のイエスやキリスト教についての考え方っていうのは、時に過激なこと、首を傾げたくなるようなことも言ったりやったりする、胡散臭いところもあるけれど、でも、その教えや生きる姿勢には共鳴するし、この社会において様々な良き部分を担ってきた、特にあまり目に見えない部分での良き部分を担ってきた、その存在が世の中や自分を良い方向に変える可能性を信じます、といったもの。

 しかし、「この程度」ではクリスチャン失格みたいなんですね。「それじゃ、ガンジーなど、一般の偉人と同じなんです、信仰にはならないんです」のだそうです。さらに「イエス様がこの世に来られたのは人が虫けらになったことに匹敵するすごいことなんです」なんて熱く語られてしまいました。
 キリスト教にシンパシーはこれでもあるんですが、そこまで「強烈」に「信じる」ことを求められるんじゃ、厳しいな、と思った次第。

 ところで、うまく言葉で言えないんですが、先生やこちらに集う皆さんの信仰の「度合い」ってどの程度のものなのでしょうか?やはり、私程度の「信仰」は「甘すぎる」「生ぬるすぎる」ものなんですかね?

509Sekko:2011/01/10(月) 07:21:46
今紫さま
ご愛読ありがとうございます。

確かにキリストも釈迦も、呪術的な世界から人々を解放しようとしているのはすばらしいと思います。

それでも人は自分や大切な人の老病死などを前にすると、どんなあやしいものにでもすがってしまいますし、神仏も願いをかなえてもらう取引相手のように見てしまったりします。最悪の場合は、自分や自分の大切な人以外の利益や安全は損なわれてもいいくらいの気にもなりかねません。だとすると、「サタン」はきっと私たち一人一人の心に潜んでいるのでしょう。それを飼いならし、すべての人にとってそれぞれ一番いい道が開けるようにと願うばかりです。

今紫さんにとって今年が充実したものとなることをお祈りします。

510Sekko:2011/01/10(月) 08:24:56
大羊さま
まず最初に、これは、「善意の近所のおばさん」程度のスタンスでのお答えなんで、それ以上のものではないことをお断りします。

大羊さんが、もし、そんなに、

「聖書についてみんなと同じように考えるのでなくてはうちの共同体の仲間に入れてやらないよ」

だとか

「うちの仲間になるのなら、うちの考え方に完全に合意しなくてはならないよ」

というタイプの共同体と関わっているとしたら、大羊さんが向こうを変えることは絶対にできないと思うし、よほど洗脳されない限り納得できることもないと思うので、細部にこだわって悩むのは時間の無駄だと思いますよ。

キリスト教は旧約部分を聖典に取り入れることでキリスト教が歴史的にどう位置付けられてユダヤ教を普遍宗教として仕上げるに至ったかを明らかにしているわけですが、

民族宗教であるユダヤ教の文脈では神さまは明らかに民族神であり、氏神みたいなものですから、他民族の利益なんて眼中になくても自然な感じがします。

でも、多神教が一般だった世界から、「私だけを拝め」とオンリーワンの方向に進化したユダヤ教の一神教体質のおかげで、地縁血縁を超えたすべての人がキリストの名のもとで救われるという普遍宗教が誕生したのだから、普遍主義擁護の私の立場としては感謝です。

イエスもユダヤ人によるバイアスのかかりまくっていたユダヤ教を普遍的な隣人愛に敷衍ししてくれましたし、神との契約や律法を解釈する人々の恣意性を批判しました。それに続く人たちも、人種民族性別立場の差を超えて誰もがキリストの体の一部として永遠に生きる有機体を構成しうるというイメージを与えてくれたので、その連帯生命力の可能性の前では、旧約のヘンなところのごり押し正当化など、無意味というよりマイナスととられても無理ないですね。

普通のキリスト教シンパの人は、ただ、自分より弱い者や小さい者を気づかう、大きくて強いものより小さくて弱いものを優先する、という教えだけ、実践をできるだけ心がけるだけでよく、キリストやキリスト教の名のもとにそういうことを実践している人を助けたりリスペクトするだけでいいと思います。

もちろん他の宗教でも同じような利他の勧めはありますし、それは結局、あまりもの極端なエゴイストは人間の歴史の中で結局自然淘汰されて、ある程度の利他に価値を認める遺伝子が生き伸びて社会を構成してきたからだと思います。そういう意味で利他には普遍性があります。

もちろん、強いものが弱いものを縛り支配するという社会もいつの世にもあるわけですが、そんな時に、いつも勇敢で身を賭しても弱い人を救ってきた宗教者や信仰者は出ましたし、その価値は測りきれません。

キリスト教の場合、イエスを偉人として見ているだけではなく、その復活と聖霊降臨の場面で何かが起こったことによる信仰が核になっているので、それに関しては、その意味がインスパイアされるかどうか、または「回心」に至る歩み方は、人それぞれだと思います。

大羊さんの場合、大切な奥さまの関わる共同体ということで、どうしても「理解したい」と思われるのかもしれませんが、

じつは、最近ついブログ http://spinou.exblog.jp/15742118/
に書いちゃったんですが、他宗教とのすごく楽で平和な共存方法は、その共同体のことを宗教だと思わずにカルチャーだと思えばいいのではないでしょうか。

もちろん、信じている人たちにとっては宗教であるのですから、それを否定するわけではありません。でも大羊さん自身はまだ宗教を求める心になっていないし帰属欲求もない、だからその共同体を「大羊さんにとっての宗教」として吟味する必要もないということで、カルチャーとしてリスペクトすればいいのでは?

夫婦に別々の愛読書があったり、別ジャンルの音楽が好きでも、互いにけなしたり強要したりしなければ、理解をしあって棲み分けたり、たまに相手の好きなコンサートにつきあったりと、平和で豊かな関係が築けるのと基本的には同じだと思います。

本当に内面的な神との関係などは別でしょうが、所詮人間が集まって作る共同体には、その時々の組み合わせで特殊な展開をすることは大いにあると思います。

大羊さんのように健全な批判精神と奥さまを思いやる心があれば、きっといい方向に行くと思いますよ。今年がいい年でありますように。

511迷える大羊:2011/01/13(木) 04:43:34
聖書に従う、とは??
 いつも、お忙しい中、御丁寧に恐れ入ります。ところで、どうして私は、「それは聖書にいかに書いてあるかで判断します」とか「聖書は誤りなき神の御言葉」なんていっている人々をみると、イライラして、聖書のヘンなところをいろいろあげつらいたくなるのだろう?とあれこれ考えてみました。もちろん、聖書とか神だとかイエスだとかを貶めているわけでもなければ、バカにしているわけでもありません。

 で、結論としては、その「ウソっぽさ」もさることながら、自分の意見や自分の好き嫌いにすぎないものを「聖書の権威」を借りて正当化したり、自分の意見に対して自分自身で責任を持とうとしないその姿勢(それは神の御意志ですとか、聖書に書いてあるからとか)に苛立ちを感じるんだ、と気付きました。

 例えば、キリスト教の世界では同性愛者に大抵否定的です。で、同性愛者に否定的なクリスチャンは大抵、「聖書に罪と定めてある」と、聖書を引き合いに出します。これが、私からすると、非常に「ウソ臭く」感じてしまうのです。じゃあ、そんなことをいっている人々、そのように言うクリスチャンって、本当に聖書に定めたとおりの生き方をしているのか?って話です。

 確かに「同性愛者は死ななければならない」(レビ記18章22節、20章13節)と聖書にありますが、同じように、「反抗的な息子は殺せ」(申命記21章18節以降)と書いてありますし、また、「結婚している兄が死んだら、家系を絶やさぬように、弟が兄の妻と再婚しろ」(参照:申命記25章5節以降)とか、その他、面白いのとか過激なのとかが、いろいろありますが、そういった掟を全部守っているクリスチャンがいるかと言えば、そんな人は世界中探しても、まずいないでしょう。

 にも関わらず、同性愛の禁止(とか自分の個人的な主張、趣味趣向に沿う部分)に関してだけは敏感になって「聖書に書いてある」と言い出す人がいるわけです。
 自分が守ってもいないし、従ってもいないくせに、その聖書を盾に自分の主張を正当化する、聖書を自分の目的のために都合よく利用する、という根性が気に食わないのです。

 こういうことを言いだす人々って、聖書の記述で、自分が守り切れない、あるいは納得できないものは「神はこのような不完全な私をも赦してくださいます」などと言って逃れ、
 自分が守る必要を感じないものについては、「これはユダヤ教の律法であって、キリスト教はこれを克服した」などと言ってスルーし、 自分でも守れるな、これは、と思ったものについては順守を頑固に主張する、と・・。

 要するに、判断をしているのは自分の主観であって、聖書はそれに後から理由をつけるために都合よく利用しているだけだろ、と言いたくなってくるのです。自分の主観に過ぎないものを、神の意志、聖書の意志であるかのように称するのは、自分で判断したことや発言したことに対して自分で責任を取らない事にもつながるんじゃないの?それってある意味、聖書やイエス、神に対する冒涜なんではないの?と思うのですが・・。

 まあ、キリスト教に限らず、信仰にはこういった独善に陥る危険性は多かれ、少なかれ付きものだと思いますが、このような独善に対しては、どのように対処、あるいは自制すべきなのでしょうね?

512arikui:2011/02/14(月) 21:31:34
ようやく
質問ではないのですみません。ようやく日本でも「神々と男たち」が見られることになりました。お蔵入りかと心配していたのですがシネスイッチ銀座で3月5日から公開されます。ブログを拝読して興味を持っていたので楽しみです。

513:2011/02/19(土) 23:54:37
ルカの福音書第16章
ルカの福音書第16章は聖書中の最難関といわれています。不正な管理人のたとえが記載されています。

イエスは、弟子達にいいました。

主人に一人の会計管理人が雇われていました。この男は主人の財産を無駄使いしていると告発する者がいました。主人は会計管理人を呼んでいいました。

「あなたのことについて聞いていることがありますが、本当はどうなのですか。会計の報告を出しなさい。管理を任せておくわけにはいきません」

会計管理人は考えました。

(どうしようかな。主人は私から会計の仕事を取り上げようとしている。土方をする力もないし、乞食をするのも恥ずかしい。そうだ、いい考えがある。会計の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような人を作ればいいんだ)

そこで会計管理人は主人に借りのある人を呼んで、最初の人に

「私の主人にいくら借りがあるか」

と聞きました。

「油100缶だ」

というと、会計管理人は

「これがあなたの証文です。急いで50缶と書き直しなさい」といいました。

また、別の人に「私の主人にいくら借りがあるか」と聞きました。

「小麦100俵だ」というと会計管理人はいいました。

「これがあなたの証文です。80俵に書き直しなさい」

主人はこの、不正な会計管理人のやり方をほめました。

「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らより賢くふるまっています。不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば金がなくなったとき、あなたはがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえるでしょう。ごく小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実です。ごく小さなことにも忠実でない人は、大きなことにも忠実ではありません。だから不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当の価値あるものをまかせるでしょうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたのものを与えてくれるでしょうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を軽んじるか、どちらかです。あなたがたは、神と富に仕えることはできません」

この「主人」は原典では、ルカがイエスにだけ使用した「ホ・キュリオス」となっていますので、通説では「主人」はイエス自身であるとされています。また、このたとえは弟子達に話されています。

イエスの会計管理人は、ユダですので、これはユダへの皮肉なのかもしれません。ユダは横領の疑いをかけられていたのかもしれません。

俗説では、「富の追求の批判である」とか、「唯一無二の主人であるべき神への忠誠の勧めである」などといわれていますが、はっきりしないように思います。教会の関係者に聴いても、明瞭な解釈を示してくれた人はいません。直後に、この話を聞いていた金に執着するファリサイ派の人々が、イエスを嘲笑ったと書かれています。

禅問答のようなこのルカの福音書第16章ですが、聖書というテキストの奥深さを感じさせてくれる一章だと思います。

ルカの福音書第16章について、どのようにお考えでしょうか。長年の課題ですが、まだ、はっきりした結論がだせないでいることの一つです。

514Sekko:2011/02/20(日) 20:53:46
ルカ16章
いいテーマですね。

私はイエスのたとえ話の中でこの手の、説教者が「・・・」となってしまいがちなものが好きです。初期教会の頃から、「不都合なエピソード」を削除するチャンスがいくらでもあったと思うのにちゃんと残しちゃうのが、かえって本物っぽい感じがするからです。

「神からのお告げ」というのは言葉にした途端に何らかの解釈や恣意が入りそうですが、周りの人と同じ言葉を使って話していたイエスの言葉の聞き書きって、もちろん伝聞の不確かさはあっても、「ちょっと変」なものを残しているところが誠実な感じがします。

特にこの話は、

「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らより賢くふるまっています。」

と、明らかに、信者にとって一見「不都合」な対比がありますからね。

まあ、いろいろなこじつけに近い解釈がたくさんあり、一番まともそうなものは、その前の「失くした銀貨の話」や「放蕩息子の話」の流れで読むことで、神の前では数字の多寡などこの世の物差しは関係ないという風に読むものです。また、「金を作るより友達を作ることの方が大事」という意味だとか、「ここでの『金』とは愛のことで、愛を独り占めにするとよくないので他の人にも大盤振る舞いをすることで赦されるのだ」とか、「誰でも自分の罪を十字架のキリストに背負わせて購ってもらうので、その手続きを罪人が他の罪人にしてもいいのだ(つまりここでは、横領していた人が、勝手に別の人の借金も軽くする)」という意味だという人もいます。

私は、今のネオリベラル経済の世界の中での格差の問題とアラブ社会で次々と起こりつつある民主主義革命との関係を見ていると、このエピソードがよく分かります。

いや、このエピソードが「よく分かる」というより、このエピソードを通して見ると現実世界の状況がよく見えてくる、といった方がいいでしょう。

聖書の「?」な箇所、特に「科学的に見て『?』な箇所」の取り扱いには、一つは非神話化というか、ここはシンボリックな意味であり実はこういう意味なのだ、という風なやり方があります。でも、聖書の記述を無理に「リアル」に合わせるよりも、「リアル」の出来事を、聖書の記述を通してシンボリックに解釈していく方が、目が開かれることがあると思います。

長くなるので私の見方については別のところでまた書いて、あらためてここでお知らせします。

http://setukotakeshita.com/

515:2011/02/21(月) 00:16:18
マタイの福音書第8章
子供の頃、カトリック系の学校に通っていたため、聖書は、若い頃から比較的よく読んでいました。処女受胎や復活の奇蹟話は、古代人の牧歌的な物語だと思っていました。それでも、イエスの言説には、いくつか興味深いところがありました。例えば、マタイの福音書第8章のローマ軍の百人隊長の僕の病気を直すところなどです。

当時のエルサレムは、戦後の日本がアメリカの属国だったのと同じようにローマの支配下に置かれていて、ローマ軍が街を闊歩していました。そうした中でこの事件は起きたものだと思います。

民衆の中にいたイエスは、ローマ人の百人隊長から「部下が中風で寝こんでいるんだ。何とかしてやってくれ。そいつの家に行かなくたってお前ならできるだろう。俺だって別に動かなくても、手下の兵隊どもに行けといえば、行くし、来いといえば来るのだから、お前ほどの力があれば、部下のところに行かなくても、ここでできるだろう」といわれます。

百人隊長の手下達は、面白おかしくイエスを嘲笑したかもしれません。

この時、イエスは、ユダヤの民衆に向かって毅然とこういいます。

「皆さん、お聴きになりましたか、この隊長さんは本当に素晴らしい方です。イスラエル中探してもこの方ほど信仰に厚い方はいないでしょう。そう、いつの日か、東西から大勢の異国の方々がやって来て、天の国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくでしょう。隊長さん、お帰りなさい。部下の方の病気はもう直っています」

子供心に、この状況下で、とっさにこの対応をしたイエスという男を心底すごいと思ったのですが、カトリックの教会関係者に聞くと、この話は、最初からすごく熱心なイエスの信者だったローマの百人隊長が、懇願してイエスに部下の病気を直してもらった奇蹟話だと、皆、一様に主張します。

マタイの福音書第8章についてどう思われますか。長年の懸案の一つです。

516Sekko:2011/02/21(月) 01:33:40
百人隊長の話
ここのところはそんなに不思議だとは思いません。

百人隊長は別にそんなに挑発的な態度をとったのではなくて、むしろ懇願していたのでは?

「自分はあなたにふさわしいものではないですが頼みます。」と謙虚なイメージもあります。

ここのところで私がすぐ思い出すのは前に訳した『聖骸布の仔』(中央公論新社)の中で(p157)、主人公がこのくだりを思い出して、「自分はとてもあなたをうちに迎えられるようなものではありませんがひと言だけ言ってください」と願うシーンです。
ローマ人の家にユダヤ人が入れないという事情を差し引いても、ここは、「直接に触れていただくのは無理ですがひと言だけでも・・・」という切羽詰まった気持ちが背景になっています。このエピソードはルカやヨハネにも類似のものがあるので比べて見てください。

あ、今、日本語で検索してみましたら、こういう分かりやすいものがありました。

http://gnarly.at.webry.info/201009/article_7.html

ご参考に。

この話で私にとって面白いのは、「遠隔治療ができるかどうか」というテーマです(すみません、信仰とあまり関係がなくて)。

触ってもらうのはもちろん、言葉をかけるだけとか、後ろから衣に触れるだけで癒されるとか、いろんなイエスの「奇跡」がありますが、

「あなたの信じたとおりになりますように」という言葉がもらえるのは最高ですね。

日本にキリスト教宣教師が来た時も、加持祈祷の僧たちは病人のそばにつきっきりで平癒祈願をしたのに効かなくて、宣教師たちは「自分ちで祈って治した」ので感心されたというようなエピソードもあるようですが、今のカトリックの聖人システムにおける「奇跡の治癒」も、その伝統にあるんでしょう。

まあこのエピソードのヨハネ・バージョンではイエスも「不思議なわざを見なければ決して信じない」というのはいかがなものか、という態度を見せていますが・・・

「遠隔治療」は今でも「実はよく聞く話」でもあるので、すごく興味があります。

その治癒を本人か近くの人が必死に望まないと「ひと言」は伝わらないのかもしれません。される方が望まないのに遠隔操作できたら呪いだってかけられてしまいそうで怖いです。

日本でミッションスクールに行かれていた方たちは、みなそれぞれに聖書の一節などにいろいろな思い出や思い入れもおありなんでしょうね。回りとちょっと切り離されているから独特な感じで残るのかも・・

http://setukotakeshita.com/

517:2011/02/22(火) 03:37:15
イエス・キリストの本質
外典のトマスの福音書には次のような記載があります。

あるとき、イエスが村の道を歩いていると、一人の少年が走ってきてイエスの肩にぶつかった。イエスは腹を立て、「この道を二度と歩けないようしてやる」と言い放った。すると、その子はすぐに死んでしまった。その子の親は、驚き、怒り、イエスの父であるヨセフの家にやってきて文句を言った。「こんな恐ろしい子と同じ場所に住むことはできない。この子を連れて、村を出て行くか、それとも、このような呪いの言葉を二度と口にしないよう教育することだ」と。ヨセフは、イエスを呼び、叱ったが、イエスは次のように答えた。「お父さんの気持ちもわかりますから、そのようなことは口にしないようにします。でも、あの人たちは、必ず罰を受けることになりますよ」まもなく、イエスを訴えた人たちは、みな目が見えなくなった。それを知った人々は怖れおののき、イエスが口にすることは、善いことも悪いことも、必ず成就すると言い合った。

また、正典のマタイの福音書第21章には、次のような記載があります。

「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかに何もなかった。そこで、『今から後いつまでも、お前には実がならないように』といわれると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった」

神の子イエスの悩み、苦しみの原点は、こうした事象の積み重ねのなかから形成されてきたものなのではないかと思います。

「山上の垂訓」はイエスのオリジナルではなく、エッセネ派のテキスト死海文書にその原型を見ることができますが、イエスの伝えるところに奇妙な説得力があるのは、だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向け、下着を取ろうとする者には、上着も取らせないと、その者達が、いちじくの木のように死んでしまうためなのではないか、そういう懸念を常時、持つなかで培われてきた思考なのではないかと思うわけです。

反対に、神の子イエスを信じ、敬愛する者には、様々な神の恩恵とご加護がもたらされています。キリストの復活の奇蹟により、その効力は、2000年以上たった今も健在で、数多くのキリストを敬愛する人々が、今も、その恩恵に預かっているのではないか。エトワールの素朴なキリスト教観は、以上のようなものです。

間違っているかもしれません。

遠隔治療についてですが、パソコンを通じてのネットでのボードゲーム対戦(囲碁、将棋、チェス、オセロ、バックギャモンなど)の経験がある方であれば、思いあたるのではないかと思うのですが。パソコンの向こう側にいる相手からパソコンを通じて強烈な気を感じることがあると思います。相手が強者の場合、それは、まだ、何の情報も伝わっていない開戦前の対面の時から不思議と分かるものです。この原理を応用すると、遠隔治療も可能であろうと思いますし、例えば、絵画、書、彫刻などを通じての時間を超えた治療というものも行えるのではないかと思います。

これも、間違っているかもしれません。

新約聖書は、繰り返し読んでいますが、特に誰かに教えてもらったり、解説書を読んで、定説の解釈を覚えたりしたことはありません。あるがままに自分自身が、テキストから読み取れた内容について、時間をかけて考えているだけです。もちろん、キリスト教徒ではありません。それでも、この思想は、非常に魅力的な古代の思想であり、また、有効なものだと思っています。

518Sekko:2011/02/22(火) 04:10:06
本質ですか・・・
そんな大仰なタイトルでへんな話を振らないでください。どうフォローしていいか分かりませんから。

この外典の話は確か、その後で、少年イエスに呪われた人たちは全員あっさり癒されるんですよ。
イチジクの話は何となく笑えます。このことについて、パレスチナ出身の人がイチジクの季節を知らなかったはずがない、これはイエスが青森出身の日本人だった証拠の一つ、っていう変な議論を読んだことがあるのも思い出しました。

まあ、深入りしても意味のないものはスル―してください。

これ以上お答えできないのでForum3の雑談に移動してください。

ネットゲームなどで相手の気みたいなのが感じられるとか、あるいはPCそのものがある時点でやけにパーソナルな反応をするというのは私も聞いたことがあります。おもしろいですね。死んだ人が電話とかテレビとかパソコンとかの回線を使ってコンタクトしてくるとかいう話もありますね。死んだら実験したいです。実はこういう実験をしようねとある人と約束していたことがないでもないんですが、実際は、怖くて怖くて・・・
自分が死んだらやってみたいですが、こちら側でキャッチするのは怖くて嫌です。

http://setukotakeshita.com/

519:2011/02/26(土) 08:55:29
ヒルデガルド・フォン・ビンゲン
こちらのサイトにあるヒルデガルド・フォン・ビンゲンに関する記載を大変興味深く拝見しました。

オーストリアの軍医ヘルツカによって紹介された薬草(ハーブ)研究家のヒルデガルドと中世の無伴奏ボーカル曲の作曲家ヒルデガルドが同一人物だということを初めて知りました。

彼女の挿し絵は、カール・グスタフ・ユングの象徴図(マンダラ)や仏教の曼荼羅によく似ています。また、幻視体験(ヴィジョン)の記述は、大乗仏教の仏典「無量寿光量経」と似ているように思います。

中世ヨーロッパ最大の賢女と言われているのもうなずける気がします。

バーバラ・ニューマンの「ヒルデガルト・フォン・ビンゲン 女性的なるものの心理学」(村本詔司訳 新水社)がよい研究書といわれているようですが、他にも、ヒルデガルドに関することが記載されているよい邦訳本はあるものでしょうか。

少し、研究してみたいと思っています。

520Sekko:2011/02/27(日) 07:35:20
ヒルデガルド
彼女のことは是非まとめたくて、サイトに少しずつ書いていこうとしていたのですが、後回しになっています。

日本語では種村季弘さんの『ビンゲンのヒルデガルトの世界』を読んだことがありますが、私的には今一つでした。フランスにはいろんな切り口のものがあります。
私もいつかは挑戦したいです。

http://setukotakeshita.com/

521:2011/03/04(金) 03:10:50
エフライムの木
旧約聖書のエザキエル書第37章に次のような記載があります。

主の言葉がわたしに臨んだ「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上にユダおよびその友であるイスラエルの子孫のためにと書き、また、一本の木を取って、その上に、ヨセフ及びその友であるイスラエルの全家のためにと書け。これはエフライムの木である。あなたはこれを合わせて、一つの木となせ。これはあなたの手で一つになる」

日ユ同祖論の根拠とされる旧約聖書の記述です。


旧約聖書の系図です。

アブラハム = サラ
     ↓
イサク = リベカ
     ↓
エサウ(兄)
ヤコブ(弟) = レア(姉)
        = ラケル(妹)
        ↓
       ユダ他
       ヨセフ = アセナテ
           ↓
          エフライム


古事記の系図です。

スサノウ = アマテラス
      ↓
オシホミミ = トヨアキツシヒメ
      ↓
ホアカリ(兄)
ニニギ(弟) = イワナガヒメ(姉)
        =  コノハナサクヤヒメ(妹)
        ↓
       ホデリ他
       ホホデミ = トヨタマヒメ
            ↓
       ウガヤフイアエズ

この二つの系譜の構造はそっくりです。

1 エサウもホアカリも毛人といわれていました。

2 コノハナサクヤヒメとリケルは絶世の美人で、レアとイワナガヒメは今一つの容姿です。ニニギとヤコブは、この姉妹をいずれも妻にします。

3 ホデリ(海幸彦)は、ホホデミ(山幸彦)が釣り針を失くしたことを責めて海人の国へやります。そこでホホデミはトヨタマヒメと出会います。ヨゼフは、兄達にいじめられ、エジプトへ売られて行きます。そこでアセナテと出会います。

ウガヤフキアエズとその妻タマヨリヒメの子供が神武天皇ですので、この系譜の一致は、とても不思議なことだと思います。

個人的には、8世紀の創作物である古事記に、聖徳太子の厩戸伝説などとともにネストリウス派キリスト教(景教)の影響が色濃く反映されたものなのではないかと思っていますが、長年の関心ごとの一つです。

エフライムの木=古事記と旧約聖書の系譜の構造の一致について、どう思われますでしょうか。

522Sekko:2011/03/05(土) 01:18:53
相関?
一定以上の情報量のあるcorpusを比較して、「似ている部分」を取り出して並べて「偶然とは思えない相似」と驚かせる手法や「トンでも説」は山のようにあります。

その手際に感心させられることもありますが、その意図とかねらっている効果とかに警戒心を抱かされることも多いです。

宗教や民族に関する言説でそういう話をするのは誤解のもとなので、コメントしません。あしからず。

http://setukotakeshita.com/

523:2011/03/09(水) 23:37:33
構造主義
学生の頃、構造主義が流行していて、邦訳で、ソシュールの「一般言語学講義」やレヴィ・ストロース、ジャック・ラカン、ルイ・アルチュセール、ミッシェル・フーコーなどのテキストを読んでいました。言語、親族の構造、神話などから始まった構造は、その後、商品、貨幣、資本、無意識、狂気、囚人などへ対象範囲を広げ、さらには、料理、服飾、文学、チェス、サーカスなども構造主義の対象となり、ロラン・バルトにいたっては、プロレスまで構造主義の対象にしてしまいました。自分では、その頃、彼らを、皮肉をこめて「構造主義の達人」と呼んでいました。

ポスト構造主義については、よく知りません。

現在、構造主義は、フランスで、どのように評価されているのでしょうか。また、フランスの人々は、今でも、構造主義のテキストを読まれているのでしょうか。

ルイ・アルチュセールのテキストを一番熱心に読んでいましたので、1980年11月におきた不幸な事件には、ひどくショックを受け、その後、構造主義のテキストをあまり読まなくなりました。今でも、新聞報道を読んで、とても驚いた時のことを、思い出すことがあります。構造主義のテキストから、いろいろなことを学びましたが、自分では、まだ、完全には整理しきれていない感じです。

524Sekko:2011/03/10(木) 07:10:32
ポスト構造主義など
私も学生時代が構造主義全盛でした。なつかしいですね。
まあ構造主義がその後どのように展開したかなどはネットで検索するか別の一般質問掲示板にでも問い合わせてください。

私は日本で構造主義を知り、その後フランスに住んでいる者としての印象だけ言います。

言語構造主義が人類学や民俗学や比較宗教などに応用された時、それまで、日本にいて「欧米思想」を学んでいた人たちにとって、

東西の文化の差などは表面に現れた差であってその底には人類共通の語りの構造だの、普遍的な概念図式だのがある、と言われたのはちょっとしたグローバリゼーションというか、自分たちの言葉で自分たちの文化から構造を抽象してグローバルに語るという快感があったような気がします。

同時に、ほぼ並行して、すでにポスト構造主義のデリダの脱構築のような言説も入ってきました。「文化的差異の奥には普遍的な隠れた構造がある」というのはいわば理神論や無神論のヴァリエーションであり、一神教的ヨーロッパに中心となる視座をもつものである、という批判のもとに、構造が解体された中心なき相対主義が流行ることになったわけです。
文化や社会現象の意味は多様であって、構造主義の「構造」をなしていた二元主義的価値観の要素は否定され、すべてはグラデーションをなしているかのようでした。

この構造主義からポスト構造主義への推移は、常に疑似科学的な衣をまとっていました。キリスト教的自由意思を駆使したリベラルなユマニズムにおける人間主体の世界観から、非宗教的で中立的で普遍的な価値を探ろうとしたわけです。

そこにアメリカ的なコミュニタリアニズムだとかマイノリティの尊重などの流れも加わったので、日本では

「欧米中心主義の時代は終わったよね、今はアジアが面白いよね」

という動きも生まれまして、その一部は内向きになり、縄文文化礼讃とかナショナリズムにまで向かったように思います。

フランスではアングロサクソンの共同体主義に対抗する普遍主義の伝統があるので、「普遍主義の中での相対主義」という構造主義的立場が今でも根強くあります。
「普遍=絶対」ではないわけで、相対主義は、普遍主義が全体主義に向かわせない有効な歯止めとなっています。

それは思想のトレンドなどではなく、政治理念として残っているわけです。

今の世界は全体としてはまだまだ蒙昧や宗教原理主義や狂信や人権無視がはびこっていますから、過去にそれらに対する最も有効な防護策として登場した「普遍理念」自体を脱構築的に相対化して有名無実にしてしまうのは100年早いと私は思います。

フランス人の一般がどうとかは分かりませんが、

「理念や価値観というのは、個人や社会にとって、具体的な行動の規範になる選択を倫理的に決断したものであるべきだ」

と考えている人たちが確実にいて、私はその一人です。

今のアラブ世界の民主「革命」を見ていて、自由とか民主主義というものがただのスローガンなのか、どの程度の普遍性と実効性があるものか、それらは果たして民族や文化によってヴァリエーションがあるものなのか、などについて考えています。

日本にとって「舶来」の自由とか民主主義は常に「言葉」であって、倫理的に決断して選択した行動規範ではなかったと思います。アメリカが持ってきたものも「言葉」で、彼らの行動は一貫してパワーゲームでした。

この辺の事情について今いろいろ考えているところです。

http://setukotakeshita.com/

525:2011/03/17(木) 23:04:58
普遍主義
3月11日に発生した大地震の被災地に在住していましたので、パソコンが不通になり、返信が遅れてしまいました。

とても丁寧な回答をいただきましてありがとうございました。何度も繰り返し、丁寧に読み返しました。

「理念や価値観というのは、個人や社会にとって、具体的な行動の規範になる選択を倫理的に決断したものであるべきだ」

という考え方は、自己の無意識に忠実に粗野に生きている自分自身には、縁遠い感じの生き方のように思いましたが、そういう風に過ごすのが、本当は一番よい生き方なのではないかと思いました。

構造主義以外にも、カール・グスタフ・ユングの集合的無意識、チョムスキーの生成文法、ジョルジュ・バタイユの蕩尽、カール・ポランニーの経済人類学、マイケル・ポランニーの暗黙知など、1970年代〜1980年代に流行した思想は、普遍主義を元にしたものが多かったように思います。

例えば進化論にしても、日本には今西錦司教授の今西進化論が、多くの支持を集めていましたし、吉本隆明の共同幻想、廣松渉の物象化論なども、広義の意味での普遍主義に位置付けられるのではないかと思います。

デカルト、べーコン以降、近代の主流となっていた「主観−客観」図式(二元主義的価値観)から、ハイデッカーの「世界−内−存在」図式の出現を踏まえ、ベトナム戦争、ドルショック、オイルショック、公害、オカルトブームなど1970年代に起きた様々な事象から「近代の終焉」とか「近代の超克」というテーゼが、掲げられていた頃のことです。

これらの思想潮流が十分総括されないうちに、ベルリンの壁が崩れ、ソ連が崩壊し、オウム真理教の一連の事件が起き、世紀末を迎え、9.11が起き、イラク戦争を経て、今日を迎えています。

今は、思想的にも、とても混乱した中にいるような気がします。シンプルで分かりやすい明瞭な新しい思想潮流が現れることを期待しています。

そうしたもので、何かご紹介いただけるよい知らせはないものでしょうか。

526:2011/04/06(水) 21:19:25
現象学について
現象学の定義がよくわかりません。
? ある本には、"主観と客観の融合"であるとか、ある本では"実在の予想に基づく態度を排除し、ありのままの「事象そのもの」を明らかにするもの"とか本によってさまざまです。わかりやすく簡潔にお願いします。

メルロ・ポンティについて
(1) 彼によると、"私たちは身体によって他者や世界と関わっている"(身体図式)ということですが、これは物事を認識するにあたって、身体で感じるもの、身体に触れるものでなければ、認識できてないという解釈でよろしいでしょうか?
もし間違いであれば、ご教授願います。
(2) 彼の"身体図式"の説は、どういうところが"現象学"と呼べるのでしょうか??と関連して、お願いします。

527:2011/04/06(水) 21:20:40
フッサールについて
本に、"自然的態度を変更し、世界の存在を括弧にいれて(判断中止=エポケー)、そこにあらわれる志向性を有する自我意識を観察すると、世界の意味がわかってくる"とありましたが、
(1) 彼のいう「志向性」とは、人間がもっている"思い込み"と解釈してよろしいでしょうか?
もし違うのであれば、ご教授願います。
(2) "世界の存在を括弧にいれて"とは、どういうことでしょうか?
(3) これは、「あす事象がある」という前提をいったん保留して、ある程度自分のもっている知識や情報をもとにある認識を解明すると、その意味が確信できるという解釈でよろしいでしょうか?
もし間違いであれば、ご教授願います。
(4) 彼の説のどういうところが"現象学"と呼べるのでしょうか??

528:2011/04/06(水) 21:22:03
現象学
「実存主義者である、ハイデッカーやサルトルも、文献によれば現象学の部類に入っています。
彼らの説のどの部分が、現象学なのでしょうか?

529Sekko:2011/04/11(月) 07:53:42
現象学について
エクリチュール千代丸さまへ

哲学質問箱と言った言葉で検索してここにたどり着かれたのかとお察ししますが、申し訳ありませんが、ここは一般的なあるいは教科書的なお答えをする場所でないので、別の質問サイトや、あるいはキイワードの検索でお調べください。

ここを見ていらっしゃる私の読者のみなさんのためにひとこと付け加えておきますと、私は、カトリック神学と現象学の関係に非常に興味を持っています。

フッサールの弟子だったエデイット・シュタインが現象学を捨てて神学に向かったのとは反対に、後にヨハネ=パウロ2世となるカロル・ヴォイティラ(以下JP2)は、神学と現象学(これもシュタインと同じくフッサールの弟子でユダヤ系でカトリックに改宗したマックス・シェーラーの価値倫理学がJP2の学位論文)を統合しました。スコラ哲学のトマス・アクィナス神学を現象学によって読み替えたのです。トマス神学では、神にのみ絶対の権利を認め、人間同士の権利や義務は相対的な関係性にあるという立場でしたが、JP2は、倫理や価値は人間の外にあるのではなく人間の自己像という意識化と切り離せないものだと考えました。
私が行動を起こす、という能動と、何かが私の中で起こる、という受動の二つが、内在性と超越性というものが同時に作用しあうという意味で、自己表現に結実すると考えたのです。(Personne et Acte)

まあ簡単には説明できませんが、結論から言うと、現象学的倫理学に依拠するカトリック神学を模索した結果、JP2は「基本的人権は共同体に優先する」という方針に至ったわけです。それまでのカトリック教会は、そこのところが曖昧というか、自分たちも共同体優先だったので、20世紀の全体主義や全体主義的共産主義に対して明確な弾劾ができなかったのです。
ところがJP2はトーミズムの現象学的再考によって、むしろ福音書のイエスに近いラディカルな平等主義、個人の尊重、共同体の縛りからの解放、自律としての自由を志向したので、あれほど徹底した社会主義陣営との戦いを展開できたわけです。

これらについては今準備中の本でもう少し分かりやすく解説するつもりです。

ここではこのテーマは打ち切りですのでよろしく。

http://setukotakeshita.com/

530:2011/06/05(日) 15:24:17
post modern
竹下さんお久しぶりです。小谷野敦です。震災以来、まともな知性の持ち主まで陰謀論にはまっていて困って竹下さんの本を見てみました。すると「ポストモダン」という語が出てきたので気になりました。私はポストモダンというのは建築の用語以外には使えないと考えていますが、竹下さんはどういう定義で使っておられるのでしょうか。

531Sekko:2011/06/05(日) 23:14:22
ポストモダン
私の『陰謀論にダマされるな!』(ベスト新書)で使われているのは、陰謀論を解説する心理学者が使っているという文脈だと思いますが、そこでは、ごく普通に、つまりWikipedia なんかで出てくる程度の意味です。「大きな物語」の終焉とあるように、リオタール風の意味でもあります。世界は民主主義と人権主義、自由平等、という方向に向かって「進歩」していくはずだし、進歩しなくてはならないという確信に基づいた歴史観があって、それに基づいたシナリオが構成されていたのが「西洋近代」であり、ポストモダンとは、その西洋中心史観が崩れて脱中心、相対主義が基本になった、という意味です。歴史の流れを説明する教科書的権威が否定されたので、そこに陰謀論が繁殖する土壌が用意されたという感じでしょうか。

私個人的には、「西洋近代」とは、キリスト教的理念の非宗教化、世俗化ととらえているので、ポストモダンとは、「西洋近代」の基盤をなす世俗化されたキリスト教的理念の否定だと考えています。「西洋近代」は反教権的イデオロギーの理神論に拠って打ち立てられたもので、ポストモダンは、さらにそのイデオロギーを否定したものであり、そのままでは「非キリスト教社会」の文化の文脈には組み込めないものだと考えています。つまり、20世紀後半にフランス構造主義などによって広く共有された近代批判とは区別して考えています。
『陰謀論に・・・』は、その前の『無神論』とセットになって構成されたものです。

これについて話し出すと長くなるので、ここではこれだけで失礼します。

http://setukotakeshita.com/

532:2011/06/06(月) 12:59:34
小谷野敦
どうもありがとうございます。リオタールの使い方はヘーゲルを前提にしたもので、竹下さんはポパーに言及しているので、ヘーゲルを踏襲するのは変だなと思ったのです。また、私の考えでは、人権・自由・平等といった理念は未だ全然否定されていないので、ポストモダンはおかしいだろうと思ったのです。

533迷える大羊:2011/06/15(水) 22:13:56
サムライとキリスト教
 先日、新聞の中の方をペラペラサクサク見ておりましたら、2013年のNHK大河ドラマは、新島襄の妻・新島八重を主人公とした描き下ろしドラマに決定とか。

 新島襄はいわずと知れた、明治6大教育家の一人であり、クリスチャンであり、彼の創設した同志社大学はいわゆるミッションスクールです。その新島襄は安中藩士の家に生まれていますし、「武士道」で有名な新渡戸稲造(は盛岡藩士の息子、津田塾大学の津田梅子は旧幕臣の娘、内村鑑三(高崎藩士の家)、坂本竜馬の甥の坂本直寛・・、といった具合に、今さら何を、と思われるかもしれませんが、幕末・明治時代のクリスチャンは元武士(どちらかといえば旧幕府側が多いような)が非常に多いですよね。どうしてでしょうね?

 ただし、ほとんどプロテスタントでカトリックは全く聞かない(知らないだけかもしれませんが)、これまたどうしてでしょうね。
 個人的には、元新撰組で、坂本竜馬を斬った疑いが濃厚な今井信郎氏とか、元新撰組なのかどうかはあやふやですが、結城無二三とかに興味ありますね。単純にあの斬ったはったの血で血を争う抗争に明け暮れた日々からクリスチャンというのはなんともすごい転身、いろいろな紆余曲折、第三者からみると面白い人生を歩んだんだろうな、と思いますし。

 ところで、サムライといえば、海外では未だに日本のステレオタイプの主要な位置を占めているようですが(こんな動画がネット上に腐るほどありますし)、

http://www.youtube.com/watch?v=1-C40DliUTI&feature=player_embedded

 そのイメージは肯定的なものなんでしょうか?それとも否定的なものなんでしょうかね?
ただ、いずれにしても有名なのは戦士、軍人としての部分で、こういう側面(宗教家、教養人)はあまりしられていないんだろうなぁ、とは思いますが・・。
 

534Sekko:2011/06/16(木) 06:17:59
明治のクリスチャン
>幕末・明治時代のクリスチャンは元武士(どちらかといえば旧幕府側が多いような)が非常に多いですよね。どうしてでしょうね?

>ただし、ほとんどプロテスタントでカトリックは全く聞かない(知らないだけかもしれませんが)、これまたどうしてでしょうね。

やはり、当時の知識人階級が「洋学」を吸収するのとセットとなって入ってきたからではないでしょうか。いくら「和魂洋才」といっても、19世紀後半にピークに差しかかっていた西洋近代進歩思想は、特にプロテスタント国やWASP文化と結びついていたから、洋「才」を学んだエリートが洋「魂」にも染まったのは不思議じゃないと思います。

それに比べてフランスなどカトリック国は、その時代、もうがちがちの政教分離へと向かっていたので「洋魂」部分はかなりパーソナルなものになっていたかと思います。

もちろんフランスのパリ外国宣教会などは、開国した日本に宣教師を送っていましたが、17世紀に壊滅したはずの幻のキリシタンの子孫を見つけようといったところにロマンを見出していたような気もします。

要するに、カトリックは16世紀にイエズス会とかフランシスコ会とかが、かなりがんばって日本で布教したのに弾圧されて大量の殉教者を出して、一度、ストーリーが終わっていたわけです。それでも、それに対するノスタルジーみたいなのはずっと語り伝えられていたわけで、そのこだわりはなかなかでした。隠れキリシタン発見の感動ストーリーなど有名ですね。

16世紀末から17世紀はじめにかけての大量殉教者と武士道との関係を述べる人もいますよ。
あの頃すでに戦略として大名が宣教されたこともありますし、家長が改宗したら一家郎党全員改宗という感じだし、一度改宗したら後でいくら迫害されても「節を曲げない」というのも武士的美学のうちだし、それなりの相性はあったのかもしれません。

サムライは、カミカゼとテロリストが結びつけられて以来かなりイメージが微妙ですが、今でもフランスでは柔道や合気道のスポーツクラブによくついている名前だし、ネガティヴではないと思います。ま、教養人というよりはやはり体育会系のイメージですけれど・・・

http://setukotakeshita.com/

535迷える大羊:2011/06/17(金) 21:45:08
ステレオタイプ
お忙しい中、どうも。

>政教分離

 日本が鎖国中の18,19世紀にフランスなんか、かなり政教分離が進んじゃいましたからねぇ。今でももっとも「真面目に」政教分離している国ではないでしょうか?フランスって。
 ただ、日本においてはなんだかんだいっても信者数はカトリックの方が多い(プロテスタントより)ですね。カトリックは一般人にターゲットを絞って、プロテスタントと棲み分けたのかしらん?と勝手に想像してしまいました。

>サムライは、カミカゼとテロリストが結びつけられて以来かなりイメージが微妙

 あの神風特攻隊の日本のイメージダウンに果たした役割は果てしないものがありますね。もちろん、個々の特攻隊員には同情しますけども。それにしても、今だにサムライが日本のステレオタイプになるくらい、日本の現状って一部を除く海外の国々には知られていない事実には溜息がでますねぇ。
 しかし、単純に国力だけみれば、中国に抜かれたとはいえ、世界有数のもの。そんな国がこれだけ存在感が薄い、ということは今まで世界史上であったんでしょうか?

536迷える大羊:2011/07/24(日) 13:11:15
リアル・イエス
 今から10年も前の話ですが、BBCで放送された科学ドキュメンタリー番組「神の子」にて。
 なんでも、マンチェスター大学法医学教室が、エルサレムで大量に発見された紀元1世紀のユダヤ人の人骨群の中から、当時の典型的なユダヤ人男性の頭がい骨を選出して「イエスの顔」を復元したそうで。

http://hexagon.inri.client.jp/floorA4F_ha/a4fhb616.html

 クリスチャンの方とかキリスト教圏の人々にとって、やはり「実在したイエスの姿、声、振る舞い」、つまり、リアル・イエスに対する関心は昔から高いようですね。
 しかし、史料があまりに無さ過ぎて、結局、行けども、行けども推測の域を出ず、確か、100年くらい前だったか、ドイツのブルトマン(でしたっけ?)って神学者が

「聖書の記述はあまりにも神話的な表現に彩られていて、歴史のイエスを知る事はほとんど不可能だ」

 なんて言って匙を投げてましたね。要するにヴァーチャルでないリアルなイエスについてはさっぱりわからない、てなことで。
 ところで、考古学とか歴史学が将来、飛躍的に発達して、極端な話、タイムマシンが実現して、リアル・イエスの姿が判明した場合、クリスチャンの信仰心にどういう影響が生じるでしょうね?

 ヴァーチャルでない、生身のリアル・イエスが「発覚」「発見」された場合、アイドルがスキャンダル発覚、才能の枯渇、加齢などで「幻滅」され人気が落ちるように、イエスについても同様なことが起きないでしょうか?
 思うのですが、リアルな生身の「人間」としてのイエスは綺麗ごとでない面が多々あるでしょうし。福音書ですら、故郷での評判は至って悪かったこと、家族関係はよくなかったことが、それとなく示唆しているくらいですしね。

 SF小説にも、英国のマイケル・ムアコックの「この人を見よ!」なんて、タイムマシンで2000年前の世界で、リアルのイエスやマリアに会ったものの、まったくの俗人で、失望し、結局、主人公自身が「イエス」の役割を歴史上で演じてしまう・・、なんて話がありましたね。

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%93%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%88-%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AF%E6%96%87%E5%BA%AB-SF-444-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4150104441

537Sekko:2011/07/25(月) 00:39:54
リアル・イエスのこと
この復元写真って、一世紀の典型的なユダヤ人の骨からって、あまりにもアバウトだと思いますが・・・
言動や女性に囲まれていた様子からしてもっと優男だったイメージはあるんですが。

人間としてのイエスが復元されたらどういう反応を引き起こすのかという物語『聖骸布の仔』(中央公論新社)を訳したことがあります。おもしろい小説です。

http://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E9%AA%B8%E5%B8%83%E3%81%AE%E4%BB%94-%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3-%E3%82%B3%E3%83%B4%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%88/dp/4120037231/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1311520250&sr=1-1

また講談社ムック『聖骸布の男』に、聖骸布の実物大写真ポスターを載せたのは迫力があります。
私もコメントを書きました。

http://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E9%AA%B8%E5%B8%83%E3%81%AE%E7%94%B7-%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AF%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%80%81%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B-G-%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA/dp/406213957X/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1311520529&sr=1-1

調布でコンプリ神父の話を聞くたびに、感動を覚えます。

コンプリ神父の本もどうぞ。

ムアコックの本も読んだことあります。

私は、聖骸布の真偽がどうあれ、イエスの生と死にまつわる「事実」関係がどうあれ、キリスト教の信仰の基本的なところは変わらないと思います。

でも他の神さまの、検証不可能な神話とちがって、人間だけれど復活したというミステリーが根本にあるのがいろんな人の好奇心を刺激して、「信仰」とは別に独特の世界を形作っているのは興味深いですね。

http://setukotakeshita.com/

538迷える大羊:2011/07/25(月) 20:37:21
リアル・イエス2
 お相手恐れ入ります。

 まあ、聖書はイエスの容姿について、何も語っていませんからねぇ。常識的に考えれば、大きくも小さくもない、イケメンでも不細工でもない、ごくごく普通のユダヤ人男性ってことになるんでしょうが・・。

>『聖骸布の仔』(中央公論新社)

 何やら、「ジェラシック・パーク」のイエス版みたいな話ですねぇ。ところで、なんでこんなスレをたてたか、と申しますと、前にも触れましたけれども、キリスト教の世界には、聖書やイエスにまつわることなら、なんでも「都合よく解釈」する人々がいて、たとえば、旧約聖書の、第三者からすると、どうみても残虐、ひどい話としか思えない、列王伝とかヨシュア記、ダビデの所業の部分をみても、「聖書は侵略行為を決して正当化していない(どこが?)」なんて言い張ったりするし・・・。

 また、福音書にチラチラ出てくるイエスのダークな部分、例えば、故郷で敬われなかったエピソードは、「それはイエスの正体を罪に満ちた不完全な人間たちには理解できなかったからである」とか、家族関係が悪かったように見える場面も「肉による家族には理解できなかったのである」・・、なんて、おいおい、よくそんな、都合よくというか、「相手が悪いんだぁ」みたいな自己中な解釈ができるもんだなぁ、と半ば感心、半ば呆れることがあるからなんです。

 まあ、なんていうか、そこまで何事も自分側に都合よく物事を考えれば、人生に悩みは少ないだろうなぁ、確かに「信じる者は救われる」だよ、と思ったと同時に神様を信じるって、そんな風に何でも自分側に都合よく物事を考えることなのかしらん?という疑問があるもので・・。ま、私の周囲だけの話かもしれませんが。

 そんな人々が、リアル・イエスを知ってしまって、なおかつ、それが自分の思い描いていた「イエス様」とまったく違っていたら、どう反応するのかしら?というちょっと意地の悪い疑問というか、想定を考えてしまったんですよね。

 まあ、イエス様は今まで通り、ヴァーチャルな神様であり続けた方が無難だし、世のため、人の為なのかもしれませんね。
 それにしても、こういうヴァーチャル神、アイドル、イエスを作り上げた、パオロのプロデューサー的な才能は大したものだなぁ、と改めて思います。

539迷える大羊:2011/10/10(月) 14:10:46
カルトとまともな宗教
 について、なんだかよくわからなくなっています。よく言われるカルトとまともな宗教の見分け方は、カネにシビアっていうか汚くない、危機感を煽ったりして恐怖で人を縛らない、ってことですが、それをいうなら、初期キリスト教会は「アウト」になりませんか?実際、ローマの歴史家タキトゥスは「有害な迷信」として、「カルト」扱いしてますし・・。

 イエスとか初期キリスト教も「世の終わりは近い! 悔い改めよ!」みたいなこと言っているし、カネについても、聖書にこんな話があったりしますし・・・。

 使徒言行録5章1〜11節(新共同訳聖書より)

1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、
2 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
3 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。
4 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
6 若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。
7 それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事をしらずに入って来た。
8 ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。
9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」
10 すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。
11 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。

 要するに、財産を正直に差し出さないと、献金しないと、天罰が下るぞ!って話ですよねこれ?しかし、献金額を多少偽ったくらいで、人が死ぬのなら、今ごろ、日本中、いや、世界中の教会は死体だらけじゃ??。それよりなりより、献金をごまかす奴には死を!なんて発想がなんだか・・。

 聖書についても、正典にすら、イエスの「過激発言」はいろいろあるし、さらに、いろいろ聞いたり調べたりすると、正典には入らなかった福音書群やイエスの幼児期の物語とかには、イエスと肩がぶつかったから呪われて殺されたとか、イエスが遊んでいたのを邪魔したから呪われてすぐ殺されたとか、そういうのは割とありふれた形で転がっているみたいで・・・。

 これでは救世主どころか、「恐怖新聞」とか「エコエコアザラク」の黒井ミサです(ご存知なければ、すみません、70年代のホラーマンガです)。

 こういうキリスト教初期の歴史から鑑みるに、今カルト、異端扱いされている、某教団も、政界との関係が取り沙汰されるあの団体も、何百年か後には立派な「伝統宗教」となり、教祖や開祖に向けられた社会的非難、取り締まりは「法難」とか「迫害」ってことになるんでしょうかね?
 教祖、開祖が如何に凶悪犯罪を犯そうとも、死刑判決などもっての他で、それこそ、「尊師は我々の罪を背負って神に召されたのだ!」なんて話になりかねない?反キリスト教の立場からすれば、ローマ総督ピラトは実に愚かな判断を下したものです。

 まともな宗教とそうでない宗教、教団、教会の境界線、違いってなんでしょうね?なんだかわからななくなってきました。

540Sekko:2011/10/10(月) 17:48:42
宗教と金
についての特集があった時に、二年ほど前ですが、私はこのアナニアのエピソードを取り上げました。それらの記事をまとめた本が来年1月に出る予定です。

私も聖書の中のこういう一見して「絶対、変」という箇所にこだわるのがわりと好きなのですが、考えてみてください、キリスト教神学論争がヨーロッパの最高の知性の持ち主たちによって延々となされてきた歴史を。私や大羊さんが突っ込みたくなる部分なんて、もうさんざんいじくりまわされているんですよ。納得のいく答えだっていくらでもあります。

ただ、言えることは、宗教なんて、人間の営み、時代や文化や経済事情の中での人と人の関係なのですから、宗教そのものをカルトだとかどうとかそれこそ「格付け」する問題ではなく、自分が自分の時代と自分の共同体の中でどう行動するか、が問題なのです。どの宗教に属している誰でも独善的、排他的な行動をとることはあるわけですから。

でも、この私ですら、そういう広い視野を持てる時代なのですから、その今の時代の「カルト教団」が数百年後に立派な伝統宗教になっているとかは私は思えません。情報の力や歴史の分析などはやはり「蓄積」として長いスパンでは人をまともな方向(つまり連帯して生きていく方向)に向かわせると、思いたいです。

(一般論としては、『カルトか宗教か』(文春新書)で書いたことは今も通用すると思います。)

http://setukotakeshita.com/

541迷える大羊:2011/10/10(月) 20:36:58
ありがとうございます
>私も聖書の中のこういう一見して「絶対、変」という箇所にこだわるのがわりと好きなのですが

 そうなんですか。私の家内に、こういう聖書の「アラ探し」みたいな話をすると、かなり嫌な顔されたり、怒られたりしましたが・・。もっとも、今は私の影響?を受けたのか、全く動じない、むしろ、自分から変なところ探して面白がっておりますが・・。
 ただ、関わっている教会の関係者の方なんかだと、やはり、聖書はとにかく正しいんだ、意味があるんだ、みたいにとらえてる人が多くて。
 やはり、カトリックの方が聖書との距離の取り方が適切、というか緩いのかな?って思ったりしますね。

>考えてみてください、キリスト教神学論争がヨーロッパの最高の知性の持ち主たちによっ>て延々となされてきた歴史を。私や大羊さんが突っ込みたくなる部分なんて、もうさんざ>んいじくりまわされているんですよ。納得のいく答えだっていくらでもあります。

 そうでしょうね。ただ、この神学とか哲学とかいうものに対する基本的な教養が私には決定的に欠けておりまして。それではいけない、とその手の本を読んだこともなくはないのですが、あまりにもクソ難しくて・・。とにかく、脚注の脚注の脚注のものすごい、多重ネスティングで、私の頭脳では結局、なんだったんだ?、でして。

 結局、エラそうなことを言っているようですが、私のやっていることって、聖書を買ってきて、とにかく読んでみる、参考書、解説書に頼る(頼ってもわからない)ことなく、そのままストレートに読む・・、だけでして。で、単純に読んでみた結果、これなんだ?おかしいじゃないの?みたいな話をこちらでさせていただいているわけです。

 リアルの教会はどうかっていいますと、全部が全部がそうってわけではないですけど、これまた、聖書のわかりやすいところ、誰もが理解でき感動できるところばかりを繰り返して読ませる、で、こんなアラ探しみたいな話はスルーされ、なかなか付き合ってくれませんね。

>自分が自分の時代と自分の共同体の中でどう行動するか、

 結局はそこに尽きますね、確かに。でも、それはそれで難しい話ではないか?と。まあ、犯罪とか第三者に迷惑をかけるのは論外にしても、どんなにお金を好き放題に巻き上げられても、どんなに度外れた奉仕を強いられても、自分が満足なら、その人にとってはカルトではない、って見方もできちゃうような気がしますが・・。

 プロテスタント教会にはカルトからの信者救済に頑張っている人が結構いたりするものですが、そういう方から聞いた話によれば、入信してしまった人は、絶対に自分は正しいと思っていますし、それを脱会させるためには、「逆洗脳」、つまり洗脳と同じ方法で、こちらの世界の常識を叩き込みますから、やってる人も自分がやってることが妥当なのかどうかわかんなくなってしまうこともある、って言っていましたが・・。脱会者も、とりあえず理屈とか頭では、自分が間違っていたことを理解しても、生き甲斐というか、張りを無くしたような状態になる場合がある、との話も聞いたような。

 正直いって、私にはわからないことだらけです(何が正しいか?正義か?について)

542迷える大羊:2011/11/07(月) 19:56:22
ブログをよんで
http://spinou.exblog.jp/17063887/

 先生のブログ最新版(11/7)の欧米の政教分離についての記述に興味深く拝見、かつ、ああなるほどね、と思わされました。これ、兼ねてから関心のあった話でして。ていうのは、日本のキリスト教会って、とかく靖国神社だとか、建国記念日とか国家神道の絡む事項に関し「政教分離」を大義名分としてて非常に敏感かつ、批判的なところが多いです。
 私が知る限りでは、日本のキリスト教会で公文書に元号を使用するのは確か「救世軍」だけだったような・・。
 もちろん、戦前のある時期から戦時中に至る時代に非常に屈辱的な妥協を国家権力によって強いられた歴史は確かにありますし、理解できないわけでもないのですが、いつも、思うことは、「そういう欧米のキリスト教主流の国家の政教分離はどうなってるの?」ってこと。

 私が知る限りでは、先生がおっしゃる通り、本当にきっちりと「政教分離」しているのはフランスぐらいで、聖書に大統領が宣誓するアメリカなどがいい例ですが、日本と引き比べて格別、政教分離がしっかりしているような感じでは・・、というのが正直な感想。
 キリスト教側の「政教一致」は批判しないの?何とも思わないの?って心の中でいつもツッコミを入れていました。
 某キリスト教関係のサイトでその辺りを突っ込んでも、左派系政党の引き写しやら、欧米人目線みたいな反応ばかりでどうにも納得いく個人的に論説がみられませんでした。

 うまく、言葉で説明できないけれども、

>G20における日本の立ち位置というのは、「欧米」先進国と同じように疲弊して低成長なの>に、「老獪パワー」仲間に入れてもらえるパスワードを有していない、空気を読めないヒ>トみたいだ。

 日本のキリスト教会には上のような状態にある日本とか日本人と「欧米」先進国の橋渡しというか通訳のような存在になるべきなんじゃないの?外からの借り物思想で日本的伝統を否定ばかりしてないでさ、と思ってしまいました。
 内村鑑三とか新渡戸稲造とか明治のクリスチャンはそういう人多かったように思えますが。

 まあ、ユーロはかつての共産主義のような「壮大な社会実験」に終わりそうな予感が個人的にはしますです・・。

543F.T:2011/11/08(火) 15:39:53
霊感占い
ご著書を読ませていただいています。カトリック信者です。

友人(やはりカトリックです)が、霊能占いの類に関心が深く、そういうところで前世をみてもらったりして、今の不運な状況を因果律で説明を受けては、「当たっている」と深く納得しています。家族が闘病中で、私にも相談に行くように強く勧めてきます。病気というのも先祖、家系などに伝わるあらゆるものの融合体の現象だとか・・・食べ過ぎたらおなかを壊す、という因果関係は、わかりますが、先祖にこういうことがあるから、その連鎖で不幸や病気がおとずれるという発想に違和感を覚えます。イエスの時代に、悪霊がついているから、そのような病気になる、と阻害された病人に重なります。自分に深い悩みや迷いがあるときは、ふとほだされそうになるのですが、このような発想をどのようにとらえたらよいでしょうか。もしかしたら、友人は一種のカウンセリングのような効能を感じているのかもしれないのですが・・

544Sekko:2011/11/09(水) 02:20:33
F.T.さま
占いだとか「スピリチュアル」系のグッズやパフォーマンスがサブカルチャーとして野放しになっている今の時代は、自分のスタンスを自覚していなければそういうものとの「依存」関係にはまってしまいがちなので、注意が必要だと思います。
明らかに「宗教」色を出しているものとなら、カトリックに軸足を置いている方は警戒することができるでしょうが、何となく迷信のようなものはかえって付き合い方が難しいですね。ご家族が闘病中というのはF.T.さんでしょうか。そのような辛い時期は、「藁をもつかみたい」時ですから、その状態の「説明」をしてもらって原因を取り除きたいという気持ちには誰でもなると思います。

私は、先祖が何とか、という言説は、個人的に一切受けつけません。先祖との関係は私たちの心の中にあると思うので、カトリックでの「聖人とのコミュニオン」のように、「先祖が守ってくれる」という信頼の連鎖であると思います。「先祖をちゃんと祀っていなかったから罰があたった」というような表現は、罪悪感につけこむマインド・ビジネスにもつながります。

気持ちの安定を求めるならカトリックの方なら闘病している方のためにミサをあげてもらうとか、信頼できる方に祈ってもらうとかも可能だと思います。
私は母が倒れた時に、ある神父さまに「お母様にとって一番いい結果になるように神さまに祈ります」と言われてすごく楽になりました。

また、去年、肩を傷めて痛みに苦しめられたので、早く楽になるなら何でもしようと、ダメもとだと思って霊能者にも見てもらいましたが、「生き霊が憑いている」と言われました。そんなことは信じないけれど、反証することすらできないブラックゾーンですから気分が悪く、結局、別のポジティヴな霊能者から「そんなことはありませんよ」と言われてやっと落ち着きました。

占いでひどいことを言われたことも過去にあり、それを回避するには特別の祈りが別料金で必要と言われました。その時も、「そんな人を信じてはいけない。何の問題もない」と言ってくれる別の占い師に否定されるまで気分が悪いでした。

ドクターショッピングのようにスピリチュアル系を渡り歩くと、実にいろんなことを言われるものです。ポジティヴでいいところだけキャッチすることでストレスを軽減するスキルのない人は、最初から近寄らない方がいいと思います。

それに、病気でいうと、先祖から受け継いだ遺伝子でさえ、病気に決定的なものでなく、生活習慣や環境汚染やいろんな要素が複合しているのです。
ちゃんとした情報を集めて読み解いて、試行錯誤し、精一杯手を尽くし、それでも治る見込みがないとしたら辛いですが、病気の人に寄り添ったり大切に思う気持ちや感謝の気持ちなどを伝えたりすることで、病気にも死にもさえも切り離されることのない絆を深めることは可能だと思います。
愛は死より強し、と言いますが、それは「愛はたいていのものの前で屈するのに、「死」にだけは屈しない」、という意味だという人もいて、本当だなあ、と最近思います。

苦痛や不幸の原因を先祖などもろもろの他者や他のことに転嫁するのは逃避の一種で、それを分かっていながらマネージメントする自信があるなら、他の人に迷惑をかけないなら、それも「方便」でしょう。
逃げ道や言い訳がたくさんあった方が柔軟に生きていけるかもしれません。でも、本当に老いや病気や死を前にした重大な危機の前には、かえって耐性がなくなって心が折れてしまうか、悪意の人に騙されてしまうかもしれません。

まあ、何にしろ、今「はまってしまっている」人とは同じ土俵で話し合えないので、やんわりと無視するのがいいと思います。私が役に立てそうなことがあれば遠慮なくおっしゃってください。

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545F.T:2011/11/10(木) 12:34:42
ありがとうございます
早速のお返事ありがとうございます。
病人をかかえているのは、私の方です。順調なときであれば、軽くスルーできたのですが、辛い時期には、ついそういう誘いに反応してしまいそうになります。その友人は、除霊(手かざし)を受けに信仰宗教のお寺にも足しげく通っていて、それにも誘ってきます。

でも病気やら不幸な出来事に見舞われている人なんて、いくらでもいるわけで、もっと言えば、3・11の津波であっという間に人生を奪われてしまったおびただしい数の人たちは、その先祖からのどんな因縁でそういう目にあってしまったわけ?と思っていました。

そのような誘いには、どこか弱みにつけこんでくるような気配を感じてならないのですが、弱っているときには、それに反駁するだけのエネルギーがなくて、不安感だけがあおられてしまっていました。「悪霊がついている」と霊能者に言われて、それを別の霊能者に否定してもらって、安心なさった、というお話に思わず頬がゆるみ、ほっとした気分です。

病人に対しては出来うる限りの手は、尽くしているつもりですし、あとは、痛みに寄り添っていきたいと思います。

546Sekko:2011/11/10(木) 19:12:42
そうですね。
ほんとうに、津波や地震で流されたり下敷きになって亡くなった方の恐怖や苦しみや、残された方の辛さを考えれば、できる限りの「闘病」をご家族の方と共に続けられることは、それだけで恵みだと言えるかもしれません。

今は痛みの緩和治療も発達していると思いますから、そのことでセカンドオピニオンを聞いたり、少しでも楽になる療法を探すのは当然だと思います。でも、エビデンス(有効性の統計的根拠)が重視される医学の世界ですら、医師との相性やめぐり合わせでまったく変わってくるのですから、霊媒師系は手を出さないのが一番です。

痛みを訴えながら亡くなった若い友人の最後の日にいっしょにいた体験がありますが、新興宗教にはまっていた彼女がなぜか聖母の不思議のメダイを握りしめていて、私はずっと彼女の腕をさすっていました。

闘病中のご家族にとって、F.T.さんの想いや、スキンシップは、どんな「除霊」より有効だと思います。どうか無力感にとらわれることなく、さまざまな苦しみも許容する港のような心境でいられますように。

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547迷える大羊:2011/11/29(火) 23:49:27
イエスが上司だったら
 最近、携帯電話をスマートフォンに変えたのをきっかけに、スマートフォンの実質的な開発者であるスティーブ・ジョブス氏の伝記やら関連記事やらをいろいろと読んだのですが。

 外から、一消費者としてみると確かにすごい人、天才、変革者、ですが、相当アクの強い人でもあったらしく、あちこちで衝突をし、自分の会社から追い出されたこともありますし、部下、社員には相当キツイ、厳しい要求をする、無能者は容赦しない人、実際に身近な人間として付き合うのはかなり厳しい、緊張を強いられるタイプの人だったようです(大病を患ってからは、かなり「丸く」なったみたいですが)。

 イエスなんかも、外から、一信者としてみると「愛の人」「変革者」のイメージですが、実際に教祖、というか現実の上司、先輩として付き合ってみるとどうなんだろ?という気もしてきました。聖書のエピソードを読むと、かなりの過激派(テロリストってことではなく)だし、舌鋒鋭いし、皮肉屋だし・・。実際、ペテロなどかなりきつ〜い言葉をイエスから投げかけられているシーンがしばしばありますし(引き下がれ、サタンが!、とか)。

 実際に私なんかが、イエスに会って部下になったら、言動の矛盾を激しく罵倒されて全人格を否定されて追い出されて終わるのかも、という気がしないでもないです。彼の思想からして、身近な人間、血縁者だから優しくする、なんて発想はまずない、むしろそういう人間にこそ厳しくあたりそうですし・・。
 まあ、冷静に考えて、単なる「いい人」「優しい」だけの人が、カリスマ的な人気を集めたり、逆に磔にしてやりたいほどの憎しみを買うこともないでしょうし。

 いずれにしても、凡人が天才と付き合うのは大変、私自身は凡才でも、愚者でもいい、「いい人」とだけ付き合って平凡に暮らしたい・・・、なんて考えちゃいます。
 実際、あらゆる虚飾、名声を抜きにした本当のイエスのキャラクター、性格はどのようなものだったのか?今となっては不可能と知りつつ、知りたくてたまらないですね。

548Sekko:2011/11/30(水) 23:33:28
イエスの性格
イエスは子供はみんな天国に行けると考えてたように、多分、いろいろ保身を考えたりする大人の偽善性を一番嫌ってたのだと思います。共同体主義みたいなのも。

家族だから、血がつながっているから、同じ村出身だから、みたいな「なあなあ」もすごく嫌いそうですね。

でも、ただ弱い人間とか、懐疑や恐怖によって道を誤る人間には、わりと寛容だと思うんで、私は怖くないです。

スティーブ・ジョブスは私には、絶対、無理。

でも、イエスが上司だったら、そもそも商売はうまく行かないでしょう。

パウロの方がやはり(仕事の)上司としては適性があるかも、です。

でも、本当の意味で「偽善」を排するのって、凡人にはすごく難しいことで、「いい人」の9割は偽善とか妥協とか、あるいは単に「鈍い」のかも。

普通の人が「自然体」にしてたらエゴの固まりになるだけだと思うので、目いっぱい偽善を排して自分に厳しくして、それでようやく少しだけ他人に寛容になれる程度じゃないかなあ、とこの頃は思います。

http://setukotakeshita.com/

549迷える大羊:2011/12/01(木) 21:46:40
お忙しい中、恐れ入ります
 イエスの教えとか行動をみて考えさせられることの一つは、本当に「いい人」「優しい人」ってなんだろうな?ってことですね。
 で、キリスト教、というか、イエスの教えの本当のご利益っていうのは、世間一般の「いい人、悪い人」「優秀な人、劣った人」というくびき、「常識」から解放され、自分らしく、肯定して生きていける、ということじゃないかな、と思います。うまく、説明できないんですが・・。

 パウロって、以前から、個人的にマイクロソフトみたいだなぁ、って感じてます。思想的には別にオリジナリティに溢れる・・、てわけではない、彼の功績は一にも二にもその営業マンとしての素晴らしいセンス。つまり、独創性あふれる考案はできないけれど、既存のものをとって、うまくパッケージングして、売って売って売りまくる。

  売り込みの為なら、オリジナルをまるっきり書き換えることも辞さない・・。ビル・ゲイツ氏率いるマイクロソフトは、いろんなアイデアをごった煮的に入れては、それを協調性のない形で実装して広める、オリジナルを知っている人々は、「なんだこりゃ?」と怒るけど、一般ユーザー(信者)からすりゃ、とりあえず手軽に使えれば(救われれば)、なんだっていいんで、なんだかんだいわれつつも普及していく・・。
 なんだ、パオロの布教、宣教の過程そっくりじゃん・・ってことで。怒られるますかね?こんなこというと。

 もっとも、パウロがいなければ今ある、世界宗教としてのキリスト教はなかったわけですし、イエスの教えだけでは、ある意味エキセントリックすぎて、常識的な一般市民には受けなかった可能性も大。どちらがいい悪いではなく、イエスとパウロの二人がそろって、合わさって、初めて世界宗教・キリスト教なんでしょうね。

 ま、ビートルズのレノン・マッカートニーみたいなものか。まったくどうでもいい話ですが、前教皇・ヨハネ・パウロ二世って、英語で読むとジョン・ポールだな、ってふと思い出しました。失礼しました。

550迷える大羊:2011/12/30(金) 14:40:30
金一家とキリスト教
 「将軍様」崩御で、またまた話題を世界に振りまいている北朝鮮について。このニュースを見て思い出したのは、将軍様・金正日氏のお父上、首領様で「永遠の主席」こと金日成氏について。
 先生の著作「ローマ法王」で金日成氏は外戚にクリスチャンがいて、食糧支援などの援助もその繋がりで獲得した・・という話があったように思ったのですが、本当ですか?
 そういえば、あの国のロイヤルファミリーには、例えば、将軍様については白頭山(韓国人、朝鮮人にとっての霊峰、富士山のようなもの)のふもとにて、一番星の下、お生まれになった・・、と第三者からすれば、ホンマかいな?としかいいようない伝説が多くあります。
 イエスについても、ダビデの末裔でベツレヘム生まれなんて、到底、事実とは信じがたい「伝説」が福音書で語られていますが、自らの「神格化」に当たって、聖書とかキリスト教を「参考」にしたんでしょうか?
 思えば、スターリンも元は牧師になるべく、神学校に通っていた人物みたいで、共産主義って実のところキリスト教の裏返ったものなのかも?とよく思わされます。

 ところで、以前から述べていますように、私は、なんていったらいいのか、左がかったもの言いに強い拒否反応がありまして。そんな私にとって、日本のキリスト教会の「左巻き」な言動の多さにはついていけない、と思うことが多々あります。

 もちろん、私自身も含めて完全に不偏不党、中立、公正な組織、人間などというものは存在しないことは重々承知しているんですけれども、それにしても、これはないだろう、と思ったのは、日本キリスト教協議会(NCC)の今年3月の北朝鮮の食糧危機に関する声明。

http://www.kirishin.com/2011/03/ncc2011312.html

、「北朝鮮で食糧不足から餓死者が出ているという情報を日本のメディアが報道していないという現実、また、それと深く結びついていると思われる日本政府の一方的な韓国政府への肩入れというわたしたちの置かれている現実を深く自覚せざるを得ません」

 あくまで悪いのは日本政府と韓国政府なんだそうな・・。いくら、キリスト教と左翼・左派系思想には親和性があるといったって、「左側」の不正やら矛盾には目を瞑るのが、キリスト教の「正義」なの?との疑問がいっぱい・・。
 もちろん、前述したように、完全に公正な人間、不偏不党な人間なんていないでしょう。だからこそ、「神のものは神のものに、カエサルのものはカエサルに」とか、確か、ヨハネの福音書だったと思いましたが、「正しい人など誰もいない」といった具合に、地上の問題について、信仰や教会の立場で特定の立場に肩入れすることを否定しているんじゃないの?と思うんですが。
 どうしても、その種の政治運動がやりたければ、あくまで個人単位で、教会とか信仰を表に出さないで下さい、って思うんですけどね・・。
 

551Sekko:2011/12/31(土) 02:28:19
キリスト教と左派
私も今度のことで、金正恩にどの程度キリスト教の影響があり得るか調べてみようとしたのですが、今のところ具体的なことは見つかりません。ただ、ブログにも書きましたが、韓国のカリタス・コリアやパリ外国宣教会、韓国司教会議などを通じたNGOなどのパイプは、現在、しっかりつながっているようです。ピョンヤンのカトリック教会のミサに参加したフランス人ジャーナリストのドキュメントも見ました。アラブにおけるイスラミストと違って、民族宗教でもないこういうところから「民主化」へのきっかけができるといいのに、と思っています。

弱者の側に立つとか、飢えた人に食べさせ、渇いた人に飲ませる、というのはキリスト教の基本姿勢なので、それは「政治的中立」に優先すると私は思います。

ただし、それを「日本政府」がどうとか「韓国政府」がどうとかという政治的言説にして批判するとしたら、日本のキリスト教協議会は、自国の信徒や一般人の「空気を読めない」ことはなはだしいですね。たとえばミッションスクールのカルチャーとしてのキリスト教シンパや信者の人に対しては、逆効果もいいところでしょう。

政治的な公正とか中立とかは、時代や状況によって変わるものですし、党派がどうあれ、明らかな「犠牲者」の側に立つアクションというのは、「無関心」や「見て見ぬふり」よりずっとましなことだと思います。今年の3月の時点で本当に韓国政府がNGOの食料援助を規制していたのだとしたら、キリスト教組織による抗議は必要だったのかもしれません。

今年はアフリカでもひどい飢餓難民が出ましたが、普段は帝国主義的姿勢をとったり移民に差別したりしているヨーロッパ諸国が毎日のようにキャンペーンを繰り広げ、大騒ぎして援助に駆けつけたのを見ると、「偽善者ですか、キリスト教的自己満足ですか」という突っ込みも喉から出そうになりますが、飢えている人の立場に立てばやはり、健全な反応かなあと思います。政治的な右や左の問題じゃなくて、強者と弱者の問題でしょう。

フランスのカトリックはもちろん、「保守」の側に秤が傾いていますが、「社会福祉」もその「保守」に組み込まれています。「カトリック左派」というのももちろんいますが、フランスで「左派」で活動しようと思ったら宗教色を出さずに政教分離の「共和国主義」の看板を掲げることになります。日本のキリスト教が左派的言動を表に出すことがあるのは、それだけ、日本の「左派」というのが消滅に近い状況にあるからなのかもしれません。それはそれで心配です。多様な抵抗勢力がある社会の方が、一部の強者の暴走を牽制できるでしょうから・・・

http://setukotakeshita.com/

552迷える大羊:2011/12/31(土) 08:01:35
左派アレルギー
>日本の「左派」というのが消滅に近い状況にあるからなのかもしれません。それはそれで心配です。多様な抵抗勢力がある社会の方が、一部の強者の暴走を牽制できるでしょうから・・・

 それはその通りで、私にしたって、抹殺してやろうとはゆめゆめ思いません。でも、日本の左派って国家権力とは別の「強者」に阿ってるパターンが多いですし。
 北朝鮮についていえば、例えば拉致事件についても無視、あるいは相当に証拠が出た段階でも「日本政府・韓国政府のでっち上げ」みたいなことをいってましたし、いよいよ否定できなくなると「植民地支配の清算をしない日本がどうのこうの」と絶対に北朝鮮政府への直接的批判は避けるんですよね。私には、本来の意味での「弱者」の味方にはみえません。
 なんていうか、もうちょっと現実に即した理論なり、立場なりをとってもらいたい、って思います。本当の「弱者」がわかんなくなってきます。彼らの言説をみていると。

 しかし、本当にカトリックとかキリスト教系団体が北朝鮮国内で「自由に」活動してるんですか?うーん、信じがたいですね。あの種の独裁国家において、キリスト教というのは、エイリアンが宇宙船に入り込むようなもの、中から食い荒らされるようなものだと思うんですが・・。
 真面目に信仰すれば、どうしたって今の体制はまともなのか?って疑問を抱きますよね。そんなことがわからないほど、朝鮮労働党側もアホとは思えませんが・・。

553:2012/01/14(土) 21:27:14
アンネリーゼ・ミシェルについて
映画「エミリー・ローズ」のモデルとなったアンネリーゼ・ミシェル (Anneliese Michel)の悪魔憑き事件について、どうお考えになっていらっしゃるかご意見をうかがいたいのですが、よろしくお願いいたします。

アンネリーゼ・ミシェルは、1968年の16歳頃から震えなどの異変が身体に出始め、精神科医に「てんかん」と診断されます。薬を処方され暫くは落ち着いていましたが、やがて普通のてんかんの症状を逸した症状が出始め、幻覚を見たり、身体を何かに持ち上げられベッドに何度も叩きつけられたりします。彼女の意思とは関係なく物凄い力で体を動かされたりしたため、 薬を飲んでも治まらず、やがて蜘蛛や蝿を食べるようになります。とても本人の声とは思えない声で汚い言葉を吐いたり、彼女が知りもしないラテン語を喋るようにもなったといわれています。彼女は自分が悪魔に取り憑かれたのだと考えます。

1973年(20歳)の時、両親は、教会に悪魔祓いを頼みますが拒まれます。 医者にかかり再び薬を処方されましたが、症状とその現象は悪化していきます。1975年、22歳の時、ようやくヴュルツブルク司教会は悪魔祓いの許可を出し、カトリックのエルンスト・アルト司祭(当時41歳)とアーノルト・レンツ(67歳)が悪魔祓いを行います。司祭が「お前は誰だ」と問うと、返事をし、名を名乗ります。アンネリーゼには、6体の悪魔が取り憑いています。

6体の悪魔は、次のとおりです

1 ルシファー(堕天してサタンとなったとされる地獄の王)
2 カイン(アダムとエヴァの息子。アベルという弟を殺し、人類最初の殺人者とされる)
3 ユダ(十二使徒のひとり。キリストを裏切った)
4 ネロ(キリスト教徒を迫害し後世暴君と評されたローマ皇帝)
5 バレンティン・フライシュマン(1572年から1575年にかけてエットレーベン教区で司教を務めた堕落した聖職者)
6 ヒトラー(近代史のドイツの悪名高い独裁者)

悪魔払いは一度は成果をあげますが、再び、アンネリーゼにとり憑き、食事も摂らなくなり1976年7月1日他界しています。

その後彼女の両親と神父は起訴され、裁判の結果両親と神父は過失致死で懲役刑、執行猶予6ヶ月という判決を受けています。写真や録音記録が多数残っていることから、何かと話題になることがあります。この件に関しては、長年いろいろと疑問を持ってきましたが、未だによく分からない不思議な事件だと思っています。

554Sekko:2012/01/15(日) 04:18:35
悪魔憑き
映画は見ていません。

この事件のことは読んだことはあります。

私は、生きている人から発せられているにせよ死んだ人からにせよ悪意を持ったサイコエネルギーとか逆に善意のエネルギーなどが、生きている人に影響を及ぼすことがある、ということは信じられるのですが、この事件の場合は違うような印象を持ちます。特に、いわゆる「憑依」現象で、ルシファーだとかネロとかヒトラーとか、固有名詞が出てくるようなのはただの文化的表象だと思います。

このアンヌリーズさんが、幼い時は非常に熱心なカトリックであったことや、てんかん、統合失調、ジストニア(不随意運動)、ジル・トゥーレット症候群、多重人格、記憶障害など、複合した神経疾患を発症していたらしいことを考えると、「信仰や祈り」に拠ってもそれが治らないことへの絶望から「悪魔憑き」に逃避した(それを言いだしたのは彼女自身だそうなので)のは十分あり得ると思います。

そこで悪魔祓いをしたのは「火に油を注ぐ」ようなものでかえってそこにのめり込むことになった気がします。

私が親だったら、「悪魔を祓う」という方向より、むしろ、彼女が崇敬していたらしい聖母の巡礼地に連れて行くなど、「恩寵」をもらえるという期待の方に誘導していったでしょう。何らかの演出というか、お話しの道筋をつけることは、薬の服用と並行して有効かもしれませんから。

プラセーボとしても、「悪魔祓い」によって悪魔のパフォーマンスを全開させるのはよくなかったと思います。若いのだからとりあえず点滴などで栄養確保して、ひたすら休ませる方がよかったとは思いますが、重症だったのでしょうから症状が軽減したかどうかは分かりません。この事件のように餓死とか脱水で死なせるのは避けたいところです。でも、実際に子供がこういう事態に陥ったら、両親はそれこそ「祈る」しかないような気もします。

宗教的な教養のある精神医によるサイコテラピーがある程度苦しみを軽減したかもしれません。彼女の苦悩の原因を悪魔以外のものにうまく「転嫁」することは可能だったんじゃないかと思います。

余談ですが、この人の悪魔祓いの音源をフランス系のウェブで聞いたら、何分何秒目のところでフランス語で「私は死にたい」と言っている、というコメントがついていて、そこを聞いてみると、本当に、だみ声でそう言っているように聞こえるんです。日本人だって、日本語で「・・・言っている」というコメントをつけられるかも。あるいはもうついていたりして・・・。「言われてみればそう聞こえる」ということで、「超常現象」をエスカレートさせるのもなんだかなあ、と思います。

http://setukotakeshita.com/

555:2012/01/15(日) 11:38:07
潜在意識の奥深さ
素晴らしい回答をありがとうございました。この事件については、You tubeの映像なども多く、遺族や当時の関係者の証言なども見ることができます。40年ほど前の事件ですが、歴史に残る事件ではあると思います。私が長年疑問に思い考えていたところと、ほぼ同じ見解の回答を拝見して、ほっとしました。ここまで極端な事例ではなくても、似たようなことは、身の回りに意外にたくさんあるのではないだろうか思います。人間の潜在意識の問題は、本当に奥深いものだということを実感いたします。

556:2012/02/06(月) 11:20:53
旧約時代
アブラハムの時代は多神教だったのでしょうか?

557sekko:2012/02/06(月) 21:18:04
和多田 敦子さま
ユダヤ民族が多神教だったというより、彼らを取り巻く世界全体が多神教だったと思います。その中で、「アブラハムの神」「イサクの神」のような部族神への信仰が生まれて、その後、出エジプトの試練の中で一神教的な優越神が生まれ、それでも、すこし落ち着くと周りの他の神に目移りする人は多く、バビロン捕囚などの新たな苦難を経て、ようやく、一神教の形ができたというのが今の歴史学の通説ですね。Jean Bottéro の『神の誕生』という本に詳しく解説されていました。今検索したら日本語版も出ていました。『神の誕生―メソポタミア歴史家がみる旧約聖書 』(ヨルダン社)

http://setukotakeshita.com/

558:2012/02/18(土) 10:27:56
聖アウグスティヌスのテキスト
竹下様
初めてお尋ねします.面識も得ずに失礼します.

私は「ヨーロッパの死者の書」を拝読し,3回読み直しました.
著書に出会ったのは,図書館で,バルタザールの「過越の神秘」の直ぐ側にあったからです.
もう10年ほど前になりますが,母の葬儀の際,私は「別れは小さな死」というフレーズを言いましたら,司式司祭が「死は小さな別れ」と言い直してくれました.
このニュアンスが心にとどまっていて,いつか解きほぐしたいと思っていました.
文中に深く思考された方の心を感じて,沢山慰められました.本当にありがとうございます.

それで,私なりに調べてみましたが,素養がないため,探せず,ご示唆をお願いしたいことがございます.

ソレンヌへの葬送の辞として兄が選んだ12頁掲載の聖アウグスティヌスのテキストは,どの著書の何巻かをご存じないでしょうか?

どうか,ご返事を下さいますように,お願いいたします.

559sekko:2012/02/19(日) 07:50:45
mimemegeneさまへ
あのテキストは、フランスでは「アウグスティヌスの祈り」として今でも、教会での葬儀ミサで読まれることがかなり多いものです。最近では女優のアニー・ジラルドの葬儀で読まれたはずです。
いろいろなところに引用もされています。

ソレンヌの葬儀の時にもそのタイトルで読まれ採録されていたので、私は現代フランスの標準的死生観の一端としてあの本にその部分をフランス語から訳して収録したわけです。

すると、このテキストに感動したという声があり、同じものがその後、雑誌に一度、単行本『大人のためのスピリチュアル超入門』(中央公論新社)にも採録されました。

そんなわけで、非常に気になっていたのですが、実は、フランスでそう言われているだけで、元はイギリスの国教会司祭Henry Scott Holland(1847-1918)の説教(1910にエドワード7世の遺体がウェストミンスターに安置公開されていた間の5月15日、セイント・ポール大聖堂で話したもの)の一部なのです。

そして、これは真偽は定かではないですが、それをフランス語に訳したのがシャルル・ペギーだそうで、その訳文があまりにも感動的なのでペギーの祈りとも呼ばれているのです。(ペギー研究者は1996年にこれを否定しています。)

また、今でも、Holland師がアウグスティヌスのテキストにインスパイアされてこれを語ったという話もあるので、もともとがどこにあったのかは私には分かりません。説教全文の中でアウグスティヌスに触れたのかどうか、全文を読んでいないので確かめていません。イギリスでもこの部分だけが語り継がれているように思います。

私もとても気に入ったので、本の中では、若くして命を絶ったソレンヌや遺族に思い入れを入れて日本語訳しました。その思いが通じたのか、それが今でも、mimemegeneさんの慰めとなったことは望外です。

とにかく、英語の原文だったと思われるテキストは今はネットでも読めます。英語では、以下の通りです。フランス語にはかなりヴァリエーションもあります。

? Death is nothing at all, I have only slipped away into the next room.

I am I, and you are you.

Whatever we were to each other, that we still are.

Call me by my old familiar name, speak to me in the easy way which you always used, put no difference in your tone, wear no forced air of solemnity or sorrow.

Laugh as we always laughed at the little jokes we shared together.

Let my name ever be the household word that it always was.

Let it be spoken without effect, without the trace of a shadow on it.

Life means all that it ever meant.

It is the same as it ever was.

There is unbroken continuity.

Why should I be out of mind because I am out of sight?

I am waiting for you, for an interval, somewhere very near, just around the corner.

All is well. ?


フランス語や英語では、「私」や「あなた」という人称代名詞にいろいろな思いを込められますが、日本語では、故人や遺族に合わさないとしっくりこないこともありますね。

その『ヨーロッパの死者の書』を書いてから現在までの間に私は両親を次々と亡くしましたが、両親が別の形ですぐそばにいてくれることは実感しました。生前、日本とフランスにわかれていた頃よりもずっと近くの感じです。

私には死者が勝手に千の風になって吹き渡るとは思えませんが、互いに思いを残した者同士が想起し合うとき、生きていた時のさまざまな障害(距離とか病気とか老いとか・・)を越えてより親密な深い場所で何かが起こるような気がします。両親との「別れ」はその意味で「新しい出会い」でもありました。その「出会い」からずいぶん力をもらえたようにも思います。mimemegeneさんもそんな思いがおありになったのではないでしょうか。

そんなわけで、ちゃんとお答えできなくて申し訳ありません。それでも、このテキストの価値には変わらないと思います。

ご質問していただいたおかげで、ようやくこの件についてくわしく書くことができました。ありがとうございます。

(ここまで書いた後で、思い立って日本語で検索したら、ホランドの詩として『さよならのあとで』というタイトルで今年の1月27日に夏葉社から絵本が発売されているようです。知りませんでした。ごめんなさい。)

http://setukotakeshita.com/

560:2012/02/19(日) 22:36:44
心からの感謝を!
ご返事に心から感謝します.
こんなにも長文の概要を教えて下さったご親切に,とても感激しております.
『両親との「別れ」はその意味で「新しい出会い」でもありました。その「出会い」からずいぶん力をもらえたようにも思います。mimemegeneさんもそんな思いがおありになったのではないでしょうか。』と,私のことを思いやって下さり,本当に安らぎます.
私にも帰天した両親との「新しい出会い」が沢山あります.
そして両親だけでなく,他にも幾人かの出会いが続いています.
この他にも私の体験では,死後10年以上経っているのに生身のままのご遺体に聖なる業を見たことや,霊操の体験で多くの恵みをいただきました.
向きあうようにイエスが現れたという人も沢山知っています.
竹下様がおっしゃるように,出会いが恵みだと実感しています.
今日は,聖三木図書館に行って,竹下様の著書を沢山読みました.所蔵数が多くて,一日では読みきれませんでした.

もうお読みかもしれませんが,
夏葉社刊「さよならのあとで」は,その夏葉日記という創業者のブログの2012.01.16(mon)に,
「1月27日に一編の詩とイラストの本を刊行いたします。
3年前、僕は、一番の親友であった従兄を、事故で亡くしました。
以来、創業時から、祈るような気持ちで、この本をつくってきました。
みながみな、いいという詩ではありません。
けれど、僕が、この詩に慰められたように、この詩が、かなしんでいる人の心を、ほんの少しでも、支えてくれたら、と願っています。
なお、この詩の訳者は匿名ですが、その方もまた、大切な家族を失っています。
下記に、全詩を、引用いたします。。。。。」
と書かれています.創業は09年.
1995年の竹下様の訳出文が,上記の方々にとって,「新たな出会い」になっているように思えてなりません.
("Death Is Nothing at All "(ISBN-13: 978-0285628243, Souvenir Pr Ltd UK)が1994年に出版されていて,日本のアマゾンでも買えるようになっていますね.)

私が祈りたいのは,竹下様の訳出文が,日本の司牧者にとって「新たな出会い」になってほしいことです.
竹下様の訳出文のまま複数サイトで掲載されていますし,著書もあるのに,残念です.
カトリックは特に「自死」を通年で取り上げていますが,多くの方がご存知だと嬉しいです.

561sekko:2012/02/20(月) 04:14:15
ハイブリッド
ありがとうございます。

夏葉日記のことは知りませんでしたが、今読んでみたら、最後の

「あなたは私の心をまた見つけるでしょうその中で純化したやさしさといっしょに。
涙をふいて。もし私を愛しているなら、泣かないで」、という文はありませんね。

それでまたフランス語のウェブをあれこれ検索しましたら、ドミニコ会やらベネディクト会の紹介している「アウグスティヌスの祈り」がありまして、中身は違うのですが、「涙をふいて、もし私を愛しているなら、泣かないで」、で終わっています。
「あなたは私の心を・・・」の部分も入っています。出典はありません。死者を悼む祈りのアンソロジーには必ず入っているようです。

でも、アウグスティヌスの『「泣かないで」の祈り』で検索すると、私の訳した文も出てきて、これを葬儀ミサで読んだ、慰められた、という人の手記が少なからずあります。

経緯はわからないのですが、1990年代からこのテキストが多用されるようになったそうで、ホランド師の説教の一部とアウグスティヌスの祈りの最後の部分が合体したようです。「泣かないで」というのを最初に持ってきたものもあります。前回書きましたように、ペギー訳ということに関しては学者から反論が出ていますが、アウグスティヌスのものと合体しているという指摘をしている人は、ネット上ではまだ見つかりません。

文学や神学の研究の過ちではなく、実際の葬儀ミサで読まれて広がったということで看過されているのでしょう。
フランスだけでこういう現象が起きているのかどうかわかりませんが、アウグスティヌスの部分が入ったことで、より胸に響くようになったと思います。国王の死の説教から、愛する人の死の方により親密にシフトしたような。

祈りというものはこうして語り継がれていくのだなあと思います。

私はソレンヌの葬儀で読まれたもののヴァージョンを訳したので文脈上出典は気にしませんでした。それを読んだお兄さんの感じていただろうように訳しただけです。

このような祈りに著作権やら商業的意味があるわけではありませんから、こうして「出会い」のきっかけになったことを感謝するばかりです。

PS??参考にアウグスティヌスの方のフランス語をコピーしておきます。
ここでは、亡くなった方が天に行って、そこがどんなに美しくて幸せか、とあり、見つける「心」は神の心だと解釈できます。

Si tu savais le don de Dieu et ce qu’est le ciel,

Si tu pouvais d’ici entendre le chant des anges et me voir au milieu d’eux,

Si tu pouvais voir se dérouler sous tes yeux les horizons et les champs éternels, les nouveaux sentiers où je marche,

Si un instant tu pouvais contempler comme moi la Beauté devant laquelle toutes les beautés pâlissent …

Quoi ? Tu m’as vu, tu m’as aimé dans le pays des ombres, et tu ne pourrais ni me voir, ni m’aimer encore dans le pays des immuables réalités ?

Crois-moi, quand la mort viendra briser tes liens comme elle a brisé ceux qui m’enchaînaient, et quand un jour que Dieu connaît, et qu’Il a fixé, ton âme viendra dans le ciel où l’a précédée la mienne, ce jour-là tu reverras Celui qui t’aimait et qui t’aime encore, tu retrouveras Son cœur, tu en retrouveras les tendresses épurées…

A Dieu ne plaise qu’entrant dans une vie plus heureuse, infidèle aux souvenirs et aux vraies joies de mon autre vie, je sois devenu moins aimant !

Tu me reverras donc, transfiguré dans l’extase et le bonheur, non plus attendant la mort, mais avançant d’instant en instant avec toi, qui me tiendras la main, dans les sentiers nouveaux de la Lumière et de la Vie, buvant avec ivresse aux pieds de Dieu un breuvage dont on ne se lasse jamais et que tu viendras boire avec moi …

Essuie tes larmes et ne pleure pas si tu m’aimes !…

562:2012/02/20(月) 13:09:04
日常に深く根付くように
仏文を下さって,ありがとうございます.
その後少しネットを見ましたら,作者Saint Augustineとして
St.Augustineへの母St.Monicaの言葉
上記とHolland師の合体
の2バージョンがありました.
いずれもアメリカに住むカトリック信者のサイトで見ました.母St,Monicaの出典は調べていません.
『ホランド師の説教の一部とアウグスティヌスの祈りの最後の部分が合体したようです。』という竹下様のご指摘のとおりですし,『祈りというものはこうして語り継がれていく』という推測の通りでした.
ありがとうございます.

味わったり,祈ったりして,深く感じられるようにしてみようと思います.
各国で,この祈りが,葬儀とその後の日常に深く根付くようにと願ってやみません.


---------------------
St.Augustineへの母St.Monicaの言葉

Words of Saint Monica’s Soul to Saint Augustine

If you love me, do not weep.??If you only knew the gift of God and what Heaven is!??If only you could hear the angels’ song from where you are, and see me among them!??If you could only see before your eyes the eternal fields with their horizons, and the new paths in which I walk!??If only you could contemplate for one moment the Beauty that I see, Beauty before which all others fail and fade!

Why do you who saw me and loved me in the land of shadows, why do you think you will not see me and love me again in the land of unchanging realities?

Believe me, when death breaks your chains as it has broken mine, when, on the day chosen by God, your soul reaches Heaven where I have preceded you, then you will see her who loved and still loves you.??You will find her heart the same, her tenderness even purer than before.

God forbid that on entering a happier life, I should become less loving, unfaithful to the memories and real joys of my other life.??You will see me again transfigured in ecstasy and happiness, no longer waiting for death, but ever hand with you, walking in the new paths of light and life, slaking my thirst to the full at the feet of God from a fount of which one never tires, and which you will come to share with me.

Wipe away your tears, and if you love me truly, weep no more.

Saint Augustine
-------------------------------
上記St.AugustineとHollandの合体

If You Love Me, Do Not Cry

If You Love Me, Do Not Cry
Don’t cry if you love me
If you know God’s grace
And what Heaven is like,
If you were able to listen
To the angel songs
And you see me among them,
If you were able to think for awhile
About the beauty
That no other beauty can match,
Wipe your tears and do not cry,
If you love me.
Death is nothing.
It is just having moved to the other side.
I am still what I am and you are still what you are.
What we used to be for each other is still the same.
Call me by the name you used to.
And talk to me as you have done before.
Do not use a different tone.
Do not be rigid or sad.
Continue to laugh about what used to make us laugh.
Pray for me.
Smile.
Think of me and pray with me.
Let my name be mentioned at home as before.
Without any exaggeration or distress.
Life continues to mean what it always did.
And it is still the same
The thread did not break.
Do you feel I have become outside of your thoughts
Because I am far from your sight?
No.
I am not far from you.
I am just on the other side of the road,
And everything is fine.
You will find my heart and my love pure.
Wipe your tears and do not cry.
If you love me.
St. Augustine

563迷える大羊:2012/03/19(月) 22:44:44
キリスト教のメディア戦略
 以前、雑談スレで話題にした、日本のヴァーチャルアイドル「初音ミク」ですが、ネット上を見る限り、その人気はリアルのアイドルを押しのけて世界的になっていて、海外では日本のポップスターといえば「初音ミク」と思われているようで、英国の通信社ロイターが今月3月8日、9日に東京で行われた、彼女(それ?)のライブのニュースを世界中の報道機関に配信したみたいです。

http://www.reuters.com/article/2012/03/09/us-japan-digital-diva-idUSBRE8280DO20120309

 こんなエピソードもありました(毎日新聞WEB版より)

http://mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20120129ddm002070124000c.html

http://www.youtube.com/watch?v=HWcw8S9_0ts&feature=related

 いろいろ興味深いことが多いのですが、なぜ、哲学・宗教スレで話題にするのか?というと、この初音ミクがメジャーになっていく過程が、イエスとかキリスト教のそれとそっくりなのではないのか?という気がしてしょうがないからです。以前は冗談半分でしたが、詳細を知るにつけ、もう冗談ではないような気がするもので。具体的には・・。

・イエスと「初音ミク」の「キャラクター」設定

 初音ミクに発売元のクリプトン社がつけたキャラ設定は16歳 身長158cmだけ。しかし、その透明さが却ってネットユーザーの想像力は刺激され、動画サイトには思い思いの初音ミク像を反映した自作曲・PVが次々とアップされブーム化。

 イエスも、福音書でもヨセフとマリアとの間に生まれ、家業の大工を営んでいたらしい、ということくらいしかわからず、救い主としてではない、リアルな人間としての「キャラクター設定」はほとんどないような。単に不明なのか?でも、イエスの弟子たちが何も知らなかったとは思えないし、取材だってしようと思えばいくらでもできたわけで、あえて「真っ白」にしているのではないか?と思えるのですが、どうでしょう?パオロもリアル・イエスについては全く追及していませんし。

 初音ミクの場合、オリジナルは存在せず、ファン同士が動画サイトでさまざまな「初音ミク」を共有できたのがブームの理由ですが、初期のキリスト教会もこういう効果を狙ったんではないか?と思えてくるのですが・・。

 ・聖書と「初音ミク」の楽曲・イラスト等の作品

 初音ミクの楽曲等の作品は特定のアーチスト、制作グループが作っているわけではなく、インターネット上のユーザーがプロ・アマ入り乱れてよってたかって投稿(主にニコニコ動画)したもので、そのうち、ネット上で人気のあるもの、高評価であったものがCDになったり、ライブ演奏されたりしているわけですが。
 その辺りの様子はグーグル日本版のCMに要領よく表現されてます。

http://www.youtube.com/watch?v=MGt25mv4-2Q&feature=related

 そういえば、聖書も特定の作家によって書かれたわけではなく、信者(アマ?)、聖職者(プロ?)入り乱れて作り上げた、さまざまな伝承、信仰告白、信仰証言のうち、クリスチャン社会(ネット?)で人気の高いエピソード、信憑性の高いエピソード(曲?)が取捨選択されて、文書となった(CD化?)もので、トップダウンではなくボトムアップで作られた・・という点では共通しているような気が。初音ミクはネット、動画サイト、聖書は印刷機、とその時代の「先端メディア」にうまく乗っかって爆発的に「ヒット」したのも同じ?

 ・二次創作による豊かさの獲得

 「初音ミク」制作のクリプトン社は著作権を厳密に解釈せず、商業目的ではない、過激な暴力・エロがない限り、二次、三次創作を認める、というよりむしろ積極的に推奨する姿勢をとったおかげで、レベルの高い創作環境が整備され、作品世界が非常に豊かになったわけですが、キリスト教、聖書も、それを元にした二次創作ともいうべき、宗教画、彫刻その他の芸術作品が非常に多く生み出され、ヨーロッパの文化レベル向上に貢献、といった面があるのと似てるのかな?と思ったりします。少々大げさですが・・。
 ミケランジェロやダ・ビンチは「オタク」?現代人に生まれていたら、作品をニコニコ動画に投稿したり、2ちゃんねるあたりに「マリア様、マジ女神」なんて落書きをしていた、かもと思うとなんだかおかしいです・・。

 ・「プラットフォーム」としてのイエスと初音ミク

 カナダのフランス語新聞は初音ミクを「人物というより、インターネットユーザの協力、コミュニティの出現、そしてアイデアの流通を許すプラットフォームなのだ。」と評していますが、キリスト教におけるイエスというのも神様へのアクセス、コミュニティの出現、協力を許すプラットフォームみたいな存在、なんでしょうか。

http://www.cyberpresse.ca/arts/musique/201111/25/01-4471639-hatsune-miku-paternite-multiple.php

http://lunaticprophet.org/archives/6013


 クリスチャンが信じているのは、なんというか、プラットフォームとか信仰の集合体としてのイエスであって現実の人間を崇め奉っているわけではない、というのが「人であり神であり」という話なのかも、と思ったりします。
 「復活」も死人が蘇る、ではなく、リアル人間としてのイエスは死んでしまっても、プラットフォームとしてのイエスは永遠に存在する、みたいな話だったのかも。古代世界に、ネットとかバーチャルとかリアルなんて技術も概念もなく、ボキャブラリーも貧困であったために、うまく表現ができず、いろいろな「誤解」を招くことになった・・と思えるのですがどうなんでしょう。

 こうして書き連ねてみると(もし意図的にやっているとすれば)、キリスト教ってすごい宗教だな、2千年以上先のネット社会を先取りしてるじゃないか?と思ったりします。それとも、単にメディア戦略の基本は時代が変わっても変わらない、というだけのことでしょうか?
 また、こういう解釈ってクリスチャン一般の感覚に近いものなんでしょうか?(特にイエスの位置づけとか「復活」とか「人であり神であり」の部分)

 初音ミクの「ライブ」の様子

http://www.youtube.com/watch?v=aY44nr0ZUZ8&NR=1

564sekko:2012/03/20(火) 08:58:03
キリスト教と初音ミク
うーん、なかなか面白いお話ですね。

でも、私は、この初音ミクのライブの動画を見てカルトの大会みたいな印象を受けます。観客というかファンは、脳内の仮想空間だけを互いに共有しているので、ステージの初音ミクからの情報って、予測できるものばかりですよね。

これが生身の歌手なら、その場は華やかでも、覚醒剤中毒とか、暴力沙汰とか結婚とか妊娠とか離婚とか病気、老い、怪我、事故、酔っ払い運転、激やせ、激太り、いろんなことが起き得るわけだし、過去も背負っていたり、家族や子供を背負ってたり、いろいろあって、いつファンを裏切るかもしれないわけです。そういう危うさも含めて、情報処理負荷がずっと大きい。

これに対して、初音ミクはオーバースペックであっても、中につめられる情報は、受け手の脳の情動システムを本当に駆り立てるようなものではない、と思うんです。逆に、快感を得るために要求される脳内資源というのは小さいと思われます。だから安易にはまってしまう。もちろん、ゲームデザインによる規制には縛られるわけですが、この世で一番ストレスフルな「予測できない他者」とは対峙しない。

でも、生きた他者と対峙しないところには創造的知性は生まれないし、創造的知性のないところに真の救済もないと思うんです。

キリスト教はむしろ、ひとつのテンプレートとして西洋世界に今も使いまわされているので、それを共有しない文化では、仮想空間としてもなかなか認知されにくい気もします。

キリスト教が普遍宗教としてその福音宣教にかけてきた情熱は分かりますが、そして今の福音派のように巧妙なマーケッティングをしているところもありますが、特にヴァーチャルだとは思えません。ヒーローや教祖や神の記号性というのはキリスト教だけではなくてどの宗教や支配者神話にも当てはまると思います。

むしろ、ナザレのイエスは、出自などはなるほど曖昧ですが、受難のシーンというのはかなり真に迫ってリアルに書かれていて、痛みとか傷とかの身体性があり、弟子からの裏切られ方、見捨てられ方、民衆からの嘲罵、どれをとっても、普通の予測を超えたシーンの連続なので、それを消化するだけでも、信者は大変なんじゃないでしょうか。

でもどんなにつるりとしたヴァーチャルな教義に閉じ込めようとしてもそこから必ずしみ出てくる血と水みたいなのがあるところが醍醐味だったりして・・・

http://setukotakeshita.com/

565迷える大羊:2012/03/22(木) 13:24:41
お忙しいところ失礼しました
 まあ、もちろん、初音ミクみたいなボーカロイドがリアルのアイドルにとって代わる、なんてことはなさそうで、一種のニッチ産業でしょうね。たとえ、SFに出てくるようなアンドロイドが実現したとしても・・。初音ミクにしても、冗談が本当に、ひょうたんからコマ、みたいな展開で販売会社自体がビックリしてたりしますし・・。

 私自身はそのSFチックな展開を面白がっている、という立場ですね。あと、従来の作り手→受け手、大手プロダクション、大手テレビ局、電通などの大手広告代理店、マスコミ経由というアイドル製造のパターンを全く破った形で出てきた、という点に痛快さを感じたのもありますね。
 で、そんな「アイドル」が生身のアーチストだって困難な海外ライブ、ロサンゼルス・ノキアシアターライブをあっさり成功させたっていうのも、これまたSFというかギャグ以外なにものでもないてな感じで。(アメリカにも、世界にも「ニコ厨」「2ちゃんねらー」みたいな人々が大勢いるんだなぁって思いました)。
 2009年に「アルバム」がオリコンチャート一位を獲得した際に古い音楽ファンやテレビ局からの「生身のアーチストより仮想歌手の方が人気なんて、世も末」との反発もこれまた予想通り・・てな感じです。

 あと、初音ミクの場合、ヤマハの音声合成技術「ボーカロイド」、SEGAの3DCG、ホログラム技術、アニメ・マンガ、同人文化、ニコニコ動画、2ちゃんねるなど日本独自のネット文化、山口百恵、ピンクレディー、キャンディーズから松田聖子、小泉今日子などを経てAKB48に至る、これまた日本独自の「女の子アイドル」カルチャーなどなど、善し悪し、好き嫌いは別にして、ある意味、日本の技術と文化(サブカル)が集大成されている、といったところも興味深かったです。

 まあ、もちろん、所詮は娯楽ですし、キリスト教とは「内容」が違いすぎるので比較は何なんですが、純粋にイエスのイメージや聖書が流通、拡散していく過程は良く似たところがあるよなぁ、と思った次第です。

 でも、乱暴なのは承知しておりますが、キリスト教には「聖と俗」、「信仰としての真実」と「客観的な事実」を使い分ける姿勢っていうか、伝統みたいなものがあるように思えますが。いえ、遠藤周作氏からパクッた理屈ですけど。でなければ、復活とか奇跡とか、一般常識的にはかなり「ヘン」なことを信じている人々が浮世離れしないで生活していられないでしょうし。
 その辺の感覚が壊れちゃった人がいわゆる「原理主義者」「過激派」になるんだろうなぁって思いますし。ちなみにネットでは初音ミク、ボーカロイドに入れ込み過ぎ、な人を「ミク廃」と呼んでます(笑)。
 

566迷える大羊:2012/04/21(土) 00:06:08
キリスト教の「被害者意識」
 先日、身内の付き合いで教会に行ったのですが、説教の際、日本においてキリスト教が1945年の敗戦・終戦に至るまで、いかに迫害され、偏見にさらされてきたか・・なんて話をされました。別に、件の教会に限らず、この種の話は日本の教会ではよく聞きます。
 でも、個人的にこの種の話を聞くと、なんだかイラっとしてくるのです。なんか、私たちはいつも正しいのに、苛められてばっかり・・なんて被害者妄想全開の愚痴かつ独善的な感じがしてきて。

 いえ、別に日本においてキリスト教に対する偏見とか、障害がなかった、とはもちろん思っていないし、戦前、特に日中戦争勃発後の戦時色の強まった時期においては国家神道との兼ね合い、信仰と戦争協力との矛盾に悩んだりとかあって大変でしたでしょう、確かに。
 さらに1941年にプロテスタント諸派は強引に統合されて「日本キリスト教団」になりましたし。かの遠藤周作氏も「天皇とキリスト、どっちが大事かいうてみい」なんて嫌がらせをよく言われたそうですし。
 あと、江戸時代はもちろん、間違いなく迫害の時代、クリスチャンには暗黒の時代だったでしょうね。

 だけれども、明治時代から終戦に至るまで、絶え間ない迫害と偏見に・・なんて言われると「??」です。そんなこと言うのなら、日本にあるキリスト教会は、戦前はすべて、ローマ時代のカタコンペみたいな地下教会だったのか?

 手元に遠藤周作氏の「私にとって神とは」という本があるのですが、それによると遠藤氏が離婚して入信した母親に連れられてカトリック教会に行き、洗礼を受けたのが10歳か11歳ころの話。遠藤氏は1923年生まれですから、それは1933、34年、元号でいうと昭和8年か9年ごろの話となります。バリバリの戦前期ですが、別に官憲の目を気にして、隠れ家のようなところに行き・・などという描写は出てきません。どう考えても、読んでも白昼堂々と教会に通っていたとしか思えないのですが。

 あと、戦前期の大事件の一つに昭和7年(1932)、白木屋デパートの火災事件があるのですが、その原因は「クリスマスセール」に使用するクリスマスツリーの電球のスパークによるもの・・って「クリスマスセール」??。いくら、信仰とは無関係の商売・イベントとはいえ、常に「偏見と迫害」にさらされている宗教の行事を「祝ったり」するなんてことがあり得るのか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9C%A8%E5%B1%8B_(%E3%83%87%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88)#.E7.99.BD.E6.9C.A8.E5.B1.8B.E7.81.AB.E4.BA.8B

 さらに突っ込むと日本にミッションスクールはすべて、戦後の創立なのか?と思って調べますと、全然、そんなことはない。日本を代表するミッションスクール・上智大学の沿革をみると、1913年(大正2年)の創設、学長にはヘルマン・ホフマン氏という外国人、それも、どうみても教会関係者としか思えない方が学長に堂々と就任しているんですが・・。

http://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/HISTORY-CHART/ayumi1

 あと、明治期から昭和初期のクリスチャンには当時のインテリ階級の武家出身者が多く(内村鑑三、新島襄、津田梅子・・etc)、勝海舟とか渋沢栄一など当時、一級の人物と交友のあった人間も多い。忘れてはならないのがクウェーカーの新渡戸稲造氏で国際連盟事務次長までやっているんですが・・。「偏見と迫害」にさらされて、苛められてばかりの宗教でこんなことあるんでしょうか?

 公平にみて、明治以降、確かに戦時中の一時期、肩身の狭い、つらい思いをしたこともあったかもしれませんが、全体的にみれば、インテリっぽいイメージ、あと欧米先進国のバックがあることもあってイメージはすこぶる良かった、むしろ、迫害・偏見ってことなら金光教とか大本教とか、仏教・神道系の新興宗教あたりへの方がよっぽどひどかったように思えるんですよね・・。
 戦国末期から江戸時代の迫害にしたって、当時のキリスト教はヨーロッパ諸国の植民地獲得の斥候、みたいな側面があったし、じゃあ、同時代のキリスト教国であったヨーロッパって思想・信仰の自由が花開くパラダイスだったの?とのツッコミをどうしても入れたくなりますし。他にもいろいろあるのですが、キリがないのでこの辺りで。

 なんていうか、そこらへんの「事実関係」とか、わりと「恵まれた」環境を「無視」して一方的に迫害、迫害みたいに言われると「いい加減にしてよ」って気分になるのです。
 あと、詳しくは知らないのですが、日本のカトリック教会は戦国末期だか江戸時代初期だかに迫害された人々を聖人候補に申請して認められた(のかな?)ようですが、彼らを否定したり、貶めたりするつもりは全然ないけれども、なんていったらいいのか、もっと前向きな人選はできなかったものなのか?と思ってしまいます。

 質問としては、私みたいに考えるクリスチャンとか教会関係者っているのかな?ってことと、私のようなメンタリティっていうか、ものの見方をする人間はクリスチャンとかカトリック教徒として受け入れられるのかな?ってことですが、どうなんでしょう?

567sekko:2012/05/09(水) 22:19:18
日本のキリスト教
被害者意識は、連帯に向けたマイノリティ・グループのとるサバイバル戦略の一種ですから、そこから自由になるのは難しいですね。

でも、逆に、マジョリティ・グループが、加害者意識と贖罪ばかり考えている自虐的なケースだってこの世には多いわけで、私たちはいつも、そのどちらかに安易に落としこむ誘惑を避けてバランスをとる必要があります。

キリスト教的メンタリティというのは、結局は、信仰に照らされて、人間の生命を絶対に尊重したり、常に、「より弱いほう」に寄り添ったりということだと思うので、過去の迫害のされ方の歴史の見つもりの実態なんて関係ないと私は思います。

迫害した側がそれを正しく認識するのは大切で必要だとは思いますが。

http://setukotakeshita.com/

568迷える大羊:2012/05/16(水) 13:34:57
信仰と現実
>過去の迫害のされ方の歴史の見つもりの実態なんて関係ないと

 これなんですが、もしかすると、「事実関係調べたら、日本でキリスト教は当のキリスト教会が主張するほどにはいじめられてないじゃん、だから、問題なし」という風に思われた?だとすると困ったなぁと思ったりします。

 うまく説明できず困ってますが、これは自分の性格とか経歴の問題かもしれませんが、私、初めにストーリーありきで、情緒優先な話の仕方が体質的に受付ないのです。
 弱者保護とか寄り添うことは、もちろん、とても大切だと思ってます。ただ、本当の「弱者」がそういう、情緒優先、初めにストーリーありきの発想ではわからなくなってしまうのではないの?世の中、そんなに単純なの?という疑問がわいたからです。

 あと、日本のキリスト教、特に戦前期についていえば、確かに個人単位で偏見を持つ人間もいたでしょうが、理解者だって多かったはずです。例えば、聖公会系の知的障害者の福祉施設「滝乃川学園」の理事長は、あの渋沢栄一が勤めていますし、勝海舟の支援も受けてます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E4%B9%83%E5%B7%9D%E5%AD%A6%E5%9C%92

 そんな面を全く無視して、あるいは知らずに、情緒とストーリー優先で1945年まで迫害と偏見に晒され、未だにクリスチャンは増えず・・みたいな話をされると、「そんなメンタリティだから、キリスト教は日本で普及しないんじゃないの?」っていいたくなります。第一、キリスト教への理解者、シンパだった日本人に対し失礼以外何ものでもないし、「感謝」という念を知らんのか?と思ってしまいますし。

 あと、こちらで書くのはどうなのかな?と思う話なんですが、日本カトリック司教団が「原発の即時廃止を」という主張をしています。個人単位でこういう主張をすることは一向に構わないですし、私だって原発は安全、未来のエネルギーなんて夢にも思ってないですし、不信感はいっぱいあります。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/111108.htm

 しかし、キリスト教会の名義で、信仰の名において、そういうことを主張するのは、それは一体どうなのよ?と思ってしまいます。単に清貧の生活をすればいい、なんて個人単位でどうこうなる話じゃないでしょってことで。
 合法的に営業していた企業が、電力不足で突然自社の生産設備の半分を「廃棄しろ!!」などと言われたら、どうするのか?
 最悪、生産縮小、他地域への移転などなどで、地元の雇用が無くなり・・なんてこともあり得るわけで、そうなったら「弱者」に寄り添うとか、救済どころじゃなくなるぞ、ってことですし。
 第一、原発の立地自治体は原発の運用で財政収入とか雇用を得ているところが多いんだし、そういったところの住民、自治体をどうこうする策でもあるのか?実際、関西電力大飯原発の地元、大飯町は原発再稼働を求めてますし。

http://www.asahi.com/national/update/0514/OSK201205140063.html

 単純に原発即時廃止=正義、再稼働、存続=悪という問題じゃないだろ、そんなところに信仰とか神を安直に絡ませてどうする?そんな、学生とかその辺のオジサン、オバサンレベルの、わかりやすい「正義」をキリスト教会で聞きたいんじゃない、むしろ、そういう、あちら立てればこちら立たず、本当の弱者救済とは?という悩みとか矛盾にキリスト教はどうこたえるのかが知りたいのに・・。と思ってしまうのです。
 それどころか、自分は「安全地帯」(物理的にという意味ではなく立場的に)にいて、何「御花畑」を語ってんの?いい子ぶってんの?と反発すら感じてしまいます。

 いささか、不愉快な話があれば、申し訳ありません。でも、どうも、ここのところ、キリスト教会で話を聞いていて、イラッとすることがしばしばあるもので。
 やはり、私はキリスト教には向いていないのかなぁ?と思ってしまう今日この頃です。

569sekko:2012/05/16(水) 22:47:28
弱者やエコロジーについて
いや、私の知っている限りでは、たとえば最近のカトリックの活動型修道会などは、弱者を生むシステムや制度そのものを問題にしたり、新しい時代の新しい形の弱者の「分別」(?)にも力を入れていて、今ここで貧しい人にお食事を提供して、という従来の形ではだめだと言っていて、情緒的どころかなかなか過激ですよ。

日本のカトリック司教団の原発即時廃止の話ですが、日本のことはよく分かりませんが、少なくとも、フランスの司教会議のいろいろな宣言だとかコメントに関しては、別にカトリック全体としての決議とか行動指針ではなく、彼らの内部での多数決の決議だと私は了解しています。必ず反対派の司教もいるわけで、それは教義だの信条だのと違って、何の拘束力もないはずです。もちろん、ヴァティカンの指針としてのエコロジー、環境保護というのは合意となっていると思うので、まあ、最近の日本の状況で宗教家たちが反原発を唱えるのは、全日本仏教会の「反原発」宣言文もあったかと思いますが、妥当なんじゃないでしょうか。

私は個人的には、反原発とか即時廃止とかいっても、即時廃止できるような問題じゃないところが問題なのだと認識しています。こうなった今はもう、テクノロジーの暴走の後始末は、祈りや善意よりも、テクノロジーをさらに駆使して何とか抑え込んでほしいと思っています。核廃棄物処理への長い戦いをどう予算化するかのほうが気になるんです。

二元論的なまたはイデオロギー的な言説はいろいろあるかと思いますが、そんなこと気になさらないで、これまでどおりの複眼で本質をキャッチするようにしてください。

http://setukotakeshita.com/

570迷える大羊:2012/05/25(金) 13:48:50
ワルとキリスト教
 現実のお話ではなく、映画中のお話ですが・・。「2001年宇宙の旅」で有名なスタンリー・キューブリック監督の作品で、「時計仕掛けのオレンジ」という作品がありまして。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E8%A8%88%E3%81%98%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8

 気になるのは、その作中で、浮浪者イジメ、レイプ、強盗・・とワルの限りを尽くす主人公が仲間の裏切りにより逮捕され、刑務所送りとなり、看守から「貴様の教会は?」と聞かれて「英国教会」と即座に答えるところ。(動画中の3:30〜3:36の辺り)

http://www.youtube.com/watch?v=Q1UUZSXFlyc&feature=related

 フランスではなく、英国の話ですが、ああ、あちらじゃ、あんなワルも「クリスチャン」(真面目に信じてるかは別にして)なんだなぁ、所属教会がすぐに出てくるんだ・・映画ではなく、現実でもそうなのかな?と、いろいろ考えさせられました。

 何を今更・・とお思いになるかもしれませんが、日本でクリスチャン、教会員というと、ステレオタイプと半ばわかってはいても、すごく真面目で道徳的、「不道徳」などという形容詞がつく言動とは無縁、性に関してはひたすら保守的・・なんてイメージが強いので、こういう映像をみると、改めて違和感と驚きを感じてしまうのです。

 フランスではどうなのでしょう?イスラム系の移民は別にして、例えば、およそ神とか信仰などとは縁が無さそうに見える、不良やらワルやらでも、映画のように所属教会を聞かれたら、すらすらと答えられるものなんでしょうか?
 あちらでも、毎週教会にやってくるような人はやはり、「真面目」「道徳的」な人ってイメージが強いですか?

571sekko:2012/05/26(土) 17:09:38
ワルと信仰…
なんというか、社会生活に必要なモラルを内包しているまともな宗教をまともに信仰している人は「ワル」を抑制してるでしょうけど、ワルの側に安住している人にとっては宗教の諸族など関係ないのでは…。

逮捕された後という特殊なケースなので私には分かりませんが、フランスは少なくとも英米と違って、共和国の建前上、公文書に宗教の所属や人種を書きこむことはあり得ないので、犯罪者(容疑者)が収監された時にそういうことを聞かれたりサインさせられたりすることはないはずです。刑務所内で聖職者を読んでもらう権利は保証されてますが。

だから、そういうことを聞かれる機会もないわけで、また、歴史的にイデオロギー的無神論者も少なくないので、「非行少年」みたいなのが、自分の宗教を聞かれてすぐに答えられるなんて、日本の「非行少年」が実家の檀那寺の宗派を答えられるのと同じくらいの確率だと想像します。

ドイツなんかは、ついこの前までは税金の申告書に宗教を書いたり公立学校でも宗教の時間のために宗教を聞かれてましたから「答え方」も皆心得ていたんでしょうが…

毎週教会に行っている人、のイメージは、教区によって違います。

移民(中南米系とかアフリカ系)の多い教区では、連帯や支援を求めて、また、生き抜く力を求めて本当に信仰を必要としているとか、神頼みを必要としている人も多いです。情報収集の場、ボランティアとコンタクトできる場でもあります。

ブルジョワの多い教区では、やはり彼ら同士の仲間の社交的な情報交換の場、アィデンティティの確認の場、また、特権的人脈を広げる場にもなりますし、ボランティアをする場でもあります。

後は、地方の小教区などでは、教会は氏神さまみたいなものなので、町内会(というようなものはないので)と同じような感じで、ひたすら近所づきあいや生活習慣、典礼カレンダーにそって季節の移り変わりを感じるリズム、などが続いている人、というイメージでしょうね。

モラルとはあまり関係がないのでは…

逆にフランス人仏教徒で週末には仏教センターなんかに行って講習を受けたり瞑想したりしている人たちに対しては、菜食者で殺生をせず、エコロで痩せてて、まじめで堅い人というイメージがあります。

多分、宗派と関係なくマジョリティとマイノリティの関係でしょう。

http://setukotakeshita.com/

572迷える大羊:2012/05/29(火) 21:18:33
ありがとうございます
 なるほど、この辺りの感覚は欧米でも、国によってかなり感覚が異なるんですね。それにしても、フランスの政教分離は徹底してますね。恐らくは世界一徹底しているのでは?と思ったりします。

>ついこの前までは税金の申告書に宗教を書いたり公立学校でも宗教の時間のために宗教を聞かれてましたから「答え方」も皆心得ていたんでしょうが…

 映画のケースは(現実に基づいているとすれば)、このケースなのかもしれませんね。あるいは・・

>ひたすら近所づきあいや生活習慣

 で、聞かれたら機械的に答えただけ・・であまり深い意味はないんでしょう。大半の英国人やヨーロッパ人からすれば。キリスト教との距離感覚でいつも思い出すのは、かのビートルズのジョン・レノンの「キリスト発言」。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%83%B3#.E3.82.AD.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.83.88.E7.99.BA.E8.A8.80

 英国では全く問題にならず、というかほとんど無視されましたが、米国に伝わるやいなや大騒ぎ。ビートルズ排斥運動やらメンバーの脅迫やら、大変な事態になったみたいで。
 いわゆる「信心深い」人は英国よりアメリカの方が遥かに多いんだ、キリスト教に対する距離感が英国と米国では全然違うんだ、実はこれこそが、英国と米国を区別する最大のポイントなんだ、ということがよく解るエピソードでした。

573ルチア:2012/06/12(火) 09:37:52
洗礼
初めて質問させて頂きます。竹下様と同年齢の主婦です。初めに、いつもホームページにて「無料」で勉強させて頂いていますこと感謝しております。
竹下様が4月にイグナチオ教会でお話しされた時に、参加させて頂きご本も購入し、大変面白く読みました。(他の著作も愛読させて頂いております)
私は竹下様が信者様なのかどうか、以前から疑問に思っておりましたが、4月の講演で「信者様」だと確信しましたのに、先日の日経新聞でそうではない事を知り考えてしまっています。

私事で申し訳ありませんが、現在、イグナチオで「死生学」で有名な神父様のクラスに3年程通い、「洗礼」を受けるべきかとても迷っています。
神父様の「カソリックで大事なことは、自分を出て、より深く他者と出会う事なのですよ」という言葉に共感しております(神父様はクラスでは、あまり深い話はなさりませんが…)。教会に出入りするようになり、教会の門は開かれており、「洗礼」は聖体拝領を出来るかどうかの問題なのかもしれないとも感じたりしております。とはいえ、今以上に勉強をしたいと思えば受洗された方の為のクラスになってしまいますし、どうしたものかと思っています。もちろん、勉強は本を読んだりして個人でも出来るものではありますが、ボランティアに参加しても自分のみ非受洗者で居心地が悪い(周りは本人ほど気にしてないようですが)部分もあります。
神父様のお話や竹下様の書かれたものには、とても共感しますが、ミサの会衆の応答の時に「復活」を完全に信じていない自分や、応答の言葉の所々にひっかかりを感じる自分を見てしまいます。(これが、一番迷っている所なのですが)
出来たら、竹下様が「洗礼」を受けない理由。竹下様が考える「受洗者」と「非受洗者」の違い。二点をご教示願えたらと思い、投稿させて頂きました。
(余談となりますが、3月に家族でパリに滞在したとき、近くにある「Ste.Trinite教会」に行きましたが信者さんの数の少なさに驚きました。皆さん、教会へ行かれないのでしょうか…)
拙い文を読んで頂きありがとうございます。

574sekko:2012/06/12(火) 22:21:08
ルチアさま
ごめんなさい。記事を事前に確認しなかったので、誤解されるような書き方をされていることに気づきませんでした。記事をまとめられた方は、私の著書を読んでキリスト教徒の視点というよりも、客観的で冷静な視点でキリスト教文化を分析し、語っているといつも感じていられたということで、ああいう書き方になってしまったそうです。

信者であることと冷静な視点は両立しますが、キリスト教がマイノリティの日本では、私自身も、昔、宗教学科でキリスト教を教えている人はみんな信者か聖職者、みたいなイメージでバイアスがかかっているんじゃないかという偏見も無きにしも非ずでしたから、特に表に出す必要はないと思っています。

この記事を読んだ担当の編集者は「信仰を明らかにすると何か不都合が生じて、テロリストから狙われるのかと懸念」した、などと言っていましたが、もちろんそんなこともないです。

私は日本でごく普通の家庭に育って、キリスト教とは知的な興味以外の付き合いはありませんでした。ミッションスクール文化ももちろん知りません。

ミッションスクールで中学高校を過ごし上智で洗礼を受けられたエッセイストの故・島村麻里さんは、「竹下さん、日本にはカトリックお嬢文化というものがあるんですよ」と教えてくれ、彼女は馬小屋セットでお人形遊びをしていたとか、「ルルドのひめぎみマリア様」というような「カトリックいろはカルタ」で育ったと言っていました。私は同じころ、「世界の王者ルーテーズ」といった「プロレスカルタ」で遊んでいましたから、あまりの違いに笑いあいました。

島村さんもそうですが、洗礼を受けた後で教会から離れ、少し罪悪感があったのが、私の本を読んでまたカトリックに親しみを受けた、楽しくなったという人は何人もいらっしゃるようです。「実は、私は、幼児洗礼を受けていまして…」と突然「カミングアウト」なさる仕事関係の人もいて、どう反応すべきなのか分からなかったこともあります。

フランスでは幼児洗礼を受けている人は今でもマジョリティですが、教会に毎日曜行っている人は一割をきっています。まあ、日本人がお宮参りに行ったりお葬式でお坊さんを呼んだりするように、クリスマスや復活祭にだけ教会に行ったり、葬儀ミサだけはするという人はたくさんいますが。

フランスでは逆に仏教徒と称する人は、カトリックの洗礼名簿からわざわざ消してもらって仏教の戒を授けてもらって戒名をもらう、という熱心な人がほとんどです。そんなフランス人の集まりに行くと、私なんて、日本人だから、自然に一目置かれたりしますよ。なんか「Zen」な感じがするらしく。それなりの仏教国カルチャーもありますから。

そんな国で、しかも、フランドルの田舎で、今から30年以上前に成人洗礼を受けたのですが、80歳を超えていた司祭は、そもそも成人洗礼のやり方を知らず、多分司教に問い合わせるという智恵もなかったのか、生まれて初めて授ける成人洗礼(その村にはカトリック以外は存在しません。小教区と町内会の区別がないという感じです)に興奮するばかりで、私は、いわゆるカテキズムなどもなしに、幼児洗礼と同じような感じで、洗礼を受けました。(しかも巡礼者が分けてくれたヨルダン川の水で。)

そんなわけでその日には地方の新聞社が来て大騒ぎになり、その地方新聞に写真も載りました。代父も代母も、幼児洗礼なら絶対に選んでもらえないような老人で、とっても感激してました。

でも、聞かれてこの話をすると、フランス人は面白がるだけですが、日本のカトリックの人には、真面目に勉強している他の人に悪い影響を与えるからそういうことを話すな、と注意されたことがあります。まあ、そういうこともあって、なるべく目立たないようにはしていますが、別に、隠れキリシタンをやってるわけではありません。


こちららの子供のカテキズムでは「キリスト教的生活とは他の人の生活をより快適にするよう努力すること」と言われるので、私は、老司祭さん(私の洗礼の後、それをずっと自慢したいて一年後に亡くなりました)も幸せにしたし、村中を喜ばせたので別に罪悪感はありません。そういうコンテキストで、会衆の応答の言葉とかクレドに対して「全部はいまいち信じてないかも」などというそれこそ皆の予定調和の世界を破って困らせるようなことを突き詰めて考えることもありませんでした。

大人が受洗できるかどうかなどは資格の問題ではなく内的な必要に駆られてだと思いますし、基本的に無償でいただくプレゼントだと思うので、それを大事にしていくかどうかはまた別の問題です。まさに「より深く他者と出会う」ことなしには意味がありません。

日本の方に対しては、そんなわけで、信者としてアドヴァイスするような立場にはまったくありませんが、できるだけ他の人の立場に寄り添うことを自分に課すことを続けています。

そして、ある時、誰かに「えっ、あの人がカトリックならカトリックって信頼できるのかも…」と思ってもらえることがあるとしたら、最高です。私の周りにはそういう素敵な人がたくさんいますよ。

http://setukotakeshita.com/

575jean:2012/06/13(水) 00:32:43
ルチアさま、竹下さま
びっくりしました。竹下さん、信者だったのですか。竹下さんの著書は何冊か図書館で借りて読み、それも始めから終わりまで読むのではなく、つまみ食いする程度の知識しかないのですが、この人、信者でもないのにカトリックのこと、あれこれ調べて書き散らしているぐらいに思っていたのですが、信者だったとは。日経朝刊(6月10日)に載った記事は私も読みました。そのとき、やっぱり、この人、信者ではなかったんだと再確認したつもりになって、イグナチオの8時半のミサに行ったのですが、信者だったとは。ここ数年、こんなにびっくりしたことはありません。それで、思わず投稿してしまいました。

ルチアさんは竹下さんと同年齢とのことですが、私も同世代です。違うのは、私は女ではなく男だということ。1952年生まれ。受洗は1984年の復活徹夜祭。妻と1男1女。キリスト教とは何の関係もない家庭で育ったのに、小さいころから何となく十字架やキリスト教に関心があって、カトリックになってしまいました。でも今では、カトリックではない自分は考えられません。

ルチアさんは、「ミサの・・・応答の言葉の所々にひっかかりを感じる自分を見てしまいます。(これが、一番迷っている所なのですが)」と書いておられますが、具体的に、どのようなところでしょうか。ミサの典文を聞いていて、ちょっと変かなと思うところは私にもあります。教えていただければ、お役に立てるかもしれません。あまり他人のことには関心がなく、洗礼に導かねばという使命感もないので、おかしいと思うことを気楽に話し合えればと思っています。

576ルチア:2012/06/13(水) 17:02:12
受洗
竹下様、お忙しい中、私の質問に丁寧に答えて下さり、心より御礼を申し上げます。
頂いた返答を読み、まず事実が違うことに驚きました。確かに宗教は微妙な問題ですが、事実と違うことを公の紙面に載せてしまう記者さんの倫理観に「?」マークになってしまいました。微妙な問題ととらえるなら、違った書き方もあったのではと思いますが。
とはいえ、そのおかげで竹下様の受洗の経緯も教えて頂ける事となり、感謝しなければいけないのかもしれません。フランドルで受洗されたのですか…。加賀乙彦さんに「フランドルの冬」という御本がありますね。竹下様の文章を読んでいるだけで、こちらも胸が暖かくなってくるような受洗の光景だと思いました。素晴らしい受洗を得られたのですね。
竹下様が仰るように、「大人の受洗は内的な必要に駆られて」の方が殆どで、通っているクラスでも、何か深いお悩みをお持ちの方が「受洗」有りきでクラスに通ってらっしゃる方が多いように思います。私的なことで申し訳ありませんが、私は大きな悩みが有るわけではなく、知的興味(知的と書くのは恥ずかしいくらい低レベルです)から勉強を始めて、想像していた世界よりもカトリックは遥かに奥行きが深く、包容力があることを知り「受洗」を考えるようになった次第です。個人的に確実なことは、勉強を始めてから世界の受容の仕方が変わったことです。これは既にプレゼントのうちに入っていると自分でも思います。
竹下様の返答は「大きなアドヴァイス」になりました。改めて御礼申し上げます。

応答の言葉でひっかかりを覚えるのは「万軍の神なる主。」「国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。」でしょうか。一般的な意味での日本語が指すものとは違うとは考えますが…。

余談ですが、竹下様は「ハンス・リヒター展」を観に行かれたのですね。羨ましいです。リヒターは現役の現代アーティストの最高・最大の作家で、私も観に行きたいのですが、贅沢な願望なので我慢しています。3月にはマチス展が開催されていたので、観ました。その時の「DANCE」の展示があったところでリヒター展は開催されたのでしょうか。こういう大きなアーティストのツアーも、最近はアジア開催があっても日本は素通りだったりして残念です。

竹下様が対応してくださったこと、こちらのホームページを運営されていらっしゃる方のご努力に心より感謝いたします。このような場に触れる機会を得ることこそ「恵み」かと思っております。
ありがとうございました。

577sekko:2012/06/13(水) 19:00:58
ルチアさま
>事実と違うことを公の紙面に載せてしまう記者さんの倫理観に「?」

というところですが、記者さんの名誉のために申し上げますと、私も驚いて問い合わせたのですが、私が今カトリックであることに気づかなかった、というお話でした。記事の確認を事前にしなかったことが一番の問題で私にも責任の一端はあります。私は都会の核家族で育ったので、葬儀社以外から家族の宗旨を聞かれたこともありません。多分日本の多くの人がそうでしょう。

フランスのカトリックの多くもそうで、十代初めのコミュニオン・ソロネルという儀式(家族が集まるイヴェントとしては大事)の後は、教会に縁がない人が多いです。後は、結婚(これも事実婚が多いので教会で結婚する人は少なくなってます)とか自分たちの子の洗礼(これはお宮参りと同じで家族の大事なイヴェント)の時に洗礼の日付と場所を聞かれたり堅信をしているか聞かれたりすることでアィデンティティが出てくる感じです。

これに対してフランスで成人してから仏教徒になった人は、ちゃんと瞑想会や勉強会に行ったり、菜食主義になったり、ダライラマを追っかけたり、自分は仏教徒だというアィデンティティがちゃんと見えます。

私のカトリック感覚(帰属意識としての)はフランスのリベラルなカトリックに近いのであまり気にしていず、日本でも宗教の帰属意識が希薄な普通のうちに育ったので、他の人の宗教意識をチェックする習慣もありませんでした。それで、ずれが生じているのだと思います。フランスでカトリック雑誌からインタビューを受けたことがありますが、その時も別にカトリックかどうかなど聞かれもせず書かれもしませんでした。

でも切実な帰属意識のある方や受洗を迷っているような方にとっては、それは大切なポイントなのでしょう。

逆に、私のポジションのそういう「ずれ」にポジティヴな可能性を見てくださる方もいるので、そして、もしそういう方の方に私はより多く役に立つとしたら、このまま行こうと思っています。

私の中にある複数のアィデンティティは、私がそうで「ある」ことを規定するものではなく、私がそう「なる」ことに向かわせてくれる補完的な活力源だと思っています。それはやはり他者との関係性の中で醸成されるものだと思います。

一つ言いますと、この日経の記事を読まれたあるカトリックのシスターが、今朝メールをくださって、次のようなものでした。

「西洋中心の国際社会に対して、日本が逆にキリスト教的価値を突きつけるくらいにならないといけない」。ほんまにそうです。(絶対にそうはならない、なれない日本ですけれどね。) いいことを書いてくれたと思います。朝日や三大新聞がこういうのを載せてほしいですね。

(中略)

竹下さんが大いにお働きになれる場を神様がくださいますように。ところで上の記事、あのままでは竹下さんは「カトリックではない」ことになりますね。それも真実ではないですね。ただ、あぁいう記事を書くときはカトリックでない方が、好都合ですが。

(引用終わり)

ということで、むしろ「いいこと」に注目していただいたのはありがたいことです。そして誤解とはいえ記者さんの意図もくんでくださっているので、ありがたいと思い救われました。

さて、

「万軍の神なる主」についてですが、

日本語の共同訳でイザヤ6-3 を今見ましたら、確かに万軍の主となっているのですね。

Sabaothは軍隊だけでなく、組織された集まりを指すので、ここでは宇宙を司る神の意志を実行する天使の軍団のような意味なのでしょう。

でもここで「軍」という言葉を入れると誤解されるというのでフランス語でも「天の」という形容詞をつけて緩和してきた歴史があるそうです。

今はもうたいていのフランス語の聖書はSabaothとそのまま書くか、Dieu Maitre de toutすべての主である神、Dieu tout puissant最強の神みたいな訳になっていて、ある領域の支配者の暴力装置としての「軍」という誤解を避けるようになっています。(私の使っているLa Bible de Jérusalem ではSeigneur Yahavé Sabaot です)

訳文にはいろいろな歴史の文脈もありますし、普通の人はあまりこだわらない方がいいんじゃないかと思います。(こういうことを書くとまたどなたかから叱られそうですが…)

http://setukotakeshita.com/

578sekko:2012/06/13(水) 19:24:17
Jeanさま
>ここ数年、こんなにびっくりしたことはありません。

ということにこちらこそ驚きました。

日経の記事よりここでの返事の方がインパクトがあったわけですね。

このことで、あらためて、私の関係するカトリック雑誌の連載や出版物の紹介文を見てみたのですが、確かに、別にどこにも私が洗礼を受けているとかどうとかいうことは出ていませんね。

でも、そういうところ自体が、カトリックがいかに党派性や今ある共同体だけに固執しない、開かれた世界であるかという特色の出ているところで、私としては好感が持てます。

Jeanさんはイグナチオ教会に行かれるのですね。

先日ヨセフホールでトークする前にもちろん聖堂に行きました。復活のキリスト像に、いつも通りフランス語で「ほら、私よ、あなたのためにここにいるのよ」(近頃年齢のせいかおかあさんモードになりつつあるので)と話しかけてしまいました。

Jeanさん、ルチアさんの疑問などにもどんどん答えてさしあげてください。ありがとうございます。

http://setukotakeshita.com/

579mimemegene:2012/06/13(水) 23:29:24
ルチア様
前略,
ルチア様を端緒とする交わりに,私も加わりたいと願って,メールをしてしまいました.

私は竹下様が受洗されていると知覚していました.
主イエスと出会った人だ,神が育てた人だ,と感じると言ったほうが,わかりやすいかも知れませんね.
決意をした人,崇め頼む方をハッキリ知っている人の語り方や感じ方の表現を著書に沢山感じています.
私はイグナチオ教会で30年程前に成人洗礼した一般信徒.年の霊操を始めて15年程の男性.

それで,ルチア様に私の日常を,少しだけ分かち合いたいと願います.
書かれている文を読んで,受洗に向き合うセンスがとても素晴らしいと感じたからです.
私個人のつたない経験で,しかも少し長くなってしまったので,
お時間があるようでしたら,読んでみてください.
無視しても全くかまいませんので.

?「ありがとう」「ごめんなさい」「助けてください」
私は毎晩,一日を振返ります.
三位一体の御交(おんまじわり)が私に触れて下さったことを思い起こします.
振り返る順番はタイトルにある順でないと,上手くできない事は,やり続けるとわかってきます.
例えば,「御交様,今日怒りそうになった時,心がなぜか柔らかくなりました.感謝します」という感じです.
この振返りをした後に,前後での心の変化に集中して,何らかの変化を感じたら,それも言葉にします.
できれば,一連のことを簡潔に書き留めると,1週間毎の振返り,1ヶ月毎の振返りの時に助けになります.
?は,「御交との交わりを体験したらどんなに素晴らしいか」というのを,誰もが感じられるやり方だと思っています.

?主イエスは私を慕う
谷川の水を求める鹿のように「あなたを慕う」というのは旧約のイメージですね.
この聖歌で言うと,新約は「神よ,あなたは私を慕う」となります.
御子イエスの方から,私を求めて来て下さっている.人間になった.
更に,御聖霊が常に私と共にいてくださいます.
知識よりも御聖霊への感度をUPするように,私は常々お願いしています.
身体が霊魂を持っているのではなくて,霊魂が今だけ身体を持っているというイメージを描き,
共にいてくださる感覚を味わうように私はしています.
しかも神様は無理強いを決してなさらないので,いつも安堵ですね.

?改心よりも開心
マザーテレサが著書に書いています.
「テオドーア修道女が亡くなる少し前に、どれほど苦しみがひどいか彼女にたずねました。すると彼女は美しく答えました。
『それはイエスと私の間の秘密です』と。」

それで,テオドーア修道女は,「何故私がこんな死を迎えるのか」等も含めて,全てをイエス様に言い続けたと思います.
イエスはその全てに触れたので,イエスとの秘密が生まれたと思います.恵みですね.

テオドーア修道女のように開心せずに,つまり,「誰にも言わずに自分で解決しようと心にしまってある事」は,解き放たれたくて,「心の傾き」になって,常に関わりを求めてきます.
ですので,ルチア様がミサ応答でひっかかりを覚える言葉は,「心の傾き」を照らすきっかけ,神様からの働きかけの光ではないでしょうか.
私の経験では,このようなきっかけは「しまってある事を神に捧げてほしい」というメッセージです.
また,デーケン師が「より深く他者と出会う事」と表現されているのは,心の中の「二人の自分」(慰めと荒みの二人)の出会いも示唆していると思います.

それで,タイトルの開心のことですが,
「私だけの秘密で,御交にもみてほしくない」というような事は誰にでもあると思います.
その秘密こそ,御交にむかって心を開くのは,恵みだと思います.私も度々恵みを感じています.
言葉では説明できない恵みの塊のような,常に心も身体も温めている体内の塊のような,そんなものが私の中に感じられるようになってきて,これは御交との秘密としか表現しようがないと思っています.

神様がきっと受け取ってくれるだろうと勝手に思った事の方を神様に見せますが,隠している事の方を本当は捧げてほしいと働きかけて下さいます.
神様は全てをご存知だから,私の場合は,「全てをみてください」と言うだけでも開心の扉は開いてゆきました.
恐れは全くないので,?が日々の開心です.

最後の晩餐で「私の身体」と言って割かれたパンはイエス様ですね.
そして,イエス様はパンの形で弟子達の身体の中に入って行きました.
その時のイエス様は,どんなお気持ちで,何を感じられていたでしょうか.
現代では,日々のミサではどうでしょうか.
自分の心を開いて,キリストの心を感じ取れるように求めるために,
私の場合は,言葉や定義ではなく,「感じる」事が全てです.

竹下様の著書は,この「感じる」時に,私の心の霧を晴らす風のようです.だから冒頭で知覚していると書きました.

神父達が言うように,神を愛する心や神との歓びも,既に私に与えて下さっているから,「私は神を愛している」と言えます.
既に恵みを全てをいただいていて,それに少しずつ気付いていく日々が,ルチア様にも始まっていると感じております.
「イエス様を愛している」と言葉はありませんが,そのニュアンスが文から匂い立っていませんか?

580ルチア:2012/06/14(木) 10:55:07
万軍の神なる主
竹下様、初歩的な疑問に調べて答えて下さり、有難うございます。
「天使の軍団」とても受け入れやすくなりました。竹下様の仰る通り、あまり表面的な字句にとらわれずに勉強していこうと思います。「神学」の道を目指しているわけではありませんからね。

日経の記事から波及した皆さんの反応に、一番驚いてらっしゃるのは竹下様ご自身かのように見受けられます。確かに、私も単純に興味を持った本として読むのであったなら、著者が「信者さん」かどうかは全く気にならないと思いますし、推測もしないと思います。
シスターが仰られたように「好都合」(信仰から距離を置いた宗教本という意味かと思いますが)のほうが、読者に先入観無く受け入れられて良いのでしょうか。
読み手としても、熱心な信者さんの書かれた本は「布教目的?」というバイアスがかかって読んでしまいますね。

竹下様がご自身で書かれた「複数のアィデンティティ」は、竹下様の魅力の中で「補完的」ではあっても、大きな部分のように思います。一読者として、どのように「なる」のか、この先をとても楽しみに思っております。
L'art de croireも愛読させて頂いておりますが、この「哲学・宗教質問箱」とは文体も違うし、「複数のアィデンティティ」を感じております。

一つだけ、質問をさせて頂いてよろしいでしょうか?全くの興味だけからの質問です。
ここに投稿してくださった方々は、主日のミサに与ってらっしゃるように思いますが、竹下様はフランスでミサにお出になったりはしないのでしょうか?(純粋にミサ出席だけの為に)
私もイグナチオしか知らないので、認識に偏りがあると思いますが、平日でも夕方6時のミサの前にベンチに座っていると、人が行き交い会話が交わされ、教会が大きな家族として機能しているのを実感します。竹下様の文章から推測するに、これは日本でカトリックが少数派だから起きていることなのでしょうか…。ヨーロッパで教会へ行って、とにかく驚いたことばかりで、人は少ないしベールを被っていらっしゃる方も見当たらないし、考えさせられてしまいました。

お時間の許す時に書いて頂けたら、幸いに存じます。

581ルチア:2012/06/14(木) 11:04:38
jean 様
私の拙い迷いに対応してくださり有難うございます。

このような場所で見知らぬ方から受ける好意に、何と感謝して良いかわかりません。
また、迷った時に投稿させていただくかもしれませんが、よろしくお願いいたします。

582ルチア:2012/06/14(木) 11:16:18
mimemegene 様
丁寧な文章で伝えて頂き、本当に有難うございます。

私はmimemegene 様のような深い信仰は得ておりませんが、仰られていることの意味は少しだけ分かるような気がしてきました。「自分を出る」「開心」はなかなか奥が深く、時間がかかることのように思いますが、「全てを理解しないと受洗できない」という考え方は却下の方向で進んで行きたいと思っております。

御礼申し上げます。

583mimemegene:2012/06/14(木) 19:33:53
ヨーロッパ死者の書
竹下様

4月の聖イグナチオ教会での講演会は,とてもわかりやすく,ありがとうございます.
又ご挨拶ができて,幸せでした.


お尋ねが一つございます.

「ヨーロッパ死者の書」で取り上げている,ジャン・プリユールの「死者の書」が,とても心に残っております.

それで,竹下様は,日本で翻訳出版なさるご予定やおつもりはございますか?

584jean:2012/06/14(木) 20:42:55
「万軍の神なる主」
ルチアさま

竹下さんの回答があるので、それで十分なのですが、あえて付け加えるなら、「主よ、憐れみたまえ」「天のいと高きところには神に栄光」「神の子羊」と比べると「聖なるかな」の歌は確かに少し違った感じがあります。さあ、これからミサの中心、とっても大切な奉献文が始まるのだぞ、という意気込みがあるような感じがあって、私は嫌いではありません。「万軍の神なる主」に限らず、ルチアさんの疑問はほかにもあるでしょう。そんなときは、遠慮せずここで質問されたらいかがですか。難しい問題は竹下さんが的確に答えてくださるでしょうし、簡単な問にはmimemegeneさんや私もお役に立てるかもしれません。

585jean:2012/06/14(木) 20:44:06
「ほら、私よ、あなたのためにここにいるのよ」
竹下さま

女の人は、聖堂でこんな風にイエズスさまに話しかけるのですか。

私は「今日もここに来ることができました。これから始まる御ミサ、カルワリオの再現に与らせてください」といった感じです。中年のときも年を取っても、ミサの前のこの語りかけは変わりません。

竹下さんに、ひとつ質問があります。答えるのが面倒であれば無視していただいても構いません。質問とは、「末っ子に大きな役割が任されるのは何故」「このことをヨーロッパの人たちは、どう考えているのか」です。

ヤコブの12人の息子のうち、エジプトの宰相となってイスラエル人を救ったのは末っ子のヨゼフでした。ダビドも兄たちが次々に面接ではねられ、最後に残ったのは末っ子のダビドでした。12使徒の中でイエズスさまに最も愛されたのは一番若いヨハネでした。ヤコブの弟です。怠惰に見えるマリアのことでイエズスさまに文句を言ったマルタはお姉さん、そのマリアは妹で、マリアの方が大切にされているような感じがします。有名な放蕩息子も弟、帰ってきた弟のために宴会を催した父に文句を言ったのは兄ですね。日雇い労働者の話で、朝早くから汗水流して働いたのに、夕方に少しだけ働いた人が同じ賃金をもらったのはおかしいと文句を言ったのは、聖書には書いてありませんが、何となく兄、夕方だけ働いたのは弟という感じがします。「L’art de croire」で「リジューの聖テレーズを読み返すことにした」と書いておられた教会博士の聖テレーズも4姉妹の末っ子です。何故なんでしょう。なぜ、末っ子がこのように大切な役割を任せられるのでしょう。このことを、ヨーロッパの人たちはどのように解釈しているのでしょうか。

『弱い父「ヨセフ」』を書いた竹下さんなら、この疑問にも答えをお持ちではないかと、お尋ねした次第です。

586sekko:2012/06/15(金) 00:59:32
Jeanさま
女の人は・・・というのは、他の人のことは知りません。

私の場合、フランス語なんで、敬語がなく、こんな感じなんで、日本語にしたら違和感があるかもしれません。私の年代のフランス人なら、カテキズムを受けた時はまだ第二ヴァティカン公会議の前だったでしょうが、私にとってのキリスト教は1980年以降のフランスのリベラルなキリスト教なんで、まあこんなもんです。

イグナチオのイエス像は磔刑像でないのでいいですが、フランスにはリアルなのが多くて、この頃、磔刑像で痛そうにしているキリストを見ると気の毒で気の毒で、こんな痛そうな人に何かお願いしている場合じゃない、一人くらい「私ががんばってあげるからね」と声をかけてあげればいいような気がしまして…
特に五十肩をして腕が痛いのを経験した後では、磔刑像を見るだけで痛くて。
まあ、これは私の内臓的な反射に近いので、スルーしてください。

末っ子の役割の問題、これは面白いテーマで、いつかじっくり書いてみたいと思っています。

こちらでは、半年年上の親戚である洗礼者ヨハネに対するイエスの優越というか、ヨハネが自分は衰えねばならない(ヨハネ3-30)と言ったことも、必ず、聖書の中の年齢の話に引き合いに出されます。また、旧約でいうと、カインがアベルを殺して追放されて、困った(?)アダムがその後にセトをもうけて、そのセトが人類の先祖(カインも子孫を残したしアダムもその後にも子供ができたとかいうのは無視です)になったんで、三番目の子が後継ぎになったというストーリーも(長子の歩が悪い例として)引き合いに出されることがあります。

ユダヤの律法では長子の特権は明らかなんですけれど、古代社会では実際、末っ子が実家に残って老親の面倒を見て家督を継ぐという形態もめずらしくなかったようです。

ヨーロッパでいうと、本当の意味で長子相続が確立したのは11世紀頃らしくて、その長子には、家督や財産を守るために軍事教育を施し、下の子は聖職者に、というのが多くて知的教育を施し、実際聖職者や文人には長子ではない子が多いそうです。テレーズの姉妹のようなのは例外として、修道女になるのも末娘が多いという統計も読んだことがあります。

また、ガラテヤ(4,21-31)にあるように、最初の子は奴隷の子、二番目の子が自由の子、という比喩もあって、この話(アブラハムの2人の子の話)も文字通り読むと、なんだか最初の子に対して不当だと思えますが、「自由」ということについていろいろ考えさせられますね。

つまり、こういう例えがいつのまにか、「家督や財産」などこの世の名や富を継承し守るべき長子的なのが「肉」の子で、聖職者になっちゃって子孫を残さず神にだけ仕えるのが長子の権利と義務を負わない「霊」の子、みたいな図式にすり替わって、安定したのかもしれません。日本でも昔なら子供がたくさんいると末っ子くらいはお寺に修行にだすとか、フランスでも昔はやはり末の子くらいは聖職者にして家族のために祈ってもらうとか、いろんな思惑があったのかもしれません。

旧約聖書って、律法はもちろん細かくて厳しそうですが、実際に展開する物語はなんだかリアルで、人間の家族の微妙な心理とかが露わになっていて、その落差が次の新約になだれ込む契機を作っているのかもしれませんね。そしてその後に続いたたくさんの神学者とか聖職者たちも、その流れの向かう何かの中でいろいろな試行錯誤をしているのかも。

あまり答になってませんが、とりあえず書いてみました。

http://setukotakeshita.com/

587sekko:2012/06/15(金) 07:35:23
mimemegene さま
『ヨーロッパの死者の書』は、私の読んだのは1981年版の

http://www.amazon.fr/livre-morts-occidentaux-Prieur-Jean/dp/2221006151/ref=ntt_at_ep_dpt_8

 なんですが、最近新しい版も出たようです。

この著者はもう百歳近いのですが、まだ活躍しているようで、タイトルだけ見ると、日本だとオカルト本じゃないかと思われるような怪しいジャンルもあるのですが、実は本格的な歴史家で信仰者でもあるという、すごくフランス的な人だと思います。

翻訳出版する出版社があれば私はもちろん協力しますが、どうでしょう。

それから、mimemegene さま、ルチアさまへのお言葉ありがとうございます。しかも、私のことをあんなふうに言っていただけるなんて、それだけでもこのボランティア掲示板を残しといてよかったなあと思います。

サイトを作る時、基本的に、自分の宣伝はしない、私生活は垂れ流さない、目立たないようにする、という路線を決め、ブログも、ネット上で出会ういい加減な批判にうんざりしていたのでコメントもトラックバックも受けつけない「覚書」に限定していたのです。まあ、ネット上であれこれ言われるのは読まないようにしているのですが、今回は、紙の媒体での誤解をきっかけにネットですてきなお声を聞くことができました。

今回のことに関して、なかよしのシスターから、

「わずらわしいことがあったとしても、プラスのことはその何倍もでしょうから。。。そう考えてまたどんどん発信なさってください。」

とメールで言ってもらえたんですよ。確かにそうだなあと思います。

人間、マイナスのことの方がなんでも強烈にインプットされがちですが、公平に考えたら、絶対にプラスのことの方が多いと実感します。

皆さまほんとうにありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

588sekko:2012/06/15(金) 08:34:03
ルチアさま
ええと、ご質問の答えとして…

平日の6時のミサ、みたいなのは、ルルドなどの巡礼地に行った時でもないと出席したことはありません。

フランドルの田舎のうちがあった頃(今はもうありません)は、日曜は絶対行ってましたよ。鐘がうるさいので忘れられないし、というか、町内会みたいなものなので顔を出さないと近所の人に病気だと思われそうだし、司祭さんが気の毒だし、という感じです。

私は歌を歌うのが好きなので、苦になりません。昔、歌を歌えなかった時があるそうで、じっと聞いてるだけだったら苦痛かもしれません。

イグナチオでも昔、フォークミサというものがどんなものか見たくて行きました。そういえば結構人が来てましたね。ミサの前にちょっとリハーサルみたいなものがありました。後は日本では、演奏会や講演を別としたら、町田教会、水戸教会、垂水教会、成城教会で一度ずつ、ミサを体験しましたが、エキゾティックな感じがしました。日本じゃない別世界って雰囲気でした。よそ者には敷居が高い感じもしました。

舞子の愛徳姉妹会に泊めていただいた時は毎朝6時半のミサにつきあいました。シスターたちはみなすてきな歌声です。

日本の教会では、「はい、未信者の人は祝福に並んでください」、とかいうシーンがあるのに驚きました。フランスの都会なら、互いに顔を知らない人も多く、日本人の観光客で、ただ好奇心でフランスの教会のミサに出て、なんとなく並んで聖体拝受までした学生とか何人も知ってますよ。

パリのモスクとかシナゴーグとかだったら、無知からとは言え、そんなよそ者が儀式に参加したら恐ろしい感じがしますが、やっぱカトリックって、老舗の大所帯だから、鷹揚というかルーズというか、怖くはないです。

あ、もちろん、個人的にすごく気にする人はいるので、離婚したとか再婚したとかで聖体に近づかない人もいます。

でも、初聖体前の娘がガールスカウトの仲間と聖体を拝受してしまったと言って真っ青になって、司祭さんのところにかけつけてきたお母さんを見たことがありますが、司祭さんは笑って、「それはコミュニオン・ソヴァージュ(野生の聖体拝受)と言って、気にしなくていいよ、聖体をいただくのは資格の問題でなくて必要の問題なんだから」と答えていました。

ミサで、今はほとんどの人が席から立つ時に、しっかり跪く人もいます。ホスチアをもらう時、舌の上に乗せてもらう人も、跪く人もいます。他の人と同じようにしなくてはならないという感じは特にありません。

これも日本人のブログで、教会で跪いて口でホスチアを受けようとしたら司祭に拒否されて無理やり立たせられたとかいう人がいるのを知って驚きました。第二ヴァティカン公会議でいろいろ変ろうがヨーロッパ中ではいろんな司祭さんや教区があるので、それこそ巡礼地に行っていろんな国の巡礼団のミサを見ると、千差万別だなあと思います。それでもみな親近感があってつながりがある感じで、私はすごく好きです。

以上、ただの観察と感想のレベルでお答えしただけで、信仰の話ではないので、霊的なことが気になる方は無視してください。

http://setukotakeshita.com/

589mimemegene:2012/06/15(金) 15:08:45
kansya
竹下様

『ヨーロッパの死者の書』

不躾なお尋ねにご返事下さって,本当に有難うございます.

私の帰天ミサの手本・台本にしたいと願っている位です.
私のmimemegeneは「模倣の遺伝子」という意味で使っていて,少しずつ色々倣って,将来の前備にしたいです.
実現できるように,まずは祈っていきます.

Le livre des morts des occidentauxは,東京の大学図書館(東大,上智,聖心,その他私大6校)にはいずれも蔵書がありません.プリユール氏の他書は東大で8冊,上智で6冊とかありました.日本版のアマゾンでは,ISBN検索でもヒットせず,他のネット書店で1冊だけ(1981年版)見つかりましたが,価格が7千円弱位でした.
------------------

★それから,このボランティア掲示板には,心から感謝しています.

例えば,2月にお尋ねした「アウグスティヌスの祈り」について,竹下様から深く教えていただきました.
私はこれを味わって,「輪廻転生」してしまうかもしれないというなんとも言えない心のささくれがとれて,霧が晴れました.


「霊操」の230番に「愛は言葉よりも行いによって示すべきである」とあり,
竹下様は,まさに著述で愛を示されていると,私も皆様と同様に感じております.

私の場合は,「感じたいのは,キリストの心」です.
こういう内的理解を祈っていて,私の気づきの傾向が単調になってしまって,つらい時期がありました.
この時期に竹下様の著書を読んで,腑に落ちる光源を幾つも知り,気持ちも落ち着きました.

まさに著述のおかげです!

590ルチア:2012/06/15(金) 17:38:28
jean様
jean様の答えて下さった中で「さあ、これからミサの中心〜」というところを読み「ミサをそのように受け取る捉え方が有った」ということに遅まきながら気づきました。考えてみれば、ミサの中で流れの方向と起伏があるのは当前のことで、それに気づかず語句にとらわれていたのかもしれません。jean様の投稿を読んだ後で「キリストと我等のミサ」を読み直してしまいました。
有難うございます。

591ルチア:2012/06/15(金) 18:28:18
竹下様
フランスでのミサ模様の様々を生き生きと伝えて下さり有難うございました。
「はい、未信者の人は祝福に並んでください」に驚かれたというところを、興味深く感じました。(最近のイグナチオで個人的に驚いたことは、平日の12時のミサの司式の奉仕者がお二人とも女性になられたことです。)

私は時を経るごとに「カソリックの信者さんの信仰のあり方が、一人一人個性的」と強く感じております。信者さんの中で信仰の方向が違うのは問題となるでしょうが、信仰のあり方はとても個性的に感じます。こちらの掲示板でも、様々な角度から助けて頂いていますし。

mimemegene様も仰ってらっしゃいますが、私も本当にこの掲示板に感謝しております。
竹下様は「みなさんありがとう」と謙虚に仰ってらっしゃいますが、運営者の捌き方ひとつですから、竹下様のお力によるものと強く思います。
有難うございました。

いろいろと助けて頂いた流れで書いてしまいますが、mimemegene様・jean様、今私が勉強をするならどのような本をお勧めになられますでしょうか?

592sekko:2012/06/16(土) 00:22:45
mimemegene さま
リンクした通り、古い版ならこちらのamazonでは6ユーロから手に入ります。もしフランス語がOKでしたら、注文して次に日本に行く時に差し上げますよ。

そこまで言ってもらえる本って幸せですね。
もし、どうしても翻訳が必要なら、すぐには無理ですが、個人的に少しずつ翻訳してmimemegeneさまのところに配信しますよ。

私はまさにリジューのテレーズの死後への決意を読んで、死ぬ前に死んだ後にやることをきっちり考えておくのと考えないのでは差が出るなあ、と納得したんです。「だめもと」だし、一応、できるだけ多くの人の役に立つことを考えとこうと思います。

http://setukotakeshita.com/

593mimemegene:2012/06/16(土) 00:53:21
ルチア様
ルチア様

1日は1440分で,1%が15分です.ルチア様は,日々毎日,何%を神様に捧げたいですか?

私は「祈り」だけで育てられました.
神様と互いを照らし合い,あの深い感動や感謝を感じるのは祈りだけなので,
本よりも,おすすめするのは「祈り」ですと,書いてしまうのを,お許し下さい.
祈りでおすすめしたいのは,8日間の霊操です.ルチア様もいつか一度はなさってみてください.

■推奨本は,新約聖書だけです.更に絞ると,4福音書です.

・気に入った箇所や単語を小さなノートに書き写して携帯すると,とても深まります.
・大事な御言葉のリストをノートにでも記録して積み重ねると,一生涯使えます.
・聖書のその場面に自分が立ち会っていることをイメージするとか,
・登場人物の一人になりきってみたりして味わうと,
・御言葉が生きいきしてきますし,その時の心を書き留めてください.

■聖書を知る31の鍵 500円位
60頁程の聖書ガイドで優しくわかりやすい
内容を全部わかるようになれば,それだけでも知識量は十分.後は竹下様の本で,パーフェクト.

http://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B31%E3%81%AE%E9%8D%B5-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF-%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC/dp/4886262279/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1339771525&sr=8-1


以下全ての本はイグナチオ教会内にある聖三木図書館蔵書です.


■ 1冊目なら,薄く読みやすいロングセラー
二人の自分―心の動きをみつめてイシドロ・リバス著(イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%87%AA%E5%88%86%E2%80%95%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%8B%95%E3%81%8D%E3%82%92%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%82%81%E3%81%A6-%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%90%E3%82%B9/dp/4789601463/ref=sr_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1339765996&sr=1-4

■2冊目なら,初心者向けで,とても心に入りやすい
祈りを深めるために その1〜その6 計6冊  イシドロ・リバス著(イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%82%92%E6%B7%B1%E3%82%81%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB-%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91-%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%90%E3%82%B9/dp/4883820246/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1339766053&sr=1-3

■3冊目では,とても大事なロザリオを
ロザリオバリョヌェボ著(イエズス会士)(購入なら,絶版なので,アマゾンから)
私はこの本で毎日ロザリオしています.光の玄義がないので,創作してます.
ロザリオをぜひなさってください.マリア様が主イエスのことを優しく教えて下さいます.

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA%E2%80%95%E3%81%84%E3%81%A4%E3%82%82%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A7%E3%82%82%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%81%99%E3%81%90%E3%81%AB%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%A7%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA-%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%83%8C%E3%82%A7%E3%83%9C/dp/4805696036/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1339765700&sr=1-1

ロザリオでもうひとつは,チマッティ神父によるロザリオの黙想です.
北浦和教会のサイトにあります.

http://members3.jcom.home.ne.jp/catholic_kitaurawa/inori/rozario1.html

■4冊目は,マリア様の事を
人びとと共に歩むマリアカルロ・マリア・マルティーニ著(枢機卿・イエズス会士)
聖書と向き合う著者の真摯な姿がわかります

http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E3%81%B3%E3%81%A8%E3%81%A8%E5%85%B1%E3%81%AB%E6%AD%A9%E3%82%80%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2-%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8B/dp/4789604136/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1339766418&sr=1-1

■全ての愛を行いに込めた姿を知りたいなら
イエスの渇き―小さきテレーズとマザー・テレサジャック・ゴティエ著

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%B8%87%E3%81%8D%E2%80%95%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%8D%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%A8%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B5-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF-%E3%82%B4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8/dp/4789606414/ref=ntt_at_ep_dpt_1

■聖書の読み方や触れ合い方がとても深まります
ひとりきりのとき人は愛することができるアントニー・デ・メロ 著(イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%8D%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%81%A8%E3%81%8D%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%84%9B%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC-%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AD/dp/4789604187/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1339766195&sr=1-1


■自分の事がよくわからなくなった時に,私を照らしてくださった本! (まずは3冊)

キリスト教竹下節子著

http://www.amazon.co.jp/%E7%9F%A5%E3%81%AE%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8-%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E9%81%B8%E6%9B%B8%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A8-%E7%AB%B9%E4%B8%8B-%E7%AF%80%E5%AD%90/dp/406258249X/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1339765805&sr=1-2

キリスト教の真実: 西洋近代をもたらした宗教思想 (ちくま新書)竹下節子著

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%9F%E5%AE%97%E6%95%99%E6%80%9D%E6%83%B3-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%AB%B9%E4%B8%8B-%E7%AF%80%E5%AD%90/dp/4480066594/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1339765805&sr=1-1

ヨーロッパの死者の書 (ちくま新書)竹下節子著

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%81%AE%E6%AD%BB%E8%80%85%E3%81%AE%E6%9B%B8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%AB%B9%E4%B8%8B-%E7%AF%80%E5%AD%90/dp/4480056424/ref=ntt_at_ep_dpt_9

■私が一番好きな公教要理本
Golden Ruleを丁寧に書き,「信仰・希望・愛」の愛がLoveではなくCharityだという事も書いています.
Golden Rule(黄金律)「人にしてもらいたいと思うことは何でも,あなたがたも人にしなさい」
キリストへの新しい道 求道者のための教えと行いキリストバル・バリョヌェボ (著) (イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E9%81%93-%E2%80%94%E6%B1%82%E9%81%93%E8%80%85%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%A8%E8%A1%8C%E3%81%84%E3%83%BC-%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%83%8C%E3%82%A7%E3%83%9C/dp/4805620811/ref=wl_it_dp_o_pC_S_nC?ie=UTF8&colid=2IK7PIOA4KL1&coliid=I35UXWCWEM80E0

■カトリック教会のカテキズム要約
読んでも楽しい内容です!

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0%E8%A6%81%E7%B4%84-%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%83%A0-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E5%8F%B8%E6%95%99%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A-%E5%B8%B8%E4%BB%BB%E5%8F%B8%E6%95%99%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A/dp/4877501533/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1339774455&sr=1-1

■私が常々参照する本
霊操(改訂版) 聖イグナチオ・デ・ロヨラ著(イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E9%9C%8A%E6%93%8D%EF%BC%88%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88%EF%BC%89-%E8%81%96%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%A8%E3%83%A9/dp/4915623483/ref=sr_1_12?ie=UTF8&qid=1339773561&sr=8-12

594sekko:2012/06/16(土) 01:07:35
ルチアさま
Jeanさまのお答えからルチアさまがミサの「流れと起伏」というのに注目なされたことはよかったです。

ミサの一番大事なところは一つのストーリーが毎回更新されるところで、それで各自がまた大きな流れに入っていけるところだと思います。

唐突ですが、私は最近、風姿花伝のおかげでベルグソンの Elan Vitalがすごくよく理解できました。

お能のテクニックやら型は、マチエールとしての水のようなもので、それは完全に習得しなくてはならないのですが、それを一つの流れとして動かすものは、言葉では表せない、というものです。でも、その流れの中にだけ能の本質があるので、マチエールとしての水がどんなに完璧でも能にはならないのです。

音符と音符の間、楽節と楽節の間に音楽があり、ステップとステップとの間にダンスがあるのと同じです。

ミサの典礼のひとつひとつのパーツはいわばマチエールの部分であって、それをどんなにチェックしたり変えたりしても、一番本質的なのは、そのマチエールを貫いて動かして、どんな流れとするのかということではないでしょうか。

Elan Vital をインスパイアしてもらって、各自の支流に戻ると、マチエールとしての水は、また濁り水になったり蛇行したり堰き止められたり汚染されたり、悪くすると涸れてしまったりするかもしれませんが、そんな時に、また、大きな流れとは何なのか、この流れをスタートさせた最初の息吹きとか何なのかを感じなおさせてくれるのが、各種の典礼とか霊操とか祈りなんだと思います。

私が前に、「ある」ではなく「なる」に向かいたいと言ったのもそういう意味なんです。

「ある」のは、この世のレベルでは私を構成するさまざまなマチエールに過ぎず、それをすり合わせたり統合したりしながら「なる」に向かう流れを大事にしたいということです。

「なる」に向かって人間が自由意思を行使できるかどうか、それが、人間に自由意思を与えた神の賭けなんだとユダヤ教の話で読んで感心しました。聖霊の風と自由意思の風が共振して流れに参入するように招かれているという感じでしょうか。その「神の賭け」に加えて、神が先に私たちを愛したので救い主をおくってくれたというのがキリスト教ですね。

で、「神」は、「ありてある者」「私はあるという者だ」というように、「ある」ものなんですが、もちろんマチエールではなく、無限なわけで、そのような「ある」に「なる」ための流れが創られた、その流れは私たちの中にもある、と思います。

音やステップをただ連ねても音楽やダンスにならないように、人生も、小さな幸不幸や成功や失敗や困難やアクシデントの集積ではなく、それらを運ぶ大きな流れなので、この人生が終わったとしても、その流れは続き、どこに向かうかべきなのかを知っているかどうかで、「なる」ための歩みは変わってくると思います。

http://setukotakeshita.com/

595mimemegene:2012/06/16(土) 14:20:06
竹下様
竹下様

ご返事に,深く感謝しております.

●あまりに嬉しくて,今朝1時間の黙想は,竹下様の書かれた
「私はまさにリジューのテレーズの死後への決意を読んで、死ぬ前に死んだ後にやることをきっちり考えておくのと考えないのでは差が出るなあ、と納得したんです。」をずっと祈りました.

これまで私の今への「神の望み」は沢山祈りました.
それが死んだ後にも続く「望み」であることに,気づきが深まりました.

22日から年の霊操に入るのですが,その準備のために,神様は竹下様を通って,メッセージを伝えていると,感じました.
竹下様に心から感謝します.

●プリユール氏の「死者の書」では,最初に書くべきことが抜けておりました.
全て竹下様のお陰で,心の霧が晴れたので,翻訳等をお尋ねしました.

経緯で申しますと,
私は実母葬儀で,「母が帰天しました.『別れは小さな死』だと感じています」と挨拶しましたら,司式神父が「神の元では,死は小さな別れです」と言い直して下さいました.この神父の言葉に,私も家族親族一同大変癒されました.

この経験を深める本を探してもなく,ようやく竹下様ご著書「ヨーロッパの死者の書」に出会いました.
通読して「死者の書」の著述意図に照らされました.

そして,ご著書には,

-人々は「良き死」のための実用的な智恵の貧困さに愕然とする時がいつか来ることを予感し始めた.そんな時代に,新しい「死者の書」の創造が目指されるとしたら,それはより完全な「生」を知るための模索でなくてはならない.172頁-

-要は,こういうテキストで編まれた「死者の書」が葬礼の書ではなくて「希望の書」となることである.「死者の書」は死者を送る時に読む「生きるガイド」であり,自分が死に直面した時に読む「死ぬガイド」であり,死後に近親者に思いを込めて読みあげてもらう時には「生き続ける」ガイドとならなければならない.174頁-

-死者と残された者とがともに生きた精神の風景の中に,時空を超越するような普遍的なメッセージがきっと隠されている.そんな確信を持って,ジャン・プリユールは「西洋人の死者の書」を著した.173頁-

と書かれています.
「これだ,これなんだ」とその時思いました.

第7章プリユール氏著書解説は沢山の教示がありました.でも,上記3センテンスがとても意味深く,私の求めを言い表して下さっています.
3センテンスがなければ,アウグスチヌスの祈りでのお尋ねで,私の求めは止まっていたと思います.

ご著書発刊の意図に促されて,私は動いていると感じております.
第7章の何処かに「なおこの「死者の書」は来春翻訳出版を予定している」等の予告を探したのは,私だけではないと思います.

●それで,ぜひ原著を手にしたいと願います.何卒よろしくお願い致します.
私はフランス語は初歩レベルです.まずは,在日フランス人や神父他数人で読んでみようと思います.
本当に有難うございます!!

596ルチア:2012/06/16(土) 15:43:11
mimemegene 様
mimemegene様

私の質問に丁寧に答えて下さり、感謝いたします。
mimemegene様が教えて下さった本を全部ネットで見てみました。
ご教示頂いたところをプリントして、これからの勉強の指針にしたいと思います、何冊か既に持っている本もありますが来週本屋さんへ行ってみます。(竹下様の御著書が、どんなに重要かという事も再理解できました)

そうですね、聖書の中で気に入った所をノートに書き写せば良いのですね。お祈りのカードはノートに挟んで折々に見るのですが、思いが及びませんでした。いつも神父様が「皆さん、私の話を聞きに来てくれるのも良いのですが、一日5分聖書を読んでくださいね」と仰っていることが、形を持って感じ取れてきました。
こうして、自分の勉強の仕方を見つけて行くのですね。お力添え有難うございます。

「祈り」難しいです…。これも個人的には大難問の一つです。理由は簡単で私が現実的すぎて、忙しい人間だからだと思っています。でも、聖堂の中に入ると心が落ち着きますので努力してみます。

ご親切、心より御礼申し上げます。

597ルチア:2012/06/16(土) 16:23:08
竹下
竹下様

伝えて下さった事、有難うございます。

「風姿花伝」も「ベルグソンの Elan Vital」も、ネットで調べてみました。(分かったふりをするのは良くありませんから、すみません「お能」とか古典の素養がないのです)私に理解できたのは「とても難しそう」という事と、神父様が恩師と仰っている「ガブリエル・マルセル」はベルグソンのお弟子さんという事だけです。そして、竹下様の「音楽」「ダンス(身体表現)」と、カソリックがやっと繋がって理解できました。

ミサの与り方の姿勢というものを教えて頂いた気がしております。そして、個人が孤立した点として存在しているのではないという事も。

竹下様は「私の書いた本を、しっかり読んでください」と仰らずに、初歩的な質問に答えて下さり、何とも御礼の言いようがありません。
有難うございました。

598jean:2012/06/16(土) 18:19:45
sekkoさま
>末っ子の役割の問題、これは面白いテーマで、いつかじっくり書いてみたいと思っています。

楽しみにしています。本が出たら、買います。

竹下さんの周りには各社の編集者がいて、原稿の相談に乗ってくれるでしょうが、私も2年ほど前まで某出版社(ビジネス・理工系)にいたので(編集です)、もし出版先とは関係のない編集者に頼んでみたい何かがあれば、協力しますよ。いまは早期定年退職し、時間はありますから。

599jean:2012/06/16(土) 23:16:50
ルチアさま
>今私が勉強をするならどのような本をお勧めに

勉強もいいですけど、時間があるなら聖堂に座っているのはもっといいかもしれません。

でも、それだけでは突き放したような冷たい言い方なので、一冊挙げておきます。人それぞれに好みや感性の違いがあるから、ルチアさんに向くかどうか分かりませんが、私はこの本、好きです。『カルメル会の会則とその精神』。ドン・ボスコから出ています。文庫本サイズの、青色の表紙の割と薄い本です。700円ぐらい。執筆者はフランス人の神父さんです。本文は取っ付きにくいかもしれません。序文が4、5ページあって、これは日本在住の神父さん(多分イタリア人)が書いています。この序文が良く出来ています。熟読玩味されたらいかがでしょう。四谷のサンパウロでも棚に置いてあります。入って右の奥、カルメル会の著作がある棚です。

600sekko:2012/06/17(日) 01:55:53
みなさまへ
ここでのやり取りはとても勉強になりました。

何が求められているのか、わかったような気がします。

書きたいことがたくさん出てきました。

元気で長生きしなくっちゃ。

(で、死んじゃったとしても、その時はまた別の形で同じ路線で行こうとは、まさにテレーズや多くの聖人や、それから先だった多くの方に教えていただいたんです。キリスト教とは限りません。死後、あえなくブラックアウトってことも当然考えられますが、どういう場合にどういうことができるのかって、ずっと考えてきたんです。それが、『自由人イエス』の解説で書いた「自由他在」なのです。「他在」の流れにいる限り、自分が死んでもあんまり関係ないんですよ。私の年代の日本人は戦争も飢饉もない国に生まれて60年も生きてきたという多分人類史で初めての幸運な世代に属していると思うんで、これをみんなで還元していかないとだめだなあと思います。)

http://setukotakeshita.com/

601mimemegene:2012/06/17(日) 13:03:31
ルチア様
祈りのこと

「ヨーロッパの死者の書」194頁に,
「子供を対象にした公教要理のクラスでも,自分の言葉で祈りの文句を作文させる.神は初めから『対話する相手』として教えられているのだ」とあります.

日本でよくある,もらうばかりの勉強よりも,このほうがステキですね.
私も祈りの作文をしてみました.良かった!
ルチア様も作文してみませんか?

さて,私の例ですみませんが,祈りが「生活そのもの」で,「難しいのは祈りではない」ことを分かち合います.

このサイトは竹下様の意図を大切にする場所なので,
個人的なほんとに一例に過ぎず,私的な濃いめなあり方だけなので,全て無視して下さっても,結構です.
「大問題で難しい」とおっしゃるので,そのお気持ちを受け留め,一度だけでも,分かち合えればと願いました.


●「霊操」114番
「観想における人物を見ること。すなわち、聖母マリア、ヨセフ、はしため、また、誕生直後のみどりごイエスを見る。さながらそこにいるかのように、出来る限りの畏敬と敬意を尽くし、自分を貧しき者、とるに足りぬ小さき下僕とみなし、この方々を見、観想し、入用な物の世話をする。」

と,とても堅苦しく,?な,表記です.(大問題で難しいかも)

でも,この最後にある「入用な物の世話をする」を,私は今でも実際にします.霊操の時も,日常でも.

どのようにするかというと,イメージします.(驚かないでください)

祈りの中で,イエス様のオシメを取り替えたり,抱っこして散歩に行ったり.
「イエス様,少しお爪が伸びましたね.」「イエス様,お体を拭きますよ.梅雨時だから,汗をよく拭きましょうね」.と声をかけ,奉仕します.

私の気づきで言うと,
ルチア様の目の前に,みどりごのイエス様がいらっしゃる.
イエス様は,ルチア様に,全てをゆだねて,保護と養育を求めていらっしゃいます.
ルチア様はそれに応えて,イエス様を抱き,奉仕します.

この幸せを一生涯味わって生きている人達も沢山います.

家事で言うと,マリア様,ヨゼフ様に仕えます.
ベッドメークをしたり,シーツを綺麗にして,洗濯をします.お部屋の掃除をします.
「マリア様,ヨゼフ様に言われて,ヨゼフ様のベッドよりも,藁を多く入れました」・・・
朝食時,パンにバターをぬる時「ヨセフ様,バターはこのくらいですね」
「マリア様,今日はお好きないちごジャムですよ」と言って,自分のパンをぬります.
「卵は上手く半熟にできて,嬉しいです.ヨセフ様,どうぞ召し上がって下さい」・・・

ポイントは,イエス様,マリア様,ヨセフ様,とお名前を呼んで,入用な物の世話をすることです.
普段している家事が,そのまま聖家族への奉仕になります.聖家族も,生活し,暮らしをしました.

ままごとのようですが,聖イグナチオ・デ・ロヨラは,大切な祈りとして,この「お世話」を取り上げています.

祈りの時間をとって,お世話をイメージしても良いですし,単に家事をしながらやってもいいんです.

福音書を読むときも,このような感じを思い起こすと,リアルに体感できて,うまくいくことが多いです.
これは私の傾きです.

●祈りの時間を取れないなら,無理をすると,誰でも疲れるだけで,心から捧げられなくなってしまいます.

では,どうするかというと,日常生活で,食事の時,お風呂や,トイレや,家事や,通勤他で祈ります.
私の場合,青信号で歩き出す時,「さあ,イエス様,一緒に渡りましょう」・・・
というように,動作をイエス様と一緒にします.主語をイエス様にして.それだけでも私には祈りです.

●ルチア様が聖堂の中で心の落ち着きを「感じ」るのは,とても素晴らしいです.

ですので,その落ち着きの「感じ」を,普段の忙しさの最中に,思い起こして,味わうのは,どうでしょうか.
できれば,五感夫々を感じながら.
私なら,これは神様を感じること=祈り になります.

●大問題で難しいと思っているものは何でも,大問題になります.

小さく,具体的な行いや動作でも,祈りです.
例えば,今,心臓のあたりに手をあててみてください.何かが変わりますか?
聖堂の中での心の落ち着きの「感じ」を心に感じてみませんか?

胸:
最後の晩餐で主イエスの胸に顔をうずめていた,羨ましいヨハネ.
死後に槍でつかれた胸.
百人隊長が拳で叩いた胸
放蕩息子が父親と重ね合った胸
どんな感じがしますか?
そのうち,その部位が,イエス様の部位と重なって感じられるようになってきます.

●祈った後,振り返った時にも分かります

「〜だと思った」と書いている時は,祈ったのではなく,考えていた.
「温かくなった」「嬉しかった」等と心の言葉がでてきた時は,祈っていた.
「何の理由もなく,幸せを感じた」時は,祈っていた.
「悲しくなった」ら,祈りが失敗しただけ.やり直す.

●御言葉を書き写す時に,イエス様を思い出して書く祈り.

書き写す時が祈りの時だと思えれば,それも祈りです.
祈り味わいながら,書いている自分を,どう感じますか?
私なら,「私って,なんて幸せなんだろ〜」と言います.

●私の変化 例

勉強しているという思い込みが弱点になるので捨てた
教えてもらって,その場で心が温かく豊かになったら,それは勉強ではなく,恵み.(このサイトのように)
恵みと知識,どちらを求めているかがわかってきた.
互いの,本当の気持を,イエスと語り合う
「どうしたら良いか示してほしい」と,神に強く言い続ける
「直観」だけが頼り
祈って,心が温かくならなかったら,祈りを失敗しているから,やり直せばよい.
祈りは対話
傾聴だけだと,イエス様は物足りないとお感じになるかも.イエスの聖心で,私はそう感じます.

●人さまざまで・・・

十字架の根本にひざまずき,死んでいくイエスを見上げ続け,歓びに溢れて,語り合い続ける.
この祈りだけを,毎日ずっとしている人がいます.
ルチア様も色々な祈り方をお聞きだと思います.

●「できない」と思うのは・・・

仕事でも,何でも,「無理だ,できない」と思う時,それは神様の働きかけではないようです.
その思い全部を,イエス様に丸投げしたら,受け取ってくれます.
私も知人から教えてもらって,スッキリしました.
いやな気持ちを数分味わって,楽になるまで,その気持を何度も手放してみて,渡してみて,綺麗サッパリ,なかったコトに.

先々の事で心配するくらいなら,それを全て渡してしまって,
今(過去でも未来でもなく)を幸せだと感じます.
私には大事な祈りです.

●知らなくて,恥ずかしくて,自己卑下してしまうとき・・・

未来の心配や問題を思い起こさせるのは,悪い手口からの影響です.
自己卑下や無関心は,愛の反対だから,
イエスを愛する心を消し去ろうとする策略です.
神様は,誰かとルチア様を比較して,どちらが良い等は,なさらないです.

●自分もゆるせない・・・
沢山の祈り方があります...

●私は,迷ったら,神が喜ぶ方を選び,選んでもできなかったら,できるようにと願います.

神が喜ぶ方の選び方は,恵みと暖かさを感じる2択を並べて,味わって,神様の望みはこちらでしょうか?と尋ねてみたとき,しっくり来る方です.

---

それで,ルチア様のご返事に感謝しています.
また私は,勉強の仕方を教える意図等なく,私の経験を分かち合っているだけなんです.
このサイトは竹下様の意図を大切にする場所なので,
私も,上記のように,「不器用だから,こんな事までしてるのか〜」という事も分かち合っています.

神様はルチア様を愛し,ルチア様用のプロセスを計画されています.
ルチア様が好まれる事だけ,なさって下さい.

ご紹介した本は,デーケン神父がイエズス会士なので,その傾向にしました.
カトリックの多様な宝石は,竹下様の著書から掘り出してください.ザクザクと.
全冊目の前に並べたら,「少しだけでもわかれば,そこから始めよう!」と謙虚に思う程の量ですね.

まず優しい1冊を複数回通読して,気に入った箇所を味わうようになさってみてはいかがでしょうか.
ルチア様の「心の中にある聖書」と比べてみると,楽しいです.

竹下様の3冊も,冒頭で書いたように,味わい深いですね!
「二人の自分」や「祈りを深めるために」だけでも,数ヶ月かかります.
楽しいから読みたいという気持ちの時に読めたら,もっと幸せですね.

福音書も,腑に落ちたり,気に入ったり,気づきがあったりしたところを深めると,それが心の扉になっていきます.

神様は無理強いをしませんから,締め切りもありません.
浅く広い知識よりも,神様とルチア様との対話で培われてきたお智恵を大事になさって下さい.

これまでの素敵な人生経験は全て神の御計画だと思います.

スペシャルプログラムをルチア様のために神は用意されています!

以上

602ルチア:2012/06/17(日) 16:41:22
jean 様
伝えて頂いたこと、有難うございます。

助言して下さった事を大事にしていきたいと思っています。『カルメル会の会則とその精神』、読んでみます。jean様の紹介文を読んだだけでも、魅力的な御本である事がわかりますので。

見知らぬ人間に親切にしてくださり、御礼申し上げます。

603ルチア:2012/06/17(日) 17:08:10
mimemegene 様・竹下様
mimemegene様

「無視」など、とんでもありません。何回も読んでしまいました。
有難うございます、こんなに丁寧な文で伝えて頂き、お時間も頂戴してしまったでしょうに、何と御礼を伝えたら良いのでしょうか…。

竹下様

「竹下様のサイト」で勝手にやりとりして申し訳ありませんでした。こんなに素晴らしい真心をお持ちの方が集うのは、運営なさる方の心の大きさかと考えます。竹下様、有難うございました。

前回の主日に「驚いて」から、また次の主日を迎えました。一週間前には予想もしなかった思いで、今日を過ごしております。

皆さん、お世話になりました。ご厚意、この先も忘れられないと思います。
有難うございました。

604sekko:2012/06/20(水) 19:56:49
mimemegene さま
ヨーロッパの死者の書、古い版ですが、注文したらもう着きました。古本ですが十分読めます。すぐ必要でなければ10月末に日本に行く時に持っていきます。10月最後の日曜のイグナチオなどはいかがですか。この下にあるサイトのアドレスをクリックして、その中のerrataという場所にあるアドレスに連絡ください。すぐ必要でなければ10月末に日本に行く時に持っていきます。10月最後の日曜のイグナチオなどはいかがですか。ルチアさまもよろしければどうぞ。

http://setukotakeshita.com/

605迷える大羊:2012/06/22(金) 00:26:11
家族の宗教
 広くいろいろな方のご意見、体験談がいただければ・・と思う話なのですが、夫婦、あるいは身内との間で信仰が違う、という方はいらっしゃいますか?信仰が違う、といっても無宗教とクリスチャン、あるいはその他というのではなく、例えば、カトリックとプロテスタント、など所属宗派、教会が異なる場合。あるいはキリスト教と仏教系新興宗教といった塩梅の実際に信仰を持つ者同士の「違い」です。

 具体的には・・・。
 ・信仰の違いによって、夫婦、または身内の仲に問題が生じた、といったことはないの  か?

 ・子供がいる場合、どちらの教会に連れて行く、などでもめたことはないのか?どう解決  しているのか?

 ・これが特に聞きたいことのですが、プロテスタント(あるいはプロテスタント同士でも 宗派が異なる場合)とカトリックは同じキリスト教ですが、変に「同じ」だけに、かえ って細かいメンタリティの違いがハナについて・・なんてことはないのか?

 いろいろワケあってキリスト教に関わることになり6年以上、本もいろいろ読み、こちらのサイトでしつこいくらいにいろいろ聞いて(先生には迷惑だったかな、失礼だったかなと思いつつ)、キリスト教世界の幅広さにいろいろと驚きました。特にカトリックに関してはステレオタイプなヴァチカン発の情報では知ることができない面がいろいろと。
 自分でいうのも何ですが、カトリックからプロテスタント福音派まで大抵の教会に足を踏み入れましたし、もしかすると、その辺のクリスチャンより教会によく行ってるかも・・な生活です。
 身内はムリは言わないけど、できればクリスチャンになってくれないかなぁ的な願いは今でも、端々に感じられます。

 別に無神論者ではありませんし、イエスも好きです。でも、実際のクリスチャンの人の信仰心をみると「そこまでは・・・」と思ってしまうし、教会で讃美歌を歌うことは何年経っても恥ずかしくてたまらない。悩みや困難にぶち当たると神様についていろいろ考えますが、そうでない時は神様のことなんざ全く考えてません。品行方正でもなく、慈愛に溢れているわけでもない、イエスの精神とは程遠い全くの俗人です。

 あと、いろいろ教会を巡ったり、講習なども受けた結果、正直いうと、カトリックの方が好きというか、合うような気も。これまで、ある意味失礼だったり、しつこいと思えるような質問をぶつけられた先生からすると「ほんとかよ?」と思われそうですが・・。
 いえ、別にカトリックにすごーくいい人がいたというわけではなく、また、プロテスタントにすごくイヤな人がいた、というわけではありません。教義的に納得した、ってわけでもありません。

 変なところに感心するなよ、あるいはそれは違うよと言われそうですが、いいなぁと思ったのはその「淡泊さ」でして。なんていうか、「キリスト教ですか?」「ええ、そうですよ、それが何か?」くらいのさりげない信仰ぶりが好ましい感じがして。
 「私はクリスチャン、クリスチャンたる者・・」みたいな力みがない、といいましょうか。あと、日本の神社仏閣、関連する行事に妙な壁を作る人も少ない、聖書を過剰に崇めすぎない、教会べったりでもない、というあたり。

 あと、現実的な問題として、教会によって、牧師によって、たとえ同じ教団であってもカラーやムード、教えすらガラッと変わってしまうプロテスタントに比べると、カトリックの場合、教会によってあまりにもいろいろ変わってしまう(少なくともプロテスタントほどには)なんてことがなく「安心」という点もありますね。実際、プロテスタントの身内は引っ越しの後、現在の教会に落ち着くまでに、周辺の教会をいろいろ彷徨いましたし。
 あとは文化的な重厚さ、歴史の厚さはなんだかんだいっても魅力的です。

 まあ、これまでいろいろ述べた通り、キリスト教とか教会自体にまだまだ疑問がありますし、知識は増えたものの、信仰心というやつにもまだわかったようなわからないような、ですし、クリスチャンになるとすれば・・という「仮定」の話ですが。

 ただ、仮に「その日」、つまり、クリスチャンになろう、という日がきた場合、プロテスタントの身内に向かって「いや、実は俺、カトリックの方がいいかなぁ〜と」なんて言ったらどんな反応があるんだろ?やはり、やめといた方がいいかな、面倒が多そうだし、といろいろ考えたもので、スレを立てさせていただいた次第です。
 

606安井 彰:2012/06/22(金) 23:40:03
アウグスティヌス
竹下さま、

ちくま新書版「キリスト教の真実」を楽しく読み始めさせていただいています。
ところが校正ミスでしょうか、85ページの教皇グレゴリウス1世によりイングランドに派遣されたベネディクト会士アウグスティヌスの生年−没年がアウレリウス・アウグスティヌスのものになっています。4世紀と6世紀の違いもあるし、アフリカとイングランドの違いもあるし、ちくまにクレームもんではないでしょうか?
akirayasui@kxe.biglobe.ne.jp

607sekko:2012/06/23(土) 00:22:51
訂正
ご連絡ありがとうございます。

p.85のアウグスティヌスについては、すぐに指摘してくれた人がいたのですが、重版には間に合わず、今度出る3刷りから訂正してもらいました。カンタベリーのアウグスティヌスと呼ばれるこの人は、生年が不詳で、没年はグレゴリウス一世と同じ604年です。文脈からどの時代の人か分かるので私は原稿に入れなかったのでチェックもしていませんでした。大きな誤解はないと思いますが申しわけありません。

後3刷りで訂正したのは、

1)p.83の7行目 「フン族」を削ること。
2)p.108の2行名 「東ローマ帝国」→「神聖ローマ帝国」
3)p.181の5行目 「神聖ローマ帝国」→「西ローマ帝国」

2)と3)は単純ミスですが、世界史を勉強している人などには迷惑だったと思います。

1)は、フン族ではなく七世紀には何度もアウストラシアによって破壊され、八世紀にはサラセン人に焼かれています。ここで関係ある修道院は二つあって、焼かれた年ももちろん分かりますが、このあたりは、もともと細かいことを書きこんでも煩雑になるばかりなのでたたみかけて書いたものなので、新版では

ブルゴーニュの修道院も何度も破壊され、

とだけしてもらいました。

丁寧に読んでくださる読者の方々に感謝します。

サイトのerrataのコーナーにもそのうちに載せてもらいます。

まだ他に単純ミスの間違いがあるかもしれません。お気づきの方はご一報ください。

http://setukotakeshita.com/

608KIMI:2012/06/23(土) 20:54:21
家族の宗教について
夫の家族が「・・バの証人」でした。私は幼児洗礼のカトリックで結婚はカトリック教会です。夫の両親も来てくれました。夫の兄も成人してから無宗教のようですが、夫は子供の時から神を信じていたので神なしではやっていけないそうです。夫の両親は今も信仰活動を続けているようですが、そのことは話題に出ません。昔は大反対で大騒ぎしていたのにあれはいったい何だったのだろうと思います。夫はまだカトリックの洗礼を受けていませんが、子供は洗礼を受けさせました。私の両親からは反対されたことはないです。両親はふたりともカトリックです。参考になるかどうか分かりませんが。

609迷える大羊:2012/06/26(火) 22:59:21
レスありがとうございます
>KIMIさん

 レスありがとうございます。お礼、遅れてすみません。そうですか、ご主人が「あの」教団で、ご自身のご家族はカトリック、と。私なんぞ比べものにならないくらい、いろいろ、おありになるんでしょうね。ただ、ご主人自身は信徒をやめてはいないものの、例の教団に対しての帰属心は、今現在さほどないのでしょう?

 聞いた話では、例の教団で一家で信者の場合、離脱したり、「信仰」を捨てようとすると家族と絶縁状態になる、と聞きますが、最近は違うんですかね? まあ、あの教団といえども人により様々ってことなのでしょうか?いずれにしても、家族の宗教とか信仰に関する問題に関しては「正解」がない・・んでしょうね。

 余談ですが、私のキリスト教とのファーストコンタクトは「・・バの証人」でした。高校時代の友人がそうでした。話も結構聞きました。人は神が自らに似せて作り給うたもの、進化論など邪悪などなど。ただ、知識はないにしても、子供心にどこかロジックが独善的で変だ・・と思ったのと、自宅に二人組で勧誘に現れるようになったため、心苦しいながらも縁切り・・となりましたが、その友人とは。
 その後、双方のご家族がうまくいきますように、お祈りいたします。

610迷える大羊:2012/07/11(水) 02:10:15
カトリック国と自殺
 今週(2012年7月4日号)のニュースウィーク誌日本版の「欧州に蔓延する自殺という疫病(EUROPE'S WHITE WIDOOWS)」(バービー・ラッツァ・ナドー記者)について(ウェブ版なし、紙媒体のみ)。

 簡単にいえば、財政危機、信用危機に端を発する不景気・失業、緊縮財政で追い詰められ、特に状況のひどいイタリア・スペイン、ギリシャなどで、中小企業主(家族や従業員を養えなくなったことを苦にして)や若者(スペインの25歳以下の失業率はなんと50%超)の自殺が著しく増えている・・という記事です。

 記事によればイタリアでは財政再建の為、徴税を厳しくする方向に動いていて、「エク・イタリア」なる徴税専門の公社ができ、その取り立てが例えば、経営難の中小企業の経営者などにとっては厳しいものらしくて。原題のEUROPE'S White WIDOWSというのはイタリアで自殺者の未亡人たちが人生への「降伏」の意を込めて白旗を振ってデモ行進したことからくる題だそうです。

 で、この記事を読んで痛ましさもさることながら、疑問に思ったのはイタリアにしても、スペインにしてもカトリック国で、特にイタリアでは実際の信仰の程度はともかく、名義上は9割方がカトリックなわけですよね?
 もちろん、皆が皆、教会に毎週通い、常に神様のことを考え・・ってわけではないでしょうし、昔みたいに、自殺者は葬儀しない、村八分、なんてことはないにしても、自殺というのはやはり、タブーなのではないのか?
 信仰心とか宗教が自殺への抑止力になってないの?との疑問がわきました。現代の現実のカトリック国の自殺への感覚は、非カトリック国と大して変わらなくなっているのでしょうか?

 まあ、カトリック国であるはずのフランスの離婚率はきわめて高いし、やはり、公式には避妊ダメ、であるはずのカトリック国のイタリアの出生率は世界最低レベルであることを考えると、自殺について同じことがあっても不思議ではありませんが・・。

611sekko:2012/07/02(月) 07:37:10
迷える大羊さま
この件について、あまり答えになりませんが、書きたいことがあったので、ブログの方にアップしておきました。ごらんください。

http://spinou.exblog.jp/18174878/

http://setukotakeshita.com/

612迷える大羊:2012/07/02(月) 11:44:54
なるほど
 ブログ拝見いたしました。良く言えば「寛容」、悪く言えば「適当」なカトリックの世界で、かつて、どうして自殺が殺人犯以上の厳しい扱いを受けていたのか?かねてから不思議だったんですが、その感覚、考え方がよくわかりました。

 キリスト教、少なくともカトリックの世界では神の救いを信じられなくなる、絶望すること、拒否することが何よりも罪、という考えなんですね。

 あと、私が今回のニュースウィーク誌の記事に興味を持ったのは、痛ましさもあるけれど、自殺もそうですが、他にもカトリック国とかラテン系へのステレオタイプが覆されるような話がいろいろ出てくるから、なんですよね。

 まず、カトリック系、ラテン系っていうと、借金や徴税なんて、少々汚い、ずるい手を使ってでも免れて、それこそ、今日本で問題となっている生活保護の不正受給なんかもやって、考えられるあの手この手を使って、経済危機などなんのそので、たくましく強かに生きていく・・というステレオタイプがあったのですが、そういうことができない人間だって大勢いる、という、考えてみれば当たり前の事実が改めてわかったってこと。

 あと、男は働いてナンボ、妻子を養ってナンボ、という昔ながらの価値観の男性がこれまた、大勢いたこと。ステレオタイプでいえば、こういう状況になれば、ヒモになってでも、とにかく頼れるものは何にでも頼って、プライドなど捨ててたくましく生きていく・・って思ったのですが、これまた、そういうことができない不器用な「男らしい」男性が大勢いること。
 記事中の徴税公社エクイタリアの前で焼身自殺した男性も、結局、自殺するまでに、経営難とか税金とか借金とかについて、奥さんには全然話をしてなかったみたいで・・。個人的には、さっさと話してしまえばいいのに・・、そっちの方が結局のところ誠実だし、楽なのにとも思いましたが、プライドというか、自分の不甲斐なさとか情けなさが先にたってそれができなかったみたいで・・・。

 詳細は実際の記事をご覧いただくとして、結局、国や宗教に関係なく、こういう経済苦、借金、徴税苦っていうのは真面目というか不器用で正直な人間ほど、まともに苦しんでしまうっていうのが、なんだかなぁ、と思わされます。

 問題の徴税公社エクイタリアの職員にしても、やはり精神的にストレスの多いイヤな仕事で顧問弁護士が辞めたようですね、記事によれば。そりゃそうだろうな、と思いましたけれども。


 

613jean:2012/07/02(月) 23:53:05
自殺が駄目なのはユダが自殺したから?
竹下さんがブログで書いておられたように、自殺は告解できない唯一の罪、自殺したら敗者復活のチャンスがないというのは、その通りですが、それは後付けの理由という感じがしなくもありません。その前に、普通の人々に自殺はよくないと思わせる何かがあったのではないでしょうか。あの裏切り者のユダは自殺した、自殺するとユダのようになる、それは嫌だ、という思いがベースにあったのでは? 何の根拠もない勝手な想像でしかありませんが。

614Takata Yoshitomi :2012/07/07(土) 12:27:33
「自由人イエス」を読みました。
先日「自由人イエス もう一つのキリスト論」をamazonで購入し、数日かけて一応読了しました。スクルス司祭の「すすめのことば」の通り、訳者の竹下さんに感謝します。私が高校時代に福音書を読んだ第一印象は、ここに本当に自由な人がいるということでした。この本はただ一度通読して終わるべきではなく、生活しながら、読み続けるべき著作だと思います。私はフランスの神父、学者としてGerard Bessiere, Joseph Moingt,Timothy Radcliffeといった人の著作を眼にしてその学殖と誠実なキリストへの信仰に尊敬を持っています。最近では訳書の出たミシエル・アンリの「キリストの言葉」を原書と照合しながら少しずつ読んでいます。信仰のキリストと歴史の中のナザレの人イエス、それを繋ぐ十字架と復活という出来事をなんとか理解したいという気持ちです。これからも優れた著作の紹介と現代日本への提言を期待します。

http://ytakata.apionet.or.jp

615sekko:2012/07/07(土) 20:31:01
まだ迷える大羊さんへ
あ、ラテン系のステレオタイプって、私の感覚では、そしてたとえば普通のフランス人の感覚では「マッチョ」ですよー。

女性の権利を早くから認めて、男女平等共稼ぎ社会が出現した北欧系プロテスタント国とちがって、南欧系カトリック国って、男は外で稼いで、彼ら同士でつるんで、そのマッチョさを男兄弟間の絆の強さで担保するって感じの…まさにちょっとマフィア的な強がりの感じです。

ラテンの母さんは、家の中では絶大な力を持ってたくましそうですが、社会の中での「稼ぎ手」としての認知は低いような。

だから、家族を養えなくなった男のつらさっていうのは自己否定につながるくらい厳しいものもあるのではと想像します。少し前までの日本もそんな感じだったんじゃないでしょうか…

http://setukotakeshita.com/

616sekko:2012/07/07(土) 20:45:26
Jeanさま
私はむしろ、たとえイエスを裏切った後でも、赦しを信じてすがりさえすれば救ってもらえたはずのユダが、絶望して自殺したという話を伝えてきたことの方が後付けの感じがします。

イエスはユダの足もしっかり洗って、聖餐でも他の弟子と差別せず、復活の時にもユダはまだいたという説もあるほどです。そもそも、ほとんどの弟子がみな保身に汲々として四散していた十字架刑の後で、死刑の判決を聞いてすぐに後悔して自殺したなどというユダの消息に気をとめている余裕などだれにもなかったはずですから、ユダの自殺の話こそ、「勧善懲悪」的な教育的配慮で付け加えられたような…

もっとも、「裏切り者」と「自殺者」を結びつけるユダのエピソードが、その後のキリスト教世界に影響を与えたのは確かで、私は今そこのところを掘り下げる『ユダ論』を書き下ろしているところなので、またごらんください。

http://setukotakeshita.com/

617sekko:2012/07/07(土) 21:22:54
Takata Yoshitomi さま
『自由人イエス もう一つのキリスト論』を読んでいただいてありがとうございました。この本はほんとうにすごいですね。

偶像崇拝にとらわれている犠牲者は人間ばかりでなく神も同じことで、そこから自分を解放してしこうとする人は、同時に、神もいっしょに解放して連れて逃げなくてはいけない、という感じがしますね。

自分だけ自由になろうとしても、結局、偶像崇拝のシステムを維持している連中と同じく、エゴイズムの足枷に再びとらわれてしまいます。

ほんとうの自由というものがどれだけ、エゴイズムや時間や空間などを超えるものかということが分かりますね。

フランスで、偶像崇拝を否定するあまり無神論という新しい檻の中で発言する知識人たちに比べて、「それでもカトリック教会に残る」という自由な選択をした思想者たちの書くものには、いつも新鮮な解放感を味わわせてもらえます。

http://setukotakeshita.com/

618迷える大羊:2012/07/18(水) 22:24:29
クリスチャンと葬儀
 こちらに出入りするようにになって以来、何度となく繰り返している話で申し訳ないんですが・・。
 日本の一般的な仏式の葬儀の風習、とくに焼香については、人にもよりますが、日本のカトリック教徒は概ねこだわらず、普通に行う人がほとんど。プロテスタントでもリベラルというか、あまり保守的でないところは普通に行いますが、保守的な教会(非常にぶっちゃけて、なおかつはっきりいってしまうと、「新改訳」聖書を使用する教会)ですと「本当に信仰心があれば自然とそんなことはできなくなります」とか「(焼香しないのは)クリスチャンの証です」みたいなことを言われます。

 で、ご質問ですが、カトリック国、キリスト教国の一角であるフランスのカトリック教徒(なんちゃってカトリック信徒は除いて)はどうなのでしょう?
 つまり、例えば、キリスト教式以外の葬儀に参加する際、「これは異教崇拝だからできません」みたいなこだわりがあったり、日本の神社で「おみくじ」は占いであり、神の御計画を覗き見る不届千万な行為ってことで絶対やらない・・みたいな人が多いんでしょうか?
 それとも、日本の大多数のカトリック教徒同様、こだわらない人がほとんど?

 なぜ、この話を今頃また遡上にあげたか?というと、個人的に最近、また葬儀というものに関わり合いになりそうな状況だからですが・・。

619sekko:2012/07/19(木) 05:28:38
いろいろ大変ですね。
フランスでは、一般的なカトリック信者、なんちゃって信者も含めて(もちろん少数の教条主義的な人はどこにでもいるでしょうが)、つくづく思うんですが、たいていは意識していないと思いますが、もちろん他宗教一般に寛容で、でも、その本音は、前にブログでも書いたんですが、要するに、

「自分ちの伝統宗教だけが宗教だと思っていて、世界の他宗教は宗教じゃなく《文化》だと思っている」

ような気がします。もちろん、自分ちでいろんな原理主義的主張をするイスラムとか、歴史的罪悪感を持たざるを得ないユダヤ教とかについては、同じ「アブラハムの宗教」として葛藤だの警戒だの偏見だのがそれなりにありますが、それ以外の地域の多神教だの仏教だのは「エキゾティックな異文化」程度の認識です。

仏教が無神論で哲学で生き方マニュアルだという見方は根強いですし、仏教、ヒンズー教、神道など、ギリシャ・ローマ神話と同じくらい歴史的、文学的、民族学的、審美的な扱いだし、ヨーロッパに直接の影響関係がない分もっと単純に憧れたり反対にスル―したりするので、セレモニーに参加する機会があるとしても、「信仰の踏み絵」にならず「興味深い異文化体験」か、もしくは「他文化リスペクト原則」の体験という認識だと思います。

いろいろなセレモニーというのは、時代や環境とともに変化してきたもので、セレモニーが人のためにあるので人がセレモニーのためにあるわけではありませんし。

私なんか、母の一周忌のお経をお墓の前で浄土真宗(実家の宗旨)のお坊さんにあげてもらいましたが、その時参加したのはカトリックのシスターたちも含めて全員カトリックだったので、それでもいいですか、と聞くと、お坊さんから「私が行っても、よろしいんですか・・・」と言われてしまいました。でも、浄土真宗では亡くなれば南無阿弥陀仏で即成仏で極楽浄土にいるわけなので、お経も回向のためというより出席者が故人をしのぶためだとも言われたので、どちらもノープロブレムでした。「何教でも何宗でも宗教者が故人のために祈ってくれるのはありがたいことだ」というのは、伝統のメジャー宗教にいる人にはよくある感覚だとも思います。

故人の宗旨をリスペクトして、遺族感情もリスペクトして、自分の立場が周りにとって挑発的なものにならないように控えめにしている、というのが葬儀に臨んでの「普通の大人」のスタンスだという気がします。

http://setukotakeshita.com/

620迷える大羊:2012/07/22(日) 19:10:35
教会通い
 いつも、恐れ入ります。ところで、クリスチャン、キリスト教信者の教会通いについて、ですが・・。
 キリスト教徒にとって礼拝やミサは安らぎと大切なコミュニケーションの場であることは理解しているつもりですし、通常の週末に毎週通うのは、別に何らあれこれいうべきことでもないのは当然です。

 しかし、年に何回もない旅行やらお出かけやらの際にも、また、年に何回、どころか十何年に一回の葬儀だとか、親類の集まりの際にまで「教会があるから、早く帰る・・」みたいなのは一体どうなのか?と・・。イエス様って年に何回単位の行事の際すらも、ミサとか礼拝に参加しないと、忠義を認めない、救いを与えてくれない神(であり人間)であるお方なんですかねぇ?という疑問が・・。

 それ信心深いっていうより、「イエス依存症」だろ?って思うんですが、このような人に対してはどのように接したらいいんでしょうね?

 葬儀のお焼香にしたって、レスいただいたように「他宗教は宗教じゃなく《文化》だと思っている」でええやん、大体、踏絵と違って信仰を試しているわけでなし、遺族や故人がクリスチャンじゃないんだからしょうがないじゃん、としか言いようがない、と思うんですが・・。

 しかし、ことがことだけに言い方には注意せんと、と思いますが、一方ではこんなに人に気を遣わせる「信仰」って何やねん?と思ってしまいます。

621mimeme_gene:2012/07/23(月) 14:49:43
竹下様、 感謝!
竹下様

妻の友人の奥様が自死で帰天されました。
ご著書の「聖アウグスチヌスの祈り」をカードに転記して、その友人に妻が渡しました。
友人から、翌々日に電話が妻にきて、

「これからは、子供たちと3人で暮らすと思っていました。
この詩を読んで、
これからも家族4人で暮らしていくんだと納得して、とても慰められ、救われました」
と分かち合ってくださったそうです。(友人は未信者)

妻と二人で、とても良かったと話し合いました。

竹下様のおかげです。
妻と二人で、竹下様に感謝します。

622迷える大羊:2012/07/29(日) 20:52:18
イジメとキリスト教
 現在、日本では、滋賀県大津市で中2の少年がイジメを苦に自殺した事件が大体的に問題になってます。イジメそのものの酷さもさることながら、学校、教育委員会、警察の事なかれ主義、隠蔽が非難の嵐となっていまして・・。概要はこちら。

http://wiki.livedoor.jp/emiliano/d/%B9%C4%BB%D2%BB%B3%C3%E6%B3%D8%B9%BB%A4%A4%A4%B8%A4%E1%BC%AB%BB%A6%BB%F6%B7%EF#

 今回の確かに大津の事件は酷過ぎるとは思いますし、実態ののさらなる解明が望まれます、と思う一方で、私個人は加害者当人はともかく、それ以外の関係者をあまり高飛車に「裁く」気にもなれないのです。

 誤解を招きそうな話ですが、古今東西、少年少女の集まるところにイジメが100%ない、なんてことはあり得ない、と思うのです、単に程度の差の問題で。大人社会にだって酷いイジメはあるところにはありますし・・。
 はっきり言って、「私はイジメに関わったことありません」なんて言いきれる人なんてどれだけいるんでしょう?ひどいイジメを食らっていない、あるいは積極的にイジメに加担したことがなくても、面倒に関わるのがイヤ、自分自身がターゲットになるのがイヤ、で見て見ぬふりをしていた、くらいは誰にでもあるのではないのか?と。もし、そんなことない、と言い切れる人がいたら、イエスの「罪なき者からこの女に石を投げよ」とか、「偽善」の文字が思い浮かんできます。

 昔はこんなことなかった・・みたいなことをいう年配者の方もいますが、警察庁や法務省のデータを丹念に調べると、少年非行・犯罪は「昔」の方が圧倒的にひどく、荒れ果てていて(特に昭和30年代)、そんな中で、イジメだけは酷くなかった・・というのはちょっと信じ難い話です。単に記憶が美化されているだけ、単に問題にならなかっただけで、今以上に酷いイジメが横行していた、と考える方が自然・・だと個人的には思っています。

 私自身の少年時代を「正直に」振り返れば、いじめられっこだった時期もありましたが、逆にイジメてた(今にして思うと)、あるいはイジメに加担はしないまでも、面倒に関わるのがイヤ、自分自身がターゲットになるのがイヤ、で見て見ぬふりをしていたこともあります・・。
 関係者は何してた、ともいいますが、自分自身の少年時代を省みるに、自分がいじめられっこと認めるのは非常に屈辱的で、大人に訴え出るのは二の足を踏みます。現実的にも、大人に頼った・・という事実は子供社会での立場を一層悪くすることも多いですし・・。
 まあ、今回の大津市の場合の「関係者」は酷過ぎますけども。

 個人的に考え付く策としては、戦争や殺人、その他犯罪が世界から無くならないのと同様に、人間、特に子供の世界にイジメは付き物という前提、つまり性善説ではなく、性悪説で学校運営のスタイルを考える、例えば、特定のメンバーばかりで固定された閉鎖的な人間関係をつくらないようにする、逃げ道を用意する、イジメられっこであることを公の場に訴えることは決して恥ずかしいことでも何でもない、という啓蒙、教育を行うってことが必要な対策かな?と・・。
 少なくとも思いやりの心を育てるだの、道徳教育だのみたいな精神論、観念論は全然役に立たない、と個人的には思ってます。

 前置きが長くなりましたが、このイジメに関して、私は優等生的発言、現実からかけ離れた理想論はガラでない、嫌いな方なので、ずばり本音をいうと、イジメに関しては評論家・呉智英さんの2006年11月26日の産経新聞紙上での発言

 「被害者が自ら死を選ぶなんてバカなことがあるか。死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ、少年法が君たちを守ってくれるから」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%99%BA%E8%8B%B1

 に共感してるんですが、これ、クリスチャン的、キリスト教的にはマズい・・んでしょうか、やっぱり・・。でも、現実のキリスト教圏とかキリスト教国の人間、特にアメリカなんかみると、とても「敵を赦せ」とか「敵を愛しなさい」って感じはしませんが・・。むしろ、日本など目でないくらいにやられたらやり返せ、やられっぱなしで帰ってくるな、が徹底しているような気もしますが、偏見でしょうか?まあ、聖書でも旧約の方には 目には目を」という言葉もあったりしますけれども・・・。

 それにしても、子供時代の人間ってどうして残酷なんでしょうね?

623sekko:2012/08/01(水) 01:45:41
迷える大羊さまへ
しばらく留守にしていたのでお返事遅れてすみません。

まず、「教会通い」が親戚のイベントよりも優先したりする話について。

上智大学のサイトのキリスト教Q&Aでこんなのがあります。

54.洗礼を受けたいと望んでいるのですが、家で反対されます。家庭に不和を起こしても洗礼を受けるべきでしょうか。

家の人がキリスト教のことをまったく知らなかったり、伝統的な宗教に熱心であったりする場合には、反対されても当然でしょう。娘が洗礼を受けるとお嫁にやるときに障害になると考える人もいれば、主婦が家事を放りだして信心などにこりはじめると迷惑だ、と考える人もいるでしょう。家の墓はどうなる、と心配する人もいるかもしれません。いずれにせよ、あせって無理をしないようにしてください。
あなたがまだ自立して生計を立てておられないなら、やはりご両親の許しをいただいてください。若い人たちがいかがわしい新興宗教の勧誘にのって大変な被害 をこうむった例もありますから、心配されるのは当然です。指導してくださった司祭や先生に頼んで、ご両親と話していただくのもよいかもしれません。時機を 待てば、そのうちわかっていただけるでしょう。
もしあなたが一家の主婦で、ご主人がキリスト教のことをよくご存じないとしたら、やはりきちんと話しあって、了解を得ておかれることをお勧めします。主婦が教会にいりびたって家事をなげやりにする、というのであれば、それはキリスト教的に見て正しくありません。神への愛はもっとも近い隣人への愛として表れるはずですから。でも、もし教会に行くことが家事に支障をもたらさず、むしろ奥さん、お母さんが教会に行って、喜びをもって帰ってきて、家庭がもっと明るくなった、と喜ばれるようになれば、しめたものです。洗礼の望みも、自然に了解されることでしょう。
確かに福音書には、キリストに従うための厳しい心構えが言われます。「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイ10・37)。でも、このような言葉は、それが語られた文脈や状況を無視して理解すべきではありません。 それは確かに、人間が生きていく上でよりどころとする最終的な価値基準のことを言っています。そして神の前で、家族や血縁の愛は決して絶対的な基準とはなりません。でも、その神への愛に目覚めさせ、それをはぐくんでくれるのは、実は他ならない両親の愛であり、家族の愛であり、隣人の愛です。
隣人の愛を深く体験した者のみが、逆説的に、それを越える神への愛を知るようになるのですね。
洗礼は大きな恵みですが、でも、神の大きなみ心を信 じて、あまりあせらないようにしてください。神は一人ひとりを心にかけ、いちばんよいように導いてくださいます。もし神があなたに、洗礼への本当の望みを お与えになったのなら、きっとそのための道も準備してくださるでしょう。

引用終わり。

私はこの意見に全面的に賛成です。

でも、個々のケースで、どんな習慣でも大羊さんのおっしゃるように、「依存症」みたいになってしまうこともあると思います。

それは信仰とかキリスト教とか教会とかとはもう別の次元の問題だと思います。

でも、本人が信仰のため、と思い込んでいるなら、その共同体内のしかるべき人に相談してその依存症状態から脱却するのに協力してもらうことも可能かなあと思います。

その共同体自体が依存性を誘発しようとしているなら別ですが。あり得ない例えですが、もし誰かが私に夢中になって家族関係をおろそかにしているという訴えが家族からなされたら、私なら本人とよく話し合って、もっと柔軟で自由なスタンスでいてくださるように仕向けるでしょう。

もうひとつ、いじめの話。

いろんな言説がありますし、私も書いたことがありますが、

玉聞伸啓さんの「いじめと闘おう!」サイト

http://www.ijimetotatakaou.com/

が、対策と克服を具体的に提示していて今、一番共感しています。

昔のいじめはいわゆる「弱い者いじめ」が多くて、そこにははっきりと「弱い者いじめはダメ」という自主規制もそれなりに生まれていたと思うんですが、今はみんなが横並び的な部分で、何が基準でいじめられているのか分からない、権力関係にも似ていて、外部からの介入がより難しい部分もあるのかもしれません。

ネットを通してなどだとなおさら分からないし。

やられればやり返せ、と言うのも、大人ですら一度自力で負のスパイラルに落ち込んだら鬱から抜け出せないことも多いくらいですから、簡単なことではないし、ましてや赦すとか赦さない以前に、被害者の自死をふせぐためには、これはもう、大人が命をかけて関わるべきだと私は思っています。

大人の社会のハラスメントやDVも、絶対に他からの援助が必要な場合の方が多いと思います。

あとはやっぱり、子どもが幼児のうちから、理屈抜きで、理由なしに誰かをいじめたり攻撃してはいけない、他の子どもたちはたとえ好きになれなくとも絶対にリスペクトしなくてはならないことを徹底的に繰り返すのが必要だと思います。

http://setukotakeshita.com/

624迷える大羊:2012/08/07(火) 19:40:16
お忙しい中、恐れ入ります
 誤解されては困りますが、教会に通ったり、イエスとか神様に頼ること、信じることを貶めてるわけでもありません。
 私だってちょくちょく行きますし、聖書だって読みますし・・。

 この問題は善し悪しっていうより、私自身の性格というかメンタリティとの兼ね合いの問題もあるのかも?です。
 身内は食事の際も「イエス様の御名により」って毎回唱えてお祈りします。当人にとっては大事なアイデンティティ確認であるのはわかりますが、こちらとしては毎回連呼されると、ちょっと押し付けられてるような、プレッシャーを感じちゃうのですよ・・。
 私にイエス様への願いに付き合わせるくせに、焼香しない、他宗教の流儀には従わない、付き合わない・・っていうのはなんだか手前勝手にみえたこともありましたね。
 まあ、時々ふざけて「イエス様にも、仏陀様にもお願いして」って混ぜ返しますけど(^^;。

 自分で何がどう気に食わないのか、整理して考えると、どうも、その「自意識過剰」さがハナについてしょうがない、ってことですね。例の焼香の問題も、別に信仰を試す儀式であるわけでもなし、三位一体のキリスト教の神も異教の神も、誰も気にしとらんわい!って言いたくなってしまって・・。
 つまりクリスチャンであること、というアイデンティティを(私からみて)過剰に確認したがる部分がどうにも、個人的にイラっとするところがあって。「私の宗教ですか?キリスト教ですけど、それが何か?」ぐらいの信仰の方が個人的には好ましく映るんです。
 私としては、身内の信仰に関しては、もうちょっと「さりげない」ものになってくれないかな?と。
 でも、こればっかりは善し悪しでなく、人それぞれですからね、面と向かっては言えないところが、つらいところ。

 ここがカトリック関係者のサイトだから「ヨイショ」をしているわけではなく、カトリックとか正教会とか聖公会の方が個人的に、なんとなく良さ気に映ったのは「さりげない」人が多い印象があったもので。毎週のように教会に来てる人って意外と少なくて、あんた本当に洗礼受けた教会員なの?って人が結構いるし、「現法王が嫌いだからミサいかねぇ」なんて人がいたりしますし(笑)。
 本来は「誉める」ようなことでもないのかもしれませんが、私個人としてはなんとなくそっちの方が「安心」なんですよね。

 もっとも、カトリックとか正教会の場合、自発的に信仰の道を選んだっていうより、家代々の宗教という人が多く、それらの人々にとっては日本の葬式仏教における「檀家」に近い感覚になっているせいもあるかもしれないですが・・。
 あと、これらの教会は世界各地に教会があるグローバルな組織で、歴史も長く、異文化間の摩擦、コミュニケーションに関しても「経験豊富」で「老獪」である、って部分もあるんでしょうね。
 プロテスタントの場合、教会にもよりますが(というか差が激しい)、細かい教団組織にバラバラに分裂し、個々の教会は決してグローバルとか「経験豊富」とはいえず、少人数でこじんまりとまとまっていることが多い、この辺の孤立感とか「若さ」が「自意識過剰」な信仰になりやすい理由かな?と思ったりもしました。

 まあ、以上は私の体験と独断と偏見から、勝手に考えたことで、どこまで的を得ているかは不明ですし、もし不快感を覚える部分があったならば、ご容赦願います、悪意はございません。

625sekko:2012/08/09(木) 00:51:28
迷える大羊さま
この掲示板を昔から見ている人はご存知かもしれませんが、迷える大羊さんは、今の奥様とご結婚なさる前にすでに、奥様のキリスト教との熱心な関わりについて不安を抱いていらっしゃって、ここでご相談されていました。

私は大羊さんも奥様もリアルには存じ上げませんが、その頃、そのテーマをいっしょに考えてコメントしてくださったリアルの友人がいます。

実は、あの頃、その彼女と会った時、大羊さんの話題が出て、「後から難しくなることが見え見えだから、やめておいた方がいいのに」とか、「もし私の息子なら考え直しなさいとアドヴァイスするのに」とかいう話になりました。

あの時そういう「本音」を言わなかったのは、もちろん、大羊さんが宗教について誠実に考えていらっしゃること、当時フィアンセだった奥様を真剣に愛していることなどを理解したからですが、もう一つ、私の方針というか指針があって、それに従ったからです。

それは、

イエスを不和の原因にしない、イエスの名において人と争わない、

ということです。

これは、イエスだけでなく、神さまでも仏さまでもアッラ―でも同じです。

多くの人の「救い主」として信仰の対象になっているシンボルを不和、争い、戦争などの原因にするのは常に人間の愚かさや弱さ、頑迷さや卑怯さからくることだと思います。救い主として崇められているような存在が、自分の名のもとで人々が不和になったり不幸になったりすることを望むとは思えません。

で、私は、大羊さんが今でも「迷える」大羊でありながら、その一線を守っていることを、頼もしく思います。

こういうことって、日常の小さな不満の積み重ねがいつしか、

「君はぼくとイエスとどっちが大切なんだ」とか

「ぼくをとるのかイエスをとるのか」というような短絡的なフレーズとなって口から滑りだし、

「もちろんイエスさまよ、最初から言ってるじゃない」とか

「そんな問題の立て方をする人なんて信じられない」とかいう応酬と共に、

愛だの絆だのがあえなく消えたり切れたりすることが往々にしてあるからです。

もちろんそのような問題の立て方は「イエスを不和の原因に巻き込む」ことであり、なすべきことではありません。たとえ、ある種の人が、自分でも気づかずに、神さま大事、教会第一で家庭の不和を招いているようなことがあったとしても、それに対して宗教の言葉で返すのは正しいやり方ではないと私は思っています。

大羊さんは、共同体の縛りの強い信者や信念を前にしていろいろフラストレーションもあると思いますが、一度、それらを宗教の地平から切り離して、どうすればお二人の生活で互いの力や思いやりをつなげていくことができるか工夫してみてください。大羊さんが奥様をリスペクトし抜く決意はどんな神さまだって肯定してくれますよ。

以上、なんだか、大羊さんの一連の質問の陰にもやもやしたものを勝手に感じたので書いてみました。的外れならスルーしてください。

http://setukotakeshita.com/

626迷える大羊:2012/08/10(金) 21:23:09
恐れ入ります。
??御心配をおかけします。まあ、細かい不満、不安はあるにせよ、不和というわけでもないです。宗教については最初からわかっていましたし、
 まあ、宗教というのは数ある家庭問題のバリエーションの一つで、そういう問題がなくても離婚してしまう夫婦は離婚しますし(友人が離婚しました。)、キリスト教とかイエスそのものが悪いわけでも、不満の原因でもないです。ただ、その信仰具合、形態が「予想外」だったということで・・・。
 私が身内の宗教についてあまり気にしなかったのは、実母がとある仏教系宗教団体の信者なのですが、そのことで家庭内に問題が起こったことなんてなかったからでして、キリスト教?プロテスタント?別に怪しい宗教でなけりゃいいんじゃない、くらいに考えていたのでした。
 実は身内の実家はクリスチャンではなく、ごく普通の無宗教の日本人です。子供時代に肉親を亡くしつらかったところ、日曜学校で通っていた教会の牧師先生にいろいろお世話になり、洗礼・・という、キリスト教に限らず、宗教に入るきっかけとしてはよくあるパターンです。

 ただ、私的に困ったもんだ・・と思ってしまうのは、その牧師先生というのが、話を聞く限り、私からすると非常に保守的というか、ちょっと教条主義的な信仰解釈をする方だったみたいで・・・。今は、その牧師先生もいませんし、身内も引っ越したこともあって、実質的な所属教会も変わってます(というか、正規に所属している教会はない)けども、影響はかなりあったみたいです。何しろ、自分を「導いて」くれた人ですし・・。

 私としては、ノンクリスチャンの私がいうのも変だし、おこがましい気もしますが、「君が知っているキリスト教ばかりがキリスト教の世界じゃないんだよ、キリスト教たっていろいろだよ」ってことをいいたくて、一時期、カトリックとか聖公会の教会やら、いろんな教会に引き回しましたけども。
 以前に比べれば、(私からみて)頑ななところは少なくなったかな・・と思ってますが。

 仮に私がクリスチャンになったとしても、別に洗脳を施されるわけではないですし、この辺の、なんていえばいいのか、神様とか信仰に対する姿勢とか感覚は変わりそうにないですし、万事万歳ってわけでもないと思いますね。

 おっしゃる通り、イエスとか宗教は不満の直接の原因ではありません。それに、身内と出会わなければ、キリスト教とか宗教について、ずっと無知、無理解のままでしたでしょう。 そういう意味では感謝すべき面もあります。

 しかし、かくいう自分も、ノンクリのくせにキリスト教サイトの常連のようになってしまい(なんだかかなり年数が経ったような)、聖書もよく読み(自慢してるわけじゃありません、本当にただ読んでるだけですし、神学的なこ難しい話の知識は未だゼロ、です。むしろ自虐です)、そこいらのクリスチャンより、いろんな教会を訪問した俺って奴も、もしかすると「イエス依存症」か?人のことは言えない・・と思わないでもないです(笑)。
 

627おばさん:2012/08/11(土) 11:53:23
迷える大羊様
竹下様
ホームページで勉強させて頂き有難うございます。運営されていらっしゃる事に感謝しております。

迷える大羊様
現在、この投稿を制作時点で、このサイトの3つの板が全て「迷える大羊様」からの投稿になっております。ご自分で仰られているような「イエス依存症」というよりも「掲示板依存症」のような印象を受けてしまいます。1か月程、投稿をお休みになられて、ご自分の様子をみられてはと考えてしまいますが。
出過ぎた投稿、お許しください。

628sekko:2012/08/12(日) 00:36:30
投稿について
私が迷惑だと思った時はそれなりに表明していますし、偏見のひどいものなどは削除もしていますから、ここで返事しているものについては、みなさまお気づかいなきようお願いします。

「迷える大羊」さまだって、その気になればハンドルネームを変えて続けることもできるのだし、私も普段考えていないことを考えさせてもらっている部分もあります。

一昔前、毎日のようにFAXで長々と質問を寄せられる読者(私より十歳位年上の方でした)がいました。しかも手書きで判読しにくく、大変でした。私はちゃんと返事を書いていましたが、せっかくいろいろ考えて返事を書いたのだから、それを他の人と共有できないのはもったいないなあと思っていました。

FAXでのやりとりは、今はもう限りなくゼロに近く、ネットのスキルのないその方とは、結局私の方から音信を途絶えさせた形になり、申しわけなかったと今でも罪悪感があります。私もデジタルスキルは低いですが、それでも、簡便な今のやり方を一度知ると、もうなかなか昔には戻れません。

ネットのおかげで外国にいても、昔日本にいた頃よりずっと日本のいろいろな人の状況がよく分かって、毎日拝見しているブログなども複数あって、私も依存症と言えば依存症です。まあ誰にも迷惑かけないなら、みなうまくつきあっていきましょう。

私もできる範囲でしかやっていませんので、どうかあまり気になさらないでください。

http://setukotakeshita.com/

629mimeme_gene:2012/08/19(日) 12:05:44
迷える大羊様へ
大羊様

私は毎日祈りますが,その中で幾度もあなた様が心に浮かびました.
だいぶ時間をかけて,少しだけでも,お伝えして良いことを書きます.


●私は,大羊様が御子イエスと出会いますようにと幾度も祈っています.

最初の使徒達は未受洗者です.
多くの方々と同様に,私も幾度も会っています.
全てが恵みで,奇跡ではなく,ともに生きている実感です.

まだでしたら,
イエスと出会いたいと,強く何度も願い,イエスに言い,

出会われているなら,
その出会いを悟り,深められますようにと,祈ります.


●悟りと対話を祈っています.

「心を満たし満足させるのは、広い知識ではなく、ものを悟り、それを内的に味わう事」(霊操2番)

ご自分との内的対話で,御子が全て答えてくれます.
何を聞いても返事があります.
様々な選びも御聖霊が導いてくださいます.

もう既に悟りが芽生えていらっしゃるのかもしれませんね.
三位一体の御交が望む大羊様へのご計画は,
大羊様にしかわかりません.

大羊様は多才な方とお見受けしますので,
一つの深まりや悟りが,全ての対話のきっかけとなりますようにと,祈ります.

630迷える大羊:2012/08/20(月) 19:51:27
投稿の件
 おばさん様がどのようなお立場の方であるか、存じ上げませんが、もし、こちらのホームページ、BBSの運営関係者で、私の投稿により何か不都合、不具合を与えたのであれば、お詫びする以外にありません。
 しかし、内容に関係なく、ただ、投稿が多すぎる、目障りだ、不愉快だ、というご批判でしたら、他のBBSでは受けたことのないご批判ですので、戸惑いを隠せない・・というのが正直なところです。
 掲示板依存症であるのは認めます。何しろ、リアル世界では相談相手が見つけづらいテーマでも簡単に質問出来たりするのですから、つい、いろいろと余計なことを語ってしまいます。実のところ、リアル世界では私、宗教やら政治やら、海外情勢やらって相手が話を振ってこない限り全然話しないのです。そういうことには関心のない人、と思われています。

 ただ、言い訳めいてしまいますが、かなり以前になってしまいますが、竹下先生にはレスについてはムリしないで下さい、忙しい、あるいは答えようのない投稿には無理にお答せずとも結構です、とお断りさせていただいたように思いましたし、実際、お答いただけないことがあっても、なんとも思ったことはありません(他のBBSでも)。

 内容が稚拙、あるいはタイミングが悪い、絡みようがない、などなどでレスがつかない、というのはネットではよくあることですし、ましてや先生はそれが仕事でも何でもないのですから。レスがつかなければ、あ、ちょっとこれは何かまずかったかな?ということで、それ以上話題を進めないようにするだけです。
 私自身もせっかく先生からレスいただいたのに、礼も感想も延べずにほおっておいてしまったこともありますから、お互い様です(忙しかったり、うまく文章が書けない、などで)。

 それより何より、ここは「BBS」ですから竹下先生「だけ」のご回答を求めているわけではありません。特に家族と宗教の問題については多種多様な方々の体験談が聞きたかったところなのですが、私の文章力の稚拙さ故か、内容故か、竹下先生にしかお相手していただけない場合が多く、結果として(特に第三者からみると)、私が竹下先生に怒涛のごとく「課題」を押し付けている・・みたいな形になってしまっているのは、我ながら困ったものだなぁ、悪いなぁとは思ってました。

 こちらのBBSでは、私の「発言中」は他の方は投稿できない、質問できない、とのルールがあるのでしょうか?それならば、申し訳ない、以後気を付けます。
 あるいはそのようなルールがなく、単に遠慮されているだけならば、どうぞ、お構いなく投稿願います、です。

 竹下先生やこちらの方々には感謝こそすれ、悪意など全くない、ましてや「掲示板荒らし、乗っ取り」の意図なんて全くありませんから。

631迷える大羊:2012/08/20(月) 20:18:20
ありがとございます
mimeme_gene様

 ありがとうございます。こちらのBBSでは、聖書のアラ探しみたいなこといったり、一丁前に教会批判みたいなことを言ったりしていたので、キリスト教が嫌い、バカにしている、なんて誤解されていないか?いつも気になっていました。
 全然、そんなことないです。イエスそのものは大好きです。ただ、ちょっと一般的なクリスチャンの方々の「信仰」とはズレているところがあるかもしれませんが・・。

 身内と宗教については、いろいろ気になる(墓やら子供やら・・・etc)ことがあったりしますが、でも、お話をいろいろ伺うと皆さん、いろいろな事情を抱えておられるみたいで・・。別に具体的なアドヴァイス(直接、面識がないのですから無理ですし)でなくとも、「わかっていただける」だけでも大きな励みです。

 そういえば、明日を思い煩うことなかれ・・って聖書にもありましたね。

632mimeme_gene:2012/08/21(火) 01:58:21
まよえる大羊さまへ
大羊様はイエスが「大好き」と書かれています.相思相愛ですね.私もそうです.

キリスト教ほどおめでたい宗教はないと思います.
「全ての人のあらゆる罪がゆるされる」からです.
「じゃあ,どんな悪事をしても,ゆされるの?」と聞かれます.
答えは「ゆるされる」です.公教要理等にも書かれています.

ですので,「その人の罪が私の罪とは違うものだからといって,その人を裁かないように」というのが,私のいつもの自省です.

更には,天国で,「なんでこの人がゆるされて天国にいるの?」と思いたくなってしまう人がいたりして...
私は天国に行く前に,その方からゆるされたいし,和解したいです.

でも,その前に,私にできることは,祈りです.

罪であっても,その人の命の一部だから,イエスは喜んで受け取って,イエスの命へと清めてくださり,私達に返してくださいます.

こう書きたくなる実感があります.
祈りの中で,十字架の下に行き,自分の罪を取り出し,掌にもって,五官の全てでそれを感じてみて,イエスに差し出します.
罪の手触り,味,匂い,色合,温度・・・と感じてみると,自分との対話になります.
そして,その後の喜びは,一度なさってみると,感じると思います.

「心を満たし満足させるのは、広い知識ではなく、ものを悟り、それを内的に味わう事」(霊操2番)
を私なりにやっています.

竹下様の著書を読んで,「この方は,三位一体のどなたかと,何か話されて,それを文章にしている」と直感しました.

正直に言いますが,私は,大羊様の文章を読んで,竹下様が答えられているようには,ピンときていません.
もちろん素養や知性が違います.そのストックは,計り知れないようです.

でも,それだけではなくて,大羊様がイエスに何を話されたかよりも,イエスが大羊様に何を話されているかの方に,私の関心があるからだとわかりました.相思相愛の豊かさや楽しさでしょうか.
大羊様の文に,もっと見つめられるように,なりたいです.

今日はこのへんで.

633Sekko:2012/08/22(水) 23:28:49
ゆるされること、など
mimeme_gene さん、いろいろフォローしてくださってありがとうございます。

>「その人の罪が私の罪とは違うものだからといって,その人を裁かないように」というのが,私のいつもの自省です

というのはほんとですね。

「他人の罪や欠点をあげつらう」というのは、想像力の欠如のせいもあるかなあと思います。自分に厳しい人が他人にも厳しいというのはよくありますがそれですら的外れのことがほとんどなのに、中には自分に厳しくなくて他人にだけ厳しいって人もいますよね。

私は他人に厳しくしないことで自分に厳しくしないことを正当化するタイプかもしれません。

罰せられるのは嫌だけど、あれやこれやの多少の罪悪感はいつも抱いているので謙虚になっていいだろう、ぐらいのいいかげんなスタンスなので自戒します。


キリスト教がおめでたい宗教、というのは私も感じます。いろいろ紆余曲折を経て、本来のおめでたさを回復しつつある、みたいな感じ。

すべての人のあらゆる罪が赦される、ということについて、前にもユダのことで少し触れましたが、今ユダ論でちょうどオリゲネスのアポカタスタシスなどについて書いていたので、あらためて考えさせられます。

「罪が赦される」とは、単にこの世で「罰せられない」ということなのか、あの世で地獄だの煉獄で責められないということなのかと考えると、この世で社会的に罰せられない罪しか犯していず、死後の世界も信じていなければどうでもよくなりますよね。それでも「因果応報」とか「悪業のたたり」みたいな言葉がどの文化にもあるということは、たとえばあまりにも利己的な行為に対して自然に「後ろめたさ」を感じるような心性があった方が、全体として種の存続に有利だからこそ受け継がれてきたとも考えられます。

で、「罰せられない」ということが即「救い」なのかどうかということも気になります。

古来、富や権力を掌中にした支配者などは、人間からは「罰せられない」立場にあるわけですが、満足して生きているかと言えば、最後は「不老不死」の秘法を求めるとか、結局、実存的な不安からの救いを求めてしまうのかもしれません。あるいは老いや死そのものを一種の「罰」だと感じるのかもしれません。だとしたら「原罪によって人が不死の存在でなくなった)という考え方もそれと表裏をなしているのでしょう。

キリスト教が、すべての人のすべての罪がゆるされるという時、その前提は、全ての人はイエスを通して永遠に生きるということがあるからだと思います。永遠に生きるという見方に立ったときには、もう罪とか罰とかいう限定的な枠組みは消えてしまう。「地獄で永遠の劫火に焼かれ続ける」などという表現は、それ自体が現世的な表現であって、神的な永遠や無限の中にはそういう「仕分け」はないという考え方も古来ありました。少なくとも「永遠に生きる」という視点なしには「救い」も「ゆるし」も成立しませんでした。

何年か前に、プロテスタントの教会に垂れ幕がかかっていて「イエスを信じる者は死なないで永遠に生きる」とあったのを見た時に、ものすごくカルト的な印象で愕然としたことがあります。ボーン・アゲインのような運動にも個人的にはすごく違和感があります。でも、確かにキリスト教のおめでたさは「永遠に生きる」「死んでも生きる」ところにあるので、そのことを、今生きている間に本気で視野に入れないとしたら、「救い」も「ゆるし」も言葉だけになってしまうかもしれないなあとも思います。

でも実際そういうことを視野に入れて生きて、死んで、その結果、その後もずっと人々を結びつけつつ生かし続けている人々は決して少なくありません。継承され分かち合われるメッセージ性はそれが思想的なものであれ芸術的なものであれ、永遠とか超越とかいうコンセプト抜きには生まれないのだというのが実感です。

実存的不安に対して儒教や仏教系の「安心立命」的な悟りの境地に至るのは、私には多分不老不死の薬を得るのと変わらないくらい難しいので、それに比べれば、とりあえず、死後も超越的な何かを通してみんないっしょに永遠に生きると想定して「立命」できたらなあと思います。(みなさまからのお祈りが効いてきたのかも…)

http://setukotakeshita.com/

634mimeme_gene:2012/08/26(日) 14:22:26
竹下様
私の感覚ですと、罪は何かを限定や特定してしまうと感じます。
その方にも私と同じ限界があると感じます。
罪に無限の広がりを感じることは、私にはありません。

竹下様のおっしゃるように、「想像力の欠如のせいもあるかなあとおもいます」というのは、とても暖かい感じがします。

御交が全てなさってくださるから、私は、他の人に罪を感じたら「罪という契機から、愛されている実感に私が気づいたように、その方も御交の無限の愛に気づかれますように」と沢山いのります。

御交が無限の愛だから、私たちも愛になるようにと、御交から愛されていると感じます。
聖イグナチオの愛を得るための観想を、「愛になるための観想」と読み替えて、私は日々祈っています。

私自身の大小様々な罪については、日々感じます。
罰という感覚はなくて、御交の愛を受け止めていないという事実を痛悔します。
特に霊操の罪の究明のやり方にならっています。

「キリスト教が、すべての人のすべての罪がゆるされるという時、その前提は、全ての人はイエスを通して永遠に生きるということがあるからだと思います。」と書かれていた文章を読んで、私は、「永遠」というイメージと、今の生活にこの「永遠」をもっと埋め込んでいきたいと強く願いました。

本当にありがとうございます。感謝です。

635phantom:2012/10/07(日) 15:51:24
教会博士
竹下先生、こんにちは。ブログを拝読致しました。
ビンゲンのヒルデガルト、今年は大出世ですね!
このまま、非公式な聖女のままなのだろうなぁ、と思っていたたけに、驚きました。
先生と同じように、私も彼女が大好きなので嬉しいニュースでした。

ヒルデガルトは邦訳がほとんどないのが残念です。日本語では関連書籍も極僅か…題材としてこんなにユニークな存在は他にないのに、もったいないですね。特に精神医学的なアプローチをしたら、面白そうです。

竹下先生の書いたヒルデガルトやアビラのテレサについての文章、いつか読んでみたいです。どうか、是非ご検討を!

636Sekko:2012/10/07(日) 19:05:50
中村 千尋 さま
中村千尋さま、前に書きこんでいただいていたのですが、何か続きがあるのだろうとそのままになっていました。もし、続きがあるなら加筆ください。

http://setukotakeshita.com/

637Sekko:2012/10/07(日) 19:39:56
phantomさま
ブログを読んでくださってありがとうございます。

ディープな聖女もので書きたいテーマはいくつもあるのですが、そのうちにと思っているうちに持ち時間が少なくなっていくような…

私はかなり昔からヒルデガルトが好きでしたが、オリバー・サックスの『偏頭痛』でヒルデガルトの幻視が網膜に映るスコリーだという解説を読んでその図を見た時に、それが私が昔から目を閉じた時に見ているのと同じなので驚きました。目を閉じた時に見える形がいろいろ変化するのは誰にでもあることだと思っていたからです。今でも寝床に入っても眠れないときはその画像をいろいろ操作しながらずっとながめています。

ヒルデガルトが本当に見ていたのは何か分かりませんが、不思議なのは、そういうものを見て、神から与えられたビジョンだと思える心のメカニズムです。

ただの偏頭痛の症状や幻聴をビジョンやお告げだと信じ込む人もいれば、ひょっとして、本当にビジョンやお告げが来ているのに、全くスルーするするタイプの人もいるのかもしれません。

信じ込むためには何かどこかが壊れなくてはだめなのか、たとえ壊れても真実に導かれる人がいるのか、そんなことも気にせずに境界領域をぼんやり生きていける人もいるのか、謎です。

米国大統領候補のロムニーのような人が本気にモルモン教を信じているのか(代回頃フランスに布教活動で滞在していた)というのも私には謎です。

アニミズムとか、お天道様やご先祖さまを拝んだり、各種の神々だとか遠い昔の預言者を崇めたりするのはなんとなく分かります。距離の取り方によっては人生の潤滑油になるかもしれません。

でも、近代以降とか現代になって新たに自分がキリストの再来だとか最終預言者だとか最終解脱者だとか突然新たなお告げを発掘して訳したとか、各種聖人の霊言をキャッチするとかいう生身の人間を教祖として、巨大な金が動く教団になっているような新宗教の場合、現役の社会人に、その「教祖」の言うことを本気で信じるための一線を越えさせるものとは、一体何なのだろうと思ってしまいます。

もちろん育った家庭や地域の影響がある場合は理解できますが、それでも、ロムニーのような人が、単に「信仰を持っている」というアメリカ的モラルの担保として以上にモルモン教に軸足を置いているのは不思議です。

ヒルデガルトの場合は、自分の周りにいる教会の権威たちには全然屈していませんから別ですが、あの時代にあの環境で、自分の言葉で語るには、やはり神のひと押しがあったのか、神の言葉とセットにしてでないと表現できなかったのか、探ってみたいところです。

http://setukotakeshita.com/

638リジュー:2013/02/06(水) 23:03:24
ヴィジョン
竹下様初めまして。以前「聖女伝」を読ませて頂きいろいろ考えました。興味深かったのは、フランソワ・ド・サルとジャンヌ・ド・シャンタルの出会いです。二人のヴィジョン(召命)が素敵です。私自身は聖人洗礼ですが幼稚園、高校がカトリックで影響うけています。私は神父様に心がいってしまう傾向があり、フランソワとジャンヌのような関係に憧れます。竹下様はこういう二人のヴィジョン(召命)をどう思われますか?神の摂理をどうお考えでしょうか?また神父様にイエス様や世の理想的な男性を求める私は人間的にちょっとかもしれませが、神様に対するいろんな方の考えに興味を持っています。竹下様はカトリックの洗礼は受けられていらっしゃるのかと思っておりますが、(すみませんよく存知あげておらず)以前パリの友人宅に訪問し、教会などいろいろ行きましたが、フランス人のカトリック観は日本人と違いますし、私は宣教師の方の特に深い関心と尊敬のような物を持ってしまいます。どうか竹下様のアドバイスをいただきたいです。

639Sekko:2013/02/07(木) 09:15:50
リジューさまへ
リジューさま、こんにちは。

そうですね。「霊的カップル」っていうのに私もちょっと憧れます。

フランソワ・ド・サルとシャンタルの場合はなんだかんだといっても名士同士、エリート同士かなあ、とも思いますが、それでも、いわゆる「相性」を超えた大きな何かを介在させていたのだなあと思います。

上流家庭で妻母嫁と人生のフルコースを味わってその後またフランソワ・ド・サルのような突出したキャラクターと出あい、共に新しい修道会を創り上げたシャンタルの人生はなかなか羨ましいです。

私の身近でよく知っているのはカトリック関係者とチベット仏教関係者なんですが、どちらも独身の誓願を立てている人たちで、「神仏に帰依して人々を救う」という決意と、自分の「個人としての家庭の団欒や子孫を残すことはしない」という決意とがペアになっているのを見ると、自然とリスペクトの念がわきます。

もちろん家庭を持たれていても宗教的使命を遂行する人もいれば、独身でも俗な欲望にまみれている人もいるわけですが、何につけ、禁欲的に専念しているタイプの人には惹きつけられます(自分がそうじゃないからかもしれませんが)。

カトリックの宣教会のヨーロッパ系の神父さんなどで、若い時からずっと日本に来て、カトリックの少ない日本に骨をうずめたいという方たちにも感心します。

昨年お亡くなりになったネラン神父さまのようにリタイアしてから新宿にバーを開いてサラリーマンに寄り添った人もいるくらい(ネランさんについてブログで書いたことがあります。http://spinou.exblog.jp/15666988/ )で、みなユニークで、それなのになんだか波長が日本人っぽくなっていて親しみやすいですね。

ただ、出会いというもの、人柄というものはすごく大事なので、チベット仏教では一人のラマ(指導僧)につくのですが、10年間は、自分に合わなければ替えていいそうです。

いいかえると、10年くらいのスパンで見ていかないと、本当に自分にとって霊的な指導者になってもらえるかという大切なことの見極めはつかないかもしれないということです。

まあ結婚などでも、一目ぼれで何十年も幸せに添い遂げる人もいるのですから、これは運命かもしれません。

シャンタルだって、運命の人フランソワ・ド・サルに惹かれながら、別に告解僧もいたし、なかなか特別な関係に入れなかったですよね。試練があった方が本物の気持ちを確かめられるかもしれません。

ある程度の年配になるとずっと何かの仮面をかぶってきたり何者かの振りをしてきたりしたような人たちにはそれなりの不透明さが出てくるように思います。

そうでない人は年を重ねるごとに生まれるある種のシンプルさによって信頼感をそそってくれます。

「この人の信じている神さまなら信じてもいいな」と思えることもあるでしょう。

ただ、「理想的な男性を求める」的な惹かれ方は、あまり深入りすると失望したり、相手を困らせたりするかもしれませんから、気をつけた方がいいかもです。

あまりアドバイスになってませんが、ケースバイケースだということで、ひとまずこの辺で。

http://setukotakeshita.com/

640リジュー:2013/02/09(土) 22:41:06
(無題)
竹下様

お返事ありがとうございます。ネラン神父様のこと少しネットでみました。とてもいろんなご経験をされた方で、素晴らしい方ですね。宣教師として活動され、引退後は生き方も選択できるのは理想的でもあり、でもそれは神様がその方それぞれに与えたものであり、自分で決めることでもあり、その辺の判断が私は難しいと感じてしまいます。仮に聖職者が聖職者を辞める場合もあるのでしょうけど、それは世間的にみてどうでしょう。仮に結婚したとしてもそれは素敵なことだと思いますが、批判の目でみられたりもするんでしょうか?
「聖女伝」の中のテレーズのことも普通の女の子は聖人になれるか?という所にも考えさせられました。聖人、カトリックは奇跡がが好きとか、いろいろありますが、何というかいわゆる召命もその時々で変わることもあるし、カトリックの世界で自分を大切にしてしまい、世間での付き合いが好きでなくなったり、聖書も自分視点で解釈したり、自分で解釈するのが好きなのは、良くないことなのか、やはり神父様のご指導の下が一番でしょうが。神様の思い方は人それぞれですが、よく違うと言われることもあります。それで少し落ち込んだり、人々と分かちあうことも大切ですが、私の中の神様は自分の中で大切にしたいですし。
霊的指導者は10年位かけてのお付き合いが大切なのだと、10年位自分の近くにいて下さる神父様がいたら本当に理想的ですね。神父様にイエス様を重ねてしまうことはどうでしょうか?自分がそんな気がしてますが。ゆるしの秘跡にしても良く知ってる神父様だと人間的な目で見られてしまったらと思うこともあったり、やはり友人と一緒で人柄が重要なのでしょうんね。確かに偽った生き方や人間的な優しさがあるかどうかは年を経た方は自然とでてしまいますね、そう思います。

641今紫:2013/02/23(土) 07:39:05
ローマ教皇の退位と聖マラキの預言の的中?
竹下様、お久しぶりです。

ローマ教皇ベネディクト16世の退位のニュースは驚きました。高齢の理由でそうなるのは致し方がありません。3月末の次期ローマ教皇が決まる選挙、コンクラーヴェ(根競べに似ていますね)でどんな方になるのでしょうか。

さて、巷(特にネット)ではアイルランドに実在した聖マラキ(マラキアス)の預言が再び浮上しています。偽書の疑いがあるとはいえ、歴代ローマ教皇のことをほぼ、的中しています。たとえば、前教皇ヨハネ・パウロ2世は「労働の太陽」、現教皇は「オリーヴの栄光」といったいかにも彼らの特徴や象徴を現しているようです。12世紀の人がこんな明確な預言を残すことができるのでしょうか。まあ、私は預言と信仰は区別して考えて行動しています。こういう「預言」良くも悪くも「的中」してほしくはありません。

くだらない内容になり申し訳ありません。教皇退位でこんなことを思い出しました。
四旬節は2月13日の水曜日から始まりました。2月13日はファティマのルチア修道女の命日(将来は記念日なる可能性がある)にあたり、これも何かの因縁があるのでしょうか。

花粉症には十分気をつけてくださいますように。先生のご活躍を心よりお祈り申し上げます。

642sekko:2013/02/24(日) 09:16:50
聖マラキですか。
今紫さん、こんにちは。

聖マラキですか。

教皇の引退宣言以来、数々の記事を読んでいますが、さすがに聖マラキを持ち出すようなタイプのものは読んでませんでした。

聖マラキの預言書については『ノストラダムスの生涯』のp171-176で解説してコメントしたことがあります。

その時はまだ前教皇の時代でしたけれど、なるほど、今の教皇の辞任が「時の終わり」で、では、次の教皇は「ローマ人ペトロ」でどんな苦難が待っていることやら…。

ローマ人っていうのはヴァティカンに常駐する枢機卿ってことかしら。

つい先日は、イタリアの左派系新聞が、ヴァティカン内の同性愛ロビーの存在を知ったことが教皇を辞任に追いやったなどと書いてこちらでは多少話題になりましたが、検証記事を読むと何の根拠もない話でした。

それにしても、教皇の変わり目というのはいろんな人がいろんなことを言いだすものだなあと思います。

今の教皇は、次の教皇について、統治能力があり、ルーティーンに陥ることなく、キリスト教諸派の統合を目指し、非キリスト教世界に向けて発信できる人を、などと言っていましたから、適任者が現れるといいのですが。

643Phantom:2013/02/26(火) 12:37:40
(無題)
竹下先生こんにちは!
2月25日のブログ記事、まるで短編小説のようでとっても素敵でした。
「教皇のリタイアが希望を感じさせてくれた」なんて、96歳のシスターがこんなにものびのびとした自由な心をお持ちなのかと、驚くような、嬉しくなるようなエピソードでした。
キリスト教国では、教皇辞職について「裏切られた」とショックを受けた信徒が多い、などとニュースで見ておりましたので尚更です。

時流を諦観でなく、こんな風にポジティブに捉えられるのは、もちろん元来の個人の性質に由来するのでしょうが、一般信徒に比べて何かと制約の多い修道者が(ましてやこの世代の受けた宗教教育は現代よりも厳しかったはず)、その上で自由に開かれた心を持っているというのは、何とも言えずすがすがしく感じられました。

以前カトリックサプリの記事で、パレモニアルで召命を確信し、バチカンで毎日を生き生きと過ごす司祭のエピソードがありましたが、この記事を読んだ時も同じく爽やかな風が吹き抜けるような感動を受けました。

胸のつまるような事件の多い中、このようにある意味で純粋に、自由な心で生きる方々がいるという事を知るだけで、希望が湧いてきます。真似はできないかもしれないけれど、そんな風に視点を変える事で、世界をよりよく生きられるんだと、こちらまでワクワクしてきます。

いつも素敵な記事を書いて下さってありがとうございます。まとまりのない感想で恐縮ですが、どうしてもお礼を伝えたくなってしまいました。

またコンクラーべ関連の記事も楽しみにしております!ネットがある事で海外ニュースは簡単に読めますが、やはりその国の空気感まではどうしてもわかりませんから、竹下先生のブログは本当に興味深く拝見させていただいております。
いつも日本から応援しています!

644sekko:2013/02/27(水) 00:16:25
phantomさま、ありがとうございます。
愛徳姉妹会はもともと活動修道会ですから元気なシスターが多いです。

私たちのトリオが最初に日本で公演した時、愛徳姉妹会の養護施設にも行って、その時には最初に日本に来られたという最年長の日仏混血のシスターも来てくれました。すごくかわいい人でした。その方が100歳になった時、敬老の日に市から祝いの品を持ってきた職員がいて、シスターは何で祝ってもらえるのかピンとこないまま、その人が帰る時に「お大事にね」といたわったそうです。

シスター・クレールは自分たちはいわゆる老後の心配がないのだから、生きている間は他の人のために役に立ち続けたい、と言っています。

確かに普通の人は老後の暮らし、介護、葬式から遺品の整理までいろんなことを考えますが、彼女らは先のことを考えず生涯現役、とも言えるのでうらやましいです。

春には彼女のいる特養のサロンで慰問コンサートをします。

「年寄りやシスターたちがわらわらいるのを見ないようにすればなかなか素敵なところよ」

と言っていました。

私はむやみにポジティヴな人を見るとひいてしまうタイプなのですが、96歳であのポジティヴさを見ると、神さまっているのかも・・と嬉しくなります。

そんなシスターなので、ひょっとして教皇の引退のことを「まだまだ若いくせにがんばりが足らない」とか言うかもしれないと思っていたのですが、人はその時々に自分に合ったがんばりをする見極めが必要だということなのでしょうね。

http://setukotakeshita.com/

645Phantom:2013/02/27(水) 20:57:37
なるほど!
竹下先生、お忙しい中お返事ありがとうございます。

確かに、修道者は生活の心配はありませんね。
知識としては理解していても、その点はうっかり失念していました。一般社会と違って「引退」という概念がないからこその生涯現役なのかもしれませんね。

私自身もいわゆるポジティブは苦手ですが、このシスター方のような自然なあり方は素敵ですね。なかなかシニカルだったりするのもいい感じです。キリスト教ワールドも色々あるけれど、意外と捨てたモノじゃないかも、と感じさせられます。

春の慰問コンサート、きっとシスター方も楽しみにされている事でしょう。感想などブログで様子をアップして下さると嬉しいです。

竹下先生の演奏、いつか拝聴してみたいです。バロック音楽は普段接する機会がありませんでしたが、最近のブログ記事でとても興味を惹かれました。いつも先生のブログから知的好奇心を刺激されます。

646今紫:2013/02/27(水) 21:41:47
次期教皇は統括力のある人を
竹下先生
多忙の中でのお返事ありがとうございます。

次期ローマ教皇はどんな世相や思想に対して寛容かつ統括力のある方が選出されるとよろしいですね。同性愛もどのように受け入れられるのでしょうか。
変わり目というのは何か騒ぎ出す要素が存在するのでしょうか。そのせいで大変な不幸に遭遇しないことを願います。

できれば、よい方向へと進んでほしいのです。

647Sekko:2013/03/30(土) 07:59:21
教皇と陰謀論?
無視しようと思ったのですが、書きたくなったのでブログに思うところを書きました。興味ある方はどうぞ。

http://spinou.exblog.jp/19538718/

陰謀論系のコメントに対応する気はないので次からは削除しますのであしからず。

http://setukotakeshita.com/

648愚者:2013/04/05(金) 23:58:43
(無題)
人権侵害の禁止を骨抜きにし立憲主義を否定する改憲案を、憲法及び学説を学んだこともない無知な人が主張しています。赤ちゃんから高齢者まで全国民に番号を付けて住所氏名生年月日性別、所得資産負債、職歴、婚姻歴、病歴等を国に管理される国民番号法案を国会が審議中。大部分の国民が忌避する原発に固執。福祉の財源に充てるための増税と言ったくせに50兆円も外債購入(売却出来ない米国債)に支出。関税権立法権、食糧自給を放棄し、国内法に優越する国際秘密条約TPPに国民を騙して駆け込む。一票の格差違憲判決を根拠なく議員定数削減に結びつける政府与党。議員を減らして首相が人選するナントカ会議を乱立させ政策を仲間内で勝手に決める無法。マスコミはアベノミクス万歳のごますり嘘つき報道一色。止まらない司法の不正行為・冤罪。アメリカは天使、中韓は悪魔という恣意的な報道。なんだかカルト政党に制圧されたようで大変不吉です。宇沢弘文、鈴木宣弘、孫崎享他の識者やアカデミズムの人々の発言はマスコミが報じない上、度々事実に反する中傷を受けています。竹下先生のテーマと違う相談で恐縮ですが不吉な空気を訴えずにはいられません。どのような抵抗が考えられるでしょうか?

649Sekko:2013/04/07(日) 23:37:30
愚者さま
このご質問は、私がブログ記事http://spinou.exblog.jp/19734282/で、アメリカに対するフランスと日本の対応を比較したことをお読みになってのことでしょうか。

そのブログにも書きましたように、10年前のイラク派兵の時の日本政府の支持の基準がひたすら「英米の便宜を図る」ことであったことを知り、あらためて、あの頃の日本での反対運動はいったいなんだったのだろうかと愕然としました。

原発再稼働反対や、TPP反対にしても全く同じです。

いくら、現実を突きつけても、信頼できるデータや予測を並べて、正論を語り、道理を説き、真の利益を訴えても、政府の方針は国民の声の総意ではなく、「連合国」の声の総意で決まるという現実があるようです。

そして、今や、その「連合国の声」も、実は一部の多国籍大企業のパトロンたちの利益によって決まっているという現実があります。

それにもともと、日本には、国民の意思が国家の意思に変換されるという伝統はありません。

「仁者による徳政」に期待するような伝統がありましたから。

東浩紀さんなどが、国民の声を政府の独断への有効な抑止力とするために情報ツールを駆使して集合知を可視化するというタイプの提言をされているのを読んだことがあります。
でも、いくら集合知が可視化しても、日本の「戦後」は、「政策決定はアメリカの意向に沿う」という合意から出発しているようなので、それを変えない限りは、だれがどんなに正論を唱えても多分「多数で説得」とか「理屈で説得」ということにはならないと思います。

では、どうしたらいいか。

ひとつは、そうやって押しつけられてきた憲法だの政策だのを日本の国益にかなうように巧妙にすり替えて利用する。
今の世の中で国際的な合意である普遍主義や平和主義や環境保全主義などの流れをうまく使ってロビー活動をする。FTAも対EUとか中韓とのものを平行して進めて、アメリカを牽制する。

もう一つは、拝金主義の資本家たちではなくアメリカの一般国民に的を絞って、啓蒙活動をすることが考えられます。アメリカ人は子供の頃から「アメリカ一番」を刷り込まれているのでものの見方が単純ですが、いざ「知らなかった過ち」を突きつけられると本気でショックを受けて懺悔したりします。

私は第二次大戦時の日系人の収容所のことを初めて知ったアメリカ人に面と向かって涙を浮かべて詫びを入れられたこともあります。

アメリカ人は平均的に、ひとりひとりは日本人やヨーロッパ人ほど偽善的でなく、正義感の強いいい人たちだと思います。
だから、ステファン・エッセルの呼びかけにもすぐ反応してオキュパイ・ウォールストリートの運動を始めるし、TPPにですら、http://democracynow.jp/video/20120614-2
で日本人にも明らかにされたように、

「これは貿易協定ではない、企業による世界支配の道具です」「1%の富裕層が私たちの生存権を破壊する道具です」

と糾弾の声を上げたりしているわけです。

従軍慰安婦の話でも多分そうだったのでしょうが、「犠牲者」側がうまく働きかけて利用すればアメリカ人は義憤に駆られてすぐ話がまとまり、それが政府の方にまで届きます。つまり、アメリカは、一応、国民の声が上に達するとそれを反映しないではおけない基本線はあるわけです。

だから、日本人も、アジア政策におけるアメリカの傲慢さを今の情報ツールを使ってうまくアメリカの一般市民に伝えることができたら、「そりゃひどい」ということになるかもしれません。

戦勝国と敗戦国の関係で政府の側にはもうどうしようもない負の前提があるようですから、もうそちらには期待しないで、アメリカ一般市民の「草の根義憤」につながるような正論啓蒙活動を戦略的にやっていく方が流れを変える可能性があるような気がします。

「日本がアメリカに蹂躙されている」というのではなく、あくまでも、日本もアメリカ一般国民も、企業による世界支配の犠牲になっているのだというスタンスで。

国民番号法案も完全にマーケティングのベースデータのような気がしますね。

アメリカ人のピューリタン的メンタリティを刺激すれば、できることもあるような気がするんですけれどね。日本の政治家を変えることよりはまだ可能性があると思います。

最近、北朝鮮の好戦的な挑発なんかについては、ローマ法王に手紙を書いてもらえばどうかとも思いました。

キューバ危機の時に、当時の教皇ヨハネ23世がソ連のフルシチョフに平和を訴える手紙を書き、なんと、共産党機関紙の『プラウダ』に掲載されました。

当時のケネディ大統領がアイルランド系カトリックだったので思いついたのかもしれません。

北朝鮮は表向きは信教の自由があるのでカトリック教会も一応はあり、韓国からのキリスト教NPOもたくさん入っています。金日成の家族にも確かカトリックがいました。

何かそういう超国家的、あるいは、超ビジネス的なネットワークを利用して、小さな危機、ひいては大きな危機を回避できるのではないかと期待します。

3.11の後で、それまで原発のことを問題にしていなかった多くの人が自主的に情報を集めて啓蒙し合い、原発廃止のコンセンサスができた(けれど国家の政策や企業の方針にはもちろん反映しないわけですが)ように、弱者連帯の潜在的な力は普遍的にあると思うのでそれをどうつなげていくかということですよね。

私もずっと考えていきます。

http://setukotakeshita.com/

650愚者:2013/04/13(土) 12:58:23
コメントありがとうございます。
私の環境からforum3に投稿する方法が解らないのでこちらに書かせていただきます。『フランスの不思議』の記事を読み直しました。ヴィルパン外相のイラク戦争反対の国連演説でフランスはいざという時に指導者が理性的な判断ができる国という強烈な印象を受けたので、その後の政治家達の姿勢がそんなものだったとは興醒めです。
伝統宗教のゾンビに匹敵するものが日本にはないのでしょうか?日本人の拠り所というか偶像はいまや市場、自由主義経済、アメリカのようです。
竹下先生やNPOの方々のご指摘のとおり、敵を間違えずに99%がグローバルに連帯して1%に抵抗するべきですが、具体的な方策はあまりにも微力です。
郵政民営化を境に日本の行政機関は金融業者か詐欺屋?みたいになり、産官学の連携も行き過ぎになりました。東大総長がM総研のトップに就任して新聞各紙に広告が出たり。国会や内閣はテレビのワイドショーとなり、芸人が活躍しまっとうな政治家は排除されています。「自由な競争」や「規制緩和」の信者たちが政官財界を仕切っていて、テーマパークのアトラクションみたいなプランをどんどん出しています。

651愚者:2013/04/13(土) 13:11:26
連投2
(続き1)会議や社内のコミュニケーションを英語にする規則とか、秋入学にすれば世界中から優秀な留学生を集められるとか。大震災の美談は飽きられてきて、原発、基地、TPP、改憲、増税の致命的な国内問題を忘れさせるためマスコミは近隣諸国への反感を煽る報道一色です。
夏の選挙で逆転しないと、国民番号法案、秘密保持法案、国家総合安全保障法案(憲法改正)があっというまに成立して、政府に不都合な者をいくらでも取り締まれる全体主義軍事国家への決定的な一歩を踏み出すということです。護憲の運動は存在しますが、驚いたことにカトリックのピース9は猛烈に信者達に叩かれているらしいです。日本が99%が犠牲になる国になりつつあるというのに。B16教皇は何度か市場至上主義と相対主義を公式に非難しましたよね。JP2教皇の死の文化への非難を具体化したものと思います。宗派的な主張ではなく普遍的な、99%が共有する考えです。
竹下先生の『アメリカにNOといえる国』が、本澤二郎氏という評論家のブログの今読むべき本のリストに挙げられていました。

652愚者:2013/04/13(土) 13:26:29
連投3
(続き2)
知識人達はレジスタンスを既に実践してきたとも言えますが、今やメディアと言論の戦場で本気で戦っていただく時です。特にいわゆる保守良識層が、仁者の徳政を信頼する気風につけこまれたのか、政府与党のイデオロギー(市場主義、アメリカと組めば間違いないという信仰)に気づいていない点が難しいのです。与党と、野党を装う市場教政党の八百長が繰り広げられマスコミの政治報道を独占しています。
99%と9条に象徴される立憲主義を殺さないために、知識人やアーティスト達が緩く連携して、石ノ森章太郎氏の999のキャラクターを活用したりして1%を叩きのめし正気にしてあげて下さい。お願いします。
連投失礼しました。

653Sekko:2013/04/15(月) 08:23:37
愚者さま
イラク戦争の頃のことを今思うと、2002年の時点でたとえばドイツではシュレーダー首相がフランスと共に不参加を表明した時、「戦後ドイツの政治家たちがずっとアメリカのいいなりになってきた中ではじめてアメリカの要求を拒絶した」とドイツ国内で絶賛された話を思い出しました。その時にブッシュの政策をヒトラーになぞらえた女性閣僚がいてアメリカが激怒したという話もありました。

で、その後、米独関係がどれだけ壊れたかというと、大して壊れていない。

2002年や2003年の時点での日本なら、日本がもしNOと言っていても、失うものはなかったようにも思います。

フランスに暮らしていてもそうなのですが、一般的に言って、いわゆる欧米人って日本人が思うほどいろいろなことを根にもたないというか、単純というか、すぐ忘れるというか、割と関係を修復しやすい人たちなんです。

拒絶したい時にはバシッと拒絶しても、別の機会に友好的にふるまえばまたうまくいくというような。日本人は自分で前のことを気にして気まずくなったり、あるいは関係が悪くなるのをおそれて嫌なことでも譲歩したりしても、そんなことも分かってもらえないし、譲歩し損ということが往々にしてあります。

こういうメンタリティの問題は、それでも、国際関係をじっくりと観察していれば分かると思うんですけれどね。

それでも難しい問題はたくさんありますね。

たとえばフランスは痩せても枯れても普遍主義の国なので、そして、社会民主主義の国なので、福利厚生の各種手当が、収入の多寡や国籍に関係なく、合法的にフランスに住んでいるというだけで支払われます。

そういう政策のせいで新自由主義経済に後れをとっていて、そのおかげで自分たちは得をしているとドイツやイギリスは公言しています。

理念に殉ずること自体は私はいいことだと思うので、その結果の不都合は受け入れるのにやぶさかではないのですが、問題は、そうやって、「稼ぐ以上にばらまく」うちに、財政赤字が膨大なものになってしまっていることです。

もっとも、CAC40のトップが税金逃れのために国外に投資している金だけで財政赤字の3分の1に達するそうで、噴飯ものという気はするのですが、それでも、カユザックを擁護するわけではないですが、そういうことも知り尽くしている人が政治に目覚めるというのは悪いことだけではないとも思います。少なくとも、政治家になることで金儲けをしようと思っているのではなく、最初から金がある人がようやく政治的使命に目覚めたのかもしれませんし。

清貧だけで生きてきた人ばかりで国を動かすのは別のリスクがあるかもしれませんし、フランス革命などもほどなく恐怖時代に突入したわけだし、「1%をたたきのめして…」などという目線では語れないかもしれません。

個人的にはもっと社会学者にがんばってほしいです。日本の社会学って、なんだか、「ガラパゴス化した日本に特有の社会現象」みたいなものを分析したり解説したりしているようなのが目だって、本質的なものはあまり語られていないような気がします。

多くの人が多様性を活かしながらおっしゃるように緩い連携をして、立憲主義、平和主義を守っていければいいですね。

でも、最近、ドイツに占領された時のフランスのヴィシィ政権について、これまでは親ナチのコラボの極悪政権みたいに言われていたんですが、あの時点では、「平和主義」、つまり戦闘を回避する道だったという評価も出てきています。まあナチに過剰に迎合して自主的にユダヤ人狩りをするなど結果的に道を誤ったわけですが、親独政権なしでみながそろってレジスタンスに向かえっていえば、ずっと多くの血が流されていたかもしれないのも事実でしょう。

どちらにしても、何を譲れない線とするかをまず明確にして、それを歴史の文脈とすり合わせながら個々の場面に対応していくのが大切かと思います。

http://setukotakeshita.com/

654グラ(愛犬の名称):2013/06/21(金) 05:05:41
トラウマについて
竹下先生
先生がご指摘になった「トラウマ」について、補足的な説明をさせていただきます。
なお、このメールへの返信は、気になさらないでいただければと思います。
しかし、なぜ、竹下先生に、宗教相談のメールをするかというと、竹下先生の著作やブログを読んでいて、キリスト教を平易に表現することを通して、若い人たちにも理解してもらおうという姿勢に貫かれているように思えるからです。この「平易に」という意味は、日常の生活感覚を通してということです。

私は、プロテスタントの福音的な教会に身を置く者です。謂わば、キリスト教原理主義者であるかもしれません(笑)
ただ、この日本のプロテスタントも超高齢化社会の到来とともに、絶滅危惧種にリストアップされそうな勢いにあるということです。
そして、その原因のひとつに、敗戦後のプロテスタントのキリスト教が、マッカーサーの占領政策の一環としてアメリカから直輸入されてきたことにあります。負け犬が虎の威を借る、です。(マッカーサーは本気で、キリスト教による日本人の洗脳を考えていたことは事実のようです。)

問題は、敗戦後のプロテスタントのキリスト教の受容が、こうした卑屈な屈折した気分の中で展開したことですが、さらに問題を複雑にしたのが、無教会主義の台頭でありました。
戦時下、非戦を貫いたということで、共産党と無教会は戦後一大ブームとなります。戦後の初代東大総長は南原繁、続いて矢内原忠雄と、無教会出身者を就任させて、新生「東京帝大」は戦前からの権威付けに成功します。(岩波文化も後押しします。)

無教会主義、特に、塚本虎二を中心としたグループは、「教会の外に救いあり」として、カトリック・プロテスタントを問わず、総ての教会に挑戦します。

以上が、敗戦後のプロテスタントの歴史を、私なりの理解で略述しましたが、問題は、無教会主義は「メイド・イン・ジャパン」なキリスト教であり、「かなり異端臭い」のではないかという疑問です。
内村鑑三が主張した無教会(行くべき教会が無い)と塚本虎二の無教会主義は似て非なるものと思います。
しかし、一世を風靡した無教会主義が今や「風前の灯」であることを対岸の火事とは思えません。カトリック・プロテスタントを問わず、日本においては、遠藤周作が指摘した通り、キリスト教受容の根っこが腐るようになっているのかもしれない、これがトラウマです。

竹下先生の著作やブログを読んでいて、こうした不自由さを感じませんから、この「ご相談」は先生にとっては理解不能のような気もします。

しかし、日本の戦後のプロテスタントは、無教会主義と向き合い、清算すべきものを清算しないのであれば、いずれ絶滅危惧種に確実にリストアップされることになると思います。

私も「天の風」に吹かれてみたいものです。

655sekko:2013/06/21(金) 08:15:40
グラさま
興味深いお話をありがとうございました。

>日本においては、遠藤周作が指摘した通り、キリスト教受容の根っこが腐るようになっているのかもしれない、これがトラウマです。

そんな指摘があるのですか…

でも、第二次大戦後の伝統宗教の崩壊ぶりはフランスのような国でも同じで、資本主義の肥大が人々を即物的にしたのは「先進国」の共通した傾向だと思います。

そんな時代に無教会主義の果たした役割もあると思います。

結局、マイノリティ宗教に属するとどこでも共同体主義に陥りやすいということかもしれません。私はフランス人の仏教徒コミュニティと親しいのでよけいにそう思います。

私は、昨年出た中公文庫の矢内原忠雄さんの『キリスト教入門』に解説を書きました。グループとして、あるいは運動としては「風前の灯」なのかもしれませんが、また、教会の本当の意味から逸脱している点もありますが、矢内原さんたちが誠実にキリスト教を説明しようとした姿勢は今も充分通用する重さと深さをもっていると思いました。

日本に限らず、今の世界のキリスト者は、非キリスト者に何かを促したり納得させたりするというのではなく、自分の生き方によって、「人となった神を通して、人は人を愛することができる」というあかしをしていくのがいいのではないでしょうか。

その意味で、

>竹下先生の著作やブログを読んでいて、こうした不自由さを感じませんから

という印象をもっていただいているのは嬉しいです。

「キリスト教信者っていろいろ不自由なんだ」などという印象などもちたくないしもたせたくもないですから。

トラウマのないところでキリスト教にかかわった私はその立場を生かしていきたいと思っています。

ゲラさまもどうか時々は視点をずらせてリラックスしてください。

「天の風」って、吹いてますよ。

http://setukotakeshita.com/

656グラ(愛犬の名称):2013/06/23(日) 08:26:08
矢内原忠雄
矢内原忠雄の「キリスト教入門」を手に取らせていただきました。先日の竹下先生へのメールは釈迦に説法どころではなく、『無知の恥!』も度を超しておりました。大変、失礼いたしました。

私事ではありますが、私が矢内原忠雄を知ったのは、私に同じ教会内の女性を紹介し、結婚へと導き、結婚式の際には仲人までしてくれた、教会の長老格の役員を通してでした。その意味では、彼は今の私たち家族の土台を作ってくれた方であります。その彼は、1937年(昭和12年)12月2日の東大を辞する矢内原忠雄の最終講義に出席しており、その時の様子を語ってくれております。特に、矢内原の最後の言葉、「身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する」との言葉は脳裏に焼きついたと語りました。この彼は、その後、学徒出陣します。彼は学生時代、全日本での剣道での優勝やら、ヒトラーとの謁見、賀川豊彦との出会いがあったようです。彼は仏印に従軍し、傷病兵を置き去りに撤退しようとする上官たちを縛り上げたため、叛乱罪、要凶器上官殺害未遂で軍法会議で死刑の宣告を受けましたが、敗戦により9月に釈放されたという波乱万丈の持ち主です。彼は1984年に召天しますが、葬儀は彼の遺言で「凱旋式」として執り行いました。敗軍の将校が天に凱旋するというのが、彼の信仰でした。
彼にとって矢内原忠雄は福音の証人、人生の教師、信仰の導師であったと思います。彼の死後、彼の蔵書から矢内原の畏友で、矢内原が編集した藤井武全集10巻は、今、私の本箱にあります。
私たちのグループは、その彼を記念して、「凱旋」という私家本を発刊いたしました。

竹下先生が解説でお書きになっている通り、「だからこそ、敗戦の後で、『民主主義』を採用しても実は昔から何一つ変わらず(原文は代わらず)、経済の繁栄に目をくらまされて実存的な弱さの手当てを怠ってきた結果、希望や目標を失って漂流するに至った二十一世紀の日本において、矢内原の言葉が貴重な証言であり続けるのだ。」は、私にとっても「クレドー」となり得ております。

657sekko:2013/06/23(日) 23:50:33
グラさま
とんでもありません、お話はとても参考になりました。

仲人の方がヒトラーと謁見してどういう感想を抱いたのか、何をヒトラーと話したのか、興味津々です。

藤井武さんというのもすごい方ですね。

日本のような国で何につけてマジョリティの側にいる人は空気にのまれて思考停止に陥りがちですから、「日本のクリスチャン」の体験する葛藤は精神を強靭にして貴重ですね。

しかもその中で共同体主義への誘惑を斥けて真の「普遍性」に到達した人々はすばらしいと思います。

矢内原本の解説、短いものなのに変換ミス(「変わらず」を「代わらず」)があったのに気づきませんでした。ご訂正ありがとうございました。

お話からグラさまが男性だと知りました。なんとなく同世代の女性をイメージして書いてました。グラって、犬の名にしても珍しいのでは? 奥さまや愛犬グラちゃんによろしく。(グラちゃんのイメージは柴犬。これも違っているかもですが)

http://setukotakeshita.com/

658ウラヌス:2013/06/24(月) 07:44:38
最近のポストモダン
昨日は詳しい回答をありがとうございました。また質問してよろしいでしょうか?フランスではフーコーやドゥルーズ、ガタリ、デリダ、リオタールといった思想家が20世紀後半に現れて、日本にも影響を与えましたが、彼ら以降フランスではポストモダンの思想はどうなったのでしょうか?私が知る範囲ではバディウとかナンシーが今も現役のようですけど、特にどういう人がポストモダンの今現在の中心なのでしょうか?それと日本では80年代から90年代にかけて、ポストモダンがもてはやされましたが、最近はロールズのような英米系のリベラリズムも影響が強まっているように思われます。フランスではポストモダンの思想はどの程度評価されているのでしょうか?かつて日本でよく読まれたサルトルやフランクフルト学派のアドルノは本国では極左とされ、批判も多かったと聞きました。ポストモダンもフランスでは案外批判が多かったりするのでしょうか?特にソーカル事件以降はどうなったのでしょうか?

659sekko:2013/06/24(月) 16:08:24
これは自分で調べてください
ウラヌスさん、申しわけないですがこういうことはまず自分で調べてください。上のタイトルに説明を加えたように、一般的情報をレジュメして答える場所ではありません。よほど時間があってちょうどそのこと考えていた、というような場合は答えます。お書きになったようなことのキイワードをフランス語でフランスのgooglなどに打ち込めばいくらでも情報は出てきます。フランス語がおできになるのですから今はやり方次第で良質の情報もいくらでも手に入ります。その上で、「ここではこれについてこう言われてあそこではこう言われているがじぶんはこう思うのだが…」というようなピンポイントの疑問が出てきたらまた寄ってみてください。(この掲示板の過去にもポストモダンについての話題はあったように記憶しています。暇があれば検索してください。)

http://setukotakeshita.com/

660ウラヌス:2013/06/24(月) 16:59:01
わかりました
承知しました。では今後は一般的なことは避けます。

661グラ(愛犬の名称):2013/06/25(火) 21:55:36
西洋近代理念
グラはトイプードルで、娘が連れてきましたが、その娘も結婚のため、グラを置いて引っ越して行きました。
十日ほど前のことです。別れる時は、グラを抱き締めて、娘は大泣きしました。私とってグラは、娘が置いて行った「コ・コ・ロ」と思い、<ネコっ可愛がり>しますので、家内から「バ〜カ」と言われている今日この頃です。

竹下先生の「キリスト教の真実」を再読しました。
矢内原忠雄の本で、キリスト教の入門書が文庫サイズというのは、私の中では「想定外」でありましたので、敷居の高いキリスト教も、それも無教会関係の本も、「ここまで来たか」という驚きでありました。
それで、改めて、「キリスト教の真実」を再読しました。
佐藤優氏の「はじめての宗教論 右巻・左巻」あたりから、「ふしぎなキリスト教」橋爪大三郎氏・大澤真幸氏共著と、キリスト教界以外からの積極的なアプローチを、それこそ不思議なモノを見るような感覚で眺めておりました。その線上で「キリスト教の真実」を読みましたが読みやすかったですし、「腑に落ちました!」その感覚がなぜだろうと思い、再読しました。

竹下先生は、ISOをご存知ですか。国際標準化機構のことです。私は、ISO9001の品質管理システムの統括管理責任者(社長の代行)の経験があります。非上場企業でしたが、資本金約5億円、社員はアルバイトまで入れると約1千名の規模で、新規導入の責任を持たされました。
戦後のQC(品質管理)運動はアメリカから持ち込まれますが、中途半端に終わります。ISO9001はこのQC運動をまさに普遍化したものです。
企業がISO導入に積極的になるのは公共事業の入札条件になったからです。
ISOの原理的なことの説明は省きますが、導入時は、文書化が面倒臭いとか、作業手順は気合だとか、それはそれはすごい抵抗に遭いました。しかし、標準化がされると、「言った言わない」の責任の曖昧さがなくなったばかりか、利益も大幅な改善をみて、期末賞与まで支給されることになりました。
ISOは、P(計画)D(実行)C(評価)A(改善)のサイクルを通して、継続的な改善を実施する「運動」です。

竹下先生があとがきでお書きになっている、「『近代理念』とは、『受容』して『順応』し、『停止』や『惰性』に至れるような着地点ではない。それは、たえず『自己定義の統合』に向かって前進し続けることを課された『運動』なのである。」(P275)に符号しております。
ちなみに、神学をまじめに学んでいる牧師は、このISOの原理は理解できるようです。
ISOは、中小企業を中心とした草の根運動として定着しました。
普遍化の意味を生活レベルで理解できる初めてのツールになったと思います。
その意味でも、「キリスト教の真実」は、他のキリスト教界以外からの積極的なアプローチ「本」とは、一線を画していると思います。

662sekko:2013/06/26(水) 06:07:05
トイプードルでしたか
グラさまの思い入れのようなものからなんとなく健気な柴犬を想像したのですが、健気なのはグラさんの方だったのですね。

子供の置いていった犬や猫を世話し続ける親ってすごく多いですね。子供たちってひょっとして、親元から羽ばたくために、ほんとに「こころ」の一部を残してあげようとして、無意識にペットを持ち込むのかもしれません。ペットって、永遠のかわいい二−トですよね。

ISOはもちろん知っていますよ。日本での受容がそういう具合になっていったということは知りませんでしたが、なるほど普遍主義が文化を超えてこういう風に機能していったといういい例の一つですね。有意義なお仕事をなさいましたね。

先ほど別の読者の方にForum3でお答えしたのですが、『キリスト教の真実』と『戦士ジャンヌ・ダルク…』は私の中では実は一続きの本なのです。

以前『バロック音楽はなぜ癒すのか』(音楽之友社)、『聖女の条件』(中央公論新社)、『アメリカにnoと言える国』(文春新書)という3冊で、ユニヴァーサリズムの擁護の路線をはっきり意識して始めました。

何を書いても、形を変えてはいますが、どうすれば、弱者を排除することのない世界に近づけるかという模索を続けていることには変わりはありません。

これからの予定はユダ論とフリーメイスン論とナポレオン論ですが、いつも同じ風を感じ続けて航行していくはずです。お祈りください。

http://setukotakeshita.com/

663グラ(愛犬の名称):2013/06/29(土) 06:08:07
「聖母マリア」
聖書での表記も、イエスの母については、マリアとマリヤに分かれといるように、振り返ってみますと、プロテスタントの、それも福音派と呼ばれるキリスト教原理主義では、マリアの生涯、例えば、15歳でイエスを生み、多分、72歳頃に「被昇天」したなどということは、聖書研究でもその対象にすらなりません。

しかし、イエスの十字架は、神学的にも、天と地を決定的に隔てる出来事であると同時に、天と地を結び合わせ、救済する真理となります。そのイエスの生涯に寄り添い、様々な出来事を「心に納めて、思いを巡らし、(ルカ2:19)、心に留めて(ルカ2:51)」、と記すことで、マリアがイエスの生涯を、その真実の姿を十分に理解できないながらも、心に刻むことを、福音記者ルカは強調します。

竹下先生の「聖母マリア」を読むことで、マリアの生涯とその後の民間信仰の展開を通して、私自身の信仰の在り方にリアリティーを齎しました。
ヨハネの福音書によりますと、マリアは、十字架の足元に留まっております。マリアは、自分が産んだ子を罪人として死刑に処せられる場面に立ち会っているということです。母マリアは、母である自分よりも先に死ぬ「親不孝」の場面に無力な姿を晒しています。さらに、十字架上のイエスからは、「女の方」と呼ばれます。

実は、私は教会の礼拝で、時々、信徒説教者として、牧師たちの「検閲」を受けた説教原稿をもとに礼拝説教をします。「検閲」が通れば、7月21日の礼拝で、先ほどの聖書箇所も含め、イエスが、なぜ「女の方」と呼んだのか、これは同じヨハネの福音書のカナの婚礼での奇跡でも、「女の方」と母マリアが呼ばれることと関連付けて、説教をする予定でおります。

とにかく、竹下先生の「聖母マリア」からも大きな刺激を受けて、聖書の読み方が変わったことをお伝えしたかったのです。
わたし的には、依然として、思弁的であり、敬虔主義的でありますが、日本のプロテスタントの教会が絶滅危惧種もしくはガラパゴス化から抜け出す努力をしたいと考えております。

これと関連して、竹下先生にお尋ねしたいことがあったのですが、躊躇しております。
カール・バルトの神学の出発点となった出来事に、「ブルームハルトの体験」があります。この体験については、わたし的には、結局、思弁的、敬虔主義的な理解に留まっているのではないかという疑問が、最近、湧いてきております。これも、竹下先生の本を読むことで、ヨーロッパのキリスト教文化の伝統を踏まえて、「ブルームハルトの体験」を理解しないと、表面的な理解に終わっていたのではないかという反省を持ち始めているからです
この「ブルームハルトの体験」は、
「神の国の証人 ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ」 井上良雄著 1982年3月 第一版第一刷発行 新教出版社
に、詳しく記載されておりますが、いずれにしましても、躊躇しております。

664sekko:2013/06/30(日) 05:11:23
ブルームハルトの体験
ブルームハルトの体験って、息子の方の1896年10月の出来事ですか、それともおとうさんの方の悪魔祓いの話ですか?

私にとってブルームハウトというのはキリスト教社会主義が行き過ぎて社会党から議員になってしまった人、バルトが評価したように「宗教」という言葉のかわりに「神の国」を語っていた終末論的な人というものなのですが、グラさまにとって問題となっているのはどういうことなのでしょう。(彼についての日本語の本は読んだことがありません)

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665グラ(愛犬の名称):2013/07/02(火) 18:35:27
「父ブルームハルトのこと」
竹下先生
所謂、「悪魔祓い」のことです。
場所は、シュトゥットガルトから鉄道で2時間、ヘルマン・ヘッセの故郷カルフの町から東北に向かって8キロほどのメットリンゲン村。恐らく、ヒルデガルトのビンゲンとも約々二百キロ圏内かと思われます。

この「悪魔祓い」は、映画エクソシストのような内容で、ゴットリービン・ディトゥス(1815年生まれ)という娘の二年以上続いていた憑依状態のなか、1843年12月のクリスマスの期間に決定的な出来事が起きます。ブルームハルトのヴィテンベルクの宗務局への「報告書」によりますと、「娘は頭と上半身を、椅子の背にのけぞらせていたが、人間の喉から出るとは思えない声で、『イエスは勝利者だ。イエスは勝利者だ。』と、吼えるように叫んだ。この言葉は、それを聞いた限りの人々に理解され、忘れることのできない印象を与えた。」と記されております。

ブルームハルトにとって、この「悪魔祓い」についての理解は、キリスト教教義のいう「恵みの勝利」などではなく、さらに、一つの原理とそれに対立する別の原理の戦いというものではなく、活きた人格的な神とそれに逆らうやはり人格的な暗黒の力とのつばぜり合いの戦いであったということです。この戦いは、「模擬戦」などではなく、事実粗野なまでに「肉薄戦」であったということです。

バルトは、教会教義学で、「イエスは勝利者だ」という節を設け、「この言葉は、当時においても新しい言葉であり、そのような言葉として、当時もそしてその後長い間、孤独な言葉であり続けた。」と記します。

私は、ここでバルト神学を説明する能力もありませんが、しかし、この「悪魔祓い」事件は、ヨーロッパの歴史おいては、竹下先生の「聖者の宇宙」=「聖者システムの歴史と実態と意味」(P12)の一齣であるようにも思えます。
ブルームハルト父子・バルトは、信仰覚醒・教会覚醒に進みますが、カトリック的な理解、ビンゲンのヒルデガルトをブルームハルトも知っていたかも?などと想像しております。

竹下先生にどのように説明しようか、右顧左眄してましたら、
井上良雄著 「神の国の証人 ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ」の一節に、
ブルームハルトが東方教会的だということを言うのは、バルトだけではない。エルンスト・ガウグラ-は、そのブルームハルト論の中に、「あるロシアの神学者」が、ブルームハルトの書いたものを読んで、「父ブルームハルトは、私にはプロテスタントの『長老』のように思える」と言ったというエピソードを伝えている。
と記しておりました。
この長老の注釈として、
「ロシア語で『スターレッツ』は、年老いた人の意。ロシア正教会における宗教的指導者、修道士であるが、「長老」というのが、教会内の階層的な職位として位置付けられているわけではない。霊的な賜物によって、権威を持ち、若い修道士たちの訓練に当たった。「長老」は、東方教会の歴史において古くからあったが、十八世紀の後半から、ロシアの修道生活の中で大きな役割を持つようになった。平信徒たちは、その苦悩を癒してもらうために、その周囲に集まった。われわれには、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に描かれたゾシマ長老の姿によって親しい。」
とありました。

竹下先生には、プロテスタントの視点での、この「ブルームハルト的なもの」を、聖者の宇宙的な視点から意見をいただこうかなと思っておりました。といいますのは、ブルームハルトが「肉薄戦」を闘った人間の現実は、キリスト教会全体の歴史での戦いでもあったと思います。
少なくとも、ブルームハルトの戦いは、聖者の宇宙の一齣として、理解される必要があると思われます。

とりとめのない内容になってしまいましたの、無視してください。

竹下先生の本は、プロテスタント側からもアプローチしなくてはならない本だということを伝えたかったのですが…。

666グラ(愛犬の名称):2014/04/17(木) 11:54:08
「ユダ」を読ませていただきました
竹下先生

早速、「ユダ」を読ませていただきました。
時機に適った出版であったと、個人的には感じております。
私は、プロテスタントの所謂福音派に身を置く者ですが、「福音とは何か」という根本的な理解にゆらぎが生じた中に生きている者でもあります。

福音は、救いの歴史だけでは捉えきれないという反省が、教会を変え始めております。
私は、この教会の反省は、正しいものと理解しております。福音は救いだけではなく、救いを包含する、神の歴史全体を理解する必要があります。

ユダの両義性もまたそのように理解する必要があるように思われます。
森有正先生が、「アブラハムの生涯」という講演集で触れておりましたが、創世記15章12節、「深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。」(新改訳聖書の訳ですが)アブラムへの祝福に先立つところの「暗黒の恐怖」は、何であったのでしょう。

ユダという表現では、日本での作品は、大下英治の「十三人のユダ」しか、私は知りません。三越百貨店を私物化した、岡田茂と竹久みちを題材にした作品です。この作品でも、「一人目のユダ」とか、「ユダは誰だ」という章もあります。ユダを裏切りの象徴として使用しておりますが、結局、公器である企業を私物化するという視点も「ユダ」かもしれません。

ユダを、歴史的に、文化的に俯瞰し、調理する、竹下先生の凄みには、相変わらず脱帽です。
大切にしたい、ご本であります。ありがとうございました。

667sekko:2014/04/18(金) 00:42:43
グラさま、ありがとうございます。
ご感想をいただいて嬉しいです。直接の知り合い以外からの最初の感想でした。

サイトの著作紹介のコメントもお読みください。

『十三人のユダ』のことは知りませんでした。

このタイトルの選び方とインパクトにはいろいろなものを感じさせられます。

今日、進化生物学者の書いた『「先送り」は生物学的に正しい』(宮竹貴久)という本を読んだのですが、とにかく生き残るためには生物は死んだふり、擬態、パラサイト、なんでも実践するというのを見て、「裏切り」も含めて、「十三人のユダ」のとった行動は、きっとそれぞれの生存戦略だったということなのだろう、と想像します。

アブラムの「暗黒の恐怖」についても考えさせられます。

ありがとうございました。

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668エトワール:2014/04/26(土) 07:08:29
天使
745年に第91代ローマ教皇ザカリアスは教会会議においてウリエル、ラグエルなどの天使を堕天使と認定し、ラグエルを「聖人の名を騙る悪魔」と非難したといわれています。民間において過熱していた天使信仰を危険視した教会がそれを沈静化するために行った政治的処分で、知名度の高かったウリエル、ラグエルなどの天使がその見せしめとなったというものですが、この年に公会議が開催された記録はなく、その真相は、邦訳されている文献では、あまりよく分かりません。ウリエル、ラグエルらの堕天使事件について、どのようにお考えでしょうか。

669sekko:2014/04/26(土) 23:49:19
エトワールさま
ミカエル、ガブリエル、ラファエルの3人以外の大天使は基本的には名前が啓示されていないということですね。ウリエルら4人はエノク書など旧約外典に出てくるわけで最初から要注意ではありました。

Adelbertという人がこれら外典の天使たちについて詳細に書き出したので、聖ボニファチウスが教皇ザカリアスに進言して745年にこの人を異端として破門しました。Uriel, Raguel, Tubuel, Inéas, Tubuas, Saloac, Simielへの祈りを勝手に作ったということで、これらの天使の集まりは悪魔の集まりだと言われたようです。

(Françoise Bouchard, "Les grands miracles de la dévotion", Ed. Résiac, 1996.)

"Dictionnaire portatif des Conciles" (Paris, Veuve Didot, 1767)によれば 745年10
月25日にローマで、7人の司教、17人Romeの司祭と聖職者が教皇のもとに集まって、Adelbert と Clement du Sacerdoceを異端として前者の著作を焚書したそうです。 正典に出てこない名前を勝手につけてはいけないということです。このことは789年のアーヘンの公会議でも確認されました。

でもその前に787年の第2ニカイア公会議で絵画や彫刻で天使を表現することが許可されたので、天使の図像そのものは多くなりました。その時に参考にされたのは、翼を備えたギリシャの勝利の女神ニケの姿だったりしています。

もっとも、アウグスティヌスが言ったように、天使とは神に仕える「機能」のことであり、その実態は「霊」であり、名前をつけて偶像化するのはまずいということです。

でもその後も、連祷に出てきたり棺に名が彫られたり、7人の大天使をまとめて守護を祈るのが流行ったり、イエズス会士がフィリピンにまで7人の名を広めて女子修道院の名になったり、4人の大天使の名も結局、復活継承されてきました。

人はきっと天使に祈ったり頼ったりするときに「名前」を呼ぶ必要があるのかもしれません。そしてその名前にはちゃんと仕様書や取扱説明書もついていてほしいのが人情なのかもしれませんね。

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670kei:2014/05/08(木) 02:12:04
「キリスト教の真実」について
竹下様
最近になり、ファンになった者です。
遅まきながらではありますが、「キリスト教の真実」という著書につき感想を述べたく存じます。
まず、大きな問題意識に満ちた、とても新書には収まらない労作と存じます。
第1章だけでさえも、一般の日本人にとっては、なかなか常識とはかけ離れたことかと。
拙は大筋において貴方の考え方に同意します。
本書は、いわゆる西側先進国と言われる諸国が、キリスト教の考え方を、これまでの歴史において、「普遍主義」に一般化、脱宗教化してきた過程であり、果たしてそれを非キリスト教世界にまで包摂したグローバル世界化できるのかが問われている、という趣旨、あるいは問題意識かと存じます。
今拙が考えているのは、なかなか困難なことかと。
さらに言えば、非キリスト教世界との接合の中で、キリスト教的な考え方までネグレクトされ、旧約的、あるいはローマ的な考え方が復活してきているのではないか、とも思われます。
貴方は第7章で、「十字架上のイエス」の形象が心の中に刻まれていることを述べておられます。
拙は、シリアという地域が非常に好きなので、シリア戦争に心を痛めてウォッチングしていましたが、政府、反政府、あるいはそれをとりまくイスラム諸国さえ、駆け引き的で、暴力に対しての絶対的嫌悪という言説はなかなか見られませんでした。
また悪いことに、さらにそれをとりまくアメリカ、フランス、イギリスについても、実に形式主義的であり、言葉とはうらはらに、国家主義的でとうてい和平を実現するとは思えぬものだと思っています。
さらに現在進行中のウクライナでもそのようなことが見られると思います。
貴方の他の著作を拝読いたしますと、十字架上のキリストは、権力者の側ではなく、民衆、フォークロアの中にこそ、よりビビッドに映しこまれていたように感じております。
権力者の側ではなく、民衆の中から十字架上のキリストを権威として、その理想を叫ぶ者がでてきたのではないのでしょうか。
双方の側にそのような共通の苦難の形象がないところではなかなか歯止めがかかりにくいことを感じております。
救いとしては、現在カトリックが生命力を取り返してきつつあり、平和主義の立場から強く働きかけているところだと思われます。
なかなか思ったように書けませんが、まずはここまで。
乱文深謝。

671sekko:2014/05/09(金) 07:39:00
keiさま、ありがとうございます
keiさま、

確かに新書としては重過ぎることを詰め込んだあの本を的確に読んでくださってありがとうございます。

日本にいた3週間は韓国の沈没事故のニュースばかり表に出ていましたが、フランスに帰ると、ウクライナはもとより、中東やアフリカでの深刻な内戦や暴力行為(ナイジェリアで200 人の女子高生がイスラミストに拉致されて売られたことなど)のニュースがいっぱいで、平和主義の残滓も見えないように思えます。

それでも、最悪の恥辱や苦痛を与えられて無抵抗で死に至った人を神のペルソナのひとつとして掲げているキリスト教は、根本的なところで「上から目線」を成り立たせない宗教であると思っています。だからこそ、全知全能の神の代理人として君臨した教会だとか王権神授と言って独裁した絶対君主たちとか、異教の討伐や排斥をした人たちなどが席巻した歴史の中でも、いつもそれはキリスト教ではあり得ないといって清貧や弱者救済に乗り出したアッシジのフランチェスコなどの改革者がいつも存在してきたのです。

今のローマ法王フランシスコもそうですが、長く続いたヴァティカンの利権構造をおびやかしてかなりラディカルに弱者の側に立っているわけですが、「上から目線」を封印するというのがキリスト教の根本にある限り、だれも面と向かっては文句を言えないわけです。

他の、「偉い神様の神託を受ける人」とか、「教えや真理を体現している人」とかを崇める宗教よりは、ある意味で自浄力があるのかもしれません。ローマ・カトリックも、宗教戦争や近代革命や二度の大戦など、何度もいつ消滅してもおかしくない危機があったのに、いまだ存続していて一定の存在感を保持しているということ自体が奇跡のように思われます。

「上から目線」を否定すること、弱者や少数者の排除を許さないことを磔刑像が分かりやすく示し続けていることが、キリスト教文化の人たちを通して平和主義への潜在的な力となっていくことを期待したいと思います。

絶望する方がずっと簡単に思えるような世の中ではありますが、最新作『ユダ』についてのコメントにも書いたように、真の平和を標榜するのは結局のところ私たち一人ひとりの心の持ち方にあるのかもしれません。

http://setukotakeshita.com/page1.html

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672kei:2014/05/17(土) 14:38:35
ジャンヌ・ダルク炎上と復活
竹下様、「戦士ジャンヌ・ダルクの炎上と復活」拝読いたしました。
ジャンヌ・ダルクにつきましては、実は講談社新書で貴著書に初めて接したのです。
ふとリュック・ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」を観たところ、裁判の理路整然としたジャンヌの論理に触れて、不思議に思い、いくつか読みすすんだものです。
これまでに貴著他、岩波新書、ペヌルー「ジャンヌ・ダルク」、集英社新書「英仏百年戦争」また物語としては映画バーグマン主演「ジャンヌ・ダーク」「火刑台のジャンヌダルク」劇「ひばり」を見ております。
本書は、3つのテーマで、ジャンヌ・ダルクをめぐる歴史的事象について詳らかに述べられています。それは終章に向かう巡礼のようでもありました。
終章において、ジャンヌ・ダルクと聖母マリアが比較されております。
お告げの2つのタイプと書かれていますが、ある意味同じことのように思えます。
ジャンヌ・ダルクの場合も受容であったでしょうし、彼女は自分を声の器と考えていたでしょう。そしてその受容は聖母マリアを心に留めたことでしょう。
また聖母マリアの場合も、拙は「Mary of Nazareth」の影響を受けておりますが、老シメオンに「剣で貫かれる」と予言されたように、その道は苦難であったでしょうし、最後までその言葉の通り自分で歩みぬかれたと今考えております。
「Mary of Nazareth」では、エジプトからの帰還、主イエスに親族と共におしかけたとき、受難のときにおいて、その言葉が試され、聖母ご自分でその都度足を踏み出したように描かれておりますが、拙は聖母マリアのこれまでの違和感がそれで解消されたと感じました。
ジャンヌ・ダルクの生涯を考える場合、受難も通して考えねばならないと思われます。
「フランスを救え」という声はランスではなく、ルーアンまでも含めて貫徹されていたのではないでしょうか?
ペヌルーの著書、「英仏百年戦争」共にジャンヌの処刑以降にノルマンディーでの反乱が起きていることが述べられています。「英仏百年戦争」などは、ジャンヌの戦闘の意義はあまり軍事的に評価されていませんが、死後にこそナショナリズムの「否定できない潮流をつくる」と面白いことが述べられています。
さらに帰天されてからは、今に至るまでフランスを救い続けていると考えることもできると存じます。
考えてみれば、ジャンヌは、諸勢力すべてに裏切られましたが、そのことでかえってどの勢力にも属さない「民衆の聖女」となり、どの勢力にとっても負い目を持ち、掲げねばならない存在になってしまったのかもしれないと思えます。
リュック・ベッソンの映画は「聖戦」という新たな薪を投げ込むこととなりました。
イラクからウクライナに至るまで、現代の「聖戦」は双方の側に双方の側のための殉教者を出しており、それは交わることがありません。
ジャンヌのようにすべての側に負い目をつくる殉教者がない限り終わることがないのでしょうか、イエス・キリストのように?
ともあれ、日本の中世内戦の天下統一は武将の上からの英雄は居ますが、ジャンヌのような下からの英雄はいません。西欧他国でもここまでの存在はないように思えます。それは単にプロパガンダを超えたものがあるのではないでしょうか?

673sekko:2014/05/18(日) 07:45:21
ジャンヌ・ダルクと聖母マリア
興味深いコメントをありがとうございます。

ジャンヌ・ダルクが圧倒的に意味があると思うのは、あの本にも書きましたように、異端審問と復権裁判によって徹底的にその肉声から生い立ちその他に至るまでの記録が残されて発掘されているところです。

それに比べて、大きな声では言いませんが、聖母がイエスを神殿に連れて行った時にシメオンが言った言葉など、誰が聞いていたのか、書き留めたのか、マリアが自分で言ったのか、「記録」の実証性からいうと、ジャンヌ・ダルクとは全く別の次元のことだと思ってしまいます。もちろんルカに出てくる聖母にまつわるいろいろな情景がその後のキリスト教の信仰や文化において大きな役割を果たしたことは確かなことだし看過できないことですが。

ジャンヌに対してすべての人が一種の「負い目」を持っているという見方はおもしろいですね。確かにその負い目はナザレのイエスへの負い目みたいなものと共通しているのでしょう。

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674kei:2014/05/22(木) 00:20:24
EUとジャンヌ
CNNでEU議会選挙のニュースがありましたが、ル・ペンさんがジャンヌの看板の前で演説していました。
ジャンヌは今反EUの旗のもとに居るのでしょうか?反論はどうなっているのでしょうか。ナショナリズムが曲がり角の時期にはジャンヌももっと普遍的な読み方をしていく必要があるのかもしれないと思います。
詳細な記録が明らかになり、ジャンヌの明晰で敬虔な人物像が明らかになったと思います。
ジャンヌは決して狂信的ではなかったと存じます(そして今度は傀儡論が出てきたようですが)
デリダが正義論の中で「あらゆる決断という出来事は、自らのうちに、決断不可能なものを少なくともファントムとして、しかしながら自らの本質をなすファントムとして受け入れ、住まわせ続ける」と、まるでジャンヌのようなことを述べています。(法政大学出版局「法の力」)
ジャンヌは、まだ自分にもファントムとしてしか見えない正義を、自分の十字架を背負い、畏れおののきて、つくっていったのだと思えます。
そこが狂信的殉教戦士や現代の十字軍と決定的に違うところだと思います。
ジャンヌの名を借りる者は、ジャンヌの孤独な祈りと戦いを欺かないようにしてほしいものだと思います。
復活されたイエスは、信じないトマスに、傷の中に手を入れさせました。我々はどこまで詳細な記録が欲しいのでしょうか。イエスは「どんと来い」と言っているようですが。
ユダを書かれて、まだ読むに至っておりませんが、トマスも書いてほしいような気持ちです。

675sekko:2014/05/24(土) 23:00:30
Keiさま
もともと5月はジャンヌ・ダルクの祝日があり、聖母マリア月でもあり(だから母の日があります)、ル・ペンに取り込まれやすい時期なのですが、娘の代に変わってからもっと利用している感じがします。

ジャンヌが自分でも決断不可能なものをそれでも本質的なものとして抱えていたというのは興味深い視点ですね。

信念に基づいて意志や希望や観測、予測をいくら掲げても、根本なところにある「不可知」を不可知として容認しなくては人は道を見失うのかもしれません。

聖トマスについては『聖者の宇宙』(中公文庫)の第5章で触れたことがあります。どの絵を見てもどきどきするシーンです。

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676グラ(愛犬の名称):2014/07/31(木) 10:42:02
B16の著作から
竹下先生

ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガーの「ナザレのイエス」を読みました。
「チェルノブイリ」が引用されており、それは福島と重なります。
福島原発事故は人災という評価を政府事故調もしております。
まるで、日本にはキリストの教会がないとB16から指摘されたようで、ショックですが、受け止めなくてはならないようです。
ヨーロッパのキリスト「教界」は、日本の教会(新旧ともですが)に対して厳しい視線なのでしょうか。

参考までに、B16の本からその箇所を一部引用させていただきます。
「ナザレのイエス」 (春秋社 2008年)  P52  里野泰昭訳
誘惑の場面の短い記述(マルコ1:13)において、マルコ福音書はアダムとの対比を強調します。それは、人間の苦難のドラマを苦しみ抜くことにあります。イエスは『野獣とともにおられ、天使が仕えていた』。荒野は楽園の対極ですが、和解と救いの地となります。創造に対する反抗と死の力であり、人間存在に対する脅威の具体的な姿である野獣は、楽園におけるように人間の友となります。イザヤがメシアの時として告知したあの平和の状態が現実となるのです。『狼は子羊とともに宿り、豹は子山羊とともに伏す』(イザヤ11:6)。罪が超克されたところ、人間の神との調和が実現されたところでは、創造は和解の状態に戻り、引き裂かれた世界は再び平和の場所となるのです。パウロは被造物のうめきについて語り、『被造物は、神の子たちの現われるのを切に待ち望んでいます』(ローマ8:19)と言っています。西ヨーロッパのベネディクト会修道院の周りに生まれた平和な村落は創造のオアシスであり、神の子たちによる和解の世界を先取りするものの一つの例といえるのではないでしょうか。それとは逆に、チェルノブイリは神の不在の暗闇に閉じ込められた創造の衝撃的な表現ということができましょう。(下線・強調文字は原文にはありません。)


「ナザレのイエス」は2008年に出版されましたから、福島原発事故を知りません。
創造のオアシスに対比されるチェルノブイリは、政治体制をも含めた皮肉も含んでいるかもしれませんが、チェルノブイリは福島のことです。
そこには、キリスト者もキリストにある教会もないと言われているのも同然のような気がします。

私たち、日本のクリスチャンはそのような時代と場所で生きていることになります。

「ナザレのイエス」三巻本は、B16がドイツ人でもあるせいか、プロテスタントの私にとっても良書でありました。B16がチェルノブイリに触れていることを、竹下先生に、ご紹介しておこうと思ったことと、信仰の世界から日本を見て、暗澹としている一人の信徒がいることをお伝えしただけです。

677sekko:2014/07/31(木) 20:33:20
グラさまへ
ありがとうございます。

そう、B16(ベネディクト16世)は教皇庁のエコロジー路線を前面に押し出した画期的な人です。

彼が選ばれた時? Habemus papam ecologistum ! ≫というべきだったという人もいるくらいです。

今回フランシスコ教皇が登場したことで先進国保守派の中でのカトリックの位置が鮮明になってきました。

カトリックもプロテスタント福音派も、先進国では保守ブルジョワジーが力を持っていて、そこでは「キリスト教=倫理(特に結婚、性、同性愛、避妊、中絶、安楽死)」という枠にはめようとしてきました。

カトリックの社会活動、キリスト教本来の持つ拝金主義の否定などは、多くの保守的な人にとって「不都合」だからです。「キリスト教=ピューリタン的で性道徳にうるさいやつ」という矮小化は非キリスト教徒ばかりか、社会の上層にいる多くのキリスト者にとっても都合のいい落としどころでした。

だからこそ、先進国ではない南米出身で底辺の悲惨さと社会の矛盾をよく知っているフランシスコが教皇になって現代世界の格差構造を糾弾し、棄民状態になっているさまざまな人の救済というキリスト教本来の正論を唱え始めると、保守陣営は激しく動揺しているのです。

レーガンらと組んで共産圏と戦ったヨハネ=パウロ2世はまあ都合よかった部分もあるとして、後は同性愛結婚反対とか中絶反対とか言っていればいいので、それは時代遅れだとか、司祭の小児性愛はどうする、など黙殺したり批判したりしやすい部分です。

保守派の人間もそういう道徳だけを言っていれば「倫理的でキリスト教的」だという満足感や優越感を得られるというわけです。

そういう困難な状況の中で、B16は、左派から揶揄される倫理路線、右派から嫌悪される社会活動路線の両方を迂回した「エコロジー」路線を前面に出したのです。

これはすばらしいことでした。左派にも右派にも受け入れられたからです。

地球の環境問題をここまで悪化させたのはエネルギーをはじめとした大資本の利権構造ですから、エコロジーを訴えることは社会の貧困の根本問題をたたくことで左派的にもOK。

そして持続可能エネルギーの開発などの新事業は新しい利権の獲得や事業拡大の可能性もあるので右派にもOK。
政治家たちのイメージ戦略的にもクリーンでポイントが上がります。

フランスの貴族のカトリック保守派で、B16の呼びかけに応えて急進的なエコロジー活動家になった人も少なくありません。無視できない影の影響力やネットワークを持つ彼らにとって、中絶や避妊がどうとかという問題以外の大きな使命感とそれを発揮する場を与えた効果は絶大です。

B16は必ずしも、キリスト教のないところでより大きい罪が繰り広げられているとは言っていません。

彼が、2011/6/9、駐ヴァティカン新任大使にあいさつしたメッセージをお読みください。

これは「フクシマ3ヶ月後」であり、当然フクシマが念頭にあります。大使たちは別にカトリック国から来たわけではありません。日本語の訳を一つ見つけたのでぜひ読んでください。

http://www.paparatzinger.org/Soc.Culture/9.6.2011.Udienza_nv.ambasciatori.pdf

残念ながらあまりこなれていない訳なので分かりにくいかもしれませんが、

「神から自然のよき管理を任された人間がテクノロジーに支配されその奴隷になることはできない」と言い、

神の似姿である個々の人間よりも金やテクノロジーや権力が上に置かれている状況が人の実存的迷いと生の意味の喪失を招いたこと、

超越的なものとの関係を欠いた人と物のヴィジョンは人から大地のルーツを奪い、深いところでアイデンティティも失わせること、

などを語っています。

そして、人間の尊厳は、信教の違いによって変わるものではないこと、正義や平和の希求をリスペクトすべきであると言っています。

さらに、どこの国でも、教皇のこの指針のもとで働くものは各国の諸問題を傾聴するはずであるからどうぞ活用してください、みたいなことも言っています。

つまり、無責任な原発事故を起こす国は神が不在の国と言っているのではなく、神なき闇に閉じ込められたテクノロジーを神の光に照らして考え直さなくてはいけない、どこの国でもキリスト者はそれを自覚して協力しなければならないと言っているわけです。

ですから、「チェルノブイリ‐フクシマ‐神なき闇」のような悲観的な見方をする必要はないですよ。

http://setukotakeshita.com/

678モトカー:2014/07/31(木) 21:46:46
カトリック反宗教改革とユダヤ思想の関わり
栗本慎一郎先生の『ユダヤがイスラムを生んだ』(光文社カッパブックス)の中で、カトリックの反宗教改革時代に、ユダヤ教の思想がカトリックの教義に流入した可能性があると触れられています。
この点につき、竹下先生のお考えをお聞かせ願いたいと思います。

以下、その第三章からの引用です。
「サンタ・テレサは、十六世紀にルターの宗教改革に対抗して起こったスペインの反宗教改革、つまりカトリックを内側から新しいものに変えていこうとする動きの中心人物であると考えられてきました。そういう人物の父親が、じつはマラーノ、隠れユダヤ教徒であったことが、スペインの歴史家によって一九四〇年代に明らかにされたんです。ということは、カトリックのなかの新しい考え方がユダヤ神秘主義と非常に強く結びついているということになります。」

途中略

「サンタ・テレサの特異性は、女性であるということ、しかもユダヤ人の改宗者というバックグラウンドをもっているということにあります。そういう二重のマージナリティをかいくぐりながら、けっしてユダヤ教に帰ることをせず、キリスト教の枠組みを使って、どうやって神との対話を実現していけるのか。」

さらに...

「アンルブラードスとサンタ・テレサは、当時の反宗教改革的なスペインのカトリックの流れのなかで、非常に特異な位置を占めています。そこには改宗ユダヤという状況が流れ込んでいたからです。しかし、こうした系譜は、のちにはイエズス会やカルメル派というかたちで、スペインのカトリック布教活動のひとつの中心を築いていく流れにも影響を及ぼしてゆきます。実際サンタ・テレサは、カルメル修道会を改革して跣足カルメル会を興した中心人物でもありました。」

とあります。

これが真実であるならば、カトリックは最低3度は変質しているような気がします。

1.キリストの教えから、パウロの教え等のギリシャ哲学の影響
2.アウグスチヌス(=元マニ教徒)による古典的なカトリックの教義の定立
3.反宗教改革による、ユダヤ神秘主義の流入

1については、栗本先生の上に挙げた著作のほか、『イエスの王朝』(ジェイムズ・D・テイバー著、ソフトバンク・クリエイティブ株式会社)というアメリカ人の書いた研究書、その他から、そう考えております。

いかがでしょうか?

679sekko:2014/07/31(木) 23:57:35
モトカーさまへ
まず、私のブログ記事からここへ来てくださった方に。

ブログに書いた当該記事はこの記事より二つ前のグラさんへの返事です。

以下モトカーさまへの返事です。

このような言説はあまり意味がないと思うのでスルーしてください。

陰謀論の一種のように、カトリックの有名聖女が実はユダヤ教の影響を受けていた、みたいな「面白いお話し」になっているのかもしれませんが、キリスト教はもともと旧約聖書を聖典にすることで「ユダヤ教」の影響を受けていますし、というより、もともとユダヤの聖典が成就したという形でキリスト教が成立しています。イスラムはその両者の影響を受けています。


アヴィラのテレサは私の好きな聖女で彼女について本格的な論考を書こうとアヴィラやトレドにも取材して準備していたのですが、クリスティ―ヴァに大作を書かれてしまったので仕切りなおそうと思ってそのままです。

テレサの父親は確かに改宗ユダヤ人の家庭に生まれて洗礼を受けた人で、その後ユダヤ教に戻って、さらに1500年(テレサの生まれる12年前)にカトリックに改宗しなおした人です。で、聖人伝や殉教者物語が好きで、幼い子供たちに読み聞かせていたらしく、テレサは大いに影響を受けてイスラムの地で殉教したがっていました。まだイベリア半島にイスラムの足跡が濃い時代です。

しかしそれよりずっと前、改宗しなかったユダヤ人がコンキスタドールで1492年にスペインから完全に追われた前後に、イベリア半島のユダヤ人コミュニティはルネサンスのカトリック世界に広がり、15世紀のルネサンス全盛期には、ユダヤのカバラに影響を受けたキリスト教カバラが生まれたり、プラトン主義、ヘルメス文書のグノーシス主義、魔術、錬金術などがハイブリッドな文化を形成していました。

まあそのような頽廃ぶりが16世紀の宗教改革の原因の一つになるわけです。

この辺の事情は『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実』(中央公論新社)で少し触れました。

ですから、聖女テレサの神秘主義はもとよりハイブリッドなものではありますが、それを知性でねじ伏せる「知的腕力」みたいなものに私は惹かれます。

来年キリスト教の解説みたいなものを新書で出す予定なので、モトカーさんの質問も念頭に置いて書いていきます。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

680モトカー:2014/08/01(金) 21:05:38
ユダヤ
竹下先生...
ご丁寧にお返事をいただき、誠にありがとうございます。

わたくしは、キリスト教とユダヤ教の関連につきましては個人的に昔から興味があり、
いろいろと研究書を読んだり、欧米人の著作にも触れて参りました。
私は、キリスト教はユダヤ教をその起源としつつも、内容は正反対だと考えます。
それは、ひとことでいうと、
旧約聖書の神は、”正義の神”であるのに対し、新約の神は、”愛の神”という点です。

”正義”と”愛”とは人類の二大行動原理だと思いますが、
この2つはまったくの正反対の考え方・価値観であります。

したがって、キリスト教はユダヤ教をその淵源としながらも、
内容は180度違うものであると言えるのではないでしょうか?

旧約中心にユダヤの思想が、今年の5月のNHK教育番組の「100分de名著」で取り上げられていましたが、
その内容もふまえ、自分の考えを加味して申し上げますと、
旧約時代、ユダヤ人は迫害の中で、”正義”を追い求めました。
そして、ユダヤ人は自分たちが正義に反することをしているから(=堕落)、
神は救ってくれないんだ、と考えるのが主流でした。

しかし、イエスは、そうではないんだと主張したのです。
「神に対するまことの信仰があるならば、すでに救われているんだ」と。

律法のために人があるのではなく、人のために律法があるのです。
というのがまさにそれを示す典型的な言葉です。律法=正義だと思うので。

もちろん、旧約にも”神の愛”は語られていますが、正義の傾向の方が強いです。
そして、”正義”の傾向が強いのには、ユダヤ人が古代エジプトにいたことと関係があるのではないか、
と思っています。

古代エジプトの神である「マアト」の思想です。
人は死後、マアトに心臓をはかりにかけられ、重さを調べられて裁かれるのだという...

一般論的にはユダヤ教の中におけるゾロアスター教思想に言及される場合も多いですが、
古代エジプトの、このマアトの思想と、イクナートンによる一神教を目指した宗教改革とに、
ユダヤ教の思想の核があり、それが長い時間をかけて徐々に形成されていったのがユダヤ教であり...

そのユダヤ教にコペルニクス的転回を加えたのがイエスだったのではないか。

これが私の考えです。

いかがでしょうか?

681sekko:2014/08/02(土) 00:37:23
モトカーさま
ユダヤ教とキリスト教の関係については私も別のところで書いたことがありますし、いろいろな本も出ていますから、ここで掘り下げることはしません。ユダヤの神が怒れる父的で、キリスト教の神が慈しみの母的な神だという言い方はよくされますし、明らかに二つは別だと言い切って異端の烙印を押された人もいました。

まあ、素人目には、この二つを結びつけるのは無理があるよなあとつっこみたくなりがちですが、キリスト教の成立におけるそれなりの神学的必然性があったわけで…。最近では中央公論新社の『ユダ』でユダ像の作り方を通してユダヤ教とキリスト教の関係を書きましたので興味があればお読みください。

でも、旧約を読んでるとつい「ユダヤの神様ってどんだけ怒りっぽいんだよ、
万物創造した後の品質管理が歴史なのかよ」と思いたくなりますが、
私たちの基準で見るとなんだかハチャメチャなユダヤ人の行動や意識にも、よく読むと普遍的真実だと頭を下げたくなる部分があります。

たとえば創世記の終わりのほうのヨセフの話ですが、兄たちに奴隷に売られた後、エジプトで出世して家族を呼び寄せるのですが、父の死後さすがに兄たちがいよいよ報復されるのではないかとあせった時に、ヨセフはこういいます。

「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」

この部分は、ケセン語訳新約聖書で有名な山浦玄嗣さんがお孫さんを対象にして書かれた「ヨセフさんの手紙」ではこうなっています。

「そんなこと、もういいんです。どうかそんなに怖がらないでください。
わたしは兄さんたちの弟なのです。
確かに、あれは辛く苦しい日々でしたけれども、そのお陰で今日があるのです。
神さまのなさることは誰にもはかり知ることなどできません。
でも神さまは悪いことも善いことに変えるお方です。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
何にも心配しないで、これからずっと仲良く暮しましょう。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。
どんなことがあっても、わたしは力の限り兄さんたちをお守りします。
兄さんたちの子供たちもしっかりとお守りします。
ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」

これを読んで私は感動しました。

前半はいわゆる「摂理」思想であり、わかります。
ところが「手紙」ヴァージョンでは聖書にない言葉が補われています。

「ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」

の部分です。

今の世界でいくら強調しても強調しすぎることはない言葉だと思いました。
私は今のパレスティナ内戦を頭においています。

イスラエルはハマスというテロリストに対する自衛だとか、植民者を守るとか、イスラエル兵士が殺されたとか言って猛攻撃をやめません。

ヨセフの言葉を聞いてほしい。ヨセフと兄弟たちがイスラエルの12部族の先祖です。

兄たちに奴隷に売られ、七年も牢獄に入れられるという一方的な不運にあいながら、みんなきょうだいであることには変わらない、生意気で兄たちの反感をかうことになった自分のことも許してほしい、と言います。兄たちの一方的な罪を自分が一方的に許すのではなく、ゆるし「合おう」と言っているのです。

互いにゆるし「合う」ことだけが「子どもの代まで仲良く暮らしていく」ための唯一の方法だということです。どちらがより悪いとか、責任の追及、弾劾、制裁、などからは決して「いつまでも」「みんなで」の平和は生まれません。

ユダヤのラビたちがこの言葉をネタニヤウ首相らに喚起してくれればいいのにと思います。

今のエジプトが和平を呼びかけることも、エジプトでの共生を試みたヨセフのことを思うと感慨深いです。幼子イエスもエジプトに避難しました。長じても暴力にあって殺されました。そして復活することで、救いとは報復や制裁によって得られるものではないことを示したわけです。

聖書のヨセフの物語をよく読めば、ヨセフの最後の言葉に、山浦先生の補足がまるまる込められていることが分かるはずです。

考えたら、ここまでの仕打ちを受けながら仲良くするなんて私たちの生活感覚の基準からいえばほぼ奇跡であり、何がその奇跡を可能にしたのかということをじっくり考えさせてくれる最後の言葉でした。

裁きの論理ではなく「ゆるしあい」による歩み寄りだけが、人が共に生きることを可能にしてくれるのだというのが神のメッセージだとしたら、ユダヤの神からキリスト教が生まれたのも納得できる気がします。変わっていくのは「神と人間との関係性」なのですね。

http://setukotakeshita.com/

682モトカー:2014/08/02(土) 09:15:38
旧約聖書
再度のご丁寧なご返答をたまわり、誠にありがとうございます。

「旧約聖書」ですが、私は、加藤隆氏の著作「旧約聖書の誕生」の説が的を得ているのではないかと思っております。

氏はヨーロッパにも留学し、ヨーロッパ人に混じって議論も行った経験もある、ということですが、
みずからの知識とヨーロッパ人とのディスカッションの中から生れたこの考えが真相に近いのではないかと思います。

氏の言説は、「旧約聖書」とは、アケメネス朝ペルシャ帝国が、ユダヤ人に自治を許す代わりに命じて作らせた、
一種の「自治法典」である、というものです。

古代にしては寛容だった同帝国は各民族に自治を許したが、統治上の要請から(=秩序の維持)、
そして、自分たちで規律させるために、ルールブックを作らせた、という仮定です。

その際、ルールだけでなく、民族の自己紹介も記載させたのだそうです。

そしてユダヤ人たちは、帝国の支配者からの命を受け、様々な不文律や慣行、そして語り継がれてきた民族の伝説などを
急いで文書にとりまとめて提出しただろう、というのだそうです。

この仮定の下では、旧約聖書の中にあるさまざまな矛盾も説明できます。

また、アブラハムやヨセフにまつわる物語は、民族の神話であり、「古事記」的なものだと思います。

なので、アブラハムやヨセフ、モーゼのあたりは、信仰的な要素と民話的な要素とが入り混じっており、
未分化で未完成的な説話的なものではないだろうか?、と思うわけです。

”宗教”としてユダヤ教が発達しはじめたのは、北王朝がアッシリアに滅ぼされ、南王朝にも危機が迫ってきて、
預言者たちが活動し始めてからではないでしょうか?

それ以前は、宗教と呼べるほどのものではなかったと考えます。

モーゼ五書と預言者たちの書では、明らかに、傾向が違うと思うのです。

ただ、ユダヤ人たちは、比較的安定したエジプトの富裕で強大な諸王朝と、
変転きわまりないメソポタミアの諸帝国とのはざまで苦労して生きながらえ、
その中から、”民族の処世術”ともいうべきものを学び取っていたのは間違いなく、
それが、アブラハムの流浪の物語から、ヨセフの人生の物語のあたりに結実している、
ということは言えるようには思えます。

いかがでしょうか?

683sekko:2014/08/02(土) 16:37:34
モトカーさま
ありがとうございます。

ここは諸説に関する私の感想を書く場所ではないのでこれで打ち切らせてください。

もっと適切な掲示板が他にあると思います。

あるいは、すでになさっているかもしれませんが、モトカーさんが諸説をまとめたりご意見を発表なさったりするサイトやブログを作られたほうが、有益なコメントも得られるのではないでしょうか。

個人的には、「真相は…ではないか」系言説は、陰謀論も含めて、テーマによっては読むのはいいですが、参入したくはないのでよろしくお願いします。

http://setukotakeshita.com/

684kei:2014/08/31(日) 03:46:12
弱い父ヨセフ
父ヨセフと初めて出会ったといえるのは、ジョルジュ・ラトゥールの「大工ヨセフ」を見たときのことでした。
幼いイエスの蝋燭の灯火で大工仕事に励む父。しかしその目はイエスに向けられず、悲しみをさえ湛えている。
息子の厳しい運命を知りながらも、黙々と自分の出来ることで支えるしかない父。
何か普遍的な父の姿を見た思いでした。

現代日本において、父と家族の姿は悲惨なものです。
子供を養うには特に教育費に大金がかかります。さらに教育環境を整えるためにもまた金がかかります。
父は競争に勝たざるを得ず、また息子にこの厳しい世の中で生きるための(競争を生き抜くための)修行を早期に課せざるを得なくなります。
そしてそこから多くの罪が生まれます。

社会を見渡しましても、族長たる父は、旧約の族長の如く、自分の民を守るために、他の国と張り合っていかねばならない。自国の利益、論理を主張しあい、いっこうに和解が訪れません。

2000年も前に父ヨセフの姿が記されたことは驚くべきことのように思えます。
ケイシャ・キャッスル=ヒューズ主演映画「マリア」も、どちらかというとヨセフの苦労が印象的な映画でしたが、やはりアメリカらしく家長としての父の姿でした。それよりも「Mary of Nazareth」のヨセフのほうが好ましく思えます。
崩壊しつつある悲劇的な家族の姿は毎日のようにTVのドラマネタとなっています。しかし最後を感動的に終わらせようとも、それは感情的に肯定された姿でしかありません。
世界一有名な不思議な聖家族の姿、父ヨセフの姿をもっと描いてほしいものだと思うものです。

現実は、子殺しをしようとするようなノアが描かれているようですが。

685グラ(愛犬の名称):2014/08/07(木) 21:52:37
安全と安心
エコロジーとキリスト教という枠組みについては、新たな可能性を感じます。

福島原発事故を含む、「災後」の混乱は、多岐にわたってしまいました。生活の基本にある、食べることでも食品表示偽装があり、教育の分野でも陰惨な事件が佐世保で起きてしまい、理化学研究所という大組織も30歳の女性の自爆テロの状態です(小保方さんには頑張ってもらいたいですが、笹井氏の自殺によってスキャンダルになってしまいました)。

「災後」の混乱の要因は、安全と安心の枠組みの喪失にあります。そもそも、福島原発事故を防ぐことが出来なかったのは、科学的な知見による実証がなかったことでした。原子力の平和利用というイデオロギーを支えたのは「安全神話」でしたが、しかし実はこれは「安心」神話でしかありませんでした。安全と安心の混同がありました。

エコロジ−は、科学的な知見に基づく、安全でなくてはなりません。
竹下先生に教えていただいた、「神なき闇に閉じ込められたテクノロジーを神の光に照らして考え直さなくてはいけない」は、安心の基準になります。安心の形は多様です。

下記の文書は、2012年4月から、食品衛生法において、一般食品の基準値が、従来の暫定基準値500ベクレル/?から100ベクレル/?に引き下げられた時、この安全と安心の基準を明確に区別して、私が報道機関向けに準備したものです。安全と安心をどう区分けしたか参考にしてください。NHKをはじめテレビ各局の取材に対応する基本的な考え方が明示されております。

「弊社としましては、お客様の水産物に対する安全性、特に放射能汚染の関心の高さとデータの信頼性の確保の観点から、基準値以下であることを挙証できる水産物を取り扱うことを基本原則としまして、取り組ませていただきました。
従いまして、放射性セシウムが基準値以下であることを挙証できるシステムの構築を通して、お客さまに安全な水産物を提供させていただくことで、生産地と消費者を繋がせていただこうと努力してまいりました。
この間、大学の教授および食品分析の専門機関、放射能測定機の製造メーカーの方々と、水産物の安全を挙証できる仕組み作りの話し合いを重ねてまいりました。
この結果、水産物の安全性を、お客さまが納得される安心に結び付けるシステムを構築することで、生産地と消費者を繋がせていただくことといたしました。
大学をはじめとする関係機関と、新たに準備いたします、お客さまが納得される安心システムにつきましては、お客さまの信頼を確保するとともに、生産地の復興の一助を図る目的を持っております。この安心システムは、製品認証スキームに準拠しております。」

固有名詞を普通名詞に変更しており、また差し障りがある表現は一部修正しておりますが、安全と安心の基準と運用を理解していただけると思います。

686sekko:2014/08/11(月) 07:29:53
グラさまへ
なるほど、安全性をみなが納得できる安心に結びつけるシステムに構築する、というのはよい表現ですね。

「安全なき安心」は神話になりかねないわけで、安心はいわゆる「備えあれば憂いなし」というベースに立つべきですね。逆にいくら安全を確保しても、それを安心に結びつけなければ「不安」が安全を脅かすことになるかもしれません。

いろいろ応用して考えられそうです。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

687sekko:2014/08/11(月) 07:37:08
keiさまへ
私もラトゥールのヨセフは好きです。ヨセフには何となく夜なべ仕事が似合うなあと思います。でも確かに映像化は難しいですね。

私が最近家族について書いた記事の一部を引用します。

>>>他のすべての人間の営みと同じように、家族は固定された状態ではない。「家族愛」という言葉はしばしば家族のメンバーをそれぞれ決まった役割に縛り付ける圧力として使われることもある。また共通の敵に対して無条件で結束するようなナショナリズムのひな型のエネルギー源として使われることもある。理性や意思を封印するために「愛」が情動で包み込まれることもあるのだ。聖家族の「両親」は単純な生物的家族愛でごまかせることができない複雑な関係を乗り切った。彼らが自分たちのエゴの外から来る声にいつも耳を傾けたからだ。


やはり個々の人間だけで運営していくには限界があり、視界を広げる必要がありそうです。

http://setukotakeshita.com/

688kei:2014/08/11(月) 10:59:11
スポーツとキリスト教
最近ふとしたことから下記記事を目にしました
(小生サッカードイツ代表ファンです)

教会とスポーツ、ちょっと意外な関係
http://toyokeizai.net/articles/-/44522

スポーツには教育的役割があるが、ドイツでは「公正」「寛容」など、より普遍的な価値観をつかってスポーツを意義付けている。そのため、われわれにはピンとこないが、キリスト教がかかわってくるような一面もある。日本の「体育会系」と比較しながら、ドイツのスポーツを見てみよう。

これは「キリスト教の真実」の具体的事例といえそうです

シリーズ
「ドイツのスポーツはなぜいじめ・体罰がないか」
http://toyokeizai.net/category/deutschland_sport

689sekko:2014/08/12(火) 00:38:42
kei さま
なるほど、キリスト教が「価値OS」になっているという比喩はおもしろいですね。

ドイツ人というかゲルマン人の感じってスポーツをやらせたら強そうです。

第二次大戦中フランスがドイツに占領されていた時、ナチスの若い軍人たちがみなスポーツマンで、身体能力に優れていたのでフランス人女性がまいってしまったという話を聞いたことがあります。そのせいで後からコラボと言われてリンチされたりしましたが、占領軍におもねったというより本気で惹かれたのかもしれないと思ったことでした。

でも、当時のドイツ本国では、女性は教会、子供、キッチンの3Kに閉じ込められていたのだから、(キリスト教?)価値とスポーツは男性に限られていたのかと疑いたくなります…

まあ、フランスでも体育会系のいじめとかはあまり聞きません。

ドイツと同じく年齢序列がなく、学校自体も飛び級も落第があるために年齢差ができるので、クラス内で身体能力を競うのは無理だし。

やはりスポーツは学校外の公立や私立のスポーツ施設に外注です。日本は学校自体が同調圧力の強い閉鎖社会なので、そこでのクラブ活動も、いい方にも悪い方にも展開しそうです。

キリスト教とスポーツというとやはりパウロの言葉を思い出します。

「コリントの信徒への手紙一/ 09章 24−26

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。

競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。

だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」

ヨハネ=パウロ二世が山登りやスキー、水泳を熱心にやっていたことも思い出します。

カトリックのスポーツの守護聖人はドン・ボスコで、19世紀に貧しい子供たちの教育にスポーツを奨励して遵法精神とか連帯を学ばせました。

でも、私が、キリスト教の価値OSがスポーツに反映されているなと思う分野がひとつあって、非キリスト教文化圏出身の者として羨ましいような悔しいような気がします。

それは障害者スポーツです。

耳の不自由な人のスポーツ大会は1924年のパリではじめてThe Silent Gamesとして開催され、ヨーロッパ9ヶ国から145人の参加者があったそうです。4年ごとに開かれているそうで、耳の不自由な人はコミュニケーションのハンディが大きいので他の障害のあるアスリートと別枠になっていたそうです。

後、1988年からオリンピックのすぐ後で開かれるようになったパラリンピックの方は、第二次大戦の傷痍軍人のリハビリとして主に英米で始まった障害者スポーツが起源のようです。

「健常者」と同じ条件では戦えないアスリートのために試合を開催するという発想、これこそは、絶対に「体育会系」のいじめやしごきとは別の土壌から生まれたような気がします。

フランシスコ教皇が9月にローマでインター宗教サッカーを開催するという話はブログに書きました。

スポーツがナショナリズムや商業主義や弱者差別から守られて、本当の意味で「節制」して「賞を得る」ように人々の元気を引き出し力を養ってくれるといいなと思います。

http://setukotakeshita.com/

690kei:2014/08/12(火) 10:25:39
サッカー・性・宗教
スポーツ全体は知りませんが、ドイツでは、かのオリバー・カーンが21世紀になっても
「サッカーは男のスポーツだ」と豪語しておりました。

女子サッカーはノルウェーから始まり、ドイツもワールドカップ優勝2回の強豪国中の強豪国ですが、ドイツ女子ワールドカップでようやく認知されたような状況です。
サッカーはコンタクトスポーツのため、女性保護の観点から向いていないというのはドイツサッカー協会の面々が言っておりました。

最近になって女子サッカーと宗教の問題がメディアを賑わせました。
イラン女子のユニフォームのヒジャブが原因でワールドカップ予選を失格になったのです。
FIFAとしては、ヒジャブが相手との接触で首を絞めかねないという保護上の問題で、アジアAFCの努力で、ヒジャブがすぐとれるようにしてOKとなりました。
しかし、フランスの女性団体が、ユニバーサリズムに反し、サッカーに宗教的象徴を持ち込むものだとして反対しました。
ヨーロッパのUEFAは、ユニバーサリズムの観点からヒジャブ着用を認めておらず、フランスでムスリム女性の出場が取り消しになるという事件もありました。
ヒジャブはアジアでも厳格なイラン以外は着用は個人に任せられて、アジアカップに出たヨルダンはするものもしないものも居ました。
イランは、女性はサッカー場へ入るのも男性とサッカーを集団でTVで観るのも禁止。理由は男性はサッカーを観戦すると野蛮になり女性保護だということです。

性の問題も女子サッカーは提起しました。
ロンドン五輪の前にアメリカ代表のラピノーが同性愛をカミングアウトし、その後スポーツ選手の同性愛カミングアウトが続きました。
女子サッカーで同性愛が多いのは公然の秘密ですが、先進国スウェーデンでも中傷が隠然とあるようです。

ジャンヌ・ダルクでもお書きになっていますが、女性の男性化は罪の一部となっており、まだまだ諍いがあるようです。
マリア・マグダレーナの本を書いていただきたいのは、こうした「罪の女」の始めに、マリア・マグダレーナと新約の「罪の女たち」が居ると思うからです。
マリア・マグダレーナは娼婦の守護聖人となっています。
罪の中を生きる女たちにとってマリア・マグダレーナに象徴される罪の女たちが許されたことはどんなに生きる糧となったかと思います。
イブから始まる罪の女の系譜をぜひ書いていただきたいのです。

その中に同性愛をめぐる問題のヒントもあるような気がします。

PS.漫画ですが「修道士ファルコ」はご存知ですか?
著名な女性漫画家の青池保子さんが書いていますが、フランス修道院まで取材に行ったり本格的なものです。
貴女の著書とも整合性がとれていて、中世ドイツ風俗、教会の地位などとても楽しめます
http://www.aoikeyasuko.com/works/falco/

691愚者:2014/08/16(土) 16:06:37
地上の平和
sekko様
「私達は特定秘密保護法に賛成です。」と主張するカトリックのグループのサイトを見ました。正義と平和協議会や関係司教への非難と数人の記名がありました。彼等は憲法「改正」にも賛成だと推測できます。
カトリック教会には「政治を教会に持ち込んではならない」という不文律があるようです。政治の話をしたかったら教会の外でどうぞ、憲法9条の話は駄目、といった科白を私も耳にしました。つまり政府と同じ考えは「政治的」ではないが、それ以外はダメと言っているのです。以前教会関係の印刷物に「社会経験のない司祭には複雑な世の中の政治的な問題は理解できない。従って憲法や外交などに口を出すべきではない。」という意見が、投書だったか座談会だったか忘れましたが、記載されていました。
「現代世界憲章」、「地上の平和」の平和主義の教えに、つまり聖霊に司教は従っているのです。正平協や護憲活動を拒む人も「地上の平和」を読むべきです。生命、人権、尊厳、自然環境を守る必要条件である平和を外交や経済の次元で考えるのが誤りです。
長々と失礼しました。

692愚者:2014/08/16(土) 17:19:23
続き
sekko様
質問を書く前に字数が足りなくなってしまいました。
平和や護憲のことになると、高等教育を受けた人、柔軟な頭の人、勉強熱心な人、良識豊かな人、イデオロギーに無縁な人が、紋切り型の左右(政府-反政府)路線論争みたいな頑なさで固まってしまうのは何故なのか、ほんとうに不可解です。一種の倒錯ではないかとすら感じます。カトリック信者は一般人が懸念したり議論している問題に関わるべきではないという信念でもあるのでしょうか。
JP2世の、2度と戦争をしてはいけない、という言葉は誰でも知っていて共感するはずですが。保守政党の政策とカトリック信仰を同一するかのような無意識の混乱があるんでしょうか。
平和を実現する人々は幸いである、というときの平和は憲法の平和主義とは全く関係無いということなのでしょうか。

693森下克介:2014/08/16(土) 17:20:08
政教分離の件
前略;
「キリスト教の真実」を読んでいます。途中です。
152頁の、世俗の王たちの徳義を監視するのもまた、「天」ではなく、聖職者や教会権威でしかない。世俗の主権者には、聖職者のコントロールなしの権威を行使するための自由を必要とした。
結局、西洋近代はそのような「神」を世俗の主権者から切り離すことによって、世俗の自由と自立を獲得した。
と有りますが、「神」としては、「聖書」にある、「預言者」が伝える「神からの言葉」がすべてで、現実にはその仲介をする「聖職者」は神と同等でないとすると、一般の信者の皆さんは「本当に信ずべきものとしての「神の代理」の言葉を正しく聞けなくなるのではないでしょう
か?
ここでは、「「そのような神」とは、聖職者の言葉が正しくない」という意味であれば、信者も同じ、聖職者や教会権威を信ずるに値しないという事になる。と云うジレンマが生ずるのではないかと思いますが。いかがでしょうか?
文面がうまくできませんが、先生のご意見をお聞き出来たら大変うれしく思います。
よろしくお取り計らいください。
26−8−16
421−0216
焼津市相川408
森下克介
tel/fax??054-662-0057
Email??morikatsu@palette.plala.or.jp

694sekko:2014/08/16(土) 23:29:46
愚者さまへ
ええと、いろいろなテーマが複合しているので、簡単には答えられませんが、この掲示板の7/31付の私の答えをお読みになっていると仮定してその先を続けてみます。

今の時代は、エコロジーの角度から平和の問題、社会悪や不平等にまで切り込む路線が貴重で有効だと思います。

解放の神学もそうでしたが、カトリック的な社会活動が左派イデオロギーと重なる部分があって共闘したり利用されたりすることもあったわけですが、基本的にはキリスト教には右派も左派もなくて、福音的活動の実践が問われていると思います。

「現代世界憲章」などは普遍宗教と人間の関係の中で到達点の一つとしてまさに画期的なものだと思います。これをじっくり読めば、「聖霊に従う」ということの意味が分かると思うのです。

ただ、「ミッションスクール=お嬢様文化=勝ち組グループ」みたいなものと結びついた小教区みたいなところでは、勝ち組の立ち位置を揺るがせるような反体制的言辞が「政教分離」の名のもとに嫌われて排除されるというのはフランスでもいくらでもあります。

司祭が家族を持たないとか社会経験がないから云々というのはもちろん言いがかりで、そういう人が本気で考えてくれれば、自分状況に縛られずにはいられない人々と違って、クリアで建設的な提言が生まれるかと思います。

少なくとも近代以降に教皇の地位にまで上り詰めたような人々の回勅や説教は、私心なくして考え抜かれた貴重なものだという印象を持っています。

「時の政権」というのは国や時代によっていろいろあるわけですから、そのあり方が福音に反しているものであればキリスト者が従うことができないのは当然だと思います。

でもこれも難しい問題ですね。

たとえばクウェーカーとか絶対平和主義の宗派が、たとえ犠牲を伴ってでも、絶対兵役拒否をすべての信者に強制できるほどの力を発揮するのを見る時、確かに、同じ宗教的力で若者たちを聖戦の名で自爆テロに向かわせる宗派だってあるのだから、複雑な気分です。

どうせなら全員を「絶対兵役拒否」「完全非暴力主義」で「洗脳」すればこの世に戦争はなくなるだろうに…と思ったり、でも兵器産業があれば無人戦争が続くのか、とか、どんなに「洗脳」して戦争をなくしても、違法暴力行為に向かう人やそのために組織される団体などはなくならないだろうから、結局それを取り締まるために合法的暴力装置としての警察は必要だし、とか…。

聖職者が神と同等でないとして世俗の権力者がその力を排してきたという話はあくまでもヨーロッパの歴史の流れで、そこに至るまでには、政教癒着や権威主義の実態がいろいろあったわけです。

すごいと思うのは、カトリック教会が、その中で消滅することもなく、分派することもなく、その葛藤の反省をしながら自己批判も臆せず、福音の道へ絶えず戻ってきたということです。

これについて、9/10発売の『カトリック生活』10月号に「ジャンヌ・ダルクと神学」というテーマで書いたところなので、発売前ですが、関連箇所を少し引用すると、

『コンスタンツの公会議では、公会議によって代表される「戦う教会」はキリストから直接授けられた至高の権力を持ち、その権力は教皇を含むすべての人間の服従義務を前提とすると宣言された。
それは大分裂を解消するために必要なものだったが、単に教皇支持派と公会議主義者の争いという構図ではない。世界を「聖職者」と「非聖職者」に二分して、後者を前者に無条件で絶対服従する下層民となす差別的世界観が提示されたのだ。世俗の者にとっての「徳」とは「服従」であり、「服従」が「信仰」と同義だった。「教会学」が「教会全体主義」というイデオロギーと化したわけである。(・・・・)』

それが今は、

『教会の力とは「服従させる力」ではなく「福音の力」であり、聖性にいざなわれた神の民である地上の教会とは、謙虚な奉仕と愛を実践するものだとされるようになった。その帰結が二〇世紀後半の第二ヴァティカン公会議だ。教会への服従こそが「徳」であり「信仰」であるというイデオロギーの時代を越えて、信教の自由が謳われたのだ。ジャンヌ・ダルク裁判は、もっとも貴重で聖なる一人一人の人格(ペルソナ)を根本的に無化する試みだった。だからこそジャンヌの復権と列聖は、カトリック教会が天に向かって確かに歩を進めていく象徴になる。人は自由意志によって神の呼ぶ声に答えるのだ。』

となったわけです。

ひとりひとりが「神の代理」となるくらいの気持ちで心と耳を傾ける必要があるのかもしれません。

http://setukotakeshita.com/

695sekko:2014/08/16(土) 23:34:16
すみません
さっきのお答えで、愚者様へのお答えと森下さんへのお答えをまとめてしまいました。続いて読んだのと、ある意味で共通した問いだと思ったので。

森下さまも、愚者さんからの質問も合わせて読んでいただけると幸いです。

http://setukotakeshita.com/

696sekko:2014/08/17(日) 00:13:24
Keiさま
Keiさま

ドイツはトルコからの移民家族が娘を公立学校で体育に参加させないとかスカーフをかぶらせることにもフランスと違って寛大なので政教分離がうるさいトルコ本国よりもいいねというトルコ人もいると、ドイツのドキュメンタリーで見たことがあります。

すぐれた女子スポーツ選手に同性愛者がいるというのは、優れた男性ダンサーに同性愛者が少なくないことと同じく、驚きません。

筋力だけでなく競争力や努力のパフォーマンスに男性ホルモンが関係しているのは事実ですし。

だからこそ競技では男女が分けられているのですが、グレーゾーンというのはどこにでもあるわけです。
女性ホルモンの多い男性選手がスポーツで有利になるとは思えないので、グレーゾーンはもっぱら女性として活躍する女性の同性愛者で目立つのでしょう。

勝ち負けが商業効果にも関係するプロスポーツだといろいろ問題でしょうが、勝ち負けとは関係のないアートの世界ではグレーゾーンも問題が少ないなあと周囲を見ていても思います。

娼婦が罪の女とか、男装して戦争に行くのが罪とかいうのは、罪と言っても「社会的罪」の側面が大きいかと思います。

その点イヴの罪は、何一つ不自由しない環境(何しろ「楽園」ですから)にいながら、「神の言葉に背く悪」の誘惑に乗ってしまったという意味の罪なので、ちょっと違うかなあと思います。

同性愛の人たちは「性的な誘惑」には異性愛の人同様に負けてしまうことがあるかもしれませんが、「同性愛であること」の誘惑に負けるわけではありません。

最初からグレーゾーンに生まれる人というのは必ずいますから。

ただ世間がそれをどう見るかということの推移はまた別問題です。

キリスト教の原罪説は、人間に罪悪感を植え付けてよくない、などと言われたこともありますが、逆にプロテクトしてくれているという説もあります。

悪いのは人間でなく誘惑したサタンだと責任転嫁できるということで。

人間が自助努力しなくちゃいけないのは、誘惑に耳を傾けない、耐えるという部分で、その反面教師としてアダムとイヴがいるという人もいます。

完全に罪のない人間はいない、つまり完全な善人はいないということによって二元論を避ける意味でも、原罪は役だったかもしれません。

つまり、すべての人は悪の誘惑にさらされているという点で平等で、その証拠に中世のカテドラルの「地獄図」みたいなものには必ず、普通の人と友に枢機卿の姿の人なんかも炎に焼かれていたりします。

日本のイメージでは「家」の中に邪鬼を入れない、疫病神を入れない、みたいな「家内安全」努力があって、その代わり家族の誰かが罪を犯したら「家」全体が「罪」の連座になったりします。

それに対して、キリスト教的なイメージでは、各自が自分の中に悪魔に入られないように、つけ込まれないように、という感じでしょうか。

うちの猫を見てると、罪のない状態というのはこういうのだなあ、とは理解できるのですが…(智慧の実なんか食べなくてもいいからね。)

「修道士ファルコ」は前にもどなたかから名前は聞いたことがありますが読んだことはありません。おもしろそうですね。私もいつか修道院物のホラーとか書きたいなあと思ってるのですが・・

http://setukotakeshita.com/

697ふうこ:2014/08/20(水) 13:46:54
許しあうこと
「ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」

この箇所に感銘をうけました。sekkoさまは、パレスチナ内戦を念頭に話されていますが、「許しあう」ことなくしては本当の平和はもたらされない、というのはあらゆる人と人との関係性においても言えることですね。
とても身近なことですが、お父さんと長く絶縁関係にあった友人がお兄さんが不治の病で闘病をすることがきっかけでお父さんと会う決心をしました。そのお父さんは、相当な暴君で、愛人を家に連れて来たり、いわゆる「飲む、打つ、買うは、日常茶飯事」暴力的で子供の言い分は全て無視で言いなりでなければならない、というお母さんにとっても友人きょうだいにとっても耐え難い存在だったそうです。お父さんと別れて、やっと平和な生活を送っていた矢先のお兄さんの発病。高額の治療費の支援の要請が表向きですが(お父さんも後悔しているらしい、との話もあり)、友人は「兄は父への恨みで病気を呼び寄せているように思えてならない。父との和解なしには、回復を望めないのでは」と言います。でもお父さんといざ対峙したとき自分がどうなってしまうか不安で、ある神父さまに「許しは癒しにつながりますか」と尋ねたところ、神父さまは「許しは、癒しです」と何度も繰り返され、友人に按手しました。その瞬間は、感動的でした。もしお父さんと和解できたら、それは奇跡だと思います。「許し、許されること」「愛し、愛されること」は、キリストが命を賭して投げかけたメッセージですね。「隣人を愛せよ」という言葉にとどまらず(これは一方的になる可能性があると思います)、ヨハネの「互いに愛し合いなさい」という言葉の意味を思いめぐらしています。

698kei:2014/08/20(水) 15:18:18
修道士ファルコ「辱めの儀式」
原罪という考えかたは、日本人が一番拒否感を感じるところかと思います。
自分もまあ、そんなことを考えなかった頃は常にパーフェクトを目指してずいぶんストレスを貯めていたものでした。
今「ユダ」を読んでいますが、その中で日本的「良心」のことが書かれています。
良心というのは個人的なもので、罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかありません。
日本人は重大なときには耐えかねて自殺まで追い込まれてしまいます。
フーコーの言う「パノプティコン」が当てはまるのかもしれません。
自分もかなりまいったものです。
しかし人は皆罪を犯すようになっており、主によって赦されうるという考えかたはずいぶんと救いになったものです。

さて「修道士ファルコ」の印象的なページをアップロードしておきました。
貴女の著作で、守護聖人がその義務を果たさないときには罰せられると読んでおりましたが、具体的にこのような儀式があるとは興味深く思いました。
この場面は聖女が娼婦に降臨するところで、中世キリスト教の特徴が出ているものと思われます。

いつか著者の青池保子さんとのコラボでキリスト教や中世思想の解説本ができたらと夢みています。

http://fast-uploader.com/file/6964069546497/
http://fast-uploader.com/file/6964069605371/
http://fast-uploader.com/file/6964069660215/

699sekko:2014/08/21(木) 03:08:21
ふうこさま、keiさま
keiさまが

「良心というのは個人的なもので、罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかありません。」

とおっしゃることと、ふうこさまがおっしゃるゆるしの問題は関係があると思います。

「罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかない」わけではなく、ゆるされることで、いい方に向けて解消される気がするのです。

私がユダのコメント

http://setukotakeshita.com/page1.html

で書いたことがそれです(このコメントのエラーをまだ直していません。JP2による平和の定義は3・11の翌日でなく翌年です。回勅のはじめです)。

7/21の読売新聞のインタビューでも、

ユダという存在はキリスト教の『ゆるしのシステム』を思い出させると言いました。

>>人が悪事をなした時に抱くやましい気持ちは、それを隠し通しても解消されない。逆に「ゆるしてもらいたい」と願って告白し、ゆるしを得ることで初めて解消される。キリスト教はそのメカニズムを理解し、「告解」というシステムを作り上げた。現代はキリスト教社会も世俗化して「ゆるしのシステム」も失われつつあるが、竹下さんは「ユダが語られ続けることで、人間には『ゆるし』が必要だということが思い出されるのではないか」と言う。

その意味でユダへのこだわりは、「悪や背信といった暗い部分に倒錯的にひかれるだけではなく、人間同士が『ゆるす』ことで共に生きる可能性につながります」<<

という感じです。

もともとすぐ罪悪感を抱いてしまうようなタイプの人は別ですが、私のような人間は、あれやこれやのプチ罪悪感のおかげでエゴイズムや独善から辛うじて逃れている感じです。

「ゆるしてもらう」っていうのは精神衛生にとてもいいので、そのためには、より難しい方の「ゆるす」努力もしなくては、と思うのですが…。

「辱めの儀式」云々はやはりかなりフォークロリックですよね。

こういう、神仏への祈願とその効験いかんによる対応の仕方は時代や国や文化によっていろいろですね。

「祈願した側の責任だ、いまいち信心が足りなかった」などと言われると私などはすぐ納得しますが、神仏に対して「神も仏もあるものか」とならずに、「約束が違う、謝罪会見で土下座せよ」みたいなことで「次に期待する」飴と鞭みたいなやり方もあるのかも。

いずれにしても、人間の、

「目の前の不幸を何とかしてくれ」、

「目の前の脅威を取り払ってくれ」、

という神仏祈願の欲求は多分なくならないと思うので、それをどうやって信仰の文脈に組み入れていくか、危機管理していくかというのもまた人間の宗教の知恵なのだと思います。特に中世では。そのことについてブログでまた書くつもりです。

http://setukotakeshita.com/

700愚者:2014/09/08(月) 01:32:20
公会議
sekko様
回答ありがとうございます。面白い講義を受けた気分です。
以前、JP2世がコンスタンツ公会議の公会議至上主義を教皇至上主義に変えたとどこかに書いていらっしゃったのを読んだ覚えがあります。
知りませんでしたが、B16世の主な功績は教会の環境倫理の確立だったのですね。戦争は巨大な環境破壊だから、必然的に教会は反戦ですね。今日、資源に加えて金融、法制度、学術、文化などが覇権を争う主な戦場である現実に鑑みればもっともなことです。
カトリックはカルトだとか、洗脳されて非科学的なことを信じてるなどという理解も少なくありませんが、自由意志を尊重して強制を避けるのが本来の教えではないでしょうか?
警察のあり方として、日本は確保して検挙するのが目的であり、傷を負わせたり殺したりしてはいけないという強力な原則が実践されているるらしいです。いくつもの冤罪事件で明らかになった違法な捜査、証拠捏造、暴力的な取り調べとは不釣り合いな慎重さです。
教会がしぶとく生き延びていることに関して、押田神父という人(故人、ドミニコ会)が、教会は神様が設立して今も運営してるんだからこの世が続く限り消え去ることが出来ない、と言っていました。
質問を書ききれないので後ほど投稿します。

701愚者:2014/09/08(月) 19:46:02
現代史のバチカン
sekko様
「カトリック生活」は「カトリック・サプリ」を目当てによく購入します。10月号も楽しみです。引用部分からは公会議の変遷の意味と壮大な激しいドラマが読み取れて面白いです。ジャンヌ・ダルクが500年後に復権し列聖される隠された道筋といい、頑なな瀕死の老人のような?教会が叡智に満ちた預言者に生まれ変わった公会議といい、神業ですね。
ところで、第二次大戦でバチカンはナチスを容認しつながっていたとの理解が、一部では現代史の常識的な知見として受け入れられているようです。
これの反証になる文献ー検証に耐える記録はないのでしょうか?
日本では長年カトリックを看板にしているミッションスクール出身の作家が他の御用識者以上に原発と事故、沖縄戦についてトンデモ発言を重ねています。ナチスの手口発言の閣僚もカトリック信仰を公にしています。また、先週入閣したカトリックの女性閣僚は極端な国粋主義グループのメンバーで、政権と関わりの深い某カルト教団に寄付をしたと言われています。彼等は積極的に某神社に参拝するようです。そして、自信満々で究極の上から目線です。こうした様子がカトリック教会は極右でナチスと同類といった見方を助長する一面があるのではないでしょうか。平和、生命、尊厳を政治の次元に引きずり降ろして、右左のラベルを貼るからおかしなことになるのではないでしょうか。
前述の人々の思想信条も言動も自由ですが、カトリック教会=極右=ナチスの同類、は誤りですから放置してはいけないと思います。護教ではなく、事実の検証が必要だと思います。でも、どこに確かな証拠があるのか知識がありません。反論するささやかな機会に遭遇したら反論するためにそれを知りたいと思います。
ヒントを与えて下さるようよろしくお願いいたします。そういう著作を出版していただければもっといいと思いますけど。

702sekko:2014/09/08(月) 23:51:09
愚者さま
「カトリック教会=極右=ナチスの同類」なんて思われてるんですか。

そうかと思うとユダヤとカトリックの共同の陰謀論もあるし、まあ、何でも組み合されますが、イデオロギーに使われたり、現職の議員や閣僚の言動をチェックされると困りますよね。

ちょうど昨日、キューバのフリーメイスンについて書いていて、そうか、チェ・ゲバラもフランシスコ教皇もアルゼンチン人なんだよなあ、と感慨深く思ってたところです。

日本におけるカトリックのイメージについて、最近岡田大司教の本で、青年の時にプロテスタント教会で洗礼を受けて、「カトリックは宗教改革で否定された反動的な中世の遺物だと思っていた」ら、自由意志と神の恩恵についてのカトリック神学の精緻な教理に出会って「二千年の教会の歴史の遺産と知恵を見い出」して、実存的な飢えと知的探求心の両方を満たされ手「改宗」したとあったのを読んで、なるほどと思いました。

私も、カトリックが、歴史の荒波の中でいろいろな難破もしながらとにもかくにも大船を建て直し維持してきた智慧の結集にはいつも感心させられます。

フランスでは何世紀もカトリックしかないような村はまだいくらでもありますから、そんなところでは、政治的にも思想的にも性格的にもあらゆるタイプの人がいるわけで、「カトリックだから何々」とは別に言われないのは、「日本で家の墓が何々宗のお寺にあるからあの人は…」と言われないのと同じです。

でもそんなフランスでわざわざカトリックから仏教に「改宗」するような人はやはり、仏教徒だから菜食だとか殺生しないとかいう目で見られます。日本で「カトリック」をあえて選ぶ人もそういう意味で、上から目線どころかひたすら謙虚に弱者に仕えるところを見せてほしいですね。今の教皇が言っているのもそういうことですが。

ヒトラーとバチカンの関係についてはいくらでも資料はありますよ。ヒトラーのライヒ・キリスト教は何しろイエスはアーリア人だとか言っているのだし、基本的にお話になりません。でも国際政治のパワーゲームはまたそれとは別ですし、個別にはいろいろなケースが出ました。

今日本語ですぐに何かないかと少し検索したら、wikiに「ドイツのカトリック」というのがありました。多少役に立つかも。

しかし最も大切なのは、そのような時代を経た後彼らがどうそれを乗り越えたかということで、その意味で第二ヴァティカン公会議もそうですが、ポーランド人教皇やドイツ人教皇さらにアルゼンチン人教皇を輩出したことには感心します。

前も書きましたが、世界的に見ると「人材」には事欠かない大きな組織なので、今時、その中から選出されるような人は、ありとあらゆることを考え尽くす知的誠実さに信頼のおける人だなあと思います。聖霊の風に吹かれているとはいえ何でもきっちり文章化してくれるのも分かりやすくて魅力です。

そして、誠実に突きつめれば突きつめるほど単純化する本質的なものもあって、仏教も含めて「普遍宗教」の霊性というのは本当はそういうものなんだなあと思います。

あまり「評判」や「誤解」を気にせず、自分より相対的に弱い人の役にたてることを少しずつやっていくのが一番確かかもしれません。

http://setukotakeshita.com/

703kei:2014/09/10(水) 22:11:20
ユダ
ヒストリーチャンネルでしたか、ビン・ラディンの殺害に重ねて、リーダーを捕まえるには必ず手引きをする者が必要だ、と言っていましたが、アメリカのTVが言うと妙に納得します。

最後の晩餐の動揺からしても、マークされていたのはユダだけではなかったと思われます。
著書のように、イエスは確かにユダを許していたし、ユダの状況を理解してその苦しみを和らげようとしていたようにも思えます。

しかしその後、ユダヤ人と共に、人類最大の悪人とされてしまったのはこれこそ人間の罪の深さというべきでしょうか?

最近でも、キエフ派のウクライナ正教会総主教が、プーチン大統領を「カイン」に例えたとのことです。
シリア内戦(もうアラブ宗教戦争と言うべきでしょうが)では、サウジのイスラムの指導者が、アラウィー派のアサド大統領と戦うことを聖戦扱いにして、アサド大統領は、外国戦闘員を背教者と呼んでいました。こんな取り返しのつかないことをすると泥沼は深まるばかりです。

自らの立場を正当化するために、相手を絶対悪とレッテルを貼るのは今後も続くことでしょう。(世俗的には「民主主義の敵」なる言葉も流行しているようです)

罪深い人間の歴史の中で、ユダも少しずつ人間的な光を当てられているようですが、それはポジティブなことなのでしょうか。
今、教皇は困難な中でも寛容と和解を訴えているようですが、その基本的な立場を貫いてほしいものです。
(ISISに対しては正当防衛の歴史からの理解をしています)

今ユダはどこに居るのでしょうか?

704sekko:2014/09/11(木) 02:09:15
keiさまへ
教皇と正当防衛については前に少し書きました。

http://spinou.exblog.jp/22507342/

ユダについては、そうですね、ユダの罪が少しずつ「人間だもの」みたいな許され方をする傾向は、もしそれが「裏切りを正当化する」ものならポジティヴとは言えません。

でも、これまでユダ一人を悪者にしたてて責任転嫁してきたやり方よりも、ユダ程度の裏切りは「人間だもの」と認めることで逆に、誰でもユダになり得る、それをどう克服するかという一般論の方向に行くならポジティヴかもしれません。

「人間だもの」で許すのではなくて、それを克服しようとするのもまた人間的な営為だと思います。

原罪は「蛇=サタン」の誘惑のせいということで、人間が皆断罪されるかわりに、「悪の誘惑をどうしたら斥けられるか」という方向にスライドしていく場合、ネガティヴではないと思います。でも、ユダの場合はいくら「サタンが彼の中に入った」せいだと言っても、ユダという人間が悪と同義にされて否定されるのだとしたら、それは「救いの対象になるすべての人」を人が勝手に「仕分け」してしまうことになるので、いろいろな差別と共通の根を持つことになるでしょう。

出来心だとか小さな裏切りは、ほとんどは大した結果を生みませんが、運が悪いと大きな災厄を引き起こします。そういう例は少ないのかもしれませんが、それをたいそうに言い立ててもらった方が、自分も含めて凡人には抑止力になるかも、とも思います。

多くの人が、「ユダが悪い、神殺しだ」のように短絡化してやってきた歴史は不思議でもあります。でも、「悪いのはいつも自分や自分たちの仲間ではない誰か」という言説を人は信じたいのかもしれません。

ユダがいるのはやはり普通の人の心の中、なのかもしれませんね。

http://setukotakeshita.com/

705愚者:2014/09/13(土) 00:36:18
ナチスとバチカン
sekko様
おっしゃるとおり評判を気にするべきではないのですが、私の目上の親しい人は、カトリックは嘘と迷信の原点から始まった宗教であることを知った方がよいと忠告してくれました。中学以来の親友はアラブ研究の片倉ともこ氏が寄稿した雑誌を貸してくれて、目を覚ませというメッセージをくれました。片倉氏は「キリスト教は明らかにあり得ない処女懐胎や復活を信じる宗教。イスラム教にはそうしたお伽噺はなく理性に反しない宗教」と記していました。
そんな経験から、カトリック教会に縁のない一般人の印象は、反感と侮蔑が基調にあることを知りました。下はよくあるその種のツイートとコメントです。

http://sun.ap.teacup.com/souun/15241.html

教会は世の終わりまで敵意や侮辱という十字架を担うのでしょうが、その原因の事実誤認や誤解に腹がたつこともあります。
女性が司祭になれないのも時代遅れの性差別といわれますが、私見では「被除階権」という権利は存在しないと思うので性差別には当たらないような気がします。最後の晩餐の原型への拘りが感じられて、カトリックにも原理主義的な聖書への忠実さがあることに気づきました。
最も困惑させられるのは、天動説の弾圧、宗教戦争、異端審問、魔女狩りなどの愚行を犯したのはカトリック教会唯一者だけである。というイメージがいつの間にか定着してしまったことです。
いつの時代にも、最悪の過ちを犯してきたカトリック教会という根強いイメージ。その反面、コペルニクス、ガリレオ、デカルト、パスカル、エラスムス、ルソー、メンデルなどの不朽の思想家たちがカトリックであることはあまり知られていません。ラスカサスは最近まで知りませんでした。
wikiの「ドイツのカトリック」反論の素材になる情報がありました。
近年教皇庁で第二次大戦中の文書などの整理が進み、いずれ公開されるとどこかで読んだ気がしますが、日本で優れた翻訳や解説が出るまでには十年や二十年はかかるのでしょうね。
現教皇は大変好もしい方で、ユーモアのセンスもあるそうなので、厳しい危機に適した人材ですよね。B16世は極端な金融ゲームを公に非難して良識を示しましたが、報道したのはカトリック新聞だけでした。

706sekko:2014/09/13(土) 01:31:37
愚者さま
なるほど…。これは『キリスト教の真実』でも書いたのですが、「西洋近代史」って、プロテスタントがその名の通りカトリックを大批判または全否定するような形で生まれ、その後、理神論とか無神論がカトリックもプロテスタントもまとめてキリスト教を批判、否定するような形で進んできたので、そういう議論には事欠きません。

順番からして一番たたかれているのがカトリックで、言い換えると、プロテスタントや理神論、無神論の勢力の台頭と接触のなかった文化、脅威にならなかった文化は全くたたかれていないわけです。

カトリックの方は何を言われても、最初は「破門だ、異端だ」と言っていても、そのうち「よく考えてみると自分たちもまちがっていたかも」と反省もしてしまい、他宗教への批判がアイデンティティになるところまではいかないので、自己弁護の武装が今一つ足りませんよね。

でも、プロテスタントやイスラムより古くて、しかも、あれこれメンテナンスしながら生き続けているのですから、「今のやり方を見てくれ」といういわば「大人の態度」をとっているともいえるわけです。私は自分も年を取ってくるとそういう方にシンパシーを感じます。

宗教の創生神話とか建国神話とか、教祖の誕生の不思議譚そのものはどこにでもあるのでその表層はあまり気になりません。

同時に、「理性では信じられない」という言い方は、理性や科学では説明がつかなかったり考えられないようなことはこの世にたくさんあって、いや、多分、合理的な部分というのはほんの一部だと思うので、私はむしろ不可知論です。

『自由人イエス』(ドン・ボスコ社)で書かれているように、イエスの「復活」というのは、私には想像もつかないような形で使徒たちの全世界観を覆すようなことが起こったのでしょう。

すごいなあ、ちょっと知りたいなあ、とは思いますけれど、私が知りたいけれど理解を超える、または手の届かない世界の不思議なんて無限にありますから、復活をきっかけに何が起こって何が問われているのかの方が本質的なものだと思います。

カトリックではなく無教会派ですが矢内原忠雄の『キリスト教入門』(中公文庫)も日本におけるキリスト教理解について興味深い本です。プロテスタント無教会主義の明快な、それだけに厳しい信仰の態度は、うらやましいような、やってられないような、日本人には無理だなあ、という感じはします。フランスにおけるカトリックのぬるさの方が「応用がきく」という私の印象は変わりません。

『自由人イエス』、『キリスト教入門』とも私が解説を書いています。よかったら参考にしてください。

http://setukotakeshita.com/

707今紫:2014/09/26(金) 22:07:23
改めて気になるバチカンへの落雷
お久し振りです。
もう大分前のことになりますが前教皇が退位され一時聖マラキの予言が話題になりました。退位を発表したその日、バチカンのサンピエトロ大聖堂に落雷した事件はご存じでしょうか。あの映像は覚えています。巷では様々な憶測と説が交差し混乱しました。これはどういう意味が込められていたのでしょうか。単なる偶然でしょうか、それとも神のおもしめしでしょうか。

708sekko:2014/09/27(土) 18:04:19
今紫 さま
そうですね。フランス系の通信社AFPのカメラマンがあの日、嵐になったので、サン・ピエトロ大聖堂の上の避雷針に雷が落ちるのではないかと期待して柱列の下で2時間も待機して、3度の落雷のうち2度目をキャッチしたのでその特ダネ写真は世界中に配信されました。

BBCのカメラは3度とも録画していてこれも今もネットで見れますが、当時も、「神の存在証明だ」という人や単にジョークとして扱う人もいました。

1981年に初めて社会党のミッテランが大統領選に勝利した夜も大嵐で、オランド大統領も大雨男で、就任後のパレードもずぶ濡れ、ドイツに向かった大統領機に落雷して引き返したことなどもいろいろ言われていまして、フランス国内ネタではそっちの方が熱心でした。

あの日のイタリアは半島部分の西半分、サルデーニャ島まで広範囲で嵐で落雷があったので、別にヴァティカンだけに突然落雷したわけではないし、避雷針が機能していたということでしょう。

前教皇はそんな予報の出ていた日にわざわざあんな発表をしてしまったわけですが、もちろん偶然でしょう。

でもそれだけ「絵になる」ということは、あの大聖堂が「神と人間の中継地点」「神へのアンテナ」と多くの人にイメージとして刷り込まれているのだなという意味ではすごいなと思います。

あの写真だけで「マラキ書」が蒸し返されるとしたら、巷の見た目もっと堅固な陰謀論や終末論には反論してもなおさら無理かもしれません。視点を変えた方がいいですね。

フランシスコが最後の教皇、世界の終わりの教皇などと言われても、彼の福音的にぶれない姿勢は広く評価されていますし、使命感は変わらないと思います。自然現象ではなく、生き方、使命の遂行の仕方によって「神の意志」を伝えようと彼は思っているのでしょう。

この掲示板に時々来る陰謀論や終末論系のリンクは消去しています。あまりこの手の話題をふらないようにご理解ください。

http://setukotakeshita.com/

709愚者:2014/09/28(日) 21:17:48
不穏
「自由人イエス」を読んでから投稿するつもりでしたが、のんびりしてはいられない気分です。
国連人種差別委員会からレイシズムの禁止と規制を勧告されてほどなく内閣が改造され、19人中15人が極端な国粋主義グループのメンバーであると同時に差別団体と親しい関係にあることが明らかになりました。国連が禁止・規制を勧告した類いの団体の代表的なものです。逮捕者も出ています。
欧米の主要紙が取り上げたそうですからsekko様もご存じと思います。しかし国内の主要メディアは全く報道しません。9月25日は外国特派員協会(FCCIJ)で行われた山谷国家公安委員長の講演と質疑応答の驚くべき内容が、タイムズ、ウォールストリートジャーナル、ワシントンポストなどで報じられたそうで、主にwebに表れる独立ジャーナルや識者の記事によって私たち一般人はそれを知りました。
海上自衛隊がNATO軍と合同訓練をすることが決まったなどというニュースも、重要な情報ほど主要メディアは知らせません。
先々週、ロックフェラー家の財団だか持株会社だかが石油事業から手を引いて再生エネルギー事業に出資するBBCのニュースがありましたが、主要メディアは取り上げません。政府もメディアもグローバル化、グローバル人材と大合唱しているのに、グローバルイシューを活発に論じません。
件の国家公安委員長は普通選挙法、婚姻の自由と男女平等に反対していて、離婚禁止法が必要だと公言したそうです。就任時に山谷氏は有名な差別団体との関わりを訊かれて、そんな団体はきいたこともない、と答えたのですが、写真や文書の記録がいくつも公にされてからは、記事の書きぶりが問題だと居直りました。国家公安委員長が差別主義団体の仲間で、それを隠すために就任早々虚言を吐いたのです。ナチスドイツを手本にする閣僚も差別主義(ヘイトクライム)団体の顧問を務めた人も即刻辞任するべきだと思いますが、全くその気配はありません。
遠からず秘密保護法が施行されたら、この程度の常識的な会話も監視や嫌がらせの対象にならないとは言えません。質問したかったのはリベラルという語と概念の理解のねじれについてですが、改めて投稿します。
そういえば、岡田大司教やその仲間は大学紛争で暴れた左翼崩れで祈りを軽んじて運動に走るのは間違いだなどと小教区の古参の人が批判してるという話を聴きました。

710sekko:2014/09/28(日) 23:53:44
愚者さま
ここは一応宗教・哲学のテーマなので、深入りしませんから、Forum3の方にでもまた話題をふってください。他の人も参加してくれるかもしれません。

山谷さんのことは前からネットを通して聞いています。昨日も田中龍作ジャーナルで経緯を読みました。確かにヘイトスピーチの団体の堂々のデモなど、私の知っている日本では想像もつかないことです。でも、フランスにいても日本の情報がこうして伝わってくるのですから、これも30年前には想像もつかなかったことで、このようなグローバル化をなんとかしていい方につなげたいですが・・

>>>岡田大司教やその仲間は大学紛争で暴れた左翼崩れで祈りを軽んじて運動に走るのは間違いだなどと小教区の古参の人が批判してるという話<<<

ですが、ラザリストや愛徳姉妹会を創った近代都市の社会福祉の先駆である聖ヴァンサン・ド・ポール(ヴィンセンシオ・ア・パウロ)はこう言いました。

「あなたが祈っている最中に一人の貧しい人がドアをノックしたなら、神をひとまずおいて、神を迎えなさい。
ドアを開けに行きなさい、あなたに会いに来たのは神なのです」

この言葉を教えてくれたラザリストの神父が弱者を支援する時の座右の銘は

「ゆるす、忘れる、継続する」

なのだそうです。これについてまたどこかに書きます。

時代も国もはなれた今の日本でも、愛徳姉妹会の日本人シスターたちは迷わず聖ヴァンサンの言葉に従っています。というか、貧しい人、一人暮らしのお年寄り、病人などのうちのドアをたたき続けています。もちろん国籍や出自は無関係です。

これは今の教皇の霊性に近いので、今の教皇を煙たがる人も決して少なくないですね。

http://setukotakeshita.com/

711愚者:2014/09/29(月) 02:41:46
sekko様
哲学宗教と関係ない投稿申し訳ありませんでした。
外国在住者はむしろメディアコントロールを免れていることに気がつきませんでした。内田樹、水林章、佐々木中といった知識人もブログやSNSで遠慮なく言論活動をしていて、それが当たり前に外国に届いているのですね。
フランシスコ教皇の著書邦訳を読んだ友人が、教会の未来に希望が持てることが書いてあったと言ってました。
ある神父さんがフランスの教会は見る影もなく縮小してしまったが新しい霊性や霊性の刷新はなぜかフランスで生まれると言っていました。霊性ではありませんが、アメリカでブームになったT.ピケティの本ー特権階級が煙たがる経済史らしいーは12月に翻訳が出る予定だそうです。日本国内では読んだ人による書評はまだありません。もしもsekko様がお読みになったら、どこかで感想を書いていただければと思います。
これからは質問するときはFORUM3に参ります。
ありがとうございました。

712愚者:2014/09/29(月) 03:38:46
訂正
愛徳姉妹会を身近に感じる環境ではありませんが、福音を文字通り実践する修道会なのですね。
信徒であっても聖ヴァンサンの教えを実践できるようにならなくては。
水林先生のサイトは工事中でしたので、取り消します。
sekko様を始め思慮に富んだ知識人がインターネットで言論活動を続けている限りなんとかなると思えてきました。改めてありがとうございました。

713sekko:2014/09/29(月) 06:26:51
愚者さま
ピケティの新著については前にブログで触れたことがあります。

http://spinou.exblog.jp/22257223/

このブログで書いたピケティの以前のパートナーだったオーレリー・フィリペティは、 8月にヴァルス首相がフランスの経団連みたいなのにすり寄って内閣改造した折に怒って出て行ってしまいました。

新著は通して読んでいないのですが、数々の記事や抜粋や著者インタビューを聞いて、この本を取り巻く言説の方に興味を持ちました。

愛徳姉妹会は徹底的な社会奉仕においてぶれがなく、ラディカルです。いつも感動します。私はカトリックの不思議話が好きで、パリの愛徳姉妹会の「奇跡のメダイ」のチャペルの話を本で紹介して以来のつきあいなのですが、今は、「奇跡、なに? それ」という感じでエネルギッシュに活動しているシスターたちの存在そのものが奇跡だなあ、と思っています。

10/22には大阪で彼女らが運営する養護施設「聖家族の家」で子供たちのためにバロック音楽劇をやります。11年ぶりです。

11年前の慰問コンサートのことはトリオのブログに書きました。

http://nitetis.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-c7e8.html

今回は子供たちと踊る趣向もあります。子供たちに今より少しでもよくなる社会を残したいです。

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714今紫:2014/09/29(月) 19:44:09
大天使ミカエル、ガブリエル、ラファエルの祝日
竹下先生

先日はありがとうございました。偶然の出来事であることがわかり安心しました。

陰謀論の件は今後、ふらないように気を付けます。申し訳ありませんでした。

本日、大天使の祝日です。竹下先生に大天使のご加護がありますように。

715kei:2014/10/10(金) 14:45:14
プロファイラー、パルジファル
10月8日放送のザ・プロファイラー「ジャンヌ・ダルク」に出演しておられました。
あの1時間ではとうていプロファイリングなどできないのはもちろんでしょうが、改めて合理的な理由が出れば出るほどそれをすり抜けてしまうことを実感しました。
テロ戦以来、西側の戦争の戦略論理に慣らされてしまっています。そのようなものは結局シャルルの論理なのでしょう。
日本で今ジャンヌ・ダルクの劇がやっているようで、なぜ日本で?と思ってしまいますね。

ところで、「ユダ」の反ユダヤ主義の例にワグナーが入っていません。
楽劇「パルジファル」などはその好例のように思われます。
最初に永遠に呪われて死ねない女クンドリが出てきますが、さまよえるユダヤ人を知らずにはちょっとわからないでしょう。
クリングゾルなどアラビアとなっていますが、どうみてもユダヤ人のことです。
これを見る人たちはユダヤ人のもたらした悪徳からの救済と見ていたのでしょうか。

どうもここには、自分たちの問題点の責任を他者に転嫁してしまう西欧的思考が見られるような気がします。
それが社会主義やイスラムにとって代わられているだけではないでしょうか。

ジャンヌも背教者として処刑され、免罪、そして聖女となったわけですが、こうしたご都合主義が今も続いている気がします。

716sekko:2014/10/11(土) 23:49:35
Keiさま
今赤坂ACTシアターでやっている『ジャンヌ・ダルク』の公演のパンフレットにも記事を書いています。今までとは少し違った視点で書いてみました。機会があればご覧ください。

私はコンサートや講演で日本にいくので、11月の横浜公演の方に行ってみたいと思っています。(コンサートの情報は下のURLから入れるトリオ・ニテティスのブログに載せてあります)

ワーグナーについては複雑な思いがあります。フルトヴェングラーについても複雑なので。

私は中学生の頃から渡辺護さんと交流があり1967年の大阪国際フェスティバルのバイロイト国際フェスティヴァルで講演された時も楽屋でおしゃべりしました。

そんなこともあってゲルマン神話世界と反ユダヤ主義の関係は何となくスルーしたのです。

反ユダヤ主義は「ユダ」本人への憎悪よりずっと政治的でもあり複合的なのであまり深入りできないところでもあります。今はフリーメイスンについての書下ろしを進めているのですが、ユダヤ=フリーメイスンの陰謀論の構造と歴史がまた複雑です。ユダと同じく、フリーメイスンにまつわる言説を通して見えてくる文化の差、歴史というものは興味深いです。

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717愚者:2014/12/24(水) 00:22:19
クリスマスおめでとうございます。
sekko様も藤永先生のブログの読者なのですね。あんな94歳に、できるものなら自分もなりたい、と感じさせる方ではないでしょうか。闇の中で叫ぶ賢者。
T.サンカラの生涯とJ.ジグレール「世界の半分が飢えるのはなぜ?」が改めて取り上げられていて、クリスマスのプレゼント向けの本だと思いました。日本の漫画家がサンカラの伝記を描くといいと思います。井上雄彦氏あたり(他の作家を知らないので)。
岡田大司教との対談を聴かせていただきました。大司教が、我々はずっと以前からキリスト教の悪口を毎日聞きながら宣教している、と言ってましたが、実感がこもっていました。長年の報われない宣教の苦労で、疲労困憊した顔色や表情が固定してしまったのでしょうか。
でも、大司教の指摘のとおりだと思います。音楽家、彫刻家、画家、小説家・詩人などにはキリスト教徒がけっこういるみたいですが、キリスト教の影響に接することのない普通の人は、その人がキリスト教だと思っているところの、キリスト教に非ざるものをキリスト教だと考えていることが多いと思います。よく、ローマ法王に忠誠を誓うカトリック信者という表現を見ますが、少なくとも日本では忠誠を誓ってるカトリック信者に会ったことはありません。しかし、そう定義されているようです。陰謀論の世界ではバチカンやイエズス会はレギュラーらしいし。
一方、映画「天国は本当にある」は意外と空席が少ないとか、銀座の大手レコード店でノートルダム大聖堂のミサのライヴの売れ行きが凄いなどという話も聴きました。
「自由人イエス」を読んでおりますが、むずかしいところは飛ばしています。文章は平易なのに内容は私にはやさしくありません。
幸いなクリスマスとお正月をお過ごしください。

718sekko:2014/12/30(火) 08:03:07
愚者さま
ありがとうございます。

クリスマスって、よく考えるとすごいですね。神が受肉する時、わざわざ赤ん坊になって、しかも飼い葉おけの中で、牛やロバからさえ見下ろされる、世界中のキリスト教会や家庭で飾られる「馬小屋」の中で、一番低い位置にいるのが「幼子イエス」って、「上から目線」の神さまや教祖様とは正反対の究極の「下から目線」。

これが出発点で、最後は、十字架の上に「上げられて」下から見上げられる「さらし者」として殺されて、そのまた後に復活して、ようやく「昇天」して「天の父」と合流するわけですけれど…。

生まれたとたんにすたすた歩いて「天上天下唯我独尊」としっかり「優越性」を宣言しているように見えるお釈迦様のイメージとは違いますよね(お釈迦様は生まれた時に立っていて、亡くなった時に涅槃で横たわってという感じで、イエスは生まれた時は裸かぐるぐる巻かれて横たわり、死ぬ時と昇天が垂直のイメージで逆なのが興味深いです)。

藤永先生は、まだ80代でいらっしゃると思います。まだまだお元気で発信し続けていてほしいです。

カトリックに関して、ローマ教皇に忠誠を誓う修道会は普通にありますけれどね。普通の信者は忠誠というより、「キリストのまねび」というか、キリストをまねて生きた聖人たちの生き方をまたまねて、というようにモデルがたくさんあるので目的地ははっきりしているはずですけれど生き方路線はいろいろなのかもしれません。

よいお年をお迎えください。

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719kei:2014/12/31(水) 13:47:37
JP2とF2
クリスマスネタですが日本の漫画「セイントお兄さん」でマリア様がネットで馬小屋で出産したと書き込んだら「うっそー」「ありえない」との反応だったようですよ
なかなかあの漫画はためになりますね

ジャンヌ・ダルクの舞台、堀北真希ちゃんのがネットであがってますが、ちょっとリュックベッソンに影響されすぎていますね。
モーニングで漫画家の山岸 涼子が書き出したようですが、これもどうもリュック・ベッソンの系統のようです。
「宗教戦争」の時代に妙なとらえかたをされたのは困ったことです。

「イスラム国」ですが、「アラブの春」の混乱の中で、結局極端なイスラム主義にアイデンティティを求めてしまったのでしょうか。
そもそもアラブの春というものが民族主義的な独裁を打破ったとき出てくるのは、西欧型民主主義ではなくイスラム主義というのは当時からみえていたことではなかったでしょうか?
アラブの春そのものも、さまざまな諸潮流がまざりあっていたのに、民主主義と単純に規定してプロパガンダに乗せられてしまって今日に至る気がします。
ウクライナ然りですが。
私は、現教皇フランシス2世のアプローチは正しいように思います。
双方に和解と寛容を促すアプローチ。
キューバとの和解についてはマスコミでもヨハネ・パウロ2世のアプローチと比較されていますが。
無神論なるがゆえに体制を変えようとしてしまったJP2は、その後のブッシュ政権のイラク侵攻から、この混乱を招く引鉄になってしまっている気がします。
JP2は、冷戦崩壊後の世界はフクヤマ主義的なものを考えていたのではないでしょうか。
まさかこのような混乱と弱肉強食の世界となるとは考えていなかったに違いありません。

720sekko:2015/01/01(木) 01:35:45
新年おめでとうございます
フランスはまだ大晦日ですが、これから忙しくなるので今のうちにご挨拶です。

keiさま、現教皇はフランシスコです。選出された時「フランチェスコ一世」と報道されたこともありましたが、正式には、次にフランシスコ二世が登場した時に、今の人がフランシスコ一世とよばれることになるそうです。

(ヨハネ・パウロ一世はなんだか最初から一世と呼ばれていたような印象なのですが、ひと月ほどで亡くなってすぐにJP2が誕生したからかもしれません)

「アラブの春」に関しては、軍事独裁政権がそれまでイスラム主義勢力を抑えていたのが打倒されたことで歯止めがなくなったこと、「民主主義」を求めていた人々はまとまった政党をつくるストラクチャーも余裕もなくて、結局イスラム主義政権が「民主的選挙」で選ばれてしまったというジレンマがあったと思います。

それを言うなら、フランシスコ教皇のアルゼンチンもずいぶん危うい道をたどってきました。フアン・ペロンの正義党がファシズムだったのかどうか、その運命を思うと感慨深いです。今も正義党は健在ですし。

ペロンも教皇と同じイタリア人ルーツがありました。今の教皇の人気もポピュリズム、ペロニズム(ペロニスマ)と評する人もいて、危うい部分もあるなあと案じられます。ともかく、世界中で平和や環境保護を望む人たちが教皇の人気をよい意味で最大限に利用して、特定の国や企業への利益誘導という流れを変えていってくれればなあと思います。

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721kei:2015/01/05(月) 17:43:54
イスラム国とナポレオン
確かCNNだったと思いますが、乳幼児死亡率などの改善は中国の効果が非常に大きいということを見た覚えがあります。

アラブの春からイスラム国への流れは、シリア情勢をウォッチングしていた過程から言うと、結局「民主主義派」が武装闘争になるときに、なんでもかんでも引き入れてしまい、特に欧米がアンタッチャブルのサウジ、カタールなどが、スンニ対シーアの観点から介入して、シリア国内のスンニ派高官などに働きかけ、政権転覆を狙ったときから宗派戦争化してしまいました。
イランとサウジどちらが先に介入したのかは論争の的ですが。
イスラム国の前のISISも、イラクのシーア派政権を牽制するために泳がされていたのはもう周知といってもいいと思いますが、
まさかここまで思い上がるとは、と攻撃にまわっていますが、それは甘すぎるというものです。

フランス革命もナポレオンが居なければあっさりと潰されていたかもしれません。
皇帝を名乗るなどと妙なことをしましたが、近代の思想に基づいた改革を行ったのは、希に見る「良い独裁者」といえるかもしれません。
ある意味ナポレオン帝国が短期で終了してしまったことが、ナポレオンの良い側面がその後に受け継がれたかもしれません。

マルクスもレーニンも革命と民主主義と独裁の関係を研究していますが、それを考えると共産主義独裁が残ってしまったロシアよりも、敗北したドイツやフランスのほうが社会主義の思想をうまく引き継げたのかもしれないとも思ってしまいます。

革命と啓蒙主義的普遍主義思想のイデオロギー化の失敗、そしてナポレオンによるカトリックとの和解と普遍主義、さらに宗教。

こんな感じで考えてゆけばナポレオンは今日的かもしれません。

722愚者:2015/01/13(火) 00:49:47
1/2
sekko様
去年の投稿の誤りを指摘して下さってありがとうございました。藤永先生は21年生まれと思い込んでいましたが、私の誤りで正しくは26年生まれの80代でした。
sekko様が他のところでも書かれたキリスト教の逆説は最も心を惹かれる事柄ですが、精神を調えて集中しないと質問するにしてもまとめることが難しいので(^O^)、後回しにします。
L'art de croire を読んでアメディとアメドの対比には心を打たれました。
今回の事件に関する日本の識者の反応では、「反テロリズムでは一致できるのに、なぜ反戦争で(ともに行進した首脳ら)は一致できないのか?」想田和弘
「Charlie Hebdoが命をかけて守った風刺精神が今向かうべきは、Je Suis Charlie の「熱狂」だ。」伊勢崎賢治
「シャルリ・エブドの風刺は下劣で差別的だが、(中略)マイノリティへの人権侵害を成しているとは言えない。無論テロに正当性を与えるものでもない。」「言えることは二つしかない。いかなる言論に対してもテロ行為は許されないということと、テロリストたちがムスリム社会を代表するかのような捉え方はとんでもない誤りであるということ。」中野晃一
などいまのところ共感できる意見が目につきます。イスラエルの首相が反テロリズムの行動に参加することへの疑問・批判も散見され、巧妙に忍び込んだ「偽善」にも気がついています。

723愚者:2015/01/13(火) 01:51:21
2/2
8日の新聞には「風刺は弱い立場の者から権力に向けるものであって、シャルリの表現は風刺ではなく差別だ。」という日本のムスリムの声が載っていました。トルコ研究とイスラム研究の内藤正典同志社大大学院教授は、欧州のムスリム差別の歴史の理解なしには(ムスリム側から見た歴史という意味らしいですが)、イスラミストによるテロやイスラム国出現の真の原因を解き明かすことはできない、との論を展開しているようです。
犯人が殺されて背景や動機の捜査が出来なくなったのでは?生きた犯人を逮捕することを重視しないのでしょうか?
非人道的な死刑制度がないとはいえ、現行犯として容疑者をためらいもなく射殺するフランスの警察は、犯罪を解明したくないのだろうか、裁判で死刑にできないから凶悪犯は裁判にかけずに殺してもいいといった深層心理でもあるのか?と疑問を感じました。
日本の警察は、犯罪の全容の解明に必要なので、生きている犯人や容疑者を逮捕するのが原則だときいたことがあります。冤罪や不都合な事実が次々出てきたけれど、この原則は人道的だと思います。
キリスト教の伝統と人権宣言の国フランスの警察の姿勢は意外でした。
教皇への忠誠についてですが、洗礼に際して使徒信条を自らの信条とするのを教皇に忠誠を誓うと言い表すのではないでしょうか。教皇様に臣従を誓って家来になる、わけではないですよね。

724kei:2015/01/13(火) 13:09:11
グローバル化と寛容
まず掲示板の趣旨から言って、複雑な一事件の警察の対応などへの質問は控えるべきかと考えます

内藤 正典氏はこのごろとみに過激化しておりますのでお気をつけください

それに比べて酒井 啓子氏は非常にバランスがとれていると思われますので、中東・イスラム問題については参考にしてよろしいかと思います
http://www.newsweekjapan.jp/column/sakai/2015/01/post-901.php

シャーリー・エブドの襲撃については、一連の問題が最悪の形で爆発して切り分けられないまま進行しているかと存知ます

ムハンマド肖像風刺で揶揄・批判の対象しているのは、結局イラン、サウジなどの宗教と政治権力が一体化している国家ではないかと思われます。

しかしムハンマド肖像問題は権力問題とはかかわりなく長い間の文化問題でもあり、権力を批判しているつもりが、ムスリム一般が侮辱されているよう受け取られているように思われます。

フランス国内のムスリムはどうかわかりませんが、イランなどが声高に批判してくるので、ますますお互い過激になり、今回のように犠牲になるのは国内のムスリム達ではないかと。
グローバル社会、ネット社会の難しさが如実に出ているように思います。

例えば私はドイツのBILDはよく見ますが、過激なことを書いていても「またアホやってる」とか大笑いできるのですが。
他国でそのことだけを取り上げて、それがその国の姿勢みたいに広められると慣れない人は憤慨するかもしれません。

サッカーでもテロまでは至りませんが、メディアが煽って暴力沙汰は頻繁にあります。
国内で多数派のことで他国を煽りあいして、その結果戦争になるのは繰り返されてきたことではないでしょうか?

ワールドカップでもドイツ代表が祝賀会でアルゼンチンをからかう悪ふざけパフォーマンスをやったところ、アルゼンチンメディアから「侮辱」と言われて、「そんなつもりはなかった」と謝りました。

グローバル的な節度は求められているとは思いますが、今のメディアの過激化は問題かと思います。

教皇フランシスコ2世が和解と寛容を求め、自らモスクで礼拝している態度はそれに比べてなんと立派かと思います。
今はトルコですが、イランにも行けるようになればいいかと思います。

国家などにはそれぞれ複雑な問題があり、ある程度長期的にみていかねばならないことですが、欧米は性急にすぎて、かえって自分たちに降りかかっているように思えます。

挑発ではなく相互理解の積み重ねが大事かと

725sekko:2015/01/14(水) 00:50:36
keiさま、ありがとうございます
確かに昨日の書き込みはこの質問箱に適していなかったと思うのでForum3に移動しました。この質問箱は、上に書いていますが、死生観などについて迷っていることや考えていることについてピンポイントで私ならどう考えるかを知りたいという人のために開いているものですので、みなさま、それ以外についてはできたらForum3の方に書き込んでください。

このサイトもこの掲示板も、前にボランティアでやっていたフランス語のレッスンをやめた時に、引き続き、何か役に立てればと思ってはじめたものです。その頃、困っていたことについて他の掲示板で相談してみたらとても親切に答えていただいたので、私も自分にできることを何かしたいと思ったのです。それには、他の人よりも分かるのはフランス語とフランスの暮らしかなあと思って、Forum1を作りました。

ひっそりやっていくのが基本方針なのでみなさまよろしくお願いします。

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726愚者:2015/01/25(日) 20:32:54
お詫び
投稿が掲示板にそぐわない内容で申し訳ありませんでした。
フォーラム3への投稿を何度か試みましたが、ハードの機能の限界が立ち塞がりました。
フランスの政教分離に関する著作には心から期待しております。釈迦に説法で恐縮ですが、日本人によるフランスの政教分離に関する研究書で一般人の関心にもある程度応える著作は、今のところ伊達聖伸「ライシテ、道徳、宗教学ーもうひとつの19世紀フランス宗教史」くらいではないでしょうか。この本は私たち一般人には分厚過ぎて堅すぎます。私たちに必要なのは政教分離の宗教史文化史的な、また人物が登場する読み物だと思います。これを書ける人はsekko様の他にいないのではないでしょうか。
板違いで申し訳ありませんが、板垣友三東大名誉教授の興味深いインタビューがIndependeot Web Journal(IWJ) のサイトやアカウントに公開されています。もし未読だったらご一読に値するかもしれません。お騒がせしました。お詫びまで。

727愚者:2015/01/25(日) 20:37:43
訂正
誤 板垣友三
正 板垣雄三
でした。

728sekko:2015/01/27(火) 07:56:57
愚者さま
Forum3 に入れないのですね。

無理なさらないでください。
私もIT弱者なので。(愚者さまの問題は別の者かもしれませんが…)

板垣先生のインタビュー拝見しています。

1/11の共和国デモにネタニヤフがぎりぎりになって来ることを決めたのは、選挙が近くて、対立党の外務大臣らが出席するのを知った後での自国向け政治的パフォーマンスのようです。それでオランドも慌ててアッバス議長を呼んだようです。

政治家たちの思惑ばかりが交錯していたにしろあれはあれでよかったかもしれません。ヨルダンの国王夫妻がいたのも印象的でした。

板垣先生がフランスはイスラムをからかうのは自由でユダヤ人をからかうのには厳しいダブル・スタンダードだと言っていましたが、それは違います。

ユダヤ人差別言辞についてはペタン時代のホロコースト加担という過去のせいで特別に厳しいというのは事実ですが、もう長い間、いわゆる「平均的フランス人」には反ユダヤ主義は見られなくて、イスラム差別も、極右だと思われるのが嫌、不寛容だ、共和国的でないと思われるのも嫌だという自主規制が働いているので事実上見られませんでした。

社会のアメリカ化と共同体主義が進み、ムスリムが共同体化していったので、パレスティナ情勢のこともあり、反ユダヤ人言動は一部のムスリムか極右、ネオナチなどが主体でした。

カトリック文化で育ったけれど冠婚葬祭以外に教会には行かないという普通のフランス人は、「宗教」などもう過去のものだと半分は思っているのです。それなのにキリスト教も含めてを執拗に揶揄し続けていたシャルリー・エブドなどは「無神論の活動家」であるわけです。

それなのにヴァルス首相などが「ライシテこそ共和国の最高宗教だ」みたいな感じのことを言うので、なんか変な具合になってきました。

しかも、日本もそうですが、非キリスト教文化圏の人たちはなぜか「フランス=欧米=キリスト教」と言う連想があるので、シャルリーのせいでパキスタンやニジェールなどで教会が焼き討ちされたりしたのは気の毒です。イラクやシリアのキリスト教に至ってはヨーロッパよりも昔からの伝統ある宗教なのにさらに気の毒だなあと思います。

フランスのライシテについてはフランス人自身、特に知識人たちが自己欺瞞しているので実態は伝わりません。私が解説すると感心されることがよくあります。機会があれば書きますね。

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729kei:2015/03/03(火) 23:18:25
教皇の言葉は命令か?
シャルリー・エブドの復刊号の表紙に教皇などがエブドを追っている画が載っているそうですね。
この雑誌にこだわるわけではありませんが、最近教皇が子供のお尻を叩いてもいいのか、という議論を起こした、というニュースがありました
http://vpoint.jp/world/eu/37080.html

私などは、非暴力のドグマに捕らわれて、ほぼ子供のお尻も叩いたことはありませんが、心のどこかで「それでいいのだろうか?」と思っていたところ、この答えは大変参考になったものです。
しかしそれでも教皇が体罰を容認したというような声が出てくるのですから、なかなか難しいものだと思います。
フランスやヨーロッパは我々と違い、教皇の言葉を絶対命令のような形で聴くような心理的圧力があるのでしょうか?
ウサギ発言についても、私はとても具体的でウィットに富んだ言葉だと思いますが。

残念ながら私は子供のお尻を叩く機会をもう失っておりますが、次に孫が出来るときには、威厳を損なわない形でお尻を叩く方法を考えてみたいと思っております。

730sekko:2015/03/05(木) 07:21:57
keiさまへ
子供への体罰ですが、フランスでもヨーロッパの他の国のように禁止の法律化が話題になっています。個人的には、すべてその家庭での親と子の普段の関係を抜きにしては考えられないし、子供のタイプや親の判断力にもよると思います。子供が小動物や自分よりも小さな子供に害を加えたりいじめたりするような行動をとった時に害のない体罰によって断固とした親の意志を見せるという場合、その親がその信念にふさわしい行動をしているならばありかなと思いますね。でもこんな法律が必要になるほど、今は子供の虐待の連鎖とかの問題があるのだとしたら深刻です。

私自身は子供を叩いたりしたことはありませんが、普段可愛がっている猫にだって、ひどく引っ掻かれた時に思わず叩いたことが何度かあります。たいていはこちらが悪いのだし、犬と違ってそれこそしつけにすらなりませんが、反射的に手が出ることがあるというのは体験しているので、他人を批判することはできません。

で、「教皇の言葉を絶対命令のような形で聴くような心理的圧力があるのでしょうか」、というご質問、フランスに関してはないです。まあ今の教皇は人気者なのでこういう話題も取り上げられますが、普通はたいていスルーされます。『シャルリー・エブド』の復刊号にも、教皇の「私の母を悪く言う者は…」云々が取り上げられて、「福音書を読んでくれ(右の頬を殴られたら左の頬を出せ)」とか書かれていましたが、それでも愛されキャラみたいな扱いです。

もう30年位前、フランスのカトリックしかないような田舎で年配の女性たちのやっていた「昇る星」とかいう信徒の集まりに出たことがあります。みなそれこそ第二ヴァティカン公会議以前の要理でやってきた人たちばかりでしたが、すごくリベラルでフランクでびっくりしたことがあります。
避妊について、ヴァティカンが避妊具を容認してないことについて「そんなことちゃんときいてる人なんてない、家庭をもったことのない人たちに言われたくない」ってみんな言っていました。
まあ、フランスは司教会議もリベラルですが。

もちろん原理主義的な人たちはいますが、そういう人たちって分派していく傾向にあるし、たいていは教皇よりも「過激」ですからね。

フランスは絶対王政の頃も、ガリア教会主義で教皇の勅令が出ても、国会の承認を得なければ適用されなかったので、ある種の禁令が野放しだった例があります。

でもいつの時代も庶民はプラグマティックだったという気がします。社会に別のクライシスの要因が顕在化した時には信仰を刷新する人や下手すると狂信者なども出てくるのかもしれませんが…。

http://setukotakeshita.com/

731ともこ:2015/04/12(日) 00:23:27
サルトル「存在と無」第三部「対他存在」
私は海外の大学で哲学を学んでおり、現在、サルトルの「存在と無」の第三部「対他存在」第三部「他者との具体的諸関係」の部分を英語で読んでいるのですが、とても難しいです。「存在と無」の内容全体ではなく、第三部の第三章について、日本語で詳しく教えてほしいです。また、「存在と無」のオンライン書籍があれば紹介していただきたいです。私の英語力が全く追いついていなくて、困っています。時間がないので日本語の本を取り寄せる時間がありません。助けてください。

732sekko:2015/04/12(日) 00:30:31
ともこさん
残念ですが対応できません。図書館で当該図書の英語の解説書をさがせばいかがでしょう。ネットでも、日本語で助けを求めるよりは英語で検索すればレジュメや掲示板などあるのでは?

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733kei:2015/11/02(月) 07:43:57
神の計画
「フリーメイソン」楽しく読ませてもらいました。なかなか新教と旧教の対立は激しいものだと改めて思い、それを超えた普遍を求める志向について認識を新たにしました。しかし結局エリート主義結社だったなあと実感しました。グローバル時代とはいいながら、対立が深まるばかりで、新しい普遍がでてきてこないようですね。
ところでちょっと質問ですが、カトリック聖職者からも「神のご計画」という言葉をききます。
しかし人間の自由意志を重視しているのなら、個人のあれこれは個人(と守護天使)にかなりまかせておられるということになるのではないでしょうか?
カルヴァンの予定説との違いがよくわからなくなります。お教えいただければ幸いです。

PS.「ナポレオンと神」を心待ちにしています

734sekko:2015/11/03(火) 03:28:33
kei さま
「神のご計画」と人間の自由意志の関係ですが、神学的なことはカトリック系サイトの質問箱でお尋ねになれば答えてくれると思います。

エラスムスはトマス・アキナスを引いて、神の意思と人間の自由意志は別々に存在する、神の意思はあっても固定したものではなく、自由意志による人間の反応に適応するといいました。
その時にルターは、自由意志は神にしかなくて、人間に適用するのはナンセンスであり、人間のすべての行動は神の意思に添っているのだといってユダの例を出し、ユダの行動もすべて神のみ旨だと言いました。

ユダならまあ何とかこじつけられますが、もっと納得のいかない例もこの世にはたくさんありますよね。まあ、それは「この世」のことで「神のみ旨」なんて理解できないのだから不可知論になってしまいそうです。

でも、単純に言えば、神の計画はきっとあって、いろいろ人間に働きかけ続けているのだとは思いますよ。

でもそれに気づくか、アンテナをそちらに向けるか、気づいてもスルーするかなどの自由が人間にあるのでしょう。

でも、スルーされても拒否されても、気づかれなくても、神の方からはいつも情報を発信している(愛し続けている)わけで、いつしか人間の方が、自分の条件が変わった時(病気や老いや孤独その他)などに態度を変えて、今までの生き方を悔いたり、「神の計画」に参入するとか愛に応えるとか新しい関係性に入っていくことがいつまでも可能なのではないかと思います。放蕩息子の帰還みたいに。

「神の意思はあっても固定したものではなく、自由意志による人間の反応に適応する」ということは多分そういうことなのでしょう。

ちょっとハイゼンベルクの不確定原理みたいですが、電子を測定する時はじめて位置だの運動量だのが確定するので、神のみ旨を知りたいとか神のみ胸にゆだねるとか神の計画の役に立ちたいとか誰かが自由意志で決意した時にはじめてそれが見えてくる感じでしょうか。

そういうのを決意なしで自然体でやってしまっている人たちもたくさんいるのでうらやましいですが。

まずは、命を与えられて無事に生きていて信頼できる人がそばにいて、などの幸福に感謝、というところから始めたいです。

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735kei:2015/12/03(木) 17:15:11
聖母マリア
改めて「聖母マリア」を読んでいます。
この著作は貴女の著作を読んだ2作目(最初はジャンヌ・ダルク)で、そのころは不勉強でなんとも思っておりませんでしたが、その後いろいろ読むうちに、聖母マリア崇敬が異端であった時期があるのかなあ?と現在思っています。むしろ聖母マリア崇敬を抑えるためにマリアの従順さをクローズアップしたのではないかと思っています。
神が人間となり、母の胎内から生まれたのがわかっている以上、マリアの聖化は避けられなかったことかと思います。ローマ弾圧時代でも女子信徒は多く、ヨハネ福音書は女性に人気があったとの記述もあります。聖カタリナはマリアの勧めで、キリストと神秘の結婚をしたとされています。
現代は、メディアが英米優先なので、ピューリタン的男女平等が喧伝されておりますが、カトリックのいうように、母性については尊重されるべきものと思います。先進国での少子化の一端はそこにあるかとも思います。
拙の娘も結婚して、旦那の要望に従って専業主婦となりましたが、かえって自由に自分の好きなことをやれて、今和装の免状もとってサイドビジネスになりつつあります。こういう仕事の復帰もあるのか、と目をひらかされております。

https://www.facebook.com/kouji.yamasaki.31

736sekko:2015/12/04(金) 03:41:03
聖女の条件
『聖女の条件』(中央公論新社)の中で、ジャンヌ・ダルクの子とも聖母マリアの子ともさらに敷衍、展開しています。機会があればお読みください。

聖性と母性は都合よく結びつけられることが多いので私は警戒しています。

ただ、日本においては、専業主婦や母親になることで世間の圧力なしに実は自由を獲得する道が女性に開けている部分はあると思います。

でもそれは夫、父親の収入だけでやっていける恵まれたケースで、今はそれがだんだん難しくなっているのは心配です。

母性がリスペクトされるべきだというのはもちろんです。小さな命がこの世に生まれる、命を送り出す、というのは死の時と同じように、永遠とどうつながるかというすごいことだと感心します。

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737kei:2015/12/22(火) 04:02:45
クリスマス
ちょっと変な質問で申し訳ありません。日本でもクリスマスコンサートが教会で行われています
私も近隣の2,3に参加しました。
日本人は「教会」という定盤はほぼカトリックの大聖堂で、ヨーロッパ観光に行くとよく入るのに、ミサを体験してやろうという人はいないし、日本でもほぼ居ないと思います。わざわざクリスマス気分を味わうためにヨーロッパに出かける人もいます。せめてこんなときくらい来ればいいのにと思うのですが。
日本人にはカトリックは海外高級ブランド品のようなものなのでしょうか?中に居るとそんなこともないのですが、確かに感じなくはありません。聖フランチェスコの最初の教会のような貧しい者が集まる教会かというと疑問です。フィリピン人、ベトナム人などは平気で来てくれるわけですが。
アメリカ系では、大ホールに集まってゴスペル歌ってもりあがろうぜ、という教会が日本にも来ているようです。ポピュラーはポピュラーでしょうね。
慈しみの聖年が始まりました。貧者を招く教会というのは何なのかと考えるクリスマスです。

PS 貴女の著書でカトリックの面白さに気づき、(まあそれだけではありませんが)、入信しようという人が出ました、感謝申し上げます。

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738kei:2015/12/22(火) 04:28:33
奇跡
すみません、あと1つ。まとめて答えていただいて結構です。
マザー・テレサの奇跡が承認されました。著書でフランスでは奇跡は割と不思議なこととは思われていない、と書かれていたと思いますが、これは伝統でしょうか?
日本では神道、修験道系で奇跡は出てきますし、神社で○○頼みをしているのは奇跡を待っているようなのですが、いざ「奇跡」と言われると引くと思います。アメリカでは事故などで助かった場合定盤のように「神が助けてくれた」と言いますね。
癌になったと落ちこんでいる(苦しんではいない)人が奥さんの友達に居て、マザー・テレサの奇跡を言って、気晴らしにルルドにでも行ってみたら?と言いたいのですが、ルルドも日本人知りませんね。

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739sekko:2015/12/22(火) 08:27:13
kei さまへ
日本人のキリスト教感にはきっとミッション・スクールのイメージがあるのだと思います。前にもどこかで書きましたが、「日本にはカトリックお嬢カルチャーというものがあるんですよ」と教えてくれた方もいました。

それとは別に、今日のブログでも触れましたが、明治以降の知識人で、特にプロテスタントから無教会主義系で、キリスト教の精神を民主主義や人権などに結びつけて軍国主義や国家神道やらへの抵抗思想とした人たちの系譜もありますね。

でもその人たちは、神の摂理の予定調和などに疑問を感じて、いわゆる信者になる人は少数でした。

日本では、いわゆる貧しい人を救う、共同体から疎外された人を救う、という点では、新興宗教のネットワークが活躍したと思います。困難な状況にある人のところに出かけて行って支援と勧誘をセットにしたことが多かったのですね。

教会の方は、扉を開けて待っているだけで、すでに信者である人の共同体のケアという内向きのものが多かったのではないでしょうか。

貧しい人、一人暮らしのお年寄り、病人、母子家庭などのところに積極的に出向いて寄り添うタイプの活動をし続けてきたのは各種の修道会というイメージでしょうか。でも彼ら彼女らは、それこそマザー・テレサと同じで徹底して奉仕するだけで新宗教やカルトのような勧誘など絶対しませんから目立たないし、「海外ブランド」のようなカトリックとは別物と意識されるのでしょう。

日本にいる外国人がカトリックのコミュニティを通して助け合いやネットワークづくりをするのはうらやましいですね。
彼らの方がある意味では割り切っていると思うし、「困った時の神頼み」式の信仰や帰属意識の強さというものはすごいなあと思います。

ミッションスクール間の国際的なつながりも羨ましい感じです。(私には縁がないものばかりです。)

今の教皇の言っているのは、貧者を招くというより、動く元気もなく傷ついている人のところに積極的に出て行って野戦病院のように助けよう、ということですから、活動修道会の精神と近いですね。カトリックでなくても他のNGOとも協力しあう開かれた奉仕が目指されているのでしょう。

マザー・テレサの列福の奇跡は腹部ガンの30歳の女性で、今回はその13年後の2008年に35歳の男性で複数の悪性脳腫瘍があり、手術室で昏睡し、手術開始予定から30分後に外科医が来たら座って治っていて、「私はここで何をしているのか」と聞いたというやつです。腫瘍はすべて消えていました。奥さんがマザーテレサに助けてくださいと祈ったとか。前の奇跡は患部に不思議のメダイをあてていた、という話でした。

今回は9/5に、「現代の医学では説明不可能」という結論が出て、12/5にそれの奇跡としての神学的整合性が認められたという話で、列聖が来年の9/4ということですね。
マザーテレサのようなビッグネームなら祈る人も多いでしょうから、公式認定されない奇跡の治癒もきっとたくさんあると思います。

日本でも尊者認定されて奇跡を待っている蟻の町のマリアだとか調布のチマッティ神父とかいますし、取次ぎの祈りの文も紹介されていますから、祈っていれば治らないでも気持ちが楽になるかもしれません。
メダイでも他のお守りでも、奇跡でも「神の手」の外科医とかでも、苦しんでいる人が楽になったり治ったりするのは歓迎です。

カトリックでいうと、65歳以上の人は病気でなくとも病者の秘跡を受けられるというので、65歳になるのが楽しみです。
まあそんなことを言っているのは今のところ深刻な病気がないからかもしれませんが、生きている限りは何らかの形で人の役に立てるように、避けられる痛みや病気を軽減してくれる良心的なツールはいくらあってもいいなあと思います。

ルルドも、長崎の「ルルド」にはちゃんと水も湧いているそうです(というか昔から健康にいい水の湧く所に洞窟のレプリカを作った?)から長崎もありかなあと思います。東京カテドラルのルルドもいい感じだけれど水はないです。

不思議のメダイは、贈る人に信仰があれば「信者でなくとも効く」というスタンスですから、差し上げやすいのではないでしょうか。病気を患われているお知り合いの方のためにどうか祈ってあげてください。

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740kei:2015/12/24(木) 00:23:12
父の慈しみの御顔
詳しいご回答ありがとうございます。拙も聖年にちなみ、とにかく募金箱に必ず入れるという戒律を建て実行しているところです。クリスマスコンサートもアフガンやカンボジアへのチャリティでした。
しかし翻って我が国を見ますと、失業率は低く、皆確かに食べてはいけるでしょうが、ワーキングプアーで心のほうがパンクしているようです。カトリックの美しい典礼で心を休めてほしいのですが、ちょっと声をかけると、「クリスチャンです」と言われ、聞いてみればキリスト教系?新興宗教でした。ますますそれにのめりこんでまわりが見えなくなっていくようです。
フランスと同じようなものを感じます。オウムのようにテロをしろと言われればやってしまうような感じです。既存システムからの疎外感は、「自分たち(だけ)が正しい」と言われるとすぐ反応してしまうようです。歴史的にもルネサンスのフィレンツェの閉塞感からサヴォナローラの原理主義が一時期支配しました。日本のプロテンスントでも何やら終末論をほのめかすところもあります、アメリカ映画の「レフト・ビハインド」が教会に(多分映画会社?)が貼ってあってびっくりしました。アメリカはこういう映画は、宗教層の観客動員が見込まれるため、制作されているようです。
教皇のご提起は時期を得たものですが、若干の無力感も覚えます。父の慈しみの御顔とはどういう顔なんだろうか?といつも考えています

https://www.facebook.com/kouji.yamasaki.31

741アップル:2016/03/04(金) 17:07:07
心霊主義について
節子先生、こんにちは。
数年前にたしかキリスト教福音派について質問させていただいたものです。

その時のハンドルネームは忘れてしまったのですが。

福音派教会は日本在住の日系ブラジル人の間にまだまだ存在していますが、
数年前のあの熱狂ぶりから比べると、今は少し落ち着いているような印象です。

かわりに最近増えてきているのが、espritismo のグループです。
調べてみるとブラジル本国では確かに信望する人が多いようです。


彼らのバイブルは、アラン カルデックの書物です。
ブラジルで、サッカー選手にアラン カルデックという選手がいるくらい
多くの人が名前を知っています。


現代のフランスではどうなんでしょう?
アラン カルデック及びスピリチスムのフランスでの位置づけ
を知りたいのですが。よろしくお願いします。




私が知りたいのは、アラン カルデックの国フランスでは

742sekko:2016/03/05(土) 07:55:42
アップルさま
そうですか。

ブラジルではカルデックの本が3千万部も売れているらしいですね。

フランスでは、確かにペール・ラシェーズのお墓はいつも花がいっぱいですごいなあと思いますが、まあオカルトの位置づけですね。

カルデックも、もとは子供たちを迷信から啓蒙しようという合理主義の教育者でしたから、アメリカ由来の「霊との交信」に本格的にはまってからも、霊名(?)を使い分けて、スピリティスムも「科学」の言葉で語ろうとしていました。

だから、一応、宗教とは違う、というスタンスで、無神論のイデオロギー陣営ともキリスト教陣営とも直接衝突しないで、文化人を含むかなりの人の「オカルト趣味」として一時はかなり浸透していたようです。

今はオカルトのon of them という感じでしょうか。

ブラジルのようにカトリック、先住民インディオの土着宗教、17世紀から奴隷として連れて来られたアフリカ人の土着宗教の三つの心性が混然としている所だからこそスピリティスムがその三つをつなぐけれど既成宗教とは直接バッティングしない形で自然にシンクレティズムを形成したのでしょうね。

スピリティスムが新宗教の形をとるとベトナムのカオダイ教のような分かりやすいシンクレティズムとなります。宗教でなく「科学だ」とか「実在する超常現象だ」という形で信奉者を獲得するビジネスになる場合もありますね。

日本では土着のシャーマニズムの伝統や先祖との交流みたいなものが心性として残っているので、カタカナのスピリチュアリスムはそれらとフュージョンすることはなく、カタカナのオカルト、カタカナのスピリチュアリスムとして別枠で存在するのかもしれません。

カルデックはブルターニュの名で、前世がドルイッド教であるとしてキリスト教以前のガリアの土着宗教と結びつけることで正統性みたいなものを担保しているわけですが、そしてお墓もドルメン型ですが、ブラジルではそんなことどうでもいいような気がします。

でも、亡くなった人との魂の交流そのものは古今東西よくある話で、別にわざわざ科学だと言わなくとも、そして詐欺や騙りもあるでしょうが、「宗教」とか「霊性」とかとは別枠で考えればいいのでは、思います。

今、あるジャーナリストが、父親の棺に4つのものを入れて埋葬し、有名な霊媒4人に父親にコンタクトしてそれが何か伝えてもらうというテストをレポートした本を読んでいます。おもしろいですよ。

結局は、病気や治療や治癒と同じで、現象は似ていても、その原因も経過もケース・バイ・ケースとしか言いようがなく、教義や教祖をたてるのは罠か誘惑か誤りか矮小化なのでしょうかね…

http://setukotakeshita.com/

743アップル:2016/03/05(土) 11:19:48
(無題)
お返事ありがとうございます。

フランスでは、なんというかやっぱり予想通りオカルト扱いなんですね。

節子先生がおっしゃるように、もともとブラジルには文化的に親和性があったということで、
独自に発展していったのでしょうね。

日本在住日系人たちが集まるスピリティスムのグループに属する人から
耳にするのは、輪廻転生についての講義を受けたり、
espirita という指導者が無料で人々の悩みを聞いて
アドバイスしたり、病気の人にはspiritual surgeryを施すというような
ことです。

ブラジルではシコ シャビエルという霊媒(故人)が今でもとても
尊敬を受けています。

日本人の私としてはなんだか胡散臭く感じてしまうのですが
ブラジル人たちは「シコ シャビエルは
お金を取らずに人の役に立った人」と讃えます。

福音派の動きが落ち着いてきたのは、彼らの教会のマーケティング戦略
に嫌気がさした人が増えて離れたからだと思います。

節子先生が読んでおられる本はフランスのジャーナリストが書いた本ですか?

私の勝手なイメージでは霊媒による話などは
フランス人にとっては完全にゲテモノ扱いなんじゃないかと思っていました。
でもそうでもないのでしょうか。感心のある人がいるのはいるのですね。

744sekko:2016/03/05(土) 18:48:53
アップルさま
その本について、ブログにリンクをはっておきました。

http://spinou.exblog.jp/25374556/

いろいろ考えさせられます。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

745アップル:2016/03/07(月) 10:15:36
sekko先生
ブログのリンクありがとうございました。

とても興味深く拝読しました。sekko先生のこうしたテーマへのスタンスが
理解できたことがよかったです。

 Le test: Une expérience...のアマゾンの紹介文を読んで、フランスでも
人間はどこでも同じなんだ(死者がどうしているのかを知りたい、死後の生があるのか知りたいという気持ちを持っている)とほっとしました。

死後の生、今日ではそれは理性に基づいた仮説なんだ、という文章は
フランスらしいというか。

またブラジルではどうなのか、ただ遠巻きに眺めているだけでなく私なりに
調べてみたいと思います。ありがとうございました。

746スイス鉄道のように:2016/04/30(土) 23:00:41
縄文に感じて?
こんにちは。
いつもL'art de croireの記事を拝見させていただいております。
出雲に行かれておられるんですね...
そこは、縄文文化が色濃く残る地だと言われておりますね。

そして、”縄文”というと、日本人の遺伝子の4割は縄文系だそうです。
最近読んだ本(『DNAでたどる日本人10万年の旅』崎谷満著)で知りました。
科学的な証明の裏付けがある内容でした。

さらに興味深いことには、古代エジプト人やユダヤ人と縄文人は近縁だそう。
すなわち、ハム=セム語族の先祖の一部は、ペルシアから南インドへ行きドラビダ人になり、
さらに一部は、東南アジアから中国を北上し、朝鮮半島経由で日本に来たらしいとのこと。
しかし、分岐は3万年前だそうです。

しかしそう見ると、南インドのドラビダ系の言語と日本語の関係を研究した大野晋氏の『日本語とタミル語』は一定の根拠をもちますし、
ヘブライ語と日本語は同祖というトンデモ本や日ユ同祖論なども意外と空想でもないように思えてきます。

竹下様はカトリックでおられ、古代ユダヤ文化にもある程度通暁しておられるので、
縄文と中近東の比較をし、どう感じられるかご意見を聞いてみたいような気がします...

http://likeswissrailway.seesaa.net/

747Sekko:2016/05/03(火) 20:50:42
「スイス鉄道のように」さま
そうですね。『キリスト教の謎』でも触れましたが、ローラシア大陸や古代の超大陸のことを考えても、北アフリカから中近東と日本の古代とが関係があるというのは不思議ではないと思っています。

ただ、それらが経由してきたはずの中国では、秦の始皇帝の焚書以来、神話的なものの記録が極端に少ないそうで、各種の技術伝搬はともかく、メンタリティはどこかで断絶してしまった部分があるのかなあと、中国民間信仰の専門家である友人と最近話していて思いました。

ユダヤ教にはメソポタミアよりも古代ペルシャ文化の影響の方が決定的だったかもしれないと思っています。それとエジプトからの移民が合流したかのような部分もあるようですが、いろいろな研究や異説が進行中です。

http://www.setukotakeshita.com/

748スイス鉄道のように:2016/05/15(日) 14:09:14
聖霊降臨について
こんにちは。
聖霊降臨の主日、おめでとうございます。
L'art de croireで聖書の聖霊降臨についてお書きになられておられますが、
私の理解(といいますか、今まで読んだ文献,神父様の講義や説教からの理解)では以下の通りです。

まず、基本的に、旧約と新約は「合わせ鏡」...
対(つい)になっています。少なくてもキリスト教では。
よって、新約の聖霊降臨もまた、対になった記述のひとつ。
すなわち、旧約のバベルの塔の物語によって散らされた人々は、
新約の聖霊降臨によって、”集められた”のだと。
その証拠に、教会のことをギリシア語で「エクレシア」と言いますが、意味は「集められたもの」だそうです。

このように考えると、イエスキリストも、この世にやり残したことがあったのだとも言えます。
キリストは、新約では、旧約の完成として語られています。
律法の完成、乙女から生まれる救世主の物語の成就、動物を犠牲にする祭儀の自らの身による置換、などなど。
旧約の信仰の限界や行き詰まりを打開し、瑕疵を癒やし、完治させる者として描かれている...

しかし、ただひとつ、天に昇る前にやり残したことがあった...
それが、傲慢によって全地に散らされた人々に対する『救い』です。
この瑕疵に気づいたパウロら初期教会時代の神学者たちは、この瑕疵を治癒させる記述を盛り込んだ...
それが、新約の聖霊降臨の記載...
こう考えれば、つじつまがあいます。

旧約は父なる神が働く時代、キリスト生誕から昇天までが子なる神が働く時代。
そして、キリスト昇天後から現在までは聖霊が働く時代。(ヨハネ福音書14章)
つまりキリストはすでに昇天してしまって、この世にはいないので、
「聖霊の働き」を聖霊降臨の記載に描かざるを得なかった、ということだと思います。

http://likeswissrailway.seesaa.net/

749sekko:2016/05/15(日) 17:32:09
「スイス鉄道のように 」さま
ありがとうございます。

聖霊降臨の意味、「スイス鉄道のように 」さまのご理解でよろしいかと思います。

私が今回ブログに書いたのは、別に解説とか解釈とかではなく、今まで、「聖霊降臨」って不思議だなあ、と思いつつ教科書的にスルーしていたのが、最近フランスのカトリック雑誌で「…ように」の表現に注目しているものを見つけて、なるほど、と感心したことを分かちあうためでした。

標準的な解説や公式見解をさがしていらっしゃる方は、別の形で検索できると思うので、想定していませんでした。だから聖霊降臨と自由という取り合わせに違和感を感じた方があるとしたら申し訳ありません。

それよりも、こんな話題にこんなにまじめなリアクションをする方ってどんな人だろう、と思って「スイス鉄道のように 」さまのブログを拝見して驚きました。

この投稿をくださったこと、また私のブログを読んでくださっている(あるいは偶然に今回だけ?)ことと、プロフィールとのギャップが新鮮でした。

私は何でも好奇心をそそられる性分なので、「スイス鉄道のように 」さまのブログにリンクされていた他の方のブログもあれこれ読んでしまいました。

絶対に自分ではたどりつけなかったようなブログであり分野です。

聖霊降臨祭にぴったりの体験ができて感謝しています。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

750宮野:2016/07/16(土) 19:27:25
LGBT+ カトリック・ジャパン
ご無沙汰しております.お知らせをしたくて,書かせていただきました.
昨秋から,LGBT+ カトリック・ジャパンという信徒団体を私ともう一人の発起人で始めています.
両名ともLGBT+ではなくて,所謂ALLY (協働者)です.
LGBT+とALLYで7/17から毎月ミサを始めます.

数名の司教様や神学者,司祭にお会いして,少しずつ足固めを始めています.
どうぞ,よろしくお願いします.

フェイスブック:LGBT カトリック・ジャパン https://www.facebook.com/lgbtcj
ブログ:http://lgbtcj.blogspot.jp/

751sekko:2016/07/18(月) 18:30:40
宮野さま
ご連絡ありがとうございます。
有意義な活動のイニシアティヴをとられていることもありがとうございます。

パリでは、私が前にBlogでも書いたマレー地区のSaint-Merry教会で月一度、LGBTの他、すべての人にOKのミサがあります。

ダビデとヨナタンhttp://www.davidetjonathan.com/

というパリ市公認のアソシエーションが主導で、もとはゲイの人が中心で、キリスト教同性愛者運動の一環としてもう何十年もミサがあります。ミサ、祈り、分かち合いなどがあります。もとはまだ同性愛が刑法上の罪として残っていた1971年に始まり、1981年の社会党政権の誕生と共に1983年に今の形の公認NPOとなりました。旧約に由来する「ダビデとヨナタン」はグループの刊行物のタイトルでした。

私は男女の同性愛者といっしょに25年も演奏活動をしているので、彼らと日本に行くたびに、日本のコミュニティと連絡を取りたかったのですが、敷居が高くてかないませんでした。

フランス人二人を連れて新宿二丁目に行く勇気はないので、三丁目で、ネラン神父の「エポペ」だとか、最近は歌川たいじさんの「タックスノット」などに行きましたが、全員タバコの煙に弱いこともあって長居はできませんでした。カトリック教会で演奏したり愛徳姉妹会に泊めていただいたりしましたが、いつもなんの差別も受けませんでした。

性的傾向はグラデーションであり、ほとんどのケースは生物学的要因(ホルモン)で決まってしまうので本人には選択の余地がなく、それを「賜物」として受容できなければ他の心身の「障碍」も受容できないものとなってしまいます。

いわゆる「マジョリティ」の人たちよりももっと切実に超越的なものを必要としていらっしゃる方々のために何かお役に立てることがあれば声をかけてください。

http://setukotakeshita.com/

752宮野:2016/07/20(水) 21:44:41
ご返事に感謝
ご返事くださって,こころから感謝します.
フランスの事情も知らず,伺えただけでもとてもありがたいです.

7/17のミサは,20名ほどで分かち合いました.感謝です.
これから毎月,少しずつ心の扉を開きあっていければと願っています.

これから信友になっていきたいと,互いに握手した方で,例えば,
幼児洗礼で,マスールの厳格教育により自己否定感が強くて,30年ぶりにミサにあずかった方,
LGBT+は病気といわれた友人信徒が自殺したため,正教信徒からカトリックに転会勉強中の方,
LGBT+を理由にカトリックへの転会を拒否され,受けられるはずの聖体拝領も拒否された方,
トランスジェンダーを告白せずに受洗した罪悪感を司祭に解放してもらった方,
男性で受洗して性転換後,戸籍変更もできたので,教会籍を女性に変えたかったが,それはローマの判断が必要で,問合せができないため,断られている事例
誕生時から染色体のせいで両性を生きていて,父なる神という表現に今も身が切られると感じる方,
等,様々あります.これからもっと分かち合われると思います.
本当にイエスは,根源的で全てなんですね.
イエスに会いに皆さん来てくださいました.


それで,新宿界隈のこと:
日本キリスト教団新宿コミュニティー教会中村吉基牧師は,新宿5丁目で教会をなさっています.
http://sccmission.net/index.html
東京レインボーパレード2016で,ブースが隣同士でお話もできました.
新宿界隈は詳しいと思います.今度お会いしますので,禁煙の店等いろいろ伺ってみます.

中村牧師は,元カトリック神学生で上智界隈の修道会系出版社勤務経験もあり,代表の神父様とも旧知の仲のようです.
その神父様とも私達はお会いして,LGBT+ 信徒とのわかち合いのため,今度私達のミサの司式をして下さることになりました.
将来は出版企画を種々考えていきます.ぜひそのときは,ご指導をお願いします.

共同発起人の小笠原は仏語TOBを普段から読んでいる精神分析家なので,理論面からもいろいろ考えています.
ホアン・マシア神父にお会いし,私達と協働して下さるとお約束もいただいて,司教団の皆様への献身もして,協働できるように努めたいと願っています.

753sekko:2016/07/20(水) 22:50:27
宮野さま
17日の最初のミサ、実りがあったようでよかったですね。

私は10月から11月にかけて日本なので、もしそちらのミサの日付けがフリーであればぜひ参加したいです。

新宿にそんな教会があるとは知りませんでした。ホームページも興味深く拝見しました。

「ヨーロッパの死者の書」はデジタル版が筑摩書房からもうすぐ出る予定です。

またお気軽にご連絡ください。

http://setukotakeshita.com/

754宮野:2016/07/21(木) 00:08:15
ごミサの予定
本当にありがとうございます.感謝いたします.

10/9or16のいずれかの予定,11/27は確定です.
午後1時30分からミサ その後分かち合いを5時頃までします.
毎月司祭が代わり,多くの方々と関わりが増えるようにと務めています.
場所は,都内の交通至便地です.
場所と司式司祭は未公表なので,別途ご連絡します.
8月からは東京教区ニュースに毎月ミサ案内が掲載され,LGBT+という文字が初めて出ます.

あの素晴らしいコンサートを今年もなさるのですか?

「ヨーロッパ死者の書」は広汎に広まるのが当然必然の書です!
発刊記念対談をしてくださればと...
養老孟司「身体巡礼」(新潮社)と「ヨーロッパ死者の書」の精神潮流の接点
大津秀一「死ぬときに後悔すること25」と「ヨーロッパ死者の書」の知恵
とか.

755スイス鉄道のように:2016/07/27(水) 19:50:32
われわれが為すべきこと
こんにちは。
L'art de croire、いつも拝読しております。
わたくしの今の考えをまとめてみました。

私たちカトリックには、”死”は終わりではなく始まりです。
理由は2つ。

1.
イエス・キリストの十字架における死がなければ、カトリック教会は発足しなかった。
イエスが官憲に捕まった時、弟子たちや取り巻きは蜘蛛の子を散らすように皆逃げました。
ペテロなんか少し遅れて捕まったわけですが、イエスと面通しをされ、「そんな人知らない」と3度言い張って難を逃れました。
もっとも、あとで涙を流しましたが...
結局、イエスの死と復活によってカトリックは始まったのです。
もしイエスが終身刑にでもなっていたら、カトリック教会は今存在していません。

2.
カトリックではミサで信仰宣言をしますが、
「私たちは聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の許し、からだの復活、永遠の命を信じます」と唱えます。
つまり、将来のいつか、正しい人は神様によって生き返らせてもらえるのです。
それが教義ですよね。
特に、理不尽な死に方をした人は必ず将来生き返ると考えます。
なので、今回の事件の被害者のジャック・アメル神父は、必ず将来生き返ります(復活します)。

よって、死は悲しむべきものですが(なぜなら死を悲しむのは自然だから。自然=神の創造したもの、だから)、それで終わりではありません。
次へつながるものです。

今回の事件によって、「信仰の炎」が心の中で燃え上がるような想いがしております。
愛と赦しといつくしみによる生き方をせよ、そして広めよ、一刻も早く、おまえの身の回りからすぐにでも始めよ、ぐずぐずするな、ぼうっと見ている場合ではない、傍観者になるな、日々の生活のすべての局面で積極的に行動せよ、福音にのっとった生き方によって、ということかな、と...

http://likeswissrailway.seesaa.net/

756sekko:2016/07/27(水) 22:55:41
「スイス鉄道のように」様へ
「スイス鉄道のように」様がそのようにお考えになれることが、今回のテロでカトリックの司祭が犠牲になったことの大きな意味の一つだと思います。

フラ・アンジェリコの言葉に

「世界の闇は一つの影に過ぎない。その後ろに、我々の手の届くところに、喜びがある。この闇の中には、我々に見えることが出来さえすれば、素晴らしさ、言い表せない喜びがある。そしてそれが見えるためには、見ようとするだけでいいのだ」

というのがあります。

死からの復活だけではなく、今ここで呑み込まれた闇からの復活でもあります。

「死」を前にしても「光」の方を見る、ということですよね。

普段はそういうことが理屈としては分かっていても、こういう事件がそういうことをリアルな実践として教えてくれるのは「恵み」なのだと思います。

アメル神父が将来復活するかどうかよりも、今、この世での使命をより広げて新たな使命を遂行し続けているんだなあと思います。

罪のない子供や若者たちがテロの犠牲になるのももちろん不当で悲しいことですが、それだけにリアクションが「怒り」や絶望や恐怖や報復に向きがちです。

アメル神父が犠牲になってくれたからこそ見えてくるもの、言葉にされる赦し、意識される友愛の必要性、などを感じて、感謝の念すら覚えているところです。

http://setukotakeshita.com/

757宮野:2016/07/28(木) 11:09:08
人生は死んでからが本番...
フラ・アンジェリコ氏の言葉に,感謝.

皆様におすすめして,ほとんどの方から「読んで良かった」と言われる自慢の本があります.

?竹下節子先生著「ヨーロッパ死者の書」ちくま新書 ISBN-13: 978-4480056429

私はカトリック国の人々の死生観には,幾つもの入り口があるという深さを初めて知りました.

「戒名という別の名前になるのを嫌悪していて,どうしたら良いか?」と尋ねられたので,この本を紹介しました.入信に至るのはこれからですが.

私は,興味関心(信仰的・霊的・知的)が揺さぶられて,心が動きます.そして,「死を受容して,人間的になる,大人になる」という感じ方になりました.皆様,是非ご一読を! または,再読を!

以下駄文ですが.

私が霊操でいただいたイメージでは,「神の意思で受精し,霊魂と肉体があらわれ,帰天した霊魂は神を賛美して神のために働き続ける」です.

私の両親は帰天していますが,身近にいるようで,嬉しいです.

親しい宣教師は,「死は劇場の幕が上がり,言いようもない素晴らしいドラマが始まる時」と言いました.

難聴の知人に「死は隣の部屋に行くようなもの.でも,私の場合は違うの.今度は目が見えて,耳が聞こえるの」(ヘレン・ケラー)と話したら,嬉し泣きしていました.

熱心な知人は,「私達は今,復活した体を生きている霊気というイメージ」と言い,驚きました.

まとまりがなく,すみません.

758sekko:2016/07/28(木) 17:47:51
宮野さま
ありがとうございます。

キリスト教の死後の世界の考え方で私が一番ぴったりだなあと思ったのは、「二人の胎児の会話」です。ドン・ボスコ新書の『生き方をインスパイアする25の話』にある「おなかの中の対話」で紹介しました。

これをもっと広めたいなあと思っています。

『カトリック生活』11月号にはスターティングについて書く予定です。

http://setukotakeshita.com/

759宮野:2016/07/28(木) 22:06:16
感謝
ご返事に心から感謝します.

サプリ2巻目は,本当に間が悪くて,友人に貸したままになっています.
アマゾンで再注文しました.
多分あのエピソードだと思います!
「スターティング」も待ち遠しいです.

私は最近,Suscipe(霊操234番)を観想する生活が望みになってきています.
生かされて生きているという感じがします.

8月初旬に巡礼風の旅をします.
ローマ:聖イグナチオ・デ・ロヨラへの巡礼
パレ・ル・モニアル:イエスの聖心への巡礼
「観光は?」と言われますが,
「それより,祈れば御国観光ができるし,ガイドは三位一体の御交なんですよ」というと,信徒さんからも呆れられています...

760宮野:2016/08/02(火) 17:01:48
ごミサの予定-変更
三位一体の御交に感謝
竹下先生へ
LGBT+ カトリック・ジャパンのミサ10月日程が変わりました.
晴佐久昌英神父様が司式をして下さいます.

10/23(日)午後2時:集い 午後4時ミサ 司式司祭:晴佐久昌英神父様
場所:都内交通至便地

1/27(日)午後1時30分ミサ その後集い
場所:都内交通至便地

761sekko:2016/08/17(水) 20:32:51
訂正
おしらせ

今発売中の『カトリック生活』9月号(ドンボスコ社)の私の記事に日付の点でミスがあったのをここで訂正します。

実は年号についての単純ミスはよくやるので申し訳ありません。

「私の言いたかったこと」が伝わるかどうかに注意を集中しているので、今の時代、誰でも簡単にチェックできるから訂正してもらえるだろうという甘えがありました。

訂正は次の部分です。

これは私がベースにした批判記事自体に単純ミスがあったものです。

マザー・テレサを批判する人たちの書いたものを紹介する部分で、

「ノーベル賞受賞の折には、ボスニアで組織的にレイプされた女性をめぐる質問に答えて、中絶は平和の最大の破壊者で、母による直接の殺人は直接戦争であると唱えた。
一九九六年のアイルランドの国民投票の折には離婚と再婚の禁止を憲法に加えることを提唱した。」

という部分です。

まず、1979年に「中絶は平和の最大の破壊者」とコメントしてすでに中絶合法化の陣営に批判されていました。次に1994年にカイロで行われた人口問題の国際会議の際の記者会見で、ボスニアのことを尋ねられて「母親による直接殺人」という答え方をしたのです。

それを混同していた批判記事の年代の矛盾にすぐ気づきませんでした。

次に、アイルランドの国民投票は1995年11月でした。そのすぐあと、1996年になって、ダイアナ妃の離婚問題についてインタビューを受けて肯定的に語ったので矛盾しているとまたすぐ批判されたのです。

マザー・テレサが時として激しい批判を受けたのは、それだけ彼女の言葉がメディアにそして政治にまで大きな力を持っていたことの裏返しであり、だからこそ、彼女に対する評価の両義性の意味が何であったのかを、列聖を機会にさぐろうとしたのが私の記事の意図でした。

聖人の列に加えられるという時点で、もう「生前の業績」を超えた次元に参入するのであり、その力が今も大きな実りをもたらし続けているというカトリック教会の列聖システムならではの連帯のパワーを書きたかったのです。

日本にはそもそもキリスト教的な縛りがないので中絶や離婚に関するキリスト教の言説の持つ力とそれに対抗する力のせめぎあいがありません。

でもそれはキリスト教文化圏にとって大問題なので、マザー・テレサのそれに関する言説への批判も厳しいのです。

もちろんカトリック教会全体への批判もたくさんあります。

イスラム過激派への批判よりずっと執拗で激烈です。

聖人の条件となる「奇跡」認定に対しても「蒙昧」批判はいくらでもあります。

私はそういうやり取り自体がどういう文脈で起こっているのかを分析するのが好きです。
奇跡も列聖システムも聖人たちも彼らに祈る人たちもみんな好きです。

私がこの記事で「批判」を紹介したことで誤解を受けるのではないかというお知らせをいただいたので、年代に関するミスの訂正だけここでお知らせすることにしました。

他の「批判」などの内容や証言については、いろんな人がいろんな「目撃」談を長い年月にわたって残しているので、どれが唯一の事実であるかというのは少なくとも私にはわかりません。

でも、マザー・テレサが残して継承された「愛の真実」については疑いをもっていません。

それが私の伝えたかったことでした。

ご理解をお願いします。

http://setukotakeshita.com/

762スイス鉄道のように:2016/11/03(木) 12:45:31
人権、表現の自由、説明責任...
竹下様、お久しぶりでございます。
お聞き及びかどうかわかりませんが、数日前、日本のアイドルグループがナチス風の衣装をコンサートで使用したとして、
海外のメディアまで報道する騒ぎとなっております。

例えば、以下のニュースなどご参考に。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161101-00000035-mai-int
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shivarei/20161031-00063914/
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161101-00000001-jij_afp-ent

結局、ひとことの反論も、説明責任も果たさず、
このアイドルグループの日本の責任者は、謝罪とこのコンサートのテレビ番組への放映を取りやめました。
↓↓↓
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6219483

私自身、ナチスを決して肯定するものではありませんが、
しかし、「表現の自由」という問題もございます。

反論も説明もせず、海外の批判に無条件にこうべを垂れるのはいかがなものかとも思います。

竹下様はいかがお思いになられますでしょうか?
およろしければ、ご見解をたまわりますれば幸甚に存じます。

http://likeswissrailway.seesaa.net/

763スイス鉄道のように:2016/11/03(木) 17:41:00
追伸です...
先ほどの投稿に追伸でございます。
イスラエル大使館がこの件に気づき、関与してきました。
(在日イスラエル大使館のTwitterにコメントしています)
単なるアイドルグループの問題ではなく、結構、おおごとになって参りました...

https://twitter.com/IsraelinJapan/status/793994601312976896

http://likeswissrailway.seesaa.net/

764sekko:2016/11/03(木) 23:02:36
「スイス鉄道のように」さま
うーん、フランスの新聞にも取り上げられていました。

これは表現の自由の問題というより危機管理の問題のような気がします。


ユダヤ人のロビー活動力というのは半端ではないですから、しかも、20年前と違って今のようにSNSが発達していてyoutubeも流れる時代に、危機管理の意識がなさすぎるのでは、と思いました。

私の見た記事ではみな「オリンピックを控えた日本で」ということが付け足されていました。

しかも、カリカチュアやコミックの中の表現などではなく、広く動画が流れるようなもので、未成年の女の子たちにグループでそういう恰好をさせるリスクをとったというのはやはりプロデューサーの責任だと思います。
私が親ならプロデューサーに抗議していたかもしれません。

イギリスの王子のコスプレのスキャンダルもありましたよね。今回はそれよりもパブリックな形ですし。

クール・ジャパンとかでこの種のカルチャーも積極的に売っているわけですから、やはり識別力が大切かと思います。

765スイス鉄道のように:2016/11/03(木) 23:21:45
ありがとうございました
ご返信、どうもありがとうございました。
そうですか。
今回のアイドルグループのプロデューサーが東京オリンピック委員会の理事の一人でもあるという事実から、そういう報道になってしまうんですね...

http://likeswissrailway.seesaa.net/

766スイス鉄道のように:2016/11/21(月) 09:03:33
二人セゾン...
こんにちは。
先日、ナチス風の衣装で問題になったアイドルグループの新曲のプロモーションが始まり、
そのプロモーション用ビデオ(PV)が日本時間の17日に公開されました。
15歳から21歳までの青春真っ盛りの少女たちが東京の風景を背景にパフォーマンスしているのですが、
一度しかない青春の輝き、若さ、純真さ、清楚さなどが見ていて感じられます。
とてもステキなPVに仕上がっています...
シーンは小春日和的でもあり、これからの寒い季節にも心が温まるような作品でもあります。
また、アイドルらしからぬ哲学的な歌詞にもなっております。
曲名は、「二人セゾン」...
およろしければ、ぜひ一度ご覧ください。
↓↓↓
https://www.youtube.com/watch?v=mNpPQXMgtmw

http://likeswissrailway.seesaa.net/

767sekko:2016/11/21(月) 18:38:45
「スイス鉄道のように」様へ
PVはフランスで視聴できないということでした。

でも検索して少し曲を聴き、歌詞など読みました。

あまりコメントできなくてすみません。

私はこの種の集団アイドルグループのコンセプト自体に賛成でないので。
男女ともそうですが、特に女の子たちのは。

みんな可愛いですし、おっしゃるように

「15歳から21歳までの青春真っ盛りの少女たちが東京の風景を背景にパフォーマンスして」、
「一度しかない青春の輝き、若さ、純真さ、清楚さ」

を見せてくれるのは多くの人にとって恵みですが、そんな素晴らしいことが商品化されていることに賛成できません。

似たような輝き、若さ、純真さ、清楚さを持った少女たちを集めてパーツにすることによって生じるひずみも想像できて。

もし私にこの年代の娘や孫娘がいたら、そしてこういうキャリアに夢を抱いていたら、私は絶対反対すると思うし、なぜ反対するのかを本人にじっくり話すこともできます。

いつかこういうことについて書く機会があるかと思います。
今回はこれで。

http://setukotakeshita.com/

768ナカハラ:2017/12/11(月) 16:45:30
フリーメイソンの実態に関するご質問。
サイゾーさんの本年9月号で竹下先生のお名前を拝見してのご連絡です。

ご著書も手配済みです。

サイゾー系の以下の記事に関して、信憑性も含めた竹下先生のご見解をお聞かせいただけると有難いです。

>フリーメイソンは1日4億円以上寄付している!? フリーメイソンで製薬会社の社長が語る「メイソンの真実」!

http://tocana.jp/2015/09/post_7299_entry.html

お忙しいところ誠に恐縮ですが、勝手では御座いますが宜しくお願い申し上げます。

m(_ _)m

https://twitter.com/dotcom07

769sekko:2017/12/11(月) 18:29:30
ナカハラさま
該当記事と同じtocanaのサイトで、前にフランスのフリーメイスンについて私のインタビュー記事が載っています。私の名でサイト内検索をしてお読みください。

該当記事の方は、イギリス、アメリカと、アングロサクソン国のFMについて語っていらっしゃいます。

アングロサクソン系のFMは巨大な慈善親睦団体なので、多額の寄付があるというのは想像できますが、額のことなどは私にはわかりません。アメリカならあり得るかなあ、とも思います。
でも、堂々と寄付できるルートはいくらでもあるのですから、FMを通した匿名で大口の寄付をする人は、FM内での何らかのリターンがあるのでは、とも思います。

またアングロサクソン系のFMはクラブ文化、ロビー文化の伝統の上に成っています。
内部で根回しをしたり利益交換をするのも「文化」です。

でも、国際的に会員同士の便宜を受けられるという意味では、アングロサクソン系FMの別の形であるロータリークラブなどでも同じです。

FMは自分で身分を公表することはできますが、他の会員の名を公表することは禁じられているので、ある会員が外で言っていることの真偽を確認したり訂正したりすることは外部の者にも内部の者にも困難です。ましてやFMを名乗る多くの組織が混在しているので、一般論は言えません。

お役に立てなくてごめんなさい。

私のブログの「フリーメイスン」のカテゴリーにも少し書いています。
選書メチエの中に書いた範囲の歴史などは信用していただいてOKです。

http://www.setukotakeshita.com/

770ナカハラ:2017/12/11(月) 21:10:21
竹下先生宛
ご丁寧なお返事に感謝申し上げます。

有難う御座います。

m(_ _)m

https://twitter.com/dotcom07

771水蓮:2017/12/31(日) 00:04:06
ご教示ください
カトリック信者(一般人)のブログに以下のことが書いてあります。友人が「これって本当?」と確認してきたのですが、私の認識とあまりに違っていて頭の中は???です。

http://blog.goo.ne.jp/maria1968/e/494302a021b693f8f78f9e2f747aaa01

http://blog.goo.ne.jp/maria1968/e/6f10be8c4a88291e68e106146e3b11a8

疑問点1)「カトリックのクリスチャンは、お相手がカトリックの洗礼を受けなければ、離婚歴のある方との結婚は教会法の法律上、することが出来ないのです。」とありますが、私の理解では、カトリック信者は、離婚歴のある人とは、その人の宗教とは無関係に、教会法上では「結婚」することはできず、たとえ法律的に結婚しても「罪のうちに生きている」ことになるので、聖体拝領はいずれにしてもできなくなる、なのですが・・・?

疑問点2)「(離婚歴のある人と)籍を入れるとなると、まずカトリックの結婚講座を必ず受けなければなりません。そして相手の方が洗礼を受けるならば、教会法に基づき、教会で結婚することが出来ます。・・・…彼が洗礼を受けないと、あなた自身がご聖体拝領をすることが出来なくなりますよ」とありますが、私の認識では、離婚歴のある人とは、たとえどんな条件でも教会で(秘蹟として)結婚することはできないはず、なんですが・・・?それとも、離婚経験者がキリスト教徒でなかった場合は、受洗によって以前の結婚が無効になる、なんてことがあるのでしょうか?

疑問点3)それとも、日本だけ特例が認められているのでしょうか?このブログをしている女性はご自分の教会の司祭から、このような説明を受けたということなのですが・・・。

すみません。年末に変な質問で・・・。このブロガーにきいてみたらいいものの、以前にどこの誰とも知らない人のブログに、内容について「本当ですか?」的なコメントをした後、とても不愉快な経験をしたことがあり、それ以来、特定不可能な一般人のブログなどへのコメントは一切しないことにしています。

急いでおりませんので、お手すきのときにでもお返事いただけましたらうれしいです。私も調べてみようとは思っておりますが、竹下先生なら既にご存知かと考えたため…。

772sekko:2017/12/31(日) 02:22:37
水蓮さま
私に確実な返事はできません。

まず、フランスでOKのことでも、日本でダメと言われたことはいろいろあります。
たとえば、65歳以上なら差し迫った病気がなくても病者の塗油を受けることができるはずなので日本で頼んだら、「病気じゃないのにもちろんダメ」と言われました。

他にも、少し前(といっても30年くらい前?)までのフランスの田舎では第ニヴァティカン公会議前の感覚のままの老司祭さんもいて、冠婚葬祭はけっこう自分ルールでやっていました。それで別に不都合もなくみなやっていたような…。

で、フランスの大都市圏でここ数年の間に結婚や離婚をしてきた人を見てきた限りでは、教会で結婚式を挙げていない限りは、法律婚をしていても離婚していても、事実婚を違った相手と繰り返しても、それは、教会的には「未婚」ですから、問題にされたのを聞いたことはありません。

教会レベルで「初婚」でさえあれば、相手が未信者であっても、洗礼を受けている人の方はもちろん聖体拝領もOKです。

ただ、教会法にも、担当の教区司祭の采配によって、どちらかが教会での結婚に「ふさわしくない」と判断されれば、司祭は結婚式を断ることができる、とありますから、法律婚で離婚に至った事情なども判断に関係してくるかもしれません。
法律婚の離婚を経験している未信者がその後で洗礼を受ける、となると、もちろん、教会での結婚のハードルはぐっと低くなると想像します。

もともと七つの秘跡のうち、結婚の秘跡だけは、司祭から授けられるものではなく、自由な男女の神の前の誓いによって成立します。

16世紀に、教会の許可するしかるべき司祭の立ち合いが必要となって、細かい規定ができましたが、1983年の教会法にもいろいろな例外があって、時と場合によっては立ち合いが司祭でなくともよいし、立ち合いがいなくともよいとあります。

つまり、愛し合い永遠の絆を神の前で誓い合う男女がいるところでは、神に祝福される結婚の秘跡が成立し得るわけで、結婚への意志と愛が、最終的にさまざまな規則に優先するというわけで、なかなかすてきですね。

そこにはカトリックの教義に対する知識やら合意すら条件にはなっていません。

で、そうして結ばれた「結婚」は二人だけではなく、聖霊とも永遠に結びついているわけです。

こういう「両性の愛と信頼」至上主義というのは、社会的動物としての人間の習慣にとってはあまりにもラディカルですが、それを「神」のもとに聖霊によって成り立たせるのはまさに「秘跡」だなあと思います。

「結婚講座」についてもいろいろ規定はありますが、実際はケースバイケースですね。どちらもカトリック信者であっても、原則としては複数回、時には別の婚約者カップルもいっしょに司祭との一時間くらいの講座、というか、お話を聞いて、秘跡としての結婚がどういう意味を持つのかを理解しているかを確認されます。

これは子供に洗礼を受けさせる前も同じです。

事実婚のカップルが生まれた子供に洗礼を受けさせるのも、親たちの少なくとも一方が洗礼を受けていて、二人が望み、子供にカトリックの教育を受けさせる意志があるなら問題はありません。法律的にもカトリック的にも「未婚」の両親であっても支障はありません。

そんなことが支障になっていたら、今のフランス人の親で子供に洗礼を受けさせる人などいなくなってしまいます。

一番厄介なのは、やはり、信者同が教会で挙式したのにその後法律上の離婚をすることで、教会的には離婚はできないので、秘跡の無効を認めてもらう道しかないので大変です。

実際は、次の相手とは事実婚のままであればスルーされますが、その偽善に耐えられない人や、法律的に再婚したいけれどそれでは聖体拝領できなくなるのがつらいという人もいます。

まあ、だから、いろいろな面倒を避けるために、最初から法律婚も教会婚もしないで、洗礼を受けた子供と一緒に成長儀礼としてのセレモニーをこなしていく人もたくさんいます。

以上フランスの場合ですから、日本のことは知りませんが、日本では細かいことを言っていたら誰も教会で結婚する人がいないので、未信者同士でも、それなりの手続き(結婚講座4回とか)を踏めば、カテドラルでだって、結婚式を司式してもらえるようですね。

原則初婚、というのも、法律婚のことで、日本は紙一枚の届けですからフランスとはちがいますね。

フランスの法律婚はもともとカトリック教会での結婚に対抗してできたものですから、市長が市役所ホールで男女に誓わせる公のセレモニーという位置づけで、その証明なしには教会婚ができないという法律もフランス独特です。

今の教皇になってから冠婚葬祭に関する規定のいろいろなニュアンスが、まず、「いつくしみの神」という視点にシフトしていっています。

「恵み」というのは何なのかとまず考えたいですね。

2018年が水蓮さまにとって恵み多い年でありますように。

http://www.setukotakeshita.com/

773水蓮:2018/01/01(月) 01:30:54
(無題)
竹下先生、詳しい御即答をありがとうございます。

そういえば、ある小教区では不可能だったことが、隣の小教区では可能であった、といった話をメディアで読むことがありますが、この件もそうなのかもしれません・・・。

>>>法律婚の離婚を経験している未信者がその後で洗礼を受ける、となると、もちろん、教会での結婚のハードルはぐっと低くなると想像します。>>>
やはり、このあたりでしょうか・・・。

他にもこの関連で書きたいこともありますが、個人的なことになりますので、また、いつかどこかで何かの機会がありましたら・・・。

竹下先生にとっても2018年が素晴らしい一年となりますように。平安。

774水蓮:2018/01/04(木) 20:23:15
あけましておめでとうございます
先日(昨年!)の私からの質問に関連して、ブログ記事でお取り上げになり、「こんなこと気にする日本人なんているのかな」とお書きになっていますが、私の印象では、かなりいます!・・・です。

まず、今回の質問をしてきた友人がそうですし、これまでにもいろいろありました。若い頃から渡仏する頃まで、私がカトリックとわかると、必ずといって「離婚できないんですよね」「カトリック信者じゃなきゃ結婚できないんでしょ」「将来結婚して、離婚したくなったらどうするの」等など、結婚・離婚に関する教会の掟をそれはそれは詳しく知りたがり・・・。

というか、カトリックに関して、初めの質問が結婚・離婚以外のことだった人なんて、いたかしら?と思うほどです。(2番目以降の質問は、そんな話ができる間柄の人の場合は、大抵が性的なこと〜避妊、婚前交渉、中絶〜だったような気がします。)

ところで、竹下先生の結婚における聖霊の位置づけと日本の昔の結婚における仲人の位置づけとのパラレルにはおもわずうなづきました。これは(大半の)日本人にとっての「神」は「世間様」だ、という見方と符号するような・・・。今日の平均的日本人の「神」は何なのでしょうね。「自分自身」?「お金」? 友人の中に、最近の日本人にとっての「神」は「日本」そのものになりつつあると言う人がいます。

775sekko:2018/01/05(金) 01:35:27
水蓮さま
そうなんですか。

>>>まず、今回の質問をしてきた友人がそうですし、これまでにもいろいろありました。若い頃から渡仏する頃まで、私がカトリックとわかると、必ずといって「離婚できないんですよね」「カトリック信者じゃなきゃ結婚できないんでしょ」「将来結婚して、離婚したくなったらどうするの」等など、結婚・離婚に関する教会の掟をそれはそれは詳しく知りたがり・・・。
というか、カトリックに関して、初めの質問が結婚・離婚以外のことだった人なんて、いたかしら?と思うほどです。(2番目以降の質問は、そんな話ができる間柄の人の場合は、大抵が性的なこと〜避妊、婚前交渉、中絶〜だったような気がします。)<<<<

私が、宗教帰属の意識の希薄な平均的日本人として生まれ育ってきた時は、そんなこと気にしていませんでした。アテネ・フランセの神父さんとか以外、カトリックだと分かる人とのつきあいもなかったし。ヘンリー八世がらみで「カトリックは離婚できない」というのは知っていましたが、実生活でそれを気にするようなシチュエーションもなかったです。

やはり、日本ではマイナーな宗教だから、それに帰属しているということは好奇心で見られるのかもしれませんね。

フランスではパリやパリ近郊では、帰属と実際がかなり乖離しているからあまり問題になりませんよね。地方では、フランドルの小さな村のことはよく知っているのですが、何世紀も前からカトリックしかないところで、教会も冠婚葬祭受け持ちの氏神様みたいで、村の人はとにかく全員代々カトリックですから、町内会みたいで、避妊だろうが離婚だろうが人それぞれで気にしてない、という感じですね。
都市の一部ブルジョワ階級のアイデンティティとしての保守カトリックは健在ですが、それも建前的な部分が多いし。

今の時代、「拝金主義」という偶像崇拝がはびこっているのはどこも同じですね。

その拝金主義のグローバリズムという弱肉強食に対して、民族主義と聖性を結びつけて自由や平等を規制したり、妙な純血主義やよそ者排除に向かったりなどの共同体ファーストもありますが、どちらも同じ病の裏表のような気がします。

どんな神さまによるプレッシャーも、それを適用するのは生身の人間なので、やはり、誰をも排除しない社会を実現するために何を大切にすべきかを一人一人がちゃんと考えて行かなければと思います。

http://www.setukotakeshita.com/

776ヴィオラ:2018/01/16(火) 06:22:21
北欧の福音ルター派
はじめまして。
竹下さんのご著書は、何冊か読んだことがあるのですが、とても面白いブログをたくさん書いていらっしゃることを最近になって知り、質問したくなってしまいました。
私は、福音ルター派の北欧に長年居住しています。北欧にいると、ヨーロッパ内の東西南北区分に気づきます。東にはオーソドックスなロシア正教、西にはキリスト教、北はプロテスタント、南はカトリックという大まかな区分です。プロテスタントとカトリックは「近代」と「伝統」として感じられていて、合理的な北欧と奇跡などを信じて非合理・迷信の南欧(フランスが入ることもあります)、男女平等の北欧と女性の地位の低い南欧という見方とあいまって、北欧が一番進んでいるという意識につながっています。
南の方のカトリック教会に行くと、告解室があり、悩める人と牧師が向き合って話をしている場面を見かけることがあります。北欧のキリスト教では、人は心の中で神と1対1で対峙し、神と対話するので、大きな違いがあります。細長い十字一本を壁に掛けただけの教会もあり、原理主義的でもあります。フランスから見た地政図というか、北欧の福音ルター派はどのように見えますか。私は信仰がなく、キリスト教についてよく知っているというわけでもなく、深い質問ではないのですが、お返事いただけたら嬉しいです。

777sekko:2018/01/16(火) 08:07:14
ヴィオラさま
ご愛読ありがとうございます。

スウェーデンですか?

今の季節、日が短くて寒そうですが、今年がより良い年になりますように。

うーん、私にとっては、北欧系プロテスタントって、為政者の宗教を国教にした棲み分けの国のまま21世紀って、アナクロニックな気がします。ノルウェーはさすがに2012年にルター派を国教から外したと思いますが。イギリスだって、カトリックは国王になれないという法律は今も生きていますし、カトリックは公務員になれない、のは一九世紀まで続いていましたし。

フランスはすごく世俗的な国で、カトリック文化圏といっても、日本の仏教みたいなユルイ感じです。「告解」に行く人なんてマイナーだし、「告解」でも、私がブログ

http://spinou.exblog.jp/25470580/

で書いたことがあるように、悩んでる人なんて超少ないのでは、と思いますが…。

プロテスタントのみなさんが心の中で神と対話しているのかどうかはわかりませんが、それも、カトリックの人だって、人それぞれだと想像します。

ただ、宗教って、「教え」の側面、「信」の側面、「わざ」の側面があると思うし、生・老・病・死などの実存的な危機を前にする人は、非合理、迷信、奇跡などを必要とする心性は普遍的だと思うので、ちゃんとした宗教にそういう受け皿があった方が、変なカルトや怪しい霊媒などに頼ってしまうよりはリスクが少ないような気がします。

あまりお答えになっていないかもしれませんが、そうですね、今のフランスから見たら、イギリスや北欧の国教会システムって、国別に分かれている正教会と同じで、政教分離してないなあ、という感じですね。今はどうか確認していませんが、スウェーデンでは行政の一部が教会税を通しての住民登録という形で国教会に委託されています。もちろん信教の自由は保障されていますが、非国教徒でも行政事務の経費分は免除になっていませんでした。

今ちょうど政教分離について書いていたところなので。

スウェーデンのおもしろい話題があれば教えてください。

http://www.setukotakeshita.com/

778ヴィオラ:2018/01/18(木) 03:53:01
ありがとうございます
早速のお返事、ありがとうございます!
フィンランド在住です。最近、少し寒くなってきました。

北欧系プロテスタントは、アナクロな感じなのですね。面白いです。政教分離していないというのも同感です。フィンランドでは大統領以下、大聖堂でミサに出て、その年の議会が始まるし。教区に所属していると、教会税あります。教会から抜ければ、払う必要はありませんが。政治と宗教のみならず、大学と宗教も繋がっています。秋の新学期始まりには、学長などが大聖堂のミサに出ます。あと数年に1度、博士号取得者が正装して大聖堂に行進、ミサに出た後、舞踏会という慣習もあります。

北欧の人は、自分たちは世俗化していて近代的、イスラムやその他が宗教的と大体思っているのですが、実は様々な面でキリスト教は深く浸透していると思います。自分の人生を語る時も、特に女性は 犠牲・苦難を経てより大きな意味づけへというような、イエス・キリストの人生を下敷きにしたような語りをよく耳にします。

ただフィンランド人は、すごく自然が好きなのですが、その「自然」という考えには、どこか「キリスト教以前」とか「異教」というニュアンスがあり、キリスト教的ではないものに対する憧憬があると思います。

竹下さんは、フリーメーソンに興味をお持ちですよね。少し違うのですが、私は騎士団(と修道院)に興味があります。騎士団は、その名前もやや奇妙なものが多いのですが(靴の紐、黄金の皮、クマの殺害者とか)、勲章には細部に渡って非常に細かい意味づけがされていて、フェティッシュです。騎士団は過去のものではなく、今も健在です。ヨーロッパでは国家元首かその任命する人物がグランドマスターで、フランス、フィンランド共に、それは大統領です。現在の騎士団は勲章と国旗によって、誇り、感謝、悲しみ、追悼、慰め等の感情を表現します。近代の国民国家は、その基底に軍事と宗教を持っているようなのですが、こうした制度が国民国家の重要なシンボルとして使われていることをどう思われますか。

779sekko:2018/01/18(木) 06:55:05
ヴィオラさま
フィンランドでしたか。議会も大学も国教のストラクチャーを共有しているのですね。

そんなところで、たとえばムスリムが政治や学問の第一線に加わるのは微妙でしょうね。
スウェーデンなどと違って移民の受け入れも少ないような。

私は北欧のような金髪碧眼っぽい国でアラブ系の人や黒人とか目立ち過ぎるのにどうやって混ざっていけるのだろう、ゲットー化しない方が難しいのでは、と不思議です。フランスは特にパリや大都市は人種の混交が多いので、何人でも目立たないですが。

アジア人に対してはどうですか? 人種差別とか文化差別を感じますか?

私の甥(英仏ハーフ)が、2年前タイのダイビングクラブで知り合ったインストラクターの女性がフィンランド人でした。彼女は今甥の息子をフィンランドで育てています。甥はフランスに来るように言っているのですが、フィンランドではシングルで子育てをするのは簡単なのだそうです。

ああ、騎士団の話でしたね、

フリーメイスンと同様、玉石混交というか、19世紀に、過去のもの、修道士の騎士団、十字軍由来や14世紀の騎士団の名を使って民間で再興したものがたくさんあります。

軍事と宗教がセットになって互いを正当化してきたような歴史は事実ですが、例えばフランスの騎士団とおっしゃっているのはレジオンドヌールですか?

その手のものは要するに個人の業績に国が権威付けをするもので、ある意味持ちつ持たれつというか…。フランスでは最近サウジアラビアのプリンスにも勲章を授けたりしたということが批判されていましたが、完全に政治的、外交的なものですね。

この手の「騎士団」の特徴は、フリーメイスンと同じく内部にヒエラルキー、位階がはっきりと分かれていることです。中世の騎士団には内部の位階はありませんでした。

神殿騎士団のことはずっと調べているのでいつかは書こうと思っていますが、オカルトや陰謀説をインスパイアするようなのでなかなか切り口が難しいですね。

今は知りませんが、少なくとも20 世紀の例では、フランスの国家勲章って、くれるという通知は来るのですが、事前に勲章を用意して購入するのは本人なんですよ。もらえるものだと思って手ぶらで行ったらもらえなかったので、持っている人に借りた、という例もあります。つけてもらえるという儀式が重要なんですね。アンチックショップでもいくらでも売ってますし。

ただし、国家勲章をもらった人の娘や孫娘だけが入れる中高一貫校があって、制服もある全寮制というフランスらしくない場所なのですが、これも、女性限定というのも含めてなんだかなあ、と思います。フィンランドもそうですが、「共和国」っていっても、「?」なものはいくらでも残っていますね。

http://www.setukotakeshita.com/

780ヴィオラ:2018/01/19(金) 05:42:44
(無題)
お返事、ありがとうございます。

フィンランドは宗教に関してはアナクロのようですが、政治に関しては民主主義や人権、法の支配の原則などはしっかりしていると思います。
ソマリ出身の国会議員は少なくとも数人いて、アフガニスタン出身の国会議員(女性)もいました。市民権はなくても、永住権があれば地方議会の選挙権・被選挙権があるので、地方のレベルではもっと色々です。学問も出身国による差別というのは、ほぼないだろうと思います。

移民受け入れは、スウェーデンに比べればずっと少ないです。でも、今後人口減少が進めば、増やしていくでしょうね。まあ、スウェーデンは北の植民地帝国だったし、巨富の蓄積があるお金持ち国です。

金髪碧眼の中で、違いが目立つということはありますね。アフリカ系で、道を歩いていて「国に帰れ」とか言われ、嫌な思いをしている人達はいると思います 。でも、最近は減少しているらしいのですが、アフリカ、アジアなどからの養子も普通にあります。今はどこもそうなのでしょうが、極右の政治家はいるし、ネオナチのようなグループもあります。2015 年の「難民危機」では、受け入れ反対と賛成が拮抗していた感じです。賛成論は、困っている人達は助けようというキリスト教的な主張でした。

私は、幸か不幸か人種差別はほぼ感じたことがないのです。日本人に対しては好意的というのは、あると思います。まあ、そういうのもちょっと問題で、だから日本人で良かったとかは全然思いませんが。

少し前の竹下さんのブログで、お葬式に行く前、バッハの無伴奏5番サラバンドを弾いたとあるのを見て、もう10年以上も前のことですが、父のお葬式から帰ってヘンデルの組曲11番のサラバンドを弾いていたことを思い出しました。父とは親しくはなかったのですが、胸がとても苦しくて、なぜかあの曲を弾かなくてはならない気持ちでした。弾きながら泣きました。竹下さんは、ギターを弾かれるんですよね。私はピアノです。

竹下さんのブログ、これからも読んでいきたいと思います。また、何か質問させていただくかもしれません。その時は、どうぞよろしく!

781sacra 桜:2018/03/06(火) 09:26:17
ゆるしの秘跡
ご返答くださりありがとうございます。
質問をした背景はまず、ゆるしの秘跡が現代のカトリックを生きる上で核心となっていると考えるところがあり、この視点から見えてくるものを探しているからでした。

リンクをつけてくださいましたご記事は掲載時に読んでいました。ブログ記事のおかげでこの二作の感動的な映画を知ることができて有難いと思いました。東京のニコライ堂の記事もおもしろく読みました。「マックス・ジャコブの回心」の一連の記事は圧巻です。たしかに私達が生きている時代の少し前にはすごい人々が沢山おられて、遺してくれた書物や作品等は そこから大きな刺激を得られる資料でもあります。先生がご著書や論文を通していろいろ教えてくださることに感謝しています。また、自分でも少し調べてみたい破門の危機を通過された聖書神学者のことなどもありますが、いずれまた質問したく思います。

今回のことは、もっとごく普通の市井の信者の場合のゆるしの秘跡を巡る思考についてことでした。とりたてていうような劇的な回心があったわけでもなく、大抵は温厚で協調性のある、神学に特に深入りする必要は感じられないけれども、それなりにそこそこ教養もあるタイプの一般信者の場合です。もう少し質問をふくらませるか、具体化させることができるか、考えてみます。

それにしても、先生のお尋ねになられたことも神父さまのお答えもどちらもすごいです。そしてそのことをストレートに書いてくださったことも。どうもありがとうございます。

あと、「再教育」という語で表したかったのは、パリの或いは地方の大都市のカトリック学院などで随時開催されている一般にも開かれているセミナー、半日から一日または泊り込みの黙想会や研修会、都市内にある修道院(托鉢修道会等)で定期的に行われている講義など、結構活発なことをご存知だと思います。

また少し日をおいて質問いたしたく、重ねてありがとうございました。

782sekko:2018/03/06(火) 19:18:42
sacra 桜 さま
なるほど、そういうことだったのですね。

フランスにお住いなのだと思いますが、そして、ゆるしの秘跡が核心ということも共感しますが、私の感じるのは、カトリックにはゆるしの秘跡が核心、キリスト教には「赦し」が核心ということかもしれません。ゆるしの秘跡を受ける以前に自分が多くのこと、多くの人に対する「赦し」を全然できていないと思うので。

フランスの司祭さんの話は、https://spinou.exblog.jp/25470580/ に書きました。

その前にも https://spinou.exblog.jp/25452617/ にも書いています。

この19区の司祭は、聖体を授ける時も、告解の時も、わくわく楽しそうで、人間と神さまが大好きって感じでいいですね。司祭と差し出ゆっくりお話をするのにわざわざ約束をとったりするのは敷居が高いですが、告解の時にいろいろお話できるのは気に入っています。

去年は日本で東京カテドラルの枝の主日のミサに出たので、ミサの前に告解したのですが、うーん、ブログには書きませんでした。メンタリティが違い過ぎて。

フランスの私と同世代か少し上の人は、1970年以前にカテキズムを受けた人ばかりで、この人たちは、まさに、68年で教会からも信仰からも離れた後で、リタイアしてからすごく積極的にいろんなカトリックの講座に参加している人が多いです。パリではプロテスタントの講座もカトリックの人が結構います。
この世代の人は、告解というと、罪悪感、許してもらわないと地獄に堕ちるよ的な上から目線メンタリティの司祭を前にしてトラウマになった人がけっこういるのですが、私が「祝福だけしてもらったら?」とかいうと、結局半世紀ぶりに免償してもらってすっきりしたりしているようです。

パリのアンスティテュ・カトリックで神学部長を2011年から二期6年つとめたドミニコ会のチィエリー=マリー・クロー師は、私が2011年に東日本大震災のチャリティコンサートを開いた時にも来てくれたすてきな人ですが、仏教の講座を持っていて、最初に知り合ったのもヴァンセンヌのパゴダでした。彼から神学部のカリキュラムをもらっていたので周りのリタイア組に配りました。

sacra桜さまのおかげで、今年もちゃんと復活祭しなくちゃ、とスケジュール立てはじめました。ありがとうございました。

http://www.setukotakeshita.com/

783sacra 桜:2018/03/07(水) 08:02:23
ゆるしの秘跡
ご教示くださりありがとうございます。

質問に至った理由のひとつに、この四旬節に上映の「ラパリシオン」(2月26日の紹介記事ありがとうございます)と「ラ プリエール」によせてふと思ったことがありました。両作品の制作は確かに誠実です。ただ、そのあとのこと、その先で学ばなければならない事柄についても触れ得る作品を今後は期待したいのです。神秘を感じること、回心の方向に導かれてゆくこと、愛の存在に気づくこと、でも実人生ではそこから先を生きてゆくのでは? そこで「再教育」というか、むしろ「生涯教育」というかたちのコミットメントのことがでてくるのではないかと。そして救済のコンテクストがカトリックであれば、生涯にわたって年一度は「ゆるしの秘跡」を受ける義務があり、程度の差こそあれ真摯に取り組むことになります。

仰るとおりです。フランスの地方都市ですが、通っています教区教会のごミサに与る方々を拝見しても、68年世代の方にはそういうケースが少なくないのではと思います。リタイアされた後はいろいろ考えたりする時間がとれることも、さらに離婚や病気・介護などのファクターが加わる時には尚の事。またその子供や孫の世代の人達に、カトリックに新たに入信されるケースも多いようです。そして新たに獲得された熱心さを継続するためにも教育の継続が必要であり、そこに「ゆるしの秘跡」の理解の大事さがあると。

「和解」というターム。神さまとの和解、教会との和解。その意義は頭では理解できるのですが。アルフレッド・ロワジーの ? Jésus annonçait le royaume, et c’est l’Église qui est venue ? がよぎるわけではありませんが、後者のほうが前者より難しいと思ってしまうところに私は自分の弱さをみてしまいます。

アルジャントゥーユのレポートでは、これは司祭さまとの秘跡というよりおしゃべり枠の対話だったと思っていました。ところで告解はこちらで仏語でなさる方を好まれますか?

既にご存じかもしれませんが、京都大学リポジトリに告解を対象にフィールドワーク調査を試みた珍しい論文があったので、題名とURLを :
? 主体化をめぐる複数の回路とトランスカルチュレイション : マルタにおける告解の事例から ?
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/177240

ご返答くださり本当にありがとうございました。

784sekko:2018/03/07(水) 19:19:07
sacra 桜さまへ
京大の論文、さっそく読みました。

告解が司祭対平信徒とあるのが少し気になりました。司祭も告解をするのですから、マルタのようなコミュニティで司祭同士が告解している内容の方に好奇心があります。それとも内輪同士ではなんだから別の教区から告解司祭にきてもらっているのかしら。

私も一度はフィールドワークを考えて、同じ罪を告解したらだれがどうこたえるのかを比較しようかともしましたが、やはり、向こうに一方的に秘守義務があるのではフェアでないので、もっぱら質問ばかりしています。フランス人司祭は話好きだし考えを言語化するのがうまいですから充実しています。

日本のことはよく知らないのです。しかもマイノリティ独特のメンタリティに同調圧力も加わって、フランス頭で関わると??なことばかりです。

なかよしの宣教師さんや神父さんとは話がはずみますが、突き抜けて自由なのはシスターたちだなあといつも思っています。

密室のフィールドワークというのはもうずっと、霊能者とか占い師を対象に日本でもフランスでもやっていますが、日本ではあまり質問すると嫌がられます。自分は自分の話をするためにいるんじゃない、と言って。
私は時間をお金で買っているのだから取材であることも隠さないのですが。
でも、本当に霊感のありそうな人?からは、「あなたは自分のこと何にも考えていませんね」と見抜かれます。

私は告解司祭とか、占い師とか、心理療法士とか、「罪の精査や来し方行く末など自分のことばかり考えてやってくる人々」と一対一である程度の責任をもって対応する人たちが、相手との「関係性」をどう捕らえているのかに興味があるのです。

だから、聖霊が働くかどうかとは別に人間性の豊かでない相手だとがっかりします。

「和解」についても、個人的にはほとんど気になりません。

私にとって、和解というのはある程度対等な関係にあるからこそ対立している相手との間に赦したり譲ったり赦されたり譲られたりして構築していくもので、「神」とか「教会」など自分より大きいものとの関係ではないからだと思います。

神も教会も一方的に赦しいつくしんでくれるという信頼があり過ぎるのかもしれませんが。
向こうからも信頼されているという気もするのでそれに応えたいです。

論文にあった「善きカトリック信者」の言葉ではないので、聞き流してください。

http://www.setukotakeshita.com/

785sacra 桜:2018/03/08(木) 01:04:48
ゆるしの秘跡
ご返事ありがとうございます。

通常行い難い調査をまとめた稀な論文でしょうか。
でもここでいう「善きカトリック信者」というのは、論文を離れればむしろアブない域に入るところもあるのでは。

共感してしまうは、
>>> 小さい頃は良かった。 [...] でも(大人になった)今はね。 <<<
>>> イヤだから告解に行かない <<<
という胸中が述べられているところでした。
このあたりを追求すると卑近な事柄からやがて形而上の内省にまでいたるから、だから「ゆるしの秘跡」の意味があるのかと。
絶対的に赦されていることを最高の恵みとして受けとめる、それなのに、いやそれだからこそ。と、このあたりに「ゆるしの秘跡」の奇跡が存在するのかもしれないと、ごく普通の信者にとっても。。。そして多分ここでは告解司祭さんと信者とキリストさまの三者で小さな奇跡が実現されるのかなあと。(聖職者の方々も様々な悩みをかかえていらっしゃると思います。ご自身の告解義務の頻度も高いでしょうし。ただ、信者の前にそれをみせる必要は普通ならばないほうがいいと考えます。)

数回にわたって よいご意見とご教示をいただきました。心からお礼申し上げます。先生のご助言のおかげで、からまっていた糸玉がほぐれたような気がします。四旬節後半ですが、さわやかな気持ちで過ごしたいと思います。どうもありがとうございました。

どうぞ、よい四旬節を。

786沖島いちろう:2018/08/25(土) 15:16:16
宗教のじかん
で教えを聞いて努力は正しいかいのりもする

787哲学に興味があります:2018/09/13(木) 12:02:22
カントについて
私は編入を考えています。編入を考えるにあたって、生きるとは何かについて大学の講義で考えました。
そのことを契機に生きることについて考えてきました。
生きている時間は無限ではない。死は誰しも避けることができない。限りある命ならただ生きるのではなく、善く生きたいと私は考えました。このことをなぜ哲学的に研究したいのかと言われても、はっきりと理由が言えるわけではありません。ただ言えることは、編入学を志したきっかけとして、私がこのままの未熟な状態では社会には出れないと感じました。今までの私は、言われるがままに流されて生きてきました。だからこそ、自分に意見があったとしても根拠を考えることができず、説得力のない意見しか述べれませんでした。だからこそ自分を好きになるために自分を形成したい。物事の根本を考えた根のある意見を述べられるよう、哲学を勉強したいと考えました。私の入りたい大学に編入した先輩の多くがカントを選んでいたため、私もカントから研究をしていきました。善く生きるとは何かについてカントも考えています。カントの平和論について、人はそもそも邪悪で放っておけば戦争をしてしまうという意見にとても共感しました。戦争だけではない、他のことにも置き換えて考えることができると考えたからです。平和について真の平和を考えていくのであれば、人間は邪悪ではあるが理性を持っているために、道徳について考えることができる。道徳があって真の平和に導き出せると思います。編入後はカントの考える道徳について、原文から解釈することで理解していくとともに、カントが生きていた時代の近代の近代哲学史を研究したいと考えています。近代史を研究する理由として、カントが平和について考える契機は歴との関係、ロマン主義、戦争が関係していると考えました。カントの考えを深く理解、総括的に理解するために、近代史の研究もして生きたいと考えました。しかし、幸福について、他の哲学者、例えばラッセルも考えていました。カントに絞った理由、根拠は何かと言われたら先輩がとなってしまいます。私の考えが浅はかなことは承知です。でもどういう考え方、カントを選ぶ根拠を考えれば考えるほどわからなくなってしまいまhした。どうかアドバイスをいただけたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。

788マルヤ:2018/10/02(火) 10:42:31
文献についての質問です。
初めまして。
大学3年生で卒論をイエスの父ヨセフについて書こうと考えております。
竹下先生の『〈弱い父〉ヨセフ』を読ませていただきました。ヨセフについて、信仰の起りから現在の家族の形への影響など幅広く書かれておりとても勉強になりました。
今回、こちらに投稿させていただいたのは題名の通り、『〈弱い父〉ヨセフ』の参考文献を教えていただきたいと思ったためです。主要参考文献は、本に載っており、その他の文献は公式サイトで、とのことでしたが、サイトにアクセスできませんでした。ブログや新公式サイトも探してみたのですが見当たりませんでした。もしそちらに載っているようでしたら教えていただきたいと思います。何卒よろしくお願いいたします。

789Sekko:2018/10/02(火) 18:19:05
マルヤさま
ごめんなさい、確かに、他の参考文献はサイトでにあるような書き方をしていますね。

聖ヨセフはカトリックではビッグネームですから私の本の後にもたくさんの論文などが出ています。

google.frではこういうものが最初に出てきます。よくまとまっています。

http://voiemystique.free.fr/saint_joseph_04.htm
https://questions.aleteia.org/articles/135/qui-est-vraiment-saint-joseph/

英語なら、saint joseph theologyで検索するといろいろあります。

日本語では検索したことがありませんが、神学研究があると思います。

ドン・ボスコ社から出ている月刊の「カトリック生活」の今年の3月号は聖ヨセフの特集で、私もフランスの聖ヨセフ崇敬について書いています。バックナンバーを購入できると思います。

プロテスタント雑誌の「信徒の友」の今年の12月号には家族の形を考えるためのヨセフ論を依頼されて書いているところです。

今はネットで多くの情報を得ることができる時代で、取捨選択、そして自分が何を言いたいのか、をよく考えて、卒論以降の生き方につなげるようなものをぜひお書きください。

http://www.setukotakeshita.com/

790マルヤ:2018/10/02(火) 18:45:39
ありがとうございます。
参考文献に関する質問へのご返信ありがとうございました。
参考にさせていただきます。
また何かありましたら質問させていただくことがあるかもしれません。よろしくお願いいたします。

791清眞人:2018/10/30(火) 09:11:47
献本先
清眞人と申します。先日、藤原書店から『フロムと神秘主義』を出版しました。同書で竹下さんの『キリスト教の謎』を取り上げさせてもらいました。第?部につけた補注13と第?部第五章360〜361頁の箇所です。同書を献本させていただきたいので、送り先をご連絡くださいませんか?藤原書店にご連絡ください。

792グラ:2018/11/07(水) 10:55:38
新刊を拝読させていただきました
ご無沙汰しております。
「神と金と革命がつくった世界史」を読ませていただきました。
一度の通読では理解不十分なのは、私の力量の無さだと感じております。

アメリカの中間選挙はどちらが勝利しても分断が解消することはありません。
世界規模で、分断や格差が拡大しているのは、この竹下先生の本を読むと、合点がいきました。
原理的に、偶像崇拝化による「帝国主義化」しているグループのガチンコ勝負の観があるのだと思いました。
超克とは、目を覚ますことなのでしょうが、「気違いに刃物」の現状では、冷たい水をどのように用意できるかということかもしれません。
偶像崇拝のメカニズムも学びたくなりました。
新刊の出版を感謝します。

793Sekko:2018/11/08(木) 01:47:54
グラさま
ありがとうございます。

この本はサイトのコメントにも書いたように、私の拠って立つ普遍主義というものの実現がいかに危ういものかを過去に学ぶために考察したものです。

特定の民族、特定の文化、特定の宗教の優位を担保するような偽の普遍的思考とは違い、脱共同体の地平を視野に入れて、1930年代のムニエの人格主義(他紙のブログの修道経済のところで少し触れました)のような新しい社会的な紐帯を、たとえミクロなレベルでも実践しなくては、と思っています。

http://www.setukotakeshita.com/

794若生敏由:2021/03/02(火) 11:30:57
「神の愛と試練」について
「神の愛と試練」に学ぶところがたくさんありました。
 イエスの荒野での試練をエデンの園の禁断の実の話と結びつけた説明は、とても説得的です。

 自由を神とのかかわりで考えることは、けっして無益ではないのでしょう。対立や矛盾の根源を受けとめたり、特定の方向への誘惑を調整できる力がなければ、自由は人間どうしで共有し合う価値を備えられないでしょうから。

「神は全てを与える。全体性以外は」という言葉は、だれのものなのでしょうか。人間どうしが自由であるためには、人間につきまとう不完全さや不可知を失念せずに、与えられている生と世界の現実に向き合い、何が可能かを考えつづけることが問われるのだろう、とおもいました。

「聖霊がイエスを荒野に追いやった」というマルコの一節について。
 ご存じかもしれませんが、田川健三が自身の訳著で興味深いことを記しています。興味深いというのは、本人が若い頃に出した『マルコ福音書・上巻』(1971)での注解を、『訳と註』(2008)では、不正確だったと率直に認めて、「この箇所は霊が何ほどか強引にイエスを荒野にほうり出した、という意味」であると記していたことです。学者であっても、通念や通説との的確な距離を保ち、確信を提示するのはやさしくはないのだなと感じました。

 それにしても、その箇所が三位一体のベースとなるところだという指摘は、信仰のない者を新境地に立たせるはたらきになりました。ほとんど繰り返しでしかありませんが、人間が求める自由に広がりのある秩序が備わるかどうかは、イニシエーションのような試練を経ることが条件になる、と捉え直せそうです。

795Sekko:2021/03/03(水) 04:07:48
若生敏由 さま
コメントありがとうございます。


>>>「神は全てを与える。全体性以外は」という言葉は、だれのものなのでしょうか。<<<

特定の引用ではありません。Dieu donne tout sauf la totalité.というものですが、あらためて考えると意味は二つあります。

ひとつは、親が子供に「ここにあるものはなんでも好きなように遊んでもいいよ、でも、電気のコンセントには触っちゃいけないよ、危ないから」というように、神は「ここにあるものは何でも食べてもいいよ、でも、あの木の実は食べちゃいけないよ、死ぬ体になるから」と、子を思っての自由の制限。それは、制限を設けることで自由というものを探り獲得し選択することを教えるという「教育的?」意味。「‥以外は全部」という言い回しです。

もう一つは、逆で、神のくれる「全て」は「無限」であり、その「無限」は、人間が実存世界、現象世界では理解できないし到達もできないものです。「全体性」というのは人間の想像できる範囲での「全体」を網羅したもので、そのような有限の全体性は、神から来るものではなく人間が自分の都合のよいように他の人間に押し付ける逸脱にもなるという感じです。(そのまた逆で、全てを与えるけれど、無限を含む全体性は与えられない、とも読めますが、無限というのは「含まれない」ので無理かも。)

ともかく、この世にある限り、「全て」を得ることはできないし、やはり超越的感性にインスパイアされた理念みたいなものに拠って、たえず生き方を更新していくことを促されているのかなあと思います。

>>>「聖霊がイエスを荒野に追いやった」というマルコの一節について。
 ご存じかもしれませんが、田川健三が自身の訳著で興味深いことを記しています。興味深いというのは、本人が若い頃に出した『マルコ福音書・上巻』(1971)での注解を、『訳と註』(2008)では、不正確だったと率直に認めて、「この箇所は霊が何ほどか強引にイエスを荒野にほうり出した、という意味」であると記していたことです。学者であっても、通念や通説との的確な距離を保ち、確信を提示するのはやさしくはないのだなと感じました。<<<


それは知りませんでした。田川健三さんの『批判的主体の形成』は、学生運動が挫折した後で大学に入った私のそれこそバイブル的な本でした。誠実に生きるというのはこういうことかと思いました。その後『イエスという男』は読んで、いろいろな気づきを得ました。
今回、若生さまのコメントを読んで懐かしくなり、田川さんをググったら、「神を信じないクリスチャン」だと自称なさっているとか。

「神を信じる」というのは? credere Deum ?, ? credere Deo ? ,??? credere in Deum ?と三つあって(アウグスチヌスからトマス)、「神の存在を信じる」、「神の権威を真実だと受け入れる」、「愛によって形作られた信仰」だというのを当てはめると、私は田川さんと逆で「神を信じる不可知論者」かなあと思います。

神が存在するなら、神は私が信じるとか信じないとか問題にするとは思えないし、科学とか知性とかが「不可知」領域を減らしてくれるとも思えません。でも神が存在するなら神に信頼してもらえるように生きたいものです。『無神論』(中央公論新社)の最終章で書いたことと基本的には変わっていません。嘘をつかない(少なくともごまかしや偽善のための意図的な嘘は)、という基本姿勢は田川さんから学んだものだと今でも思います。

いろいろ考えさせていただいてありがとうございました。

http://www.setukotakeshita.com/


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