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哲学・宗教質問箱

579mimemegene:2012/06/13(水) 23:29:24
ルチア様
前略,
ルチア様を端緒とする交わりに,私も加わりたいと願って,メールをしてしまいました.

私は竹下様が受洗されていると知覚していました.
主イエスと出会った人だ,神が育てた人だ,と感じると言ったほうが,わかりやすいかも知れませんね.
決意をした人,崇め頼む方をハッキリ知っている人の語り方や感じ方の表現を著書に沢山感じています.
私はイグナチオ教会で30年程前に成人洗礼した一般信徒.年の霊操を始めて15年程の男性.

それで,ルチア様に私の日常を,少しだけ分かち合いたいと願います.
書かれている文を読んで,受洗に向き合うセンスがとても素晴らしいと感じたからです.
私個人のつたない経験で,しかも少し長くなってしまったので,
お時間があるようでしたら,読んでみてください.
無視しても全くかまいませんので.

?「ありがとう」「ごめんなさい」「助けてください」
私は毎晩,一日を振返ります.
三位一体の御交(おんまじわり)が私に触れて下さったことを思い起こします.
振り返る順番はタイトルにある順でないと,上手くできない事は,やり続けるとわかってきます.
例えば,「御交様,今日怒りそうになった時,心がなぜか柔らかくなりました.感謝します」という感じです.
この振返りをした後に,前後での心の変化に集中して,何らかの変化を感じたら,それも言葉にします.
できれば,一連のことを簡潔に書き留めると,1週間毎の振返り,1ヶ月毎の振返りの時に助けになります.
?は,「御交との交わりを体験したらどんなに素晴らしいか」というのを,誰もが感じられるやり方だと思っています.

?主イエスは私を慕う
谷川の水を求める鹿のように「あなたを慕う」というのは旧約のイメージですね.
この聖歌で言うと,新約は「神よ,あなたは私を慕う」となります.
御子イエスの方から,私を求めて来て下さっている.人間になった.
更に,御聖霊が常に私と共にいてくださいます.
知識よりも御聖霊への感度をUPするように,私は常々お願いしています.
身体が霊魂を持っているのではなくて,霊魂が今だけ身体を持っているというイメージを描き,
共にいてくださる感覚を味わうように私はしています.
しかも神様は無理強いを決してなさらないので,いつも安堵ですね.

?改心よりも開心
マザーテレサが著書に書いています.
「テオドーア修道女が亡くなる少し前に、どれほど苦しみがひどいか彼女にたずねました。すると彼女は美しく答えました。
『それはイエスと私の間の秘密です』と。」

それで,テオドーア修道女は,「何故私がこんな死を迎えるのか」等も含めて,全てをイエス様に言い続けたと思います.
イエスはその全てに触れたので,イエスとの秘密が生まれたと思います.恵みですね.

テオドーア修道女のように開心せずに,つまり,「誰にも言わずに自分で解決しようと心にしまってある事」は,解き放たれたくて,「心の傾き」になって,常に関わりを求めてきます.
ですので,ルチア様がミサ応答でひっかかりを覚える言葉は,「心の傾き」を照らすきっかけ,神様からの働きかけの光ではないでしょうか.
私の経験では,このようなきっかけは「しまってある事を神に捧げてほしい」というメッセージです.
また,デーケン師が「より深く他者と出会う事」と表現されているのは,心の中の「二人の自分」(慰めと荒みの二人)の出会いも示唆していると思います.

それで,タイトルの開心のことですが,
「私だけの秘密で,御交にもみてほしくない」というような事は誰にでもあると思います.
その秘密こそ,御交にむかって心を開くのは,恵みだと思います.私も度々恵みを感じています.
言葉では説明できない恵みの塊のような,常に心も身体も温めている体内の塊のような,そんなものが私の中に感じられるようになってきて,これは御交との秘密としか表現しようがないと思っています.

神様がきっと受け取ってくれるだろうと勝手に思った事の方を神様に見せますが,隠している事の方を本当は捧げてほしいと働きかけて下さいます.
神様は全てをご存知だから,私の場合は,「全てをみてください」と言うだけでも開心の扉は開いてゆきました.
恐れは全くないので,?が日々の開心です.

最後の晩餐で「私の身体」と言って割かれたパンはイエス様ですね.
そして,イエス様はパンの形で弟子達の身体の中に入って行きました.
その時のイエス様は,どんなお気持ちで,何を感じられていたでしょうか.
現代では,日々のミサではどうでしょうか.
自分の心を開いて,キリストの心を感じ取れるように求めるために,
私の場合は,言葉や定義ではなく,「感じる」事が全てです.

竹下様の著書は,この「感じる」時に,私の心の霧を晴らす風のようです.だから冒頭で知覚していると書きました.

神父達が言うように,神を愛する心や神との歓びも,既に私に与えて下さっているから,「私は神を愛している」と言えます.
既に恵みを全てをいただいていて,それに少しずつ気付いていく日々が,ルチア様にも始まっていると感じております.
「イエス様を愛している」と言葉はありませんが,そのニュアンスが文から匂い立っていませんか?


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