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哲学・宗教質問箱

566迷える大羊:2012/04/21(土) 00:06:08
キリスト教の「被害者意識」
 先日、身内の付き合いで教会に行ったのですが、説教の際、日本においてキリスト教が1945年の敗戦・終戦に至るまで、いかに迫害され、偏見にさらされてきたか・・なんて話をされました。別に、件の教会に限らず、この種の話は日本の教会ではよく聞きます。
 でも、個人的にこの種の話を聞くと、なんだかイラっとしてくるのです。なんか、私たちはいつも正しいのに、苛められてばっかり・・なんて被害者妄想全開の愚痴かつ独善的な感じがしてきて。

 いえ、別に日本においてキリスト教に対する偏見とか、障害がなかった、とはもちろん思っていないし、戦前、特に日中戦争勃発後の戦時色の強まった時期においては国家神道との兼ね合い、信仰と戦争協力との矛盾に悩んだりとかあって大変でしたでしょう、確かに。
 さらに1941年にプロテスタント諸派は強引に統合されて「日本キリスト教団」になりましたし。かの遠藤周作氏も「天皇とキリスト、どっちが大事かいうてみい」なんて嫌がらせをよく言われたそうですし。
 あと、江戸時代はもちろん、間違いなく迫害の時代、クリスチャンには暗黒の時代だったでしょうね。

 だけれども、明治時代から終戦に至るまで、絶え間ない迫害と偏見に・・なんて言われると「??」です。そんなこと言うのなら、日本にあるキリスト教会は、戦前はすべて、ローマ時代のカタコンペみたいな地下教会だったのか?

 手元に遠藤周作氏の「私にとって神とは」という本があるのですが、それによると遠藤氏が離婚して入信した母親に連れられてカトリック教会に行き、洗礼を受けたのが10歳か11歳ころの話。遠藤氏は1923年生まれですから、それは1933、34年、元号でいうと昭和8年か9年ごろの話となります。バリバリの戦前期ですが、別に官憲の目を気にして、隠れ家のようなところに行き・・などという描写は出てきません。どう考えても、読んでも白昼堂々と教会に通っていたとしか思えないのですが。

 あと、戦前期の大事件の一つに昭和7年(1932)、白木屋デパートの火災事件があるのですが、その原因は「クリスマスセール」に使用するクリスマスツリーの電球のスパークによるもの・・って「クリスマスセール」??。いくら、信仰とは無関係の商売・イベントとはいえ、常に「偏見と迫害」にさらされている宗教の行事を「祝ったり」するなんてことがあり得るのか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9C%A8%E5%B1%8B_(%E3%83%87%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88)#.E7.99.BD.E6.9C.A8.E5.B1.8B.E7.81.AB.E4.BA.8B

 さらに突っ込むと日本にミッションスクールはすべて、戦後の創立なのか?と思って調べますと、全然、そんなことはない。日本を代表するミッションスクール・上智大学の沿革をみると、1913年(大正2年)の創設、学長にはヘルマン・ホフマン氏という外国人、それも、どうみても教会関係者としか思えない方が学長に堂々と就任しているんですが・・。

http://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/HISTORY-CHART/ayumi1

 あと、明治期から昭和初期のクリスチャンには当時のインテリ階級の武家出身者が多く(内村鑑三、新島襄、津田梅子・・etc)、勝海舟とか渋沢栄一など当時、一級の人物と交友のあった人間も多い。忘れてはならないのがクウェーカーの新渡戸稲造氏で国際連盟事務次長までやっているんですが・・。「偏見と迫害」にさらされて、苛められてばかりの宗教でこんなことあるんでしょうか?

 公平にみて、明治以降、確かに戦時中の一時期、肩身の狭い、つらい思いをしたこともあったかもしれませんが、全体的にみれば、インテリっぽいイメージ、あと欧米先進国のバックがあることもあってイメージはすこぶる良かった、むしろ、迫害・偏見ってことなら金光教とか大本教とか、仏教・神道系の新興宗教あたりへの方がよっぽどひどかったように思えるんですよね・・。
 戦国末期から江戸時代の迫害にしたって、当時のキリスト教はヨーロッパ諸国の植民地獲得の斥候、みたいな側面があったし、じゃあ、同時代のキリスト教国であったヨーロッパって思想・信仰の自由が花開くパラダイスだったの?とのツッコミをどうしても入れたくなりますし。他にもいろいろあるのですが、キリがないのでこの辺りで。

 なんていうか、そこらへんの「事実関係」とか、わりと「恵まれた」環境を「無視」して一方的に迫害、迫害みたいに言われると「いい加減にしてよ」って気分になるのです。
 あと、詳しくは知らないのですが、日本のカトリック教会は戦国末期だか江戸時代初期だかに迫害された人々を聖人候補に申請して認められた(のかな?)ようですが、彼らを否定したり、貶めたりするつもりは全然ないけれども、なんていったらいいのか、もっと前向きな人選はできなかったものなのか?と思ってしまいます。

 質問としては、私みたいに考えるクリスチャンとか教会関係者っているのかな?ってことと、私のようなメンタリティっていうか、ものの見方をする人間はクリスチャンとかカトリック教徒として受け入れられるのかな?ってことですが、どうなんでしょう?


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