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哲学・宗教質問箱

511迷える大羊:2011/01/13(木) 04:43:34
聖書に従う、とは??
 いつも、お忙しい中、御丁寧に恐れ入ります。ところで、どうして私は、「それは聖書にいかに書いてあるかで判断します」とか「聖書は誤りなき神の御言葉」なんていっている人々をみると、イライラして、聖書のヘンなところをいろいろあげつらいたくなるのだろう?とあれこれ考えてみました。もちろん、聖書とか神だとかイエスだとかを貶めているわけでもなければ、バカにしているわけでもありません。

 で、結論としては、その「ウソっぽさ」もさることながら、自分の意見や自分の好き嫌いにすぎないものを「聖書の権威」を借りて正当化したり、自分の意見に対して自分自身で責任を持とうとしないその姿勢(それは神の御意志ですとか、聖書に書いてあるからとか)に苛立ちを感じるんだ、と気付きました。

 例えば、キリスト教の世界では同性愛者に大抵否定的です。で、同性愛者に否定的なクリスチャンは大抵、「聖書に罪と定めてある」と、聖書を引き合いに出します。これが、私からすると、非常に「ウソ臭く」感じてしまうのです。じゃあ、そんなことをいっている人々、そのように言うクリスチャンって、本当に聖書に定めたとおりの生き方をしているのか?って話です。

 確かに「同性愛者は死ななければならない」(レビ記18章22節、20章13節)と聖書にありますが、同じように、「反抗的な息子は殺せ」(申命記21章18節以降)と書いてありますし、また、「結婚している兄が死んだら、家系を絶やさぬように、弟が兄の妻と再婚しろ」(参照:申命記25章5節以降)とか、その他、面白いのとか過激なのとかが、いろいろありますが、そういった掟を全部守っているクリスチャンがいるかと言えば、そんな人は世界中探しても、まずいないでしょう。

 にも関わらず、同性愛の禁止(とか自分の個人的な主張、趣味趣向に沿う部分)に関してだけは敏感になって「聖書に書いてある」と言い出す人がいるわけです。
 自分が守ってもいないし、従ってもいないくせに、その聖書を盾に自分の主張を正当化する、聖書を自分の目的のために都合よく利用する、という根性が気に食わないのです。

 こういうことを言いだす人々って、聖書の記述で、自分が守り切れない、あるいは納得できないものは「神はこのような不完全な私をも赦してくださいます」などと言って逃れ、
 自分が守る必要を感じないものについては、「これはユダヤ教の律法であって、キリスト教はこれを克服した」などと言ってスルーし、 自分でも守れるな、これは、と思ったものについては順守を頑固に主張する、と・・。

 要するに、判断をしているのは自分の主観であって、聖書はそれに後から理由をつけるために都合よく利用しているだけだろ、と言いたくなってくるのです。自分の主観に過ぎないものを、神の意志、聖書の意志であるかのように称するのは、自分で判断したことや発言したことに対して自分で責任を取らない事にもつながるんじゃないの?それってある意味、聖書やイエス、神に対する冒涜なんではないの?と思うのですが・・。

 まあ、キリスト教に限らず、信仰にはこういった独善に陥る危険性は多かれ、少なかれ付きものだと思いますが、このような独善に対しては、どのように対処、あるいは自制すべきなのでしょうね?


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