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哲学・宗教質問箱
671
:
sekko
:2014/05/09(金) 07:39:00
keiさま、ありがとうございます
keiさま、
確かに新書としては重過ぎることを詰め込んだあの本を的確に読んでくださってありがとうございます。
日本にいた3週間は韓国の沈没事故のニュースばかり表に出ていましたが、フランスに帰ると、ウクライナはもとより、中東やアフリカでの深刻な内戦や暴力行為(ナイジェリアで200 人の女子高生がイスラミストに拉致されて売られたことなど)のニュースがいっぱいで、平和主義の残滓も見えないように思えます。
それでも、最悪の恥辱や苦痛を与えられて無抵抗で死に至った人を神のペルソナのひとつとして掲げているキリスト教は、根本的なところで「上から目線」を成り立たせない宗教であると思っています。だからこそ、全知全能の神の代理人として君臨した教会だとか王権神授と言って独裁した絶対君主たちとか、異教の討伐や排斥をした人たちなどが席巻した歴史の中でも、いつもそれはキリスト教ではあり得ないといって清貧や弱者救済に乗り出したアッシジのフランチェスコなどの改革者がいつも存在してきたのです。
今のローマ法王フランシスコもそうですが、長く続いたヴァティカンの利権構造をおびやかしてかなりラディカルに弱者の側に立っているわけですが、「上から目線」を封印するというのがキリスト教の根本にある限り、だれも面と向かっては文句を言えないわけです。
他の、「偉い神様の神託を受ける人」とか、「教えや真理を体現している人」とかを崇める宗教よりは、ある意味で自浄力があるのかもしれません。ローマ・カトリックも、宗教戦争や近代革命や二度の大戦など、何度もいつ消滅してもおかしくない危機があったのに、いまだ存続していて一定の存在感を保持しているということ自体が奇跡のように思われます。
「上から目線」を否定すること、弱者や少数者の排除を許さないことを磔刑像が分かりやすく示し続けていることが、キリスト教文化の人たちを通して平和主義への潜在的な力となっていくことを期待したいと思います。
絶望する方がずっと簡単に思えるような世の中ではありますが、最新作『ユダ』についてのコメントにも書いたように、真の平和を標榜するのは結局のところ私たち一人ひとりの心の持ち方にあるのかもしれません。
http://setukotakeshita.com/page1.html
http://setukotakeshita.com/
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