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哲学・宗教質問箱

564sekko:2012/03/20(火) 08:58:03
キリスト教と初音ミク
うーん、なかなか面白いお話ですね。

でも、私は、この初音ミクのライブの動画を見てカルトの大会みたいな印象を受けます。観客というかファンは、脳内の仮想空間だけを互いに共有しているので、ステージの初音ミクからの情報って、予測できるものばかりですよね。

これが生身の歌手なら、その場は華やかでも、覚醒剤中毒とか、暴力沙汰とか結婚とか妊娠とか離婚とか病気、老い、怪我、事故、酔っ払い運転、激やせ、激太り、いろんなことが起き得るわけだし、過去も背負っていたり、家族や子供を背負ってたり、いろいろあって、いつファンを裏切るかもしれないわけです。そういう危うさも含めて、情報処理負荷がずっと大きい。

これに対して、初音ミクはオーバースペックであっても、中につめられる情報は、受け手の脳の情動システムを本当に駆り立てるようなものではない、と思うんです。逆に、快感を得るために要求される脳内資源というのは小さいと思われます。だから安易にはまってしまう。もちろん、ゲームデザインによる規制には縛られるわけですが、この世で一番ストレスフルな「予測できない他者」とは対峙しない。

でも、生きた他者と対峙しないところには創造的知性は生まれないし、創造的知性のないところに真の救済もないと思うんです。

キリスト教はむしろ、ひとつのテンプレートとして西洋世界に今も使いまわされているので、それを共有しない文化では、仮想空間としてもなかなか認知されにくい気もします。

キリスト教が普遍宗教としてその福音宣教にかけてきた情熱は分かりますが、そして今の福音派のように巧妙なマーケッティングをしているところもありますが、特にヴァーチャルだとは思えません。ヒーローや教祖や神の記号性というのはキリスト教だけではなくてどの宗教や支配者神話にも当てはまると思います。

むしろ、ナザレのイエスは、出自などはなるほど曖昧ですが、受難のシーンというのはかなり真に迫ってリアルに書かれていて、痛みとか傷とかの身体性があり、弟子からの裏切られ方、見捨てられ方、民衆からの嘲罵、どれをとっても、普通の予測を超えたシーンの連続なので、それを消化するだけでも、信者は大変なんじゃないでしょうか。

でもどんなにつるりとしたヴァーチャルな教義に閉じ込めようとしてもそこから必ずしみ出てくる血と水みたいなのがあるところが醍醐味だったりして・・・

http://setukotakeshita.com/


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