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哲学・宗教質問箱

795Sekko:2021/03/03(水) 04:07:48
若生敏由 さま
コメントありがとうございます。


>>>「神は全てを与える。全体性以外は」という言葉は、だれのものなのでしょうか。<<<

特定の引用ではありません。Dieu donne tout sauf la totalité.というものですが、あらためて考えると意味は二つあります。

ひとつは、親が子供に「ここにあるものはなんでも好きなように遊んでもいいよ、でも、電気のコンセントには触っちゃいけないよ、危ないから」というように、神は「ここにあるものは何でも食べてもいいよ、でも、あの木の実は食べちゃいけないよ、死ぬ体になるから」と、子を思っての自由の制限。それは、制限を設けることで自由というものを探り獲得し選択することを教えるという「教育的?」意味。「‥以外は全部」という言い回しです。

もう一つは、逆で、神のくれる「全て」は「無限」であり、その「無限」は、人間が実存世界、現象世界では理解できないし到達もできないものです。「全体性」というのは人間の想像できる範囲での「全体」を網羅したもので、そのような有限の全体性は、神から来るものではなく人間が自分の都合のよいように他の人間に押し付ける逸脱にもなるという感じです。(そのまた逆で、全てを与えるけれど、無限を含む全体性は与えられない、とも読めますが、無限というのは「含まれない」ので無理かも。)

ともかく、この世にある限り、「全て」を得ることはできないし、やはり超越的感性にインスパイアされた理念みたいなものに拠って、たえず生き方を更新していくことを促されているのかなあと思います。

>>>「聖霊がイエスを荒野に追いやった」というマルコの一節について。
 ご存じかもしれませんが、田川健三が自身の訳著で興味深いことを記しています。興味深いというのは、本人が若い頃に出した『マルコ福音書・上巻』(1971)での注解を、『訳と註』(2008)では、不正確だったと率直に認めて、「この箇所は霊が何ほどか強引にイエスを荒野にほうり出した、という意味」であると記していたことです。学者であっても、通念や通説との的確な距離を保ち、確信を提示するのはやさしくはないのだなと感じました。<<<


それは知りませんでした。田川健三さんの『批判的主体の形成』は、学生運動が挫折した後で大学に入った私のそれこそバイブル的な本でした。誠実に生きるというのはこういうことかと思いました。その後『イエスという男』は読んで、いろいろな気づきを得ました。
今回、若生さまのコメントを読んで懐かしくなり、田川さんをググったら、「神を信じないクリスチャン」だと自称なさっているとか。

「神を信じる」というのは? credere Deum ?, ? credere Deo ? ,??? credere in Deum ?と三つあって(アウグスチヌスからトマス)、「神の存在を信じる」、「神の権威を真実だと受け入れる」、「愛によって形作られた信仰」だというのを当てはめると、私は田川さんと逆で「神を信じる不可知論者」かなあと思います。

神が存在するなら、神は私が信じるとか信じないとか問題にするとは思えないし、科学とか知性とかが「不可知」領域を減らしてくれるとも思えません。でも神が存在するなら神に信頼してもらえるように生きたいものです。『無神論』(中央公論新社)の最終章で書いたことと基本的には変わっていません。嘘をつかない(少なくともごまかしや偽善のための意図的な嘘は)、という基本姿勢は田川さんから学んだものだと今でも思います。

いろいろ考えさせていただいてありがとうございました。

http://www.setukotakeshita.com/


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