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哲学・宗教質問箱
681
:
sekko
:2014/08/02(土) 00:37:23
モトカーさま
ユダヤ教とキリスト教の関係については私も別のところで書いたことがありますし、いろいろな本も出ていますから、ここで掘り下げることはしません。ユダヤの神が怒れる父的で、キリスト教の神が慈しみの母的な神だという言い方はよくされますし、明らかに二つは別だと言い切って異端の烙印を押された人もいました。
まあ、素人目には、この二つを結びつけるのは無理があるよなあとつっこみたくなりがちですが、キリスト教の成立におけるそれなりの神学的必然性があったわけで…。最近では中央公論新社の『ユダ』でユダ像の作り方を通してユダヤ教とキリスト教の関係を書きましたので興味があればお読みください。
でも、旧約を読んでるとつい「ユダヤの神様ってどんだけ怒りっぽいんだよ、
万物創造した後の品質管理が歴史なのかよ」と思いたくなりますが、
私たちの基準で見るとなんだかハチャメチャなユダヤ人の行動や意識にも、よく読むと普遍的真実だと頭を下げたくなる部分があります。
たとえば創世記の終わりのほうのヨセフの話ですが、兄たちに奴隷に売られた後、エジプトで出世して家族を呼び寄せるのですが、父の死後さすがに兄たちがいよいよ報復されるのではないかとあせった時に、ヨセフはこういいます。
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」
この部分は、ケセン語訳新約聖書で有名な山浦玄嗣さんがお孫さんを対象にして書かれた「ヨセフさんの手紙」ではこうなっています。
「そんなこと、もういいんです。どうかそんなに怖がらないでください。
わたしは兄さんたちの弟なのです。
確かに、あれは辛く苦しい日々でしたけれども、そのお陰で今日があるのです。
神さまのなさることは誰にもはかり知ることなどできません。
でも神さまは悪いことも善いことに変えるお方です。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
何にも心配しないで、これからずっと仲良く暮しましょう。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。
どんなことがあっても、わたしは力の限り兄さんたちをお守りします。
兄さんたちの子供たちもしっかりとお守りします。
ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」
これを読んで私は感動しました。
前半はいわゆる「摂理」思想であり、わかります。
ところが「手紙」ヴァージョンでは聖書にない言葉が補われています。
「ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」
の部分です。
今の世界でいくら強調しても強調しすぎることはない言葉だと思いました。
私は今のパレスティナ内戦を頭においています。
イスラエルはハマスというテロリストに対する自衛だとか、植民者を守るとか、イスラエル兵士が殺されたとか言って猛攻撃をやめません。
ヨセフの言葉を聞いてほしい。ヨセフと兄弟たちがイスラエルの12部族の先祖です。
兄たちに奴隷に売られ、七年も牢獄に入れられるという一方的な不運にあいながら、みんなきょうだいであることには変わらない、生意気で兄たちの反感をかうことになった自分のことも許してほしい、と言います。兄たちの一方的な罪を自分が一方的に許すのではなく、ゆるし「合おう」と言っているのです。
互いにゆるし「合う」ことだけが「子どもの代まで仲良く暮らしていく」ための唯一の方法だということです。どちらがより悪いとか、責任の追及、弾劾、制裁、などからは決して「いつまでも」「みんなで」の平和は生まれません。
ユダヤのラビたちがこの言葉をネタニヤウ首相らに喚起してくれればいいのにと思います。
今のエジプトが和平を呼びかけることも、エジプトでの共生を試みたヨセフのことを思うと感慨深いです。幼子イエスもエジプトに避難しました。長じても暴力にあって殺されました。そして復活することで、救いとは報復や制裁によって得られるものではないことを示したわけです。
聖書のヨセフの物語をよく読めば、ヨセフの最後の言葉に、山浦先生の補足がまるまる込められていることが分かるはずです。
考えたら、ここまでの仕打ちを受けながら仲良くするなんて私たちの生活感覚の基準からいえばほぼ奇跡であり、何がその奇跡を可能にしたのかということをじっくり考えさせてくれる最後の言葉でした。
裁きの論理ではなく「ゆるしあい」による歩み寄りだけが、人が共に生きることを可能にしてくれるのだというのが神のメッセージだとしたら、ユダヤの神からキリスト教が生まれたのも納得できる気がします。変わっていくのは「神と人間との関係性」なのですね。
http://setukotakeshita.com/
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