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哲学・宗教質問箱

517:2011/02/22(火) 03:37:15
イエス・キリストの本質
外典のトマスの福音書には次のような記載があります。

あるとき、イエスが村の道を歩いていると、一人の少年が走ってきてイエスの肩にぶつかった。イエスは腹を立て、「この道を二度と歩けないようしてやる」と言い放った。すると、その子はすぐに死んでしまった。その子の親は、驚き、怒り、イエスの父であるヨセフの家にやってきて文句を言った。「こんな恐ろしい子と同じ場所に住むことはできない。この子を連れて、村を出て行くか、それとも、このような呪いの言葉を二度と口にしないよう教育することだ」と。ヨセフは、イエスを呼び、叱ったが、イエスは次のように答えた。「お父さんの気持ちもわかりますから、そのようなことは口にしないようにします。でも、あの人たちは、必ず罰を受けることになりますよ」まもなく、イエスを訴えた人たちは、みな目が見えなくなった。それを知った人々は怖れおののき、イエスが口にすることは、善いことも悪いことも、必ず成就すると言い合った。

また、正典のマタイの福音書第21章には、次のような記載があります。

「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかに何もなかった。そこで、『今から後いつまでも、お前には実がならないように』といわれると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった」

神の子イエスの悩み、苦しみの原点は、こうした事象の積み重ねのなかから形成されてきたものなのではないかと思います。

「山上の垂訓」はイエスのオリジナルではなく、エッセネ派のテキスト死海文書にその原型を見ることができますが、イエスの伝えるところに奇妙な説得力があるのは、だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向け、下着を取ろうとする者には、上着も取らせないと、その者達が、いちじくの木のように死んでしまうためなのではないか、そういう懸念を常時、持つなかで培われてきた思考なのではないかと思うわけです。

反対に、神の子イエスを信じ、敬愛する者には、様々な神の恩恵とご加護がもたらされています。キリストの復活の奇蹟により、その効力は、2000年以上たった今も健在で、数多くのキリストを敬愛する人々が、今も、その恩恵に預かっているのではないか。エトワールの素朴なキリスト教観は、以上のようなものです。

間違っているかもしれません。

遠隔治療についてですが、パソコンを通じてのネットでのボードゲーム対戦(囲碁、将棋、チェス、オセロ、バックギャモンなど)の経験がある方であれば、思いあたるのではないかと思うのですが。パソコンの向こう側にいる相手からパソコンを通じて強烈な気を感じることがあると思います。相手が強者の場合、それは、まだ、何の情報も伝わっていない開戦前の対面の時から不思議と分かるものです。この原理を応用すると、遠隔治療も可能であろうと思いますし、例えば、絵画、書、彫刻などを通じての時間を超えた治療というものも行えるのではないかと思います。

これも、間違っているかもしれません。

新約聖書は、繰り返し読んでいますが、特に誰かに教えてもらったり、解説書を読んで、定説の解釈を覚えたりしたことはありません。あるがままに自分自身が、テキストから読み取れた内容について、時間をかけて考えているだけです。もちろん、キリスト教徒ではありません。それでも、この思想は、非常に魅力的な古代の思想であり、また、有効なものだと思っています。


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