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哲学・宗教質問箱

689sekko:2014/08/12(火) 00:38:42
kei さま
なるほど、キリスト教が「価値OS」になっているという比喩はおもしろいですね。

ドイツ人というかゲルマン人の感じってスポーツをやらせたら強そうです。

第二次大戦中フランスがドイツに占領されていた時、ナチスの若い軍人たちがみなスポーツマンで、身体能力に優れていたのでフランス人女性がまいってしまったという話を聞いたことがあります。そのせいで後からコラボと言われてリンチされたりしましたが、占領軍におもねったというより本気で惹かれたのかもしれないと思ったことでした。

でも、当時のドイツ本国では、女性は教会、子供、キッチンの3Kに閉じ込められていたのだから、(キリスト教?)価値とスポーツは男性に限られていたのかと疑いたくなります…

まあ、フランスでも体育会系のいじめとかはあまり聞きません。

ドイツと同じく年齢序列がなく、学校自体も飛び級も落第があるために年齢差ができるので、クラス内で身体能力を競うのは無理だし。

やはりスポーツは学校外の公立や私立のスポーツ施設に外注です。日本は学校自体が同調圧力の強い閉鎖社会なので、そこでのクラブ活動も、いい方にも悪い方にも展開しそうです。

キリスト教とスポーツというとやはりパウロの言葉を思い出します。

「コリントの信徒への手紙一/ 09章 24−26

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。

競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。

だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」

ヨハネ=パウロ二世が山登りやスキー、水泳を熱心にやっていたことも思い出します。

カトリックのスポーツの守護聖人はドン・ボスコで、19世紀に貧しい子供たちの教育にスポーツを奨励して遵法精神とか連帯を学ばせました。

でも、私が、キリスト教の価値OSがスポーツに反映されているなと思う分野がひとつあって、非キリスト教文化圏出身の者として羨ましいような悔しいような気がします。

それは障害者スポーツです。

耳の不自由な人のスポーツ大会は1924年のパリではじめてThe Silent Gamesとして開催され、ヨーロッパ9ヶ国から145人の参加者があったそうです。4年ごとに開かれているそうで、耳の不自由な人はコミュニケーションのハンディが大きいので他の障害のあるアスリートと別枠になっていたそうです。

後、1988年からオリンピックのすぐ後で開かれるようになったパラリンピックの方は、第二次大戦の傷痍軍人のリハビリとして主に英米で始まった障害者スポーツが起源のようです。

「健常者」と同じ条件では戦えないアスリートのために試合を開催するという発想、これこそは、絶対に「体育会系」のいじめやしごきとは別の土壌から生まれたような気がします。

フランシスコ教皇が9月にローマでインター宗教サッカーを開催するという話はブログに書きました。

スポーツがナショナリズムや商業主義や弱者差別から守られて、本当の意味で「節制」して「賞を得る」ように人々の元気を引き出し力を養ってくれるといいなと思います。

http://setukotakeshita.com/


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