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哲学・宗教質問箱

501Sekko:2010/12/24(金) 04:16:06
りゅうさまへ
誤解を与えてすみません。

死後のことは私には分からないので、とりあえず、ここでは、生きているうちに「天国にいるような気分だ」とか「地獄にいるような気分だ」とかいう精神状態の意味だと考えてください。

その前のところで、神の愛の関係性においては生と死とか時空は関係ないと書いたので、死後だとか生きているうちだとか限定しなかったのです。


実はこの部分を書いていた時にははっきりと、LYTTA BASSET という女性牧師で神学者が人間の脆弱さとキリスト教について書いたエッセイが頭にありました。

『LA FRAGILITE faiblesse ou richesse? 』(ALBIN MICHEL)

この人のことは前にも『カトサプ』で書いたことがあるのですが、息子さんが自殺した後でどのように喪を生き、生き続けたかという貴重な体験を語ってくれる人です。

その中で彼女は、ラザロが死んで悲しみにくれているマリアとマルタの姉妹の様子が描かれた福音書のシーン(ヨハネ11)について解説しています。

姉妹はラザロが病気なのでイエスのもとに使いをやって助けを求めたのですが、イエスはすぐに動かず、ラザロは死んでしまいます。姉妹は絶望します。

埋葬後四日も経ってからようやくイエスが到着するのですが、その知らせを聞いて、マルタの方は、すぐに迎えに行きます。ところがマリアは家に引きこもったままです。絶望のあまり、イエスの到着の知らせも耳に入っていなかったのでしょう。

で、先にイエスに出会ったマルタがうちに戻り、マリアを呼んで「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちします。これを聞くとマリアはすぐに立ち上がってイエスのもとに行くのです。

このことからリタ・バセは、人は愛する人を失った絶望の中にいる時には、主の呼びかけも聞こえないことがあるが、そんな時でも、他の人が手をさしのべてくれると起き上がれることがあるのだ、と言っています。マリアが立ち上がることができたのは、自分の意志ではなく、マルトが耳打ちしてくれたからなのです。

愛する人を失うような絶望のどん底で、神の声がきこえない、というのはいわば「地獄」の状態で、そんな時には人はなかなか自力で脱出できません。でも、知らせにとびついて先に駆けつけてイエスの声を聞けたマルタが耳元でささやいたことでマリアに知らせが届いたように、知らせに耳をすましているような幸せな人に助けてもらえれば、誰でも絶望から脱することができるかもしれない、という話です。

思えば、聖人と呼ばれる人たちは、まさにその役目を果たしてくれる方たちなのでしょう。

いわゆる崇敬の対象になる聖人たちはキリスト者の生き方の模範として推奨されているわけです。でも、誰でも、生きているうちに、周りの人よりは元気があるとか余力があるとかいう人、恵み感じているような人は、自分の周りで苦しんでいたりぐったりしたりしている人に声をかけたり助けたりしなさい、と言うことだと思います。それは地獄にいる人を救えるとか救いなさい、という話ではありません。「先生がいらして、あなたをお呼びです」と、取り次ぎをしなさいという話で、誰でもその役目に招かれているのだと思います。

リタ・バセは、人は毎日寝て起きるように、そうやって、小さな死、喪失を経験しながら、それでも、呼ばれ、陽に照らされ、再び目を覚まし、生き始めるのだとも言っています。(彼女を息子の死という「地獄」から出るようにと導いてくれたのは、聖母マリアでした)

私も、毎日少し落ち込んだりしていても、究極の救いに信頼を置いている人たちのメッセージには励まされて、そのうち、また起き上がることができます。

連載では言葉が足りなくて申し訳ありませんが、この文を補足させてくださってありがとうございました。りゅうさま、みなさま、メリー・クリスマス!!!


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