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哲学・宗教質問箱
594
:
sekko
:2012/06/16(土) 01:07:35
ルチアさま
Jeanさまのお答えからルチアさまがミサの「流れと起伏」というのに注目なされたことはよかったです。
ミサの一番大事なところは一つのストーリーが毎回更新されるところで、それで各自がまた大きな流れに入っていけるところだと思います。
唐突ですが、私は最近、風姿花伝のおかげでベルグソンの Elan Vitalがすごくよく理解できました。
お能のテクニックやら型は、マチエールとしての水のようなもので、それは完全に習得しなくてはならないのですが、それを一つの流れとして動かすものは、言葉では表せない、というものです。でも、その流れの中にだけ能の本質があるので、マチエールとしての水がどんなに完璧でも能にはならないのです。
音符と音符の間、楽節と楽節の間に音楽があり、ステップとステップとの間にダンスがあるのと同じです。
ミサの典礼のひとつひとつのパーツはいわばマチエールの部分であって、それをどんなにチェックしたり変えたりしても、一番本質的なのは、そのマチエールを貫いて動かして、どんな流れとするのかということではないでしょうか。
Elan Vital をインスパイアしてもらって、各自の支流に戻ると、マチエールとしての水は、また濁り水になったり蛇行したり堰き止められたり汚染されたり、悪くすると涸れてしまったりするかもしれませんが、そんな時に、また、大きな流れとは何なのか、この流れをスタートさせた最初の息吹きとか何なのかを感じなおさせてくれるのが、各種の典礼とか霊操とか祈りなんだと思います。
私が前に、「ある」ではなく「なる」に向かいたいと言ったのもそういう意味なんです。
「ある」のは、この世のレベルでは私を構成するさまざまなマチエールに過ぎず、それをすり合わせたり統合したりしながら「なる」に向かう流れを大事にしたいということです。
「なる」に向かって人間が自由意思を行使できるかどうか、それが、人間に自由意思を与えた神の賭けなんだとユダヤ教の話で読んで感心しました。聖霊の風と自由意思の風が共振して流れに参入するように招かれているという感じでしょうか。その「神の賭け」に加えて、神が先に私たちを愛したので救い主をおくってくれたというのがキリスト教ですね。
で、「神」は、「ありてある者」「私はあるという者だ」というように、「ある」ものなんですが、もちろんマチエールではなく、無限なわけで、そのような「ある」に「なる」ための流れが創られた、その流れは私たちの中にもある、と思います。
音やステップをただ連ねても音楽やダンスにならないように、人生も、小さな幸不幸や成功や失敗や困難やアクシデントの集積ではなく、それらを運ぶ大きな流れなので、この人生が終わったとしても、その流れは続き、どこに向かうかべきなのかを知っているかどうかで、「なる」ための歩みは変わってくると思います。
http://setukotakeshita.com/
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