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海のひつじを忘れないようです
4
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 21:59:14 ID:rN6ohdMg0
俺は逃げられない。
そんなことは、誰よりも俺自身が理解している。
俺はまだこどもで、ここは親父の街だった。
いや、この街だけではない。隣町であろうと、他所の国であろうと、
海を越えた見知らぬ土地であろうと、この球状な地平に在する限り、
親父の手は届くだろう。どこに逃げようとも。
受け入れるべきなのだ。兄がそうしたように。父がそうしたように。
父の父が、その父が、さらにその先に生きた男たちが受け継いできたように、
俺もまた、倣うべきなのだ。期待に応える時が来たのだ。
父の、兄の、顔も名も知らぬこの街の人々のためにも。
大人になるべき時が、来たのだ。
そんなことはわかっているのだ。
「やはりここにいたのですね」
呼びかける声。俺は振り向かなかった。
その声が誰のものであるか、知っているから。
声の主はこちらへと小走りに近寄ると、
払っても払っても砂しかない地面をそれでも平にしてから、俺の隣に座った。
ちょうどそいつが壁になって、横殴りの風が俺を逸れた。
「あなたは悩むと、いつもここ」
「……親父に言われて来たのか?」
「まさか」
5
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 21:59:48 ID:rN6ohdMg0
そいつの綺麗に切り揃えられた前髪が、強い風に吹かれて乱れた。
俺は立ち上がり、二、三歩いてから、また座る。
再び俺の横顔に、風が直撃するようになった。
そいつがくすりと笑った。俺はそっぽを向いた。
「箱船は見つかりましたか?」
波と風によって、世界は静かにやかましかった。
そいつは一度問いかけたきり、答えを急くような真似はしてこなかった。
俺は波を、波と渦にさらわれるあぶくを、なおも凝視していた。
「トソン」
「はい」
俺の言葉を待っていたかのような素早さで、トソンは声を返した。
その勢いが逆に、俺の気勢をそいだ。こんなことを尋ねるのはあまりに愚かで、
幼稚に過ぎるのではないかと、恥を退けようとする臆病な心が頭を覗かせた。
口を閉じた。トソンは何も言わなかった。
急かすことも聞き返すこともせず、俺がそれを言葉にする心持ちになる時を、
ただ待ってくれていた。だから俺も、それを口にすることができた。
6
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:00:20 ID:rN6ohdMg0
「大人とは、なんだ」
「生き延びた人です」
間髪入れぬ返答。
俺はトソンの顔を覗き見た。真面目な顔。冗談で言ったわけではないらしい。
けれどその答えは、俺を満足させるものではない。
「それだけか?」
「私も大人ではありませんから、実際のところはわかりません。
小旦那様こそ、どうお考えなのですか」
「俺は……」
とつぜん返された質問で、言葉に詰まる。
大人。誰もがいつかなるもの。俺がこれから、なろうとしているもの。
こどもと大人の境界。そこには何があるのか。何が変わってしまうのか。
脳裏によぎったのは、やはり、あいつのことだった。
「俺にも、よくわからない。けれどフォックスは、あの日以来変わってしまった」
フォックス――血を分けた、俺の兄。
俺より先に変わってしまった、かつてこどもだった大人。
7
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:00:55 ID:rN6ohdMg0
「フォックスは親父を蛇蝎のごとく嫌っていた。
大人になったらこの街を出て、一旗揚げてやるといつも言っていた。
けれどあいつはいま、親父と共にいる。親父と同じ仕事をして、
親父の代わりまで務め始めている。まるで、まるで……親父の、コピーみたいに」
良い兄ではなかった。
しょっちゅう問題を起こしていたし、乱暴も振るってきた。
ケンカをしない日がないくらいに、俺と兄は仲が悪かった。
いなくなれと思ったことも、一度や二度ではなかった。
けれど、本当にいなくなるとは思っていなかった。
これからもバカみたいに取っ組み合い、
ケンカし続けていくものだと根拠もなくそう信じていた。
フォックスはもう、俺に拳を振るうことも、街中を暴れまわることもなかった。
フォックスはもう、フォックスではなかった。
「大人になるとは、自分じゃなくなることなのか?
自分がなくなったら、そこには何が残るんだ?」
手首をつかむ。血管の脈動が、循環する血液が指の腹を打つ。
俺の中に流れる、俺でない者たちによって受け継がれてきたその血が。
「フォックスもそうだった。己に流れる血に負けた。
俺もきっと、“通過儀礼”を果たしてしまえば、きっと――」
8
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:01:59 ID:rN6ohdMg0
「小旦那様は大丈夫です」
俺の手が、トソンの両手に包まれていた。
傷だらけの指。俺のものとは異なる律動が、ほのかな温かみと共に伝わってくる。
「あなたは、やさしいから」
トソンが俺を見つめていた。真剣な顔で。
けれどトソンの言葉と態度を受け取るだけの心構えが、俺の方にはなかった。
俺はお前が思うような男じゃない。俺は……ただの、臆病者だ。
トソンの手を解き、立ち上がった。
「風が強まってきた。そろそろ帰ろう」
トソンに背を向ける。疾風が顔を、真正面から打った。
本当に風が強くなってきた。荒れるかもしれない。海も、それに人も。俺も。
けれどもう、いい。諦めてしまえば、それで済むのだ。
収まるべくして収まるところに、結局は落ち着くものなのだ。
だからもういいのだ。俺が大人になれば。罪を背負い、大人になれば――。
「私は父を殺しました」
9
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:02:25 ID:rN6ohdMg0
風鳴りが、耳をつんざいた。俺は耳を抑えながら、振り向く。
トソンは立っていた。立って、こちらを見ていた。
彼女がいつも携帯している、その刃を手にして。
刀身に波の如き奇妙な紋様の浮かんだ、異国の短刀。
トソンが近づいてくる。一歩、一歩。着実に、ゆっくりと。
俺は動かなかった。動かずに、彼女が来るのを待った。
そして、俺よりもわずかに背の高い彼女の身体が、目の前で止まった。
「父は、“楽園”を目指していました――」
.
10
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:02:51 ID:rN6ohdMg0
彼女が話終えるのを、俺は黙って聞いた。
遠い、遠い異国から始まる話。彼女が辿った軌跡。そして、罪。
話が終わってからも、おれは何も言えずにいた。
目を合わすこともできず、うつむいて、
彼女の握られた短刀を意味もなく見つめていた。
その手が、動いた。
「トソン?」
「にぎってください」
トソンが短刀を、俺が握るような形に移動させる。
俺は力を込めなかった。けれど短刀は落ちない。
トソンの手が、短刀を握る俺の手の、その上から包み込んできていたから。
トソンはそのまま握り込んだ俺の手ごと短刀を上昇させ、
そしてその切っ先を、自らの胸に触れさせた。
先端に触れた衣服に向かって、細かな皺が集中する。
11
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:03:15 ID:rN6ohdMg0
「冗談はよせ!」
「冗談ではありません」
ぴしゃりとした言い切りに、俺は言葉を失う。
唐突なトソンの行動の真意がわからず、ただただ混乱する。
そんな俺に向かってトソンは、追い打ちをかけるような言葉を放ってくる。
「このまま私を刺してください」
「はぁ!?」
反射的に身を引こうとした俺を、トソンの手が離さなかった。
服に寄った皺がぷつりと緊張を緩め、小さな穴が開いた。
短刀のその切っ先が、衣服一枚分の壁を超えて、
トソンの肌へとさらに近づいた。彼女の心臓へと、わずかに近づいた。
「説明しろ、こんなことに何の意味がある! 俺をからかっているのか!」
「大切なことなんです」
「なにが!」
「これが大人になること――いえ、生きることだから」
12
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:03:55 ID:rN6ohdMg0
再び、言葉を失った。
大人になること。トソンは確かにそういった。そして、この状況。
俺は思い出す。かつて覗き見た、あの光景を。
フォックスが果たした、“通過儀礼”を。
「私の言葉を、聞いてもらえますか」
俺はうなづくこともできなかった。
そんな俺の狼狽に関係なく、トソンは続ける。
「あなたは罪を負います。それはきっと、逃れることのできないあなたの運命。
いまのあなたにそれを避ける術はない」
そうだ、俺は罪を負う。
この地に、この血に生まれたその瞬間から、それは既に定められていた。
俺は俺以外になるべくして、この世に生を受けたのだ。それが、事実だ。
それが、俺という生命の存在理由だ。
けれど――と、トソンは俺の思考を打ち消した。
13
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:04:32 ID:rN6ohdMg0
「その先は違う。あなたは選ぶことができる」
「選ぶ?」
「昔、ある人に言われました。罪を負ったからこそ、
何を伝え、何を残さないか選ぶことができるのだと。
残せるもの、良いと思うものはきっと、人によって様々だと思います。
ある人にとって良いと思うものが、
他の人にとって残すべきでないと思うものである場合も、多々あると思います。
あなたにとっての良いものが何であるのか、私にはわかりません。
……だからこれは、私の勝手な願い」
いよいよ勢いを増してきた暴風が、短刀を握る俺とトソンの腕を揺さぶる。
切っ先が、わずかではあるがしなりを上げてぶれる。
トソンの肌と接触しているはずの、その切っ先が。気が気ではなかった。
けれど当の本人は、痛みも恐れも表すことなく、言葉を続ける。
「小旦那様。あなたは罪を負います。
だからあなたはあなたの“楽園”を見つけてください。
あなたにとって幸福の象徴となるその久遠を。そして――」
14
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:04:57 ID:rN6ohdMg0
多くの迷い子を、あなたの楽園に導いてあげて。
.
15
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:05:40 ID:rN6ohdMg0
「俺は……」
「あなたなら、大丈夫。あなただから、大丈夫。
あなたはやさしい人だから。あなたは、何があってもあなただから。
それにね――」
俺の不安を先回りして否定したトソンは、
言葉を区切ったまま俺の瞳を見つめてきた。
やはり傷ついた胸から染み出した血液が、
白い衣服を濡らし、朱に染めていくことも構わずに。
トソンはついぞ見せたことのない表情をして、ゆっくりと、口を開いた。
「私だってほんとは、他の誰にも見られたくなんかないんですよ」
俺はトソンを見上げていた。目を離すことができずにいた。
トソンはずっと、俺の従者だった。上下の関係にあるのが当然で、
あくまでも一定の線を引かれたこちらとあちらの関係にあった。
彼女はいま、そのラインを越えてきた。
俺にはそう、感じられた。
そう感じたから、彼女の言葉に
どんな意味が含まれていたのか、考える余裕を持てなかった。
それに、そんな暇もなかった。
16
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:06:09 ID:rN6ohdMg0
衝撃が、俺の身体に強く襲い掛かってきた。
まったく予期せぬ衝撃に無防備だった俺は、
そのまま勢いに飲まれ、空中でぐるぐると回転した。
いや、そこは空中ではなかった。俺は水の中にいた。
強まる風によって嵩を増した波が、俺達を呑み込んだのだ。
吐き出されたときには、元いた場所からずいぶん離れた位置に転がっていた。
周囲を見回す。トソンの姿が、どこにも見当たらなかった。
「トソン……?」
トソンの名を呼ぶ。返事はない。どこへ行った。
もう一度、トソンを呼ぶ。二度、三度と繰り返す。
返事はない。嫌な思考が脳裏をよぎる。
まさか、いまの波にさらわれてしまったのではないか。
冗談ではない。そんなわけあるか。しかし一度浮かんだ考えは容易には消えず、
否応にも予感だけが増していく。俺はもう一度トソンを呼んだ。
ほとんど悲鳴のような声で。
「トソン!」
17
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:06:39 ID:rN6ohdMg0
くちゅん、と、どこからか小さく抑えたくしゃみの音が聞こえてきた。
くちゅん。もう一度聞こえてくる。それは波打ち際の方から聞こえてきた。
俺は音の聞こえた場所へと駆けていく。そこには果たして、トソンがいた。
トソンは座り込んだ姿勢のまま、控えめに鼻をすすっていた。
ずいぶんと、平然とした様子で。こちらの気も知らないで。
だから俺は、嫌味をいう。
「洟、垂れてるぞ」
「垂れてませんよ」
「いや垂れてた」
「垂れてませんってば」
ぐじぐじと鼻の下をこする動作をしてから、トソンが振り向いた。
不満を露わにした顔。その顔も、初めて見る表情だった。
俺はなんだかそのことがおかしくて、愉快で、つい笑いだしてしまった。
そんな俺の様子を見て、トソンはますます顔を歪めた。
18
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:07:07 ID:rN6ohdMg0
「見つけてやるよ」
長い笑いをようやく収まった俺は、
もはや呆れ顔へと変じたトソンに向かって、そういった。
トソンが首をかしげた。
「お前が言っていた、“楽園”。
それがどんなところなのか、どこにあるのかも知らないが、必ず見つけてやる。
それで、お前を連れて行く」
トソンは表情を変えないまま、俺を見上げていた。
座ったままの姿勢の彼女に、俺は手を伸ばす。
19
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:07:31 ID:rN6ohdMg0
「“俺の楽園”には、お前の歌が必要だ」
.
20
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:08:11 ID:rN6ohdMg0
そしてそこでお前は、小旦那様なんて呼び方ではなく、
俺の名を、本当の名を、口に――。
この考えは、言葉にしなかった。
なぜだか無性に、気恥ずかしくて。
そんな俺の考えを見透かしてか否か、トソンはくすりと笑った。
その笑い方が、何だか気になった。妙にさみしそうな、その笑い方が。
「もうひとつだけ、お願いがあるんです」
トソンは横を向いた。そして、そのことを口にした。
俺の手を取ることなく、激しく荒れた海の、
さらにその先で収束する、凪いだ彼方の地平を見つめながら。
俺は約束すると、彼女に誓った。
.
21
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:08:35 ID:rN6ohdMg0
三日後、俺は通過儀礼を受けた。
父と兄の監視の下、それを行った。
気の遠くなるような時間と労力をかけて、
俺はついに、大人の仲間入りを果たした。
そして、トソンが死んだ。
俺は約束を破った。
.
22
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:09:52 ID:rN6ohdMg0
一章 歌うひつじ
1
いま自分が、どこにいるのか。
どこへ向かっているのか。
何を成そうとしているのか。
そんなことを考える必要はない。
そんなことを考える権利など、ぼくにはない。
ただ、黙して歩く。
黙ってついていく。
前を行くあの人に。
前を行く彼――小旦那様に。
23
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:10:44 ID:rN6ohdMg0
「そこに、いるか」
ぼくを呼ぶ小旦那様の声。
振り向かず歩を進める彼の背に、返事する。
ぼくはここにいますと。右足を引きずり、脂汗を垂らしながら。
いつ痛めたのかは定かでない。どこかに強くぶつけた記憶もない。
記憶の間隙。それはそれで厄介な事実であったが、いま肝心なのは、
その隙間について思考を巡らせることではない。
いま重要なのは、歩けるか否かという点。
小旦那様に悟られることなく歩けるか否か、という一点。
怪我のことを知れば、小旦那様はその歩を緩めるだろう。
ぼくの歩調に合わせ、歩幅を狭めるだろう。彼はそういう人だから。
けれど、それは許されない。そんなことは許されない。
だれかに迷惑をかける権利など、ぼくにはない。
だからぼくはひた隠す。歯を食いしばって、痛みを殺す。
幸いなことに小旦那様は前を向いて振り向かず、
加えてここはとても薄暗かった。視界も極端に制限されて、
多少不自然な歩き方をしても違和感が生じることはなかった。
ここは森のように、ぼくには思えた。
『思えた』と曖昧な言い回しになってしまうのは、
外からこの場所を眺めたわけではないからだ。
気づけば、ここにいた。
ここへ入った瞬間、というあって然るべき記憶が、どうしても欠落していた。
どこから始まり、どこへと続き、どの程度の規模なのか、
だから、なにもわからなかった。
24
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:11:16 ID:rN6ohdMg0
けれど、そんなことを考える必要はないのだ。
ぼくはただ黙って、彼についていけばいいのだ。
なぜならぼくは――彼のひつじ、なのだから。
首から掛けたハーモニカを、握りしめた。
無言の行軍が続く。
ぼくはもちろん、小旦那様もなにも、一言も発することはなかった。
ただ歩いた。無限のような時間にも思えたが、
痛みにうめくぼくの心が錯覚を生み出している可能性もある。
木々に覆われた空は常に薄暗いだけで、時間の正確な経過を教えてはくれない。
痛みは引かず、むしろ時とともに熱を増して、
その存在を強く主張している。無視することはできない。
かといって、歩みを止めることもできない。
小旦那様との距離が離れぬよう、なるべく左足の歩を大きく広げ、右足の負荷を減らそうとする。
が、それが裏目に出た。
大きく広げた左足では知覚できなかった小石か、あるいは折れた小枝か、
とにかくそこに転がっていた障害物と、すり足移動をしていた右足とが、
勢い良く衝突した。
肉を裂くような痛みがつま先からももの付根まで、瞬時に駆け上る。
あまりの激痛に、思わずうめき声が漏れた。
25
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:11:56 ID:rN6ohdMg0
「――」
とっさに口を抑える。聞こえてしまっただろうか。
心配させてしまっただろうか。脂汗が、額から流れ落ちてくる。
しかしぼくの不安は、杞憂に終わった。
「俺はお前を見捨てない」
小旦那様の声は、平素と変わらず芯の通った固さを保っていた。
強く、確かな意志を感じさせるその音。先導する者の声。
そしてその声のままで、彼はぼくに、言葉を続ける。
「お前を“楽園”へ連れていく」
ぼくは返事をしなかった。返事をせずに、ただうなずいた。
背を向けたままの小旦那様にその動作は見えなかっただろうけれど、
きっと伝わると、そんな気がした。あの時と、同じだったから。
ぼくは痛む足に負担がかからぬよう身体をよじりながら、小旦那様への接近を試みた。
が、すぐに、その足を止めた。
小旦那様の歩みもまた、止まっていたから。
26
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:12:27 ID:rN6ohdMg0
「小旦那様……?」
疑問の声を上げたぼくに向かって、
小旦那様は指を立てて静かにするよう合図を送ってきた。
口をつぐみ、わずかに身をかがめる。
深く濃い緑の隙間に、ぼくの身体が隠れた。
小旦那様は明らかに、何かを察知している様子だった。
ぼくも彼に倣い、耳を済ませる。
音、が、聞こえた。
音……いや、声、だろうか。
声。しかし、話し声ではない。
一人だ。誰かが一人で、声を発している。
音を発している。
単音ではない。連なった、メロディ。
規則性を持つ音節――その調べを、追っていく。
連なりと連なりがつなぎ合わさった、音流の物語。
意味を持つ世界。
――ぼくはそうして、歌声を知る。
27
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:13:04 ID:rN6ohdMg0
心拍が、爆発しそうな程に高まった。
「バカな……」
小旦那様の声で、正気にもどった。
心臓はいまだに強く拍動しているものの、
何とか周囲を見舞わせる程度には落ち着いている。
ぼくは暗澹な視界の中で目を凝らし、彼を見つめた。
彼は一点を見つめていた。
その目は大きく、まばたきもせず、まぶたが破れそうな程に開ききっていた。
張りつめたものが、見ているこちらにも伝わってきた。
だが次の瞬間には、彼の表情はいつものそれへと切り替わっていた。
そしていつのまに取り出していたのか、
奇妙な波模様が浮かぶ短刀を手に持ち、構えている。
「追っ手かもしれん。確認しに行くぞ」
身をかがめ、音を立てぬよう慎重な動きで彼は行動を開始する。
ぼくもそれに従い、彼に倣って音を立てず、後についていく。
本来であれば、そうするべきなのあろう。それがぼくの在り方なのだから。
28
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:13:26 ID:rN6ohdMg0
けれどこの時ぼくはどうしても、足を踏み出すことができなかった。
何かが、内から沸いてくる予感が、ぼくにこの先へ進むなと警告している。
だって、あの歌は。あの曲は――。
バカになった心臓が、ひどくうるさい。
熱を発する足も、頭も、心も、彼の後を追うことを拒絶している。
行けば後悔することになると、全力で告げている。
小旦那様の背が離れていく。ここは暗い。
このまま距離が離れ続ければ、すぐに見失ってしまうだろう。
急がなければ、追いつけなくなる。いますぐ追いかけるべきだ。
それがお前のはずだ。いや、でも、だけど。
ぼくは――。
.
29
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:13:54 ID:rN6ohdMg0
「この先だ」
歌声は確かにこの先、
分厚い壁となった茂みの向こうから聞こえてきた。
心臓が痛い。足のそれ以上に。小旦那様を見る。
心なしか、小旦那様にも緊張が走っているように感じる。
「いいか、一、二、三で一気に突入する。遅れるなよ」
小旦那様は短刀の柄を胸で固定し、もう片方の手を茂みにつき入れた。
ぼくは武器にはならないと知りつつ、ハーモニカを握りしめて、うなづく。
小旦那様がカウントを始める。
一……二……三!
茂みを突き破って、ぼくらは向こう側へと強引に転がり込んだ。
向こう側の地面は柔らかく、想像していた以上の衝撃はない。
ぼくはすぐさま態勢を立て直し、そこに潜んでいたもの、歌声の正体を確認した。
30
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:14:22 ID:rN6ohdMg0
そこには、ひつじがいた。
純白の羊毛で覆われたひつじ。
ひつじが、歌っていた。
人の、声で。
.
31
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:14:57 ID:rN6ohdMg0
「こいつが……」
小旦那様のつぶやき声。
彼はこのひつじを見て、何を思っただろうか。何を感じただろうか。
何を導きだし、何を示してくれるだろうか。
ぼくをどこへ、連れて行ってくれるのだろうか。
そんな言葉の羅列が、瞬時に頭のなかで交錯した。
思考の連鎖が脳を焼き、止め処もなく新たな意味を生み出そうとした。
けれどこれらの言葉の本流は、結局のところ、何の意味も価値も持ちはしなかった。
ぼくは、その場に、崩れ落ちた。
「――!」
ぼくを呼ぶ小旦那様の声。
けれどぼくには返事が出来ない。
呼吸がうまくできなかった。視界がぼやけた。
その中でひつじだけが、ただひつじだけが、
くっきりとその存在を確立していた。
ひつじ。歌うひつじ。
思い出すのは、あの子のこと。
思い出すのは、あの頃の記憶。
思い出すのは、思い出すのは――
32
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:15:21 ID:rN6ohdMg0
しぃ
.
33
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:15:52 ID:rN6ohdMg0
「ああああぁぁぁぁ!!」
意志とは無関係の叫び。
いや、もはや意志などない。
悔恨と、恐慌と――手の届かぬ贖罪への渇望が、身体中を駆け巡り、のたうち回る。
「落ち着け、落ち着くんだ! お前に罪はない!
お前は……すべては、大人の責任だ!」
小旦那様がぼくの名前を何度も呼びかける。
だけど遠い。あまりにも遠い、小旦那様の声。
何かを言っていることはわかっても、その意味を理解することができない。
自分と、自分以外とが、強固に隔絶されている。
あのひつじを、記憶を境界に、絶対的なものとして。
その絶対が、あっさりと割られた。
34
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:16:18 ID:rN6ohdMg0
「信じられない」
ひつじとぼくとの間に、車輪が割り込んだ。
「どうしてあなたが、ここにいるのよ」
車輪と一体化した椅子に、少女が座っていた。
「この、うそつき」
少女の言葉は、明らかにぼくへと向けられていた。
「……約束、したじゃない」
少女が何を言っているのか、ぼくにはわからなかった。
けれどその言葉に怒りか、あるいは悲しみが含まれていることは、
なんとなくだけれど、感じ取れた。でも、それだけだった。
35
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:16:41 ID:rN6ohdMg0
アイスブルーの瞳。
ぼくはただ、そう思った。
そしてぼくは、意識を失った。
彼女の背後、ひつじのいた場所に出現した、それに包まれて。
光、それそのものに、包まれて。
暖かなその、光。
光はぼくを抱きしめて、こう言った。
痛みも苦しみも忘れたぼくに向かって。
確かにこう、言っていたんだ。
おかえりなさい、と。
.
36
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:17:12 ID:rN6ohdMg0
2
走っていた、逃げるために。
何から? それは、わからない。
けれど自分を狙う何かが、暗闇の陰で追いかけてきているのは間違いない。
確実に、それはぼくへと向かって移動している。
『――しかしそれは、いくらなんでも』
『――なら、どうやって食べていくというの?』
だからぼくは走る。走る。走る。
この一切の視界が閉ざされた暗闇を走る。
重たく身体に張り付いてくる空気を振り切って、走る。
『――それは、ぼくときみでもっと働けば』
『――それじゃ足りないから、私たちはその日食べるものにも事欠いてるんじゃない』
呼吸ができず、苦しかった。
けれど立ち止まる訳にはいかない。
追いつかれてしまうから。追いつかれるわけにはいかないから。
37
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:17:46 ID:rN6ohdMg0
『――けれど、フォックス氏の所へ送るなんて……』
『――少し早く働いてもらうだけよ。みんなやってることだわ。何がいけないというの?』
大丈夫。きっと、大丈夫。
あそこまで行けば。あそこまでたどり着けば、怖いものはなくなる。
不安も消える。ぼくを待ってくれている人がいるから。
『――……きみは、自分の子が愛しくないのかい』
『――愛しい? どうして愛せるというの? だって、だってあいつは――』
いた。見つけた。あの人が。ぼくを待つ人が。
不安が一気に吹き飛ぶ。悲鳴を上げる足と肺を叱咤して、一層の力を込めて駆ける。
駆けて、駆けて、ぼくは、叫んだ――叫ぼうとした、その人を、呼ぶために。
『あの男の息子なのよ? 生きてたって、どうせろくな大人にならないわ』
.
38
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:18:11 ID:rN6ohdMg0
声は、でなかった。足も、止まっていた。
意識も、世界も、全部、固まっていた。
固まった世界の中で、ぼくは腕をもぎ取られた。
傷口から大量の泡が浮かび上がる。
今度は反対側の腕がもぎ取られ、そこからもまた、泡がこぼれ出た。
ぼくを捕まえた何かは、ぼくの身体を乱暴に千切り取り、
バラバラに解体していった。ぼくの身体が細切れにされていく度、
ぼくを待っていたはずのその人の姿が、暗闇の向こうに隠れていった。
肩が、足が、頭が、暗黒の先へと消えていく。
そしてその姿の一切が見えなくなった時、ぼくは、頭だけの存在となっていた。
目から耳から鼻から、泡が溢れだしていた。
口を開けると、解放された泡粒が一気に上空へと昇っていった。
ぼくはその光景をぼんやりと眺めながら、思っていた。これで良かったのだと。
ぼくはこうして朽ちていくのに相応しい、卑怯で、卑劣で、最低な人間なのだから、と。
39
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:18:40 ID:rN6ohdMg0
ぼくは眺めていた。
泡粒が浮かび上がっていく、その光景を。
じっと、ずっと、動くことなく、動くことできずに。
そして、気がついた。昇っていく泡粒に埋め尽くされた空。
そこに、泡のような、泡でない何かが混じっていることに。
それは、空から地上へ沈んできた。
鈍い浮遊がその自重に耐えきれず、ゆっくり、ゆっくりと沈み落ちてきた。
そして、ぼくの目の前に落ちた。
それは、水を吸った羊毛だった。
悲鳴を上げていた。
ひつじの毛はひとつだけではなく、次から次からこの底の底へと沈み落ちてきた。
大量に降り注ぐ、雪のような――いや、泡のようなひつじの毛。
ぼくは転がり避けた。悲鳴を上げて、無様に、みっともなく転げ回った。
それを恐れて。それに触れることを恐れて。
それに触れない、ただそのことだけに集中して。
だから、気づかなかった。
背後に立つ、その気配に。ぼくはそれにぶつかった。
そして再び、声を失った。
40
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:19:08 ID:rN6ohdMg0
父さん。
その人の指が、ぼくを指していた。それでぼくは気づく。
自分の身体が、どこも欠損していないことに。
泡も、傷も、どこにも存在していないことに。
そうだ、解体されたのは、ぼくでなく――
その人が、暗闇の一点を指し示した。
予感があった。
そこに何がいるのか、ぼくにはわかっていた。
見たくなかった。
なのに、僕の身体は、ぼくの意志とは無関係にそちらへ振り向いた。
目を閉じようとしても、まぶたは絶対に下りなかった。
だから、ぼくはそれを見た。見てしまった。
そこにはひつじがいた。
ひつじの頭が転がっていた。
転がったひつじの頭が、ぼくを見つめていた。
ぼくも、転がったひつじの頭を見つめていた。
視線と視線が、交錯していた。
視線と視線を交錯させて、ぼくは、何もいえなかった。
視線と視線を交錯させて、ひつじは、口を開いた。
小さく、かぼそく、その音を、漏らした。
41
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:19:32 ID:rN6ohdMg0
めぇ
.
42
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:20:06 ID:rN6ohdMg0
3
「おはよう、気分はどうかな?」
「……え?」
最初に視界へ飛び込んできたのはぼくの目を覗き込む、眼鏡を掛けた青年の顔だった。
微笑を湛えたその顔に、見覚えはない。
その背景にも、天井にも、どこにも見覚えはなかった。
ここは、どこだろう。
記憶をたどる。確か、そう――ぼくは、ひつじと出会った。
歌を歌うひつじ。人の声で歌うひつじ。
そしてそのひつじを見て――あの子を、思い出した。
あの子のことを。あの子にしたことを――。
「一気に思い出そうとしないほうがいいよ。心は割れ物だからね」
青年の手が、ぼくの肩に触れていた。
そこでようやくぼくは、自分が仰向けに横たわっていることに気がついた。
背中は痛くない。むしろ柔らかくて、心地よい感触がした。ぼくはベッドの上にいた。
43
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:20:30 ID:rN6ohdMg0
ぼくが現実へと還ってきたことを見て取ったからか、
青年が深めた微笑をこちらへと向けた。
眼鏡の奥に湛えられたその微笑みに、不純なものは見受けられない。
けれど、それでもぼくは落ち着かなかった。彼がぼくの、知らない人だったから。
「ぼくはモララー。きみは……ギコくん、だね?」
ぼくの不安を読み取ったかのような回答と、それに重ねるように提示された疑問。
どうしてぼくの名を。反射的に飛び出しかけたその言葉。
しかしぼくがそれを尋ねるよりも早く、彼は答えを教えてくれた。
「彼から聞かせてもらったよ」
そういって、彼――モララーは、部屋の一角を示した。
あっと、声が漏れた。小旦那様が、壁にもたれかかっていた。
「あ、あの、ぼく……!」
慌てて上体を起こす。意識が一挙に覚醒する。
そうだ、ぼくは身勝手に取り乱してしまったんだ。
ぼくは、自分勝手に意識を失ってしまったんだ。
ぼくは、ぼくは――小旦那様に迷惑をかけてしまったんだ。
そんな権利などない、ぼくが。ぼくごときが。
償わなければ。償わなければ。償わなければ。
でも、どうやって?
44
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:20:53 ID:rN6ohdMg0
身を起こしたきり、ぼくは硬直した。
意味のないうめきのような音をこぼす以外、何もできなくなった。
ぐるぐると言葉だけは巡るものの、具体的なことは何も、思い浮かんではこなかった。
小旦那様が、そんなぼくから、顔を背けた。
胸が痛んだ。
「ジョルジュだよ!!」
壁が崩れるような振動とともに、その少年はやってきた。
叩きつけた扉の轟音に負けない大音量の挨拶と、
その声の大きさに見合った満面の笑みを備えながら。
「おはようジョルジュ。扉は静かに開けようね」
「うん!!」
言ったきり、ジョルジュと名乗った少年は、
開いた時と同じかそれ以上の勢いで扉を締めた。
部屋の中の壁がまたもぎちぎちと振動する。
モララーは微笑を浮かべたまま、やれやれといった様子で首を振っていた。
慣れているのかもしれない。
そんな諦めとも呆れともつかないモララーの態度を余所に、
ジョルジュは楽しげな笑い声を上げながら、
その小柄な身体を目一杯屈伸させて跳ね回り始めた。
跳ね回りながら、動き出した。
45
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:21:19 ID:rN6ohdMg0
「ぼくジョルジュ! ジョルジュだよ! きみは、ね、きみは?」
ジョルジュは飛び跳ねながら小旦那様に近づき、
飛び跳ねたまま、尋ね、飛び跳ねたまま返事を待っていた。
「ね、ね、ね?」と、催促することを忘れないまま。
小旦那様は眉間に皺を寄せて、飛び跳ねるジョルジュを睨んでいる。
そしてそれが何の効果も産まないと知ると、
顔を合わせないようそっぽを向いた。
ぼくの隣で、モララーがくすりと笑った。
「ジョルジュ、その人は照れ屋さんなんだ。あまり困らせてはいけないよ」
「照れ屋さん! ショボンとおんなじ!」
モララーの注意もどこ吹く風と言った様子で、
ジョルジュは顔を背けた小旦那様と
どうにかして視線を合わせようと、一層力強く飛び跳ね回った。
対する小旦那様は、ジョルジュの動きに合わせて首を回して、
こちらもどうにかして顔を合わせないよう意地になっている。
飛び跳ねるジョルジュと、上下左右に首を回す小旦那様。
率直に言って、妙な光景だった。
46
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:21:41 ID:rN6ohdMg0
「だいじょーぶだよ! みんなやさしいから!
すぐに友達になれるよ! だってね、だってここはね――」
いい加減嫌気が差していたのであろう小旦那様は、口も顔も歪めて、
真上を向いたままその上で目も閉じていた。
ジョルジュの一切を受け入れないという、頑とした決意がそこには滲み出している。
けれど、頑なだった小旦那様の態度は破壊された。
ジョルジュが放った、その一言によって。
47
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:22:05 ID:rN6ohdMg0
――こどもの楽園だから
.
48
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:22:34 ID:rN6ohdMg0
小旦那様は目を見開き、ジョルジュを見た――いや、見ようとした。
しかしジョルジュはその瞬間にはもう、小旦那様の側から離れ、
別の場所へと飛び跳ねていた。飛び跳ねた彼がどこへ行ったのかというと、
それは、ぼくのすぐ隣。並べられたベッドの上で仰向けになっていた。
上半身がベッドからずり落ちたひどく器用で不器用な格好をしたジョルジュは、
ぼくを見てにまりと笑い、言った。
「ジョルジュだよ! ね、きみは? きみは?」
ジョルジュは、ぼくがいままで出会ったことのないタイプの子だった。
元気で、楽しげで、いつも笑っているような子。
たぶん、とても性格の良い子なんだろう。それくらいのことはわかる。
でも、どんなふうに接すればいいのか、ぼくにはよくわからなかった。
だからぼくには、無愛想かもしれないけれど、
端的にその名を教えるくらいのことしかできなかった。
「ギコ? ギコっていうの? 変な名前!
それにしゃべり方も変! 変変変! あはは、変なの! おもしろーい!」
ぼくの口癖を拾ったジョルジュは、何がそんなにおもしろいのか、
手を叩きながら大笑いし始めた。そんなジョルジュを見ていると、
あれこれ考えていた自分がひどく滑稽に思えた。
きっと彼には、悩みなんてないんだろうな。そんなことまで考えてしまった。
なんだか自分まで、釣られて笑ってしまいそうだった。
むろん、そんなことは、許されない。
49
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:22:59 ID:rN6ohdMg0
「あのねギコ! ギコは動物、好き?
クロトカゲオオヤマイヌとヒクジラフクロウだったらどっちが好き?」
「く、くろと……?」
とつぜんの質問。ぼくは考えようとする。
けれど提示された二種のどちらとも、ぼくは知らない。聞いたこともない。
困惑するぼくが答えあぐねていると、そんなことはお構いなしに、
ジョルジュは自分がしゃべりたいことをしゃべり続ける。
「ジョルジュはね、ジョルジュは、オオタテガミヒトコエひつじが一番好き!
知ってる? ね、ね、オオタテガミヒトコエひつじ、知ってる?」
「い、いや、聞いたことも……」
「あのね、ジョルジュね、鳴き真似できるんだ!
する? モミイチジクチョウの鳴き真似する? それともリクエストある? ある?
なんでもできるよ! ヤマシロジカでも、クロオオウニウシでも、なんでも!
ジョルジュ、動物の鳴き真似だったらなんでもできるの!
みんなね、すごいっていうの! すごいって笑うんだ!
だからね、だからママも――」
50
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:23:25 ID:rN6ohdMg0
振動が、再び部屋を揺すった。
今度はジョルジュの仕業ではない。犯人は、小旦那様だった。
小旦那様が、握った拳を壁に叩きつけていた。
ぼくを含めた、部屋にいる者の視線が小旦那様に集中する。
小旦那様の視線が、その中のひとつとぶつかった。
ぼく――の、隣。微笑を浮かべた、モララーと。
「答えろメガネ。いまのは、どういう意味だ」
「いまの、とは?」
「さっきそいつが口走った言葉だ!」
小旦那様がジョルジュを指差す。
当のジョルジュは何のことかわからない様子で、
口を開けながら頭を傾げていた。
傾げすぎたせいかバランスが崩れ、ベッドから完全にずり落ちた。
「――こどもの楽園。その言葉が引っかかるのかい?」
51
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:23:53 ID:rN6ohdMg0
モララーは地面に伸びたジョルジュを起こしながら、小旦那様の疑問に答えた。
こどもの楽園。それが小旦那様の気になった言葉であるのは、間違いなかった。
ぼくが、そうであるように。
小旦那様は、何かを言おうとしていた。
しかし話すべきことがうまくまとまらないのか、
宙に浮かした手をせわしなく動かしたり、瞳を左右に振っていた。
こんな小旦那様を見るのは、初めてだった。
楽園。
小旦那様は、ぼくをそこへ連れて行くと約束した。
ぼくにとって、楽園とはそれ以上の意味を持たない。
けれど小旦那様には、違うのだろうか。何か、もっと、特別な意味が――。
やめよう。そんなこと、ぼくが考えることじゃ、ない。
ぼくが下劣な詮索をしている間に小旦那様も考えがまとまったのか、
重々しく、絞り出すように、モララーに向かって話しだした。
「ここは、なんだ。それに、あの光は……あいつは……」
「牧師様。ぼくらはそう呼んでる」
「ママだよ!」
52
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:24:19 ID:rN6ohdMg0
ベッドの上に座ったジョルジュが、腕を伸ばして横入りしてくる。
モララーがくすりと笑った。
「ここについても、牧師様についても、簡単に説明できるものじゃない。
ぼくがいろいろ教えてあげられればいいけど、今日はぼくにとっても大切な日で、
あまり時間を割いてあげることができないんだ。だからね――」
言葉を切ったモララーの、その手がぽんっと、背中を叩いた。
ジョルジュの小さな背中を。
「ジョルジュ、彼らを案内してあげられるかい?」
「そいつが?」
小旦那様が難色を示す。
どうやらぼく同様、小旦那様もジョルジュみたいな子との付き合いは少ないらしい。
たぶん、どう扱えばいいのかよくわからないのではないかと思う。
モララーはそんな小旦那様の声を聞き流し、ジョルジュに向かって笑いかけている。
当のジョルジュはというと、再び倒れそうになるくらいに首を傾げて、
モララーと向き合っていた。
53
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:24:53 ID:rN6ohdMg0
「案内したら、ママ、喜んでくれる? 褒めてくれる?」
「もちろんだとも。ジョルジュはいい子だねって、
いっぱい抱きしめてくれるよ」
「なら、やる!」
ジョルジュの背と首が、ぴんと伸びた。
そしてベッドの上からぴょんっと飛び降り、
ここへ入ってきた時のように跳ね回りだす。
「ギコにしょーだんなさま! 行こ!
ジョルジュがね、ジョルジュが案内してあげる!」
もう一度ジョルジュがねっと重ねたジョルジュが、うれしそうに扉を開いた。
部屋の中が再び揺れたのはいうまでもない。
小旦那様は渋面を浮かべながら、仕方がないと言った様子で壁から離れ、歩き出した。
ぼくも慌てて、立ち上がろうとした。
「お前はここにいろ」
浮かびかかった腰が、その場で止まった。
小旦那様が、ぼくを睨んでいた。不断の意志を伴った瞳で。
どうして――とは、言えなかった。
54
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:25:15 ID:rN6ohdMg0
ぼくは小旦那様に迷惑をかけた。
それだけが事実で、重要なことだった。ぼくはうなづき、腰を下ろした。
そして『ここにいろ』という命令を、今度こそ破らないようにしなければと、
そう思うことにした。その、矢先のことだった。
「連れて行ってあげなよ」
その声が、小旦那様を引き止めた。言葉を発したのは、モララー。
いつの間にか、モララーがぼくのすぐそばにまで迫っていた。
その体温を、肌で感じられる近さにまで。
小旦那様は振り返り、先程ぼくへ向けた視線を、今度はモララーへと向ける。
「部外者が口を挟むな」
「きみはずいぶんとお人好しなんだね」
そういったモララーの声は、先程までとは打って変わっていた。
怜悧な、同じ人間が出せるものとは信じられないような、冷たい声。
耳元でささやかれたら、思わず悲鳴が上がりそうなほどの。
「そう簡単に、人を信用してしまっていいのかい?」
55
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:25:55 ID:rN6ohdMg0
モララーの手が、ぼくの首まで伸びてきた。
何かをしているわけではない。ただ触れているだけ。
なのにぼくは、そこからわずかにでも動けない、動いてはいけないという危機感を抱いた。
動けば、何か、よくないことが起きると。
小旦那様は、そんなモララーの視線を真っ向から受け止めていた。
そこには焦りや、恐怖心といったものの欠片も表れてはいなかった。
けれど結局、折れたのは小旦那様だった。小旦那様はため息を付いて、
それから、ぼくの足のあたりに目を向けながら、言った。
「来るなら早く来い。急げ!」
「は、はい!」
「ちょっと待ってくれるかな」
今度こそ立ち上がろうとしたぼくへと静止をかけたのは、やはりモララーだった。
モララーはベッドの下から何かを取り出し、それをぼくに渡してきた。それは杖だった。
自力で立つのが困難な時に身体を支えるよう設計された、医療用の杖。
彼はぼくを立ち上がらせ、ぼくの身体を支えながら杖の使い方を説明してくる。
「ここへ来たきみにはもう、必要ないだろうけれど。
骨まで折れる大怪我だったし、念のため、ね」
モララーはもう、元の様子に戻っていた。
彼は親切だし、頭もよいのだと思う。きっと尊敬に値する人物なのだろうと、
目覚めてからの短いやり取りの間だけでも感じ取ることができた。
けれどぼくは、どうしてもこの眼の前の人物に心を許すことができなかった。
先程彼が放ったあの異質な印象を、どうしても拭い去ることができなかった。
だからこうして彼が親切に面倒を見てくれていても、
ぼくはどうしても、強い居心地の悪さを感じてしまった。
56
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:26:17 ID:rN6ohdMg0
「あ、あの……」
ぼくは彼に声をかけた。
ぼくの胸辺り、ちょうどハーモニカの掛かった辺りを凝視したまま、
動かない彼に向かって。ぼくが声をかけても彼は、そこから視線を動かそうとはしなかった。
「いつか……」
彼が何かをつぶやいた。けれどあまりに小さいその声は、ぼくの耳にまで届かない。
ぼくはなにか、と尋ねようとした。しかし彼はそれを手で止め、
ようやく視線を、ぼくの胸から顔へと移した。
「いや、言い忘れていたことがあってね。それを思い出した」
メガネの奥の瞳と、ここへ来て初めて、正面から向き合った。
誰かに似ている、と、直感的に思った。
それが誰なのか。判明することはなかった。
ぼくが答えへたどり着くよりも先に、彼が、目をつむった。
『ひつじの教会』へ、ようこそ。
.
57
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:26:44 ID:rN6ohdMg0
「ママは、ママだよ?」
牧師とは何者だ。
ここの責任者なのか。
いつからここにいるんだ。
何が目的なんだ。
小旦那様が投げかけた様々な問いを、ジョルジュは一言で切って捨てた。
ママは、ママだよ、と。
「ママはね、普段はかくれんぼしているの」
ジョルジュは無軌道に蛇行しながら、話を続ける。
ママ――牧師と呼ばれるその人は、普段は姿を見せることなく、
何をしているのか、何者なのか、誰も知らないらしい。
姿を表すのは、特別な時と、誰かを迎え入れる時だけであると、ジョルジュはいう。
誰かを迎え入れる時。
光。ぼくを抱きしめた、あの光。
あの時は意識も不明瞭でその姿をまともに認識することもできなかったけれど、
あれが、あの光の人が、牧師様――ジョルジュのいう、ママだったのだろうか。
ここにいるこどもたちはみな、あのようにして迎え入れられたのだろうか。
58
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:27:09 ID:rN6ohdMg0
ジョルジュの案内を受けて巡った建物内には、
大勢のこどもたちが気侭に走り回っていた。
モララーはここをひつじの教会と言っていたけれど、
ぼくにはむしろ、孤児院か何かのように思えた。
この建物は、深い森に囲まれた小さな草原に建てられているらしい。
人里離れた深緑の奥に、ひっそりとそびえる教会。
理由があって世間と関わることのできなくなった聖職者が、
身寄りのないこどもを保護している――それが、この場所の存在する意味なのだろうか。
でも、ぼくには。
光。仄かな暖かさを伴った、光そのもの。
あれは、本当に、人だったのだろうか。
ぼくには、もっと、別のもののように、思えた。
もっと神々しい――あるいは、禍々しい、何かのように。
「白い扉?」
「そう、白い扉!」
59
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:27:32 ID:rN6ohdMg0
ジョルジュと小旦那様の話は、牧師様の話題からずっと離れなかった。
ジョルジュはママのことを話すのが嬉しくて仕方がないようで、
ママという言葉を発する度に顔をほころばせている。
「そこに、お前のママはいるのか?」
「そうだよ! ママはいつもそこにいるの!」
「それはどこにある」
「わかんない!」
「わからない?」
「白い扉がどこにあるのか、どうすればそこに行けるのか、だれも知らないんだ!」
「探しは、しないのか」
「探す? どうして?」
「……さみしくは、ないのか」
60
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:28:12 ID:rN6ohdMg0
妙なのは、小旦那様だった。小旦那様は慎重な人だ。
不確定要素があればそれをひとつずつ潰してから行動するし、
危険は可能な限り排除しようとする。
だから小旦那様が牧師様という人物に危惧を抱き、
その正体を明らかにさせようと情報を収集するのは
何もおかしいことではない。おかしいことではない、はずだ。
だけど、どこか違和感があった。
牧師様のことを尋ねる小旦那様の態度には、常とは違う、
執着のようなものが見え隠れてしていた。先程の部屋での一件。
力任せに壁を叩くなんて真似も、冷静な小旦那様らしくない。
いったい、どうしたのだろう。
ぼくには感じ取れなかった何らかの脅威を、
小旦那様の五感がキャッチしたのだろうか。
あるいは、何かを、焦っている?
「さみしくなんて、ないよ」
「なぜだ。お前は……ママのことが、好きなんだろう?」
「だって、わかるから」
ジョルジュが笑った。
いままでのような元気を爆発させたかのような笑みと違う。
妙に安らいだ、ジョルジュであって、ジョルジュでないもののような笑み。
その笑みを浮かべたまま、ジョルジュは目を閉じ、両手を組んだ。
「ママはジョルジュのことを、いつも見守ってくれているって」
61
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:28:33 ID:rN6ohdMg0
それは、祈りの構え。
人ならざる大いなるものへと捧げる、信仰の証明。
ママ。牧師様。光。名を逸脱したその絶対に対する、
絶大な信頼と、そこから生じ出る安寧。
それがジョルジュを、変貌させたのか。
その変化の激しさに、ぼくも、
おそらくは小旦那様も、呆気にとられる。
「それにね、ママにはいつか必ず会えるんだ。
ジョルジュも、みんなも、ママのところへ行くの。
行けるの。絶対に」
「それは、どういう――」
「こんなところで遊んでた」
「こんなところでさぼってた」
62
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:29:05 ID:rN6ohdMg0
こどもが二人、立っていた。
同じ姿勢、同じ表情をした二人が、
揃って突き出した指をジョルジュに向かって差している。
「アニジャ! それにオトジャ!」
先程までの静謐な空気を脱ぎ捨てたジョルジュが、
二人に向かって嬉しそうに駆け寄っていった。
が、そのジョルジュの頭を、二人のこどもがまったく同時に叩いた。
「アニジャは俺だ、アホンダラ」
「オトジャは俺だ、マヌケモノ」
「……いたい〜」
頭を抑えて座り込んだジョルジュが、二人に向かって抗議の声を上げる。
が、二人はその非難に対して何がしかの反応も示すことなく、
その行為にどんな意味があるのか、ジョルジュの周りをぐるぐると回り始めた。
「お前はいつも見誤る。わざとやってるんじゃあるまいか」
「お前は常に間違える。あえてやってるんじゃあるまいか」
「ち、ちがうよー!」
63
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:29:29 ID:rN6ohdMg0
投げかけられた嫌疑に向かって、ジョルジュが無実を訴える。
その光景を見ていたぼくも、ジョルジュの無実を信じた。
わざと見間違えようとするには、二人は余りにも似すぎていた。
顔や声はもちろん、動きや細かな仕草に至るまで、
まるで鏡写しのようにぴったり揃ってひとつだった。
二人がジョルジュの眼の前で静止した。そのタイミングまで、まったく同じだった。
「ならば今一度」
「チャンスをやろう」
「どちらが俺で」
「どちらが俺だ?」
まるで一人で喋ったかのような滑らかさで、二人がジョルジュへと問いかけた。
ぼくにはまったく、どちらがどちらなのかわからなかった。
けれど、ジョルジュは自信があるのか、妙な含み笑いを浮かべ、
ぴんと張った両腕を二人に向かって指し示した。
「オトジャに、アニジャ!」
ジョルジュの頭が、再び叩かれた。
.
64
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:29:51 ID:rN6ohdMg0
「あんたらか、今日ここへ来たという新顔は」
「あんたらか、モララーが言っていた新入りは」
力なくうなだれたジョルジュの両脇を抱えた二人、
おそらくは双子なのであろう二人が、ぼくらの前に立っていた。
二人はまったく同じ動作で、ぼくと小旦那様のことを
無遠慮につま先から頭の天辺まで見回していく。
「何をしていたのか知らないが、こいつは俺らが連れていく」
「何を遊んでいたのか知らないが、こいつに仕事はさぼらせない」
「さぼってなんかないもん! ……あうっ」
ぴったりと息の合ったてのひらが、ジョルジュの発言を物理的に押し潰した。
ジョルジュの頭ががくんと垂れ下がる。やられたー、といった表情になっている。
そしてそのゾンビみたいな表情のまま、鏡写しの二人に運ばれていく。
「そいつは俺たちを案内していたんだが」
65
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:30:11 ID:rN6ohdMg0
待ったをかけたのは、小旦那様だった。
二人が一斉に振り向き、同時に口を開く。
「誰がいった?」
「誰が頼んだ?」
「メガネの、野郎だが」
二人は顔を見合わせた。
次いで、ジョルジュの顔を覗き込むと、
「本当か?」
「本当か?」
「本当だよ!」
生気のみなぎった活き活きとした表情で、ジョルジュが答えた。
二人は再び顔を見合わせ、数度まばたきをすると、同時にうなずき、
66
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:30:34 ID:rN6ohdMg0
「ならば何も問題ない」
「ガイドは終わりで問題ない」
「えぇー!?」
「『えぇー!?』ではない」
「『えぇー!?』ではない」
「準備は未だ、終わっていない」
「用意は今も、済んでいない」
「時間はあまり、残ってない」
「猶予はあまり、残ってない」
交互に織られた二人の声が、最後はひとつに、重なった。
「カンポウシキは、もう開く」
67
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:31:01 ID:rN6ohdMg0
「カンポウシキ?」
新たに飛び出してきた単語に、小旦那様が反応する。カンポウシキ。
準備や用意といった単語や、開くといった言い方から推察するに、
何かのイベントだろうか。しかしその答えを、いまこの場で得ることはできなかった。
「あんたたちにも、すぐわかる」
「準備が済めば、もう開く」
「でも、ジョルジュ、このまま行ったら約束守れない……」
とつぜん、ジョルジュがひどく悲しげな声を上げた。
うつむいて、あのジョルジュと同じ子なのかと訝るほどに、
いまにも泣きそうな悲壮な顔をしている。
「いい子じゃ、なくなっちゃう……」
ジョルジュは本気で悲しんでいるようだった。
モララーとの約束を守れなくなることが、
彼にとってそんなにも重要な意味を持つのだろうか。
それとも先程言っていた、『ママがいつも見守っている』という発言に関係しているのか。
しかし双子はそれこそ自分たちには関係ないといった様子で、
ジョルジュを引きずっていこうとする。
68
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:31:21 ID:rN6ohdMg0
「待て」
小旦那様が再度、双子を止めた。
二人は律儀に立ち止まり、先ほどと同じ動きを
リピートするように揃って振り向いた。
小旦那様は、そんな二人のことを見てはいなかった。
ジョルジュのことも見てはいなかった。その視線は虚空、何もない上空へと向けられ、
眉間にはびっしりと寄せ集まった皺が、顔全体はとんでもない渋面を象っていた。
そのどこを見ているのか、何を考えているのかよくわからない表情のまま、
小旦那様はへの字に曲げた口をわずかに開いた。
「……ジョルジュ、お前はよく案内してくれたと思うぞ。……あー、まあ、いい子、だったんじゃないか?」
「ほんと?」
ジョルジュの顔がぱっと輝く。
対する小旦那様はさらに顔を歪めて、頭をぐしゃぐしゃと掻き始めていた。
「そうだな。本当だ、本当だよ。誓ってもいい」
「ママに?」
「ママにだ。……もういいだろ。さっさと行け」
69
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:31:54 ID:rN6ohdMg0
小旦那様が手をひらひらと、虫でも追い払うような仕草をジョルジュたち三人に向ける。
ジョルジュはジョルジュらしい、あの満面の笑みをすでに浮かべていた。
とても上機嫌な様子で、脇を抱えるアニジャとオトジャに
「ジョルジュはいい子、ジョルジュはいい子!」と繰り返している。
小旦那様は渋面のまま背中を向け、三人から離れようとする。
ぼくも杖を使って、その後を追おうとした。
「最後にひとつだけ、とっても大事な決まりがあるんだ」
背中に、ジョルジュの声が投げかけられた。振り返る。
ジョルジュはアニジャとオトジャに代わる代わる頭を叩かれていたけれど、
まるで気にした様子なく、ぼくらのことを――小旦那様のことを見つめていた。
「教会の中はどこに行ってもいいけど、森にだけは入っちゃダメ」
「なぜだ?」と、小旦那様。
「森の外は、怖い場所だから。森の外へ出てしまうとね――」
ジョルジュが、口をつぐんだ。そして、ぼくは見た。
一瞬、ほんの一瞬だったけれど、ぼくは見逃さなかった。
その時、その言葉を放った時、ジョルジュの顔から、一切の感情が、抜け落ちたことを。
二度とママに会えなくなる。
.
70
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:32:19 ID:rN6ohdMg0
わからないことばかりだった。
この教会についても、なぜこどもばかりがここにいるのかも。
結局ここがどこなのかも、カンポウシキとはいったいなんなのかも。
牧師と呼ばれるあの光の人は、本当に存在するのかも。
そして、あの、ひつじのことも――。
もちろん、それらはぼくが考えるべきことじゃない。
考える権利もぼくにはない。そもそもぼくが考えたくらいで解ける程度の謎なら、
小旦那様があっという間に解決してしまうはずだ。
だからぼくの考え、ぼくの思考になんて、価値は、意味は、どこにもないのだ。
それでも。
それでも、と、ぼく思った。それでもぼくは、気になった。
気になることが、ぼくにはあった。きっと、おそらく、たぶん、
小旦那様に任せては、わからずじまいな疑問が。
71
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:32:41 ID:rN6ohdMg0
「あ、あの!」
ジョルジュを連れて準備へと向かおうとしていたアニジャとオトジャが、
いい加減呼び止められることにうんざりしていたのだろう、
ひどく不機嫌な様子で振り返った。その態度に、ぼくはたじろぎそうになる。
迷惑をかけているかもしれない。いや、明確に二人はいやがっている。
その事実に、ぼくはぼくを、罰したくなる。
けれど、ぼくは止まらなかった。ぼくはそのことが気になって仕方なかった。
ぼくを糾弾したあの少女のことが、気になって仕方なかった。
あの、ぼくが正気を失っていた時、そばにいた少女のことが。
アイスブルーの瞳。車椅子の、少女のことが。
彼女がぼくに何をいっていたのか、そのほとんどは記憶にない。
彼女はぼくを知っている様子だったけれど、ぼくには見覚えがなかった。
だからもしかしたら、あの痛罵はただ、彼女がぼくを
別の誰かと勘違いしただけなのかもしれない。その可能性は、決して低くないと思う。
それでも、ぼくには気になった。
唯一、彼女が放った言葉で唯一、明確に覚えているその言葉を。
ぼくに向けたとしか思えなかった、その言葉を。
72
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:33:05 ID:rN6ohdMg0
あなたの罪を、忘れてはならない。
.
73
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:33:32 ID:rN6ohdMg0
「マジョのおねえちゃん!」
「魔女」
「魔女」
ここに、車椅子の少女がいないか。
そう尋ねたぼくへの返答は、ジョルジュの好意的な反応と、
無感情な、しかし不穏な気配を漂わせる単語のシンクロという、二通りのものだった。
そしてその意味を追求することは、結局出来なかった。
アニジャとオトジャの二人が、手をブンブンと振り「またねー!」と
叫ぶジョルジュをついに連れ去っていってしまったから。
アニジャとオトジャとジョルジュ、
三人の姿は角を曲がったことで、完全に見えなくなった。
後にはぼくと、小旦那様だけが残された。
.
74
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:34:03 ID:rN6ohdMg0
「あの、小旦那様、ぼく……」
「なぜ黙っていた」
ぼくは改めて、小旦那様に謝罪させてもらおうとした。
ジョルジュやモララーの前で感じた、小旦那様に対する違和感。
常ならぬ彼の態度には、ぼくが掛けた迷惑による苛立ちが、
そのすべてではないにせよ関係しているのではないかと思ったから。
許してほしいとは思わなかった。
許しを乞える立場でないことは自覚している。
ただ、罰してもらえれば。その怒りをぶつける矛先としてぼくを罰してくれれば、
彼の気持ちも幾分かは和らぐのではないかと、そう思ったのだ。
けれど小旦那様はぼくの謝罪を遮り、
ぼくの予想を裏切る発言を繰り出してきた。
「お前の主は、怪我の告白もできぬほどに信用ならない男か」
75
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:34:53 ID:rN6ohdMg0
彼の視線がぼくの右足、物々しい治療を施された
その右足へと向けられていることに、ぼくは気がついた。
そして、ようやく理解した。彼にはぼくを咎めるつもりがないのだと。
ついてくるなと言ったのも、怪我をしたぼくの身を気遣ってのことだったのだと。
あまつさえ彼は、その非を、自らのものとして抱えていた。
その苛立ちは、自らの力不足に対する自戒であった。
彼は初めから、己の責任しか見ていなかった。
けれど、小旦那様、それは。
それは、ぼくにとって、余計に――。
余計に。
.
76
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:35:16 ID:rN6ohdMg0
「俺はお前を、友のように思っている」
あなたは勘違いしている。
ぼくはあなたの友などではない。
ぼくにそんな資格はない。
「それは俺の、一方的な思い込みか?」
ぼくのために労を取らないでください。
もっと粗末に扱ってください。
やさしくしないでください。
「お前は俺の、なんだ」
ぼくは、あなたのひつじです
.
77
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:35:39 ID:rN6ohdMg0
心の中の回答を、しかしぼくは、言葉にしなかった。
その答えを小旦那様が求めていないこと、
それくらいのことはぼくにも理解できていたから。
それでもぼくは、小旦那様の望む答えを口にすることもしなかった。
そんなことは、口が裂けても言えなかった。いまのぼくにできるのは、
小旦那様の後ろについて歩く、従順なひつじでいることだけだった。
小旦那様は、真っ直ぐぼくを見つめたままでいた。
真っ直ぐな瞳。ぼくはそれを、直視することができない。
ただ気配だけが、小旦那様の諦念にも似た空気だけが、ぼくにも感じ取れた。
「もう、歩けるのか?」
あやまたず、ぼくは答える。はい、と。
「その言葉に虚偽はないな?」
「ありません」
そこでようやく、小旦那様が、その目を閉じて視線を切った。
深く静かに息を吸い、吐き、そして彼の目が、口が、開く。
「……ならば小旦那である俺からお前に、指令を与える」
.
78
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:36:03 ID:rN6ohdMg0
杖を置く。軽く身体をほぐし、次いで、思い切り地面を蹴りつける。
怪我したはずの、右足で。
結果は、思った通りだった。
本来在るべき足の痛みはもはやどこにも、
その影を残してはいなかった。
右足は完治していた。
.
79
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:36:36 ID:rN6ohdMg0
4
楽園。
それはどこにあるのか。
そこには何があるのか。
小旦那様は、ぼくをそこへ連れて行くと約束した。
けして見捨てないと、約束してくれた。
けれどぼくは、楽園を知らない。
そこには何が在るのか。
そこでぼくは何になるのか。
ぼくは、何も知らない。
もし。
小旦那様の楽園が、一切の苦痛から隔絶された場所であるならば。
あらゆる悲しみから切り離された場所であるならば。
ぼくをぼくから解放する場所であるならば。
果たしてそこは、ぼくに相応しい場所なのだろうか。
果たしてぼくは、そこにいてよい存在なのだろうか。
.
80
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:37:02 ID:rN6ohdMg0
ひつじの教会。
ここはこどもの楽園と、ジョルジュはいっていた。
その言葉にどのような意味が含まれているのかは、知る由もない。
なにせ発言者があのジョルジュだ。その真意を探ることは簡単では
――少なくともぼくには、不可能だろう。
だからといって、無視することもできなかった。
光の人。
こどもだらけの教会。
それに――ありえない速度で治癒された、ぼくの右足。
この場所には何かある。通常の常識の内でのみ
通用する法則とは異なる規範で運営された、何かが。そう、小旦那様は考えた。
それが俺の求める楽園と同一のものであるかどうかはともかく、調べる必要はある。
万が一の可能性を考慮して。そう、小旦那様は言っていた。
だからぼくはいま、ここにいる。
教会の中でもとりわけ大きなスペースを有するこの場所、華やかな
――というよりはごったに賑やかな飾り付けが施されたこの広間に。
小旦那様と別れ、一人で。
81
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:38:23 ID:rN6ohdMg0
「あ、あの、ちょっといいかな?」
広間には食欲をそそる薫りがフロア一杯に立ち込め、
その欲を駆り立てる元凶たる料理がテーブル狭しと並べ立てられている。
そしてそのテーブルの周りには大勢のこどもがひしめき合っており、
みな誰かとペアやグループを作って談笑したり遊んだり暴れまわったりしている。
その中でその子は、一人でいた。
鼻歌を歌いながらテーブルの上の料理を物色している。
ぼくはその子に狙いを定めた。そして一度大きく深呼吸すると、
その長い髪がかかる背中に向かって声をかける。
やわらかでおっとりした雰囲気の顔が、にこやかに振り返った。
安堵の息が漏れる。やさしそうな人。この人なら、なんとかなりそうだ。
少なくともいきなり怒鳴られたりなんてことは、おそらくないだろう。
小首をかしげてぼくの言葉を待っているその女の子に、ぼくは自分を紹介する。
「ギコちゃん〜?」
女の子はぼくの名前を聞くとむずかしい顔をして、
視線を上空へ泳がせたまま固まってしまった。
どうしたのだろう。ぼくはその行為に何の対処法も思い浮かばず、
再び彼女が動き出すのを何もできずに待ちぼうけた。
82
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:39:03 ID:rN6ohdMg0
それにしても、彼女は思ったよりも背が高かった。
ぼくよりも頭半分ほどは大きい。ほわっとした雰囲気のせいで
なんとなく幼い気がしたけれど、実際はぼくよりもいくつか歳上なのかもしれない。
そんなふうにぼくが勝手に彼女を検分していると、やがて何かを得心したのか、
彼女は両手を合わせて打ち鳴らした。
「モララーちゃんから聞いてるよ〜。今日ここにきたばっかりの子だよね?
私はワタナベっていうの、よろしくね〜」
彼女――ワタナベが自身の紹介を終えるやいなや、
ぼくの全身がやわらかい感触に包まれた。ワタナベの身体が、ぼくの身体と重なっていた。
どういうわけか、彼女に抱きしめられていた。
彼女はぼくから離れると、一本の針のように
硬直していたぼくに向かって微笑んだ。
「ぎゅってされるのは嫌い〜?」
「いや、あの……」
「私は、好きだよ〜」
好きとか嫌い以前に、あまりに突然だったのでなにより驚きが勝った。
いまも、いや、何をされたか理解の追いついたいまの方が心拍は高まって、
頭も混乱した。「あの」だの「えと」だの、意味を成さない言葉ばかりが出てくる。
83
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:39:25 ID:rN6ohdMg0
「それで、私に何か用〜?」
あくまでも邪気のない笑顔で、ワタナベが尋ねてきた。
その言葉で、ぼくはいくらか冷静さを取り戻す。
そうだ、ぼくは理由があって彼女に話しかけたのだ。
彼女でなくても良かったし、こんなアクシデントは想定外だったけれど、
ぼくにはやらなければならない事がある。
小旦那様に与えられた、指令がある。
「カンポウシキって、なに?」と、ぼくは彼女にたずねた。
.
84
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:39:48 ID:rN6ohdMg0
二手に別れると言い出したのはもちろん、小旦那様だ。
このひつじの教会を調査するにあたって、
小旦那様には何か独自に調べておきたいことがあるそうだった。
それが何かまでは話してくれなかったけれど、
その何かが小旦那様にとって無視できない事柄であることは、
その態度から容易に想像できた。
何よりも優先して調べるべきことなのだと、その目が言っていた。
しかし小旦那様にはひとつ、懸念があった。
カンポウシキ。アニジャとオトジャが言い残したこの言葉。
忙しなく準備に勤しむこどもたちの様子から見て、
このカンポウシキなる行いは彼らにとって大切な意味を持つイベントなのだと見て取れる。
そのイベントを見逃すことは、
このひつじの教会を調べる上で致命傷になるかもしれない。
小旦那様はそう考えた。
85
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:40:12 ID:rN6ohdMg0
そこで、ぼくに指令が下った。
カンポウシキに出席し、このイベントについてはもちろん、
この教会に関する情報を可能な限り取得せよ、との指令が。
つまり見知らぬ人の輪に入り、親しげに話しかけてここの秘密を探れ、という命令。
ぼくは人見知りだ。初対面の人を前にすると何を話していいかわからず、
黙り込むか、どもってうつむくかくらいしかできないような有様だ。
ぼくには荷が重い指令だと、正直思わないでもなかった。
しかしこのぼくに、小旦那様の言葉を断るという選択肢は、
初めから存在していなかった。例えそれが火山の火口に
飛び込めという指令だったとしても、ぼくは迷わず身を投げる。
それにこの時のぼくは妙に落ち着かない気分で、
小旦那様の思いに報いなければならないなどと意気込んでいた。
ぼくが小旦那様のひつじであることを証明しなければならないという、
そんな気持ちが強まっていた。
だからぼくは、意を決して声をかけた。
ワタナベという名の、その女の子に。
けれど、実際のところ。
人選を、間違えたかもしれない。
86
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:40:38 ID:rN6ohdMg0
「カンポウシキはね〜、あのね〜、カンポウシキでね〜」
「う、うん」
「とってもおめでたいことでね〜、ハッピーハッピーでね〜」
「そ、それで?」
「わいわいして、ごくごくして、ぎゅっぎゅなの〜」
「そ、そうなんだ……?」
「そう、そうなんだよ〜!」
まったくもって何一つわからなかった。
彼女の言葉の何もかもが理解不能だった。
けれどこの妙に間延びした話し方をする少女は同時に多弁であり、
おそらくは一生懸命カンポウシキについて話してくれていた。
曰くすったったんであり、くるりららんらんであり、わおわおうーであると。
その意味するところは不明だったが、
しかしこうして話してくれている以上無下に断ることもできず、
ぼくはしばらくの間、この彼女が織りなす擬音まみれなワタナベワールドを堪能した。
首をうなだらせながら。
87
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:41:00 ID:rN6ohdMg0
ぼくの首が上がったのは、彼女ががつがつごいーんと言った時のことだった。
彼女の不可思議な擬音に反応したのではない。
広間の大扉が、重い音を立てて開いたのだ。
そして、それが合図であったのか、あれだけ賑やかだった室内が瞬時に静まり返った。
あれだけ饒舌に喋り続けていたワタナベさえも、
黙して扉の向こう側、長く続いた通路の奥へと視線を送っている。
その先に、何があるのか。目を凝らす。何も見えない。何も居はしない
――いや、何かが、何かがかすかに聞こえる。何かがこちらに近づいてきている。
ちりん、ちりりんと、軽い金の音が響いてくる。
そしてその音の主が、小さなベルを手に持ったその人が、
ゆっくりと歩むその全身を露わにした。ぼくは、目を見張った。
光の人――!
.
88
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:41:38 ID:rN6ohdMg0
……いや、違う。違う、違う。気のせいだ。
あれは光の人ではない。あの時のことはおぼろにしか思い出せないけれど、
それでも違うと断言できる。光の人は大人だったし、そもそもそういう理解の及ばない何か、
どこかで、根本的に違っていた。
いま廊下を渡っている人物は、あの輝く光を放ってはいない。
よく見れば背もぼくとそれほど変わらない。
ローブで顔を覆っているため顔は見えないけれど、こどもであることは間違いなかった。
でも、それならどうしてぼくは、見間違えたのだろう。
それにこちらへと近づくあの人物は、一体誰なのか。
ぼくの頭に疑問が浮かぶ。
しかし二つ目の疑問については、すぐに解消されることとなった。
ローブをまとったその人物が、ついに広間へと入ってきた。
ちりんちりんとベルを鳴らして、広間の中を歩き始める。
その後ろを二人、カートを引いたこどもがついていった。
カートの中には何かのビンが、大量に運ばれている。
その内の一本を、ローブの人物が引き抜いた。
そしてその蓋を開けると、最も近くで座っていた少年の前でビンを傾け始めた。
こぽこぽと泡を立てて、赤黒い液体がビンからこぼれだしていく。
その液体は床へとこぼれることなく、
座っている少年の構える杯へと正確に注がれていった。
ローブの人が、ビンの口を上向けた。
少し垂れかけた液を拭い、わずかに移動し、
座っていた少年のその隣にいた少女の前で、再びビンを傾ける。
少女も少年同様、杯を構えてそれを受け取った。
この行為が、繰り返し、繰り返し、順番に、順番に、
ここに集ったこどもたちへと行われていった。一人の漏れなく、時間を掛けて。
89
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:42:03 ID:rN6ohdMg0
その情景を眺めていたぼくの腕に、違和感が生じる。
ワタナベが、ぼくの腕をつついていた。左手に、空の杯を持って。
彼女は笑みを浮かべたまま、その杯をぼくの前へと差し出してきた。
これがぼくの分である、とでもいうように。ぼくは黙って、それを受け取った。
こどもたちの間を巡ってきたローブの人は、いよいよぼくのところにまでやってきた。
ぼくは他の子がそうしたように、杯を傾ける。傾けた杯に、液体が注がれていく。
果物の香りだろうか。濃く甘い匂いが、胸の奥にまで潜り込んでくる。
ビンの口が上向いた。これでぼくの順番は終わり、ローブの人は次の子の所へ行く
――はずだった。が、ローブの人はぼくの前から動かなかった。なんだ?
ぼくは顔を上げ、ローブの人の、そのローブの下に隠れた顔を覗き見た。
あっと、声が漏れそうになった。
しかしその時にはもう、彼はぼくから離れて次の子の杯に液体を注ぎ始めていた。
去り際にウインクをしていった、その彼は。
この奇妙な巡行を終えると彼は、最後にお供の二人にも杯を傾けさせ、
広間の奥にある壇上へと登った。彼は自身も手に持った杯を掲げて、
謳うように朗々と、その大人びた声で語り始めた。
90
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:42:26 ID:rN6ohdMg0
「これはあなたがための私の肉。あなたがための私の血。
あなたと共に私は在り、永久<とこしえ>に生くる私はあなたとなる。
さあ、契を結ばん。次と、次の次と、その次と次とへと永遠<とわ>に在らんがために。
在るべき処へ還るために。
さあ光の子よ、愛と慈悲に包まれし愛し子らよ。
命の杯<さかづき>を傾け、いざ、還泡へと至らん――」
.
91
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:42:53 ID:rN6ohdMg0
壇上の彼が、勢い良く杯を傾けた。
それと同時に、ぼくの前後左右のこどもたちが
――いや、ここにいる全員が、一斉に杯へと口をつけ、その中身を飲みだした。
ぼくも彼らに倣い、杯の中身を飲み干そうとする
――振りをして、周りの目を盗み、杯の中身をそっと捨てた。
小旦那様に予め言われていたのだ。
もし何かを飲み食いするよう勧められても、絶対に口をつけるなと。
なぜかは問わなかった。遵守することは決まっていたから。
けれどその時のぼくは、本当にこのような事態になるとは思っていなかった。
小旦那様は予想していたのだろうか。
おめでとーう!
広間の各所から、祝を謳う声が鬨のように上がり出した。
大きな音の波と化したそれは、そのすべてが壇上の彼へと注がれていく。
それを受けた彼は、満を持して、被り続けていたローブをついにめくった。
そこには、モララーがいた。
メガネを外したモララーがいた。
モララーが、宣言した。
さあ、『還泡式』の始まりだ、と。
.
92
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:43:15 ID:rN6ohdMg0
「一番! ハインリッヒと!」
「ワタナベ〜、踊ります〜」
まるで乱痴気騒ぎだった。
熱気と狂乱と、よくわからない叫び声と、駆け回るこどもたちで
この場は満たされていた。先程モララーが演説を打っていた壇上では、
入れ代わり立ち代わりこどもたちが、自分の得意とする――のであろう特技を披露している。
盛り上がってそれら出し物に喝采を送る者もいれば、
自分たちの遊びに夢中で仲間の見せ場に対して見向きもしない輩も大勢いた。
「ぼ、ぼ、ぼくの勝ちー……」
「また勝った!」
「すげー! ショボンつえー!」
隣のテーブルでは早食い競争が行われていた。
ショボンと呼ばれた小柄な少年は、その体躯に見合わぬ食力で連戦連勝を重ねている。
勝ちを賞賛されてテレている態度と、
その脇で見る間に重ねられていく食器郡のギャップが凄まじかった。
ショボンの周りだけではない。
そこかしこで妙な競争が多発し、それに対して野次を送る者もあり、
そんなことは無関係とばかりに広間いっぱいを走り回る子もいた。
とにかく賑やかで、騒がしかった。
93
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:43:40 ID:rN6ohdMg0
これが、『還泡式』……なのだろうか。
この行いに、何の意味があるというのか。
ただみんなで、バカ騒ぎをしているだけなのか。
ぼくは壇上の、その横に備え付けられたテーブルを見る。
そこにはこの騒ぎの開催を宣言した彼、モララーが座っていた。
モララーは数人のこどもと会話をしながら、時折広間全体を見回しては満足げな、
あるいは何か、単純なうれしさとは違う、一種複雑な顔を見せた。
まるで大人がこどもを愛おしんでいるかのような、そんな表情を。
ぼくにはよくわからなかった。
ここで行われていることも、モララーが見せた表情の意味も。
正直にいえば、ぼくは気が抜けていた。使命に意気込み決意を固めたところへ現れたのが、
ただみんなが楽しむだけのお祭りだったのだ。肩透かしを喰らった気分だった。
肩透かしを喰らった気分で、なんとなく、
ただなんとなく祭りを眺める傍観者へと、いつの間にか堕していた。
壇上の出し物を眺めた。駆け回るこどもたちを見つめた。
自分たちで定めた遊びで競争する、平和な戦士たちの勝敗を見届けた。
94
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:44:05 ID:rN6ohdMg0
「お、お水……」
早食いチャンピオンのショボンが、食べ物をのどにつっかえさせたのか、
胸をどんどんと叩いていた。応援していたこどもの一人がコップをわたすと、
ショボンはそれを一気に飲み干す。それがいけなかったのかもしれない。
水分が気道に潜り込んだのかショボンののどはけほけほと異物を追い出そうとして、
その勢いのまま鼻から水が飛び出した。
それが恥ずかしかったのか、それとも単純にむずがゆかったのか、
ショボンは強い勢いで鼻をこすりだした。ごしごしと丹念に、丸い顔を歪めて。
しかし競争の真っ只中での勝負に無関係な行為は、
その勝敗において決定的で致命的な一打となる。
ショボンが鼻をこすっている間に、勝負相手が勝ち名乗りを上げた。
周囲から歓声が巻き起こる。
チャンピオンから陥落したショボンは、鼻を押さえながら、
本気で悲しそうな顔をしていた。そして慌てて、どもりながらもう一回、
もう一回と再戦を主張していた。その光景を見て、ぼくはくすりと笑った。
笑ってしまった。
95
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:44:30 ID:rN6ohdMg0
めぇ、と鳴く、ひつじの声を、聞いた、気がした。
.
96
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:44:54 ID:rN6ohdMg0
何を、笑った。お前が、何を、笑った。
お前にそんな権利が、あると思っているのか。
お前に何かを笑う権利があると、思っているのか。
お前に何かを楽しむ権利があると、思っているのか。
お前に何かを感じる権利があると、本気で思っているのか。
罪人である、お前が。
97
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:45:20 ID:rN6ohdMg0
車輪の音が聞こえた。今度は幻聴ではなかった。
あの子だ。
車椅子乗りの、あの子
ぼくを糾弾した女の子。
陶器のように美しく――無機質な印象の少女。
アイスブルーの瞳。
彼女は車輪を回して、広間から出ていこうとしていた。
その様子はこの喧騒の中において奇妙なほどに冷静で、
彼女の周りだけ温度が数度、下がっているようにすら感じられた。
魔女。アニジャとオトジャが残した言葉を思い出す。
魔女でも、構わなかった。
優しく包み込む光よりも人を惑わし狂わせる暗黒の方が、
ぼくにはむしろ相応しい気がした。それに、彼女は何かを知っている。
小旦那様の――そして、ぼくの知らない何かを。
あなたの罪を、忘れてはならない。
ぼくは立ち上がっていた。そして、歩きだす。
車輪を回す、彼女の背に向かって。そこに佇む罪の在り処に向かって――。
98
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:45:52 ID:rN6ohdMg0
「いーぃえぇーいっ!」
「べふっ!」
何かがぼくの首に組み付いてきた。
ぼくは情けのない声を上げて前のめりに倒れかける。
が、そのまま地面にぶつかることはなかった。
ぼくにぶつかってきた何かはそのままぼくの首を支点にして、
器用にも空中で旋回し目の前へと着地した。
そして倒れ掛かるぼくの身体を絶妙なバランスで支え、
大して力を込めているとも思えないのに余裕の様子で転倒を防いでいた。
「あんたが今日来た新人だね!」
ぼくは答えることができない。
「どうしたどうした、そんな変な顔して」
勝ち気な顔が目の前でにかっと笑う。
「悩みがあるならなんでも聞くぞ。ほらほら遠慮しなさんな。
お姉ちゃんになんでもどーんと任せなさい!」
そういって胸を叩いた――様子の彼女に、
ぼくはやはり何も答えることができなかった。
彼女が胸を叩くところも見えなかったし、なんというか、近すぎた。
額と額が触れ合っていたし、彼女がまばたきする度その長いまつげが、
ぼくのそれをくすぐっていた。彼女の顔は、目の前と言うには
あまりにも近すぎる眼前に位置していた。
99
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:46:12 ID:rN6ohdMg0
「ダメだよハイン〜、ギコちゃんが困ってるよ〜」
「ん? あ、そか」
横から投げかけられた間延びした声に反応して、
彼女がぼくの身体を押し出すようにして身体を離した。
そして体制を崩して腰を曲げていたぼくの頭へ手を伸ばすと、
申し訳なさそうにしているのかしていないのか微妙な笑みを浮かべながら、
その手を動かしてぼくの頭をなで始めた。
「びっくりさせちゃったならごめんなー。お姉ちゃんの癖なんだ、あれ」
「は、はぁ」
「まったくハインは、いつもそうなんだから〜」
「なはは」
100
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:46:32 ID:rN6ohdMg0
ハインと呼ばれた彼女が、照れ隠しに頭をわしゃわしゃと掻いた。
ただし、ぼくの頭を。ぐらぐらと頭を揺さぶられながら、ぼくは目の前の人を観察する。
ぼくはこの人を知っていた。といっても、遠い昔からの知り合いというわけではない。
彼女を知ったのはついさっき。壇上で踊っているのを目撃した、というだけだ。
ここで催されたこどもたちの出し物はどれも楽しげではあったけれど、
根本的にはその場の盛り上がりに準じて好き勝手やるだけの、
――言い方は悪いかもしれないが――素人芸に過ぎなかった。
そのことが悪いというわけではないし、
実際に観客も盛り上がっていたのだから彼らの試みは成功しているのだと思う。
けれどハインとワタナベのペアは違った。
二人のダンスは大人顔負けに洗練されていた。
息のピッタリあった動き、指先にまで意識が行き届いたキレ、
わずか三分程度の舞台上で、彼女たちはその培ってきた
熱意と練習量を存分に披露していた。
特にハインの技の冴えは、素人目で見ても圧巻だった。
足の運び、首の振りひとつとっても、その動作の端々には華があった。
空気が、光が彼女の味方となって、まるでひとつの
神話世界を描き出しているようにすら感じられた。
だからぼくは、覚えていた。
このとても印象的な女の子のことを、知らず記憶していた。
こんなふうに人の頭をわしゃわしゃする子だとは思わなかったけれど。
101
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:47:05 ID:rN6ohdMg0
「ナベから聞いたよ、知りたいことがあるんだって?
お姉ちゃんにわかることなら、なんでも答えてやろう!」
ハインはそういって突き出した胸を叩く。今度はその姿がきちんと見える距離で。
しかしハインに問われたぼくはそうして胸を叩く彼女ではなく、その後ろ、
広間の出口へと知らず知らず視線を向けていた。
そこにはすでに、車輪の後も、あの冷たい気配もなくなっていた。
「魔女……」
「うん?」
ぼくの独り言をハインが拾った。
声にするつもりではなかった言葉を聞かれてぼくは少々焦りながら、
けれどいい機会かもしれないとそのまま質問した。
「車椅子の女の子のことが、ちょっと、気になって」
「なんだ、女の子のことを知りたいなんて、ギコはおませだな!」
「ち、ちがっ……!」
狼狽するぼくを見て、ハインが快活に笑う。
ぼくは彼女の誤解を否定しようと、先ほどとは比べ物にならないレベルで焦燥した。
しかし誤解を解消するその機会を、ぼくは逸した。
ハインの顔は困ったことを聞いてしまった、とでもいうように見る間に曇り、
その口も目も閉じてしまったから。その様子にぼくは、不安を覚える。
102
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:47:26 ID:rN6ohdMg0
「あの……」
「あたしもよくは知らないんだ。あの子が何を考えてるのか。何をしてるのか。
そもそも名前も聞いたことないしな。いつも一人でいるし、なんかこう、
他人を寄せ付けないようにしてるみたいでさ」
ハインがぽつり、ぽつりと語りだす。
慎重に、言葉を選んでいる様子で。
「あの子がいつここに来たのかは、誰も知らない。
どこから来たのかも。普段は人前に姿を現さないんだけど、
気づくと遠巻きにこっちを見て、ノートに何か書き込んでるみたい。
何を書いているのかはもちろんわからないけど、
自分たちのことを見ながら無言でペンを動かす姿を
気味悪がってる子は結構いるよ。魔女、とか言ってさ。
ジョルジュなんかは妙に懐いてるし、あたしも別に、
何かされたわけじゃないから陰口みたいなことはしたくないんだけど――」
「何にも話してくれないだもん。怖がられたってしょうがないよ〜」
103
:
名無しさん
:2017/08/19(土) 22:47:56 ID:rN6ohdMg0
ワタナベが横から割って入った。
ハインはワタナベの言葉に何か不満げな表情を浮かばせるが、
頭を掻いて――今度は自分の頭だ――、結局それを否定することはしなかった。
「ま、あたしが知ってるのはこんなとこ。
せっかくの恋の相談なのに、役に立たないお姉ちゃんでごめんなー」
「……ところで、ひとつ気になったのだけど」
本気か冗談かわからないハインのからかいには取り合わず、
魔女の少女のことも一先ず置いて、ぼくは質問を続けた。
あの子がどこから来たのかわからないと言っていたけれど、
ここにいるこどももみんな、別の場所からやってきたのか、と。
ハインの答えはぼくの予想通りだった。
ここで暮らすこどもは一人の例外なく、森を越えてやってきたらしい。
元々ここに住んでいたわけではなく、外からやってきたのだと。
であればこどもたちは何故に、この教会を目指したのか。
森の外は、怖い場所。
ジョルジュの言葉を反芻する。
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