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海のひつじを忘れないようです

23名無しさん:2017/08/19(土) 22:10:44 ID:rN6ohdMg0
「そこに、いるか」

ぼくを呼ぶ小旦那様の声。
振り向かず歩を進める彼の背に、返事する。
ぼくはここにいますと。右足を引きずり、脂汗を垂らしながら。

いつ痛めたのかは定かでない。どこかに強くぶつけた記憶もない。
記憶の間隙。それはそれで厄介な事実であったが、いま肝心なのは、
その隙間について思考を巡らせることではない。
いま重要なのは、歩けるか否かという点。
小旦那様に悟られることなく歩けるか否か、という一点。

怪我のことを知れば、小旦那様はその歩を緩めるだろう。
ぼくの歩調に合わせ、歩幅を狭めるだろう。彼はそういう人だから。
けれど、それは許されない。そんなことは許されない。
だれかに迷惑をかける権利など、ぼくにはない。

だからぼくはひた隠す。歯を食いしばって、痛みを殺す。

幸いなことに小旦那様は前を向いて振り向かず、
加えてここはとても薄暗かった。視界も極端に制限されて、
多少不自然な歩き方をしても違和感が生じることはなかった。

ここは森のように、ぼくには思えた。
『思えた』と曖昧な言い回しになってしまうのは、
外からこの場所を眺めたわけではないからだ。

気づけば、ここにいた。

ここへ入った瞬間、というあって然るべき記憶が、どうしても欠落していた。
どこから始まり、どこへと続き、どの程度の規模なのか、
だから、なにもわからなかった。


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