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聖典引用 板

211SAKURA:2012/03/05(月) 17:05:29 ID:EUALcDkQ
a hope 様へ

素敵な「日曜日の言葉…」ありがとうございます…。
当に「言葉…神なり」です〜〜ネ!

■【聖光録・・・】 
昭和28年 1月1日 初版発行 
雅春先生時代のものでしたら…月曜日から土曜日までの
【毎週の反省…】に記載されています〜〜〜ヨ!
かなり古い信徒の方々でしたら、おもちの事と思いますが…

月曜日  朝の時間を生かせ…  
火曜日  背水の陣を布け…   
水曜日  生命の兩輪…     
木曜日  生きた生命       
金曜日  「今」を生かせ…   
土曜日  吾既に世に勝てり…  

上記のような項目にて… 先生が指導してあられますが…
(私にて…参考になりましたでしょうか???)

PS:私の手元の聖光録は…昭和42年度版…です。この時代までは…??
  月曜日〜土曜日まである様ですが…??そうそう!!日曜日も…!
  (とりあえず…月曜日…後程…投稿しますネ。)

212SAKURA:2012/03/05(月) 19:13:17 ID:EUALcDkQ
トキ様 へ
皆様〜 へ
a hope様 へ

聖光録
■月曜日の反省
 ――朝の時間を生かせ――

諸君よ、諸君自身が生長の家の人となり諸君の家を「生長の家」としようと
思ふならば朝の時間を巧みに生かせ、凡そ時間を巧みに生かす者は自己の
生命を生かすものである。何故なら吾々の生命は時間的継続そのものであるからである。私のやうに朝の時間を巧みに利用することによって二重に生きることが出来る者は
仮りに五十年の生涯でも百歳を生きたと同様となるであろう。
かりに七十歳を生きれば、百四十歳を生きたと同様の価値を生きることが出来るであろう。
米国の豪商ジェ・ピー・モルガン氏は嘗て友人に語って「自分は自分の生活の一刻を
数千万円の価値あるものだと思っている」と言ったそうである。此れを知る彼にして
始めて世界一の富豪と成り得たのである。諸君はこの貴き刻々を無駄に浪費しつ々
ゐないあろうか。時間の浪費だと言へば、自身に何らかかはりのない「時間」と
云うものが勝手に流れているように感じる人があるかもしれぬが、浪費した時間は自分の貴重な「生命」を無駄に切って棄てた血みどろな死骸なのである。
諸君よ、死にたくない者は時間を巧みに生かさなければならぬ。
特に朝の時間を生かさなければならぬ。
吾が生命なる時間を「死骸」に化して了ひたくない者は特に最も効果多き朝の時間を
巧みに生かさなければならぬ。
モルガン氏は自分の「時間」の刻々をば数千万円の高価に見積もったが、慎の「時間」
の価値は数千万円と云うような安価なものでないのである。
「時は金なり」と云う事があるけれども、時は決して金でないのである。
時は決して金銭のような安っぽいものとは段ちがいで全然比較にならないのである。
若し諸君が金銭を捨てたく思うならば、これを捨てよ。
しかし決して朝の時間を捨てるな。
若し諸君が己が所有する土地、建物、衣装、など捨てたく思うならば、
何ん時でもこれを捨てよ。
併し、如何なる力をもってするも失われたる朝の時間を回復する道はないのである。
諸君が仮りに往来をあるいてゐるとき、手に一杯の金銭を握って、その金貨だけの
値ひのあるものを何一つ得ないでゐながら、その金銭を溝の中へ矢鱈(やたら)に
捨てて歩いてゐる人を見るならば、諸君はその人を屹度気が狂ってゐるに相違ないと
思うであろう。しかし、大抵の人は金銭以上に貴き価値ある時間を両手に一杯
もって捨てて歩いてゐるに人々を見ても気狂いとも思はないのだ。
そして自分自身も、その大気狂いの仲間入りして何とも思はずこの金貨よりも
何十倍貴き寳(宝)を刻々瞬々捨ててあるいてゐるのである。
彼等の生活が「生長の家」の生活を遠ざかること甚だ遠く彼等自身が間断なく
生長し得る人とならず、能力が中途で止まって了ひ、いつまでも碌碌として
常人の水準以上に登ることが出来ないのは当然 のことわりなのである。
                  (『光明の生活法』より) 
      
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
*旧字体と新字体…使っておりますので…(PCソフト…不十分)

■『月曜日の言葉…』何度も拝読いたしましても、心におのずから“変化”が…
そして、今振り返りますと…“宝”私自身、“溝”に捨てていました事を、
再!再!〜〜認識致しました…。

>a hope 様 
本日の「気づき」…深く〜深く〜感謝申し上げます…。
と言いますのは…益々『雅春先生の残されましたし真意」…
読み取ることが、出来ました…。
現総裁先生の考えは、正しいものと判断いたします…。
…が!【信者…】に対しましての“愛念”少し不足しています部分も、
ありますかしら〜〜ン??

『信じて…待つ…!!』 現教団側に…

213a hope:2012/03/06(火) 13:50:22 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

他から見てどう見える

仕事でも、顔でも、店構えでも、事務所の玄関でも、外から見てどう見えるかを調べてから、
他に見せるようにすることが大切です。
仕事をする上からいえば、自分はその仕事をやりとげることに熱心すぎて、
ちょっとぐらいよごれていても、気がつかないことがありがちです。
いかに立派な製品でも、ほんのちょっと手垢がついているために、
つまらないものだと見向きもされないこともあります。

まず自分がお客になって玄関へ入って行くと、どんな感じがするか、
什器(じゅうき)や椅子の並べ方は不快ではないか、応接室で待っているとどんな感じがするか、
何分間待たされるか、待っている間に放っておかれるか、何か出されるか、
その出し方はどんなふうにするか、読物はあるか、最初の面談はどんなふうに始められるか。・・・・・
こんなことでも、自分が客となって見なければわからないのです。

他の事務所や商店と比較してみて、悪いところはできるだけ廃(や)めるようにし、
良いところはできるだけ取入れるようにし、さらによそに見られぬ好い感じを出すようにしなければなりません。

自分の店や自分の事務所ばかりを見ていれば、欠点があっても、
その欠点は慣れてしまってそれが当たり前のような気がして気づかないものです。

臭い空気に慣れてしまっては、その空気が臭い空気だということに気がつきません。
しかし外から入って来たら、「なんてここは臭い空気だろう」と気がつくのです。
客が外から入って来るのですから、一番誰よりもその室(へや)の空気の良し悪しには気がつくのです。
室の空気の好し悪しというのは、鼻から吸う空気だけのことではありません。
心で吸うなんとなきのその室の味です。その室の匂いです。その室の感じです。

その中には人間のようすもあり、微笑もあり、心の思いもあり、椅子や家具の並べ方もあり、
「ああここは気持が好い」と思われるようにしなければなりません。

214SAKURA:2012/03/06(火) 21:26:12 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ
こんばんは…

【聖光緑…】
■火曜日の反省
―――――背水の陣を布け――――

「背水の陣」を布けとは本書の『智慧の言葉』の中に見出される金言である。
諸君よ一旦「吾れ此れを為さう」と決して起ち上がったならば、
「吾が行くところ必ず勝利あるのみ」の覚悟が是非とも必要である。
逃げ路を豫め(あらかじめ)準備しておいて事にのぞむやうなことでは
何人も全力を発揮することは出来ないのだ。
歴史にこれを見るもジュリアス・シ−ザ−の英国侵入軍が目的地に上陸したとき
彼は將卒に命じて海峡を越えて味方を運んでくれた愛すべき船――
若し味方の戰ひが不利に終ったならば、海峡を越えて逃げ帰る時の
助けとなるであらうところの愛すべき船――
これらの船に悉く火をつけて焼き捨てさせたのであつた。
「進むほかに道なし」の覚悟は吾々に平常の肉体?以上の力を発現させるものである。
それは小さなる我を減して、「無限の生命」から力を汲む一つの方法であるのである。
「吾が行くところ必ず勝利あるのみ」の覚悟が大切だと云っても実際心を誘惑する
逃げ路があつては本当の覚悟が出来て来ないものである。
そこで心がまだ本当に定まらない者には是非とも背水の陣が必要となるのである。
「背水の陣を布け」と云う言葉は、英語では
“ Burn your behind you ”  と言ふ。
かえせば、「汝の背後の橋を焼き落とせ」と云ふことである。
一旦渡って来た橋を焼き落として了つたとき吾らはもう退却するにも退却の道が無い。
ただ吾らに残されたる自由は進むことのみとなるのである。
進むほかに道がない!!!!!!
これほど吾らにとつて強いことがあらうか。
一歩でも動けば、それは退歩ではなく進歩であるのだ。
げに「背水の陣」のちには万物が備はつてゐるのである。

                          「光明の生活法」より…
     *一部…旧字体・新字体になっております…。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
当に…「社会事業団・現原宿教団…」此の争論…
譲り合うことなく〜〜批判し合う〜〜これは「共倒れ…論争へ??」

■ 当に…今!時!…が来たのです…。
【背水の陣…】一旦!もつれ合ったお互いの“争点議論内容…??”
もう一度…「信者・光明化運動…」原点に戻りまして…【和解…調和の世界】
「前に進むしか…ナ〜〜〜〜〜〜イ!」のです…。

それは、以前以上に「一人一人の心に…使命感の灯」
と云うことは…【自我を無くし…お互い和解への道…】歩むと…信じ

■ ■ ■ 信 力 ■ ■ ■
                                 合掌

215名無しさん:2012/03/06(火) 21:31:52 ID:tar1vhs2
谷口雅春の人類剪定思想、

お次は、東京直下、東海、東南海ですか、


神は、つぎに剪定する人間を選んでいます。

216a hope:2012/03/08(木) 19:22:05 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

新しくならない物はまずい


汲み立ての水は、味わいも佳く新鮮な感じがしますが、汲み置きの水はちょっと見るとやはり透明で、
別に質が変わっていないようにみえますけれども、飲んでみると味わいがなく新鮮な感じがしません。
店先や事務所の空気もやはりそうです。

その仕事を始めた当時は、感激に満ちて働いていた店員でも事務員でも、
だんだん感激がうすれて面白味がなくなり、ただ機械的に仕事をするようになり、
次第に不平を言い出すのは、勤めている人そのものが日に日に新しくなろうと考えないからです。

ちょっと見ると開店当時と同じでも、それは汲み置きの水と同じように新鮮味を失っているのです。
日に日に新しくならない者は、ちょっと見ると、前と同じような形をしていても、
新鮮味がなくなり味わいがなくなり、そこの空気が悪くなっているのです。

内部の人に判らなくても、外から入ってくればよくわかるのです。
繁盛する店と繁盛しない店は、その店にいる人たちの心が、
日に日に新しくなっているかどうかということできまるのです。

皆さん、日に日に新しく日に日によい考えを生んでゆきましょう。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

第5章 終わり、 次回より第6章「疲労を感じない力の生かし方」へ

217神の子さん:2012/03/09(金) 00:41:17 ID:rmOiHONA
>215

次は「オマエ」という神様の声が聞こえぬか!!!

富士山の噴石に当たるのは215だとよ。

218神の子さん:2012/03/09(金) 12:00:44 ID:eWw166D.

しかし・・・和解、和解・・・という虚しい言葉が宙に舞っていますなぁ。

本来この言葉を向けねばならぬお人は、他者への慮りが零とのこと。

下々に何ぼ叫んでも、虚しくこだまするばかり。

このような狂態が続けば、世界の笑いもの。

219a hope:2012/03/09(金) 12:38:15 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

第六章 疲労を感じない力の生かし方

なぜ疲れる人と疲れぬ人とができるのか


心の力、肉体の力、そのほかどんな力でも之(これ)を強め、増し、大きくする秘訣があります。
それは難しいことではありません。それは今ある力を十分使うことです。
人間は、心の力でも、肉体の力でも、仕事をする力でも、勉強する力でも、
使えば使うほど強くなり、増してくるのです。
出せば出すほど出る力、使えば使うほど殖えてくるのが生命の力なのです。

しかし、出せば出すほど力が減り、使えば使うほど神経衰弱になる人もないこともありません。
或る人々は、働きすぎたので疲労して病気になったと言いますし、或る人々は、
心を使いすぎたので神経衰弱になったと言います。

では、なぜ、一方の人は出せば出すほど力が湧いて来、働けば働くほど元気になるのに、
なぜ、もう一方の人は出せば出すほど力が減り、働けば働くほど元気がなくなり、病気になったりするのでしょうか。

ここに人間成功の秘密の鍵があります。皆さんはこの秘密の鍵が何であるか、考え当てることができますか。

懸賞問題です。百円や千円や一万円の端金(はしたがね)が賞金に出るのではありません。
この問題が解けた方には「一生涯の成功」という懸賞がつくのです。

(つづく)

220a hope:2012/03/10(土) 11:09:26 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

二人の答えはどちらが正しい?


Aさん、あなたにはもうこの問題は解けたでしょうね。
解けるのは当たり前です。あなたは、毎号『生長の家』という雑誌を読んでいらっしゃるのですもの。
Bさん、もうあなたにはこの「秘密の鍵」は見つかったでしょうね。
あなたは、先日『生命の實相』を一所懸命読んでいらっしゃいましたから。

この「秘密の鍵」を見出す道は、『生命の實相』や「生長の家」の本のどのページにも書いてあるのです。

では、Aさん答えて下さい。
Aさんは答えます。
「後の人が、出せば出すほど力が減ったり、神経衰弱になったのは、人間を物質であると思っていたからなのです。
前の人が出せば出すほど力が増して強くなったのは、人間を神の子だと思い、硯の上で磨る墨のように、
磨れば磨るほど減ると思っていなかったからなのです。」

「Aさんの答は満点です。ではBさん答えてください。」
Bさんは答えます。
「人間は働けば働くほど力が出るのは、人間は、目に見えないが『無限の力の源』につながっているからなのです。
この『無限の力の源』を神さまというのです。人間は神様から力の泉をいただいているのです。
このことを前の人は知っていたのです。ところが後の人が働けば働くほど疲れて病気になったのは、
恐れながら働いたか、不平に思いながら働いたからです。
その働きに感謝しながら『無限の力の泉』が宿っていることを信じながら働くものには、
疲れるということも、病気になるということもありません。」

Bさん、あなたの答えも満点です。
常に暇あるごとに、私達は次のように吾がたましいに呼び掛けようではありませんか。

「たましいの底の底なる神よ、

無限の力よ、

湧きいでよ。」

常に、かく心に口ずさんで、自己に宿る無限の力に呼びかけるものには、力が無限に湧きでるのです。
疲れたときなど、二、三分間こう心で唱えて無限の力を呼出せば元気がでます。

(つづく)

221SAKURA:2012/03/10(土) 16:32:45 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ

こんにちは…!今日は朝から気持ちがい〜〜〜〜〜い“一日”に…なりそうな予感?
さて!事務所に昨日からいます〜〜〜〜。
気持ちのいい“春日和”です。もう直ぐ…春ですネ〜〜!
これから皆様も良い事が、起きそうなそんな予感が……「神想観」をしまして…
今日も先生の“テキスト”参考に勉強開始…start

【光明道中記】            谷口雅春著
::::: 四月二十一日  種を蒔くに肝腎の日:::::

兎も角十人の隣人に喜ばれるひとは十人の顧客を有つ者です。神に喜ばれる
人は神を顧客に有つ者です。(『百事如意』)

勤労も好い、奉仕(service)も好い。併しながらそればかりが
成功の全貌ではないのである。
世の中には石川啄木の歌の通り、働けど働けど生活が楽にならない人たちも沢山ある。
勤労は耕作であり、掘鑿であるけれども、いくら耕しても不毛の地では
好い作物は出来ないし、いくら掘鑿しても、鉱物の埋蔵されていない
ところから鉱石が採取される筈がない。
だから成功とは、見えない世界に埋蔵されている「或る物」だと言わなければ
ならないのである。見えない世界に埋蔵されている「或る物」こそ耕作して
花開き実を結ぶ種子であり、埋蔵されている鉱石である。
これは宗教上の語(ことば)で言えば「福田」であり、心理学上の語で言えば
識域下に印象されている観念である。
それは一言で云えば、吾々の先祖と、吾々自信が潜在意識の世界に蓄積
して来た業である。それは意業、口業、身業と云うように三つに
分つことも出来るが、すべての業は念の動かない所に動かないのであるから、
全は「蓄積された念」だと云う事が出来る。
「念」が不幸になるように蓄積されている人は、どんなに耕作しても、
どんなに掘鑿しても、そこは不毛の地だと云うことになる。   
                      

【石川啄木】の書籍を読みましたが…
全ての流れは…啄木の場合「悲しい生活スタイル」なのです。
啄木は、かなり頭脳明瞭…抜群の才能が…なのに?
当時「お寺の息子」として、東京に上京しまして、
更に!「奥さんの節子さん」を、東京に呼び…そこまではいいのですが?
更に!母親が頼ってきまして、あの年で一気に家族を背負います〜〜ョネ!
私の判断から“無理??”な話〜〜〜〜に思えましたが…??

「雅春先生」でも駆け落ちしまして、親の反対を受け、
母親の執拗な邪魔・迫害を受ける状況下にて…、
その時!先生自身も知識はあっても、どうにもならない >< 
更に本人の隠れた才能は…あっても、その隠れた“埋蔵”は???

19歳の時に、確か『ロ−マ字日記…石川啄木』の本を読みました。
その本が〜〜〜〜〜なくなっているんです〜〜〜ョネ!
思い出す限り、どうも『金大一京助は啄木の親友…』と言いますより…
中学の先輩・後輩の関係だったので??
啄木が亡くなる時に、節子夫人「にロ−マ字日記」を破って焼いてくれとう遺言!
啄木の死後、節子夫人は思い出があり…親友の金大一京助に渡す…。
その後!京助は裏切られたと……
どうも京助は、啄木の家計を家財道具を売り払ってまで“お金”に換えて…
啄木を支援…それがその“お金”は全て女郎買いに使われていた事が分り、
その後、啄木の家計は全て亡くなります。
                <つづく>         No.1

222SAKURA:2012/03/10(土) 16:34:18 ID:FEa/NNlc
<つづく>        No.2 

更に!節子夫人は確か慈善団体療養所白人系で
最後の子供を出産、その子供も結核がうつされていたとか書いてありましたが?
啄木の【働けど働けど〜♫〜】 今!思いますと甘えに成ります〜〜ョネ!
でも15〜16歳で一家を背負われるのは…今から“スタ−ト地点”では
どんな人間でも精神力は???先生でも中野時代ですから… この様に
正しい埋蔵を耕作…蒔いた種を増やす努力は精神心からくのではと、思います。

反対に【金大一京助さん】は、アイヌ研究で有名です〜〜ョネ!
此方は“善”そして“明るい”…この二人の対象を比較して「種まき」は大事…!
見えない世界は【心=無現力…花開くまで時間空間をえて実相世界】として、
あらわれる事!【実相=現象】であり更に!種蒔きは…><
『福田……磁石』として引き寄せる“モノ”
【ボディティブな感情=心】ではと、気がつきますと…日頃の行動もあり
更に【神想観】は大事です〜〜ネ!
◆【成功の近道】と言いましても過言では無い様に思えるのです。

更に!今回【a hope 様】の“今日言葉”より…
【真理は、唯!一つ】…方便の多様性…A 或いはBの人の解説は違うが…
どちらの方の方便も〜〜〜〜〜【答は正解!!!】
人それぞれ環境・置かれました立場の相違なりに…etc
「解説・解釈論」が異なりますし、そうしますと【原理主義…】は〜〜〜〜
【本人の尺度で、物事を決めつける事!!!!!】
今日では、通用しないのではと、私自身は思います…。

「楠本神野先生は…素晴らしい方と思いますが〜〜〜〜〜〜〜 ?
変な所で「決めつけ」も、多いように見えますが……?
あなたはこうなのです…。この考えは、間違っています…。……etc
時代背景も考慮しますと… 以前ならばよかったのでしょうが……?
現在社会は複雑!益々進行していくものと思いますと…
◆ 【多種多様なる方便】が出来る…新しいやり方が、時代のニ−ズになるものと!

■「現総裁先生」十分に出来られるものと…私は確信しておりますが?
今!!今!!私も“種”を蒔いていますので…
この先どの様な“芽”が出てくるのかと?今から楽しみで〜〜す。

                            再合掌

223ハマナス:2012/03/11(日) 00:52:08 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。

SAKURA様が次のように投稿されていましたが・・
>「楠本神野先生は…素晴らしい方と思いますが〜〜〜〜〜〜〜 ?
変な所で「決めつけ」も、多いように見えますが……?
あなたはこうなのです…。この考えは、間違っています…。etc <

私も宇治が好きで、年に数回練成を受けに行っていますが、楠本加美野総務が
そのように仰っているのを聞いたことはありません。
むしろ、我のないお方でして、あまりノーと仰いませんし、質問をしましても、
「そうだね。そういうこともあるね。・・・・神の子だから、大丈夫だよ!」と
いつも的確な素晴らしいご指導をして下さいます。
毎回、心が浄まり生まれ変わった気持ちになって帰ってきます。

先生は、御年90歳になられましたが、とてもお元気で、毎朝3時半に起床され
それぞれのお宮(宇治の境内には、精霊招魂神社、末一稲荷神社、流産児供養塔
、幽斎殿写経奉安礼拝殿があります。)をお参りして、聖経読誦され、4時半からの
幽斎殿の早朝行事、次いで5時10分からの大拝殿での早朝行事をかかさないそうです。
ご自分のお年やお身体のことを考えず、人類光明化と人を救うことを常に考えて行じて
いらっしゃるように見えます。
(私も練成に参加した時は、せっかくに宇治に来たのだからと、3時半に起床してお宮参りをしています。)
まだ、宇治の練成会に参加された事のない方は、是非おすすめです。本当に素晴らしい
練成会です。  (別に、宇治の回し者では、ありませんが・・・)

感謝合掌

224a hope:2012/03/11(日) 12:14:20 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

こんな簡単な方法で


電車で学校へ通うとき、会社へ通うとき、工場へ通うとき、その電車の中で静かに眼をつぶって、

「わがたましいの底の底なる神よ、

無限の力よ、湧きいでよ!」

と呼び掛けて、

「私は無限の力に護られているんだ!疲れない!疲れない!人間は無限力だ」

と、数回心の中で一心に繰返す方法は、我らが疲れなくなる、
そして無限の働く力や無限の勉強する力が湧いて来る、最も簡単な神想観です。

皆さん、やってごらんなさい。
毎日これを続けてごらんなさい。おびただしい自身がついて参ります。
素晴らしい能力が内から湧き出てまいります。
身体が健康になり、記憶力がよくなり、勉強がよくでき、仕事の能率が上がり、
したがって人からは喜ばれ、そこに立身出世の礎(いしずえ)が築かれるのです。

一度や二度やって見て止めるようではなんにもなりません。
毎日、電車の中で往復の時でも好い、毎日机に向かったときの一分間ずつだけでも好い、
常にたゆまず、自分自身の中(うち)に呼びかけるのです。
この習慣をつけておけば、試験場へ出たとき、あるいは工場で難しい仕事にぶっ突かったとき、
ほんの瞬間のあいだ「わがたましいの底の底なる神よ」と呼び掛けることによって精神統一し、
おちつきができ、みごと難関を突破し得るようになるのです。

他人に物を頼むよりも、自分自身の中にある「無限の力」に呼びかける方が、なんぼやさしいことでしょう。
自分の中には無限の力が宿っているものを!
こんな簡単な実行から無限の力が湧いて来るのです。

225a hope:2012/03/11(日) 12:18:39 ID:kcv2QXTk
訂正
>>224
上から20行目
自身→自信

226SAKURA:2012/03/11(日) 23:20:06 ID:qjU6h9ik
トキ様 へ
皆様 へ
こんばんは…

【幸福を招く365章】
―― ❖ 汝の肉体を讃美せよ ❖ ――

あなたの肉体を愛し、その健康を求めるならば、
肉体に小言を云ってはならないのである。
肉体に感謝し、肉体にお礼を云い、肉体の美を讃え、
肉体の健康を祝福しなければならないのである。
こんな不健康な肉体をどうして讃美し祝福することが出来ようと思う人が
あるかも知れないけれども、あなたの肉体の何処かは健康であるであろう。
肺のわるい人も眼は見えるであろう。耳は聞こえるであろう。
手足は健全であるであろう。
然らば何故、その眼を、耳を、手足を讃美し、祝福し、
それに感謝しないのであろうか。
真に神の恵みに感謝したとき、その肺もなおるであろうに。
                          (谷口雅春著)
―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――
■【肉体は仮モノ】…と
聖経『甘露の法雨』に……今回「亡き母の御霊」を見ましてからは、
見方が、“変化”してしまいましたかしら〜〜〜ン?
そう!本当の人間は『霊的人間』…「現象世界で肉体は借り“モノ”の姿…」
肉体は“仮モノ”と切実に思います…。
そうしますと、時間〜〜〜♫「時の流れ」は、ストップしないのです…。
■ 永遠なる…時…! 時の流れ … ♫
とまれョ〜〜〜時間 ♫〜と云っても……一瞬にして時間は、過ぎ去る“モノ”…
【肉体人間=霊的人間】 なのですから、今現世で“心”の修行が……大事!
ちょっとしたはずみで「疲れやすいの〜〜ョ」とついつい口癖に云います〜ョネ!
気休めに言ていた“言葉”が…だんだん年を、重ねて行く内に…
“言葉”は、もっと進行して?いつの間にか“日本語…?”深刻な状況??
そうなのです〜〜ョネ!「言葉に変化」を感じられませんか〜〜〜??
              <つづく>         No.1

227SAKURA:2012/03/11(日) 23:21:50 ID:qjU6h9ik
              <つづく>       No.2

若い時は「体が弱いのョ〜〜〜 ><」といい、現在は?「もう年ョ〜〜〜」と
変に納得した“言葉”を使う事?ありませんか……??
“言葉”遊びでしょうが…ちょっとした“言葉”でも健康は遠のいていくのでは?
「今日の言葉」に表されています…。
【肉体は仮モノ…】ですので、この現世で活かす“モノ”ですョ〜〜〜〜ネ!
それは【感謝…】なのでしょう??
今の時代“生まれたままの姿(顔)”で生きている人は…確率は??
いますのでしょうか…?いても〜〜〜ごく少数ではないでしょうか〜〜〜。
化粧の感覚で“整形”…どうにでもなれる“変身術”なのでしょうが……
この頃見ていて複雑になります…。

「亡き法貴先生」が生存中の頃…いつも御講話を聴きにまいりますと…
先生は、必ず!私の“顔”を見まして…「整形は〜〜ダメ〜〜ョ」と口癖のように…
云われましたが……それも最後までなのですモノ…
“私の顔”が、先生にはその様に見えられていたのでしょうか?
たぶん今では“霊界世界”にて「ゴメンネ〜〜〜!」と笑いながらおっしゃって
いる事でしょう〜〜〜〜〜♫

【整形…】がこのように一般に浸透していなければ、私は貴重価値?
生まれつきの“顔”なのですが……自分で言いますのも“オカシイ”です〜〜ョネ!
鼻筋がきれいなので…どうかしますと、若い頃は…“ハ−フぽく”見られて…
中高の頃は、自分の顔は好きではありませんでした…。何故なら?
何をしても目立つんです 〜〜〜ョネ!(濠も深いので…)
このように「天平画…天平美人像」にあこがれておりましたが……
本当に“丸顔…こけしのような顔”憧れていました“私…”

現在!時代の流れにて…「整形=化粧感覚…」若い子がしていますが…
ふと!先日!「ある所で工藤静香さんの顔…」を見まして…
これが現在の“顔”???きっと又!修正されるのでしょうが…?
【肉体は仮のモノ…】と分かっているのかしら〜〜〜ンとつくづく考えてしまい…
ある新聞のカラムにて…
整形しすぎで“白血病?”この事は今では、海外では当たり前ですが…
更に“免疫力が低下”…更に“アルツハイマ−”になりやすいとか…?
確かに「40〜50歳代でも、アルツハイマ−型認知症」が増えてきています〜ネ!
これも“肉体”をおろそかにした結果と思います…。
自分の【肉体への感謝】果たしてあるのでしょうか??
■ 心の〜〜〜魂の向上〜〜〜果たしてあるのでしょうか………??

【生まれた時…そのままの自分の顔が…一番です。そして、
■ 【どれだけ多くの人に〜〜〜世の為・人の為〜〜〜貢献できるの〜〜〜か?】
更に!“肉体への感謝”です〜〜〜ネ!

■ ■ 全ての 事に 物に 感謝 … … 
       この事を教えて頂きました“我が神…”感謝申し上げます。

                             再合掌

PS:見かける度に「整形…」しています人の顔を見ますと…“魂の向上”…
“心の向上…”如何なものでしょうかと…
今の私は…【心を磨いて…こころ美人】に…… トライ!!
トキ様へ…<今日の言葉>どの様にお考えでしょうか…?

PS:第一教区に…まだY教化部長先生が在籍していました時…
素敵な言葉…おっしゃっていましたが……
「最近…年齢の超えた方が整形されている…が?
年齢に応じた“歳の美しさ”が見えなくなり…50代なのに30代に見せ様とする
方が増えて…そんな事よりも“40代・50代・60代・70代…のその時々の
年齢に応じた歳の美しさがあるはずだ…!!」と云っておられましたが…
今!!今日の言葉にて、ふと!思い出してしまいましたが……??
先生と一緒にとった「写真…3人トリオ???」のワンショット…飾って?
やはり信仰心の深い方は…年齢が?見えないように思いますが… ウフフ

228a hope:2012/03/12(月) 09:03:46 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

まず実行です、今日から



まず実行です。この『人生読本』に書いてあることは、できないことはちょっとも書いてないのです。
やって効果のないことはちっとも書いてありません。
『生命の實相』に書いていて多くの人が実行して効果のあった真理を、もっとやさしく、
わかりやすく、短い時間に読めるように、短い時間に実行できるように書いてあるのです。

だから読んだらすぐ実行です。
毎日電車の中での黙然、仕事にかかる前の一分間の黙然
―――黙然というのは口では黙っていて心で念(おも)うのです。
先刻お教えしたように、一分間眼を瞑(つぶ)って、

「わがたましいの底の底なる神よ。

無限の力よ、湧き出でよ!」

と自分自身の魂に呼びかけるのが神想観であり、黙然です。
この呼び掛けが、どんなに力になることでしょう。

(つづく)

229復興G:2012/03/12(月) 16:13:21 ID:ojEbkDH2

>>228
a hope様。

いつもステキな『人生読本』のご文章を紹介してくださり、本当にありがとうございます。
今日の「まず実行です、今日から」も、“そうだ!”と思わせて頂きました。
私はもはや、自分のことというよりは、電車の中でも、乗り合わせた乗客みなさんのことを祈るのが楽しみになり、実行しています。
「わがたましいの底の底なる神よ。無限の力よ、湧き出でよ!」
というのも、「わが」というのは「乗客みなさんの」と祈らせて頂こうと思います。

ところで、「黙然」は「黙念」ではないでしょうか?

230a hope:2012/03/12(月) 16:46:04 ID:kcv2QXTk
>>228
訂正
「黙然」→「黙念」

復興Gさま、ご指摘ありがとうございました。
わたしも、
「わがたましいの底の底なる神よ。無限の力よ、湧き出でよ!」
を、わたしの周りの大切な方々の名前を入れて、さっそく祈ってみます。

復興Gさま、いつも素晴らしいご教示をありがとうございます。

231SAKURA:2012/03/12(月) 21:43:26 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆さま へ
こんばんは……
やはり「気温の較差…」実に沁みますかしら〜〜〜ン??

■【幸福を招く365章】
――❖❖❖  人の悪しき言葉に乗るな  ❖❖❖――
怒りは火事のようなものである。あなたの心を焼きつくし、
地獄の焔の中に投げ込み、
ついに身体までも病気にする力をもっているのである。
誰かが不親切な言葉を発したからとて、
それを自分の心の竃(かまど)の中にほうり込んでならないのである。
不親切な言葉は、
あなたの心の竃の中で燃える地獄の火の燃料となるのである。
不親切に対して親切をもってし、
憎しみに対して愛をもってするのは、
自分の心の中にほり込む燃料に 水を注ぐようなものである。
ひとの告げ口に乗るな。
それは怒りの焔を煽る風のようなものである。
愛語と調和の言葉をふらして、
心の火事をけすことである。常に「平和」を念じて祈れ。
                        ( 谷口雅春著 )
❖     ❖     ❖     ❖     ❖     ❖     ❖

意外と”思い込み”がありますよ〜ネ!〜〜〜今回!各々の「投稿者様」達…
此の方は??此の人は??…「上の方??」かしら〜〜〜ンとか…??
【想像】しますで〜〜〜ショ?
そして、その事が念頭に抱いての“投稿”となりますと…
ことのほか、そちらに”気持ちがに左右”されている様に思いますが…
と云う事は、本人自身が本来の”投稿内容”を、何処まで”投稿”出来ましたかどうか?
そして、相手が…現実的に分りますと〜〜〜><
更に!感情の上で”いい感じの応対”をされない…と思いますと…
【心の隙間〜風〜♫〜】が出て参り〜〜〜寂しい”思い”に…
その様な時は、やはり、先ず!【寄せ付けない位の心】強い”心”が必要でしょうか?
今回!私も【御霊…】を、公開しましたが…

ま〜〜ぁ!人それぞれでしょう〜〜〜〜ネ!ある方が…「キ●ガイ!!」
これを見て?私の事なの〜〜〜〜???と…
つい、私も気持ちの上で引っかかりを感じ、やはり”潜在意識”に、
私自身……今回!公開しましたの【母の御霊は綺麗な白〜〜〜い御霊】です。
どなたでも、あの世に行きますと【御霊】はあります〜〜〜が…
色は???或る宗教は…十界…とか? 七界…とか? 様々です〜ネ!

【母の御霊】は、綺麗なので、人に見せるまでは、随分考えましたが…?
やはり【甘露の法雨】に書かれています(今日で公開…ストップ)
■【人間は霊的人間…】です〜〜〜ョネ!
この世に”生”を受け…一生!あっ〜〜〜〜〜という間に過ぎるのでは?
そう思いますと…今!今!を生かす事が、大事ではと思いますが…
【母の御霊】で、少し時間の使い方とか…今を生かす生き方とか…?あるのでは??
今回!!【2チャンネルの方…】は……
「言葉遣い…」当に!”ネガティブ感情”が文章に現れて、見ていますと…
こちらまで【火の中に放り込まれそう…><】になりましたが……??

やはり【雅春先生の言葉】を、思い出し…
例え…私が【キ●ガイ】と思われていましても…
その人も、逆に〜〜〜そう見ていられ事は、
閲覧されています”第3者の皆様方”がいらっしゃいますと云う事…更に!!
【総裁先生…へ?ルンペン…】此の方この”言葉”を使用する限りは…
現在!!此の方は「ルンペン…?」を経験されたか〜〜?将来!されるのかも??
しれませんので……… 【危ない〜〜〜危な〜〜〜イ!】

この様に、一度!!【悪しき言葉…??】
■「生長の家」では【 言葉は神…言霊 】ですので〜〜〜〜〜 ><
実に!まきこまれないように〜〜”神”にゆだねながら〜〜♫〜〜
【イメ−ジ=神想観】をします…。
【人の悪しき言葉にのるな…!!】当に!そうなのです〜〜〜〜ョネ!!

                             再合掌
PS: トキ様へ
本日の言葉…先生の“言葉”に対する考え…私は納得しておりますが?
トキ様は、どの様に捉えられていらっしゃいますでしょうか・
宜しかったら”アドバイス”頂けますと幸いに存じますが…??

232a hope:2012/03/13(火) 09:05:29 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

時々はまた別の新しい言葉で

必ずしもこのとおりの言葉でなくともよろしい。
時々はまた別の新しい言葉で、自分の内に宿る「神様の無限の力」に呼びかけてもよろしいのです。

ともかくも、自分の内に宿る神に呼びかけることが必要です。

「求めよ、さらば与えられん」です。
神は決して遠いお空のかなたにいるのではない、神は自分の内にいまして応えられます。
「魚を求むる者に蛇を与うるものあらんや。パンを求むる者に石を与うる者あらんや。
いわんや天にまします我等の父は我らになくてはならなぬ物を知り給う」という言葉を、
私は会社へ行っていた頃、出勤の電車の中で繰返していた時代がありました。
すると不思議に、自分の求むることは必ずできるのだという自信が湧いてまいりました。
そしていつの間にか、私の運は好転してきました。

神は吾々が求めなくとも与えてい給うのです。
神は吾々が想い出さなくとも、吾々の中に「すべて」を与えていられるのです。

しかし吾々の中にあるその「すべて」の中から、
要るだけのものを呼び出してくるのは「言葉の力」によるのです。
そして言葉で喚(よ)び起された自信の力によるのです。
ちょうどそれは、吾々の懐(ふところ)の中に、
知らぬ間に神様から入れられていた蟇口(がまぐち)のようなものです。
その蟇口の中には、なんでも欲しい物が買える無限のお金が入っているのですが、
そのことを思い出さないと、欲しいものを買おうにも買う力が出てこないでしょう。

「自分の中に無限の力がある!」こんな簡単な言葉でよろしい。
ともかく、常に自分の内にある無限の力を呼び覚ます意味の言葉を使って、
自分の魂に呼びかけ、自分のたましいの奥にやどっている無限の力
―――何でも買うことのできる「蟇口の中の財(たから)」を思い出すことにしようではありませんか。

(つづく)

233うのはな:2012/03/13(火) 18:03:59 ID:El6gIMAw
 戦争中の私の体験

 戦争中のことでありました。私の宅の庭が全部“かぼちゃ畠”になった事がありました。
あの杜鵑花(つつじ)の枝の上まで一面に“かぼちゃ”の蔓を這わせて食糧増産につとめたものでした。
私は朝五時には必ず薄暗いうちに畠へ出て、一所懸命耕したり、苗を植えたりして夕方、真暗になる頃、星を
頂いて帰ると云う位にやって居たものです。

 そうすると、ずいぶん沢山収穫が得られました。私の宅では戦争中も、終戦直後の配給のない時代も一度も闇米を
買った事がなかった。それは、私のつくった“かぼちゃ”ばっかりを私も家族も食べておったからです。
もう“かぼちゃ”はあんまり出来過ぎて、翌年の正月になっても、まだ南瓜を喰べておった。
三割位のお米に、南瓜が七割入っていると云うような御飯を食べておりましたが、その位たくさん南瓜が出来たものです。

無花果なんかも、何処からか枝を貰って来て挿木をしたら、無数に素晴らしい美味しい果実がみのって食べきれない程でした。
愛と智慧とをはたらかして大いに土を作り、施肥をしたからです。
 ところが、この頃は、食糧が豊富になりまして、買えばあると云うようになって来ました。
そうするともう私も庭を畠にする必要はなくなってしまいまして、庭は普通の植木の植わっている庭になりましたけれども。
果樹だけはそのままに置いてありました。

無花果などもそのまま植わったままに置いてありました。ところが私が雑誌の原稿などに忙しくなって来ましたので、無花果の樹を
毎日世話してやることができず、それに愛念を注がなくなってしまいました。
そうすると、その無花果が、殆んど枯れたようになって、その上、虫がついて、もう殆ど実がみのらなくなったのです。
たまたま実ったかと思っても、小さい貧弱な果実しかみのらない。
たべてみても殆ど味が無いのであります。

 これは私が無花果に愛と智慧と、そして生命とを注がなかったからです。
「与えない」でいて収穫と云うものは出て来ないものなのです。

『日常生活の中の真理』無門関・聖書篇  谷口雅春 先生著

234うのはな:2012/03/13(火) 19:47:03 ID:El6gIMAw
 懸崖から有無を言わせず跳ばせる宗教

 戦争前に「天華」と謂う宗教を創められた渡辺薫美という霊覚者がありました。
横浜あたりにその本部があって、天華洋行という名前で全国にゴム底の靴の販売網を
つくっておられたのであります。生長の家の誌友の方でこの天華洋行の靴の販売店をしていた人が
話していらっしゃいましたが、中々この教えは立派な教えであったそうです。
今は故人でありますが、生長の家へ来て講師となり、禅家の家風があって、よく一喝で人を救われた
野村義隆さんなどもこの天華の教祖の渡辺薫美師の教えを受けられたということで、こんな方面から、
この渡辺薫美の霊能について色々の話を承ったのでありますが、この人はいろいろな奇蹟的なことをやるので野村さん
もびっくりしたそうであります。

 私は見たことがないのですけれども、湯呑に茶を出して気合をかけると、その湯呑の茶が焔になって燃えあがったり、
随分いろいろの不可思議を演ずるのでした。しかし、こんな事は手品でもできますから、大したことはありませんが、
その教えの極意は、仏教もキリスト教も、生長の家も同じことで、一切を捨てるということであります。

つづく

235うのはな:2012/03/13(火) 20:01:49 ID:El6gIMAw
234 つづき

 或る日、信者のお嬢さんが山道を渡辺薫美先生と一緒に歩いていたのです。
真理の話をしながら歩いている。先生は、「一切を捨てる、一切を捨てなかったら、
この道は得られない。貴女は一切を捨てることができますか。」とたずねられる。
「ええ、一切を捨てます。」とそのお嬢さんは答える。

二人が今歩いている山道の一方には千仞の崖があったのでありますが、その時、薫美先生は、
「今この崖から下へ跳べ。」とおっしゃったのであります。
こう言われて跳べぬようなことでは一切を捨てていないのです。本当に一切を捨てて師に従うのだったら
「跳べ」と言われると、跳ばなければならない。躊躇しているようなことでは無我ではないのであります。
その二十歳くらいのお嬢さんは助かったのであります。何もこわいことはない、すべてを捨てたとき、安全に
支えてくれているものが発見される。つかまえているのなら力がいるが、放すのだから力はいらぬ、そして
神力、仏力に支えられるのだから、こんな楽なことはないのであります。


『人間そのものの発見とその自覚』 谷口雅春 先生著 P49−50

236a hope:2012/03/14(水) 10:01:23 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生

何が「無限の力」を邪魔するか


自分の中に宿っている「無限の力」―――この無限の力を称して「神」というのです。
「無限の力」はこのように言葉の力で、また神想観の力で、
黙念(もくねん)の力で呼び出されてくるのですけれども、
その無限の力を呼び出す邪魔となる心の働きがあります。

それは他(ひと)に対する「憎みの心」です。
他に対する呪いの心です。他に対する不平の心です
―――こういう心は、人と人と摩(す)れ合う摩擦の心ですから、
せっかく、内から出て来る無限の力を摩り減らして無駄に消耗(しょうこう)してしまうのです。

皆さんは、機械になぜ油を注ぐか知っているでしょう。
それは機械の摩擦を少なくするためです。
なぜ摩擦を少なくしなければなりませんか。
摩擦は不必要に動力を食うからなのです。
摩擦があるだけ機械の効率が減るからなのです。

人間もやはり同じことです。
せっかく「人間・神の子」の自覚ができて、無限の力が内部から湧いて来ていましても、
摩擦が心の中にあれば、せっかくの無限力も摩擦のために食われてしまうのです。

憎み、呪い、恨み、不平、悲しみ、おしい、ほしい、取越苦労(とりこしくろう)、
持越苦労(もちこしくろう)、―――これらは大なる心の摩擦であります。

では、心の摩擦をなくするにはどうしたらよいでしょうか。
機械の摩擦を防ぐためには、機械に油を塗るでしょう。
それと同じく、心の摩擦を防ぐためには、心に油を塗ればよいのです。

心に塗るべき油とはどんな油か、その油を考えて発明して特許をとったらずいぶんよく売れて、
その人はきっと大金持ちになるでしょう。

(つづく)

237a hope:2012/03/15(木) 10:02:25 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

新発売、心に塗る油


心に塗る油の一種は「感謝油」と申します。
また、「朗(ほがら)か油」という名前の油も売り出されております。
また「愛の油」というのもあります。

どこに、そんな心に塗る油を売っていますか。
よそを探ねるにはおよびません。あなたの心の中に売っているのですよ。
あなたの心の中を掘ればどれだけでも滾々(こんこん)と湧き出て来るのです。

感謝の油は、どういう動力で汲み出すかと言うと、「ありがとう」という言葉の力で汲み出すのです。
なんでも、「ありがとうございます」という言葉を心に思い、また口に出すのです。
ただ「ありがとう」とさえ思えば、その思いは「心」を潤(うるお)す油となって、
人と人との摩擦はなくなり、不平は無くなり、物事は順調にゆくようになります。

その次の油「朗(ほがら)か油」もあなたの心の店で売っています。
これは「どんなに悪く見えることでも、必ずよくなる。自分は運が好いのだから、
必ずよくなるほかはしかたない」と常に考えるようにするのです。
真夜半(まよなか)がきたら、朝になる始めだと考えるのです。
雨が降ったら、これは晴天になる始めだと考えるのです。
夜があるので朝が楽しいのです。雨があるのでお天気が楽しいのです。

「自分は、神の子だもの、神に護られているのだもの、よくなるほかはありえない。」
何か不快なことがあったり、気分が暗くなって来たときには、一分間でも眼を瞑(つぶ)って、
この言葉で自分のたましいに呼びかけるのです。
これが「朗(ほがら)か油」を自分の心に注す方法です。

(つづく)

238a hope:2012/03/16(金) 10:38:59 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

愛はすべてを癒す


次に人間の心を柔(やわら)げる油に、「愛の油」という素晴らしくよく効く油があります。
「愛の油」を注すと、どんなものでも摩擦がなくなります。

仕事をして、うまくできなかったり、その仕事に故障が起こったり、その仕事で怪我をしたり、
仕事の結果健康を害したりするのは、仕事に対する愛が足りないか、仕事に対して恐怖心が伴っているのです。
愛しさえすれば、仕事はあなたに害を与えるものではありません。

犬でも愛する人には咬みつきはいたしません。恐れる者には犬も咬みつくのです。
この仕事をしたら健康を害するかもしれないとか、こんなに夜業を続けたら、
衰弱して肺病になりはしないかとか、取越苦労が病気の因(もと)です。

恐れずに、仕事と勉強に愛を感じ、働かせてもらうことに、勉強させていただくことに、
喜びと感謝とをもって勇敢に生きて行く時には、人間は働くほど健康になるのです、
元気になるのです、病気だってかえって治ってしまうのです。

愛はすべてを治す力です。傷口に膏薬(こうやく)を貼ればそこが治ってくるように、
愛は心の傷手(いたで)を治し、愛は仕事の苦しみを治し、愛は労務の重さを軽くしてくれるものなのです。
吾々がまだ何か苦しいことがあるならば、自分の愛が少ないことを恥じなければなりません。

子供を愛する母親は、子供を愛するがゆえにこそ、どんな寒中(かんちゅう)にも夜半(よなか)に起きてお乳を温めて、
おしめを取りかえ、そしてそれを苦しいとは思わないのです。

「苦しい」と言いそうになった時には、自分のその仕事に対する愛が、社会に対する愛が、
国家に対する愛が、足りないんだということを反省して、もっと愛深くなろうと決心しなければなりません。

(第六章 終わり 次回から、第七章 生命の生かし方 へ)

239うのはな:2012/03/16(金) 20:36:27 ID:El6gIMAw
.....メキシコのグワダルッペ寺院の創立に関する霊的体験の解釈を書いておきたい。
ファンレイゴ青年が、神様から『赭土の丘である不毛の土地からバラの花を病人の数だけ
摘んできて寺院に供えよ』と命ぜられて、一度は『神様、テペヤの丘にはバラの花など咲いていません』
というが、やがて素直に、赭土の丘に行ってみたら、バラの花が、本当に爤漫と咲いていたので、それを
病人の数だけ摘んで寺院の本尊に供花すると、神様のいわれた通りに村の子供の病気が治っていたという件がある。

ファンレイゴ青年は、その時、現象では赭土の丘に見える処に、実相世界の美しき花爤漫の世界を見たのであった。
即ち法華経の如来寿量品にある『衆生、劫尽きて大火に焼かるると見るときにも、わが此土は安穏にして天人常に充満せり...
天人曼陀羅華を雨ふらして仏及び衆生に撤ず』が其処に実現したのであった。
ファンレイゴ青年は、その花咲く丘のことを村の人に告げると、村の人たちは、まだ“実相花爛漫の世界”を見る心の眼が開いていないので、
ファンレイゴ青年を“嘘つき”だと罵る。それで青年は村人に花咲く丘を見せてやろうと村人をつれて行くが、そこには、バラの花は一つもなく
赭土の丘に過ぎなかった。

これは“常識の眼”が実相の“花咲く丘”を見得ない其の多数者の妄心に、再び青年の“実相を見る眼”がくらまされたことを示している。
青年は悩む。そして神にその悩みを訴える。すると神は、『衆生の眼で見れば、唯の赭土の丘であっても、実相を見よ、ここに花爛漫のテペヤの丘がある。
再び往いて花を摘んで来い』と命ぜられる。

 その時、青年の実相を見る眼が開くのだ。そしてテペヤの丘に往ってみると、群集の眼には唯赭土の丘に過ぎなかった不毛の地にバラの花が爛漫と咲いているのだ。
『わが浄土は壊せざるに、衆は憂怖諸々の苦悩充満せりと見る』である......


『生長の家』誌昭和47年8月号“明窓浄机”より

240SAKURA:2012/03/16(金) 20:56:24 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆さま へ
こんばんは…
先日投稿…と思いましたが?今日ここに“投稿”させて頂きます…。

■【幸福を招く365章】
――――❖ 心が原因として起こる病気 ❖――――

多くの病気は、家庭の紛争がおさまると治る。
自分のいたくない室(へや)から移転すると治る。
対人関係や事務処理が旨く行かない仕事を辞めると治る。
誰にも打ち開けられない不幸や悲歎や 憤りを完全に打開けてしまったら治る。
――これは単に生長の家の宗教的説教だとのみ思ってはならない。
サンフラシスコのドワイト・L・イルバ―博士のカンサス市の最 南臨床 協会に
於ける研究発表会のもあるのである。これらの種類の病気は、
自分の心のうちに幽閉して置いた、悲しみや、不平、憤りや…
その他色々の悩みが、ある「形」をもって排泄せられつつあるのである。
想念と云うものはそれが「形」に表現されたら、
その内部に蓄積せられているエネルギ−が消えるのである。
すべての「心の悩み」は強烈なる内部圧力によって
「形」の世界に噴出しようとしつつあるのである。
煙草を吸って煙草をふかす習慣の如きも、
噴出したいある感情が喫煙の煙となって具象して消えつつあるのである。
だから煙をフ−と吹かす毎に心が落ち着くのである…。
                        (谷口雅春著)


今日の文章を読みまして、フ〜〜〜!ピッタリなのでしょうか……?
今朝…朝早く目覚めまして、最近「睡眠時間が短縮」に……
「パソコン」が、無ければ“睡眠時間…”は“3時間”でもいいのです〜〜が??
この頃!TYOのホ−ムドクタ−先生が…
「パソコンは、少なくとも“2時間おき”に、休憩をす事!!更に…!
睡眠は?最低7時間と言われ…>< 」
ど〜〜うしても、忙しい時は“5時間”なのですが…それは、どうしても〜〜〜」と…
云う場合のみ!!と言われまして……それからが……><
私の「時間管理が狂って…」いるのです〜〜〜ョネ〜〜〜♫

「現在総裁先生」に対して…「他の候補者…別の人?」だったらいいとか??
そうしますといい方向に行くとか??その様な“投稿意見”を拝読しながら…

ある方が…私達のような一般(末端)信者は〜〜〜
■■【 下等階級の人間とか〜〜〜挙句は本部講師が一番とか〜〜〜 】
何か“オカシイ”のでは……??
その様に【責任の無い言葉】を…“ポン!ポン!”と述べられてますが??
【誰〜〜誰〜〜がいなければ好くなるとか??】云っていますのは…
その人自身に、現状からの【環境・立場】を脱却したいが為の…“裏…逃避”
その手段的存在が〜〜〜?多少はあるのでしょうか〜〜〜?
非常に???気分の悪い〜〜“言葉”です〜〜ネ!

先ず!!!!ごまかしているのでしょうか〜〜しらんン? 変!!

個々の考え…それぞれでしょうが??
辞めた人!理由はともかく【今の総裁】を追い出す言葉が出ていますし
更に、中には“イヤナ言葉”を投稿していますが……
【悲しみ〜〜憤り〜〜不平〜〜“ネガティブ感情”が渦巻く〜〜♫〜〜】
そのような【エネルギ−・パワ−】が、このような“形”で……
周りの人を、蒔きこんでいくのでしょう〜〜〜〜〜か??
全て!!シャットアウト!!!!!なのでしょうかしら〜〜〜ン

そのような人は、いつまでも〜いつまでも〜それの“繰り返し”で進歩は…?
進む事も……『進歩性!!』もない様に見えますが…。
「今日の言葉」は、更に続きがあり…やはりどうかしようと〜〜思案する間に…
時間だけが過ぎ去り??何も出来ずに、唯!終わるだけなの〜〜〜ですか?
                 <続く>         No.1

241SAKURA:2012/03/16(金) 20:57:34 ID:FEa/NNlc
<続く>         No.2

■先ず!【聞く!相手の人間性を認める心!から始まる】のではと…思います。

「煙草を禁煙に出来ない人」が…いつまでも“ダラダラ〜”
云ってる様なものでしょうか…?
私も今日からは…『時間管理が出来ていませんので、パソコン時間と本来の実務ワ−ク』
のこの両者の両立が課題なので〜〜〜す。フ〜〜〜〜〜ウ><
■上手に「時間管理」が……時間よとまれ〜♫〜です……!!

今日!久しぶりに「現総裁先生夫妻の写真」を拝見しますと……「雅春先生」に似ていらっしゃいます〜〜ネ!!
更に!同様【雅春先生と同じ時期かと思うのですが?今から苦労しながら…
(いろんな意味での苦労)…船出】
確か?戦後もう一度…再建と云う事で…年齢が同じ頃でしたかと思いますが?
「創立者…雅春先生」が、「人類救済と云う事」で行動を…なさったと思います。
必ず!!【素晴らしい真理〜♫〜】を信者に導いて〜書籍を書かれる事と…と思います。
その様に〜〜「今日は“フト!”…神想観」にて、浮かびましたが…

私事!!先ず『一日一日の時間管理…クリア作戦開始!!開始!!』しませんと?
これも【心のクリア病】でしょうか〜〜〜?【 Smileマーク 】

                           再合掌

トキ様>本日の“言葉”どの様に受け止められましたでしょうか〜〜?
(ゆっくりオフ・タイム…にて、時間管理作戦…開始です…)
又、いろいろ…“投稿”させて頂きます…。
「雅春先生の言葉」私に取りまして…やはり“心のスパイス”です…。
この「御教え」に出会いました事に感謝申し上げます…。ありがとうございます。

242a hope:2012/03/17(土) 09:05:12 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著

第七章 生命の生かし方

生きものと死物(しぶつ)との異い


皆さん、あなたがたは自分を大切にしていらっしゃいますか。
自分を大切にするというのは自分をなるべく働かせないように、
大事に箱の中へ閉じ込めておくことではありません。

木偶人形なら一年中箱の中へ閉じ込めておく方が、汚れないでいつまでも綺麗でいるでしょう。
しかし閉じ込めてジッとさせておく方が、汚れもせず毀(こわ)れもしないのは人形は死んでいるからです。
死んでいるものは、使えば使うほど摩り切れてしまうからです。
どんな丈夫な着物でも、帯でも、足袋でも、毎日使っておれば破れてきます。

しかし生きているものは毎日使っても、毎日物に擦(こす)れても、摩り破れるということはありません。
使えば使うほど、擦れば擦るほど生きているものは丈夫になるのです。

冷水摩擦をして、毎日タオルで皮膚を擦っても、
皮膚が摩り禿(ち)びて使えなくなったということは聞いたことがありますまい。
かえって皮膚をこすれば擦るほど丈夫になり風邪を引かなくなります。

足蹠(あしのうら)の皮膚は、毎日身体ぜんたいの重荷を背負って、
土や、床や、畳や、下駄と摩擦して働いていますので、
人体中の皮膚の中(うち)で足蹠の皮膚は、一等太っているのです。

死んでいるものと、生きているものとの相異は、死んでいるものは働かせば働かすほど細るし、
生きているものは働かせば働かすほど太るということです。

(つづく)

243トキ:2012/03/17(土) 10:06:23 ID:cjNjb78g
 SAKURA様、いつもご投稿、ありがとうございます。

 今朝、新聞を見たら、吉本隆明さんが亡くなった記事がありました。
彼は左翼の有名な思想家ですが、晩年は原子力発電を援護し、反原発運動を批判しておりました。
 内容は結構、説得力のあるもので、正直、感心しました。
最近の生長の家が、谷口雅宣総裁の好みで反原発運動を展開しているで、コントラストは面白
かったです。本流掲示板では、原発賛成の意見もあるので、この問題は簡単ではないですね。

 でも、原発に限らず、本当は生長の家の人間と言っても、たくさんいる訳ですから、いろいろな意見
があって良いと思うのです。それが、今までは封じ込まれていた、と思います。
 それが、ネットの誕生で、匿名でも発言ができるようになった。これは大きいと思います。

 ここは毎日、カウンターから計算をすると、1000人以上の人間が閲覧していますから、ある程度の
影響力はあるみたいで、ここで自分の意見を述べてみることが、同じ信徒の人達に影響をあたえると
信じております。
 現在の総裁はたくさんの失敗をしたのは事実ですし、また本流復活派にも批判されるべき点が多々
あるのの事実だと思います。ですが、自分も完全な人間ではなく、ミスをする(あくまでも現象の
話ですが)ことを前提として、議論をするのは、生長の家という組織や信仰をより良くするためにも
必要だと思います。
 特に最近の組織風土として、議論ができない体質があります。それは改善されるべきです。
本部講師も、末端の信徒も、同じ信徒として、発言は大事に扱われるべきだと思います。

 一人の一つの発言は、確かに軽いかもしれませんが、それが重なると重くなるし、影響は
大きいと思います。

 みなさまのご投稿をお待ちする次第であります。

244如月:2012/03/17(土) 11:43:31 ID:ki/haAjk
では、皆様が書き込みしやすいようにレベル1の私がまず書かせていただきます。

個人的には脱原発も、ノーミートも極端で無ければ悪い方向では
無いと考えています。
ただ、それについて団体で意見を統一するのは反対です。

そもそも、雅宣先生が宗教家として発言なさった事に疑問を持ちます。
本人の資質とかでは無く、生長の家が宗教であるとは
雅春先生はおっしゃっていなかったように聞いているからです。

団体で意見を統一する事に反対する理由は
「…でなければならない」という縛りは生長の家に
そぐわないと思うからです。

245如月:2012/03/17(土) 11:51:25 ID:ki/haAjk
ごめなさい。
ここ、聖典引用板でしたね。

246志恩:2012/03/17(土) 12:37:05 ID:.QY5jUA6
《神道と仏教との関係》のことで、別板で論議が、ございました。

これについては、信仰/体験の方に,書き込む方が,ふさわしいと思われますが、
ここ、聖典引用板の方が、出入りが少ないので、ここへ書かせて頂きます。

実は,私の親戚の者に、「神道と仏教」について、専門にでは、ありませんが、
4年間勉強して来た人間がおります。
その人にメールで問い合わせたところ、メールにて、詳細な返信が届きました。

本人に、聞きましたら「匿名」なら、掲示板に掲載しても可。の許可を頂きましたので、
私が、代筆で、書き写させていただきます。

仮名「朝露夜露」様の名で、志恩が、代筆で、書きます。

かなり、長文なので、途中、用事が出来ましたら,中座することもありますので、
すみませんが、”おわり”と書くまで、横スレ、ご遠慮頂ければ,幸いです。

247朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 13:09:21 ID:.QY5jUA6
《神道と仏教との関係》は、私は専門に勉強してきたわけではないのですが、
私が今まで4年間勉強をしてきた上での個人的な感触でいえば、

神社神道と、寺院仏教という組織と組織の関係と、日本人の心情、文化、信仰としての
神道と仏教は、分けて考えた方が良いと思います。

私は、神道と仏教を、あまり対立軸で考えない方がいいと思います。

確かに、神社と寺という組織としては、対立した時期もあるし、今でも対立軸で両者を考える人は
いるのですが、一般人の間では、どちらも対立するものとは考えられてこなかったというのが、
私の感触です。

日本人の歴史の中で、神道的思想と仏教的思想は、非常に長い期間をかけて習合してきたので、
もはや切っても切れない関係になっていると思います。

今でも,ウサギ小屋となった都会の住宅を除けば、日本人の家庭には、普通に仏壇と神棚があるのは、
日本人が,神も仏も同じように受け入れてきた証拠ではないかと思います。

また、日本の仏教は、「日本仏教」とも言われ、インドで生まれた仏教とも、その後、中国で発展した
仏教とも、朝鮮半島やタイなどの仏教とも違う仏教になっています。
つまり、日本化していると言えると思います。

日本では、長い歴史の中で、神道と仏教は、確かにいろいろな経験をしてきましたが、
対立したのは、
政治的な利害が絡んだ時の、支配階級の氏族同士や、時代によって、時の政権による取り扱いがかわった時の
寺院と神社だと言えるのではないかと思います。

それぞれの時代の政権の座についていた一族により、政治的な思惑や、利害などで仏教と神道が対立したことは、
何回もあったと思いますが、
ごくごく単純化すると以下のような経緯があって、今に至っていると言えるのではないかと思います。

   〜つづく〜

248朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 13:46:42 ID:.QY5jUA6
 まず仏教が伝来したのは、公式には538年(ごみや)か、552年(ごごに)と言われ、どちらかは
学者の間でもまだはっきり決着はついていません。

しかし、一般には、6世紀の半ば、第29代欽明天皇の時代に公式に伝来したという意見が多いようです。
公式伝来というのは、その当時、日本がお付き合いをしていた朝鮮半島の百済から外交ルートで経典などを
送ってきたということです。

その頃、百済は、高句麗・新羅に圧迫され、日本に援軍を求めてきていたのだそうです。

この時に、正式に仏教を受容すべきかどうかで、反対派の物部氏と、賛成派の蘇我氏が、対立しましたが、
最終的には、欽明天皇が、あだし神(蕃神)つまり、外来の神の受容を許しました。

仏教は、外来の神とみなされたのです。
つまり、八百万の神々の国ですから、外来の神もあってもよかったのでしょう。
おおらかなものです。

歴史では、物部氏と蘇我氏が戦って、蘇我氏が勝利したので、仏教が勝って、神道が負けたような印象も
与えるかもしれませんが、神道が、なくなったわけではないのは、いうまでもありません。

物部氏と蘇我氏の対立は、政治的なものです。
物部氏は、当時朝廷の祭祀を担当していた氏族ですから、自分の氏の存続が危ぶまれることになりますから、
反対して当然でしょう。

蘇我氏は、外来の氏族の系列だったと思います。
仏教は、公式伝来の前から、非公式には、外国人と共に、日本にすでに伝わってきていたのです。

つまり、日本は、すでに民族的には、とてもひらかれた多様な国で、外来の文化をどんどん受け入れていた国で
あったということです。

    〜つづく〜

249朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 14:30:32 ID:.QY5jUA6
当時、百済が滅びると,日本は、負けて亡命して来た百済のエリート氏族を、そのまま大量に受け入れ、
優遇するということもやったようです。

その人達と共に、外国の進んだ文化も輸入しました。その人達は、やがて日本人と融合していったのでしょう。
日本にはいま、先の大戦前後に日本に来て,今も帰化せずに、日本にいる朝鮮族の人達がいて、その人達のことは、
朝鮮族と言いますが、

そのずっと昔にも、朝鮮からわたってきた人がいたわけですが、その人達を朝鮮系とかいうことがないということは、
面白いとおもいませんか。
アメリカだったら、いつまでも、ドイツ系とかユダヤ系とか言うのにね。

朝廷では、大化の改新(646)のころには、日本の神々と共に、仏教の儀式も行うようになっていきます。

皇族のなかでは、聖徳太子が、最も早く熱心な仏教の信奉者となり、ご自分で三経義疏(さんぎょうぎしょ)と言って、
経典の注釈書をまとめたともいわれるほど、むずかしい仏教経典の研究に熱心でしたし、飛鳥寺も蘇我氏によって、建てられました。

時代が下がって、奈良時代には、8世紀に、奈良の大仏を第45代聖武天皇が、国力をつくして建立しました。

当時は、疫病なども多く、人々の暮らしは、たいへんだったとおもいますが、聖武天皇は、国の民の幸福をいのって、大仏を建立
させたとも言われています。

このような形で、神仏習合が、すすみますが、土着の宗教と外来の宗教の習合というのは、日本だけでなく、色々な国で起こっていることです。

  〜 つづく〜

250朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 14:50:15 ID:.QY5jUA6
一言では説明できませんが、いろいろな政治的思惑も絡んで、護法善神といって、仏教を擁護する神という
思想が生まれ、寺院を守護する鎮守神として、

法隆寺には龍田社が、東大寺には、宇佐八幡宮が勧請されたり、
逆に、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)といわれる「神は仏の化現」という思想がうまれ、

天照大神は、大日如来が、衆生を救うためにその姿で現れたというようなことが、いわれたりします。
神社で神様のために読経がおこなわれるということが、今でもあります。

いつの時代にも、外来のものは、目新しく進んだ文化ととらえられる事は、少なくないでしょう。

仏教が、インドで生まれたのは、日本に到来する1000年も前のことですから、それまでには、様々な
ありがたいお経が、たくさんの僧侶によって書かれ、中国大陸と朝鮮半島を通って、日本に伝わってきた頃には、

非常に洗練された思想体系になっていたと思われますから,当時の日本人にしてみれば、馬で旅行をしている時代に
飛行機が、輸入されたような感覚もあったのではないかという人もいます。

とにかく、今でいえば、進んだ外国の文化とも受け取られたのではないでしょうか。

  〜つづく〜

251朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 15:35:01 ID:.QY5jUA6
一方、神道は、仏教が伝来するまでは、神祀りと言われ、「神道」という言葉もなかったのですが、
仏教の定着に伴って、神祀りを担っていた人々が、日本古来の神祀りについて改めて考えさせられ、
「神の道」であるから「神道」と呼ばれるようになったと言います。

日本人にとって、神祀りは、当たり前のことで、これと何らかの形で対立するもの、それが、仏教だったわけですが、
それが入って来て初めて、その存在を意識したということでしょう。

たとえば、寺と神社ですが、神道では、最初、神社はなく、神は、岩や木に依ると、考えられていました。
神は、同じ場所にとどまる存在ではなく、自然の中に存在し、自由に動き回っていたのでしょう。

何しろ高天原で、人間と同じように生活をしていると考えられていたのですから。
その神様が、地上に降りて来て生まれた子孫が、日本人ですからね。

高天原に住む天の神々(天神)の他に、天から追放されたスサノオ(出雲大社の祭神)や、天孫のニニギノミコトが、
地上に降りてきた時に、地で迎える猿田彦の神に、代表される地上の神々(地祗ちぎ)もたくさんいましたが、日本人は、

いずれの神様も、祭りの時にお呼びして来てもらい、これを迎えたのです。

神を迎えるお祭りは、今も日本各地で行われていますが、神を迎える為に、依り代(よりしろ)を設けて、祈っていました。
神社は、なかったのです。

仏教では、大寺院や伽藍が造られていましたから、ある意味、これに対抗して、神社が造られるようになったのです。

この時には、仏教寺院と差別化を図るために、伊勢神宮の神明造(しんめいつくり)に代表される簡素な、仏教寺院に比べると,
ごく小さな社が造られるようになったのです。

しらきづくりで、木の肌そのものを使った社です。
屋根には、当時の民家のような萱が吹かれました。それが風でとばないようにと屋根にのせたのが、俵のような形をした鰹木(かつおぎ)です。

仏教寺院は、壮麗な瓦を使い、仏像にも金箔を塗ったりしていましたが、神道で、神像が造られるようになったのは、ずっと後のことで、
仏像に影響されてのことです。

神道は、とにかくシンプルで、神は、人間が喜ぶもとと同じものを喜び給うと考えられ、その年とれたての一番美味しいお米や野菜、お酒や肴など、
その土地の特産物が、お供えされたのです。

    〜つづく〜

252朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 15:48:55 ID:.QY5jUA6
神社建築は、その後、色を塗ったり、屋根を伸ばしたり、社を二つに並べて屋根をつなげたりというように、
いろいろなスタイルが、出て来ますが、

神社が寺院より小さく、素朴なのは、一つには、差別化を図るためだったと思われますし、そもそも社は、
なかったんです。
今でも、社のない神社が、あちこちにあります。

奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)は、山がご神体です。

神社は、寺院とは別の建築様式で、日本人の美意識を象徴するものになって行ったのではないでしょうか。

いま、われわれが、神社に行ってお祈りするとき、大きい神社の場合は、拝殿の前でお祈りします。
本殿は、その奥に小さいお社があるのが普通で、われわれの目に見えるのは、拝殿ですから、お間違いなく。

 〜 つづく〜

253朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 16:20:43 ID:.QY5jUA6
とにかく、神仏習合は、長い間かけて進んでいきます。その間には、江戸時代に檀家制度というのができ、
村の住民をすべて、寺の檀家とすることで、一種の戸籍として、住民の把握にあたったため、寺には、そういう役割が
与えられたということもあります。

また、神道は、死を忌み嫌ったため、葬式は、僧侶が担うということになったため、葬式仏教などという仏教にとっては、
ありがたくないレッテルも貼られるようになったりと、色々なことがあって、現在に至っているわけです。

また、明治期の近代化を遂げようという時には、
日本をどう一つに、まとめて行くかという議論となり、キリスト教を国教化するということも、考えられたようですが、

やはり、日本人を、精神的に団結させる中心は、天皇家と神道だろうということになり、神仏分離と称して、廃仏毀釈などが
あった事も事実です。

一方戦後には、GHQの神道指令で、日本人の精神的バックボーンをなきものにしようと、占領軍により、
神道と皇室と日本国民が、精神的に分離されてしまったとも言われています。

それは、アメリカが、日本人の精神的バックボーンは、神道だと正しく見ていたという証拠でもありますから、
日本人は、仏教の教えも日本化して受け入れてきたのだと言ってもよいかもしれません。

神道と仏教徒の間には、それなりの対立がありました。
しかし、今でも、神社で僧侶が、お経をあげ、神宮寺が、お寺をお守りしているところもあるのです。

天皇陛下も、神道の最高の神職として日々、天照大神や歴代天皇の御霊をお祭りしておられますが、
仏教にも、造詣が深くていらっしゃると思います。

日本の信仰体系は、実に面白いですね。

    
        ー おわり ー

254志恩:2012/03/17(土) 16:24:08 ID:.QY5jUA6
天皇陛下が、比叡山に行幸されたニュースを、貼付します。

http://blog.goo.ne.jp/shimizu-jyoshin/e/62a903e89f12d0fcccdeab82057caa76

255_:2012/03/17(土) 17:59:39 ID:MmCIlbok
私は『大自然が催し、大自然がはかろうて自分をその境遇にまで追い寄せた現在の生活』を百パーセント完全
に生きることが、生長の家の生き方であるといった。この意味において『戦争』というものが吾々に課せられ
た場合には(現に課せられているのであるが)それを完全に戦い抜くことが生長の家の生き方でなければなら
ないのである。今与えられた環境から飛出すところの出家道は、否応の選択が働くのであるから、戦争という
ものは魂の修養にならないというような価値判断がはたらいて、戦争忌避や、敗戦主義に捉えられるおそれが
あるが、生長の家では出征する人にとっては戦場が直に魂の修養の道場となり、戦争が直に吾々の魂を練ると
ころの公案となるのである。多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかり見ていて、その道徳的、宗教的意義を理
解しない。そして動もすれば戦争を忌避するのであるが、戦争は実に真剣な、否応なしに左右をいわずに、
ただひたすらに至上命令に従うところの激しき宗教的行事なのである。しかも同時に、肉体の『無』を理屈で
なしに実証するところの行事である。かの天華の修行に天華の教祖渡辺薫美が修行者たる一婦人に課したとこ
ろの『千仭の谷へ、今跳べ!』の必至命令の如く、否やの選択を許さぬ絶対命令と同じことである。『爆弾を
抱いて、そのまま敵のトーチカに跳び込め!』これに対して、軍人はただ『ハイ』と答えて跳び込むのである。
宗教の修行においては、たとひ教祖の命令通り跳び込まなくとも、『修行が足りない、まだ心境がそこまで達
していない』位で許されるだけに、それは修行の『型』をやっているだけである。また、そのその命令者が教
祖という個人である。しかし戦争においては否応はない、言葉通り肉体の生命が放棄せられる。そして軍隊の
命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。肉体の無と、大生命への帰一
とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。戦争が地上に時として出て
来るのは地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとっては耐え得られるとこ
ろの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。

「谷口雅春選集」谷口雅春著 潮文閣 1941年発行より

256SAKURA:2012/03/18(日) 01:21:22 ID:dqlvDD0o
トキ様 へ

遅くなりましたが…お返事ありがとうございます…。

別件ですが…ある“投稿文”の処にて
【昨年!青年会の人数…1000人を減少したのは??】…云々
この件は、「現総裁先生」のみへの“責任転換”と言えますでしょう…!

■ 既に15年前以前から…
つまり現在「社会事業団」「ときみつる会」「学ぶ会…」
其処にて現在、活動をなされております元幹部の皆様(元理事の人達・職員の皆様…)
…の【責任…】でもあります…。
皆様の現代時代にも【人数の増やし方】は異常な計算方法でしたが…?
ある方は「実家まで毎回お金を借りに…」「サラ金に借りに…」その様な現象が…
御主人に内緒で保険金解約…既にありましたが……?異常でしょう……?

既に当時!全国大会でも「青年会…」参加の時は、
白鳩会長自らの言葉にて、【人数増員対策の手段】としまして、
一般人(白鳩会員)も参加…可能な事から、
私自身も“参加”させて頂いておりました…。
当然!!当時の「教化部長…」も御存じのはずです…。
と言う事は、その上の幹部クラス「理事…」関係者皆様も、御存じのはずと、
申しても過言ではありません。
つまり現在「社会事業団」「ときみつる会」「学ぶ会」の方々も該当しますが…?

さて!私が感じました頃??すでに8年前位から、目じりに“人数減少…”は、
伺えておりました…。
それに、後半からは、【正確なる人数把握】と言う事で…かなり!チェツクが厳しい
流れになって来たのでは、その結果そのものです。

そして「高齢の信者の皆様」が愛念にて【講習券…購入】をされていました様ですし、
果たして、その方が、当日“講習会場に参加”されたかどうかは?
【購入権枚数…実質参加人数】この対比はどの様になっていますか・本当の数字は?
第三者から見まして、定かではありませんが…?
そして、この年代が…現状(失礼ながら)亡くなられて逝っております。

■ 今回の【現象世界…青年会1000人】これは、
既にかなりの前からの【原因…】が…要因となり、起るべき事が数字として
現れてきただけで…別に驚く“モノ”ではないと思いますが…?

ただ今後の“組織運営…”にこの現状をどの様に対処していくかが問題と思います…。
今後の改善策を「信じて…待つ」この様に思う次第です…。
                                 再合掌

257志恩:2012/03/18(日) 06:38:50 ID:.QY5jUA6
SAKURAさま

貴女は、「社会事業団」「ときみつる会」「学ぶ会」.元理事、元職員の
かたちの事に、この生長の家の信徒が激減したことの責任を、コメントを
書く毎に、罪をなすりつけようと、必死で,書いてますが、

非常に無理があります。宗教組織の実体を知らな過ぎます。
この方達は、組織を「指揮」していた方達では、ありません。
総裁にためを思い、進言して、辞めざるをえなくなったり、総裁の
ためを思って、忠告したら、逆鱗にふれて、信徒の浄財、5億円も
使って、裁判にかけて、追い込まれたり、

そのように、総裁の横暴の鋭い牙に、やられた
お気の毒な方達です。

宗教組織の指揮者は、総裁、ただお一人です。

現総裁は、副総裁のときから加えると、20年間にわたり、生長の家の全
組織のトップの座におり、全組織をお一人で、采配してこられたお方です。

この20年間、どのようにでも、立ち直らせることが。できたはずです
それが、衰退の一途、特に、青年会の参加者が非常に、少ないということは、
やはり、現トップの責任以外のなにものでも、ありません。

258志恩:2012/03/18(日) 07:07:33 ID:.QY5jUA6
SAKURAさま
ここは、聖典引用板です。ですので、上記のような、やりとりは、別の板で、しませんか。

259SAKURA:2012/03/18(日) 07:37:45 ID:thWaIlUo
トキ様 へ
皆様 へ
おはようございます…。

今日も…又!毎日が私自身【真理】の勉強です…。
益々と〜〜“心”が躍ってくるような心境に「生命哲学…」勉強させて頂きます。

■ 【幸福を招く365章】

―――❖非観的な気分になったときは❖―――
時として何の理由もないのに憂鬱な陰気な否定的な気分が
自分の心のうちに湧き起こって来て、
世界が暗澹として何の希望も生き甲斐も感じられなく思われる事があります。
これは、どこかから宇宙に漂う悲観的な精神波動が放送されているのを
貴女がヒョッコリ受信したのであって、
あなたの本物(実相のあなた)が悲観的になったのではありません。
この真理を知ることが、その暗い感じから脱却する第一の門であります。
貴女が此の真理を知り、「今自分にかかってきているのは自分以外の念波であって、
自分は神の子であるから悲観的になったり、憂鬱になったりするものでない。
自分の心は明るいのだ、幸福だ」と一心に念ずることにしますと、
暗い精神波動の波長を外らしてしまうことが出来ます。
                            (谷口雅春著)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ☆

日常的な事でこの様な状態…気分は、誰にでも日常茶飯事に比較的に起き易いです。
例えば「ネットの世界」は、意外と“モノ”が見えない世界ですので、
文章でその人の“価値観”を…それがうまく表現出来ない…場合は、
意外と“ハッキリした行動”が、往々にして出ますでしょう!!
ひと昔前なら…通信関係の「電話」は、当時は顔が見えないので、言いにくい事を…
“ハッキリと言います時”は、「電話」は便利な手段でしたが……><

時代が変わり、今は「電話」でに代わって「パソコン…」が主流となり、
「パソコン・ユ−ザ−間同士」の不協和音は、それはすご〜〜い“念波”でしょうか?
“念波”は、すご〜〜いのではと思います…。
相手が見えないので、かえって“好き放題な文章”で打ち込む事も…しばしば?
その後の問題は?エスカレ−トな関係になり、闘争状態になって……

少し前までは、高校生が自殺に向かう様な【言葉の使用】…更に【言葉遊び】で…
【自殺者】が増えたこともありますよ〜〜〜ネ!!

【パソコンの怖さ】は、自分の考えが“同調”出来ない時に起きる“言葉”の使用で、
嫌な波動が簡単に起きます…。
この様な時、私は、先ず!今の私にとって必要な事なのでしょうかと?
「神…」に向かい聞きます…。それでも、嫌な念派・波動が起きましたら、
更に!その日の仕事に影響します時は、「今日の言葉」を思念しますと…いい方向に!

■【今自分にかかってきているのは自分以外の念波であって、
自分は神の子であるから、悲観的になったり、憂鬱になったりするものでない。
自分の心はあかるいのだ、幸福だ〜〜!】

……と、念じますと、その人の嫌な波動は、反らす事が、出来そうに思えます…。

今日から【想念】
更に!見えない世界も“スム−ズ”に行けるようになりそうですネ!
早々“実行”してみましょう〜〜〜!!!進行形… “ step・me・up!! ” 
さぁ〜〜今日も元気に“スタ−ト”です。
そして、皆様にとりまして“最高の一日”であります事を、お祈り申し上げます…。  
 再合掌

PS:トキ様へ>
    本日の言葉の解釈どの様に捉えられましたでしょうか?
    ”アドバイス“頂きますと、幸いに存じますが…??

260a hope:2012/03/18(日) 08:43:20 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

かわいがる道と憎む道と


生きているものは働かせば働かせるほど太るし、かえって、
働かせずにジッとさせて置けば細るものだということがわかれば、
生きているものと死んでいるものとは、
その大切にする仕方が自(おのず)から変わってこなければなりますまい。

吾々生きている者は、「自分」を大切にしようと思えば、「自分」を働かせねばならないのです。
「自分」絶えず働かせている者は、「自分」大切にしている者ですし、
「自分」を絶えず怠けさせている者は、「自分」を粗末にしている者なのです。
「自分」を絶えず怠けさせていながら、「自分」をかわいがっているつもりになっている人があれば、
大変な見当ちがいです。

働くということは自分を愛する道、怠けるということは自分を憎む道です。

(つづく)

261SAKURA:2012/03/18(日) 22:53:33 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ

先日は…「仏教・神道…」解説論が説かれています…。拝読させて頂きました。
やはり、“アジアと云うイメ−からは、【仏教…】と云うイメージが、強いものと
改めまして思いました…。

さて!!!!
■■【仏教…】 ある書物からの抜粋…

■【仏の姿と仏の徳】
この世は火のいにしえの様に安らかでない。人々は愚かさの闇につつまれて、怒り、
そねみ、あらゆる煩悩に狂わされている。
赤子に母が必要であるように、人々はみなこの仏の慈悲に頼らなければならない。

仏は実に聖者の中の尊い聖者であり、この世の父である。
だから、あらゆる人々はみな仏の子である。彼らはひたすらにこの世の楽しみにのみ
かかわり、その災いを見通す智慧を持たない。
この世は苦しみに満ちた恐るべきところ、老いと病と死の炎は燃えてやまない。

ところが、仏は迷いの世界という火の宅(いえ)を離れ、静寂な林にあって、
「いまこの世界はわがものであり、その中の生けるものたちはみなわが子である。
限りない悩みを救うのはわれひとりである」と言う。
 
仏は実に、大いなる法の王であるから、思いのままに教えを説く。
仏はただ、人々を安らかにし、恵みをもたらすためにこの世に現われ。
人々を苦しみから救い出すために、仏は法を説いた。ところが、人々は欲に引かれて
聞く耳をもたず気にもしていない。
 
しかし、この教えを聞いて喜ぶ人は、もはや決して迷いの世界に退くことのない
境地におかれるであろう。

 But those who listen to His teachings are free from
The delusions and the miseries of life. “ People can not be saved by relying
on their own wisdom,
“ He said , “ and through faith they must enter into my teaching.”
Therefore , one should listen to the Buddha’s teaching and put it into practice.

「わが教えは、ただ信によってのみ入ることができる。すなわち、
仏の言葉を信ずることによって教えにかなうので、自分の智慧によるのではない」
したがって仏の教えに耳を傾け、それを実践すべきである。
                              (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

■この様に「真理」は…万国共通かと、改めて思った次第です。
そして、雅春先生が【真理は一つ】この言葉が、重く心に響きました…。
「生長の家」此の御教えの素晴らしさを、痛感いたしますとともに、
【仏の慈悲…】
基本的な倫理横目で“慈”…とは、
相手に楽しみを与える事、“非”とは、相手から苦しみを抜き去る事である。
これを体得して、対象を差別せず慈悲をかけるものが“覚者”すなわち仏である。
要約致しますならば【相手と共に喜び、共に悲しんであげる…】そうなのですョ〜ネ!
当に!【自他一体…】

この真理とは……最終的には【神は愛なり…実相……】これにつきますのではと、
新たに認識を致しました…。
                             
「生長の家」この御教えは…「雅春先生」に神霊が天下り…
私共に“【心のともしび=真理】”を、導いて下しました…。
この文章からも、「生長の家」では既に「現象世界…実相世界」既に説かれています…。
人間は、“我欲”に執着しますと…本当の「天国の門」には、いけないでしょう〜〜ネ??

これと同じような事を「雅春先生」がおっしゃっていますし……先生の書物一つ一つに…
「真理…」が説かれていると、思いますと…【調和の精神…讃嘆の精神…】
神の御心に合う事のみが、この現象世界に投影されて来るものと、確信いたしました。

最後に…本日の【山梨講演の一部を抜粋して頂いた“言葉”…】
そうなのですよ〜ネ!気付いた時点から…本当の“進歩”が始まるモノと思います…。
■ ■ 失敗は…成功の母!!     (エジソン…)
                                        再合掌

PS:今日は、色々考えさせられました…。此の事は、必ず!何かの“進歩”の始まりと…
気付きを頂きました…。 感謝!!

262a hope:2012/03/19(月) 07:21:56 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

仕事や勉強をするコツ


この事がわかりまして、さて、自分を振り返るってみますと、
吾々は今までどんなに自分自身を憎んで来たことでしょう。
吾々は今まで、本当にかわいがるとはどんなことだか知らなかったから、
かわいがっているつもりで、本当は憎んで来たのです。

吾々は自分自身にもっと深切でなければならなかったはずなのです。
もっともっと自分の心が太るように身体が強くなるように、
自分自身を絶えず働かせていなければならなかったのです。
自分自身を絶えず勉強させていなければならなかったのです。

自分を働かすにも、勉強さすにもコツがあります。
今まで皆さんはこのコツを知らないで、自分を働かせたり勉強したりしましたから、
働いたり勉強すれば、かえって疲れたり、弱ったり、病気になったりしたのです。

それでは、そのいくら働いても、いくら勉強しても疲れない、弱らない、
病気にならないコツというのはどこにあるのか教えて欲しいと思われるでしょう。
ではそのコツがどこにあるかを説明しましょう。
(つづく)

263神の子さん:2012/03/19(月) 22:06:05 ID:4dpd6CaA
>257


在日朝鮮人たちが現実を無視して被害妄想で日本に過去に酷い目に合わされたって捏造してるのと大差なくなってるよな。

自分らの境遇を全部他所へ責任を負わすのは無理があるだろ 信仰してても少しは総裁の異常性に気づけよ。

このままじゃカルトと差が無いぞ

264a hope:2012/03/20(火) 10:18:27 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

働くときの心の持方(もちかた)


いくら働いても、いくら勉強しても、疲れない弱らないコツは「心」にあるのです。
「心」の持方ひとつで、我々はいくら働いても、いくら勉強しても、
疲れず弱らずますます丈夫になるのです。

どんな「心」の持方をするのがよいかといえば、働いたり勉強したら身体が疲れるとか、
弱るとか考えていたその考えを、スッカリ「心」の隅々から捨てさってしまうことです。

そして人間は生きものだから働けば働くほど、勉強すれば勉強するほど、
達者になる丈夫になると常に考えるようにすればよいのです。

怠け心が起こって来たら、「ああ又私は自分自身を憎む心を起していた。
私は生きているのだから、働いたり、勉強したりすることが、自分自身をかわいがることになるのだ」
と思い返して、また仕事や勉強を励むのです。

これがいくら働いても、勉強しても、疲れないコツのひとつです。

(つづく)

265うのはな:2012/03/20(火) 21:41:23 ID:El6gIMAw

  神に祈ることの大切さ 先生の御巡錫に学ぶ  谷口壽美 先生

 今回の海外御巡錫では、最初の頃にハワイ、ロスアンゼルスで4日間ずつの詳密講習会が
企画されていました。出発する前から、この1日6時間の詳密講習会とは、一体どんなものなのだろうかと
少なからず心配でした。
 案の定、先生は家に居られるのとは全く違った、人との応対、会話、とまどうことの多い1日の中に、6時間も立ちづめの講演を
なさり、ロスアンゼルスでは会場の往復に2時間も車で飛ばすのでした。
この詳密講習会が終ると少しは楽になられるかと思いのほか、それから後は各地でのリリジャス・サイエンスやユニティ教会での白人向けの講話で、
違った気苦労をなさるのでした。

 カンサス・シティは信徒の日本人の方が一人もおられず、ユニティ本部の皆様が出迎えから見送り、案内まで一切してくださいました。
1泊でしたが、押しの強い大きな白人が盛んに話しかける愛想の良さにつられて調子を合わせていると、夜にはもうぐったりしてしまい、日本人恋しさが
沸き起って来たりします。そんな異和感は、慣れない土地にいると案外体にこたえるのに加えて、風俗習慣の違いで、講演内容が白人にわからかったりさしさわりが
あったりするので、先生は考えながら話していかれるので尚更御苦労であったことと思います。

そういった通訳付ゲスト講演が1日に必ず1回はあり、その他に生長の家独自の講演会があったりの強行スケジュールをこなされていらして、サンフランシスコでのことでした。
サンノゼに新しく北加道場が建設され、総裁先生に初の講演をしていただこうと、日本人が会場を埋めました。
この時は日本語のみの御講演をされたのでしたが、今までになく内容が深く、私にとって得るところが多大で感謝感激しつつメモをとりましたが、
何よりまして、先生自身が楽しげに御自分のそのままのペースで話されるのが大変よかったと記憶しています。

 日本人はくどくど説明をしなくとも大きな宇宙的とでも言うような直感でパッとつかむということを無意識のうちにもしていて、生長の家の教義なども
殆どこれで私達は導かれてきているのではないでしょうか。そして生長の家人なら、その直感を、正しく歪みなく保持すべきで、総裁先生と同じように、毎日、
神に“祈る”ことによって神に堅く結びついていなければならないのだと強く思ったのでした。

『真理は民族を超えて』 谷口雅春先生御夫妻海外御巡錫記念写真帖

266SAKURA:2012/03/20(火) 22:37:54 ID:FEa/NNlc

トキ様 へ
皆様 へ
こんばんは…

昨日“投稿”しましょうかと…思いましたが?私事にて疲れていまして〜〜 ><
実は!“オバケ目”にて…いつの間にか“文章”が消えてしまいましたので〜〜す。
“落ち込み…” ><
もう〜〜また!書くのも疲れてしまい…その“内容”が「不思議な国のアリス」?
別の方が、同じ様な文章を…見まして、この世に“テレパシ−”が…
同じように“配信”されるのです〜ネ!
神様からの“アイデア”は、全ての人に発信され…それを受信する事が出来る人が…
何人いらっしゃいますかしら〜〜ン?
“直観”を受信いたしましたら、“即行動!”でしょうかと…
今日は、痛烈に思いました。そして、今日は、「お彼岸の中日」ですモノ?
明日「亡き母のお墓参り」に、お寺に伺います…!
最近!若者達も、「仏教」を勉強されているのでしょうか??
先日“コンビニで”お彼岸のいわれ…若者なりに調べて…“ポスタ−”を…店頭に!!
熱心に調べているのです〜〜ネ!
さて!“今日の言葉”の一ページを、更に!心のエッセンスを勉強して見ました?

■【幸福を招く365章】
――― 自然の叡智は最も完全に解決する ―――

大自然の解決法は最も簡単で有効に行われるのである。
これが絶対他力への乗托(まかせきり)と云うものである。
死んでから極楽行だけをまかせるのであって、
生きている間は我の力で万事をやりぬこうとしているようなことで、
いざ死ぬと云う時になって後生だけを
他力にまかせ得るかどうか云うことは誠に疑問だと云わなければならないのである。
現実界に於いて、他力にまかせ切ると云うことは、外界の力に自分を
屈従させ忍従させると云うことではないのであって、自己の内にやどる叡智に
それをまかせると云うことである。
真に自己の内に宿る神の力にまかせ切ることが出来れば、内からなる催しは
何事も最も完全に解決してくれるし、病気ならば自然の催しが最も完全に
治癒してくれるのである。                  (谷口雅春著)


                
<つづく>            No.1

267SAKURA:2012/03/20(火) 22:39:36 ID:FEa/NNlc
<つづく>            No.2

前回!【母の法要】の時、お寺の住職さんと“お話”を……

■【南無阿弥陀仏…】と〜〜♫〜〜唱えたら、そのまま“仏に成る…成仏…極楽へ”と
聞きますと、大住職さんは、一応はあの世には行きますが…?後は、
その人の“心のもち方”でしょうか?
「亡き母は、素直に、あちらの世界へといかれたのでしょうか?」お尋ねしますと?
住職さんは、「母の霊様は、いい所に云ってる様に思えます〜〜〜ョ!」 (笑)
今!!大住職さんは、忙しい〜〜♫と、悲鳴を上げていらっしゃいますとの事…
確かに、最近!「仏教…」が、返り咲きしまして、若者が講義に来るようになり…
更に!「壇家でも無い方」からの“葬儀”の依頼とかが〜〜〜増えて、
以前より、それ以上に増えて…見ていますと?どう〜〜〜も肩に、
何か乗っかっている様に〜〜〜見えました。
大住職さんが、現状は“魂が清く”ならない方は、どんなに“お経”を唱えても…?ネ!

その様に云っていましたが…“今日の言葉”より【他力心願】は、一応は行きますが…
それなりの世界に〜〜!やはり【今を生かす事…神の叡智におまかせスタイル】で
生活すること〜〜〜が
【内から来る神の叡智に…毎日の祈りにおまかせしますスタイル生活】が…
一番ベタ−でしょうか?
必ず!!“神様からの伝言”を、キャッチ出来る…今日!私は思いました。

更に!昨日も似たような事でしたが“神様に向ける心をスイッチ”致しますと…
「神様からの伝言」が来る様です…。
私も、今から「神様におまかせスタイル」しながら、
日々の仕事を消化して行けますように…必ずや!「神様の御心」のごとく…
おまかせしますと、内からなる答が、おのずと湧き出でまして、解決すると…

今から!今日は「ウオ−キング」ですが「神様に時間管理」をお任せしていきますし、
更に!「生長の家」の行く末は、必ずや“神の御心に会った形”になる事と…
■全て「神様におまかせ…」します。必ず!導いて下さいますでしょう。【全托】                     
                               再合掌
                                         
PS:トキ様 へ…「自然の叡智」これは人間智では、解決できない事でも…
いと簡単に解決しますもの…今の「生長の家」行く末…
この様に【任せきり】…本日の“解釈論”如何なものでしょうか?

268神の子さん:2012/03/20(火) 23:40:51 ID:cHtpiE56
あ=====

分からない!! 分からない!!


AAAA======〜〜〜〜〜〜


ワカンネーーーーーーーーー!!!  解らない!!!!!!!!!!

269ももんが:2012/03/20(火) 23:45:27 ID:XXCuaQns
>>267

SAKURA様


SAKURA様、こんばわ。合掌、拝。

いつも、賛同できる、御言葉が、たくさんあるのですが、賛同できずに、いました。


本日は、SAKURA様の、この御言葉に、賛同です。

<<【内から来る神の叡智に…毎日の祈りにおまかせしますスタイル生活】が…
一番ベタ−でしょうか?
必ず!!“神様からの伝言”を、キャッチ出来る…今日!私は思いました。>>


真に、そのとうりですね。

私も、いつも、その様に思うしだいです。


それでは、また、素晴らしい御言葉や、体験お話、よろしくお願いいたします。ありがとうございます。感謝、合掌、拝。

270a hope:2012/03/21(水) 11:47:31 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

楽しく思って仕事をせよ


もうひとつのコツは、仕事をする時にはその仕事を、
勉強する時にはその勉強を、絶えず楽しく思ってすることです、
いやいや仕事をしたり勉強したりするのは、病気の因(もと)です。

例えば糸を紡ぐにしても、

「わたしが糸を紡いであげるので、多くの人が着物を着られて喜ぶのだ。
みんなの人が私の仕事にありがたがっている。みんなの人が私の仕事を感謝している。
私はみんなに喜ばれる仕事をしているのだ。ああ今日も私は人々の為になった。
ああ今も皆さんが私のことを喜んでくれている」

と思いつつ、喜びながら仕事をするのです。
そうすると人間は決して疲れません。本当に疲れません。

(つづく)

271うのはな:2012/03/21(水) 18:38:38 ID:El6gIMAw

『生命の實相』が刊行されたとき、聖書型の黒革の表紙には、私の名は無かった。
表紙や背文字には、「生長の家聖典」とのみ記して、著者名は出さなかった。
神が私をパイプとして書かしめた聖なる典籍との畏れ慎みであった。


 天を視るに
 幾万の天使たち身に羽衣の如きものを着け、
 手に巻物を持ちて打ち振り 何事かなすものの如し。

 天使たちの手にせる巻物には「生命の實相」と書かれたりと見る。
 その巻物より白き霊の糸の如きもの無数蜘蛛の糸の如く下りて光を放つ。
 霊の糸の先端に黒き書物あり、三方より光を放つ。

 大涛の如き天使の声聞えて
 「生命の實相を握るものは焔の中にあって焼けず、死を超えて永遠に生きん」

 谷口雅春 先生 著 『生命の實相』

272ハマナス:2012/03/21(水) 21:56:34 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 こんばんは。

  神の創造に協力しよう (『新版 生活の智慧365章』P.101より)

 人間に於ては、“創造の霊”(神)が“真空妙有”の世界から常に“新しき創造の原型”
を形の世界に押し出してきて、常に吾々は何か新しい設計や計画や創造的仕事をなしつつ
あり、人体では、それが新陳代謝としてあらわれてきているのである。
神はその霊の“創造の新しき拠点”として肉体を作り、その肉体の中に、自己の“霊”を
宿らせて、其処に自己の欲する事物をつくり出す“中心”を創造したのである。吾らは
神の“新しき創造の拠点”として、即ち神の常に新しき自己表現の“中心者”たるもの
である。

 人間は常に新しき創造をつくり出しつつあり、人体は新陳代謝で、陳(ふる)きものを
追い出して新しき創造をつくりつづけつつあるのである。自然界では春夏秋冬の遷(うつ)
りかわりに、花咲き実り、葉茂り、落葉し、更に新たな春の装いをつけつつ、植物は常に
新しき形にまで生長をつづけるのである。即ちこの世界は新創造新生長の実現する世界で
あり、それを内部から動かしているのは、“創造の霊”なのである。従って吾らは常に新しき
創造をこの世界に為すべきであり、それによってのみ、神の創造に協力することができるのである。
もし吾々が“新しき創造”を何もしないならば、それは神の“創造力”の出口たる使命を
果たさないのであるから生命は内部から引退し死に招くに至るのである。

感謝合掌

273SAKURA:2012/03/22(木) 04:50:15 ID:qjU6h9ik
トキ様 へ
皆様 へ
おはようございます…。

今日は【嵐の〜♫〜】前〜〜なのでしょうか…?
前触れ???なのでしょう〜〜か?
しかも…「ジ〜〜〜〜〜っと見ている”竿の先“…」でしょうか??
【統一教会】の様な感じ?…変な感じ?…「解説論…」に見えてしまいます〜ネ!
本当の「生長の家」の人〜〜〜♫〜〜〜何処にいるの〜〜〜〜〜??
まるで〜まるで〜【創価学会・統一教会の人…???】
その様中でも【SAKURA…】 神に誓って頑張りま〜〜す。
■「生長の家」の灯をもう一度!!今日も“真理”の勉強をさせて頂きます…。

■【幸福を招く365章】
―――巧みな忘却は人生を洗う石鹸なり―――

過去の事を思い煩うな、未来のことを心配するな。
思い煩いと心配とはあなたの神経を病的に刺激し、つい生理的不調和を
惹起し或いは抵抗力を弱めて病気に至らしめるのである。
過去は過ぎ去ったのである。思い煩うは愚かなことである。
未来はまだ来たらないのである。心配するのは愚かなことである。
結局、悩む者は、過去を今に持ち来し、未来を今に持ち来し、
今の幸福を想像の中で汚してしまうのであるから、
そんな愚かな事はしないが好い。「今」を喜べ。
過去を忘れよ。未来を忘れよ。
この忘却はあなたの人生を清める石鹸の働きをするのである。
                       (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今日は“過去の事”を思い出しながら…澄み切った夜空に輝く星〜〜♫〜〜見上げ、
“お墓参り”へと…「亡き母」が眠っています“お寺”に行く…途中…
まだ!母の“面影”があちらにも〜こちらにも〜?残っています…街並み???
あの頃の“面影”がそのまま残っている“ビル”があったり、
もう〜?“空きビル”になってしまい、過去の繁栄した“姿”何処〜〜なの><
“時間”と云う概念は…
この世から“亡き最愛の母が別世界に飛び立ち”それでも、刻々まれていく〜♫

それを思いながら“心”の何処か片隅に、大きな空洞… >< 小学校の頃、
夏休みの補習がありまして、担任の先生と一緒に勉強を…
ある時昼休みに、先生が「木村屋のあんパン」をおごると云って下さいまして、
私にお金を渡し「パン屋…」へと!!此処は有名な「銀座の支店」だったのですが…
今は、もう〜〜〜〜〜“独立”にて、全く関係ない様ですが…
当時は「人気商品」…それを20個買ってきて、
先生は、私に“アンパン・メロンパンと牛乳…”今〜♫〜
幼いころの思い出が?ついつい〜♫〜「走馬灯」の様に思いだしますと、
胸が締め付けられる気持ちです〜〜。
確かに!!あの時代〜あの頃〜あの場所で〜父も母も…健在でいたのです〜〜ョネ!

■【肉体は借りもの?】
子供の頃、私が必ず!親孝行……此の“文字”を…いつも念頭に抱きながら…
思い出しますと…「親不孝者…」でした…その“後悔の念”…
母が亡くなって以来、そればかり考える様になりまして、
唯!今…「母も霊界」にいますが?どのような部屋にいるのかしら〜〜〜ンと?
いつも…母へのメッセ−ジ!
そして、あちらの世界…母にとりましては、まだ“期間”が短い様ですので…
唯!今!!!今!!!今を生かす事が…如何に大切なモノなのかを知る事ができ
そう思える様に〜〜なった私自身を少しだけ“よかった子ちゃん”でしょうか?

私は“過去の事”を、思い煩うより“前向きに未来”へと目を向け様と思います。
…今は、きっと〜♫〜きっと〜素敵な未来が…待ち受けている!!
前に〜〜前に〜〜ひたすら“前進” オンリ−!!
そして【生長の家も…必ず!必ず!信じて待つ……『信力』】
現在!本当〜〜〜〜〜「生長の家」??と思うぐらい新しい方の“投稿言葉”
あらゆる分野…キリスト教・仏教…に起きましても、
■人間は“真理=愛”…そこに行く過程まで…“光明=光”…更に“慧=叡智”…
そうなのですョ〜〜〜ネ!【真理…】が見えなければ〜〜〜
【霊界の世界…】いい世界へと、行く事が出来ない見たい〜〜〜ですョネ!
だからこそ「宗教・哲学…」学ぶ必要性が…
更に!私も少し【真理…】に目覚め出しまして〜〜♫〜〜
■ ■ 【真理…】これこそ永遠不変!!!!          再合掌                        

PS:トキ様へ…本日の解釈どの様にお考えでしょうか?“アドバイス”頂きますと
幸いに存じます…。

274a hope:2012/03/22(木) 11:20:36 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

或る少年の話


神戸に肋膜炎という病気に罹って、やっと治りかけたくらいの痩せ衰えた六年生の生徒がありました。
中学へ入学するのに、試験の競争がはげしいので、病後のその少年にとっては、
誰がみても一年ぐらい休学して、来年もう一年、
六年生の勉強をしてから中学校へ入るほうが無理がなくてよかろうと思えるのでした。
母親もそう思っていました。

そして私のところへ、その少年をつれて相談に来られたのです。
その時私は、その少年と母親とに申しました。
「勉強は心を富(と)まし、身体を丈夫にする薬なのです。
勉強をすれば身体が弱くなると思っていたのは、ふるい時代の迷信です。
勉強する時には、これから身体の丈夫になる薬をのむと思って勉強しなさい。
『ああこの薬は楽しい。楽しいことはいくらやっても疲れない。
私が勉強したら、父さま母さまが喜んでくださる。
人を喜ばすことをすれば身体は丈夫になるばかりだ。決して疲れない。』
こう思ってから本を開いて勉強しなさい」
と私が申上げますと、その少年は、病後の疲れた身体で、
毎晩二時三時頃までも勉強したものです。

それに決して疲れるということなく、しだいに肥えて、
小学校を卒業する頃には、学科もよくできるし、
体格も立派になり、無事に中学へ入学して、次の日その母親に私が会ったときには、
大変喜んでお礼を申されたのであります。

(つづく)

275a hope:2012/03/22(木) 11:25:09 ID:kcv2QXTk

SAKURAさま

いつも、すばらしい聖典の筆写を、
こちらの聖典引用板にしていただきありがとうございます。

こちらの聖典引用板が、たしか多くの投稿者さま方が、他の板で聖典の筆写をされるようになり、
「それならば、聖典のみを筆写する板をつくろう!」ということがきっかけでできた板だとわたしは記憶しています。
そのほうが、閲覧する方も他の板でされている討論などを、目にすることなく、
聖典のみを閲覧できるということも考慮されて作られた板だったと思います。

管理人さまのトキさまも、
―――――――――――――――――――――――――――――――――――ー

1:トキ:2011/11/23(水) 13:32:46 ID:YRze2u3c
 このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

と一番最初に言われていますので、聖典の引用とは関係のない、個人的な内容や、
トキさまへの質問などは、他の板でされた方がよいのではないかと思いますが、いかがでしょうか?

276トキ:2012/03/22(木) 11:26:19 ID:iFhznFvc
>>275

 お尋ね、ありがとうございました。その場合は、「部室」板でお願いします。

合掌 ありがとうございます

277a hope:2012/03/22(木) 11:29:23 ID:kcv2QXTk

>>275 訂正
6行目
こちらの聖典引用板が、→ こちらの聖典引用板ですが、

278SAKURA:2012/03/22(木) 14:44:48 ID:gXyivFRg

>ももんが様 へ
こんにちは …。

>269拝読 させて頂きまして……
まだまだ未熟な私の“投稿文”…賛同して頂きました事に、深く感謝申し上げます。
ありがとうございます…。(遅くなりまして…申し訳ありません。)
“恐縮…”と云う“言葉”一言に尽きます…。
『モモンガ様』の仏教論…私なりに…日々“勉強中”です…。

話は変わりますが…この頃“若者”が、私の感じます限り【仏教…】に興味を
持っているようです〜〜〜〜〜ョ!
『モモンガ様』の影響…“パワ―”ではないでしょうか?? (微笑み)
今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます…。
                              再合掌

PS:此処でお礼の“言葉”お伝えします事…此の掲示板趣旨に反しますかしら〜ン
思いながらも…【此処に書いて頂いておりましたので】御迷惑を「ももんが様」に
おかけしましたら?申し訳ありません…。

279SAKURA:2012/03/22(木) 15:58:08 ID:gXyivFRg
トキ様 へ
皆様 へ

現在、社会が複雑化しています昨今!!「心の灯」よりどころとなるモノが…
とても素敵な文章が目に留まりましたので…ここで紹介(続きモノとして…)
投稿させて頂きます…。

■ 【仏教典…】一部抜粋

広い暗黒の野原がある。何の光もささない。
そこには無数の生物がうようよしている。

しかも暗黒のために互いに知ることがなく、めいめいひとりぼっちで、
さびしさにおののきながらうごめいている。いかにも哀れな有様である。

そこへ急に光がさしてきた。すぐれた人が不意に現れ、手に大きなたいまつを
ふりかざしている。真暗闇の野原が一度明るい野原となった。

すると、今まで闇を探ってうごめいていた生物が立ち上がってあたりを見渡し、
まわりに自分と同じものがたくさんいる事に気づき、驚いて喜びの声をあげながら、
互いに走り寄って抱き合い、にぎやかに語りあい、喜びあった。

今この野原というのは人生、暗黒というのは正しい智慧の光のない事である。
心に智慧の光のないものは、たがいに会っても知り合い和合することをしらないため、
独り生まれ独り死ぬ。ひとりぼっちである。
ただ意味もなく動き回り、さびしさにおののく事は当然である。

「すぐれた人がたいまつをかかげて現れた」とは、仏が智慧の光をかざして、
人生に向かったことである。

この光に照らされて、人々は、はじめておのれを知ると同時に他人を見つけ、
驚き喜んでここにはじめて和合の国が生まれる。

幾千万の人が住んでいても、互いに知りあうことがなければ、社会ではない。

社会とは、そこにまことの智慧が輝いて、互に知りあい信じあって、
和合する団体のことである。
In fact、
harmony is the life and real purport of a true community or an organization/

まことに、和合が社会や団体の生命であり、また真の意味である。

             <つづく>

280「訊け」管理人:2012/03/22(木) 17:04:54 ID:???
『祈りの科学』24項より謹写――

真空妙有の世界

 天文学者は太陽系統の如き天体群の発生する前にその母体として星雲の如きものが存在し、その星雲の発生する以前には全然そこは「無」即ち真空の世界のみであったことを想定しているのである。「真空」を単に「無」と解すれば、「無」よりして星雲が何故発生し、太陽系が何故発生したかが問題になるのであるが、「真空」とは無尽蔵の根源だと分かれば問題は直ちに解明するのである。

 過去に於いては太陽は一個の高熱なる一大発光体だと考えられていたが現在ではそれは原子エネルギーの集団であると認められているのである。星雲と称するものは恐らく原子エネルギーの集団であろうと考えられるのであるが、原子エネルギーの本体である「運動する電子」その他の素粒子の如き微粒子は如何にして発生したのであろうか。それはウイルソンの霧函(きりばこ)に於いて電子の運動を観察している際に一個の電子が突如として二個となり、「無」の世界より、一個が新たに創造されたるが如き観を呈し、或いはいま観測中の電子が、突然「無」の状態に帰して行方不明になってしまう所に事実よりして、「運動する電子」その他の素粒子は「無」よりして出て「無」に帰るものであることが発見されたのである。そうすれば太陽や星雲を構成する所の「運動する電子」その他の素粒子(即ち原子力集団)も亦「無」より発生したものだといわなければならないのである。「無」即ち「真空」であって、「真空」が万物の本源であり、一切を構成する創造者であるということができるのである。

 かくの如く吾々をとりまく所のものはすべて「真空」であり、天体と天体、星と星との間の空間及び分子と分子との空間、電子と電子との間及び電子と原子核との間も結局真空であり、真空は即ち「無」であって、「無」が一切の存在の殆どすべてを占めているということができるのである。然もその「無」は何ものも存在しないのではないのであって、すべての天体を虚空に於いてあるべき位置にあるべきようにあらしめている所の力であり智慧であり、分子及び電子その他の物質構成分たる微粒子をしてあるべき所にあるべきようにあらしめている所の力であり、従ってそれは驚くべき正確なる智慧を含む所の力であるのである。即ち宇宙に満つる「智慧の力」は「無」よりして一切のものを発生せしむる所の本源であるのである。この「真空」は吾々の身体の一切の部分に行き亙っているのであって、従って又宇宙の一切の部分につながっているのであるということができるのである。それは驚くべき精巧なる智慧であるから単につながっているというだけではなく、吾々の〝智慧〟に、又〝願い〟に答えてくれる所の〝智慧〟である筈であるのである。ここに吾々の祈りが宇宙の智慧である所の神に到達し、一切の電子分子等々を生み出した所の「真空妙有」なる所の神に到達してその願いをかなえてくれる所の根拠に到達するのである。されば祈りはかなえられないということはないのである。ただそれがかなえられないのは祈りがかなえられる所の法則に対して吾々が無智であり、ラジオの放送は必ず聴取することができるのに、法則を知らないために聴取することができないようになっているのと同じことなのである。

281「訊け」管理人:2012/03/22(木) 17:11:37 ID:???

WEB「榎本恵吾記念館」文書館より謹写――

 悪あり、罪ありであったならば、1人の子でも堕ろした人が来たら、「自分が殺されてから来なさい」ということになります。人1人でも殺していたら、たとい全宇宙が赦してくれても、自分で自分を赦すことは絶対にできないということは、いつも講話などで申し上げていることです。罪を犯しているけれども気にしないで喜ぶという喜びではないのです。神は罪を犯し給わないから、神の子もまた罪を犯せていないのです。繰り返しになりますが、罪を犯せていないことが喜びなのだということなのです。

 人類は、この意味での喜びを味わうことを長い間忘れていたのではないでしょうか。そうした理由から、練成会では「笑いの練習」をするのです。「笑いの大会」ということまでやって、神の子としての喜びを遠慮しないことを練習しているのであります。以前「笑いの大会」で最優秀賞を受賞した人の中に、私が個人指導をさせていただいたときに子供を5人堕ろしたと話していた人がいらっしゃいました。そんな人が、最高の賞をもらっているのです。そして、1人も堕ろしていない人が何も賞をもらっていなかったりするのです。少なくとも子供は堕ろしていないとしても、すでに完全円満の實相を包み隠してこれを喜ぶことをその人が遠慮していたとすれば、それはそれで別の種類の罪を犯していることになるのではないだろうかと、つくづく想わされたことでした。

 こう考えてみますと、練成会の行事は、神想観から聖経の読誦、講話、感謝行など、すべて完全円満の實相を遠慮しない行事ばかりであることに気づかされるはずであります。

  先日も私がこのことを話して、結局、

  「そのまま円満を喜ぶことが懺悔なのですよ」

  と言いましたところ、

  「私は15人も堕ろしているのですよ。それでも喜ぶのですか?」

  と詰め寄るように私に言ってきた人がありました。その人の眼は複雑な眼でした。その眼は、「喜べたらどんなによいでしょう」と訴えている、もどかしさのこもった眼でした。そこで私は、

 「喜ぶのはあなたのためではないのですよ。もしも殺し合いの不完全な世界が本当にあるとしたら、神は不完全であり、神はないということになって、神を殺すことになるのですよ。喜ぶのはあなたのためじゃないのです。あなたはどうでもよいのです」

  と言ったのですが、そのときついつい語調が強くなりました。するとその人は、

  「ああ、私のためじゃないのですか」

 と言われて、見る見るうちに表情が明るくなられました。

 その場にいて、その光景を見ていた方が、40数年間の罪の重荷から解放されたことを後日お知らせくださいました。實相のそのまま円満なことを喜ばないのは、神を審くということであります。何よりも先に神を赦すことが第一であるという教えが、生長の家の教えなのであります。これが『神を審判く』という青年期の著書に著わされた思想を超えて行かれた谷口雅春先生のお姿であるのです。

 尊師谷口雅春先生が、初めての海外ご巡錫でブラジルにお寄りになったときのことですが、「人間は神の子で、罪の子ではない」と話されたところ、それは傲慢だという非難の声があったそうです。そのとき、谷口雅春先生は、

「人間が罪の子であると考えることが神に対して傲慢なのです。神が人間を罪だらけとしてしか造れなかった、ということを認めることは、神が不完全で罪だらけであると軽蔑することになるのであって、人間が神の子であるということは、神が罪だらけでなく、完全であることを弁護しているのです。私は神を弁護する弁護士であります」

と答えられたということです。

 すると、その場に本当の弁護士がおられて、谷口先生の話を聴いて「私も神を弁護する弁護士になりたいなあ」と想われたそうです。そしてその方が帰宅してみると、8年間も患っていた奥さんの病気が消えていました。歓迎夕食会のときには、その弁護士夫婦がお二人揃って出席されて体験を話され、谷口先生にお礼を言われたということです。

 私たちがそのまま円満の神の子であり、罪の子ではないということは、神のために、神を憎むのではなく、神を赦すために受け入れなければならないことなのです。

http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65570759.html

282トキ:2012/03/22(木) 19:33:05 ID:iFhznFvc
 徹頭徹尾自力の否定であり、感謝以外にはないのであります。祈りも感謝、愛行も感謝、神想観も
聖経読詭も悉く感謝であります。
                                          
 自己中心の祈りや行は、生長の家ではありません。目的や都合から出発した行は、どんなに完壁に
 出来ても、不安を取りのぞく力とはなりません。やりながら不安を伴うのであります。それは心の底
 では自分を頼み、結果を期待していることになり、肝腎の神様がぬきになっているからです。神様が
 抜きになっていて救われるはずがありません。神に全托したものには、あるのは唯感謝のみでありま
 す。感謝以外の努力は救いにつながる努力とはなりません。
 「七つの燈台の点燈者の神一空の中にも、一にも感謝、二にも感謝、感謝、感謝、ただ感謝だけとあ
 ります。あまり感謝ということばが多いので数えてみましたら、何とあの短い御文章の申に、十四回
 も感謝というおことばがあり、最後の方に、
 「その感謝の念の中にこそ、汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう」とお示し頂いています。
 これをみても、生長の家がどんな教えであり、どんな方法で救われるかが明らかであります。この
 「七つの燈台の点燈者の神一空は何十とある神示の中の、根本の神示であり、み教えを代表する神示
 であります。そのご神示で「感謝」がすべてであり、それのみが救いの根本であるとお示し頂いてお
 りますから、私たちはその教えに素直に従い、信じて行ずる以外に方法はありません。それ以外のこ
 とを考えたのでは、生長の家でなくなります。

 このように救いの根本は信であり、感謝であることがわかるのでありますが、私どもの所に相談に
 こられる人の中には、「何を信じたらよろしいのですか?」とか「感謝しなければいけないことはよ
 くわかるのですが、きて感謝しなければ…と思ってみると、感謝するようなことが見つからないの
 ですが・…‥」といわれる方があります。このような方は決まって、現象を対象にしておられる方々で
 あります。信ずる対象はあくまで神様であり、現象ではなく実相であります。また感謝でも、現象や
 条件を対象にするのではなく、実相に感謝するのであります。生長の家は現象なしに徹する教えであ
 りますから、ない現象を相手にしているようなことでは、本ものの信仰ではありません。実相直視、
 実相独在の教えであります。

「すべてを癒す道 藤原敏之著 P92」

283「訊け」管理人:2012/03/22(木) 21:17:23 ID:???

WEB「榎本恵吾記念館」文書館より謹写――

素直に素直に、この「招神歌」の中身を受け取るのを遠慮しないことが大切です。第一のものを第一とすることです。第一とは神であり、實相であり、そのまま円満ということであり、「生きとし生けるもの」が、神そのものとして、神に愛され生かされているということです。はっきり言えば、“そのままでよい”ということです。“そのままでよい”と言えるのが實相であり、“そのままでよい”と言えないものは實相ではありません。
 神に生かされていることを喜んでいるとき、我が要らなくなり、消えて、そこに感謝が輝いているのです。また、そのようなときにこそ「聖使命菩薩讃偈」の中に示されているような菩薩が、そこに世の光として立っているということになるのです。
 「感謝しないと現れてやらないぞ」「愛行をしないと現れてやらないぞ」というのでは、これほど冷たい「神示」や「お経」はないということになります。それを全部自分の力でやってからでないと神が顕れないというのでは、神が顕れるための、生かされるための準備ばかりをしているのであり、それでは今ここには神は在さないということになります。生かされるための準備は何がやっているかというと、我がやっていることになり、また一方では我がないのが感謝なのですから、もう何が何だか解らなくなり、結局は「できていない、できていない」ということになってしまうでしょう。それでは永遠に感謝はあり得ず、ついに「生長の家ほど神に遠い教えはない!」という結論になってしまわないとも限りません。
 しかし、断じてそうではないのです! 今第一のものを第一として、「生きとし生けるもの」として生かされていることを喜べば、それがそのまま感謝であり、世の聖なる光となっているのです。
 生長の家では、神の愛が姿形をとって現れ給うたのが父母であると教えられています。父母は神なのです。父母は、「御祖神」の「みおや」なのです。ですから、この神を遠慮してしまうと、父母のいのちの流れから外れてしまうことになってしまうのです。
 神のことを“親様”と言うのですから、神は父母そのものであり給います。親様である“神”に生かされている、愛されている、または生かされていてよい、愛されていてよいということを素直に“ハイ”と受けとめれば、父母に素直になっていることであり、感謝していることになっているのです。こちらの力のいらない教えです。“ハイ”と受け取るしかないという教えです。受け取る側は、遠慮しないことだけでよいという教えです。感謝する行為さえも神さまに全托できる教えであります。もちろん愛行もです。常に、常にこちら側にいて味方となってくださって居るのが神です。
 神はすべてのすべてであり給うのですから、神が味方であり給うということは、天地一切のものが味方であるということに他ならないのです。これだけはこちらでやらなければならない、ということが一つもなく、丸もらいの丸儲けができるのが生長の家であり、感謝の教えだという意味です。

284「訊け」管理人:2012/03/22(木) 21:47:18 ID:???

――服部仁郎曰く、

 實相は無形であるけれど、種子を土の中におろすと、水分を吸収し、日光を浴びて、立派に朝顔の花は開花する働きをもっているのであります。それで、ここで注意すべきことは、實相は現象に顕われようとする働きをもっているということであります。
 この實相が現象にあらわれたことをわたし達は、仏教の語を藉りて「諸法實相」と云い、この現れようとする働き、つまり實相が現象的象徴を求める働きを、天地を貫く心の法則と見ているのであります。諸法とは諸ゝのものと云うほどの意味であります。これはたゞ単に朝顔の花だけでなく、宇宙の生きとし生ける、あらゆる生命に通じている法則でありまして、まことに宇宙の万物はすべて實相の顕現でありまして、これを「諸法實相」と言っているのであります。

『神経症は治る』10項


――榎本恵吾曰く、

 「實相は現象に顕われようとする働きをもっているということであります。」 
 ここのところは「實相」は人間の心のレンズを磨くという人間業を通さずに、「實相」は自ら顕われる力がそなわっていることを語っているのである。ここに心のレンズを磨かなければ出て来ることの出来ない、動きのとれない實相ではなく、本当の意味での全托に値するところの「實相」というものが伝えられているのである。
 この〝實相は現象に顕われようとする働きをもっている〟ことが解らなければ、どうして尊師が「實相」「實相」と大書されるのかの意味が解らなくなるのである。繰り返すが、實相は人間の修行という心のレンズを研くことによって、わずかに心からすべてを放つということ、安心するということではないのである。實相はみずから顕れるという全托の中にこの大安心を得て、現象から心がはなれたときに病は消えると服部氏は多くの実例をあげているのである。ここに生長の家のみ教えを通しての世界観、人生観が書かれていると思われる。そしてそれがそのまま、服部氏の尊師谷口雅春先生の弟子として道を伝え、奇跡的な治癒を行っていた力の根本の自覚の説明となっているのである。

285a hope:2012/03/23(金) 10:40:36 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

誰でも楽しくなれば生き生きする


仕事や勉強は自分を立派にすることであり、自分の値打ちを出すことであり、
自分を丈夫にすることであり、その上、他(ひと)を喜ばすこと、
他からありがたがられることだと知れば、吾々は仕事や勉強が自然に楽しくならずにはいられないのです。

楽しくなれば、吾々は生き生きしてくるのです。
生き生きしてくれば身体も元気になって来るのです。

生き生きしない植木は枯れて来ますが、生き生きしている植木は、
ズンズン伸びて行くのでも明らかになりましょう。

(つづく)

286ハマナス:2012/03/23(金) 13:57:28 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 ありがとうございます。

   善き想念・悪しき想念   (『新版 生活の智慧365章』P.103)

 あなたの人生はあなたの想念の具象化である。「あなたの想念」と仮にいうけれども、
人は自己独特の精神の上に周囲の人物から色々の想念を感受して「自己の想念」を
混成するのである。幼い時には、両親及びその家族から最も多く想念を感受して、それを
総合して「自己の想念」を混成する。十三歳以上になると、個性が独立して来て、必ずし
も周囲の想念ばかりに支配されなくなるけれども、依然として両親・家族・人類からその
想念の影響を感受して、全然「無影響」ということはあり得ないのである。

 併しながら年を重ねるにしたがって個性的は表現要求は強くなるが、同時に幼児以来
受けて来(きた)った家族及び人類から感受した想念もその人の潜在意識に固定化して
抜きがたき傾向を形づくることにもなる。その固定化した傾向が、よき想念・明るき想念
である場合は、その人の生涯に善き影響をもちつづけるが、それが悪しき想念である場合
には、その人の生涯に常に悪しき影響を与えつつ、その人の運命を暗い方法に導いて行く
ことになるのである。

感謝合掌

287SAKURA:2012/03/23(金) 23:06:33 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ
こんばんは…

279>前回の“つづき”として、投稿させて頂きます…。

■ 仏教典        (一部抜粋…)

しかし、世の中には三とおりの団体がある。
一つは、権力や財力のそなわった指導者がいるために集まった団体、二つは、
ただ都合のために集まって、自分たちに都合よく争わなくてもよい間だけ続いている団体、

三つは、教えを中心として和合を生命とする団体である。

もとよりこの三種の団体のうち、まことの団体は第三の団体であって、この団体は、
一つの心を心として生活し、その中から色々の功徳を生んでくるから、
そこには平和があり、喜びあり、満足があり、幸福がある。

そして、ちょうど山に降った雨が流れて、谷川となり、次第に大河となって、
ついに大海に入るように、

いろいろの境遇の人びとも、同じ教えの雨に潤されて、次第に小さな団体から社会へと
流れあい、ついには同じ味のさとりの海へと流れ込むのである。

すべての心が水と乳とのように和合して、そこに美しい団体が生まれる。
だから正しい教えは、実にこの地上に、美しいまことの団体を作りだす
根本の力であって、それは先に言ったように、互いに見いだす光であるとともに、
人々の心の凹凸を平らにして、和合させる力でもある。

Thus,
the organization that is formed on the perfect teaching of Buddha can be called
the Brotherhood.
このまことの団体は、このように教えを根本の力とするから教団といい得る。

そして、すべての人は、みなその心をこの教えによって養わなければならないから、
教団は道理としては、地上のあらゆる人間を含むが、事実としては、
同信の人達の団体である。

■この事実としての団体は、教えを説いて在家に施すものと、これに対して
衣食を施すものと,両者相まって、教団を維持し拡張し、教えの久しく伝わるように
努めなければならない。

それで、教団の人は和合を旨とし、その教団の使命を果たすように
心がけなければならない。僧侶は在家を教え、
在家は教えを受け教えを信じるのであり、したがって両者に和合があり得るのである。

互いに和らぎむつみあって争うことなく、同信の人ともに住む幸せを喜び、
慈しみ交わり、人々の心と一つになるように努めなければならない。

■ここに教団和合の6つの原則がある。
第一に、慈悲のことばを語り
第ニに、慈悲の行いをなし、
第三に、慈悲の意をまもり、
第四に、得たものは互いに分かちあい、
第五に、同じ清らかな戒を保ち、
第六に、互いに正しい見方を持つ。

このうち、正しい見方が中心となって、他の五つを包むのである。

また次に、教団を栄えさせる二種の七原則がある。

1)しばしば相集まって教えを語り合い、
2)上下相和して互いに敬い、
3)教えをあがめ尊んで、みだりにこれをあらためず、
4)長幼相交わるとき礼をもってし、
5)心を守って正直を敬いを旨とし、
6)閑かなところにあって行いを清め、人を先にし、自分を後にして道に従い
7)人びとを愛し、来るものを厚くもてなし、病めるものは大事に看護する。
この七つを守れば教団は衰えない。

次に、
1)清らかな心を守って雑事の多いのを願わず、
2)欲なきを守って貪らず
3)忍辱を守って争わず
4)沈黙を守って言わず
5)教えを守っておごらず
6)一つの教えを守って他の教えに従わず
7)倹約を守って衣食に質素であること。
この七つを守れば教団は衰えない。

<つづく>          再合掌

288下流の人:2012/03/24(土) 00:29:43 ID:rW.yYvdc

 谷口雅春先生は『維摩経講義』にて

 ・・・普通、仏教では、悟りは言語文字にあらわすことは出来ないと云いますけれども、実際は言語文字にあらわすことが出来るのです。

 悟りの境地を言語文字にあらわすことが出来ないのは、本当には、まだ悟っていないからであります。

 私は『生命の實相』二十巻の中に於いて、その解脱の境地をむつかしい哲学的熟語や、仏教用語などを使わないで表現しました。それゆえにこそ『生命の實相』を讀むだけで、読者の生命の迷いが消え、自縄自縛されていた生命の縛りが解放されて、病気が消えたり、人生百般の悩みが解消したりするのである。

 これは言語文字によって、解脱の境地を表現し得る証拠であります。



 また『ヨハネ傳講義』にては

 吾々は聖書や教典を講義して、一字一句どうであるとわかったとて、そんなことは生命の悟りの前には何でもない。

 吾々が語るのは本の字句の講義ではないのです。聖書に託して自内證の真理を話しているのであります。

289ハマナス:2012/03/24(土) 08:44:47 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 おはようございます。

   善人は団結して言動せよ。  (『新版 生活の智慧365章』P.108)

社会的、国家的、人類的な大黄な目的に関する願いは、個人がひとりひとりでやるよりも
大きな団体及び組織の力を利用してやる方が実現の速度も簡易が大きくなるのである。
今までの善人は、あまり温和(おとな)しすぎて黙って控え目にしていて、悪人の方が
団結して言いたい放題なことを主張したり、群衆行動の圧力でその要求を貫徹しようとしていた
嫌いがある。そんなことでは社会も国家もよくならないのである。善人はその目的を一つにして
大同団結して建設的に協力するとき速やかに社会も国家もよくなるのである。

 人類光明化運動の団体の中における者は、尚一層調和して、その主たる目的のために
常に建設的は言動をなすべきであって、苟(いやしく)も、破壊的な、内部紛争をかもす
ような言動をなしてはならないのである。内部に相争うものを包容している団体は、寄生中や
癌細胞を内に宿している人体のようなものであって、早晩、瀕死の状態に陥るか、大手術をして
内部の病原を切除しなければならなくなるのである。

感謝合掌

290SAKURA:2012/03/24(土) 12:57:06 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ

昨日は、雨が〜〜〜シトシト〜〜〜♫“金曜日”でしたが…?更に…時間の経過が〜
このような日こそ・・・精神統一が大事ですネ・・・
今から心の浄化出来る谷口雅春先生の浄化作用を・・・【心のエッセンス】

■【幸福を招く365章】
―――与えると受けるとの悦び―――

受ける者よりも、与える者の方が幸福である。与えると云うことには幸福感を伴う。
神の愛は「与えてやまぬ愛」であるから、与える心の中には神の愛が目覚めて
来るのである。しかし受ける者があるので与える悦びが完了するのである。
だから受ける者を軽蔑してはならぬ。受ける者を軽蔑したとき、
与える悦びは減ってしまうのである。受ける者を愛し祝福する気持になったとき、
与えた悦びは増大するのである。与える喜びも大切であるが、
何事にても受けるときに真にそれを神の恵みとして感謝するならば、
受けることも大なる悦びに変化して来るのである。
自分が与える悦びばかり固執していて、他に与えさす機会を与えないのは
他人の人の魂の進歩を妨げることがある。
                    (谷口雅春著)


■【生長の家政治連合と「今の教え」を考える】
866> 此処に私なりの…【解釈…】してみましたが…?

291SAKURA:2012/03/24(土) 21:54:11 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ
>279>287 の続き

■■ 仏教典 より          
■ 第3章   【仏国土の建設…】

第1節  ―― むつみあうなかま ――

前にも言ったように、教団は和合を生命とするものであり、和合のない教団は
教団ではないから、不和の生じないよう、生じた場合は、速やかにその不和を
除き去るように努めなければならない。

血は血によって清められるものでなく、恨みは恨みによって報いられるものではない。
ただ恨みを忘れることよってなくすことができる。

昔、長災王という王があった。隣国の兵を好むブラフマダッタ王に国を奪われ、
妃と王子とともに隠れているうちに、敵に捕らえられたが、王子だけは幸いにして
逃げることができた。

王が刑場の露と消える日、王子は父の命を救う機会をねらったが、ついにその折もなく、
無念に泣いて父の哀れな姿を見守った。

王は王子を見つけて、「長く見てはならない。短く急いではならない。
恨みは恨みなきによってのみ静まるものである」
と、独り言のようにつぶやいた。

この後王子は、ただいちずに復讐の道をたどった。機会を得て王家にやとわれ、
王に接近してその親任を得るに至った。

ある日、王は猟に出たが、王子は今日こそ目的を果たさなければならないと、
ひそかにはかって王の軍勢から引き離し、ただひとり王について山中を駆け回った。
王はまったく疲れはてて、親任しているこの青年のひざまくらに、
しばしまどろんだ。
いまこそ時が来たと、王子は刀を抜いて王の首に当てたが、その刹那父の臨終の
ことばを思い出されて、いくたびか刺そうとしたが刺せずにいるうちに、
突然王は目を覚し、いま長災王の王子に首を刺されようとしている
恐ろしい夢を見たと言う。

王子は王を押さえて刀を振りあげ、今こそ長年の恨みを晴らす時が来たと言って
名のりをあてたが、またすぐ刀を捨てて王の前にひざまずいた。

王は長災王の臨終のことばを聞いて大いに感動し、ここに互いに罪をわびて許しあい、
王子にはもとの国を返すことになり、その後両国は親睦を続けた。
ここに「長く見てはならない」というのは、恨みを長く続かせるなということである。
「短く急いではならない」というのは、友情を破るのに急ぐなということである。

恨みはもとより恨みによって静まるものでなく、恨みを忘れることによってのみ静まる。

和合の教団においては、終始この物語りの精神を味わうことが必要である。

ひとり教団ばかりではない。世間の生活においても、このことはまた同様である。

               <つづく>            No.1

292SAKURA:2012/03/24(土) 21:55:42 ID:FEa/NNlc
       <つづく>            No.2

第2節  ―― 仏の国 ―― 

1)前にも説いてきたように、教団が和合を主として、その教えの宣布という
使命を忘れないときには、
教団は次第にその円周を大きくして、教えが広まってゆく。

ここに教えが広まるというのは、心を養い修める人が多くなってゆくことであり、
今までこの世の中を支配した
無明と愛欲の魔王が率いる貪りと怒りと愚かさとの魔軍が退いてここに
智慧と光明と信仰と歓喜とが、その支配権を得ることになる。
悪魔の領土は欲であり、闇であり、争いであり、剣であり、血であり、
戦いである。
そねみ、妬み、憎しみ、欺き、へつらい、おもねり、隠し、そしることである。
いまそこに、智慧が輝き、慈悲が潤い、信仰の根が張り、歓喜の花が開き、
悪魔の領土は、一変して仏の国となる。

さわやかなそよ風や、
一輪の花が春の来たことを告げるように、ひとりがさとりを開けば、
草木国土、山河大地、ことごとく仏の国となる。

2)教えのしかれている世界では、人びとの心が素直になる。
これはまことに、あくことない大事日によって、常に人びとを照らし守るところの
仏の心に触れて、汚れた心も清められるからである。
この素直な心は、同時に深い心、道にかなう心、施す心、戒を守る心、
忍ぶ心、静かな心、智慧の心、慈悲の心となり、また方便をめぐらして、
人びとに道を得させる心ともなるから、ここに仏の国が、立派にうち建てられる。

妻子とともにある家庭も、立派に仏の宿る家庭となり、
社会的差別の免れない国家でも、仏の治める心の王国となる。

まことに、欲にまみれた人によって建てられた御殿が仏の住所ではない。
月の光が漏れこむような粗末な小屋も、素直な心の人を主(あるじ)とすれば、
仏の宿る場所となる。

ひとりの心の上にうち建てられた仏の国は、同信の人を呼んでその数を加えてゆく。
家庭に村に町に都市に国に、次第に広がってゆく。

まことに、教えを広めてゆくことは、この仏の国を広げてゆくことにほかならない。

                <つづく>
                              再合掌

293a hope:2012/03/26(月) 08:47:27 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

最も楽しくなる法


生き生きするには楽しいと思わなければなりません。
悲しいと思っていて生き生きできる人はありません。
生き生きしないものは、枯れかかった植木と同じく、新しい芽が伸びないのです。
生き生きしない者は枯れるよりほかはないのです。

では生き生きするにはどうすればよいか、楽しく仕事をし、
楽しく勉強をするのがよいことは今申しました。

しかし、もう一つ大切なことがあります。
それは自分を神の子だと思うことです。

皆さんは、自分を世界一の金持ちの子だと思うだけで楽しいでしょう。
皆さんは、自分をどこかの国の王様の王子だと考えるだけでも楽しいでしょう。
では、その王様よりも、もうひとつ偉い神様の、
その子供だとお考えになったらどんなに楽しくなられるでしょう。
どんなに生き生きせられるでしょう。

王子でも学者でも、自分を「神の子」だと考えて、
生き生きした心持になった人はたくさんあります。

キリストでも釈迦でも、自分を神様の子だと思って生き生きした心持になったのです。

(つづく)

294「訊け」管理人:2012/03/26(月) 16:29:53 ID:PgLin6Xs

――榎本恵吾曰く、
 現象なしとは内から輝く実在の光りなのである。實相自らの自発の輝きの喜びの光りなのである。現象なしとは實相に到達するためのプロセスではない。實相から輝き出でたる輝きである。これが實相自ら顕われる顕斎ということである。これが人類光明化運動の自発であることの意味内容である。光りばかりの世界で光りが光りする生命の純粋持続としての光りの運動なのである。現象なしとは中心より出でたる生命の輝きの放射なのである。現象無しでは「虚無に陥る」とはインドの話であって、中心、天皇のいない国のことである。この輝きは教団や組織形成以前よりの存在である。現象なしも實相独在もはじめからある尊師のいのちの輝きの放射として出て来た言葉であり、この言葉を発してからそれになったのではないということである。自発的とは先づある光りのすがたの世界である。運動も運動をしてから光りがもたらされるのではなく、運動そのものが先づある光りの表現としてあるのである。内容は光りばかりなのである。・・・(中略)・・・われわれは組織の数量的発展拡大を通して『生命の實相』を見ようとするようになってはいないだろうか。つまり『生命の實相』の素晴らしさというものを現象的現われによって測るようになってはいないだろうか。


――尊師曰く、

 吾々が生命を礼拝し、かうした『生命』の法則にしたがつて生活することを日標においてゐますのは、吾々がこの世界に『生命』を享けて来た事実から出発するのでありまして、事実ほど力強いものはないのであります。吾々が『生命』をこの世界に享けて来たと申しますと、〝わたし〟というものが別に何処かにあつて『生命』というものを何処かほかのところから貰つて来たやうに聞えるかも知れませんがさう云ふ意味ではないのであります。吾々各々そのものが一個の『生命』であります。何ものを否定しましても、自分が生きてゐると云ふ事実は否定出来ないのであります。自分は生きてゐると云ふ事実は取りも直さず自分自身が『生命』であると云ふことであります。

『生命の實相』第一巷4頁より謹写


――榎本恵吾曰く、

 此処(上記尊師御文章)に全『生長の家』の全説法の要がある。今此処に生きる生命、この生命は何ものであるか。その生命の実相(ほんとうのすがた)が、この否定不可能の絶対事実が、実在なのであり、神なのであり、完全なのである。
扨て、問題の解決とは一体何であらうか。解決とは神が『今』『此処』に顔を出すと云ふことなのである。神は完全であるから完全が顕れる時最早や問題と云ふべきものは無いのである。そして「生命」が「実在」であり、「神」であり、それがそのまま自分なのであるから自分が解決そのものなのである。太陽が出る前に昼と云ふものがあるのではない。太陽の出て行つた処を称して昼と云ふのである。問題の解決と云ふものは自分を離れた処の何処かに形として存在するのではない。自分の行つた処を称して解決と言ふのである。
人間はすべてこの『生命』の実相(ほんとうのすがた)に還へらなければならない。此処にのみ、人生くると云ひ得る世界があるのである。『此処』とは『久遠の今』のことであり、『実相』であり、『神』である。・・・(中略)・・・この『今』と云ふ宇宙万物発生の枢機を握る一点を生きる神の子の消息を『生命の實相』第八巻で尊師は次の如く述べて居られる。

『波状光明化への道』12項より謹写

295「訊け」管理人:2012/03/26(月) 16:56:51 ID:PgLin6Xs

(つづき)


――尊師曰く、
 
 それは自然に神催しにです。『我』で憂へるのではないのです。『生命』はどう云ふ形で生きねばならぬと言ふことはない。大生命に押し流されて生きる時最も自由なのです。形の方は『執して執せず』です。形と云ふものは影であるから執する必要はないのです。『生命』が主です。『生命』さへ吾れ斯くの如くして生きると云ふ筋道が立つてゐるなら、形は千変萬化しても好いのです。その反対に形は一つを貫いてゐても、形を維持することに『生命』の方が支配されてゐてはその人の生活は生きたものでありません。さうかと云つて形の方を無闇にやり方を始終かへて行くのかと云ふとさうでもないのです。しつかりと自分の魂の底に死んでも死なない生き通しの生命が自覺されて来ますと、自然に時に應じた最も適当な生き方が出来て来るのです。『我』の力で焦る生活、力む生活、かうでなければならぬと形を極め過ぎた生活は、ある時期は大いに生長してもやがては行きつまるのです。幸ひにしてその人が死ぬ瞬間まではゆき詰らないにしても、その愈々の瞬間には行詰る。ナポレオンも行詰り、豊臣秀吉も行詰つたのです。死ぬ時には、世界統一の夢も朝鮮征伐の夢も捨てなければならぬ。況んや雑誌経営などの夢は捨てなければならないでせう。吾々は死の時になつてさへも行詰らない生活をしなければならないのです。形には執して執せず、たゞ吾々の『本当の生命』が影を映して進む生活なら、死んでさへも行詰らないのです。『生命』は円い鏡には円い影を、四角な鏡には四角な影を、 一滴の露の珠にはまたそれに相應はしい小さな影を映して進みます。それを一定の形の影しか映すまいと力むとき、その人は我に捉はれたのです。形を定めて置かないでも生命が環境を通り過ぎる時必ず其処に『生命』の影たるに相應はしい美しい像を宿すのです。どの影も善い、どの影も美しい!それは恰度、寒風が露の中を通りすぎるとき、どう工まないでも六稜形のさまざまな美しい雪の結晶を造るやうなものです。人生とは『生命』がそれぞれの環境の鏡に生命の影を映して進むことなんです。たゞ吾々は『生命』それみづからの本物の影さへ投げかけて進めば好いのです。すると美しい生活の結晶は自然に出来る。そのためには自己の生命そのものの完全な本性を自覺するのが第一です。形を生命だと見ちがへないことが肝腎です。形を生命だと見ちがへるとき、それは迷ひです。形は影であるから必ず消える。形を生命だと思つて執著し切つてゐるとき、形が消えたときその人は躓くのです。だが、雪の六稜形の結品は治えてもその結品を六角ならしめた生命は滅びないのです。これが肝腎です。『生長の家』の生き方には大乗も小乗も論いてありますが、今日は大分『生長の家』の大乗的方面を読きました。貴方になら解つて貰へると思つたからです。

『生命の實相』第八巻151頁より謹写

296a hope:2012/03/27(火) 08:50:35 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

考える事は力です


私は、皆さんに、「神の子」でないものを、「神の子」だと無理にお考えなさいと言うのではありません。
人間ははじめから「神の子」だから、「神の子」だとお考えなさいと言うのです。
そう考えても、考えなくても「神の子」なのです。

しかし考えることは力なのです。
それがこの世を楽しく生きるコツなのです。
それが力を出すコツなのです。

何百万円の金持ちでも、自分の心が眠ってしまって、貧乏で乞食をしている夢を見ている限りは、
その夢の中では十円の品物だって買うことができないでしょう。
何百万円の金持ちがその金持ちだけの力を出すには、貧乏で乞食をしているその夢から覚めて、
「ああ今のは夢であった、わたしは金持ちであったのだ」と気がつかねばならないでしょう。

それと同じく皆さんは、はじめから「神の子」なのですけれども、「神の子」そのままの楽しさを現わし、
「神の子」そのままの生き生きしさを現すには、「自分は神の子だ」気がつかねばならないのです。

私は世の中の人に、「自分は神の子だ」と気づかせてあげるために、毎月雑誌におしえを書いているのです。
皆さんは、誰も彼も本当に「神の子」なのです。
皆さんは自分を「神に子」だと思うだけでも楽しいでしょう。
楽しいから仕事も勉強もよくできるのです。

今日から仕事の成績が上がりますよ。
勉強の成績が上がりますよ。
その証拠には皆さんの顔が生き生きして来ました。
生き生きするところに神様の生命は生きているのです。

ごらんなさい!春の若葉は生き生きしているではありませんか。
生き生きしている新芽はずんずん伸びるでしょう。
やがて生き生きしなくなれば伸びなくなります。

皆さんは楽しく生き生きして来られましたから、なんでおズンズン上手になります。
仕事は楽しく、勉強は楽しくなります。きっとですよ。

(つづく)

297SAKURA:2012/03/27(火) 09:11:21 ID:FEa/NNlc

トキ様 へ
観覧者の皆様へ

おはようございます…。

■【幸福を招く365章】
―――性格も運命も改善し得る―――

心があなたの行為、環境、運命等をつくり出す原動力なのであります。
併し「心」と云うものを現在意識ばかりだと考えていては間違います。
現在意識は吾々の表面にあらわれている心であって、
全体の心の略々(ほぼ)五パ−セント位しか占めていない。あとの九十五パ−セント
と云う莫大な心の領域は表面にあらわれていないのだけれども、それが内部から、
見えざる手もて、隠れたる力で、吾々の行動を左右しているのである。
この事は『人間性の解剖』(新選谷口雅春選集)を読めば実に容易くわかるのである。
この潜在意識にレコ−ドされた感情や観念が、人間を無意識の世界から
引摺って動かしているのである。それを仏教では業の力と云っている。
業を淨める方法が発見されるまでは、人間は業力に支配せられるところの
奴隷に過ぎないのである。どうにもならない性格だとおもわれていたもの、
運命だと思われていたものも、潜在意識を浄めることによって
変化することが解ってきたのである。         (谷口雅春書)


昨日は、お天気がよく気持ちよく過ごすことが出来ました…。感謝!
そして「雅春先生の書物」を読みながら…私は「幸せ者」と思えるのです…。
やはり「書物を読む」事で考えの視野の幅が!グ〜〜〜ッと広がりますネ???
“レッスン・・・1・・・・2・・・・3・・・・・”ゴ−!!

PS:
■生長の家政治連合会と「今の教え」を考える
871> 此処に私なりの【解釈…】をしてみましたが…?

宜しかったら…?そちらで拝読して頂きますと幸いです…。 合掌

298【霊界より】徳久訊己【医学博士】:2012/03/27(火) 10:12:47 ID:DmNhD9W.
『そのまま極楽の道』(藤原敏之著)25項より謹写――

 (親鸞上人に関して)その中で特に有名なのは、〝枕石寺の由来〟であります。
常陸の国(茨城地方)を二人のお弟子を伴って托鉢しながら縁のある人々を教化し、導いて歩いているうちに猛吹雪となり、五メートル先も見えない程の大雪で、あっという間に雪が積もってどこが道だか田圃だか全然判らなくなりました。そのうち日がくれてしまい、どうすることも出来なくて困っているとき、はるか彼方に明りが見えるのを頼りに辿りついてみると、立派な門構えの大邸宅がありました。これは有難い、一晩だけ吹雪を避けさせてもらいましょうと、一夜の宿を乞いました。すると家の主人が立ち現れ、「縁起でもない、クソ坊主など泊めるいわれはない、さっさと出て行け」と大声でどなりながら、木の棒で追い払い、門の外まで追い出して内側から厳重に閉めてしまったというのであります。この人物は日野左衛門といって近郷近在きっての大金持ちでありました。

 門の外まで追い出された主従三人は仕方なく歩き出すことに致しました。しかし何分にも北国の冬であり、今とちがって降る雪の量も多くてどうすることも出来ません。夜が更けるにつれて雪はうなりを立て容赦なく吹きつけて来ます。親鸞上人は門の敷石を枕に横になって休まれました。二人の弟子が衣の袖と菅の笠で上人さまにかかる吹雪を防ごうとしますが、見る見る雪が積もってまるで雪の布団にくるまっているような状態であります。素足に草鞋の上人の足からは、皸(あか)ぎれで血が吹き出しています。これを見て二人の若い弟子が、「なんという無慈悲な翁であろう、せめて門の内にでも入れてくれたらこんなにまで痛ましいお姿にならなくてもすんだものを・・・・・」「もしも出家せられずに家を継いでおられたら、今は公卿の御身分で、どんな栄耀栄華も思いのままであろうものを、衆生済度のためとはいいながらこのご難儀は、何と痛ましいことか・・・・・」と泣いているのをごらんになった上人は、「お前達は何を文句をいっているのか、そんな間違った考えを起しては親様に申訳ないぞ」といいながら詠まれた歌が有名な、

寒くとも袂(たもと)に入れよ西の風
      弥陀の国より吹くと思へば

 というお歌であります。この意味は申すまでもなく、どんな寒さも、困難と見えるものも、何一つとして神様の恵み、仏のお慈悲でないものはないのだぞ、どんな寒さも阿弥陀様のみ国から吹いてくる風だという気持で受け、有難いと感謝して大切に袂にでもしまうような心で受けてみよ、苦しいものなど何一つとしてないぞよと、天地一切のもの悉く仏の恵み御慈悲の現れであると諭しておられるのであります。

 諭され、教えられた二人の弟子たちは、大いに恥じて眠られぬままに大声で、感謝の称名、お念仏を称えておりました。と、先程の当家の主が松明を掲げて出て来て門の戸を開き、「どうぞ家にお入り下さい」と丁寧に招じ入れ、火を焚いて温めてくれた上に、温かい雑炊を作って食べさせてくれ、一晩中仏のお慈悲について親鸞上人から説き聴かされ、さすがの強欲非道な日野左衛門も真理に目覚め、本願他力によって救われたのであります。ついにご開山の弟子となり、広い邸宅を解放して教えの道場に捧げるに至ったのであります。そのいわれによって寺号を枕石寺、即ち石を枕の寺と号されたのであります。

299「訊け」管理人:2012/03/27(火) 16:48:15 ID:Lnhsn5Ng

WEB「榎本恵吾記念館」文書館より謹写――


ある画学生への手紙――

 先ず最初に、物質の眼で見れば一ミリの何千分の一の大きさ(の卵)でしかなかったあなたが、自分で美しさを感じ、考え、もっともっと何かを作り出そうとするようにまで生長していることに、とても感動しています。あなたの中に、すべての美しさがあるのです。
 景色をもっともっと美しく描(か)き写したいということは、あなたの中に「もっともっとここにあるものに感動したい」という魂の輝きが動いている。景色を写生しようとして立っているあなたそのものが、私には美しい魂の輝きに見えるのです。

 あるものに向かって、もっともっと感動したいと思うこと、その思いが出てくるということそのことが尊い。自分の内に動いているその輝きをもっともっと、いつも賞めてほめぬいてやらなければならない。
 これから、どれだけのものが描けるかはわかりませんが、内にある輝きが、自分の内に動いたということだけは、厳然とした事実なのです。その尊いものをジッと拝みつづけ、ほめつづけていると、やがてあなたは何かしら充実した喜ばしいものを内に感じはじめ、そしてその時から不思議にも、自分の前にあるものを何か美しいものというか、それがそこにあるということの不思議さというようなものを感じはじめる。それがそこにあるものの生命(いのち)の尊さ、美しさなのであります。対象を写すことによって、新たにそのものの美しさに気がついて行く、ということはたしかにあるが、しかし、まずはじめに何か美しさ不思議さを感ずるということが、内になければならない。それが自然に自分のうちにあるからこそ、外のものを写したいという願いが起こるのです。
 “まず”はじめという、“まず”とは、自分がそこに立って生きているということ。そして、感動したいという願い、描きたいという願いが起っていることへの、自己祝福、満足がなければなりません。あなたが対象を写すと同時に、あなたの前にある対象はあなたのその満足、よろこびを写すものであるからです。そして明るいもの、よろこびなるものこそが、一番いのちに近く深いものであります。美しさとは明るさであり、よろこびであるということを忘れないようにしなければなりません。

(つづく)

300「訊け」管理人:2012/03/27(火) 16:48:48 ID:Lnhsn5Ng

(つづき)


 しかし、明るさと美しさとは、単なる形や色彩のことではありません。それは“これこそがそれだ”と決められることではありません。ただ、それは“自分にすでに動いている輝きを賞めたとき、外に感じられてくるもののすべてである”ということが出来るのではないかと、人類は気づきはじめています。そのとき感じたものを、内からもよおすままに筆を動かせば、セザンヌの言ったように、「形ではない」美しさが、そこに写されるのです。
 アスファルトを持ち上げ、つき破って芽を出す草があります。よく見ると、アスファルトに一番さきに下から接するところは、芽のうちでも最もやわらかいところで、今生まれたばかり、あるいは生まれようとしているところ、というような全くやわらかいものです。それが一番はじめに、かたいアスファルトを破ってゆく。これは力と形からは、はかることの出来ない働きです。これはもはや、一切の形や芽と見えるもの以外の働き、不思議さです。

 このようにして、私達をとりまくすべての草や木や動物や一切のものが、この不思議さを現わして立っている。そこに何かの不思議さを感ずる心があなたの中に動いたら、そのとき、すでにあなたの絵は形式をこえて感動しているのです。
 如何につまらぬと見えるものの中にでも、このような美しさがあるということを、感じさせてくれるのが芸術家でありましょう。一切のもの、美しく見えるもの、みにくく見えるものの中にも、その不思議さに感動をくみとれば、あなたはすべてのものが喜びをもって立ち上がるのを感じ、すべてのものから感謝される、偉大な栄光に浴することでしょう。その不思議さ、美しさ、明るさ、喜びが感じられてくるには、先ず自分が落ち着かなければならない。落ちつくためには、すでに自分の中に動いている“感動したい心”をほめなければなりません。そして、このすでに自分に中にあるよろこび、輝き、感動を表現するために絵をかくのであって、絵の出来具合や成績からよろこびをもらうために描くのではない、ということを、絶えず筆をもつ前に自分に言いきかせなければなりません。
 それには自分がこのまま、神に許され、愛され、抱かれていることを知ることです。あなたは光になるためにこれからあらゆる努力をするのではなく、すでに自分はあらゆるものを内に持っている「神の子」であることを自覚することです。すべてがすでに内にあるからには、あなたが何かをすれば――たとえば描くとすれば、それはあなたの内にあった光を外に出して来たということしかありません。このようにして、あなたという光の前におかれたキャンバスは、どんなによろこんでいるか。あなたに握られる筆は、どんなに栄光に浴しているか――ということが、私には見えているのです。

 最後に、形を超えること。明るさ、美しさとは形ではない。真っ暗いものも輝いている。美しい。くらいという字は“暗い”と書くが、日を二つも書いていて、明るいという字よりも日が多くて明るい。これはなにか形を超えた美しさを暗示しているのではないかと思います。
 谷口先生は、心をもふくめて、見える形の現象を“一切なし”と消してしまわれたのです。その奥にあるものが、生命であり、美しさです。宗教は全宇宙という形をも捨て、すべての奥にあるものを拝むのです。
 それから大切なことは、あなたのしていること、やることは、一ミリの動きでもこの宇宙に初めて起こったことで、神様もびっくりして喜んでいるということです。神をもおどろかせていること、あなたにしか出来ない尊い価値のあるものだということです。そういうことですから、決して他人(ひと)の真似をしようとしてはいけません。何者かの前に立ったとき、自然と自分の中に動く想いを写生するのです。その想いだけをみつめていればよいのです。描(か)いた人の感動が感じられるようなものが、そこから生まれるのです。

 ものを見て、自分のうちに動き出すその感動を描くのですから、はじめのうちはその感動のうごくものをさがして、感じることの出来るものだけを描くようにした方がよいのです。本当は、どんなものにでも感動するようにならなければなりません。
 教材としてモデルを与えられたら、どんなものでも描かなければならないでしょうから、しばらくはよくその対象をみて、どこか一点だけ感ずるところをみつけるのです。そしてそこをほめるのです。すると、その感動が全体に拡がっていくのです。ほめられた対象が自分で“ここにもこんな美しさがありますよ”と自分で言い出すのです。とにかく感動だけを持ちつづけることです。技術がうまくいかないといって、感動の方をとめてしまうことは絶対にいけません。
 もしも「あまりの感動で一本の線しか引けなかった」という画家が出たら、それこそ私の一番尊敬する大画家です。

301a hope:2012/03/28(水) 10:41:03 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

思うとおりに人間はなる


「思うとおりに人間は成る」という諺があります。
自分を「偉い」と思う者は、ついには本当に偉くなるのです。
自分は駄目だと思うものは、ついには本当に駄目になるのです。

自分を偉いと思えと言っても、いばれと言うのでは決してありません。
弱い者の前でいばり散らしているような者は、きっと強い者の前では猫のようになっている卑怯者です。
本当に自分を「偉い」と思っている者は、かえって誰の前にもいばらないで、
少しも気取ったりしないで、自分の仕事や勉強をただ当たり前に熱心に精出してやるものです。
気取ったり、いばったり、人前で飾ったりしている者は、本当に自分を偉いと思っていないのです。
だから他(ひと)から「偉くない」と思われてはかなわぬと思って、なるべく偉そうに見せかけるために、
人前を飾ったり、いばったりするのです。

本当に自分を偉いと思っている者は、庭掃きでも、便所掃除でも、廊下拭きでも、
どんなことでも、人のためになることが平気でできるのです。
掃除をしても、「誰かソッと見とってくれて、誉めてくれればよいのになア」と思いながら、
掃除をするようでは、まだまだ本当ではありません。

(つづく)

302ハマナス:2012/03/28(水) 15:15:12 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんにちは。今日は素晴らしいお天気です。

最近当たり前のことに気が付きました。谷口雅春先生は『365章シリーズ』の様な
365もの短いご文章が連なっているご著書にしても、ちゃんと順番を考えて編纂され
ている事がわかりました。
順番には意味があり、その通りに読むと、より一層真理がわかるように思いましたので
連続して引用させて頂きます。



会議に臨むとき (『新版 生活の智慧365章』P.111より)

 「どんな団体にせよ、団体の会議に臨む場合には、欠点を論議して反対党をやっつける
為のような気持ちで臨んではならないのである。調和精神と善意とをもって建設的な
意見を平和裡に述べて、全体を生かし皆なを生かすような気持ちをもって会議を進行
させなかったら良い結果が得られる訳はないのである。荒々しい攻撃的な語調をもって
議論をすれば、結果は必ずよくないのである。無論、すべてのメンバーが悉(ことごと)く
同一意見をもっている訳のものではない。しかしその意見を述べる時の気持ちが、平和な、
全体愛に満ちた、調和した気持ちでなければならないのである。

 他の意見を打倒しようというような、また自分の意見と異なる者には「腹が立つ」と
いうような、悪意や憤怒の気持ちを棄てて、一層高い一層繁栄する観念を導き出そうと
いうような建設的は気持ちをもって会議を進めるとき、善きアイディアが会議の進行
するに従って思い浮かんで来るようになるのである。一切の善きものは「和解」の中から
生れて来るのである。
「汝ら天地一切のものと和解せよ」との神示の実践を忘れてはならないのである。」


雅春先生はこの大事な時に「調和精神と善意とをもって建設的な意見を平和裡に述べて、
全体を生かし皆なを生かすような気持ちをもって会議を進行すること、汝ら天地一切のものと和解せよ」との
神示の実践」の必要性をお説きに下さっているように思います。

感謝合掌

303「訊け」管理人:2012/03/28(水) 17:34:03 ID:???

藤原敏之著『そのまま極楽の道』218項より謹写――


 今迄生長の家のどこを勉強しておられたのですか。生長の家は、唯神實相の哲学を基本にしてお説き頂いているのですよ。神様以外のものや実在でもない現象を相手にして解決の方法を研究するところではありません。神一元、實相一元の教えでありますよ。今あなたは神様以外のものや、ありもしない現象の出来事に心を奪われて、慌てて行き詰っておられるではありませんか。そんな生長の家はありません。それでは生長の家を知らない世間一般の人と同じで、全然生長の家になっておりませんよ。どんなに焦っても努力しても元々見当違いであり、方向を間違えておられるから行き詰るのが当たり前ですよ。電気工事がどんなに完璧でも、電球が立派でもそれだけでは明るくなりません。スイッチを入れて、電源につながるからどんな暗闇でも明るくなり、夜でも野球が出来るほど明るくなるのです。貴方の今の考えの中に、生活の何処にも神さまは現れていないではありませんか。あなただけが頑張っているではないですか。
 あなたの見ておられるのは、不況と行き詰まりだけではありませんか。そんなありもしない現象や影を相手にしていて、どうして解決するものですか。今あなたは八方塞がりで手も足もでないと申されましたが、現象で八方が塞がっていても、上の方(實相)はあいておりますよ。神のお造りになった實相の世界には、不景気も行きづまりもありません。会社の経営もあなたがやっているから、貴方の考えた通り、思ったとおりに現れるのです。神業(かみわざ)で生まれ、神意によって生かされているのが人間であり、神の生命そのものであることに気付かず、自分で生きて自分で仕事しているなどと思い上がった心で生活しておられるから、神のお造りにならないトンデモナイことが起るのです。今日限り、あなたの身体も家族も従業員も会社も全部神さまにお返しなさい。

 と諄々とお話申し上げておりますうちに、蒼ざめて血色のなかった顔に段々と赤味がさして来ました。私は〝ああこれで八、九分通り片付いたな〟という確信を得たのであります。

304a hope:2012/03/29(木) 09:55:53 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

自分の心に褒められる人間になれ


人間は自分が「神の子」であり、自分の心に神の心が宿っているのですから、
自分の心で自分自身を、少しも依怙贔屓(えこひいき)なしに誉められるようになることが第一です。

自分を本当に「偉い」と思うことは、自分の心で自分を振返って見て、誉められるようになることです。
他(ひと)に見て貰って誉められたいと思うかわりに、自分の心で見て、自分自身を誉められるようにおなりなさい。
「誰も見ていないのに、自分はよく仕事に精出して偉いなア」と思えるようにおなりなさい。
「誰も見ていないのに、自分はこんなに勉強できて偉いなア」と思えるようにおなりなさい。
自分の心に神の心が宿っているのですから、自分の心に誉められるのは神様に誉められるのも同じことです。
だから自分で自分が誉められるようになったら、世の中でこんなに楽しい事はありません。

今まで、世界で偉くなった人はみんな、自分の心が本当に褒めるような、
立派なことをするように心がけて来た人ばかりです。

(つづく)

305SAKURA:2012/03/29(木) 14:07:22 ID:FEa/NNlc

皆様 へ
>279>287>291>292 の続き

■■ 仏教典 より          
■ 第3章   【仏国土の建設…】

      第2節  ―― 仏 の 国 ――

3.まことにこの世界は、一方から見れば、悪魔の領土であり、欲の世界であり、
血の戦いの場ではあるが、この世界において、仏のさとりを信じる者は、
この世を汚す血を乳とし、欲を慈に例え、この世を悪魔の手から奪い取って、
仏の国とならそうとする。
一つの柄杓を取って、大海の水を汲み尽くそうとすることは、容易ではない。
しかし、生まれ変わり死に変わり、必ずこの仕事を成しとげようとするのが、
仏を信ずるものの心の願いである。
仏は彼岸に立って待っている。彼岸はさとりの世界であって、永久に、貪りと
いかりと愚かさと苦しみと悩みとのない国である。そこには智慧の光だけが輝き、
慈悲の雨だけが、しとしと潤している。
この世にあって、悩む者、苦しむ者、悲しむ者、または、教えの宣布に疲れた者が、
ことごとく入って憩い休らうところの国である。
この国は、光の尽きることのない、命の終わることのない、ふたたび迷いに帰る
ことのない仏のくにである。

まことにこの国は、さとりの楽しみが満ちみち、花の光は智慧をたたえ、鳥の
さえずりも教えを説く国である。まことにすべての人びとが
最後に帰ってゆくべきところである。

4.しかし、この国は休息のところではあるが、安逸のところではない。
その花の台は、いたずらに安楽に眠る場所ではない。真に働く力を得て、
それをたくわえておくところの場所である。

仏の仕事は、永遠に終ることを知らない。
人ある限り、生物の続く限り、また、それぞれの生物の心がそれぞれの世界を
作り出している限り、そのやむときはついにない。

今仏の力によって彼岸の浄土に入った仏の子らは、再びそれぞれの縁ある世界に
帰って、仏の仕事に参加する。

一つの燈(ともしび)がともると、次々に他の燈が火に移されて、尽きるところが
ないように、仏の心の燈も、人々の燈に次から次へと点じて、
永遠にその終わるところを知らないであろう。

仏の子らも、またこの仏の仕事を受け持って、人々の心を成就し
仏の国を美しく飾るため、永遠に働いてやまないのである。

           <つづく>                 No.1

306SAKURA:2012/03/29(木) 14:10:00 ID:FEa/NNlc
 
<つづく>                 No.2
          
           第 3 節  仏の国をささえるもの

1.ウダヤナ王の妃シャマヴァティ−は、あつく世尊に帰依していた。
妃は王宮の奥深くにいて外出しなかった。侍女のせむしのウッタラ−は、
記憶力がよくて、いつも世尊の法座につらなり、
教えを受けて世尊のことばのとおりを妃に伝え、これによって、妃の信仰は、
いよいよその深さを増したのであった。

第ニの妃、マ−ガンディヤは、シャマヴァティ−をねたんでこれを殺そうと企て、
ウダヤナ王に色々中傷した。
ついに心を動かした王は、シャマヴァティ−を殺そうとした。

その時シャマヴァティ−は、従容として王の前に立ったが、
王は妃の慈悲に満ちた姿に打たれて矢を放つこともできず、ついに心が解けて、
妃にその粗暴なふるまいをわびた。
マ−ガンディヤは、いっそうの怒りを増し、ついに王の留守の間に、
悪者と謀ってシャマヴァティ−の奥殿に火を放った。妃はあわてて騒ぐ侍女たちを
教え励まして、驚きも恐れもせずに、世尊の教えに生きながら従容として道に殉じた。
せむしのウッタラ−も火の中で死んだ。

シャマヴァティ−は、在家の信女のうち慈心第一、ウッタラ−は多聞第一と
たたえられた。

2.釈尊族の王、マハ−ナ−マは世尊のいとこであるが、世尊の教えを信ずる心が
至ってあつく、誠を尽くして帰依する信者であった。

コ−サラ国の凶悪な王、バイル−ダカ王が釈尊族を攻め滅ぼしたとき、
マハ−ナ−マは出ていって王に会い、城民を救いたいと願ったが、凶悪な王が
容易に許さないのを知って、せめて自分が池の中に沈んでいる間だけ、門を開いて
自由に城民を逃げさせてほしいと頼んだ。
王は人間の水中に沈んでいる間だけのことなら、わずかな時間であるからと考えて
これ許した。
マハ−ナ−マは池に沈み、城門は開かれ、人びとは喜んで逃げのびた。しかし、
いつまでたってもマハ−ナ−マは浮かび上がらなかった。彼は池に入って髪を解き、
柳の根に結びつけ、自らを殺して人びとを救ったのであった。

3.ウトパラバルナ−(蓮華色)は神通第一の比丘尼であって、マウドガルヤ―ヤナ
(目連)に比べられる人であり、多くの比丘尼を引き連れて常に教化し、比丘尼の中で
すぐれた指導者のひとりであった。
 デ−ヴァダッタ(提婆達多)がアジャ−タサルト(阿闍世)王をそそのかして、
世尊に対して反逆を企てたが、後、王が世尊に帰依してデ−ヴァダッタを顧みないようになり、城門に至ったがさえぎられて入ることができず、門前にたたずんでいたとき、
おりから門を出てくるウトパラバルナ−を見て、にわかに怒り出し、その大力にまかせて
こぶしをあげて頭を打った。
ウトパラバルナ−は痛みを忍んで僧坊に帰ったが、弟子たちの驚き悲しむのを慰めて
「姉妹よ、人の命ははかられない。ものみなすべて無常であり、無我である。
さとりの世界ばかりが、静かであって頼るべきところである。
努め励んで道を修めるように」と教え、静かに死についた。

               <つづく>

307「訊け」管理人:2012/03/29(木) 17:16:21 ID:???


WEB榎本恵吾記念館「葩(はなびら)さんさん」より謹写――

 “浄まる”というコトバには、「あるべきものがあるべき相にある」という意味があるそうです。『生命の實相』によって“浄められる”というときには、本来の自然な相に還ったとき、そこに調和がもどり、争いが水でしずまるという意味で「浄」という字を使いたくなるのではないでしょうか。


  聖経『甘露の法雨』のキリストの言葉のあたりに注目してみますと、先ほどの「吾が国は此の世の国にあらず」という言葉が出てくる前に、「キリストは『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり」という言葉が出てきます。この「内」とは、すでに今ここにある實在の国、實相の国ということであります。「内なる国」とは、罪なき完全なる神そのもののすがたなのです。そこで想い起こされるのが、聖書に出てくるイエス・キリストの言葉であります。

  ヨハネ伝福音書第8章の冒頭、イエスがオリブ山において人々に向かって説教をしていたとき、パリサイ人らが姦淫の罪で捕えられた女性を連れてきました。そしてイエスに「師よ、この女は姦淫のをり、そのまま捕へられたるなり。モーセは律法に斯る者を石にて撃つべき事を我らに命じたるが、汝は如何に言ふか」と問いつめます。そのときイエスは黙っていましたが、しばらくして地面に何か文字のようなものを書いたと言われています。ここで何をお書きになったかは『聖書』には書かれていないと思うのですが、谷口雅春先生の御著『イエスは十字架に架かり給わず』の中では、このときイエスは地面に「大調和、大調和」とお書きになったと書かれています。そしてイエスは言ったのです。「汝らの内、罪なき者まづ石を擲て」と。すると群衆の中から1人去り、2人去りして、ついに1人残らず去ってしまいました。そこでイエスはその女性に「われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな」と言ったのです。

  この場面はよく引用されるところですが、これは「他人のことは言えないぞ、自分だって罪を犯していないわけではないのだから」と言って、罪あるレベルで突き詰めた結果そうなったのだという解釈もあるでしょう。しかし生長の家式に解釈するのであれば、「汝らの内、罪なき者まづ…」の言葉は、本当に罪のない「内」なる實相を拝んで言われた言葉であるということになるのです。汝らの内なるもの、實相なるものは未だかつて罪を犯したことの無い者であるから、そこにいるすべての人々の「内なるもの」「罪なきもの」に向かって拝んで、発せられたお言葉であったのだと解釈できるのです。そして、その罪無きものが本当に罪を打ったのです。その結果打たれた罪は消えて、そこに罪なきものばかりの大調和の世界が顕われたということになるのです。そうでないと、イエスはその女性は救ったが、群衆は救わなかったということになってしまいます。

  このときイエスは、パリサイ人が連れてきた女性に向かって「吾も汝を罪せじ」と言ったのは、神は罪を造り給わないから「汝らを罪せじ」と言われたのです。その神と同じように「吾も罪せじ」と言ったのです。もしも「他人のことは言えない。自分だって罪はないとは言えないのだから」という解釈をすれば、やはり罪ありということは依然としてそのまま残ってしまい、「汝の罪赦されたり」という罪そのものの消滅にはなり得ません。これは現象に現れた人間の姿のありようでは証明できないのです。現象的な体験からでは言えない直観によってとらえる實相世界でのことなのです。

  その後、その女性が2度と罪を犯さなかったと言えるのは實相の把握から来るのであって、現象的には未来永劫に如何なる罪も犯さなかったかということに証拠はないのです。また罪なきことは群衆1人1人に言われている言葉ですから、群衆1人1人のその後の行いはどうであったかに至ってはますますその証拠になるものはないのです。ただ言えることは、神は完全であるから完全なる實相のみがあるのであり、不完全なる現象、不完全そのもの、罪そのものが無いという大真実だけなのであります。

308ももんが:2012/03/29(木) 19:24:18 ID:XXCuaQns
本日は、『ブッダのことば  スッタニパッター』より、『慈 経』を、載せます。この教えは、史上のお釈迦様の説かれた、”御言葉“として、南方の仏教徒は、”般若心経“のように、読まれるようです。

内容は、大変素晴らしく、既にに、2500年前に、生長の家と同じような事を説かれています。

皆様も、存分な、味わって下さい。感謝、合掌。

>  〜『慈経』〜

目的をよくわきまえた人が、静かな場所に行ってなすべきことは《以下のとおりである》

・何事にもすぐれ、しっかりして、まつすぐしなやかで、人の言葉をよく聞き、柔和で高慢でない人になるように。

・足ることを知り、手が掛からず、雑務少なく、簡素に暮らし、諸々の感覚器官が落ち着いていて、裏表がなく、在家に執着しないように。

・《智慧ある》識者たちが批判するような、どんな過ちも犯さないように。

・幸福で平安でありますよに。生きとし生けるものが幸せでありますように。

・いかなる生命であろともことごとく、動き回っているものでも、動き回らないでも、長いものでも、大きいものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、見たことがあるものも、遠くに住むものでも、近くに、住むものでも、すでに生まれたものも、《卵など、これから》生まれようとしてるものも、生きとし生けるものが幸せでありますように。


・どんな場合でも、人を欺いたり、軽んじたりしてはいけません。


・怒鳴ったり、腹を立てたり、お互いに人の苦しみを望んではいけません。


・あたかも母が、たった一人の我が子を、命がけで守るように、そのようにすべての生命に対しても、無量の《慈しみの》心を育てることです。

慈しみの心を、一切世間《全ての生命》に対して限りなく育てることです。

上に、下に、横《まわり》に《棲む如何なる生命に対して》も、わだかまりのない、怨みのない、敵意のない心を育てることです。


立っている時も、歩いている時も、座している時も、あるいは横になっていても眠っていない限り、この《慈悲の》念をしっかり保つものである。これが梵天《崇高な者の例え》の生き方であると言われています。

《このように実践する人は》邪見を乗り越え、常に戒を保ち、正見を得て、諸々 の欲望に対する執着をなくし、もう母体に宿る《輪廻を繰り返す》ことはありません。<<



私は、特に、この部分が、大変、気に入ってます。

>・幸福で平安でありますよに。生きとし生けるものが幸せでありますように。<



>・怒鳴ったり、腹を立てたり、お互いに人の苦しみを望んではいけません。<

我が国の聖徳太子も、この様な、ブッダの精神を深く、尊敬され、学ばれて我が国の精神と融合し、日本精神の『和』が、出来上がっていったのかと、思います。


それでは、皆様、春も、花見も、近いです。

では、では、本日も、ありがとうございます。心の平安を、願いながら、ありがとうございます。感謝、合掌、拝。

309a hope:2012/03/30(金) 10:21:03 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

「自分はまだまだこれからだ」


自分で自分を振り返ってみて、まだまだ本当に自分の行いや、
仕事や、勉強に、満点がつけられない人はたくさんありましょう。
そんなときにあなたはどうお考えになりますか。
「自分は駄目だ」とお考えになりますか。
それとも「自分はまだまだ駄目だ」とお考えになりますか。

自分を振り返って見て、満点がつけられない場合に、「自分は駄目だ!」
とお考えになれば、勇気がくじけて、これから先は進歩しないのです。
「自分はまだまだ駄目だ!」とお考えになる人も、
行く先まだまだ道遠しというような感じがして、そんなことでは本当に勇気が生まれて来ないのです。
では、そんな時にはどう考えればよいでしようか。

「自分はまだまだこれからだ」と考えるのです。
幼い人も、若い人も、年寄りも、みんな「自分はまだまだこれからだ」
と思うことによって、元気が出て来るのです。力が内から湧いてくるのです。
年寄りも若返ってくるのです。
では皆さん、これからどんな時にも「自分はまだまだこれからだ」と思うようにしましょうね。

(つづく)

310「訊け」管理人:2012/03/30(金) 16:53:49 ID:???

WEB榎本恵吾記念館「葩(はなびら)さんさん」より謹写――

釈尊の「まこと恨み心を以てしては、恨みを消すことはできない。ただ恨み無き心こそ恨みを消すことができるのである。これは永劫に変わらざる真理である」というお言葉には、誰しも“なるほど”と想わされることでしょう。しかし実際のところは、

「お釈迦さんは、その恨み無き心があるからいいよ。しかし、その恨み無き心になるのが大変で、困っているのではないか」

  と言われる人もいらっしゃるでしょう。この釈尊のお言葉は「罪は罪によっては消えない。罪なきもののみが罪を消すことができる」ということを表わしているのだと思います。

  さて、生長の家はどのようにしてこの恨み無き心を出してくる道を開いたのでしょうか。それは、恨み心や罪の心そのものは不完全であるが故に「無い!」という言葉によってこれを否定し、實相の實相自らの輝き出しによって恨み心を撥無したのです。そこには理由は無いのです。なぜ無いのかと問われても答えはありません。無いから無いのです。ただただその事実によるのみなのです。ですから、ただただ「そうか、そうか」と言っていればよいのです。恨み心によって恨み心はなぜ消えないかというと、最初から無いものは消えることも無いという意味において、無いから消えないのであると言うほかはないのです。罪は無いという事実によって無いと言えるのであります。

  では、罪とはいったい何であるかというと、聖経『甘露の法雨』に書かれてありますように、「完全円満の生命の實相を包みて顕現せしめざるが故に罪けがれと云う」ということでありまして、神の造り給うたそのままの完全円満なる實相を包み隠してしまっているその「包み」が「罪」ということなのです。“ああしてからでないと救われない”“こうしてからでないと救われない”などと、未来という時間の向こうにすでにそのまま完全である實相を追いやって、喜ぶことを遠慮してしまっている状態です。ですから、あらゆる罪というものは、現象の不完全を責め足りなかったところにあるのではなく、そのまま今、円満完全の實相を喜ぶことを遠慮したところにあるのであり、實相を喜ぶことを遠慮しないことが実は本当の意味での「懺悔」ということになるのです。生長の家で行う「神想観」という行は實相を喜び感謝するのですから、これは最大の懺悔であると言えるでしょう。聖経『甘露の法雨』も、神一元の完全円満が書かれているのですから、これを読誦することもまた懺悔なのであります。

  それでは、いったい此の罪の正体であるところの「包み」というものは、人間が努力して取り払わなければ神に生かされないものなのでしょうか。また、實相というものは包まれてしまって、縛られてしまって身動きのとれないものなのでしょうか。それでは實相が完全円満であると言うわけにはいきません。實相が完全円満であるのでしたら、自分で顕れ出てくる力も備えているはずではないでしょうか。とにかくこの罪、包みは本当にあって、これだけは自分で何とかしなければ救われないものなのでしょうか? そんな疑問と悩みを持つ人もいらっしゃるのではありませんか? その疑問と悩みを代表して、天の童子は天使に、「罪は実在なりや?」と訴えているのです。すると天使は「罪は不完全なるが故に実在にあらず」と答えたと、聖経『甘露の法雨』には記されています。

  生長の家の教えは、罪の正体を暴露して無に帰せしめた教えであります。つまり包みが罪なのですから、「罪は無い」ということはそのまま「包みは無い」ということなのです。皆さんの實相から言えば、

「私は1度も包み隠されたことはありません」

  と言っているのであります。それは解るとか、納得するとかしないとかの問題ではないのです。理解できないとか、納得できないとかいう罪も不完全なるがゆえに実在にあらず、すなわち無いということなのです。「罪は不完全なるが故に実在に非ず」と書かれてありますように、不完全という不完全は神が造り給うたものではないのですから「無い」のです。

  ですから、實相を観じられないという罪も無ければ、包み隠してしまうという罪はもちろん、感謝が足りないという罪もありません。徳積みの足りない罪も無ければ、供養の足りないという罪も、潜在意識の浄まっていないという罪も、教えを実行できていないという罪もなく、与え方が足りないという罪もまた無いのです。


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