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聖典引用 板

1509商人:2012/10/29(月) 07:10:02 ID:TCt66b8E
神は吾が手をとりて、今や吾を完全なる平和と豊かなる世界に導き給う。

谷口雅春 先生著 祈りの科学より

1510a hope:2012/10/29(月) 07:42:36 ID:8tjYhMb6
新版 生活読本 谷口雅春先生著

第五章 腹立つ思いを捨てましょう
♦怒(いか)る毒蛇の毒素


恐怖や憤怒(いかり)の時に身体(からだ)から出る毒は、
丁度、毒蛇が怒って人にかみつく時に、その歯の所から毒が出るのと同じような毒が出るのです。
併し毒蛇の場合には、その毒をためて置く袋があり、その袋から出た毒は体外へ出るようになっているのですが、
人間には、そのような毒をためて置く袋はありません。
だから怒ったり恐れたりして出来た毒素は、自分の身体の中をまわるより仕方ないのです。
だから怒ったり恐れたりすれば自分を害する事になるのです。
だから諸君は決して恐れたり、怒ったりしてはなりません。
(つづく)

1511神の子さん:2012/10/29(月) 08:51:08 ID:AWG1OEtw
>>1506
ローマ字のSAKURA様

総裁のブログでは以下のように書かれています。

“谷口清超先生は、今からちょうど4年前の平成20年10月28日に98歳で昇天されました。”

私はどちらが正しいかわかりません。
SAKURAさんを信じるか、実の息子さんを信じるか…???

1512さくら:2012/10/29(月) 09:08:12 ID:ItctBh/.
>>1509
商人さまへ

ますますのご繁栄をお祈りしております!

「仮相には実相をもって相対せよ

"悪"は本来"非存在"なのであるから、悪があらわれたとき、興奮したり、激怒したり、取り乱したりする必要はないのである。心を鎮めて、静かに「そのような状態は存在しない」ことを念じ、その見せかけの"悪"の奥に、慈悲の神、愛の神がましますことを瞑想し、悪なる"見せかけ"が消えつつあり、すでに"善なる実相"があらわれて来つつあることを繰り返し念ずるがよい。そのようにして心が落ちついた後に、自分の心に「その問題をいかに処理するがよいか」について思い浮かんできた通りに処理すればよいのである。現象界の悪と見える問題を「なし」と考えるだけで、それを手を拱いて傍観し、「処理する必要はない」というのではないのである。その処理する場合に、まず心を平和にして「実相のあらわられる智慧」を呼び出してきて処理すれば、現象に対して現象智をだして処理するよりも、現象に対して実相智を出して処理する方がすみやかに現象が好転するからである。聖経には「仮相に対しては実相を以て相対せよ」と示されているのである。」

如意自在の生活365章P250より

1513神の子さん:2012/10/29(月) 09:45:13 ID:???
>>1511

ウイキぺデイアによると89歳での御逝去となっています。

1514神の子さん:2012/10/29(月) 10:00:14 ID:???
>>1513
元本部講師様も自信がないのですか?
ちょっと悲しいかもです~_~;

1515トキ:2012/10/29(月) 11:31:28 ID:W4kD3vME
>>1511

 「唐松模様」誤植ですね。

1516ハマナス:2012/10/29(月) 12:17:59 ID:x2zmnlqw
SAKURA様、神の子様、トキ様
ありがとうございます。

SAKURA様と神の子様のご指摘通り、89歳が正しいようです。
そのまま投稿してしまい、申し訳ございません。お詫びいたします。

4年前の総裁先生のブログをご紹介いたします。

2008年10月28日
谷口清超先生、ご逝去される 
 
生長の家総裁、谷口清超先生は、10月28日午後10時21分に老衰のため、東京・渋谷
の生長の家総裁公邸にて亡くなられました。満89歳でした。
ここに謹んでご生前のご法恩に篤く深く感謝申し上げるとともに、これからの
生長の家の人類光明化運動・国際平和信仰運動を高き霊界からお導き下さる
ことを心から祈念申し上げます。先生、永い間、本当にありがとうございました。
 
 谷口清超先生は、2005年2月20日に長崎・西彼町(当時)の生長の家総本山で
行われていた団体参拝練成会の際に倒れられ、長崎市の原爆病院に入院され、
その後帰京して静養生活をされていた。先生は静養中も、生長の家の普及誌や
機関誌の原稿を執筆されていたが、機関誌3誌の本年4月号に掲載されたご文章
「本当の愛について」が、発表されたものとしては最後のものとなった。このご
文章の末尾には、「平成二十年一月十日」という日付が書かれている。
 
 谷口清超先生は、1985(昭和60)年に生長の家創始者、谷口雅春先生のご逝去に
ともなって2代目の生長の家総裁を襲任され、以後23年間、全世界の生長の家の
中心者として、世界では20世紀末から21世紀にかけて、日本では昭和から平成へ
移る激動の時代に、不変の真理を説き続けられた。特に、1948(昭和23)年9月から
1994(平成6)年3月まで46年間続けられた生長の家講習会では、毎年日本の全教区を
回られるなどして、大勢の人々に真理を宣布され、数多くの救いを成就された。海外
にも1956(昭和31)年にハワイ・北米・南米へ、1970(昭和45)年にブラジルへ、1977
(昭和52)年には南北アメリカ大陸へご巡錫されるなど、万教帰一の教えを世界に述べ
伝えられるとともに、海外の信徒に多くの救いと励ましをもたらされた。
 
 また清超先生は、国内の組織運動を改革されることで、女性信徒の組織である生長
の家白鳩会が飛躍的に伸びる体制を作られた。これは、かつての単位組織だった誌友
相愛会が、男性が女性を使う形で運営されてきたことで、女性の個性を生かした運動が
生まれにくかった点を改革されたもの。これによって女性信徒が自立し、主体性をもって
真理宣布の運動に取り組むことが可能となり、教勢は大いに拡大した。また、地方講師会
を“組織の血液”として位置づけられることにより、相愛会、白鳩会、青年会の三者協力
体制と「教え」との関係を明確化された。さらに先生は、政治活動に偏っていた1970年代
の運動の弊害に気づかれ、1983(昭和58)年、政治団体であった生長の家政治連合の活動停止
を決意されたことで、今日の生長の家の「信仰運動」としての基盤を確立された。
 谷口清超先生は、執筆、講話、組織運営以外の方面でも、今日の生長の家の運動発展に
多大な貢献をされている。それは、生長の家の聖歌の作詞・作曲である。谷口雅春先生は
多くの素晴らしい聖歌を作詞されているが、作曲はされなかった。清超先生は自らバイオリン、
ピアノ、オルガンを弾かれ、作曲もされた。今日の生長の家の聖歌の3分の1弱が先生の作で
ある。詳しく言えば、2003(平成15)年発行の『新版 生長の家聖歌歌詞』(日本教文社刊)に収録
されている68曲の聖歌のうち、20曲が清超先生の作詞であり、そのうち15曲は自ら作曲もされて
いる。先生の作品は形式に囚われず、独特の宗教性に溢れていて、歌うものに深い感動を与える。
これは歌詞のことだけではなく、曲そのものについても言える、と私は感じている。
 
 清超先生は音楽だけでなく、写真や書もたしなまれた。特に写真では、生長の家の講習会で
各地を回った際などに撮られた写真が多くあり、自著の表紙カバーに使われたり、写真集
『何となく写した 谷口清超写真集』(1991年、世界聖典普及協会刊)として残っている。また、
日めくりである『ひかりの言葉』の表紙写真も毎年担当されてきた。その日めくりの「平成21
年版」の表紙写真が、発表されたものの中では最後の写真となった。この写真は、昨年秋、
ご自宅の書斎の外に車椅子で出られて、南西の竹林方向にレンズを向けて紅葉のある風景を
撮られたもの。
 (谷口 雅宣先生)

1517ハマナス:2012/10/29(月) 12:21:12 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
ありがとうございます。

実相の活力を体得せよ  (『新版 生活の智慧365章』P.274)

 「心」が「実相」に波長が合い、「実相」の光が肉体を全領するとき、暗黒が影をうつして
いた「病気」はその影を消してしまうのです。光は暗黒を消し、実相は仮想を滅し、真理は
非真理を破壊せしめてしまいます。怒りが感謝に変り、憎しみが愛に変り、心の不調和が調和
に変りますと、その心の波長に同調してあらわれて来るものは唯、善きもののみとなるのです。
寿命が尽き、霊界に移行するとき以外には、どんな衰えも肉体には現れないのです。
この真理を信じなさい。信ずることは力です。信念を動揺させてはなりません。

 「実相の完全さ」に波長の合う心の状態は、肉体に実相の活力を賦与してこれを健康なら
しめます。どんなに重篤な症状であっても、病気と寿命とは異なるから失望してはならない。
「実相の完全さ」のみ実在であるから、どんな現象悪よりも強力であることを信じなさい。

感謝合掌

1518うのはな:2012/10/29(月) 12:50:50 ID:sERBKLDk

『祈りの科学』を読みなさい

 祈りと云うことは懇願することだと間違えられているために時々間違えられた祈りが
行われるのです。或る人は自分の良人が死んだときのことを想像しますと、迚(とて)も
たまらないものですから、「神よ、私の良人を死なせないで下さい」と一心に祈りました。
やがて其の良人は死にました。

 祈りはきかれなかったようです。併しこれは祈りがきかれたのです。
「祈り」と云うことは「心の内に常に深く念ずる」ことなのです。
「良人が死にませぬように」と一心に念じた人の心のなかには「良人の死」が深く念じられていたので、
「良人の死」が実現したのです。

 これと同じように「この病気を癒したまえ」と祈りながら癒えないことが随分あるのは、その祈りによって
「既に癒えたり」の観念が得られないで、却って「吾は重き病なり」と念ずることになっているからです。


 『真理』第9巻 生活篇 谷口雅春 先生著 P324

1519神の子さん:2012/10/29(月) 13:16:31 ID:AWG1OEtw
>>1515
トキ様 ありがとうございます。
今総裁のブログを見たら直っていました(^J^)

1520うのはな:2012/10/29(月) 13:58:55 ID:HwTu0TYs

だいたい前篇に書いたような、時間を定めた放尿の習慣をつけますと、条件反射によって寝床の中では
どうしても放尿しにくくなるものなのです。絶対安静を命ぜられている重病の人のくせにどうしても寝床では
小用を達することができないで便所に行くのなども習慣による条件反射です。

 ところが、だらしなくおむつを濡らしてほうっておく習慣をつけますと、最初は濡れた股ぐらを気持ち悪がった赤ん坊が、
習慣によって股ぐらを温かい液体でぬらすことに快感に思うようになり、放尿は寝床でやるのが一番気持ちがよいと感ずるようになります。
こうなればなかなか寝小便の癖はやまなくなります。寝小便を叱って直そうとするのは、悲しませて涙を止めようとするのと同じで、逆効果しかありません。

 寝小便は親夫婦の精神的葛藤から来る悲しみの感情的泪が、子供に具象化して排泄されていることもありますから、親夫婦が仲良く愉快な人生を送っていないで
絶えず夫婦げんかをして悲しんでいるようなことでは治らない場合が多いのです。抑圧されたる感情はそのままでは生命の障礙物でありますから、それで生命の自浄作用は
常に排泄して生命の健全さを保とうとしているのです。

 その排泄の方法が表現であります。感情は常に言葉や行為となって表現され排泄されつつありますが、その全部が完全に表現されきるものではない。
その表現されないで内部に溜まっている見えざる感情の残渣が、自分の病気や、子供の病気または悪癖と表現され具象化して消えるのです。

 『新しい結婚』 谷口雅春 先生著

1521うのはな:2012/10/29(月) 14:19:05 ID:t6MuUMSM

    実相十全の恵みを見よ 『生命の實相』第6巻 P113〜

「実相」において本当に与えられている神の恵みーー「実相」において本当はすでに受けているわがあらゆる善き物ー
を認めえないで、現象界にあらわれた個々の出来事に感謝しているのでは、蟻を探し出して、象を見のがしているのと同じであります。
それは神様から見れば見当違いの感謝であります。

 神様は「お前にはもっとよいものが与えてあるのに、それには感謝しないで、人間はつまらないことに感謝するものだな」とおっしゃいましょう。
また実際それほどありがたいとも感じないのに、神様は讃美や感謝の言葉でおだて上げれば、いっそうよき恵みを与え給うであろうと思って、讃美歌を
歌ったり、感謝の祈りを捧げている人もあるようですが、何もかも知っていられる神様の目から見たら、人間の心情が見え透いて、
「偽善もいい加減にせよ」とおっしゃるでありましょう。

 そうしますと、われわれは真に神から歓ばれる感謝を捧げるには、どうしても神がすでにわれわれに与え給うている十全の実相を明らかに見て、それに対して
ありがたさを感じなければならないのであります。そうでない感謝は見当違いの感謝になるか、偽善者の感謝になるのであります。
 すでに与えられている「実相」の十全の善さを知ることができない場合に、われらはただ「神想観」をつとめ修して、実相の十全の善さを観ずるようにつとめることが
必要なのであります。

  谷口雅春 先生著

1522うのはな:2012/10/29(月) 15:36:45 ID:3jb./WYM

    神の生命が咲いている

 谷口雅春先生は、『新日本の心』で、ある婦人が、水仙の花を見て、それが神の生命が咲いていると
感じた体験談を紹介して次のように言っておられる。
< 先日、白鳩の集まりの席で或る奥さんが、これは体験談じゃありませんけれども、と被仰って話し出されましたが、
それは実に素晴らしい体験談だと私は思うのであります。体験談と云いますと病気が治ったことだと思っていられる方もあるかもしれませんけれども、
病気が治るだけが体験談じゃないのでありまして、もっと深い体験談があってもいい訳であります。>(一0八頁、原文は正漢字・旧かな遣い)

 たしかに、この『聖使命』紙に載っている体験談はそういった“深い”体験談である。それは“聖なる自己の発見”といっていいと思う。
“聖なる”という形容詞のもつその内実は、この体験によってはじめて体験者にはわかったはずである。ということは、それを理解する私たちにも、
同じような体験がなければ感情移入をすることが出来ないことになる。

 宗教体験を理解するということのむずかしさは、同じような深みや高みを既に体験している人でなければ本来わからない世界があるということである。
しかし、そうした至難のことを、谷口雅春先生は文章の力によって『生命の實相』に流露された。
そのご文章に吸い込まれているうちに、心が浄化され回心が起る。今回の末松さんの体験も『生命の實相』を読んでいて突然訪れた体験である。

 これらの体験は、見る者と見られるものとの対立が見せかけのものであり、心の目を開くと、自他一体のかがやかしい世界が今此処にあるのだということを教える。
見るものは、すべていのちに、輝いている。そしてその輝きを見ている自分自身も光かがやいているのであった。
こうした体験は、深い心境の産物であると同時に、私たちの住んでいる世界の、より深い層が顕われたということであり、あるいはそうした層が認識されたということである。
それはこの世界が「相即相入」であることの認識でもある。

『光の国から』 渋谷晴雄 先生著 P221-222

1523うのはな:2012/10/29(月) 16:44:20 ID:a.OcI.Rc
 
  貧しい青年が豊かに.......

ある日、一人の青年がブラックソンさんの個人指導を受けにやってきた。
「私はゆたかになりたいんですが、どうしたらいいでしょう」
ブラックソンさんは言った。「財布を出してみせなさい」
 お金は五ドルしかなかった。ブラックソンさんは言った。
「このお金を全部愛行に使いなさい。そこにコカ・コーラの自動販売機がある。コカ・コーラは
一ドルだから、五本取ることができる。それを全部、のどがかわいている人に差し上げなさい」

 青年は言葉に従った。自動販売機から、五本のコカ・コーラを取り、その販売機のそばにあるホテルに入っていった。
そしてロビーで憩んでいる人にコカ・コーラをただであげたのである。
 五人目の人は白人の老人だった。彼はこう言った。
「コカ・コーラか、ありがとう。コカ・コーラは世界中どこにでもあるんだな。私はこれが好きでね」
こう言いながら、ふと彼はその青年の顔を見て、「君は大変深切な人だな。ところで君はいま働いているのかね」
青年は答えた。「いいえ、私は失業中です」すると、その老人は、
「そうか、もしよかったら私の会社で働いてくれないか。私の会社は、ホラ、あそこのビルの十二階だ。来週の月曜から
来てくれないか。それにしてもきみの服はきたないね」

 こう言いながら老人はズボンのポケットから百ドル紙幣を三枚出して、
「これで背広を買って着て来なさい」こうして、この貧しい青年は職を得たのである。
ブラックソンさんは、この講話を次のように締めくくった。

「この青年は、のちに私が生長の家の中学校を建てるとき、一人で土地をすべてただで寄附してくれました。
それほどゆたかになったのです」

 この話は、コカ・コーラを他人に与えれば金持ちになれる、という話ではない。ブラックソンさんはその青年のために祈っていた、
その祈りが叶えられたのである。ここには「与えれば与えられる」という法則が働いている。
それは日本でも、アフリカでも、アメリカでも当てはまるのである。

『光の国から』 渋谷晴雄 先生著

1524SAKURA:2012/10/29(月) 20:20:23 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

一昨日にちなみまして「亡き清超先生…」の“言葉”から抜粋させて頂きます。

❤〜【 「心に強く描く」ことは、全てが「祈り」である 】

『……祈りは叶えられる。それは「心」によってこの現象界がつくられて行くものでありますから、
「心」さえしっかりと求めるものを描いて放さなかったならば、やがてそれがある時間の経過の
後に実現して来るようになっているからであります。
「心に強く描く」ことが実は【祈り…】なのであります。……』
                     
 ( 谷口清超先生『「愛」は勝利する』より )

■【10月28日…亡き谷口清澄先生…4周回忌】でしたかと〜〜〜
一昨日は、恒例の如く【原宿本部での…行事】が〜〜〜開催でしたかと、思います。…が?

TYO在住でしたら、原宿本部にての“行事”開催には、参加しておりましたでしょうが?
私は、今回【山口…講演会】に昨日は?まいりました。…が?(別の形にての追悼と…)
その中で「貴康先生」が【亡き清澄先生…荒地家】に事を、少しお話されました事が、
印象的でしたかと?思います。

                                 再合掌

1525長州っぽ:2012/10/29(月) 20:57:35 ID:???
SAKURAさん・・・清超先生の名前・・・変換ミスが残念。

それとSAKURAさん・・・擁護派のアナタが山口の講演会に行ったなんて書いて
大丈夫ですかあーー  僕達は行ったらどうなるか判らないぞと脅されていけませんでしたー。

でもね、今日の午前中に萩の荒地家のお墓参りに行ったら・・・

なんと・・・貴康先生が一人で聖経をあげておられた姿を見てビックリ!
やっぱり昨日は参加させてもらえばよかったと後悔しました。
昨日の講演会の様子、もっと教えてください「ワカリヤスク」お願いします。

1526SAKURA:2012/10/29(月) 22:33:45 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1469>>1470>>1479>>1487>>
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自発的に物事を考える ) 
―――――  ►► 自発的に物事を考える ◄◄ ―――――


|❤おっしゃることが」、だんだんわかってきたように思えます。しかし、
|まだ十分でないような気があるのです。さらにどんなことをしたらよい
|のでしょうか。

 自分自身に話しかけること学ばなければなりません。これは非常に大切
なことです。
 自分自身に説明し、自分自身を安心させる必要があります。あなたは自分
との対話を確立する必要があります。そうしておけば、どんなつらい境遇に
追い込まれても、あなたはきっと役立つはずです。
 あなたのこころにある子どもの部分がいたずらをしそうになったら、それ
をやめさせ、まずそれについて話し合うことができるはずです。その子ども
に「いけませんよ」と叱ることもできます。他の方法で行なえる場合もある
でしょう。注意さえしていれば、その機会に自分がほんとうはなにを望んで
いるかをつかむことができます。あなたには自分を制するだけの力がありま
す。このことは知っておいてよいことです。はじめはむずかしいかもしれま
せんが、だんだんやさしくなるものです。


PS:トキ様 へ
私の“こころ”を【マインド・コントロ−ル】しますには……><
やはり!見つめ直す事…でしょうか??それは「良本を読む事」から“始まる”のでしょうか?
そして【心のイメ−ジ・トレ―ニング】を、どこまで…限りになく追究できる“心…”?
人は?それがなかなか出来ない!と言います。……が?
「生長の家」では“自分の深層”を見つめなおしますと…【内なる声…】
自ずから〜〜〜此処に『宇宙〜〜の彼方』が“イマ−ジネ−ション”として現われてきます
かと〜〜〜
やはり【心のレンズ】をあわせて、まず【心の映画館】に入っていく事なのでしょうか??
これなら簡単に、私の“心…”がみえてくるようにも思えます。
なんといっても最後には【精神統一…】に、なりますでしょうかしら〜〜〜ン」??
これは【仏教…】では?出来ない世界カモ??この事は…
実は本日「大住職様」と…討論中です。…が??
「生長の家…」の人なら〜〜〜本当の“信仰者=信者”ならば必ず!出来る事かも?
しれませんです〜〜〜ョネ! 私の表…【表面=側面の世界】でしょうか??
唯今!私は【 “心”の開拓 】で〜〜〜す。

「トキ様」は、処で、この事は、如何思われます〜〜〜か???
                               再合掌

1527SAKURA:2012/10/29(月) 23:13:53 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
長州っぽ 様 ヘ

こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
「長州っぽ様」 始めまして…【SAKURA】と申します。…が?

>>1525の投稿から〜〜「貴康先生」が、【お墓参り…】なさっていたのです〜〜ネ!
この“情報”ありがとうございます…。
そして「亡き清超先生」のご冥福を心よりお祈り申し上げます…。

■【生長の家…永遠なり〜〜】  そうなのです〜〜〜ョネ!  【真理は一つ…】
私は…今回、大変失礼ながら?【分派…「学ぶ会」「靖国見真会」「ときみつる会」の皆様方々…】
此処の皆様方の“投稿…”内容から?判断しまして…? 「生長の家…の方」…?とか…
人はそれぞれ“捉え方?”・“思考力?”の相違にて、随分第3者からの“イメ−ジ”…
如何なものか?随分悩んでいました。…が?

■今回【貴康先生・前原先生】両先生の講話内容を、拝聴出来ます機会を得ました事に…【感謝】

「皆様…」が、御心配いただきましたが??“パ−トナ−”の筆談によりまして?無事に
…両先生の講話…投稿させて頂きます。(メモっていま〜〜〜す。)
「お言葉…」ありがとうございました。(もうしばらく “お時間”を〜〜〜)

          再合掌

1528a hope:2012/10/30(火) 08:00:52 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第五章 腹立つ思いを捨てましょう
♦民主主義の人間になれ


怒ったり恐れたりする人は、「怒り」や「恐れ」の奴隷です。奴隷には自由はないのです。
怒りや恐れに支配されない人こそ真に、自分が自分の主人公であるところの民主主義の人間であります。

若し人間が怒らなければ戦争は始まらなかったでありましょう。
戦争は他が自分を侵すかも知れぬという恐怖と、相手を憎む怒りとによって起こったのです。

恐怖と怒りのない所には戦争はありません。
だから戦争を起こらぬようにする為には、人間全部が、自分で自分の主人公になり、
恐怖や憤怒の奴隷とならぬ様にならねばなりません。

この自分が自分の主人公となることが民主主義と云うのであります。
そこで戦争の起こるのを防ぐ為には民主主義の教育が必要だと云うのです。

将来の戦争をなくす為に日本を民主化せねばならぬと云うのも、
こう考えてくれば、その理由がハッキリ解るでしょう。
(第五章終り)

>>1312 ♦民主主義とは何か

1529SAKURA:2012/10/30(火) 20:15:55 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1469>>1470>>1479>>1487>>1526
>>に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自発的に物事を考える ) 
―――――  ►► 自発的に物事を考える ◄◄ ―――――

|❤人間の自由というものは、そのちょっとした判断の瞬間にひそんでい
|るようですね。なんと短い限られた時間なのでしょう。

 いずれにしても、あなたはかならずしもその時間をうまく利用していると
はいえません。あなたのこころのなかにある子どもの部分がいたずらをした
とき、自分自身を罰してはいけないのです。にもかかわらず、あなたはよく
そうしてきたでしょう。あなたのこころのなかの子どもを許しておやりなさ
い。あなたが恐ろしいと思っていることでも、その多くは、はじめはそれほ
ど悪くなかったのです。

 わたしたちはこれまで自分の意にさからって、さまざまなことをしてきま
したが、結果は自分こそ、子どものころに想像していた恐ろしいおとなにな
っているのです。わたしたちには両親にたいする深い愛情もあれば、自分を
なぜもっと成長させてくれなかったのかという怒りもあります。また、弟が
生まれて自分の立場がないがしろにされたときの自信の喪失もあります。こ
うしたことが重なって一種の罪意識がわたしたちのこころのなかに生まれ、
それに悩まされつづけているのです。わたしたちは罪を憎んで人を憎まず、
というように教えられましたが、この意味がよくわかっていないのです。自
分のこころのなかにいる人を憎み、その罪にこだわっています。この過失
をあまり過大視してはいけません。ただ、なぜそういうことが起こったのか
をよく理解し、自分を正しい軌道にもどすように努めることです。

 あなたが、子どもにしてやる親切で思いやりのある行為や、愛情ある手助
けこそ、自分自身にしてやることができるはずです。もしあなたが子どもの
ことをよく知っていれば、いつ子どもに注意したらよいか、いつやさしくし
てやったらよいか、いつなら子どもをほっておいてもよいか、ということが
勘でわかるはずです。あなたのこころのなかにある子どものことをよく知る
ようになれば、自分自身にたいしてそれと同じようなことができるはずです。
自分自身とうまくやっていかなければなりません。自分のこころのなかの子
どもを抱きしめてやりなさい。つまり、自分自身と友だちになりなさい。そ
のことがあなたに必要な力を与えてくれるのです。

                       (つづく)

1530SAKURA:2012/10/30(火) 20:18:20 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1529自発的に物事を考える】シリーズ投稿の続きです…。

 わたしはかって悲しみにうち沈んでいる人を診たことがあります。その人
はもっとも親しい友だちを亡くして、淋しさに打ちひしがれていたのです。
わたしはその人とお話してその悲しみの深さを感じ取ることができました。
最後にわたしは彼にいいました。「あなたはあなたのベスト・フレンドを失
ってしまったように見えます」。するとその人は「そのとおりです」と答え
ました。

 わたしは「あなたは、あなたのベスト・フレンドとは誰なのか知らない
のではないでしょうか」といいましたら、その人はわたしをはっとして見つ
めました。しばらくの間、考えていましたが、やがて目に涙があふれてきま
した。そして、いいました。「『あなたこそあなた自身のベスト・フレンドです』
と先生が以前いわれましたが、ほんとうにそうなのですね」。

    「自発的に物事を考える」は終わりました次回【 ベスト・フレンド 】に入ります。

PS:トキ様 へ
【私の中の私…】・・・改めて、考えさせられます。
昨日は【亡き父の17回忌…“お寺の住職様”と話しを〜〜『四無量心・・・』に関しまして、
この“言葉”には、私自身…多少?反発心がありました。“パ−トナ−”は【お気に入り?】なのです。
…が? 此処で、調べていきます内に❤〜【 慈悲・慈愛精神 】なのです〜〜〜ョネ!
それでも“私の心”は、何処かに〜〜〜??同じ“感情”がある自分自身に気づいていますかと?
何故ならば「相手の喜ぶ事が、自分の喜びにと言う感じ」です〜〜〜ョネ!
そうしますと、その人の【レベルの関係で…人生が決まるの??でしょうか】ならば…
例えば“勉学”しましても“心の中”では、【親がバカ!なら自分もバカになるのは、当たり前?】
それは“環境…”からきますから、もう“惰性的”に繋がりやすくなりますのではないのでしょうか?

■此処が何故そのような“環境”になるのかを見つめ直す時に、やはり“自分の心”を、
深く深層部分まで入っていく事が、次のステップの踏み台?なんです〜〜〜ョネ???

今回!私も聴力が悪い事を物事に対処します時“前面”に出しての考え・悩みますのですが??
そうしますと、その時点で“前に進む”のが停滞気味でしょうか?
此処を、もう一度!【私の中の私…】に〜〜〜問いかけていきたいと…今!久しぶりに思います。
この様に「大住職様は〜〜〜無理な事は“無理”と…」と言って【仏教…は断定】します。…が?

【西洋論では“慈愛精神”を更に超えていきまして…おしみなく“愛”になるようです。……が?】
この本を……『 ベスト・フレンド 』ですが?
「19歳の時…まだ!私は【夢と希望…】があり、今から未来へ“羽ばたく年齢”でした。…が?
そうです。聴力も失う事無く…良かったのですから〜〜〜物事への対処の仕方は、現実問題として、
変わっていたと思います〜〜〜ョネ!〜〜あの頃“此処のポイント”を理解が足りない“私”でした
が〜〜〜><
「トキ様」も、自分自身の【 ベスト・フレンド 】は、どうですか〜〜〜???

                                   再合掌

1531ハマナス:2012/10/30(火) 23:41:56 ID:0pK2MwMg
神の子のみなさま
こんばんは。

病気を消すための思念 (『新版 生活の智慧365章』P.274)

 「一切の悪は、神の創造でないから存在しない」――段々乎として強く心に愬(うった)えよ。
心の眼を悪しき状態より一転して、完全なる実相に転ぜよ。如何なる悪も仮想(みせかけ)で
あって存在しない。それは夢であり、妄想であり、醒めたならば消えてしまう心が、醒めない間
だけ見ている夢だと信ぜよ。「悪はないのだ。罪もないのだ。病気もないのだ。無いものは唯
ないのだ。それは妄想の産物であり、ただ想像が描いている影に過ぎない」自分の心に対(むか)
って斯くの如く繰返し宣言せよ。そうして、想像によって描いた恐怖心が消えてしまうとき、
潰瘍や炎症や腫瘍は消滅しはじめるのです。

 自壊作用を見て、病気の悪化だと考えてはなりません。症状は現象である。現象は変化するの
です。今の状態は次の状態ではないのです。ビールが沸騰するのは隠れているガスが消散する
ためです。症状の増悪と見えるのは病児の消散するためです。

感謝合掌

1532a hope:2012/10/31(水) 06:18:54 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第六章 希望の夢を描きましょう
♦心に夢をえがけ


心に夢をえがくということは何でも大きなことを成し就(と)げるのに大切な事であります。
夢をえがくと言うのは、決して出鱈目なことを考えるのではなく、
「必ず出来る」と未来に起こる善いことを心に思い浮かべることであります。

コロンブスは、これから西へ西へと進んで行けば大陸があると、
まだ肉眼に見えない世界を心にえがいて突進して行きましたから、
とうとう其の心にえがいたアメリカ大陸を発見したのです。

まだ見えないが、心の眼でじっと未来におこって来る善き世界を、
善き状態を、一層よき自分を、心に描くことを「夢を描く」と云うのです。
深く心にえがくことは祈りであります。それが正しい祈りである場合には必ず成就するのであります。
正しい祈りと云うのは、その祈ることが、他を害しないで、自分の本性(うまれつき)にかなうものを心に描くことであります。
その祈りがかなえられたら、誰かに損害になるというようなものを心に描いても、祈っても成就するものではありません。

未来に起こることを心に描くと云うことは結局、すべての心の力をそれに集めるということになります。
しかも自分の心は、宇宙の心の一部分でありますから、自分の心を、或る一つのことに集めますと、
宇宙の心が動きだして、自分が心にえがいたことを成しとげられるように、天地間のすべての力が、
その一点に集められるようになってくるのであります。そうして、ついにそれが本当に成るようになるのです。

しかし、心に強く夢をえがいても、他を害して自分がよくなろうとするようなことを心にえがいてはなりませぬ。
人を押したおして自分が出世するような考えを心にえがいても、その人の心が強く、押しが強い場合にはしばらくそれが成就するのであります。
しかし、そうして出世しても、無理をして出来た出世は、金が出来、地位が出来ても、その金のために悩まされたり、
地位のために色々の人が出入りして、会いたくない人に会わせられたり、家族が病気になったり、色々面倒がおこって来たりするのであります。
(つづく)

1533ハマナス:2012/10/31(水) 13:19:27 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんにちは。

あなたは物質身ではない  (『新版 生活の智慧365章』P.275)

 神は、「霊」であり、普遍的存在であり、神は全ての全てであるとしたならば、存在する
のは悉く「霊」であって、たとい「物質」と見えていようと「物質」なるものは何処にも
存在しないと言わなければなりません。ではあなたの「肉体」は物質ではないのです。
「霊身」なのです。これが真理なのです。これが実相なのです。非真理が如何に自己を
主張して「物質」の如く見えしめようとも、非真理とは結局「ウソ」と云うことです。

 実相が「霊身」であるかぎり、如何に、あなたの体が「肉体」と見え、「物質」と見え
ましょうとも、それは「仮相」に過ぎないのです。それは仮装された相(すがた)であって
本当ではないのです。本当でないものはニセモノであり、ニセモノは「ウソ」であるのです。
見せかけの「物質身」と云う仮装を脱いでしまえば、あなたは金剛不壊の霊身である事実が
現れるのです。

感謝合掌

1534SAKURA:2012/10/31(水) 20:58:56 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1469>>1470>>1479>>1487>>1526
>>1529>>1530>>に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( ベストフレンド ) 
―――――  ►► ベストフレンド ◄◄ ―――――
|❤もしあなたのいわれたことをすべて実行し、理解すれば、実際に人生
|を変えることができるでしょうか。

 もし自分が愛し、自分を養育することが体得できれば、人生は想像したよりも豊かなもの
だということを発見するでしょう。もっとも、わたしたちは相変わらず現実の問題にかこま
れ、現実の敗北に悩みを抱いていきます。人生はピクニックやバラの花園のような楽しいも
のではありません。世のなかはただわたしたちの利益のために動いているのではありません。
苦痛、困難、失意といった人間の宿命から逃れるすべはないのです。

 しかし、生きていくうえでの困難に耐えるためには、お互いにどんなことでもできるし、
人生が与えてくれるものを、最大限に活用できるのです。自分を妄想から解放し、自分自身
の真のよりどころがどこにあるかをしるとき、全世界がわたしたちの眼前に開けてくるのです。

 人はよく、自分自身をあきらめてしまったかのように、あるいは自分はもう精魂つきはて、
最善をつくし、自分のもっているものを全部使いはたしたかのように思いたがるものです。
しかしながら、自分の可能性を自分のために利用しはじめるときには、未開拓のエネルギ−
意識を目ざして試掘するような感じがするものですし、まだ手をつけていない銀行貯金を見
つけたような感じにもなるのです。それは、もっとも気楽で安上がりな楽しみともいえます。
あなたはけっして疲れはてることはないし、人生にあきることもありません。

 あるいはまた、それは養老保険のようなものともいえます。かって美術評論家のパ−ナ−
ド・べレンス・氏が九〇歳にもなろうとしたころ、「わたしなら喜んで街角に立ち、帽子を手
にしながら通行人に向かって、あなたの使わない時間を帽子のなかに入れてくださいと頼む
でしょう」といったそうです。べレンスン氏はほんの一瞬の時間でもそれをフルに活用する能
力を、けっして失っていなかったのです。「彼の場合は例外だったんですよ」といわれるかもし
れません。しかし、それはわたしたちすべての人ができることなのです。
                           (つづく)
PS:トキ様 へ
❤〜【人生は、苦しい中から…生み出す…】此処の【宝石?】は〜〜〜
その人の【個性の試金石??】でしょうかしら〜〜〜ン??
これは私の【無限力を意識】すれば〜〜〜まるで【アラジンのランプ…】のように、
【照らし続ける“こころ”…宝石】なのです〜〜〜ョネ!
私は私自身の【試金石…】!!今から来る憂しい時こそ【意志=意識に集中!】でしょうか?
このような時こそ、今の【生長の家…お家騒動】もいい意味で言いますと、
必ず!必ず!よくなります前触れの様に見えますかと……
「トキ様」は、この件に関しまして、如何思われますでしょうか??

1535ハマナス:2012/11/01(木) 12:19:44 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんにちは。今日から、新しい月、11月に入ります。早いもので今年も、残すところ、
2ヵ月になりました。時間がとても早く過ぎていきます。


月の実相は常に円満完全である (『新版 生活の智慧365章』P.276)

 人間は神の最高の自己実現として、神の無限内容の「理念」を内に包蔵し、その無限の
「理想」を永遠に一層広く、一層高く表現するのが人間の生活なのである。人間の意識の
最も深層には「神の心」があって、神の有(も)ち給えるすべての「善き物」が其処に横
たわっており、私たちが瞑想によって、それを発掘しさえすれば、そのすべての「善き物」
が形の世界にあらわれて来るのです。即ち、健康、繁栄、幸福等・・・です。

所謂る「五官」の感覚は、外界の事物だけをするための作用ですから、此の内在無限の宝に
ついては無感覚です。「霊的実在」であり、「神の子」である実相については、五官の感覚は
知ることが出来ないのです。五官の感覚は、三日月を見て、月が虧(か)けたと思い、三日月
に見えるときにも、月の実相は円満完全であると云うことを見ることが出来ないのです。

感謝合掌

1536トキ:2012/11/01(木) 14:03:50 ID:pkKjz4yE
>>1535

ハマナス様、すばらしい御文章をご紹介下さりありがとうございました。

 あと2ヶ月ですが、大晦日まで、笑顔で過ごしたいと思います。

1537トキ:2012/11/01(木) 14:07:07 ID:pkKjz4yE
>>1532

 確かに、人の道から外れた方法で出世をしても、後で寂しい人生を送る人は
多いです。その事にはやく気がつく事が大事ですね。

1538a hope:2012/11/02(金) 07:21:42 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第六章 希望の夢を描きましょう
♦サービスが成功の基(もとい)


すべて、金とか、権力とか、名声(なまえがでる)とか、贅沢とか、
利己的(じぶんのみによい)なことを心に描いて成就(なしとげる)した場合には、
多少とも自分を悩ますものがつきそうて来るのであります。真に悩みのない生活を送るには、
そんな利己的なものを心にえがかず、人につくすこと、世につくすこと、どうしたら人のために、
また世のためになるかということを考えてサービスをつとめて行くようにすれば、
金も名誉も地位も自然に得られてくるのであります。

金や名前や地位などは目的にすべきものではなく、
世のため、人のためにつくした誠が自然にあらわれた結果でなければならぬのです。
(つづく)

1539SAKURA:2012/11/02(金) 18:55:29 ID:jH5uEFzM
トキ様へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

久しぶりに「雅春先生…」の書物であります処の…
■■「生命の実相」  第37巻から“抜粋投稿”です。

「人間の親切にも物施と法施とがある。物を与えることも時には必要であるが、あまり物
のみを与えすぎるとかえって依頼心を起させ、貰うことが権利のような感恩の無い状態
にまで相手の心を荒ませることがある。」

 物を与えるならば、心もちを添えて贈らなければならぬ。紙に包み、水引を掛けるのは
心持ちを添える方法の一つである。人間は心もちによって生かされているのである。機械的
な「与え」の前には感恩の心は起こるものではない。与える側からいうならば、物を贈るの
に相手に感恩の心を起こさせようと思ってするのは不純ではあるが、相手の心を依頼心に
満ちたり、忘恩的な荒んだ心にまでならなせないためには機械的な与え方をしてはならない。

 勤務時間以上に働きをサ−ビスする社員に、上役が感謝して夜食をおごったりしてくれ
る場合には、いかにも上役の好意が身に沁みて感謝されるが、規則によって夜勤手当とい
うものを定めて、一定時間の夜勤をする者には一定の夜勤料を支払うことに機械的に定め
てしまうならば、もう誰も夜勤料をありがたく思わなくなるものである。それどころか、
時としては夜勤料が少ないといって零すようにさえなりがちである。与える悦びがなくな
って、奪い足りないという不平に代わるのである。生活に困っている失業者に仕事を紹
介してやったら、その当座は命を救けてもらったように感謝するが、毎月月給を貰うと
いうことが器械的に度重なってくるならば、もうぼつぼつ月給の不足を零しがちである。

感恩の心は機械的になるとしだいに薄れてくるのである。子供の愛情に養われる老人は幸
福であるが、社会保障度で養老院に養われる老人には前者ほどの喜びはない。われわれ
は毎日空気を吸っているが、機械的に空気を供給されているがゆえにありがた味を感じ
ない。われわれは太陽がなくては生きられない人間でありながら、太陽は機械的に毎朝地
平線から顔を出すから太陽のありがた味をさほど感じない。

 しかし、これでよいだろうか。目ざめて立て! わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生
きているのである。

「 ありがたさは物の分量にあるのではなくて、心の【“目ざめ”】にある。【心の目ざめて】
いる人を悟っていると言う。一かど悟っていると自負している人が常に不平を唱えているの
は何を悟っているのか、訊いてみたい。」
                      (谷口雅春著)

1540SAKURA:2012/11/02(金) 19:33:39 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1469>>1470>>1479>>1487>>1526
>>1529>>1530>>1534>>に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( ベストフレンド ) 最終回
―――――  ►► ベストフレンド ◄◄ ―――――

|❤それこそ生きるための技術のようですね。わたしたちはすべて、その
|ように生きることを学べるのだと信じたいものです。

 つぃかにそれができるのです。わたしは実際にやった人々をたくさん知っ
ており、現実にそうした人々はよみがえりました。誰でも自分を変化させ、
成長させ、本来の自分を完成させるために自分に力をかしてやることができ
るのです。わたしたちはみずからのベスト・フレンドになることを学ぶこと
ができます。そうすれば生涯の友をもつことになります。一人ぼっちのとき
でも、自分自身をはげまし、慰め、栄養を与えることができます。わたした
ち自身が、激励とすばらしい助言を生み出す最良の源なのです。わたしたち
には誰かが親切な言葉を与えてくれるのを待つ習慣がついてしまっているの
ですが、わたしたちは、ほんとうはそういうやさしい言葉を多くもっていて、
自分自身のために役立たせることができるのです。
         ――――――― * ――――――――
|❤いろいろと生きるための技術を学びとり、多くの賢明なご意見を聞く
|ことができましたが、これから永くこころに銘じておきたいと思います。

 もちろん、あなたは忘れることはないでしょう。これらのことはあなたが
とうの昔からずっと知っていたはずですよ。

PS:トキ様 へ
【今日で最終回…】になりました。…が?私は今更ながらですが、これを“20代の頃”と
同じように、前以上に精神面が強くなったようです。…が?
私は、内なる心に問いかけます…。
【私 の 心 は そ れ は ベ ス ト フ レ ン ド…祈 り】です〜〜〜ネ!!
最後となりましたが…「生長の家…御教え」では?いかようかと??お考えでしょうか?

PPS:【20代の頃…】フォ−クに熱中していました時……
「アリスの谷村俊二…」さんから紹介して頂いたのです。…が?当時の私の“理解力”…ウフフ
要約〜〜〜今!“理解しつつ〜〜〜”でしょうか??やはり…【良書との出会い】は大切
ですが…【理解力…」これが最終的には〜???         再合掌

1541うのはな:2012/11/02(金) 21:22:06 ID:3jb./WYM
  見る立場によってちがう

善福 こういう時にハッキリさせなければならないと思いまして、おたずねの形で私の
考えを申し上げたいと思います。“生命の実相”というのは、生命の本当のすがたと考えております。
私、誌友会で「霊こそ尊し、善のみの世界」というテーマでよくお話いたします。
生命といいますと魂のことであり、『甘露の法雨』では“心”ということで出て来たり、『天使の言葉』では
“念”という語で出て来ます。これは内在の神、内在の神性、内在の仏性だと思います。
個生命は大生命とつながりがあって、大生命のうちに個生命がある。
“神の世界”のうちに“私の肉体”があり、その“肉体”のうちに私の“魂”がある。

 それはちょうど、ラジオの電波の中にラジオの“機械”があり、“機械”の中にも“電波”があるのと
似たようなことだと言っています。“実相”というのは“本当の相”。”本当の魂の相”はみな“神の子”でありますけれれども、
これがいろんな意識によって覆われて(包まれて)いる。たとえばよごれており。かすみがかかり、波があり、雲にかくれている。
それらをみんなとりのぞいてしまえば、それこそ即身成仏、いま仏の心、神の心になる、というふうに解釈しておりますんです。
いかがでございましょうか。

谷口 それは、現象の方からのぞいてみたら、そういうふうに解釈できるというだけだ。

林 表現が悪いかもしれませんが、そうなると二元論の残渣が少しあるような気がするんですね。

谷口 現象からのぞいての説明になってるわけだからね。

『實相研鑽』第一集 谷口雅春 先生監修 P183-184

1542うのはな:2012/11/02(金) 21:47:06 ID:a.OcI.Rc
    富は“信”を中心に集り来る

 富は常に信念なくして動揺する者には来らない。たとい富が一時来ることがあっても磯に来る波の
ように常に動揺して去ってしまうものである。先ず自己の信ずること、そして他を信ずること、そして自己の
たずさわる事業に対して将来の一層繁栄を信ずることである。

 そして“わが為すは神が為さしめ給うのであるから、窮極に於いて必ず自分の計画する事業は栄えるより仕方がない”
ことを信ずることである。自己にこの信念がなければ、他の人々からその人は信頼をかち得ることができず、多くの人々から
真に協力を得ることができないで結局その事業は大きく成功することは不可能となるのである。

 また自分自身を信頼せず、自分自身に劣等感を持つ者は、自分の持っている能力の半分も完全に発揮することができないのである。

 『新版 真理』第9巻 生活篇  谷口雅春 先生著 P158

1543トキ:2012/11/02(金) 21:53:44 ID:R6Vk4plg
>>1542

 良い文章ですね。

1544ハマナス:2012/11/02(金) 23:03:12 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
ありがとうございます。

あなたは常に健康である  (『新版 生活の智慧365章』P.277)

 瞑想又は神想観によって霊的直観力を発達させることによって、あなたは人間の神聖性を

知ることが出来るようになります。人間は肉体によって互いに孤立している存在でもなく、
肉体が死ねば、個人の霊は宇宙の大海に没し去って「何もなくなる」と云うような存在でも
ありません。個々人、ひとりひとりの霊が、神の各々異る理念の表現でありますから、それ
は普遍と一体でありながら、「個」として永遠に存続するのであります。個にして全、全に
して個、此の不可思議にして広大無辺な存在が人間なのです。

 先ず神の完全さとその無限の力とを信じなさい。その無限の力にて、その「完全」さを
最高度に表現すべくつくられたのが、「人間」なのです。一度神が「完全」につくった
ところの人間が不完全に変化すると云うことはあり得ないのです。だから貴方は完全であり
健康なのです。

感謝合掌

1545うのはな:2012/11/02(金) 23:42:32 ID:Z48Us0zE

 神さまの教えをひろめるには、“純粋な献身”が要求されるのでありまして、ただの「売れたら好い雑誌」
の出版とは異なるのであります。それがただ「栄える企業」としてはじめるのだったら、無論、その収入の中から
自分の生活費も、休養費も娯楽費も出してよいのでありますけれども、“純粋な献身”が要求されるところの宗教の伝道に
於いては、少しでも利慾的又は利己的動機が含まれておりますと、宗教というものは、その伝道者が神様からの放送を受信する
アンテナになり、それを発声するラジオ・セットのスピーカーにならねばならぬのでありますから、伝道者の精神態度が一寸でも
不純になると、完全に神さまからの教えの放送を受信できないおそれがあります。
そして神様からの純粋の放送が受信できないで、他の低い霊魂などからの放送を混信することになるならば、その宗教は生命なきもの
となり崩れ去るのであります。

『到彼岸の神示』149頁 谷口雅春 先生著

1546志恩:2012/11/03(土) 02:50:42 ID:.QY5jUA6
『生長の家五十年史』324頁〜325頁 
「天皇信仰」から・・・・」
 
 谷口雅春先生は昭和十五年の『生命の教育』九月号の巻頭言に
「天皇信仰」といふ生長の家の教義の根本である文章を発表された。

天皇への帰一の道すなはち忠なり。忠は、天皇より出でて天皇に帰るなり。
天皇は一なり。ハジメなり。一切のもの、天皇より流れ出て、天皇に帰るなり。

わが『忠』、わたくしの『忠』、我輩の『忠』などと言ひて、『我』を鼻に掛ける『忠』はニセモノなり。

私なきが『忠』なり。天皇は、天照大御神と一体なり。天照大御神は、天之御中主神と一体なり。

斯くして、天皇はすべての渾てにまします。忠』の本源は天之御中主神の『御中』の理念より発して
再び天之御中主神に復帰するなり。

天皇を仰ぎ、天皇に帰一し、私なきが『忠』なり。わが『忠』と誇るとき、もうそれは『忠』にあらず
『我』となるなり。全ての宗教は、天皇に帰一するための前提として存在の意義があるなり。

すべての宗教が、『我』を捨つるを説き、『無我』を説き、富を捨つるを説き、
『無所有』を説くは、『この世は何も無いものだから諦めよ』と云ふ意味に非ず。すべてのものは、天皇の一元より
発現することを教へたるなり。

すべての森羅万象、天皇の大御いのちの顕現ならざるはなきなり。
天皇を説かず、仰がず、『無』のみを説く宗教は準備時代の宗教に過ぎず。

 わたくしの『生命』を愛護すること勿れ。
『生命』が尊きは、天皇の大御いのちの流れであり、岐れであるが故に尊きなり。
寸時も、『天皇のみたまのふゆ』なることを忘るべからず。

『天皇のみたまのふゆ』なることを忘れるとき、人は悪逆無道の迷妄の徒となるなり。
 愈々日本も政治新体制の曙は近づけり。

一切の政党は解党せり。新たに党を結ばんがための解党にては意味を成さず、この事肝に銘ずべきなり。
挙国一党なりとも、党のある限りは、『無我』に非ざるなり。
大みごころあるのみなり。
大みごころへの無我随順あるのみなり。

若し新党を樹つるとも、新政体を建つるとも一点の『我』ありて、大みごころを晦ますとき、
天皇の御徳を遮して、自分の都合をはかる無道の徒となり了るなり。

 無道とは、道の無きことなり。
道は宇宙にミチてあれども、『我』のあるところには、道は遮られてあらはれぬなり。
大海原に海水は満ちたれども岩石の固まりたるところには海水は満ちをること
能はざるが如きなり。

『我』がなくなりて、はじめて『道』は生きるなり。私の『善』、私の『道』、
私の『宗教』などと言ふものあるべからざることなり。

 すべて宗教は、天皇より発するなり。大日如来も、釈迦牟尼仏も、イエスキリストも、天皇より発する也。
ただ一つの光源より七色の虹が発する如きなり。

各宗の本尊のみを礼拝して、天皇を礼拝せざるは、虹のみを礼拝して、太陽を知らざる徒なり。すべてのもの、
太陽にて生くるが如く、すべてのもの、天皇の大御いのちにて生くるなり。

 生長の家が、一宗一派を樹てざるは、宗派と言ひて党を樹て、閥に籠りて、相争ふことが『忠』に非ることを知る故なり。

特に『一宗一派に非ず』と言ふことを教義の『七つの光明宣言』に記入して、宗教であることを許されしは、文部当局の賢明なる処置なり。
文部当局が一宗一派にあらざる宗教をみとめたるなり。

宗教が正しくなりたるなり。すべての宗教は私のものにあらざるなり。すべてを、天皇に帰一し、天皇に奉還し奉る宗教なり。

1547志恩:2012/11/03(土) 02:55:37 ID:.QY5jUA6
 (つづき) 
宗はオホモトなり。天皇なり。すべての教も則も範も矩も規も法も、悉くスメラミコトより発するなり。

宗教は宗派と言ふものに立ち籠りて、宗祖と言ふ一人の国民に過ぎざる人間を尊崇するは邪道なり。
されば我は夙に喇叭に過ぎずと言ひたるなり。すべての宗祖は喇叭に過ぎざるなり。

宇宙の大教祖は、天皇にてあらせられるなり。ミチとノリとは悉く、スメラミコトより出づればなり。
 釈迦在世のとき、金波羅華を拈じて衆に示すに、迦葉のみ微笑す。

金波羅華は『空』の象徴に非ず、宇宙がコスモスであり、中心帰一である象徴なり。
日本国体の象徴也。迦葉のみ微笑す、とは悲しいかな。

他の大弟子皆解せざる也。今の仏教者はいかほど金波羅華の秘密を解せりや。
仏教を以て『空』を説くとなす者、百尺竿頭に坐する底の者なり。

百尺竿頭に達せざる者よりは優れり。されど『空』の百尺竿頭より進一歩して、中心帰一世界を見ざるものは、
外道の仏教にして、日本仏教にあらざるなり。

 東大寺の大仏は中心帰一の蓮華蔵世界を彫刻にあらはせるなり。中心座にましますは、光明遍照者(ヴェーローシャナ)にましまして、
それを守護し奉るために、千葉(せんよう)の蓮華その御足の下にありて、各々の蓮華に、悉く釈迦牟尼仏ゐまして、

光明遍照者(ヴェーローシャナ)の御徳を讚ふるなり。
ヴェーローシャナと言ふ梵語をば、大日如来などと、仏教が如来の如く訳したるは誤謬にはあらざれども、人をして外国の仏様の如く誤解せしめたるや久し。

 ヴェーローシャナとは、単に『光明遍照』の意なり。宇宙の中心座に在す『光明遍照』なり。

畏くも天照大御神にましますなり。
天皇は天照大御神と一身にましますが故に、釈迦は、天皇信仰を教へたるなり。

それを知らずして、迦葉のみ微笑す。善い哉。迦葉微笑せり。今は日本人悉くが微笑せざるべからざる時なり。
天皇信仰を知らざるべからざる時なり。

今はすべての宗教が天照大御神を礼拝すべき時なり。そのほかに宗教ある筈はなきなり。

1548神の子さん:2012/11/03(土) 09:57:58 ID:uEcp2dog
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65694013.html
訊けさんブログより。

『常楽への道』(吉田國太郎著)210頁より謹写――


 私達が本当の喜びを生きますには、今まで『自分』だと思っていたその『自分』へ点数を附けようとしたり、その自分を大切にしようとしたり、その自分をどこか安穏なところへ持って行こうとしたり、先程地震の揺れている話をしましたが、どこか揺れないところへ持って行こうとしたり、そう云うようなことを追いまわしていたりしましたなら、いつまで経っても吾々は幸福を戴けないのであります。恩師は『生命の實相』の中に、本当の人間と偽物の人間と云うものを別にお分けになって説いておられますが、今迄『自分』だと思っていた『自分』は『本当の自分』でなくて偽物の人間だったのであります。そして本当の人間と云うものは神の子なのだ、本当の生命はこの『神の子』で、神の生命に生かされていたのに、それに気が着かずに偽物を自分だと思って来たのです。そして理窟(りくつ)を云い、自己弁解し、こう云う訳で、ああ云う訳で、そう云う訳でと云ってこの『偽物の自分』と云うものを振廻そうとするが、それは実体のないものだ、それは非実在の人間だと云うことが説かれております。吾々は御教を戴きました時に、そうした今まで『自分』だと思っていたところの『偽者』を何とかしてどこか安穏なところへ持って行こうとしたり、それを握って箔をつけて何とか生きて行こうと云うような風にしていなかったかどうかと云うことを反省せしめられたのであります。そうやってはいない積もりであっても、よくよく反省して見ますと、一番私達の肚(はら)の奥、一番どん底のところに、やはりその『にせもの』が本物の様な顔をして生きていて、その『にせもの』の上に『生命の實相』の法話を載せたり、一寸(ちょっと)ばかり行ずると云うことを乗せたりしておったということに気がつくのであります。こんなことでは自分の本当の生命は生きて来ないと同時に、人も随(つ)いて来ない。私達が一番世の中を動かせる時は自分の生命を投げ出した時であります。自分の生命を投げ出したら一番働く。私なら私が許されている限りの一番大きなことが出来るのは私が生命を投げ出した時であります。だから私がよりよく生きたかったら、好い意味に於て世界を動かし人を動かしたかったら、即ち地上に生れて来た使命を完全に果たしたかったら、私が一番『自分』を投げ出すこと、『自分』が死ぬことであります。古来本当に人類の生命を揺り動かして来た人は、『自分』をなげ出して死んでいる人です。『自分』と云う『にせもの』が死に切ったときそこに動いて来るものが『神』の力であります。

1549SAKURA:2012/11/03(土) 10:37:09 ID:jTinNDNM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんにちは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1469>>1470>>1479>>1487>>1526
>>1529>>1530>>1534>>に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
そして、投稿中、間違いがありましたので、此処にて修正しましたので【再度投稿…】です。

・・◆【ベスト・フレンド】  ( ベストフレンド ) 最終回
―――――  ►► ベストフレンド ◄◄ ―――――

|❤それこそ生きるための技術のようですね。わたしたちはすべて、その
|ように生きることを学べるのだと信じたいものです。

 つぃかにそれができるのです。わたしは実際にやった人々をたくさん知っており、現実にそうし
た人々はよみがえりました。誰でも自分を変化させ、成長させ、本来の自分を完成させるために自
分に力をかしてやることができるのです。わたしたちはみずからのベスト・フレンドになることを
学ぶことができます。そうすれば生涯の友をもつことになります。一人ぼっちのときでも、自分自
身をはげまし、慰め、栄養を与えることができます。わたしたち自身が、激励とすばらしい助言を
生み出す最良の源なのです。わたしたちには誰かが親切な言葉を与えてくれるのを待つ習慣がつい
てしまっているのですが、わたしたちは、ほんとうはそういうやさしい言葉を多くもっていて、自
分自身のために役立たせることができるのです。
         ――――――― * ――――――――
|❤いろいろと生きるための技術を学びとり、多くの賢明なご意見を聞く
|ことができましたが、これから永くこころに銘じておきたいと思います。

 もちろん、あなたは忘れることはないでしょう。これらのことはあなたがとうの昔からずっと知
っていたはずですよ。

PS:トキ様 へ
【今日で最終回…】になりました。…が?私は今更ながらですが、これを“20代の頃”と
同じように、前以上に精神面が強くなったようです。…が?
私は、内なる心に問いかけます…。
【私 の 心 は そ れ は ベ ス ト フ レ ン ド…祈 り】です〜〜〜ネ!!
最後となりましたが…「生長の家…御教え」では?いかようかと??お考えでしょうか?

PPS:【20代の頃…】フォ−クに熱中していました時……
「アリスの谷村新司…」さんから紹介して頂いたのです。…が?当時の私の“理解力”…ウフフ
要約〜〜〜今!“理解しつつ〜〜〜”でしょうか??やはり【良書との出会い】は大切ですが?
【理解力…」これが最終的には〜???でしょうか         

再合掌

1550うのはな:2012/11/03(土) 11:36:08 ID:SXwG/Idc

   万教帰一の意味するもの

 私(谷口雅春先生)が昭和四十八年にペルーに行ったとき、そこでの記者会見で、
「この生長の家とは、万教帰一だといいますが、凡ゆる宗教を生長の家の教えで統一してしまって、
その他の宗教を抹殺する意志を有っているのと違いますか」という意味の質問がありました。

 生長の家の万教帰一というのはそういう意味じゃないんです。生長の家では、「この神を“七つの灯台の点灯者”と
呼ぶがよい」という神示がありまして、神みずから灯台に灯をとぼす者だと仰せられているのであります。灯台というのは
世を照らす光のことでありまして、宗教は人々の魂を照らす光の灯台であります。
で“七つ”というのは、七日間で神様が天地の創造を完成されたという神話に基づいて、“全ての渾て”というような意味で、
世のなかの全ての灯台すなわち宗教が、現代はキリストが行なったり釈尊が行なったりしたような奇蹟が現て来ないのは、何故であるかと
いうと、それは、釈尊の教え、キリストの教えは立派であるけれども、それが次から次へと伝えられている間に、だんだんと元の教えから
遠ざかって、自分の考えというものが入ってくる。

 恰度それは灯台の窓に埃が積って、折角灯台は在りながら、その灯台の窓ガラスがほこりで曇って、光が完全に航行する船を照らして導いてやるには
燭光が足らんというようになっている。或は灯台の中の油がもう燃え切っているのもあるかも知れないが......
兎も角、現代の宗教は“末法の宗教”といわれていて世を照らす光が曇って来ているのは事実であります。

 そういう灯台を、われわれ生長の家はそれを潰してしまうんじゃないんです。
すでに在る灯台の窓ガラスを拭いてあげて、そして「こんな曇があるから光が遠くへ届かないんだ」と、その曇りを除ってあげ、
或は灯台の灯火の油がもう無くなって火が消えかかっているのには、油を注いであげて、そして、その灯台を教祖の時代のように
光が明らかに出るようにしてあげる。これが生長の家であるぞよ、という神様のお示しに基づいて、私は自分のことを、いつも教祖と
称わないんです。「私は教租ではない」「教祖は神様である」というのです。

 即ち「われ自らにては何事をも為し得ず」であります。「私は教租でない。ただラッパである」と常にいっているのです。
ラッパというのは、中が空っぽであります。もし中が空っぽではなくて詰っていたらラッパは鳴らないということになるわけでありますから、
私はパイプのように空っぽでばくて詰っていたらラッパは鳴らないということになるわけでありますから、私はパイプのように空っぽで、
私はただ取次いでいるというだけのことなんであります。

 (私はこんな話を、この通りの言葉で言ったんじゃないんですけれども、そういう意味の話をしたのでした)

 すると、次の新聞記者が、「いろいろの宗教が、種々の教説を有っており、異る教義をもっているのが、どうして
それが一つに一致するんですか」といって質問するんです。
 それで私はこんな話をしました。十年前にも私は世界旅行して、世界各国の人類にお目にかかったんだが、皆などの人種の
顔を見ても、横目縦鼻で、目が横について、鼻が縦についている。口はその下に横に開いている。
耳は左右にある。顔の道具一つとってみても、みんな平等である。顔だけじゃないんです。
内臓の形から構造から骨格から人体全部に至るまでその設計が同じである。

 設計が同じであるとすると、これは、その製造元が一つであるということの証拠でなければならない。
そして製造元が一つであれば、その一つの製造元によって造られた人間が救われる真理も、一つの共通的な
真理でなければならない というのが、私の根本的な考え方なんです。だから、もし人間を救い得る宗教と
いうものが本当にあるならば、その宗教の奥には、必ず共通の真理が在って、同じ神に創造られた人間なのだから、
その人間が救われる真理はどの宗教にも一つの共通のものでなければならない筈なんです。

 その共通の“救いの光”を指し示して、点し、その各々の灯台に、輝く光を出させようというのが生長の家であって、
決して他宗排斥ということはいわないのであります。

 『精神科学』四十八年十月号

1551SAKURA:2012/11/03(土) 12:12:43 ID:jTinNDNM
トキ様 へ  観覧者の皆様 へ
こんにちは……。   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

昨日、投稿しました【ベスト・フレンド…】…なのですが、“間違い…”がありました事に、
気づき>>1549にて投稿…更に【ベスト・フレンド…】最終となりました次第です。…が?

はやくも?皆様方の“投稿言葉…”それも兼ねて、既に奥の方へ参りました様で、
此処にて、訂正致したく【再度…投稿】の形式を取らせて頂きました次第なのです。…が?

■いつになっても【人間の心の意識力】が生みだされない限りは、いつまでも同じ状態でしょうか?
繰り返し?繰り返し?反復なる問題を与えられますのでしょうか?とこの頃思います。…が?
更に!投稿文でもその人の【心の念…想念】も、入って来るのでしょう〜〜〜かと!
【念の法則…】そうです〜ョネ!その念が?“ネガティブなる念”属にいます【呪詛・密教…】も
ありますから〜〜〜怖いです〜〜〜ョネ!
後に「雅春先生」が、それに近い文章内容を、載せていましたので…次回また投稿させて頂きたい
との思いです…。
                                 再合掌
                          つづく

1552うのはな:2012/11/03(土) 14:26:11 ID:.iGF2jO6
「個人指導の指針」 徳久克己教務局長『生長の家』誌昭和三十三年三月号

「生長の家」の講師として、また幹部として、個人指導する時には、私たちは先ず「生長の家」の御教えに
従って個人指導をするのだ、ということを再認識し、いつの間にか、我流になっている仕方を、もう一度反省してみる
必要があります。その為には、谷口先生の御講習を受け、また『生命の實相』及び先生の御著書を繰り返し拝読し、神誌を
拝読しなければなりません。

「『生長の家』は決して病気を治さないのであります。病気を心から放さしめるところなのであります。
病気と云うものを心に握っていて、『此の病気を治して呉れ』と言うのでしたら、そういう方はお医者さんへお出になるが可いので
あります。『生長の家』はお医者さんと商売争いをしようと云う気はさらさらないのであります。
お医者さんは病気を治そうとして色々と処置工夫をめぐらせてくれるのですから、病気を治して欲しい人はお医者さんへお出かけになるように
お勧めします。」

(『生命の實相』新修版第十四巻、携帯版第二十七巻十九頁)

1553SAKURA:2012/11/03(土) 18:07:37 ID:jH5uEFzM
トキ様へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

昨日投稿しましたが、以前『ボランティアについて』と『浮浪者について』ですが…?
偶然…本を開きますと「谷口雅春先生の著書」ですが…素晴らしい解説です。

■■『生命の実相…』 第37巻 から “ 抜粋投稿 ” です。
============================================
「人間の親切にも物施と法施とがある。物を与えることも時には必要であるが、あまり物
のみを与えすぎるとかえって依頼心を起させ、貰うことが権利のような感恩の無い状態
にまで相手の心を荒ませることがある。」

 物を与えるならば、心もちを添えて贈らなければならぬ。紙に包み、水引を掛けるのは
心持ちを添える方法の一つである。人間は心もちによって生かされているのである。機械的
な「与え」の前には感恩の心は起こるものではない。与える側からいうならば、物を贈るの
に相手に感恩の心を起こさせようと思ってするのは不純ではあるが、相手の心を依頼心に
満ちたり、忘恩的な荒んだ心にまでならなせないためには機械的な与え方をしてはならない。

 勤務時間以上に働きをサ−ビスする社員に、上役が感謝して夜食をおごったりしてくれ
る場合には、いかにも上役の好意が身に沁みて感謝されるが、規則によって夜勤手当とい
うものを定めて、一定時間の夜勤をする者には一定の夜勤料を支払うことに機械的に定め
てしまうならば、もう誰も夜勤料をありがたく思わなくなるものである。それどころか、
時としては夜勤料が少ないといって零すようにさえなりがちである。与える悦びがなくな
って、奪い足りないという不平に代わるのである。生活に困っている失業者に仕事を紹
介してやったら、その当座は命を救けてもらったように感謝するが、毎月月給を貰うと
いうことが機械的に度重なってくるならば、もうぼつぼつ月給の不足を零しがちである。

            つづく

1554SAKURA:2012/11/03(土) 18:10:31 ID:jH5uEFzM
トキ様へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553の投稿の続きです。…が??

感恩の心は機械的になるとしだいに薄れてくるのである。子供の愛情に養われる老人は幸
福であるが、社会保障度で養老院に養われる老人には前者ほどの喜びはない。われわれ
は毎日空気を吸っているが、機械的に空気を供給されているがゆえにありがた味を感じ
ない。われわれは太陽がなくては生きられない人間でありながら、太陽は機械的に毎朝地
平線から顔を出すから太陽のありがた味をさほど感じない。

 しかし、これでよいだろうか。目ざめて立て! わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生
きているのである。

「 ありがたさは物の分量にあるのではなくて、心の【“目ざめ”】にある。【心の目ざめて】
いる人を悟っていると言う。一かど悟っていると自負している人が常に不平を唱えているの
は何を悟っているのか、訊いてみたい。」  『生命の実相…』 第37巻 (谷口雅春著)
============================================                      

■上記の“言葉”…それを此処に“投稿…”致しましたが、…もう“奥殿特急便”ですネ!
更に、閲覧された方達は、変?に捉える方達なのでしょうか…??私自身は、ためになりまして、
今後の“物事への見方?捉え方?”にて…更に、深めていく上で、今後の“テキスト”にして、
いきたいのです。〜〜〜そして、まだ…閲覧されてない方も、それは【SAKURAの仲間?】…
つまり■【類の法則】でしょうかしら〜〜〜ン!昨日の地下鉄で、見られていました方も……
(偶然…2チャンネルの閲覧が、チラリ?)いますでしょうし、此処にて“再投稿”させて頂き
ます。久しぶりに【谷口雅春先生…】の書物であります処の……抜粋となりました。…が?

PS;【捉え方…】でしょう〜ネ!私は、ここ数年間、精神の状態は、以前より進歩でしょうか??
更に、仕事の苦労面も、まだ続投中です。…が?世間にもまれた人の考え方?・捉え方?
まだ!一人一人の捉え方???色々あるのでしょうか??
今回、私は【物施…法施…の捉え方と見方?】が、良く解りましたので…私自身は、有益になる
ようですが、「管理人…トキ様」側から見られますと…現職員サイド?の見解でしょうか?
こうして見ますと…ある面!世間一般の捉え方?として考えますと、職員としての料簡の狭さの
考え方とも?ある面では…???捉えてしまいますかと思います。…が?
私は「うのはなさん」・「志恩さん」の抜粋投稿…時としては「共有性」出来ないのです。…が??
一人一人の“投稿時の心境…念の具象化”でしょうか〜〜〜??今回、随分考えされました。
いろんな意味で、最後に…
【一人一人の観覧者様が、閲覧して頂きまして、それなりの『真理…』を、掴む事が大事ですネ!】

                                    再合掌

1555ハマナス:2012/11/03(土) 22:50:09 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。

本来存在しない迷い
(新版『生活の智慧365章』P.278)
夢の中にあなたは色々な事を見ます。それは目覚めてみれば本当には存在しないのです。それは心理学的に言えば潜在意識が心に描いたことの投映であります。また脳髄のオートメーション的な作用によって、目覚めているうちの記憶を自動的に組み立てて、それを客観化してみているのであって、実際に存在する事ではないのです。それと同じような過程を私たちは目覚めている間にもやっているのです。即ち「五官の心」の想念によって描いたところのものを「本来は存在しないのに」存在するかの如く如実に見るのです。

感謝合掌

1556SAKURA:2012/11/04(日) 18:47:01 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>投稿の続きです…。❤〜『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』

ア〜〜ア〜〜“人の捉え方”にも、“七色〜〜??”当に【不思議…世界】でしょうか??
昨日ですが?“投稿”しましたのも、以前「トキ様」が【施し…】について、
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■そして思いながらも〜〜「谷口雅春先生の言葉」から〜〜引用させて頂きます。…が?
【 生命の実相 】より
===【抜粋文】======================================
❤「憎みながら叱るこころで軽く子供を打つ子供は泣く。同じ強さで打っても愛撫する心で
愛慰すような形で打ったら子供はかえって喜ぶだろう。痛さは心にあるからである。」(抜粋)
==============================================

この様に私はライティングを打ちます時は、やはり閲覧者の皆様が“心の安らぎ感”をと…
思いなが…更に!似た者同士の“考え方”もあり【類の法則】でしょうか…??
あちらサイド側に取りまして“良い文”でも?…こちらは“気分の悪い文”に、見えるのも?
私の【心模様…】でしょうか???それはどこから来るのでしょうかと?考えて行きます内に…
今日の「雅春先生の言葉」が、出て来ました。先程!投稿しましたのも含めて、気が向かれた方が
閲覧されましたら、幸いに思います。【四無量心・・・】とは〜〜〜
■「拘らない…つかまらない…“こころ”とも言えますのでしょうかと…」只今!!修行中です。
                                  再合掌
 
つづく

1557うのはな:2012/11/04(日) 19:09:53 ID:0OK1Hwak

    物質は実相から出る蛍光である

 盲人は象に触れて、これを四斗樽のようなものだとみとめ、それ以上に一歩も認識が進歩することが出来ない。
唯物論者もそれと同じであって、存在(もの)を五官の感覚で触れて見て「物質」だとみとめ、それ以上に一歩も
認識が進歩することがないのである。唯物論者は“霊盲”とも称うべき一種の盲人であって、紅緑色盲が紅緑の色彩を
感じとることが出来ないように霊的存在を感じとることができないのである。

 実は、物質と見えているものは「霊的存在」から発する一種の「蛍光」みたいなものである。
その「蛍光」だけをみて、その本体たる「霊的存在」を知らないのは本末顚倒の甚だしいものである。
実相を知ることが出来るならば物質はただそれから出る「波動」を、感覚器官と云うブラウン管に映し出して、
「翻訳して見ている」ものに過ぎないことが判るであろう。

『真理』第10巻 実相篇 谷口雅春 先生著 P 206

1558SAKURA:2012/11/04(日) 20:59:36 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556投稿の続きです。…が

昨日ですが?“投稿”しましたのも、以前「トキ様」が【施し…】についてですが、もっと深く、
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻」より……
==【抜粋文】======================================
❤打つ心は打たれるこころである。打つことを心に描けば、その念は形と表われて相手を打つ。
相手の気魄がつよければ、それはかえって自分自身に還ってきて自分自身を打つのである。
阿難が釈尊に対って人を憎んだ心を相手がうけなかったら、その憎んだ心はどこへ行きますかと
尋ねたときに、釈尊は「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け取らなかったら
その贈り物は誰のものになるか」と問い返された。阿難は「それは贈った人に返って来ます」
と答えた。釈尊は「人を憎むこころもそのとおりだ」とおっしゃった。
==============================================

■これが、ある方の“捉え方”はと申しますと?その人の“心…次第”にも繋がるのでしょうネ!
私は【いい言葉の表現…】と、思いますので〜〜【再度!投稿…】します。…が?
ある人達一部の方は、“ネガティブ感情…ライティング”に、見えます。…が?
「雅春先生の言葉」…一つでもその人の中身の問題にての【抜粋投稿……】でしょうか??
本当に【心 模 様】です〜〜〜ョネ!!
これも「私の心の捉え方?」でしょう〜〜〜ネ!
【人、それぞれ…でしょうか??拘らない“心…”にて〜〜四無量心の世界観…】

■パソコンも、相手が見えないだけに「自分の世界観」での判断でしょうかしら〜〜〜ン?
もしかしますと【心の種まき…】は???「良い表現…言葉」も大事です〜〜ネ!
【言葉は神様の表現としての…近道!!文章体も…大事です】??
ます!ます!「表現の大事さ…」を、今日は学ぶことが出来ましたかと?思います。【感謝…】
再合掌
                つづく

1559ハマナス:2012/11/04(日) 22:06:13 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

真心現るれば妄心消ゆ  (『新版 生活の智慧365章』P.278)

 映画の画面に色々の喜劇や惨劇があらわれて見えようとも、そんな喜劇も惨劇も存在しない
のです。それは映写機械が光の波動をスクリーンに送っているに過ぎないのです。波動は如何
に巧妙なすがたを現そうとも、それには生命がないのです。病気もやはり「迷いの心」の誤れ
る信念が放送している「波動」が姿をあらわしているものなのですから、それ自身、生命はなく、
それ自身進行するものではないのです。

 病気が進行したように見えるのは、それに波動を送って或る病的症状を現わしめている
「妄心の動揺」によるのです。そんな妄心を捨てなさい。病気の症候に目をとじなさい。
そうして瞑想によって「真心」をよび出し本来完全なる神の自己実現なる自己の「生命の
実相」を観なさい。「真心」は実在であり「妄心」は仮妄(こもう)ですから「真心」
現るれば「妄心」は消えてしまいます。

感謝合掌

1560a hope:2012/11/05(月) 07:13:45 ID:8tjYhMb6
新版 生活読本 谷口雅春先生著

第六章 希望の夢を描きましょう
♦苦難の道だと云うな


あなたが現在の苦しみや乏しさや貧しさになやんでいられるならば、
それは「人間の生きる道はどうせ苦難の道だ、思うようにならぬ」と云うことを前から考えて来たからです。

「苦難が来るぞ、荊棘(いばら)がくるぞ」と云っていると、「苦難」が来、荊棘が来るのです。
これを言葉の力と云うのです。ことばは神であり、ことばは心に思っても、口に出しても、それはいずれも「造る力」をもっているのです。
思ったとおりにあらわれ、言ったとおりに出てくる世界なのです。

明るい言葉、たのしい言葉、ゆかいな言葉、希望に燃える、前途(ゆくさき)のよくなると云う言葉を出していると、
そのとおりに、人生は明るくなり、たのしくなり、愉快になり、希望に燃えるとおりに何事もよくなってくるのです。
(つづく)

1561ハマナス:2012/11/05(月) 13:09:03 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
ありがとうございます。

心の仕事場に良いモデルを  (『新版 生活の智慧365章』P.279)

 醜婦をモデル使いながら、美女を彫刻することはできません。美女を彫刻するには美女を
モデルに使わねばなりません。心に描く姿をモデルにして、私たちの生命は、肉体と云う
栄養物物質の素材上に、健康の姿でも病気の姿でも彫刻するのです。

 あなたが今健康であるならば、今まで、あなたは心の仕事場に「健康の姿」をモデルに
してそれに随って肉体の上に「生理作用」の鑿(のみ)を加えたのです。あなたが今病気を
しているならば、今まで貴方は心の仕事場に「不健康の姿」をモデルにして、それを心で
みつめて「病気の肉体」と云う作品を制作したのです。その「病気の肉体」がお気に召さ
ないのでしたら、一つあなたが毎日見詰めるモデルを取り替えて、「不健康の姿」を去って
「健康の姿」をモデルとして見つめなさい。即ち神想観して、目を瞑(と)じ、心の眼を
もって、じっと自分の「健康の姿」を描いてそれを凝視するのです。

感謝合掌

1562SAKURA:2012/11/05(月) 21:43:32 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556投稿の続きです。…が

昨日ですが?“投稿”しましたのも、以前「トキ様」が【施し…】についてですが、もっと深く、
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻」より……

==【抜粋文】======================================
これは神話であるから「大和理念」の地上顕現が悠久であることの象徴と見るべきである。
日本の建国の歴史をわざわざ長くないように考証している人もあるが、それは結局自己侮辱
であり、自己破壊本能の展開にすぎない。人間には「生」の本能と「死」(自己破壊)の本能
とがあって、「生」の本能が旺んなるものが栄え、「死」の本能が「生」の本能に打ち勝つとき
衰えかつ滅びるのである。自己の卑小に言うことに誇りを感ずるような悪い趣味はやめた方がよい。
=============================================

■人間には「生」の本能と「死」(自己破壊)の本能とがありまして…【 生=天  死=悪 】
と置き換えまして考えますと、人間の心の中は『ジキルとハイドで、まず二重人面=二重人格』と
いいますから、そこの“こころ”が何処に振り向くかと言いますと、その人の“こころの測り”
になるのでしょうか〜〜〜??

心が天に向いた時は、精神は“正しい理念”に目ざめ=芽が出て来まして、スクスク伸びていきま
すが…?逆に申しますと……悪に心を振り向ける事は、目ざめ=芽が伸びなく…停止状態!でし
ょうか?それこそ…【 精神は枯れる! 】のです〜〜〜ョネ!!

人間とは、「甘露の法雨」で申しますところの本来【善のみ…】と…つまりは“悪に打ち勝つ”
ものを持っています。…が?ある時【霊界に一本の車輪の棒…】を、置いていたら??
それは【業…車輪の棒】ですから、やはり、相当の【祈り…】が必要かと思う次第です。
精神に正しい理念をと…集中するべきでしょう!!まず、今の私は、人への“悪口・中傷…”を
論ずる事に、喜びを抱く事によりまして…
【魂の目ざめた“こころ”…】で“明るい理念”さらに“感謝・報恩のこころ”で、今!活かさ
れていますことに【集中…】でしょうか???

そして【祈り…】が素晴らしい〜〜♫〜〜爽やかな朝の時間に【感謝…】でしょうか?
ますます【 意識=意志 】でしょうか…?このように考えますと
【 捕われない心=四無量心 】に、入っていく “ 私 ”ですが〜〜〜?

                                  再合掌

                       (つづく)

1563SAKURA:2012/11/05(月) 22:01:20 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1562>>投稿の続きです。…が

>>1562の箇所の【 訂 正 事 項】……

① 「今の私は、人への“悪口・中傷…”を論ずる事に、喜びを抱く事によりまして」 ×
                 ↓↓↓↓↓
② 「今の私は、人への“悪口・中傷…”を論ずる事に、喜びを抱くことより」、ましては、逆に
【魂の目ざめた“こころ”…】で“明るい理念”さらに“感謝・報恩のこころ”で、今!活かさ
れていますことに【集中…】でしょうか???

① から ②に訂正です。                 再合掌

1564<削除>:<削除>
<削除>

1565a hope:2012/11/06(火) 07:55:56 ID:8tjYhMb6
新版 生活読本 谷口雅春先生著


第六章 希望の夢を描きましょう
♦自分の運命は自分で造る


吾々は自分でわれわれの前途(これから)の運命をつくるのです。
運命と云うのは運がよくてまわってくる天からの命令と云うものではなくて、
われわれの心でどうにでもなるものなのです。
われわれの心で常に思っているとおりに世界は運転してくるのです。

世界の運転のしようを自分の思いどおりにしているのが人間なのです。
だから人間は運命の主人公であって、人間は運命の奴隷ではありません。
奴隷には自由はありませんが、主人公には自由があるのです。

自由と云うのはなんでありましょうか。
自由と云うものは外から自分のやることを邪魔しているものを取りのぞいてもらうことも自由であります。
それは自動車が走るのに邪魔になる石塊(いしころ)や溝を取除いて貰うようなものです。

しかしそれだけでは本当の自由はないのであります。
本当の自由は、どんな石塊があっても、どんな溝があっても、それを自由に避けて通れるような、
中からの舵取(かじとり)が自由に出来る事でなければならないのです。

吾々は、こうありたいと思うように自分の心を、自分の言葉を、舵取することによってのみ、
自動車がどんな石塊道でも、山道でも、自由に走れるのと同じように、
どんな難しい世の中でも自由に楽しく愉快に生きることが出来るのです。

吾々は何よりも、自分の心を自由に楽しく愉快に明るくする自由を得なければなりません。
これこそ「中」からの自由であって「外」にどんな石塊や溝があっても自由に楽しく走れる自動車のようなものです。
(つづく)

1566コピペ:2012/11/06(火) 11:22:57 ID:???
生長の家は住吉大神が始められた信仰運動であるNEW (3276)
日時:2012年11月06日 (火) 10時53分
名前:中村晃生

マサノブ氏および八ヶ岳教団が犯している根本的な間違いは、こ

の信仰運動が谷口雅春先生個人が創設されたのは間違いの無い事

実ですが、実は本当は住吉大神が起こされた運動であることが分

かっていない。だからこそ路線を全く外れても何とも思わない。

ケロッとして大自然賛歌などという教えとは全く関係の無いシロ

モノを、堂々と信徒に聖経代わりに使わせようとするのです。

我々がキチンと認識しなければならないのは、先生は現世を去る

まで一貫して「私はパイプに過ぎない」と主張してこられたこと

です。「自分の教えだ」などとの不遜な言葉は一度も述べられた

ことがない。それどころか「果たしてパイプ役として神様の言葉

を正しく伝えたののだろうか」と日々反省し、お気遣いをされて

こられた。神様に対しての、そうした謙虚なそして真摯な態度は

最後まで一貫しておられたのです。

「今の教え」などとして、自分の浅薄な環境主義をおしつけよう

などのマサノブ氏のような不遜な態度は、微塵も示してこられな

かった。

私たちも、雅春先生のように、常に大神を礼拝し、大神に対して

真摯で真剣であらねばならないと考えます。「八ヶ岳教団」を正

す原点はここなのです。

1567ハマナス:2012/11/06(火) 23:55:59 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

迷いの心の第一歩  (『新版 生活の智慧365章』P.280)

 病的症状を心に描いて思い煩うこと勿れ。「心に描いた通りに肉体は造られる」と云う
原理が判るならば、病的症状を心に描いている限り、いくらその症状を薬剤で中和しても、
心が描いて、次から次へとその症状を再創造して行けば、病的症状の消えようはないでは
ありませんか。大体、人体を「物質体」だと見ているのが、人間を不健康にする「迷いの
心」の第一歩なのです。即ち「自分の体は物質だ」と思っている限り、「やがては摩耗する
もの」「朽ち果(は)つべきもの」即ち病気になるべきものとの思想が先行しているのです。

 人体を「物質」とみとめるな。霊身であるとみとめよ。「神の子」であるとみとめよ。
常に、暇ある毎に短時間ずつでも瞑目して、「われは神の子である。霊的実在である。無限
力である。永遠に老いず病まず衰えざるものである」と念ぜよ。

感謝合掌

1568a hope:2012/11/07(水) 08:25:17 ID:8tjYhMb6
新版 生活読本 谷口雅春先生著

第六章 希望の夢を描きましょう
♦自分の心の支配者


自分が自分で自分の主人公である人は、先ず自分の心の支配者となって、
面白からぬ感情や想念(おもうこと)を自分の心の中から追放しなければなりません。

追放とは追いだすことです。
怒りや、心のいらいらしさや、憎みや、嫉(ねた)みや、陰気くさい想いや、悲しみや、
ずるい考えや、取越し苦労や、持越し苦労を追い出さなければならぬのです。

自分の心一つを、自分の気持ちのよいように掃除出来ないで、
世の中のことを支配しようと思っても出来るものではありません。

先ず自分の心の中から憎しみや悲しみや、怒りや取越し苦労を捨てなさい。
外の世界はわが心の影ですから屹度よくなるに相違ありません。
(つづく)

1569復興G:2012/11/07(水) 19:13:59 ID:vWpLkCzM

合掌 皆さま、ありがとうございます。

  <第8回WEB誌友会予告>

≪日時≫11月9日(第2金曜日)21:30より
    11月11日(第2日曜日)23:30まで
≪テキスト≫『生命の實相』第2巻「實相篇 光明の真理<下>」 (p.1〜p.50)
≪内容≫ 第1章 「生長の家」の超薬物学

――以上の要項で、まもなく開催となります。すでに、前夜祭が始まっております。

それで、以下に、そのテキスト『生命の實相』第2巻「實相篇 光明の真理<下>」 第1章 「生長の家」の超薬物学(p.1〜p.50)を、14回に分けて謹写掲載させていただきます。

WEB誌友会にご参加の皆様、どうぞ以下のテキストご文章より、感銘を受けたところや疑問を感じたところを部分的にコピペして意見を投稿する・・・などにご使用ください。 よろしくお願いいたします。

1570復興G:2012/11/07(水) 19:14:46 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (1)
   -----------------------

<扉裏の言葉>
   -----------------------
 細胞は粘土、心は彫塑家(ちょうそか)、作品はわれらの肉体である。われらはすべて自己の肉体をいかようにでも作る権利をもった全能者であるのである。ウエルズによれば、人体内の細胞の総数は一千兆以上ある。この驚くべき多数の細胞が、「一糸乱れない支配」のもとにいろいろの分業に専心している。この「一糸乱れない支配」は誰がするのであるか、それはわれらの「心」がするのである。心を切り離すとき、細胞はもういろいろの分業をしなくなる。
 一個の細胞を「人間」から切り離して人工培養をした実験によれば、心臓の細胞でも、腎臓の細胞でも、その他人体のどこの細胞でも、生きてはいるけれども、一列一帯に、どれが心臓の細胞だか腎臓の細胞だかいっこう区別のつかぬ類型的な働きしか、いとなむことはできないのである。
 そうすると心臓の細胞が心臓特有の働きをし、腎臓の細胞が腎臓特有の働きをし、その他、人体各所の細胞がおのおの特有の働きをしているのは細胞自身の働きではなく、「われ」の「心」の支配力を受けてのことであることがわかるのである。
 わが「心」は全身の肉体細胞にいかなる働きをさせるかについて絶対の支配権をもっているのである。この心が支配権を捨てるとき全身の細胞の働きが乱れる。これを病気というのである。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  第1章 「生長の家」の超薬物学

   薬物を無毒にする念(こころ)の力(p.3)

 昭和六年『毎日年鑑』の付録『家庭医典』に医学博士岩野政太氏は「医学から見た精神療法」と題して次のごとき興味ある記事を掲げていられます。

 「中尾弘明氏が創始した一元同化療法が、ある種の病気にすばらしい効果があることを認めたので、精神療法中の一元同化療法をモルモットに施した上で試験することにした。
 まずハブ蛇毒の乾燥したものを濃度に溶解し、その致死量を六頭のモルモットに注射し、うち三頭には水村昌吉氏の一元同化の術を施し、残りの三頭は対照として、そのまま放飼した。その結果、被術動物のうち一頭は注射後七時間を経て死し、二頭は死を免(まぬか)れた。対照動物は三頭とも九時間のうちに死んだ。
 第二回は結核菌を試用した実験で、純培養の結核菌を五頭のモルモットに注射して、そのうちの三頭には死ぬまで毎日水村氏の術を施し、二頭はそのままにしておいた。しかるに約一ヵ月半から二ヵ月の間に五頭とも消化器疾患で急死した。なおその期間五頭とも日々秤量、検温とを怠らなかったが、体温上では試獣も対照獣もそれほど変わりはなかった。被術動物は三頭とも体重が増加し、対照の方は二頭とも痩せていた。
 解剖所見では五頭とも結核性病変を現示していたが、被術獣の方は対照獣に比較していくぶんかその病的の進侵が緩慢停頓の状態を呈していたように思われた。
 なおこの動物実験は、ただ一回だけではその成績が不確実であるから、この実験はいずれも三回反復して大同小異の結果を得た。

 以上は昭和二年三月二十八日から同五年一月三十一日にわたっての実験である。これによってみても、人間の有するあの偉大な力が病気の上に働きかけることは決して否定できない。ちょうど病気は看護によるがごとく、人の念力によって変化するものである。
 いにしえの聖者が奇跡をあらわしたのもまたかかる不思議な力を示したわけであろう。どこまで病気を治療するかというのではない、人間の念力の強さが病気の上に働くのであるから、これを科学的に限界を定めるわけにはゆかないらしい。」(岩野政太博士稿)
<つづく>

1571復興G:2012/11/07(水) 19:15:51 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (3)
   -----------------------

    毒素の本体は精神力(p.6)

 がんらい、ハブ蛇毒の毒素なるものは、ハブ蛇が他の動物をたおそうという一種の毒気(害悪の精神力)の物質化したものでありまして、本来このハブ蛇毒そのものの本体は精神力なのであります。毒素は本来「精神力」の仮に物質化したものであるからこそ、人間(精神力)を殺すことができるのであります。
 人間でも非常に腹を立てると唾液の中に烈しい毒素ができるということをハーバード大学のゲーツ教授は発表しているのであります。なぜ腹を立てると毒素ができるかといいますと、腹を立てると相手を害してやろうという気になる、つまりわれわれの心の中に毒素すなわち(害悪の精神力)が発生する、この害悪の精神力が凝(こ)って物質化して毒素に変ずるのであります。だから人開は腹を立てるということが非常に悪い、われとわが身体に毒素を飲ましているようなものであります。アメリカのある有名な健康法の大家は「長寿したいものは腹の立ったときには食事をするな」といっています。つまり「唾液の中にできた毒を飲むな」という意味でありましょう。

    菜食と肉食との優劣(p.7)

 河上肇博士の訳された『如何に生活すべきか』という本には、菜食の人と肉食の人との健康を比較し、いろいろの実験のすえ、菜食した人間の方が持続力が強いという統計を発表してあるのであります。医学博士二木謙三氏や小田部荘三郎氏も本当の健康は菜食でないと得られないといって菜食をすすめていられます。この小田部博士の話によりますと、一時、全欧米を風靡(ふうび)した大拳闘選手バットリング・ネルソンが、ある時勝ちうべき勝負に敗れた一大原因を、その朝にとった肉食に帰し「肉食がわたしを疲労せしめた」と嘆声をもらしたとのことであります。

    肉食中に含まれる毒素は殺された動物の精神力(p.8)

 肉食から来る健康に対する有害作用の原因を、医家は消化吸収に困難なために胃腸内で腐敗して毒素を発生すると説明しているのであります、もちろんそういうふうな説明のしようもありましょう。しかし見のがしてならないのは、肉食に供せられる動物が死の刹那に苦しむ。一寸の虫にも五分の魂をもっていて苦しみながら、その不条理な殺害に対して憤りながら死ぬということであります。憤るさいには動物はたいてい相手に噛みつこうとするのでありまして、これは害悪の精神力が客観化した結果、相手を歯で傷つけると同時に、唾液中に発生した毒素で相手をたおそうとする作用となったのであります。そのさいに発生する毒素はハブ蛇毒のように猛毒作用を有するものもあればそれほどでないものもありますが、ともかく「いかり」すなわち「害悪の精神力」が物質化して毒素を唾液中に発生することは明瞭なのであります。

 それと同時にその怒った動物の血液中にはこの毒素を中和する抗毒素が発生します。そうでないとハブ蛇はもちろん他の動物でも怒ると同時に自分自身がその毒に当てられて毒死してしまわねばなりません。ところが相手をたおして自分を護ろうというのが怒りの目的でありますから、「自分を護ろう」という精神力が物質化してこの抗毒素となるのであります。
 ところが抗毒素それ自身は毒でないかと申しますと、それは反対性の毒素と合した時に始めてその毒性が互いに中和して無毒となるのでありまして、それは中和する反対性の毒素がない場合、すなわち抗毒素ばかりではまたかえって毒作用を有するのであります。
<つづく>

1572復興G:2012/11/07(水) 19:17:14 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (4)
   -----------------------

    肉食生活者の短気な理由(p.9)

 ところでわれわれが動物を食します場合には、むろん動物の唾液などを食べませんから、唾液中の毒素を食べる恐れはありません、しかしわれわれが肉食をする場合には筋肉組織中に含まれている血管も一緒に食べてしまうのであります。牛肉などは血液は大部分は搾り出してしまってあるのですが、その血管内にはやはりいく分の血液が残っており、その血液の中には「憤怒の毒素」と中和してはじめて無毒となるところの有力な毒分(抗毒素)が含まれているのであります。肉食家は肉を食するごとにこの毒分を食べているのであります。

 医家の説によりましても、また実際の人間について見ましても、また肉食動物と菜食動物とを比較してみましても、肉食する物は非常に気が短くて腹を立てやすいのであります。これはなぜかと申しますと、常に肉食している結果「憤怒の毒素」と合して中和しなければ治まらない毒性をもった抗毒素を吸収しているので、この抗毒素を中和するために「憤怒の毒素」を必要とする結果、生理的に怒ることを要求して来るのであります。だから肉食家はどうしても腹を立てやすい、羊や馬はめったに腹を立てないが、虎や獅子はすぐ腹を立てる。人間でも肉食をしているとどうしても興奮しやすいので、あまり神経過敏で夜中眠りにくいような人は肉食を避け、菜食にする方がよいとは専門家の説であります。

 メタフィジカル・ヒーリングの立場から申せば「何を食(くら)い何を飲まんと思い煩うことなかれ」でありますから、肉食菜食は問題にはならない。ただ「摂理」がわれわれに与えてくれたところのものを感謝して平和な心で食べていればよいのでありますが、ここに肉食菜食の話をしましたのは、心の作用(はたらき)がどういうふうにして客観化して生理的物質となるかの経路をご説明申し上げるためであります。

 元来物質には毒性も抗毒性もないのでありまして、これに毒性を賦(あた)えたり、抗毒性を与えたりするのは「念(こころ)」の力であります。ハブ蛇毒はハブ蛇の「害悪の精神力」が物質化したのであって、精神力がまず起こってそれが物質化して毒物となるのであって、物質が先ではないのであります。

 物質そのものに毒性というものが固有しているならば、物質の毒性が精神の力によって解消してしまうことはできないはずであります。ところが前述しましたように、岩野医学博士がモルモットに試みた実験によれば、物質的存在と思われたハブ蛇毒の毒性が、精神療法家の念力によって中和して、毒性を発揮しなくなったのであります。
 これは物質の毒作用というものは本来物質の固有的性質ではなく「念(こころ)の力」によって生じたものであるから、反対の「念の力」を作用させればおのずから消滅するという「生長の家」の主張に裏書きを与えたわけであります。

    口よリ出ずる言葉なんじを穢(けが)す(p.11)

 「念(こころ)の力」で、毒物も毒にならぬということが解ればわれわれは実際もう、キリストのいったように「何を食らい何を飲もうかと思い煩う」必要はないのであります。キリストはまた「口より入るものはなんじを穢(けが)さず、かえって口より出ずる言葉なんじを穢す」といっています。
 物質そのものに本来の毒性がなければわれわれは何を口より入れて食べようともわれわれを傷つけることはできないのであります。かえって、これは「毒になる」とか、「これは消化が悪い」とかいって批評する口より出ずる言葉の力が心に恐怖心や不安を起こせば、その心の力で毒素が自分の生理的組織内にでき、必要な消化液やホルモンの分泌量を減じ、本来毒性のない物質までも毒性を有するかのごとくわれわれを害するにいたるのであります。
<つづく>

1573復興G:2012/11/07(水) 19:20:20 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (5)
   -----------------------

    恐怖の生理的影響(p.12)

 憤怒(いかり)は「害悪の精神力」でありますから、積極的に害悪をおよぼす有毒性の生理的物質を発生せしめますが、恐怖心や不安は消極的に小さくちぢかんで相手の目をのがれて身を完うしようという精神力でありますから、われわれに恐怖心や不安があるとすべての生理的器官は小さくちぢかんで完全に働かないのであります。それで必要な消化液やホルモンの分泌量は減じ、完全に生理的機能を発揮することができなくなり、同時に全身の細胞を統帥してその活動力を鼓舞しているところの本人の精神力が恐怖に襲われて萎縮しているのでありますから、弱将の下に強卒のあるわけはなく、全身の細胞ことごとくが活力を失って病気に対する抵抗力を弱らしてしまうのであります。これひっきょう恐怖という虚弱な精神状態が客観化して虚弱な肉体となったのでありまして、精神状態によって肉体は強くも弱くも変化する、すなわち「念力(ことば)が肉体となる」のであって、「肉体は念(こころ)の影」だという真理がこれによって解るのであります。

 こういうふうに、憤怒は積極的に有毒物質をわれわれの肉体のうちに作り、恐怖や不安は消極的にわれわれの生理機能を萎靡沈衰せしめるのであるから、健康になろうと思う者や、病気を治そうと思うものは、せひともこの憤怒と恐怖の二大強敵を心のうちより絶滅し、常に心を平和にたもつようにしなければならないのであります。

 わたしは雑誌『生長の家』第二集の第二号に「心の平和の生かす力」と題して、「心の平和」がいかに治病上効果があるかにつき説明し、恐怖せざるナポレオンの「心の平和」の前には、さすがに猖獗(しょうけつ)した伝染病も終熄した実例をあげたのでありますが、現代の医学者もその薔奥に達した人たちはさすがに、しだいに「心の治療」ということを称えるようになっているのであります。

 元侍医頭医学博士入沢達吉氏は、かつて雑誌『實業の日本』において「余が医者としての座右銘」と題して「真に病気を治療しようとするには対症療法の必要なることはもちろんであるけれども、まずもって対人療法を試みることが緊切である」と告白して「医者たるものは病気を治療するだけではいかぬ。病人たる人間をも治療せねばならぬ」という西洋の格言を引用していられるのであります。

    心を治せば病気が治る(p.13)

 ありふれた庸医(やぶい)たちは病気を治そう治そうとばかり心がけて、人間全体、すなわちその「心」までも治そうとはしないために失敗するのであります。彼らは人間というものをまるで部分品を寄せあつめて造った機械であるかのように心得ていて「有機体としての人間」全体を治そうとはしないで、悪いところがあればその悪いところを切って捨てる式の治療をするのであります。だから病気が治って人間が死んだり、一つの病気が影をひそめて他の病気が入れ代りに発生したりするのであります。

 「生長の家」では個々の病気を一つ一つ別々には治そうとは決してしないのであって、人間そのもの――「人間の念(こころ)」を根本的に治そうとするのであります。人間の念(こころ)が治って病気が治らないということは決してありえないのでありまして、最近にもある読者から次のような感謝状に接したのであります。
<つづく>

1574復興G:2012/11/07(水) 19:20:55 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (6)
   -----------------------

     ○
 「明けましておめでとうございます。『生.長の家』毎月ありがたく拝見いたしております。そしてぜひお礼の手紙を差し上げたい、また差し上げねばならぬと思いながらも、ついつい今日までごぶさたいたしましてなんとも申し訳ございません。
 わたしは無線電信の技術者ですが、以前から宗教問題については相当心を留めていましたが、なかなか合掌するようにはなれませんでした。一、二年前から少し信仰しうるようになってまいりました。またわたしは心霊問題等にも興味を持ち知人の紹介にて浅野氏の心霊実験会も実見いたしました。それで『心霊と人生』によりはじめて先生の『生長の家』を知り、さっそく読者になったのでございます。
 わたしは生来頑健な身体でもありませんが、内科的疾患のため医者の診療を受けたこともありませんでした。ところが一昨年春ごろより肺を冒され、その後治癒もはかどらず閉口しておりました。昨春ごろは毎日体温計持参にて体温曲線を作っては心配し、常に医師の診療を求めあるいは栄養物だ、やれX光線療法だなどといって高い金を払って苦しんでいました。ちょうどこの時『生長の家』人となり救われました。
 前記のような心配はみずから病の雰囲気を作り、その中に籠居するものであることを知り、医師も薬も捨てましたが、その後しだいに健康も回復してまいりまして最近はきわめて元気にて働いています。わたしはこう考えています。いかなる修行もまた健康の回復も階一階と進むので、もし修行を怠たれば還元するであろうと。無限の未来を持つこの身、今後も『生長の家』人として不断に進む考えでございます。」(昭和六年一月七日付、原文保存)
     ○
 この種の感謝状はずいぶんたくさんくるのですが、こんな感謝状を受けるごとに自分は『生長の家』を執筆し「生長の家の生き方」を宣伝し始めて本当に好かったと、みずから顧みて涙がこぼれるほどの嬉しい思いに打たれるのであります。悲嘆に暮れる肺病患者が健康を回復し無限の未来を想望して喜べるということはただ事ではないのであります。
 生長の家は「真理」を語る。そして「真理」があなたを癒すのであって、あなたはただ、「真理」を知ればよいのであります。どうぞ皆さん、この医薬も光線療法もはかばかしく効を奏しなかった肺病が『生長の家』を読むだけで、誰に治療を受けるわけでもないのに、このように癒された「生きた事実」を、もう一度深くお考えになっていただきたいのであります。
 精神療法家がある短時間思念をこらして「平和の思念」を波及するだけでも、ハブ蛇毒が中毒作用を失い、いろいろの難病が癒されるという確実な証明がある以上、自分自身が心の内に平和を常にたもっていて病気が癒されないという理由はないではありませんか。
 他人に精神療法を受けるのは、他の心霊または他人の思念が波及して来るだけですから、間接的であり、それだけまた、その効果も稀薄なわけであります。その上、精神療法において術者の治療を受ける時間は短時間でありますから、自分で真理を悟って、長時間否常に、恐怖心なく心を平和に保つことができれば、それは他人から精神療法を受けるように間接的な緩慢なものではなく、直接的に強烈に、自分の病気を治してしまうのであります。
<つづく>

1575復興G:2012/11/07(水) 19:21:29 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (7)
   -----------------------

 だから、「生長の家」では「あなたは無限の治す力を内にもっているのだから、あなたの病はあなたで治せ」と常にいっているのでありまして、坊間(ぼうかん)の心霊治療家のように「私が術を施してあげるから、宅へ来なさい」といって金をとるなどということはしないのであります。
 それは実に知恵の道であるとともに「菩薩(ぼさつ)の道」なのであります。この「菩薩の道」をひろめてくださる方は、またその一人びとりが菩薩なのであります。誰でも「無限の治す力」を自分自身の内にもっている。自覚さえすれば、どれだけでもその治す力が出て来てすぐ治ってしまう。それを自覚しないのが、すなわち病人であります。
 ちょうどそれは催眠術をかけられた人が、小さな礫(こいし)を与えられて、「これは非常に重いからとてもお前には持ちきれない」と暗示されたら、その小石が大きな巖のような重さに感じられて持ちきれなくなったと同じで、そういう人は家庭医学書だの病理学書だの、売薬の広告などという催眠術家に催眠術をかけてもらって、「とても病気というものは恐ろしいものだぞ。なかなかおまえ自身の力では持ちきれるものではない。それは解剖してみてもわかるとおり物質的な病的変化を起こしている。こんな形のある物質的変化はおまえ自身の生命力や糟神力などという無形の力で治るものではない。医者にかかれ、物質的薬剤をのめ、光線療法をせよ、滋養物をとれ」などと、八方から暗示してもらって、人間自体の内に宿っている無限の「生命力」「治癒力」「精神力」を、なんでもない病気や、薬などよりも弱いものであると信ぜしめられているのであります。
 だからわれわれは無限に治す力をもっていながら、小さな病気一つが治らない。それは小石の目方に比べれば無限大ほどの腕力をもっている人間でも、暗示の力でその小石を持ち上げえないと同じであります。

 この「なんじは弱いぞ」という暗示の力を、善き言葉の力によって消滅させてしまい、人間自身の本体が「完全な、無限の生命力」であるという真理を自覚さすようにしますと、もともと外から与えられたのでもなく自分のうちに宿っていた無限の生命力が働き出して来て、「なんだ、いままで持ちあがらないと思ったのは、こんな小石であったのか!」と自分自身の病気をなんの雑作もなしに小石のように捨て去ることができるのであります。

    薬の効力は客観的に確証できぬ(p.18)

 医家のうちにはいろいろの薬剤につきその一々の効力を力説する人もありますが、薬剤の効果は決して客観的に確証をあげえないのであります。
 第一、試験管の中で薬剤がどんな化学的作用を起こそうとも、それは生物の生きた内臓や血管の中へはいれば、生命体は服用した薬剤に抵抗するいろいろの抵抗素を分泌して来るので、その抵抗素と合して試験管内で起こるのとは、ぜんぜんちがう作用を起こすのであります。
 そのため医家は動物試験によって、薬剤が生体(いきもの)に及ぼす作用をうかがい知ろうとするのでありますが、モルモットや兎は決して人間と同一の生体ではないのであります。そこに動物試験の根本的誤謬があります。
 むろんたびたび動物試験をやってみた結果、ある新薬の注射がある人間の病気に効果があるだろうと信じ、医者がかく信じて人間に注射してみた結果、その新薬が効果をあらわす場合があったにしましても、それはその薬という物質そのものの力のみだとは決めてしまうわけにはゆかないのであります。
 ここには医者の信念および新薬注射に対する患者自身の信念の作用が加わっていることをみのがすことはできないのであります。
 術者の思念力で、ハブ蛇毒の中毒作用が解消したり、モルヒネ中毒思者に蒸溜水を注射してもモルヒネ注射と同一効力があったりするからとて「蒸溜水はモルヒネと同一効果を常にあらわす」とも[ハブ蛇毒は常に毒性を呈せず」とも結論するわけにゆかないと同じであります。
 薬剤が人間に及ぼす効果は、決して「常に何々の効果をあらわす」とはいいえないのであります。それは人間の信念の力(心の力)が多分に加わるからで、どこからどこまでが薬そのものの力とはいいえないのであります。
 じっさい薬剤は心の力でハブ蛇毒できえもその毒性が消えたり、蒸溜水でさえも催眠効果をあらわしたりするのであります。
 次には無毒の薬が毒性を表わした実例をあげましょう。
<つづく>

1576復興G:2012/11/07(水) 19:22:05 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (8)
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    無毒物が精禎力で毒曲をあらわす(p.19)

 それはフランス科学界の耆宿(きしゅく)大天文学者にして同時に心霊学者として有名なフラマリオン博士の大著『未知の世界』のうちにあるものです。

 「ある年若い婦人が、除虫粉を服用して自殺をはかりました。そして床につくとそのまま絶命してしまったのでした。死因をたしかめるために死体が解剖されましたが、胃袋に見出された除虫粉を分析してみましても、いっこう人体には無害な物質であることが発見されたのであります。この婦人は、自分は毒薬をのんだという信念によって、そのとおりになって死んだのであります。
 また薬でなくとも他の物質でもそれが触れれば死ぬと信じますとその信念で人間は死ぬものです。このフラマリオン博士の友人の父で内臓外科を担任している医師が、ある日胆石症患者の手術を行なうことになりましたが、切開すべき場所の皮膚をアルコールで冷え冷えと拭きますと、まだメスをあてないうちに、患者はアルコールの冷たさでメスが当たったと誤信し、その恐怖の念のために絶息してしまったのであります。」
 また同博士の著書のなかには次のような実例もあげられています。
 「ある時死刑囚を実験につかいました。まず其の男に目隠しをしまして身体を厳重に椅子に縛りつけ、さて『これからなんじの頸部から一滴ずつ血液をしたたらしてじょじょになんじの全身の血を搾り取ってしまうぞ』と宣告しました。こういう宣告をして恐怖の暗示を与えた後、実験者は囚人の頸部に針のさきをもって微細な傷をつけ、あたかも局所から血がしたたっているかのように、彼の頸部に水を伝わらせて、床の上に一滴ずつ音を立てて落ちるような仕掛けをしておいたのであります。六分間ほど経過して『サアおまえは全身の血液の三分の二を失ってしまった』と暗示しますと、死刑囚はそれを信じて恐怖のあまり絶命してしまったのであります。」
  (フラマリオン著『未知の世界』)

 また次のような事実は英国のある大学に起こった事件であります。

 「その大学の門衛は非常に学生たちから憎まれていたのであります。ある日、いたずら盛りの若い学生連が彼をとらえて一室に監禁し、模擬裁判だといって、学生たちは彼を被告にし、かわるがわる立って彼の罪状を指摘し、ついに彼に死刑の宣告をくだしました。そして彼らは室の中央に材木を並べ、ピカピカ研ぎすました斧(おの)を持ち出し、彼に三分間の猶予を与えて彼に懺悔をさせ、天国へゆく用意をさせました。いよいよ三分間を経過しますと、学生らは恐れおののいている門衛に目隠しをして、むりやりにひざまずかせて材木の上へ頭を乗せさせ、それから一人の学生が背後へ廻って、あたかもその研ぎすました斧を打つかのごとく、冷水の濡手拭(ぬれてぬぐい)でふいに彼の頸部(けいぶ)を打ったものです。その刹那(せつな)門衛はビクリとしたようでした。一同はドッと大笑いをして、『もう許してやるから立て』と命じましたが、もう門衛はグッタリとして身動きもしませんでした。
 学生たちはふしぎに思って近よってあらためてみましたが、門衛はもうほんとうに死んでいるのです。彼は頸(くび)を濡手拭で打たれた刹那テッキリ斧で頸を切られて自分は死ぬであろうと信じてしまったものだから、その信念によって死んでしまったのであります。」
  (フラマリオン博士『未知の世界』)
<つづく>

1577復興G:2012/11/07(水) 19:22:51 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (9)
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    感覚にともなう連想暗示(p.21)

 これらの実例はいったいなにをわれわれに語るのでしょうか。それは人間は感覚というものをもっている。この感覚に付随して起こる連想作用によって人間の信念はいちじるしく動揺せしめられ、その信念によって人間は死にもすれば生きもするということであります。
 たとえば若い帰人が除虫菊を毒薬とまちがえてのみくだした時の咽喉の感覚、胆石症患者が施術前にアルコールで皮膚を冷え冷えと拭いた時の皮膚面の刺激、死刑囚の頸部にポタポタとあたかも血潮のようにしたたったなまぬるい水の触覚――その流れ落ちる血潮かと思われる滴々の音、門衛が濡手拭で頸をひっ叩かれた時のゾッとする冷たさ、これらの感覚が伝えたのはみんな危険でもなんでもないつまらない出来事だったのですけれども、その感覚を起こす前に、言葉なり行為なりでいずれもはなはだ大げさな準備的暗示がしてあるのであります。

 すべてひとつの感覚は、その感覚の意義を大げさに吹聴して、お前の咽喉にこんな感覚が起こったときにはお前はこんな病気になるとか、こんな感覚が皮膚に起こったときにはお前は斬られてもう死んでいるのだとか、あらかじめいいふらしておいて、その感覚を一定部位に起こすようにしますと、きっと予告しておいたとおりに病気になったり、死んだりするのであります。
 一定部位に与える感覚というものは、われわれの精神を多少ともその刹那、一箇所または一つの事柄に集中せしめるのであります。つまり一定場所に限られた感覚に誘導されて精神が一時的に統一してくるのであります。
 その精神統一の刹那に、あらかじめ予備的に与えられていたところの「この感じが皮膚に起こったらお前はこうなるぞ!」というような暗示が効果をあらわして、そのとおりの死または症状が肉体に顕われてくるのであります。

    一定の形のない病気に形を与える医者(p.23)

 ふつうの医者は患者を診察し、脈搏を検し、聴診器で患者の内臓の状態をさぐろうといたします。その病気が深く進行していないかぎり、その病気は一定の形を備えていないのでありまして、何病だか医者自身にもわからないような漠然とした兆候があるのであります。
 これに医者が診断して一定の名称をつけますと、たいてい間もなく容体がハッキリした形をとって、そのつけられた名称の病気に断然なって来るのであります。これはいわば言葉の力であります。
 天地が渾沌としてまだ形がないときに、神が「光あれ」といい給うたら光ができたというのと同じで、兆候が漠然としてまだ一定の形がない時、医者が「何病」だと宣言すると、その言葉が種子となって、二、三日もすると、いままで漠然としてハッキリしなかった病状がその指名されたとおりの形にかたまって来るのであります。
 だから病名を軽率にいう医者というものは多くの場合、病気の名付け親であると同時に、病気の生みの親であります。病気の生みの親の好きな人は、常に医者と仲好しにしていればよいわけであります。
<つづく>

1578復興G:2012/11/07(水) 19:23:26 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (10)
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    風邪を引かぬ法(p.24)

 皮膚の一定部位にある刺激を与えながら「お前はこのために死ぬ」と思わせられればその人が死ぬという道理がわかれば、皮膚の一定部位にある刺激を受けた場合「これは風邪をひく」と思ったならば風邪を引くのは当然のことであります。
 くしゃみをして風邪を引くと思えば、鼻粘膜の一定部位を異常感覚でくすぐられて瞬間的に精神が統一しているさいですから、その刹那に思うことは必ず成就するわけで、その刹那に「風邪を引く」と思うならばその念(おも)いが成就して風邪を引くのは当然のことであります。
 だからこれとは反対にくしゃみをする瞬間に「風邪が出た」と思ったら「風邪を引く」わけのものではありません。

 昭和六年世界感冒の流行のさい、わたしは当時会社に勤務していましたが、わたしの会社の友人は『生長の家』の読者である某氏のほか、みんな数日はそれにかかって休まれたのでありますが、わたしは感冒にかからず、一日も会社を欠動しなかったのであります。

    病気の自壊作用(p.24)

 たいてい、肺結核の方が『生長の家』を繰り返してお読みになり、真理に目覚め、自分の生命の実相を知り、自分の生命が神(大生命)につながる生命で常に大生命の無限生命を供給されているものである、という自覚が深まって来ますと、体温が平温または平温近くなって、しだいに無熱状態になってくるのであります。そのくせ、一時的に咳(せき)や痰(たん)の方は前よりもいくぶんはげしくなってくる例が多いのであります。
 これは、エディ夫人がケミカライゼーション(chemicalization)すなわち「心機一転の化学的反応」と名づけたところのものでありまして、心が光明に照らされてくると、今まで「迷い」のやみが「肉体という影」に映し出していたところの病的状態の自壊を促すので病気そのものが自壊する必要上、黴菌(ばいきん)や分泌物を排除すべき痰や咳がいくぶん増加してくるのであって、いっこう恐るべきことではなく、むしろ歓迎すべきことなのであります。
 このさい起こる咽喉(のど)の感覚的刺激にて刹那的の精神集中状態になったとき、「これで悪いものが排出されてかえって健康は良くなる」という事実に目覚めるならば、自己暗示として働いて、まず病気を根本的に消滅さし、遠からず痰や咳の分量度数も減じて、本当の全快を来たすのであります。
 ところがどうもまだ真理を本当に解っていない人になると、せっかく病気の自壊作用として起こった痰咳の増加を病気の増悪した兆候だと信じて、その自分の誤った信念によって、せっかく治りかけていた病気を逆戻りさせるのであります。
 こういう病気の人は咳が頻発して咳入って苦しいときはとても堪らないではありましょうが、その時に「これは悪くなった」と自分で思うものだから、頸部を濡手拭で引っぱたかれて自分の信念で絶命した門衛のように、自分の信念で病気を悪くするのであります。
 こういう咳入って苦しい時にこそ咳という感覚的刺激でその方に心が集注して雑念が少なくなっているのですから、これで「病根は一掃されつつある」と信ずればその連想暗示はてきめんにきくのであります。
 そんなことをいっても咳が激しく出て苦しいさいに「病気が快くなりつつある」などとはどうして思えよう、といわれるかもしれません。しかし、実際、それで快くなりつつあるのだったら、「快くなりつつある」と思うよりほかにしかたがないじゃありませんか。

 先日私の知っている奥さんがある病気を手術してその後敗血症を起こして死なれたのでありますが、手術の傷面を調べてみると、少しもジメジメとした分泌物がなく肉を盛って来ないままで傷面は薄い紫色の皮膚ができて乾いていたそうであります。
 専門の外科医の話によりますと、肉を盛らないうちに傷面が乾いて、少しも分泌物がなくなると敗血症の徴候で危険なのだそうであります。
 敗血症というと、外へ徽菌が排出されないで血液の中へ黴菌が這入(はい)って血液そのものが腐敗するのだと医者は説明するのであります。
 ともかくも、傷口は全然そこが治り切るまではジメジメとして分泌物を出してそれとともに毒素や徽菌を外へ逐(お)い出すようでないと治りつつあるとは見られないのでありますから、その人がもし肺病なら治りかけの時には痰や咳が多くなってこそ本当に治りつつあるのであります。
<つづく>

1579復興G:2012/11/07(水) 19:24:01 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (11)
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    喀血は自浄作用(p.27)

 一度でも喀血(かっけつ)したことのある人は、こんなに咳(せき)が出てはその震動でまた喀血しやしないかと心配したがるものですが、人体の組織はそんなに脆弱(ぜいじゃく)にできているものではありません。
 医者に聞けば、喀血のある肺病は悪性ではなく治りやすいのだといいます。それは当然のことであります。
 喀血は喀痰(かくたん)と同じく一種の自浄作用と認めるべきもので、それがあるのは、病気の自浄作用として黴菌と悪血とを外に流しだす作用の顕著な証拠で、その人の生命力がまだ麻痺(まひ)していない、すなわち自然療能が目覚めている証拠なのであります。
 だから皆さんのうちに、もし呼吸器病の方があれば、喀血歓迎、痰咳歓迎、すべてこれらは自然療能の力で起こるのであるから恐るべきことはちっともないと考えるべきであります。
 この歓迎すべき喀血や痰咳をば思い誤って、「そのために死ぬだろう」と信じる。そしてわれとわが信念で病気が悪くなって死んでしまうのは、頸部を濡手拭で叩かれて死刑だと思い誤って死んだ彼(か)の門番と同様な愚かさであります。

    自然の瀉血(しゃけつ)療法(p.27)

 ただ大きな喀血がありますと、血液消失のために死にはしないかと恐怖する人がありましょうけれども、自然の生きる力は実に不思議な力をもっていて、その人間が死ぬほどの分量は決して出血するものではないのであります。
 昔から瀉血(しゃけつ)療法といって蛭(ひる)に血を吸わせたり、血管を傷つけたりして血を多量に放出して血液を浄め、かえって新鮮な血液を作らしめて病気を治す方法がありますが、喀血は弾丸で打たれたとか、刀で斬られたとかいうのではありませんので自然の生きる力が自己調節によってこの瀉血療法をやってくれているのですから、必要な時がくれば自然に停まるので決して恐れる必要はないのであります。

 小酒井不木(こざかい・ふぼく)博士も「血は出るだけ出て止まる時期が来れば自然に止まるものである。じっさい止血剤を用いなくとも、出るだけ出てしまうと、ぴったりと止まるものであって、いろいろともがくだけ損なわけである」と断言しておられるのであります。

 「だけどもあなたはそんな事をいって気休めをいうけれども、どこの何某も誰某も、皆多量に喀血して血液が減って死んでしまったではないか」と反対論を唱えられる方があるかもしれません。
 しかし喀血して死んだ人は、百人が百人ながら、決して喀血そのもののために死んだのではありません。喀血したから自分は死ぬであろうという強い信念で気死するか、喀血を恐れて咽喉のところで止めようとして血液が空気に触れて凝結(ぎょうけつ)した結果、窒息(ちっそく)死を招くのであります。
 げに、肉体は「信念の影」であって、「死ぬ」という信念さえ強ければ頸部に水滴を一滴一滴流して出血だと思わせても死ぬ実験さえできるのですから、喀血して死ぬ人は、この自分自身の心の動揺を「肉体なる影」に映して死を招くのですから、心さえ安静にして、喀血が来たら「自然の瀉血療法」をしていただくのである、これはありがたいことだと思い、感謝して心を平和にしておれば、必要なだけの自浄作用が終ると、ピタリと血は止まってしまうのであります。
<つづく>

1580復興G:2012/11/07(水) 19:24:50 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (12)
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    生命の本質は無限に生きる力(p.29)

 人間の本体は、調節力の無限に自由自在な生命であることを根本的に自覚しなければなりません。
 人間を物質でできた機械であると思う人だけが喀血を恐怖するのであります。
 肺臓は身体の内部にあってその血管がやぶれたら縫うこともできないから、血をとめるのにさぞや困難を感じるであろうと心に勝手な信念をもっているから、その「信念の影」なるところの肉体に自身の心の信念のとおりのことが起こってきて、瀉血の必要がすんでも血が止まらなかったりするのであります。
 これもわれわれに与えられた心の力がいかに肉体を左右するかの証拠にはなるのでありまして、人間の肉体が決して心を離れた物質ではないことを示しているのであります。
 元来、われわれの「生命」(生きる力)は神から受けたものであります。そして、われわれの「生命」は常に神とつながっているのでありまして、その神なるものは無限の生命力であると同時に、無限の知恵であり、また同時に無限の愛でありますから、常にわれわれを愛してわれわれよりも賢き知恵をもって、必要に応じて善きようにお計らいがあるのであります。
 これを信じうれば、その信念に従って肉体の生理作用も善きように調節されるのは心の力であります。
 それにもかかわらず、人間は小賢しき小さき知恵で、喀血が多すぎるから危険であるとか、喀痰が多すぎるから、病気ではあるまいかなどと、存在もしない病気――ただ、自身の「信念の影」でしかない病気――を想像してわれとわが念(こころ)に描き出すがために、その想念の映像(かげ)として「念(こころ)の影」なるわが肉体にその病気が客観化されてあらわれて来るのであります。
 すなわちここにも念の力の実証があるわけであります。

 「生命」の本質が「心」であることを知らない人は一度喀血しますと、身体を動揺すればまたその血管が破れて大いに出血する恐れがあるように想像して恐れるのですが、心さえ動揺させねば「念(こころ)の影」である肉体の血管が不必要に破れるということはありません。
 後ほど外傷から移行した肺病の患者さえ、翻然さとったその日から血がとまった例をあげますが、小酒井医学博士のあげていられる例によりますと、田舎の人などはいわゆる「医学」を知らないから、患者が喀血でもすると、背中をたたいて血を止まらせようとします。それがまた実際大いに効を奏して血がとまるそうであります。
 ふつう、医学の方からいいますと喀血は血管が破れているのであるから、その血管が癒着するまでは絶対安静を必要とするのは物理上当然のことであります。それに、絶対安静どころか、かえって背中を叩いて大いに肉体を動揺きせても血がとまるというゆえんは「背中をたたけば血が止まる」という信念が強く肉体に作用する結果でありまして、肉体というものは決して物理的法則に支配されるものではなく、心の法則にこそ支配されるものであること
<つづく>

1581復興G:2012/11/07(水) 19:25:24 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (13)
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がこれでもわかるのであります。

 このように信念を変えれば、肉体が変わる、信念で「善い」と信ずれば、物理的には害のあるような行為もかえって健康によい結果になるのであります。
 それではわれわれは、「こうしたらば健康に悪い」とか「よい」とかいう判断を物理的にはしないようにし、心の力によって、いっさいを「健康に善い」と信じ、信念の力によって実際そうならせようではありませんか。
 なんの術を施してもらうのでもなし、ただ『生命の實相』や『生長の家』誌を読むだけで肉体の健康状態が一変し不治の病も全快する実証が続々あらわれるゆえんも、真理を書いた本を読めば皆さまの信念が変わるからであります。
 おそらく本書のこの一節を一度お読みになっただけでも皆さんの信念は大いに変わられたであろうと思います。
 病気の読者はできるならば本書を三度でも五度でも、信念が心の底から大いに変化してくるまで繰り返しお読みになれば、今までの「病的信念の影」であるところの肉体の病的状態は一変して健康状態に化するのであります。

    神の子たる人間に病気はない(p.32)

 本当のことを申しますと、この本が病気を治すのではありません。神の子たる人間に病気は本来無いのであるから、治すも治さぬもない、本来治っているのであります。
 それにあなたが病気だというならば、それはあなたの「信念」にまちがったところがある、そのまちがった「信念」がちょうど活動写真のように影を映して、肉体に病的状態をあらわしているのであります。
 皆さんが仮に喀血や胃出血を起こしたならば、物質的に肉体という物質が損じて、その血の流れているパイプに物質的の孔が明いた、どうも手のとどかないところに明いた孔だからふさぎようがなくて困るなどとお考えになる一方に、どうも痰や咳や盗汗(ねあせ)が出て肉体が苦しいとか、胃が痛んで苦しいとかお考えになるのであります。
 ところがこの考えには非常な矛盾があるのであります――まずあなたは「肉体は物質であって、その物質に孔があいた」と考えていられますが、肉体が物質であれば、それが単に物質であるというその理由だけで、もう肉体は苦痛を感ずるはずはないじゃありませんか。
 物質は苦痛を感ずる性能がない。それだのに肉体が苦しいと感じられる。これこそ肉体が吻質でなくて「念(こころ)の影」(観念的存在)である証拠であります。
 念(こころ)が苦しいと感じていられればこそ、その念(こころ)のあらわれなる肉体が苦しいと感じるのです。苦しみは念(こころ)にあって物質にあるわけはないのであります。

 こうして肉体が「念(こころ)の影」(観念的存在)だということがわかれば、喀血しても何もあわてることはないのであります。
 「心」が映画技師で、喀血と題する映画を、肉体というスクリーンに映し出しているのですから、それを適当の時に止血させるのには、やはり「心」という映画技師を雇って来るほかはないのであります。
 実際喀血とかなんとか、大いに身体に変調のある時にこそ「心」を落ちつかせて人間の本体が無限に完全な調節能力をもった「生命」(生きる力)であるという事実を「心」に描くべき時なのであります。こうすれば喀血でも、その他の変調でも、適当に調節されて来るのです。といって、一所懸命心をおちつけ精神を統一しようとして焦ったり力んだりする必要はないのであります。

 われわれの生命というものは焦ったり力んだりしなければ、調節が完全にできないようなそんな不完全なものではない。われわれの生命は「神の子」であるからそんなに不調和にはできていない。ただこの真理がわれわれの心の底に「信念」になってさえおれば、その「信念の影」として肉体が調和した完全な調節したものとならねばならぬはずであります。
<つづく>

1582復興G:2012/11/07(水) 19:26:04 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (14)
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 われわれが焦(あせ)ったり力んだりするのは、まだ自分の「生命」(生きる力)が神の生命の「分け生命(いのち)」であって、神そのもののごとくに完全であるという真理(ほんとのこと)を知らないからであります。
 焦ることも力むことも何もいらない、肉体は観念的存在(こころのかげ)でありますから、心が正しき真理を知っておちついていると肉体はなんの感じもない、「影」に感じがないのは当然のことだからであります。
 だから肉体はどこに胃があるか、心臓があるか、肺臓があるか、感じがない時に一等健康なのであります。
 神想観でも坐禅でも鎮魂でもするとその深い境地に入れば肉体があるかないかわからなくなる、これが本来の面目なのであります。
 「生命」は全体として調和した渾一体(ひとつ)でありますから、「生命の実相」を自覚したならば、肉体は渾然とした「一つ」として感じられるのが当然で、「ここに肺臓がある」とか「ここに胃がある」とか「ここに心臓がある」とか個々別々にその存在が感じられる時は、「生命」の渾然とした統一感――「真理の自覚」が心に失われた時で、真理を心に自覚し、自己生命の完全な統一感が得られれば、どこに胃があるとか、心臓があるとかいう「統一自覚の分裂」が消えて、肉体は渾然とした調和した生きもの(生々の実在)として感じられて来るのであります。

    肉体は激勧しても心が安静なれば血は止まる(p.34)

 喀血が起これば医者もびっくりして病人に絶対安静を命じ、本人はもちろん、たいていは家人全体がびっくりしてしまう。しかしこのびっくりすることが何よりも悪い。
 この世の中にびっくりせねばならぬことは何一つ無い。眼に見える症状は「念(こころ)の影」であるから肉体が混乱状態におちいっているならば、心が混.乱しているのが映っているのでありますから、肉体そのものを激動させてさえも、心が安静をうれば出血もとまるのであります。
 小酒井博士の話に、患者のうちには喀血が起こると登山して止めるという人があります。
 登山すれば肉体が激動するばかりか、呼吸を激しくしなければならぬ、呼吸を激しくすれば直接出血部たる肺臓を激動せしめなければならぬ、その上、山上の空気は稀薄で、気圧の開係上ふつうでも出血を促すのであります。しかも、そのために喀血すなわち肺臓の出血が止まるというのはどういうわけでありましょうか。
 それは信念が働くからであります。そういう人は、誰からか、ある機会に「喀血したら山へ登れば血が止まる」と聞いたに相違ないのであります。それを聞いたとき「なるほど」と思った。「喀血したら山へ登れば血が止まる」ということがグッと心の奥底にたたみ込まれて信念になっているのであります。
 信念ほど強いものはない。肉体は「心の影」であるから、登山して激動し、その上稀薄の空気に触れれば破れた血管はますます破れるという、「物質界の法則」を無視して出血がピッタリと止まってしまうのであります。
 信念は「物質界の法則を破壊する」というのはこれで、強い信念の前には「物質界の法則」は降伏してしまうのであります。

 医界で難治症または不治症と認められている病気は、胃でも肺でも決して薬をのんで治るものではありません。
 というのは、難治症または不治症と定評ある病気は、医者や薬学者がいろいろ医薬を試みても治らず、また病人自身がいろいろ民間薬を試みても治らず、ついに「この病気は薬では治らない」という信念をほとんど皆が皆までもっているのが、この難治症または不治症であるからであります。
 だから「こういう病気は薬では治らない」ということが人類的信念になっているのであります。
 一人の人の信念でも強く働けばずいぶん偉大な力をあらわすのですから、ほとんど人類全体がその潜在意識に「この病気は薬では治らない」と信じている以上、その全体の信念は総合的力として宇宙に充ち満ちているので、なかなかその信念を破ることは難かしく、したがってそんな病気に薬を用いても治らないのであります。
<つづく>

1583復興G:2012/11/07(水) 19:26:36 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (15)
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    難病慢性病に薬が効(き)かぬ理由(p.36)

 薬が最もよく効くのは、薬に対する人類の信念と、薬を与える医者の信念と、それをもらう患者の信念とがピッタリと合ってクライマックスに達したときであります。
 ところが難治病者は、
 (1)自分自身にこの薬をのんだら必ず効くという信念なく、
 (2)医者自身この薬で彼を治しうるという自信なく、
 (3)人類全体が「薬では治らぬ」と信じているのですから、薬の最も良く効く部分(信念)が去勢されてしまっていて何もない。
 否むしろ「薬では治らぬ」という人類的信念の心的波動の影響を受けて、薬を用いれば用いるほど治らぬことになるのであります。

 だから現代医学の難治症にかかった人は薬をやめた方が、人類的信念から「治らぬ」という精神波動の放送を受けることが少なく、薬を止めただけでもその病状が快方におもむくのが常であります。
 それだのに現代医学の難治症にかかった人が、何かの薬をのんでいなければ不安に思い、経済上にいろいろの苦慮煩悶を重ねつつ、薬に親しんでいるのを見るとわたしは実に悲惨な思いがするのであります。
 わたしはこういう人たちを救ってあげたい。なんとかして真理(ほんとうのこと)を知らしてあげたい。そんな病気は薬を止めればかえって病気がよくなるという真理を知らしてあげたい。
 病人に薬がなくてもすむということがわかれば、病気のために長らく職業を休んで収入も少なく、経済的にも家計にも常に心配の絶えなかった病人の心にとっては、一つの重荷がなくなるのであります。
 病人の心から一つの重荷がなくなれば、それだけでもその病気が軽くなる原因となります。すなわち薬を止めて病が軽くなる理由は次のように三重になるのであります。
 (1)人類的信念から「治らぬ」という精神波動の放送を受けることが少なくなり、
 (2)病人の心のうちから経済的重荷をなくするのであります。
 (3)しかしそれにもましてなおなお大きな利益は、人間が自分の運命を「薬」という物質に頼らせず、ひたすら自分の「生命」(すなわち生きる力)にのみ頼って生きぬこうという決心ができることであります。

 生長の家に「背水(はいすい)の陣を布(し)いて生きる」という生き方があります。
 この背水の陣を布いて生きる生き方はすべての退路と依頼心とを捨てて、進むほかに道がないようにしていやでも応でもまっしぐらに生きてゆくという生き方であります。
 この生き方になりきって薬にも注射にも依頼心を起こさず、ただ、自分が治るには「自分の生命力」に頼るほかはないと本当の決心ができて来ますと、いままで自分の内に隠れていて働かなかった無尽蔵の力が働き出して来て今まで不治だと思った病がたちまちケロリと治ってしまうようなことになるのであります。
 不治というのも、実に薬に対して依頼心を起こしていたからこその不治であって、ぜんぜん他物に依頼心を起こさず、ひたすら自己自身の生命力にのみ頼るものは、自己の内に隠れている無限生命の源泉(神)に触れるので、「神はみずから助くるものを助く」という千古の金言を如実に味わわしてもらうことになるのであります。
<つづく>

1584復興G:2012/11/07(水) 19:27:09 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (16)
   -----------------------

 われわれは飢饉にでもあい絶食せねばならぬようになって一、二週間も断食しますと、身体の衰弱がはなはだしく健康に非常に有害でありますが、健康法の一種として一、二週間断食しますと非常に身体の健康状態が改善するのであります。
 これはなぜであるかと考えてみますと、飢饉のさいには「食べなければ衰弱する」と思いながらも食物がないからやむをえず絶食しているのでその信念のとおり衰弱するのであります。
 が、断食療法のさいには「断食していれば健康になる」と信じて断食をしますからその信念のとおり健康になるのであります。同じ「断食」でもこのとおりで、信念の差異によって健康法ともなれば衰弱法ともなるのであります。

 薬をやめるのもそれと同じで真理を知って薬をやめますと、先刻申しましたように三重の利益が伴い、かえって病気が全快するのであります。
 が、これとは異って、真理を知らないでぜひとも薬がなければ助からぬように思いながら、経済的理由などでやむをえず薬を止めますと、その人の心は今までただひたすら薬にすがりついていたのが、急にすがりつく対象物がなくなり、失望落胆して病気が急に悪くなる事が世間には時々あるのであります。
 これは何も、薬をやめたことが病気を悪くしたのではない、患者自身の心が「薬をやめたら病気が悪くなる」と強く強く信じている――その信念の力によって病気が悪くなったのであります。
 だからそんなまちがった信念を放下してしまって自発的に薬をやめるならば、薬をやめたために病が悪くなるという恐れは断じてない。それはわたしが請け合っておく。
 わたしが請けあうので頼りなければ医学博士でも請け合ってくれる――すなわち『小酒井不木全集』第五巻四十九ページにも「長い間持続した薬剤を廃するときはかえって健康を増進するのである」と明瞭に断言してあるのであります。

 『明るい家』という雑誌の昭和六年一月号にも「医学の正道は?」と題して湯本医院の大塚敬節氏が、昼食後の医院の楽屋ばなしを書いていられるのであります。
 これは医者自身の漫談なので実際薬剤というものが、現代医学においていかなる立場にあるかを示していて、薬迷信におちいっている病人に反省を与えるのに有益だと思われますので、次にその一節を抜粋することにします。
     ○
 医学士A「学校を出た当時は勉めて、新しい薬をいろいろと使ってみたものだったが、それがすべてむだであったことがこの頃わかって来た。」

 医学士B「それは君が大家に近づきつつあるたのもしき現象だ。結核患者を初期から末期まで重曹一方で押し通すだけの胆力がなければ大家とはいえない、といった博士がある。これも一面の真理だといえよう。」

 医学士C「薬剤で病気が治るように思うのはすでに迷信だ。しかし迷信を必要とする哀れな民衆が存在するかぎりは薬剤はやはり必要だ。マルキシストがいくら宗教はアヘンなりといって宗教撲滅のために努力しようとも、アヘンを欲求する民衆がこの地上に溢れている現代においては、宗教はそうたやすく滅びはしない。」

 医学士D「それらの言葉は西洋医学へのおそろしき爆弾であるかもしれない。西洋医学は民衆のアヘンなり、と僕は叫ぶことができる……屍体(したい)から得た解剖学の知識を生活体に応用するところに西洋医学の根本的の誤謬(ごびゅう)がある。屍体と生活体とが等しきものなりとの証明ができうる日まで西洋医学もまた想像の医学にすぎぬ。」
     ○
<つづく>

1585復興G:2012/11/07(水) 19:27:43 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (17)
   -----------------------

 皆さんはこの医者の楽屋ばなしを読んでどんな気がなさいますか。
 実際、庸医(やぶい)は薬を売るために薬の効果を喋々(ちょうちょう)しますが、名医は薬に付属さして与える「治る」という信念を売るために薬の効果を喋々するのであります。
 薬のくだらないことを百も知りながらも、名医は患者自身が「治して欲しい」と思うよりも「薬を欲しい」と思っているものだから薬を与えるのであります。
 診察する時の医者の態度、薬を与えるさいの医者の態度、これによって喚起された「治る」という信念を薬に付着させて思者にやる、ここが治病の極意であります。
 聖医になってくると薬を与えないで、病的観念を他に転換してしまうだけで病気を治すのであります。

 病気は本来無い。神の造り給わないところの病気はぜんぜん無い。
 病気とは心に描いた仮想的存在でありますから、その仮想的存在の仮面をはがしてしまって、「それごらんなさい。お前は念(こころ)で描いた仮面を被(かぶ)って、そらあるぞ! と威(おど)しつけているけれども、その『病気の念』という『仮面』を取り去ってみると中味は空っぽで、その実存在しないじゃないか、」といわれてみると、病気の夢を見ていた人が目を覚まされた時のように、今まであると思っていた病気が、どうしてこんなに治ったのだろうと不思議がるような事実もできてくるのであります。

 『生長の家』の読者でまだ若いがなかなか精神的に悟りを開いている人があります。
 この人が今まで乗っていた船を下りて「土を耕す人」になるべく故郷へ帰る途中で、私の説くところに大いに共鳴したので一ぺんわたしに会いたいといって立ち寄られた。
 わたしはあいにく不在だったのでお目にかかれなかったが、家内が私の代りに会って話したのであります。
 この人の話を一言もまちがえないで取り次ぐことはできないのでありますが、かいつまんで話すと、この人は外傷性肋膜炎がもとになって肺病にかかり、たびたび多量の喀血をせられたのであります、その時分、この人はずいぶん悲観し煩悶していられたものらしい。
 ある日小酒井不木博士に自分の病気の事について相談すべく博士邸を訪れられた。ところが小酒井不木博士はこの人の顔を見ると
 「君は煩悶してるな。そんな事でどうする!」
 と一喝を浴びせかけた。この人はハッと思った。
 「なるほど自分は煩悶している。煩悶しているからこそ、自分自身に宿っている全能の治癒力が働かない。それに違いないと悟った、いかに思い煩うともわが生命を寸陰をも延ばすことはできないではないか、煩悶を捨てよう。」
 カラリと秋晴れの空のように、実にきれいさっぱりとこの人は煩悶を捨てられたのであります。
 すると昨日まで続いていた喀血がその日から止まってしまったのであります。
 わたしは病気は仮想的存在でたとえば白昼に悪夢を見ているようなものだと申しますと、どうも君のいうことはわからない、じっさい解剖してみても物質的病的変化のある病気を、病気は無いだの夢だのといわれて、あまりに高遠すぎて解らない、も少し解るように説明して欲しいといわれる方もあります。
 けれども実相を見る目から見て病気は無いのだから、無いと説明するより説明のしかたがない。そして「神想観」によってしだいに実相を見る力を養うよりしかたがないのであります。
<つづく>

1586復興G:2012/11/07(水) 19:28:22 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (18)
   -----------------------

 じっさい「無いもの」を夢に見てその心の状態を肉体に映し出しているのが病気ですから、小酒井博士のように一喝をくらわしたのが動機になってその夢がさめると、忽焉(こつえん)として、喀血の夢も、外傷性肋膜炎の夢も消えてしまう。ここが大切なサトリでありまして、われわれの肉体は、心の影でありますから
 「なるほど自分の生命というものは無限に完全なる神の子だ、その生きる力は無限だ。今まで自分の力は有限なものだと思っていたので、外の力――薬や注射や光線療法などに頼っていたけれども、そんな外からの力は、自分の内に宿っている無限の生きる力に比べれば実に太陽の前の星ほどの力もない」
 ということがハッキリ判り、他の療法や薬にいっさい頼らなくなって、「内から出て来る生命の無限の生きる力」に打ちまかせて生きるようになると、「解剖的に実際在るではないか」と反対論者の示されるような外傷的肋膜炎でも、喀血でも消滅してしまうのであります。
 これも空論ではなんにもならない。実際だから力強い。
 こうなると解剖学的に実際存在するという病気も、ちょっとした心のサトリで消えてしまうのだから、実在だかどうだか、すこぶるたよりないものだといわねばなりますまい。

    直接体験に立脚した自分の生きる力に任せきれ(p.44)

 それだのに病人に限って病気を崇拝している。
 そういう人は目に見えない神を信仰する人を指して迷信扱いしがちでありますが、じっさいちょっとしたサトリで消えてしまうようなはかない存在力しかない病気をあたかも無限の力をもっている神のように崇拝し、その前にひざまずき、薬代だの、注射料だの診察費だのと、やたらに多額のお賽銭を捧げている人こそ迷信家ではありませんか。
 「生長の家」はこういう病気迷信を撲滅し、真の正しい信仰――自分が生きているという否定しえざる直接体験に立脚し、この自分を生かしている無限の生命力を礼し、敬し、この無限の生命力にまかせきって生きる道を指導するので、それは実に生命の直接体験に立脚しているのであって、頼りない感覚や、その感覚の眼鏡を通して見たらこう見えたというような不確かなものを根拠としているのではありませんから、決して迷信的分子はないのであります。

 さっきの湯本医院の楽屋ばなしにありますように、薬剤で病気が治ると思うのが迷信なのであります。
 病気を治すのは自分に宿る生命力(神)のみであります。
 皆さんのうちには『生長の家』も読み、薬も服(の)み、そのほか、いろいろの治療法も手当たりしだいにやってみてそのどれかが効くであろうと、八方美人式に数多くの治療法に秋波(いろめ)を使っている人があるかもしれませんが、この八方美人主義は他のことにはよい場合があるかもしれませんが、「生命」のことに関してだけは断然いけないのであります。
 「生命力」そのものを信じ、礼(らい)し、まかせきるのと、「生命力」以外の力を信じ、礼し、その力にも半分を委ねようとするのとは、決して両立しないのであります。
 自分に宿る「生命力」以外のものを信ずる、あるいは、ちょっとでもこの「生命力」以外のものから助けを得ようとするのは、自分の「生命力」に全信頼を捧げないことを意味する。これでは「真理」を知ったということができない。「生命の実相」を悟ったということができない。
 宇宙を支配する摂理の手は十方にあまねく自在であり、生命は無限の生きる力をもつのに、何か自分のわたくしのはからいで思い煩い補助しなければならぬであろうと思って、これを行ないに現わすところに「迷い」がある。
 この「迷い」は必然肉体に反映して虚弱な身体となるのであります。
<つづく>

1587復興G:2012/11/07(水) 19:28:54 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (19)
   -----------------------

    他物に頼らざる者はついに勝つ(p.45)

 われわれは誰でも自分自身の内に「無限の生きる力」を潜在せしめているのでありますから、この力を完全に発現させればどれだけでも健康になるのであります。
 では、これを発現さすにはどうしたらよいかと申しますと、「他物に頼るな」ということであります。純粋にただひとすじ、自分の生命力――自己生命を生かしている無限の力にのみ頼れということであります。
 いつかの「智慧の言葉」にも「自分自身の力で立て。他物に頼るな」と書いてあったとおりであります。
 そのよい例がわれわれの両足であります。両足のうち片足でも轢(ひ)きちぎられたら、われわれは片足の代りに義足というものを工夫して、この義足に頼るか、松葉杖というものを工夫して、この松葉杖に頼るかするのが、普通であります。そしてたいていの人間は、義足や松葉杖を工夫する発明力も神が与え給うたものであるから、結局、松葉杖や義足を工夫してこれを使うのは人間の特権であるというふうに考えるのであります。
 薬についてもこれと同じ見解をもつ人がありまして、「薬も神さまが直接間接造ってくださったものですから、それを使ってもよいでしょう」といわれるのであります。
 こういう問いにお答えするには議論ではいけない、議論ではどちらにでも理屈がつくからであります。
 でここにわたしは、片足片手を失いながら、松葉杖にも義足にも頼らないでひたすら自分の生命力のみに頼っていたならば、その人間は松葉杖や義足に頼った人とどれだけ大きな相違を生ずるかということを、実例をもってお答えしようと思うのであります。

 東海道線国府津(こうづ)駅を降りて小田原街道を十四、五町小八幡(こやわた)という小村に石井峰雄氏という片手片足の偉人がありました。
 この人は実に偉人だ。昭和八年頃新聞雑誌に紹介されて一時有名でありました。
 というのは、六歳の時小田原電鉄上り電車に轢(ひ)かれて片手と片足とを失ったのであるけれども、義足にも松葉杖にも頼らずに、自分の内に潜んでいる「無限の生命力」にのみ頼って歩くことにせられたからであります。
 「何物にも頼るな。ひとりで立て。」
 この人はまるで「生長の家」のこの「智慧の言葉」そのままを生活されたのであります。
 その結果はどうなったかといいますと、松葉杖にすがって歩く片足の不具者はふつうかろうじて歩むことができるというほかに能がないのに、この人は片手片足のままで高跳びができる、水泳ができる、木登りができる、果物むきができる、およそ四肢のある人のできることならなんでも人に劣らずできるというようになられたのであります。

 ここにもわれわれの生命の力が無尽蔵である証拠があげられているのでありまして、松葉杖に頼る者は、その依頼心相当の小さな力しか与えられないのに、松葉杖に頼らない者は、またそれだけよけいに生きる力が発現されて来るのであります。
 こうなると松葉杖は神が人間に与えたものであるとか与えないものであるとかの問題ではなくなるので、松葉杖がたとい神から与えられたものにもせよ、われわれの出しうる力の分量は、われわれが依頼心を出さぬか、出すかで決まるのであります。
 薬物も松葉杖と同じことで、それが神が作ったものであろうと、治したいというわれわれ人間の精神力が物質化したものであろうと、それがたといいずれであろうとも、依頼心を起こしただけ、われわれの生命力は小さくしか発現せず、われわれの健康も小さくしか発現しないのであります。
 ここが大いに生長せんとする者、大いに健康を得ようとするものの大切な点でありまして、依頼心を起こさないで、どこどこまでも自分の生命力を掘り下げてゆくものはついに無限の生命力の噴湧(ふんゆう)する「大生命」から豊かな健康の供給を受けることができるのであります。
<つづく>

1588復興G:2012/11/07(水) 19:30:52 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (20)
   -----------------------



 だいたい人間は、これだけきりしか生理的に力が出ないと思っているのがまちがいであります。
 シャックルトン大尉の北極探険隊一行中に禿頭のものが一人ありましたが、この北極探険のために極地滞留中、寒冷の外気にやや長く接触していたために、以前には毛生え薬を塗りつけても、なかなか生えなかった禿げ頭に頭髪が濃く生えて来たというのは有名な事実であります。
 暖地の空気に温かく保護され甘やかされていては、いくら薬を与えられても、彼の毛根はついにその機能を完全に営むことができなかったのであります。
 「大自然は薬よりも名医なり」とは千古を貫く金言でありまして、現代人の多くは、薬だとか滋養剤だとかによって人体を甘やかしすぎるために、その生活力を萎靡(いび)せしめているのですから、健康になりたいと思うならばわれわれはもっと大自然と直接に接するようにしなければならないのであります。

 薬剤がなければ人間は総体的にもっと健康が増進したであろうとは、真に生命の何ものなるかを知った医道の名家が口を揃えていっているところであります。
 文豪森鷗外氏は医学博士でありながら、自分の病気の治療に薬剤を用いることを拒んだということは、誰も知らないもののないほど有名な事実であります。
 また明治天皇の侍医だった入沢達吉博士は自分の臨終にも薬剤を用いることを拒んだのであります。
 英国皇帝ウィリアム四世の侍医であったゼームズ・ジョンソンも「自分は長い間の臨床的観察と自己省察とを基礎として、誠実な真面自な意見として発表するのであるが、もしこの世界に一人の内科医も、外科医も、薬剤師も、看護婦も、薬学者も、製薬業者も、それから薬も無かったならば、人類は病気にかかること、もっと少なく、もっと長寿を楽しんだであろう」といっているのであります。
 これは薬剤を排斥するよりも薬剤に頼る心が人間の罹病率を増加する意味でありましょう。
 ロンドン医大の碩学、メースン・グット博士にいたっては、
「人体に及ぼす薬剤の効能というものはとても不確実なものであって、ただ確実と称しうるのは、薬が人間を殺した人数は戦争、疫病、飢饉が今までに人間を殺した数よりも多い」
 とさえ極言しているのであります。
 これはむろん、ペニシリンや、クロロマイセチンやオーレオマイシン等の抗生物質が発見されるまでの医者の言葉でありますけれども、しかし総体として、杖は一時、脚の弱い人の助けになるけれども、杖に頼っているとき、その人は健脚となることができないように、薬剤に頼っているとき、それは一時、生活力の弱っている時に助けになることはあるけれども、いつまでも薬剤に頼っている時にはその人は本当に健康となることはできないのであります。
 その上、効くような薬剤には必ずなんらかの副作用があって、一つの病気の症状を減退せしめながら、他の病気にかかりやすい素地(もと)を作ったり、薬毒の蓄積によって血管硬化や老衰をはやめるからであります。
<完>
以上、20回に分けてテキストをアップロードさせていただきました。
合掌 礼拝

1589復興G:2012/11/07(水) 19:36:46 ID:vWpLkCzM

たいへん申し訳ございません。(2) (2回目)が抜けておりましたので、あとになりましたが、ここにアップさせて頂きます。
よろしくお願い申し上げます。合掌

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (2)
   -----------------------


 さすがに岩野博士は医者だけに、病人自身の主観的要素の這入(はい)らないように、いわば学用患者を人間にしないで動物にし、ひたすら術者の心力(しんりょく)が、どの程度まで動物の健康状態を左右するものであるかを実験しようとせられたので、実にその結果は科学的価値あるもので坊間(ぼうかん)の心霊術者の報告と同一視できないのであります。
 ところがその結果をみますにハブ蛇毒の致死量を注射されたモルモット三匹のうち二匹は、術者の精神力によって死ななかったというのは実に興味あるものといわなければなりません。
 また結核菌を注射された五頭のモルモットは、たとい後に消化器病で死んだにしましても、術者の念力が加えられた三頭は体重が増加し、他は皆やせていたのであります。

    病を予想する念力と、治癒を予想する念力との戦い(p.5)

 ともかく、これで人間の念力が病気を治し、または毒薬を無毒にしてしまう力があることを証明されたといわなければなりません。それならば、なぜどのモルモットもみんな術者の念力(こころのちから)で助からなかったかといいますと、モルモット一頭ごとにおのおの固有の精神的要素がある上、これには術者以外の他の念力が加わっていることを認めねばならないのであります。
 精神療法家の念力を認める以上はモルモットは毒素や結核菌を注射した医者の念力をも認めなければなりません。医者はモルモットに毒素を注射しながら「今自分はハブ蛇毒の致死量を注射するから、このモルモットは必ず死ぬ」と信じて、かく心に、無意識にもせよ、念じたに違いありません。あるいはまた結核菌を注射しながら「今わたしはなんじに結核菌を注射するから、なんじは必ず結核に感染して死ぬに相違ない」と医者は信じて、かく心に、無意識にもせよ念じたに相違ないのであります。
 ところが精神療法家は、「われこの術を行なう上はいかなる病も癒えずにはいないのだ」と信じてそう念じたでありましょう。
 こうなるといっけんこの実験は物質(ハブ蛇毒または結核菌)と精神療法家の念力との戦いであるようでありますが、実は医者の「彼は死ぬ」という念力と精神療法家の「治る」という「念力」との戦いであって、精神療法家の「治る」という念力が勝った場合には、被験動物は死なないで生き、医者の「彼は死ぬ」という念力の勝った場合に被験動物は死んでしまったのであります。

    念力一つで同一物が毒にも薬にもなる(p.6)

 いったい一つの物質(ハブ蛇毒)に医者の「彼は死ぬ」という念力が加われば猛毒となり、同じ物質に精神療法家の治るという念力が加われば無毒となるのはどういう訳でありましょうか、ここにわれらに与えられたる「真理への鍵」があるのであります。

 同じ物質が念力一つで猛毒ともなれば無毒ともなるのでありますから、物質そのものは本来、毒でも無毒でもないのであって、人間の念がこれを毒にもすれば無毒にもするのであります。
<つづく>

1590復興G:2012/11/07(水) 19:40:10 ID:vWpLkCzM

合掌 <つづく>とありますが、つづきはすでに >>1571 にアップされていますので、もう「つづき」はありません。

1591ハマナス:2012/11/07(水) 23:49:17 ID:x2zmnlqw


神の子のみなさま
ありがとうございます。

物質身の衣を脱ぎすてよ (『新版 生活の智慧365章』P.281)

 自己の霊的自覚が深まって来るに随って、その程度に応じて、肉体は霊化され、物質的
な衰弱や疲労や労須地が肉体にあらわれて来る程度が減じて来ます。人体が霊化するに
随って、人間は愈々神の最高の自己実現としての役割を一層完全に果たすことができる
ようになるのです。

 神は霊的実在でありますから、神の最高実現としての役割を果たすには、自己を単なる
「物質的存在」だと観ている限りに於ては充分な役割は果たせません。霊なる神の最高
実現としての役割を完全に果たすには、自己が「霊的実在」であると云う自覚から出発
して、其処から全知全能の「神の力」を引き出して来なければなりません。心の世界から
「物質身」の衣を脱ぎすて「霊なる体」を見に着けなさい。

感謝合掌

1592a hope:2012/11/08(木) 09:08:48 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第六章 希望の夢を描きましょう
♦思ったとおりになる世界


何でも思った通りになるのです。「力がない」と思えば力がなくなります。
「すべての力は与えられているのだ」と信ずれば力が出てまいります。

「弱い、弱い」と語りながら強くなったものはありません。
「私は病気だ」と語りながら健康な者はありません。
強くなるのには常に「自分は強い、強い」と語らねばならないのです。

貧乏を考え、貧乏を語り、貧乏について悲しんで気を落とし、貧乏を夢み、
貧乏を実行していて、金持になったものはありません。

消極的(ひかえめ)な、悲観的な、退嬰的(しりごみする)事ばかり考えていながら幸福はやって来る筈はないのであります。

そんな人は悲観的なことばかりを引付ける磁石になったようなものです。
何でも、自分の心の波長に合うもののみが引きつけられて来るのは、
波長のあう放送だけがラジオに受信されて音を たてるのと同じことであります。

「笑う門には福来る」「泣き面に蜂がさす」などと云う諺は、ここの道理を説いたものであります。
幸福と成功と上達と繁栄と希望の夢をえがいて、常にほほえみ、努力をおこたらぬ者のみに真の幸福は来るのです。
(第六章終り) 

第8回web誌友会開催期間は、「新版 生活読本」の謹写をお休みさせていただきます。

1593ハマナス:2012/11/08(木) 23:19:51 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

物質の装いをつけた生命  (『新版 生活の智慧365章』P.281)

 生命なきものから生命は生じない。物質から生命は生まれたのではなく、物質は生命の創造した
ものである。だから単に物質の最初の示現と見えているような簡単な「原子」構想に於てすらも、
そこの「知性」の影がやどっているのである。それが結合したり分離するのが一定の秩序性を以って
法則によって行われるのが、それを証明しているのである。それみずからによって秩序性を以って
法則によって行われるのが、それを証明しているのである。それみずからによって秩序を保つものは
「生命」であり、「知性」である。それは実は「物質」の装いをつけたところの「霊」であり「生命」
である。

 ただし吾々が知識や学問によって、人間を「物質」だと思いちがいし、「物質」だと思いちがいし、
「物質」の装いをつけたときには、「生命の完全な姿」は恰もアダムが「知恵の樹の実を食った揚句、
無花果の葉を綴ってその体を覆った」ときにその霊的完全なる姿が失われてエデンの楽園から追放せ
られたように、「完全健康」の世界から追放せられるのである。

感謝合掌

1594うのはな:2012/11/09(金) 18:59:57 ID:0OK1Hwak

 ブラックソンさんの夢の中に谷口雅春先生があらわれて、「すぐガーナを去ってロンドンに行きなさい」
と言われた。ブラックソンさんはすぐにそれに従った。当時ガーナでは政変があったのである。
クーデターで、アチャンボン大統領が暗殺されたのは、彼がロンドンに行った数日後のことであった。

 ブラックソンさんはこの大統領と親友であったから、もしブラックソンさんがもう数日ガーナにいたら大変な
ことが起ったと思われる。一九八五年(昭和六十年)、私がヨーロッパに行ったときロンドンで私はブッラクソンさんに会った。
彼はベサニー教会という名のキリスト教会を主宰していた。午前十時ごろ訪問したその教会には信徒がいっぱいだった。
ブラックソンさんは私に言った。

「この教会はロンドンで一番活動的な教会としてBBC放送がテレビで放映してくれました。ロンドンにはアフリカから来た多くの人が
おります。こういう人々はたくさん問題をかかえています。しかし個人指導によって解決されない問題はありません。奇蹟が起るのです。
谷口雅春先生は今でも私に現れます。そして真理を啓示してくれます....」

 演壇にはアフリカの民族衣装を着た、美しい純子さんが微笑んでおられた。ブラックソンさんと純子さんの間の中学生の男の子もそこにいた。
ブラックソンさんは私に言った。「すべては神様と谷口雅春先生のおかげです。私は何ヶ月かアフリカをまわり、残りはロンドンです。渋谷先生、
どうか私たちのために祈って下さい。私も生長の家の発展のため祈っております」
このブラックソンさんの訪日は、多くの生長の家の信徒さんたちを元気づけた。

 何よりも谷口雅春先生が、肉体は日本におられても霊としてアフリカにおいて、“人間神の子”の真理を説かれたことは、世界の宗教史上特筆されるべき奇蹟である。
「人間は肉体にあらず霊なり」という真理を先生は示されたのである。
 私自身はといえば、ブラックソンさんの講演の通訳を通して、人間は肉体ではない、という真理を目のあたりにしたのである。

『光の国から』 渋谷晴雄 先生著

1595ハマナス:2012/11/09(金) 22:47:29 ID:x2zmnlqw


神の子のみなさま
こんばんは。

「霊的実在」の誤訳  (『新版 生活の智慧365章』P.282)

 「物質」は本来物質ではなく「霊的実在」なる本来の存在を、吾々の「五官の心」が「物質」
として翻訳して見せていてくれるものなのである。それは翻訳と云うよりは誤訳と云う方が正
しいのである。本来自由自在なる「霊」を、不自由不完全なる物質と謂う「固定的な姿」に
翻訳したのであるから全く誤訳も甚だしいのである。

 吾々は「霊的実在の世界」に於ける「健康なる生命の実相」や、融通無碍なる「経済状態の
実相」を見ることなしに、病気を見、物質の乏しきを見、欲念を起こして奪い合いをし、戦争
や闘争を繰り返しているのである。これは人間が「知恵の樹の実」をたべた結果、「妄心」を
起こして、この世界を物質だと見、奪い合いをするほかには裕かになる道はないと錯覚した
錯誤観念の上に「妄想」を描いている結果である。奪い合いをすれば裕かなものも却って乏
しくなる。

感謝合掌

1596<削除>:<削除>
<削除>

1597ハマナス:2012/11/10(土) 23:58:01 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。

「夢」を打ち消せ (『新版 生活の智慧365章』P.283)

 すべては霊である。何故ならすべて実在するものは、「神」とその「表現」
とであるからである。神は完全であり調和であるから、完全であり調和である
ものから不完全または不調和が表現されると云うことはあり得ないのである。
それゆえ、神の最高の自己実現である人間が不完全になり不健康になっている
と云うことはあり得ないのである。それが不完全になり不健康にあらわれて
いるのは、「妄心」が夢を見ているのである。

 あなたが不健康だったらそれは夢です。あなたの子供が不良だったらそれは
夢です。あなたに職業がなかったら、それは夢です。あらゆる不完全なものを
心の中で「思念」によって「夢だ」「夢だ」と打ち消しなさい。そしてあなた
の「実相」である完全さを既に「実在」であると、心の中で繰返し繰返し肯定
なさい。実相世界の完全さに波長が合うまでその肯定が高調したとき実相の
完全さが現実化します。

感謝合掌

1598うのはな:2012/11/11(日) 20:50:04 ID:Z48Us0zE

   『生命の實相』その他の文献

 さて、『生命の實相』頭注版第11、12巻は万教帰一篇であり、以上述べた内容がくわしく説かれるている。
また第25巻一九二頁には《仏教の無明縁起は「創世記」第二章に書いてあり、『法華経』に説いてある久遠実成の浄土は
「創世記」第一章に説いてある》として、仏教、キリスト教が一致する所以が説明されている。

 第30巻には「山上の垂訓の示す真理」がある。何れにしても「万教帰一」を理解するためには
『生命の實相』のそれらの巻を精読しよう。

「生長の家の全貌ーーー生長の家は現代に何を与えるか」(一九五五年一月号『生長の家』<『生長の家の三十年史』所載の
「生長の家の信仰及び谷口雅春先生の事業」に摘録>)には「万教の真理の一致を指摘して世界を平和ならしめる」および「独創的な
直感による各宗教の偏差の調整」(原文を指摘して世界を平和ならしめる」および「独創的な直感による各宗教義の偏差の調整」(原文は正漢字・旧かな遣い)
という見出しで、この万教帰一の真理が明解に説かれている。

 ここで私たちが忘れてならないことがある。それは、この万教が一致するということは『生命の實相』の真理を通してはじめてわかることであり、『生命の實相』の
真理が如何に偉大であるかをわれわれはあらためて知らねばならないということである。

 キリスト教国ブラジルにおいて、生長の家が高く評価されているのは、この万教帰一の真理のすばらしさが人々に理解され、そしてまた事実、多くの救済の成果があがって
いるからである。

 『光の国から』 渋谷晴雄 著

1599SAKURA:2012/11/11(日) 21:40:21 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻」より……

===【抜粋文】=====================================
そのころ塩土老翁なる老翁来りて神武天皇に「東に美地有り」と御奏上申し上げたということ
が同じく『日本書紀』に書かれている。東方より「大和」の理念が生まれて来るという象徴物
語である。

 この塩土老翁は『古事記』では塩土神とて目無堅間の小舟を作り彦火々出見尊を乗せまつって
金 銀 饒なる龍宮海に導き奉ったとでている。

 龍宮海とはウミの底である、「創造の根底」にある世界とは現象のよってもってあらわれる根源
の世界である。格言すれば実相の浄土である。目無堅間の小舟とは、時間の目盛無く空間無く堅く
つまりたる小なる一点である。格言すれば、無時間・無空間の世界、時空を超越し、そこより時空
生まるる一点(久遠の今此処)に乗るとき衆宝あまねく充つる龍宮海に入ることができるのである。
「無字透関」である。「無」を超えてsらに実相地に透関するときそこに龍宮海すなわち、無限供
給の極楽浄土を実現することができるのである。この無限供給の極楽世界に入る方法を教えたまう
神が塩土神である。そして龍宮海は極楽にして住み吉きがゆえに住吉世界の本尊大神と申し上げ
るのである。

(つづく)①

1600SAKURA:2012/11/11(日) 21:42:16 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>投稿の続きです。…が
>>1599①投稿の続きです…。

 龍宮海は、時間空間を超えた世界であるから、浦島太郎はそこにあるとき永遠に年老いず、
このことを仏教では無量寿世界に入るとき無良寿仏と同じ悟りに入ると言うのである。
老病死の三奸を征伐せられてから住吉大神は茅渟(ちぬ)の海に面して長湾をなせる山峡に
鎮め祀られたのである。今は神戸市東灘区住吉に本住吉神社があり、神功皇后を主神とし、
脇神として筒男の三神をお祭りしてある。後に泉州堺に御遷座申し上げたるにより、ここを
本住吉神社というと承っている。

 三韓征伐とは、老病死の三奸の克服の象徴物語である。住吉大神が竜宮の大神であり、
無量寿仏のあらわれである以上、老病死の三奸の克服せられたことは当然のことでなけ
ればならない。 (抜粋投稿)
============================================☆
PS:
■【日本書記…】より大和の理念からの「象徴物語」です。…が?・・塩土神・・東方より大和
ここからが、私の「ロマンの旅」なんでしょうか???前回!なのですが……

【女子板…】にて、ご紹介しました【皿倉山…】ここから始まる様にも〜♫〜
“大和朝廷”以前のお話なのですが、私の故郷には【皿倉山=帆柱山…】此処には?
『大和朝廷のお話』に、つながるような“神話…”があります。…が?・・・そして、
『龍宮海…』は、私たちの【心…の中の潜在意識】でしょうか??その様に思えます。

■【底の〜底の〜海】それは❤〜【私の心=魂=念】なのです〜〜〜ョネ!
…【時間・空間】は私の希望実現の芽生えが^^?それに“種”を蒔きますと…
【時間・空間】に現われる“モノ”・・・それは【無限の心】でしょうか???
今を活かしながら…【龍宮海の底の底の海を引きあげる“心”】これが【祈り…】に
思えましたが???「浦島太郎」は、なにもせずに、楽しんで【時間・空間】を通り過ぎた時、
現われたのは“年老いた姿…”でした。この事は『人間の心は、今を活かす事!』それは、
今!今!を…一生懸命に“目的”に向かい当に“一直線”に前に〜前に〜進む事…
これが【今を活かす事】に繋がり【時間・空間の世界】で生きた“私自身が現われる事”だと…
【神話の話…】から思いました。

■【心の無限…】を出せば〜出すほど【無量寿の扇…】が開きまして、
ここから【無限供給の始まり〜♫〜 スタ−ト!】でしょうかしら〜〜〜ン?その様に思いました。

                                  再合掌

1601ハマナス:2012/11/12(月) 23:07:18 ID:x2zmnlqw


神の子のみなさま
ありがとうございます。

「過去」に感謝せよ  (『新版 生活の智慧365章』P.284)

 あなたの心の緊張を解きゆるめなさい。過去はないのです。今の苦しみも既に過去に刻々
なりつつあるのです。それらのものは全て過ぎ去るものに過ぎないのです。過ぎ去るものは
実在ではないのです。実在でないところのものを捉えて悩んでみても仕方がないではありま
せんか。心に重荷を背負わせてはなりません。過ぎ去るものが、如何にあなたに苦労をあた
えたにせよ。それが過ぎ去るときにはそれに祝福と感謝とを与えなさい。どんな艱難も何か
の意味に於て、あなたの魂に経験を与えそれだけあなたの魂に教訓を与えたのです。
 
過ぎ去るものに御礼を言う心持ちになったとき、次に来るものが貴方によって一層よきもの
となるのです。一切を祝福する気持ちになるとき、もう何ものもあなたを害することは出来
ないのです。すべて憎むとき恨むとき、心につかんで歎くときのみ、それはあなた害するのです。

感謝合掌

1602ハマナス:2012/11/13(火) 00:30:36 ID:x2zmnlqw

復興G様、みなさま
こんばんは。
web誌友会での、いつもながら聖典からの膨大な謹写をありがとうございました。
また、素晴らしいご指導に感謝申し上げます。
昨日は、仕事が入り参加出来ませんでしたが、じっくりと学ばせて頂きました。
ありがとうございました。
御礼に“神の自己実現”を高める祈り を謹写いたします。

“神の自己実現”を高める祈り  (聖経『真理の吟唱』)

 人間は神の最高の自己実現であるのである。したがって、私たちの生命(いのち)の最も
深いところには、神の心が宿っているのである。わが“深層の心“は“神の心”であり、
神の“愛”と“真理”と “叡知”に満たされているのである。

 私たちの表現の心は、肉体の意識に属するものであるがゆえに、時々、外界の出来事に振り
廻されて迷うことや、悩むことがあるけれども、わが“深層の心”は神に属するものである
から、何事にも現象界の出来事に引っかからず、悩むことなく、苦しむことなき、常住歓喜の
心なのである。私たちは現象界の混乱で、“表現の心”が悩むときには、その“表面の心”に
まどわされることなく、わが深層より“神の心”を出してきて必ず、平和と調和と愛と智慧と
に満ちた心に恢復するのである。
 
私が、今、自己の生命の奥底に“神聖なるもの”“神の心”が宿っていることを知ったので
ある。そして、自己の深層よりその叡智と歓びと、愛と、調和と、繁栄と、幸福と、健康とを
呼び出してきて、日常生活にそれを具体化するのである。わが深層に宿っている神の神聖性は、
毎日神想観を実習することによって、日ごとに一層ハッキリと外部に表現してくるのである。
かくして、私は常に神の叡智に導かれるがゆえに、事物に対して常に正しき判断ができ、適当
なる計画と行動とがそれに伴い、決して失敗することはないのである。

 常に毎日一層、われわれ家族の深層に宿る“神性”は表面にあらわれて具体化するのである
から、われわれ家族の健康は日毎に増進し、肉体は逞(たくま)しく美しくなり、事業は繁栄
し、国家社会のために大いに貢献することができるのである。わが事業は、神の導きと、神の
愛とによって繁栄するのであるから、私たちはその収益を決して“私”しないのである。それを
神からの恵みの預かりものとして、国家、社会、人類のために貢献するためには惜しみなく、
それを出資するのである。この世界には、「与えよ、さらば与えられん」の法則が行われている
のであるから、私たち一家の繁栄は、私たちが国家、社会、人類のために貢献し得た程度にした
がって、その程度が増加してくるのである。

 わたしたちは、“神の子”であり、深層において神が宿っているのであり、それを国家社会
人類のために貢献するたび毎に、一層完全にわたしたちは神の自己実現を完成するのである。
そして釈尊が三十二相と八十種類の好き相貌を備えたまうように、毎日一層よき人相が輝き出で、
人から懐かしがられ、愛され、喜ばれ、わが顔を見るだけでも、見る人の魂に愛と平和が訪れる
ようになるのである。

1603a hope:2012/11/13(火) 08:07:51 ID:lAQRWvUs

新版 生活読本 谷口雅春先生著
第七章 明るい心で運命を好くしましょう

♦明るい心が職業を得る力

学校を出て、又は海外から帰って来て、就職するにしても、
必ずしも学問が出来るから仕事にありつくと云うものではありませぬ。

どんなに立派な仕事をする腕があり、頭があっても、「面白くない顔」「苦い顔」「不幸な顔」をしている人は、
一しょに仕事をしていても楽しくないから、そんな人を雇おうと思う人はありませぬ。

その人が部屋にいてくれると、何となく、愉快で、事務所や工場の空気が楽しく、明るくなり、
皆が愉快に仕事が出来るようだと、それだけでも一つの大きな役割ですから、人がその人を雇いたくなるのです。

日本人はあまり鹿爪(しかつめ)らしく、電車に乗っても、汽車にのっても、
お互いが愉快に楽しく談(はな)したりしないようです。
いつでも何か不快なことを考えているのか、何か心配しているのか、重々しい顔をしている人が多いようです。

その習慣を改めましょう。いつも愉快に、ニコニコしようではありませんか。
そこからこそ、日本の本当の建直しが出来るのだと思います。
(つづく)

1604ハマナス:2012/11/13(火) 13:07:57 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんにちは。

生命の法則の優位  (『新版 生活の智慧365章』P.285)

 生命は常に物質の機械的な無機物的状態を克服し、それを自分の想念の形にまで造形する
ために戦って来たのである。生命が物質の機械的な法則に支配されている限りに於ては生物は
発生することができなかったのです。物質の法則は、生命の前には常に服従して来たもので
あることが判るのである。生命は肉体を構成している物質の物理化学的法則を必要に応じて
巧みに利用しつつ、必要に応じて、物資のハタラキを抑制し、それを征服して自己の希望する
形にまで築き上げるのである。

若し私たちの“心”が物質の法則に優位をみとめるならば、生命の力はそれだけ物質の力に
譲歩して、生命が自主的な力を減弱することのなるのである。“生命の法則”が常に“ 物質
の法則“よりも優位に立って、これを克服し得たところに生命の凱歌があがり、生命体を発生
することができたのである。生命体の発生のみならず、既に発生した生命体を健康に維持する
上にも、無機物の法則を克服して、有機体を作り、更にそれを総合して精密なるオーメーション
装置の一大運動機構をつくり上げ、それをたくみに操縦して間断なく修復作用を行いながら
常に健康を維持し得ているのが、吾々の生体なのである。一分一秒と雖(いえど)も、“生命
の法則”が物質の無機物的な分解下降現象にその優位を奪われたならば、其処に病気の現象を
起すのである。私たちは、どこどこまでも“生命”(即ち神)が物質の法則に対して常に優位
を保つように“心”を神の方に振り向け、“内在の神”(生命力)の働きを尚一層健全にする
必要があるのである。

感謝合掌

1605うのはな:2012/11/13(火) 19:28:19 ID:M7ON3MOw

縦の真理と横の真理を如何に使うか 「心はない」ということ

 お手紙拝見いたしました。あなたの信仰深いのに感激いたしております。
近頃、地方で講演したり、指導したりしている生長の家講師が、「人間本来神の子、本来健康、
本来完全、病気なし、不幸なし」の縦の真理をあまり説かずに、「どういう病気は、どういう心の影だ。」
とか、「心が治らずにおって、人間神の子だなんて言っても、病気は治らないぞ。」などと言って、恰も人間の心が
病気を治すがごとく説き、横の真理ばかりに重点を置いていられるのを見ると、私は本末顛倒のような気がすると言って、
あなた自身が精神分析的な横の真理を説かずに、「人間本来神の子だ。病気はないぞ、肉体もないぞ、心も無いぞ。心なんて
ないんだから何を思おうと心配いらぬ。恐れることはない。」と一喝して病気を治癒せしめた実例が沢山あると言われ、
「治す力は人間の心にあるのではない、神一元、神のみが癒す。」と言われるのは、誠に尊い体験です。

「心がない」ということは、『観世音菩薩行法経』などにも「心を観ずるに心無し」と書かれてあり、「物が物としはてあるのではない」
ということは「法、法の中に住せず」と書かれております。映画の画面上の姿(法)は画面上の姿(法)にあるのではない、實相のみ独在するという意味であります。
 仏教ではつとに「心が無い」ということが説かれているのでありまして、慧可禅師が、ある日達磨大師の方丈に来って、
「先生、私は心が迷って悩んで仕方がございません。どうぞこの心の迷いを取り去って下さい(意訳)。」とお願い申しあげると、
「その迷っている心とやらをここへ持って来て見せろ、その迷いを除ってやろう。」と達磨大使は仰せられた。

 すると、慧可はその迷いの心を探して持ってこようとして、何処にあるかと求めたけれども、ついに心を見つけることが出来なかった。
そこで慧可は、「もとむれども遂に得ず。」(いくら探しても心の在所は分かりません)と答えた。
すると、達磨は、「われ汝を安んじ終んぬ。」と言った。という意味は、迷っている心をあると思って、自分で勝手にクヨクヨ思って掴んでいるから、
悩まねばならぬ。「悩んでいる心」を無いと知って、それを放ってしまえば悩みも苦しみも何もなくなるということであります。

1606うのはな:2012/11/13(火) 19:29:04 ID:M7ON3MOw
1605 続き

  このように「心はない」ということは仏教で説いていることであり、一応以上の説明でわかったようでありますが、よくよく考えて見ると、心というものが有るか
無いか、まだまだわからないことになるのであります。
「“悩んでいる心”を無いと知ってそれを放してしまえば悩みも苦しみも何もなくなる」こう教えられて、“悩んでいる心”を掴まなくなり、心が平和になり、悩みも無くなり、
病気も消えてしまう人も随分あります。

 しかし「“悩んでいる心”を無いと知って、それを放つ」ところの主体は一体何でしょうか。
「知る」とか「悩みを放つ」とかいうのは「心」の作用であります。心が知るのであり、心が放つのであります。それでは「心が無い」のではないのであって、心があって、その心を知ることになるのであります。

 そこで「悩んでいる心」があらわれているが、その「悩んでいる心」を無いと知って「放つ心」がある。
その「放つ心」も無いと知って廓然としてして明々白々になるかというと、やっぱり「知って」とか「覚って」とか言われると、「知」とか「覚」とかいうのは「心」の問題でありますから、「その知るという心も無いと知って」
などと言って、幾度繰り返して見ても、いつまでたっても循環して堂々めぐりをするしか仕方がないでしょう。

   縦の真理だけでよいか

 そこでこの話は中断して、あなたの体験であるところの「人間は神の子だ。病気はないぞ。肉体も無いぞ。心も無いぞ。心なんてないんだから何を思おうと心配いらぬ。恐れることはない」と
一喝して多くの病者が癒やされたという実例について考えて見ましょう。こういう実例がでるのだから、
あなたは「人間・神の子、病気は無い」の縦の真理だけで、病気などは無いのだから、病気は消し飛んでしまう、心の法則を説く必要もないし、「心が変わらねば病気は治らぬ」などと
言って、心を改めさせるために横の真理などを諄諄と説く必要はない.........と言われますが、成る程、或る人々に対しては、「人間・神の子、完全円満」の縦の真理を説くだけで充分であります。

 生長の家本部の飛田給練成道場では、概ね「人間・神の子、完全円満」の縦の真理だけを説くだけで、ヒロポンの中毒が治ったり、無数の悪癖が治ったりしています。
「その悪い心を直せ」などと言って「心」を直すことを説きはじめると、“その悪い心”を心で掴むことになり、掴むがゆえに“悪い心”は固定化して消えないことになり、或いは「心を改めよ」と説教してくれる人に反抗心を起こして、
更にその“悪い心”を増強してしまうことになります。それですから、「心は無い」「人間・神の子、完全円満」と説かれると、原因である「悪い心」は雲散霧消してしまいますから、「人間・神の子、完全円満」の縦の真理だけで、ヒロポンの
中毒患者や、色々の悪癖や、無数の病気が解消するのは当然であります。


 『人間そのものの発見とその自覚』 谷口雅春 先生著

1607SAKURA:2012/11/13(火) 20:19:00 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻   ……①

===【抜粋文】 ====================================
……その後、生長の家神と申し上げるは塩土老翁、筒男神であらせられると知らされ、ハ
ットしてその端倪すべからざる因縁に驚いたのである。
塩土神とは水火津霊(シホツチ)の神である。水の霊(陰の原理)と火の霊(陽の原理)とを津な
ぎ結びて、一切を生み出す「生みの神」である。だから塩土神(住吉神社・塩釜神社に奉斎)は
古来安産の神として称せられ、エホバ神の「懐妊(はらみ)の劬労(くるしみ)を増すべし、汝は
苦しみて子を産まん」という宣言を覆して、子を産むのに無痛分娩なることを実証したのである。
生長の家の教えを聞いてそのとおりに守るものは無痛分娩であるのはそのためである。塩釜大神
とは水火醸として陰陽交叉いて生み出す神という意味である。
                   (つづく)

1608SAKURA:2012/11/13(火) 20:20:59 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607投稿の続きです。…が
>>1607①の続き投稿です…。

 生長の家神を拝みたければ住吉神社に参るがよし、塩土神社に参拝するのもよい。われわれの団
体は無宗派の万教帰一を説く団体であるから、拝殿もなければ御祈祷をするということもない。
ただ書籍、講演、放送、直接指導等によって老病死を克服する教化団体である。(抜粋文)
                           谷口雅春著
=============================================
PS:
今年の年頭にて“事務所”の近くの、【住吉神社…】に、久しぶりに初詣しました。…が?
私にとりまして今年は、とりわけ意味ある年となってしまいましたが『三社参り…』は、
【櫛田神社、住吉神社、警固神社…】にお参り致しました。ここで?
やはり【第6感…】といいますのは有るのでしょうか??住吉神社にお参りの時に、
今年に入り「亡き母」が第一回…倒れました。その時のことなのですが……??実は〜〜><
愛用の“サングラス”が落ちまして、耳に掛ける処のア−ムの部分が本体から?外れたのです。

その時!瞬間【不吉な予感…】が?脳裏を横切ってしまいました。…が?それでも、その事を、
私は、かき消すかのように、翌日!母を見舞いに行きますと、まだ、いつもの“母の顔”で…
その時は、ホット!安堵感が浮かんだのです。…が?【住吉神社…】は、当に……
【大海原の海の母…】でしょうか??「亡き母」は、きっとあの時にもう【霊界…】に、半分は
行ったり来たりしていたのかも???その様に思えます。

ここでは【無痛分娩の例え】ですが??【産みの苦しみ…を】と〜〜〜これは?
【私達の“生(せい)”への生みの苦しみ…><】を、いい方向に導いてくれる事なのでしょうか?
【産みの苦しみは、生(せい)への生きる事の苦しみ?…悩みいろんな現象事を、かくまって
下さる『神様…』それは【私の心の無尽蔵…】なんです〜〜〜ョネ???

■当に…遠くにいて近くにいます【 神様 】でしょうか……??
「雅春先生」は、住吉神社にいきたければ、それはそれで良い!とおっしゃつています。
【住 吉 神 社 は 私 の “ こ こ ろ の 無 尽 蔵 ”…】です。
■うてば響く“心”……当に!!私の“心の魂”なんです〜〜〜ョネ???
何処でも【祈り…】ますと、産みの苦しみを取り除いて下さるのが【心の住吉の神様】なの??
当に!近くにいるのです〜〜〜かしらン??その様に、考えながら……

また、私達“一人一人”が自覚して【心を強化…します事が『生長の家』なんです】と…
「雅春先生」がおっしゃつています。…が???本日は、なるほど!!と思いながらも、
私自身も【万教帰一に参加…】です。
❤〜【心を強化運動…】当に『教化部』にて『心の強化』でしょうか??“スタ−ト…”
その様に…解釈しますと今回の【お家騒動…】は〜〜〜
私にとりましては『原理主義…決め込み主義』との解釈論になった次第なのです。
                                      再合掌


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