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海のひつじを忘れないようです
207
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:14:23 ID:sRmmAC9s0
異音が、俺を現実へと引き戻した。
ちりん、ちりんと、弱々しく鳴り響く金属の音色。
それは俺のすぐそばから聞こえてきた。
のどに突き刺さったゆびを抜き、手探りに辺りを探す。
それはすぐに見つかった。それは、小さなベルだった。
いつかどこかで拾ったベル。だれかの持ち物だったようにも思えるが、
記憶が茫洋とあやふやで、どうしても思い出すことができない。
いや、いま思い出すべきは、そんなことではない。
爪の間にたまった肉と脂の滓をさっと落とし、俺はベルをつまみ上げた。
そして、おぼろげな記憶を頼りに、だれかが、かつて出会った何者かがそうしたように、
立ち上がり、腕を伸ばして、静かにそのベルを振った。
金属の軽く澄んだ音が、空間を震わせて残響した。
音が、返ってきた。
もう一度、振る。音は再び返ってきた。
同じ方向、同じ場所から。俺はベルを鳴らしながら、
一歩一歩、音の返ってくる方角に向かって歩みを進める。
俺の振るうベルの音は、意図せず拍を打ちリズムを刻みだしていた。
その律動に、別の音が乗った。
それは、声だった。それは、歌だった。
208
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:14:47 ID:sRmmAC9s0
歌は俺の向かう、その先から聞こえてきた。
思わず早めそうになる足を、意識的に抑える。
打ち鳴らすベルのリズムが狂わぬよう、慎重に歩む。
音と音との調和が壊れぬよう、注意を払う。
二度と手放さないために。
もう二度と、失わないために。
ああ。いまはもう、はっきり聞こえる。
一日たりとて忘れることのなかった歌声が。
かつて俺を包んでくれた、あの歌声が。
トソンの、歌声が――。
ただいま、トソン。
.
209
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:15:20 ID:sRmmAC9s0
6
しぃは、ひつじだ。
しぃは、歌う。
父に合わせて。
ぼくに合わせて。
歌を、歌う。
曲に合わせて、歌を、歌う。
しぃは、ひつじだ。
しぃは、ひつじだった。
ひつじは歌っていた。人の声で。一人で。
朗々と。ぼくの知っているその曲を。
ぼくの知らないところで。ぼくとは無関係に。ぼく抜きで。
首が、いやに、軽い。
胸の前が、真空の、ようだ。
ぼくは、ひつじに、触れた。
歌うひつじ。真白いひつじ。
その白。
その白い扉。
その白い扉を、くぐる。
歌うひつじを、くぐる。
210
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:15:43 ID:sRmmAC9s0
海
.
211
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:16:22 ID:sRmmAC9s0
海で、満ちていた。
海で満ちた、宇宙だった。
宇宙に、人が、二人いた。
ローブのこども。
光の人。
光の人が、包容していた。
ローブのこどもを、抱きしめていた。
二人はまるで、ひとつだった。
まるで元から、ひとつだった。
212
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:16:45 ID:sRmmAC9s0
ローブのこどもが、こちらに気づいた。
ローブに隠れたその顔が、こちらを見ていた。
フードを脱いだショボンの顔が、こちらを見ていた。
こちらを見て、微笑んだ。
微笑みが、崩れ去った。
泡となって、消え去った。
那由多の気泡が、浮かび上がった。
213
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:17:08 ID:sRmmAC9s0
そこにショボンは、いなかった。
光の人も、いなかった。
極小の光る気泡が。
ショボンだったものが。
光の人だったものが。
合わさって。
分かちがたく。
無量にして。
ひとつの意味となり。
宇宙の。
暗き深淵の。
その彼方へ。
その彼方へと。
沈んで。
沈んで。
沈んで、いった。
.
214
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:17:33 ID:sRmmAC9s0
ああ、やはり、そうなのか。
.
215
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:18:02 ID:sRmmAC9s0
しぃは、ひつじだ。
しぃは、歌う。
父に合わせて。
ぼくに合わせて。
歌を、歌う。
曲に合わせて、歌を、歌う。
しぃは、ひつじだ。
しぃは、ひつじだった。
しぃは、ひつじじゃなくなった。
しぃは、沈んだ。
しぃは、沈む、気泡になった。
しぃは、気泡になった。
そして、ぼくも。
ぼくも、このまま――。
.
216
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:18:29 ID:sRmmAC9s0
何かが、ぼくに、ぶつかった。
何かが、ぼくを、抱きとめた。
何かには、腕が、あった。
何かは、腕を、伸ばしていた。
何かの、指先には、何かが、あった。
小さな、金属の、ベルがあった。
ベルが、鳴った。
ベルが、鳴って。
気泡に、なった。
ベルの、気泡が、沈んでいった。
誰かの、伸ばした、腕を、呑んで。
腕を、伸ばした、誰かを、呑んで。
泡が、泡の群れが、沈んでいった。
沈んでいく、気泡を、ぼくは、眺めた。
ただ、ただ、眺めていた。
ずっと、ずっと、眺めていた――
.
217
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:18:54 ID:sRmmAC9s0
気づけばぼくは、廊下に転がっていた。
光の人も、歌うひつじも、そこにはいない。
もはや親しみすら覚え始めている変哲のない教会の廊下で、ぼくは寝転がっていた。
額に手を当てる。痛みはない。
触れて見た限りでは、怪我の一つもない。
気持ち悪さも歪んだ視界も、なにもかも元通りになっていた。
まるで先程までのすべてが、幻であったかのように。
けれどあれは、現実だったはずだ。
水の宇宙で見たもの。感じたもの。思ったこと。
あれは、すべて、現実だった。気泡となった――だれかも、
一つに合わさった光も。最後に、ぼくを抱きとめた、何かも。
218
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:19:18 ID:sRmmAC9s0
その時になってようやくぼくは、すぐそばにだれかが立っていることに気がついた。
その人影は微動だにすることなく、じっと、自分のてのひらを見つめていた。
人影は、小旦那様、その人だった。
「小旦那様……?」
鐘が、響き出した。
教会中に幸いを告げる、その鐘が。
けれど小旦那様は身体を震わせるほどに大きなその鐘の音も聞こえない様子で、
とにかくただじっと、何も持たない自身のてのひらを見つめていた。
空のてのひらを、じっと、じっと――――
.
219
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:19:58 ID:sRmmAC9s0
『三章 踊るひつじ』へつづく
.
220
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:20:22 ID:sRmmAC9s0
今日はここまで
221
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:39:21 ID:vG2lH35Y0
0
「ぼくは罪人なんです」
人から罪の告白を受けるのは、これが二度目だった。
感情を交えず淡々と、事実だけを伝えるまだこどものものであるその口を、
俺は黙って見続けていた。そしてその口が完全に閉じきった後、
俺はかつてのその時と同じ感情を、目の前のこの少年に対しても募らせていた。
お前は何も悪くない。
生まれも、環境も、どこで育ち、どこで暮らし、だれに囲まれ、教わり、
見せられ、聞かされ、感じさせられ、行わせられ――。
全部、お前が選んだわけじゃない。お前に責任なんてない。
お前にそれを押し付けたのは、大人だ。
悪いのは、全部、大人だ。
お前に罪なんか、ないよ。
俺とは違う。
222
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:39:46 ID:vG2lH35Y0
大人。
大人とは、なんなのか。
いつかあいつへ尋ねた問に、未だ答えを見いだせずにいる。
大人。大人とこども。その境界。こどもはいつ、大人になるのか。
年齢で切り替わるのか。世間が認めた時か。それとも自然となるものなのか。
大人はこどもと、何が違うのか。大人はこどもと、同じ人類種なのか。
人は、必ず、大人になるのか。
生きていれば。生きていさえすれば。
生き伸びてしまったならば。
ならば、俺は。
俺は今……どちらなのか。
.
223
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:40:18 ID:vG2lH35Y0
「どういうつもりだ」
「……質問の意味がわからんな」
「とぼけるな!」
悠然と構える兄の前に、書類を叩きつける。
派手な音が木製の机から鳴り響いたが、
兄はまるで意に介した様子を見せなかった。
その態度に、興奮が余計に昂ぶる。
「何をそんなに騒ぎ立てている。
いつも通り、不良品を処分するだけのことじゃないか」
「リストがおかしいと言ってるんだ! オサムにもビロードにも商品価値はある。
他の奴らも同様だ。結論を下すのは早計に過ぎる!」
「お前、いつから商品を名前で呼ぶようになった?」
一瞬、言葉に詰まった。
「……とにかく、俺は断固反対だ。
たしかにハンデを背負っているやつらもいるが、屠殺だなんて現実的じゃない。
最後まで面倒を見てやるべきだ」
「あのハーモニカの小僧もか」
224
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:40:49 ID:vG2lH35Y0
俺は、答えなかった。何も答えず、ただ、兄を睨んでいた。
兄にはそれで十分だった。兄は俺のことを、よく理解していた。
「どうやらお前は、大人になりきれなかったらしい」
兄が立ち上がる。細長く、まだ成長途上な俺より遥かに長身なその身体が、
野生動物のようなしなやかさで伸びた。見下ろしていたはずの頭が、
遥か高いところへと浮かび上がり、見上げなければならなくなる。
「だったらどうする。檻に閉じ込めて、あいつらと一緒に俺のことも陳列するか」
「そんな非合理なことはしない」
精一杯の虚勢はいともたやすくいなされた。
結局のところ、俺と兄との力関係は昔から何も変わっていない。
兄はいつでも、俺を縛り上げ、己の意のままに強制することができる。
父が俺へ、そうしたように。
変わっていない。こどもの頃から、何一つ。
「どうせなら、あれがいいか」
窓辺に立った兄が、窓の外を眺めながらつぶやいた。
俺の位置からでは、兄が具体的に何を見ているのかまではわからない。
しかし、その視線の先に何があるのか、建っているのかは、知っている。
225
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:41:13 ID:vG2lH35Y0
「なんの話だよ」
「お前のお気に入りを使うことにする」
嫌な予感がしていた。兄の視線の先には、
うちの商品――奴隷として売られる予定のこどもたち――を収容している隷舎がある。
隷舎を見て、兄は何かを物色している。思案している。
何を?
予感は、確信へと変わりつつあった。
その確信を払拭しようと叫んだ俺の声は、もうほとんど覇気を失い、悲鳴と化していた。
「だから、なんの――」
「お前にはもう一度、“通過儀礼”を受けてもらう」
トソンの顔が、思い浮かんだ。
歌い、ほほえみ、時には厳しくもあったが、
いつも同じ目線で語り、同じ程度のバカをして、
同じ時間を共有してくれた、トソンの顔。
俺が壊し尽くした、トソンの顔。
226
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:41:36 ID:vG2lH35Y0
「思えば前回の通過儀礼、あれは不完全なものだった。
あのときの道具は最後まで悲鳴のひとつもあげず、命乞いもしなかった。
それではダメだ。それでは通過儀礼にならない。あれは、失敗だった」
兄につかみかかっていた――いや、違う。俺は兄に、しがみついていた。
そうしてしがみついていないと、すぐにも崩折れてしまいそうだったから。
そのまま全部、なくしてしまいそうだったから。
俺は、兄を見上げた。かつてこどもだったその人を。
クソガキで、問題ばかり起こして、父を憎みいつか街を出て
一旗揚げてやると気炎を吐いていた、フォックス、その人を。
俺の知っているフォックスは、そこに、いなかった。
「お前は……トソンの犠牲を、なんだと――」
兄が、首を傾げた。
「あれは、そんな名だったか?」
.
227
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:42:00 ID:vG2lH35Y0
兄はまだ何か話していたが、俺にはもう、何も聞こえなくなっていた。
俺はその時、本当の意味で理解した。これが、大人なのだ、と。
大人という、意味。
大人という、実存。
大人という、現象。
そうか。大人とは、大人とは――
罪の継承によって原生せしめ続けるこの現し世の在り方そのもの……なのか。
ならば、この世界は。
ならば、楽園は。
ならば、俺は。
俺は――。
.
228
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:42:33 ID:vG2lH35Y0
「起きろ、――」
星のない曇天の夜の下、ぼくは肩を揺られて目を覚ました。
そこここからかすかな寝息が聞こえてくる。まだ、深夜だ。
起こされたばかりのぼくもまだ眠気が取れず、意識は朦朧としていた。
が、直後。ぼくの曖昧だった意識は、即座に覚醒した。
そこには、小旦那様がいた。片膝をついた格好で、そこにいた。
別におかしなところのない、いつもの、ごく当たり前の小旦那様だった。
全身が、血にまみれていること以外は。
「小旦那様……?」
小旦那様の腕が、ぼくへと伸びていた。
ぼくは差し出されたその手を見て、ついで、逆側の手を見た。
そこには小旦那様がいつも携帯している、奇妙な紋様の浮かぶ短刀が握られている。
いつもは汚れのひとつもない静謐な気配を漂わせているそれが、
いまは、その本来の用途を存分に感じさせる修飾を施されている。赤い、修飾。
その姿は、ぼくが待ち続けていたものに酷似していた。
.
229
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:42:56 ID:vG2lH35Y0
迷うことはなかった。ぼくは彼の、血にまみれた手をつかんだ。
少し気難しさを感じさせる彼の顔が、わずかな悲しみを含んで、
その口を静かに、静かに動かした。
――、お前を楽園へ連れて行く。
.
230
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:43:27 ID:vG2lH35Y0
三章 踊るひつじ
1
「おはよう、ハイン」
「……おはよう、ナベ」
目を覚ましたら、ナベの顔があった。いつもと同じように。
そしてこれもまたいつもと同じように、ナベの指があたしの目元をぬぐった。
その指先に、水滴が付着している。その水滴の曲面に、
丸く歪曲したあたしの顔が映っていた。目元を腫らした、あたしの顔。
「あたし、また、泣いてた?」
「いいんだよ」
ナベの顔がさらに近づく。額が、鼻が接触する。
「あなたが見たのはただの夢。思い出すことなんて、何もない」
231
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:43:51 ID:vG2lH35Y0
ナベが口を開く度、その息遣いが伝わってくる。
それがなんだか幸福なような、さみしいような、たまらない感情を呼び起こす。
私は生きている。ナベは生きている。
そのことが、なんだかとても、胸に来る。
「何もないんだよ……」
ナベの声は、とてもやさしい。暖かくて、心地いい。
そのぬくもりに、おぼろげな夢がさらに薄れた。もう何も覚えてはいない。
自分が何に泣いていたのかも、何を思っていたのかも。
だからきっと、それは思い出す必要がないことなのだろう。
ナベの言うとおり、あたしが見たのはただの夢。遠い、遠い世界のただの夢。
いつか忘れた、夢の足跡。
.
232
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:44:13 ID:vG2lH35Y0
「吹けないんだ」
「そんなことない。すぐ上手くなるよ」
「違うんだ」
それは、抑揚のない声だった。
「忘れちゃうんだ」
いつもの彼の声ではなかった。
「ぼくはジョルジュなのに……。みんなに愛されなくちゃ、
一番愛されてなくちゃ、ママに見てもらえないのに……」
銀のハーモニカに映る彼の顔は、能面のように無表情だった。
「愛されなくちゃ、ジョルジュじゃないのに……」
まるで自分自身を亡失したかのようなジョルジュに対して、
あたしはそれ以上掛ける言葉を見つけられなかった。
そばに座って抱きしめても、ジョルジュは何の反応も示さない。
ただただハーモニカを見つめて、吹けない、吹けないとつぶやいていた。
.
233
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:45:10 ID:vG2lH35Y0
何かがおかしくなっていた。
何も変わっていないはずなのに、何かがずれているような違和感。
座りの悪さに落ち着かず、気持ちが悪く、なのにその正体だけは
どうしてもつかめないもどかしさが、教会中を覆っていた。
ぞわぞわとした不安が背中を這っているかのようだった。
それでもあたしたちには――あたしには、日々を過ごす以外の選択肢はなかった。
日々を過ごす以外のことを考える必要もなかったし、
それがなにより幸せなことだとあたしたちは知っていた。
だってここは、こどもの楽園なのだから。
「そうそう、みんなぴょんぴょんがぐるりるしてて上手だよ〜」
こどもたちの間を巡るナベが、そのよく通る声でみんなを褒めている。
ナベはおっとりとした話し方の割に意外と機敏で、面倒見もいい。
時々擬音語だらけの言葉に首を傾げそうになるけれど、
それもまた、彼女の味だと思う。
あたしたちは毎日こうして、小さな子たちに踊りを教えている。
だれが言い出したのかは忘れてしまったけれど、
あたしとナベのダンスを見て自分も踊ってみたい、
教えてほしいとお願いされたのがきっかけだった――気がする。
あたしも小さい子たちの面倒を見るのは嫌いじゃなかったし、
みんなで踊れる日が来たら素敵だなと思ったので、懇願には快く応じた覚えがある。
それに、自分の踊りに誰かが感動してくれたという事実が、とてもうれしかったから。
234
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:45:42 ID:vG2lH35Y0
「いいよいいよ〜。そこでぱんっぱんっ、ぱぱぱぱっ!」
だからだろうか。日課となったこのレッスンは、
あたしにとって毎日の楽しみになっていた。
つたないながらも一生懸命練習に励むこどもたちを見るのは、
自分の身体を動かすのとはまた異なる赴があった。満ち足りた幸せを感じた。
いつもは、そうだった。
「アニジャ〜、それにオトジャ〜。どうして言うとおりにやってくれないの〜?」
「やらないのではない。できないのだ」
「しないのではない。わからないのだ」
「わからない〜?」
「ナベの言葉は、理解できない」
「ナベの教授は、確知できない」
「む〜?」
「ハインがいい。ハインの教えは、わかりやすい」
「ハインがいい。ハインの手本は、つかみやすい」
「む〜〜〜〜?」
235
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:46:12 ID:vG2lH35Y0
ほほを膨らませたナベが、のんびりした口調とは
相反するずんずんとした大股で近寄ってくる。
そして腰を下ろした格好のあたしの前に立つと、
上半身をひねるようにして覗き込んできた。
「ハ〜インっ。ご指名だよ〜」
むすっとした膨れ顔が、あたしの目の前に現れる。本心ではない。
そういう態度を演じているのだとわかる、本気ではないその顔。
その顔が、あたしを見て、怪訝そうに曇りを帯びる。
「ハイン?」
「……え、あ、ああ、うん」
あたしは慌てて立ち上がる。
なぜだかわからないけれど、ぼんやりと輪郭の崩れたナベの顔から目を背けて。
ナベだけではない。目に映るものすべてが、なんだかぼやっと見えづらかった。
目をこする。視界の異常は、すぐに治った。
「ごめんごめん。あたしってば、ちょっと寝てたみたい」
苦笑いでごまかす。
それでも心配そうにしているナベの肩をぽんぽん叩き、
あたしはアニジャとオトジャの前に躍り出た。
236
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:46:54 ID:vG2lH35Y0
「さ、どこから教えて欲しい?」
「初めから頼む、ハイン先生」
「一から願う、ハイン師匠」
二人の答えに忍び笑いを漏らしたあたしは、
ナベの視線に口を閉じ、ついでにどんっと、胸を叩き、
「お姉ちゃんに任せなさい!」
アニジャとオトジャの前で、ステップを踏み出した。
初歩的で、基本的な足さばき。アニジャとオトジャ、
それに他の子たちもあたしを中心に輪を作って
ふんふんうなづいたり目を輝かせたりしている。
こうして自分の培ってきた技を教えるのは、楽しい。気持ちいい。
そのはずなのに。
237
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:47:26 ID:vG2lH35Y0
何度目だっただろうか。彼らにこのステップを教えるのは。
もうずっと、長いこと、何ヶ月か、それとも何年か。
とにかく長い時間を掛けて、あたしは同じことを、
基礎の基礎となる部分を教えてきた気がする。
けれど彼らは、何も覚えなかった。
ひとつも上達しなかった。不真面目なわけではない。
彼らは真面目に、それに楽しんでこのレッスンに参加している。
心から楽しんでいると、あたしにもわかる。
なのに彼らは、上達しない。成長しない。
どうして?
吹けない、吹けない――。
.
238
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:47:57 ID:vG2lH35Y0
「ハイン!」
叫んで手を伸ばすナベの姿が、斜めに傾いていた。
違う。斜めになっているのは、あたしだ。あたしは倒れかけていた。
いけない、踏ん張らなきゃ。
とっさに足へと力を込め――ようとしたが、それは叶わなかった。
足が、動かない。
そう思った直後、あたしは肩をしたたか地面に打ち付け倒れていた。
みんなの駆け寄ってくるぱたぱたとした足音が、重層的に鳴り響いている。
「ハイン、大丈夫か」
「ハイン、平気か」
心配して掛けてくれた声に、しかしあたしは反応できずにいた。
声そのものは聞こえていたけれど、言葉の意味が脳まで届いてこない。
あたしの意識は、自分の足。動かなかった足に集中していた。
無意識に、手を伸ばしていた。足に、触れていた。
足を、動かせた。
239
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:48:21 ID:vG2lH35Y0
「……ごめん。お姉ちゃん、どじっちった」
ぺろっと舌を出して、茶化したふうに謝罪する。
緊張していた場の空気が、一気に緩和していった。
あたしがナベの手を借りて立ち上がると、
みんなは人騒がせだとか怪我がなくて良かったとか思い思いのことを言いながら、
何事もなかったかのようにあたしの側から離れていった。
「……ちょっと捻ったみたい。医務室に行ってくる」
周りに聞こえないよう、ナベに耳打ちする。
ナベが何かを言おうとしたがそれを指で塞ぎ、さらに言葉を続けた。
「レッスンのつづき、お願いな」
それだけ言って、ナベから離れる。
しばらくは問い詰めるような視線を背中に感じていたけれど、
やがていつもの明るく間延びした声が、部屋の中に響き渡った。
その声に安心して、あたしは部屋を出る。部屋を出て、医務室に向かう。
240
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:48:44 ID:vG2lH35Y0
正直な所、痛みはほとんどなかった。足は普通に動かせたし、
打ち付けた肩も違和感はあるものの放っておけば治る程度のものだ。
それでも部屋を出たのは、なんとなくあの場を離れたくなったから。
そうしないといけない、そんな気がしたから。
それに、医務室に行けばこの捉えがたい気持ちにも
何らかの解決策を得られるような、そんな気もしていた。
医務室には誰かが常駐していた。達観したしゃべり方が特徴的な、
みんなのまとめ役だっただれかが。こどもの心を持ちながら、
大人の知識を用いることのできた何者かが。
おかしな記憶だと思う。
そんな誰かなんて、出会ったこともないはずなのに。
物語の登場人物と混同しているのだろうか。
それとも幻か、単なる記憶違いか。もしくは夢の中の人物だったりして。
それともあたしが、忘れているだけ?
241
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:49:10 ID:vG2lH35Y0
……まさか、ね。
自分で自分の想像を打ち消そうとする。
ありえない、と。ありえない、ありえない。
そう言い聞かせながら、あたしは妙な期待を抑えられずにいた。
その“だれか”は、本当にここにいるんじゃないか。
医務室の扉を開いたら、隅っこに置かれた小さな机に腰掛けたその人物が、
メガネのズレを直しながらこちらへ振り向くのではないか。
その人があたしに、このもやもやを解消する何らかの答えを与えてくれるのではないか――。
そんな想像が、いやに具体的に想起できる。
医務室の扉に手を掛ける。いるわけがない。でも、もしかしたら。
背反するふたつの気持ちにせめぎ合いながら、あたしはとにかく、扉を開いた。
ジョルジュがするように、開け放った扉が壁と衝突するくらい勢い良く。
そこには、ギコがいた。
242
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:49:40 ID:vG2lH35Y0
「……よっ」
軽く手を上げて挨拶したあたしに、ギコが会釈を返す。
あたしはベッドに腰掛けているギコのすぐ隣に、自分も腰を下ろした。
ふたりぶんの重みで沈んだベッドが、中央付近でくの字に曲がる。
「転んだか? ぶつけたか? おねえちゃんが手当しようか?」
覗き込んで、話しかける。ギコは反応しなかった。
うつむいて、どこかここではない虚空に視線を漂わせている。
その胸には、なにもない。本来彼が身につけているはずの楽器は、そこにない。
おかしいといえば、ギコの様子もおかしかった。
元々おとなしい子ではあったけれど、
ちっちゃなこどもたちには好かれていたし、他の子とも普通に交流をしていた。
でも、いまは。彼は自分から孤立しようとしていた。
少なくともあたしには、そう見えた。人を遠ざけて、誰とも触れ合おうとしなかった。
まるで、そう。あの、車椅子の魔女、みたいに。
いったい彼に、何があったのだろう。
存在するべきものの存在しない胸の前を、あたしは見つめる。
243
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:50:06 ID:vG2lH35Y0
「会いに来たんだ」
とうとつな彼の声に、あたしはわずかに驚いた。
驚きながら、彼がせっかく放ってくれたその言葉に応答し、問い返す。
「会いに来たって、だれに?」
「だれか」
だれか。その言葉に、どきりとする。
「だれかって、だれ?」
「……わからない。でもぼくは、その人のことが苦手だった気がする」
「苦手なのに、会いに来たのか?」
「どうして苦手なのか、わかったから」
「……わかった?」
「似ていたんだ。ぼくの、大切な人に。だけど……」
244
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:50:30 ID:vG2lH35Y0
ここまで話して初めて、ギコの顔に表情が現れた。
けれどギコの心中へ浮かんだそれは、決して良い感情ではなかったのだろう。
何かを歯噛みするような苦悶の顔のまま、ギコは目を伏せている。
「その誰かを、思い出せない?」
ギコはうなづかなかった。否定もしなかった。
「あたしもさ、誰かに会おうと思ってここに来たんだ。
知らないはずなのに、知ってる誰かをさ」
努めて明るく、茶化すように話をする。
「なんだかこれってさ、ジョルジュが鳴き真似する動物みたいだよな。
ほんとはいないはずなのに、なんだかいるような気がして、
実はほんとにいたんじゃないかって思い込みそうになるとこなんか、さ」
ギコがあたしを見つめていた。その目はわずかにうるんでいて、
あたしは自分が見当違いのことを言っているとその時ようやく気がついた。
ギコの口が、ためらいがちに、開いた。
ちがう、と。
ギコが、いった。
大切な人が誰だったのか、思い出せないんだ、と。
245
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:51:01 ID:vG2lH35Y0
おねえちゃん――!
.
246
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:52:15 ID:vG2lH35Y0
鈍痛が頭を襲った。頭を抱え、荒い息を吐く。
心臓が早鐘を打ち、皮膚の上にさらに
何層もの皮膚が移植されたかのように重たく鈍い。
なに、これ。
あたし、いま。
なにかが。
みえて――。
身体を押さえて、とにかく波をやり過ごした。
やり過ごして、やり過ごして……そうしてどれだけの時が経ったのか、
鼓動も、呼吸も、いくぶんか静まってきた。深く息を吐いて、呼吸を整える。
247
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:52:49 ID:vG2lH35Y0
隣を見た。そこにはすでに、ギコの姿はなかった。
ギコの姿はなかったが、ギコの座っていた場所に、何かが置かれていた。
それを手に持つ。それは、短刀だった。鞘を抜くと、
奇妙な波模様の浮かぶ刀身が目に映った。
吸い込まれそうなその紋様から目を離し、鞘に収める。
届けなくちゃ。
――届けなくちゃ。
額を抑える。鈍痛が、再び顔を覗かせている。
けれどだいじょうぶ、さっきほどじゃない。立ち上がり、医務室から出る。
ギコがどこへ行ったのか。それはわからなかったけれど、
なぜだか足が勝手に動いていた。進むべき方向を予め、
あたし自身が知っているかのようだった。
あたしは裏庭へと出ていた。
揃えられた石畳の上を歩き、そこで止まらず、ついには下生えへと足を踏み入れる。
先にはもう、森しかなかった。
248
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:53:21 ID:vG2lH35Y0
森。
頭がひどく痛む。
あたしの中の何かが、この先へ進むことを拒んでいる。
絶対に入ってはならないと、警鐘を鳴らしている。
森の向こうへ行ってはいけない。
そう言っていたのは、だれだったっけ。
ナベだった気もするし、ジョルジュだった気もするし、他の誰かであった気もする。
森には、入っちゃ、いけないんだって。
でも。
この先に、いる気がする。
あの人が、いる気がする。
あの人が。
気づけば、森の中にいた。
乱れる呼吸を省みることもなく、あたしは木々を折って前進していた。
前へ、前へと歩を進めていった。そして、あたしは、見つけた。
森の奥へと進むギコと――彼女、車椅子の魔女の姿を、見つけた。
.
249
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:54:18 ID:vG2lH35Y0
2
「あなたに頼みたいことはひとつだけ。向こうへもどったら、
このノートに書かれた内容をすべて世間に公表してほしい」
この時をどれだけ待ち侘びたことだろう。
私がここへ来てから、どれだけの月日が過ぎ去ったのか。
長くここに居過ぎたせいで、もはや時間の概念が失せている。
次々と消えていく同胞を横目に、老いる事も成長することもなく、
ただただ書き続けてきた日々。まるでそう、
魔導書をつづることだけに執心した魔女、そのもののように。
魔女と呼ばれた、私。
「この森を抜けたその先に、この幽世と現し世との境界がある。
あなたが生きるべき現実へと架けられた橋が」
指を差し、彼に進むべき方向を示す。
森は深く暗く、目の前に潜むは闇しかないように思える。
しかしその先には、必ずある。この停滞した死の世界から逃れ、
生へと至るべく開かれた道が。
250
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:54:50 ID:vG2lH35Y0
「ここにいる限り、誰もが同じ末路を辿る。いずれはみんな、泡になる」
ノートを持ったまま静止した彼に声をかける。
彼。彼であって、彼でない少年。幼さを残した顔も、
ほんのりと丸みを帯びた輪郭も、人の良さそうなその目元も、私は全部、知っている。
ずっと、ずうっと見てきたその顔を、私はいまも覚えている。
その声も、その名も、全部、全部。
だから、どうしようもなく、腹が立つ。
あの日交わした約束を、思い出してしまって。
「あなたはハーモニカを吹きたいと言った」
彼と交わした、あの日の約束。
「あの時の覚悟を、うそだとは言わせない」
理解している。この子が彼でないことくらい。
それでも私には許せなかったのだ。この子がこの世界へ来ているという、その事実が。
この子は帰らなければならない。彼のためにも。私にためにも。
……でなければ、私のこれまでが余りにも、余りにも無為になってしまうから。
だというのに、この子は。
251
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:55:22 ID:vG2lH35Y0
「どうして……」
どうしてこの子は、歩きだしては、くれないのか。
「私には時間がない。それにたぶん、あなたにも」
彼の名を、呼ぶ。
彼の服をつかみ、引っ張る。
「いまを逃せば、あなたはきっと忘れてしまう。私の言葉も、私のことも」
彼の足を動かそうと、力を込める。
けれど車椅子の私には――私には、彼を動かすだけの力がない。
彼は大地に根を張ったかのように、動かない。
「その果てに何が待っているのか、それはあなたも見たのでしょう?」
力を込めながら、彼の顔を見上げた。
見上げた彼の顔は、私の顔を見下ろしていた。
何かを問いたげな、いまにも泣き出しそうな、
小さな、ほんの小さなこどもの顔をしていた。
助けを求める顔をしていた。
252
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:55:47 ID:vG2lH35Y0
「なのに、どうして、あなたは……」
「簡単なことだ」
木々のこすれる音が、すぐそばで響いた。
車椅子を旋回させる余裕もなく、首だけで音の聞こえた方へ振り向く。
そこには、人がいた。気配もなく、音もなく、
まるで初めからそこに存在していたかのように突如として出現した少年。
彼の主。小旦那様。
彼の小旦那様が、さざめく森そのもののように、その深く静謐な声を震わせた。
「それがこいつの望みだからだ」
.
253
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:56:30 ID:vG2lH35Y0
3
「ここにいることが、彼の望みだというの?」
「そうだ」
彼の主がどうしてここにいるのか。
私と彼がここへ来ていることを知っていたのか。その方法は定かではない。
けれど理由は明確だ。この男は、彼を連れ戻すためにやってきた。
二度とは戻れぬあの、永久の夢の檻へと連れ戻すために。
彼を見る。不安そうな面持ちで、茫漠とした視線を私たちに向けている。
たぶん、そうなのだ。彼が足を動かさなかった理由。
目の前のこの人物こそが彼の心の拠り所にして
――彼の足をつなぎとめる最終最後の枷、そのもの。
うそよ、と、私は彼の主を否定する。
――私はまだ、諦めてはいない。諦める訳にはいかない。
「彼はハーモニカを吹きたいと言った。その気持ちは本心だったはずよ」
「そこに偽りはない。しかし心とは、単層単色の一枚絵とは違う」
彼の主が、彼の抱える私のノートに触れた。
途端、すべてのノートが一斉に、ひらひらと宙を舞い始めた。
まるで空を泳ぐ羽根のように。魔術が如きその光景に、我を忘れる。
「自我の一片すら残さぬ自己の完全なる消滅。それが“ギコ”の望みだ」
254
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:57:12 ID:vG2lH35Y0
彼の主が口にした“その名”に反応し、現実を思い出す。
可能な限りの敵意を込めて、彼の主を睨みつける。
「彼は“ギコ”じゃない。そんなこと、あなただって知っているはず」
「然り。だがそれ故に苦しむ。背反する願望を御しきれず」
睨みながら私は、違和感を抱いていた。
何かが違う。何かがおかしい、と。
「ギコが本当の意味でギコになること。
それ以外にこの惑いし魂を救済する術はない」
私は彼らのことを見てきた。
彼らがここへ来てからの短くない時間を、可能な限り観察してきた。
彼らが何を思い、何を悩み、何を求めて行動したのかを詳察してきた。
だから彼のことも、彼の主の人となりもすでに把握している。
彼の、彼の主への依存も、またその逆も。
故に感じる違和感。決定的な、その一事。
「ギコは、ギコなのだ」
彼の主は、彼を、ギコとは呼ばない。
いや、呼べない。本来ならば。
255
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:57:43 ID:vG2lH35Y0
「あなたは、だれなの……?」
腕の内のノートから解放され力なく座り込んだ彼に、彼の主がそっと手を添えた。
二人のその関係はもはや一欠片の対等性も保持してはいなかった。
主と従者のように。父と子のように。守護者と庇護者のように。
そして――羊飼いと、ひつじのように。
この暗がりの森において、彼の主だけがいやにはっきりと、
その存在をこの場に示している。薄い燐光に包まれたその身体が、
暗がりを越えてかくあれとこの三次空間上に立脚している。
だというのにその顔だけが、その顔だけが曖昧に、
曖昧にその詳細をぼやかしていた。まるで、そう、まるであの光輝の塊。
牧師、その人のように――。
「あなたも、“接触”を――」
「お前はなぜ、ここにいる」
256
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:58:38 ID:vG2lH35Y0
「わた、し?」
話の矛先が私へと向けられたことに、狼狽する。
その燐光を放つ指先が、私を捉える。心臓を射抜かれたように、動けなくなる。
視線すらも、動かせない。
「なぜ逃げ出さなかった。なぜ森を越えなかった。なぜ一人でも帰ろうとしなかった。
ひつじの教会の、その在り方を唾棄しつつ出ていかなかったのはなぜだ。
時間がなかったからとは言うまい。機会はいくらでもあったはずだ。
それだけの時を、お前はここで過ごしてきたのだから」
「それは……」
のどが乾いて、声が出せなかった。何も言えなかった。
彼の主の言葉はいちいちもっともで、それ故に私の言葉が入り込む隙間がなかった。
私には、答えられなかった。
「答えられまい。お前には答えられまい。
心の悲鳴に目を背け、凝り固まった妄念に捕らわれてきたお前には。
故に代わりに答えよう。お前がここにいた理由。ここから出ていかなかった理由。
それは――」
彼の主が次に放つ言葉が、私には聞くまでもなく、わかった。
「誰よりお前が、現実を恐れる“こども”だからだ」
.
257
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:59:17 ID:vG2lH35Y0
「ちがう!」
と、そう叫ぶ他、私にできることはない。
否定しなければ。これだけは絶対に否定しなければ。
だって私はまだ、諦めてはいないのだから。
彼にノートを持ち帰ってもらわなければならないのだから。
彼に元の世界へもどってもらわなければならないのだから。
だから彼に現実を恐れさせるようなことは
――私が現実を恐れているだなんて事実、明かしては、ならない。
ならないのに、彼の主は、追求を止めない。
「ならば答えられるはずだ。表せるはずだ。
お前が現実を拒絶していないのならば、
お前の生まれを、お前の父を、お前の母を、お前の半生を、
お前の拠り所を、お前の罪を、そして――お前の、名を」
血の気が引く。この男は知っている。明らかに。
私の秘密を。ひた隠しに隠してきた、現実の私を。私の現実を。
瞬間、現実を、想起した。
.
258
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:59:37 ID:vG2lH35Y0
「見よ!」
自由を奪われた私の身体が、男の一声によって意志とは無関係に動かされた。
私は振り返り、背後の木々へと目を向けた。
「これこそがお前の、偽らざるお前自身の心象だ!」
木々が、葉が、蔦がみちみちと蠢き、絡み合っていた。
絡みひしめきあったそれは一個の生命のように穴隙なく重なり、
厚く、固く、重く強く痛々しく私の目の前で顕現した。
それは、壁だった。外界を閉ざす、絶対の壁。拒絶の証。
私、そのもの。
「わ、わたし、は……」
違う、私は。
そう言おうとするも、声が出ない。あいつが行使する魔術によって
――ではない。私自身が、声を、殺したのだ。私自身が、もう、認めてしまったのだ。
259
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:59:58 ID:vG2lH35Y0
気づかぬ内に、彼と、目があっていた。彼が私を見ていた。
彼の目に、私はどう映っているだろうか。あの時のままだろうか。
それとも、あの時よりもひどいだろうか。
ああちがう、そうじゃない。彼は彼じゃない。別人だ。そんなこと、わかってるんだ。
彼がここにいるってことは、つまり、そういうことなんだって、わかってるんだ。
それでも、私は。
私は、まだ。
私は、まだ、約束を――
彼が、私を見て、言った。
「きみは、だれなの?」
.
260
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:00:26 ID:vG2lH35Y0
その音が、あらゆる呪縛を解いた。
私と彼が、音のした方向へ視線を向ける。
草木がこすれた、その音のした方向へ。
「ご、ごめん。盗み聞きするつもりじゃ、なかったんだ」
そこにはハインがいた。どうしてハインがこんなところに。
疑問の答えが与えられるよりも先に、ハインが動き出した。
ふらふらと、異様に弱々しく、危なっかしい足取り。
その覚束ない足取りでハインが歩を進めたのは、彼の下、だった。
直後、ハインが倒れた――ように、私には見えた。
座ったままの彼へと覆いかぶさるようにして、
その華奢な体躯を空中へと投げ出す。いつもの彼女とは違う、軽やかさも、
力強さもない動きで。彼が飛び込んできたハインを受け止める。
「これ、大切なものなんだろう? 忘れちゃ、だめじゃないか」
彼の胸に頭を預けた格好のまま、ハインが何かを持ち上げる。
それは、短刀だった。鞘に収まった短刀。彼の主の持ち物であったもの。
彼がハインの手から、その譲渡された刃を受け取る。忌み、恐れるような慎重さで。
261
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:01:57 ID:vG2lH35Y0
ごめん、もう消えるな。
その言葉とは裏腹に、ハインは彼にもたれたまま動かなかった。
息をしているのかすら危ぶむほど、完全に停止しているハイン。
その顔は彼の胸に隠れ、見えない。
「あたしは、だれなの?」
動きのない森の中で、声だけが、響いた。
「教えてよ、“おねえちゃん”……」
彼女の声が“ハイン”には在るまじき幼さを帯びている。
己が存在のすべてを預けきろうとする童子じみた、頼りのない力なさ。
定義されるべき本来の意味どおりの、こども。
ああ、そうか。あなたも、そうなのね。
あなたも、思い出してしまったのね。
その、罪の記憶を――。
.
262
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:02:24 ID:vG2lH35Y0
「なんて、な。冗談だよ、冗談」
ハインが機敏に顔を上げ、快活に笑った。
その笑顔はいつもの彼女と比べてもなんら遜色なく、
ともすればその冗談という言い分を信じてしまいそうな説得力を有している。
だからこそ、危うい。
私はハインだと主張する彼女は、とても危うい。
彼女が彼から離れ、立ち上がろうとする。
そのか細く矮小な、アニジャやオトジャとくらべても小さい、
背を伸ばしても座ったままの彼とほとんど変わりのない、その小さな小さな身体で。
その小さな小さな身体が、立ち上がると同時に、よろめいた。
彼が、彼女の名を叫んだ。
ハインが――いや、自分がハインでないことに気づいていしまった少女が、目を見開いた。
ハインの殻を破った彼女が――“ミセリ”の首が、天に向かってのけぞった。
.
263
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:02:48 ID:vG2lH35Y0
4
いやだ。
痛いのは、いやだ。
殴らないで。
ぶたないで。
パパ。
やめて。
やだよ。
痛いのは、やだよ。
どうして殴るの。
どうしてぶつの。
どうしたら、ぶたないでくれるの。
どうしたら、乱暴されないですむの。
乱暴されないですむなら。
わたし、なんでもする。
おもちゃもいらない。
お洋服もいらない。
お花も、わんこも、ママも。
自分も。
全部、全部いらない。
友達だって。
友達、だって――。
.
264
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:03:17 ID:vG2lH35Y0
いまになってどうして、あの頃のことを思い出すのだろう。
忌まわしい記憶。忌まわしい生活と、忌まわしい父。
そして、忌まわしい、自分。
ハイン。
ハインとなった、あの子。
ミセリ。
あの子へのつぐない。それがわたしの生きる意味。存在する理由。
だからわたしは、あの子に尽くす。あの子を守り、あの子を導き
――あの子に、ミセリであることを思い出させない。
それだけが、私の望み。
――望み、だったのに。
.
265
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:03:47 ID:vG2lH35Y0
一人にさせるべきではなかった。目を離すべきではなかった。
あの子の異変には気づいていた。あの還泡式の日、あのハーモニカの演奏を聞いて以来、
彼女がギコに惹かれ始めていることには気がついていた。
ギコがハーモニカを手放して以降、
異変が急速に進行していることにもわたしは気がついていた。
それなのにわたしは、何の対策も取らずにいた。
下手に刺激して彼女の記憶をこじ開けてしまうかもしれないと思うと、
怖くて何もできなかった。何もせず、ただ、
あなたはハインだとささやくことしかしなかった。
その結果が、これだ。
レッスンを早くに切り上げ、彼女を探していたわたしの耳に、
鼓膜に、それは轟いた。悲鳴。彼女の。“ミセリ”の。
考える間もなく駆け出していた。悲鳴は森の奥から聞こえた。
どうしてそんなところに。森に入ってはいけないと、あんなに言っておいたのに。
何度も何度も覚えさせたのに。息せき切って走る私は、
自分の失態を棚上げして、彼女を責めた。責めて、そして、
自分にそんな資格がないことにすぐに気づく。
考えるのは、後。
いまはとにかく、ミセリの下へ駆けつけなければ。
あの子が完全に自分を取り戻す、その前に。
森へと飛び込み、枝葉をかき分け、前へと進む。
走って、走って、そして私は、ついに見つけた。
266
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:04:08 ID:vG2lH35Y0
ミセリが、ギコに、抱きしめられていた。
ミセリは、ぴくりとも、動かなかった。
.
267
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:04:31 ID:vG2lH35Y0
「返してよ……」
ミセリへと、歩み寄る。
その小さく華奢な矮躯に、その小さく華奢な矮躯を抱える男の下に、歩み寄る。
「“ハイン”を、返してよ……!」
奪い取り、抱きしめた。軽い。とても、軽い。なのに重い。
いっさいの力が失われた人の身体は、例えそれが小さなこどものそれであっても、
支えきろうとするには、とても、重い。
ミセリにはまだ息があった。
衰弱して、いまにも途切れそうなか弱い呼吸ではあったけれど、
とにかく彼女は、生きていた。
帰らなきゃ、教会に。
だって、ここは、場所が悪い。
彼女を抱えて立ち上がろうとする。けれど、やはり、重かった。
わたしが抱えるには重くて重くて、それにどうしてか、
力を込めようとしてもまったく身体が言うことを聞かなかった。
腕にも腰にも頭にも、まるで血が通っていないみたいだった。
268
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:04:56 ID:vG2lH35Y0
「貸せ」
目の前に、手が差し伸べられた。少年の手が。
自分と、ミセリと、ギコ以外の人間がここにいたことに、
私はこの時初めて気がついた。そこにはあの車椅子の魔女と、
ギコの主の姿も存在していた。ギコの主が、わたしに手を差し伸べていた。
わたしからミセリを奪おうと、その手を伸ばしていた。
「だれが……!」
力なくうなだれるミセリの身体を、強く抱きしめる。
その身を少しでも隠せるように、敵の視界から見えなくなるように、と。
お前も同類だ。
ギコや、車椅子の魔女と同じ。わたしたちの平穏を喰い荒らそうとする敵だ。
それを今更どのような了見で、味方面を振る舞おうというのか。
ミセリは、わたしが、守るんだ。
そのような思いで、敵を睨んだ。
睨んだ、はずだった。
269
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:05:29 ID:vG2lH35Y0
奇妙な感情が、わたしの中を駆け巡っていた。
敵意を向けた眼の前の男から受け取った、予想とは異なる感覚。
それはけして、嫌悪感や恐怖感といったマイナスの感覚ではない。
もっと大きく、絶対的で、揺るぎのない存在感。
言葉にするならば、あえてするならば、それは、おそらく――安心?
気づけばわたしは、ミセリを彼に預けていた。
彼の手はあくまでやさしく、ミセリを抱え、包容していた。
その身体から、全身から、光のような、
暖かさのような力が放射されているみたいだった。
彼はわたしの知らない、かつて出会ったことのない存在だった。
「魔女よ、見ろ」
彼が、魔女に向き直った。
魔女は、彼の腕の中のミセリを見つめていた。
「これが“ギコ”を棄てた時の姿だ」
それだけいうと、彼は魔女に背を向け歩きだした。
教会に向かい、その重力を感じさせない足取りで。
わたしはその後を追おうとして進めかけた歩を、一度、止めた。
振り返る。閉じた森のその暗がりに、魔女と、ギコがいる。
暗がりで佇む魔女とギコに――ギコに、告げる。
もう二度と、“ハイン”に近付かないで。
.
270
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:05:53 ID:vG2lH35Y0
彼の後を追い、彼の腕の中で死んだように眠るミセリを見つめる。
その寝顔に語りかける。
だいじょうぶだよ。
あなたが見たのはただの夢。
怖いことも、つらいことも、全部、全部ただの夢。
目を覚ませば消えてなくなる、あぶくのようなただの夢。
思い出すことなんて、何もない。
思い出さなきゃいけない記憶なんて、何もない。
何も、ないんだよ。
だから、いまは、すべてを忘れて――。
おやすみなさい、ミセリ。
.
271
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:06:16 ID:vG2lH35Y0
5
おねえちゃん、どこへ行くの?
どうしてあたしを置いていくの?
いやだよ、おねえちゃん。
おねえちゃんがいないと、あたし、生きていけないよ。
もう、だれもいないんだよ。
あたし、一人になっちゃったんだよ。
一人じゃ踊れないよ。
何も見えないよ。
暗いよ。
怖いよ。
会いたいよ。
おねえちゃん。
おねえちゃん……。
おねえちゃんは、もういない。
.
272
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:06:39 ID:vG2lH35Y0
「おはよう、ハイン」
目を覚ましたら、ナベの顔があった。いつもと同じように。
そしてこれもまたいつもと同じように、ナベの指があたしの目元をぬぐった。
その指先に、水滴が付着している。その水滴の曲面に、
丸く歪曲したあたしの顔が映っていた。目元を腫らした、あたしの顔。
あたしの、幼い顔。
「ハイン……?」
ナベの顔が不安に曇る。あたしがいつまでも答えないでいるから。
ごめんね、ナベ。あなたを心配させるなんて、あたし、悪い子だ。
あたしが目覚めるまで心細い思いをさせてしまったであろう彼女に、
あたしはあたしに可能な限りの微笑みを演じて返す。
「おはよう、ナベ」
彼女の安心が、肌を通して伝わった。
「ところでナベ」
「あ、ハイン、だめ〜。まだ、寝てなくちゃ〜」
「ううん、だいじょうぶ。それよりも、何かあったのか? ずいぶん静かだけど」
273
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:07:04 ID:vG2lH35Y0
上半身を起こして、耳をそばだてる。
いつもは叫び声や怒声に満ち溢れた教会の中が、今日はいやに静かだった。
時が凍りついたような静けさは、何か薄ら寒いものを想起せざるにいられない。
「いま、還泡式をしているの〜」
「還泡式? だれの?」
「それよりも、体調はどう〜?
ぽんぽん痛かったり、頭あっちっちだったりしない〜?」
質問に答えることなく、ナベがあたしの額に手を当ててくる。
ナベはいつも通りだった。間延びした話し方に、独特の擬音。温和な表情。
あたしのことを思ってしてくれる、掛けてくれる言葉と行動。
ナベはいつも通りだった。余りにも、いつも通りだった。
274
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:07:28 ID:vG2lH35Y0
「あのな、ナベ、あたし……」
あたしを案じてくれているからこその、いつも通り。
「お腹が、すごく空いてる」
「待ってて!」
ナベが嬉しそうに飛び上がって、部屋から出ていった。
お腹が空いたというあたしのウソを、真に受けて。
彼女の足音が完全に聞こえなくなってから、
あたしは自分自身に向かっておねえちゃんのようにつぶやいた。
お前は本当に、悪い子だなあ。
.
275
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:07:53 ID:vG2lH35Y0
思った通り、足はまともに動かず立ち上がるのも困難だった。
それでも壁に寄りかかって時間さえかければ、何とか移動することはできる。
そういえばここへ来た時も、こんなふうに寄りかかっていたんだっけ。
森の外から、ここへ来た時。
どうして忘れていたのかな。
あたしが、あたしだっていうこと。
あたしの、大切な人のこと。
おねえちゃんのこと。
考えている内に、目的地へと到着した。
還泡式が行われている広間。けれどそこへ来てもなお、
こどもたちの喧騒は聞こえなかった。だれもいないわけではない。
確かにみんな揃っている。なのにみんな、どこか居心地悪そうに、
騒ぐこと、楽しむことを躊躇していた。
壇上では、ジョルジュがハーモニカを吹いていた。
いや、吹こうとして、吹けていない。不揃いな音が
断続的に羅列されているだけで、それはけっして
一個のメロディーとはなりえなかった。
ジョルジュはまるでジョルジュではない顔をして、
泣きそうになりながらハーモニカを吹こうとしていたけれど、
でも、焦れば焦るほど、うまくやろうとすればするほど、
彼の努力はから回って、余計に音は、意味をなさない騒音となっていった。
胸が苦しくなった。
276
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:08:15 ID:vG2lH35Y0
ハーモニカが止まった。
めぇという、ひつじの鳴き声を境に。
いつの間にかひつじが、歌うひつじが広間へと入ってきていた。
海を割るように、こどもたちが道を開ける。
その間をひつじが歩く。ふわふわな羊毛を揺らしながら、
やさしい足取りで歩いて行く。還泡式の主役の下へ。
光に導かれた、幸運なこどもの下へ。
ひつじの足が止まった。
目の前には、一人の少女。
陶器のように美しい肌をした、大人びた女の子。
誰とも交わらず、孤高を貫いていた人物。
畏れと嫌悪を、一身に請け負っていた者。
アイスブルーの瞳。
人を惑わす魔の女。
車椅子の、魔女。
ひつじの前には、彼女がいた。
彼女の前で、ひつじが座った。
277
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:08:35 ID:vG2lH35Y0
「魔女よ」
しんと静まり返った場内に、少年の声がエコーした。
声の主は、ギコの小旦那様。ひつじの傍らに佇む彼が、
魔女に向かって問いかける。
「最後に言い残すことは?」
「私、は……」
広間中の視線が、一斉に彼女へと集まった。
車椅子の車輪が、わずかに後退する。
「私は……私は……」
しぼりだすような彼女の声も、物音一つない広間では隅々にまで響き渡った。
その大きさに本人自身が狼狽するかのようにのどを抑える仕草をした後、
さらに小さく、か細い声を上げる。
「わた、しは……わたし、は……わたし、わたし、は……
わ、わたし、は……わたしは、わたしは……わたしは………………」
278
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:09:02 ID:vG2lH35Y0
私は。
最後にその言葉を放った彼女は、
何かをつかむかのように伸ばしていた手を収め、口を閉じ、そのままうつむいた。
そして彼女はとうとう、閉ざした口を二度とは開かなくなる。
ひつじが一声鳴いた。
「ジョルジュ。彼女を連れて行ってやれ」
ギコの小旦那様からとつぜんの指名を受けたジョルジュは、
ぽかんとした顔をして、しばらくそのまま動かなかった。
「ママがお前を待っている」
ジョルジュがこくんとうなづいた。
そして車椅子の取っ手を掴み、魔女と共に前を行くひつじを追った。
部屋を出る時、あたしとひつじ、それに魔女とジョルジュはすれ違った。
魔女は、魔女ではなかった。
うつむいて、打ちのめされたただの女の子が、そこにいた。
ジョルジュは無表情だった。心なしか視点も定まらず、
彼の操る車椅子の軌道も左右に蛇行していた。
あたしは、何もできずに、彼らを見送った。
279
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:09:27 ID:vG2lH35Y0
彼らがいなくなった広間は、張り詰めていた緊張が一気に解放されたのだろう、
くつろいだ空気がそこかしこに充満していた。あたしが思っている以上に、
車椅子の魔女を苦手としている子は多かったようだ。
弛緩したこどもたちの輪。あたしはその輪には加わらなかった。
どうしても話をしなければならないあの子の姿が、
ここには見当たらなかったから。
広間から離れる。行くべき場所は、きっとあそこ。
あの人はきっと、あそこにいる。
壁に肩をもたせて、足を引きずり進んでいく。
裏庭へと出る。目的地は、この向こう。このすぐ先。
けれど困ったことに、ここには壁がない。支えになるものがない。
何かに頼ることはできない。
あたしたちは、自分の力で歩まなければならない。
.
280
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:09:51 ID:vG2lH35Y0
壁から離れ、一歩を踏み出した。身体が大きく傾ぐ。
そのままバランスを保てず、倒れた。石垣に手をついて、身体を起こす。
そしてまた、一歩踏み出す。踏み出して、倒れて、起き上がって、
それを何度も繰り返して、何度も何度も繰り返して、近くて遠いその場所へ、
遥かな遠いその場所へ、あたしはわずかに、着実に、近づいていった。
そしてあたしは、その入口へとたどり着いた。
森。
あたしたちを囲う森。
あたしたちを守る森。
きっと彼は、ここにいる。
どうしていいか、わからずに。
あの時のあたしと、同じように。
だから、あたしは、行く。
さらなる一歩を、踏み出して。
枯れた枝を踏みしめる感触が、足の裏に広がった。
.
281
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:10:26 ID:vG2lH35Y0
6
「よっ」
声を掛けられ、振り向いた。彼女が、ハインが、そこにいた。
長大な年月を感じさせるしっかりとした樹木に寄りかかった格好で、
気安い感じに掲げた手で挨拶している。そして彼女は、
ちょっとした散歩でもするような歩調で一歩、こちらへと足を踏み出した。
「だ、だめ! 来ちゃダメだ!」
「どうして? ナベに言われたから?」
静止の声にも耳を貸さず、彼女はぴょんぴょん跳ねるように近づいてくる。
その身体が、大きく傾いだ。以前にも見た光景。
手に持っていたノートを放り投げ、慌てて彼女へと駆け寄る。
間一髪、彼女が地面と激突する前に受け止めることができた。
腕の中の小柄な体躯が、もぞっと動いた。彼女の顔が、真上を向く。
すなわち彼女を見下ろすぼくの顔と、正対する。
彼女は目を凝らすようにぼくの顔を眺め回した後、大きく、大きく胸を膨らませた。
282
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:10:50 ID:vG2lH35Y0
「あたし、ミセリだった!」
振動で、森の木々がさざめいた。木々だけではない。
至近距離で彼女の叫びを受け止めたぼくの身体も、内側から波打っている。
少しだけ、頭もくらっとする。しかし当の本人は悪びれる様子もまるでなく、
にいっと、いたずらっ子の笑みを浮かべていた。
「だから、平気でしょ?」
幼い身体に、幼い声。幼い顔。
なのに彼女の表情は妙に大人びていて、その歪さがなんだか妙に、胸を苦しくさせた。
彼女はハインで、ミセリだった。
「ごめん……」
「どうして謝るのさ」
「だってきみは、ぼくのせいで……」
口に指を当てられた。強制的に話を止められる。
彼女がにこっと笑った。口に当てられていた指が移動を始め、別の場所を差す。
その先には先程ぼくが放り投げたノートが、
地面に根を這った木々のふしくれに引っかかっていた。
魔女が記した、魔法のノート。
283
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:11:24 ID:vG2lH35Y0
「あれ、持ってきてくれる?」
ミセリが指の先を曲げて引っ張り寄せるようなジェスチャーを行う。
けれどぼくはミセリの意図がわからず、それにこの小さな身体から
手を離してしまってよいものなのかもわからず、動くに動けなかった。
そんなぼくに、彼女がもう一度催促する。大丈夫だからと、付け加えて。
結局、彼女の言葉に従った。「お願い」とつぶやいた彼女の、
その妙にさみしそうな声色に負けて。彼女の身体を、手近な木にもたせかけ、
放り投げたノートを再び拾う。開いていたページに付着した緑を払い、彼女に手渡す。
ノートを受け取った彼女は、その開いたページに顔を近づけた。
まつげと紙とが触れそうなくらいな、至近距離にまで。
まるでそうしないと、書かれている文字が読み取れないかのように。
まるで視力が、ほとんどないかのように。
彼女の隣に座る。彼女からノートを取り上げる。
彼女が少し驚いたようにぼくを見た。
吐息のかかる距離で。生を感じる、その距離で。
叫び声は必要なかった。ささやき声で、十分だった。
ノートを開き、読み上げる。そこに書かれた文言を。
魔女の残した魔法の呪文を。長い、長い時間を掛けて、
ぼくはその一個の物語を読み上げていった。秘めたる魔女の内面を唄っていった。
彼女は黙って聞いていた。目をつむって、森の一部と化したように静止していた。
静止しながら、それでも彼女は生きていた。ぼくが最後のページを読み終えた時、
彼女の閉じた目元から、涙が一筋こぼれ落ちた。
284
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:12:08 ID:vG2lH35Y0
「全部、そうなんだよね?」
瞳を森から隠したままに、彼女がたずねてきた。
ぼくはこくんとうなづく。魔女が残したノートは、この一冊だけではない。
数えるのも気が遠くなるような膨大な冊数を、魔女はいままで書いてきた。
記し、残してきた。
「ここに来て、良かったよ」
目を開いた彼女が、ぼくを見ていった。
明かされた瞳はうるんでいたけれど、その顔は、笑顔だった。
「あたしね、あなたのことが好き。おんなじ意味で、あの子のことも好き」
ぼくは彼女から顔を背ける。その真っ直ぐな笑顔から。
「好きっていわれるのは嫌い?」
「……ぼくは、罪人だ」
「だから幸せになっちゃいけない?」
声を出さずに、うなづく。
「だからハーモニカを手放した?」
285
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:12:31 ID:vG2lH35Y0
うなづくことは、しなかった。
肩に重みがのしかかってきた。
ちょうどこどもの、頭ひとつぶん程度の重みが。
「ねえ、覚えてる? あなたがここへ来た日のこと。
あなたがあたしに、どこから来たのか尋ねたこと」
ぼくは答えない。
肩にかかる重みが増した。
「ハインはね、あたしのおねえちゃんだったんだ。
綺麗で格好良くて、あたしの憧れだったおねえちゃん――」
そっぽを向いたままのぼくへと、彼女はもたせかけた頭を通じて話し始めた。
ハイン――そして、ミセリという少女が辿った物語を。
.
286
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:12:53 ID:vG2lH35Y0
ミセリは貴族家の流れを汲む一族の男女の下、
一男三女の四番目の子として生を受けた。
しかし彼女は、望まれて生まれたこどもではなかった。
没落して久しいミセリの家では
貴族であった時代の蓄えなど些かも残ってはおらず、貧窮に喘いでいた。
それ故ミセリの両親は手間ばかりがかかる赤ん坊のミセリを疎ましく思い、
井戸の中へ投げ捨ててしまおうかと本気で画策したことすらあったらしい。
両親の気まぐれによりなんとか一命を取り留めたミセリだったが、
その生活は当然恵まれたものではなかった。彼女は他の兄弟と明確に差別されて育った。
同じ食卓につくことは許されず、食事は家族の残り物や
腐って廃棄するしかなくなった食べ物とも言えないようなものしか与えらなかった。
寝床も牛馬の臭い漂う藁をかき集めるしかなく、それすら意味もなく取り上げられ、
土の上で眠るしかない日も少なくなかった。
自分はいらない子なんだろうな。
ミセリは両親の意を、直に言われるまでもなく汲み取っていた。
私は、生まれちゃいけなかったんだな、と。希望はなかった。
その代わり、絶望もなかった。これが当たり前だと思っていたから。
兄や姉が潰した虫を見て、自分もいつか、
こんなふうに潰されて死ぬんだろうなと漠然と思っていた。
287
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:13:21 ID:vG2lH35Y0
「そんなあたしの運命を変えてくれたのがおねえちゃん――ハインなんだ」
ミセリが誰にも祝われない五歳の誕生日を迎えた数日後、
彼女は新しい家族としてミセリの家へやってきた。
彼女は綺麗で、洗練されていて、なにより身体中から溢れ出した
活き活きとしたエネルギーのようなものが、とてもまぶしい女性だった。
事前にどのようなやり取りが成されていたのかは判然としないけれど、
ミセリの両親は当初、彼女の来訪に難色を示していた。
ハインの家とミセリの家には遠い血縁関係が在るらしかったものの、
碌な交流もなく、ミセリの両親にとってみればハインはただの他人に過ぎなかった。
どこの誰とも知らない娘を引き取る余裕などうちにはないと、
両親は長い旅の果てにここまでやってきたハインを、その場で追い返そうとした。
けれど両親は、ハインが持参したものを見るとすぐさま態度を変えた。
ハインが持ってきたもの。それは宝石だった。色とりどりの宝石。
慌てて持ってきたので価値があるのかどうかわからないけれどとハインは言っていたが、
父がいまの生活を死ぬまで続けてもこの中の
たった一つであろうと手に入れられないことは明白だった。
288
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:14:13 ID:vG2lH35Y0
そんなわけで、ハインはミセリの家に快く迎え入れられた。
両親だけでなく、兄や姉たちにも好意的に受け入れられていた。
彼女はいつも快活で、思ったよりも口が悪く、けれど面倒見は良く、
親しみやすく、遊ぶ時は誰より全力で、だけど肝心なところはきちんと見守ってくれる、
やさしいおねえちゃんだった。
ハインはみんなのおねえちゃんだった。
「でもね、最初はあたし、おねえちゃんのこと好きじゃなかったんだ」
ハインが来たことで自分の居場所が
本当になくなってしまうのではないかという危惧が、彼女を悩ませた。
ただでさえいらない子である自分なのに、あんなになんでもできてしまう人が来たら、
今度こそあたしは捨てられてしまうのではないか。
不安に息苦しくて、牛馬の臭いがする
藁の上で身体を丸めても、すんなりと寝入ることができなくなった。
そのせいで、寝坊した。
289
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:14:43 ID:vG2lH35Y0
ミセリは両親から複数の仕事を課せられていたが、
その中のひとつに家族が目覚める前に井戸から
水を汲んでこなければならないというものがあった。
井戸は家から一キロ近く離れている上に、
ミセリが運べる量では何度も往復しなければならない。
いつもはミミズクが鳴く頃には目を覚ますのに、
今日はすでに、地平線から日が差していた。
涙目になって井戸へと走った。
桶いっぱいに水を汲んで、また走って家までもどる。
息なんて、とっくの昔に切れていた。それでもミセリは走った。走るしかなかった。
いやだ、いやだ、いやだ。
怒られるのは、いやだ。
捨てられるのは、いやだ。
踏み潰されるのは、いやだ。
いらない子になるのは、やっぱり、いやだ。
290
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:15:12 ID:vG2lH35Y0
転んで、桶の中身をぶちまけた。
ぶちまけられた水が染み込んでいく地面に、顔から突っ込んだ。
泥化していく土が、目鼻の形に変形していく。ミセリは顔を上げなかった。
泥の中へと沈みながらミセリは、泣いた。嗚咽を漏らして、か細く叫んだ。
何がとか、ではなく。
なんだかもう、全部、いやだった。
沈みに沈んで、そのまま自分も泥になってしまいたかった。
このままずっと、眠ってしまいたかった。
その時だった。
ミセリの前に、彼女が現れたのは。
「起きれるか?」
涙でにじんだ視界に、いま一番会いたくない人の顔が映った。
ハイン。その人はミセリが起き上がろうとしないのを見て取ると、
強引に身体を抱え、持ち上げてしまった。
ミセリのぼろとは違う上質な衣服に、ぐじゃぐじゃに溶けきった泥が付着する。
けれどハインはそんな汚れなどまるで気にする様子なく、
ミセリに向かってその屈託のない笑みを向けた。
291
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:15:45 ID:vG2lH35Y0
「どっちがいっぱい運べるか、競争な!」
言うなりハインが駆け出した。
ミセリではとうてい持ち運ぶことのできない、大きな桶を片手に担いで。
ミセリは呆気にとられながらも、涙を拭い、
転んだ時に手放してし桶を手にハインの後を追った。
水汲みはあっという間に終わった。まだ日も明けきっていない。
深夜に起きて一人で汲んできたときと比べても早くに終わった。
そでをまくり満足げな笑顔を浮かべているハインの、
彼女のおかげであるのは明白だった。
けれどミセリは、素直に喜ぶことができなかった。
彼女が何を考えているのか、ぜんぜんわからなかったから。
いきなり怒られるんじゃないかとか、石投げの的にされるんじゃないかとか、
そんな疑いしか思い浮かばなかった。
「あの、ごめんなさい、あたし、その……」
だからとにかく、謝った。
謝れば多少の手心が加えられることもあると、ミセリは経験として知っていたから。
けれどハインは、他の家族とは違った
292
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:16:09 ID:vG2lH35Y0
「ミセリはさ、すごく丈夫な脚を持ってるんだな」
ハインの言葉の意味がわからず、あたしはとりあえずもう一度謝った。
そんなあたしを一笑に付して、ハインはあたしとの距離を取った。
そしてハインは、踊りだした。
.
初めて目にする舞踏というものに、ミセリは目を奪われた。
それは幻想的な光景だった。言ってしまえばただ人が一人踊っているだけだというのに、
たったそれだけのことで空気が、空間が別世界になっていた。
草木も、土も、風も雲も虫も、
そこにあるすべての存在が彼女の味方となり、彼女を輝かせていた。
彼女を取り巻くその一帯のすべてが、光り輝く神話の世界に変貌していた。
彼女の脚が、止まった。自然が、空間が、現実の時間へともどっていく。
けして急激にではなく、徐々に、徐々に、
浸透した余韻を世界中へ分散させていくように。
それが自分の中へも潜り込んできたことを、ミセリも確かに感じ取っていた。
玉汗を浮かべたハインが、笑いかけてきた。
293
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:17:05 ID:vG2lH35Y0
「やってみ?」
ぶんぶんと首を振る。
「む、無理だよ……」
偽りなく、素直にそう思った。
あんなこと、彼女以外にできるとは思えない。ましてや自分なんかには。
「そんなことないさ」
だというのにハインは、あたしの手足を取って無理矢理にステップを踏ませてきた。
彼女の指示に従い足を動かす。けれど当然ミセリの動きはハインの模倣とは成らず、
しなやかさに欠けたぎこちのないものになる。
そうこうしているうちに、日が完全に昇っていた。
水汲みが終わっても、やらなければならない仕事はたくさんあった。
そのことを遠慮がちに、ハインへと告げる。するとハインは、こういった。
「それじゃ、続きは明日だな!」
294
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:17:57 ID:vG2lH35Y0
この日から、水汲みの後のレッスンがミセリの日課になった。
このレッスンが、ミセリはいやだった。どうせ自分には不可能だと思っていたから。
だからこんなレッスンなど無意味だと思っていたし、
疲れを残して仕事に支障をきたしたら、父や母になにをされるかわからなかった。
それでもハインに従っていたのは、ハインが水汲みを手伝ってくれていたから。
もしレッスンを断ったら、井戸までの往復行をまた深夜に
一人で繰り返さなけれならなくなるかもしれない。それは避けたかった。
幸いハインは、急に怒鳴りだすような理不尽な先生ではなかった。
ミセリが何度ミスをしても上達しなくとも見捨てることなく、
時間いっぱいに見守っていた。
ただ一箇所だけ、ハインの顔が曇る瞬間があった。
見よう見真似で行うミセリの踊りはもちろんハインのように
洗練されたものにはなり得なかったが、
それでもそれらしい型をこなせる程度には身体が踊りを記憶した。
しかしミセリは、いつも必ず同じ場所でステップを間違えた。
その場所は腕と脚とのバランスが取りづらく、
前後の動きも合わせて他の箇所と比べてもむつかしい技術を要求されていた。
295
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:18:50 ID:vG2lH35Y0
ミセリにはどうしても、この時の動き方が理解できなかった。
そしてこの箇所でミセリが失敗をごまかすような動きをすると、
ハインは決まって顔を曇らせた。それがいやで、仕方なかった。
けれど、どうしようもなかった。できないのだから。
それにハインは、それでも笑っていた。
けれどその日は違った。目が覚めて、水汲みに向かうときから違っていた。
ハインはむつかしい顔をして、妙に言葉少なだった。
こちらの視線に気づくと笑顔を浮かべたけれどその笑顔にも元気がなく、
目を離すとまたすぐに消沈していた。
レッスンが始まっても、それは変わらなかった。
どこか心ここにあらずといった様子で、
ミセリのことを視界に入れてはいても、見てはいなかった。
なんだかとても、いやだった。
自分が余りにもダメだから、
愛想を尽かされてしまったのではないかと、後ろ向きな疑念が思い浮かんだ。
296
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:19:15 ID:vG2lH35Y0
そんな自分自身が生み出した妄想に囚われると、無意味だと思っていた
この時間を失いたくないという強い気持ちが、胸の奥から奥から押し寄せてきた。
うまくやらなきゃ、失敗しないようにしなきゃと、そんな思いが強まった。
けれど焦れば焦るほど身体は意志を離れ、
ぎくしゃくとレッスンを始める以前の状態へともどっていってしまった。
そして、あの箇所。どうしてもうまくできないあのステップに、挑戦した。
結果はやはり、変わりなかった。
ハインの目が失望に染まった――気がした。
もうダメだと思った。ハインはあたしを見限ってしまったと、そう思った。
そう思うと全身から力が抜けて、そのまま座り込んでしまいそうになった。
座り込んでしまいそうになりながら、ミセリは思い出していた。
ハインが初めて踊ってみせてくれた日のことを、思い出していた。
もう一度見たかったなと、思った。
確かこんなふうだったなと思い返しながら、
記憶の中のハインを自分の身体を使って辿ってみた。踊ってみた。
何も考えず、ただ彼女の動きを真似した。そうしたらなんだか、
身体がとても軽くなっていた。ミセリは軽快に踊っていた。
あんなにつまづいていたあの箇所も、あっさりとこなしていた。
297
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:19:39 ID:vG2lH35Y0
ミセリがそのことに気がついたのは、踊り終わった後だった。
あれ、あたし、なんか……できちゃった。感慨に耽るでもなく
他人事のようにそう思っていたミセリに、強い衝撃が襲ってきた。
ハインが、抱きついてきていた。ハインはなぜか、泣いていた。
ぽろぽろと泣きながら、泣きながら彼女は、笑っていた。
「なあ、ミセリ。何かができるようになるのって、すっげー気持ちいいだろ?」
彼女がなぜ泣いていたのかも、どうして抱きついてきたのかも、
その時のミセリにはわからなかった。けれど確かなこととして、自分はできた、
自分はできるようになったんだという実感が、身体の内から沸いてくるのを感じた。
その感情に身を任せているとなぜだか涙が溢れてきた。
止めようとしても、それは止まらなかった。のどがひくつくのを止められなかった。
ミセリは泣き出した。ハインと一緒に、わんわん泣いた。
その日から、ミセリはハインをおねえちゃんと呼ぶようになった。
.
298
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:20:01 ID:vG2lH35Y0
毎日が楽しくなった。
相変わらず両親からは虐げられていたし、
仕事は大変だったけれど、苦しくはなかった。おねえちゃんがいたから。
おねえちゃんと、おねえちゃんから教わった踊りがあったから。
「どうしてあの時泣いていたの?」
レッスンを終えて一休みしている間に、
ミセリはずっと気になっていたことを聞いてみた。
ミセリがハインをおねえちゃんと呼ぶきっかけになったあの日のあの時。
ハインがなぜ泣いていたのか、ミセリはまだその理由を知らずにいた。
それにいつも同じ箇所で失敗するミセリに、顔を曇らせていた理由も。
ハインが自分のいうことを聞かれなかったり踊れなかったくらいで
気分を害するような女性でないことは、いまのミセリには十分わかっていた。
だから、聞いてみた。
ハインの答えは、単純だった。
自分も昔、同じ箇所で苦戦していたからだ、と。
299
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:20:27 ID:vG2lH35Y0
「それだけ?」
つっこんで聞いてみるとハインは少し困ったような顔をしたけれど、
やがて静かにその本当の理由を、そして自分の生い立ちを語りだしてくれた。
ハインの家は特別な役職を与えられた王家付きの一族で、
彼女の父もその技でもって時の王に仕えていたらしい。
けれどそんな彼女の父も、王政打倒を掲げた市民革命に
巻き込まれたことで暴徒に捕まり、処刑されてしまう。
残された彼女や彼女の兄弟も懸賞金を掛けられ、
散り散りに逃亡するしかなかったそうだ。
逃げた先でも――つまりミセリの家へ着いてからもハインは、
父やそれ以前から受け継がれてきた家の技を鈍らせることなく磨いてきた。
すなわち、舞踏の技を。逃げていった他の兄弟も同じように技を磨いているはずだと、
ハインは語った。そのはずだったと。
「でもな、あの日、弟が捕まって死んだ」
300
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:21:16 ID:vG2lH35Y0
正確にはその訃報が届けられたと、
それがなんでもないことかのように彼女は言い直した。
彼女はあくまで淡々と話した。弟の死を聞かされた時に思ったこと。
それは、自分たちは極刑を免れぬほどの罪を犯していたのだろうか、という問いだった。
王の膝下で踊り継いできたこと。
それは世を生きる多くの人々にとって隠れ住むことすら許されぬ暴威であり、
引きずり出してでも処分せねばならぬ悪徳であったのだろうか。
あたしたちは世の中にとって、いない方がよい存在なのだろうか。
繰り返されるハインの問いを聞いたミセリは、彼女が自分と同じであることを知った。
あたしはいらない子。だれからも必要とされず、むしろ疎まれ、いなくなれ、
死んでしまえと石を投げられた存在。彼女はあたしと、同じだった。
「だから、悲しくて泣いたの?」
自然と声が涙で震えた。存在を認めてもらえないそのつらさを、
ミセリはよく知っていたから。彼女の負ったつらさが、ミセリにもよく理解できたから。
けれどハインは笑って首を振った。
そしてしゃくりあげだしたミセリの頭を、やさしくなでる。
301
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:21:41 ID:vG2lH35Y0
「あたしが泣いたのは、お前が踊ってくれたからだよ」
ハインの言葉に、ミセリはきょとんとする。
「ミセリがちゃんと踊ってくれたから、あたしはあたしが、
あたしたちが間違っていなかったって思えたんだ。
ミセリの踊りが、あたしを救ってくれたんだ。だから、泣いたんだよ」
近づいてきたハインの額が、あたしのそれと接触した。
まつげが、鼻が、くっついた。
「ありがとな、ミセリ」
なんだかとても、恥ずかしくなった。
むずがゆくて、じっとしていられなくて、ミセリは飛ぶようにハインから離れた。
嬉しいのだけれど、その嬉しさをどう表現していいのかわからなくて、
どうしようもなくて、ミセリはハインに背を向けたまま、無意味に叫んだ。
全力で、のどがさけても構わないとばかりの大声で、叫び声を上げた。
驚いた鳥が数羽、空の向こうへと逃げていった。
その逃げゆく鳥を見ながらミセリはひとつ、名案を思いついた。
302
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:22:05 ID:vG2lH35Y0
「旅に出ようよ」
振り返ってもう一度、ハインにいった。
世界中を旅しようと。
「それで世界中の人に、おねえちゃんの踊りを見てもらうんだ。
みんな知らないから、怖いだけなんだよ。
知ったらみんな、おねえちゃんを好きになるよ」
それからミセリは、目を伏せて、
「それで、なんだけど……おねえちゃんさえよければ、
あたしも連れて行って欲しいなって。二人で踊れたら素敵だなって。
あたしなんかぜんぜんだし、足手まといにしかならないだろうけど、
でも、雑用とかならできるし、料理も覚えるし、それに――」
「ミセリ」
意味なくまくしたてるミセリの言葉を、ハインの一言が遮った。
真剣な顔をして、ミセリを見つめている。
照れくささや言葉に出来ない感情が渦巻いて、目をそらしたくなった。
でも、そらさなかった。
降り注ぐ朝日を浴びるハインの姿が、とても綺麗だったから。
ハインが、笑いかけてきた。
「お前はあたしの、自慢の妹だよ」
.
303
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:22:28 ID:vG2lH35Y0
約束をした。
二人で旅に出ると。
世界中のいろんな国々を巡って。
いろいろな人に二人の踊りを見てもらおうと。
なにがあっても絶対に忘れないで。
いつか必ず、この夢を叶えようと――。
夢は、叶わなかった。
.
304
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:23:07 ID:vG2lH35Y0
ハインの事情を正確に理解し始めていた両親は、
ハインのことを疎みだしていた。彼女を匿っていては、
自分たちにまで危害が及ぶかもしれない。
彼女を家から追い出さなければ。だが、どうやって?
両親はハインを売った。言葉通り、金銭のやり取りをして。
手際よく行われたその売買はよくわからないうちに始まって、
理解の及ばない間に終わった。時間にして一○分も掛からなかっただろう。
そのわずかな時間で、ハインはこの家から消えた。
ハインが、いなくなった。
.
305
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:23:38 ID:vG2lH35Y0
それはもちろん、ショックな出来事だった。
けれどミセリは過度に落ち込むことはしなかった。
両親に課せられた仕事の量は未だに膨大だったし、
なにより落ち込んでいる暇があるなら、その分だけ舞踏の技を磨きたかった。
約束をした。その一事が、ミセリの支えだった。
必ず夢を叶えると、絶対に忘れないと約束した。
だからミセリは、踊った。踊って、踊って、
ハインと再会した時に恥ずかしくないよう、自らを洗練させた。
その生活すらも、長くは続かなかった。
ミセリが住むこの町、この地域に住まう人々はその当時、極貧に喘いでいた。
王政に代わり台頭した民主主義を扱いきれなかったせいか、
野放図に行われた粛清の結果か、あるいはただそういう時代であったのか、
人々の多くはほとんど水と変わりのないスープで飢えをしのぎ、
一個のパンをも奪い合うような有様だった。
ミセリの両親がミセリを疎んでいたのもこの貧困が原因であったが、
しかし彼らはハインの土産を得た。町全体が貧しさにもがく渦中において、
彼らだけは裕福であることを堪能していた。しかも彼らはそれらを誇示するように、
上等な衣服を買い込み、肉や野菜も好きなだけ食卓に並べた。
かつての栄華を再現するかのように、華やかな生活を送った。
とうぜん彼らは、恨みを買った。
町の人々は会合を開き、ミセリの両親を糾弾する正当な理由を探した。
そして彼らは、納得できる答えを見つけ出すことに成功した。
306
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:24:08 ID:vG2lH35Y0
やつらはかつて貴族だった。
やつらが豊かなのは、貴族時代の蓄えを残していたからに違いない。
つまりやつらは、王政主義者だ。
王政主義者の財産は、俺達のものだ。
奪われたものを、取り返せ。
市民の痛みを、思い知らせてやれ。
.
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