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海のひつじを忘れないようです

307名無しさん:2017/08/21(月) 22:24:33 ID:vG2lH35Y0
父も、母も、三人の兄や姉も、全員が殺された。
ミセリだけが逃げ延びた。他の家族と違いぼろをまとっていたミセリは、
暴徒と化した町人の目をごまかすことができた。けれどそれも、一時しのぎに過ぎなかった。
貴族の血を引くミセリも例外なく、彼らにとっての標的だった。

ミセリは逃げた。町を越え、それでも追跡を止めない追っ手を振り切り、逃げた。
こどもの足ではいずれ捕まるであろうことは明白で、状況は絶望的だった。
それでもミセリは諦めなかった。諦めなかったし、前を向いていた。


これがあたしの、旅の始まりなんだ。


そう、ミセリは自分に思い込ませた。
悲劇なんかじゃないと。
いまこそ約束を、夢を叶える時なのだと。
だから、行く場所は決まっている。

おねえちゃん。
おねえちゃんに、会いに行く。
おねえちゃんに会いに行く時が、来たのだ。

308名無しさん:2017/08/21(月) 22:25:24 ID:vG2lH35Y0
ハインがどこにいるのか正確な場所は知らなかったけれど、当てならあった。
父と取引してハインを買ったほほの傷跡が特徴的な男と、男が乗っていった馬車。
馬車にごてごてとした装飾と共に書かれていた『シベリアンヌ』という文字。

シベリアンヌはともかく、シベリアという名前には聞き覚えがあった。
それは、土地の名前だったはずだった。ミセリの住んでいた町から数えて隣町の、
そのまた隣町を越えた、その先にある土地。目的地は、そこだ。

楽な道程ではなかった。
正体を明かすわけにはいかなかったからだれに頼ることもできなかったし、
周囲を警戒していなければならなかったため眠りは浅く、常に寝不足で頭痛がした。
盗みも働いた。そうしなければ、生きていけなかったから。
生きて、ハインのところへたどり着くことができなかったから。

そしてミセリは数週間に及ぶ強行軍の果て、シベリアに入った。
シベリアはミセリの住んでいた町よりも遥かに巨大な都会で建物も多く、
通りは人でごった返していた。この中からハインを、
ハインの送られた『シベリアンヌ』を見つけ出さなければならない。

捜索は難航したが、ミセリは逃げなかった。
物乞いをしながら、罵声を浴びせかけられたり、
時には蹴られたりしながらも、ハインを探し続けた。
ミセリにはもう、それしかなかった。

309名無しさん:2017/08/21(月) 22:25:47 ID:vG2lH35Y0
その甲斐あってか、ミセリはハインにつながる手がかりを見つけ出すことに成功する。
あの男。ハインを連れ去っていったほほに傷のあるあの男を、見つだした。
ミセリは男を尾行した。朝も夜も関係なく付け回し、
どんなヒントも見逃すまいと追跡し続けた。

そして、ミセリはついに見つけた。『シベリアンヌ』を。

『シベリアンヌ』は裏通りに居を構える何かの店舗らしかった。
けばけばしい色使いと卑猥なペイントに嫌悪感を覚えたけれど、
立ち止まるわけにはいかなかった。

ここに、おねえちゃんがいる。

中の人間に気づかれないよう、姿勢を低くして潜り込んだ。
『シベリアンヌ』には多くの部屋があり、そこには必ず大きめのベッドが置かれていた。
ベッドの中に誰かが潜っている部屋もいくつかあった。
そこからは時折声というかうめきのようなものが漏れ出してきて、
その音を聞くとなぜかいやな気分になった。

本当に、こんなところにおねえちゃんがいるのだろうか。

その心配は、杞憂だった。
ハインは確かに、そこにいた。

310名無しさん:2017/08/21(月) 22:26:17 ID:vG2lH35Y0
「おねえちゃん!」

ハインは肩と胸を大きく露出した、ひらひらのついているドレスを着ていた。
あまり似合ってはいなかった。でも、そんなのどうでもいいことだ。
おねえちゃんがいた。おねえちゃんに会えた。

うれしさと安堵感が一挙に押し寄せてきて、
限界をとうに超えていた足腰が立たなくなった。
膝から床に、ぺたりと座り込んだ。

「ハインのお知り合い〜?」

ハインのそばに座っていた女の子が、ミセリを見ながら声を上げた。
彼女もハインと同じ格好をしている。年も同じくらいに見える。
やさしそうな顔つきで、話し方からものんびりした性格であることが伺えた。
おねえちゃんのお友達なのかもしれないと、ミセリは思った。

だけどそれも、いま気にすることではなかった。
大切なのは、おねえちゃん。おねえちゃんに会えたというその一事。
脚に自由が利かず、もどかしかった。いますぐ姉の下へと駆け寄りたいのに、
それができないことがとてももどかしかった。

そのもどかしさを、ミセリは腕を伸ばすことで補おうとした。
最愛の姉へ届かんと、距離を無視してその手を伸ばした。

その手が、宙空で止まった。

311名無しさん:2017/08/21(月) 22:26:59 ID:vG2lH35Y0



「知らねえよ、こんなガキ」


.

312名無しさん:2017/08/21(月) 22:27:50 ID:vG2lH35Y0

……おねえちゃん?

冷たい声をしていた。姉の声だったけれど、姉の声ではなかった。
それはむしろ、父や母が自分に向かって吐き捨てたときのような、
峻厳な拒絶の声色に近かった。ハインのことを、もう一度呼んだ。
ハインは、こちらを見ることすらしなかった。

「おねえちゃん、あ、あたしだよ……。
 ミセリだよ、おねえちゃんの妹の、ミセリだよ……」

話したいことはたくさんあった。
聞いて欲しいことがたくさんあった。
毎日練習を欠かさなかったことを知ってほしかった。
上達した踊りの腕前を見てほしかった。
一日だって忘れたことはなかったと言いたかった。

――自慢の妹だって、もう一度言ってほしかった。

「あれ? でも、この子……」

「だから、約束を――」

313名無しさん:2017/08/21(月) 22:28:13 ID:vG2lH35Y0
「ぐだぐだうるせえんだよ!」

ハインが立ち上がった。
見たことのない怒りの形相を浮かべて。小さな悲鳴が、のどから漏れた。

「お前なんか知らねえ! さっさと出てけ!」

どうして、どうしてという疑問を口にしようとするも、言葉が声に乗らなかった。
おねえちゃん。どうして。おねえちゃん。あたしを忘れたの。おねえちゃん。
約束を。おねえちゃん。夢を。おねえちゃん。おねえちゃん。おねえちゃん――。


やっぱりあたしは、いらない子なの?

.

314名無しさん:2017/08/21(月) 22:28:36 ID:vG2lH35Y0
「出て行け!」

ハインが壁を叩いた。それがスイッチとなった。
動かないはずの脚が、動き出した。意志なんかとは無関係に
しっちゃかめっちゃか好き放題に走って、走って、走り回って、
気づくとミセリは、森の入口に立っていた。深く暗く、死を匂わせる森。
躊躇なく、足を踏み入れた。


死のう、と思った。
だってあたしは、いらない子。
いなくなっても、悲しむ人はいない。
だれも。
だれも――。


けれどミセリは、死ななかった。
緩慢に腐り行きつつも、かすかなその生を手放すことはなかった。

彼女は、生きていた。
生きていたから、その声も聞こえた。
自分を呼ぶその声が、聞こえた。

315名無しさん:2017/08/21(月) 22:29:00 ID:vG2lH35Y0
「ミセリ!」

どうしてという疑問が、真っ先に思い浮かんだ。ハインがいた。
ハインが森のなかにいて、叫んでいた。ミセリの名を叫んでいた。
どうして。なんで。だって、あたしは、いらない子のはずじゃない。
どうしておねえちゃんが、ここにいるの。

「いるんだろミセリ! 頼むから返事をしてくれ!」

悲痛な色を帯びたハインの声は、
ミセリの知っているハインのそれと変わりなかった。
けれどミセリは、飛び出していくことができなかった。

「怒るのも当然だよな。信用出来ないのも当たり前だよな。
 あたしだってそう思うよ。あんな……あんなひどいこと言ってさぁ!」

だって、また捨てられるかもしれない。
だって、またいらない子にされてしまうかもしれない。
忘れられてしまうかもしれない。

それは、いやだった。
いやだったから――。

「でも、でもあの時はああするほか、お前を――」

その躊躇が、永遠を別った。

316名無しさん:2017/08/21(月) 22:29:25 ID:vG2lH35Y0



ハインが倒れた。うつぶせに。
その背に何か、細長い棒状のものを生やして。
棒状のものが、さらに増えた。背中だけでなく、
足や、腕や、頭にも、それは刺さった。

うつぶせたハインの身体から、血が流れ出していた。
うつぶせたハインの身体が、血溜まりに沈んだ。


.

317名無しさん:2017/08/21(月) 22:29:52 ID:vG2lH35Y0
ミセリは、駆け出していた。
駆け出して、動かないハインの身体に飛びついた。
次の瞬間、視界が真っ暗になった。何か布のようなものを頭から被せられていた。
組み伏せられ、動けなくなった。果物のような香りが鼻の奥に滑り込んできた。
急速に、眠気が襲ってきた。

男たちの声が、聞こえた。


あーあ、もったいねえ。

こうなったら、美人も形無しだな。

まったく、なに考えてんのかね。

勝手に逃げだしゃこうなるなんて、わかってただろうによ。

そんなに大切だったのかねぇ、このちびすけが。

死んだらぜんぶ、おしまいだっつーのにな。

俺、お気に入りだったんだけどなぁ。

俺も。

俺もだ。

……ちっ。

318名無しさん:2017/08/21(月) 22:30:17 ID:vG2lH35Y0
麻痺したほほを、叩かれた。
生ぬるい空気が、被せられた布越しに耳へとかかった。
男が、耳元でささやいた。



おねえちゃんは、おまえのせいで死んだよ。


.

319名無しさん:2017/08/21(月) 22:30:56 ID:vG2lH35Y0
目が覚めると、足が折れていた。
関節が反対に曲がっているだけでなく、骨や肉がありえない方向を向いて、
足全体ががたがたな形に変形していた。痛みはなかった。ただ、感覚もなかった。
ハインが褒めてくれたミセリの脚は、もはや脚としての機能を失っていた。

男が二人いた。男たちは何かを話し合っていた。
どちらも聞き覚えのある声をしていた。
男たちは取り分がどうとか、もっと交渉するべきだとか話していた。

「あ、店長」

誰かが部屋に入ってきた。その顔には、見覚えが合った。
ほほに特徴的な傷のある男。もともと部屋にいた二人が、傷の男を前にかしこまった。

男が完全に部屋へと入ると、その陰に隠れていた
もう一人の人物がその存在を露わにした。その姿にも、見覚えが合った。
肩と胸を大きく露出させた格好。ハインと一緒にいた、あのやさしげな顔をした女の子。

女の子は、部屋の入口で固まっていた。
口に手を当てて、こちらを凝視していた。ミセリのことを震える目つきで見ていた。
傷の男が、女の子を呼んだ。女の子は動かなかった。
男が、もう一度女の子を呼んだ。女の子はやはり動かなかった。

男が、女の子をつかんだ。
女の子の目が、怯えるように男を見た。

320名無しさん:2017/08/21(月) 22:31:20 ID:vG2lH35Y0
「こ、こんなことするなんて、わたし、わたし知らなかった……
 知ってたら、知ってたらわたしだって、わたしだって……」

女の子が、殴られた。殴られて、倒れた。倒れたその身体に、男が蹴りを入れた。
一度ではない。何度も、何度も蹴り、踏みつけていた。
部屋にいた二人の男が止めるまで、それは続いた。

興奮した様子で息を荒げていた傷の男が、
ミセリがその光景を見ていることに気がついた。
大股で、近づいてきた。手近にあった何かをつかみ、腕を振り上げた。


頭を強く、殴られた。
その一撃で、視力も失った。


.

321名無しさん:2017/08/21(月) 22:31:50 ID:vG2lH35Y0



おねえちゃんのことばかり考えていた。
やさしかったおねえちゃん。
綺麗だったおねえちゃん。
格好良くて、力強かったおねえちゃん。
あたしを認めてくれたおねえちゃん。


おねえちゃんは、もういない。
あたしのせいで。
あたしが尋ねていったから。
あたしが信じきれなかったから。
あたしと出会ってしまったから
あたしがあたしだったから。
あたしがいなければ、おねえちゃんは死ななかった。


あたしは、いらない子。
ミセリは、いらない子。
ミセリは――


.

322名無しさん:2017/08/21(月) 22:32:21 ID:vG2lH35Y0
「気づいたら、ここにいた。自分をおねえちゃん――ハインと思い込んで」

長い、長い物語を語り終えたミセリが、
少し疲れたように寄りかかる力を強めた。
肩にかかる重みが増す。その重みは、
彼女が辿った人生の重みそのものなのかもしれない。

「きっとね、自分の罪を受け止めきれなかった防衛反応だったんだと思う。
あたしはおねえちゃんを殺したミセリじゃないし、
そもそもあたしがハインなんだから、
ミセリの犯した罪そのものがなかったことになるんだって」

事実そのものを消し去ることによる罪からの解放。
それがきっと、『ひつじの教会』の本質なのだろう。
だからここに住むこどもたちは過去に犯した罪の記憶を忘れ、
やがてはその根源となる自分自身をすら忘却する。魂を、救済する。

「あたし、それが間違ってたとは言わない。
でも、正しかったとも思わない。だから――」

ささやくように森の葉を揺らしていたミセリの声が、
明確にぼくへと向かい、放たれた。

323名無しさん:2017/08/21(月) 22:33:03 ID:vG2lH35Y0
「ギコ、今度はあなたの番。あなたの罪を、あたしに教えて」

ぼくの罪。

告白するならば。
ぼくはミセリの話を聞いて、彼女に罪があるとは思わなかった。
悪いのは環境や、時代や、あるいは運程度なもので、彼女には非などなにひとつない。
彼女は被害者だ。彼女は愛され、幸せになるべき良き人だ。

けれど、ぼくは、違う。

ぼくは、ぼくの意志で、罪を犯した。
彼女とは、違う。ぼくは、罪人だ。
ぼくは、焼かれ、叩かれ、引き裂かれるべき罪人だ。ぼくは――

「言葉にしなきゃ、ダメだよ」

頭を、つかまれた。
強制的に、振り向かされた。

「言葉にしないと、きっとあなたは前にも後ろにも進めない」

目の前に、ミセリの顔があった。額が、まつげが、鼻が触れ合う真正面に。
彼女の目が、ぼくの目をじっと見つめていた。
視力の失せた薄濁りの瞳が、それでもぼくを見つめていた。

324名無しさん:2017/08/21(月) 22:33:43 ID:vG2lH35Y0


しぃ。


目をつむるといつでも思い浮かぶひつじの姿。
ぼくの罪。罰の象徴。そして――最愛の、兄弟。

「ぼくは――」


.

325名無しさん:2017/08/21(月) 22:34:05 ID:vG2lH35Y0
              7

ミセリのように不幸な生まれというわけではない。
むしろ、恵まれていたと思う。山岳と海に挟まれた小さな田舎町で、
働き者の父とやさしい母の下にぼくは生まれた。

兄弟はいなかったけれど、さみしくはなかった。
人間の兄弟よりもっと大切で、仲の良い兄弟がいたから。

それが、しぃだった。

しぃは父が雇われている牧場で暮らすひつじの中の一匹で、
ぼくが生まれた年に生まれた、つまりは同い年の女の子だった。
しぃは父に懐いて離れたがらず、父も雇い主から
ずいぶん信用されていたようである程度自由にしぃの面倒をみることができたらしい。

だからぼくとしぃは一緒に駆け回ることもできたし、
時には朝まで同じ寝床にいることもできた。
ふわふわのしぃを抱いて眠るのは、とても心地よかった。

しぃは他のひつじにはない彼女だけの特技を持っていた。その特技とは、歌うこと。
声はもちろんめぇめぇというひつじの鳴き方ではあったけれども、
節も拍も取った鳴き声はでたらめなものではなく、きちんとしたメロディになっていた。

なにより歌っている時の彼女はとても楽しそうで、幸せそうだった。

326名無しさん:2017/08/21(月) 22:34:33 ID:vG2lH35Y0
「ただね、しぃが歌うにはひとつ条件があったんだ」

彼女は一人では歌わなかった。
彼女が歌う時には必ず、父がそばにいた。
しぃは、父のハーモニカに合わせて歌っていた。

父のハーモニカはとても上手なものだった――と、思う。
少なくともぼくは父のハーモニカが好きだったし、
ハーモニカに合わせて歌うしぃのことももちろん好きだった。

それに、ちょっと悔しかった。
ぼくもその環に加わりたくて、父からよくハーモニカを借りた。

「ぜんぜんうまくいかなくて、よくふくれていたけどね」

けれど吹くこと自体をやめようとはしなかった。
やめたいと思ったこともなかった。ハーモニカの演奏は、楽しかった。
それに、しぃもいた。

度々つっかえたり全然違う音を出してしまうぼくの演奏にも、
しぃは一緒に歌ってくれた。むしろうまくいかないもどかしさで憤るぼくを、
自身の歌で教え、導いてくれているようだった。いや、導いてくれていた。

朝から晩までしぃと一緒にいた。時には寝るのも一緒だった。
いつも一緒で、いつでも歌っていた。ぼくらはいつも一緒だった。


ぼくらは兄弟だった。

327名無しさん:2017/08/21(月) 22:35:03 ID:vG2lH35Y0
「幸せだった。ずっとこんな毎日が続くんだと思ってた」

父が海難事故に遭い、帰らぬ人となった。
父を雇っていた農場主と共に。

何か大きな商談があり、農場主は父にも同行を頼んだらしい。
父はその依頼を受け、現地へと移動する船に乗った。
三日もすれば目的地に到着するはずだったその船は嵐に見舞われ、
航海二日目の夜、海の藻屑となった。だから、遺体は見つからなかった。
父は海に沈んだ。

ぼくは父が好きだった。
明るくて。
冗談好きで。

ちょっといかめしい顔をしていたけれど。
実はかわいいものに目がない、
ハーモニカを吹く父が好きだった。

328名無しさん:2017/08/21(月) 22:35:27 ID:vG2lH35Y0
父が船に乗る前夜、ぼくと父は約束をしていた。
父さんがいない間、母さんとしぃのことは頼んだぞ、と。
そういって父は、いつも身につけていたハーモニカをぼくに預けてくれた。

約束を、守らなければいけなかった。
しぃを、母を守る。父のように。
父のように、ぼくはなる。
それがぼくの使命だった。


母が豹変した。

.

329名無しさん:2017/08/21(月) 22:35:52 ID:vG2lH35Y0
「あいつは初めから、私を愛してなんかいなかった!」

母は酒を呑んで、泣いて、近くにあるものを手当たり次第に壊すようになった。
瓶や、食器や、時には壁の一部を壊しながら、母は父を悪し様に罵った。
罵倒しない日はなかった。毎日、毎日、ぼくが好きだった父の特徴を、
ひとつずつ、丁寧に丁寧に母は否定していった。

父は母を愛していた。
でも、それは伝わっていなかった。
母は、父を憎んでいた。
そして、父の血を継ぐ、ぼくのことも。

手近に壊せるものがなくなると、母はぼくを叩くようになった。
ぼくは父譲りに頑丈だったから、壊れることはなかった。
けれど父譲りに頑丈だから、母の怒りは更に燃え上がった。
壊そうとして、壊せない。その度に母は、ぼくに向かってこう叫んだ。



お前なんか、生むんじゃなかった。


.

330名無しさん:2017/08/21(月) 22:36:14 ID:vG2lH35Y0
ぼくにはしぃしかいなかった。
しぃは変わらなかった。
相変わらずふわふわで、ハーモニカが好きで、一緒に歌ってくれた。
しぃといる時だけは、昔と変わりのない時間が流れた。

変わったのは、環境だった。
父と共に帰らぬ人となった農場主には、一人息子がいた。
彼は父である農場主とは折り合いが悪く
いままで仕事を手伝ったこともなかったそうだが、父の死後はその権限を受け継ぎ、
新たな農場主となった。

彼は、農場のことなどどうでもよかった。欲しかったのは、その土地だけ。
彼は自身が興したい新たな事業のため、農場を急速に縮小させていった。
売れるものはなんでも売り払い、その価値すらないものは次々と処分していった。
それは物だけでなく、命ある動物たちも同様だった。


そして、しぃの屠殺が決まった。

.

331名無しさん:2017/08/21(月) 22:36:38 ID:vG2lH35Y0
農場の中は知り尽くしていた。
どこに何があって、どの動物がどこで暮らしているのか、全部知っていた。
しぃを助けなければならなかった。しぃがいなくなるなど、認められなかった。
父との約束を守らなければならなかった。なによりしぃは、兄弟だった。

しぃは狭い檻の中で、他の動物達と一緒に閉じ込められていた。
ぼくが来るとしぃはすぐに気がついて、柵越しに鼻をくっつけてきた。
しぃの感触、温かみ。それを感じると、とても安らかな気持ちになる。
けれどいまは、感慨に耽っている場合ではない。

檻には鍵がついていた。針金を使ってなんとかこじ開けようとする。
しぃが見守ってくれていた。しぃ以外の動物たちが、狂ったように鳴き喚いていた。

針金を左右に回す。鍵は開かなかった。上下に引っ掛ける。鍵は開かなかった。
折り曲げて、めちゃくちゃに動かす。鍵は開かなかった。
どうしても、鍵は開かなかった。

人の気配を感じた。針金を鍵から取り出し、慌てて物陰に隠れる。
現れたのは、新しい牧場主と、ぼくとも顔見知りの
昔から働いている従業員のおじさんだった。新しい牧場主の生気に満ちた顔とは違い、
おじさんはとても疲れた顔をしていた。疲れた顔をしたおじさんが、
檻に手をかけた。鍵が解かれた。

332名無しさん:2017/08/21(月) 22:37:04 ID:vG2lH35Y0
その時ぼくは、残酷なことを願っていた。

どうか別の子にしてください。
牛でも豚でも、なんでもいいから。
これから一生、お肉も牛乳も食べられなくなったって構わないから。

だから、お願いです。
お願いだから。

しぃを連れて行かないで。
ぼくからしぃを、奪わないで。
ぼくの兄弟を、殺さないで。


願いは叶わなかった。
檻から出されたのは、しぃだった。

333名無しさん:2017/08/21(月) 22:37:35 ID:vG2lH35Y0
すぐに飛び出せば、しぃを助けられたかもしれない。
理由を話せば、おじさんが手を打ってくれたかもしれない。
売れ残ったフォークを持って、牧場主をやっつけてしまえばよかったのかもしれない。

他にもいろいろなことが思い浮かんで、
そのうちのどれとも決めないまま、ぼくは飛び出そうとした。
しぃを助けようとした。それは、本当だった。
でも、実際には、ぼくは物陰でただ隠れていただけだった。

母の声が、聞こえた気がしたから。
母が父を、父によく似たぼくを罵倒する声が、すぐそばで爆発した気がしたから。
お前なんか生むんじゃなかったと、言われたから。

ぼくは、怖くなった。怖くて、動けなくなった。
物陰に隠れて、じっと、連れて行かれるしぃの背中を見続けていた。



しぃが、振り返った。
目が、合った。
しぃの口が、わずかに開いた。
しぃが、鳴いた。


.

334名無しさん:2017/08/21(月) 22:37:57 ID:vG2lH35Y0



気づくと、浜辺にいた。
海を向いて、立っていた。
ぼくの身体から、何かが飛んでいった。

ひつじの毛だった。
ひつじの毛がふわふわと空を飛び、
やがて、海に落ちた。

水を吸って、沈んでいった。
あぶくを上げて、沈んでいった。
あぶくになって、沈んでいった。
泡になって、沈んでいった。



しぃは、泡になった。


.

335名無しさん:2017/08/21(月) 22:38:27 ID:vG2lH35Y0
「しぃはもう、考えない」

だからぼくも、考えない。

「しぃはもう、笑わない」

だからぼくも、笑わない。

「しぃはもう、歌わない」

だからぼくも、歌わない。

「しぃはもう……生きてない」

だから、ぼくも――

336名無しさん:2017/08/21(月) 22:38:52 ID:vG2lH35Y0
「だからあなたは、ギコ<ひつじの名>を名乗った」

ミセリが、ぼくの言葉を引き継いだ。

「彼女と同じ、泡になるため」
ぼくは立ち上がっていた。
樹木にもたれた彼女から離れて。

「ぼくは、きみとは違う」

罪人を騙る彼女。
でも、彼女に罪なんてない。彼女は被害者だ。ぼくは違う。

「ぼくは助けられるはずのしぃを見殺しにした。
 最愛の、誰より、何より大切だったはずの兄弟を。
 ……ぼくは罪人だ。だからぼくは、何も望んでなんかいない。
 望んで泡になるんじゃない。望まない死で、罰せられなければいけない。
 だから、ぼくは――」

「生きて、ハーモニカを吹きたいんだね」

337名無しさん:2017/08/21(月) 22:39:28 ID:vG2lH35Y0
彼女の言葉に、時が止まった。

「なによりの望みを奪われること。
 それが最大の罰だと、あなたは知っていたから」

幸せだった、あの頃。

「しぃは、めぇって鳴いたんだ……」

父がいて、母がいて、しぃがいた、あの時。

「助けてって、鳴いたんだ……」

一緒に歌った、あの時間。

「なのにぼくは、助けなかった……」

それを壊したのは、だれだ。

「ぼくはしぃを、見殺しにしたんだ……」

それを壊したのは、お前だ。

「そんな、そんなぼくが、ぼくみたいなやつが……」

悪いのは、全部、お前だ。

338名無しさん:2017/08/21(月) 22:39:55 ID:vG2lH35Y0



「安らぎとか、幸せとか、愛情なんかを求めるわけにはいかない。求めちゃいけない。
 ぼくには資格がない。そんなものを受け取る資格なんか、ぼくにはない。
 認められちゃいけない、褒められちゃいけない、愛されちゃいけない。
 苦しんで、苦しんで、苦しんで泡にならなきゃいけない!
 泡になって、ぼくは、消えなきゃ、だれからも忘れられなきゃいけないんだ!」

声が、震えた。

「じゃなきゃ、しぃが報われない……」


.

339名無しさん:2017/08/21(月) 22:40:26 ID:vG2lH35Y0
涙が溢れてきていた。ふざけるな。
お前には、泣く資格だってない。思ったり、感じたり、
考えたりする権利なんか、お前にはない。そうだろうが、この、兄弟殺し。

道は示された。やはりぼくは、小旦那様の後ろを歩く。
小旦那様は、ぼくの思った通りの人だった。ぼくが願った通りの人になった。


ぼくは、小旦那様のひつじ。
そして小旦那様が、ぼくの、屠殺人。

340名無しさん:2017/08/21(月) 22:40:57 ID:vG2lH35Y0
「ねえギコ、どうしてあたし、死ななかったと思う?」

目尻を拭う。ミセリを見る。
ミセリが言っているのはきっと、自分の過去についての話だろう。
姉に棄てられたと思い、樹海へと入った、あの時の。

自分はいらない子。
そう思ったミセリは、一度は本気で死のうとした。

「……死ぬのが怖かった?」

「もちろん、死ぬのは怖かった。考えるだけでも。
 でもね、怖いだけなら、あたしは死ねた」

ミセリが脚を抱き寄せた。
本来の姿を取り戻した、その脚としての機能を失った脚を。

「あたしが死ななかったのはね、
 それがおねえちゃんとの時間を否定することになるって、そう思ったから」

341名無しさん:2017/08/21(月) 22:41:24 ID:vG2lH35Y0
彼女の言葉に、鼓動が早まった。

「あたしがあたしを殺すことは、
 おねえちゃんがあたしにくれたものを忘れてしまうのと同じだって、思ったから」

これ以上聞いてはいけない予感がした。

「よく聞いて、ギコ」

耳を塞ごうとした。

「ううん。ギコじゃない、あなた」

走って逃げようとした。

「しぃはほんとに、『助けて』って言ったのかな。
 『死にたくない』って叫んだのかな」

叫んでかき消そうとした。

「あたしには違う気がするんだ。
 しぃは、しぃはさ、本当は――」

母の声を反芻させようとした。

「あなたに――」

――ぼくは、何もしなかった。

342名無しさん:2017/08/21(月) 22:42:15 ID:vG2lH35Y0








        『吹いて』って、伝えたかったんじゃないかな――







.

343名無しさん:2017/08/21(月) 22:42:56 ID:vG2lH35Y0
しぃは、いつも一緒にいてくれた。

「あたしはしぃを知らない」

一緒に眠って。

「だから間違ってるかもしれない」

一緒に歌って。

「でもね」

悲しい時も。

「あなたのしぃは、あなたの苦しみを喜ぶような子だった?」

嬉しい時も。

「あなたのしぃは、あなたの幸せを望んでいなかった?」

しぃは、ぼくのそばで。

「あなたのしぃは、あなたをどう思ってくれていた?」

ぼくを、ぼくを――


愛してくれていた。

344名無しさん:2017/08/21(月) 22:43:21 ID:vG2lH35Y0
否定しようとした。なにもかも間違っていると。
ミセリの言葉は憶測に過ぎなくて、ぼくは裁かれなければならない
罪人なのだと反論しようとした。けれど、できなかった。言葉が出なかった。
出てくるのは、嗚咽だけだった。ぼくは、泣いていた。
涙が溢れて、止まらなかった。前が見えなかった。

頭を抱えられた。抱き寄せられた。温かい感触が伝わってきた。
その暖かさに、もう、我慢できなくなった。ぼくは、泣いた。
ミセリの胸を借りて、泣いた。声を上げて、泣き続けた――。


.

345名無しさん:2017/08/21(月) 22:44:01 ID:vG2lH35Y0



「どうするか、決められた?」

「……まだ、よくわからない」

泣き止むまで貸してくれていたミセリの胸から離れ、彼女の瞳を見つめる。
光の失せた薄濁りの瞳。なにより澄んだ、その瞳。

「でも、あのハーモニカはぼくのだから。だから、ぼくは、行くよ」

「うん」

立ち上がる。それだけのことで、ぼくにもはっきり、理解できた。
どうしてこんなことにも気が付かなかったのだろう。
胸に、手を当てる。

ハーモニカをかけない首は、ぼくにはちょっと、軽すぎる。

346名無しさん:2017/08/21(月) 22:44:22 ID:vG2lH35Y0
「ギコじゃない誰かさん」

ミセリが、ぼくを見上げていた。

「あたしにも、いつか教えてくれる?」

少し悲しそうな、幼い微笑みで。

「あなたの名前」

ぼくはこの時初めて、“ミセリ”を見た気がした。
“ハイン”ではない、“ミセリ”を。

「必ず」

教会に向かって走る。
心がしぼんでしまわないように。
いまのこの気持ちを、二度と忘れないように。
ぼくがぼくになるために、走る。

しぃと共に、走る――。


.

347名無しさん:2017/08/21(月) 22:44:59 ID:vG2lH35Y0



彼は行った。あたしを置いて。
こうなることを望んでいたとはいえ、それでもやはり、さみしかった。
走れる彼が、羨ましかった。

「ナベ、いるんでしょ?」

森の一部が、ゆらいだ。ゆらいだ辺りに、視線を向ける。
あたしはそのまま、視線を外さなかった。しばらくの間、
そうして止まっていた。木々が、割れた。そこから人影が現れた。
ぼやけた視界の中では、それが誰なのか判別できない。
けれど、気配でわかる。そこにいたのはやはり、ナベだった。

「……いいの?」

なんのこと? 
と、あたしは知らないふりをして返す。

「だって、あなただって、ほんとは……」

わかってる。あなたの言うとおりだって、あたし自身にも。
あたしだって、もどれるものならもどりたい。帰れるものなら帰りたい。
あの頃に。おねえちゃんがいた、あの時に。彼のように。だけど――。

「あたしはもう、踊れないから」

348名無しさん:2017/08/21(月) 22:45:30 ID:vG2lH35Y0
あたしの脚は、治らない。
歩くくらいのことはできても、走ったり、踊ったりすることはできない。
姉から授かったものを、あたしはもう、取りこぼしてしまった。
二度とは拾えぬ、その思い出を。

「ごめん……」

視界の中のナベが、わずかに震えた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

謝る声が、かすれていた。
ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す彼女の声は
、間延びなんてぜんぜんしていなくて、ふつうの、
なんてことのないふつうの女の子の声をしていた。

ナベも、自分を偽って生きてきた。
偽らなければ生きていけない、切実な事情があった。
彼女自身にはどうすることもできない、生まれというものにつきまとう事情が。
そのことを、あたしは知っている。知った上で責め立てるなんてこと、
あたしには、とてもできない。

349名無しさん:2017/08/21(月) 22:45:54 ID:vG2lH35Y0
「ナベ、あたしの手を取ってくれる?」

ぼやけたナベの虚像が、ぶんぶんと首を振る。
あたしにはその資格はない。あなたに触れる資格なんて。
そう言っているかのように。

「あたしね、とても大事なことを思い出したんだ」

ナベの首振りが、止まった。

「あたしをここへ連れてきてくれたのは、ナベ、あなただったんだね」

鎖を外してくれたのも。店から逃してくれたのも。
何度も倒れかけたあたしを、支えてくれたのも。

「あなたがあたしにかけてくれた言葉を、
 あたし、覚えてる。思い出した」

伸ばした手を、あたしはけして降ろさない。
彼女があたしを、見捨てなかった時のように。


「『あなたが一人で踊れないなら、わたしも一緒に踊るから』」


あたしを、救ってくれた時のように。

350名無しさん:2017/08/21(月) 22:46:15 ID:vG2lH35Y0
「ナベ、あたしね。いま、とても踊りたいんだ」

ぼやけたナベの虚像が、ためらいがちに近寄ってきた。
一人では立つことすらまともにできない、あたしの前へ。
あたしは彼女をつかむように、さらに遠くへ、ぼやけて消えてしまいそうな彼方の世界へ、
腕を、まだあたしのものであるその腕を、伸ばして、伸ばして、伸ばした。

「だから、お願い」

彼女の手が、あたしの手と、触れた。

初めて姉に踊りを教わった日のことを思い出した。
姉を真似て踊ってはみたものの、まるでうまくいかなかったあの日の思い出。
いまのあたしは、あの時よりもまともに踊れているだろうか。
それとも、もっと下手くそになってしまっただろうか。

どっちでも構わなかった。楽しかったから。踊ることは、楽しかった。
たぶん、きっと。姉があたしに教えてくれたのは、単純に、そういうことだったんだと思う。
彼が彼の父や、ひつじのしぃからそれを教わったのと同じように。

351名無しさん:2017/08/21(月) 22:46:43 ID:vG2lH35Y0
風が吹いた。風など吹くはずのない、この場所で。
森が揺れて、空を、何かが通った。ぼやけた視界には、
それが何かはわからなかった。でも、あたしにはそれが、鳥のように見えた。
大きな白い鳥が、空を横切っていったように見えた。

良いものなのか悪いものなのか、それもわからなかった。
ただあたしは、きれいだなと、思った。
ぎゅっと抱きしめたナベの感触に安心しながら、
ただただきれいだなと、そう、思った――。





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352名無しさん:2017/08/21(月) 22:47:06 ID:vG2lH35Y0



             『終章 海のひつじ』へつづく


.

353名無しさん:2017/08/21(月) 22:47:36 ID:vG2lH35Y0
今日はここまで

354名無しさん:2017/08/22(火) 17:30:09 ID:LGcY6s6M0

話も長さもえげつないな……

355名無しさん:2017/08/22(火) 17:47:20 ID:AKaoAE960
             0

兄が父と母を殺した。ぼくのために。
そう、彼は言った。

彼は続けて言った。
ぼくという存在はその連鎖性を欠いた。もはやぼくは、以前のぼくにはもどれない。
かつてぼくと自称していた己とは、異なる自己へと変貌してしまった、と。

更に彼は語る。
きっと一人は一人でできているわけじゃない。
一人は大勢によって構成されている。一人の背後には無量の亡霊が顔を覗かせている。
親、兄弟、親類。友人、仲間、教師。それに……敵。
それら背後に立つ者たちが、一人の意識在る者を組み立てていく。

それだけじゃない。軸は横だけでなく、縦にも積み重なる。
時の重みが、十年、百年と堆積したものが、千年、万年と凝縮されたものが、
そしておそらく、生命というものが芽生えて以降に起こったありとあらゆる現象が、
いまこの時代に生きるただ一人に受け継がれている。

356名無しさん:2017/08/22(火) 17:47:46 ID:AKaoAE960
いまこの時代に生きているすべての人が、
膨大な過去の積み重なりによって『私』を決定づけられているのだと思う。
それがたぶん、この世界の在り方なんだと思う。
だからたぶん、『私』に自由はないのだと思う。
だからたぶん、一人がいなくなっても、世界が大きく変わることはないのだと思う。

だから、そう。
いまこの国がこんな状況になっているのは、だれか一人が悪かったとか
そういうわかりやすくて明確な原因があったわけじゃなく、
そうなるべくして長い間積み重ねられてきたものの結果が、
些細な事象を切っ掛けに表出してしまっただけなのだと、そう、ぼくは、思う。

.

357名無しさん:2017/08/22(火) 17:48:21 ID:AKaoAE960
彼の言葉はむつかしくて、私にはよくわからない。
『私』がどうとかいう哲学に、興味を持ったことはない。
それなのに彼はよく、こんなふうに難解な話題を私に話して聞かせた。
おにいさんの影響らしい。博識で、神童と呼ばれたおにいさんの。

だけど彼自身は、自分が話している言葉の意味などちっともわかっちゃいないのだ。
彼はただ、尊敬するおにいさんの真似をしたいだけだった。

だからちょっと突っ込むと彼はすぐにしどろもどろになったし、
私は私で楽しくもなんともない
哲学を聞かされるのはいやだったから、すぐに話を遮っていた。
いつもは、そうしていた。

今日は、止めなかった。
別に、どんな話でも構わなかったから。話なんてなくてもよかったから。
ただ彼に、ここにいてほしかった。ずっと、ここにいてほしかったから。
それに、なにより――彼の顔がとても、苦しそうだったから。


だから私は、死のうと言った。

358名無しさん:2017/08/22(火) 17:48:49 ID:AKaoAE960
彼は話すのを止めた。彼が私を見る。私も彼を見る。
日に焼けた健康的な肌が、いまは少しだけ白い。
部屋の外から波の音が、わずかに聞こえてきた。
せめて死ぬときとくらい、海を見たいな。

自分では手の届かない位置に開けられた窓の、その向こう。
あそこから落下すれば、地面に激突するまでの短い間くらいは、
海を見ていられるだろうか。いやなことなんてひとつもない
世界の果てのその向こうまで、飛んで行くことができるだろうか。


ごめん、と、彼が小さく謝った。
どうしてと、私は問いかける。


彼は、生きるからと、簡潔に答えた。首へかけた銀のハーモニカに触れながら。
おにいさんから託された、最後の宝物を握りしめながら。

359名無しさん:2017/08/22(火) 17:49:19 ID:AKaoAE960
勝手だと思った。
私を置いて、私の行けない場所へ行こうとする彼を、とても勝手だと思った。
だから、そう言った。あなたは勝手だと言った。口汚く罵ったし、
思いつく限りの罵詈雑言を吐いた。そうすれば彼が思い直してくれるんじゃないかと、
たぶん、そんなことを期待して。
願いは叶わないなんてこと、よく知っていたはずなのに。

従者が扉を開いた。それが、別れの合図だった。

さよならもなかった。彼が、部屋から出ていこうとした。
遠い場所へ、私の手の届かない場所へ、彼が行ってしまう。
二度と会えなくなってしまう。もう、二度と。

いやだ、と、私は叫んだ。

彼と、彼を送ろうとしていた従者が立ち止まった。
振り向いたその顔に、私はありったけの言葉をぶつける。
いままで生きて、学んで、覚えてきた、つまらなくて仕方のなかった彼の話も駆使して、
とにかく、とにかく言葉をぶつけた。言葉の音は、多様になった。
だけどその意味するところは、結局同じ。究極一語の、「いかないで」。

ぼくだって……!

絞り出された彼の声。ぼくだって、なに? 
ぼくだって。その言葉のつづきは? 
言葉を待つ。私の期待する、その言葉を。

360名無しさん:2017/08/22(火) 17:49:45 ID:AKaoAE960
でも、と、彼は続けた。
ぼくは、生きるから、と。

私は、彼を見た。彼も、私を見ていた。
その瞳には、かつての彼にはなかった、男性そのものの昏さが湛えられていた。

私はようやく、理解した。
彼はすでに、私とは違うところへ辿りついてしまっていたのだと。
もはやなにもかも、手遅れだったのだ。なぜなら彼は、大人だった。
彼を止める言葉を、こどもの私は持っていなかった。

従者が彼を急かした。もう時間がないのだ。私にも、彼にも。
だからこれが、最後。本当に、本当の、最後の、最後。


お願いをした。
ある、ひとつのお願いを。

彼は、約束してくれた。
いつか必ず、絶対に叶えると、そう、約束してくれた。


.

361名無しさん:2017/08/22(火) 17:50:11 ID:AKaoAE960



彼が亡命してから二ヶ月後、私はここ、『ひつじの教会』へやってきた。
そこで私は、見続けてきた。多くのこどもたちを。
こどもたちが生を諦める、その瞬間を。
唯一無二のその存在が、あらゆる因果から消滅せしめるその瞬間を。

何人も、何人も、何人も。
魔女と呼ばれ、忌み嫌われようとも観続けることを止めなかった。
何人も、何人も、何人も、何人も。
いつかの約束が果たされる、その日その時を夢見て。
何人も、何人も、何人も、何人も、何人も、何人も、何人も、何人も……。


しかし彼は、約束を違えた。


私はついに出会ってしまった。
現世に背を向けた、そのこどもと。
泡と化し、消え去ることを望むそのこどもと。

生きると言って去った彼――あの人の、そのこどもと。


.

362名無しさん:2017/08/22(火) 17:50:51 ID:AKaoAE960
            終章 海のひつじ


               1

これは必然だ。

破綻していたのだ。彼がここへ来た時には、すでに。
彼は彼であって、あの人ではない。そんなこと初めからわかっていたというのに。
遠い日の約束を忘れられず――いや、長い時をかけて築いた己の軌跡が
無意味であったと認める勇気を持てず、彼に代わりを求めた。求めてしまった。
別人であると、知っていたくせに。

だからこれは、必然だ。

彼の主の言うとおりだ。現実は、怖い。現実へなど、本当は帰りたくない。
あんな罪と苦痛にまみれた世界になど、二度ともどりたくはない。
痛いのも苦しいのも、本当は嫌いだ。

実際の所、私はどうしたかったのだろう。約束を果たしたかった気持ちは、本物だ。
そのための準備も進めてきた。けれど彼の主は、その準備に費やしてきた時間こそが
現実を忌避する私の逃避行動であると看破した。

私は初めから、約束を果たすつもりなどなかったのではないだろうか。
そう、初めの、初めから……。

だからこの結果は、必然だ。

363名無しさん:2017/08/22(火) 17:51:13 ID:AKaoAE960
もはや何を考えても手遅れだ。私は諦めてしまった。
いままで私が観察してきたこどもたちと同じように。その証拠が、この身体。
燐光放つ、粒子の崩壊。泡へと還元されるための、最終行程。

ベルが鳴る。手に持たされた、小さなベル。無数に分かれし生命の波の、その象徴。
かすかに震える大気の波動。私とは、何か。私とは、これだ。
私とは結局、この三次元空間を刹那に揺らすベルの音に等しいのだ。

もう、それで、いいじゃないか。

「ジョルジュは、ジョルジュだ……ジョルジュは、ジョルジュだ……
 ジョルジュは、ジョルジュだ……ジョルジュは――」

車椅子の背後から、変わらぬ言葉がつぶやかれ続けている。
うつろな目をしたジョルジュ。その目は前を行くひつじを捉えているようで、
どこか虚空を見つめている。

「そうよ、あなたはジョルジュ。ジョルジュでいいの」

彼に変化はない。変わらず彼が彼で居続けるための呪文を唱え、
自己の崩壊を防ぐことに必死でいる。私の声など、聞こえてはいないだろう。
それでも私は、言わずにはいられなかった。あなたはジョルジュだ、と。

364名無しさん:2017/08/22(火) 17:51:37 ID:AKaoAE960
ジョルジュには申し訳ないことをしてしまった。
ここへ来てまだ間もない頃、私はモララーと協力して
この謎だらけの教会の真実を探ったことがある。
そしてその時に、牧師と“接触”した。それ以来私は、少し視えるようになった。
こどもたちがここへと到るまでの、その経緯が。

おそらくはみな、それとなく肌で感じ取っていたのだろう。
ほじくり返されたくない罪を覗き見る女がいると。魔女という名の蔑称。
それは必ずしも、無根拠なものではない。
みんなが私から離れるのは、当然の道理と言えた。

けれど彼は、ジョルジュはむしろ私に近づいてきた。
おそらくは単純に、見てもらえているという事実が嬉しかったのだろう。
自分を見てくれる人、愛してくれる人を、ジョルジュは求めていた。
求めて、私を見つけて、それで、懐いた。

私も、情が移ってしまった。観察者としての本分を忘れ、おせっかいを焼き、
いらぬアドバイスも何度か送った。それがジョルジュのためになると思って。
けれどその挙句が、これだ。私の行いは、ジョルジュを苦しめただけだった。

故に私には、彼を肯定する義務がある。
例えそれが彼の耳にまで届かなかろうと、私は伝える。
あなたの動物も、あなたのママも、あなた自身も本物であると、肯定する。
あなたは、ジョルジュだと。


ひつじが、足を止めた。
歌の海が、世界を満たし始めた。

365名無しさん:2017/08/22(火) 17:52:13 ID:AKaoAE960
「ありがとう、ジョルジュ。あとは自分で行けるわ」

車椅子をつかんでいた彼の手に触れ、強張ったその指を静かにはがす。
その間もジョルジュは私を一瞥することもなく、
自己を固着させる文言を唱え続けていた。

ジョルジュから離れる。ひつじに近づく。そこにあるのは、私の消失。
痛みも苦しみも……罪も含めた、自己の完全なる分解。
それはきっと、安らかなことなのだろう。泡となり、より大きなものの
ひとつとなるその瞬間、こどもたちはみな、笑っていたのだから。

いつかあの人の言っていたことを思い出す。
『私』に自由などなく、それ故に、『私』がいなくなっても
世界に大きな変化などない、という言葉。私がいなくなっても、
きっと、何も変わりはしない。

もはや躊躇う理由はない。この手を伸ばし、触れるだけでいい。
それだけで後は、何も考えずに済む。だから、行け。
お前はもう、諦めたのだから。早く、早く、早く――。



生まれた罪を、清算するのだ。


.

366名無しさん:2017/08/22(火) 17:53:04 ID:AKaoAE960



手が、触れた。
私のものではない。
ひつじに触れた、その手。

その手の主は、彼。
ジョルジュだった。
ジョルジュがひつじを、つかんでいた。

「ぼく、いい子だったんだよ……?」

ジョルジュが、ひつじをゆさぶった。

「お掃除だっていっぱいしたし、お野菜だってちゃんと食べた」

やわらかな羊毛が、くしゃりと形を変える。

「みんなのことも、いっぱい笑わせた。
 みんな、すごく喜んでくれた。ぼくを好きって言ってくれた」

367名無しさん:2017/08/22(火) 17:53:35 ID:AKaoAE960
歌うことを止めたひつじが、横目でジョルジュを見ている。

「ぼくは、ジョルジュなんだ。みんなに愛されるジョルジュなんだ。
 ママのジョルジュなんだ。だから、だから……」

ジョルジュの身体が大きく、のけぞった。

「開けて、開けてよママ! ぼくを見て! ぼくを撫でて!
 ぼくを褒めて! ぼくを愛して! ぼくを、ぼくを――」

 
 捨てないでっ!

.

368名無しさん:2017/08/22(火) 17:54:06 ID:AKaoAE960


足音が、聞こえた。
ジョルジュではない。ひつじでもない。私のものでも、もちろんない。
果てなく続くこの無間回廊のその更に奥から、
高らかなる跫然が『我はここに在り』と謳い、参上した。

私が見る。
ひつじが見る。
ジョルジュが見る。
三様の視線が集うその収束点に――彼がいた。

あの人。
彼ではない、彼。
生きることを諦めた、彼。


けれど。


何かが、違う。
彼の何かが、いままでとは違っている。

見た目や、声や、ただ歳を重ねるだけで得られる何かとは違う。
もっと根源的で、絶対的な、以前とは異なる魂の飛躍。

その変化を、私は知っている。
その変化を、私はいつか目の当たりにしたことがある。

369名無しさん:2017/08/22(火) 17:54:32 ID:AKaoAE960
「きみが」

ジョルジュが、ひつじから離れた。

「きみが、来たからだ」

ジョルジュが、ふらりと身体を揺らす。

「きみが来たから、ぼくは捨てられた」

揺れた身体で、彼へと近づく。

「そこはぼくの場所だったんだ」

抑揚のない声で、彼へと迫る。

「返せよ」

力のない瞳で、彼を睨む。

「返してよ」

失った何かを求めるかのように、腕を伸ばす。

「ママを、返せ」

 
そしてジョルジュは、愛の代わりに首をつかんだ。
敵の、仇の、彼の、首を。

370名無しさん:2017/08/22(火) 17:54:57 ID:AKaoAE960
「ジョルジュ!」

私は叫ぶ。けれどジョルジュの耳に、もはや私の声など届きようもない。
ジョルジュの細い腕が、その細さながらに筋肉で張る。
いまにも張り裂けそうな血管が隆々と脈打つ。

彼の首は、無数の皺を描いていた。
みちりという音がここまで聞こえてきそうな、容赦のない締め方を成されている。
血流を止められているのだろう。彼の顔から、みるみると血の気が失せていった。

けれど彼は、苦しむ素振りを見せなかった。
薄く開いた目で自分を殺そうとする幼い魂を見ていた。
見ながら、その手に持った何かを掲げた。短刀。
刀身に奇妙な波模様の浮かぶ、彼の主の、執着物。

その研ぎ澄まされた凶器に、彼の顔が反射していた。
反射した彼の顔、そのほほに、一筋の涙が流れた。
彼が、声ならぬ声で、それをささやいた。


ごめん、“ヒッキー”。



そして、“ジョルジュ”が壊された。


.

371名無しさん:2017/08/22(火) 17:55:32 ID:AKaoAE960
「ぼくじゃ、ない……ぼくは、ぼくじゃ……」

ひざをついてうずくまったジョルジュ――ヒッキーが、自らの手を見つめていた。
その手は血にまみれている。手だけではない。顔にも身体にもその鮮血は降り注ぎ、
彼を赤く染め上げている。しかし、ヒッキーには傷一つない。
その血はヒッキーのものではない。その血は彼、あの人の息子のものだった。

床に転がった短刀が、金属的な甲高い音を立てる。
痛みに顔を歪ませる彼の手には、深い刀傷が刻まれている。
自分自身でつけた傷だ。ジョルジュの……ヒッキーの、
触れ得ざる過去を再現させるために刻まれた、傷。

「ぼくは、ジョルジュだから……ぼくじゃ、ない……
 ママを殺したのは、ぼくじゃ……」

彼が、うずくまるヒッキーに触れる。
触れられていることにも気がついていないのだろう。
ヒッキーは無抵抗なまま、覚醒した自我の否定に躍起になっていた。
その間に、彼は取り返した。ジョルジュの首にかかっていたそれを。
彼の、銀のハーモニカを。

あの人のハーモニカを。

彼が己の首に、あるべきものをかけ直す。
その姿は、本当に。
あの人と、瓜二つで。

372名無しさん:2017/08/22(火) 17:56:08 ID:AKaoAE960
「どうするつもり?」

けれど彼は、あの人ではない。

「まだ迷っているのね」

彼はまだ、大人ではない。
私と同じように。

「きみこそ、どうするの?」

私は大人ではない。私は大人にはなれなかった。それが私の運命。
抗ってはみたけれど、その壁を壊す力を、私は持っていなかった。
私はもう、疲れた。戦うことにも、生きることにも。
夢を見ることにも。私は、私はもう――。

「私はもう、諦めた。なにもかもどうでもいい。だからこのまま泡になる。
 私にはもう、この世への未練なんて、ない――」

「うそだ」

373名無しさん:2017/08/22(火) 17:56:37 ID:AKaoAE960
彼が私を否定する。間髪おかずに。そのことが、いやに癇に障る。
あの人の顔で、あの人の声で、私を否定する彼に、強い苛立ちを覚える。

「私のこと、なんにも知らないくせに」

「きみのノートを読んだ」

私のノート。忘れようとしていた記憶の欠片が、存在を主張しだす。

「きみが何を観て、それにどれだけの時間を費やしてきたのか、ぼくは知った。
 片手間で成せることではないきみの偉業を、ぼくは目にした。
 それがまだ、未完成であることも」

「未完成?」

「ここに置いてあるだけでは片手落ちだってことだよ。
 そしてそれはきみ自身も理解しているはずだ。
 わかっていたからこそ、ぼくに公表することを頼んだんでしょ?」

374名無しさん:2017/08/22(火) 17:56:57 ID:AKaoAE960
「それは……」

「きみが何のためにノートを書き続けていたのか、それはぼくにはわからない。
 でも、中途半端な気持ちで始めたわけじゃないってことくらい、読めばわかるよ。
 見れば、わかるよ」

「それはあなたの主観よ。私はただ、古い約束を守ろうとしただけ。
 その約束が果たされないと知ったいまでは、あんなノートなんて、
 もはや紙くずに等しい――」

「本当に、それだけ?」

彼は、引かなかった。

「きみにだって本当は、向こうへ帰るだけの理由があるんじゃないの?」

私は、答えない。

「それにぼくはまだ、答えをもらっちゃいない」

彼が、取り戻したばかりの形見に触れながら、言った。


「『きみは、だれなの?』」

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375名無しさん:2017/08/22(火) 17:57:24 ID:AKaoAE960
私は叫んだ。

床に転がっていたはずの短刀が、見当たらなかった。
うつろに唱えられていた文言が、止まっていた。
血にまみれたその身体が、消え去っていた。

彼の背後に、立っていた。

「後ろっ!」

彼が、振り返った。
ヒッキーが、短刀を振り上げ――振り下ろした。


.

376名無しさん:2017/08/22(火) 17:57:51 ID:AKaoAE960



「ぼくは……ぼくじゃない……」

彼の身体が、崩れ落ちた。
鮮血を、撒き散らしながら。

「ぼくが……ぼくじゃないなら……」

のどから下腹部にかけて、ぱっくりと裂かれている。
口からも、ごぷりと血を漏らしている。

「だれかが……ぼくだ……」

それでも彼は、息をしていた。
焦点の合わせないうつろな顔で、ぜいぜいと呼吸していた。

「ぼくの……だれか……」

ヒッキーが、瀕死の彼の肩をつかんだ。
そして、もはや波模様など見えないほどに汚れたその短刀を、再び振り上げた。

「だれかは……お前だ……!」


とどめを、刺すために。

377名無しさん:2017/08/22(火) 17:58:18 ID:AKaoAE960
「――――っ!!」

彼の名を叫び、車椅子から、飛び出した。
振り下ろされんとする刃と倒れた彼の、その間に向かって。

腕を伸ばして。
身体を伸ばして。

だけど、届かない。
距離も、時間も。

私には、遠い。
なにもできない私には。
投げ出された私の身体が、地面に落ちた。

床に這いつくばった、その格好で。
私は、見た。

ヒッキーの、凶刃が。
頭蓋を貫き砕く、その瞬間を。
私は、見た。


歌うひつじの頭蓋が砕かれる、その瞬間を。

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378名無しさん:2017/08/22(火) 17:58:41 ID:AKaoAE960



     そして世界は、海へ落ちた。


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379名無しさん:2017/08/22(火) 17:59:08 ID:AKaoAE960
               2

「ママ……?」

それは、幻想的な光景だった。

「ねえ、ママ……」

すべてのものが、気泡を上げていた。床も、柱も、壁も――。

「ママ……起きてよママ……」

私も、ヒッキーも、彼も。すべてのものが例外なく、気泡を上げていた。
光り輝く泡と化していた。もはや身躯にまとう燐光は私だけの特権ではなく、
ありとあらゆるものが海へと還元されつつあった。
彼を庇ってジョルジュの凶刃を受けたひつじの、その傷口から漏れ出した海へと。


世界は、いまや、海だった。

380名無しさん:2017/08/22(火) 17:59:38 ID:AKaoAE960
「ママ……ママ……」

海を吐きしぼんでいくひつじにジョルジュが力なく寄り添い、
抜け殻と化していくその羊毛ばかりが残った皮を揺すっている。
自らの過ちを、自らが最愛の生命を奪ったという事実を、
受け入れることができずに。その地点から、一歩たりとも動くことができずに。

動けないのは、彼もだった。

ジョルジュの一撃によってひざを折った格好のまま、彼は動かなかった。
首から下腹に掛けて裂かれた肉体は、いまも多量の血を流している。
けれど意識が朦朧としているわけではない。彼は明確に、ある一点を見つめていた。
砕かれたひつじの頭部。彼の方を向いたその顔を、見つめていた。

さらに海を吐くひつじの頭が、もぞりと、動いた。
彼の身体が、反射的に強張ったのが見て取れた。
息荒く、それでも目が離せないといった様子で、彼はひつじを見つめていた。
ひつじの口が、動いた。



     めぇ


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381名無しさん:2017/08/22(火) 18:00:00 ID:AKaoAE960



彼の目が、見開かれ――


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382名無しさん:2017/08/22(火) 18:00:43 ID:AKaoAE960





う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛!!!!



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383名無しさん:2017/08/22(火) 18:01:16 ID:AKaoAE960
この世のものとは思えない咆哮が、
彼の固く食いしばられた歯と歯の間から漏れ出した。

彼の歯はその隙間を埋め尽くさん程に血まみれで、
それがのどから吐き出されたものなのか、それとも力を込めすぎて
破れた歯茎から噴出したものなのか、もはや判別できない有様だった。

痛みが、形を為していた。

彼が、口を開いた。口内に溜まった血液が吐き出された。
吐き出されたそれが、世界を満たす海に溶けて、色を失った。
血液すらも、泡となった。怒りも、悲しみも、心も、すべてが泡となって消えていく。

彼が、立ち上がった。何も言わずに。
ひつじと、ひつじに被さるヒッキーを見下ろし、
そして、そこから、視線を外した。

彼は、私を見ていた。私も、彼を見ていた。
その瞳には、かつての彼にはなかった、男性そのものの昏さが湛えられていた。

彼が、私をつかんだ。つかんで、抱き上げた。
傷口から止め処もなく湧き上がる赤い気泡を気にする様子もなく、
彼はそのまま、走り出した。ひつじに背を向け、駆けていった。


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384名無しさん:2017/08/22(火) 18:01:51 ID:AKaoAE960



現象は、廊下だけに収まっているわけではやはりなかった。
すべてが、この世界のすべてが海に落ち、泡と化していく。

鐘が鳴っていた。教会を揺らし、心を揺らし、魂を揺らし、世界を揺らして。
波となって、世界の果てから果てまでその振動を響かせていた。

その振動に合わせて、こどもたちが歌っていた。
歌は、みなみな好き勝手に歌ってばらばらだった。
歌は、まるでひとつの調べを奏でているかのように調和していた。

独唱でもあり、合唱でもある、不思議な響き。
歌のための、歌。

その根幹を成す、鐘の音の律動。
生命が生命と生る以前の、根源。
無量へと分かたれる以前の、一。
ありとあらゆる魂が等しく有する、遺伝子に刻まれた鼓動。



     原初の波。


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385名無しさん:2017/08/22(火) 18:02:24 ID:AKaoAE960
始原の波動へと、回帰する。
分かたれたものが、一へと還っていく。

生命が、生命と生る以前の淵源と同化する。
こどもたちが、泡となって、形を失う。

一人、また一人と、自己を失う。
幸せそうな顔をして。

一人、また一人。
歓びの笑みを浮かべて。

一人、また一人。
生命を、諦めていく。

一人、また一人。
ついにひとつへ戻る時を迎えた双子も。

一人、また一人。
抱き合い踊る、二人の少女も。

一人、また一人。
消えて、消えて、消えていく。

一人、また一人。
一人、また一人。
一人、また一人――。


.

386名無しさん:2017/08/22(火) 18:03:15 ID:AKaoAE960



もはや教会とは呼べないほどに形を失ったその跡地から抜け出し、
私たちは森へと入った。向かう先は、森の向こう。
この幽世と現し世を結ぶ境界の地。それがどんな場所なのかはわからない。
けれどそれがあることは、はっきりしている。魂がその存在を告げている。

でも、本当に、いいのだろうか。

彼は、走る。私は抱いて。ヒッキーにつけられた傷はすでに、半ば以上塞がっている。
この世界の理。傷つかず、覚えず、そして、成長しない。

変わらないこと。不変であること。それは本当に、悪いことなのだろうか。
一度はこの世界に抗しようとしたモララーも、
結局は安寧を受け入れ私とも袂を分かった。
間違っていたのはモララーだろうか。それとも――。

387名無しさん:2017/08/22(火) 18:03:52 ID:AKaoAE960
視界がちらつく。こどもたちの幻想で。
泡となって消える時、より大きなもののひとつとなる時、
こどもたちはみな、笑顔だった。

視界がちらつく。こどもたちの現実で。
ここへ到るまでの彼らはみな、辛酸に顔を歪め、
自らの犯した罪に戦き苦しんでいた。

そして、私の現実。

私には本当に、その覚悟があるのか。
あの世界へ、あんな、罪しかない世界へ帰る覚悟が。

この、私に。
本当に――本当に。

388名無しさん:2017/08/22(火) 18:04:17 ID:AKaoAE960
「あっ」

彼が小さく声を上げた。前方で、何かを見つけたらしい。
彼に抱えられた格好のまま、私も首をひねる。
彼の見つけた何かを、私も見る。

「……下ろして」

まだ樹木としての役割を担えている木々が寄り集まって絡み合い、壁を形成していく。
外へと、現実へとつづく道を拒絶する、私の心の反映が、目の前に象られていく。

彼は私の頼みを聞いてくれた。
緑の香り漂う地面へ下ろされた私は、それへと手を伸ばした。
それは触れた途端、かろうじて保っていた形を放棄して泡へと還っていった。
別のそれへも、手を伸ばす。それもまた、泡になる。

次も、その次も、そのまた次も、そうだった。
それはどうしようもなく、泡になっていった。
それが――私のノートが、私の記した記録が、残らず、一つ残らず泡となっていった。

「……あの」

彼が何かを言いかけて、結局口を閉じた。言葉が見つからなかったのだろう。
私も同じだ。私にも、言葉はなかった。すべてが、私のこれまでが、
記した記録が失われていく様を、ただ黙って見届けるしかなかった。
手を触れても手中には残らない、それらを。

389名無しさん:2017/08/22(火) 18:05:05 ID:AKaoAE960


……でも。


見上げる。彼方の根源へと飛び立つ泡の群れを。その一粒一粒を。
その一粒に描かれた膨大なる一言一句を、私は見つめる。

思い出す。いや、覚えている。
安寧の幸福へと消えていく彼らを、私は、覚えている。
私だけが、覚えている。

なら――。

「……だれに頼ることもできない」

このまま全部なかったことにして、
なにもかも忘れ去ってしまうことが私の望みか?

「それが私の望みなら」

否。私は喪失を望んではいない。

「私が見つけた、私だけの望みであるならば」

彼らの喪失を、私は望んでいない。

390名無しさん:2017/08/22(火) 18:05:40 ID:AKaoAE960
「あなたに……」

例えそれがエゴの発露による願望であろうとも。

「私の知る旧き友人ではないあなたに、誓う」

多くの者の意に沿わぬ欲動であろうとも。

「『きみは、だれ?』」

それを望んでしまった以上、私は立たなければならない。

「私は私を知らない」

自らの脚によって、立たなければならない。

「故にあなたの問に対する回答を、私は持たない」

391名無しさん:2017/08/22(火) 18:06:11 ID:AKaoAE960
私は、立つ。生まれて初めて、自らの脚で。

「いまの、私には」

右足を、踏みしめ、

「いまのままの、私では」

左足を、踏みしめ、

「だから、私――」

――そして私は、拒絶の壁<私自身>に告げる。


 
     生きるわ。


.

392名無しさん:2017/08/22(火) 18:06:34 ID:AKaoAE960
絡み合った木々が、解けた。
三千海里のその果てまで伸びる現実への道が、次々と開かれていく。
任を解かれた心の樹木が、海気に浴して自己を崩壊させていく。

その泡の道を、私は歩いた。
出口まで労なく抱えられるのではなく、自らの脚で、歩いた。
彼に支えてもらいながらでも、自分の脚で、歩いた。

彼も、私も、燐光を放ち、光る泡となりかけながらも、
先を、向こうを、現実を目指して、歩いて、歩いて、歩いた。

そして私たちは、辿り着いた。海洋地帯の終着点。
海が終わるところ。幽世と現し世をつなぐ境界の、その浜辺へと。



彼の主が、そこにいた。


.

393名無しさん:2017/08/22(火) 18:07:09 ID:AKaoAE960
                3

「あいつは俺を、よく理解していた」

砂浜に腰を下ろし、彼の主が彼方を見つめていた。
世界の彼方。彼方たるここではない、現実の、私達が生きるべき生の世界を。

「いや、やはり理解できてはいなかったのかもしれない」

「小旦那様――」

彼が脚を踏み出した。己が主の下に向かって。
彼の肩を借りていた私も、連動して一歩踏み込む。

「だから俺は、ここにいる」

その瞬間、それは起こった。


「お前は死ぬ」

394名無しさん:2017/08/22(火) 18:07:42 ID:AKaoAE960


目を、網膜を、視覚を飛び越えて、何かが私の内を蹂躙した。
光の反射ではありえぬ何かが、私の意識にその光景を投射し始めた。

「フォックスは脱走者を許さない。お前は逃げられず、再び檻へともどされる」

それは、屍だった。

「そして、生きたままその身を削がれるだろう」

生きたまま身を削がれた屍だった。

「死ぬまで」

生きたまま身を削がれた屍の山だった。

粛々と、非人間的に、その行為は、その儀式は行われていく。
手足を縛られた者たちが、細かな肉片へと切り刻まれていく。
男、女、こども、老人。

395名無しさん:2017/08/22(火) 18:08:08 ID:AKaoAE960
泣き叫び、懇願し、あるいは恍惚の顔を浮かべ現実を手放したその顔、顔、顔は、
どれも、みな、一貫性無く、まるで、誰であろうと、私であろうと、
その台に、その祭壇に、くくりつけられても、おかしくはないという、錯覚を、覚える。
そして、それはきっと、錯覚ではない。

裂かれる者と、裂く者。裂く者の顔も、みな、違った。
けれどこちらには、共通点が合った。彼らはみな、こどもだった。
正確には、こどもを終えようとしている、最後の少年たちだった。
そしてその顔はみな、どこかしら、似ていた。

それは、歴史だった。何代も何代も、親から子へ、
子から孫へと受け継がれていった真実の歴史。
家という型によって連綿と受け継がれてきた狂気の歴史。
変化を厭い未来へと受け継がれていく固定された明日の歴史。

“現実”の歴史。

396名無しさん:2017/08/22(火) 18:08:40 ID:AKaoAE960
「仮に」

儀式が終わり、輝く白の帳が降りてきた。
傷一つない純然たる光の白。意識の視界を覆う白い闇。

「仮に生き延びたとして、その先に何がある」

闇に、亀裂が走った。

「無窮無数に裁断されたまま不完全な固着を果たした原生の大地に、何の希望が持てる」

縦に走った初めの亀裂を、横薙ぎの亀裂が二分する。
そこへ更に新たな線が走る。線は無数に光を刻み、
“世界”は乗数倍にその数を増やしていく。
かつてひとつであった那由多が、元の姿を“忘失”する。

「ここにはすべてがある。生命が分化される以前のすべてが。
 完全にして一なる原初の波が」

397名無しさん:2017/08/22(火) 18:09:16 ID:AKaoAE960
ぎちぎちと互いに擦れて悲鳴を上げる無辺の世界群から、
痛みと苦しみの証たる朱き生命の粘液がこぼれ落ちる。

時代、生命、界、目、種、国、街、村、集落、家、
兄弟、男、女、『私』。『私』の内の肉と、魂と、霊。

「どこへ行く必要もない」

連鎖性を切り離した空疎から、それは流れでる。
止め処もなく流れ出していく。そして光の熱を失った世界は、冷え固まって膠着する。
もはやそこに、輝きはない。昏く薄汚れ、荒廃した“成れの果て”だけが蠢いている。
寸断された『私』が、蠢いている。


――それは、すなわち、『私』の死。



「お前はすでに、“ここに在る”」


.

398名無しさん:2017/08/22(火) 18:09:44 ID:AKaoAE960



空が剥げ落ちた。闇も、悲鳴も、後には何も残らず、
そこには当たり前のように砂浜が広がっていた。
彼の主は変わらず砂浜に腰を下ろした格好のまま、彼方を見つめている。

私は、ひざを折っていた。身体の芯から怖気がして、知らず自身を抱きしめていた。
彼は、まだ立っていた。かろうじて、といった様子で。
彼もまた、同じものを知覚<観た>のだろう。その顔は青白く、血の気がない。
何かを言おうとするも言葉にならないのか、
その口が声の開閉を弱々しく繰り返している。


ママ……。


砂を踏む足音が、聞こえた。ママ、ママ、とささやくその声と共に、聞こえてきた。
ヒッキーが、そこにいた。泡を拭き上げ、失いかけたその身体を
左右にふらふら揺らしながら、ヒッキーがそこに、現れた。
その手に危うく持ちながら。奇妙な波模様が浮かぶ、あの短刀を持ちながら。

399名無しさん:2017/08/22(火) 18:10:12 ID:AKaoAE960
「迷子なんだ」

ヒッキーが、私の前を通り過ぎた。

「ママが、いないんだ」

ヒッキーが、彼の前を通り過ぎた。

「ぼくが、いないんだ」

ヒッキーは、何も見てはいなかった。

「ママがいないから、ぼくがいないの?」

ヒッキーは、自分も見てはいなかった。

「ぼくがいないから、ママがいないの?」

ヒッキーは、失った自己にさまよっていた。

 
「いる」

400名無しさん:2017/08/22(火) 18:10:40 ID:AKaoAE960
その言葉は、ヒッキーの口から吐き出されたものではなかった。
私も、彼も、ヒッキーですらも、声のした場所に視線を向けていた。
彼の主が、立ち上がっていた。視線は変わらず彼方へ送っていたものの、
その顔は真剣で険しく、感情的だった。

「お前も、お前の母も、ここに在る」

彼の主が振り向き、そして、空を仰いだ。

「ここに」

天より、光が降り注いできた。
それは、無数の泡。それは、無数の輝き。それは、無数の生命。
泡へと還元されたこの世界のすべてがその一点へと凝縮され、やがて人の形を象る。
波打つ鐘のその鼓動に合わせて、世界そのものが形を成す。



生命の根源。顔のない光。牧師。


.

401名無しさん:2017/08/22(火) 18:11:12 ID:AKaoAE960
「あっ」

ヒッキーが小さく声を上げた。
放心したような顔で、とつじょ現れた牧師を見つめていた。
そして、その顔が、怯えに歪んだ。ヒッキーは牧師から離れるように後ずさりすると、
いま初めて気がついたかのように、手の中の短刀に目をやった。

ヒッキーは短刀を捨てようとした。しかし短刀は、彼の手から離れなかった。
皮膚そのものと同化したように、それは強く、固く、ヒッキーと結びついていた。
ヒッキーが自由な手で、短刀を引き剥がそうとする。引き剥がせない。
どんなに強く引っ張ろうとも、短刀は手から離れない。

「ちがう……」

爪を立て、肉ごと抉り出そうとする。ぽろぽろと皮膚が剥がれ落ちる。
肉がこそげ落ちる。しかし、短刀は落ちない。離れない。

牧師が、ヒッキーに触れた。

402名無しさん:2017/08/22(火) 18:11:40 ID:AKaoAE960
「あ、あ、あ……!」

ヒッキーが飛び退いて、そのまま尻餅をついた。
それを追うように、牧師が身体を屈める。

「ああああ! うあああああ!」

半狂乱の叫びを上げて、ジョルジュが短刀を振り回す。
それは極まった感情が導き出した原始的な防衛反応に過ぎず、
何かを傷つけようといった明確な悪意や敵意は一切そこに介在していなかった。
けれどそこに意志があろうとなかろうと、凶器は凶器なのだ。

牧師は引かなかった。
引かず、その身でジョルジュの凶刃を受け止めた。
弾けたように、大量の気泡が空中<海中>へ浮かんだ。

牧師は、悲鳴を上げなかった。
ヒッキーは、叫びを止めた。
放心した様子で、牧師を見上げていた。

403名無しさん:2017/08/22(火) 18:12:04 ID:AKaoAE960


「ごめんなさい……」


その顔が、くしゃりとゆがんだ。


「ぼくが、やりました……」


嗚咽が漏れ出していた。


「ぼくがやりました、ぼくがやりました、ぼくが、ぼくがぁ……!」

.

404名無しさん:2017/08/22(火) 18:12:37 ID:AKaoAE960
目尻から玉となった涙が飛散する。のどを涸らす泣き声が、海を揺らす。
ヒッキーは、泣いて、泣いて、泣いた。取り返しのつかない過ちを、
目を背け続けてきた自らの罪過と直面した苦痛に耐えきれず、泣いて、泣いて、泣いた。

そのすべてを、牧師が抱きとめた。
ヒッキーの小さな身体が、牧師の腕の中に収まった。

涙は、流れていた。
けれどもう、泣いてはいなかった。

“母”の胸の中で、ヒッキーは安らかな顔を浮かべた。
目をつむり、そのまま眠ってしまいそうな穏やかさで彼はほほえみ、言った。



ママ――



想い続けた願いへとたどり着いた彼は、ついにママを知った。
そして、彼も、泡と消えた。
主を失った短刀が、浜辺の砂に埋れた。


.

405名無しさん:2017/08/22(火) 18:13:07 ID:AKaoAE960
牧師は消えなかった。
世界の揺らぎに連動しているのか、現界した肉体は所々が薄く不安定に透けており、
いまにも無量の泡粒へと散逸しそうな危うさを漂わせている。
しかしその光輝は、輝きは、些かも衰えることなくその存在の絶対性を主張している。

光、すなわち生命そのもの。
人の形を成した生命が、腕を広げた。
彼に、向かって。

「受け入れろ、“ギコ”」

牧師は、自ら動くことはしなかった。腕を広げ、待っている。
手放した愛し子を再び受け入れその光と愛で包み込む瞬間を、
ただ、ただ待っている。

「己を“ひつじ”と受け入れろ。唯一それだけが、お前の救い」

判断は彼に委ねられていた。
その愛を受け入れるか突き放すかの、その判断は。すなわちそれは――

「成長も変化も、思考も感情も不要だ。必要なのは“母の子”で在り続けること。
 それ以外に、罪の災禍を逃れる術はない。ギコよ――」

地獄に堕ちるか。

「完全なる静止の永遠。それこそが“楽園”なんだ」

楽園に留まるか。

406名無しさん:2017/08/22(火) 18:14:07 ID:AKaoAE960
彼は、動かなかった。動けないでいるようだった。
彼は戸惑っているようだった。自ら選択するという、その行為自体に。
失うものの、その余りの大きさに。その気持ちが、私にはよくわかる。
“望まぬ世界へ産み落とされた我々”のだれもがきっと、彼の気持ちを理解できる。

だから、私は、叫んだ。
彼の名を。ギコではない。彼の、本当の名を。

「……私は、何も言わない」

首にかかった銀のハーモニカが、彼に遅れて振り向いた。

「憎みもしない。呪いもしない。あなたが留まることを選んでも」

私たちは利己的な生き物だ。
あるいはすべての生物が遺伝子という名の
利己性に支配されている存在なのかもしれない。生物としての必要条件。

奪いたい、犯したい、殺したい。助けたい、喜ばせたい、幸せにしたい。
モラルの有無は関係ない。善悪や是や非の問題でもない。
何かを望むということ。それこそが利己性の――生命の本質。


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