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Web誌友会 板/2

5613a hope:2015/07/12(日) 02:15:31 ID:cEpBaIdo

>>5610 北斗のけんさま

わたしも、「唯神実相」を悟っているわけではないので、あまり偉そうなことは言えないのですが・・・(-_-;)

雅宣先生は、頭では「生長の家」の真理はかなり理解されているのではないかと思います。

ですが、肝腎な「唯神実相」をお悟りになっていないので「現象なし」が徹底されていないのです。

だからどうしても「実相・現象」もしくは「善・悪」の二元論的に表現されてしまわれるのです。

わたしは、そのご文章を読んでいると「現象」をありありと感じてしまうので気分が悪くなるのです。

それに環境問題なんて、現象そのものですよね!

その問題に対応するような運動は「生長の家」の運動にはふさわしくないと個人的には感じています。

ですが、同じ環境運動でも、「実相世界の展開としての素晴らしい環境を地上に実現しよう!」みたいな、
もっと人々心に「実相世界」の素晴らしさを訴えていくような運動の方法をとるのであれば、
生長の家の運動にふさわしくなるのではないかとは思いますが・・・。


あー、今夜は夜更かしをしてしまいました💦
明日はちょっと朝寝坊してしまおうっと・・・

5614a hope:2015/07/12(日) 11:20:47 ID:cEpBaIdo

島津さま

web誌友会の司会ありがとうございます。
わたしは、戦争のお話にはどう反応していいのかわからないのですが、
しっかり拝見させていただきお勉強させていただいてますよ。

ところで、今日は榎本恵吾先生の帰幽された日なのですね。

大熊先生がブログで恵吾先生の素晴らしいご文章を紹介されています。

「訊け」さまへのエールとともにですよ!!

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151

5615島津綾久:2015/07/12(日) 17:26:48 ID:???
>>5614

キャー、私、大熊先生から褒められちゃった。「あのブログを呼び捨てブログの言う方があるが」とのくだり、あの辺が大熊先生は流石だと思います。信徒ではナイ、しかも、シューキョー大嫌いな私なんですが、そんな私すらもメロメロにしてしまう偉大な人物・・・・・・それが、雅春先生です。「谷口雅春に訊け」ですが、偉大な人物を顕彰する意味を込めているのであり、その辺を大熊先生は、理解下さったておられるのであり、嬉しいですね。

5616a hope:2015/07/20(月) 16:39:35 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第20巻 p106 



わたしはこの霊媒の言ったとおりの善人であったのである。

貧乏になる稽古ばかりしていて、自分が貧乏しているから人をたすける力もなし、自分も苦しみ、養父母をも苦しめ、妻をも子をも苦しめたのであった。

自分こそこれ善中の悪であったのである。

わたしは現在のような奉仕生活――誰かが経済的に犠牲になったり、そのために家庭が不和になったりするような奉仕生活がまちがいであるということに気ついた。

後年わたしが発行した『生長の家』という雑誌が中心になって一つの信仰団体が組織されるようになったとき、他の宗教団体のように信者の労力を奉仕と称して無償では使わず、信者の財産を献金と称して資本主義の最高形態たる株式会社組織ににし、献金を聖典出版費に対する出資として取り扱い、出費に対しては半期ごとに配当を支払い、献労者を社員とし、各支部の献労者に聖典頒布の手数料を支払うことにしたのは、在来の宗教に見るような本部が信者から奉仕や献金を受けとることをあたりまえのことのように思うまちがいをなくすためであった。

そして狂信者が財産を本山へ献金したり、無料で働いたりするがために狂信者の家庭の内部に反対が起こって、宗教がかえって家庭に風波(ふうは)を起こすことがある弊害を防がんがためであつたのである。

これらは皆わたしの生活体験から在来の宗教に見出される欠点を修正したものである。

宗教が株式会社だと言えば、ただそれだけで本山の営利を目的とした不純な作為があるように考える人があるかもしれないが、「生長の家」を仮に宗教と認めても、「生長の家」そのものが株式会社なのではないのである。

「生長の家」はわたしの創(はじ)めた教えであって無形の道なのである。

その無形の教えを文字に顕わした聖典を出版販売する会社が株式会社なのである。

それは仏教は宗教であって決して株式会社ではないが、大蔵経の出版は株式会社なのがたくさんあるようなものである。

しかも生長の家ではその出版会社の株主は信者自身であって、信者の献金は増殖されてかえって信者に還る組織になっているから、信者はその宗教によることによって本山から財産を搾られることなく、かえってその宗教によることによって聖典頒布の収入を受けるのである。

むろん、わたしも損をしない、わたしは聖典の著者として印税を受ける。

これはわたしの精神労働に対する報酬であって、信者から受ける献金ではない。(もっとも現在はわたしの印税全部が社会事業団へ寄付されている)

生長の家の主張する生活は誰かが犠牲になって、損をして、他を生かす生活ではない。

誰も損をせぬ、誰も犠牲にならぬ、共存共栄の生活こそ正しい生活なのである。

聖典の筆者も、頒布者も利益し、それを購読する読者も決して損をせずわずかの書籍代を支払うだけで毎月支払う数十円、数百円の医薬費治療費が不要になった実例数を知らないのである。

ともかくわたしは長い間の奉仕生活の体験からこの新しい、誰も損をせぬ、誰も献金せぬ、誰も犠牲にならぬ宗教形態を創始したのである。

5617a hope:2015/07/20(月) 16:41:47 ID:cEpBaIdo

>>5616 a hope 所感)

<<しかも生長の家ではその出版会社の株主は信者自身であって、信者の献金は増殖されてかえって信者に還る組織になっているから、信者はその宗教によることによって本山から財産を搾られることなく、かえってその宗教によることによって聖典頒布の収入を受けるのである。>>


昔の「生長の家」の信者は、聖典頒布の収入を受けていたのですね!
聖典の著作権を巡って裁判している現在の「生長の家」とはずいぶんと様子が違いますね💦

雅春先生は、

<<生長の家の主張する生活は誰かが犠牲になって、損をして、他を生かす生活ではない。
誰も損をせぬ、誰も犠牲にならぬ、共存共栄の生活こそ正しい生活なのである。>>
<<ともかくわたしは長い間の奉仕生活の体験からこの新しい、誰も損をせぬ、誰も献金せぬ、誰も犠牲にならぬ宗教形態を創始したのである。>>

と断言されています。


現「生長の家」総裁雅宣先生、そして本部職員のみなさまには、信徒に経済的な負担がかからないような本来の「生長の家」らしい運営を心がけて欲しいですね。

5618神の子さん:2015/07/20(月) 17:32:19 ID:kEnG6jMo
<<ともかくわたしは長い間の奉仕生活の体験からこの新しい、誰も損をせぬ、誰も献金せぬ、誰も犠牲にならぬ宗教形態を創始したのである。>>
と断言されています。

現「生長の家」総裁雅宣先生、そして本部職員のみなさまには、信徒に経済的な負担がかからないような本来の「生長の家」らしい運営を心がけて欲しいですね。
*****************************************************************************************************************************************************
その舌の乾かぬうちに、教団が大きくなると懐が大変になりました、『聖使命会』の制度を造りました、どうぞ愛行してください、と云う事で今のような

聖使命なんて関係ない人の分まで受け付けて、欲かき信徒の欲望を利用して教化部長さん職員の給料がアップしたのです。その恩恵に与かっているのでしょう、

トキさんトンチンカンさんなどは。現実と会わない文章は変えておくべきですね、こんなところが聖典?株主になるだけの資本金のある人の話を一般信徒の話に
しないでください。

あなたのように一切負担しない人は言う必要ないですよ、気持ちよく出している人も幾らでもいるのですから。

5619トキ:2015/07/21(火) 12:32:04 ID:4UjCzrVw
>>5618

神の子さん 様

 聖使命会員制度は、人類光明化運動のパテントは職人に譲られた、ということで以前にも書いたことがあります。

 私が聞いている範囲では、谷口雅春先生が組織指導をされていた時代は、信徒に負担をかけたくない、という
ことで、献金なども最低限にされていたみたいです。特に初期は、教団の財政的な基本があまりできておらず、
かなり財政状況も苦しかったみたいです。そのため、職員の待遇はよくなかったとも聞いています。以前、書いた
栗原先生の件も、古い講師に尋ねると、経済的な背景があったみたいです。

 信徒数が増加して、今までのやり方では通用しない、ということで、聖使命会員制度ができたのはご存知の
とおりです。その後、谷口雅春先生が組織指導を外れられ、組織が肥大化すると、競争のようなやり方で会員
を増やす弊害が生まれた次第です。

 問題は聖使命会員というシステムにあるのではなくて、競争みたいに数字を追いかけるような風潮にあった
と感じております。

5620トキさんへ:2015/07/21(火) 17:45:43 ID:kEnG6jMo
谷口雅春先生が組織指導を外れられ、組織が肥大化すると、競争のようなやり方で会員を増やす弊害が生まれた次第です。
問題は聖使命会員というシステムにあるのではなくて、競争みたいに数字を追いかけるような風潮にあったと感じております。
***********************************************************************************************************************
【谷口雅春先生が組織指導を外れられた】というのは昭和何年の事であり、どのような組織改編がなされ、組織を動かす第一人者は誰になったのですか?
【組織が肥大化すると、競争のようなやり方で会員を増やす弊害が生まれた次第です。】これは何年ごろからの話ですか?

返事をもらってから感想を書きたいと思います

5621神の子さん:2015/07/21(火) 18:41:20 ID:kEnG6jMo
日本中のすべての人に伝道し此の教えを実行てもらいたい、との希望を持っていた雅春先生が

【ともかくわたしは長い間の奉仕生活の体験からこの新しい、誰も損をせぬ、誰も献金せぬ、誰も犠牲にならぬ宗教形態を創始したのである。】と云いながら
【信徒数が増加して、今までのやり方では通用しない、ということで、聖使命会員制度ができた】

と云う事はたかだか100万(全国大会に出るような少々熱のある会員で言えば4,5万)そこいらの会員で組織が動かなくなることを見越せなかったということになりませんか?
その結果、本からのみの原理主義者のようなa hopeさんのような方が【と断言されています。】との感想を述べるのでしょう。

そんな未来を見通す力のない方が大東亜戦争を聖戦と云い応援したが、東京大空襲により東京が焼け野原になる事も見通せず10万人もの犠牲種が出て、戦災孤児が多く出た
ことへの懺悔から、神の国寮の運営をはじめ運営主体の生長の家社会事業団に恒久的財源として生命の実相の著作権を譲ったものでしょう。

それをまた戦いの道を歩もうとはさてさて

5622トキ:2015/07/22(水) 15:36:18 ID:ToK4dAe2
 ロシアの作家が、「直線を引くのは、2つの点があれば十分だ」という言葉を書いています。
では、2つの点を示しましょう。

 戦前、谷口雅春先生が直接、ご指導をされていた時代、組織はお金はあまりなかった(職員
さんが内職をしていたとも聞いています)が、組織内の空気は生き生きしており、自由で闊達
な雰囲気に満ちていたと言います。これは戦前の事情を経験された複数の信徒さんの証言で
一致しております。

 私が生長の家高校生連盟で活動をしていた頃は、そういう雰囲気は薄らいでいました。
当初は、そうは言っても、まだ谷口雅春先生の直弟子の方々がご存命でしたから、宗教
的な雰囲気は強かったですが、そういう方々が他界されるにつれ、官僚的、形式的な
雰囲気が強まっていました。

 これらは、ある日、突然、そうなったのではなくて、組織の肥大化にともない、徐々に
そうなったと理解するのが普通でしょう。

 なお、お願いですが、常連投稿者様は、HNのご使用をお願いします。

5623誰か教えて:2015/07/22(水) 18:07:10 ID:kEnG6jMo
谷口雅春先生が組織指導を外れられ、組織が肥大化すると、競争のようなやり方で会員を増やす弊害が生まれた次第です。
問題は聖使命会員というシステムにあるのではなくて、競争みたいに数字を追いかけるような風潮にあったと感じております。

とのあなたの意見に対し

【谷口雅春先生が組織指導を外れられた】というのは昭和何年の事であり、どのような組織改編がなされ、組織を動かす第一人者は誰になったのですか?
【組織が肥大化すると、競争のようなやり方で会員を増やす弊害が生まれた次第です。】これは何年ごろからの話ですか?

とお聞きしたのですが

戦前、谷口雅春先生が直接、ご指導をされていた時代、組織はお金はあまりなかった・・・・・
これらは、ある日、突然、そうなったのではなくて、組織の肥大化にともない、徐々にそうなったと理解するのが普通でしょう。

が答えですか、戦前の話でなく聖使命会員制度の関係の話をしていることへのあなたの意見なんです。あなたの意見を読むと私には質問したような疑問が出た
のです。53年に九州に行かれる前に組織指導を外れられたというからそれはいつの事か、と聞いたのです。先生は聖使命会員の数又誌友の数(一括購入されている
発行部数)でもって生長の家の教勢を判断されていたと思われるのですが。【組織の肥大化にともない、徐々にそうなったと理解するのが普通】とのことですが
それが雅春先生が総裁の実務を取っていた昭和50年以前なのか以後の清超先生の時かは大事な観点だと思います。

「しかし、「ご利益を得るために献金する」というのでは、本当の愛の行いではありません。生長の家では、聖使命会員の方々を「聖使命菩薩」と呼びたたえていま
す。聖使命菩薩とは「自分が救われるより先に、他の人々を救ってあげたい」という愛他に励む尊い生き方を実践する方々のことです。こうした清い心の方々が
聖使命会員なのです。」と今でも意義について説かれています。
そして「聖使命会に入会されるときには、あなたご自身で氏名を書かれた「誠魂録」を提出して頂きます。」これらに反し身内知り合いはたまた生まれる前の赤子
まで会員として扱うことはいつごろから始まったのでしょうか?私は雅春先生の時代にすでに始まっていたと考えます。

あなたの言う直弟子の方々が組織の中心者であった時代にすでに始まっていたと思いますがいかがですか?これは雅春先生を聖人君子として扱うのか組織運営に
於いては宗教的真理のようにはいかなかったかということが問題になります。総裁の名代として強化部長はいるものと思うのですが、神誌一冊2円のバックに目の
眩んだ人もいたでしょうかと。50年に30歳の人で今70歳ですね。本流の指導者、教団に残りながらもぐずぐすいぅ人たちは清超先生の代に組織を動かしていた人で
しょう。

トキさんのように雅春先生の代にさえ組織運営に問題があったということてせすと、勿論清超先生の目を盗んで組織を動かしていた人間もいたと云う事になります。
私にはそんな方々が本流復活を言うのが解せないです。あなた方が求めるものはいつの時代のものですか?と聞きたいですね。

そんなことに関係して組織指導引退は何時かと聞いているのです。

5624トキ:2015/07/22(水) 19:37:30 ID:O8a8dKlY
 上の曳馬野さんの質問は、「組織」板で書きましたので、よろしくお願いします。

 お金の問題は難しいです。運動をする以上はお金は必要です。ただ、それが信徒
の浄財である、という意識がないと、費用の濫費に走る危険性もあります。ただ、
他人事ではなく、自分もそうならないとは限らない、ということを考えるのも
大事です。自らを省みることも大事です。

5625誰か教えて:2015/07/22(水) 20:42:24 ID:kEnG6jMo
>>5618 の私の文はその前のa hopeさんの投稿が一面観の意見と思えたことに対するものです。
誰の文章かが問題でなく内容が問題です。教団批判を事実に合わない聖典理解からのものと感じたから、反論したものです。
昔の高校生夏季錬成には日教組さながらの意見を言う生徒がいたものです。それに対しても話し合いがされたのです。
青年誌友会であってもいろんな意見がありました。講習会、講演会で拍手する人がいますが私は不思議なんですよ。
そうそうそうなんだよね、って感じで賛意を表現する、総裁の講師の話に自分が評価を与えるなんて馬鹿も休み休みにしてくれと云いたい。
私の意見が変であれば反論すればよいのであって、誌友会の目的は仲間のダベリングの場ではないでしょう。
トキさんが雅春先生の時代は素晴らしかったが組織を退いてから変になった式の論を展開するから、それに対しての意見を書いたのです。
トキさんは何時先生が組織から退いたかは論議する必要が無いという、であるならば雅春先生の時代は良かったが以後変になったというようなことは
言わなければよいのです。私には雅春先生の時代から清超先生の代に渡り、組織に係った人間が本流復活なりトキさんように組織にいるなりして、
あの時は良かったというその事が不思議なんです。あなた方が動かしていた組織でしょうに。
それが本当に真理に適った運動で素晴らしいものであったのならば、なぜ清超先生は雅宣総裁を副総裁にしたのでしょうか?
皆さん雅宣総裁がおかしいという人間だけですよね、こういった掲示板で生長の家の恥さらしをしている人は。
組織で好き勝手できた時代が懐かしいと云う事ですか?本流復活とは。またトキさんの願う生長の家の在り方とは。

これは質問ではありません、a hope さんと同じで言いたいことを書いているだけです。

5626誰か教えて:2015/07/22(水) 21:32:35 ID:kEnG6jMo

自然界との調和を言うと、自然界は現象ですよねと云ってa hopeさんは総裁を批判するけれども、こと人間だけは今生きている自分を中心に考えてものを言う。
波と水は一体です、水を離れた波なんてないし風が吹くという因縁があれば水は波立つのです。

絶対界と云う大実在があればこその万物の存在があるのです。万物の調和の中には自然界もあるのは当然です。その自然界を人間(体験上の想いの塊であって真の
人間ではない)の欲望のままにする、それへの警鐘なんです。その運動がなぜ変なのですか?万教帰一が当たり前であるように、万法は一つに帰一するのです。
絶対なるものに。

その世界に入ることが神想観の目的ではないですか?神想観する人間が自然界は現象でしょうということが解らない。
人間同士の調和はもちろんですが自然との調和も同じく必要なことです。

5627a hope:2015/07/23(木) 09:05:55 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第20巻 p128 後から5行目〜

ホルムズの思考に従えば神はいっさいの「造り主」であるが、神は決して勝手気儘にわれらに不幸を造っているのではないのである。

われらの思考するところにものを病気であろうと、貧乏であろうと、逆境であろうと、順境であろうと、幸福であろうと、われらの思考を鋳型として無差別平等に神はわれらに造り与えてくれるというのである。

そこに人間の自由と、神の当体の無相にして応現の自在なることが確保されているのであった。

それは仏教的思想に癒合したキリスト教思想であって、キリスト教的「造り主」をありとしながら仏教の「無明縁起」と一致しているのであった。

「造り主」の思想と、「無明縁起」は一致し難いものとして、ひとたび造り主を否定してしまったわたしは、ここに再び創造主を発見したのであった。

5628a hope:2015/07/23(木) 09:07:00 ID:cEpBaIdo

>>5627 a hope 所感)

<<それは仏教的思想に癒合したキリスト教思想であって、キリスト教的「造り主」をありとしながら仏教の「無明縁起」と一致しているのであった。>>

雅春先生は、ホルムズの著書『心の創造活動の法則』に出会う事で、それまで感じていたキリスト教と仏教の教えの矛盾を解消されます。

『「真の悟り」とは命がけで真剣に求める者だけが得られるもの』なのかもしれませんね。

5629a hope:2015/07/27(月) 00:01:42 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第20巻 p129 5行目〜

しかし、わたしがいったん創造主を否定し去った後にホルムズの哲学がこうていしてくれたこの神なるものは、まだ現在の生長の家が説いているような実相の神ではなかった。
それは現象界を造り出してくれるところの現象界の創造者であった。

5630a hope:2015/07/27(月) 00:03:02 ID:cEpBaIdo

>>5629 a hope所感)

時々、生長の家の信徒の方々が「教義」について議論されているとき、
『あなたは現象と実相をまぜこぜにしている』みたいなことを言って相手に反論される方がいます。

ここで紹介されているホルムズの思考する「神」は現象世界を創造する神だそうです。

「実相世界」を信じる生長の家の信徒であっても、このホルムズのように『現象界をも「神」が創造しているのだ』と考えてしまうと、
「実相」と「現象」がごちゃ混ぜになってしまうのだと思います。

「現象はない」のですから、「神」が現象界を創造するわけがありませんよね。

5631神の子さん:2015/07/29(水) 06:51:53 ID:kEnG6jMo
【「現象はない」のですから、「神」が現象界を創造するわけがありませんよね。】に関して


私たちの住む世界は常に一つであります。現実は一つしかなく、二つ同時にあるということはありません。二つあるのは現実を離れて空想している時であります。・・・・

現実は常に一つであるということは、右と左と同時に進むことはできない、右でなければ左であり、左でなければ右であります。

その一つだけの現実を絶対というのであります。その一つを最も善であると観る生活が極楽なのであります。  藤原先生


というのが生長の家のようですが、現象と実相と云う観念の世界に生きているのではありませんか?

司会者が現実対応に忙しそうですので一言申し上げます。

5632a hope:2015/07/29(水) 09:55:16 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第20巻 p132〜



万事は好都合にいったが、家族の健康だけは移転以来、かえって悪くなった。

恵美子が麻疹をする、麻疹が内攻して肺炎になったと宣告される、わたしの健康も悪くなって死ぬような予感がする、折ふし、保険会社勧誘員が来たので保険に加入しようと思うと、審査医が来て診察して見た結果不健康だからだめだと言う。

妻も瀕死の大腸カタルを患う。

どうしてこんな不健康が続くのか自分でも判断がつかなかった。


わたしは毎日、わたしの家庭に不幸や病気が絶えない理由について思索を続けていた。

三界は唯心の所現である。

そのことまではわかっていたから、家族たちの病気が心のあらわれであるということは明かであった。

しかし心をいかにすれば自由になしうるかがまだわからなかったのである。

心配すればその心配が形にあらわれて病気になる、それは解る。

しかし、家族が病気になっているのを心配しないでいることはむずかしいのである。

腹を立てればその乱れたる精神波動が形の世界にあらわれて自分の身体(からだ)が虚弱となり、家族に病気が起こる、それは解る。

しかし、会社などにつとめて、上役から無理な命令を圧倒的に受けたとき、それに対して憤りの念を起こさないことはむずかしいのである。

心が一切現象の源であると知るとき、その心が思うように支配されたならばなんでもないが、その心が思うように支配されない時には、心そのものがかえって恐怖の原因となるのである。

悪を思うまいと思えば思うほどかえって悪を思い、心配すまいと思えば思うほど心配し、怒るまいと思えば思うほど腹立たしくなってくる心はこれはいかにしたらよいであろうか。

心が悍馬(かんば)よりも扱いにくいものであるならば、その心の扱い方によって人が幸福にも不幸にもなるものとするならば、悍馬を乗りこなすのはよほどの名人でなければならないから、人生を幸福に無病に乗りこなす人も、また数少ないと言わなければならないのである。

わたしはそのころはまだ心の悍馬を乗りこなす名人ではなかった。

子供が重病だといって会社へ電話がかかると顔色が真っ青になって、会社を早引きしての帰るさ、電車の中でブルブルと戦(ふる)えている方の人であった。


心と仏と衆生とこの三つが無差別(むしゃべつ)であって、一心転じて仏ともなり衆生ともなり極楽ともなり地獄ともなるならば、結局仏とは常住のものでなくて一つの捉えどころのない現象だと言わなければならないのである。

常住のものではない捉えどころのないところの、仏かと捉えてみれば鬼になったり地獄であったりするような心が神であるならば、わたしたちは何に頼っていいのかがわからないのであった。

ホルムズの説くように、神は当体は無相であって、われわれの念に従って仏とも現われ、鬼とも現われ、応現自在のもので、本来常住の相(すがた)がなんにもないならばこれもまた頼りにならないものではないだろうか。

わたしは思索を重ね、静思を重ねたけれども安住の境地には達しなかった。

(つづく)

5633a hope:2015/07/29(水) 09:57:04 ID:cEpBaIdo

>>5632 a hope所感)

この時点で、雅春先生は、「生長の家の教え」でいう横の真理(心の法則)、仏教でいう「三界唯心所現」はお悟りになっておられますが、
その「心」を制御するすべが見つからず苦しまれています。

そして、この後、いよいよ雅春先生が「唯神実相」を大悟されますが、本当にここのところのご文章は圧巻です。

つづけて謹写していきます。

5634トキ:2015/07/29(水) 22:23:36 ID:Ezw2G2vY
>>5632

 少し余談ですが。

 谷口雅春先生が、外資系の会社にご在籍中、生命保険の加入を断られた
事について、藤原敏之先生が、「それは、そうでしょうなあ。」と冗談を
言われていたのを聞いた事があります。ちなみに、藤原先生は、日本生命
の管理職を定年までされていた方です。それぐらい、当時の谷口雅春先生
のお身体は弱かったのでしょう。

5635a hope:2015/07/31(金) 21:44:16 ID:cEpBaIdo

(>>5632 つづき)

「生命の實相」第20巻 p134 6行目〜


ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。

わたしはその時、偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の「色即是空」という言葉を思い浮かべた。

と、どこからともなく声が、大濤(おおなみ)のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。

「物質はない!」とその声は言った。

で、わたしは「空即是色」という言葉をつづいて思い浮かべた。

と、突然その大濤のような声が答えた。

「無よりいっさいを生ず。
一切現象は念の所現もして本来無。
本来無なるがゆえに、無よりいっさいを生ず。
有よりいっさいを生ずと迷うがゆえに、有に執して苦しむのだ。
有に執せざれれば自由自在だ。
供給無限、五つのパンを五千人にわかつてなお余り、『無』より百千億万を引き出してなお余る。
現象界は念のレンズによって転現せる化城にすぎない。
かしこに転現するとみゆれどもかしこに無し。
ここに転現すると見ゆれどもここに無し。
知れ、一切現象無し。
なんじの肉体も無し。」

では、心はあるであろうかと思うと、その瞬間、「心もない!」とその声は言うのだった。

今まで、わたしは「心」という得体の知れない悍馬があって、それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。

ところが「心もない!」という宣言によって、わたしは、その「心」の悍馬から実相の大地に降りたのであった。

「心もなければ何も無いのか」とわたしは再びその声の主にたずねた。

「実相がある!」とその声はハッキリ答えた。

「無のスガタが実相であるか。皆空が実相であるか。」とわたしは尋ねた。

「無のスガタが実相ではない。皆空が実相ではない。皆空なのは現象である。五蘊が皆空であるのだ。色受想行識ことごとく空である!」

「空と無は異なるとは思うな。五蘊皆空であるのに空とは無ではないと思うから躓く。
空と無とは異なると思い、『無ではない』と思うからまた『五蘊は無いではない』と引っかかるのだ。
『五蘊は無い』とハッキリ断ち切ったところに、実相が出て来るのだ。無いものを無いとしたところに、本当にアルモノが出て来るのだ。」

「では、実相とはなんであるか」とわたしは訊いた。

「実相とは神である。あるものはただ神のみである。
神の心の顕現のみである。これが実相だ」

ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。

「心も無いのが本当ではないか。」

「無い心は受想行識の心だけだ。
そういう意味でなら仏もない、衆生もない。
心、仏、衆生三無差別と説く場合には、心もない、仏もない、衆生もない。
衆生を抹殺(ころ)し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさい抹殺したときに、実相の神、久遠実成の仏が出て来るのだ。」

「それが、キリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのですか。」

「そうだ。肉体イエスを抹殺した時、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。
イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である!
今、ここに、久遠生き通しの生命が復活する。
今だ、今だ! 久遠の今だ! 今が復活だ! 今を活きよ。」


わたしの眼の前に輝く日の出のような光が燦爛と満ち漲った。
何者か声の主が天空に白く立っているように思われたが、それはハッキリ見えなかった。
しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。
わたしはポッカリ眼をひらくと、合掌したまま坐っている自分をそこに見出したのであった。

5636a hope:2015/07/31(金) 21:49:37 ID:cEpBaIdo
>>5635 つづき)

それ以来、心、仏、衆生三無差別の心というものが本来無いものであるということがわたしにはハッキリわかった。

迷う心も無いから、悟って仏になる心もない。

迷う心が進化して悟って仏になると思っていたのがまちがいであったのである。

ただの初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。

その実相の心が展開した実相の天地があるだけである。

浄飯王の王宮を出て、伽耶城を去ること遠からず、菩提樹下に六年静思して初めて悟りをひらいて仏になったという現象の釈迦牟尼仏は本来無かったのである。

『法華経』の中で、釈迦自身が、

「我実に成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由他劫である」と言ったその久遠の仏のみが実在であったのである。

その久遠の仏が今ここに生きているのだ!十字架上に磔けられて、「神よ、神よ、なんぞ我を捨て給うや」と哀号したイエスは本来無かったのだ。

永遠の神性――「アブラハムの生まれぬ前から生き通し」とみずから言ったキリストのみが実在であったのだ。

自分もまた、明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった。

そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。

ここのままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始から仏であった自分であったのだ。

わたしはその心境を次のように歌った――

――――――――――
ある日、わたしは心の窓を開いて、

大生命のみ空から光線のように降りそそぐ生命の讃歌に耳を傾けた。

ああ!声のない奏楽、声を超えた合唱

けれどもわたしはその声を聞いていた。

宇宙の囁き、神の奏楽、天使のコーラス。

わたしの 魂 は虚空に透き通って真理そのものと一つになった。

なんと美しい旋律だろう。

「これが真理そのものか!」とわたしは恍然として嘆声を漏らした時、

「お前は実在そのものだ!」

わたしはこう言って天使たちがわたしを讃える声を聞いた。
――――――――――


わたしはついに神を見出し、本当の自分を見出したのであった。

三界唯心の所現である、この心も、また現ずるところの現象をも、一切空無と截ち切って、その空無を縦に貫く久遠不滅の大生命が自分であった。

それ以来、わたしの見る景色が変貌した。

すべての存在が物質でない、何か後光のような燿光(ようこう)を発するエーテルの波のような存在に見えるのだった。

わたしは朝湯がことに好きであったが、秋の遅い太陽は、わたしが朝湯をあがっての帰り道、向こうの樹間(このま)からさしのぼることが多かった。

――――――――――
早晨(そうしん)

日光が樹間からさしのぼる、

生命そのもののような光だ。

うれしい!

自分が一個の生命であることが

うれしい!
――――――――

というような心境であった。

わたしの住む世界が、景色が変貌した。

5637a hope:2015/07/31(金) 21:59:11 ID:cEpBaIdo

みなさま こんばんは

毎日暑いですね💦

でも、この異常な暑さも現象にすぎません。

神想観をして、聖典を拝読すれば、実相世界の素晴らしさに心が震えて、
わたしは、今、ここに生きていられること、家族と一緒にいられること、
大好きな仕事ができること・・・すべてのことに感謝の気持ちでいっぱいになります。

「生長の家」の教えに出会えて本当によかった!


ところで、今日で7月が終わりなんですが、今回の第35回web誌友会の司会は「島津」さまにお願いしています。

島津さま、どうしましょうか?

20巻のお勉強を終了してもいいでしょうか?

5639a hope:2015/08/02(日) 22:50:07 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第36回 web誌友会 案内 

期間   8月2日〜8月31日まで
テキスト 「生命の實相」第21巻 経典篇 
内容  『甘露の法雨』講義
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

8月に入りましたので第36回 web誌友会を開会させていただきます。

もうすぐお盆ですね。
今月は、先祖供養のためにもこの第21巻の『甘露の法雨』講義を心をこめて学ばせていただきたいと思います。

それでは、開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。

5640a hope:2015/08/02(日) 22:51:11 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、今月の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5641a hope:2015/08/02(日) 22:52:16 ID:cEpBaIdo

はしがき


『甘露の法雨』はいわゆるインスピレーションによって突然浮かんできた思想が一種詩的なリズムを帯びてきたのを書き止めて置いたものである。

後より見るとこの聖経は期せずして、『生命の實相』全巻の真理を縮約して歌ったものになっている。

それを読誦することによっていろいろの奇跡を演じたので、ついに聖経と称せられることになったのである。

その英訳をたんに携帯することによって第二次世界大戦中ハワイの日本民族第二世の軍隊(第百大隊、四四二部隊)がイタリーの南端から上陸する際に、機関銃弾がその英訳『甘露の法雨』に命中しながら、それを貫通することができず無傷で大量の兵員が上陸して戦功をたてたような奇跡もあり、交通事故に遭いながら無事だった実例のごときは数限りもないのである。

この聖経はたんに現実界の人間が読誦して悟りを開いて病気悩苦をさるばかりでなく、霊界の諸霊もその読誦の声を聞いて悟りをひらき、迷える障りの霊も守護の霊となることが後に明らかとなったので、神仏礼拝の際にその祭壇に対(むか)いて読誦すべき生長の家の聖経となったのである。

しかし読んで意味が分からないようでは功徳が薄いので、かつて毎日曜日に東京小石川護国寺の月光殿においてその大要を講義したものを次に掲げることにした。

主として講義の速記によったのでわたしの文章だというよりも、わたしの語調が写されているところに特徴があるであろう。

『生命の實相』の縮約が『甘露の法雨』であるから、この講義を読むだけで生命の実相の大要が摑めることと思う。

第一章は当時の講義の筆記漏れを後より再述して完璧としたのである。

昭和三十九年一月十日

著者しるす

5642a hope:2015/08/02(日) 22:53:28 ID:cEpBaIdo

【神示】


「神の子」なる人間の実相を現象世界に実現するのが人生の目的である。

現象世界とは現界、幽界、霊界を通じて呼ぶ言葉である。

人間の運命とは「神の子」なる人間の実相(因子〈たね〉)が現象世界に投映する時、時間的空間的に展開するのに、おのずから一定の順序を追うて展開して行くようにだいたい定められているのを言う。

それはたとえば朝顔の種子(たね)の中にはすでに「花」の因子(たね)が包蔵されているが、それが現象世界に「花」となって完成するまでには、日光に逢い、湿気に遇い、芽を出し、蔓を生じ、ついには花を開くというように、だいたい一定の順序を追うて展開するがごときである。

かくのごとく、神の子なる実相人間も、その投影を現象界に完成するにはだいたい一定の時間を要し、植物が日光に逢い、雨露に遇うがごとく、あるいは幸福に恵まれ、あるいは虐運と戦うことによって、ついに実相人間の現象界への投影を完成するのである。

しかし、その投影が完成するには、その投影は「念波の集積」で成り立っているのであるし、人間は心の自由をもち、自由に実相の悟りによって念波を浄め得もすれば、迷いによって念波を汚すこともできるのであるから、現象世界に実相人間を顕現する過程(進化の過程)を心次第で縮めることも長くすることもできるのである。

霊魂進化の過程を短縮するのは念の浄化による。

念の浄化には、実相を悟ることが第一であり、物質欲に捉われざることが第二である。

物質欲に捉われざるためには「物質本来無し」の真理を悟るのが第一である。

「物質本来無し」の真理を悟る程度に達せざる者には、物質の快に捉われさるための修行としてみずから進んで苦を求めて喜ぶか、物質に快を求めてかえって苦を得る体験を通じて、ついに物質欲に捉われさるに到るかの二途しかない。

前者はみずから進んで嘗(な)める苦行であり、後者は幸福を求むれども求むれども運命的に他動的にやってくる苦難である。

その他に過去の悪業の自壊する過程として自己の霊的流動体に起こる擾乱(じょうらん)現象の苦痛もある。

苦難がみだりに取り去られず、多くの霊魂の霊界通信が苦行の価値を力説しているのもこのいろいろの理由によるのである。

(昭和八年九月十五日神示)

5643トキ:2015/08/03(月) 14:53:26 ID:QRDw9Vfo
 暑いですが、元気で誌友会に参加したいです。
皆様もぜひ、ご一緒に真理を勉強しましょう。

5644a hope:2015/08/07(金) 23:49:12 ID:cEpBaIdo

トキさま、みなさまこんばんは

暑さのせいもありますが、子供たちが夏休みに入って生活や仕事が忙しくなったということもあり、
一日が終わるころにはぐったりとしてしまい、聖典を勉強する余裕がありませんでした(;´∀`)

ですが、大好きな聖典ですからお勉強を止めるつもりはありません。
マイペースでこのweb誌友会も続けていかせていただきますね。


ところで、第一章の初めは、聖経「甘露の法雨」の「神」の項目の解説です。

仏教やキリスト教の考え方を例えにあげて、
万教帰一的に「生長の家」が「神」をとられていることが説明されています。

久しぶりに聖典を拝読しましたが、やっぱり「生長の家」の教えは素晴らしい・・・(*´▽`*)

5645フニュ(´・ω・`):2015/08/09(日) 13:15:32 ID:wLZgPbag
>>雅宣先生は、頭では「生長の家」の真理はかなり理解されているのではないかと思います。

>>ですが、肝腎な「唯神実相」をお悟りになっていないので「現象なし」が徹底されていないのです。


総裁だけではないですよね。これがぁ、これがいっちゃん難しいのですね。

頭では理解できるんですね。雅春先生はわかりやすく書いてくださってますから。実相独在。

良いことがあったり、また人に親切にされたりしたら、勝手嬉しい感情が湧いてくるのと同じで

嫌な出来事や(病気とか、その他いろいろ)があったら勝手に苦しい感情がでてくるし。

実相独在を頭での理解だけだったら、その時の感情の制御は難しいです。うまくいえません。

5646a hope:2015/08/09(日) 19:29:30 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第21巻 p39 4行目〜

この現象界にいるように見えているのは、実は実相浄土にいながら現象界を念の作用にて仮作※1しているのである。

ここに即身成仏※2がある。

だからわれわれは南無阿弥陀仏と称えたとき、すでに成仏している自分を見出すのです。

その実相が悟れた時には、三界は唯心の所現でありますから、自分の立ち向かう環境ことごとくが、神と一つになる、無礙光如来と一つになる、無限の智慧なる、無限の真理なる、完全なる、円満なる、その自分自身の、少しも欠くところなき完全な相(すがた)が、この環境、周囲および体に現われてくる。

そうした時にこの現世が本当の天国となり、浄土となるのであります。

そうして機縁熟して、われわれが念の仮作する人生を投映する銀幕を代えて、霊界の銀幕に映像を投影して生活するようになる時、(いわゆるこの肉体が滅した時)われわれの念が光明一元の波長ばかりを起こすようにしていましたならば、未来世の銀幕には光明一元の世界が投影され、そこにわれわれは指方立相の極楽浄土を現わしていわゆるわれわれは極楽往生したことになるのであります。

これですでに実相では成仏している自分が、現世または霊界において極楽浄土を展開したりしなかったりする原理や、本来去来することなく、来生し往生するように現れる理由もおわかりになったでありましょう。

法顕(ほっけん)という人の訳の『無量寿荘厳経』にはこう書いてあります。

「かの仏如来は来って来る所なく去って去る所なし生なく滅なく過現未来にあらず」これは阿弥陀如来ですが、それと同じくわれわれも「来って来る所なく去って去る所なし過去・現在・未来にあらず」過去現在未来を打ち貫いて、そうして今、このまますでに自分が仏であるということを自覚せしめるのがこの生長の家であります。

(頭注より)
※1・・・本来無いのに仮に作り成す。
※2・・・その身そのまま仏となる。

5647a hope:2015/08/09(日) 19:33:39 ID:cEpBaIdo

>>5646 a hope所感)

<<その実相が悟れた時には、三界は唯心の所現でありますから、自分の立ち向かう環境ことごとくが、神と一つになる、無礙光如来と一つになる、無限の智慧なる、無限の真理なる、完全なる、円満なる、その自分自身の、少しも欠くところなき完全な相(すがた)が、この環境、周囲および体に現われてくる。
そうした時にこの現世が本当の天国となり、浄土となるのであります。>>

これは>>5645のフニュ(´・ω・`)さま(るん吉さま?)の

>>実相独在を頭での理解だけだったら、その時の感情の制御は難しいです。

というご発言にも通じることだと思いますが、
ようするに、頭で実相世界のことや「現象なし」をわかっていても、実相をまことに悟らなければ現世には天国は出現しないというわけですね。


そして、

<<そうして機縁熟して、われわれが念の仮作する人生を投映する銀幕を代えて、霊界の銀幕に映像を投影して生活するようになる時、(いわゆるこの肉体が滅した時)われわれの念が光明一元の波長ばかりを起こすようにしていましたならば、未来世の銀幕には光明一元の世界が投影され、そこにわれわれは指方立相の極楽浄土を現わしていわゆるわれわれは極楽往生したことになるのであります。>>

その肉体が死するときに、実相を悟っていれば、霊界においても極楽浄土は出現するし、悟っていなければ現世と同じような悩みや苦しみが続くというわけですね。


フニュさまがおっしゃる通り、「実相をまことに悟る」てそう簡単なことではないとわたしも思います(;´∀`)

でも、わたしたち「生長の家」の信徒には聖典「生命の實相」という道しるべがあるのですから、本当に幸せだと思います。

わたしは一生「生命の實相」を拝読しつづけ、実相悟ってから極楽成仏したいです。

だって、死んで霊界に行った後も煩悩に苦しみ続けるなんてまっぴらですからね(-_-;)

これからも聖典のお勉強、がんばろうっと・・・!(^^)!

5648フニュ(´・ω・`):2015/08/09(日) 22:09:08 ID:wLZgPbag
a hopeさま。
レスありがとうございます。 いつもご苦労様です。

えっと、はい、るん吉です。(#^.^#)バレテ 嬉し、恥ずかし・・

実相を悟れたら良いけど、その「実相を如実に悟る。要するに絶対境地?」に中々到達出来ない仕組みにでもなってるのか?

と思わせられる位、本当の己を悟るのはあまりにも難しすぎやしませんか?←これ本音。

しかし、こう考えたり、悩んでる我も無いのですよね。・・・頭では解る・・

生命の実相、読も!(*´ω`*)

5649a hope:2015/08/13(木) 09:59:06 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p43 9行目〜

「霊」とここにあるのは「霊魂」のことであります。

霊魂という場合は普遍的霊ということではなく、なんらかの体を備えた個別霊のことであります。

仏教は「無我」の教えでありますから、「霊魂」というものを第一義締としては認めないのであります。

生長の家でも、先刻説明したように、第一義締としては迷う「我」も極楽へ行く「我」もないというのでありますけれども、現世、霊界等のスクリーンに投影された念像が、ちょうど活動写真の銀幕(スクリーン)上に躍(おど)っている人物のように、個別の姿をあらわして見えるのが、現世の銀幕(スクリーン)においては肉体であり、霊界の銀幕(スクリーン)においては霊体であります。

この霊体を現している仮我を、霊魂というのであります。

霊魂という実体が実在するのではない、その正体は念の波によって、そこに実在するかのごとくあらわれている活動写真のごとき映像であります。

5650a hope:2015/08/13(木) 10:00:33 ID:cEpBaIdo

>>5649 a hope所感)

『生長の家の教えは「物質なし」の「唯神実相」なのに、なぜ、本来無い「霊魂(個別霊)」を供養するのか?』

それは聖典「生命の實相」の真理に感動して「生長の家」の信徒になった後、
「生長の家」が先祖供養を大切にしているという事実を知ったときに感じた疑問でした。

おそらく、雅宣先生も同じようなお考えをお持ちなのではないかと感じています。


霊界は現象界と同様、本来無い世界だけれども、肉体をもって生きているわたしたちには「現象界」はどうしても存在しているように感じてしまうように、
霊体となった霊魂にも「霊界」は存在しているように感じているのだと思います。

ですから、現象界で生きている間は、両親や兄弟、友人等の現象の姿を「神の子」として感謝してお祈りさせていただくのと同じように、
ご先祖ざまや生前ご縁があって亡くなった方々の霊魂に対しても感謝し供養するのは当たり前の事なんだと、今は思えるようになりました。

5651a hope:2015/08/14(金) 09:19:17 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p47 1行目〜
 
霊魂が病気をしたり、霊体が病気をしたりするのは変なことのように考えられますが、霊魂が病念を持つようになるのは、肉体的顕現から、霊体的顕現に移る場合、活動写真に喩えると、一つの銀幕(スクリーン)への映写を終わって、他の銀幕への映写に移る場合、
映写と映写との間に何も映らない「間」が生ずる。

この「間」がすなわち個性意識の中断であります。

活動写真に「間」があり、個性意識の中断がありましても、その人の業(映画において、印象の蓄積たるフィルムの絵)に変化のない限りは、再び意識が回復し、再び映画が始まりますと、その霊魂の意識には(界を変えての映画には)同様の病念が浮かぶのであります。

この病念が客観化して、霊魂自身には病気になっているかのような状態を呈する。

われわれから考えますと、もう霊魂になったらば肉体は無いのであるから、病気に罹りようがないと思えるのであります。

われわれから見たならば、体の無い霊魂が体の病気に罹っている。

胃病も心臓も皆焼いて灰にしてしまったのに、その霊魂が胃病にかかっているという実に滑稽なのでありますが、当事者たる霊魂にとっては、決して滑稽ではない、実に病気ありとして痛ましくも悩み苦しんでいるのであります。

といってわれわれも病気になって苦しんでいる霊魂を「体もないのに、自分の念の投影で病気になっている。滑稽だなア」などと言って笑うことはできないのであります。

「体もないのに病気になっている」というのは必ずしも、霊魂ばかりではないのであります。

われわれ自身も、本来こんな不完全な肉体は無いのに、念の投影(かげ)として現象界に肉体というような時間空間に制約された不自由な体を映し出して、それを実に有りと思い自分自身の病念によって、病気としている人がたくさんあるからであります。

こういう人が『生命の實相』を読んで本来肉体なし、病気なしと悟って病気が消えると、その人の病気が治るのであります。

これは皆さますでに信徒たちが体験せるとおりであります。

5652a hope:2015/08/14(金) 09:20:17 ID:cEpBaIdo

>>5651 a hope所感)

ここにはとても大切なことが書かれていると感じています。

要するに「肉体の死は苦しみの解決にはつながらない」という訳ですね。

自殺する人は、現象の苦しみから逃れようと自らの命を絶つのだと思いますが、
亡くなる前に「肉体なし」「現象なし」を悟っていなければ、例え肉体を滅ぼしたとしても、
霊界において「霊体(霊魂)」として苦しみ続けることになるのですね。

ここに「生長の家」の「肉体なし」「病気なし」「迷いなし」「死なし」等の真理の伝道の重要性が明らかになってきます。

終戦記念日を目前にして、わたしは今、戦死された英霊たちの霊魂に思いを馳せています。

当時「生長の家の教え」に触れることで、この真理を悟って戦死された英霊は多いのではないかと感じています。

「生長の家」の教えに触れた者の使命とは、この『「肉体無し」「唯神實相」の真理の伝道』以外わたしには考えられません。

5653a hope:2015/08/16(日) 09:08:15 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p50 後から6行目〜

だから、病み悩んでいる者には、生命の実相(ほんとうのすがた)が完全円満な神そのままの相(すがた)であるということを知らせてやったならば病が消えてしまう。

罪に悩んでいる者には、神は決して罪を作り給わないから、罪というものは本来ないという真理を知らしてやったならば、その罪と、罪より生ずる苦悩苦患(くのうくげん)が消えてしまう。

こうして一切苦患の源となるべき顛倒妄想を摧破(さいは)するために生長の家は出現したのです。

この真理の宣伝(のべつた)えられるや、天界のもろもろの神が和共(あいとも)に讃嘆して、「善いかな!善いかな!」と讃嘆の声を雨降らしつつ相共に人類光明化のために協力してくれるのであります。

それですから、生長の家では最近古今未曾有のことが起こりつつある。

それは、聖典を読むだけで神懸りになり、その神懸りになった人がちょっと『生命の實相』の受け売りをすれば病気が治るというふうな奇跡が続出する。

これ天界の諸神の共同活動によるものであります。

天界の諸神というのは霊界の上層にいる神格を得た諸霊のことであります。

こうして天界の諸霊の協同活動と人間界のわれらの協同活動とによって『生命の實相』の真理が宣布せられるにしたがい、この世の一切の迷い障りが消滅してしまう。

そうして、この惑障(わくしょう)の消滅とともに、惑障の現われであった地上一切の不幸苦悩は消尽して、このまま、この世が光明の常楽世界となるのであります。

5654a hope:2015/08/16(日) 09:09:26 ID:cEpBaIdo

>>5653 a hope所感)

『生命の實相』の真理は、「現象界」だけではなく「霊界」や「神界」に到るまで鳴り響くのですね!

<<生命の実相(ほんとうのすがた)が完全円満な神そのままの相(すがた)であるということ>> 【唯神実相】
<<神は決して罪を作り給わないから、罪というものは本来ない>>【人類無罪】

というように、その真理は本当に単純なのに、わたしたちはそれをなかなか悟れない(体得できない)・・・(-_-;)

悟れば、此の世が光明の常楽世界になるというのに・・・。

だからこそわたしたちには、聖典『生命の實相』を毎日拝読して、その真理を伝道して行く使命があるのですね!

5655a hope:2015/08/23(日) 22:59:48 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p59 2行目〜

生長の家の人類光明化運動には人間だけが参加しているのだと思うとまちがいでありまして、霊界における高級スピリットが参加していて、霊界からこの光明化運動を護念しているのであります。

そして一信徒が生長の家の真理を説くと、説く人もハッキリ分かっていないし、説かれる人もそれほどハッキリわかっていないのに、難病がパッと治ってしまうような実例がある。

これは、霊界からスピリットが強烈な光明思念を送って迷いの思念を破壊してしまうのであります。

5656a hope:2015/08/23(日) 23:01:17 ID:cEpBaIdo

>>5655 a hope所感)

唯物思想に感化されてしまった人たちには、この霊界とかスピリットとかいう存在を認めるのは難しいかもしれませんね。

わたしは「生長の家」の教えに触れる前からその類の本(精神世界関係)はかなり読んでいたので、
この現世の人間とスピリットとが影響し合っているという関係はすぐに理解できました。

真理を大悟された谷口雅春先生やその愛弟子さんたちがこの現象界に沢山ご存命だったころは、
「生長の家」教団自体が光明思念で満たされていたでしょうから、霊界のスピリットたちもその光明思念に共振し、
「生長の家」の光明化運動を護念してくださっていたのでしょうね。

ですから、たとえ真理を悟っていない信徒であっても、その「おかげ」を受けて、
聖典を拝読したり聖経を読誦するだけで簡単に病気が治ってしまったりするような、奇跡を起こすことができたのだと思います。

5657トキ:2015/08/24(月) 22:15:05 ID:jDE0Dx5.
>>5656

 これはその通りだと思います。

私の縁者の「一白鳩会員」が谷口雅春先生ご先導の神想観に参加したときに、
ものすごいパワーを感じたと言います。奇跡も続出したみたいです。

5658a hope:2015/08/27(木) 09:53:34 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p60 8行目〜

念の世界に、本来無い世界に、勝手に自分たちの妄念で不幸を創り、混乱状態を起こし、それがまたこの現象界に、勝手に自分たちの妄念で不幸を創り、御蘭状態を起こし、それがまたこの現象界に現われでようとした場合に、「かわいそうに」とそこに実相の世界から光明の念が及ぼされてくる、その光明の念が応現して観世音菩薩となり、阿弥陀如来となるのであります。

これは、化身または応化身の神であります。

そして宇宙に遍満する神というのは、実相とか、法身の神とか大本体の神とか言うのであり、この応化身の救済の活動に、霊界の高級霊が参加して活動するのは地上では悟りに近い現世の人々が参加して活動するのも同じであります。

この大本体の神が第一義の神であり、応化神が第二義の神である、これらは霊魂ではないから霊媒には憑(かか)らない。

霊界の高級霊というのは第三義の神と称するのがそれで、その眷族(けんぞく)あたりが、時には「大本体の神」の御名(みな)を僭称(せんしょう)して霊媒にかかってくることがあります。

仏典に「衆生仏を億念すれば、仏、衆生を憶念す」という 語がありますが、神は宇宙に遍満し給うのでありますから、憶念しても、しなくてもすでに満ちてい給うものでありますが、生が迷って、救いを求める気持ちになる。

換言すれば仏または、神を憶念した時に、阿弥陀仏となり、観世音菩薩となって、機に応じて現われ給うので、迷いは無明であり、暗(やみ)である。

暗は本来虚でありますから、そこに光が射せば暗は自然に消滅してしまう。

それが実相の神が、地上に応現し給うと、地上の迷いが自然に消滅してしまうということになるのであります。

5659a hope:2015/08/27(木) 09:55:08 ID:brQxC10.

(a hopeまとめ)

○第一義の神・・・宇宙に遍満する神・実相・法身の神・大本体の神・(光明の念)

○第二義の神・・・第一義の神の「応化神(応化身)」・観世音菩薩・阿弥陀如来 
        ※霊魂・で・は・な・い・から霊媒には憑(かか)らない

○第三義の神・・・霊界の高級霊 (スピリット)

○悟りに近い現世の人びと・・・高徳な僧や宗教の開祖とその直弟子たち・慈善活動家等・現世の高級霊【a hopeの個人的解釈】


○人類光明化運動・・・第二義の神「応化神」の救済活動に、霊界の高級霊(スピリット)や悟りに近い人びとが協力し合って行う運動【a hopeの個人的解釈】

5660a hope:2015/08/27(木) 09:57:54 ID:cEpBaIdo

>>5658 >>5659 a hope所感)

昔から、神さまのことを考えだすと、果てしなくひろがっていく宇宙の神秘を感じるのと同じような気持ちになりましたが、
実際、第一義の神は宇宙に遍満する実相ですから、それは当たり前のことだったのですね。

人間知では考えても考えてもわからない宇宙の果てのような存在が「実相・神」・・・

だから、「神さま」は慈悲深い「応化身」となってわたしたちの前に姿を顕(応現)し「迷っている」わたしたちを救済してくだる・・・

そしてその活動に霊界や地上(現世)で参加しているのが、スピリットや悟りに近い人々・・・

なんか、わたしはだんだんわかってきましたよ。

『縁あって「生長の家の教え」に触れた人々はみな「高級霊」である』どこかでと聞いたことがあります。

そういう意味だったのですね!

5661a hope:2015/08/31(月) 10:46:15 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p72 5行目〜

しかし、現実をこの現象界を軽んじることが、「無」を悟るということにはならないのでありまして、生長の家では現象界を軽んじようとは決して言っていない。

ただこの現象界を映し出しているところの、その源(みなもと)の世界を把握して、活動写真を映すフィルムをつかんで、この肉眼に見える世界は、その影にすぎないのだということが分かれば分かるほど、すべての現われが実相を映し出し自由自在に、意のごとくになるというのであります。


(a hope所感)

この第二章の前半は「甘露の法雨」の『物質』の項目の解説ですが、
ここには、われわれが「物質無し」「現象無し」をまことに悟れば、妄念、迷いが払しょくされて念のフィルムが無色透明になり、
現象界に映し出される映像が実相一元の完全円満で光明そのものの姿になるという仕組みが詳しく解説されています。

それはとてつもない悟りの境地だと思いますが、それが生長の家を信仰しているわたしたちが目指すべき『実相独在』『唯神実相』の悟りなのですね!

聖典「生命の實相」は学べば学ぶほどそのレベルの高さを実感できます。

ほんとにすごい聖典ですね!!

5662a hope:2015/08/31(月) 10:48:11 ID:cEpBaIdo

ところで、今日は8月31日、今月の最終日です。
本当なら、9月からは第37回web誌友会を開会して「生命の實相」第22巻に移りたいのですが、
まだ、第21巻のお勉強が終わっていなので、勝手ですがこのまま第36回web誌友会を継続させていただきたいです。

トキさま、みなさまいつも勝手を言って申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

5663a hope:2015/08/31(月) 10:48:55 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第36回 web誌友会 案内 (改訂版)

期間   8月2日〜9月30日まで
テキスト 「生命の實相」第21巻 経典篇 
内容  『甘露の法雨』講義
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5664a hope:2015/09/05(土) 23:21:49 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p79 後から6行目〜


・・・われわれの本質は久遠の実在なのだ。

宇宙に充ち満つる大生命と同体の我こそ自分である。

(自己を指して)大生命ここにありと自覚する。

(また、聴衆をさして)皆様自身のうちに大生命ここに在りと自覚する。

自分が実在であり、大生命であると自覚することが必要なのであります。

自分は宇宙に充つる真理と同じものだ。

自分の実質は久遠の仏と同じものだ。

永遠の真理と一つのものだと悟ることが肝心なのです。

それだのに自分と実在すなわち神とを別々に離して、別物のように考えているから、どんな大宗教もたんなる哲学になってしまって実際に人を救う力がなくなってしまうのであります。

われは真理と一つのものである。

実在と一つのものである。

神と一つのものであるという実感が要するに現実世界を生かす根本であります。

生長の家が仏教、キリスト教と神髄において、同じことを説いていながら仏教、キリスト教に現われない数多くの奇跡を現わしているというのも、そこなのであります。

仏教、キリスト教で言っているのと同じ真理を、抽象的に説かないで、「実在のみある」という立場から、真理を実生活と遊離しないで、生きた人間の中に持ってきて、我すなわち真理である。

大生命である。

と、真理と吾とをぴったり一つに重ねてしまって、吾すなわち真理なりとの大自覚に入らせる。

ここに生長の家が在来の宗教の真理と同じ真理を説きながら、生活上に、治病上に実際の力ができてくるゆえんがあります。

5665a hope:2015/09/05(土) 23:25:51 ID:cEpBaIdo

>>5664 a hope所感)

<<それだのに自分と実在すなわち神とを別々に離して、別物のように考えているから、どんな大宗教もたんなる哲学になってしまって実際に人を救う力がなくなってしまうのであります。
われは真理と一つのものである。実在と一つのものである。
神と一つのものであるという実感が要するに現実世界を生かす根本であります。
生長の家が仏教、キリスト教と神髄において、同じことを説いていながら仏教、キリスト教に現われない数多くの奇跡を現わしているというのも、そこなのであります。>>


仏教にしてもキリスト教にしても、真理を大悟した釈迦やキリストがこの世に存在していた頃は生きた宗教で、
実際に多くの人を救っていたでしょうし、様々な奇跡も起きていたのだと思います。

ですが釈迦やキリストが現象世界を去った後に、どちらの宗教でも偶像崇拝のようなことが起こったり、
<<自分が実在であり、大生命である>>という大切な真理がないがしろにされたりして、
形式ばかりを重視する「救済力のない宗教」になっていってしまったのだと思います。


わたしは、現在の「生長の家」にも、同じようなことが起きている気がしています。

5666a hope:2015/09/07(月) 08:16:52 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p82 6行目〜

・・・けれどもその仏教の説き方にいろいろの段階がある。
声聞遠覚(しょうもんえんかく)などという下段、中段にある人に説く説き方を聞いていますと、「この人間は生まれた以上死ななければならない」などとこんな説き方になるのです。

生きているものは死ななければならないという教えは、生命というものを眼に見えている肉体だと思っている悟りの発達の低い人たちに説く教えなのです。

5667a hope:2015/09/07(月) 08:18:28 ID:cEpBaIdo

>>5666 a hope所感)

わたしは物心ついてきた5歳の時に大好きだった祖父を亡くしてから、
その後何十年間も「この人間は生まれた以上死ななければならない」と信じて生きて来ました。

でも、実際はそうではないのですよね。

それにしても、

<<生きているものは死ななければならないという教えは、生命というものを眼に見えている肉体だと思っている悟りの発達の低い人たちに説く教えなのです。>>

『悟りの発達の低い人たち』とは、ちょっと衝撃的な内容でした・・・(-_-;)

5668トキ:2015/09/07(月) 18:09:19 ID:jVJQMSko
>>5667

 それは、衝撃的でしたね。

これは私見ですが、宗教の教えは、釈尊の時代から、相手を見て法を説く、つまり対機説法という
技法を使います。その場で一番最適な表現と内容で相手を説得します。だから、後から見ると、
必ずしも他の場面では適当とは言えないものもあります。

 例えば、お母さんが子供に「一生懸命勉強しないと、立派な大人になれないよ」というと、
「東大を出ても警察に捕まっている人はいます」と反論する人がいます。しかし、お母さんから
見ると、子供が大人になったときに困らないように、勉強を鼓舞するのが目的で、客観的に、
あるいは学術的に、初等教育の成績と将来の人生との関連を述べるのが意図ではないみたいな
ものです。

 と、まあ、個人的には、こう考えております。

5669フニュ(´・ω・`)るん吉:2015/09/08(火) 00:56:49 ID:???
>>悟りの発達の低い人たち』とは、ちょっと衝撃的な内容でした・・・(-_-;)


生長の家は、要するに「悟り」やもんねぇ。神の子の真理を絶対境地で体験して悟らにゃ、本物の我は出てこない?ですよね?

自我のまま、現象の我のまま?ですよね。「我即神」の絶対境地になってないんやもの。 

例えば、生命の実相を読んで「実相独在の真理」があまりに有難くて、読んだ後は有難い、明るい心持ちになって

その結果、心の法則によって現象界に良いことが起こる。(それは嬉しい事だけど)しかしその時の心は

依然として、自我の心ですよね?新生したわけでは無いですよ・・・ね。

ところで、二代目の清超せんせいは、ご自分が神の子ということを如実に実感されてたんでしょうか?

どう思います?

5670a hope:2015/09/08(火) 09:51:53 ID:cEpBaIdo

>>5668 トキさま >>5669 るん吉さま

コメントをありがとうございます。

わたしは、『生長の家の教えの神髄』=『谷口雅春先生の「実相独在・唯神実相」お悟り』だと思っていますが、
そのお悟りの境地はわたしたち凡人には一生かかっても実感できないような最高レベルのお悟りだと思うのです。

それでも谷口雅春先生は、その御慈悲心から「生命の實相」やその他の聖典の中でそのお悟りをあらゆる方便(対機説法)を駆使して、
わたしたちにもわかり易いように何度も何度も表現を変えて伝えて下さっていますよね?

ですからわたしたちは、聖典を繰り返し拝読していれば、頭ではその理屈はかなり理解できてくると思いますが、
実際には、そのお悟りの境地を100パーセントそのまま感受することはとても難しいことだと感じています。

このお悟りを感受するのには、文章の内容を頭で理解するのは勿論ですが、
その文章から発している波動に自分の波動を共振させることが重要なのではないかと感じています。

谷口雅春先生の波動は最高レベルの波動ですから、自分自身もよい波動を発していないと、
お互いの波動を共振させることはむずかしいと思います。

実際、わたしも心が乱れている時は、「生命の實相」をいくら拝読しても感動しませんし、魂も震えません。

そのような時は、常に三正行を怠らず波動を調えることの大切さを実感します。


谷口清超先生は、谷口雅春先生から正式に法燈継承をされた「生長の家」の法燈等継承者ですから、
かなりのレベルのお悟りをされていたのではないかと思われますが、
それでも、谷口雅春先生のお悟りには及ばなかったのではないかと拝察しています。
( a hopeごときが、大変生意気な発言をして申し訳ありませんm(__)m)

5671a hope:2015/09/12(土) 09:08:08 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p84 

「生長の家」では人間は仏であると始めから直截(ちょくせつ)に断定する。

迷いなんてものは本来無いものだ。

迷えば衆生になり、悟れば仏になるなんて人間の本体はそんなフラフラのものではない。

そんなフラフラな「心」は本来無い心である。

迷いなんて無い、始めからわれわれは仏なのだと断然と迷いを断ち裁(き)ってしまって、断然と「我は仏なり」と肯定してしまうからこそ実際に宗教が生き、実人生を動かす力が出てくるのであります。


不生不滅などというどちらつかずのフラフラの言葉で、われわれの生命を形容したのでは力がでてこない。

われわれは生きとおしの生命であって滅びはない。

消ゆることもない。

迷いを一刀両断に斬り捨てて「生」のみを断然高く掲げ、本来「生」であって、無限の昔から、無限の未来へ生きとおす無限の生命こそ吾であり、無限の生命、すなわち仏であると断言してしまって、そこでわれわれ本来仏であり、無限の生命、すなわち仏であると断定してしまって、そこでわれわれ本来仏であればこそ、滅びもなければ、迷いも無い、そしてこれのみが事実である、これのみが実在である、その他のものはすべて無い、とすべて無いものを斬ってしまって(自己を指差して)「ここに仏あり」と思う。

そうすれば自分のうちに無限の力の宿ることを自覚することもできるのです。

迷いは無い。

ここに仏が坐っている。

今は迷っていて一生懸命念仏して仏になれるというような、そんなフラフラした影みたいな人間ではないのだ。

そんなものは初めから無いものなのだ。

われこそ仏である。

本来無限の仏力が宿っている、これをまず肯定せよと「生長の家」では言うのであります。

心、仏、衆生、三無差別としての仏は本来ない、そういう仏も衆生も心も斬り捨ててしまったとき、なお残る実在――久遠よりの仏のみがあり、それが本当の自分なのであります。

5672a hope:2015/09/12(土) 09:09:49 ID:cEpBaIdo

>>5671 a hope所感)

>>5641で謹写したはしがきにも

<<主として講義の速記によったのでわたしの文章だというよりも、わたしの語調が写されているところに特徴があるであろう。>>

とありましたが、この第21巻の「甘露の法雨」講義は、谷口雅春先生のお話になられたままの語調がそのままご文章になっているようです。

たとえば、違う誰かが「われこそは仏である。」と発言したら、まわりで聞いている人はどんな風に感じるでしょうか?

気が違ったか、もしくは傲慢極まりないと感じるかもしれません。

まったく同じ真理の言葉を伝道するにしても、その真理を本当に悟っている人が話すのと、そうでない人が話すのでは、
影響力に雲泥の差が出て来てしまうのだと思うのです。

わたしたちは「仏の子」であり「神の子」だというのは確かな真理だけれども、
その真理を伝道するにはまずは自分がそのことを自覚し(悟り)その波動を発することが重要だと感じています。


偽我の自分を「仏の子」「神の子」だと勘違いしてしまうと、それは増上慢になってしまいますものね。

わたしはこの『「唯神実相」を悟る』というありがたい課題に、これからも謙虚に取り組んでいきたいです。

5673a hope:2015/09/13(日) 09:25:47 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p89  2行目〜


先日読売新聞に武本喜代蔵さんという大阪天満教師が書いておられるのをちょっと見たのでありますが、この武本という方はキリスト教の牧師さんで信仰によって病気を直された経験があるらしい。

名前も、わたしは十数年も前から聞いて知っているのですが、その方がこういうことを書いておられたのであります。

「信仰によって肉体の内部の病気が治るというのはあたりまえの話だ。しかし肉体の外部の、外傷は信仰では治らない。――」

こんなことを書いておられたのですが、わたしはこれを見て、この偉い牧師さんも本当のことが分かっていないな、と思ったのでありました。

この牧師さんには、われわれの外界に起ることは自分たちの内界の投影であって、外界も心の現われであるということが分からないで、肉体という一定の殻の内側だけが自分の心に左右されるもので、肉体という外殻の外側はもう自分の外だと考えていられるから、こういうことが書かれるのであります。

この方には三界は蜃気楼のごとく唯心の所現であるということが解らない。

自分というものは小さな肉体である。

脳髄に心というものが宿っていて、その心の宗教的感情はわずか五尺何寸、十四貫何匁のこの小さな肉体だけを支配しているとこう考えているのです。
(つづく)

5674a hope:2015/09/13(日) 09:26:58 ID:cEpBaIdo

>>5673 a hope所感)

<<「信仰によって肉体の内部の病気が治るというのはあたりまえの話だ。しかし肉体の外部の、外傷は信仰では治らない。――」>>

「生長の家」を信仰されているみなさんは、この武本喜代蔵さんの考え方を間違いだと思われましたか?

つまりは、『ガンなどの内臓疾患や精神病などの身体の内部の病気は信仰によって治すことはできるが、
事故等で外界からダメージを受けた外傷は信仰によっては治らない』、という意味だとわたしは解釈しました。

わたしは、すでに「生長の家の教え」を5年以上学んでいますが、いまだにこの武本さんの考え方は間違いであるといいきることはできません。

ですが、谷口雅春先生は「甘露の法雨」講義で、この武本さんは『本当のことが分かっていない』とおっしゃっています。

では、『本当のこと』とはいったいどういうことなのでしょうか?

つづけて謹写していきます。

5675a hope:2015/09/13(日) 10:44:30 ID:cEpBaIdo

>>5673 つづき)

ところが、この空間は自分という一点の中心から周囲にレンズを向けたように、念波の広がりによって成り立っているのであって、自分がその空間の中心である。

自分が宇宙の中心である。

いっさいを周囲の空間に現しているのが自分であるのです。

それが分かると、自分は実に偉大なものだという実感が得られるのであります。

そうすると、この自分たち一人一人が宇宙の中心であるといえば、この宇宙には中心ばかりたくさんあるということになって、なんだか変だと思われるかもしれませんが、少しも変なことはない。

無限大の宇宙は、いくらたくさん中心があっても、そのすべての中心をそのまま収容することができるのであります。

みなさんは御存知でありましょうが、楕円形には無数の中心があるのであります。

有限の楕円形にでさえ、無数の中心があるとすれば、無限大の宇宙に、たくさんの中心がありうるというのは当然のことであります。

無限大の実相の宇宙においてはわれわれおのおのが中心なのである。

と同時にわれわれは実相においては一つの大生命と、まったく一つのものであるというのであります。

楕円形の中央の一直線上にある無数の中心が一つでもかけたらその楕円形は成り立たない。

皆それぞれの中心の一つ一つがなくならない中心であるのと同じように、われわれ各自は皆宇宙の中心であって各自は宇宙を双肩に担っているのであります。

そして宇宙の生命と一つになってこの宇宙を動かしているところの存在なのです。

5676a hope:2015/09/13(日) 10:45:39 ID:cEpBaIdo

>>5675 a hope 所感)

「自分が宇宙の中心であったら、他の人はどうなるんだろう?」という疑問がここで一気に解消されますね!

現象は影である。

影の中(仮相)ではいろいろな不都合や差別なんかが起こって見えていても、
実在界(実相)では、わたしたちおのおのが中心で自由自在に宇宙を動かしているのですね!

すごいですね!(◎_◎;)!

5677a hope:2015/09/15(火) 10:58:10 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p101 後から5行目〜


この因縁というものは、人間だけにあるのではありません。

因縁は全宇宙にあるのです。

宇宙の因縁循環して、いろいろの現象を起こしているのであります。

星雲状態も、燃ゆる灼熱の天体が冷めて月になるのも、宇宙の業の流転であります。

宇宙の業が循環流転していろいろの姿を現している。

この世は宇宙の業が流転して、因縁因果の姿を現じているものでありますから、『法華経』にかかれているごとく「劫(こう)尽きて末世が来てこの世が滅尽(めつじん)してしまう」というようなこともおこりうるのであります。

宇宙の業が流転して一太陽系統世界が生成し、やがてさらに流転して滅びてしまう。

その一期間を「劫(こう)」というのであります。

この一期間の週期が終わってこの世が滅尽してしまうようなことが起こっても「実相の浄土」は因縁によって現じている世界ではないから、決して滅びることはありえないのであります。   

(中略)

「実相」の世界は完全円満であっても、現実界ではわれわれは地震にも逢わなければならないと考える人がありますが、広範な大地震というような事件は宇宙の業によって起こりますから、一人の人間の悟りが大地震そのものを無くしてしまうことはできない。

しかしわれわれが本当に実相を知って因縁を超越した時には、地震はありながらも自分が地震に傷つかないような状態になるのです。

生長の家の信徒が自動車に轢かれても、微傷だも負わないというのはすでに因縁を超越した証拠であります。

現象世界の重力の法則によれば自動車に轢かれたらつぶれてしまうか、負傷するのがあたりまえのことでありましょう。

その重力の法則が因縁の法則であります。

その因縁をまったく超越した時には、自動車に轢かれても傷つかない。

憂苦満つる娑婆世界にいながらも、寂光土にいるような状態が現われ出てくるのであります。

なぜならわが環境はわが心の影、三界は唯心の所現であるからであります。

(第二章 終り)

5678a hope:2015/09/15(火) 10:59:58 ID:cEpBaIdo

>>5677 a hope所感)

各地で頻繁に起こっている地震、 火山活動の活発化、 豪雨による水害・・・・
最近の日本列島はどうも落ち着きません。

果たしてそのすべての原因は、わたしたち『人間の業』の自壊なのでしょうか?

もしそれが宇宙の業の流転の一端であるのならば、わたしたちがどんなに自分たちの犯した罪を反省し、
現象問題に対応してもその自然災害を食い止めることはむずかしいのではないでしょうか?

実際、先日起きた栃木の水害でも、自然環境を守るためのソーラーパネル建設が堤防決壊の原因なのではないかという問題もあがっていますよね・

生長の家の信仰により環境保護運動をするのであれば、そのような現象に対応するような形ではなくて、
まずは信徒一人一人が「本来罪なし」の「実相独在」を自覚し(悟り)、それを人類に伝道していく方法が正道だと思います。

そしてそれが本来の「人類光明化運動」だと思いますし、わたしはその方法しか人類救済はありえないと感じています。

5679トキ:2015/09/15(火) 18:38:42 ID:FzzGVrCQ
>>5678

 地球の歴史を省みると、いわゆる「大量絶滅期」という時代があって、例えば大きな隕石が
地球に落ちて、生命体の大部分が死滅した時代もあったそうです。当然、その時代は人間は
存在しなかったのですから、『人間の業』というのも変ですね。

 確かにスピリチュアルな観点からは、人間の意識もある程度は地球に影響を与えるそうです
が、それを極端に誇張するのは逆に危険な気もします。

>>まずは信徒一人一人が「本来罪なし」の「実相独在」を自覚し(悟り)、それを人類に伝道していく方法が正道だと思います。

全く同意いたします。

5680a hope:2015/09/16(水) 00:46:18 ID:cEpBaIdo

>>5679 トキさま

わたしの意見にご同意くださりありがとうございます。

わたしは聖典「生命の實相」を拝読していると、気持ちが明るくなり生きる力がみなぎってきます。

この掲示板でその大好きな「生命の實相」のお勉強ができるのも、管理人のトキさまのおかげですから、
トキさまにはいつも心より感謝しています。


ところで、明日から1週間くらいになると思いますが、事情があって自宅のパソコンが使えなくなります。

ですから、しばらくこのweb誌友会の書き込みをお休みさせていただきますね。


わたしはお休みしますが、今月は先月に引き続き、第21巻を学んでいますのでみなさまどうぞご自由にご参加くださいね。

5681トキ:2015/09/17(木) 19:32:50 ID:A5YPtPrA
>>5680

a hope様

 ご丁寧なご挨拶、ありがとうございます。

ゆっくりと英気を養ってください。
今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

5682「訊」:2015/09/17(木) 19:37:34 ID:???
>>a hopeさん

 突然ですが最近、再度ハマっております。
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65720842.html
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65721221.html

 この方、雅春先生の実相一元に達しておられますよ。DVDが英語版しかナイのが残念なんですが、かなりイイです。ご紹介しておきます。

5683純粋教理批判:2015/09/19(土) 10:47:56 ID:DD4jWV6M
部室板がかまびすしいのでこちらに再掲いたします。

復興Gさんのイデア論

うかつなことは申せませぬが、復興Gさんへの疑問を述べさせていただきます。

復興Gさんは徹底したイデア論者のようです。神は無駄なものを与えたまわない。原子力エネルギーは神によって与えられたものだ。これがイデア論に特有の物言いであるのは何度も述べたとおりです。

地球の資源は神からあたえられたものだ。家畜となった生き物は神からあたえられたものだ。復興Gさんの物言いがこれとまったく異ならないのは誰がみてもあきらかでしょう。

原子力を必要としているのは人類だけです。人類以外に原子力を必要とする生き物はおそらくおりません。そんな人類がいったいどれだけの生き物を絶滅に追い込んだのでしょう。神が無駄なものを与えたまわないのであれば、絶滅に追い込まれた生き物は人類を必要としていたとでもいうのでしょうか。それとも、無駄なものは与えたまわないとは、人類のことだけをいっているのでしょうか。復興Gさんにはこのような疑問をどうしてももってしまいます。

5684純粋教理批判:2015/09/19(土) 10:49:19 ID:DD4jWV6M
復興Gさんの物言いひとつとっても生長の家がイデア論であるのはあきらかでしょう。生長の家はイデア論なのですよ。

環境問題をつくりだしたのはイデア論です。生長の家をつくったのもイデア論です。総裁のなかでこのふたつながっているのですよ。

復興Gさんはけっきょくイデア論で総裁を批判している。総裁が否定しているであろう当のもの(イデア論)をもちいて総裁を批判しているのですよ。このことに復興Gさんはまったく気づいておりません。

復興Gさんの批判のごく一部しか読んでおりませんが、それでも以上のことがわかった気がしております。

5685純粋教理批判:2015/09/19(土) 10:53:22 ID:DD4jWV6M
イデア論で総裁を批判することの愚かしさにまったく気づくことなく、復興Gさんは一冊の本を著したのでしょうか。

5686純粋教理批判:2015/09/19(土) 11:50:16 ID:DD4jWV6M
生長の家の歴史は浅く人類的評価はまったく定まっておりません。人類全体の問題を考えるにあたって評価の定まっていない教えをもちだして持論の正当性を訴えるのは適切ではないでしょう。このようなことをされても反論することができません。

原子力がよいとおもうのであれば原子力エネルギーの優越性を訴えればよいだけの話です。教えをもちだして信徒の気をひこうとしているとしかおもえません。

5687純粋教理批判:2015/09/19(土) 12:34:35 ID:DD4jWV6M
重要なことを書きましょう。

復興Gさんがたとえ原子力エネルギーの自然エネルギーにたいする優越性だけで総裁と議論したとしても、その議論の中にはイデア論がひそんでいるのですよ。

人類は自己の欲望を肥大化させエゴむきだしでみずからの繁栄を追求してきましたよね。この追求に少なからず貢献したのがイデア論です。みずからの言葉をもって真理となす。これがイデア論ですから人類にとってこれほど都合のよいものはありません。

人類が原子力を必要とするようになったのはイデア論を都合よく利用して欲望を肥大化させたからです。イデア論と「原子力エネルギーを必要とする人類」は密につながっている。復興Gさんが原子力の必要性を説くとき、その言説の背後にはイデア論が間違いなくひそんでいます。

5689トキ:2015/09/19(土) 15:42:16 ID:YIc16UiA
純粋教理批判 様

 もし、ご希望なら、別の板、例えば、現在あまり使われていない「信仰・体験」板を提供するか、もしくは別に
純粋教理批判 様専用の「トーキングスティック」板を作りましょうか?

 ここは誌友会に使っているので、できれば他の場所のほうが良いかと思います。

 よろしくご検討ください。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5690神の子さん:2015/09/19(土) 17:01:23 ID:DRZ7EDG2

<<ここは誌友会に使っているので、できれば他の場所のほうが良いかと思います。

トンチンカンに本流対策室でなら何を書いてもかまわないと云ったのに、本流対策室はそっちのけで、アジ演説の出来るとこへは何処でも出て来る

そを放って置くから差し障りが出るのだよ。うのはなさんを一つの版に閉じ込めるのなら、トンチンカンにも同じ処置をしたらいかが。

5691トキ:2015/09/19(土) 17:29:14 ID:YIc16UiA
>>5690

 コメント、ありがとうございます。

 確かにトンチンカン様に自由な投稿を認めていますが、同時に、純粋教理批判 様
にも自由な投稿を認めています。

 誌友会の場合、最初からテーマが決まっており、それにそった投稿が前提になって
おります。純粋教理批判 様の投稿は歓迎しますが、この場所以外の場所の提案をさせ
ていただいた次第です。

 ご気分を害された点はお詫びしますが、ご理解のほど、お願いいたします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5692トキ:2015/09/19(土) 17:54:24 ID:YIc16UiA
 すみません、追伸です。

 純粋教理批判様の投稿を妨害する意図は全然ありません。
その点は申し上げます。

 よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

5693純粋教理批判:2015/09/20(日) 09:14:11 ID:DD4jWV6M
トキさま

誌友会で総裁を「虚説」と批判するのは許される。その理由をお聞かせください。

こちらの板で総裁を「虚説」と批判するのはよいがそれへの応答は許されない。こういうことなのでしょうか。

一信徒と復興Gさんによる「虚説」発言への応答はここが主戦場であったはずです。復興Gさんがこちらで、「生命の経済学」という実体のない空言をもちだして総裁の環境運動を批判したのは事実でしょう。それにたいする応答がこちらの趣旨にふさわしくないというのはどういう意味でしょう。

5695トキ:2015/09/20(日) 11:09:20 ID:ati5bUBw
>>5693

純粋教理批判 様

 ご投稿、ありがとうございます。平素は弊掲示板をご利用下さり、深く
感謝申し上げます。

 純粋教理批判 様が、a hope 様への反論と書かれていたら、これは私も歓迎を
したと思います。ただ、部室からの横滑りの趣旨を書かれていたので、関係がないか
と理解をしておりました。

 総裁を支持する意見も反対する意見も歓迎をしております。
確かに、復興g様がこちらに投稿をされていた時期は、この場所が「主戦場」で
した。

 が、web誌友会は、主催者が変更し現在、テキストとテーマが決まっており、その内容
で進めることになっております。

 もちろん、純粋教理批判 様も他の投稿者様の投稿も大歓迎いたしますが、
この誌友会の板以外の場所でお願いをさせていただきた、という意味で、
決して純粋教理批判 様の投稿自体を否定したり、反対する意図はありません。

 おそらく当方の書いた表現に行き届かない点があり、誤解を生じさせた点
があったと思います。その点はお詫びします。

 ただ、場所については、趣旨と違いのではないか、という考えをもっています。
 
 もちろん、他の板のご利用にあたって、ご希望があれば、最大限の対応をさせて
いただきます。例えば、純粋教理批判 様専用のトーキングスティック板を設ける事
も可能です。ご検討のほど、お願い申し上げます。

 a hope様も現在、お留守ですから、a hope様のご意見も聞きたいですが、おそらく
は同じ意見になるのではないか、と考えております。

 せっかくのご投稿に注文をつけてしまい、ご気分を害された点は重ねてお詫び
します。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5696a hope:2015/09/20(日) 11:37:02 ID:H4pfxWHA

みなさま、こんにちは。

パソコンが使えないので、スマホからの投稿です。

トキさまのおっしゃるとおり、このweb誌友会板では現在生命の実相 第21巻の『甘露の法雨』講義を学んでいます。

テキストに関係のない内容はお控えいただきたいです。

ですが、わたしの所感に対する反論は歓迎させていただきます。

パソコンが使えるようにならないとお返事できませんが…

よろしくお願いいたしますm(__)m

5697純粋教理批判:2015/09/20(日) 11:38:29 ID:DD4jWV6M
>>5678

>生長の家の信仰により環境保護運動をするのであれば、そのような現象に対応するような形ではなくて、
まずは信徒一人一人が「本来罪なし」の「実相独在」を自覚し(悟り)、それを人類に伝道していく方法が正道だと思います。

これがホープさんの環境運動にたいする考え方であるようです。教えはイデア論だとわたしは思いますが、ホープさんはイデア論を人類に伝道することでイデア論がつくりだした環境問題は消えると、このようにいっているとわたしにはおもわれます。

環境問題を解決するには、「地球の資源は神が与えたもうたものだ」とするイデア論から人類が脱却するよりほかはない。このことをわたしはいっているのですが、ホープさんはどうも逆の方向を向いているようです。

生長の家では「神は無駄なものはあたえたまわない。原子力エネルギーは神が人類にあたえたもうたものだ」と説くようですが、こうした教えで「神は無駄なものを人類にあたえたまわない。地球の資源は神が人類にあたえたもうたものだ」と主張する人々を教えみちびけるおもえるのはなぜなのでしょうか。

5698a hope:2015/09/20(日) 11:38:39 ID:H4pfxWHA

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第36回 web誌友会 案内 (改訂版)

期間   8月2日〜9月30日まで
テキスト 「生命の實相」第21巻 経典篇 
内容  『甘露の法雨』講義
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5699神の子さん:2015/09/20(日) 11:57:37 ID:.f2R09mc
>>管理人も気がつかないまま、おかしな運営をしている、

テーマ?書いてる一人の人の解釈次第じゃないですかそんなの。この板だけは独善会の反対意見書くと「テーマと外れてる!」と他はほったらかしの管理人も一緒に大騒ぎなんだよね?ふしぎなことに。。
一人だけの解釈で、生長の家の本流や本部がおかしいだの、清超先生の悟りは雅春先生の下だの、悟りを開くだの、散々やって、
テーマといわれたら、ずっと生長の家のテーマなんてはずれてるのにね?
ただの疑問ですので。

5700トキ:2015/09/20(日) 12:03:56 ID:ati5bUBw
>>5699

 ご意見、ありがとうございました。

 ぜひ、誌友会への参加をお待ちしております。
「生命の實相」第21巻 経典篇がテーマです。一緒に勉強をしましょう。

 お待ちしております。

5701純粋教理批判:2015/09/20(日) 12:19:33 ID:DD4jWV6M
>ぜひ、誌友会への参加をお待ちしております。

わたしは参加しておりますよ。みなさまのご意見をお待ちしております。

5702曳馬野:2015/09/20(日) 17:53:53 ID:JPiKJZkg

>>5699 お元気ですね相変わらず、非難中傷がとかなんとかあったようですが。

この板だけは≪≪独善会≫≫の反対意見書くと「テーマと外れてる!」と他はほったらかしの管理人も一緒に大騒ぎなんだよね?ふしぎなことに。。一人だけの解釈で、生長の家の本流や本部がおかしいだの、清超先生の悟りは雅春先生の下だの、悟りを開くだの、散々やって、

テーマといわれたら、ずっと生長の家のテーマなんてはずれてるのにね?・・・・おもろい

〝病なし! 迷いなし! 罪なし!〟これが生長の家の根本真理であります。それでは、神様ただ今より眠らせていただきます。6月13日3:30am谷口雅春先生 最後のお言葉――

〝病なし! 迷いなし! 罪なし!〟これが生長の家の根本真理であります。この言葉は自分の事ばかりでなくすべての人を見る時にもその通りでないのですか?

雅宣総裁は罪を犯しているという人の意見を聞きたいものだ。あなた方の心は病あり、罪在り、ではないかと、罪の観念に満たされていないかと。自分の心以外のものは見ることができないと云われる生長の家。「心の影と云うのは現象の事です。影を見て、引っかかったら信仰は落第です。」と云った講師がいた。

試しに妻に訊いてみた、雅春先生の最後の言葉は何かと、ちゃんと答えれたね。教団で生きているが。此の根本真理に照らして『吾恥ずかしいところ一点もなし』という人間に出遭いたいものだ。

5703純粋教理批判:2015/09/20(日) 21:53:58 ID:DD4jWV6M
>>5675

>自分が宇宙の中心である。
いっさいを周囲の空間に現しているのが自分であるのです。

わたしは自分が宇宙の中心であるというよりも自分が宇宙をつくりだしているとおもいます。いっさいを周囲の空間にあらわしているのではなく、周囲の空間をつくりだしているものこそが自分であると考えます。

宇宙はホログラム映像です。ホログラムをつくりだしているのは自分です。空間をつくりだしているのも自分です。70億の人類が70億のホログラム宇宙をつくりだしている。この「自分」をわたしはドリーミングボディと呼んでいますが、仏教的にはひとりひとりが大日如来ということになるでしょう。

>それが分かると、自分は実に偉大なものだという実感が得られるのであります。
そうすると、この自分たち一人一人が宇宙の中心であるといえば、この宇宙には中心ばかりたくさんあるということになって、なんだか変だと思われるかもしれませんが、少しも変なことはない。
無限大の宇宙は、いくらたくさん中心があっても、そのすべての中心をそのまま収容することができるのであります。

ひとりひとりがひとつの宇宙をつくっているわけですから宇宙の中心はひとつです。中心が無数にあるのではなく宇宙が無数(70億)にあると考えるべきかと存じます。

>みなさんは御存知でありましょうが、楕円形には無数の中心があるのであります。
有限の楕円形にでさえ、無数の中心があるとすれば、無限大の宇宙に、たくさんの中心がありうるというのは当然のことであります。

楕円の中心は・・・。

>無限大の実相の宇宙においてはわれわれおのおのが中心なのである。

実相の宇宙においては、人間は宇宙大の大きさに広がっているのではないでしょうか。「おのおのが中心」ではなく「おのおのが全体」なのではないでしょうか。

雅春先生の教えを正しいものとして物事をつきつめていくとかならず矛盾につきあたります。宇宙には中心が無数にあるとする考え方では、ホログラム宇宙のなかにホログラム人間が無数に存在することになり、ホログラム人間がホログラム宇宙をみている、つまりは映像が映像をみているといった事態をどうしてもまねいてしまいます。

5704トキ:2015/09/20(日) 22:20:16 ID:LtlCeku.
>>5703

 純粋教理批判様のご意見は、たぶん、宇宙論で言う「多元的宇宙論」という発想を
パラレルにしたものかと思います。そういう可能性があること自体は肯定も否定もし
ません。でも、多元的宇宙論にしろ、ホログラフにしろ、人間の三次元的な発想でい
けば矛盾はあるかもしれませんが、4次元以上の発想でいけば、矛盾がないわけでは
ないと思います。(まあ、そこまで行くと、ぶっ飛んだ世界になりますが。)

 多元的宇宙論にしても、生長の家で言う「現象」ですから、その限りではあくまで
も「現象」の世界になります。映像が映像を見ている、という例えも、あくまでも
三次元的な制限の上での例えですから、申し訳ありませんが、私は少し違うと思って
います。

 よく現象というと、映画のマトリックスに出てくる妄想のような、頭脳を制御された
幻のような印象がありますが、実際には、それ自体もないと想像をしています。

 おそらく、現在の人間の置かれた状態は、そういう多元的な世界観でいけば、まだ
初歩の段階でしょう。しかし、そういう初歩の段階をクリアーすることが私たちの
義務ではないかと考えています。

 エコロジストが、Think globally, act locally と言っていますが、実相のあるべき姿
を追求するのが一つの義務としたら、置かれたその場で精一杯生きるのがもう一つ
の義務だと思います。

 小さな、些細なことが大事なのは、そういうことだと思いますね。

5705純粋教理批判:2015/09/20(日) 23:13:52 ID:DD4jWV6M
「多元的宇宙」がマルチバースをいっておられるのであれば、わたしがいっていることとは無関係です。それとも量子力学の多世界解釈をいっておられるのでしょうか。もしそうであればこれもちがいます。多元的宇宙とはなにをいっておられるのでしょうか。パラメーターの数をいっておられるのでしょうか。

わたしはDブレーンについて語っております。もちろん専門的な知識があるわけではありませんが、理論物理学者のマルダセナによればDブレーンにおける、おそらくはひもどうしの相互作用によってホログラム映像がつくられる可能性があるということです。

ホログラム映像がつくられるとして問題は誰がそれをみているのかということです。ホログラム映像は人間の映像をつくりだすはずですが、こうした映像人間がホログラムをみている可能性はないということです。ではいったい誰がみているのか、トキさんはいかがお考えになられますでしょうか。

もちろんホロクラム映像はドリーミングボディ(大日如来)がつくりだす夢のようなものであるはずなので、トキさんがいっておられるように実体はもちろんないものと考えます。

いずれにしても問題は、誰が何をどうやってみているのかということです。理学部出身のトキさんにはぜひともこのあたりの見解をお聞かせねがいたいものです。雅春先生の御文章ではこのあたりがまったく語られておりませんので、できれば雅春先生の御文章にもとづいた見解をおねがいいたします。

5706トキ:2015/09/20(日) 23:27:48 ID:Uri1CqDQ
>>5703

 追伸です。

 難しい論考ですが、宇宙の中心が自分である、というのは、おそらく認識の場では
そうなんだと思います。多元的な宇宙観というか、宇宙のあり方については、まだ確定的
な定説は存在しません。しかし、仮にそれを前提にして考えます。そこで、多元的な宇宙
をマルチバースと呼ぶ事にすると、マルチバースが存在するような空間が存在するとし、
そういう場所がある以上は、そこに中心はあり得ます。それは、おそらくは宇宙意思とも
言うべき存在でしょうが、宇宙意思と密接に繋がっている以上は、確かに、それをもって
宇宙の中心と考える事は可能だと思います。

 しかし、それをもって、宇宙全体と考えるのが適当か、どうかは私は違うような印象は
あります。もちろん、それは否定するまではいきません。考えようによっては、宇宙の
中心でもあり、宇宙全体とも考える事も可能だと思います。

 要は、人間が三次元というレベルで宇宙を表現する以上は限界があり、それはそれで
仕方がないです。その上で宇宙を表現しようとすると、やはり齟齬は生じるのかもしれ
ませんね。

 ただ、それをもって、宇宙の中心である、ということを否定するまでにはいかないと
思っています。

5707純粋教理批判:2015/09/20(日) 23:34:11 ID:DD4jWV6M
雅春先生の御文章は最初のほうだけを読むと現象宇宙について語っておられるようですが、最後のところではいきなり実相宇宙の話になっております。いったいどの宇宙の話をなさっておられるのでしょうか。

また「映像が映像をみている」は三次元に限定されるとのことですが、これを多次元に拡大した場合にはどのような考え方がふさわしいとおもわれるのでしょうか。後学のためにもぜひともご教示ねがいたいところです。

それとマルチバースではなく今あるこの宇宙、ユニバースに限定して話をすすめていただければとおもいます。

5708トキ:2015/09/20(日) 23:38:54 ID:v4x/1O0A
>>5705

 先の投稿は、5704の投稿を拝見しないままだったので、失礼をしました。
純粋教理批判様の言われている事がまだ理解をしていませんので、的外れな点はお許し下さい。

 イメージとしては、私は、スパコンの中の世界が近いのではないか、と想像しています。
スパコンで、生命体の生理作用をシュミレートしたり、気候変動のシュミレートをしたりします。
外部に見せる時にはモニターには映し出しますが、部内で情報を処理する場合では、そういう事
は一切しません。精密講習会で、谷口雅春先生は、実相世界とは具体的な世界だ、と言われてい
ましたが、スパコンの中の情報に近いものが、実相世界のようなものではないか、と想像をして
います。

 谷口雅春先生がそれについて語られているか、という点は私は知らないのですが、おそらく
ご存知であっても、それほど語られていなかったという予感はあります。

 明日は早いので、今日は寝てしまいますが、難しい問題なので、少し思案します。
ご投稿に深く感謝申し上げます。

5709純粋教理批判:2015/09/21(月) 08:12:23 ID:DD4jWV6M
わたしの記憶では、マルチバースはインフレーション理論でもあったはずですが、この理論は旧ソビエトの科学者が考えていたもので、したがって西側に知られたのは冷戦終結後ですから、雅春先生がマルチバースについて語っておられる可能性はないとおもわれます。

話をユニバースに限定いたしますが、わたしが問題にしておりますのは、ユニバースのホログラムはひとつなのか複数なのかということです。雅春先生はひとつであると考えておられるようです。

ひとつとすると、人類はホログラム宇宙(ユニバース)にあらわれたホログラム映像ということになってしまいます。それぞれの人がホログラム映像ということになります。雅春先生はホログラムとしてあらわれた映像人間を宇宙の中心といっておられることになります。

ここで問題が生じます。このホログラム映像をみているのは誰かという問題です。この考え方ですと、それぞれの映像人間がホログラムをみていることになります。ホログラムとしてあらわれた映像人間がホログラム宇宙をみていることになります。これがわたしのいう「映像が映像をみている」状態です。

映像が映像をみる。これはありえない。それぞれが宇宙の中心とされる雅春先生は「映像が映像をみている」といっておられることになります。

5710純粋教理批判:2015/09/21(月) 09:36:09 ID:DD4jWV6M
わたしは宇宙はひとつでもホログラムは複数であると考えます。70億の人類がいれば70億のホログラム宇宙があると考えます。ここが雅春先生とのちがいです。

ホログラムをつくりだしているのは人間です。人間が大日如来です。

5711トキ:2015/09/21(月) 10:40:56 ID:1YpTHrO6
>>5710

 お返事が遅れてすみません。

 今、思い出したのですが、10年以上前、新聞に変わった死亡広告を出した人がいました。

 趣旨は、確か、

 「自分は無宗教であす。だから葬式はしない。と、同時に、今、見えている世界は自分が存在する
限りは見えているが、自分が死んだら消滅するのではないか、という疑問をいだいている。それを検証
したいので、自分が死んだら、自分がこういう事を考えていた、という広告を新聞に出すようにと、私
の家族に遺言として残した。」

というものだったと記憶しています。

 どうやら複数の新聞に掲載されたみたいで、中外日報が後日、記事にしていたのも読みました。
宗教という観点から、参考になる内容だったのでしょう。

 私がそれを読んだ、という事は、ホログラムの世界が単一である、という証明にはならないが、一つ
の資料にはなるかもしれません。(笑) どなたか、お時間のある人は中外日報や他の新聞社に尋ねて
みてください。

 上の話は、ホログラムが複数あるという考えは、昔からあった、ということでしょう。
でも、その証明は容易ではない、ということも示すものだと思います。

 それはともかく、天使の言葉の中には、「百万の鏡をおけば 一個も百万の姿をあらわす」という
言葉があります。谷口雅春先生が、ホログラムが一つなのが70億なのか、という点については、おそら
くは、その中間のような理論をお考えではなかったのではないか、と勝手に想像をしています。「一即多」
ということがそれではないかと考えています。

5712純粋教理批判:2015/09/21(月) 11:06:46 ID:DD4jWV6M
誤解があるようです。70億の人類が70億の宇宙をつくっているとすれば、個人がつくりだしているホログラムはそのうちのひとつにすぎません。これが消滅したところでほかの人たちがつくりだしているホログラムが消えるわけではありません。

5713純粋教理批判:2015/09/21(月) 16:09:18 ID:DD4jWV6M
宇宙がただひとつのホログラムでできているとすれば、あるひとりの超越者によってそのホログラムはつくられたことになります。人間もまた超越者によってつくられたホログラムのひとつということになります。

超越者によってつくられた映像に人間の意識がやどった、それが宇宙の中心としての人間である、とするのが雅春先生のお考えのようにおもわれますが、このようなモデルで映像に意識がやどる仕組みが説明できるでしょうか。人間の持つ多様な要素が説明できるでしょうか。人間関係がなぜ生じるのか、その仕組みを説明できるでしょうか。

たとえば脳には複雑な機能がありますが、それらの機能がいかにして映像に組み込まれたのかの仕組みがこうしたモデルでは説明できないでしょう。ただひとつの可能性は、超越者ではなく人間が共同でひとつのホログラムをつくりあげた、とする可能性であるとおもわれますが、これでは肝心の映像が個人を離れたところにつくられてしまい、人間は離れた場所からそれをみているだけ、ということになりはしないでしょうか。

ホログラム宇宙は人間のなかにつくられなければならない。人間は宇宙の中心でなく宇宙の作り手である。ホログラム宇宙は人間のなかにある。これがわたしの考えです。

5714純粋教理批判:2015/09/21(月) 16:12:51 ID:DD4jWV6M
ホログラム宇宙が人間のなかにあるとするのは独我論ではないか、との批判をうけそうですが、もちろん独我論ではありません。独我論であれば「自分だけが宇宙をみているのではないか」といった不安をまねきかねませんが、わたしがいっているのはこういうことではありません。

宇宙にはただひとつの実体があります。その実体における出来事を人間は、各人がつくりだしたホロクラム映像で体験している。わたしがいっているのはこういうことです。

実体?それはイデア論だ!いえいえ、ちがいます。

ここでいう実体とはDブレーンです。Dブレーンは平面ということにしておきましょう。このDブレーン上に平面世界がある。ご存知のようにこれがブレーンワールドです。人間は平面世界であるブレーンワールドの出来事や体験をホログラム映像へと変換することで立体的世界をつくりだしている。わかりやすくいいますと、ブレーンワールドの出来事はそのままでは体験できないので人間はそれを立体化して体験している。これがわたしの考えでありますので独我論とはまったく関係がありません。

新聞広告の人物は独我論に陥っていたのでありましょう。たしかにこういう考え方なら古くからあります。トキさんは、わたしの考えをこれと同列のもとみなされたようですね。

5715純粋教理批判:2015/09/21(月) 16:45:28 ID:DD4jWV6M
ブレーンワールドの出来事はカオスそのものです。これを立体化したところでカオスはカオスです。カオスをコスモスへと変える必要があります。言葉の出番です。言葉にはカオスをコスモスへと変える力があります。

「カワ」と呼んだことで川があらわれた。カオスがコスモスへと変わる瞬間です。言葉がカオスをコスモスへと変えた瞬間です。言葉がなければ人間はカオスをコスモスへと変えることができません。カオスを「カワ」と名づけた瞬間から人間はコスモスの世界の住人となります。

5716純粋教理批判:2015/09/21(月) 16:58:03 ID:DD4jWV6M
「物質はない」は絶対的真理でもなんでもありません。すべての物質は言葉でつくられています。ないのがあたりまえです。

5717トキ:2015/09/21(月) 18:22:31 ID:1YpTHrO6
 用事で出かけていました。

 Dブレーンについては私は詳しく知らないので調べている段階ですが、ある特殊な
状態で存在するものみたいです。議論されているのは、例えば、10次元とか23次元
とかの存在を前提にしている場合、人間が3次元以上の存在を認識できない理由がまだ
説明ができていないみたいです。ただ、それを現象か実相か、と言うと、私の個人的な
解釈では、やはり現象の世界になると思います。もちろん、実体を現象と理解したら、
純粋教理批判様のおっしゃる通りになるのかもしれません。

 あと、私の個人的な印象ですが、ここで言う「言葉」とは、特定の言語とかいう意味
ではなくて、もっと広い意味、例えば、プログラムに近いような気がします。

 議論から外れますが、谷口雅春先生は、この実相のあり方について詳述はされていな
いと思います。その理由として、生長の家が誕生した昭和の初期は、まだ、ユークリッド
幾何学とニュートン物理学が力を持っていましたから、現在のような理論物理学は世間に
広まっていなかった、という理由があります。

 同時に、谷口雅春先生は、個人の悟りや社会の改善など、いわば「実践」の立場に力
を入れられました。青年の書で、はし書きで、霊界について青年が興味を持ちすぎること
は良くない、と言われていますが、現実世界からの乖離を恐れられたみたいです。その
例で言うと、「実相」があり、それについての基本的な知識だけで十分である、という
のが谷口雅春先生のお立場かと思います。

 さらに、これは私の憶測です。出口王仁三郎さんが、霊界物語で、自分の知識の全て
を開陳することは、神様から禁じられている、と書いています。私は、この実相論につ
いては、実は、それもあるような気がします。

 ただ、Dブレーンはについては、今後の研究により物理学に大きな影響を与える可能
性がありますが、現象と理解するべきだと個人的には思っています。ただ、将来、実相
と現象の間の橋渡しになる部分の説明になる可能性は、否定できないかもしれません。

5718純粋教理批判:2015/09/21(月) 19:31:09 ID:DD4jWV6M
実相とはなにかといっても定義不可能というのが実情でしょう。言葉とはもともと定義不可能なものであり、それを定義した気になって物事を判断するところに排他性や暴力性が生じます。実相独在といったところで外部があるのかないのか、どこまでが実相でどこからが現象なのか、それさえも決定不可能です。

ところで言葉ですが、実相の言葉はおそらくプログラムでありましょうけども、人間が用いる言葉はプログラムではなく「物事を分離させる力をもつもの」と解すべきではないでしょうか。脳のニューロンになんらかの作用をおよぼすものではないかと個人的には考えております。

マルダセナのホログラフィー理論ですが、今のところは3次元空間によく似た空間という制限があるようですし、理論が成り立つ条件としてドッジッター空間とか反ドッジーター空間とかといわれても素人にはまるでわからない世界の話です。

楕円の中心の数がそうであるように、雅春先生の御文章はけっこういい加減なことが書かれているようです。信じるか信じないかの問題であるのならともかく、「宇宙の仕組み」、「世の中の仕組み」、「人間の仕組み」を問題にしようとするときには、こうしたいい加減さが混乱をきたす原因となります。

5719純粋教理批判:2015/09/21(月) 19:45:26 ID:DD4jWV6M
邪悪なまでに難解とされるジャック・ラカンの哲学ですが、ラカンに言わせれば「これ以外の方法で語ることは彼らが許してくれない」となるようです。「彼ら」が誰かはラカンのみが知るところなのでしょうが、「神は無駄なものはつくりたまわない」などと何でもありの言説をふりまわす某御指導者様とは雲泥の差という気がいたします。

5720トキ:2015/09/21(月) 20:30:43 ID:1YpTHrO6
 うーん、このあたりは少し純粋教理批判様と認識が違うところだと思います。

 人間は、確かにそれなりの知識や知能を持っており、科学は発展していますが、
では、人間の認識している世界は、まだプリミティブな段階だと思っています。
その段階の人類に対して、実相の存在を説くのは大事ですが、一即多のあり方
など詳細に説くことが有益か、どうか、という議論があり得ると思います。

 幼稚園児をつかまえて、大学で習う内容の学問、例えばシュレジィンガーの
波動方程式を教えても、理解することなど不可能でしょう。ただ、幼稚園を
出て、ずっと大人になったら、大学という学校があり、そこでは難しい学問
を勉強する、という程度の説明をしておくだけで必要にして十分かと思います。

 谷口雅春先生が生長の家を始められたのは、純粋に「神学」の体系を作る
ためではなく、信仰を通じての人類の救済だと思います。これは谷口雅春先生
だけではなくて、釈尊でもキリストでもそうだと思います。それが後年になり
弟子が体系化して学問にしたのでしょうが、教祖自体はそういうことにはほぼ
無関心だったと思います。

 例えば、経営者なら経営の問題で四苦八苦しているでしょうし、家庭不和や
学業不振で悩んでいる人、病気で苦しんでいる人もいます。人生の意義につい
て苦悩している人もいるでしょう。

 そういう人達の救済がメインの目標であって、教学の理論化という点につい
ては二の次であった、という点が言えるのではないか、と思います。

(つづく)

5721トキ:2015/09/21(月) 20:36:06 ID:1YpTHrO6
 あと、よく宗教者の言動の不一致という点が世間から言われますが、これは実際に
活動をしている人間から見たら、驚くに当たらないと考えています。

 例えば、私はヒラの信徒ですが、もし生長の家の講師の試験で、「地獄があるか?」
という質問にイエスと答えたら、落第でしょう。しかし、自殺する直前の人間に対して
「自殺したら地獄へ落ちるぞ!」と脅したことは責められるべきではないと思っていま
す。

 釈尊でもキリストでも、対機説法というテクニックを使います。その場合、理論的な
整合性よりも結果の妥当性が重視されます。もちろん、それに不満を感じる人がいるの
は否定しませんが、私はそれを肯定します。

(つづく)

5722トキ:2015/09/21(月) 20:55:39 ID:1YpTHrO6
 例えば、Dブレーンにしても最近、ようやく証明されたもので、詳細についてはまだ議論の余地があるものだと
思います。実相とは宇宙創造の根源の存在と言えば、現段階ではそれで必要にして十分だと思います。

 純粋教理批判様の仰りたいことを煎じ詰めると、要するに、実相については詳細もわからないし、定義も不可能
なのだから、それを拝むことは意味がないし、危険である、ということかと思います。

 これに対しては、現段階の人間では、そこまでは不可能だし、その必要もない、ということを私は考えます。
人間も科学も、まだ、プリミティブな段階だから、というのがその理由です。

 ただ、神様をネタに戦争をしたり、テロを起こす人間がいます。それはそれで、政治学や宗教学の問題であり
ます。昔、ビタミンBを発見した人が、これだけは戦争に使われないだろう、と思っていたら、後で潜水艦の
乗組員がビタミンBを使って長期の作戦行動を可能にしている、という話を聞いてショックを受けた、という
記事を読んだことがあります。同じことで、信仰ですら、人間のエゴの道具になりえます。しかし、それでも
ビタミンBの存在価値には変わりはありません。それと同じことです。

 要は受け取る人間の側の問題だと思っています。

5723純粋教理批判:2015/09/21(月) 23:22:49 ID:DD4jWV6M
問題は中心化された個人です。自分を世界の中心とみなす中心化された個人、これが問題です。

中心化された個人は自分中心にしか世界をみない。すべては自分の心の影。自分が正しいと信じるものが真説で、そうでないものは虚説。自分中心に真理を理解した気になって、自己満足でしかない言説を周囲にふりまく。問題が起こればなぜそれが起こるのかを深いところまで考えようとはせず、自分が信ずるものを広めさえすればそれですべての問題が解決するとのご託宣。あげくの果てには自分の言葉を真理と思い込んでなんでもありの言いたい放題。おのれの主観にとじこもって客観性はかえりみない。雅春先生までもが人間は世界の中心と説いておられる。

>純粋教理批判様の仰りたいことを煎じ詰めると、要するに、実相については詳細もわからないし、定義も不可能なのだから、それを拝むことは意味がないし、危険である、ということかと思います。

中心化された個人にお灸をすえる。誰かがやらねばならぬことでしょう。

5724純粋教理批判:2015/09/22(火) 08:54:00 ID:DD4jWV6M
>要は受け取る人間の側の問題だと思っています。

問題が生じたとき、なぜそれが起きたのかとは考えない、教理を広めさえすれば問題は解決する、このように考えるのが宗教です。ようするに「ものを考えない人」をつくりだすのが宗教なのです。

宗教のなかでものを考えようとする人と考えようとはしない人との対立が起きたときに、考えようとはしない人をいかにして正当化するか。トキさんがなされたいのは結局こういうことでしょう。

ものを考えない人は自分中心にしかものごとをみることができないでしょう。自分中心にしかものごとを判断できないでしょう。すべては心の影。ものを考えない人はこうやっていともあっさりと自分を中心化してしまえるようです。「受け取る人間の側の問題」ではなく「受け取る人間の側に問題」というべきでしょう。

教理の体系化はなぜ必要なのでしょう。それは中心化された個人の勝手な解釈をなくすためであるのかもしれません。

5725純粋教理批判:2015/09/22(火) 10:00:49 ID:DD4jWV6M
Dブレーンをもちだすと科学的考察の問題がでてまいりますので、これは取り下げます。代わりに持ち出したいのが、プラトンが語ったコーラです(コーラについては以下を参照)。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/cola01.html

実相と現象のあいだに位置するのがコーラです。コーラは生成の場です。実相を現象へと変換する生成の場でもあるようです。コーラはわたしがDブレーンを持ち出して語ったことを裏づけているかのようですが、実際にはDブレーンを超えています。

>コーラという哲学概念のうちに、私たちは神以前のスピリットの活動を感じ取ることができる。

ここでいう「スピリット」を「外部」と置き換えれば、上記の引用は「私たちは実相以前の外部の活動をコーラに感じ取ることができる」と言い換えることができます。これが、わたしがこちらで述べてきたことです。

コーラを感じ取れるかどうか、これが問題です。コーラを感じ取るにあたって必要となるもの、これをわたしは「一回かぎりのカテゴリー」とこちらでは呼んでおります。

5726純粋教理批判:2015/09/22(火) 10:31:04 ID:DD4jWV6M
プラントといえばイデア論ではないのか。

もちろんイデア論ですが、プラトンともあろう人物がイデア論という単純きわまりない思想を信じていたとはとてもおもえませんね。

イデア論は、ヘラクレイトスの生々流転する世界とパルメニデスの永遠不滅の世界の調和をはかるためにプラトンが編み出した思想とされていますが、問題はこれに外部がくわわるかどうかです。外部がくわわらなければこれはただのイデア論です。

5727トンチンカン:2015/09/22(火) 11:03:40 ID:z9V4A.MQ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
スゴイですね!! この『哲学』みたいなもの・・・ (曳馬野ご一統)

『生命の實相』に替わる、「マサノブ教」用≪聖典≫作成の 「下書き」 でしょうか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

5729曳馬野:2015/09/22(火) 11:23:04 ID:JPiKJZkg

>>5727

ここは誌友会版なんだよね。昔の高校生錬成には所謂左翼系の考え方をする高校生も来たのです。そして座談会になるとただ神の子の話がよいとして参加するレベルの信徒では話にならないような質問が出たこともあるのです。つまりあなたの言う又分派の言う虚説に対し話し合いがもたれたのです。

標語専門でなく虚説であるというのであれば、相手に受け入れられる説明が必要なのです。そういう意味であなたの態度は誌友会参加者としてはあまりにひどいと云わざるを得ません。話をするという態度ではないのです。ただ単に≪ダメ≫というイメージの擦り込みに忙しいだけの人間と認めざるを得ません。

5730トキ:2015/09/22(火) 11:24:23 ID:CeKYIz4g
純粋教理批判 様

 ご投稿、ありがとうございます。おっしゃる通り、教義は必要です。
もっとも、教祖がご存命の間は、教義の必要性は低いかもしれません。
しかし、教祖が亡くなられると、結局は教義しか頼るところがなくなります。

 釈尊の場合は、ほぼ口述での伝承でしたが、後年に至り釈尊の教えをまとめる必要があり、それが第1次と
第2次の仏典結集になりました。しかし、それが後年に至り、仏教の分裂の原因になったと言われます。

 キリストの場合は、逆で、何回かの公会議で聖書が淘汰されたことが最近になってわかっています。
その結果、教会の組織は長年統一は守られましたが、実際にキリストが説かれた教えから乖離した内容
になったし、また、異端狩りで多くの人命が失われたのも事実です。

 谷口雅春先生の場合は、ご存命中に著作や講演という形で教えを遺されましたが、それでも現在、分裂に
至っていることは残念なことです。しかし、谷口雅春先生の教えは、基本的な部分には全くブレがありませ
ん。例えば、神想観をしなさい、先祖供養をしなさい、愛行をしなさい、と言った部分には変化はありませ
んし、解釈に違いが出る余地もありません。それ以上に部分の解釈、例えば世界情勢や環境問題については
解釈に対立があります。そこに組織が分裂に至った原因があります。

 おそらく、本流復活派が考えているのは、仏典結集後の分裂した仏教団体のような状態であり、教団が
理想とするのは、公会議後に統一したキリスト教のような存在だと思います。

(つづく)

5731純粋教理批判:2015/09/22(火) 11:58:22 ID:DD4jWV6M
>>5729

たしかにそうですね。誌友会の参加者から教理にかんする疑問が提出されたときに、「生長の家は救済がメインですからそういう疑問には答えないことにしています」では話になりませんよね。

トキさま、いかがでしょうか。

5732トキ:2015/09/22(火) 12:02:57 ID:CeKYIz4g
>>5731

 ご投稿、ありがとうございます。

 例えば、誌友会の参加者から教義に関する質問があったときには、疑問には答えるべきです。
また、私の知る限りは、そういう努力はなされてきたと認識をしています。

5733純粋教理批判:2015/09/22(火) 12:19:26 ID:DD4jWV6M
>例えば、誌友会の参加者から教義に関する質問があったときには、疑問には答えるべきです。
また、私の知る限りは、そういう努力はなされてきたと認識をしています。

こちらの誌友会板でも努力はなされるということですね。

5734トキ:2015/09/22(火) 12:21:09 ID:CeKYIz4g
>>5730

 教祖の想いを考えると、分派というのはさけたいところです。

 ただ、分派が出る余地がないような教義の設定や解釈の強要をすると、行くつく先は
独裁の正当化という世界になるような気がします。しかし、それでも限界はあるでしょう。

 教義の一本化に正当化したキリスト教ですら、プロテスタントやイギリス国教会やギリシャ
正教が生まれています。「個人の勝手な解釈」を撲滅するのは、不可能ではないか、と思って
おります。生長の家も、これから世界規模で拡大すると、国ごとに解釈に相違が出てくるのは
当然に出てくると思います。ましてや、これだけ価値観の多様化した現代では、ファンダメンタル
な部分ではみなさん同じ思考でも、それ以上の部分になり、統一することは無理だと思います。

 その上で、分裂を回避したい、となると、これは組織はファンダメンタルな部分にのみ特化し
それ以上の部分では、「個人の勝手な解釈」を認める、という方向しかないのではないか、と
感じております。

5735トキ:2015/09/22(火) 12:24:48 ID:CeKYIz4g
>>5733

 努力はします。ただ、必ずしも期待できる返答があるとは限りません。

 うのはな様が、ここの管理人は無能だ、という正しい指摘をされています
が、能力の限界はあります。それもかなり低いですよ。

例えば、戦前の生長の家の云々という質問だと、ここではなくて、別の人
への質問のほうが適当かもしれません。

 また、マニアックな内容のやりとりだと、長期に至る場合は場所をかえ
てゆっくりと対話をしたほうが良いかもしれません。

5736トキ:2015/09/22(火) 12:29:01 ID:CeKYIz4g
>>5729

曳馬野様

 私自身は、「虚説」という表現を使ったことはありません。が、教団発表する教義についての
批判をする意見の中には、的確な内容のものがあります。それに教団側がまともな回答をした事
は知りません。

 先日も、某教区で、教団の幹部が現在の総裁の方針の正しさを説明に地域の会合にこられたの
ですが、出席者から矢継ぎ早の質問をされ、右往左往し、ついに、

 「実は、私もよくわからないのです。」

と告白していました。

5737トキ:2015/09/22(火) 12:29:54 ID:CeKYIz4g
>>5736

 ここは、やはり、教団側も「虚説」との批判には、丁寧に説明をするべきだと思います。

5738トキ:2015/09/22(火) 12:56:50 ID:CeKYIz4g
>>5725

 Dブレーンの話題を引っ込めてくださり感謝します。

 何せ、Dブレーンを勉強しようと思ったら、相対性理論や量子力学の勉強からやり直す必要がある
とのことで、純粋教理批判様は頭が良いので簡単に理解できるでしょうが、私は返答がいつできるか
不明な状態だったのです。(笑)

 コーラの話ですが、私もまだ十分に理解をしているとは思いません。ただ、神以前の存在という
のですが、ここに言う「神」とは第2義の神と理解すべきなのかもしれません。第1義の宇宙創造の
神様以前の存在だとしたら、人間が認識ができる存在なのか、どうか、という疑問を感じております。

 しかし、それはそれで、否定するまでの見識を私は持っていないので、一応は肯定したとします。

 このコーラの話とか、あるいはスピリチュアルな世界から、宇宙も、地球も、その構成物である
鉱物や自然も神の表れである、という発想自体は、谷口雅春先生は否定されていなかったと記憶し
ておりますし、私も否定するつもりはありません。が、私は優先順位については、かなり強く主張
します。おそらく、谷口雅春先生もその点は否定されないのではないか、と勝手に考えております。

 例えば、人間でも、法律ではどの人間も同じ価値を持つとされています。しかし、主観的には、自分
の親兄弟と赤の他人では、同じ人間でも、重さは当然違います。生物でも、人間と人間以外の生物は、
スピリチュアルな観点では同等かもしれませんが、人間の視点からは当然に違います。いや、それは
間違っている、という反論はあるかもしれませんが、そうなると、もう、元禄時代の「生類憐みの令」
の世界になります。そういう世界に普通の人は住みたいとは思わないでしょう。

 生長の家の信仰は、あくまでも普通の市民生活をしている人間の生活を対象にすべきだと思います。

 確かにスピリチュアルな世界観を徹底したら、私の考えは否定されるべきなのでしょう。しかし
人類はまだプリミティブな段階というべきで、そんな高尚な段階にはまだ至っていないです。法律に
詳しい人に尋ねると、動物と人間を救助するべき場面で動物を救い、人間を見殺しにすると、現在の
刑法では殺人や遺棄罪などの犯罪になるそうです。もちろん、純粋教理批判様がそういう主義でこれ
から生活をする、というのなら、それは純粋教理批判様の自由ですから、止めませんが、おそらくは
他の人の共感は呼ばないでしょう。

 ただ、無制限な環境破壊などは肯定されないのは当然で、それはそれで、スピリチュアルな世界観
やコーラの話で正当化されるとも思っています。

5739純粋教理批判:2015/09/22(火) 13:56:13 ID:DD4jWV6M
トキさま

>ここは、やはり、教団側も「虚説」との批判には、丁寧に説明をするべきだと思います。

教団は何が虚説だと批判されているのですか。

5740純粋教理批判:2015/09/22(火) 14:12:02 ID:DD4jWV6M
>純粋教理批判様がそういう主義でこれから生活をする、というのなら、

「そういう主義」とは何でしょうか。わたしの主義をあえていうなら「人類ほんらいの能力をとりもどす」という主義です。あらためてたずねますがわたしがどこで「そういう主義」を語っておりますでしょうか。

それと第一義、第二義といった型にはまった応答は避けるべきでしょう。コーラはこのような単純な話で片づけられる問題ではないと考えております。生長の家の人は決まりきった型にどうしても思考を閉じ込めてしまいますよねえ、

5741純粋教理批判:2015/09/22(火) 14:14:25 ID:DD4jWV6M
「個人の勝手な解釈」が「この教えを広めさえすればすべての問題が解決する」や「この教えにしたがわない考え方は虚説である」となったときに、解釈は原理主義とみまがうばかりの危険思想に近づく可能性があるのではないでしょうか。

ユダヤ教のタルムードをご存じでしょうか。これは解釈だけで成り立っているような経典のようなものだろうと推測いたしますが、いつの時代にあっても対立するふたつの解釈があって激しい議論のやりとりがおこなわれるようです。やりとりの様子は両論併記という形でタルムードにつぎつぎと書き込まれていくものであるようです。

解釈とはいっても「個人の勝手な解釈」が許されるわけではなく、解釈の仕方に一定のルールがあり、それをまもることで「終わりなきやりとり」が可能となるようです。ようするに、やりとりを継続するための知恵があるということです。生長の家にそのような知恵があるでしょうか。個人の勝手な解釈による議論を継続できるような知恵が、生長の家にあるでしょうか。歯止めなき解釈、知恵なき解釈、議論なき解釈は解釈の暴走をまねくだけです。

議論ができるかどうか、これが問題とおもわれますが、現状をみるかぎりそれは不可能といわざるをえません。反証不可能な超越項の乱用はつつしむ。説明責任を果たす。議論を継続するためのこれは最低限のルールであるとおもわれます(説明責任をきれいごとで放棄し、反証不可能な超越項による反論しかできない人がいましたよね)。

5742純粋教理批判:2015/09/22(火) 14:18:37 ID:DD4jWV6M
Dブレーンにかんして、わたしはど素人ですからトキさんに勉強していただいて教えていただくつもりです。

5743曳馬野:2015/09/22(火) 14:52:11 ID:JPiKJZkg

>>5738 .>宇宙も、地球も、その構成物である鉱物や自然も神の表れである、という 『発想自体』 は、谷口雅春先生は否定されていなかったと記憶しておりますし、私も否定するつもりはありません。が、私は 『優先順位』 については、かなり強く主張します。おそらく、谷口雅春先生もその点は否定されないのではないか、と勝手に考えております。

確かに 『スピリチュアルな世界観を徹底したら、私の考えは否定されるべきなのでしょう』。 しかし 『人類はまだプリミティブな段階というべき』 で、そんな 『高尚な段階には』 まだ至っていないです。 『   』は私が付けました。


●「発想自体」ですか?実相の大地に降り立ったのだ、と言われているのです。存在の実相を観た上での立教ということになります。この「実相」なる言葉が何を指しているかは、至った人しか解りません。『優先順位』という見方は、この世の森羅万象が分離したものとして存在している、との六識の「差別智」からの見方であり、八識と云われる「実相智」からのものでないと思います。その実相智に至るための行事として「神想観」はあるのではありませんか?色々聖典を読むことは良いけれど、いよいよというところは神想観によらなければならない、と説かれていませんでしたか。トキさんは神想観により究極の存在に至りその上で、この肉体人間がこの世界の経綸の主催者と云われるのですか?

人類は原始と呼ぶべき精神発達段階であり、『高尚な段階には』 まだ至っていないです。これも上の説明と同じで現象を差別智から見たものではありませんか?「人間神の子」「無限の智慧徳相を具す」との生長の家に外れていませんか?

現象のお蔭を与えるべく真理の話をするのは、火のついた家の中で遊びに夢中になる子供を外に連れ出すための方便であると、法華経の喩えを引いて説かれたのではないですか?「すべては与えてある」との世界の体験こそが一番でしょ。然るにお蔭を与えようとしないのは救済の否定だぐらいの感想が在るのは如何なものでしょうか。「神想観」により到る世界の体得が生長の家の目的でないですか?これこそが生長の家の救済でしょう。私も本当には知りませんが、その世界にたどり着いたという人に遇いたいものです。そんな人であれば今の状態を解決するのは容易いものと考えます。

到らない人(こんな日本語にも真理が見えます)同士で話をするのは夢の中で喧嘩していると夢見ているのと同じことでないのでしょうか。このトキさんの言葉には私が思っている生長の家とは大分違うものを感じます。

5744純粋教理批判:2015/09/22(火) 16:43:16 ID:DD4jWV6M
リンクを貼ったさきが間違っていたのか、話がスピリチュアルの方向に向かってしまいました。スピリチュアルにはまったく関心がないので、とりあえず話の矛先をかえていただきましょう

コーラとは生成の場であるとともに外部への通路がひらかれた場所です。Dブレーンをコーラに、ホログラムをドリーミング(夢見)に置き換えていただければ話は通じるはずです。

Dブレーンをコーラに置き換えたことで、直観的にも、体験的にも、想像的にも話せるようになったはずです。生成の仕組みについてはすでに述べたとおりです。

5745純粋教理批判:2015/09/22(火) 16:59:28 ID:DD4jWV6M
個人の勝手な解釈どうしのひらかれた議論。ひらかれた生長の家実現のためにこれを実現しましょう。ルールは、説明責任を果たす、反証不可能な超越項の乱用はつつしむ、これでいいでしょう。

誌友会参加者として質問させていただきます。

「すべては心の影」とはどういうことをいっているのでしょう。

そもそも心とは何なのでしょう。

以上ふたつの質問に答えていただけることを期待いたします。

5746トキ:2015/09/22(火) 17:52:28 ID:CeKYIz4g
 ご投稿、ありがとうございます。いくつもご投稿やご質問を頂戴したので、どれから返答を
したらよいやら、と思案しています。極力、説明をいたしますが、宗教の説明は科学の分野と
異なり、最終的には、「信じるか、信じないか」の世界になるので、ご期待にそえない可能性
が高いのであらかじめお許しください。

 まずは、5745から自分の意見を申し上げます。

 生長の家の世界観は、唯神実相論という考えから出発をしています。

 平たく言うと、この世界で実在するものは神のみであり、ビッグバン以後に誕生した世界は
あくまでも全てバーチャルな世界だという発想です。この発想は古代ギリシャ時代にも存在し
たという話は聞いた事がありますし、最近の死海文書などの研究から原始キリスト教もほぼ
同じ発想をしていたと読んだ記憶があります。

 その意味では、谷口雅春先生の発想ですが、歴史上、他の宗教家も言っていたとは言えるで
しょう。これは生長の家の発想ですが、神様の啓示と考えたら、共通するのは当然だと言える
でしょう。

 さて、バーチャルな存在だとしたら、人間を含めて、全ての存在が仮想の存在という事に
なってしまいます。当然、本来なら「心」もない、ということになります。しかし、論理的
には、バーチャルな世界でも、そのバーチャル自体は神様のある種の意思の反映ですから、
神様とは全く無関係ではありません。

 聖書には、神様は人間を造られた時に、「はなはだ善かりき」と言われたとあります。
その意味では、神の最高の自己実現である、という事になります。同時に、神は人間に
自由な意思も与えた、と書かれています。

 余談ですが、よく小説家や漫画家が、作品を書いていると、登場人物が勝手に動きだす
と言います。それに近い状態ではないかと思います。

 バーチャルな世界とはいえ、そこに神様の意思が反映している以上、人間は神の最高の自己実現
である、という論理が成り立ちます。同時に、そこにある意思は、神の意思がそのまま反映したもの
ではない以上、ある種、独立した意思が成り立ちうる事になります。

 これを、仮に「心」と命名します。

(つづく)

5747トキ:2015/09/22(火) 18:10:45 ID:CeKYIz4g
 この「心」は、神様のご意思とは密接な関連がある以上は、心の動きとバーチャルな仮想世界
とも密接な関係があります。生長の家では、このバーチャルな仮想世界を「現象」の世界と言います。

 神がそのバーチャルな世界上にある人間の意思に自由を与えた以上は、直接には、神が人間
を操り人形のように動かすことは、しない、ということになります。が、結果は密接に「現象」
の世界に反映することになります。

 環境は心の影、というのは、この密接な連動を指します。

 以上は生長の家の発想を一般の人向きに咀嚼した(つもり)です。

 では、この以上の理論を検証することは可能か、というと、一般論としては
不可能です。ただし、個々の人間が、それを信じる、信じないかを決めるため
に検証をすることは、可能です。以上の理論については、谷口雅春先生が膨大
な書物に書かれているので、それを読んで、自分が実践し、それで自分の生活
や仕事が良い方向へと変化したなら、それは信じる契機となる、というもので
す。それで、多くの人が実践し、生活が向上したり、その他、納得ができる結果
が出たので、信じている、ということです。

 悪い言い方をすると、英語で、Take it, or leave it.という考えがあります。
信じるか、信じないか、という世界になってしまいます。

 演繹的なアプローチでは検証は不可能。実践するしかない、というもので
す。その意味では、残念ながら、ご期待にそえない結論になってしまいまし
た。

5748曳馬野:2015/09/22(火) 18:12:05 ID:JPiKJZkg
純粋教理批判さんの意味する「スピリチュアル」「反証不可能な超越項」とはどのような事を指しますか?

私のような禅と生長の家しか知らないものにはカタカナを使っての話が分かりにくいのです。

意識に上った風光に対して日本語であれば「心象」の言葉で用足りると思うのですが。ホログラムとかドリーミングの言葉を使われますと日本語でさえ人によって汲み取る意味が変わっていることが度々ですので、カタカナは先にこのような意味で使うと定義出来れば話は進むと思いますが、『現象』の定義ひとつでも難しいものになると思いますよ。

心にしても「私がいると認識する心」と「本来の心」と二通りに生長の家では説きますよね、禅では意識になる前の対象物に同化しているものを本心とし、その一瞬後に出来事に意味づけした状態の「念」に変化したものを心の変成作用としているようです。

ですから「心とは何なのでしょうか」?と問われましても、説明はできても、本心の方は禅で言えば究極の存在そのものとされていますので、言葉の世界では決して理解不能ということになります。

「すべては心の影」とはどういうことをいっているのでしょう。にしても説明としては心に応じて二通りに説明はできますが、本心の働きにより出来上がった世界は心を極めた人にしか納得できないと思われます。

『不立文字教外別伝』と云われる存在の根源を言葉で知ろうとすることがそもそもの間違いであろうと考えます。禅では自分の本来の姿を知ることを持って悟りとするようですが、考えで知るのでなく、自分というものが存在し生きているという意識が抜けなければ達することはできないようです。ですから今の私は、自分という限られた意識体があるとしたうえでの話は、全て本質に行き着くとは考えていません。

5749トキ:2015/09/22(火) 18:18:21 ID:CeKYIz4g
>>5741

 私はタルムードについては詳細は知りませんが、その内容はかなり生活に密接に関連したものだ
という印象を受けています。それと、ユダヤ教のラビも基本的には、普通の仕事をしながら信仰の
活動をするとも聞いています。(まちがいだったらゴメンなさい。)

 その意味では、生長の家とも近い存在ではないかと思います。その意味は、世俗から独立した
存在になる事による危険性への対応だと思います。

 過去、生長の家がかかえていた、または現在かかえている問題は、組織が大きくなり、その
中で、官僚化や形式化が進んだことにあると感じています。

 信仰の暴走、ということよりも、自分は活動や組織の暴走、という印象を受けています。
それは、かなり世俗的な部分もあります。活動や組織の暴走を防止することは、組織内の
システムを改善することで十分に可能です。

5750トキ:2015/09/22(火) 18:45:18 ID:CeKYIz4g
>>5742

 Dブレインについては、難しいので私も四苦八苦しています。
まあ、何年か先にはわかるかもしれません(笑)。

5751純粋教理批判:2015/09/22(火) 18:48:38 ID:DD4jWV6M
>純粋教理批判さんの意味する「スピリチュアル」「反証不可能な超越項」とはどのような事を指しますか?

まずは「反証不可能な超越項」とは「神が完全なる実相世界をつくった」といったような表現です。このようなことをいわれても反論のしようがない。実相世界が創造される様子を多少なりともイメージできるような表現をしてもらわなければ反論のしようがないということです。

「スピリチュアル」にかんしてはわたしもよくわかりません。世間ではふつうに使われているようです。かつてブログでスピリチュアルにかんしての質問をうけたことがありますが、答えられないので適当にごまかしました。

ところでドリーミングですが、これは北米やオーストラリアの先住民が用いている言葉のようです(ちょくせつ聞いたことはありません)。世界はある何者かが夢見ることでつくられているとする考え方、これがドリーミングです。

ドリーミングとは世界はある何者かの夢の中の出来事であるとする考え方ですが、こうした考え方がDブレーンのところで説明した「70億の人類に70億の宇宙あり(70億の人類が70億の夢をみている)」とちょうど符合するので、ホログラムの使用はやめてドリーミングの用語に置き換えました。

ドリーミングは心理学者のアーノルド・ミンデルがいたるところで用いておりますので、詳しくはこちらを参照してください。こちらの掲示板ではドリーミングという言葉が何度も用いられているようなので意味の説明ははぶいたという次第です。トキさんも聞かれたことがあるはずです。

「すべては心の影とはどういうことをいうのか」はこちらの板で「すべては心の影」と言い続けている一信徒にたずねたものです。「個人の勝手な解釈どうしのひらかれた議論」としてたずねたものです。

この方は「心の影」を乱発しておられるようなので、どういう意味でそれを使っておられるのか、まずは確認する必要があったというわけです。トキさんに答えていただいてももちろんかまいません。

5752トキ:2015/09/22(火) 18:54:43 ID:CeKYIz4g
>>5748

 純粋教理批判様が言いたいのは、議論に負けそうになると、神様とか真理とかいう実証
不可能な事柄を持ち出して、議論を打ち切るのは卑怯だ、ということなのでしょう。

 私もある部分ではその考えに共鳴しますが、宗教の場合、最終的には「信じるか、信じないか」
という結論になってしまうので、難しい点でもあります。

 それでも議論をするのは、何かの結論をだす、というよりも、それを読んだ人が自分の
宗教観や信仰のあり方の参考にするための資料として有益である、ということでしょう。

 ところで、純粋教理批判様が生長の家について、いくつかの批判を書かれています。
生長の家の信仰に限らず、宗教団体がある個人を傷つける言動をする場合はないとは限り
ません。生長の家では、愛と知恵との十字架で、と言います。

 知恵が足りないか、愛が足りないか、またはその両方が足りないかで、意図しなくても
誰かを傷つける場合はあります。

 それはそれで、私も一人の信仰者としては、謙虚に反省すべきだとは思います。

5753純粋教理批判:2015/09/22(火) 19:11:45 ID:DD4jWV6M
トキさま

わたしが「心の影とは何か」を問題にするのは、人類が心をもったのはたかだか二千年以前と考えられているからです。ではそれ以前はどうだったのか。「人類には心がある」といっても人類の歴史から考えればそれは一瞬のこと。「自由なる意思をあたえた」といってもそれも一瞬のこと。人類の歴史の中でいきなり心があらわれて、それから「すべては心の影」の時代がはじまったということなのでしょうか。

すべては心の影。これは現代人のおごりではないかとおもわれる次第です。

5754純粋教理批判:2015/09/22(火) 19:20:26 ID:DD4jWV6M
UFOが存在するかしないかも信じるか信じないかの問題ですが、UFOを実際にみた人はそのときの様子をくわしく説明できるはずです。宗教が詳しい説明をしないというのは、信じる信じないとはべつの問題のような気がします。

5755曳馬野:2015/09/22(火) 20:53:25 ID:JPiKJZkg
>>「実相世界が創造される様子を多少なりともイメージできるような表現をしてもらわなければ反論のしようがないということです。」


理想的な良いものばかりの世界という説きかたが生長の家でされますが、禅ではあるままの姿をして実相としているように思われます。因縁の法で物事が出来上がっているので、善悪の判断以前の物事そのものを実相と云っているようです。

この意味では実相の意味する物が違っているようです。五官に触れた瞬間には其の儘のものに触れているのを、一瞬の後に念のオブラートで隠したものを認識作用の上で理解している、そんな意味では「70億の人類に70億の宇宙あり(70億の人類が70億の夢をみている)」と言えると思います。

「心の影」と云うのも同じ現実はある一瞬においては世界中唯一つであるけれども、一瞬後には各人夫々の念のレンズを通して意味づけしたものとして認識しているのです。物事があるというけれど、ある瞬間の結果としての生成流動そのものでないでしょうか。記憶の中にのみ物事は存在するもので、前後裁断された善悪などの判断の入る余地のないものみたいです。ですから心の影と云いましても心によって作り出されたものという意味と、心によってそのように認識しているという二つの意味があると思います。

「人は自分と同じものを相手に見出す。あらゆる場合において、人は相手そのものを見るのではない。自分の心を相手と云う鏡に映してみるのである。」と言われているのですが、お前の環境はお前の所為だというように責任の所在を知らすための真理ではなく、環境を見ていろいろ感じるのはそのように感じる心を持っているのだから、嫌な奴などと感じるその心を考え直せ、という意味でしょう。

教団の在り様を見れば総裁の心が分かるなんて言う意味での心の影というものではないでしょう。でないと継母にひどい扱いを受け長じても心の傷云えず悲しむべき運命に泣いている人の個人指導に、それでさえ感謝できるものを探して感謝しなさい、ということができ感謝の結果よき状態になったというがごときは説明できません。感謝の心少なき結果としてそのようになっているのであって、継母の心が冷たいのではないということを表す真理として説かれているのでしょう。

しかしこれはどちらからもいえる真理ではあります、裁きの為の真理ではないということですね。

5756トキ:2015/09/22(火) 21:10:02 ID:PeyOW5Zk
>>5753

純粋教理批判様

 すみません、出先からパソコンを借りて書いています。

 生長の家の現役の会員が言及するのは不適当かもしれませんが、かって生長の家の本部講師で、
後年、高橋信次さんの教団に移籍し、その後、独自の教団を立てた園頭さんが、心の法則につい
て疑問を感じたことを書いています。園頭さんがその事を高橋さんに質問をすると、高橋さんに
キリストの霊が乗り移り(まあ、このあたりは本当かどうかは不明ですが)

 『愛の心のない人に心の法則を教えてはいけません」

と返答をしたそうです。実は、どこだか忘れましたが、谷口雅春先生も同じ趣旨のことを書かれて
いたのも憶えています。

 心の法則というのは、もともと、自分が反省し、進歩向上するために教えられたものですが、
それを中には、自分が他人を裁くために使う人もいる、ということでしょう。

 あと、人類が登場する前の地球はどうだったのか、というと、それは同じ事だったのではないで
しょうか。

 スピリチュアルな説明になってすみませんが、いろいろな本を調べてみると、有名なモンロー
研究所について書かれた「死後体験 3」という本に、人間はマイクロコスモス、つまり小宇宙
である、という説明がされていました。人体を更正する細胞まで意思を持っている、という説明
をしていました。それが分子や原始、さらにヒモまで言っても意思がある、という説明です。

 これも現象のレベルの話ですが、宇宙意思が細胞や分子のレベルまでも存在すると考えるのな
ら、心の影が連動するのも不思議ではない、と考えることは可能です。

5758純粋教理批判:2015/09/22(火) 23:57:21 ID:DD4jWV6M
>この意味では実相の意味する物が違っているようです。五官に触れた瞬間には其の儘のものに触れているのを、一瞬の後に念のオブラートで隠したものを認識作用の上で理解している、そんな意味では「70億の人類に70億の宇宙あり(70億の人類が70億の夢をみている)」と言えると思います。

生長の家では五官を迷いであるかのごとく説きますが、五官はたしかに実相なのです。五官によって得た情報のようなものを何らかの方法で変換することで人間はそれをドリーミング(ホログラム映像)として翻訳しているはずなのですね。

夢(現象)は映像です。映像に力の入り込む余地はありません。映像で力を伝えることはできない、と言い換えることもできるでしょう。映像の世界を生きていながら、それでも人間は五官によって力を感じています。したがってその力は映像以前のもの、つまりは現象以前のものと考えるより他はないと考えます。

>「人は自分と同じものを相手に見出す。あらゆる場合において、人は相手そのものを見るのではない。自分の心を相手と云う鏡に映してみるのである。」と言われているのですが、お前の環境はお前の所為だというように責任の所在を知らすための真理ではなく、環境を見ていろいろ感じるのはそのように感じる心を持っているのだから、嫌な奴などと感じるその心を考え直せ、という意味でしょう。

自分のなかにあるものを相手にみいだすことを心理学では投影といいますね。相手にたいする敵意があるとき、本当は自分の中にあるはずのものなのに相手が自分に敵意をもっていると思い込んでしまう現象が投影ですが、生長の家で説く「心の影」は投影についていっているのかとずっと疑問におもっておりました。その可能性もあるということを理解いたしました。

ただ心理学者のミンデルは(ミンデルはMITで量子力学を専攻していました)、投影にも量子力学的な背景があることを示唆しており、投影としての「心の影」にもなんらかの物理的実体がある可能性が残るのではないかと考えます。このあたりはトキさんの研究を待つしかありません。

5759純粋教理批判:2015/09/23(水) 00:29:01 ID:DD4jWV6M
>聖書には、神様は人間を造られた時に、「はなはだ善かりき」と言われたとあります。
その意味では、神の最高の自己実現である、という事になります。同時に、神は人間に
自由な意思も与えた、と書かれています。

自由とはなにかが問題ですね。スピノザは神一元の世界を思い描いていたといいますが、自由というものがどうしても説明できなかったようです。なぜかといえば一元論は決定論だからです。一元論ははじめから結末がどうなるかが決められている決定論だからです。

神一元の世界観では神と対立するものは存在しません。これはいってみれば一人でゲームをやっているようなものですから予想外の展開というものがありません。予想外の展開にもちこもうとおもったところで、それも自分がやるわけですから予想外といえるはずがありません。

すべてが予想の範囲内でゲームがすすめられて最終的な決着をみる。これが一元論です。自由というものがどこにある。スピノザはこの問題で悩みつづけ結論をだすことはついにできなかったようです。

自由とはなんでしょう。一元論が決定論であることを認めること。この苦渋の決断こそが人間にあたえられた唯一の自由という気がいたします。

5760純粋教理批判:2015/09/23(水) 12:56:00 ID:DD4jWV6M
実相にもいろいろある。

「物質はない」ということはいえるでしょう。しかしたとえば行く手に電信柱があるのに「電信柱はないんだ」とそのまままっすぐ歩いていけばぶつかって痛いおもいをします。電信柱はないはずなのになぜぶつかるのかといえばそこに力が働いているからです。

電信柱にぶつかった瞬間、それは力を感じた瞬間でもあるわけですが、この一瞬、人は実相世界にいるともいえる。しかしそのすぐあとに「痛い」とか「こんちくしょう」とかの思いが湧いてきて人はたちまちにして現象の世界にひきずりこまれる。

こういうことが起きているとすれば力はそれじたいが実相ともいえるが、人間が解釈や判断をくわえた途端に力は現象へと落ち込んでいく。力は実相でもあれば現象でもある。しかしここでいう実相とは「究極の実相」ではないということだけはいえる。

「それがある」、「それがただある」、これが究極の実相です。究極の実相を想像するのはそれほどむつかしくはない。宇宙のなかに自分一人だけがいると想像できれば、これが究極の実相です。

自分以外には何もない。もちろん自分もない。自分という感覚は他人があればこそであって、他人がいなければ自分という感覚もない。ただそこにあるだけ。まわりには何もない。
いや、まわりというものさえない。それがある。ただそれがある。

実相独在とはこういう意味です。ほかに何もない。「ほか」という観念もない。ほんとうになにもない。「ない」ということもない。「ただあるだけ」としかいいようがない。これが究極の実相です。

5761純粋教理批判:2015/09/23(水) 13:20:16 ID:DD4jWV6M
究極の実相を活性化させたのが外部です。外部が内部に侵入した。外部に侵入された実相は収縮を余儀なくされた。実相は内部のさらなる内部へのひきこもりを開始した。実相は他者との関係をもったことでこのときはじめて「自分」の感覚をもった。

心とはなんでしょう。言葉と情動がまざりあったもの、これが心です。かつての人類は言葉と情動が分離されていたために心をもてなかった。何千年かまえに言葉と情動がまざりあったことで人類ははじめて心をもつことができた。

心はしかし心を体験することはできない。心を体験しているものはべつにいる。心はほんとうの自分ではない。心を体験しているほんとうの自分がべつにいる。

心を体験しているもの、それが内部のさらなる内部へとひきこもった究極の実相です。心を体験している究極の実相こそがほんとうの自分です。「赤肉団上に一無位の真人」と臨済が呼んだ一無位の真人こそが究極の実相でありほんとうの自分です(このあたり、正統の解釈とはズレている可能性あり。正統の解釈があればの話ですが、存じておりません)。

わたしのいう一無位の真人はただみているだけです。心の中の出来事をただみているだけ。人は誰もが一無位の真人として世界をみている。このことだけはいえる。しかし多くの人はそのことを自覚できずにいる。

自分のなかの一無位の真人を自覚するには自分をべつの場所に置く必要がある。外部とつながった場所におく必要がある。外部とつながった場所に自分をおいたとき、人は一無位の真人を感じられるようになる。究極の実相を感じることができるのは外部だけだからです。

5762神の子さん:2015/09/23(水) 14:21:29 ID:???
臨済は言った。


「この赤肉団上(肉体のこと)に一無位の真人がいて、常にお前たちの面門を出たり入ったりしている。まだこの真人を見届けていない者はさあ看よ! さあ看よ」


 この言葉を聞くと、修行僧たちは、悟りに到達すると、自由闊達な真正の自分、つまり一無位の真人(そういった意識)が体を自由に出入りし、あらゆる差別を超越した大自由、大自在の境地になれるものだと思わない者はいないだろう。宗教学者や禅僧たちまでが、知ったかぶりして一無位の真人を真摯に解説している者もいる。

 しかし、これは悟りに到達して得意げになっている臨済の、上から目線の最もらしく作った造語で、よく先行した者があとに続くものに優越感を持って幻惑するようなヒントを与えたりする心境と酷似している。


 たぶん本来の自己を、臨済一流の言い回しで飛躍して言ったものと思われるが、真に親切心があるならば一無位の真人なんてまぎらわしい言い方はすべきではないと思う。聞いた者はよけい混乱するだろう。


 釈迦以降、悟りに到達した者は沢山いるが、だれ一人として一無位の真人なんて言葉はおろか、それに類似したような言葉を述べたものはいない。


 わたしは臨済と同じ禅の奥儀に到達したが、もし、わたしが臨済と同じように修行僧たちにヒントを与えるとしたら、やはり上から目線で宇宙の一握を実感せよ、とでも言うだろうか。すると修行僧たちは、悟りに到達すると、宇宙を一握できるぐらいの壮大な心境に浸れるぐらいに思うのではないだろうか。しかし、これは、わたしが最もらしく作った、悟りとは何の関連もない造語である。先行した者はどうしても上から目線になりやすいものである。しかし、そういった態度は人間として間違っているのである。


 べつに悟りに到達しても、宇宙を一握できるような壮大な心境になれるわけではない。しかし、悟りの何たるかを知らない修行僧たちは、ひょっとすれば金科玉条のように宇宙の一握にこだわってしまうかも知れない。もっとも融通無碍の法をもってすれば宇宙を一握できぬこともないが、それは芥子粒に須弥山を閉じ込めるのとおなじような、「法」の世界での話であって現実味は乏しい話である。


 だから、禅を学ぶ人たちは、いかにも最もらしい一無位の真人なんて造語に惑わされぬことである。何回もいうが、一無位の真人なんてものは、悟りとは何の関連もない、臨済が上から目線で、言い得て妙に作った造語でしかない。

 北宗禅の臥輪禅師の偈に

 伎倆あり、よく百思想を断ず。境に対して心起こらず、菩提は日々に長ず。(わたしには巧みな技能があって、百種の妄想を断ち切ることができる。対象に向かっても心は動かず、悟りへの道は日に日に成長している)


 というのがあるが、この偈を聞いた六祖慧能は次のような偈を示して、臥輪禅師の誤りを暗に指摘した。


 伎倆なしに、百思想を断ぜず、境に対して心しばしば起こる。菩提なんぞ長ぜん。(わたしには巧みな技能などない。百種の妄想を断ち切りもしない。対象に向かって心はそのつど動く。悟りへの道がどうして成長しようか)


 禅の奥儀を極めたわたしには、慧能の偈こそ真実とわかる。もし臨済の時代に慧能が生存していたならきっとこういうだろう。

「わたしには、一無位の真人なんてものは、影も形も見えない」

5763純粋教理批判:2015/09/23(水) 15:11:38 ID:DD4jWV6M
たしかに「一無位の真人」の表現をもちいはしましたが、それがなんであるかは理論的に説明したはずです。「内部の内部へと収縮した究極の実相」と説明したはずです。

そのときの様子をより詳しく理論化せよ、と言われても無理ですね。「一無位の真人」という言葉を用いたためにわたしが禅の悟りについて語っているとおもわれたのかもしれませんが、わたしがやろうとしているのは真理を理論化することです。

「一無位の真人」をもちいたのは、この掲示板にきている人たちが宗教関係者だからです。宗教関係者にこの言葉は有効であろう、と考えたからです。「生長の家の用語をもちいて説明せよ」との注文をつけられることもあります。

宗教関係者でなければ、わたしは「主体」という言葉をもちいたでしょう。ふつうの人たちが相手であれば「主体」という言葉をもちいて事態を説明したでしょう。もちろん「究極の実相」という言葉をもちいることもありません。

5764純粋教理批判:2015/09/23(水) 15:24:52 ID:DD4jWV6M
「一無位の真人が出入りしている」というのはわたしにはわかりません。これは理論化することができません。「正統の解釈とのズレ」といったのは、この意味です。

5765曳馬野:2015/09/23(水) 17:56:50 ID:JPiKJZkg

東都之市有大隱  飽来眠兮覺来嚬

不作善又不作惡  不拘舊又不拘新

生來無名併無姓  人呼之無位眞人

咄是眞人何奇怪  三百六旬氣如春


これは明治のある居士が詠んだものです。その人物に対し西有穆山は「彼の如き境涯に達するには、一生二生の修行では出来るものに非ずと驚嘆していた」と弟子の秋野孝道はいう。その西有穆山の弟子に丘 宗潭がい、秋野孝道、丘 宗潭から原田 祖岳が出ている。原田 祖岳から安谷 白雲がでつぎに山田耕雲がいる。彼の「禅の正門」の中に岩崎財閥のある24,5のお嬢さんが多分結核であろうが、病い重くまもなく死に至るという一月ほどの内に見性のみならず大悟したことが載っている。

また「彼は凡人ではない、吾等の遠く及ばぬところがある」と由理滴水天龍寺管長が云ったと孫弟子の天龍寺管長をした關精拙は云う。その次に関牧翁が出、次に大森曹玄、平田精耕、荒金天倫がいる。

『曹源一滴』という言葉がある。六祖慧能禅師によって大成し、臨済、雲門、洞山、潙山、法眼という禅匠たちによって、臨済宗、雲門宗、曹洞宗、潙仰宗、法眼宗の五家と、これに臨済宗の二派、楊岐派と黄龍派を加えて五家七宗に分化し日本に伝来した禅の法流です。先の詠を歌った人を明治大正の日本禅界を背負った方々が褒め讃えるのか、『曹源一滴』の慧能の悟りを継いでいるからに他ならない。その人間が「人呼之無位眞人」と云い「咄是眞人何奇怪  三百六旬氣如春」と謳う。「釈迦以降、悟りに到達した者は沢山いるが、だれ一人として一無位の真人なんて言葉はおろか、それに類似したような言葉を述べたものはいない。」が如何に戯言か知られるものである。臨済と同じ悟りに達したとは?

5766曳馬野:2015/09/23(水) 18:18:36 ID:JPiKJZkg

>>5762さん

何処から引用されたか知りませんが、禅の悟りには決して至っていない人のものと思います。単に言葉としての引用であれば意味がないと思いますよ、あなたが理解した上で同じく「一無位の眞人」を否定するのであればよろしいでんが。

臨済宗、曹洞宗の両宗の老師方が共に吾等の遠く及ばぬところがあると断言した人間の言葉を否定できるのであれば、述べて頂きたい。

5767曳馬野:2015/09/23(水) 20:27:52 ID:JPiKJZkg
中庸に「致中和、天地位焉、万物育焉」とあります。そこの前の所を雅春先生はよく引用して

「喜怒哀楽の未だ発せざる之を中と謂ひ、発して皆節に中る之を和と謂ふ。中は天下の大本なり、和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し万物育す。」と言われていた。

ここの天地位焉、万物育焉を指して無位の眞人と云うのでしょう。天地万物に実相生命が宿り生かす、その大生命を指して無位の眞人と、立ち位置のない様のを表現する言葉です。

5768純粋教理批判:2015/09/24(木) 00:41:15 ID:DD4jWV6M
対話の相手があらわれずに間延びしているようなので書き込ませていただきます。

「主体」という言葉をもちいた以上、「主体とはなにか」の説明が必要でしょう。ふつう一般に心といわれているものを、わたしは意識、自我、主体の三つ組にわけて考えています。

主体とは「それがただある」が主体生成の過程をへて誕生したものです。この過程は、「それがただある」の収縮と言語的世界の誕生によって説明されますが、くわしいことはわかりません。

「それがただある」をとりあえずはエスと名づけましょう。主体生成はエスが主体として活動できる場の生成によって成し遂げられますが、場の生成にあたって主導的な役割を果たしたのが言語であったと考えられます。

人類が主体という概念にはじめて出会ったのはおそらくデカルトの「われおもう、ゆえにわれあり」ではなかったでしょうか。デカルト的主体はコギトと呼ばれ、現代の思想界や言論界においてはあまり評判がよくありません。

そんな中にあってコギトを高く持ち上げるのが、あのひねくれもののラカン派哲学者スラヴォイ・ジジェクです。ジジェクはデカルトがコギトをみいだすに至ったときの思索の内容よりも、そのときの「身ぶり」を問題にします。

デカルトがコギトをみいだしたのはある冬の寒い一日でした。寒さを避けるためにデカルトは日がな一日暖炉部屋にひきこもったのです。このひきこもりの身ぶりこそがコギトであるとジジェクは言います。

主体はひきこもることで主体となった。ジジェクがいいたいのはこういうことでしょう。エスもまた内部の内部へとひきこもることで主体生成の場と出会い主体となったのです。
ジジェクのコギトはエスとおそらくおなじものなのでしょう。

ジジェクは「主体は空無である」といいます。エスも空無です。しかしジジェクはこれにつけくわえて、主体は狂気のさなかにあるともいいます。ジジェクが正しければエスもまた狂気のさなかにあることになります。エスはいまだに救われていない。そういうことのようです。

「一無位の真人こそが究極の実相でありほんとうの自分です」などと光明思想を気取ろうといたしましたが、さっそくクレームが入ってまいりました。なれぬことはせぬほうがよいということでしょう。

5769純粋教理批判:2015/09/24(木) 00:50:17 ID:DD4jWV6M
主体を中心化した個人として批判するのがポスト構造主義です。ポスト構造主義は主体を言葉に支配されたあやつり人形とみなします、言葉の効果そのものとみなします。何を言ったところでそれは言葉によって言わされたにすぎない。何をなしたところでそれは言葉によってやらされたにすぎない。このように考えるのがポスト構造主義です。

人は誰もが自分で自由にものを言い、自由にことをなしていると考えますが実はそうではない、すべては言葉がそうさせているのだ、といわれたらどうでしょう。多くの人が「そうではない」と反論するでしょう。しかしその反論でさえもが言葉にあやつられてのことだとすればどうでしょう。

みずからを中心化させた個人は言葉を道具と考えますが、ほんとうはあなたこそが言葉の道具なのかもしれません。

5770純粋教理批判:2015/09/24(木) 00:56:43 ID:DD4jWV6M
教えを広めさえすれば環境問題は解決するといわんばかりの人への質問です。

「神は無駄なものをあたえたまわない。原子力エネルギーは神が人間にあたえたもうたものである」と説く生長の家が「神は無駄なものをあたえたまわない。地球の資源は神が人間にあたえたもうたものである」と主張する人々を教えみちびけるとおもえるのはなぜなのでしょう。

5771a hope:2015/09/24(木) 08:14:22 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます。

ようやくパソコンがつかえるようになりました(*^▽^*)
わたしの留守中に、ご参加くださったみなさまありがとうございます。

わたしも今日からまた、自分のペースでこのweb誌友会に参加して、
聖典「生命の實相」の真理を学んでいきたいと思いますのでよろしくお願いいいたします。

5772a hope:2015/09/24(木) 08:15:03 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第36回 web誌友会 案内 (改訂版)

期間   8月2日〜9月30日まで
テキスト 「生命の實相」第21巻 経典篇 
内容  『甘露の法雨』講義
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5773a hope:2015/09/24(木) 08:15:43 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第21巻 p106 後から3行目〜

われわれは光の子である。

すなわち光から生まれ出でたものですから、われわれは常に光の中に在る、と同時に自分の中に光があるのであります。

わがうちに光があり、光のうちにわれわれはあるのですから、われわれは絶対に暗(やみ)を知らない。

いっさいの暗黒はない。

すなわちわれわれを躓(つまず)かせる障礙(さわり)などはいっさいないのであります。

(略)

それだのにわれわれが不自由に、いろいろのものに妨げられたりするのはわれわれが本当の力を出しきっていないからで、その時、そこに暗(やみ)が姿を仮に表わして本来ない躓きを、あるかのごとくに表わすのにすぎないのであります。

(略)

智慧とは実相の悟りの智慧であります。

(略)

暗(やみ)とは光の欠乏せる状態に他ならないのです。

5774a hope:2015/09/24(木) 08:17:46 ID:cEpBaIdo

>>5773 a hope所感)

みなさんは、聖典「生命の實相」の文章を拝読してるとあらゆる迷いが消えて、
『本当の自分は実相そのものなんだ』という実感がわき出てきませんか?

わたしたちがこの現世に投影されている時間にはリミットがあります。
無駄な時間はありませんよね?

わたしはこれからも聖典「生命の實相」の真理を真剣に学んで生長し続けたいです。

5775純粋教理批判:2015/09/24(木) 10:44:56 ID:DD4jWV6M
考えがちがう相手と話をするのは時間の無駄。ようするに「個人の勝手な解釈どうしのひらかれた議論」は必要ないということですね(排他性ここに極まれり)。

ところでホープさんは「テキストに関係のない内容はお控えいただきたいです。ですが、わたしの所感に対する反論は歓迎させていただきます」といっておられますよね。歓迎していただけるものと無信じております。

5776純粋教理批判:2015/09/24(木) 11:16:59 ID:DD4jWV6M
>わがうちに光があり、光のうちにわれわれはあるのですから、われわれは絶対に暗(やみ)を知らない。
いっさいの暗黒はない。

これがわたしのいう排他性ですね。光と暗の二項対立を立てて劣位項である暗を外部へと排除することで優先項である光を内部にとどめおく。こういうことを延々とつづけていれば、誰だって排他的な性格が身につくことでしょう。現に「時間の無駄」といって問答無用とばかりに排除しようとしているではありませんか。

5777純粋教理批判:2015/09/24(木) 12:02:26 ID:DD4jWV6M
ずっと以前にもこちらの掲示板で「元本部講師」を名のる人が「時間の無駄」といっていましたが、そういう人にかぎってじつは何も考えてこなかった人であり、必要な知識を身につけてこなかった人なのですよ。

なにも考えずにきたからいまだに単純なことしか考えられない。必要な知識を身につけてこなかったから誰もが言えるようなことしか言えない。おおやけの場で発言をするのであればもっと考えておくべきでしたね。必要な知識を身につけておくべきでしたね。時間を無駄になさいましたね。

5778純粋教理批判:2015/09/24(木) 16:02:17 ID:DD4jWV6M
状況を説明いたしましょう。まずホープさんは以下のごとくいっておられます。

>生長の家の信仰により環境保護運動をするのであれば、そのような現象に対応するような形ではなくて、
まずは信徒一人一人が「本来罪なし」の「実相独在」を自覚し(悟り)、それを人類に伝道していく方法が正道だと思います。

「現象に対応するような形」とはあきらかに総裁がおしすすめておられる環境運動についてのことです。ホープさんが総裁の方針を批判しておられるのはあきらかです。

代わりにどうすればよいのかというと「教えを伝えることだ」といっておられます。そこでわたしは以下のごとく質問いたしました。

「原子力エネルギーは神が人類にあたえたもうたものだ」と説く生長の家の教えで問題解決が可能なのか。

この「原子力エネルギー」のところには、欲望のおもむくままにどのような言葉でも入れることができます。地下資源、水産資源、生物資源、森林資源、大地、海、川、どんな言葉でもいれることができます。

環境問題とはけっきょく人類が「〇〇は神が人類にあたえたもうたものだ」と考えたことからはじまったと考えます。生長の家もこれとまったく変わらぬことを説いています。おなじことをいっているにもかかわらず生長の家の教えが環境問題の解決にむすびつくとおもえるのはなぜかと、「私の所感にたいする反論は歓迎する」といわれたホープさんに問いかけたところ「答えるのは時間の無駄」との返事をいただいたというのが今の状況です。

5779a hope:2015/09/24(木) 18:31:24 ID:cEpBaIdo
>>5778

<<「原子力エネルギーは神が人類にあたえたもうたものだ」と説く生長の家の教えで問題解決が可能なのか。>>

とおっしゃていますが、それってほんとに生長の家の教えですか?

「生長の家の教え」では「神とは人間の実相」のことですから、
「神が人間に与えたもうたもの」ということになると、
「人間が人間自身に与えたもうたもの」ということになってしまい表現自体に違和感を覚えるのですが・・・。

その教えが説かれている引用文献を教えてくださいませんか?

5780純粋教理批判:2015/09/24(木) 22:52:46 ID:DD4jWV6M
生長の家に「神は〇〇を人間にあたえたもうた」とする教えや考えはないといわれるのですね。〇〇に入るのは「自由」でも「豊かさ」でも他のなにかでもよいわけですが、このような教えや考え方はないといわれるのですね。

「神は無駄なものをあたえたまわない」とする教えも考え方もない、ということですね(何度も聞いたような気がいたしますが、わたしの思い込みなのでしょう)。「神は無駄なものをあたえたまわないのであるから原子力エネルギーは神からあたえられたものである」とする発想が出てくる可能性はないということですね。

それなら問題はありません。そういう教えや考え方は「ない」ということを確認いたしました。こうした考え方が少しでもあれば、キリスト教のように拡大解釈されて人間中心主義にむすびつくおそれがあります。「ない」といわれるのであればそのおそれはないということで、これはこれでよろしいかと存じます。

引用文献をだせといわれてもそれは不可能です。教えはたしかにそういうものだと理解してきたということです。「ない」といわれるのであればわたしの理解がまちがっていのでしょう。すべては杞憂であったということでしょう。

神を主語にして人間に都合のよいことを述べてはならない。これはわたしの信条のようなものです。教えにたいする理解がまちがっていたようです。

5781神の子さん:2015/09/25(金) 01:44:30 ID:DD4jWV6M
>「生長の家の教え」では「神とは人間の実相」のことですから、

この表現も”あの表現も「生長の家の教え」からしたら違和感ありだけどだれも文献出せとは言わないふつう。生命の実相やたら引用してるからとて生長の家のしゆうかいではやはり思えない。シルバーウィークでおわりまた独占板にもどりましょう

5782a hope:2015/09/25(金) 09:33:56 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p118後から6行目〜


「悟る」ということでも迷っている凡夫の貧しき智慧が真理を教えられてだんだん向上して悟るのだなどと考えていますと間違いであります。

悟るというのは内在の神の智慧がポカリと浮かび上がってくるのであって、脳髄意識が悟るのではない、脳髄意識が悟るのなら、宗教的悟りというものは、肉体が死んで脳髄が灰になった後に通用しない悟りであって、それでは死後まで救う宗教的悟りだとは言えないのであります。

「いや智慧は脳髄の中にあるんだ」なんて言う人があるかもしれませんが、智慧は脳髄の中にあるのではない。

いったいこの脳髄という器官は、これは自分で作った、自分の心で都合のよいように作り出した道具にすぎないので、わたしたちはそれを利用しているだけであって、決して脳髄という物質の中から智慧が発生したのではないのであります。

それでまた、われわれの智慧は、ここにあり、かしこにありというように甲の人、乙の人の智慧と一つ一つばらばらに離れて孤立しているものではない。

天地一切のものに満ち充ちている智慧とまったく一つのものである、これを知ることがすなわち生長の家の悟りであります。

自分の智慧は、天地万物を生かしているところの大いなる智慧と一つのものであると分かると自分の智慧は小さい自分の中にだけ這入るようなそんな小(ち)っぽけなものではない。

実に広大無辺のものであって、わが念ずることがただちに天地に満つる節理の智慧に相感応すべきものであることが分かってくるのであります。

5783a hope:2015/09/25(金) 09:35:56 ID:cEpBaIdo

>>5782 a hope所感)

<<悟るというのは内在の神の智慧がポカリと浮かび上がってくるのであって、・・・>>

とありますが、これは、
「甘露の法雨」の『神』の項の一説に、

神があらわるれば乃ち、
善となり、義となり、慈悲となり、
調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、
相食むものなく、
病むものなく、
苦しむものなく、
乏しきものなし、

とあるところの、<<神があらわるれば乃ち、>>という状態と同じことなのだと思います。

「神」とは自分の外側に存在するものでなく、自分の中に内在するものであって、そのことをわれわれが本当に悟れば、
すべてが大調和して、この現象世界に地上天国が顕われるのではないでしょうか?

ですから、原子力エネルギーにしても、地下資源にしても水産資源にしても、生物資源にしても、なににしても、
実相を悟った(神が顕現した)人間が利用すれば、『善となり、義となり、慈悲となり、
調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし、』という、
大調和の関係が保たれるのだと思われます。

わたしが、「生長の家」の『唯神実相』や『実相独在』真理の伝道をして人々を目覚めさせることの方が、
現象問題に対応する運動よりも重要で、もっとも優先すべきことだと考えるのはそういう理由からです。

具体的に例えれば、よく切れるナイフがあったとして、それを良心的な人間が利用すればすばらしい料理を作って人々を喜ばすでしょうが、
復讐心や、悪意や、狂気の人間が利用すればとんでもない事件に利用されてしまうかもしれません。

この現象世界にあるすべてのものはすべて実相世界の投影ですから、ひとつも無駄なものはないのだと思います。

「神は人間に選択の自由を与えたもうた」それが生長の家の教えかどうかはわかりませんが、
地球上のすべての資源をどう利用するかは、わたしたち人間の選択にゆだねらているのだと思います。

5784純粋教理批判:2015/09/25(金) 11:34:54 ID:DD4jWV6M
>「生長の家の教え」では「神とは人間の実相」のことですから、
「神が人間に与えたもうたもの」ということになると、
「人間が人間自身に与えたもうたもの」ということになってしまい表現自体に違和感を覚えるのですが・・・。

「神とは人間の実相」というのはわたしもはじめて聞いた言いまわしです。しかし、神一元の世界であればすべては神ということなので間違いではないのでしょう。

文献をだせといわれても無理です。「神は人間に自由なる意思をあたえた」とする表現が仮にあるとするなら、ホープさん流の神一元の考えでは「人間が人間に自由なる意思をあたえた」となってしまい、違和感を覚えるに十分な表現となってしまいます。

しかしこれを言い換えれば「神は神に自由なる意思をあたえた」となるわけですが、これはいい得て妙といった表現です。「神は完全なる世界をつくった」とする表現は「神は完全なる神をつくった」となり、「神は完全なる人間をつくった」はこれもまた「神は完全なる神をつくった」となるからです。

「神は〇〇に〇〇をあたえた」は「神は神に神をあたえた」となり「神は〇〇なる〇〇をつくった」は「神は神なる神をつくった」となります。神一元の神は、ふれるものすべてを金に変えたというミダス王のごとく、あらゆる対象を神へと変えてしまうようです。教えを信じていたころから教えにたいする違和感をどうしても解消できずにおりました。もしかしたら違和感の正体はこれであったのかもしれません。

「完全なる証明には外部が必要」とするゲーデルの定理が示すごとく、内部だけですべてを説明しようとするものは、すべてのものを自分に回帰させてしまうミダス王になるよりほかはない。そんな気がいたしました。

5785純粋教理批判:2015/09/25(金) 12:54:49 ID:DD4jWV6M
「神が神なる神をつくった」とする考え方が成り立たないわけではありません。チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナが提唱するオートポイエーシスがまさにこの一例と考えます。

オートポイエーシスとは自分で自分をつくりだすシステムとわたしは理解していますが、マトゥラーナ本人も「オートポイエーシスは自分で自分を持ち上げようとするようなものだから、すっきりと理解できる筋合いのものではない」と認めているようです。

オートポイエーシスを理解できるか、といわれても「理解できる」とはどうしても言えません。わかった気にはなれるが理解した気にはどうしてもなれない。オートポイエーシスはこうした事態の代表格のような気がいたします。

オートポイエーシスにしても外部はあります。外部からの入力も、外部への出力もない、これがオートポイエーシスのようです。しかもそれでいてオートポイエーシスは外部からの影響をうけている。

内部は外部にたいして完璧に独立している。にもかかわらず外部は内部に入り込んで内部に影響をあたえつづけている。わたしが考えているのはこうしたシステムのような気がいたします。

5786純粋教理批判:2015/09/25(金) 19:34:23 ID:DD4jWV6M
>わたしが、「生長の家」の『唯神実相』や『実相独在』真理の伝道をして人々を目覚めさせることの方が、
現象問題に対応する運動よりも重要で、もっとも優先すべきことだと考えるのはそういう理由からです。

そうですか。それなら信ずることをなさればよいでしょう。そのようにおもわれるのであれば、教えを広めて環境問題を解決する運動をまずは身近なところから起こされればよいでしょう。

総裁はすでに実際的な活動をはじめておられます。ホープさんの考えが実際の環境運動よりも重要といわれるのであれば、ホープさんが実際の活動をはじめられて、総裁の考えが間違っており自分の考えが正しいことをお示しになればよいでしょう。その結果や途中経過をこちらで発表なさればよいでしょう。

教えを信じることでホープさんじしんにどのような変化がおきているのか、これも重要な要素です。ホープさんのなかで環境問題の解決に向けた重要な変化がどのような形で起きているのか、それをこちらで発表していただかなければ、なにをいわれても説得力に欠けるというものです。ホープさんの変化をまずは語ってください。希望的観測はそのあとでも十分でしょう。

生長の家が立教して80年だそうですが、その間にも日本国内で数々の公害問題が発生しています。生長の家は公害防止のための役割を果たしたのでしょうか。わたしにはどうもそのようにはおもえません。

生長の家の教えが広まっていさえすれば公害問題は起きなかった。ホープさんはこのようにおっしゃりたいのでしょうか。たとえそうであっても、80年の年月をついやしたところで日本国内にさえ広まっていない教えを全世界に広めるのに、いったい何百年まてというのでしょう。

現実味のある提案とはおもえませんが、復興Gさんをはじめとして多くの方々がホープさんを支持しておられるようです。教えが広まるまで何百年でもまて。責任ある人の言葉とはとてもおもえません。

5787a hope:2015/09/25(金) 22:36:35 ID:cEpBaIdo
わたしあてにいろいろなご意見ご提案などいただいているようですが、
特に『a hopeの「生命の實相」の解釈が間違っているのではないか?』
というような内容ではないようなので安心しました。

わたし自身は日常に追われている普通の主婦ですから、
生長の家の総裁・副総裁先生というような公人の方とは立場がまったく違います。

ですからわたしが「生長の家」のために実際の活動を起こして、その内容をここで説明する義務などないと思っています。

わたしは聖典「生命の實相」の素晴らしい真理をここでお勉強させてもらっていることが、
今現在、自分自身のできる精一杯の光明化運動だと思っています。

5788純粋教理批判:2015/09/25(金) 23:07:05 ID:DD4jWV6M
ホープさんは自分の考えの正しさや有効性をためしたわけでもないのに、総裁に「これをやれ」といっておられるのですか。本を読んだだけで、実際にはなにも体験していないのに、総裁に「これをやれ」といっておられるのですか。正しさや有効性がわからぬものを「何百年もかけて実現せよ」といっておられるのですか。

自分がやる気もないことを人には「やれ」という。無責任にもなるはずです。しかも「教えの解釈が間違っていなかったので安心した」とのこと。環境問題などどうでもよい。教えの解釈が正しければそれでよい。こういうことなのでしょうか。

5789a hope:2015/09/25(金) 23:35:55 ID:cEpBaIdo

<<ホープさんは自分の考えの正しさや有効性をためしたわけでもないのに、総裁に「これをやれ」といっておられるのですか。
本を読んだだけで、実際にはなにも体験していないのに、総裁に「これをやれ」といっておられるのですか。>>


わたしは今はもう雅宣先生にも純子先生にも何もお願いなどしていませんよ。
過去に何度も何度もお願いしましたが、結局、わたしのような一信徒の掲示板でのお願いなど一度も聞いて頂けなかったですから・・・。


わたしは「生命の實相」を拝読しだして5年ほどたちますが、その有効性(?)はものすごく実感していますよ。
自分の周りの人たちへの影響力がどんどん強まってきているのを感じています。

身ばれをするので控えていますが、具体的体験もたくさんあります。

「生長の家の教え」はほんとにすごいので、その真理が「迷い」に眩まされないようにこれからもこの掲示板で発言しつづけるつもりです。

5790a hope:2015/09/25(金) 23:51:36 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p123 後から行5行目〜

・・・人間は罪があるから宗教が必要なのではなく、罪が無いから罪の無いことを知らせるために宗教が必要なのであります。


(a hope所感)

宗教とは人を教育して善人に仕立て上げるためにあるのではないのですね。
人々に真理を知らせ、目覚めさせるためにあるのですね!

5791純粋教理批判:2015/09/26(土) 00:03:33 ID:DD4jWV6M
環境問題解決の有効性?

それはすごいですね。身バレしない程度に教えてください。

個別の事案ではなく、こういう考え方をすれば環境問題解決につながるこのような行動があらわれる、といった具合の提案をおこなってください。生長の家が80年かけてできなかったことをホープさんはやっておられるわけですから、これは「すごい」の一語につきます。

5792a hope:2015/09/26(土) 00:36:52 ID:cEpBaIdo

<<個別の事案ではなく、こういう考え方をすれば環境問題解決につながるこのような行動があらわれる、といった具合の提案をおこなってください。>>

人類が聖典「生命の實相」の拝読をして唯神実相の考え方になれば環境問題の解決につながりますよ。

環境問題なんて本来無い現象なんですから・・・。

前から、そう言っているではないですか・・・。


もう、ねむいのでこれ以上のお返事はできません。

初心者さま みなさま おやすみなさい。

5793純粋教理批判:2015/09/26(土) 10:43:14 ID:DD4jWV6M
>人類が聖典「生命の實相」の拝読をして唯神実相の考え方になれば環境問題の解決につながりますよ。
環境問題なんて本来無い現象なんですから・・・。

生長の家の実際の活動においても、何か問題がおきてそれを解決しようとすると、ホープさんのように「それはほんらいない現象なのだから具体的行動は何もしなくてよい」という人がかならずあらわれていたという話を聞きます。それで何もできなくなって問題はけっきょくそのままであったのだそうです。

「現象なのだから何もしなくてよい」といっている人は気持ちがよいのでしょうが、まわりの人は迷惑です。

かつて日本は公害問題でたいそう苦しみましたが、生長の家の一部の人たちは「これは現象だから何もしなくてよい」と具体的な取り組みには反対したはずです。問題はほぼ解決したとおもわれますが、それは何もしなかったからではなく技術や法規制が大きな役割を果たしたからです。

今でも生長の家には、日本が公害問題を技術や法規制で解決したことにたいして「ない現象に取り組んだ」といって批判している人がいるのでしょう。

雅春先生は戦後左翼の問題に取り組んでおられたはずです。詳しい内情はわかりませんが「左翼問題は現象だから具体的行動はしなくてよい」とはいっておられなかったはずです。現象に取り組んでおられる雅春先生にたいする批判があったのかどうか、これはわかりません。

5794純粋教理批判:2015/09/26(土) 12:32:31 ID:DD4jWV6M
生長の家の活動で問題がおきたのでその問題を解決しようとすると、「それは迷いだ。現象にひっかかっているから問題を解決しようなどとおもうのだ」との反対論が一部の人からでてくることがあるといいます。

教えをそのように大上段にふりかざされてしまうと問題への対応ができなくなり、問題はそのままということになります。たとえ問題はそのままであっても、反対論をふりかざした人が責任を感じるわけでもありません。

その人のなかでは「問題はない」わけですから解決がないのもあたりまえ。教えをふりかざせたことでその人は大満足です。

環境活動にたいする批判もこれとおなじです。環境問題はない。なにひとつ対処しなくて環境破壊がそのままつづいたとしても、その人のなかでは「環境破壊はない」のですから解決がなくてもあたりまえ。

教えが広まるまで何百年かかろうが関係ない。環境破壊はないのだから、迷った人たちが勝手にあるとおもっているだけだから、何百年かかろうが関係ない。まわりはえらく迷惑するとおもいますが、本人は教えをふりかざせたことで大満足のようです。

5795純粋教理批判:2015/09/26(土) 14:49:42 ID:DD4jWV6M
>わたし自身は日常に追われている普通の主婦ですから、
生長の家の総裁・副総裁先生というような公人の方とは立場がまったく違います。
ですからわたしが「生長の家」のために実際の活動を起こして、その内容をここで説明する義務などないと思っています。
わたしは聖典「生命の實相」の素晴らしい真理をここでお勉強させてもらっていることが、
今現在、自分自身のできる精一杯の光明化運動だと思っています。

たとえ主婦であっても実際的な活動をしている人は大勢おられるのでは。「主婦だからできない」と言い訳するような人にたいしては「あなたは神の子だからかならずできます」との励ましがなされるようです。

「この教えで人類は救われる」といっておられるわりには、ずいぶんと消極的なお考えですね。自分のこととなるとあれやこれやの都合がでてきて「それはできません」となるわけですか。

ここで勉強することが自分のできる精一杯の光明化運動。生長の家にこのような考え方があるとは知りませんでした。自己限定を取っ払うというのが生長の家の考え方ではないのですか。「自分ができるのはこれが限界」。こういうことをいうためにホープさんは教えを学んでおられるのですか。

「日常に追われる」というのも妙ないいわけですね。日常に追われないのが神の子ではないのですか(文献をだせといわれても無理です)。いったい何を学んでこられたのですか。自分のこととなるといいわけたらたらの「現象あり」で、人には「現象なし」を押しつける。わかってもいないのにわかったふりをして人に説教したがる信徒によくあるパターンです。

おまえこそわかってもいないのにわかったふりをして人に説教するな。

ばれましたか。仰せのとおりにいたしましょう。

5796a hope:2015/09/26(土) 19:30:32 ID:cEpBaIdo

ここは 聖典「生命の實相」の真理を学ぶ誌友会です。

わたし個人の人格や行動に関してご批判またご助言くださるのはご遠慮くださいませんか?

わたしは「実際的な活動をしていない」などと一言も言っていませんし、
「生活に追われているからできない」などと云い訳もしていません。

『「生長の家」の総裁・副総裁先生とは立場が違うから、自分のしていることを公にする義務はない』
と言ったつもりです。

ですから、だれからもそのことでご批判を受けるような立場ではありませんので、
これからは、そのようなご投稿にはお返事は控えさせていただきます。

今月中に21巻のお勉強を終らせたいと思っているので、御理解をどうぞよろしくお願いいたします。

5797a hope:2015/09/27(日) 10:23:21 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p126 9行目〜

神を絶対的なものと観ないで、相対的な神をわれわれが信ずることになりますと、どうしてもわたしたちは本当の安心に到達することはできないことになります。

絶対者だからこそ安心して信頼もできるのだけれども自分の頼っているものは相対的な存在でそれに対するやはり強い力をもって対立している何かがあって、いつどこからかせめてくるかもわからないということになれば、不安で、どうしたって本当の安心を得られるはずはない。

相対的な神を信じている限り、安心は得られません。

絶対的な神を信じた時、われわれは初めて安心が得られる。

もし罪業が神から出てきたものならば、神が罪を作ったということになれば、罪は実在します。

しかし罪を作ったりするような不完全な神や、やりそこないの世界や人間をこしらえて、またやり直しをやるような神を信じていて本当に安心していられるはずはありません。

われわれが本当の安心を得るには絶対的な、完全円満なもののみを創り給うた神を信ずる他はないのであります。


われわれは神の子である。

神の無限の善でありますから罪を創り給うはずがない。

神の生命が宿ってわれわれは生かされているのであるから、神の無限に善なる生命すなわち我であるところの大自覚に入った時のみ、いっさいの不安や、罪苦は消え去って、本当の善なる実相が現われ、この世が光明楽土と化するということになるのです。

5798a hope:2015/09/27(日) 10:25:25 ID:cEpBaIdo

>>5797 a hope 所感)

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大辞林 第三版の解説

そうたい‐てき〔サウタイ‐〕【相対的】
[形動]他との関係において成り立つさま。また、他との比較の上に成り立つさま。「―な価値」「物事を―に見る」⇔絶対的。

ぜったいてき【絶対的】
( 形動 )
物事が絶対であるさま。何物にも制限されないさま。 ↔ 相対的 「 -な権力」 「 -な優位に立つ」

https://kotobank.jp/word/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E7%9A%84-548310#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

------------------------------------------------------------------

この「相対的神観」と「絶対的神観」の違いですが、とても重要だと感じています。

世の中のほとんどの人が「神さま」といえば、自分とかけ離れた別の存在だと観じているのではないでしょか?

ですから、そのような考え方の人々に、いきなり「あなた自身が神なんですよ」と説いても、
すぐに「あーそうなんですか」と納得してその自覚(悟り)に到る人は少ないと思います。

ですから、「生長の家」では、ワンクッションおいて「神の子」という表現をつかって人々に伝道しているとわたしは学びました。

ですが本当は、生長の家は「絶対的神観」つまり『唯神実相』が教えの根本なんですよね!

5799a hope:2015/09/28(月) 08:04:19 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p138 6行目〜


話す人が、真理を知って話せば、同じ話でも効果が多いのであります。

どういって話すかというと、あなたの痛む肉体、物質は本来無いのでそれは心の影である。

痛むのは物質という形体だけの塊が痛むのではなくて、本当は心が痛んでいるのだ。

何かあなたは心に痛みを持っていますね。

たとえば発病の前に人に口惜しい、憎たらしいと思って腹を立てた、その痛み、苦しみが心のうちに鬱積して、表現できずにいるとかいったようなことがあるでしょうと伺いますと、きっとそういうことがあるのです。

しかし、よく考えてみれば自分が口惜しい、憎いというような思いをするのは、他の人からいじめられるのはやっぱり自分の心のせいなのです。

自分の心のうちに業を積んでいるから、それで人からいじめられるように自然になってくる。

しかしいじめられることによって業が消えるのでありますから、いじめてくれる人も神の子であったということが分かれば、ああ怒って申しわけなかったと、詫びる気持ちになると同時に怒りの念が消えてそのまま神経痛が治ってしまうという例がたくさんあるのであります。

5800a hope:2015/09/28(月) 08:06:16 ID:cEpBaIdo

>>5799 a hope所感)

「心が病気を作る」ということが分かれば、自分の心をコントロールすることがどれだけ重要かがわかります。

ですが、谷口雅春先生ですら「唯神実相」の真理を悟られる直前まで、心をコントロールするのが難しいと嘆かれていました。(「生命の實相」第20巻 p132〜)

唯心所現の真理から考えれば病気は悪しき心(業・罪)の影であり、
唯神実相の真理から考えれば悪しき心(業・罪)などない、ということになります。

生長の家の縦横の真理は、どちらもとても大切な真理なんですね。

5801a hope:2015/09/28(月) 08:44:43 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p143 後から3行目〜


病気や不幸は何からくるというと、病気や不幸は迷いから来るという。

その迷いはどこから来るかというと「迷いは無い」という、これが生長の家の解釈であります。

「迷い」はどこから来たと言われる方が往々にありますが、どこから来たということが答えられるくらいならば、「迷い」はあることになる、「迷い」は無いから出所(でどころ)もない。

迷いをアルと言ったら迷いから出たというあらゆる悪も肯定しなければならない、それが現実界の実際の状態であります。

しかしながらこの「迷い」は無いから、迷いから生じた憂苦満つる世界も本来無いのであります。


わたしがある時、「この世界には幸福ばかりが満ちている。人間は健康の人ばかりで病気の人は一人も無い。いっさいの生物は、互に争う者なく、生存競争で血みどろな戦いをして入る者のない」と講演いたしますと、「何を貴様は事実を見ないで空想ばかり言っているのであるか。この現実の人生の悲惨な戦いを見よ」と言って来られた方がありました。

わたしの申しましたのは現実世界のことでなく、実相世界のことであって、そこにはなんの悪も存在しないということが自覚されてくるのであります。

これが分からない人は生長の家に反駁(はんばく)して来られるのですが、こういう人たちはその反駁の根拠を現象界に置いて、いろいろのことを言ってくるのです。

5802a hope:2015/09/28(月) 08:46:29 ID:cEpBaIdo

>>5801 a hope所感)

<<「何を貴様は事実を見ないで空想ばかり言っているのであるか。この現実の人生の悲惨な戦いを見よ」と言って来られた方がありました。>>

わたしはつい最近、この掲示板上で同じようにどなたかに反論されたような気がします。
わたし自身、現実世界への対応はとても大切であると感じています。

ですがその対応方法も、実相世界の完全円満さを悟った上で対応するのと、そうでないのでは結果に雲泥の差が出て来てしまうと思っています。

谷口雅春先生は完全に「唯神実相」を悟られていました。

ですから現実世界への対応も、その時起きている現実問題に自由自在に対応されていたのではないかと拝察しています。

「生長の家」信徒であるならば、まずは教えを学び、「唯神実相」を悟り、その上での環境保護運動、政治運動、・・・でなければ、
すべてが間違った方向へ向かってしまう可能性があるのではないでしょうか?

5803a hope:2015/09/29(火) 07:32:39 ID:cEpBaIdo
>>5801 つづき)

「生命の實相」第21巻 p144 後から4行目〜


現象界すべてのものはわれわれの描く念のフィルムに従って「無」の展開せる諸相なのです。

その「無」の展開せる諸相の奥に、ちょうど芝居の楽屋裏に本当の人間がいるように、生長の家でいう生命の実相があるのであります。

それは実に無限の生命に満ちる世界でありますが、それは直観によって体得するより他はない。

ここに見よ、かしこに身よと言って示されるものではない。

示されるものはすでに現象で実相ではないのですから、実相は、このままここにあると、パッと悟るより仕方ないのであります。

5804a hope:2015/09/29(火) 07:34:24 ID:cEpBaIdo

>>5803 a hope所感)

実相とは 「ここに見よ、かしこに身よと言って示されるものではない。」
「このままここにあると、パッと悟るより仕方ないのであります。」というようなものなのですね。

ですが、雅春先生はそのあとに、現象世界に於いても、「実相の写し」ならば見せて示すことはできるとおっしゃっておられます。
いったい、「実相の写し」というのは、どのような現象のことをいうのでしょうか?

つづけて謹写していきます。

5805疑問:2015/09/29(火) 08:11:30 ID:NaAec0Zc

>自分の心のうちに業を積んでいるから、それで人からいじめられるように自然になってくる。


総裁にいびられたとかいう本部講師の人達にも当てはまるのでしょう?左遷されたとかいう本部の人にも。

5806a hope:2015/09/29(火) 08:14:44 ID:cEpBaIdo
(>>5803つづき)

「生命の實相」第21巻 p145 3行目〜


このように完全円満な実相の世界、天国浄土は、ここに見よ、かしこに見よというようなものではない、現象の奥にあるものであります。

だから現象世界を眼の前にもって来て「ここに天国はあるのだぞ」と言って見せられはしないけれども、どうかわれわれにそれを見せてくれという人には、実相を映し出した世界において、実相の写真(うつし)を見せて示すことはできるのであります。

実相の映画(うつし)の世界、それはこの席にいられる多くの方が体験しておられるように、欲しいと思ったものがすぐに出て来るとか、あるいは病気が忽然と消えて無病幸福な生活に入るとか、経済的に好転を来すとかいうように現実に迷いのない世界が出て来る、それが取りも直さず実相を映した世界であります。

まだ実相を直接的悟りで知らない人には実相の写真を見せて、実相の写真を見せるより仕方ない。

写真には血も通っていないし、厚みもない、血色もない、写真と実際の人間とはそれくらい異う。

現象世界の浄土と、実相の浄土との異いも、それくらい異うのですが、見合いお写真で相手の概念を与えるくらいの役目のために、実相の世界を体得できない人に実相の写真をみせてあげることがある。

皆さんの現象界の幸福の体験は、これがその写真です。

それが実相その物なのではない。

それは実相のあらわれにすぎない。

実在の世界を得るための写真であります。

5807a hope:2015/09/29(火) 08:16:18 ID:cEpBaIdo

>>5806 a hope所感)

たとえ、現象界に地上天国が出現したとしても、それはあくまでも実相世界の写真(うつし)に過ぎないのですね(;´∀`)

「現象は無い」のですからそれはそれであたりまえのことなのですが・・・。

その本来無い「現象世界」で、本来無い「肉体」を抱えて生きているわたしたちは、
本来無い「迷い」に振り回せれて、憂苦懊悩している・・・。

うーん。

やっぱり、一日も早く「生命の実相」を悟らねばいけませんね〜!

5808疑問:2015/09/29(火) 08:16:50 ID:NaAec0Zc


>唯心所現の真理から考えれば病気は悪しき心(業・罪)の影であり、
>唯神実相の真理から考えれば悪しき心(業・罪)などない、ということになります。
>生長の家の縦横の真理は、どちらもとても大切な真理なんですね。


人を非難する時は横の真理を使い、自己弁護する時は縦の真理を使うのでは?

5809a hope:2015/09/29(火) 08:23:25 ID:cEpBaIdo

>>5805 疑問さま

Web誌友会ご参加ありがとうございます!


>自分の心のうちに業を積んでいるから、それで人からいじめられるように自然になってくる。
総裁にいびられたとかいう本部講師の人達にも当てはまるのでしょう?左遷されたとかいう本部の人にも。


唯心所現の真理から言えば、そういうことなのだと思います。
現象世界の出来事のほとんどは自分の業(前世の業も含む)のなせる結果なのではないでしょうか・・?

と、わたしは思いますがみなさまのご意見もぜひ伺いたいです。

5810疑問:2015/09/29(火) 08:45:27 ID:NaAec0Zc

>「迷い」はどこから来たと言われる方が往々にありますが、どこから来たということが答えられるくらいならば、「迷い」はあることになる、「迷い」は無いから出所(でどころ)もない。迷いをアルと言ったら迷いから出たというあらゆる悪も肯定しなければならない、それが現実界の実際の状態であります。

>こういう人たちはその反駁の根拠を現象界に置いて、いろいろのことを言ってくるのです。

>「心が病気を作る」ということが分かれば、自分の心をコントロールすることがどれだけ重要かがわかります。ですが、谷口雅春先生ですら「唯神実相」の真理を悟られる直前まで、心をコントロールするのが難しいと嘆かれていました



「唯神実相」の真理を悟るまえのa hopeさんが自分の心をコントロールできずに、反駁の根拠を現象界に置いて、総裁は現象相手の運動をしているといつも述べているから、総裁の今の現実があるということになります。しかし「迷い」は無いから出所(でどころ)もない。迷いをアルと言ったら迷いから出たというあらゆる悪も肯定しなければならない、と云われる。

迷いの出所は自分の心であるからコントロールがどれほど重要か判る、といいそれは谷口雅春先生ですら「唯神実相」の真理を悟られる直前まで、心をコントロールするのが難しいと嘆かれていました、という。

では自分の心のコントロールの出来ないあなたが現象の総裁の生き様を批判する根拠は何なのでしょうか?

5811a hope:2015/09/29(火) 09:01:03 ID:cEpBaIdo
>>5810 疑問さま

申し訳ありませんが、今日はこれから仕事なのでお返事は夜になります。

>>5805の疑問さまの質問はとても重要だと思いますので、みなさま、特に「生長の家」本部講師、
元本部講師の方々、本流関係の講師の方々のご意見、ご指導をいただけるとありがたいです。


よろしくお願いいたします。

5812疑問:2015/09/29(火) 09:07:31 ID:NaAec0Zc

>その本来無い「現象世界」で、本来無い「肉体」を抱えて生きているわたしたちは、本来無い「迷い」に振り回せれて、憂苦懊悩している・・・。

>うーん。やっぱり、一日も早く「生命の実相」を悟らねばいけませんね〜!



一生懸命努力して4,5年経ってもこの感想、実際のところ4,50年キャリアの方でも同じ心境ではないのでしょうか?迷いはないと悟った方が、迷いの産物の悪現象を相手にする訳が無いでしょうから。私の所へも現象を証拠に反論してくる人がいるけれど、と雅春先生が言われているのに、現象を根拠に非難しまくりなのが本流派と自認する人たちでしょう?

5813疑問:2015/09/29(火) 09:42:57 ID:NaAec0Zc

>たとえ、現象界に地上天国が出現したとしても、それはあくまでも実相世界の写真(うつし)に過ぎないのですね(;´∀`)「現象は無い」のですからそれはそれであたりまえのことなのですが・・・。


人間は何処で生きてるのでしょうか?この現象世界は単に映しの世界として存在するということですが、五官で自分が感じているという意味ですか?実相世界と云うところで、具体的に生きているのでしょうか?五官で諍いの生活をしているように見える時に、実相世界ではどんな生活をしているのでしょうか?普通は五官の認識を通して自分の行動はされますね。

現象本来無しという言葉、は五官を使う実際の生活の上でどのような意味になるのでしょうか?非難されるような行動をしているとの判断は五官を通しての判断ですね、その五官は肉体についているものです、そのような判断の正しいかどうかの判断は何処でされるのでしょうか?

よき現象と云っても自分にとってのものですが、それを映し出すのもこの肉体、五官を使って映し出すのですよね、そうしますと純粋に実相世界と云うところで具体的な生活を人間がしていて、それを単に五感で感じているというものではないようです?

自然界の木々は心でもって現象の自然を映し出しているわけでもないでしょう?人間が何処でどのようにして生きているのか?これが気にかかります。

5814トンチンカン:2015/09/29(火) 10:05:29 ID:z9V4A.MQ

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レストランの「メニュー」をみて <迷う> ?

これって、『迷い』。。と言うより、『選択』ではないのでしょうか??
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・レストランの「メニュー」。。なら、コレって「指をさせば」解決するのです!!




(参考) <小閑雑感>
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2007年9月11日 迷いはどこから来る? (4)

迷いはどこから来るか? 現時点での答えは、こうなる……「欲望追求のために自由を行
使せんとするところから来る」。

谷口 雅宣
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『迷いは ナイ!!』。。。  ≪谷口雅春先生≫

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5815トキ:2015/09/29(火) 10:21:31 ID:ksUeryWU
 少し時間がないので、簡単に。

 例えば、中華料理店に入って、餃子を注文したのにラーメンが出てきたら、
「これは違うよ。」と普通は言います。そう指摘することは、別に、他人を
攻撃する事にはなりません。ましてや、人間の実相を見ない事でもありませ
ん。それに対して、中華料理店の店主が、それに応じないのなら、それを説明
する義務が生じます。

 社会通念という観点からは、説明をする義務の所在を考える事が大事だと
思います。

 現在の教団の方針は、伝統的な谷口雅春先生の解釈から違っています。
当然、それに納得しない人は、「現在の教えは、過去の谷口雅春先生の教え
とは違っている」と指摘します。これに対して、教団は、「いや、これは
谷口雅春先生の教えを現代風にアレンジしたもので、基本的な部分は同じ
です。」と抗弁をします。この場合も、教団側は信徒や社会に対して、そ
れを変更した理由をきちんと説明をし、納得してもらう義務が生じます。

 教義の解釈の大幅な変更を含めて、現在の方針の変更の多くは、教区の
人間の預かり知らないところで決まる事が多いです。これに納得しない人
が疑問の声を上げる事は、別に普通の事で、悟りの云々とは関係はありま
せん。

 生長の家が、あくまでも谷口雅春先生の教えが基本である、というのな
ら、教団側はこの義務から解放される事はないと考えます。

 疑問様のなすことは、具体的に、現在の方針が谷口雅春先生の教えと
外れていないと説明することだと思います。

5816疑問:2015/09/29(火) 11:22:25 ID:4q2kCbp2
>>5815

私ははahopeさんの引用並びに感想への疑問を述べているのです。教団の解釈が伝統的解釈と違うということはどちらでもいいのです。

真理は生きなくてはなりません、その生き方に於いての疑問を呈しているのです。どちらが正しいかということを論じているのでなく、伝統的解釈とあなたが云うその生き方そのものが、どのように生きれば矛盾が無いのかを、今の本流派を自認する人に問いただしているのです。

教団内で10年、本流を造って10年、20年かかって統一した生き方が出来ない、それでいて真理を悟れば本来の良き世界が出て来る、という話に聞こえるのです。

20年かかって世間の物笑いになっている生長の家の在り方を、相手方に答えを求めてどうするのですか?教団側は好きにすればの態度であるのでしょう、であれば本流を自認する側が真理を生きることにより不完全と見えることの解消をするしか仕方ないでしょう。

そんな意味で真理を生きるという事がどんなことか聞いているのです。私はよき結果が出ていないことの原因は何処にあるのかを聞いているのであって、出てない以上本流を名乗っていても正しく真理の実践が出来ていないのではないか?との疑問から発議しているのです。真理の実践は誰かに求めるものでなく自らするのが当たり前の事ではないですか?

5817疑問:2015/09/29(火) 11:58:34 ID:4q2kCbp2

真理を生きるということはどのような事なのですか?と聞いているのです。トキさんが不完全な事が有るとの認識を持っている、それに対し総裁はそんなことは知らんとの態度を取るように見える、その現実の事実に対してあなたはどんな行動をとるのですか?

不完全があると見えている時にどんな行動をするのが真理に適った生き方なのですか? 不完全を表している中心者の生き様を代えろ、と主張しても、それは相手の事です。自分の行動としてはお前は駄目だと言葉で云っているだけです、そんなことは真理を知らなくても誰でもします。

中国指導者相手に、共産主義を正しいものとして独裁的に政治をするのは間違っている、お前たちは辞めろと云っているのと何も変わりません。伝統的解釈と違うという貴女の真理の実践が正しいのであれば問題は解決向かっていることでしょう。

そんな意味で伝統的解釈が物事の解決に役立っていないのではないか?であればどのように真理の言葉を受け入れて実行すればよいのか?そのことを正当な解釈をしているという人に聞いているのです。

不届きな嫁に苦しんでいますとお婆さんに云われたら、そんな嫁は追い出しなさいというのですか?さんざん注意をしても嫁さんには嫁さんの考え方があります。こんな息子は死んでくれたらいいと考えていた母親が息子と和解で来た話もあります。相手の心変わりを求めるのが伝統的生長の家の解釈ですか?

5818疑問:2015/09/29(火) 13:32:32 ID:4q2kCbp2
 国家は吾々の最高理念である。数字に先立って『数』が存在するがごとく、理念はすべての形あるものに先行して存在する最高の存在であり、生命(いのち)の生命である。

国家はその理念のうちの最高なるものである。個生命はこの最高理念のために、『生命の生命』のために、一切をなげうって奉仕しなければならぬ。否、奉仕することそのことが喜びであり、それが個生命なる小さな理念的存在が最高の理念にまで包摂せられ向上し行く最後唯一の道である。

銃後の親戚知友に送られて征途に旅立つ軍人の歓呼こそは、見送る人も、見送られる人も、それは個生命が最高の理念に包摂し向上する刹那の生命の凱歌であり、鬨(とき)の声である。

(谷口雅春『明窓浄机』草創篇284-285頁「昭和12年 天皇は中心理念に在す」)

5819疑問:2015/09/29(火) 13:40:31 ID:4q2kCbp2

戦争の倫理的意義 谷口雅春

 私は『大自然が催し、大自然がはかろうて自分をその境遇にまで追い寄せた現在の生活』を百パーセント完全に生きることが、生長の家の生き方であるといった。この意味において『戦争』というものが吾々に課せられた場合には(現に課せられているのであるが)それを完全に戦い抜くことが生長の家の生き方でなければならないのである。

今与えられた環境から飛出すところの出家道は、否応の選択が働くのであるから、戦争というものは魂の修養にならないというような価値判断がはたらいて、戦争忌避や、敗戦主義に捉えられるおそれがあるが、生長の家では出征する人にとっては戦場が直に魂の修養の道場となり、戦争が直に吾々の魂を練るところの公案となるのである。

多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかり見ていて、その道徳的、宗教的意義を理解しない。そして動もすれば戦争を忌避するのであるが、戦争は実に真剣な、否応なしに左右をいわずに、ただひたすらに至上命令に従うところの激しき宗教的行事なのである。しかも同時に、肉体の『無』を理屈でなしに実証するところの行事である。

かの天華の修行に天華の教祖渡辺薫美が修行者たる一婦人に課したところの『千仭の谷へ、今跳べ!』の必至命令の如く、否やの選択を許さぬ絶対命令と同じことである。『爆弾を抱いて、そのまま敵のトーチカに跳び込め!』これに対して、軍人はただ『ハイ』と答えて跳び込むのである。宗教の修行においては、たとひ教祖の命令通り跳び込まなくとも、『修行が足りない、まだ心境がそこまで達していない』位で許されるだけに、それは修行の『型』をやっているだけである。また、その命令者が教祖という個人である。

しかし戦争においては否応はない、言葉通り肉体の生命が放棄せられる。そして軍隊の命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。肉体の無と、大生命への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。戦争が地上に時として出て来るのは地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとっては耐え得られるところの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。

(『谷口雅春選集』谷口雅春著 潮文閣、1941年、302-303頁)

5820疑問:2015/09/29(火) 13:47:09 ID:4q2kCbp2

常住戦死の心 谷口雅春  

 宇宙には唯一つ、大御心のみがある。天皇の大御心である。『忠』とは、大御心に無我帰一する心である。すなはち天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)の心に『中』(ちゅう)する心である『中』とは的に中(あた)るであり、生命の本質に貫き徹するのである。

宇宙の実相に少しもウラハラなることをせず、無我になりて宇宙の心に従ふのである。吾らが大御心を行ずるのは、それによって幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。さふ云う第二次第三次の事物よりも、尚尚すぐれて無常価値なるものが大御心である。その大御心を実現することは無常価値であるが故に、そのやうな第二次、第三次のお蔭などは心に微塵も止めないで、大御心を行ずるのが『忠』である。そしてそれがまた生長の家家族の心である。

大御心を行ずる為に、その他の物質的なるもの悉くを戦死せしむるのである。戦場に於(おい)て戦死せしむるだけではなく、常住戦死の心である。これを『死』と云ふ不吉な連想を伴ひ易き言葉を用ひず、『肉体なし、物質なし』と吾らは云ふ。その死に切った心だけでは消極的否定の心である。そこに『大御心のみあり』の大肯定がなければならぬ。生長の家ではこれを『神一元』と云ふ。天皇独在とも云ふのである。

  (谷口雅春「常住戦死の心」『谷口雅春選集』潮文閣、1941年、2頁)

5821疑問:2015/09/29(火) 13:55:24 ID:4q2kCbp2

常住戦死の心 谷口雅春  

 宇宙には唯一つ、大御心のみがある。天皇の大御心である。『忠』とは、大御心に無我帰一する心である。すなはち天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)の心に『中』(ちゅう)する心である『中』とは的に中(あた)るであり、生命の本質に貫き徹するのである。

宇宙の実相に少しもウラハラなることをせず、無我になりて宇宙の心に従ふのである。吾らが大御心を行ずるのは、それによって幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。さふ云う第二次第三次の事物よりも、尚尚すぐれて無常価値なるものが大御心である。その大御心を実現することは無常価値であるが故に、そのやうな第二次、第三次のお蔭などは心に微塵も止めないで、大御心を行ずるのが『忠』である。そしてそれがまた生長の家家族の心である。

大御心を行ずる為に、その他の物質的なるもの悉くを戦死せしむるのである。戦場に於(おい)て戦死せしむるだけではなく、常住戦死の心である。これを『死』と云ふ不吉な連想を伴ひ易き言葉を用ひず、『肉体なし、物質なし』と吾らは云ふ。その死に切った心だけでは消極的否定の心である。そこに『大御心のみあり』の大肯定がなければならぬ。生長の家ではこれを『神一元』と云ふ。天皇独在とも云ふのである。

  (谷口雅春「常住戦死の心」『谷口雅春選集』潮文閣、1941年、2頁)

5822疑問:2015/09/29(火) 14:01:49 ID:4q2kCbp2

ああ天地万物を見るたびに、吾々は、天皇陛下があがめられます。 天皇の下に生まれ 天皇の大みいのちに還りて死し死して永遠のいのちを得る。   
 天皇万歳である。…・万歳は久遠の象徴(しるし)である。…・・この際、この時、この生長の家の思想を広めて吾ら死なん。死なんかな。死なんかな。来りてともに死に給へ。死は大なる生につながる。

(谷口雅春『明窓浄机』飛躍篇106頁 昭和16年 「天皇はすべてのすべてにまします」)

上二つダブりましたすみません

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5827トンチンカン:2015/09/29(火) 15:30:35 ID:z9V4A.MQ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
≪迷いのルツボ≫にはまり込み、右往左往して出口の見えない「曳馬野ご一統」!!

「頭脳明晰」なるが故、色々と考えるのでしょうね? 「無の関門」を越えられない・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・『迷いはナイ!!』。。 信じるのか・・ 信じないのか・・

5828トンチンカン:2015/09/29(火) 15:46:10 ID:z9V4A.MQ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『20年かかって世間の物笑いになっている生長の家の在り方』
『不完全を表している中心者の生き様を代えろ、と主張しても、それは相手の事です』
                            <曳馬野ご一統>

多くの人々が≪総裁のご乱行≫を言っているのです。 ≪総裁の「責任問題」≫です!!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・今や、「開き直り」しかないのですか? 「屁理屈」で逃げ切るのですか?

・『世間の物笑いになっている』のは、「マサノブ爺さん」なのですよ・・・


(参考)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
5816 :疑問:2015/09/29(火) 11:22:25 ID:4q2kCbp2>>5815

私ははahopeさんの引用並びに感想への疑問を述べているのです。教団の解釈が伝統的解
釈と違うということはどちらでもいいのです。

20年かかって世間の物笑いになっている生長の家の在り方を、相手方に答えを求めてど
うするのですか?教団側は好きにすればの態度であるのでしょう、であれば本流を自認す
る側が真理を生きることにより不完全と見えることの解消をするしか仕方ないでしょう。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
5817 :疑問:2015/09/29(火) 11:58:34 ID:4q2kCbp2

真理を生きるということはどのような事なのですか?と聞いているのです。トキさんが不
完全な事が有るとの認識を持っている、それに対し総裁はそんなことは知らんとの態度を
取るように見える、その現実の事実に対してあなたはどんな行動をとるのですか?

不完全があると見えている時にどんな行動をするのが真理に適った生き方なのですか? 
不完全を表している中心者の生き様を代えろ、と主張しても、それは相手の事です。自分
の行動としてはお前は駄目だと言葉で云っているだけです、そんなことは真理を知らなく
ても誰でもします。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

5829トキ:2015/09/29(火) 16:41:27 ID:ksUeryWU
 いやいや、疑問さんは、痛いところを突かれたので、錯乱されているのです。

 しかし、「疑問」さん、a hope 様も社会人ですから、質問をするのなら、
それなりの礼儀作法というものが必要です。こういう詰問をするような口調
の文章をいきなり送りつけて回答を要求するのは、社会通念上、「失礼」と
言います。

 ご理解ください。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5832トキ:2015/09/29(火) 17:07:09 ID:ksUeryWU
 疑問様の投稿は、誌友会と関係がないので、一部の投稿を別板の移転板へ
移しました。こういう投稿は大変迷惑なので、以後、疑問様はそちらへ
投稿をしてください。

合掌 ありがとうございます

管理人

5833疑問:2015/09/29(火) 17:45:33 ID:gJV5Cq.Q

>疑問様のなすことは、具体的に、現在の方針が谷口雅春先生の教えと外れていないと説明することだと思います。私は、教義の解釈の変更が重大な事柄だ、と言っているのです。逃げずに返答をしたまえ。

>いやいや、疑問さんは、痛いところを突かれたので、錯乱されているのです。


教義が変更されたかどうかそんなことは知りません。教義が変更されて嫌だというのであればさっさと辞めたらいいのでは。なんで私があなたに説明しなくてはならないのですか?どこが痛いところなんですか?私は痛くもかゆくもありません。

国家が起こす戦争で死ぬことは神の子の無我の最高の心に到達するための最高に尊いことであると、常に常住戦死の心で生きるのが最高と云うから、そんな心を求められるのが生長の家の真理だと知ったうえで誌友会版で真理の研鑽に励んでいるのですか?と聞いて何が悪いのですか?

解釈の変更がたとえ有ったにしても、それを重大な事柄とするのはあなた並びに自称本流派でしょ。総裁は何も困っていないから10年以上同じ路線を走っていのでしょう。困るのは困る人が悪いと云った有名な本部講師がいました。困るならさっさと辞めて自分の思う運動をすればいいでしょう。

世間の常識で行くと人間神の事はどんなことかの話は邪魔で、トンチンカンのアジ演説は素晴らしと云うのですね。世間の人はウダウダ云っている人のその姿にあきれているのでしょ。世間の人で教団の在り方を批判している人がいますか?世間の人が何を考えているかに関する引用ですよ、原文に当たってみたらよいでしょう。

5834疑問:2015/09/29(火) 18:05:29 ID:gJV5Cq.Q

>>5830>>5831を自由に削除して自分の体裁を繕う姿が素晴らしい神の子の姿と云うのですか?

いくら少なく見積もっても2,3万の信徒はまだいるでしょう、今でも講師試験を受ける人がいるのです、その人たちは馬鹿で阿保であるというのですか?少なくても新たに講師になる人達にとっては重要な問題でなく、世間を笑わせようとするあなた方にとって問題と云うだけです。

総裁は公人であるから幾ら汚い言葉で批判しても許されるという判断でトンチンカンはそのままにしているのですね。そんな考えのトキさんはさっさと辞めて本流派と合流するほうがいいです。

5835トキ:2015/09/29(火) 18:22:34 ID:ksUeryWU
>>5833

疑問様

 トンチンカン様の投稿は、確かに、最初は削除と移転をしようと思いました。
と、同時に、疑問様の全ての投稿を全部、削除と移転をしようと思いました。
  
 しかし、それでは、誌友会としての流れが止まります。仕方がないので、
全く誌友会のテーマと関係がない部分をとりあえずは移転と削除しました。

 なお、疑問様とトンチンカン様には申し訳ありませんが、適当な時期に、
お二人の投稿を削除と移転をさせていただきます。

 次に。

 教義が変更されたというのは、たいへん重要な問題です。生長の家というのは
宗教法人です。法人というのは、法人としての「目的」があります。その「目的」
は、登記され、誰でもが閲覧することができるのです。

 戦前、天理教が当局の要求により教義の「革新」を余儀なくされたときに、大騒ぎに
なったこともありました。

(つづく)

5836トキ:2015/09/29(火) 18:37:35 ID:ksUeryWU
 それぐらい、教義というものは重要なものなのです。

 法律に詳しい人に尋ねると、法人における「目的」はかなり重要で、
目的外の行為は、原則として「無効」になる、というぐらいの重みがある
みたいです。

 生長の家の場合、生命の実相が目的に明記されていたと記憶しており
ます。だとしたら、生命の実相が教団内部で語られなくなったのは、
問題である、という声があがるのは当然ではないでしょうか。

 さて、疑問様は、教義の変更が嫌なら辞めろ、という発言をされまし
た。生長の家が発祥当時のような任意団体ならその解釈も可能でしょう。

 しかし、現代のような法人格を取得して団体では、一部の人の独裁の
ような行動が正当化され、異論を唱えた者が容赦なく排除されるのなら、
それは、法人格をもらった趣旨から逸脱すると思います。

(つづく)

5837トキ:2015/09/29(火) 18:47:56 ID:ksUeryWU
 さらに申し上げると、私が問題にしているのは、この掲示板では何を
書いても構わないが、誌友会の板では、テーマが決まっているので、それに
沿った内容の投稿をしてほしい、ということです。

 掲示板で、管理人がいたら、その管理人の指示に従う前提で掲示板は
成立しています。もちろん、運営上のご意見も可能な限りは拝聴しますが、
「疑問」様の投稿は、板の趣旨を逸脱しています。

 トンチンカン様の投稿も確かに表現に問題はありますが、トンチンカン様
の投稿が「疑問」様への反応であることを考えると、いきなりの削除ができ
ないと考えています。

 最後に付け加えますが、私の考えは、本流復活派も支持しないし、また、
今日の状態に至ったのは、総裁だけの責任でもない、という立場です。

 その考えは、過去、再三、表明しています。

 しかし、掲示板の方針として、極力、検閲はしない方向でいます。
問題になる投稿については、反論という方法での対応をお願いをしており
ます。

5838トキ:2015/09/29(火) 18:53:49 ID:ksUeryWU
 ですから、「疑問」様の投稿の原則としては、削除したくありませんでした。

 しかし、関係のない文章を長々と書いて、誌友会のリーダーに返答を強要す
るのは、これは違うと思います。

 この点はご理解をお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5840トキ:2015/09/29(火) 19:38:02 ID:ksUeryWU
以下、訂正します。

トンチンカン様

 ご覧の通り、「疑問」様から、総裁を「侮辱」する表現を問題視
する投稿が届いております。

 管理人としては、内容については容喙するものではありませんが、
表現については、多くの方が閲覧をしている現状もありますので、
より丁寧な表現をしてくだされば、助かります。それで削除をする
ということはありませんが、どの人であれ、人格を尊重する態度は
必要だと思いますので、ご協力をお願いします。

 勝手なお願いをして、すみません。

 今後とも、投稿をお願い申し上げます。

投稿者様各位へ

 もちろん、ここでは本流復活派へのきわどい表現もあるので、
総裁への投稿だけを問題視するつもりはありません。本流派への
投稿も、表現については慎重にお願いします。
 賛成意見も反対意見も大事ですが、本流復活派の方々
も、ご自身の信念により頑張っているのは事実ですから、その点
は尊敬したいと思います。

 同時に、教団への支持も批判も歓迎ですが、表現については慎重に
お願いします。

合掌ありがとうございます

管理人敬白

5841トキ:2015/09/29(火) 19:41:49 ID:ksUeryWU
謹告

 以上の投稿は、誌友会とは関係のない内容が多いので、適当な時期に
削除させていただきます。もちろん、私の投稿も含めてです。

 ご了承ください。

合掌ありがとうございます

管理人敬白

5842疑問:2015/09/29(火) 20:02:18 ID:gJV5Cq.Q
>しかし、関係のない文章を長々と書いて、誌友会のリーダーに返答を強要するのは、これは違うと思います。

関係のない人間が関係のない文章を書いたのはトキさんあなたでしょう。誌友会版でのa hopeさんの言葉解釈への疑問を書いていたところに、あなたが勝手に総裁と間違えての感想を、勝手に書いたのでしょう。

国家が起こす戦争で死ぬことは神の子の無我の最高の心に到達するための最高に尊いことであると、常に常住戦死の心で生きるのが最高と云うから、そんな心を求められるのが生長の家の真理だと知ったうえで誌友会版で真理の研鑽に励んでいるのですか?と聞いて何が悪いのですか?

とあなたへの返事は書いてあります。誌友会、講演会で真理の話をするのは何の為、本当の神の子の自覚に至る為でしょう。その神の子の自覚は天皇信仰に至る事でありその神髄は斯くの如しと書いてある文を投稿するのが何故削除に値するのですか?

いちゃもんをつけてきたのはあなたトキさんです。引用したような書き方で神の子の自覚を説くのが生長の家であるとの認識の下で、a hoopeさんがその体得にいそしむのであればよろしいのですが、そうでなければ後でこんなはずではなかった云うことになりかねません。

あなたが割り込まなければ、引用文までは書かなかったのです。趣旨に則った質問だから夜にの返事があったのでしょう。出しゃばり、趣旨に反したのはあなたなのです。

5843トキ:2015/09/29(火) 20:23:28 ID:ksUeryWU
>>5842

 すみません、一箇所、申し上げます。

>>勝手に総裁と間違えての感想を、勝手に書いたのでしょう。

私は、そういう文章は書いていません。また、あなたが総裁だとも思っていません。
その点はお願いします。

 誌友会、あるいは輪読会では、あくまでもリーダーの指示で動くことが前提になって
います。この点もご理解ください。

合掌ありがとうございます

5844トキ:2015/09/29(火) 20:46:31 ID:ksUeryWU
>>5805

 では、あらためて書きましょう。
 
 谷口雅春先生が、かってバキュームオイルカンパニーを馘首されたあと、
馘首した上司と対面をした時の話を講演で言われています。

 「会社をクビにされても恨んではいけませんが、クビにするのもよくない」

と。よほど修行ができた人でないと、クビにされたら恨みます。生長の家を
していても、それは、現象の人間ですから、酷い扱いや侮辱を受けたら、
やはり恨みます。ただ、それをいつ切り替えるかです。

 そういう念は、クビにした人のところへ行きます。確かに前世なり何なり
で、そういう人には原因になる行為があったのかもしれませんが、何でも
かんでも、前世の因縁とかでかたずけると、人間の自由な意思というものが
無視されてしまいます。それは魂の向上という観点からは、有害無益なので
す。また、そういう恨みの念で復讐をすると、今度は、また、次にその人が
その因縁で不幸になる、という循環になります。

 私も経験があるのですが、侮辱されたり、嫌がらせをされた人がいて、自分
が強い立場になったら、復讐をしたいという感情にはかられます。そこを逆転
して、そんなつまらないことをしないと決めるかは、難しいですが、大事な事
だと思います。本流復活派の中には、ごく一部ですが、パワハラのような言動
をする人もいて、そういう人に不愉快な経験をした人の中には、そういう人が
不遇な目にあって喝采を叫んでいる人もいるかもしれません。

 しかし、それをしたら、私は、「負け」だと思っています。

 前世の因縁が全てではありません。人間、どこかで、上のような悪循環をと
めるかが大事だと思っています。

5845疑問:2015/09/29(火) 20:54:52 ID:gJV5Cq.Q
https://twitter.com/search?q=%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E9%9B%85%E6%98%A5&amp;src=typd

でヒルコ蛭義氏が「完全にイ○カレてる。」「稲田の朋ちん様、あなたと一緒に進め、一億火の玉だとか、ほんと勘弁してください」と感想を言っている、何を読んでそんな感想になったのか?それは

http://sei4ch1ou.seesaa.net/article/421281552.html の資料2なのだ

世間で笑われているのは雅宣総裁でなく、創始者の説く生長の家の神髄を読んでの事なのです。私は大っぴらになるのは困るなんていう時期は通り過ぎていると思いますよ、トキさん。この資料2に書かれていることを世間に解るように説明する義務が本流は並びにトキさんには生じていると思います。

5846疑問:2015/09/29(火) 21:35:26 ID:tQSsSw6E

>>5843 >>勝手に総裁と間違えての感想を、勝手に書いたのでしょう。
私は、そういう文章は書いていません。また、あなたが総裁だとも思っていません。その点はお願いします。

>>5815が何処が誌友会の内容に関係しているというのですか?教団非難のアジ演説のみのトンチンカンの肩を以て私に「疑問様のなすことは、具体的に、現在の方針が谷口雅春先生の教えと外れていないと説明することだと思います。」いかにも教団の人間として教えの違いを説明するのがなすべきことと云っている。

私は教団の人間でないからそんなことはあずかり知らないことです。それでも>>5816>>5817で必要な返事はしておきました。しかるに「疑問様のなすことは、具体的に、現在の方針が谷口雅春先生の教えと外れていないと説明することだと思います。私は、教義の解釈の変更が重大な事柄だ、と言っているのです。逃げずに返答をしたまえ。」

「いやいや、疑問さんは、痛いところを突かれたので、錯乱されているのです。」とのたもうたではないですか。

5805に関しての事との断りもないのに、今になって「 >>5805 では、あらためて書きましょう。」とは何事です。5815を誰が読んでも5805への返事だとは思わないでしょう。 

トキさんはトンチンカンに似て論理がめちゃくちゃです。

5847トキ:2015/09/29(火) 21:41:11 ID:8GVLXtaY
>>私は教団の人間でないからそんなことはあずかり知らないことです。

ああ、そうですか。ここは、生長の家の信仰を持つ人を対象にする掲示版です。

真面目に生長の家の信仰をしている人にとって、あなたの存在は迷惑ですから、
以後のご投稿はご遠慮願います。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5848疑問:2015/09/29(火) 22:12:51 ID:gJV5Cq.Q
ろくな返事もしないで、神の子の自覚など話し合う必要はないトキたもんだ。アジ演説のみの人間は教団にとって迷惑ですからお辞めなさいと勧めてあげたのに。

あなたのように組織の幹部じゃないんだよ、なんで説明責任なんてあるものか。

「真面目に生長の家の信仰をしている人にとって」だからこそ真髄中の真髄の言葉を投稿してやったじゃないか、それを削除したのがトキさんあなただよ。どこが真面目なんだか。そんな人こそ教団にとってお邪魔虫でしょ。

5849a hope:2015/09/30(水) 00:05:19 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第36回 web誌友会 案内 (改訂版)

期間   8月2日〜9月30日まで
テキスト 「生命の實相」第21巻 経典篇 
内容  『甘露の法雨』講義
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5850a hope:2015/09/30(水) 00:33:44 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p152 5行目〜


今までのように迷いや、物質や、罪や、病や、死があると思っていたのでは、四十七年間もの痘痕(あばた)は治らない、物質の骨折などは治らない、こんなひどい病気は治らないと思いこんでいた、その迷いを、無いものをあると思いこんでいた迷いを、「迷いなんて本来ないのだ。罪なんて本来ないのだ。人間は神の子であって本来円満完全」であるという生長の家の歌『甘露の法雨』の功徳によって、スカッと罪の迷える意識を断ち切ってしまう。

その時にいっさいの罪は姿を消して、そこに本来の濁りなき完全なる実相が現象世界にも、その写真として姿を現してくるのであります。

この現(うつ)し世に、完全円満な人間の本来相が現われてきた時に、天国浄土が現実に顕現して、いっさいの罪も、病も、死も、悪もことごとく消滅して、ただ光明そのものの実相世界の映しとなるのであります。

これがいわゆる地上天国の建設であります。

5851a hope:2015/09/30(水) 00:38:30 ID:cEpBaIdo

>>5850 a hope 所感)

ふーん(@_@;)
地上天国の建設なんて、夢のそのまた夢のようなお話にも聞こえてしまうのはわたしだけでしょうか?

ですが、谷口雅春先生は本気でその目的に向かっておられたのですね!

5852a hope:2015/09/30(水) 08:12:45 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます。

今日は、9月30日で第36回 web誌友会最終日です。

今月中に、第21巻を終了したかったのですが、まだ第四章の「人間の実相および仮相」が終わっていません。

この第四章の講話は「甘露の法雨」最終項目である『人間』の解説になっているのですが、
実はわたしはこの『人間』の項目に関しては不思議な体験があるのです。

それは、数年前に宇治別格本山の練成会にはじめて参加した時のことです。
その日の早朝神想観は幽斎殿で行われていました。

たしか神想観が終わった後に「甘露の法雨」の一斉読誦が始まりました。

もうすでに1時間近い静座をしているわけですから、まだそのころは静座に慣れていなかったわたしの足は痺れて、
坐っているのが辛くて意識も朦朧としてほとんど「甘露の法雨」の内容には集中できずにいました。

そんなとき、やっと「甘露の法雨」の読誦が最終項目の『人間』に入って、
わたしは「あーもう少しで終わりだ!」などと現在意識では考えていたのです。

ところが、その時突然、わたしの目から涙が滝のように流れだして止まらなくなってしまったのです。
何かに感動して泣いているというのではなくて、ただ、ただ、涙が流れてきて止まらなくなってしまったのです。

今思えば、その時のわたしの現在意識は「辛い、早く終わってほしい」と感じていただけでしたが、
わたしの潜在意識が「人間は神より出でたる光だったんだー」とその真理に感動して、浄化の涙が流れていたのだと思います。

そんなわけで、わたしにはこの「甘露の法雨」『人間』の項目には特別な思い入れがあるのです。


トキさま、みなさま、またまた勝手を言って申し訳ありませんが、もう少しだけこの21巻をお勉強させてくださいm(__)m


ですが、明日になりましたら、第37回 web誌友会を開会させていただきます。

テキストは第22巻になりますが、内容は「聖語篇 智慧の言葉」と「精神分析篇 精神分析による心の研究」ですが、
第21巻の第四章の「人間の実相および仮相」も合わせて学んでいきたいと思います。

みなさま、第22巻の「聖語篇 智慧の言葉」は、「聖光録」や、「ひかりの語録」、
「ジュニア 希望の祈り」などにも収録されてます。

一文一文が短文なので謹写にも時間がかかりません。

どうぞ、お気に入りの「智慧の言葉」をご紹介くださいね!

5853a hope:2015/09/30(水) 08:22:48 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第37回 web誌友会 予告

期間   10月1日〜10月31日まで

テキスト 「生命の實相」第21巻 第4章
「生命の實相」第22巻  聖語篇/精神分析篇

内容   『人間の実相および仮相』
『智慧の言葉』 『精神分析による心の研究』
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5854トキ:2015/09/30(水) 11:21:13 ID:4h78wox6
a hope様

 誌友会の運営、深く感謝申し上げます。
今回、管理人が至らず、板が荒れた事を心から陳謝いたします。

 会場リーダーのご意向が最優先ですから、「生命の實相」第21巻
を続けてください。また、他の板と違い、この板は明確に投稿の目的
が決まっていますから、誌友会とは関係のない投稿は、会場リーダー
の請求があれば、削除いたしますので、ご連絡ください。

 では、今後ともよろしくお願い申し上げます。

合掌ありがとうございます

管理人敬白

5855ほんとに理解できない:2015/09/30(水) 13:50:24 ID:gJV5Cq.Q
この現(うつ)し世に、完全円満な人間の本来相が現われてきた時に、天国浄土が現実に顕現して、いっさいの罪も、病も、 ≪死も≫ 、悪もことごとく消滅して、ただ光明そのものの実相世界の映しとなるのであります。


ここに ≪死も≫ と書かれているけれど、雅春先生でも死んだのです。現象界で永遠の命を保った人は一人もいません。神様でも口が滑るのでしょうか? 過去誰も不思議に思わないのが不思議。

≪   ≫は私が付けました

5856トキ:2015/09/30(水) 19:57:42 ID:4h78wox6
>>5852

a hope様

 私は、少し前から、禅宗のご住職様と仲良くなり、よくお寺に遊びに行きます。
もちろん、私は自分が生長の家の信徒であることも伝えております。生命の実相
をお見せすると、「谷口雅春さんが生命の実相で書かれている事は、臨済宗の悟り
と同じですね。」と感心されました。

 その時に、夏目漱石の話が出ました。夏目漱石は、鎌倉の禅寺に参禅していた
そうですが、禅宗の有名な公案である、「無字」の公案は通っていなかったとい
います。彼の有名な則天去私という言葉も、現在の自分の心境というよりも、目標
という意味合いだったみたいです。

 その彼がもっとも愛したのは、若い、無学に近い禅宗の修行僧だったそうです。
ご存知の通り、夏目漱石にはたくさんの優秀な弟子がいました。しかし、この
修行僧(正確には2名いたそうですが)は、素直な人だったみたいです。

 宗教上の経験を得る上で大事なのは、学識や学歴ではなく、a hope様のような
素直な気持ちになることだと思いました。

5857a hope:2015/09/30(水) 22:26:56 ID:cEpBaIdo

>>5856 トキさま

あたたかいお言葉をありがとうございます。 感謝 合掌。

わたしは宇治別格本山の練成会には、何度か参加していますが、すべてこの掲示板で書き込みを始めた後のことです。

わたしは、あの場所で、楠本加美野先生といっしょにお食事をしたり、
義春さんといっしょに講話を聴いたりしたこともあるのですよ!

本当にあそこは、素晴らしい霊的な雰囲気のある場所でした。


ところで、今回、トキさまはこの掲示板の閉鎖を考えられているのですね。

この掲示板は、わたしにとってはたくさんの思いでのある大好きな掲示板ですから、
閉鎖というのはちょっとショックでしたが、そろそろそういう時期なのかもしれませんね。

わたしは、トキさまが新しい掲示板を用意してくださるのであれば、
また、そこで、聖典「生命の實相」のお勉強会であるweb誌友会をぜひ続けさせていただきたいと思います。

トキさまにはお世話になるばかりですが、これからも a hopeをどうぞよろしくお願いいたします。

5858a hope:2015/10/01(木) 09:21:22 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます。
10月に入りましたので第37回 web誌友会を開会させていただきます。
それでは、開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。

5859a hope:2015/10/01(木) 09:22:36 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、今月の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5860a hope:2015/10/01(木) 09:23:21 ID:cEpBaIdo

つづきまして、聖経「甘露の法雨」より『人間』を謹写させていただきます。

5861a hope:2015/10/01(木) 09:25:51 ID:cEpBaIdo

人間 

吾は『真理』なり、『真理』より遣わされたる天使(てんのつかい)なり。
『真理』より照りかがやく『光』なり、迷いを照破する『光』なり。
吾は『道』なり、吾が言葉を行うものは道にそむかず。
吾は生命(いのち)なり、吾に汲(く)む者は病まず死ぜず。
吾は救(すくい)なり、吾に頼む者はことごとくこれを摂取して実相の国土に住せしむ。


天使かくの如く説き給えば天の童子また重ねて問う。
『師よ、人間の本質を明らかになし給え』
天使答えたまわく――
人間は物質に非ず、脳髄細胞に非ず、神経細胞に非ず、
血球に非ず、血清に非ず、筋肉細胞に非ず、
それらすべてを組み合わせたるものにも非ず。
汝ら、よく人間の実相を悟るべし、人間は霊なり、生命なり、不死なり。

神は人間の光源(ひかりのみなもと)にして人間は神より出でたる光なり。
光の無き光源はなく、光源の無き光はなし。
光と光源とは一体なるが如く 人間と神とは一体なり。
神は霊なるが故に人間も亦(また)霊なるなり。
神は愛なるが故に 人間も亦愛なるなり。

霊は物質の性に非ず、愛は物質の性に非ず、知恵は物質の性に非ず、
されば、霊なる愛なる知恵なる人間は、物質に何ら関わるところなし。
まことの人間は、霊なるが故に、愛なるが故に、知恵なるが故に、生命なるがゆえに、
罪を犯すこと能わず、病にかかること能わず、死滅すること能わず、
罪も、病も、死も、畢竟汝らの悪夢に過ぎず。

汝ら生命の実相を自覚せよ。
汝らの実相たる『真性の人間』を自覚せよ。
『真性の人間』は神人にして神そのままの姿なり。
滅ぶるものは『真性の人間』に非ず。
罪を犯すものは『真性の人間』に非ず。
病に罹るものは『真性の人間』にあらず。

地上の人間よ、われ汝らに告ぐ、汝ら自身の本性を自覚せよ。
そのほかの如何なるものにも非ず。
されば人間は真理の眼より見る時は、罪を犯す事能(あた)わざるものなり、
病に罹る事能(あた)わざるものなり、滅ぶること能(あた)わざるものなり。
誰か云う『罪人よ、罪人よ』と。
神は罪人を造り給わざるが故にこの世に一人の罪人もあらず。

罪は神の子の本性に反す、病は生命其(それ)自身の本性に反す、
死は生命其自身の本性に反す、罪と病と死とは、
畢竟(ひっきょう)存在せざるものを夢中に描ける妄想(まよいのかげ)に過ぎず。
実相の世界に於ては神と人とは一体なり、
神は光源にして人間は神より出でたる光なり。

5862a hope:2015/10/01(木) 09:28:35 ID:cEpBaIdo
罪と病と死とが実在すると云う悪夢を、人間に見せしむる根本妄想は、
古くは、人間を塵にて造られたりと云う神学なり。
人間は物質にて造られたりという近代科学なり。
これらは人間を罪と病と死との妄想に導く最初の夢なり。
この最初の夢を摧破するときは 罪と病と死との根本原因は摧破せられて その根本の無に帰するなり。

汝ら『生長の家』を読んで真理を知り病の癒ゆるは この最初の夢の摧破せらるる故なり。
この最初の夢なければ 次の夢なし。
悉(ことごと)く夢なければ本来人間清浄なるが故に 罪を犯さんと欲するも罪を犯す事能わず、
悉く夢なければ自性無病なるが故に 病に罹らんと欲するも病に罹ること能わず、
悉く夢なければ本来永生(かぎりなきいのち)なるが故に死滅すること能わず。
されば地上の人間よ 心を尽くして自己の霊なる本体を求めよ、
これを夢と妄想との産物なる物質と肉体とに求むること勿れ。

キリストは『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり。
誠に誠にわれ汝らに告げん。
『汝らの内』とは汝ら『人間の自性』なり、『真の人間』なり。
『汝らの内』即ち『自性』は神人なるが故に 『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。
外にこれを追い求むるものは夢を追いて走る者にして 永遠に神の国を得ること能わず。
物質に神の国を追い求むる者は 夢を追うて走る者にして 永遠に神の国を建つる事能わず。

キリストは又云い給えり、『吾が国は此の世の国にあらず』と。
此の世の国は唯影にすぎざるなり。
常楽の国土は内にのみあり、内に常楽の国土を自覚してのみ 外に常楽の国土を其の映しとして顕現せん。
内に無限健康の生命を自覚してのみ 外に肉体の無限健康は其の映しとして顕現せん。

人間の五官はただ『写しの世界』を見るに過ぎず。
『写しの世界』を浄めんと欲すれば心の原版を浄めて 迷いの汚点を除かざるべからず。
われ誠に物質の世界の虚しきを見たり、物質の世界が影に過ぎざることを見たり。
われはまた人間が神より放射されたる光なる事を見たり。
肉体はただ心の影なる事実を見たり。

汝ら、物質は移りかわる影にすぎざること 恰も走馬灯に走る馬の如し。
されば、影を見て実在となすことなかれ。
人間真性(そのもの)はこれ神人、永遠不壊不滅の霊体にして 物質をもって造り固めたる機械にあらず、
また物質が先ず存してそれに霊が宿りたるものにもあらず、斯くの如き二元論は悉く誤れり。

5863a hope:2015/10/01(木) 09:29:16 ID:cEpBaIdo
物質は却ってこれ霊の影、心の産物なること、恰も繭が先ず存在して蚕がその中に宿るに非ずして、
蚕が先ず糸を吐きて繭を作り 繭の中にみずから蚕が宿るが如し。
人間の真性は先ず霊なる生命にして 心の糸を組み合わせて肉体の繭を造り
その繭の中にわれと吾が霊を宿らせて、はじめて霊(ことば)は肉体となるなり。

汝ら明らかに知れ、繭は蚕に非ず、然らば肉体は人間に非ずして、人間の繭に過ぎざるなり。
時来たらば蚕が繭を食い破って羽化登仙するが如く、人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん。
汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿れ。
人間は生命なるが故に 常に死を知らず。
想念(こころ)に従い 時に従い 必要に従いて 肉体と境遇とに様々の状態を顕わせども、
生命そのものは病むに非ず、生命そのものは死するに非ず、想念(こころ)を変うることによって
よく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり。

されど汝ら、ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。
かくの如きとき、生命は肉体の繭を食い破って 一層自在の境地に天翔けらん。
これをもって人間の死となすなかれ。
人間の本性は生命なるが故に 常に死することあらざるなり。


――かく天使(てんのつかい)語り給うとき、虚空には御妙の天楽の声聞え、
葩(はなびら)は何処よりともなく雨ふりて、天の使いの説き給える真理をばさながら称(たた)うるものの如くなりき。     

(聖経終)

5864a hope:2015/10/01(木) 09:39:18 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第37回 web誌友会 案内

期間   10月1日〜10月31日まで

テキスト 「生命の實相」第21巻 第4章
      「生命の實相」第22巻  聖語篇/精神分析篇

内容   『人間の実相および仮相』
       『智慧の言葉』 『精神分析による心の研究』
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5865a hope:2015/10/01(木) 10:06:17 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p155 後から7行目〜

救ってやろうという働きは真理の発した救いの言葉、仏教で言えば弥陀の本願力である。
その本願力は霊眼、霊耳の開けた人に分かって姿が見えるのです。
また姿が見えなくとも、その人が救いの本願力を振り向けられ、真理の言葉を口で語り、
筆に現してゆくことにすればそれによって、多くの人が救われるということになってくるというのは、
真理を取り次ぐ人の言葉はもう肉身の自分がいう言葉ではなく、真理みずから神みずからが語る言葉であるからであります。

5866a hope:2015/10/01(木) 10:07:33 ID:cEpBaIdo

>>5865 a hope所感)

<<真理を取り次ぐ人の言葉はもう肉身の自分がいう言葉ではなく、真理みずから神みずからが語る言葉であるからであります。>>

生長の家の「聖経」「聖典」と呼ばれている書物は、それを拝読するだけでたくさんの人々が救われてきました。

なぜなら、執筆者である谷口雅春先生御自身が、唯神実相を完全に悟られて神さまの言葉を真っ直ぐに伝える能力、
つまり霊眼、霊示などの霊覚をお持ちの方だったからなのですね。

5867a hope:2015/10/01(木) 10:14:46 ID:cEpBaIdo
訂正  ×つまり霊眼、【霊示】などの霊覚 → ○つまり霊眼、【霊耳】などの霊覚

5868a hope:2015/10/02(金) 09:57:55 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p157 7行目〜

神の救いは、衆生が救ってほしいというその時代に相応する姿であらわれるのです。

神は要するに時代に相応して教祖というものを遣わしたまいて、それを通じてわれわれに現われられる。

だから、すべての宗教の教祖は天の使であると言えるのです。

肉体はどんな服装をし、容貌をしていましょうとも、真理を語る人には真理が宿っておる。

だから、その「内なる人」は天の使であり、霊眼の見える人が見たら後光が見えたり、キリストの姿が見えたりするのです。

いくら神の救いの念波を送られても霊智、心眼の開けていない人々にはそれが見えもしないし、聞こえもしないのですから、それを聞くことのできる、見ることのできる人を通して、教祖を通して、時代に相応して救いが現されるということになるのです。

5869a hope:2015/10/02(金) 10:06:30 ID:cEpBaIdo

>>5868 a hope所感)

いったい「生長の家」の教祖って誰なんでしょうか?

谷口雅春先生は「生長の家教団」の創始者であって、教祖とは呼ばれてていないような気がするのですが・・・。

キリスト教においては、肉体のキリストではなくて、永遠(実相)のキリストが天の使(てんのつかい)だったのであれば、
「生長の家」においては、肉体の谷口雅春先生ではなくて、永遠(内なる)の谷口雅春が天の使だったということになります。

ならば「生長の家」の教祖は、永遠の谷口雅春 永遠のキリスト 生長の家の大神 となって、肉体人間の谷口雅春先生を指しているのではないですよね?

どなたか、ご指導をいただけるとうれしいです。

5870トキ:2015/10/02(金) 10:47:18 ID:Kttdv9Ec
>>5869

 谷口雅春先生は、「私は教祖ではありません。みなさんと同じ一求道者です。」
と言われていました。

 ただ、終戦後、公職追放で谷口雅春先生が教団の役職から解任された時期に、
、部内で谷口雅春先生をどう呼んだら良いか困ってしまい、一部の信徒さんが
谷口雅春先生を教祖先生と呼んだ事があったみたいです。が、その呼称は先生
の復帰と同時に消えたと聞いています。

 生命の実相第1巻に、ある青年が神想観中に「神がかり」になり、谷口雅春先生
の執筆中のお姿が、指導神に変化した姿をご覧になられていますが、それが参考に
なるのではないか、と考えています。

 私が青年会時代に接した古い直弟子の先生方も、谷口雅春先生を心から尊敬し、
愛しておられましたが、神格化したり、崇め奉るというような姿勢ではなかった
と記憶しています。

 肉体人間の谷口雅春先生は偉大な存在ですが、生長の家の教祖は、あくまでも
霊的な存在だと考えるべきかと思います。

 出先からの投稿なので、簡単になり、失礼をします。

5871a hope:2015/10/03(土) 08:41:02 ID:cEpBaIdo

>>5870 トキさま

<< 肉体人間の谷口雅春先生は偉大な存在ですが、生長の家の教祖は、あくまでも
霊的な存在だと考えるべきかと思います。>>

お返事をありがとうございます。
わたしもそんな気がしていますし、谷口雅春先生御自身が聖典の中でなんどもそのことをおっしゃっていますよね。

ですが、谷口雅春先生を生長の家の教えの祖(教祖)だという考え方をしてしまう方々は、
その霊的存在(神)のことは理解できないということでしょうか・・・?


時々、すごい唯物論者であっても、ある日突然、自分自身に劇的な霊的体験がおとずれて、
神(霊的存在)を信じるように転身するという実話がありますよね?
スターデイリーなんかもその一例ですが、昔は、「生長の家」の講話を聴いたり「生命の實相」を拝読するだけで、
そのような霊的体験をする人が続出していたようですね。

宗教とはその「真理」を心から信じるか、信じないかで結果に大きな差が出て来るものだと感じでいます。

「生長の家」の聖典は「生命の實相」ですし、中心真理は「唯神実相」ですから、
わたしはそのことだけを信じて、これからも「生長の家」を信仰していきたいです。

5872a hope:2015/10/04(日) 10:36:21 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第21巻 p161 8行目〜

日蓮上人の弟子になるということは、何も坊さんになるということではありません。

お寺の坊さんになって、死骸に念仏を称えることが日蓮上人の弟子になることだなんて飛んでもない話です。

日蓮上人は『立正安国論』を書かれ、そして日本国をば本当に生かすべき道を教えられた傑僧(けっそう)です。

だから本当の日蓮上人の弟子は、生長の家により、『法華経』の神髄を理解して、その教えに従い、本当に日本国を生かす者でなければならないはずです。

ですから、日蓮上人の弟子になることは坊主になることではありません。

あなたも言われたように、『法華経』の神髄を解くものが生長の家です。

それを知らすために観音様があなたに『主婦の友』を読めと言われた。

それなら、『法華経』の神髄である生長の家の教えをそのまま行って、日本国の杖となり、柱となる人間になることこそ本当の日蓮上人の弟子になることではありませんか。

子供を坊主にしなかったということで思い煩(わずら)う必要はない。

あなたは帰ってお子さんに『生命の實相』をよく読ませ『法華経』の神髄を体得させ日本国の柱になるような人間に要請しなさい。

これこそ真(しん)に日蓮上人の弟子になる道です。

あなたはこれまで、日蓮上人の弟子になるということを思いちがいしておられた。

それでそのことを気づかせるためにあなたが普段信仰していられる観世音様のお声が聞こえたのであります。

こういうように観音様と生長の家の神様とは連絡がある。

いな、同じ神様が時と場所と人とに応じて、観音様とも現われ、キリストとも現われ、生長の家の神様とも、現われるのです。

5873a hope:2015/10/04(日) 10:37:55 ID:cEpBaIdo

>>5872 a hope所感)

なんだかこのあたりには、すごく深い教訓が述べられているような気がします。
つまりは、日蓮上人の弟子であるということは日蓮上人と同じように僧侶になることではなくて、
日蓮上人が示された「道」つまり本当に日本国を生かすべき道を歩む者であることなのですね。

その実現方法として、谷口雅春先生は

<<それなら、『法華経』の神髄である生長の家の教えをそのまま行って、日本国の杖となり、柱となる人間になることこそ本当の日蓮上人の弟子になることではありませんか。>>

とおっしゃっておられます。

さらに、

<<あなたは帰ってお子さんに『生命の實相』をよく読ませ『法華経』の神髄を体得させ日本国の柱になるような人間に養成しなさい。>>

と相談者の方にアドバイスされています。

つまり、『法華経』の神髄=『生命の實相』なんですね!!

では、これをわたしたち「生長の家」を信仰し、また、谷口雅春先生のご遺志であった日本国実相顕現を望んでいる信徒に置き換えて考えてみると、

<<それなら、『生命の實相』である生長の家の教えをそのまま行って、日本国の杖となり、柱となる人間になることこそ本当の【谷口雅春】の弟子になることではありませんか。>>

<<<<あなたは帰って『生命の實相』をよく読み生長の家の教えを体得し日本国の柱になるような人間になりなさい。>>

ということになりませんか?

我こそはまことの谷口雅春先生の弟子であるというのであれば、やはり「生命の實相」を何百回も拝読し、
その教えの神髄である『唯神実相』を体得していなければいけませんね。

わたし、がんばろーっと。

5874トキ:2015/10/04(日) 11:36:02 ID:mVHM0jU.
 そうですね。戦前の誌友の方などは、谷口雅春先生に、まるで父親のような感情を
持っておられました。が、組織が大きくなり、信徒の数が増えると、雰囲気として
信徒の側が勝手に崇めるような雰囲気になったのも事実です。直弟子の東山半之助先生
は、著書「ざっくばらん」の中で、こういう風潮に苦言を呈しておられました。

 昔は、谷口雅春先生が講習会などで地方に行かれると、信徒さん全員を囲んで、みんな
で会食をされたみたいです。その写真も残っています。

 特に、現在では、大半の信徒が、谷口雅春先生を存じ上げない方ですから、これは
仕方がないかもしれません。

 しかし、谷口雅春先生の本心は、一人一人が「神の子」の自覚を得ることだと考え
ます。

5875a hope:2015/10/05(月) 10:15:57 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p166 8行目〜

生長の家では、天地一切のものと和解せよと、説いています。

しかしこれも和解という言葉にひっかかってはならない。

和解という一筋道に凝り固まるとかえって衝突することもある。

何事も和解、和解、とその一本道に乗っていると、医者が病苦で弱って自分で死にそうだと言っている患者を診察して、患者の悪い症状と和解したつもりで「あなたは大変熱が高い、もう死にそうだ」などと言ってごらんなさい。

医者はいかにも病人の意見とは和解したことになるでしょうが、そのために患者を生かすことはできないでありましょう。

そのために患者を生かすことはできないでありましょう。

また、すべての人と和解せよ、と言うと、敵が攻めて来ても、それに手向かうことは和解にならないというので、こちらは少しも防ぐこともせずに、ただ頭を下げている――そうしたら結果はどうなるか、敵に踏み躙(にじ)られて滅びてしまうことになる。

そのように、「こうせねべならぬ」という窮屈な一本のレールの上に乗っていたら、他人も生かされないし、自分も滅びてしまわなければならない。

それでは真理を明らかにすることもできないのであります。

それでは本当の道ではない。

5876a hope:2015/10/05(月) 10:18:35 ID:cEpBaIdo

>>5875 a hope所感)

「天地一切のものと和解せよ」とは、実相世界の一切のものとの和解であって、現象に現れている仮相や虚説に和解するということではないのですね。

ですが、わたしたちのほとんどは実相を悟っていないわけですから、何が実相で何が仮相なのか、何が真説で何が虚説なのかハッキリわからない・・・。

そこで、聖典のお言葉や、過去の谷口雅春先生のされた運動などを指針として、自分なりの解釈をして、
自分なりの運動を展開してしまうのだと思います。

ですが、そのような人まねの運動では本当ではないようですね。

続けて謹写していきます。

5877a hope:2015/10/05(月) 10:43:56 ID:cEpBaIdo
>>5875 つづき)

「生命の實相」第21巻 p167 3行目〜

本当の道というのは、一つに凝り固まってしまうものでなく、機に応じて縦横無尽に姿を変じ、それによってすべてが生かされる道でなければならないのです。

ある時は観世音菩薩のごとく優しくあることも必要だし、またある時は不動明王のごとき権威をもって起つことも必要なのです。

常にこうでなければならないというのではない、臨機応変、無礙自在に動きうる道でなければならない、そうあるのが本当の道であって、その本当の道にのった生活をすることが大切なのであります。

では、どうしたら一つに凝り固まらない自由自在な本当の道にのることができるかと言いますと、それは実相に入ること、すなわちわれわれの実の相を悟ることであります。

いつも言いますように、われは神の子なり、という実相をしっかりと摑(つか)んだ時に、自然に、自由自在な実相が顕れて、無礙自在な本当の道を、生きて歩むことができるのであります。

5878a hope:2015/10/05(月) 10:45:51 ID:cEpBaIdo

>>5877 a hope所感)

谷口雅春先生がされていた過去の運動の数々は、過去のその時点では正しい運動だったかもしれませんし、社会的影響力も強かったかもしれません。

ですが、現在の社会状況の中でその運動をそのまま展開するというのは、それは違うような気がします。

<<いつも言いますように、われは神の子なり、という実相をしっかりと摑(つか)んだ時に、自然に、自由自在な実相が顕れて、無礙自在な本当の道を、生きて歩むことができるのであります。>>

やはり、まことの「生長の家の運動」を展開するには、まずは「実相」の悟りを得ることが必要なのではないでしょうか?

そうでないと、何をやってうまくいかないと思います。

5879a hope:2015/10/06(火) 08:25:53 ID:cEpBaIdo

「生長の家」第21巻p171 後から6行目〜

要するに観世音菩薩も、普賢菩薩も、キリストも、また生長の家の神様も、皆神すなわち真理より出でたる光であり、人間もまた真理すなわち神より出でたる光であるのですから、要するに人間は、キリスト、釈迦と同じものである。

衆生の一人一人としてここにいながら、実は現象界のここにいることなく、実相界に釈迦、キリストと等しき仏または神の子としているのであって、現象の人間はただそれを知らないだけなのであります。

それを知らないから、神に頼れと言うと、自分とは別の、どこかの、天にまします神とか、宮にまします神とか、仏像とか、自分を離れた何物かに頼らなければならないように考えるのです。

5880a hope:2015/10/06(火) 08:27:09 ID:cEpBaIdo

>>5879 a hope所感)

それでは、本当に「神に頼る」とはどういうことなのでしょうか?
謹写をつづけます。

5881a hope:2015/10/06(火) 08:28:17 ID:cEpBaIdo

>>5879 つづき p172 2行目〜

しかし神に頼れというのは、何も余所(よそ)のものに頼りなさい、と言うのではない。

あなたの実相をみよ、釈迦でありキリストである――なんじの真性を見よ、その真性に委(ま)かせきれということであります。

あなたと神とは別々のものではない、あなたの奥が(奥とか内とかいうと、中に小さく種のように含まれているようですが、そうではない)、あなたの実が、実の相(すがた)がすなわち神である。

実の相(すがた)に委かせきったら嘘の相である不完全な状態は消えてしまうとこういうのであります。

5882a hope:2015/10/06(火) 08:29:18 ID:cEpBaIdo

>>5881 a hope所感)

すごい真理ですね!!!

5883トキ:2015/10/06(火) 21:13:47 ID:ODqgl6hw
 素晴らしい真理を書いてくださり、ありがとうございます。

 本当におっしゃる通りだと思います。生長の家の基本というのは、一人一人が
「人間 神の子」である、というところから出発するのだと思います。そういう
人が、社会に増えることで、世の中が良くなる、国も栄える、というのが運動の
基本だと思います。

5884a hope:2015/10/07(水) 08:46:06 ID:cEpBaIdo

>>5883 トキさま

そうなんですよね。
生長の家の運動って、本当はそういうことなんですよね。
聖典を拝読ればするほど、それしかないってわたしは確信が強くなるばかりなんですが・・・。

現在の「生長の家」教団総裁である雅宣先生や純子先生は、
この「人間 神の子」というお言葉をほとんど発言されませんね。

5885a hope:2015/10/07(水) 08:47:01 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p172 7行目〜

実相としてのわれわれに神人と本源唯一の神との関係はちょうど、日光と日光を発する太陽とのような関係である。

光のない光の源はあるはずがないと同時に光があればそれには、必ず源があるのであって、源のない光もあるはずがない。

要するに光と光の源とは離すことのできない一つのものであって、神という源を知れば、それからでた人間も光であり光源である神と、光である人間とは本来一つであって、決して別々なものではないことが分かるのであります。

その光は物質的光ではない。

太陽の光線を例に引いたのは喩(たとえ)であります。

で、「神は霊なるが故に人間も亦霊なるなり、神は愛なるが故に人間もまた愛なるなり。神は智慧なるが故に人間も亦智慧なるなり」とありますように、われわれが神から出でた物質的光ではなく、霊の光、愛の光、智慧の光であります。

5886a hope:2015/10/07(水) 08:49:33 ID:cEpBaIdo

>>5885 a hope所感)

<<光のない光の源はあるはずがないと同時に光があればそれには、必ず源があるのであって、源のない光もあるはずがない。
要するに光と光の源とは離すことのできない一つのものであって、神という源を知れば、それからでた人間も光であり光源である神と、光である人間とは本来一つであって、決して別々なものではないことが分かるのであります。>>

わたしは、ここの場所を拝読するたびに、何度でも感極まって涙が流れてしまいます。
どんなに悪人に見える人でも、どんなにミジメに見える人でも、どんなに意地悪をする人でも、
すべての「人間は神より出でた、光そのもの」なんですね・・・。

この「甘露の法雨」の『人間』の項目の解説である第四章には、人間の実相とは何なのかがとても詳しく説明されているので、
読み飛ばしができません。

この後、「愛」についての説明が続きます。
神の愛である『法愛』と肉体人間の『執愛』の違いがよく解ります。

じっくり何度でも拝読したいと思います。

5887トキ:2015/10/07(水) 21:38:30 ID:2YkAhnD.
 臨死体験をした人の多くが、死後の世界で、大いなる「光」を見た、という
報告をされています。その光は、慈愛に満ちており、どの人も安心して受け入
れられるとも言われています。

 臨死体験をした人が見た「光」と、谷口雅春先生が説かれた「光」が同じ
か、違うか、それはわかりません。しかし、近い存在のような印象は持って
います。

 ネイティヴ・アメリカンの人たちが「人類が忘れたもののために、祈れ」
と言っていますが、私たちの祈りは、人間が神の子であることを思い出す
ことが大事なのだと感じます。

5888a hope:2015/10/08(木) 10:34:28 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第21巻 p173 後から3行目〜

・・・この「法愛」が要するに本当の神の愛、実相の愛ということであって、実相の愛とは、すなわち自他一体の愛であります。

愛というのはすべて他と自分とが本来一つであると観ずることです。

たとえば、親が子供を愛するというのでも、子供とわれとは一体であると自覚することから起こるのでありますし、あるいはある男性が女性を愛するというのでも、わたしはあの人と一体である。

あるいは一体になりたいという念を持つことなのであります。

ところがこの愛が一人一人というように、少ない範囲に凝り固まってししまったときに、それは「執愛」になってしまって「法愛」にはならない。

ではどういうのが「法愛」であるかといえば、何にも執しないで、天地の流れそのままに、自由自在に愛すること、これすなわち「法愛」でありまして、何かに執する愛は自在ではないから「法愛」ではないのであります。

5889a hope:2015/10/08(木) 10:35:47 ID:cEpBaIdo

(.>5888 a hope所感)

肉体をもった人間としてこの現象世界に投影されているわたしたちの中に、この「執愛」を少しも持たない人間が果たして存在するのでしょうか?

母親であれば自分の子供と他人の子供がいれば、自分の子供をより愛してしまうのが当然の本能だと思いますし、
また、男性であれば戦場で窮地に陥れば相手を攻撃してしまうというのも、自分を護るという自然の本能ですよね?

肉体人間の持って生まれた「本能」を手放したときに、神の「法愛」が実現するというのでしょうか・・・?

5891a hope:2015/10/08(木) 14:06:08 ID:cEpBaIdo
>>5890

それでは、今日はお仕事がお休みなのでお返事させていただきます。

あの夜、返事をしなかったのは、>>5810の投稿の後に今月のweb誌友会のテキストの内容からかけ離れた
内容の投稿がずっと続いてたためにこの板の混乱を避けるためにお返事をしなかったのです。


わたしは、今まで雅宣先生や純子先生個人の生き様を批判したことなど一度もありません。

ただし、「生長の家」の法灯継承者としての「教義」内容の変更や、
その変更に伴う「森での生活」やソーラーパネル等の物質的手段に頼った環境保護運動への批判はさせていただきました。

ですが前にも一度言いましたが、今は「おかしい(虚説である)」とは思っていますが批判していません。

ここはweb誌友会板ですので、これ以上のお返事は控えさせてただきます。

5893a hope:2015/10/08(木) 14:55:35 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p174 7行目〜

「執愛」でも愛には違いはないのですけれど、それは捉われている愛でありますから、それでは、あらゆる時にすべての人を生かす力は出て来ないのであります。

自由自在にあらゆる物を千変万化しながら、その実相を生かす。

これが法愛であり、神の愛であります。

施しをするのでも執着の施しと法施とがある。

執着の施しは誰々には何々をやりたいが、誰々には何々をやりたくないというような、人に物を凝り固まった偏寄った愛であります。

人に物に偏寄らないで一様に実相を生かすのが法施であります。

先刻、「道の道たるは道に非ず」ということを申しましたが、ここでは「愛の愛たるは愛に非ず」ということも言えるのであります。

ただ子供がかわいいからいたわるというのは盲目的な親の愛で、かえって愛するがゆえに愛するわが子を害している場合も多々あるのであります。

なせ愛するがゆえにかえって愛する者を害するなどということになるかといえばその愛が執愛であるからで、愛とはやたらにいたわりかわいがるということだという一本のレールの上に乗ってしまっているからで、その一本道のほか融通がきかない、そのためにせっかく愛しながらかえって愛する者を生かすことができないということになるのであって、それは法愛ではない。

法愛というのは無軌道電車みたいなもので、レールははずれても決してひっくり返らないで平気で走って行けるような自由自在な愛になって、はじめて相手を生かすこともできるようになるのであります。

5894a hope:2015/10/08(木) 14:57:19 ID:cEpBaIdo

>>5893 a hope所感)

きっとわたしたち現象人間は、『「自由自在な愛」仕方』を学ぶためにこの人生で色々な人間関係の経験を積むのですね。

子供が自分の思い通りにいうことを聞かないだけでパニックをおこしてしまうようでは、
わたしなんてまだまだなのでしょうね (;´∀`)

ですが、すべての経験は魂を向上させるためにあるのですから、その様な経験も決して無駄ではありませんね!

「自他一体の愛」「自由自在の愛」「相手を生かす愛」=法愛

わたしたちが目的とすべく、究極の「愛」ですね!

5897a hope:2015/10/08(木) 16:02:14 ID:cEpBaIdo
>>5859

<<ホープさんは「教えを広めさえすれば環境問題は解結する」といっておられるが>>

↑のような発言はわたし a hopeはしていません。


トキさま

>>5895>>5896は、わたしの正しい発言をもとにした投稿ではありませんので、削除、または別板への移動をお願いします。

5899a hope:2015/10/08(木) 16:49:08 ID:cEpBaIdo

ここでのわたしの所感は、あくまでも、テキストである「生命の實相」の真理を学んだうえでのわたしなりの解釈です。

その解釈に間違いがあるのなら、どうぞご遠慮なく聖典「生命の實相」の真理をもとにご批判ください。

ここは、「生命の實相」の真理を学ぶ誌友会です。

「生命の實相」の真理をご批判する投稿は、トキさまにすべて削除していただきます。

5901a hope:2015/10/08(木) 16:59:56 ID:cEpBaIdo

>>5900

わたしの解釈(考え方)が間違っていれば、聖典「生命の實相」の真理でぜひご批判ください。

聖典「生命の實相」の真理の研鑽こそが、このweb誌友会を開催している一つの大きな目的なのですから・・・

どうぞよろしくお願いいたします。

5902通りすがり:2015/10/08(木) 18:01:11 ID:eRL0Pjck

生命の實相は、相手の間違いを批判するために、あらせられるのではない。

生命の實相は、神殿であり、その他のなにものでもない。

私達は神そのものである。

生命の實相は、私達の實相そのものである。

生命の實相の学びは、まさに私達の内にそのものに宿る神の叡智と、神殿なる生命の實相の饗宴のように感じる今日この頃である。

5903a hope:2015/10/08(木) 18:10:59 ID:cEpBaIdo
>>5902 通りすがりさま

すばらしい真理のお言葉をありがとうございます!

通りすがりさまのおっしゃる通りなので、自分の浅はかな発言を取り消します。

×『わたしの解釈(考え方)が間違っていれば、聖典「生命の實相」の真理でぜひご批判ください。』
               ↓
○『わたしの解釈(考え方)が間違っていれば、聖典「生命の實相」の真理の言葉(光)でわたしの「迷い」を消してください。』

みなさま どうぞよろしくお願いいたします!!

5904通りすがり:2015/10/08(木) 19:07:53 ID:FF/vzSxM
a hopeさん

あなたはとても素直な方ですね。時折、こちらを通りすがり拝見致しておりますが、あなたの学びの探求心には、感心致しております。

子供が思うようにならないのは、ある意味当然ですね。

親とは言え、親子ともに人格は別ですから、我が子は人生の師と観を転換したら面白いですよ。

しかし、あなたの生命の實相、あなたが神様そのものであらせられるからこその、素晴らしい探求心だと思います。これからも頑張ってください。

5906a hope:2015/10/08(木) 22:55:52 ID:cEpBaIdo

通りすがりさま

あたたかい励ましのお言葉をありがとうございます。

このweb誌友会板は参加者は多くありませんが、トキさまはいつもあたたかくわたしを応援してくださっていますし、
通りすがりさまのような生長の家の大先輩方がたくさん見守ってくださっているとわたしは信じているので安心して発言ができるのです。

>>5902のご忠告には本当に感謝しています。


また>>5904

<<子供が思うようにならないのは、ある意味当然ですね。
親とは言え、親子ともに人格は別ですから、我が子は人生の師と観を転換したら面白いですよ。>>

とのアドバイスには、目から鱗が落ちたような気分になりました。

「立ち向かう人はすべて自分にとって何かを教えてくれる人生の師である」という真理はわかっていた筈なのに、
なぜか、自分の子供たちだけは自分の責任でなんとか育て上げなければいけないんだという自分自身の我執(執愛?)に気がつくことができました。

わたしの子供たちはすばらし「神の子」でした。
これからは自分の子供たちもわたしの人生の師であると尊敬したいと思います。
そう観の転換をしてみると、不思議ですがなんだかとても気持ちが楽になりました!


通ろすがりさま

わたしは、これからも今までどおりトキ掲示板で「生命の實相」を学び続けていきますので、
これからもあたたかく見守ってくだささり、また、時には今回のようにご忠告やアドバイスをいただけるととれも嬉しいです。

どうぞよろしくお願いいたします。 合掌。

5907a hope:2015/10/08(木) 23:16:12 ID:cEpBaIdo
>>5905

<<わたしの正しい発言をもとにした投稿ではありませんので、削除、または別板への移動をお願いします。>>

の発言を撤回するつもりはありません。

「教えを広めさえすれば環境問題は解結する」という内容と、

わたしの正しい発言である、

<<人類が聖典「生命の實相」の拝読をして唯神実相の考え方になれば環境問題の解決につながりますよ。
環境問題なんて本来無い現象なんですから・・・。>>

の二つの内容は全く違いますから。

5908通りすがり:2015/10/08(木) 23:21:15 ID:hhzAW3mE
a hopeさんへ

5902は、忠告ということではなく、書かざるを得ない不思議な感覚で、入力した次第です。

時折、思い出したように通りすがりますので、また拝見にまいります。
その時は、1言何やら残すこともあるやも知れません。
ただ、私は講師でも何でもありませんので、気軽に接してやって下さい。

こちらこそ、よろしくお願い致します。

5914a hope:2015/10/09(金) 10:03:57 ID:cEpBaIdo

ここでのわたしの所感は、あくまでも、テキストである「生命の實相」の真理を学んだうえでのわたしなりの解釈です。

その解釈に間違いがあるのなら、どうぞご遠慮なく聖典「生命の實相」のお言葉(光)でその「迷い」を消してくださいね。

ここは、真剣に「生命の實相」の真理を学ぶ誌友会です。

この板の秩序を保つため、テキストの内容と無関係な投稿は、今後トキさまにすべて削除もしくは別板への移動をお願いするつもりです。

5918a hope:2015/10/09(金) 10:46:00 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p180後から4行目〜

生命の霊性、愛、智慧というものは、いかなる大科学者がいかなる装置で物質を捏ね合わしても発現するものではない。

生命は霊なる愛なる智慧なる神からのみ来るのであります。

この神から来た生命の霊性が現象世界に投影したのが、現象生命である。

この現象生命はどういう状態で現象界に存在に入るかというと一つのバイブレーションとして存在するのであります。

このバイブレーションを客観的に観察すると一つの念体である。

霊魂または霊体というのはこれであります。

物質は実相宇宙の投影が認識作用によってその霊妙性を捨象されて生じたバイブレーションの体でありますが、この物質の体に、現象生命の体が複合して、肉体人間としてあらわれているのであります。

だから人間は大別すると二種の体が重複しているのであります。

われわれは体が一つしかないと思っていますが、肉体と霊体とが重なり合って一つに見えているのであります。

5919a hope:2015/10/09(金) 10:47:32 ID:cEpBaIdo

>>5918 a hope所感)

この後には現象(肉体)人間が現象界に現われてくる仕組みがとても詳しく述べられています。
その時に、よく混乱してしまうのが、「霊体(霊魂)」と「霊」の違いですが、その説明は、p173にあります。

<<仏教では「霊」という言葉を使いませんが、神道やキリスト教では「霊」という字をよく使います。仏教では「霊魂」というものを否定してしまっていますので、「霊」という字を特に嫌う方があります。しかしこの「霊」というのは「物質を超越した」「物質に障礙せられぬ」「自由自在な」「不可思議な」「無礙な」というような意味をもっているので、必ずしも霊魂のことではありません。幽霊などでも、閉め切っておいても、無礙に不思議に室内へ闖入(ちんにゅう)して来るというので、霊妙不可思議なので幽霊と言うのです。「霊の光」という言葉が嫌いならば、不可思議光とか無礙光とか言えば仏教徒に喜ばれるでありましょう。同じことを指しながら、言葉で争うのはみっともよいことではありません。>>

つまり、谷口雅春先生は『霊魂・霊体・幽霊』という言葉は主に物質的現象で使われて、
『霊』という言葉は「物質を超越した」「物質に障礙せられぬ」「自由自在な」「不可思議な」「無礙な」というような意味でつかわれているようです。

ここのところは、霊魂の存在(スピリチャル)を否定する唯物論者にはとても理解しがたい箇所なのではないかと思います。

5950「訊」:2015/10/22(木) 10:04:53 ID:XHjRyBkA

 誌友会に無関係な投稿は、削除でよいのではないでしょうか。




5951トキ:2015/10/22(木) 10:17:39 ID:wrjEtJjs
>>5960

 ご提案、ありがとうございました。
近く、適当な時期に削除をさせていただきます。

合掌ありがとうございます

管理人敬白

5952「訊」:2015/10/22(木) 17:11:14 ID:pyt3hUfk


a hopeさんですが「かなり可哀相」です。このスレは例えば、雅春先生のファンが集う場ですよね。AKBファンクラブでAKB批判はナシですよ。どうしても批判したければ、「谷口雅春アンチ」なスレでも(一時的に)開始され、そこでされればよろしいと思います。(但し「論拠不在」のキリッ系投稿は「かなり笑えます」のでご注意!)

 と、まあ、雅春先生ファンが、雅春先生の御思想を「是」としてやり取りを進めるスレッドです。「非」から雅春先生にアプローチされる方は、他スレでやって頂きたいです。ムズカシイんですよ、司会って(笑)。妨害珍文を注意すると、「あなたは和解してない」とか言われるんですからね(笑)。「ウンコは食卓の上ではなくトイレで、それが和解です」「珍文は珍文掲載場へ。人地処の三相応を得るのが和解なんですからね」・・・・・・・・そんな説明をしても、読んでおりませんからまあ、いずれにせよ司会者のa hopeさんですが、「かなり可哀相」です。




5953a hope:2015/10/23(金) 10:15:20 ID:cEpBaIdo

>>5952「訊」さま

あたたかいご助言をありがとうございます。

このweb誌友会板は、谷口雅春先生の教えでもある聖典「生命の實相」の真理を学び合い、研鑽し合うための板だと認識しています。

ですから、わたしの所感や解釈がその「生命の実相の真理」を基準に考えて、間違っている場合はいくらでもご批判くださってかまわないのですが、
ここのところわたしの人格や言動への批判や、本来の「生長の家の教え(谷口雅春先生の教え)」とはかけ離れた投稿内容が続いていました。
(今はトキさまが削除してくださってありますが・・・)

ですから、再びわたしがこのweb誌友会で書き込みを始めることにより、またそのような板の目的とは違う投稿が開始されるのではないかと危惧しております。

わたしからみれば、一連のそのような内容の投稿は「生長の家の教え(谷口雅春先生の教え)」への反逆であり、その勉強会への妨害行為としか思えません。

5954「訊」:2015/10/23(金) 11:02:39 ID:Ug2XjY8s




 まあ、司会者批判が来るってことはそれだけ、「雅春先生のご思想には問題がないため」なんですよ(笑)雅春先生の御思想自体に問題あらば、反対者はそっちに向かうんですがデキナイんだもの(笑)で、それじゃ虚しいから「司会者を攻撃する」んです(笑)。

 「あ、この方は今、私を注意した!」

 と言って、そしてつづけて「和解してない!」

 と来ます。さらには和解してない(=自分基準の和解なんだけどw)を以て今度は「教えに潜む二項対立(キリッ)」と来ますから、虚しさがさらに加速します。

 まあホント、高級用語で粉飾してるからわかりにくいダケでして、反対者の論法カラクリは笑えるくらいに単純です。ところで「オズの魔法使い」?だったと思うけど、人々を脅してた魔女の裏側にいたのは「ちっちゃいおじちゃん」だったですよね?(笑)雅春先生の反対者って、あれです(笑)あの、「ちっちゃいおじちゃん」(笑)

 用語粉飾してるからオッ!ってなるだけでして内容精査すれば・・・・・・「ちっちゃいおじちゃん」(笑)雅春先生の思想そのものには反論できないから、司会者を攻撃して悦に入っているダケなんです(笑)





5956シャンソン:2015/10/23(金) 21:50:13 ID:U14Q8fEE

  掲示板でドロドロとした詮索と喧嘩の嵐
 http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&amp;mode=res&amp;log=4013

5957シャンソン:2015/10/23(金) 23:14:58 ID:OmuqqVZI
 誌友会関連者様へ

見ている人たちも、ここが何の版なのか、現在のテキスト・司会などが
どうなっているのか判然としないと思うので、誌友会のお知らせの再掲示をお願いします。

5958a hope:2015/10/24(土) 00:12:35 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第37回 web誌友会 案内

期間   10月1日〜10月31日まで

テキスト 「生命の實相」第21巻 第4章
      「生命の實相」第22巻  聖語篇/精神分析篇

内容   『人間の実相および仮相』
       『智慧の言葉』 『精神分析による心の研究』
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆


>>5957 シャンソンさま

ご指摘くださり、ありがとうございます。

5959a hope:2015/10/24(土) 09:08:25 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第22巻  精神分析篇 「精神分析による心の研究」より

p112

「生長の家」は近代の精神分析をその教えの中にとり入れている。

精神分析が人間に与えた功績は、病気という象徴を通して、人の心の奥深く潜んでいる「迷い」に穿ち入り、その「迷い」(いろいろの欲望の紛糾)を掘り出して白日下にその正体を暴露し、その「迷い」を去り、欲望を正しくしたとき、ひとりでに病気の癒える事実により、病気とは「迷いの影」であり、「欲望の紛糾」の投影にすぎないことを科学的に明らかにしたことである。

諸君はここに語られたる病者の心理描写をただ興味本位に読んでしまうだけでなく、読みながら自分の心のうちに、この話のうちにある患者と同じ種類の「迷い」が潜んでいないかを反省し、反省し、「迷い」があればその「迷い」を捨て去り、懺悔の生活の上にあらわし、いろいろの虚偽や仮面や口実で修飾しなくともそのままで完全円満な「神の子」たる自己生命の実相を自覚せられたく希(こいねが)う。

ただしい生活は心を正しくし、正しい心は病を癒やすのである。

5960a hope:2015/10/25(日) 16:55:51 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第22巻 p119〜

「病気でありたい意志」

患者の有する「暴露の抵抗」の性質について説明しておこう。

簡単に言えば神経症患者はその神経症に執着があるのである。

不思議とはいえ、患者の潜在意識は、自身のもっている病気を生活の必要品としていたわっているのである。

患者は悪の世界へ現実的に堕落するのを防ぐ防御癖として、その病気をこしられたのであり、同時に自分の病的な欲望を象徴的にその病気によって満足させているのである。

彼はこの病気なしには生活に耐えられないのである。

彼の隠れたる迷いの心は健康になることを恐れて、病気でいたいことを欲しているのである。

精神分析によって人間の心を研究したものでなければ、この不思議な「病気でありたい意志」を患者がもっているということは解しがたいであろう。

しかし多くの精神分析の結果によると、神経症患者は病気によって、周囲の人に対して暴力をふるい、勝利感を味わい、不快な仕事を避けようとしているのである。

このことは読んでいるうちに諸君にわかってくるであろう。・・・

5961a hope:2015/10/25(日) 16:57:24 ID:cEpBaIdo

>>5960 a hope所感)

わたしも、過去に神経痛を経験したことがあります。

とても痛くて、大変な思いをしていたので、まさか自分の潜在意識に「病気でありたい意志」が存在したとは信じられませんが、
思い当たることがあるのです。

それは、ちょうどその神経痛を患っていたときが、仕事で必要な資格試験の直前で、
その試験が、わたしにとってはかなり難しい試験だったので、そのことを相当なストレスに感じていたのです。

そして、当時のわたしの主治医の先生は診察の度に、「その神経痛は、その試験が終われば治るよ」と言っていました。

そして、本当に、試験が終わるとその神経痛は治ってしまいました。

優秀な医師というのは、病気が心(ストレス)から来るということをちゃんとわかっているのですね。

5962山川海:2015/10/26(月) 13:19:08 ID:AmFLWX.o

「ただもうありがたい!」という感謝の念はいっさいの「内心の錯綜」を溶かし去る力があるのである。だから、心の悩みを暴露された人が「天地一切のものと和解せよ」との聖典巻頭の神示に触れるならば、分析によって抉(えぐ)り出された自己内心の葛藤の傷が、ただちに温かい神愛の被覆を受けて、痕型(あとかた)もないように癒えてしまうのである。 ( P180 〜 181 )


頭痛なんかも、心の葛藤のケースがありますね。レントゲン検査、血液検査などをしても異常がない。医師から、どういう時に頭痛があるのか、問診で医師が“ 大笑い ” 、本人は大真面目ですが、医師からそれをやめたら治りますと言われて、本当にそれが終わったら治りましたね。


今でこそ、何か、震災や事故、事件があるごとに、精神分析やカウンセリングの大切さがクローズアップされますが、谷口雅春先生は、当時から 取り入れ、説かれておりました。

そして、心の傷を、神の愛に包まれた、感謝の念にまで導いて、当時の各界の指導的立場にある方々にまで、多大な影響を与えてきました。

5963a hope:2015/10/27(火) 08:04:35 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第22巻 p140 後から4行目〜

神経的に現われる慢性病患者は、それが胃病でも、心臓病でも神経痛でも、ないし如何なる病気でも、自分の病気を世界にまたとない複雑精巧な病気であると思っていたいのである。

誰も自分の病気をなおすことができない――自分の病気は誰よりも偉いぞ――こう思うだけで彼は自分が誰よりも偉い気がするのである。

いろいろの治療を取り替え引き替えやってみたけれども治らなかったといって自慢そうに話している病人にはよくこんなのがあるのである。

彼は非常に自尊心が強いのである。

しかし、裸(はだか)では実力がその自尊心に伴わないので、病気の鎧を着て周囲を、家人を、医者を征服し、至る所に凱歌をあげようとするのである。

しかし彼が『生長の家』を読む。

最初は彼の迷いが『生長の家』の語る真理を反発し、抵抗し、ついに『生長の家』を捨てて読むまいとする。

しかし彼が強いて『生長の家』を読めば、彼の生命はついに真理を自覚する。

自分の本質は神の子であって、外から病気の鎧を装わないでもそのままで勝利者であることを自覚する。

この時、彼は「病気の鎧」を装う必要はなくなって脱いで捨てる。

この時忽然彼の病気は癒えるのである。

5964a hope:2015/10/27(火) 08:05:34 ID:cEpBaIdo

>>5963 a hope 所感)

『生長の家』(生命の實相)を拝読すれば、病気が癒える・・・。
それは、「人間神の子」の真理を自覚するからなんですね。

「人間神の子」の自覚とその真理の伝道、「生長の家」の信徒にとってそれ以外に重要なことが他にあるのでしょうか?

5965a hope:2015/10/27(火) 08:09:05 ID:cEpBaIdo

>>5963 山川海さま

Web誌友会ご参加、ありがとうございます!

P180 〜 181 のご紹介部分は、わたしの聖典にもしっかりと赤線が引いてありました。

<<今でこそ、何か、震災や事故、事件があるごとに、精神分析やカウンセリングの大切さがクローズアップされますが、
谷口雅春先生は、当時から 取り入れ、説かれておりました。
そして、心の傷を、神の愛に包まれた、感謝の念にまで導いて、当時の各界の指導的立場にある方々にまで、多大な影響を与えてきました。>>

わたしは、心の底から湧き上がってくるような「本当の感謝の気持ち」を体験できたとき、
人は癒されるのではないかと感じています。

聖典を拝読するだけで人々をそこまで導くことができる教えって、「生長の家の教え」しかありませんね!

5966a hope:2015/10/30(金) 08:28:19 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第22巻 p154 5行目〜

・・・では、この婦人の公衆恐怖症が癒されたあとを、もう一度たどってみよう。

彼女は彼女自身が神によって選ばれた特に聖別された人間であるということを信じていた。

それは実に他に打ち勝って他を見おろしたい欲望の転化であった。

この神聖な自身を外界の誘惑によって汚してはならない。

そのためには自身をひとりで外出させないように公衆恐怖症をこしらえ上げる必要があった。

そのため潜在意識が罪の防御癖としてこの公衆恐怖症を造っているのである。

実に彼女の病気が治り始めたのは自身が特に聖別された人間であるという考えを捨てて「普通の人間」になろうと決心したときにおいてである。

すなわち周囲を見下そうとする驕慢の王座を捨てて、常人の間に下ろうと決心できたときである。
(つづく)

5967a hope:2015/10/30(金) 09:04:45 ID:cEpBaIdo
>>5966つつき)

なぜ彼女が驕慢の王座を下りて「普通の人間」になろうと決心することによって病気が治るかというと、人間が尊いのは、そんな驕慢の王座にいることによって貴いのではないということが解ってきたからである。

「生命」は「神の子」であるから、外界から誘惑されても常人同様生活を送ってもそんなことでは決して汚されることがないということが解ったからである。

だからこういう場合は、患者の「生命の実相」は何か特殊な生活をしなれば貴くなれないというようなものではなく、常人生活そのままで「生命」は限りなく尊く価値あるという真理を自覚させ患者自身をして「普通の人間」になろうと決心せしめたならば精神分析家の仕事は終わったも同然なのである。

そのためには、患者が実は医者の治療に対して治るまいとして抵抗している事実を精神内容の分析によって暴露すること、なんのために彼が治ることを欲しないのかその奥底の夢を暴露して彼を納得せしめるにあるのである。

すなわち患者をして「このままで実在は調和している。あなたの生命はいろいろの艶つけしないでも貴い、普通人のままで生命は貴いのだ」という最後の確信に到着せしむることによって自分だけが神に聖別されているという夢を捨てさし、普通人として普通の生活をしようと決心せしむるにあるのである。

誤れる理想主義は一種の虚栄である。

この虚栄の感情は、人を自己欺瞞に導いて行き、本当の真実なもの人間的なものを軽蔑し見下(みおろ)するようにならせる。

ここにこの種の患者の心の底を暴露すべき心理的鍵があるのである。

5968a hope:2015/10/30(金) 09:09:35 ID:cEpBaIdo

>>5966 >>5967 a hope所感)

<<誤れる理想主義は一種の虚栄である。
この虚栄の感情は、人を自己欺瞞に導いて行き、本当の真実なもの人間的なものを軽蔑し見下(みおろ)するようにならせる。>>

ここのところは、わたし自身が特に自戒すべきところだと感じました。

ですが、ふつうに生活していると、「普通の生活のありがた」さってなかなか分からないのも事実だと思います。


この前、TVのトーク番組に「ホリエモン」こと、堀江貴文氏が出演されていましたが、
彼の、「刑務所内の食事は美味しかったです」という発言に驚きました。

以前の贅沢すぎるような生活が続いていたのでは、「普通の食事のおいしさ」を彼が実感することはなかったかもしれませんね。


御飯がおいしく食べられる幸せ! 家族が側にいてくれる幸せ! 仕事に行ける幸せ! ここで真理のお勉強ができる幸せ! 普通であることの幸せ!

あー、わたしは本当に幸せだ!!

5969a hope:2015/11/01(日) 00:41:35 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第22巻 p177 3行目〜

現在(いま)わたしはこんなに複雑な精神分析のやり方は用いていない。

こういう複雑面倒な実例を挙げたのは「肉体は心の影」であるという真理を明らかにして読者がみずから自己を省みる資料としたいためである。

上京後は毎日百数十人の人が仮道場へ押しかけて来るのであるから、フロイト博士やステケル博士のように一人当たりに長時間または長日月を費やして精神分析を行っていては間に合わないのである。

また一人一人密室で対談するのでなくて、多勢(おおぜい)の面前でなんの隠しもなしに対談するのであるから、いくら丁寧に質問したとて若い婦人が発表して恥ずかしいような心の秘密を打ち明けるわけもないのである。

だからわたしの精神分析方法は直感で相手の「心の障(さわ)り」に鋭いメスで穿ったような一語または数語を投げかけて、その内心の錯綜を隠蔽する余地を与えないで追撃する。

しかも具体的な心境を指摘すると満座の中で恥をかかせるようになるから、具体的なことを言わないで、「あなたはこういう心を持っているでしょう。その心を顧みて捨てなさい」と、知らぬ人から聞けば抽象的な、そして本人がきけば具体的にひしひしと自分の心の秘密に触れて、そういうまちがいの心を捨てずにはいられない心に達せしめるのである。

一例をあげれば・・・ (略)

p179〜
「肉体は心の象徴(かげ)である」この法則より分析してゆくときは、フロイト博士や、ステケル博士のように長い間の対談が要らないで、しかも、神経症状が治るだけでなく、このような具体的症状さえも治ってしまうのである。

(略)

p180 後から5行目〜
げに、三界は唯心の所現、この婦人の心が分析されてその不純物が除き去られると、肉体の病気のみならず環境まで変わってしまうのであった。

フロイト博士や、ステケル博士流の回りくどい誘導的質問に比べて、この精神分析がかくのごとく短期間に効を奏したのはなぜであろうか。

それは相手の打ち明け話を導き出すように誘導する代わりに単刀直入その婦人の心の秘密に貫き入ったことと、いっさいの「内心の障り(インナー・コンプレックス)を溶かし去るのに聖典を読んで得る「ただもうありがたい」という感謝の念をもってしたからである。

5970a hope:2015/11/01(日) 00:43:46 ID:cEpBaIdo

>>5969 a hope所感)

谷口雅春先生は「生長の家」をはじめられた当初は、一人一人に時間をかけて対応されるという精神分析の方法を用いられ、
それでも解決しなければ知り合いの霊媒師を紹介したりもされていたようです。

ですが、徐々に信徒が増えてくると、その方法では間に合わず、上に謹写したような「生長の家」独特の方法で個人救済をされていたのですね。

この「精神分析篇」を拝読していると、「生長の家の教え」が単なる、神さま任せの宗教でなく、
精神分析的方面からもきちんと研究された「教え」であることがわかります。

本当に「生長の家の教え」って奥が深くて、お勉強すればするほどおもしろくなってきますね!

ところで、もう日にちが変わり 11月になってしまいました(笑)
11月からは、第38回 web誌友会 を開会させていただきます。
テキストは第23巻になります。

今夜はもう遅いので、明朝、開会のお祈りをさせていただきます。

それではみなさま、おやすみなさい。

5971a hope:2015/11/01(日) 09:00:41 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます。
11月に入りましたので第38回 web誌友会を開会させていただきます。
それでは、開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、今月の「今の教え」と「本流復活」を考える WEB誌友会板/2 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5972a hope:2015/11/01(日) 09:01:53 ID:cEpBaIdo

つづきまして、テキストである「生命の實相」第23巻 p2より、謹写させていただきます。


○われらにとっては毎朝が新生である。

われらは朝ごとに新しく生まれかわる。

一日の務めを終わって振り返るとき、そこにどんな過ちがあろうとも、われらは夜ごとにそのすべてを大生命にあずけて新生の準備をするのである。

かの大海原が地上のすべての塵芥(じんかい)を呑吐(どんと)しても、すべてを浄化して澄みきっていると同様に、われらがすべての過ちを大生命にあずけて眠るとき、大生命はわれらの罪すべてを浄化して下さるのである。

この偉大な大海原の浄化力よ、この不思議な大生命の罪の消去力よ!

過去がいつまでもその呪いをもって、われらに追い迫っていると思うのは誤れる見解である。

過去はすでに過ぎ去ったものである。

涙はすでに流されたのだ。

過去を捉えて離さないものはただ自分の心でしかない。

過去の過ちを消す極意はただ過去からの心を放つにある。

毎日の朝は一日の過去から心を放って新しく生まれかわる好機である。

「生長の家」は新年の朝において半生の過去から心を放って新生する。

5973a hope:2015/11/01(日) 09:14:53 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第38回 web誌友会 案内

期間   11月1日〜11月30日まで
テキスト 「生命の實相」第23巻 【常楽篇/経典篇二/宗教問答篇】
内容   久遠常楽の生活/聖経『天使の言葉』講義 /人生の悩みに答う

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5975a hope:2015/11/01(日) 21:41:47 ID:cEpBaIdo
>>5974さま

お返事を別板に書きました。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11788/1346745644/4687

5976トキ:2015/11/01(日) 22:14:00 ID:IdEbqKhQ
a hope様の誌友会でのご文章は評判がよく、管理人宛にも賞賛のメールが届きます。
他の掲示版でも、賞賛の文章が掲載されています。

 管理人としても、a hope様を支持します。

妨害に屈せずに頑張って下さい。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5978山川海:2015/11/02(月) 17:00:57 ID:RM7MmwUQ


夜、就寝前 と 朝、起床後に

「 お父さん、ありがとうございます。 お母さん、ありがとうございます。 」

と、20回以上、小声で唱え、30日間、実践してみて下さい。

運命が、“ バッ ” と 変わりますよ。

5979a hope:2015/11/03(火) 00:25:46 ID:cEpBaIdo

>>5978 山川海さま

はじめて生長の家の練成に参加した時、「お父さんありがとうございます。お母さんありがとうございます。」
と言いながら畳を拭くと言う「感謝行?」を経験させていただきました。

当時はまだ「教え」がよくわかっていなかったので、ドン引きしてしまいましたが・・・💦。


わたしの両親は健在ですが、友人のなかにはご両親のどちらかを亡くされたり、
もしくは両方を亡くされてしまった人もいます。

その友人たちは口をそろえたように、両親が健在のわたしがうらやましいと言います。

本当に、両親が生きているうちに感謝できることほど幸せなことはないかもしれません。

今夜から、さっそく「お父さんありがとうございます。お母さんありがとうございます。」
と20回唱えたいと思います。

今なら、感謝の気持ちが真っ直ぐに伝わるようなきまします。

5980a hope:2015/11/03(火) 11:45:12 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p6後から3行目〜

四、神は自己の内面に潜在している

われわれが苦悩の底から、また悲しみの深淵から、神を呼ぶのは一見「外」にある神を読んでいるかのように見えますけれども本当はそうではないのであります。

われわれが「苦しい時の神頼み」をしたく感じますのは苦悩というものは、神を呼べば消えるということを本能的に知っているからであります。

換言すれば神無きことが苦悩であることを先見的に知っているからであります。

誰が先見的に知っているかといいますと、彼自身が知っている。

彼自身が神を先見的に知っているのは、彼自身のうちに神が本来宿っているからであります。


苦悩がそんなに感じられず、五官の歓びが人間を、誘惑している間は心は五官の方へ気をとられていますので、実相(かみ)を心に見ない空虚感を感じないのであります。

空虚はあれど空虚感は伴わないのであります。

幾年も幾十年も、移り変わる年月のあいだ、人生の表層表皮の快楽に気をとられて、神を呼ばなかった心が、一朝事変(いっちょうじへん)が起って絶体絶命、人力のいかんともすべからざる苦境に立つとき、彼は「神こそ全ての全て」「神こそ最後の幸福の源泉」であることを思い出してはじめて神を呼ぶことになるのであります。

5981a hope:2015/11/03(火) 11:53:12 ID:cEpBaIdo

>>5980 a hope所感)

<<われわれが苦悩の底から、また悲しみの深淵から、神を呼ぶのは一見「外」にある神を読んでいるかのように見えますけれども本当はそうではないのであります。>>

誰でも、一度は「神さま、助けて!」という『神頼み』をした経験があるのではないでしょうか?

さらに、英語圏の人たちは、日本人よりもっと頻繁に「Oh my God!」 と叫びますが、
それも、無意識に自己内在の神を呼び出しているということになるのでしょうか・・・?

なんか、興味深いですね。

5982a hope:2015/11/04(水) 09:18:18 ID:cEpBaIdo

「お父さん、ありがとうございます。お母さん、ありがとうございます。」の効果なのかどうかわかりませんが、
さっそく運命が変わり始めたような予感がしています。

具体的な報告ができないのがもどかしいですが、今までずっと足踏み状態だったある問題が昨日から解決に向かい始めたのです。

信仰とは「信じて仰ずる」と書きますから、どれだけその「教え」を信じられるかで運命も決まるのではないでしょうか?


ですが、世の中には、真理からかけ離れたような「暗黒思想の教え」も存在します。

谷口雅春先生はそのような間違った教えのことを「虚説」といって、徹底的に排撃されました。

わたしたちも、その虚説に惑わされたいけませんね。



その教えが「真説」か「虚説」か、見分けるのは以外に簡単なのではないでしょうか?


信仰していて幸せを感じて、運命も好転してくるのであればその人は「真説」を信仰しているのでしょうし、
信仰すればするほどストレスを感じ、運命もよくない方に進んでいるようであればその人はもしかして「虚説」を信仰しているのかもしれません。

そんな時は、ちょっと立ち止まって自分の信仰してる「教え」が本当に正しい教え(真説)なのかどうか考えてみてもいいかもしれませんね。


わたしたち、生長の家の信徒は、「聖典」に書かれてある通りに「教え」を信仰していけば必ず幸せになれるのですから、
こんなに嬉しいことはありませんね!

5983a hope:2015/11/05(木) 23:06:08 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p9 後から5行目〜

人間知でなんとかやれると思えるような日常の仕事の場合には人は往々にして神を呼ばない。

しかし、人間智でどうにもできないギリギリのところまでいったとき、どうしても人間は神を呼びたくなるのであります。

「神」という言葉を使わないにしてもなんとなしに漠然とした人力以外の「大いなる救いの御手」を呼ばずにはいられなくなるのです。

これは決して今まで軽蔑していた宗教的偏見に屈従したからではありません。

われわれは平常は小知才覚で理屈をつけて自己が本能的にすでに知っている神を否定していますけれども、人間的小知才覚が役に立たなくなった時、そのすでに知れる神を呼ばずにいられなくなるのです。

戦争、大事変、危機一髪の重大事に際して、いかに多くの平常の「無神論者」が神を読んだことでありましょう。

だから、無神論は理論的には存在しえても本能的には存在しえないのであります。

5984a hope:2015/11/05(木) 23:08:15 ID:cEpBaIdo

>>5983 a hope所感)

ほとんどの人間は(それがたとえ無神論者であったとしても)、人間知ではどうにもならないような危機的状況に陥ると、
「神」もしくは「大いなる救いの御手」を呼ばずにはいれなくなるのですね。

<<だから、無神論は理論的には存在しえても本能的には存在しえないのであります。>>

どんなに凶悪人であっても、どんなに無慈悲極まりない人であっても、本能的には人間はみんな神を信じているということですね。

それって、「人間はみんな神の子だ」という真理の証明みたいな気もしますね。

5986a hope:2015/11/06(金) 08:49:20 ID:cEpBaIdo
>>5985

組織板にお返事を書きました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322573377/2578

5987a hope:2015/11/06(金) 09:00:53 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 p10 9行目〜

絶望、失意、落胆の極みにおいても、自己よりいっそう偉大なるもの――「なんらかの形における神」を呼び続けることのできる者は、やがてはその困難を切り開き、その絶望から起き上がることができる人です。

神を呼ぶことができない人が絶望したときは、それこそ本当に絶望です。

なぜならその人は「いっそう大なる力」より汲むことを知らないからです。

いかに平常強き者も、自己に限られたる力以上の力に汲むことを知らない人は弱き人であります。
(つづく)

5989a hope:2015/11/07(土) 08:47:24 ID:cEpBaIdo
>>5987 つづき)

しかし、われわれは失意の時、危急の時、困難の時ばかりに神を呼ぶのでは、それは危急を逃れるのに役立つばかりで、常に偉大に生長する道ではありません。

常に偉大に生長するためには、常にわれらは神を呼ばねばなりません。

その人がいかに大きく生長するかは、その人の神を呼ぶ度合いで定まるのです。

神を呼ぶのも「外(ほか)にある神」を呼ぶのでは、それはかえって依頼心を増長せしめることになります。

それは偶像崇拝になります。

神を呼ぶのは常に自分に対(むか)って呼びかけねばなりません。

自分の内に「無限者(かみ)」がある。

その無限者、――無限能力者、全能者に対って呼びかけなければなりません。

これに呼びかける時、天地に満つる無限の親様の力が自己自身の内に出口を開いて、滾々(こんこん)と、必要な力を自分自身の内に湧き出させてくれるのであります。

5990a hope:2015/11/07(土) 08:50:50 ID:cEpBaIdo

>>5987 >>5989 a hope所感)

わたしは、ここに「生長の家の教え」がカルト宗教ではなく、健全な思想の宗教である証拠が述べられていると思います。

つまり、「生長の家」は創始者、総裁、または、特定の神さまなどの対象物を偶像化(理想化)して、崇拝するような教えではないのですよね?

『神殿は「生命の実相」であり、神さまは自分自身の中にいる』という、その真理を広めるのが「生長の家」の人類光明化運動で、
だからこそ、分け隔てなく世界中にその真理を広めることができるのだと思うのです。


「生長の家の教え」というのは、右翼であっても左翼であっても、日本人であっても外国人であっても、強者であっても弱者であっても、
罪人であっても善人であっても、肉食であっても草食であっても、富者であっても貧者であっても、
誰でも分け隔てなく受け入れることのできる本当に度量の広い世界一の「教え」なんですね!

5991山川海:2015/11/07(土) 12:50:48 ID:6EFcssHY

《 自分の内に 「 無限者(かみ) 」 がある。 》

素晴らしいですね。
無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給、無限の歓喜、無限の調和が、
すべて自分の内にある。
それを、神想観で観ずることによって、現象世界に映写(project)してゆく。
自らの内に 無限の可能性を秘めているということが、光明思想の大きな特徴の一つであると思います。

5992a hope:2015/11/08(日) 10:50:28 ID:cEpBaIdo
                
あなたの力、あなたの智慧、あなたの愛、あなたの富は、実は〝わたし〝 の力、〝わたし〝 の智慧、〝わたし〝 の愛、〝わたし〝 の富の自己実現であることを、やがてあなたは知るときが来るであろう。

それを知るとき、あなたは〝小さいあなた〝 でなくなるのである。

あなたは、その時〝自分〝 という〝小さな殻〝 を破って「新たに生まれる」のである。

「新たに生まれる」ということは、そのようなことなのである。

<<〝無限者〝 >>の自覚に入ることである。

その時、あなたの生命は〝わたし〝 と共にひろがり、虚空に満つる普遍者となるのである。

その時、もう現象の〝生〝 もなく〝死〝 もない。

あなたは生死を超え、生滅を超え、全智にして普遍、すべて包容する宇宙的な大愛の所有者となるのである。

あなたが、そのような豊かな実を結ぶことは、親樹である〝わたし〝 の大いなる悦びであるのである。
              
 
『神 真理を告げ給う』 p90 より

5993a hope:2015/11/08(日) 10:52:33 ID:cEpBaIdo

>>5992 a hope 所感)

ちょっと不思議なことなのですが、>>5991の山川海さまのコメントを拝見したあと、
なんとなくいつも枕元に置いてある、聖典『神 真理を告げ給う』を手に取りたくなって「パッ」とページをめくりました。
そうすると、

<<〝無限者〝 >>

という文字が眼に飛び込んできたのです。

でも、真理のお勉強をしていると、こういうことは頻繁に起こりますね(*^▽^*)

5994a hope:2015/11/10(火) 08:41:45 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p16 6行目〜

多くの人たちは物質の世界で幸福を求め、平和を求め、調和を求めて、どうしたら、それが得られようかと日夜奔命に疲れていますが、本当の平和、本当の調和、本当の幸福は物質の世界から得られるものではありません。

物質の「無」ということを悟る――物質というものは「マイナスの存在」であるから、いくら加算してもマイナスを積みかさねても積極的(プラス)の歓びというものは出て来るものではないということを悟って、物質に頼った心をカラリと捨てさり、本来のわが実相(神なる無限の力)に頼って障礙(しょうげ)に会って障礙を見ず、苦しみの中にあって苦しみを見なくなるとき、突然本当の調和というものがわれわれの心の世界だけでなく現実の世界にまでも現れてくるのであります。

5995a hope:2015/11/10(火) 08:45:54 ID:cEpBaIdo

>>5994 a hope所感)

出典が示されていないので本当はあまり触れたくはないのですが、部室板で「良寛禅師の逸話」(?)が紹介されています。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1357725489/875

<<障礙(しょうげ)に会って障礙を見ず、苦しみの中にあって苦しみを見なくなる>>
 という生き方とは、無実の罪を着せられてもなにも抵抗せず、言われるがまま、されるがままにされてしまう・・・そういうことなのでしょうか?

そう言えば、キリストも無実の罪を着せられて磔(はりつけ)にされ処刑されましたがその後復活し、キリスト教が興りました。

わたしは、良寛禅師も、キリストも「物質なし」の真理を完全に悟られていたからこそ、最終的に救われたり復活できたりしたのだと思うのです。

本当の悟りを得ていない業を持った人間が、聖者のまねをしても救われることも復活することも決してないと思います。

5996a hope:2015/11/10(火) 09:21:03 ID:cEpBaIdo

〝業〝 というものは本来ないから、過去の業に引っかかるなと教えてあるのは、実相に超入した立場について言うことであって、現象界にまごまごしていて、色々の欲情をもち、煩悩に引き廻されていながら、「業は無いのだ」と放言して悪業を重ねて行くならば、業果は覿面(てきめん)にあらわれて業報の中に沈んでしまわねばならなくなるのである。

〝業因〝 〝業縁〝 〝業果〝 は、あなたたちが現象世界の思慮分別の境界にいて、煩悩や欲情にふり廻されていながら、「業(ごう)本来無し」などと詭弁を弄して自分自身を晦(くら)まして欲情遂行の口実にしているような事では決して消えるものではない。

そして業果、業報は覿面にむくいられて来るであろう。

人は自分自身を晦まし得ても、因果の法則は眩(くら)ますことはできないのである。

だからあなた達は常に自己の心と行いとを顧みて善を修め、愛を行じ、よき業因を積むように日常の生活を慎むようにしなければならないのだ。

「神 真理を告げ給う」p91 〜92 より

5997曳馬野:2015/11/10(火) 09:25:48 ID:LjM.KVNs
至道無難禅師のエピソードに、懇意な商家に赴いて、お金が紛失してどうも禅師のほかには思い当たらぬというので、禅師に問い質したところ、そのお金を返してよこした、まあそんなものかと思っておったが、後に紛失したお金が出てきた、申し訳なかったといって詫びると、にこにこしてただお金を受け取ったという。またある老人庵を提供して禅師を住まわせたところ、姪かだれか懐妊した、禅師が相手だという、責め立てると忍び忍びてそういうことになったというた、老人は怒って禅師を追い出した、のち娘が白状して、男は別にいて禅師は見も知らぬ人であったという、老人が詫びるとやっぱりにこにこ笑っただけであった。これをどう思いますか、白陰禅師に逸話がだぶっている、聖人というものはかくあるべしか、いいや時代が違う云々というような人が多いんでしょう。自分に引き比べて下さい、なぜにこう我慢というかすなおというか、うっふ我慢という、これわがままと読むんです、いつか必ず現れるからという期待の辺に行なう、まったくそうではないんです。よくよく鑑がみて下さい、禅師はただニールバーナ涅槃寂静であっただけです、如来もってなすのに方便力の故に涅槃を示す、ことはまったくほかにはなかったんです。ただただ頭の下がるのはこれです、仏の生活、仏であるということはまさに四面楚歌です、至道無難禅師がかつかつ正受老人に伝えるほかに、あるいはまったくこれを知るものはなかったです。これをまっとうする、ただただ怨罵の毒を歓喜しと云われるごとくに、誤解噂ものはこうあるべきの、残虐陰惨な世の中に放り出されるだけです。たとい仏教を知る狐狸の類です、舌頭たたわわとして定まらず、世の嬰児の五相完具するが如しと、なんの武器も取り柄もなしの、仏という陰日向なしなんです、裏を見せ表を見せて散る落葉かな、良寛さんのような無一物の暮らしがかつかつ成り立つ。世間体お寺のあとつぎなど、こりゃもってのほかの余計ごと、身から出た錆を今にして痛切に思うわけです、しかも一柱身心脱落、ちらとも屈託あれば不可です。わしは七十過ぎて代を譲って、ようやく一人暮らしを始める、ほんにまあ始めからずいぶん方向違いでしたか。

http://www17.plala.or.jp/tozanji/teisyou/sidoubunan.htmlより

同じ話は色々あるんです。「本当の悟りを得ていない業を持った人間が、聖者のまねをしても救われることも復活することも決してないと思います。」この言葉が観念では一元論であるが現実は物質ありの二元論であることを証明している。

5998a hope:2015/11/10(火) 09:36:31 ID:cEpBaIdo

>>5996 a hope所感)

わたし自身も現象世界の煩悩に苦しむ、業を持った一求道者です。

ですから、聖典を学び続けて、三正行に励み、
<<常に自己の心と行いとを顧みて善を修め、愛を行じ、よき業因を積むように日常の生活を慎むように>>
努力していきたいと思っています。

5999a hope:2015/11/12(木) 10:08:05 ID:cEpBaIdo

兎も角、あなた達は現象世界で、五官の感覚によって、過去を意識し、現在を意識し、未来を想望しながら普通に生活している限りに於いては、自分の起こした想念の業果や、自分の発した言葉の業果や、自分の為せるところの行為の業果から免れることはできないのである。

それ故にあなた達は〝善き想い〝 を起し、善き言葉を発し、善き行為を務めてなさなければならないのである。

そうすることが新たなる善徳の業因をつくることによって互いに善と悪との業因が相殺されて、もし今後行う善徳の方が多ければ、過去に種子を蒔いた業因は発芽する力を失って、将来あなたの運命は、善き業因の結果のみを穫(か)り取ることになるのである。

これは因果を超越するのではなく、因果の数量的な差益計算でそのようになるのである。

普通の人間は、〝因果を超越する〝 などという超音速ジェット機のような離れ業を試みるよりも、地道にコツコツと善因を重ねて行く方が確実な過去の悪業消滅の方法である。

しかし「因縁を超越する」というのは因縁がなくなるのではなく、因縁がありながら、因縁のない世界に超入することである。

超音速のジェット機で飛行するならば自分は轟々(ごうごう)たる空気振動の音をたてながら、しかし自分はその音のとどかぬ速さで飛んでいるのである。

こんなハナレ技(わざ)は普通の人間が試みてもなかなか出来ることではない。


『神 真理を告げ給う』p94〜95

6000a hope:2015/11/12(木) 10:09:38 ID:cEpBaIdo

>>5999 a hope所感)

テキストから少し離れますが、〝業〝 や〝因果の法則〝 について考えていたら、『神 真理を告げ給う』の上の文章に出会いました。


<<超音速のジェット機で飛行するならば自分は轟々(ごうごう)たる空気振動の音をたてながら、しかし自分はその音のとどかぬ速さで飛んでいるのである。
こんなハナレ技(わざ)は普通の人間が試みてもなかなか出来ることではない。>>

↑のところを拝読しているときに、わたしは前回の中国での大会で見事なトリプルアクセルを決めて優勝した浅田真央ちゃんのことを思い出していました。

女子フィギュアスケートの選手が、トリプルアクセルを決めるというのは、相当なハナレ技だそうです。

過去からさかのぼってみても、世界中でたった6人しか成功させていないのですよね!

http://matome.naver.jp/odai/2141499045587180201

わたしは、〝因果を超越する〝 というのも、そのようなことなのではないかと感じました。

それは、相当な宗教的天才(聖者・聖人)にしかできないハナレ技なんですよね💦

<<こんなハナレ技(わざ)は普通の人間が試みてもなかなか出来ることではない。>>

って、神さまもおっしゃってますし・・・。


だったら、わたしたちはどう生きるべきなのでしょうか?

上の文中には、

<<それ故にあなた達は〝善き想い〝 を起し、善き言葉を発し、善き行為を務めてなさなければならないのである。>>

とありますが、具体的にはどうすればいいのでしょうか?


つづけて謹写していきます。

6003a hope:2015/11/13(金) 11:14:11 ID:cEpBaIdo

あなた達が善業を積み重ねて行くには、「与えよ、されば与えられん」の黄金律に従って、人のためになるものを与えるという愛行を積み重ねるのが最も確実で容易な道である。

〝与える〝 といっても色々の与え方があり、何を与えるかの問題である。

貧しい人に金銭を恵んで与えるもの其の人の一時的な助けにはなる。

その人が助かった程度だけ、あなたはそれだけ善業の種子(たね)を蒔いたことになる。

けれども金銭その他の物資を恵み与える場合には、その助けは永遠の助けとはならないで、その金銭又は物資が無くなる時までの一時的な助けとなるだけである。

その功徳は一時発芽して伸びただけで旱(ひでり)に遭って途中で枯れてしまう苗木のようなものである、物質を与える場合の功徳は一時的であるから、あなたが折角蒔いた善業の種子(たね)も発芽して少しだけ伸びて、あとは枯れてしまうのは惜しいことである。

折角あなたは与えたのだけれども途中で枯れてしまうようでは、あまりにも勿体ない事であるから、途中で枯れてしまうようでは、あまりにも勿体ない事であるから、途中で枯れないような永遠に伸びて生長して行くような善業の種子をお蒔きなさい。


永遠に伸び増殖して行くものを布施するならば、相手が受けた功徳は永遠に伸びるのであるから、その功徳があなたに撥ね返って来る功徳も永遠に伸びることになるのである。


それでは永遠に伸び増殖して行くような布施とは何を与えたらよいであろうか。

それは真理を与えることである。

〝人間・神の子、無限力〝 の真理を、あなたが人々に与えて、与えられたその人が真理を使えば、真理は永遠に減るものでなく、それを繰返し使えば使うほど光を発揮し、能率は増加し、その真理を又その人が他の人に伝えるならば、恰も鼠算用のように功徳が殖えて行くから、あなたに撥ね返ってくる功徳も永遠に伸び増殖して、最初蒔いた真理の〝小さな種子〝 がついに天を摩(ま)する巨樹のように伸びて行くことになる。

真理を与える功徳はまことに無限無尽であるといわねばならない。

                    ○

人を称賛する言葉を与える功徳も無限に伸びる功徳であるのである。

称(ほ)められることによって、その人が自信力を得、そうでなかったら困難に面して倒れてしまったかも知れない人が再び起ちあがる勇気を恢復し、捲土重来(けんどじゅうらい)の力をもって、何かの事業に成功し、その事業がまた多くの人々の為になる善き事業であり、救われる人々が無数に出るような場合には、あなたに撥ね返って来る功徳もまた無限に増幅して尽きる事がなくなるのである。

この世界を称讃の善き言葉で満たすことは、この世界ぜんたいを明るくすることになり、称讃の一つ一つの言葉は、相手を生かすだけでなく、全人類を光明化し、あなた自身を生かすことになるのである。


称(ほ)める事の功徳は、単に現象の相手の外形や外貌を観てほめるに止まらず、相手の実相たる〝神の子〝 を観じてそれを称め讃えるならば更に大なる功徳を積むことになるのである。

つまりそれは神想観を修して「心の世界」で相手の実相が完全円満なることを観て称め讃えるのである。

その時、相手が不良の子供であれば、優秀善良なる模範児童に一変し、相手が病気の人であれば、その病気が癒えることになるのである。

『神 真理を告げ給う』p95〜93

6004a hope:2015/11/13(金) 11:15:37 ID:cEpBaIdo

>>6003 a hope 所感)

わたしたちが「因果の法則」にできるだけ縛られないように生きて行くにはどうしたらいいのでしょうか?

神さまからのお答え その1
<<それは真理を与えることである。>>

神さまからの答え その2
<<つまりそれは神想観を修して「心の世界」で相手の実相が完全円満なることを観て称め讃えるのである。>>

それを実行すれば、

<<〝人間・神の子、無限力〝 の真理を、あなたが人々に与えて、与えられたその人が真理を使えば、真理は永遠に減るものでなく、それを繰返し使えば使うほど光を発揮し、能率は増加し、その真理を又その人が他の人に伝えるならば、恰も鼠算用のように功徳が殖えて行くから、あなたに撥ね返ってくる功徳も永遠に伸び増殖して、最初蒔いた真理の〝小さな種子〝 がついに天を摩(ま)する巨樹のように伸びて行くことにな>>り、

さらには、

<<相手が不良の子供であれば、優秀善良なる模範児童に一変し、相手が病気の人であれば、その病気が癒えることになる>>

ということです。


つまり、「因縁を超越する」ことができたキリストや釈迦、谷口雅春先生のような宗教的天才ではないわたしたち普通の人間であっても、
「人間・神の子」の真理の伝道(愛行)による『個人救済』をつづけ、常に相手の実相を観る『実相礼拝』を続けていくことにより、
善徳の業因ができて過去の悪業因が相殺され、自分の周りを光明化していくことが出来るのですね!

「生長の家の教え」ってほんとに完璧ですね!

6005a hope:2015/11/14(土) 08:41:38 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p41 3行目〜

わたしがこの世に来れる使命は「人間が神の子であり、霊的存在であり、永遠の生命である」という真理を人々に悟らせることにあるのです。


(a hope所感)

「生長の家」の信徒のみなさんは、創始者、谷口雅春先生のこの「ご使命」を御存知ですよね!

6006a hope:2015/11/15(日) 11:17:40 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p73 後から1行目〜

宗教的救いと申しますのは、人間が神そのままの自由自在の実相を実現することでありまして、病気とか貧乏とか、そんな一つ一つの外界の欲望がかなったから宗教はありがたい、かなわなかったから宗教はつまらないというようなものではないのです。

もっともっと根本的な救いが宗教的救いなのであります。

(略) p75 行目〜

では、宗教的救いとはいうものはどこから得られるか、それは宗門を叩いたり、教会を叩いたりしても、必ずしも得られるにきまってはいないのでありまして、「自分」というものの「実相」を叩くことによって得られるのであります。

「実相」と言えばなんであるかと申しますと、神がわれらを神そのままの顕現として創造(つく)り給いしままの「本当の相(すがた)」なのです。

その本当の相は、移りかわるわれらの肉体的存在――五官的存在――病み老い朽ち果てる物質的存在を言うのではないのです。

われらの五官的存在はわれらの本当の存在ではないのです。

「本当の自分」というものは金剛不壊な火にも焼けず水にも溺れぬ神に造られたままの神の子なる実相の自分なのです。

6007a hope:2015/11/15(日) 11:19:08 ID:cEpBaIdo

>>6006 a hope所感)

<<宗教的救いとはいうものはどこから得られるか、それは宗門を叩いたり、教会を叩いたりしても、必ずしも得られるにきまってはいないのでありまして、「自分」というものの「実相」を叩くことによって得られるのであります。>>

谷口雅春先生は、『本当の生長の家の本部は神界にある』とおっしゃられたと言います。

わたしは、もう、現象世界のどんな宗教団体にも所属するつもりはありません。
谷口雅春先生のお言葉を信じて、神界(「自分」の「実相」)の扉を叩き続けたいと思います。

6008a hope:2015/11/19(木) 10:12:35 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p75 後から5行目〜

人は両(ふた)つの世界に住んでいます。

その一つは「創世記」第二章七節に「エホバ神、土の塵を以て人を造り」と書いてある人間――物質的存在として、肉体的存在として幾様にも物質に縛られている人間であります。

もう一つは「創世記」第一章二十七節に「神その像(かたち)のごとくに人を創造したまえり・・・神その造りたる諸(すべ)てのものを視たまいけるに甚(はなはだ)善かりき」とある神のイメージとしての人間、至善至妙自由自在としての人間であります。


この二つの人間、実相の人間と物質の人間とが、「創世記」第二章七節の後半で交錯しているのであります。

ここに迷いの元(もと)があります。

すなわち「土の塵」という物質的制約の中へ、神はその精霊なる「生命の気(いき)を吹き入れ給うた」――それによって人間は「生ける霊」から「生ける物」へと転落したように見えているだけであります。

ここに人間は自由自在であると同時に、不自由極まる物質的制約の中にある、いわゆる現象人間が出来上がったのであります。

6009a hope:2015/11/19(木) 10:17:22 ID:cEpBaIdo

>>6008 a hope所感)

実相の人間と物質の人間の交錯・・・
「生ける霊」と「生ける物」への転落・・・
自由自在の「人間」と不自由極まりない現象人間・・・

全ての正しい宗教の本質は「唯神實相」の真理に万教帰一しているのに、それを悟りきれないわたしたち「現象人間」は、
その真理を自分たちに都合のよいように二元論的に解釈して、捻じ曲げて、伝道してしまう危険があるようです。

それは、キリスト教の歴史においても起こっていました。

ここには、わたしたち純粋な「唯神実相」を信仰する「生長の家」の信徒にとって教訓となるような、
とても興味深い現象的事実が書かれていると思いますので、続けて謹写していきます。

6010a hope:2015/11/19(木) 10:20:40 ID:cEpBaIdo
>>6009 訂正
「生ける霊」と「生ける物」への転落・・・ →「生ける霊」から「生ける物」への転落

6011a hope:2015/11/19(木) 10:45:47 ID:cEpBaIdo
>>6008つづき

「生命の實相」第23巻 p76 8行目〜

それで「土の塵」にて造られたる(換言すれば物質にて創られたる)人間ばかりを見ていて、これが「人間」であると思っている人間は、「エデンの園」(自由自在の実相境)を逐(お)い出だされた不完全な罪ある人間ばかりを観て、人間は罪人だ、罪人だと言っているのであります。

そういう人には五官に視える物質的な人間ばかりしか視えないのですから、無罪、無病、不苦、不悩な「神の造ったままの人間」(「創世記」の第一章において神が己れの像【かたち】に造った人間)が視えないのです。

そして人間は罪あるもの、病にかかるもの、苦しむもの、悩むものだと思っているのです。

そう思っているから自分の「念の創作力」によって罪を顕わし、病を現わし、苦しみ悩んでいる――言い換えれば「創世記」第二章のように、エデンの楽園から逐(お)い出されているのであります。

6012a hope:2015/11/19(木) 10:50:13 ID:cEpBaIdo

>>6011 a hope所感)

わたしたち「生長の家の教え」を信仰するものはどうでしょうか?

<<不完全な罪ある人間ばかりを観て、人間は罪人だ、罪人だ>>と言っていないでしょうか?

そして、

<<そして人間は罪あるもの、病にかかるもの、苦しむもの、悩むものだ>>と思っていないでしょうか?

わたしは自分自身の現実の姿をかえりみれば、とても返事ができません。

6013トキ:2015/11/19(木) 20:30:04 ID:nbDXBsXE
 キリスト教でも、最近、死海文書など、初期キリスト教の文献が多数出土し、
研究がされています。

 それらの本を読むと、初期のキリスト教の教えは、現在の生長の家
の教えとかなり近いものだったみたいです。現在の二元論的なキリスト教は、
イエス様の真意とは違うものだったみたいですね。

6014a hope:2015/11/20(金) 10:14:52 ID:cEpBaIdo
>>6011 つづき

「生命の實相」第23巻 p77

神は、病にかかるような人間をなぜ創造(つく)ったか。

罪を犯すような人間をなぜ創造ったか。

不完全に人間を創造っておきながら、神はなぜ人間を罰するのか。

神は力が足りないのか、理性を失っているのであるか。

反クリスチャンのこうした反駁に答えうる人はいわゆるキリスト教徒にはほとんどいないのであります。

6015a hope:2015/11/20(金) 10:23:04 ID:cEpBaIdo

>>6014 a hope所感)

その真理を体得しているかいないかは別として、「生命の實相」を拝読している「生長の家」の信徒であればこの質問には簡単に答えられますよね!

たしか、以前you tubeか何かで聴いた徳久先生の講義の中で、「生長の家の教え」に出会ったばかりの若かりしころの徳久先生が、
キリスト教の牧師さんを訪ねては、同じような質問をして相手を困らせてから、「生長の家の教え」を伝道したようなお話をされていました。

>>6013でトキさまが言及されていますが、初期キリスト教は現在のキリスト教のようではなかったようですね。

そう考えると、どんなにキリストを愛していても、どんなにキリストのご遺志を継承されようとしても、
キリストの真意(真理)を悟っていなければ、それはキリスト(真理)に反していることになってしまうのですね。

自分勝手に真理を解釈して「伝道」することがどれだけ危険なことなのかがわかります。

でも、わたしたち「生長の家」の信徒にはそんな心配はありませんね!

だって、生長の家は文書伝道が主なのですから、「生命の實相」やその他の聖典そのものを直接手渡して伝道していけば、
真理が眩まされることは永遠にありませんものね!


ところで、キリスト教はどんな風に初期の教え(真理)が「偽造」されていってしまったのでしょうか?

謹写をつづけます。

6016a hope:2015/11/22(日) 09:10:18 ID:cEpBaIdo
>>6014つづき

「生命の實相」第23巻 p77 5行目〜

そういうキリスト教徒には、「創世記」の第一章にわれらの創造主なる神が、明らかに “ Elohim” と録(しる)されており、第二章では、 “Jehovah” と録されているのに気がつかないのであります。

「エロヒム神」がわれらの創造主であり、エホバ神はわれらの「ニセ物の創造主」なのであります。

「エロヒム神」は霊なる「言葉」をもってわれら人間を神の像(みすがた)のごとく完全に罪なく悩みなく創造り給うていっさいの物を支配する権利を与え給うたのであります。

「エロヒム神」を創造主とせる人間は霊的実在であって罪もなければ病もない、悩みもなければ苦しみもないのであります。

ところが「創世記」の第二章では、われらの創造主「エロヒム神」がいつも間にか「エホバ神」という名前に擦りかえられているのであります。

諸君はここに気づかねばなりません。

諸君が自分の「本当の父」だと思っていたエホバ神は「本当の父」ではなく、戸籍謄本がいつの間にか書きかえられて、「ニセ物の父」が「本当の父」であるように公文書が偽造せられているわけであります。

「創世記」第一章にあるわれらの創造主なる父はわれらを「言葉」にて神の姿に完全無欠に霊的実在として創造(つく)り給うたにもかかわらず、エホバ神は「お前はエロヒムの子ではない。俺の子だ。お前は完全なものではない。霊的実在ではない、物質で創造(つく)ったものだ。罪を犯すものだ」とわれらに言っているのであります。

そのエホバ神の言葉を信じて、「自分は愛の神、全能の神、完全の神の子で、神そのままの像(すがた)に完全に造られていると思っているのに、それは嘘であったのか。自分は土の塵(物質)の子であり、罪を犯すように造られ、そして罪を犯したら神に罰せられるように造られているのか」と嘆き悲しんでいるのが現時多くの信仰なきクリスチャンの現成なのであります。

わたしはこのような信仰をもっているクリスチャンを本当の信仰なき人間というのであります。

なぜならこのようなキリスト教徒か神を信じているように見えているけれども、「人間を神の像(すがた)に完全無欠に創造(つく)り給うた本当の神」を信じないで、いつの間にか戸籍謄本を書きかえ、本親のような顔をして、「本来無罪の人間」を「罪あり」と恐喝している継母の神を本親だと思っているからであります。

信仰というものは、なんでもかでも信じさえすれば「信仰がある」というわけではありません。

本当の親神を信ずるのが本当の正しき信仰であります。

6017a hope:2015/11/22(日) 09:15:41 ID:cEpBaIdo

>>6016 a hope所感)

真の宗教とは、その教えを信仰することによって、まずは個人の魂が救われ、その所現として環境が良化し、人類救済・世界平和に発展するものなのだと思います。

キリスト教が分裂し救済力が急激に低下していった原因には、このような「教え」の書き換えがあったからなのですね。

本来のキリスト教は、<<「エロヒム神」を創造主とせる人間は霊的実在であって罪もなければ病もない、悩みもなければ苦しみもない>>

という「唯神実相」の教えであり、それを信仰していた信徒は魂が救われ奇蹟も起きていたのに、
知らぬ間に、その神の名前が擦りかえられて、

<<エホバ神は「お前はエロヒムの子ではない。俺の子だ。お前は完全なものではない。霊的実在ではない、物質で創造(つく)ったものだ。罪を犯すものだ」>>

とまったく正反対のことを説き始めてしまったのですね。

それも、同じ聖典中に説き始めてしまっているのですから、聖書をしっかり勉強するような、
信仰心の厚い信徒ほど混乱してしまいますよね💦

わたしは、ここに「宗教」が二元論を説く危険があると思うのです。

わたしたち聖典「生命の實相」を常に拝読している「生長の家」信徒は、そんな虚説に惑わされることは決してありませんね!

6018a hope:2015/11/25(水) 10:13:50 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p79 後から1行目〜

世の人々よ、ニセ信仰家に欺かるることなかれ。

わたしは神の弁護者であります。

わたしは神の完全さを証拠だてるために遣わされた使者であります。

神は決して神罰を与えるものではありません。

神は愛の神であり、全能の神であり、完全の神でありその神によって創造(つく)られたるわれわれは神そのままに完全であり、自由であり、無罪であります。

わたしが諸君に神の完全さと、人間の完全さとを証する。

継親(ままおや)の神にあざむかれて人間を土の塵(物質)にて創造(つく)られたる不自由不完全なるものだと思うことなかれ。

6019a hope:2015/11/25(水) 10:17:31 ID:cEpBaIdo

>>6018 a hope所感)

なんと力強い言葉の響きでしょう!!

谷口雅春先生は、唯神実相を大悟された真正の神さまの弁護者でした。

わたしたち「生長の家」の信徒は、その雅春先生がラッパとなり遺された聖典の言葉を素直に信じて信仰すれは、
必ず幸せになれるのですよね!

本当にありがたいことです。 合掌。


では、なぜ、この現象世界には「神罰」と見えるような状態があるのでしょうか?

その理由も、聖典にはちゃんと説明されていますね。

6020a hope:2015/11/26(木) 09:41:48 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p80 6行目〜

神は人間を神の像(すがた)に完全に創造(つく)られた――わたしはただそれを信じるのであります。

あとからできた「怒りの神」や、「妬みの神」や脅喝(きょうかつ)の神や神罰の神を信じないのであります。

では、神罰と見えるような状態がなぜあるか。

それはわれらの神罰を念(おも)う「念」がそれを外界に投影したのであります。

神罰の観念をもっているから、自分で想像して造った神罰の法則に触れるとたちまち、神罰の観念が具象化して病気となり、不幸となるのであります。

神罰の観念と、人間は物質にて創造(つく)られたという観念は「創世記」の第二章以来、なかなか抜きがたき人間の潜在意識となっており、あらゆる不幸はこの神罰の観念と、人間は物質的存在だという観念との流転展開であります。

神罰の観念を抜いたならば、ほとんどあらゆる病気不幸は消えてしまうのであります。

6021a hope:2015/11/26(木) 09:43:20 ID:cEpBaIdo

>>6020 a hope所感)

一般の人が持つ「神罰」という観念は、<自分(人間)とかけ離れた存在である神が、
不正を働いたり、犯罪を犯したり、人の心を傷つけたりした人々を不幸にして罰するようなイメージ>なのではないでしょうか?

ですが、「生長の家」の教えでは「人間神の子」もっと究極に言えば「我は神なり」なわけですから、
「生長の家」の教えにならって「神罰」を定義すれば、「自己処罰」ということになるのですね。

このわたしの解釈が正しいかどうかはわかりませんが、わたしは、

<<【神罰】の観念を抜いたならば、ほとんどあらゆる病気不幸は消えてしまうのであります。>>

というところの【神罰】を、【自己処罰】に変えたほうが、「唯心所現」の法則にぴったりくるような気がします。

6022a hope:2015/11/30(月) 00:06:12 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p81 8行目〜

谷口が「神の子」でなければ、誰が神の子でありますか?

神以外に創造主(つくりぬし)なきがゆえにすべての人間は皆「神の子」なのであります。

「イエスだけが神の子であって、人間はイエスを通さなければ神の子になれない」と言う一派のキリスト教思想がありますが、笑うに耐えた邪見であります。

「イエスを通さなければ神の子となれない」ような人間は誰の子でありますか。

神以外に創造主があり、神以外に天父(てんぷ)があり、そこから生まれたイエスを通して「貰い子」としてもらわなければ神の子になれないなどとはなんと矛盾に充ちた思想でしょう。

わたしはわたしの神性ゆえに、わが父「神」を証し、すべての人類がまたわが兄弟「神の子」たることを証する。

人間はすべて神の子であって「貰い子」も「継子」もない、みんな神の子なのであります。

わが証(あかし)を真(まこと)とするものはわれに従え。

神を「神罰を下す継父なり」と誣(し)いるものよ去れ。


キリストが「われは道なり、真理(まこと)なり、生命なり、我(われ)に由(よ)らでは誰にても父の御許にいたる者なし」(「ヨハネ伝」第十四章)と言い給いし言葉から、キリストを通さねば人間は「神の子」にしてもらえないという普通クリスチャンの一般観念が生まれ出るのでありますが、ここにキリストが「我(われ)」と言い給いしは肉体キリストではないのであります。

「道」であり「真理」であり「生命」であるキリスト、「アブラハムの生まれぬ前より我はあるなり」と言われたキリスト、すなわち肉体キリストにあらず「真理なるもの」「生命なるもの」「実相なるもの」を通さなければ、本当の父なる「神」の御許へ行くことができないと言われたのであります。

6023a hope:2015/11/30(月) 00:11:57 ID:cEpBaIdo

>>6022 a hope所感)

わたしここのところを拝読していると、
「上の文章中の『イエス』や『キリスト』という名前を『谷口雅春』と置き換えてみても、まったく同じことが言えるのですよ」と、
谷口雅春先生がわたしたち信徒に教えてくださっているように感じます。

「真理は普遍なのですから、あなたたちさえその気になって聖典(真理)を勉強すれば、
わたし(谷口雅春)に頼らなくても悟ることができるのですよ」と。

<<キリストが「われは道なり、真理(まこと)なり、生命なり、我(われ)に由(よ)らでは誰にても父の御許にいたる者なし」(「ヨハネ伝」第十四章)と言い給いし言葉から、キリストを通さねば人間は「神の子」にしてもらえないという普通クリスチャンの一般観念が生まれ出るのでありますが、ここにキリストが「我(われ)」と言い給いしは肉体キリストではないのであります。>>

もし谷口雅春先生がキリストの再臨であるというのであれば、それは正しい教え(真理)が再臨したということであり、
決して肉体的にキリストが再臨したということではありませんよね?

現象的に存在していた谷口雅春先生をキリストの再臨であり神と同等のような存在であったと崇拝し始めてしまうと、
それは偶像崇拝になってしまいますから、それは「生長の家」の教え(真理)からかけ離れた間違った信仰になってしまうと思います。

6024a hope:2015/12/01(火) 00:22:01 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p82 後から2行目〜

それは肉体キリストではない、真理キリストであります。

アブラハム以前より存在し、二千年前にはキリストの肉体に宿り、今またわが肉体に宿りて、「本当の父」(完全んる神、神罰なき神、罪も病も創造らざる神)を証(あかし)するところの真理キリストであります。

真理によらざれば本当の父を見分けることができない。

「われに由(よ)らで誰にても父の御許に至るものなし」とはこういう意味だったのであります。

(略)

p83 後から2行目〜
「実相(われ)に依らで父の御許に至ものなし。」実にそうです。

「実相」を知らないでは、継親を本親だと見間違えるほかはないのであります。

だからわれわれは常に「実相」を呼び出すことが必要なのです。


ところが、この実相というものはどこにあるかというと、遠いところにない。

自分のうちにあるのであります。

だからある禅宗の偉い坊さんは「主人公、主人公」と毎日自分を読んでまた自分で「ハイ、ハイ」と答えていたそうであります。

生長の家では「神の子、神の子」と呼んで、「ハイ、ハイ」と答えるのであります。

道を歩いている時にも「今、神の子が道を歩いていると思う」のであります。

また神想観といって自分が神の子である実相を観ずる修行をするのであります。

そして心の底から自分が土の塵にて造られたアダムの子であるという潜在意識が消え、すべての罪の意識が消えたときに、われらは完全に救われたということになり、すべての自由な完全な状態が、実相そのままの現れとして自分自身に実現するのであります。

キリストが「汝の罪赦されたり、起ちて歩め」と言って病者を癒やされたごとく、わたしもまた同じように言って病者を癒やすことができるのは自分自身の罪の観念で自縄自縛された結果、病気をあらわしている者が、罪の観念を解除された結果、自然に治るのであります。

生長の家は出現して以来、多くの信徒たちがただ、『生命の實相』の聖典を読むだけで、その『生命の實相』の内容を語り伝えるだけで多くの病者を癒やしえた体験を発表していられるのも、神の創造(つく)り給える世界には本来罪も無く神罰もないからであります。


常楽篇 終り

6025a hope:2015/12/01(火) 00:23:23 ID:cEpBaIdo

>>6024 a hope所感)

<<アブラハム以前より存在し、二千年前にはキリストの肉体に宿り、今またわが肉体に宿りて、「本当の父」(完全なる神、神罰なき神、罪も病も創造【つく】らざる神)を証(あかし)するところの真理キリストであります。>>

↑の部分に、二千年前肉体キリストに宿った同じ「真理」が雅春先生に再び宿った(再臨した)という事実が述べられています。

すべての正しい「教え」は万教帰一していますから、当然、仏教の開祖である釈迦にもその「真理」は宿っていたのでしょうね。

そうすると、正しい教えを説く宗教家であればだれであっても、再臨のキリスト、再臨の釈迦と表現されても、それはまちがいではないような気がします。


わたしは、輪廻転生を信じますが、だからと言って、自分の前世や谷口雅春先生の前世がなんであったかということにはあまり興味がありません。

それよりも大切なことは、「久遠の今」を摑み、今世を精一杯生きる事なのではないでしょうか?

6026a hope:2015/12/01(火) 00:25:59 ID:cEpBaIdo

ところで、もう、日にちが変わって12月に入ってしまいました。

本当なら、第38回web誌友会を閉会し、第39回web誌友会を開会したいのですが、まだテキストの内容を終えていないので、
今月も第38回web誌友会を継続させていただきます。

明日からは、聖経『天使の言葉』講義 に入りたいと思います。
みなさま、ご気軽にご参加くださいね!

6027a hope:2015/12/01(火) 00:26:58 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第38回 web誌友会 案内(改訂版)

期間   11月1日〜12月31日まで
テキスト 「生命の實相」第23巻 【常楽篇/経典篇二/宗教問答篇】
内容   久遠常楽の生活/聖経『天使の言葉』講義 /人生の悩みに答う

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

6028a hope:2015/12/03(木) 10:27:10 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第23巻 p86

○われらは、二つの王国に生きてる。

その一つの王国は外界であり、他の一つの王国は内界である。

内界はこれ心の世界であって外界一切を支配するのである。

心の有する幽玄な力よ。

その微妙な寂寞(じゃくまく)のうちに備えている不可思議な力よ。

外界は常に不断に心の力に支配され、心の力によって新生する。

外なる王国は内なる王国の映像(うつし)でしかないのである。

心を支配するものは、この二つの王国を支配する。

心を支配するには生長の家では言葉の力、文章の力によるのであって聖典および聖経の読誦によるのである。

聖経『甘露の法雨』によって多数の病者が救われたことはあまりにも有名であって繰り返して述べる必要はないが、『天使の言葉』の読誦によってもまた多くの病者が救われつつあるのである。

その一例をあぐれば広島市の中等学校教諭加藤舜太郎氏は十歳の子息が肋膜にて重症なりし時、この『天使の言葉』をその枕頭にて朗読せるに体温三十八度以上の小児が発熱のままにて起き上がり、「自分は神の子で病気は無い」と称し、遊び始めたる不思議さに数日様子を見るべく医者に乞うて医療を四日間停止して観察せるに、そのまま健康児となってその医者をして驚嘆入信せしめたという。

ともかく神秘の力を有するのがこの聖経である。

6029「訊」:2015/12/03(木) 10:36:06 ID:IVqSJWPU


>>6028

 「砂漠はキレイだね。砂漠は泉を隠しているからキレイなんだよね」(ミュージカル「リトルプリンス」劇中セリフより)
 ・・・・・昨日の、谷口あかり姫ミュージカルがまさにそんな感じ(!)。

 砂漠に不時着するパイロット、水がなくなるんですが気づいてみれば、「あたり一面は泉だった」という、そんな場面がありました。

 「本当に大切なものは目に見えないんだ」

 これが、同ミュージカルのテーマのひとつだったんですが、我々は「すべてをいったん、受け入れること」をするべきなんでしょうかね。そして、すべてをいったん受け入れて後、本当に大切なものが現れてくるという・・・・・・・



○われらは、二つの王国に生きてる。その一つの王国は外界であり、他の一つの王国は内界である。内界はこれ心の世界であって外界一切を支配するのである。


 ホンモノとニセモノの峻別です。ニセモノだけを見て、そして「それだけが自分だ」などと思っていては、なりませんよね・・・・・・砂漠と見えてもいったん受け入れてみて、砂漠へ「泉を隠しているからキレイだ」と賛辞を送る。すると・・・・



6030a hope:2015/12/03(木) 23:39:54 ID:cEpBaIdo

>>6029 「訊」さま

谷口あかり姫のミュージカルを観覧されて、「訊」さまがロマンチストになってしまわれましたね!


ところで、あかりさんですが、本当に素晴らしい方ですね。

部室板で「訊」さまご紹介してくださっていますが、あかりさんの座右の銘の、

 『苦しい時こそ ワクワクする』

ですが、わたしも 「さすが生長の家の生き方を心得ていらっしゃる」 と感動しました。


<<我々は「すべてをいったん、受け入れること」をするべきなんでしょうかね。そして、すべてをいったん受け入れて後、本当に大切なものが現れてくるという・・・・・・・>>

「生長の家の教え」風に考えると、どんなに苦しく辛い状況に陥っても、目を背けないで真っ直ぐにその現状を受け容れて、
「あー、これって自分が生長するために与えてくれた神さまからのありがたい試練なんだな」って・・・

そうすると、本当に大切なもの・・・愛? 真理? が現われてくるってことなのでしょうか?

砂漠の中の泉、わたしも見つめられるようにならなくては・・・

6031a hope:2015/12/04(金) 10:13:14 ID:brQxC10.

「生命の實相」第23巻 p87 後から3行目〜

今日は聖経『天使の言葉』を話したいと思うのであります。

これは聖経『甘露の法雨』の続きでありまして、『甘露の法雨』はあまり長いために、一遍に唱えるには長すぎるというので、一度切って、改めて別の『天使の言葉』という題の
下(もと)に書かれたものであります。

『甘露の法雨』はわたしが机に向かっている時に突然リズミカルな霊感として浮かんできたのをそのまま書き留めておいたのでありますが、それを読む人々にいろいろな霊験や奇蹟が起ってきたので、人称して聖経と称するにいたったのです。

この詩の冒頭に「天の使(てんのつかい)また語り給う」と書いてありますが、このまたという語が『甘露の法雨』の続きであるということを意味するので、ここにはまず『甘露の法雨』を語り終えられた天使が、また語り出されたその時の有様が書いてあるわけであります。

(省略)

天の使というのは何かと申しますといつも話すように神 ―― 唯一つの神から、神の念波、すなわち神の救いの念波が送られている。

しかしそれをわれわれは五感で感じることができませんから、その時に神の霊波がわれわれの第六感を通してそこにあるかのごとく姿を現す。

その現われが救いの天使として姿を現すのであります。

仏教では観世音菩薩や普賢菩薩や、またキリスト教でならミカエル、ガブリエル、あるいはケルビム等々……というのは、皆その天使の名であって、これらは皆神より出でたる救いの霊波の人格的応現なのであります。

6032a hope:2015/12/04(金) 10:15:17 ID:cEpBaIdo

>>6031 a hope所感)

わたしは、「天使」って本当はそこら中にいるような気がしています。

自分自身が、真理「実相」を見つめようとしさえすれば、どこにでも「天使」を見つけることが出来るのではないでしょうか?

たとえば、ミュージカルに感動された「訊」さまにとっては「あかり姫」が天使だったのではないでしょうか・・・?

わたしは、子供たちの笑い顔やあどけない無垢な表情をみていると、天使を見ているような気がします。

きっと、だれの周りにも、天使はいるんですよね。

それに、気づくか気づかないか・・・それだけの違いなんではないでしょうか・・・

6033「訊」:2015/12/04(金) 15:29:35 ID:Tl1pPfxg


>>6032 a hopeさま


 加えてスゴイ話は「守護神」です。以前もご紹介しましたが、徳久先生御主張では「違和感・嫌感」もそれは、祖先の守護神化だそうで・・・・・・迷っていた祖先霊が守護神となった際、我々に起こるのがあの「イヤーな感じ」なんだそうでして、これも素晴らしい話ですよね。



追伸

 で、あかり姫はまさに、「姫」です(!)。我が祖先が遣えておりました島津斉彬公ですが、その血を継ぐ姫です。加えて雅春先生の血までお継ぎなんですから、私にとっては眩しい存在です。ついでに申せば姫のルックスは・・・・・・・・・・大学時代に恋をした、あの子とウリふたつ(!)

 嗚呼、姫・・・・・・・・・(独演状態)

6034a hope:2015/12/07(月) 22:08:20 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p95 

(三)

汝らよ――
吾個神(ひとり)を善しという事勿れ。
形に現れたる神を讃(ほ)むること勿れ。
吾に宿る善きものは皆普遍なる神より来る。
汝ら吾が示すところの神を崇めよ。
吾を崇めよというには非ず。
吾はただ天の使なり、
吾れみずからの本性の神なることを観たれば、
吾れ汝らの本性の神なることを悟らしめん。
汝らの先ず悟らざるべからざる真理は、
『我(われ)』の本体がすべて神なることなり。

それで先程も言いましたように神はいろいろの姿をして現われる。

観世音菩薩とか普賢菩薩とか、ミカエルとかあるいはガブリエル、ケルビムというようなさまざまの姿をもって現われるのですが、その現われが自分個神(じぶんひとり)を拝めというのではない。

この一個の神の現われだけが尊いというのでもない。

われはただ使い、神の使いにすぎない。

神のみ心をとりつぐものにすぎないといっているのであります。

天の使いの本体であるところの本当の神、天地遍満、天地普遍の神こそ尊いのであります。

一個一個の神を、この神、この仏をお祀りして、どこそこの神様の御利益は実にあらたかであるとかなんとか言っているけれども、その御利益は一個の現われである個神(ひとりのかみ)から来るのではないのであって、実はその奥の、天地普遍の神から来るものなのであります。

ですからまた、生長の家へ入信して病気が治ったかといって、わたしという人間一個を拝んではならないのです。

また生長の家の役員が病家をお訪ねして真理の話をするだけで瀕死の病人が起ったからといって、その役員一個一個を崇めてはならない。

その場合のわたしとか、生長の家の役員とかいうのはこれ天の使いであって、その人が病気を治すのではないのです。

病気を治すというのは、「生命の実相」が治す。

これは本の名前ではない。

生命の絶対実相、普遍実相の神の働きなのであります。

また生長の家の役員でなくとも生長の家の真理を伝える人はみな天の使いでありますから、その人たちから「生長の家」の話を聞くと不思議に病気が治るということがよくあるのですが、よくなっても、その人々がえらいから病気がよくなるのでは決してない。

それは天地普遍の神、創造神の大いなる力が現われてきて、そうした働きをなさせ給うのであることを忘れてはならないのであります。

ですからここに現われられた一人の神、あの神、この神を崇めよというのではないのでありまして、一人、一人の神は皆天の使いなのですから、その天の使いから出る力とか言葉とかいうものは、とりも直さず天地に遍満する唯一の神から出るものであるので、その唯一の神を崇めよというのであります。

それで自分は神から出てきたものである。

そして神から伝えられたところのことをなんじらに伝えるだけのことであると、ここに繰返し述べられているのであります。

6035a hope:2015/12/07(月) 22:09:38 ID:cEpBaIdo

>>6034 a hope所感)

谷口雅春先生は、ご自身のことを「神のコトバを伝えるラッパ」だとおっしゃっていました。

でも、昔は谷口雅春先生でなくても、役員さんなんかでも「生長の家」の真理の話をすれば、人の病気を治して(消して)しまわれたようですね(@_@)

そんなことが日常的に起こっていれば、「生長の家」教団が大きくなるのはあたり前ですね。

だって、誰だって病気や死を恐れているでしょうから、それが「生長の家」の話を聞くだけで、それが簡単に治ってしまうのですから・・・ね。

6036トキ:2015/12/08(火) 21:12:28 ID:0DKs45Qc
>>6035

 とても大事なことだと思います。

 少し前まで、生長の家の練成会で奇跡が起きたのを何ども目撃しました。
練成だけではなく、教区の行事でも不思議な出来事がよくおきました。私の
知っているケースでは、末期の癌で葬儀の準備をしていた人の癌が消えたと
いうこともありました。

 「菩薩は何をなすべきか」という本には、講師になったら、それにふさわ
しい指導霊がつくと書かれています。この指導霊に波長を合わせると、奇跡
おきるということです。もちろん、指導霊に波長があうように修行をしない
といけないし、逆に言うと、指導霊に波長があわないと、講師といえどもお
かしい事を言うことになるみたいです。

 大事な事は、個人の救済が基本だということです。

6038a hope:2015/12/11(金) 10:46:28 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第23巻 p97 7行目〜

(四)

汝ら億兆の個霊(みたま)も、
悉(ことごと)くこれ唯一神霊の反映(うつし)なることを知れ。
喩(たと)えば此処に一個の物体の周囲に百万の鏡を掟(お)きて
これに相対(あいたい)せしむれば一個の物体もまた百万の姿を現ぜん。
斯(か)くの如く汝らの個霊も
甲乙(こうおつ)相分れ、
丙丁(へいてい)互に相異なる相(すがた)を現ずるとも
悉くこれ唯一神霊の反映にしてすべて一つなれば
これを汝ら互に兄弟なりと言う。
すべての生命を互に兄弟なりと知り、
すべての生命を互に姉妹なりと知り、
分かち難くすべての生命が一体なることを知り、
神をすべての生命の父なりと知れば、
汝らの内おのずから愛と讃嘆の心湧き起らん。


一人の神――生長の家の神とか、何々の神とかいう、一人一人の神を拝めとは言わない。

皆の中に本当の神が宿っている、自分が神であり、自分が仏であるというのです。

ここに現われているのは皆一人一人異(ちが)ってはいるけれども、われわれの実相(ほんとうのすがた)は同じ神の姿、仏の姿であるということをわれわれに悟らしたいために、神の霊波が天使としてここに出現して来たのであります。

(略)

中心にある真実の存在とその百万の鏡に映っている姿がまったく同じであるように、神と同じ姿が皆本当の姿であり、神が皆の生命であり、本体であるのであります。

(略)

お前たちの本体が神である。

――すなわち神こそ生命の父であると知ったら、その時に皆の心の中にありがたいという感謝の心、大いなる生命を讃嘆する心が湧きおこってくるのである、と書いてあるのであります。

6039a hope:2015/12/11(金) 10:48:06 ID:cEpBaIdo

>>6038 a hope所感)

「自他一体」「神人一体」「神はすべてのすべて」・・・

生長の家の教えでは、常にそのことを説いていますね。

さらに、雅春先生は
<<、「あなたたちが谷口雅春である」「私のことはおいておいて、貴方が住吉の大神様ですよ」>>

大聖師「谷口雅春先生は神(救いの原理であり光)」である。 (10692)
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&amp;mode=res&amp;log=4260

より引用。

とまでおっしゃっていたようです。

上に勝手に引用させていただきましたが、この記事の内容が素晴らしいと思うので、以下に紹介させていただきます。 合掌。

6040a hope:2015/12/11(金) 10:56:24 ID:cEpBaIdo

大聖師「谷口雅春先生は神(救いの原理であり光)」である。 (10692)

日時:2015年12月08日 (火) 14時37分
名前:生命の教育実践者

私の元部下から、この掲示板に書き込みをせよと、メールが来ました。管理者、寄稿者のみな様には大変申し訳ありませんが、私はこのような「雑談」広場のような掲示板は大嫌いです。しかし大事なことですので、一言だけ書かせていただきます。

谷口雅春先生は釈迦の再臨であり、キリストの再臨です。

しかし、その表現は厳密に言うと、正しくない。

谷口雅春先生は神(救いの原理であり光)でありその神の現れが、ある時代は「お釈迦様」であり「キリスト様」であったのです。


神の視座から「例えば私が釈迦であった時」と語られているのです。

同じく「例えば私がキリストであった時」という言葉も個人的には聞いた幹部もあるでしょう。そのお一人が愛媛の寄能美枝先生のような方(霊的な先達)でありましょう。私も数人このような方を存じ上げております。これは、故人に限らず現在活躍しておられる講師にも、そういうお人がおられます。

実に、生長の家(教団ではなく本来の實相の展開という意味での「生長の家」)には素晴らしい先生方がおられたものです。そして今もなお、多くの素晴らしい先生がご活躍と、私は信じております。なぜなら、生長の家の御教えこそが、宇宙開闢以来の荘厳であるのですから。


どうか、皆さん。

教団にいても、教団を出ても、どこにどういうカタチであろうとも、神の子として、真理を生きてください。そして谷口雅春先生こそが神である。住吉の大御神であることを直視して戴きたいのです。「住吉の大御神」としての禊ぎ祓い。それをいのちを懸けて人生をかけて為すことこそが、「あなたたちが谷口雅春である」「私のことはおいておいて、貴方が住吉の大神様ですよ」と言われた栄誉に報いる道でありましょう。

谷口雅春先生が自から「ラッパである」といわれたからといって、ラッパだというものは、尊師である谷口雅春先生の實相をいまだ、一度たりとも観たことの無い者である。おそらくは、御自分の實相さえも、一度も観たことがないのである。御自分の「實相が神」であることを知れば「谷口雅春先生がラッパの働き」をされたとてラッパではない。神であることを知るでありましょう。

どこにどういうカタチであろうとも、神の子として、真理を生きる。尊師の「御悲願(宇宙清め)に命を捧げる」そのことで「住吉の大御神」としての禊ぎ祓い成り。「来たる日」の、天照大御神御出御となるでありましょう。

私はそこに人生もいのちも捧げさせていただきます。

生長の家の出現の意味も、使命も、生長の家の全ての全てが、そこにあるのですから。


http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&amp;mode=res&amp;log=4260

<愛国本流掲示板>さまより、引用させていただきました。 感謝 合掌。

6053a hope:2015/12/13(日) 10:10:16 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p116 後から3行目〜

三宅いくえさんといわれる熱心な信徒がおられました。

この方のご主人は、生前牛肉屋をしておられた。

牛肉屋といっても、大阪有数の肉屋であって一カ月に数千円の収益があるというほど、繁昌する大きな店を営んでおられたのでありました。

それに御主人の没後は、いくえさんが店をきり廻しておられたのですが、生長の家へ這入られて、熱心に本を読んでいられるうちに、自分の商売がだんだんいやになってきた。

特に『久遠の實在』に書いてある採食論のところを読んでからというものは、どうしても、牛肉屋という商売をしていることが堪えられなくなってきて、思い切って店をやめてしまおうとせられたのでありました。

6054a hope:2015/12/13(日) 10:11:59 ID:cEpBaIdo

>>6053 a hope所感)

確かに「生命の實相」を拝読し、神想観をしていると、どんな生き物にも尊い生命がやどっていていることが自覚されてきます。

ですから、特に生命を奪われるときに苦痛を感じるであろう霊性の高い哺乳動物を殺して商売をしたり、
その肉を食するということに抵抗を感じるようになると思います。

わたし自身も、最近はそういう気持ちが強くなってきていています。

ここに登場されている牛肉屋を経営されている三宅さんは店をやめてしまわれようと決心されますが、
お父様に大反対されてしまい、さらにお父様が代わりに肉屋をやると言いだされます。

そうなると、自分の代わりにお父様に殺生をさせることになり、結果的には「親不孝」をすることになり、
「生長の家の教え」に反してしまわれます。

そこで、三宅いくえさんは、谷口雅春先生にお手紙を書かれ事情を説明されて、その後、面接されます。

雅春先生は、はたして、三宅さんにどのようにご指導されたのでしょうか?

6055a hope:2015/12/14(月) 10:25:07 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p117 後から2行目〜

そこでわたしはすぐ「何日に来られよ」と返事して差し上げますと、さっそくと上京して来られて、朝東京に着くとすぐわたしの家へやって来て話されるのに「先生、わたしいったいどうしたらよいのでございましょう」とこういうことだったのです。

それでわたしは「あなたのどうしてもこの商売をやめたいというお心はわかります。やめたいという心は善い。善いけれどもあなたがやめたら父上が続いてやると言われるのでしょう。まあ、父上はあなたが説法してやめさせることができるでしょう。が、しかし、そんな御繁昌な店だったら、あなたがやめ父上がやめると言われればまた他の者がそこで開店するでしょう。で結局あなたは自分でやめても、一軒も牛肉屋をやめさせることにはならない」と申しました。

「それではいったい わたしは どうしたらよいのですか」と訊かれますから、「それではあなたは、牛肉屋をしてどんどん儲けなさい。そしてその儲けた資金で、世の中の人全体が肉食をしないような心になる運動に参加するのです。それはどうしたらよいかと言えば、生長の家の光明思想をどしどし世間に普及させるのです。世間の人がどしどし生長の家へ入って全人類が生長の家の信徒となり、人間は牛肉なんぞ食べなくっても健康を保つことができ、また肉食をよしたためにかえって健康になることがわかれば全人類の肉食量が減ってくる。また無理に肉食をやめさせなくとも、生長の家の光明思想に触れると、食欲が自然に正しくなって、野菜の方が好きになったという人が、実際にこれまででもたくさんいるのですから、そうすると、世の中の牛肉屋は自然に消滅してくるものです。今あなたの牛肉屋を一軒だけやめたとてなんにもなりはしません。それよりもっと根本的に全世界の牛肉屋をやめさす工夫、肉食をやめさす工夫をしなければ本当ではないでしょう?」といってさしあげたのでありました。

わたしが話し終わった時、三宅いくえさんは顔を上げて庭の方を見ておられましたが、突然「わたし、これまで乱視で片眼がぼんやりとしか見えなかったのですのに、今先生のお話を伺って眼を上げましたら、今まで見えなかった方の眼がハッキリしてお庭の景色が木の葉一枚一枚見えます。まァ美しい樹の葉が一枚一枚、はっきりと見えるのでございます」と言われるのです。

わたしはこの方が乱視であられたのを、その瞬間まで少しも知らなかった。

もとより三宅さんも自分の乱視を治そうと思って上京して来られたのではありませんでした。

ところがわたしがその方の人生上の煩悶を訊いていろいろと話してさしあげているうちに、三宅さんの心の中から迷いがとれて、心の目が開けて、はじめて実相が見えるようになられた。

その時今まで乱視ではっきりしなかった肉眼の目も開けて、庭の木々の一つ一つの葉まではっきりと眺められるようになったのであります。

6056a hope:2015/12/14(月) 10:26:50 ID:cEpBaIdo

>>6055 a hope所感)

わたしにとって、この体験談は「生命の實相」の中でもとくに心に残っている体験談の一つです。

現象世界って実相世界の現われなんでしょうけれども、それが歪んで反映されているために矛盾に充ちた世界なんですよね。

その「歪み」や「矛盾」を現象世界への働きかけだけでどんなにがんばって正そうとしても無理があることを教えてくださっているのが、
この体験談なんです。

自分が殺生をしたくないから、自分が肉食が嫌になったからと言って、周りに肉食をやめることを強制しても、
結局、人々の根本の「心」が変わらなければ、その努力も、その場限りの小さな善行に終わってしまうということなのだと思います。


<<「それではあなたは、牛肉屋をしてどんどん儲けなさい。そしてその儲けた資金で、世の中の人全体が肉食をしないような心になる運動に参加するのです。それはどうしたらよいかと言えば、生長の家の光明思想をどしどし世間に普及させるのです。世間の人がどしどし生長の家へ入って全人類が生長の家の信徒となり、人間は牛肉なんぞ食べなくっても健康を保つことができ、また肉食をよしたためにかえって健康になることがわかれば全人類の肉食量が減ってくる。また無理に肉食をやめさせなくとも、生長の家の光明思想に触れると、食欲が自然に正しくなって、野菜の方が好きになったという人が、実際にこれまででもたくさんいるのですから、そうすると、世の中の牛肉屋は自然に消滅してくるものです。今あなたの牛肉屋を一軒だけやめたとてなんにもなりはしません。それよりもっと根本的に全世界の牛肉屋をやめさす工夫、肉食をやめさす工夫をしなければ本当ではないでしょう?」>>

強制のない、「ねばならない」がないのが「生長の家の教え」なんですね!
そして、全世界を「生長の家」として救済するのが「生長の家」の光明思想化運動なんですね!

6057a hope:2015/12/15(火) 16:17:37 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p120 後から3行目〜

近眼の治った、実に素晴らしい体験をもっていられる方があります。

それは川村よし子さんという双葉女学校の二年生の方なのですが、数日前道場へ来られて、御自分の目の治ったおもしろい体験談をされたのでありました。

川村よし子さんのおばさんというのが、生長の家の熱心な信徒でしたが、よし子さんが某日(あるひ)、そのおばさんの家に遊びに行かれた。

その時におばさんが、生長の家の話を、いろいろとよし子さんに話されたそうであります。

よし子さんは、五度というひどい近眼だった。

それで、目などは心に従ってどうにでも変わるものだという話を、おばさんが諄々(じゅんじゅん)と説かれて、それから「よし子さん、この『甘露の法雨』を読んでごらん」と言ってよし子さんに『甘露の法雨』を読ませられたのでありました。

ところが、その時夜は大分ふけているので、『甘露の法雨』を半分ほど読んでゆくうちに、よし子さんはとてもねむたくなってきた。

一緒に読んでいられたおばさんが、よし子さんがあまり眠そうにするのでかわいそうになってきて、「あなたはもうお休みなさい。わたしが代わって続きを読んであげますから」と言ってよし子さんを臥(ふ)せさせ、その枕元で『甘露の法雨』の後半を声高に読まれたのでありました。

しかしよし子さんは眠ってしまわず、まだ「伯母さん、実相って何に?」などと言って分からぬところを聞いていたそうです。

そして翌日目をさまして、眼鏡をかけない眼で、ふとあたりを見廻すと不思議なことにいろんなものがはっきりと見える。

川村よし子さんの近眼は・・・

(略)

・・・その朝目をさましてみると、昨日まで眼鏡なしでは全然見えなかったものが、一夜のうちに、はっきりとみえるようになっているんですね。

額の絵の菊の花やら、障子の桟から、柱にかかっている時計の針まではっきり見える、世界中が急に明るくなってきた。

よし子さんは嬉しくて嬉しくてたまらない。

さっそくと眼鏡を捨ててしまわれたのでありました。

それでその日、七月二十九日の晩、初めて本部に来られて喜んでその話を皆の前でされたのでした。

その日はちょうど、明治大帝の御崩御の日に当たるので、代々木練兵場でたくさんの花火が打ち上げられた。

ぽーッと空に上がる花火が眼鏡をはずしても、見えるようになっているのです。

ところがこれまで眼鏡をかけて花火を見ているころには、花火は直径一尺ぐらいに小さくしか見えなかった。

それで花火なんて小っぽけなもんだと思っていられたそうですが、肉眼でみると、どうしてどうして、とても大きくて立派な花火なのです。

で、「伯母さん、花火はなんて大きくて美しいものなのでしょう」とよし子さんは感嘆されたと言います。

その翌日のこと、その日はからッと晴れた実に気持ちのよい日でありました。

空は紺碧に澄み渡って一点の雲も漂っていないというような日だった。

川村さんはこれまで厚い眼鏡をかけて、そのレンズでものを凝縮して見ていられたのでしたから、空の碧色(みどりいろ)もなんだかはっきり分からない白っぽい色ばかり見えていた。

ところがその朝、肉眼で紺碧の美しく晴れ渡った空を見て、はじめて「空はなんて美しい碧色だろう」と思われたのです。

「碧色の美しい空を、わたしは今まで知らなかった。空はこんなに美しいものだったのか」と思われたということです。

6058a hope:2015/12/15(火) 16:18:50 ID:cEpBaIdo

>>6057 a hope所感)

「甘露の法雨」の功徳って、ほんとにすごいものなんですね!

でも、その「甘露の法雨」を何百回読誦しても、何千回読誦しても、何万回読誦しても、死ぬまで読誦し続けても功徳のないことってあるんでしょうか・・・?

わたしは、人によってはそういうこともあると思います。

その人に、その真理を素直に受け入れる「心」がなかったら、何億回読誦してもなんの功徳もないのではないかと思います。

聖典拝読にしても同じなのではないでしょうか・・・?

また、「信じる者は救われる」といいますが、「生長の家」の体験談にしても「偶然だ」とか「集団催眠だ」などと常に疑いの心をもって聞いていると、
その人が同じように救われるということは決してないと思います。

続けて謹写していきます。

6059a hope:2015/12/15(火) 17:25:48 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p123 3行目〜

そういうあんばいにして、川村さんの視る限り世界中の姿がすっかり変わってしまったのでありました。

川村さんは、素直な幼児(おさなご)の心で真理を受け入れられたから、たった一度『甘露の法雨』を読んだというだけで、かくも偉大な功徳を得られたのであります。

『甘露の法雨』の功徳というのは、要するに『甘露の法雨』に書いてある真理の功徳にほかならないのであります。

そこで、この真理を読んで実相を見る目が開けた時に世界中の姿が変わってくるということになるのであります。

『維摩経』の中に、天人の世界へ行って御飯を出されると、同じ真っ白なご飯を出されても食べる者の心に従ってその色が変わる、ということが書いてありますが、これと同じことで、われわれも心が変われば、その心に従って世界が姿を変えてくるのであります。

今まで花火は小さいものだと思っていたのが実は花火は大きいものだと分かる。

空の色も心の目が開けた時に、ああこんなにも美しい碧色だったのかとわかってくるのです。

この世は苦しい世だ、憎しみに充ちた醜い世だと、厭世的に世界を眺めている人もある。

しかし、苦しみの世界は、あるのではない。

そういう人は心の目を開かない人なのです。

心のチカメなのです。

心がチカメであるから、楽しい、よきことのみに充ち満ちた実相の世界を見ることができないで、この世は憂いの充ちた世界と見えているのです。

それが一度真理に触れて、心の目がぱっと開いた時に、この世はこのままで極楽浄土となるのであります。

目の治った話はまだいくらでもあるのです。

昨日も『主婦之友』の記事で有名な栗原保介氏の令弟で栗原清吉さんが来られて皆の前で話されたのでありますが、この方は川村さんの五度よりもきつい三度と四度というまことにひどい近眼を二、三度話をするだけでたちまちにして治されたという、実際の話をされまして、お話をうかがった多勢(おおぜい)のもの皆大変に感動したのでありました。

栗原さんは今日そこに見えていられますから、あとで御自身の口からくわしくお話をしていただくと大変によいと思うのであります。

かくのごとくわれわれは、この眼という物質で物をみるのではなく、心によって見るので、心の目が開けたら、地獄も天国になるということを、生長の家で多くの方が体験され、またその体験によって実証されているわけなのであります。

6060a hope:2015/12/15(火) 17:29:22 ID:cEpBaIdo

>>6059 a hope 所感)

心の目が開ける(悟る)と、実際の視力も回復してしまう・・・

すごいですね!

そういえば、わたしは、ほぼ毎日「生命の實相」を拝読し、長時間パソコンやスマホに向かっていますが、視力の衰えはほとんどありません。

むしろ、以前より良くなっている気がします。

悲しいかな、同年代の友人の中にはもう「老眼鏡」が必要な人もいますが(@_@)、わたしにはまだまだ必要ないようです(笑)

それで、思い出したのですが、宇治の練成で練成員の名前を読み上げる楠本加美野先生は老眼鏡をかけていらっしゃいませんでした。

「生長の家」を信仰していれば、いつまでも健康で若々しくいられる、というわけですね!

6061a hope:2015/12/17(木) 10:38:42 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p131 9行目〜

さて、各種の波動を感ずる感覚器官に起る障害、半身麻痺であるとか、あるいは眼が悪いとか、耳が悪い、味がない、鼻が悪いというのは、要するに皆波動を受けいれるこちらの念波のまちがいなのであります。

ラジオでも受信機の波長が放送装置の起こす波長に合わなければ、感じない。

この感覚器官の波長の不調和はどこから来るかというと、すべて事物をありがたい、と受け入れる感謝の心の欠乏から来るのです。

有りとしあらゆるものはすべて神の無限の愛、無限の知恵、無限の生命に充ち満ちている。

その神の生命、神の愛、神の知恵を、素直に受け容れる人が少ない時にそういうわれわれの生活に必要な波動を感受できない――できないのではない、感受しない状態が起ってくるのであります。

顔面麻痺などというのも、面の皮があんまり厚くて、他人のよろこびも悲しみも鉄面皮で少しも感じない。

冷酷無情な、いつも他(ひと)のことは考えようとしない、自分だけを突張る頑固(かたくな)な心が現われて顔が突張っているので、その心が直ったら顔の突張りも自然にとれ、感覚の麻痺も治ってくるのであります。

中風で体が痺れているというのも実は心が痺れているのです。

心が痺れていて神様や、家族や、いろいろの恩人の厚い恵み、愛などに本当に喜びを感じることができない、その心が現われて身体に麻痺という状態をおこしているのです。

その心が現われて身体に麻痺という状態を起しているのです。

また近眼とか、蓄膿症とかも、総括的に言えば皆大体同じことで、目が見えなかったり、耳が遠かったりするのは、他(ひと)の心を受け入れる心がない証拠といってよいのです。

天地に満つる神の恵みを、正しく受け入れる心が少ないのであります。

受け入れたにしても本当にあるものをすっかり受けないで、半分くらいしか受け取らない場合には片目が見えないとか、片耳が聞こえないとか、近くは見えても遠くは見えないとか、半分しか感受機関が働かなくなるのであるのであります。

それがすべての愛、すべての知恵、すべてのよろこびを素直に受け入れる人になった時に外に現われた感覚器官の障害も消えてしまうのであります。

肉体は心の影でありますから、心のとおりに外部の現れが変わってくるのは当然のことであります。

6062a hope:2015/12/17(木) 10:41:48 ID:cEpBaIdo

>>6061 a hope所感)

「生長の家」の教えを信仰すると、体の不調和が調って病気が治ってしまう・・・

その本当の理由は、「生長の家」の信徒になったからではなく、毎日「生命の實相」を拝読しているからでなく、
神想観をしているからではなく、「甘露の法雨」を読誦しているからではないのですね。

<<この感覚器官の波長の不調和はどこから来るかというと、すべて事物をありがたい、と受け入れる感謝の心の欠乏から来るのです。>>
<<すべての愛、すべての知恵、すべてのよろこびを素直に受け入れる人になった時に外に現われた感覚器官の障害も消えてしまうのであります。
肉体は心の影でありますから、心のとおりに外部の現れが変わってくるのは当然のことであります。>>

「生長の家(聖典・聖経)」の真理を素直に受け入れる「心」が調った時に、「心」が感謝の気持ちで満たされ、肉体も環境も調和するというわけですね!

6063a hope:2015/12/21(月) 12:35:49 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p138 後から5行目〜

「しかしいくら肉体は痛くないと思おうにも痛いのは事実です」などと言われる方がありますが、そういう方はまだ「心の痛み」ということが本当に分かってはおられないのです。

心の痛みというのは肉体にあるのではい。

それだのにそういう方は「心の痛み」と言っても、その痛みというのは肉体の痛みを指して言っているかのように考えて、「この肉体は痛くないと思うと努力しても痛い」などと言われるのです。

それはまちがいです。

肉体を離れて心に着眼点をもってこなければならない。

それでは心の痛みとは何か?

家庭の中の不調和とか、人を憎む心とか、口惜しい残念だとかいう心、妬む心、癇癪を起こす心、これらが要するに心の痛みなのです。

腹が立ってどうしてもそれが制しきれないということが往々ある。

それも心の痛みです。

あるいは愛する子供や親を失って悲しみに暮れるということもある。

これも心の痛みです。

子を失う人の痛みは、われわれにとって最も大きい苦痛です。

その苦痛の蓄積の後に神経痛を起こす人もある。

この肉体は死んでも本当は人間はしなない生きとおしの生命であると知ると心の痛みが次第に癒えてくるのです。

そういうふうにして心の痛みが根本的にとれてしまったら肉体の痛みはすぐになくなってしまうのです。

こういう意味で肉体がいたいのではない、というのだと言いますと、それでも痛くないと思っても事実痛いものを、と言われる方は、まだ肉体を指さしておられるのです。

肉体に痛みはないのですから、その時省(かえり)みて、自分の心にある悲しみ、憎しみ、恨み、嫉み、というような心の痛みを、すっぱり捨ててしまった時、肉体の痛みも忽然と治るということになるのであります。

だから、痛いというのは、この肉体が痛いのではない、神経が痛いのでもない、ただ痛いという念が痛いのであります。

ですから、この肉体から念というものを奪い去ってしまった時に、もう肉体はなんの苦しみも痛みもなくなってしまうのです。

だからこの一節には「『念』全く去りたるものを死体と云う。汝ら死体が痛みを感じたるを見しことありや」と書いてあるのであります。

この肉体はまったく念の影なのでありますから、われわれが健康を念じたら健康になり、病いを念じたら病になるのであります。

それでは健康を念じさえすれば、癇癪を起こしてもどうしても健康でいられるかというとそうではない、われわれの念そのものがいつも健康な状態であることが必要なのであります。

念が健全だということは、痛いということを念じまいとすることや、健康健康と、その肉体の健康だけを思うことではない。

念そのものが大調和の状態になることであります。

普段はどうでも神想観の時だけ、健全な心になって念ずるなどというのは駄目で常住坐臥(じょうじゅうざが)に健全なる、大調和の念を持っていることが、すなわち健康を念ずるということになるのです。われわれが常に神の子の念を持つ。

これによって健康を生ずるということになるわけであります。

6064a hope:2015/12/21(月) 12:36:58 ID:cEpBaIdo

>>6063 a hope所感)

家庭の中の不調和・・・人を憎む心・・・口惜しい残念だとかいう心・・・妬む心・・・癇癪を起こす心・・・
腹が立ってどうしてもそれが制しきれない・・・
あるいは愛する子供や親を失って悲しみに暮れる・・・

すべてが「心の痛み」なんですね。

でも、この人生で生きていて、そのような「心の痛み」を全く感じないで生きている人なんているのでしょうか?

自分自身では制御しきれないような「憎しみ」や「妬み」や「怒り」「悲しみ」等の悪感情を、なぜわたしたちは体験しなければならないのでしょうか?

「生命の實相」に出会う前のわたしは、それは人間が不完全である証拠であり、そんな人間を創造した「神」がもし存在しているのなら、
「神」はわたしにとっては一番憎むべき存在である、とさえ思っていました。

ところが、「生命の實相」には、そんな不完全な人間や不完全な心は本来存在しないもので、在るもの実相、「完全円満」な人間の姿だけである、
つまりは「人間こそ神(神の子)」でありこの世は「唯神実相」の世界であると書かれてあるではありませんか・・・

わたしにとってそれは、本当に、「衝撃的」な真実でした。

ところで、そのような素晴らしい真理を説く「生長の家」の信仰者としてのわたしたちの使命っていったいなんなんでしょうか?


現象世界の不完全さを憂い、嘆き、悲しむことでしょか?

わたしは聖典の文章に答えがあると思います。

<<念そのものが大調和の状態になることであります。
普段はどうでも神想観の時だけ、健全な心になって念ずるなどというのは駄目で常住坐臥(じょうじゅうざが)に健全なる、大調和の念を持っていることが、すなわち健康を念ずるということになるのです。われわれが常に神の子の念を持つ。
これによって健康を生ずるということになるわけであります。>>

一般の人間がそういう心境になるのはなかなか難しいのでしょうが、「生長の家」の真理を知っているわたしたちにとっては、それはとても有難い信仰目標(使命)ですよね!

6065a hope:2015/12/21(月) 12:40:13 ID:cEpBaIdo

山川海さま

こちらをご覧になってくださっているでしょうか?

>>5978で山川海さまがご紹介してくださったので、わたしはあれから毎朝晩、父母への感謝の言葉を唱えています。

そして、数日前、素晴らしい功徳をいただきました!

本当ならここで感動の体験談を詳しくお話したいのですが・・・

なかなか解決しなかった娘のある問題が感謝行をはじめてすぐに良い方に向かいだし、そして1か月半後見事に解決したのです。

そして本当に娘の運命が、“ バッ ”と変わりました!!


この感謝行を続けていると、父母への感謝だけではなく、ご先祖さまや周りの全ての人々にも感謝の気持ちを持つことができるようになるような気がしています。

よいことを教えてくださって、本当にありがとうございました。 合掌。

6066a hope:2015/12/25(金) 23:52:49 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p151 4行目〜

(十一)

されば汝ら、
心の中に常に円満完全清浄なる実相の姿を描けよ。
常に円満完全無病なる神の子の相(すがた)を描けよ。
人は神の子にして其の他の何者にも非(あら)ざるなり。
円満完全なる神より不幸は生ぜず、
円満完全なる神より病は生ぜず、
不幸と病とは唯これ五官の妄想(まよい)に過ぎざるなり。
汝ら病を恐るること勿(なか)れ。
五官の感覚に描かれたる病は
一毫(いちごう)も汝らの生命の実相を病ましむること能わず、
一毫も汝らの生命の実相を不幸ならしむること能わず、
如何なる病も
如何なる不幸も
ただ『生命の実相』の表面を掩(おお)える
叢雲(むらくも)の如き幻に過ぎざるなり。
その幻はすべて
『生命の実相』を知らざる迷いより生ず、
汝ら『生命の実相』を知り、
迷い滅すれば恐怖滅し、
恐怖滅すれば
一切の不幸おのずから滅せん。


ここにはいっさいの不幸、病気、災難などというものは恐怖が因(もと)になって生ずるということが書いてあるのであります。

(略)

恐怖心を起こしたが最後、もう自由自在の知恵が出なくなる。

下手な考え休むに似たりというようになってくる。

たまたま考えついた考えは失敗だらけの支離滅裂なものとなる。

だからどうしても事業を大成するには恐怖心を滅しなくてはならぬ。

恐怖心を滅するにはどうしたらよいかというと、『般若心経』には「顛倒夢想を遠離すれば恐怖なし」と書いてあります。

恐怖の因(もと)は、顛倒夢想から生ずるのであります。

顛倒というのは「サカサマ」――有るものを無いと思い、無いものを有ると思う、これが「サカサマ」であります。

「夢想」というのも、無いものをあるかのごとく妄想によってえがき出すのが夢想であります。

では何がサカサマであり顛倒夢想であるかと申しますと、肉体は本来無いのに有ると思い、本来有る完全円満な神の子なる実相身をアベコベに無いと思う――これが顛倒夢想であります。

本来この世は神の国であり仏土であるのに、苦娑婆であるとか、地獄であるとか、穢土(えど)であるとか思う――これが顛倒夢想であります。

(略)

この顛倒夢想を覚ますには、夢にうなされてる人を覚ますのに大声でどなるように、われわれは言葉の力を用いるのであります。

「そんな病気の相(すがた)や貧乏の相は本来無いんだぞ」と耳元で大声を出してやると、「ムニャムニャ」と言いながら目を覚ます。

眼を覚ましてみると、今まで自分は貧乏なルンペンであってしかも病気をしていると思っていたのが豈(あ)に計らんや、その実(じつ)自分は無限の長者の後継者(あとつぎ)であって金殿玉楼(きんでんぎょくろう)に錦繍(きんしゅう)の夜具の上に実に楽々と寝ていたのだということがわかるのであります。

心が真理を悟り、実相に目覚めれば、天国浄土は今、このまま、ここにあることを見いだすことができるのであります。

その状態を説明して聖経『天使の言葉』には次のごとく書かれているのであります。

(つづく)

6067a hope:2015/12/25(金) 23:53:38 ID:cEpBaIdo
(つづき)

「生命の實相」第23巻 p154 後から4行目〜

(十二)

かく天使(てんのつかい)語り給えば――

虚空に蓬莱島(ほうらいとう)の如き理想郷実現し
島の頂(いただき)には水晶にて造られる宮殿ありて
その甍も柱も悉く水晶なり。
天使その主座に坐したまえば
天童たちその甍(いらか)を透過(つらぬ)きて天より舞い降りて
悉く天使の周囲に輪を描く。
此時いずこともなく天楽の音(ね)嚠喨(りゅうりょう)として聞え、
天童これに和し羅綾(うすもの)を流(ながれ)の如く引いて舞えば
島をめぐれる紺青の海に
ヴェニスのゴンドラ船の如き
半月の船静かに辷(すべ)りていと平和なる状態(すがた)なり。
此の時天使の声水晶宮より出でて虚空に轟(とどろ)き、
地を指(ゆびさ)して宣(のたま)わく、
『見よ、これ実相世界なり、
実相世界は父の国なり、
天国なり、
浄土なり。
父の国には住居(すまい)多し。
実相世界の住居は悉(ことごと)くこれ「生長の家」なれば
住民(すむひと)に飢えなく、
悲しみなく、
争いなく、
病なく、
万(よろず)の物ことごとく意(こころ)に従って出現し、
用足りておのずから姿を消す。
円満具足清浄微妙の世界、
これ実相世界、
これ汝らの世界、
そのほかに世界あることなし。
斯く天使の宣うとき、
天使の指(ゆびさ)し給う方を見れば
『生長の家』無数に立ち並びて
甍列をなし
炊煙(すいえん)春の霞の如く棚引きて
住民悉く鼓腹撃壌(こふくげきじょう)し、
其処はただ常楽の世界を現じたりき。(聖経終)

(略)

生長の家というのは実相世界全体を称して生長の家と申すのでありますが、その実相世界の如意円満具足清浄微妙の状態を顕現している国家、社会、家庭の一個一個がやはり生長の家であります。

よく生長の家の信徒で、実相を悟ってから欲しいものが自然に集まって来たという体験を話される方がありますが、それは環境は念の影でありますから、悟りに従って実相世界の「万(よろず)の物ことごとく意(こころ)に従って出現し、用足りておのずから姿を消す」状態が現象界に投影する結果そうなるのであります。

一切人(いっさいじん)の現象生活がそうなりました時、われらの地上生活は実相世界の影を完全に映出して、この世に地上天国が建設せられるのであります。

こえで聖経『甘露の法雨の後編『天使の言葉』の講義を終ることにいたします。
長々御清聴を煩(わずら)わしましてありがとうぞんじます。

6068a hope:2015/12/25(金) 23:56:04 ID:cEpBaIdo

(>>6066 >>6067 a hope所感)

実はわたしは「聖経」を読誦するのは苦手でした。

ですが聖典「生命の實相」の「聖経」の講義を拝読していると、「聖経」の意味が良くわかるのでとても幸せな気分になります。

そして今は「聖経」の言葉一つ一つの荘厳な響きに、以前よりずっとわたしの魂が共振するようになった気がしています。

6069a hope:2015/12/26(土) 00:00:02 ID:cEpBaIdo

トキさま みなさま

わたくしごとですが、年末年始は忙しくなるのでなかなか書き込みできません。
もし、わたしの代わりにこのweb誌友会の司会進行をしてくださる方がいらしたらお願いしたいのですが・・・
年末年始はみんさまもお忙しいのではないかと拝察いたします。

来月(1月)の半ばくらいになりましたら、第39回、web誌友会開会させていただけると思いますので、
それまでは、第38回web誌友会を続行という形にさせていただきたいです。

勝手を言って申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

6070a hope:2016/01/17(日) 10:00:24 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます。
遅くなりましたが、第39回 web誌友会を開会させていただきます。
それでは、開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、今月の「今の教え」と「本流復活」を考える WEB誌友会板/2 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

6071a hope:2016/01/17(日) 10:03:11 ID:cEpBaIdo

それでは、第24巻(頭注版)のカバーの帯の文章を紹介させていただきます。


「あなたの希望を実現させる力とは」

一年前ごろまで常に病気やら何々と不幸の連続であったA氏が、生まれ変わったように溌剌としていたので、「何が彼をそうさせたか」とたずねた。

A氏 「わたしは運命は心しだいでどうにでも変化できることを知ったのです。わたしたちはなろうとおもうとおりのものになれるのです。今まで自分は不幸になるという恐怖心が常につきまとっていましたが、今は反対に『わたしの生活には幸福のみあり』といえるようになりました。」

彼はここまで言うと「すべての問題解決のカギはここにある。君もこれを読んで幸せになって下さい」といって去った。

その本がこの本書です。

本書には心の力をいかんなく強め、すべてを解決する力を掌中におさめる方法が、わかりやすく書かれています。

6072a hope:2016/01/17(日) 10:06:25 ID:cEpBaIdo

>>6071 a hope 所感)

わたしは「生命の實相」のカバーの帯の部分の紹介文を読んでも感動し、啓発されてしまいます。(笑)

実相世界を完全に悟っていないわたしたちは、この現象世界で魂を生長させるために色々な問題にぶつかりながら生きて行く宿命を背負っているのだと思います。

でもどんな困難な問題にぶち当たっても、わたしたちには「生長の家の教え」がありますから大船に乗っているような気分ですよね!

人間知ではどうにもならない現象問題に心を煩わせたり、歎いたりしている時間があるのなら、
その代わりに1ページでもいいので聖典「生命の實相」の言葉を拝読したほうが問題はすみやかに解決に向かうのではないかと感じています。

今年もこのトキ掲示板で聖典「生命の實相」の輪読会であるweb誌友会を続けさせていただけることに、心より感謝しています。

合掌。

6073a hope:2016/01/17(日) 10:10:56 ID:brQxC10.

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第39回 web誌友会 案内

期間   平成28年1月17日〜2月29日まで
テキスト 「生命の實相」第24巻 参考篇 / 質疑篇
内容   心が肉体に及ぼす力 / 真理の応用および拾遺

     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

6078a hope:2016/01/18(月) 09:38:55 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p7 後から2行目〜

「文化高き」と称するところのわれわれにはぐくまれた最も不幸なる事柄は、自己の内に宿っている自然療能の力を信じなくなったということである。

われわれの住んでいる大都市ではあまりにも病気治療の設備が多いのである。

自然、われわれは病気を予想し、病気を予期し、その結果、心の法則にしたがって病気となってしまうのである。

辻から辻までの間に一軒、少なくとも二辻につき一軒の医院がある。

薬局はどの辻にも看板を麗々しくかかげている。

ちょっと病気らしい兆候があらわれたら来いとばかりに医者と薬やとが誘惑している。

それでわれらは外部の助けにいっそうたよりたがるようになり、内在の療力(なおすちから)が麻痺してしまって肉体の不調和を自力で治すことができなくなるのである。


文化低き時代には、小さな町や村には医者がめったに姿を見せなかった。

それで住民は内の癒力(ゆりょく)に頼って何物にも外物に頼らず、強壮で、強い抗病力(こうびょうりょく)を発揮したのである。


すぐ医者を呼ぶような家庭では、その家庭に育つ子供の健康はみじめな状態になりやすい。

これは医者が来るということによって子供に「自分は弱い」という暗示をかなり強く与えることになるのである。

ちょっと子供の加減が悪いようだとすぐ医者を呼ぶような母親が非常に多いがその結果、その子供の心の奥底には「病気」「医者」「薬剤」などの観念が刻みこまれることになり、生長してからも、その全生涯に影響を与えるものである。


やがて、小児と薬剤とは実に不一致な組み合わせだということが考えられる時代が来ると思う。

小児は愛の暗示のうちに、真理の暗示のうちに、調和の暗示のうちに育てるべきものである。

6079a hope:2016/01/18(月) 09:40:41 ID:cEpBaIdo

>>6078 a hope所感)

いったいどれだけの生長の家の信徒が「肉体は心の影である」という真理を体得しているのでしょうか・・・?

わたし自身は聖典の真理は信じていますが、病気になれば(ほとんどなりませんが・・・)すぐに病院に行き治療を受けます。

自分の病気は過去のわたし自身の悪しき心の影響、もしくは他者からの悪念波の影響で起こることですから、
その自分の悪しき心を直せば、もしくは他者からの悪念波を受けないような良い波動を自分が発すれば病気も治ってしまうことは頭ではわかっているのですが、
わたしの今の信仰状態ではそう簡単に自分の心をコントロールできないこともわかっていますので・・・(;´∀`)

それに、谷口雅春先生も真理の実践の強制はしていなかったと思います。

現在のわたしの信仰状態や悟りの深さでは、もし病気になったらなら医者の治療を受けながら、
「生命の實相」を拝読して真理を悟り、自己内在の治癒力を高めていくというのがベストな方法だと思っています。

6081a hope:2016/01/18(月) 11:54:06 ID:cEpBaIdo
>>6080

最初から、コメント欄に投稿していれば削除もされず、意見交換も可能なのに、
掲示板の規則と秩序を守らない方から、わたしがそのようなご批判を受ける筋合いはありません。

トキさま >>6080 とこの投稿の削除をお願いいたします。
今日はこれから出勤ですので、今後もweb誌友会板に同じような投稿がありましたら削除してください。

6084a hope:2016/01/20(水) 09:47:22 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p9 7行目〜

神は決して彼の愛もて造りたるものを、ただの偶然の暴威や、運命の残忍の手にゆだねて放っておくものではない。

神の造り給いし子供らの生命、健康、幸福は、外部的治療薬の上に万一を慮(おもんばか)ってぶらさげておいては決してないのである。

人間の生命、健康および幸福は、たまたま付近に薬になるべき植物や鉱物が見出されると見出されないとで影響をこうむるようには決して造っていないのである。


神は極小部分の人類しか発見できないような地球の遠隔地にある雑草や鉱物の中に人間を癒やす薬をかくしておいて多数の人間がそれを知らずに死んでしまうような不合理なことはしておくまいと思われる。

人間の病気その他の不幸を癒やす薬をいつまでもすぐ間に合うところの人間の内部に――彼自身のうちに――置いたという考え方がいっそう合理的ではあるまいか。


人間ひとりひとりの内部にはかくれたる力、破壊不能の生命、尽きぬ健康の泉が潜んでいて、それが発揮されれば、われらのあらゆる傷を癒やし、われらのあらゆる不幸を治す薬剤となるのではないか。

6085a hope:2016/01/20(水) 09:49:01 ID:cEpBaIdo

>>6084 a hope所感)

思えば、「生命の實相」に出会う前のわたしは、精神世界には目覚めてはいましたが、
生きとおしの生命や金剛不壊の実相、というものをよく理解してしませんでした。

ですから、自分や家族が病になれば、某大学病院の名医だとか、あるいは気功の名手だとか、アメリカンインディアンの秘薬だとか・・・
常に外部の何か特別に有効そうな何かに頼ってしまうことがとても多かったです。

現在であっても家族が病気になれば普通に病院に連れて行きますし、自分自身も仕事の健康診断で結果が悪ければすみやかに治療を受けています。

それは「病気になったら医者に行く」という、現代の日本社会の常識(集団意識)に逆ってまで、
『真理』を証明する自信もありませんし、その必要も感じないからです。
 
それに、「ねばならぬ」がないのが「生長の家の教え」ですものね!

特別なことをしなくても、普通に今の生活をしながら信仰(聖典拝読)していれば、いつかは必ず『真理』を悟ることができるのが、
「生長の家の教え」だとわたしは思っています。

追伸・・・
「生命の實相」の『真理』に対する肯定的なご意見、もしくはわたしの解釈が違うのではないかというご意見等は大歓迎ですが、
「生命の實相」の『真理』自体に否定的なご意見のご投稿はこのweb誌友会板にはご遠慮ください。(コメント板にご投稿ください。)

6086a hope:2016/01/24(日) 12:06:50 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p24 5行目〜

ごく最近聡明な一婦人にあったところ、彼女は雑誌小説から受けた憂鬱な暗示のために、その日半日以上まるで病気にでもなっていたといった。

その小説は有名な作家の書いたもで、優麗な筆で残忍な事件を描写してあった。

その強き筆致の印象が彼女の心の底にあった病的層に触れて彼女をすっかり病気にしてしまったのであった。


医科の学生が解剖実験室で受ける恐ろしい暗示作用や、病気のことをたえず研究していることからくる恐怖的影響のために病気になることはよくある例である。


これとは逆に、たえず愉快な、希望に満ちた、健全な思考が、肉体に好影響を与えて、病弱をも健康に甦生(よみがえ)らすことができることは当然と言わねばならない。

病者の心は多少ともどちらといえば弱くて、主観的で、消極的である。

そしてまた感じが非常に強くて善悪とも暗示に非常に感化されやすいのである。


これに反して健康者の心は自主的な積極的な自己創造的な態度であって、暗示に対して反発力が強く、病的な思想など吹っとばしてしまうのである。


誰でもたいていはその人が病気の際に、愉快な楽天的な知人から見舞いを受け、希望と勇気とを心のうちにつぎこまれて急に気分が快活になり、その時から病気がよくなるような光明を受けた経験をもっているであろう。


またわれわれは、その病気の際に憂鬱な悲観した気の晴れない見舞客に接すると、自分もまた光明を失っていっそう暗い気分に誘われた経験があるであろう。

6087a hope:2016/01/24(日) 12:08:30 ID:cEpBaIdo

>>6086 a hope所感)

その人(作品・文章)の思想が、「光明思想」であれば、出会った人は希望や喜び、生きる力の影響を受けて健康になる・・・、
反対にその人(作品・文章)の思想が「暗黒思想」であれば、出会った人は希望を失い、陰鬱になり、生きる力を奪われて病気になる・・・


昔と違って、現代の過剰情報化社会では、わたしたちはいろんな「思想」に簡単に触れることができます。

例えば、インターネットで「光明思想」と検索しただけでも2,750,000件もの情報が飛び込んできます。(嬉しいことに、生長の家関係の記事が多いです!)

そういえば、「生長の家の教え」を信仰しているわたしたちは、常に、「愉快な、希望に満ちた、健全な思考」を持ち続け、人類を光明化することが使命なのでしたね・・・。


<<病者の心は多少ともどちらといえば弱くて、主観的で、消極的である。
そしてまた感じが非常に強くて善悪とも暗示に非常に感化されやすいのである。
これに反して健康者の心は自主的な積極的な自己創造的な態度であって、暗示に対して反発力が強く、病的な思想など吹っとばしてしまうのである。>>

心が健康であれば、どんな「暗黒思想」に出会おうとも影響を受けることはないのですね。

テキストを勉強していると、心の健康を保つことの重要性をとても感じます。

6088a hope:2016/01/30(土) 00:12:38 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p36 

不老長寿の秘薬は「心」にあるのであって、ほかのどこにもない。

若く見せようとして若々しい着物を着、若々しい化粧をしたからとて若くなるものではないのだ。

何よりもわれわれはまず自分は年をとりつつあるとの心の念(おもい)を打破らなくてはならぬ。

年をとりつつあるとの念(おもい)が心のうちに根をはっている以上若々しい衣装や化粧が肉体を若返らす力はほとんどないといってよいのだ。

信念をまずかえねばならない。

年齢を肉体に彫刻した念(おもい)をまずくつがえしてしまわねばならぬのだ。


自分は若いのだ!

かく感ずる永遠の若さの信念をもて!

この信念をもつときすでに諸君は老齢との戦いに第一塁をおとしいれたのである。

これを信ぜよ――年齢について自身が心にいだく念(おもい)はすべて肉体にあらわれてくるものであるということを。

肉体は心の習慣的念(おもい)、習慣的感じのあらわれであるから、あなたが今までどんなに長らくこの世に生きながらえてきたからって、遠慮なしに自身を若いと思え。

これはあなたが永遠の若さをいつまでも失わぬようになるために非情な助けとなるのだ。

神は永遠に若い。

神の子は永遠に若くてよいのだ。

晴々した、陽気な、楽天的な希望をもった、愉快な青年のすがたを輝かしく描いて、それを自分自身であると思え。

青年の持ちまえである若々しい夢と理想と希望と、あらゆる輝かしい若さを自分自身のものであると思え。

この考えほど自分自身の年齢の歩みを遅らすものはないのだ。

6089a hope:2016/01/30(土) 00:17:10 ID:cEpBaIdo

>>6088 a hope所感)

<<若く見せようとして若々しい着物を着、若々しい化粧をしたからとて若くなるものではないのだ。>>

これは、ほんとにそうだな〜と感じることが多いです。

わたしも気をつけたいのですが、ある程度の年齢がいった女性が(男性もですが)外見だけがんばって若作りしているほど痛いものはありませんよね・・・(;´∀`)

内面の若々しさがある人って、どんな服装をしても、すっぴんでも若く見えてしまいますよね。

よっしゃ、聖典よんで、神想観して、わたしの内面革命がんばろうっと!

6090a hope:2016/01/31(日) 11:03:39 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p41

「わたしは舞台に立って芝居の客に台詞(せりふ)を聞かすと同じように、年齢にむかってこう叫ぶのである――『年齢よ、おまえがいかにさからうとも、わたしは汝を征服する!』と。」

諸君はここに永遠の若さを保って決して老いざりし世界的名女優の魂の叫びを聞くのである。

彼サラ・ベルナールを知れるものは、年齢に対するこの彼女の挑戦が、ただ豪語でないことを決して疑わなかったであろう。

サラ・ベルナールは六十歳のときなお生き生きした若さを失わず、四十歳を一日も越したようには見えなかったのである。


マダム・バーンハードその他の麗人たちが年齢よりわかく見えていたのは、特に彼らに対してのみ自然の恩寵が深かったというわけではないのであって、それは彼ら自身の年齢に対する心の態度に原因するのである。

彼らは年齢をして容貌にその皺をふるわすことを断固として拒絶したからではないか。

彼らは普通の意味では年寄りにならないことを心のうちに宣言したのだ。

(略)

諸君よ、自己自身の神性を自覚せよ。

人間の生命は「二二ンが四」を支配している数学の法則のように不滅であることを自覚せよ。

如何なる人生の事変も、労苦も、艱難も、自己の本質であるところの不滅の部分には触れることができないことを自覚せよ。

人間の生命は無限の創造活動をつづけているところの宇宙生命の一部分であるということを自覚せよ。

かくのごとき聡明なる自覚に達するならば、彼は決してなお壮年時代の若さにおいて精神力と肉体力の衰退を来すべきはずのものではないのである。


諸君よ、年齢をして断じてその醜悪なる鑿(のみ)のあとを刻ましめないと決心せよ。

しかして心に絶え間なく「吾れ若し」という暗示を与えて肉体の老衰を防止せよ。

人は極力かくのごとき心的努力を払わないかぎりは、人類全体のもつ「老衰」するという心的習慣に打ち負けて、いつまでも容貌にも精神力にも若さを保たせておくことはできないものである。

普通われわれは青年時代にすでに年齢の観念を心の世界に種蒔きはじめる。

そして四十五歳にしてその種の芽生えを見、五十歳にして老年の坂を下るとはなんたることぞ!

6091a hope:2016/01/31(日) 11:04:26 ID:cEpBaIdo

>>6090 a hope所感)

「生長の家」の教えって、ホント常識外れのすごい教えですね。(@_@)

だって、わたしたちに「人類全体のもつ心的習慣に打ち勝って、人類の常識を破りなさい!」と〝 喝〝 をいれてますものね。

これは、唯物論者には受け入れがたい「教え」ですね・・・絶対に・・・。

6092a hope:2016/01/31(日) 11:46:43 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第39回 web誌友会 案内

期間   平成28年1月17日〜2月29日まで
テキスト 「生命の實相」第24巻 参考篇 / 質疑篇
内容   心が肉体に及ぼす力 / 真理の応用および拾遺
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

今日が今月の最終日ですが、2月末日まで第39回web誌友会を続けて開催させていただきます。

みなさまのご参加を心よりお待ちしています!

6093トキ ◆UMw6UoGELo:2016/02/01(月) 21:05:21 ID:VYinVpl.
>>6089

 真剣に行じておられる白鳩さんは、ご高齢になっても、品のある人が多かった思います。
内面からの美しさというのは事実だと思います。

6094a hope:2016/02/03(水) 00:28:22 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p60 2行目〜

諸君よ、暇あるごとに、ポカンとしている一分間の暇に、電車の座席に座るごとに、本当に理想的な完全さを備えた自分自身の相(すがた)を心に描け、健康そのものの姿において、若さそのものの姿において、力そのものの姿において、自分自身を心のうちに思い浮かべよ。

健康を思え。

男は「永遠の男性」とも言うべき最も理想的な男性の姿において、女は「永遠の女性」とも言うべき最も理想的な女性の姿において、最も完全な自分自身を心に描け。

この最も善い方法が神想観である。(頭注版・携帯版八巻「観行篇」参照)

6095a hope:2016/02/03(水) 00:30:06 ID:cEpBaIdo
>>6094 a hope所感)

神想観とは「神さまを想い観ずる」と書きますね。
最近、生長の家総裁である雅宣先生が、FBにとても信仰深いお言葉を載せてくださっているので紹介させていただきます。

『「自分は独りで孤立していると感じるとき、「神さま」と呼びかけて神の御徳を観じよう。そして、「私はあなたの知恵と愛と命の表現者ですから、すべてと一体であり調和しています」と深く何度も念じよう。」

『自分を無力だと感じるとき、空を見上げ、胸をはって「神さま」と明るく呼びかけよう。そして、「私はあなたの無限の力のただ中にあります」と何度も唱えよう。』

『心が波立ち騒ぐとき、端座瞑目して「神さま」と静かに念じよう。そして、「私は魂の深奥において、あなたと一体です」と繰り返し唱えよう。』

どれも素晴らしい「神想観」だと感動しました。

6096a hope:2016/02/07(日) 10:10:16 ID:cEpBaIdo

『生長の家』信徒行持要目

一、 天地一切のものに感謝すべし。

皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。天地の万物に感謝せよ。


二、 そのままの心を大切にすべし。

そのままは零なり、一切なり、〇なり。円満なり、無礙なり、無限供給なり、調和なり、病なきなり、一切の不幸、災厄、病難はそのままを外したるときあらわれるなり、顧みてそのままの心に復(かえ)るとき、一切の不幸は滅す。


三、 何事にも真心を出すべし。

憂患は外界より来るに非ず。真心顕れざるを憂患と言う。内に真心なきに非ず。それを顕さざるに過ぎず。真心とは全心なり、全力なり、一生懸命なり。『今』を生かすなり。真心あらわすとき、直ちに此処が天国浄土と化するなり。


四、 一切の人に物に事に行届くべし。

真心顕わるれば自然一切の人に、物に、事に行届くなり、人には必ず深切なるべし、和顔なるべし、声やさしく愛語すべし、如何なる小事にも行届くことを心掛けよ、若し行き届かざることあらば弁解すべからず。真心を顕わすことを怠りたる自分の罪なりとして懺悔すべし。

五、 常に人と事と物との光明面を見て暗黒面を見るべからず。

暗黒面を見る心ある時、その人に暗黒あらわるるなり、光明面を見る心ある時、その人に光明あらわるるなり。人に陰にて誹るべからず。善き面を見つけて賞賛すべし。凡て事と物とに不平言わず、感謝すべし。


六、 常に自我を死に切るべし。

常に肉体本来なく、物質本来なく、自我本来なく、唯神の生命、今此処にあらわれて生くると思いて感謝して作務すべし。


七、 人生を神生となし常に必勝を信じて邁進すべし。

自我を死に切りたるとき、既に『我』なく神の生命のみ生くるが故に、決して失敗を予想せず、明るき心にて日々の業務に獅子奮迅(ふんじん)すべし。失敗と見ゆることも真の失敗に非ず。樹は落葉したるうちに春の花の用意整いつつあるなり。


八、 毎日一回は必ず神想観を実修して、心を光明化すべし。

『菩薩何を為すべきか』より

6097a hope:2016/02/07(日) 10:14:42 ID:cEpBaIdo
>>6096 a hope所感)

テキストの内容から外れますが、何をすることが「生長の家」を信仰するということなのか、わからなくなったので、
『生長の家』信徒行持要目と、その解説を謹写してみました。

これが、「菩薩」つまり、わたしたち「生長の家」の信徒の為すべきことでしたね!

あらためまして、素晴らしい「生長の家の教え」に出会えたことに心から感謝します。合掌。

6098a hope:2016/02/10(水) 00:13:04 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p88 後から3行目〜

二、現象なしの自覚について

(問)―― 病はないということはない。病は現象としてあるのである。それはただ実在ではないのである。
それを「病なし」と言いきるのは言いすぎである。現象は無いことはない、現象を全否定してしまうのはまちがいである。
現象は本体的実在ではないことはもちろんであるが、本体展開して現象となるのであって、現象なしと言いきってしまうのは奇矯だと言う人があります。(中根氏出題)


(答)―― 生長の家では「現象は実在ではない、病は実在ではない」という言葉を各所のページで説いておりますが、また時には、非実在と書いて「あらず」とか「ない」とふりがなをつけたところもあります。

が、近ごろはいっそう平易なわかり易い言葉で、直截的(ちょくせつてき)簡明に『病気はない』『現象はあるようにみえてもない』と力強く言いきることにしているのであります。

わたしがなぜこう言うかは悟った人は知っていると思います。

われわれが平常使っている言葉は、現象界を言いあらわす言葉であって、実相に直参する言葉ではありませんから、その言葉をそのまま利用して、至妙の実相に直参せしめるためには、ふつうとちょっと違う「奇妙に見えるかもしれない」言葉を使うのであります。

言葉は月を指す指であって、言葉の表現にとらわれていては、月を指す指の形が太いとか細いとか議論していると同じで、いつも月が見えないことになるのであります。

6099a hope:2016/02/10(水) 00:14:17 ID:cEpBaIdo

>>6098 a hope所感)

まことの「真理の言葉」というのは、“悟った心”で書かれていますから心に響き気持ちが明るくなりますね。

6100a hope:2016/02/13(土) 08:51:39 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p91 8行目〜

生長の家で、「現象は無い、肉体は無い」とハッキリ「無い」と言いきることに反対する人に二種類あります。

その一説は、色即是空の「空」という字は単に「ない」という言葉と異(ちが)う、アルにはアルのであって何かアル、それは実在でないというだけだ、と言う人であり、その二は「諸法実相」という仏教上の言葉を「現象即実相」と解する人であります。

ところが、仏典には「空」をハッキリ「無し」と断言してあるところもあります。

『般若心経』にも「五蘊皆空」と書いてあって、その「空」を説明するためには、「色受想行識もまた無し」とか、「老死無し」とか、「老死の尽くることも無し」とか、仏教でもやはり「無い」という言葉を持ってきて説明するほかに仕方ないのであります。

「老死」すなわち老いたり死んだりすることは現象でありますが、『般若心経』には「老死というものは単に無いのではない、現象としてはあるのである」というように、長たらしい緩慢な表現の仕方をしてないので、端的に簡明直截的に「老死無し」と一喝し、始めから人間に老死は無いのだから、これから悟って無くなるというようなものでもないという意味をふくめて「老死の尽くることも無し」と言っているのであります。

『般若心経』の用語などでも「空」とは単に無とはちがうというような批評をせられる人から見たら、「老死なし」というのは言葉が奇矯である。

老死は実在に非ずと言わなければまちがっている。

もし「老死無し」というような奇矯なことを『般若心経』に書いたら人心を惑わすものであると経文の結集者抗議を申し込まねばならぬのでありましょうが、その当時は言葉に引っかかる人がなく、用語がまずくても経文の神髄をつかむ人が多くて、その経を読んでも気狂(きちがい)になる人もなく、かえって気狂が治るくらいで、今に到るまで、この経文が改竄されたということを聴かないのであります。


実際に『生長の家』を読んで「不完全な現象はあるように見えてもないのだ」また「ただ至妙の実相のみがあるのだ」と教えられても、続々と病気が治る、環境が治る、経済状態がよくなる実例があらわれるのはなぜでしょうか。

はたして「現象はない」「病気はない」「不幸はない」等々……というふうに「ない」という言葉を使うことが、不適当なのであれば、そういうよい結果が起こることはありません。

6101a hope:2016/02/13(土) 08:54:23 ID:cEpBaIdo

>>6100 a hope所感)

「物質なし」「肉体なし」「悪なし」「病なし」「死なし」・・・「現象なし」と『実相』以外の現象すべてを「なし」と言いきるのが、
まことの「生長の家の教え」ですね。

でもこのことは「生長の家」の教えを知らない一般の人が聞いたら、きっととても奇矯に聞こえてしまうのでしょうね…。


ですが、

「病なし 迷いなし 罪なし これが生長の家の根本真理であります。それでは神さま ただいまより眠らせていただきます。」

とご昇天の直前に、谷口雅春先生は言い遺されました。(最期のお言葉)

この「生長の家の根本真理」を信仰するのが、まことの「生長の家」の信徒の姿ですよね!

6102a hope:2016/02/18(木) 00:11:55 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p97 2行目〜

薬剤に併用禁忌(きんき)の薬があります。

たとえば鉄剤を飲んでから、タンニンを含有するものを飲むと、鉄とタンニンとが結合して、吸収不能のタンニン鉄になるのであります。

生長の家で「病気はない、老死はない、あるように見えても現象はない」と言いきるところに飲み易い(無学者にも解り易いの意)美妙な言葉の鉄剤となるのですが、その「ない」という言葉に茶々を入れる批評を読むときには、その「茶々」の中にはタンニンが含まれていますので、そのタンニンがせっかくの「ない」という言葉の鉄剤と結合して吸収不能のタンニン鉄となり、読者の心に「無」の字の吸収を不完全ならしめ、心の鉄剤の効果を薄めますので、わたしはこれを避けたいと思っているのであります。


近ごろ、生長の家思想の有名なると効果の顕著なるにつれて、その全体の思想を踏襲して包装や名称だけを加えて、一旗あげてみようとし、かつあまり同じことを書いても受け売りであると一見わかるので、同じ意味を異なる文章で書き表し、「何々会」等という別意の名称で雑誌などを出される方がありますが、そういう雑誌の文章は「無」の字の言葉の調合法がちがうので、わたしの処方した「言葉の鉄剤」に「茶々」を入れることになります。

茶々を入れられるとその人の心のうちで、「無」字のバランスがこわれるので『生長の家』を読んで万事好転していた人がその種の雑誌を併用したために「無」字の鉄剤の吸収率が鈍ってふらつく人があります。

そうしてその種の、雑誌の現象はあるとかないとか論じてある文章を読んだ日には、心のバランスが破れてなんとなく不安で、会社にいても思うように仕事が運ばなかったり、集金が集まらなかったり、ついぞ起こらなかった歯痛が起こってきた人などもあります。

「無」を説くのは仏教でも、一燈園でも説いている。

キリスト教でも解釈の仕様によれば「無」を説いているのです。

生長の家と、それらの宗教とどこが違うかと言いますと、「無」字の扱い方が「ない」と易しく言いきって、その「ない」がわたしの文章全体の流れの上に巧みに効果的に織り混ぜられていて、古今に多く類例を見ないような、読む人のこころに端的に作用して、病を即座になおすほどに心の開放を与え、「無」を説くとも隠遁的にならず、かえって積極的な活動力を与える点にあるのであります。

6103a hope:2016/02/18(木) 00:16:47 ID:cEpBaIdo
(a hope所感)

実はこの部分の文章は、5年ほど前に「本流宣言掲示板」で山科さまが紹介してくださっていました。

そしてそのスレッドを拝見したわたしa hopeがコメントし、その後、山科さまからご指導いただいています。

当時のわたしがなぜ、「生長の家」を信仰していたのにもかかわらず、精神不安に陥ったり、体調を壊したりしていたのか、
その原因がハッキリとしたとても重要なご指導でしたので、あらためまして紹介させていただきます。 

http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&amp;mode=res&amp;log=383&amp;submitlog=383


ところで、先日、三重県の練成道場で、とても悲しい事件が起きましたね。

本来なら、「神の子」の実相が顕現して精神不安や病気が治ってしまうハズの練成道場で、なぜ、今回のような事件が起きてしまったのでしょうか?

聖典「生命の實相」の中にちゃんと答えが書いてありましたね。

6104a hope:2016/02/24(水) 10:30:48 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p115 7行目〜

あなたは「肉体人間が聖典を読んで、実相人間を知る」と言われますが、「肉体人間の知恵」がなくなれば、ひとりでに内在の光が発現してきて、「本来の実相」が輝く。

これは「肉体人間が聖典を読んだので実相人間を知った」のではなく、肉体人間(光の虚)がそれだけ減ったので実相が輝き出したのであります。

肉体人間の知恵、はからいをいっさい捨てほど実相人間があらわれるので、「肉体人間が実相人間を自覚する」などということは「迷いが悟りを自覚する」などという言葉と同様で、ありえないことなのであります。

6105a hope:2016/02/24(水) 10:32:08 ID:cEpBaIdo

>>6104 a hope所感)

「生命の實相」に出会ったばかりのわたしは、「肉体人間が聖典を読んで、実相人間を知る」のだと思っていました。

だから、一生懸命努力して「神に近づこう…」とか「神のみ心に沿おう…」「神さまに叱られないように生きよう…」というように、
人間知で「神(実相)」とは何かを想定して、その自分の想定した神のように生きる努力をすることが信仰生活だと考えていました。

ですから、宇治別格本山の練成にはじめて参加した時の個人面接でのO先生のお言葉には衝撃をうけました。


「この宇治別格本山は霊的な雰囲気に満たされていますね。
だから、この練成を受ければ必ず「生長の家の神さま」がわたしを正しい信仰に導いてくださると思っています。」

というわたしの何気ない発言にO先生は、

「あなたそれはまちがっています!
神さまは、あなたの中にいるんですよ。
この練成はそのあなたの中の神さまを開発するための練成会です」

という内容を大きな声で叱咤するように、わたしにご教示くださいました。


他者へ依存したり、外に神を求めるような「肉体人間の知恵」をなくし、
その人の『内在の神』を顕現させるのが「神性開発練成会」の目的だったのですね。

6106a hope:2016/02/28(日) 11:19:46 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p151 

十三、神仏一体なりやまた別異なりやを問う

池永―― 世間では神と仏を別物のように見る向きがありますが、本当は両者は別物ではなくて一の大生命の別名でしかないと理解させていただいていたのですが、『生長の家』の何号かに、ある信徒は神を粗末にしている家に行くとおのずと祝詞(のりと)が口に上り、反対に仏を粗末にしている家へ行くと、またおのずと待無阿弥陀と口へ出てくる云々と話されておって、神と仏はまったく別物であるかのように書かれてありましたが果たして両者は別物でしょうか、また同一物でありましょうか。

もし両者が別物なれば別々にお祭りせねばなりませんけれども、同一者を神という形式(名)で祭り、あるいは仏という形式(名)で祭るのであれば、神か仏の一方を祭ればそれでよいわけでしょうか。

また多くの家庭でのように神と仏を別々に祭るには及ばないのでありますか。

また『生命の實相』の中の「神への道しるべ」によれば種々の名前の神や仏のあるのは、唯一の神(仏)(作用ではなく本体)はただ一つの大生命であるように書かれております。

もしさようなれば、作用である多神多仏を拝まずとも本体である唯一の神(仏)なる大生命だけを拝めばよいのではないでしょうか。

本体を拝まないで作用を拝むのは本末を転倒せるものではないでしょうか。

所説のごとく従来の多くの既成宗教は光源である大生命なる本体を拝まずに光線から発する光線である作用を拝んでいることとなって礼拝の本末を誤ってはいないでしょうか。

迷信ではなく真の信仰を生くるためにまた偶像礼拝ではなく真の神(仏)を礼拝するために右について御教示をお願い致します。

6107a hope:2016/02/28(日) 11:20:55 ID:cEpBaIdo

>>6106 a hope所感)

この池永さんの質問は「生命の實相」の真理を最初に学び、その後「生長の家」教団に入信した信徒であれば誰でも感じる疑問なのではないかと思います。

宇宙大生命である神は一つなのに、なぜ、わたしたちはなぜ様々な神仏を礼拝するのか・・・?

「生命の實相」にははっきりと「唯神実相」の真理を説いている「生長の家」教団であっても、
宇宙大生命である幽の幽なる神である天之御中主神を主斎神としながら、
実際には、その光線(導きの神)である住吉の大神を副斎神として顕斎し礼拝しています。

わたし自身もそうですが、このことは、「生命の實相」の真理を中途半端にしか理解していない信徒にとっては、
とても混乱することなのではないかと感じています。

雅春先生のお答えをじっくり拝読し、謹写していきたいと思います。

6108a hope:2016/02/28(日) 13:11:19 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p152 後から4行目〜

谷口―― 神仏には全集『生命の實相』の「神への道しるべ」の欄に書いてあるとおり、第一義の実相本体の神と、第二義の化身としての神と、第三義の幽身(かみ)、すなわち諸々の霊魂としての神とがあるのであります。

ある信徒(森田益三郎氏)が霊感によって、「この家は仏を粗末にしている。この家は神を粗末にしている」と知るという場合の「神仏」とは唯一本源神なる(神仏)を指していうのではありません。

それは、神式で祀られている霊魂(幽身)または仏式で祀られている霊魂という意味であります。

神式で祀られている霊魂は、たいてい生前または帰幽前後の事情または信仰の継続により、神式の祭祀を喜ぶのであります。

かくのごとき霊魂は神式の祭祀に用うる祝詞をあげてもらうことを喜びます。

かくのごとき霊魂に祝詞をあげること少なければ、森田氏のいわゆる「この家には祝詞が欠乏している」ということになるのであります。

これに反して、仏式にて祭祀せる霊魂はこれまた生前の信仰または、帰幽当時の祭祀の習慣性の継続により、仏教経典を読んでもらうことをありがたがるのであります。

かくのごとき霊に対して読経を怠るときは、森田氏のいわゆる「この家にはお経が足らぬ」ということになるのであります。
(つづく)

6109a hope:2016/02/28(日) 13:12:55 ID:cEpBaIdo

>>6108 a hope所感)

<<神式で祀られている霊魂は、たいてい生前または帰幽前後の事情または信仰の継続により、神式の祭祀を喜ぶのであります。
かくのごとき霊魂は神式の祭祀に用うる祝詞をあげてもらうことを喜びます。
かくのごとき霊魂に祝詞をあげること少なければ、森田氏のいわゆる「この家には祝詞が欠乏している」ということになるのであります。
これに反して、仏式にて祭祀せる霊魂はこれまた生前の信仰または、帰幽当時の祭祀の習慣性の継続により、仏教経典を読んでもらうことをありがたがるのであります。
かくのごとき霊に対して読経を怠るときは、森田氏のいわゆる「この家にはお経が足らぬ」ということになるのであります。>>

「生長の家」の宇治や長崎にある、いわゆる本山と言われているような場所にも、
代々の講師の先生方はじめ数多くの信徒の霊魂(みたま)がたくさん祀られているのではないでしょうか?

上の説明から判断すると、それらの本来の「生長の家」を信仰していた方々の霊魂は、
当然生前または帰幽前後に信仰していた通りの祭祀の仕方を喜ぶということになります。

時代が変わったとか、方針が変わったとかいう理由で、祭祀の方法を勝手に変えてしまうというのは、
本来の「生長の家」の信仰をしてきた多くの霊魂を喜ばせるどころか、迷わせてしまうことにもなってしまいそうですね。

6110a hope:2016/02/28(日) 14:24:22 ID:cEpBaIdo
>>6108つづき)

次に各宗教が大生命なる本体を拝まずに、その光源からくる光線(化身としての精神)を拝むのは本末を転倒せりとの貴説は大変おもしろく思います。

各宗教は太陽を拝まずに、太陽から放射される七色中の一種を拝んでいるというような状態になっているのであります。

だからある宗教は黄色の光線こそ本当の神だと言い、ある宗教では赤色の光線こそ本当の神だと言いなどして、互に相争うようになっているのであります。

しかし生長の家では大生命の光源を礼拝するので、同時にすべての光線(各宗教)を礼拝することになり、決して各宗と相争わず、一切宗教を包容しながら各宗教の神髄に徹せしめうるのであります。

6111a hope:2016/02/28(日) 14:27:04 ID:cEpBaIdo

>>6110 a hope 所感)

<<しかし生長の家では大生命の光源を礼拝するので、同時にすべての光線(各宗教)を礼拝することになり、決して各宗と相争わず、一切宗教を包容しながら各宗教の神髄に徹せしめうるのであります。>>①

『生命の實相』では↑のように述べられていますが、
以下の『神の真義とその理解』では、

<<宇宙大生命(みおやのかみ)即ち宇宙大生命の道を現わし、日本国威を発揚し、国体を明徴にするところの導きの神様として心に幽斎する副斎神として生長の家を礼拝すると云うことをハッキリ本尊の項目にあらわして置きました。
この生長の家大神とは誰方(どなた)であるか、生長の家大神と言う文字の下に括弧をしまして、(『古事記』、『日本書紀』に現われたる住吉大神(すみのえのおおかみ))と申しました>>②

というように、生長の家の副斎神は「住吉の大神」であり、
『宇宙大生命の道を現わし、日本国威を発揚し、国体を明徴にするところの導きの神様として生長の家を礼拝する』と説明されています。
http://www.geocities.jp/seichou5/newpage11.htm
http://www.geocities.jp/seichou5/sub2.htm
(「生長の家研究室」さまのHPより勝手に引用させていただきましたm(__)m
まだすべてを拝見していませんが、貴重な文献の引用が多く、よく研究されているように感じます。)


以前は、『神の真義とその理解』はとても難しく感じていましたが、だいぶ理解できるようにはなってきました。

ですが、わたしはそれでもやはり、この二つの文献『生命の實相』と『神の真義とその理解』の文章の内容にある意味矛盾を感じてしまいます。

日本国民である谷口雅春先生が「唯神實相」(「生命の実相」の真理)を大悟されたことが因縁となり、
住吉の大神のお導きがあって「生長の家」教団が現象界に出現したということでしょうか?

どなたか、ご指導くださるとありがたいのですが・・・m(__)m

6112a hope:2016/03/01(火) 00:07:14 ID:cEpBaIdo

みなさまこんばんは

今日で2月が終わりですから、本当は第39回web誌友会を閉会し、第40回web誌友会を開会するところですが、
ここで少し立ち止まって、今後のこのweb誌友会の在り方を考えてみてもいいのではないかと思っています。

わたし自身は、聖典「生命の實相」のお勉強はぜひ続けさせていただきたいと思っていますが、
「Web誌友会」という名称で続けていくことに少し抵抗を感じています。

この件については、トキさまなんかと相談して、今後どうしていくか決めさせていただきたいと思いますが、
しばらくはこのままの状態で「生命の實相」のお勉強を続けさせていただきたいと思います。

みなさまのご意見等ありましたら、傍流掲示板/別板の 運営/方針板の方にご投稿ください。

http://jbbs.shitaraba.net/study/11788/#2

よろしくお願いいたしますm(__)m

6113a hope:2016/03/01(火) 17:31:26 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p154 

十四、個性はどこから来るか

池永―― われわれは皆異なる個性を持っておりますがこの個性はどこから来るのでしょうか。

俗に「親に似ぬ鬼子」と申して親の性格とは似もつかぬ性格の子供が生まれたりします。

その子供の個性はどこから来るものなのでしょうか。

またその肉体死後はその個性はどうなるものでしょうか。

人間はすべて神の子で完全円満であるとは生長の家の説くところでありますが、この子供(鬼子)はいかに説明されましょうか。


谷口―― 個性は因縁によって来ます。

因に二種あって、一つは本来因で、他は後天因であります。

本来因とはわれわれが大生命より割り当てられた役目であり使命であります。

かくのごとき使命としての個性は、われわれが実相を開顕するにしたがっていよいよ明瞭の度を加えるのでありまして、われわれの生命の悟り(実相の開顕)が進んでくるにしたがって、われわれはいっそう個性的になってくるのであります。


次は後天因によって来る個性は、実相因の個性でも使命でもなく、実相が誤れる念の集積のレンズにより屈折された歪曲(ゆがみ)がすなわちこの個性であります。

かくのごとき個性は芸術制作の場合などにたとえて申しますれば、一種のクセであって本当の芸術的発達の邪魔になるものであります。

このクセがなくならねば、アクの抜けた佳い作品はできないのであります。

クセが抜けして初めてわれわれの芸術が普遍美と共に、本当の個性美を備えるにいたりますように、われわれも縁に従って生ずる念の集積たる後天的(仮相因)による歪曲(クセ)がとれたときに、本当の個性、完全な個性すなわち大生命から割り当てられたる使命としての個性を完全に発揮しうるようになるのであります。

6114a hope:2016/03/01(火) 17:32:49 ID:cEpBaIdo

>>6113 a hope所感)

因縁には実相因と仮相因があるのですね。

まだ、どなたからもお返事をいただいていませんが、偶然にも>> 6111 で質問させていただいた因縁に関する応答がここにありました。


このことにあてはめて私の質問内容を考えてみますと、
つまり住吉大神に導かれて「唯神実相」を悟られた谷口雅春先生の実相因(大生命より割り当てられた役目・使命)が、住吉大神と同質のものだった。

だから、住吉大神を「生長の家」の本尊とされ、「唯神実相」の真理を伝える人類光明化運動とともに、日本国実相顕現運動(愛国運動)もされた…。

そういうことなのでしょうか?

すべての人や物に個性があるが大生命のはからいなのであれば、当然「生長の家」にも個性があるはずですものね。

それが、住吉大神の個性(使命)と同質のものだったということなのでしょうか?

うーん。なんだかわかったような、わからないような…(;´∀`)

6116トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/03/01(火) 18:20:30 ID:xH9S83Qg
>>6114

>>因縁には実相因と仮相因があるのですね。

 確かに、この世界は、実相と現象の渾然一体な世界ですから、その通りなんですね。

ただ、高級神界での出来事については、なかなかわからない点が多々あるので、思案する
ところも多いです。

6117a hope:2016/03/01(火) 23:10:29 ID:cEpBaIdo

>>6116 トキさま

<<ただ、高級神界での出来事については、なかなかわからない点が多々あるので、思案するところも多いです。 >>

ほんとですね!

「生命の實相」だって神さまが雅春先生をラッパにしてお書きになった聖典なのですから、その内容は、わたしたちが人間知でいくら考えてもきっと本当には理解できないものなのかもしれません。

だから、わたしたち信徒は聖典の真理を「分かった!」とか思って勝手に解釈せずに、常に謙虚な気持ちで学んでいかなければいけないのですね・・・。

それでも、わたしは聖典「生命の實相」を学ぶのがとても楽しいです。

これからも、マイペースでお勉強をつづけていかせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

6118a hope:2016/03/02(水) 09:57:35 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p156 9行目〜

苦痛とは「迷い」のケミカライゼーション(自壊過程)であります。

栗のイガがパチリと破裂する時の激震のようなものであります。

栗の果実は「実相の世界」においてはすでに成れる存在でありまして、イガが破裂しなくとも、それ以前からすでにあるので、すでに完成しているから、小粒から大粒へと生長することもないのであります。

しかるに現象世界は、実相世界が時間空間のスクリーンの上に展開されたる映画的世界でありますから、時間的序列の上に、空間的ひろがりの上に、順序を追うて展開してゆくのであります。

ところが実相がそのまま現象世界に展開してゆくだけならば、栗のイガがパチリと破裂するにも不調和な振動を伴わないでリズミカルな調和した諧調をもってイガが破れ実相が展開してゆくのであります。

もし事件の展開に不調和な振動(苦痛・不幸)が感じられるならば、それは本来因(実相)の展開ではなく、後天因(ウソの本物でない妄念)の自壊が伴っているのであります。

こういう「ウソの本物ではない妄念」の自壊作用として、ある発達程度の人の向上のためには、苦痛不幸が来るのであります。

ある発達程度以上の人にとっては、もうその人の生長のためには、苦痛不幸は必要ではない。

もうその人には「ウソの本物でない妄念」が伴わない。

「ウソの本物ではない妄念」が伴わなければ、それの自壊作用(苦痛、不幸)が起らない。

大勢の生長の家信徒諸君が、「生長の家」や、『生命の實相』を読んで、今まで病苦、人生苦が大いに軽減したり、病気が全然なくなったり、生活難が全然消えてしまったような実例を無数にあげているのは、「ウソの本物ではない妄念」がこれらの神誌・聖典を読むことによってなくなるから、すでに無いものは自壊作用を起こす必要がないために、苦痛、不幸が起らなくなるのであります。

地上天国の出現とは要するにこの「ウソの本物ではない妄念」が大多数の人類から消滅するために、苦痛、不幸がほとんど見られないところの理想世界が現象世界に出現することであります。

このように「ウソの本物ではない妄念」を人類から取り去りさえすれば人類の生活は光明化するほかなない、それが生長の家では人類からこの「ウソの本物ではない妄念」を取り去るための文書伝道を大々的に行ない、思想宣布によって地上天国の実現を促進しようとしているのであります。

6119a hope:2016/03/02(水) 10:00:17 ID:cEpBaIdo

>>6118 a hope所感)

<<苦痛とは「迷い」のケミカライゼーション(自壊過程)であります。>>

そして、

<<もし事件の展開に不調和な振動(苦痛・不幸)が感じられるならば、それは本来因(実相)の展開ではなく、後天因(ウソの本物でない妄念)の自壊が伴っているのであります。>>

その解決策は?

「聖典」の拝読」ですね!
でも、「迷い」の混じった「聖典以外のもの」をいっしょに拝読されませぬように十分気をつけてくださいね。

6120トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/03/02(水) 18:47:37 ID:CrZ0kDBY
>>6117

 ありがとうございます。こういう時期だからこそ、聖典の勉強は必要だと思います。
応援をしています。

6121a hope:2016/03/05(土) 13:31:14 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」p163 後から1行目〜

あなたのようにむつかしく、理論や理屈で攻め立てて来る人には「たましいの語の定義は?」などというようなむつかしい詮議が必要となって来るのでありますが、『生命の實相』の本はむつかしい理論や定義を書いたものではありません。

理屈ぬきの心になって、素直に読めば老人にも子供にも解るのでありまして、どんな大学者にでも理屈でサバイてゆこうという心ではわかるものではありません。

真理は中心に飛込んで摑むことが必要で真理の周囲をドウドウ廻りしてその形態模様を調べているようなことでは結局真理を摑むことができませんから御注意下さいませ。

6122a hope:2016/03/05(土) 13:32:41 ID:cEpBaIdo

>>6121 a hope所感)

これは「聖典」を拝読していく上で、一番気をつけなければいけないことでした。
「真理の言葉」はただただ素直に拝読することが大切なのでした!

6123a hope:2016/03/06(日) 17:23:43 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p186

(問) 最近「光明思想普及会」が成立いたしまして、その豊富な広告力とめざましき活動によりまして、全世界が生長の家の光明思想に浸潤して行きます様子は大変結構なのことだと存じていますが、その広告宣伝の方法について私は一つの疑義をもっています。

というのはその広告に引例されたる事実談が、すべて奇跡的な異常な(われわれは体験があるのであたりまえのことだと思いますが)事実ばかりであることです。

かくのごとくでは、宗教というものは異常の世界であるという誤解を一般人にもたせ、また、一方識者からは宗教はそんな表面の世界の奇跡のことではない。

生長の家がそんなところに止まっているのでは、生長の家は実につまらない何某教同様の宗教だとの誤解を受ける惧(おそ)れがあると思います。

その御平生(ごへいぜい)の主張に近ごろの広告文は反対であって、行文(こうぶん)の重心が奇跡にあったり、病気にあったりしているのはすこぶる遺憾であると思います。

むろん私は『生命の實相』を読むことによって病気の治った一人であります。

奇跡も疑うわけでもなく、病気の治る事実も疑うわけではありませんが、その宣伝が奇跡や病気治しに傾いているのは生長の家の神髄を誤解させるおそれがあると思って大変残念に思うのであります。

どうか宣伝部の方々に、もう少し質実な落ちついた宣伝ぶりをしていただいて、生長の家が健全な発達をするように祈ってやみませぬ。(東京、大正大学学生、T生)

6124a hope:2016/03/06(日) 17:28:45 ID:cEpBaIdo

>>6123 a hope所感)

現在の生長の家総裁である雅宣先生や純子先生は「生長の家」の奇跡の体験談をあまりお好きではないという噂を聞きますが、
おそらくお二人は、このT生という大学生と同じような疑義をお持ちだからなのかもしれませんね。

つまり

①<<広告に引例されたる事実談が、すべて奇跡的な異常な事実ばかりで>>

②<<かくのごとくでは、宗教というものは異常の世界であるという誤解を一般人にもたせ、>>

③<<一方識者からは宗教はそんな表面の世界の奇跡のことではない。生長の家がそんなところに止まっているのでは、生長の家は実につまらない何某教同様の宗教だとの誤解を受ける惧(おそ)れがある>>

とお感じになっているからなのではないでしょうか?


このわたしの見解に関するコメントは大歓迎ですが、コメント板の方にご投稿をお願いいたしますm(__)m

こちらには、雅春先生のご回答を謹写していきます。

6126a hope:2016/03/07(月) 00:56:56 ID:cEpBaIdo

>>6124 つづき
「生命の實相」p187 5行目〜

(答)
いろいろ御注意下されありがとうございますが、あなたのような仏教を専門に研究されていられる方には、釈迦に説法でございますが、『法華経』の譬喩品(ひゆほん)にある次の話を思いだして下さい。

紙面をとらないように、信徒小塚晴弘氏の要約によります。


あるところに長者があって、まことにたくさんの財宝や大きな家を持っていました。

その家の一つは古び腐れていましたが、それがものすごい火事になりました。

しかし、その家の中には何十人の子供たちが「家事の恐ろしさ」を少しも知らずに、かえって火事をおもしろがって無心に遊びたわむれています。

長者はなんとかして、この子供たちを無事に、この「今にも焼け落ちようとしている火宅」の中から、広い安全地帯へ救い出したいものだと考えて、「おい子供たちよ、急いで門の外へ出ておいで、とても珍しい、とてもおもしろい立派な鹿車(ろくしゃ)や、羊車(ようしゃ)のおもちゃをあげるよ」と言いました。

すると、子供たちは喜んで、急いでその焼けている家の中から飛び出して、広い通りへ無事出て来ました。

そこで長者は、一同に「おまえたちはみんな自分の子だから、これをあげよう」と言って、みんなに同じように、おもちゃの鹿車や羊車でなしに、ほんものの大きな七宝ずくめの立派な立派な生きた白牛がこれを曳き、多くの従僕(しもべ)らが護衛しているような車を与えました。

「この火宅の中で無心に遊びたわむれている子供らこそは汝ら衆生であり、おもちゃの車をあげようといって、彼らを救い、ほんものの立派な車を彼らに与えるものは仏である。」

(つづく)

6127a hope:2016/03/07(月) 00:58:21 ID:cEpBaIdo
(つづき)

あなたはこの譬話(はなし)を読まれた瞬間に、「そうであったか。なるほど、なるほど」とお解かりになるでありましょう。

生長の家で病気治しや奇跡を宣伝するのは、病気治しそのもののために、奇跡そのもののために宣伝するのではありません。

それは「今にも焼け落ちようとしている火宅」から一切衆生を安穏の地帯に救い出さんがために、「ここまでお出(い)で、おもちゃをあげよう」と言って誘い出すための玩具(おもちゃ)なのです。

おもちゃだと言っても、ただ嘘の方便ではない。

君も体験しておるとおり、本当に病気が治るのでありますが、肉体を治したいところが、それは、百年長くて二百年すれば消えてしまうところの、「本来ない肉体」なのです。

われわれはそういう「有限の宝」を与えるために大衆を呼んでいるのではない。

猫に小判という言葉がありますが、赤ん坊に百円札をやってもありがたがらないでしょう。

「有限の肉体の癒し」や、ちょっと不思議な現象界の奇跡のごときは「永遠の生命を摑む」という真実の無限の富の前には、極めて小さなることであります。

しかし、無限の富を見せても、「赤ん坊に百円札」のような結果になるのではその赤ん坊を救うことができませんから、まず赤ん坊の欲している玩具を与えて玩具を模型として研究さすことが必要なのであります。

「赤ん坊とは」実際に病気や家庭苦に悩んでいる人の喩えでありましてこういう人たちには、「その病気や家庭苦の治る道があるからここへ来い」と言って引っぱり寄せ、その病気や家庭苦を実際に治してみせて、この模型により「三界唯心所現」の理を知らせるということにすると、その人が救われるのであります。

病気や家庭苦の顕れまたは消えるのは、これ「三界唯心所現」の一大理法「模型」すなわち「玩具」であります。

そして健康を回復し、家庭が治まるのは、これ人間仏子(または「神子」)の、一大実相の「模型」すなわち「玩具」であります。

この模型によって研究し、児童の遊戯心を利用しつつしだいに工学の蘊奥(うんおう)を極めしめれば、幼児の玩具についての経験から発達してついには多数の旅客をのせて一時間に百マイルの速力で走るような飛行船も造ることができるようになるのであります。

(つづく)

6128a hope:2016/03/07(月) 00:59:14 ID:cEpBaIdo
(つづき)

『法華経』を説くときにもお釈迦さんは、「止みなん、止みなん、この真実を説いたら、お前たちは誤解して地獄へ堕ちるであろう」と言っていられる。

「人見て法説け」でありまして、大衆に対する新聞広告のごとものは、あれでも高尚すぎるくらいであります。

薬で病気が治るということはわかっても心で病気が治る、さらに三界は唯心の所現であるなどということは解らない人が多いので、これをわからすためには、新聞広告をまだまだ大々的にする必要があると思います。


実は、生長の家は「平凡な生活がありがたい」ということを知らせる真実の教えだと言われますが、平凡でなければありがたくないのでは捉われた見解です。

病気が治る事実を発表したらありがたくなく、平凡で感謝している人を発表したらありがたいのでは、偏った考えではありませんか。

むろん平凡な生活もありがたいし、異常な奇跡もありがたいのです。

自分が平凡でありがたいから、他人が奇跡をありがたがってはいけないということもないはずです。

本当の真理を言えば「奇跡」がありがたいのでもなく、「平凡」がありがたいのでもないのです。

「奇跡」の奥に「平凡」の奥にあるわが生命の実相が本来神であり仏であることがありがたいのです。

周囲が明るいからありがたいのでなく、自分が光体であることがありがたいのです。

自分が光体であるがゆえに周囲へ振り向けば、そこに時には「奇跡」という光線となって現われ、時には「平凡」という光線ともなってあらわれるのですが、どちらの奥にも自分の光体たる実相が輝いているのでありがたいのであります。

6129a hope:2016/03/07(月) 01:02:35 ID:cEpBaIdo

>>6126 6127 6128 a hope所感)

「三界唯心所現」の真理(横の真理)を衆生に説いて現象的に救済するのが「方便法」で、
「唯神実相」の真理(縦の真理)を説いて悟らせるのが「真実法」なのですね。

個人を救えない宗教はニセ宗教。 個人を救わない宗教家はニセ宗教家。
ニセ宗教もニセ宗教家も本物ではないのでいつかは消えてしまうのでしょうが・・・。

そして、これはわたし自身が自戒することですが、
どんなに理想論を掲げても、身近な人ひとり救えないのでは真の「生長の家」の信仰者ではありません。

6130a hope:2016/03/07(月) 09:37:13 ID:cEpBaIdo
>>6128 訂正

誤【実は】、生長の家は「平凡な生活がありがたい」ということを知らせる真実の教えだと言われますが、

正【君は】、生長の家は「平凡な生活がありがたい」ということを知らせる真実の教えだと言われますが、

すみませんでした。m(__)m

6131a hope:2016/03/07(月) 09:39:39 ID:cEpBaIdo
昨晩、遅かったのでちょっと頭が回らなかったのですが、自分の謹写したところを読み返して気づいたのですが、
釈迦が『法華経』を説くときに「止みなん、止みなん、この真実を説いたら、お前たちは誤解して地獄へ堕ちるであろう」とおっしゃった真実とは、
つまりは生長の家の「唯神実相」の真理のことだったのですね。

上の文章中では最後のところ、

<<本当の真理を言えば「奇跡」がありがたいのでもなく、「平凡」がありがたいのでもないのです。
「奇跡」の奥に「平凡」の奥にあるわが生命の実相が本来神であり仏であることがありがたいのです。
周囲が明るいからありがたいのでなく、自分が光体であることがありがたいのです。
自分が光体であるがゆえに周囲へ振り向けば、そこに時には「奇跡」という光線となって現われ、時には「平凡」という光線ともなってあらわれるのですが、どちらの奥にも自分の光体たる実相が輝いているのでありがたいのであります。>>

この部分ですね。

特に、

<<「奇跡」の奥に「平凡」の奥にあるわが生命の実相が本来神であり仏であることがありがたいのです。>>

という件ですが、

実際、病気や生活難で苦しんでいる人間が、いきなりこの『法華経』の悟りつまり「唯神実相」を悟るということは在り得ないことかもしれません。


それにしても、<<誤解して地獄へ堕ちるであろう>>とは、ちょっと怖いお言葉ですね。

6132a hope:2016/03/07(月) 10:30:09 ID:cEpBaIdo

そういえば、以前、小乗と大乗を勉強している時にも>>5379 、わたしは『法華経』の譬喩品(ひゆほん)話を思い出していました。
(それは、この生命の實相の24巻からの引用ではなく、以前、通っていた曹洞宗のお寺の住職さんからの法話の紹介でしたが・・・)

真理って、繋がってくると楽しいですね!

6136トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/03/07(月) 19:51:34 ID:.ksywd3s
>>6127

 この部分を拝読して思い出すのが、かって生長の家本部の神癒祈願部におられた磯村得弥先生です。
磯村先生は、若いころから熱心な信徒さんでしたが、事業で成功する志をたて、生長の家の信仰を事業
に生かして大金持ちになられました。河口湖の練成道場の建立のきっかけとなったのは磯村先生の提言
ですが、当時は不動産屋さんをしていたと話をされていました。

 しかし、ある時期に、きれいさっぱりと事業から手を引かれ、晩年は本部講師として本部に勤めら
れ、神癒祈願部で個人指導に専念をされました。留学生のお世話もされていたと聞いております。
お子様も音楽家として大成されたと言います。

 いきなり本部に入るのではなくて、やはり事業で成功したからこそ、しみじみと何が大切かを
知られたのではないか、と感じます。

6137a hope:2016/03/07(月) 23:40:47 ID:cEpBaIdo

>>6136 トキさま

「生命の實相」を拝読していると、昔は「生長の家」を信仰することで病気が治り、生活難も解消され、
運命が劇的に好転するなんてことはあたりまえだったようですね。

その磯村得弥先生というお方も、若いころから「生長の家」を熱心に信仰されていらしたのですから、
きっとその功徳もあって、事業も成功されて、お子様も御立派に育て上げられたのでしょうね。

でも晩年その事業をやめられて本部講師になられたというのは、現象世界での物質的成功が、
必ずしも生き甲斐や使命感みたいな、本当の魂の喜びには繋がらないということを悟られたからなのでしょうね。


わたしも、もう何年もこの掲示板で「生命の實相」を学ばさせていただいています。
最近では、自分も「生長の家」の信徒として個人救済をしてみたいと思うようになりました。

ですが、現生長の家総裁である雅宣先生の二元論の教義内容や、現象を扱った環境運動等の現「生長の家」教団の実態を考えると、
自分が「生長の家」を信仰していますとさえいえないのが現状です。

このような切実な信仰的問題に関する悩みを訴えることも、総裁や教団を批判をしているということになってしまうのでしょうか?

6138a hope:2016/03/07(月) 23:46:10 ID:cEpBaIdo

トキさま

わたしがこのweb誌友会板で、教団の運動や総裁の教義内容を批判することで、また、掲示板が荒れるのは本意ではありません。

曳馬野さんなんかは、この板の名前に「誌友会」という名称がついていることが気に障るのではないのでしょうか?

現在の「生長の家」の誌友とは、雅宣先生や純子先生のご思想満載の「白鳩」誌とか「いのちの輪」誌なんかを読まれている方々のことで、
「生命の實相」の誌友とはかけ離れたご思想の方々のことのような気がします。

というわけで、もうこれ以上ここで「web誌友会」を開会するのを控えさせていただきたいと思います。

ですが、今後も「生命の實相」の勉強会は続けさせていただきたいと思っていますが、どうしましょうか?

できれば、違う名称のスレッドを作っていただけるとありがたいのですが・・・。

6139トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/03/08(火) 10:59:19 ID:8fn5SkYo
>>6138

a hope 様

 いつも誌友会の運営、ありがとうございます。

 ご提案に感謝申し上げます。一度、別板の運営板で、その点についてお話し合いができればと考えています。
名称や板の規約についても、ご提案がありましたら、ぜひ、ご投稿をお願いします。

http://jbbs.shitaraba.net/study/11788/

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

6140トキ ◆UMw6UoGELo:2016/03/14(月) 12:44:32 ID:fwki8rZM
謹告

 まもなく、この

Web誌友会 板/2 のスレッドを閉鎖し、代わりに

『web「生命の實相」輪読会』 板

を開設の予定です。

『web「生命の實相」輪読会』 板のリーダーには、引き続き、a hope 様にお願いする予定です。

皆様、引き続き、ご支援、応援をお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

6141神の子さん:2017/03/01(水) 00:06:51 ID:GFWemD/o
150万円程度の中性子線測定器で正常値が0.00μSv/hのはずの中性子線が特定個人の元ではか不明だが測定されてしまう
https://www.youtube.com/watch?v=8R0luOy8ce8

新幹線の中やその付近でも27万円程度の測定器で正常値が0.058μSv/hのはずのガンマ線が特定個人の元ではか不明だが最大測定値を上回る形で測定されてしまう
https://www.youtube.com/watch?v=41lQN7rF3fQ

ベータ線(ガンマ線)を一つ計測すると、一回"ピィ"と鳴る測定器で正常値が約55カウント/min程度のはずが観測者の自宅では大きくそれを上回ってしまって測定されてしまう
https://www.youtube.com/watch?v=4veAJaorl1s

6142神の子さん:2017/03/19(日) 17:25:05 ID:ujnPaRNY
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6143神の子さん:2018/02/28(水) 19:14:00 ID:K/QVp5KE
http://goodlg.seesaa.net/article/451406304.html

6144神の子さん:2018/10/08(月) 07:51:55 ID:XVhX1PHw
日時:2018年10月08日 (月) 00時23分
名前:規約一部

7335: 志恩 :2017/01/09(月) 13:02:29 ID:6hRUvSRg
トキさんが、志恩に反論されると思いますので、もうしばらくお待ちください。
私は、これから、出かけるところです。
私は、トキさんのご意見に従います。

7336: 行ってらしゃい :2017/01/09(月) 13:08:00 ID:6P9xE/L6
>>7335
逃げまくり。証拠発見

7337: トキ ◆NeaLgIQX3w :2017/01/09(月) 14:15:16 ID:rpznmRAo
>>7335

 平素は弊掲示板をご利用くださり、ありがとうございます。

 色々とご心配をおかけして申し訳ありません。

この「したらば」掲示板は大変よくできた掲示板ですが、アラシ投稿には少し弱くて、ご覧の通り、アラシ投稿が横行する事態になっています。
そこで、「続したらば」掲示板を設置しています。こちらは有料ですが、アラシ投稿対策には強い掲示板です。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2.html

 今すぐの全面移行は難しいですが、真面目な投稿をしたい人は、順次、こちらをご利用くだされば幸いです。

 時期を見て、この「したらば」掲示板は閉鎖するか、名称を変更するか、にさせていただきます。

今後ともよろしくお願いします。

合掌ありがとうございます

管理人敬白

6145神の子さん:2018/12/28(金) 23:05:59 ID:7W2PGskg
「したらば」掲示板一時閉鎖のお知らせ (5323)
日時:2018年09月21日 (金) 10時46分
名前:トキ

 平素は「生長の家「本流復活」について考える」をご利用くださり、感謝申し上げます。

 旧 生長の家「本流復活」について考える(したらば版)ですが、最近、シャンソン様などが書き込みを繰り返しているので、正常な状態ではなくなってしまいました。とはいえ、このまま「掃除」をしても、イタチゴッコです。そこで、一旦、書き込みを停止し、その間にアラシ投稿を削除したいと思っています。閉鎖の日時は後日おしらせします。清掃が終わった後に、再開したいと思います。

 なお、この「生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)」は閉鎖などはしませんので、ご安心ください。
 
 以上、ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い申し上げます。


管理人敬白

6146空き家の住人:2019/01/06(日) 18:19:56 ID:MBTwK0G6

>>6142 :神の子さん :2017/03/19(日) 17:25:05 ID:ujnPaRNY
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WEB誌友会版に2年も載せておくトキ管理人が

清掃後再開します、といってもね。今でも書けるし清掃もしていない。

いうだけ管理人なんですね。掃除すると云ってから3か月半。


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