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Web誌友会 板/2

5616a hope:2015/07/20(月) 16:39:35 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第20巻 p106 



わたしはこの霊媒の言ったとおりの善人であったのである。

貧乏になる稽古ばかりしていて、自分が貧乏しているから人をたすける力もなし、自分も苦しみ、養父母をも苦しめ、妻をも子をも苦しめたのであった。

自分こそこれ善中の悪であったのである。

わたしは現在のような奉仕生活――誰かが経済的に犠牲になったり、そのために家庭が不和になったりするような奉仕生活がまちがいであるということに気ついた。

後年わたしが発行した『生長の家』という雑誌が中心になって一つの信仰団体が組織されるようになったとき、他の宗教団体のように信者の労力を奉仕と称して無償では使わず、信者の財産を献金と称して資本主義の最高形態たる株式会社組織ににし、献金を聖典出版費に対する出資として取り扱い、出費に対しては半期ごとに配当を支払い、献労者を社員とし、各支部の献労者に聖典頒布の手数料を支払うことにしたのは、在来の宗教に見るような本部が信者から奉仕や献金を受けとることをあたりまえのことのように思うまちがいをなくすためであった。

そして狂信者が財産を本山へ献金したり、無料で働いたりするがために狂信者の家庭の内部に反対が起こって、宗教がかえって家庭に風波(ふうは)を起こすことがある弊害を防がんがためであつたのである。

これらは皆わたしの生活体験から在来の宗教に見出される欠点を修正したものである。

宗教が株式会社だと言えば、ただそれだけで本山の営利を目的とした不純な作為があるように考える人があるかもしれないが、「生長の家」を仮に宗教と認めても、「生長の家」そのものが株式会社なのではないのである。

「生長の家」はわたしの創(はじ)めた教えであって無形の道なのである。

その無形の教えを文字に顕わした聖典を出版販売する会社が株式会社なのである。

それは仏教は宗教であって決して株式会社ではないが、大蔵経の出版は株式会社なのがたくさんあるようなものである。

しかも生長の家ではその出版会社の株主は信者自身であって、信者の献金は増殖されてかえって信者に還る組織になっているから、信者はその宗教によることによって本山から財産を搾られることなく、かえってその宗教によることによって聖典頒布の収入を受けるのである。

むろん、わたしも損をしない、わたしは聖典の著者として印税を受ける。

これはわたしの精神労働に対する報酬であって、信者から受ける献金ではない。(もっとも現在はわたしの印税全部が社会事業団へ寄付されている)

生長の家の主張する生活は誰かが犠牲になって、損をして、他を生かす生活ではない。

誰も損をせぬ、誰も犠牲にならぬ、共存共栄の生活こそ正しい生活なのである。

聖典の筆者も、頒布者も利益し、それを購読する読者も決して損をせずわずかの書籍代を支払うだけで毎月支払う数十円、数百円の医薬費治療費が不要になった実例数を知らないのである。

ともかくわたしは長い間の奉仕生活の体験からこの新しい、誰も損をせぬ、誰も献金せぬ、誰も犠牲にならぬ宗教形態を創始したのである。


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