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Web誌友会 板/2
5768
:
純粋教理批判
:2015/09/24(木) 00:41:15 ID:DD4jWV6M
対話の相手があらわれずに間延びしているようなので書き込ませていただきます。
「主体」という言葉をもちいた以上、「主体とはなにか」の説明が必要でしょう。ふつう一般に心といわれているものを、わたしは意識、自我、主体の三つ組にわけて考えています。
主体とは「それがただある」が主体生成の過程をへて誕生したものです。この過程は、「それがただある」の収縮と言語的世界の誕生によって説明されますが、くわしいことはわかりません。
「それがただある」をとりあえずはエスと名づけましょう。主体生成はエスが主体として活動できる場の生成によって成し遂げられますが、場の生成にあたって主導的な役割を果たしたのが言語であったと考えられます。
人類が主体という概念にはじめて出会ったのはおそらくデカルトの「われおもう、ゆえにわれあり」ではなかったでしょうか。デカルト的主体はコギトと呼ばれ、現代の思想界や言論界においてはあまり評判がよくありません。
そんな中にあってコギトを高く持ち上げるのが、あのひねくれもののラカン派哲学者スラヴォイ・ジジェクです。ジジェクはデカルトがコギトをみいだすに至ったときの思索の内容よりも、そのときの「身ぶり」を問題にします。
デカルトがコギトをみいだしたのはある冬の寒い一日でした。寒さを避けるためにデカルトは日がな一日暖炉部屋にひきこもったのです。このひきこもりの身ぶりこそがコギトであるとジジェクは言います。
主体はひきこもることで主体となった。ジジェクがいいたいのはこういうことでしょう。エスもまた内部の内部へとひきこもることで主体生成の場と出会い主体となったのです。
ジジェクのコギトはエスとおそらくおなじものなのでしょう。
ジジェクは「主体は空無である」といいます。エスも空無です。しかしジジェクはこれにつけくわえて、主体は狂気のさなかにあるともいいます。ジジェクが正しければエスもまた狂気のさなかにあることになります。エスはいまだに救われていない。そういうことのようです。
「一無位の真人こそが究極の実相でありほんとうの自分です」などと光明思想を気取ろうといたしましたが、さっそくクレームが入ってまいりました。なれぬことはせぬほうがよいということでしょう。
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