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Web誌友会 板/2

5671a hope:2015/09/12(土) 09:08:08 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p84 

「生長の家」では人間は仏であると始めから直截(ちょくせつ)に断定する。

迷いなんてものは本来無いものだ。

迷えば衆生になり、悟れば仏になるなんて人間の本体はそんなフラフラのものではない。

そんなフラフラな「心」は本来無い心である。

迷いなんて無い、始めからわれわれは仏なのだと断然と迷いを断ち裁(き)ってしまって、断然と「我は仏なり」と肯定してしまうからこそ実際に宗教が生き、実人生を動かす力が出てくるのであります。


不生不滅などというどちらつかずのフラフラの言葉で、われわれの生命を形容したのでは力がでてこない。

われわれは生きとおしの生命であって滅びはない。

消ゆることもない。

迷いを一刀両断に斬り捨てて「生」のみを断然高く掲げ、本来「生」であって、無限の昔から、無限の未来へ生きとおす無限の生命こそ吾であり、無限の生命、すなわち仏であると断言してしまって、そこでわれわれ本来仏であり、無限の生命、すなわち仏であると断定してしまって、そこでわれわれ本来仏であればこそ、滅びもなければ、迷いも無い、そしてこれのみが事実である、これのみが実在である、その他のものはすべて無い、とすべて無いものを斬ってしまって(自己を指差して)「ここに仏あり」と思う。

そうすれば自分のうちに無限の力の宿ることを自覚することもできるのです。

迷いは無い。

ここに仏が坐っている。

今は迷っていて一生懸命念仏して仏になれるというような、そんなフラフラした影みたいな人間ではないのだ。

そんなものは初めから無いものなのだ。

われこそ仏である。

本来無限の仏力が宿っている、これをまず肯定せよと「生長の家」では言うのであります。

心、仏、衆生、三無差別としての仏は本来ない、そういう仏も衆生も心も斬り捨ててしまったとき、なお残る実在――久遠よりの仏のみがあり、それが本当の自分なのであります。


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