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Web誌友会 板/2
5748
:
曳馬野
:2015/09/22(火) 18:12:05 ID:JPiKJZkg
純粋教理批判さんの意味する「スピリチュアル」「反証不可能な超越項」とはどのような事を指しますか?
私のような禅と生長の家しか知らないものにはカタカナを使っての話が分かりにくいのです。
意識に上った風光に対して日本語であれば「心象」の言葉で用足りると思うのですが。ホログラムとかドリーミングの言葉を使われますと日本語でさえ人によって汲み取る意味が変わっていることが度々ですので、カタカナは先にこのような意味で使うと定義出来れば話は進むと思いますが、『現象』の定義ひとつでも難しいものになると思いますよ。
心にしても「私がいると認識する心」と「本来の心」と二通りに生長の家では説きますよね、禅では意識になる前の対象物に同化しているものを本心とし、その一瞬後に出来事に意味づけした状態の「念」に変化したものを心の変成作用としているようです。
ですから「心とは何なのでしょうか」?と問われましても、説明はできても、本心の方は禅で言えば究極の存在そのものとされていますので、言葉の世界では決して理解不能ということになります。
「すべては心の影」とはどういうことをいっているのでしょう。にしても説明としては心に応じて二通りに説明はできますが、本心の働きにより出来上がった世界は心を極めた人にしか納得できないと思われます。
『不立文字教外別伝』と云われる存在の根源を言葉で知ろうとすることがそもそもの間違いであろうと考えます。禅では自分の本来の姿を知ることを持って悟りとするようですが、考えで知るのでなく、自分というものが存在し生きているという意識が抜けなければ達することはできないようです。ですから今の私は、自分という限られた意識体があるとしたうえでの話は、全て本質に行き着くとは考えていません。
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